2020年11月30日
多摩湖自転車歩行者道を歩きました。2020年11月。
2020年11月28日(土)、今週も歩いてきました。
毎年春になると、多摩湖自転車歩行者道を自転車で多摩湖まで行きます。
ずっと桜の続く、お花見の道です。
今日はそこを歩いてみることにしました。
出発、10:40。
まずは、多摩湖自転車歩行者道の入口まで歩いていかねばなりません。
三鷹駅の北口から、玉川上水緑道を西に進みました。
交差点までは舗装された道ですが、大きな交差点を渡ると、そこから、玉川上水緑道の左岸、北側の道は、道路の歩道が未舗装のまま、気持ちのよい道が続いています。
歩きやすい。
今年は、台風がこなかったので、紅葉の当たり年との前評判でした。
しかし、気温がときどき下がってもまた戻り、いつまでも暖かかったので、紅葉する前に枯れてしまった葉も多いようです。
そんな中でも、水際の木は、朝晩の冷え込みが強かったのでしょう、きれいな紅葉になっているものがありました。
立ち止まって撮影。
そんなふうにのんびり歩き、境浄水場までやってきました。
歩道の幅も広く、車通りも少なく、ときどきベンチもあって、さらに気持ちのよい緑道が続きます。
浄水場が終わると、桜橋の交差点。
そこで右折。
ここからは大きな道路の舗装された歩道をとことこ歩き、次の交差点、境浄水場西で左折しました。
公園があったので、少しでも舗装されていない道を歩こうと入っていくと、そのまま、舗装されていない歩道が続きました。
ありがたい。
そして、突き当たり、大きな交差点を渡ると、多摩湖自転車歩行者道の入口でした。
ここまでで、既に徒歩50分。
舗装された道は案外少なく、ここまで良い散歩道でしたが、多摩湖自転車歩行者道に入ると、完全舗装でした。
自転車道は勿論ですが、歩行者専用道もザラッとした舗装がされています。
何回も自転車で走って、それは知っていましたので、まあ仕方ない。
ここも歩行者道は舗装を剥がすとよいのになあ。
でも、そうすると、自転車道のほうを歩く歩行者がさらに増えるのかもしれません。
舗装道路のほうが歩きやすいと信じて疑わない人もいます。
舗装されていない道は歩きにくい。
舗装道路は歩きやすい。
江戸時代、旅は徒歩が基本でした。
昔の人はよくそんなに長い距離を歩けたものだ。
そんな感想が普通だとは思います。
とはいえ、江戸時代の舗装されていない街道なら、私も歩ける気がするのです。
今の、完全舗装の東海道を歩き通したら、膝か腰か足首のどこかを故障するでしょうけれど。
舗装道路は、長距離を歩くのには向いていないのです。
そんなことを考えながら、見慣れた道を歩いていきました。
歩いていてすら、この道は横断歩道や信号が多いなあと感じます。
玉川上水緑道は、昔は川を渡る道をそんなに気軽に作れなかったからでしょう、横断歩道の数も、これほど多くはないのです。
やはり、玉川上水緑道に勝る散歩道は近所にはないのでしょうか。
大きなマンションの前を過ぎると、道の両側の雰囲気がだんだんのんびりしてきました。
林や畑が増えてきます。
歩道は、自転車道の南側についていましたが、小学校の前から、北側に変わりました。
その道を歩いていくと、道は上り坂になり、土手へとつながっていました。
この土手が、未舗装でした。
上の写真がそれです。
自転車で走ったときも、ここの土手は何かなと気になっていたのです。
歩行者がそこを歩いていくのを眺め、もしかしたら、あそこは未舗装なのではないか、と思っていたのです。
想像していた通りでした。
ほんの数メートル道路より高いだけなのですが、その土手だけが高いのです。
向こう側が川というわけでもなく、ただの土手。
何だろう、この地形は?
そして、風が強いということもあるのですが、ちょっと怖いのはなぜだろう?
こんな数メートルの高さは、リアリティがあって、逆にちょっと怖い。
山道は、もっと細くて崖っぷちの道が多いですが。
ここが怖いという感覚は、何なのかな?
ともあれ、ちょっと怖いというだけで、マジで怖いというわけではないので、とことこ歩いて、無事に土手を通り過ぎ、再び、自転車道と同じ高さに戻ってきました。
ここからは、歩こうと思えば未舗装のところを歩ける箇所が増えてきました。
歩行者道の端っこが、未舗装だったり。
歩行者道と自転車道の間が未舗装だったり。
そして、歩くことを本当に趣味にしている人は、舗装道路がいかに足腰にダメージを与えるか実感しているのでしょう。
少しの未舗装のところを見逃さずそこを歩く人が多いからか、しっかり踏み固められて、歩きやすいのでした。
地上に道はない。
歩く人が多くなれば、そこが道になるのだ。
花小金井駅前を過ぎて、多摩湖自転車歩行者道は、まだまだ多摩湖まで続きます。
調子に乗ってとことこ歩いてきたけれど、気が付くと、家を出てから、もう2時間経っていました。
帰りも徒歩なのだから、もう戻らなくては。
良い散歩道を見つけたので、また来よう。
そんな思いでUターンし、しばらく行くと、はるか前方で、人が突然うずくまり、倒れました。
え?
近くにいた人が、足を止め、その人に近づいていきました。
すぐに周りの人たちも集まりました。
何だろう?急病か?
コロナ禍というのに、人はやはり立ち止まります。
助けようと声をかけます。
人の営みは不変です。
すぐそこの交差点まで、救急車は入ってこられる。
これ以上の人数は不要。
むしろ単なる野次馬にしかならない。
そう判断し、私は静かにその場を通り過ぎました。
毎年春になると、多摩湖自転車歩行者道を自転車で多摩湖まで行きます。
ずっと桜の続く、お花見の道です。
今日はそこを歩いてみることにしました。
出発、10:40。
まずは、多摩湖自転車歩行者道の入口まで歩いていかねばなりません。
三鷹駅の北口から、玉川上水緑道を西に進みました。
交差点までは舗装された道ですが、大きな交差点を渡ると、そこから、玉川上水緑道の左岸、北側の道は、道路の歩道が未舗装のまま、気持ちのよい道が続いています。
歩きやすい。
今年は、台風がこなかったので、紅葉の当たり年との前評判でした。
しかし、気温がときどき下がってもまた戻り、いつまでも暖かかったので、紅葉する前に枯れてしまった葉も多いようです。
そんな中でも、水際の木は、朝晩の冷え込みが強かったのでしょう、きれいな紅葉になっているものがありました。
立ち止まって撮影。
そんなふうにのんびり歩き、境浄水場までやってきました。
歩道の幅も広く、車通りも少なく、ときどきベンチもあって、さらに気持ちのよい緑道が続きます。
浄水場が終わると、桜橋の交差点。
そこで右折。
ここからは大きな道路の舗装された歩道をとことこ歩き、次の交差点、境浄水場西で左折しました。
公園があったので、少しでも舗装されていない道を歩こうと入っていくと、そのまま、舗装されていない歩道が続きました。
ありがたい。
そして、突き当たり、大きな交差点を渡ると、多摩湖自転車歩行者道の入口でした。
ここまでで、既に徒歩50分。
舗装された道は案外少なく、ここまで良い散歩道でしたが、多摩湖自転車歩行者道に入ると、完全舗装でした。
自転車道は勿論ですが、歩行者専用道もザラッとした舗装がされています。
何回も自転車で走って、それは知っていましたので、まあ仕方ない。
ここも歩行者道は舗装を剥がすとよいのになあ。
でも、そうすると、自転車道のほうを歩く歩行者がさらに増えるのかもしれません。
舗装道路のほうが歩きやすいと信じて疑わない人もいます。
舗装されていない道は歩きにくい。
舗装道路は歩きやすい。
江戸時代、旅は徒歩が基本でした。
昔の人はよくそんなに長い距離を歩けたものだ。
そんな感想が普通だとは思います。
とはいえ、江戸時代の舗装されていない街道なら、私も歩ける気がするのです。
今の、完全舗装の東海道を歩き通したら、膝か腰か足首のどこかを故障するでしょうけれど。
舗装道路は、長距離を歩くのには向いていないのです。
そんなことを考えながら、見慣れた道を歩いていきました。
歩いていてすら、この道は横断歩道や信号が多いなあと感じます。
玉川上水緑道は、昔は川を渡る道をそんなに気軽に作れなかったからでしょう、横断歩道の数も、これほど多くはないのです。
やはり、玉川上水緑道に勝る散歩道は近所にはないのでしょうか。
大きなマンションの前を過ぎると、道の両側の雰囲気がだんだんのんびりしてきました。
林や畑が増えてきます。
歩道は、自転車道の南側についていましたが、小学校の前から、北側に変わりました。
その道を歩いていくと、道は上り坂になり、土手へとつながっていました。
この土手が、未舗装でした。
上の写真がそれです。
自転車で走ったときも、ここの土手は何かなと気になっていたのです。
歩行者がそこを歩いていくのを眺め、もしかしたら、あそこは未舗装なのではないか、と思っていたのです。
想像していた通りでした。
ほんの数メートル道路より高いだけなのですが、その土手だけが高いのです。
向こう側が川というわけでもなく、ただの土手。
何だろう、この地形は?
そして、風が強いということもあるのですが、ちょっと怖いのはなぜだろう?
こんな数メートルの高さは、リアリティがあって、逆にちょっと怖い。
山道は、もっと細くて崖っぷちの道が多いですが。
ここが怖いという感覚は、何なのかな?
ともあれ、ちょっと怖いというだけで、マジで怖いというわけではないので、とことこ歩いて、無事に土手を通り過ぎ、再び、自転車道と同じ高さに戻ってきました。
ここからは、歩こうと思えば未舗装のところを歩ける箇所が増えてきました。
歩行者道の端っこが、未舗装だったり。
歩行者道と自転車道の間が未舗装だったり。
そして、歩くことを本当に趣味にしている人は、舗装道路がいかに足腰にダメージを与えるか実感しているのでしょう。
少しの未舗装のところを見逃さずそこを歩く人が多いからか、しっかり踏み固められて、歩きやすいのでした。
地上に道はない。
歩く人が多くなれば、そこが道になるのだ。
花小金井駅前を過ぎて、多摩湖自転車歩行者道は、まだまだ多摩湖まで続きます。
調子に乗ってとことこ歩いてきたけれど、気が付くと、家を出てから、もう2時間経っていました。
帰りも徒歩なのだから、もう戻らなくては。
良い散歩道を見つけたので、また来よう。
そんな思いでUターンし、しばらく行くと、はるか前方で、人が突然うずくまり、倒れました。
え?
近くにいた人が、足を止め、その人に近づいていきました。
すぐに周りの人たちも集まりました。
何だろう?急病か?
コロナ禍というのに、人はやはり立ち止まります。
助けようと声をかけます。
人の営みは不変です。
すぐそこの交差点まで、救急車は入ってこられる。
これ以上の人数は不要。
むしろ単なる野次馬にしかならない。
そう判断し、私は静かにその場を通り過ぎました。
2020年11月26日
高校英語。仮定法。if節と主節の時制が異なる場合。
本日は、仮定法の中でもちょっと失点原因になりやすい問題を解いてみましょう。
問題 次の空所を埋めよ。
(1) If you had been a little more careful, you would ( )( )( ) such a mistake.
(2) If I had not taken the wrong train, I ( )( ) there now.
if 節を見ると、「if +主語+過去完了」 となっています。
これは、仮定法過去完了。
過去の事実に反する仮定を述べる文。
仮定法過去完了の主節は、「主語+助動詞過去形+現在完了」です。
ええと、ええと。
(1) If you had been a little more careful, you would (have)(not)(made) such a mistake.
(2) If I had not taken the wrong train, I (would)(have) there now.
よし、できた。
・・・うーん。
(1)は、正解です。
しかし、(2)は、不正解です。
仮定法には、「if 節は仮定法過去完了、主節は仮定法過去」という形があるのです。
すなわち、正解は、
(2) If I had not taken the wrong train, I (would)(be) there now.
です。
・・・何でそんな変な形があるの?
と、生徒に嫌な顔をされることがあるのですが、考えてみれば、そういうことを言いたい場合も多いのではないでしょうか。
過去のあのときこうしていたら、今頃はこうだったろう。
単なる仮定法過去完了よりもさらに根深い「たら・れば」で、気が滅入ること限りなしではありますが、そういうことを言いたいときもあるでしょう。
そのためにあるのが、この形です。
(2)は、「もし私が間違った電車に乗っていなかったら、今頃はそこにいただろう」という意味です。
「もし間違った電車に乗っていなかったら」というのは、過去の事実に反する仮定。
過去の事実に反する仮定だから、if 節は、仮定法過去完了。
今頃、そこにいただろうというのは、現在の事実に反すること。
だから、主節は、仮定法過去です。
もう少し例文を見てみましょう。
If he had not bought that expensive picture, he would have a lot of money now.
もしあの高価な絵を買わなかったら、彼は今頃多くのお金を持っているだろう。
If she had eaten sensibly as a child, she would have better teeth now.
もし子どもの頃に考えて食事をしていたら、彼女は今頃もっと良い歯をしていただろう。
見分け方のコツとしては、主節の最後に now と書いてある場合が多いです。
それを見つけたら、ああ、このパターンだと思い出してください。
ここは大事なところです。
テストにもよく出ます。
これを知っておけば簡単に得点できますから、むしろラッキーなくらいです。
しかし、英語のテストの得点がふるわない子に、
「ここは重要。こういうところがテストによく出るよ」
と強調しても、それを覚えないことがあります。
むしろ、
「そんなはずはない。こんなところはテストに出ない」
とすら思うようなのです。
なぜなのでしょうか?
もしかしたら、英語に関して、「ここはテストによく出る」という感覚がズレているのかもしれません。
それには、「こういうのはテストに出ないでほしい」という願望が入っているような気がします。
「たら・れば」を口にしなければならないような願望まじりの勉強です。
「もしも、あのときこれを勉強していたら、今頃私はこの問題を解いているだろう」
と、テスト中に後悔するような勉強をしているのです。
では、なぜそのような間違った認識をしてしまうのでしょうか。
英語が苦手な人、特に英文法が苦手な人は、文法の中でも基本中の基本だけが大切で、それだけがテストに出ると思ってしまう傾向があります。
それは中学生の頃からそうです。
教科書の各セクションの基本例文だけ暗記して、それで英語は大丈夫と思ってしまう人がいます。
しかし、テストは、主語を変えたり、時制を変えたりした、もう少し細かい文法事項が出題されます。
基本例文だけ丸暗記しても、解けないことが多いです。
文法問題の練習をして、間違えても、あまり気にしないのが、そういう人の不可解な点です。
間違えた問題がテストに出るかもしれないという意識を持っていないようなのです。
間違えた問題からは目をそらし、「基本はできた。大体できた」と思ってしまう様子です。
自分が正解できた問題は、良い問題。
自分が間違えた問題は、些末なくだらない問題。
こんなのは、テストに出ない。
そこまで強く意識しているわけではないにしろ、間違えた問題を復習しないということは、そういう判断をしているということなのですが、それに気づいていないようです。
間違えたということは、そこが学習上の「穴」になっているのですが、そのことに気づいていない。
そういうことが繰り返されているのに、学習方法を改善せず、同じ失敗を繰り返していないでしょうか?
仮定法過去完了で言えば、ごく基本の、
「if +主語+過去完了, 主語+助動詞過去形+現在完了」
という基本だけ覚えて、これがテストに出る、その他のことは些末なことなのでテストに出ない。
出ないでほしい。
そのように思ってしまうようなのです。
基本は基本ですから、大切です。
しかし、それしかテストに出ないと思っていると、テストの得点は、パッとしないままです。
テストは、紛らわしいところを出題するのです。
紛らわしいところの使い分けが、情報伝達の手段としての言語を学ぶのに重要ですから。
当然、今回のパターンのようなところは、テストに頻出の箇所です。
仮定法過去完了の問題が3問出題されていたら、1問はこれでしょう。
2問出題されていても、1問はこれだと思います。
それくらい、よく出る問題です。
細かいところまでよく勉強しているかを試すことができる問題ですから。
テストに出ないほうがおかしいくらいです。
しかし、そうした出題傾向があることを認めない。
そうした人が英語が苦手な人に多いように思うのです。
・・・なぜ基本しか出ないと誤解しているのでしょうか。
細かい文法事項はテストに出ないと決めつけてしまうのは、なぜなのでしょう。
もう高校生なのに、テスト勉強をしているときの姿勢が、まだ小学生なのでしょうか。
小学校のカラーテストなら、確かにこんな些末なことは出題されません。
基本しか出題されないのです。
小学生の頃に戻りたい。
あの頃が一番楽しかった。
ちょっと勉強すれば、テストは80点くらいは取れた。
今は、勉強しても勉強しても、いい点が取れない・・・。
・・・そんな気持ちでいるのかなあと想像することがあります。
小学生の頃とは違い、高校生は脳が発達していますから、もっと複雑なことを理解し、覚えることができます。
だから、複雑なこと、些末がことがテストに出されます。
もう小学生ではない。
あの頃とは、脳が違うのです。
それなのに、自分に対する限界を低く設定していないでしょうか。
覚えることが多いと、こんなの無理だと諦めていませんか?
基本を覚えれば大丈夫と思い込み、簡単なところだけ覚えて、自分を安心させていないでしょうか。
まずいのは、おそらくそれを無意識でやっていることなのです。
以前も書きましたが、高校の英文法テキストに載っていることは、どんなに小さな字で書いてあることも、テストによく出ることばかりです。
あれは、英文法のエッセンスです。
本当は、もっともっと些末な文法事項が無限にあります。
一緒に渡された英文法の参考書はぶ厚いでしょう?
その中で大事なところだけを紙面の限られた中で選び抜き、載せているのが英文法のテキストです。
しかし、英語が苦手な人は、英文法のテキストの中でも、さらに大切なところと大切でないところを選んでしまう癖があります。
結果、基本中の基本だけを覚えて、あとは「テストに出るはずがない」と決めつけて捨ててしまいます。
願望と現実を混同してはいけない。
言語学習で重要なのは、些末なところです。
現実に存在する民族が、現実生活の中で使っている言語です。
細部まで重要。
細部を大切にするのが、外国語を敬意をもって学ぶ姿勢です。
当然、そこがテストに出ます。
繰り返します。
if 節が仮定法過去完了で、主節が仮定法過去である形式は、重要です。
テストにも、よく出ます。
問題 次の空所を埋めよ。
(1) If you had been a little more careful, you would ( )( )( ) such a mistake.
(2) If I had not taken the wrong train, I ( )( ) there now.
if 節を見ると、「if +主語+過去完了」 となっています。
これは、仮定法過去完了。
過去の事実に反する仮定を述べる文。
仮定法過去完了の主節は、「主語+助動詞過去形+現在完了」です。
ええと、ええと。
(1) If you had been a little more careful, you would (have)(not)(made) such a mistake.
(2) If I had not taken the wrong train, I (would)(have) there now.
よし、できた。
・・・うーん。
(1)は、正解です。
しかし、(2)は、不正解です。
仮定法には、「if 節は仮定法過去完了、主節は仮定法過去」という形があるのです。
すなわち、正解は、
(2) If I had not taken the wrong train, I (would)(be) there now.
です。
・・・何でそんな変な形があるの?
と、生徒に嫌な顔をされることがあるのですが、考えてみれば、そういうことを言いたい場合も多いのではないでしょうか。
過去のあのときこうしていたら、今頃はこうだったろう。
単なる仮定法過去完了よりもさらに根深い「たら・れば」で、気が滅入ること限りなしではありますが、そういうことを言いたいときもあるでしょう。
そのためにあるのが、この形です。
(2)は、「もし私が間違った電車に乗っていなかったら、今頃はそこにいただろう」という意味です。
「もし間違った電車に乗っていなかったら」というのは、過去の事実に反する仮定。
過去の事実に反する仮定だから、if 節は、仮定法過去完了。
今頃、そこにいただろうというのは、現在の事実に反すること。
だから、主節は、仮定法過去です。
もう少し例文を見てみましょう。
If he had not bought that expensive picture, he would have a lot of money now.
もしあの高価な絵を買わなかったら、彼は今頃多くのお金を持っているだろう。
If she had eaten sensibly as a child, she would have better teeth now.
もし子どもの頃に考えて食事をしていたら、彼女は今頃もっと良い歯をしていただろう。
見分け方のコツとしては、主節の最後に now と書いてある場合が多いです。
それを見つけたら、ああ、このパターンだと思い出してください。
ここは大事なところです。
テストにもよく出ます。
これを知っておけば簡単に得点できますから、むしろラッキーなくらいです。
しかし、英語のテストの得点がふるわない子に、
「ここは重要。こういうところがテストによく出るよ」
と強調しても、それを覚えないことがあります。
むしろ、
「そんなはずはない。こんなところはテストに出ない」
とすら思うようなのです。
なぜなのでしょうか?
もしかしたら、英語に関して、「ここはテストによく出る」という感覚がズレているのかもしれません。
それには、「こういうのはテストに出ないでほしい」という願望が入っているような気がします。
「たら・れば」を口にしなければならないような願望まじりの勉強です。
「もしも、あのときこれを勉強していたら、今頃私はこの問題を解いているだろう」
と、テスト中に後悔するような勉強をしているのです。
では、なぜそのような間違った認識をしてしまうのでしょうか。
英語が苦手な人、特に英文法が苦手な人は、文法の中でも基本中の基本だけが大切で、それだけがテストに出ると思ってしまう傾向があります。
それは中学生の頃からそうです。
教科書の各セクションの基本例文だけ暗記して、それで英語は大丈夫と思ってしまう人がいます。
しかし、テストは、主語を変えたり、時制を変えたりした、もう少し細かい文法事項が出題されます。
基本例文だけ丸暗記しても、解けないことが多いです。
文法問題の練習をして、間違えても、あまり気にしないのが、そういう人の不可解な点です。
間違えた問題がテストに出るかもしれないという意識を持っていないようなのです。
間違えた問題からは目をそらし、「基本はできた。大体できた」と思ってしまう様子です。
自分が正解できた問題は、良い問題。
自分が間違えた問題は、些末なくだらない問題。
こんなのは、テストに出ない。
そこまで強く意識しているわけではないにしろ、間違えた問題を復習しないということは、そういう判断をしているということなのですが、それに気づいていないようです。
間違えたということは、そこが学習上の「穴」になっているのですが、そのことに気づいていない。
そういうことが繰り返されているのに、学習方法を改善せず、同じ失敗を繰り返していないでしょうか?
仮定法過去完了で言えば、ごく基本の、
「if +主語+過去完了, 主語+助動詞過去形+現在完了」
という基本だけ覚えて、これがテストに出る、その他のことは些末なことなのでテストに出ない。
出ないでほしい。
そのように思ってしまうようなのです。
基本は基本ですから、大切です。
しかし、それしかテストに出ないと思っていると、テストの得点は、パッとしないままです。
テストは、紛らわしいところを出題するのです。
紛らわしいところの使い分けが、情報伝達の手段としての言語を学ぶのに重要ですから。
当然、今回のパターンのようなところは、テストに頻出の箇所です。
仮定法過去完了の問題が3問出題されていたら、1問はこれでしょう。
2問出題されていても、1問はこれだと思います。
それくらい、よく出る問題です。
細かいところまでよく勉強しているかを試すことができる問題ですから。
テストに出ないほうがおかしいくらいです。
しかし、そうした出題傾向があることを認めない。
そうした人が英語が苦手な人に多いように思うのです。
・・・なぜ基本しか出ないと誤解しているのでしょうか。
細かい文法事項はテストに出ないと決めつけてしまうのは、なぜなのでしょう。
もう高校生なのに、テスト勉強をしているときの姿勢が、まだ小学生なのでしょうか。
小学校のカラーテストなら、確かにこんな些末なことは出題されません。
基本しか出題されないのです。
小学生の頃に戻りたい。
あの頃が一番楽しかった。
ちょっと勉強すれば、テストは80点くらいは取れた。
今は、勉強しても勉強しても、いい点が取れない・・・。
・・・そんな気持ちでいるのかなあと想像することがあります。
小学生の頃とは違い、高校生は脳が発達していますから、もっと複雑なことを理解し、覚えることができます。
だから、複雑なこと、些末がことがテストに出されます。
もう小学生ではない。
あの頃とは、脳が違うのです。
それなのに、自分に対する限界を低く設定していないでしょうか。
覚えることが多いと、こんなの無理だと諦めていませんか?
基本を覚えれば大丈夫と思い込み、簡単なところだけ覚えて、自分を安心させていないでしょうか。
まずいのは、おそらくそれを無意識でやっていることなのです。
以前も書きましたが、高校の英文法テキストに載っていることは、どんなに小さな字で書いてあることも、テストによく出ることばかりです。
あれは、英文法のエッセンスです。
本当は、もっともっと些末な文法事項が無限にあります。
一緒に渡された英文法の参考書はぶ厚いでしょう?
その中で大事なところだけを紙面の限られた中で選び抜き、載せているのが英文法のテキストです。
しかし、英語が苦手な人は、英文法のテキストの中でも、さらに大切なところと大切でないところを選んでしまう癖があります。
結果、基本中の基本だけを覚えて、あとは「テストに出るはずがない」と決めつけて捨ててしまいます。
願望と現実を混同してはいけない。
言語学習で重要なのは、些末なところです。
現実に存在する民族が、現実生活の中で使っている言語です。
細部まで重要。
細部を大切にするのが、外国語を敬意をもって学ぶ姿勢です。
当然、そこがテストに出ます。
繰り返します。
if 節が仮定法過去完了で、主節が仮定法過去である形式は、重要です。
テストにも、よく出ます。
2020年11月23日
玉川上水緑道を歩きました。三鷹から久我山へ。2020年11月。
2020年11月22日(日)、今週もよく晴れました。
玉川上水緑道を三鷹から西へ玉川上水駅まで、3回に分けて歩き通し、ひと通り、達成感がありました。
今週は、三鷹から東へ歩いてみることにしました。
出発11:20。
相変わらず遅い。
今日は出発から徒歩なので、気分ものんびりです。
三鷹駅南口。
風の散歩道をまずは井の頭公園へと歩き始めました。
今回は、玉川上水の左岸、北側を歩いてみました。
この2週間の間に、夏草の刈り取りが行われていました。
三鷹の密林はすっきりして、川面が見えるところも多くなりました。
こうしてみると、玉川上水はそれなりに水量があり、流れもあります。
ときおり立ち止まって、さらさらと流れる水を眺めました。
桜の暗い紅葉。
カエデの明るい紅葉。
イチョウは、黄葉し始めたばかり。
山の中のはっとするような鮮やかな色ではないけれど、街の紅葉は、街になじんだ落ち着きがあります。
風の散歩道は、右岸も左岸も舗装された道ですが、左岸は人通りが少し少なく、ところどころベンチも設置されてありました。
途中のむらさき橋で、川沿いの歩道は尽きたので、道路の向かい側に渡りました。
玉川上水駅まで歩いたうえでの感想を言えば、ここは、玉川上水緑道としては、歩きにくい箇所です。
どちらか舗装を剥がして、緑道として整備し直すと良いのになあ。
それとも、土の道は歩きにくい、靴が汚れるという人にとっては、未舗装の歩道は迷惑なものなのかな。
万助橋の交差点を渡って直進すると、そこからは、玉川上水緑道屈指の素晴らしい道が始まりました。
今回は、行きは川の左岸、帰りは川の右岸を行くことにしました。
井の頭公園の中央を通っていく道ですから、見渡す限り林の中の道です。
秋になり、道には枯葉が積もっていました。
カサコソと風に揺れる枯葉を踏みしめて歩きます。
木漏れ日に透かすと、思いがけず鮮やかに赤い紅葉。
マスク越しにも感じられる、木の匂い。
土の匂い。
井の頭公園を出ると、道は舗装されていました。
このまま舗装道路が続くのか、確かめよう。
そう思ってそのまま行くと、再び、土の道が始まりました。
そこは、変化に富んだ、面白い道でした。
生活道路なのです。
大きな道路の歩道として整備し直した緑道とは異なり、生活道路が未舗装のままなのでした。
ちょっとした雰囲気の良い林があったり。
隠れ家的なレストランがあったり。
普通の住宅が並んでいたり。
付近の人が生活のために使っている道ですから、後ろからママチャリがさっと通り過ぎることもあります。
ヘルメットをかぶっているような本気の自転車乗りは、こういう生活道路に入ってきません。
雰囲気の良い箇所では立ち止まって楽しみ、後ろからの自転車には気をつけて、そんなふうにして歩いていきました。
もっと途切れ途切れで舗装道路が多くなるかと思いましたが、そんなことはなく、緑道は続いていきました。
大きな道路との交差点に到着。
交差する道路の車のスピードの速さに驚きました。
普通の道路のスピードではありません。
ここは自動車道なのでしょうか。
歩道がありません。
でも、横断歩道はありました。
信号を渡った先に、玉川上水は続いていましたが、緑道は、舗装されていました。
「東京都立玉川上水緑道」という碑があり、玉川上水の説明板もあり、史跡として大切にしている様子はあります。
水はけの良さそうな、ざらざらとした足ざわりの舗装。
観光地の遊歩道などによくある舗装です。
歩道の道幅は広く、見た目はきれいですが、歩きやすいわけではありません。
神田川自転車歩行者道といい、ここといい、杉並区は舗装が好きだなあ。
小綺麗ではあるのだけれど。
未舗装の道の管理は難しいとは思うんです。
舞い上がる土ぼこりだけでも、付近の住民から苦情があることも考えられますし。
こんな道が続くのなら、もう切りの良いところで終わりにして、Uターンしよう。
そう思いながら歩いていくと、道は道路と突き当り、そして、そこには、横断歩道すらありませんでした。
歩行者は、もうこの先には行けないのです。
玉川上水緑道のイラストマップが立っていましたが、マップもそこで尽きていました。
帰りは、川の右岸、南側を。
そう思って玉川上水の反対側に回り、驚きました。
川岸に緑道がありません。
玉川上水のすぐ横は広い道路でした。
その道路を挟んで向かい側に、歩道と自転車道が区分けして付けられていました。
当然、しっかり舗装されています。
次の信号から、川の右岸も緑道が付いていました。
やはり、ざらざらした舗装がされている遊歩道です。
ところどころにベンチが置かれ、ヘルメットをかぶった自転車乗りが休憩していました。
舗装された遊歩道をとことこ歩き、自動車道との交差点に戻ってきました。
信号を渡って、玉川上水の右岸をさらに行きます。
入口が随分細いなと思いながら入っていくと、入口だけでなく、ずっと道は細いままでした。
右手は川、左手は高い塀が続きます。
かなり閉塞感がありました。
でも、道が舗装されていないのは嬉しい。
このあたりは、土地の高低差が大きく、玉川上水の右岸と左岸でかなり高さが違います。
右岸は、左岸よりはるかに高いのです。
緑道が玉川上水側に傾いているところもあり、さすがにそこはセメント板が埋められていました。
塀が尽きると、すぐ横に舗装道路が見えたりもします。
すぐ横の舗装道路とですら、段差があります。
武蔵野台地の端を歩いているのだろうかと考えながら、淡々と前に進みました。
塀と川に挟まれた狭い道は、やがて、雰囲気の良い緑道に変わりました。
法政大学中学高等学校。
ほほお。ここにあったのかあ。
林の中の気持ちの良い道がしばらく続きました。
道はときどき舗装道路になったりもしながら、やがて、井の頭公園の中へ。
再び、右も左も公園の、気持ちの良い道です。
足元の落ち葉が、ハッとするほど赤かったり、黄色だったり。
写真に撮ったらそんなでもないのだろうけれど、足元の紅葉は目を楽しませてくれます。
秋を堪能して、万助橋へ。
三鷹駅へと戻りました。
玉川上水緑道を三鷹から西へ玉川上水駅まで、3回に分けて歩き通し、ひと通り、達成感がありました。
今週は、三鷹から東へ歩いてみることにしました。
出発11:20。
相変わらず遅い。
今日は出発から徒歩なので、気分ものんびりです。
三鷹駅南口。
風の散歩道をまずは井の頭公園へと歩き始めました。
今回は、玉川上水の左岸、北側を歩いてみました。
この2週間の間に、夏草の刈り取りが行われていました。
三鷹の密林はすっきりして、川面が見えるところも多くなりました。
こうしてみると、玉川上水はそれなりに水量があり、流れもあります。
ときおり立ち止まって、さらさらと流れる水を眺めました。
桜の暗い紅葉。
カエデの明るい紅葉。
イチョウは、黄葉し始めたばかり。
山の中のはっとするような鮮やかな色ではないけれど、街の紅葉は、街になじんだ落ち着きがあります。
風の散歩道は、右岸も左岸も舗装された道ですが、左岸は人通りが少し少なく、ところどころベンチも設置されてありました。
途中のむらさき橋で、川沿いの歩道は尽きたので、道路の向かい側に渡りました。
玉川上水駅まで歩いたうえでの感想を言えば、ここは、玉川上水緑道としては、歩きにくい箇所です。
どちらか舗装を剥がして、緑道として整備し直すと良いのになあ。
それとも、土の道は歩きにくい、靴が汚れるという人にとっては、未舗装の歩道は迷惑なものなのかな。
万助橋の交差点を渡って直進すると、そこからは、玉川上水緑道屈指の素晴らしい道が始まりました。
今回は、行きは川の左岸、帰りは川の右岸を行くことにしました。
井の頭公園の中央を通っていく道ですから、見渡す限り林の中の道です。
秋になり、道には枯葉が積もっていました。
カサコソと風に揺れる枯葉を踏みしめて歩きます。
木漏れ日に透かすと、思いがけず鮮やかに赤い紅葉。
マスク越しにも感じられる、木の匂い。
土の匂い。
井の頭公園を出ると、道は舗装されていました。
このまま舗装道路が続くのか、確かめよう。
そう思ってそのまま行くと、再び、土の道が始まりました。
そこは、変化に富んだ、面白い道でした。
生活道路なのです。
大きな道路の歩道として整備し直した緑道とは異なり、生活道路が未舗装のままなのでした。
ちょっとした雰囲気の良い林があったり。
隠れ家的なレストランがあったり。
普通の住宅が並んでいたり。
付近の人が生活のために使っている道ですから、後ろからママチャリがさっと通り過ぎることもあります。
ヘルメットをかぶっているような本気の自転車乗りは、こういう生活道路に入ってきません。
雰囲気の良い箇所では立ち止まって楽しみ、後ろからの自転車には気をつけて、そんなふうにして歩いていきました。
もっと途切れ途切れで舗装道路が多くなるかと思いましたが、そんなことはなく、緑道は続いていきました。
大きな道路との交差点に到着。
交差する道路の車のスピードの速さに驚きました。
普通の道路のスピードではありません。
ここは自動車道なのでしょうか。
歩道がありません。
でも、横断歩道はありました。
信号を渡った先に、玉川上水は続いていましたが、緑道は、舗装されていました。
「東京都立玉川上水緑道」という碑があり、玉川上水の説明板もあり、史跡として大切にしている様子はあります。
水はけの良さそうな、ざらざらとした足ざわりの舗装。
観光地の遊歩道などによくある舗装です。
歩道の道幅は広く、見た目はきれいですが、歩きやすいわけではありません。
神田川自転車歩行者道といい、ここといい、杉並区は舗装が好きだなあ。
小綺麗ではあるのだけれど。
未舗装の道の管理は難しいとは思うんです。
舞い上がる土ぼこりだけでも、付近の住民から苦情があることも考えられますし。
こんな道が続くのなら、もう切りの良いところで終わりにして、Uターンしよう。
そう思いながら歩いていくと、道は道路と突き当り、そして、そこには、横断歩道すらありませんでした。
歩行者は、もうこの先には行けないのです。
玉川上水緑道のイラストマップが立っていましたが、マップもそこで尽きていました。
帰りは、川の右岸、南側を。
そう思って玉川上水の反対側に回り、驚きました。
川岸に緑道がありません。
玉川上水のすぐ横は広い道路でした。
その道路を挟んで向かい側に、歩道と自転車道が区分けして付けられていました。
当然、しっかり舗装されています。
次の信号から、川の右岸も緑道が付いていました。
やはり、ざらざらした舗装がされている遊歩道です。
ところどころにベンチが置かれ、ヘルメットをかぶった自転車乗りが休憩していました。
舗装された遊歩道をとことこ歩き、自動車道との交差点に戻ってきました。
信号を渡って、玉川上水の右岸をさらに行きます。
入口が随分細いなと思いながら入っていくと、入口だけでなく、ずっと道は細いままでした。
右手は川、左手は高い塀が続きます。
かなり閉塞感がありました。
でも、道が舗装されていないのは嬉しい。
このあたりは、土地の高低差が大きく、玉川上水の右岸と左岸でかなり高さが違います。
右岸は、左岸よりはるかに高いのです。
緑道が玉川上水側に傾いているところもあり、さすがにそこはセメント板が埋められていました。
塀が尽きると、すぐ横に舗装道路が見えたりもします。
すぐ横の舗装道路とですら、段差があります。
武蔵野台地の端を歩いているのだろうかと考えながら、淡々と前に進みました。
塀と川に挟まれた狭い道は、やがて、雰囲気の良い緑道に変わりました。
法政大学中学高等学校。
ほほお。ここにあったのかあ。
林の中の気持ちの良い道がしばらく続きました。
道はときどき舗装道路になったりもしながら、やがて、井の頭公園の中へ。
再び、右も左も公園の、気持ちの良い道です。
足元の落ち葉が、ハッとするほど赤かったり、黄色だったり。
写真に撮ったらそんなでもないのだろうけれど、足元の紅葉は目を楽しませてくれます。
秋を堪能して、万助橋へ。
三鷹駅へと戻りました。
2020年11月19日
高校数Ⅱ「図形と方程式」。円の方程式の応用。円の極線に関する問題。
今回は、ちょっと難問です。
わかっていれば、簡単な解き方があるのですが、少し理解しにくい問題です。
「円の極線」という用語は習わないかもしれませんが、学校の問題集のB問題あるいは発展問題としては出題されていることの多い問題でもありますす。
問題 点(5,6)から円 x2+y2=9 に引いた2つの接線の接点をP、Qとするとき、直線PQの方程式を求めよ。
まずは、普通に発想できる地道な解き方で考えてみます。
直線PQの方程式を求めるには、点P、Qの座標がわかればいい。
その考え方で、まずは2つの座標を求めてみます。
点(5,6)を通る、円x2+y2=9 の接線の接点を(p,q)とおく。
この接点は、円上の点であるから、
p2+q2=9 ・・・①
また、点(x1,y1)を通る接線の方程式は、x1・x+y1・y=r2 だから、
px+qy=9 ・・・②
②の直線は、点(5,6)を通るから、代入して、
5p+6q=9
これを変形して、
5p=-6q+9
p=-6/5q+9/5 ・・・③
③を①に代入して、
(-6/5q+9/5)2+q2=9
これを計算します。
36/25q2-2・6/5・9/5q+81/25+q2=9
61/25q2-108/25q+81/25=9
61q2-108q+81=225
61q2-108q-144=0
解の公式で解きましょう。
q=(54±√2916+8784) / 61
=(54±30√13) / 61
この2つの値を③に代入すると、pの値も2つ求めることができます。
よって、接点は、
(45+36√13 / 61 , 54-30√13 / 61) と、
(45-36√13 / 61 , 54+30√13 / 61)です。
この2点を通る直線は、直線の式の公式に代入すれば、求めることができます。
式が煩雑なので、変化の割合の公式で、傾きだけ先に求めてみましょう。
さすがに、ネットで表示するには煩し過ぎるので、答だけ書くと、
この直線の傾きは、-5/6 となります。
計算過程が鬱陶しいわりに、シンプルな答となります。
そこで、傾きが-5/6で、点(45+36√13 / 61 , 54-30√13 / 61)を求める式を立て、計算します。
これも計算過程が非常に鬱陶しいので省略しますが、
y=-5/6x+3/2
という式を求めることができます。
このままでも構いませんが、全体を6倍して整理しておくと、
5x-6y-9=0
です。
求めることはできるのですが、上の解き方は、ネットに書き込むこともできないほどに煩雑な計算過程があります。
試しに紙に書いて実際に解いてみてください。
計算してみると、その煩雑さは、ひどいものです。
途中のどこかで、符号ミスや計算ミスをおかす可能性が高いです。
もっと、楽な求め方はないものでしょうか?
あるのです。
手品のように簡単な解き方があります。
しかし、理解しづらい点もあります。
一度の説明では理解してもらえず、「え?」と声を出す生徒が多いです。
詭弁を弄された。
何かおかしい。
そう感じるらしいのです。
もう一度問題を見てみましょう。
問題 点(5,6)から円x2+y2=9 に引いた2つの接線の接点をP、Qとするとき、直線PQの方程式を求めよ。
先ほどの解き方でも使いましたが、
円 x2+y2=r2 上の接点(x1 , y1)における接線は、x1・x+y1・y=r2
という公式があります。
この公式については、以前に解説しました。
今回の解き方も、まずはそれを使います。
2つの接点の座標を、P(p , q)、Q(s , t)とします。
上の公式を利用すると、それぞれの接線は、
px+qy=9
sx+ty=9
となります。
これらが、点(5 , 6)を通るから、代入すると、
5p+6q=9 ・・・①
5s+6t=9 ・・・②
これは、2点P、Qが、直線5x+6y=9 上にあることを示しています。
したがって、直線PQの方程式は、
5x+6y=9
・・・はい?
今、何が起きたの?
生徒は呆然とし、以後、授業が先に進まないことがあります。
①、②の2本の式を求めたところまでは、理解できると思います。
その後の、「これは、2点P、Qが、直線5x+6y=9 上にあることを示している」が謎。
そういう感想の人が多いのではないかと思います。
ここのところで、何か理屈がくるんと裏返る印象があるのでしょう。
接線の式を求めて、そこに代入して得た式なのだから、これは接線の式だ。
そこにとらわれ、脳が惑わされてしまうのでしょう。
①、②の2本の式は、接線の式ではありません。
x も y もないのに、接線の式のわけがありません。
①、②の式は、接点P、Qの x 座標と y 座標がどのような関係にあるかを示している式です。
p と q、そして s と t のそれぞれの関係を表している式です。
この2点の x 座標と y 座標は、
5p+6q=9
5s+6t=9
という同じ構造の関係を満たしています。
だとしたら、この2点を通る直線は、
5x+6y=9
となります。
それでも、まだよく呑み込めない、という場合。
では、接線の式ということを離れて、こんな問題だったら、どうでしょうか?
問題 2点(p , q) , (s , t)があり、
5p+6q=9
5s+6t=9
の関係を満たすことがわかっている。
2点を通る直線の式を求めよ。
先ほどの問題の印象がまだ残って、それにとらわれて、これもまた「わからない」「わからない」となってしまう人もいるかもしれません。
しかし、ごく単純な気持ちで、この式を見てください。
直線の式は、ax+by+c=0 という形のものです。
今、定数 c を右辺に移項するなら、
ax+by=-c
です。
その x と y に、この直線上の具体的な点の座標が入ります。
今、上の(p , q) , (s , t)が、x と y の具体的な中身です。
具体的な中身というわりに、文字なのがやや難点ですが。
1点(p , q)だけなら定まらない。
しかし、2点ともが、
5p+6q=9
5S+6t=9
と、同じ数を用いた関係である場合、この2点を満たす式は、
5x+6y=9
以外にはないでしょう。
逆に考えてみると、さらにわかりやすいかもしれません。
5x+6y=9
という直線の式があるとします。
その直線上の2点(p , q) , (s , t)の座標を用いて、式を立てろと言われたら、
5p+6q=9
5S+6t=9
という式を立てるのではありませんか?
では、逆に、
5p+6q=9
5S+6t=9
という関係を満たす2点(p , q) , (s , t)を通る式は、
5x+6y=9
以外にありえないでしょう。
2点を通る直線の式は、1本しかありません。
これ以外の式が、成立するわけがないのです。
・・・脳が揺れる。
以前、この問題を解説したとき、このような感想を述べた高校生がいました。
悪くない感想だと思います。
脳が揺れる。
何か騙されている気がする。
でも、何をどう騙されているのかは、わからない。
何も騙していないですよ?
1つわかりやすい混乱の要因としては、円外の点(5 , 6)から、円x2+y2=9にひいた接線の式を、
5x+6y=9
と誤解してしまうこと。
5x+6y=9
をこの円の接線と感じて、「それは求める答ではない」と除外してしまうようなのです。
円x2+y2=r2 上の接点(x1 , y1)を通る接線の式は、
x1・x+y1・y=r2
です。
しかし、この公式のどこに何を代入したら良いのかで混乱しやすい人がいます。
そうした人は、この式が、円外の点(5 , 6)を通ると言われたときにも、
5x+6y=r2
という式を立ててしまうのです。
式のどこに何を代入するかで混乱してしまうのです。
点(5 , 6)を通る接線に関連して成立可能な式は、
5x1+6y1=r2
なのですが、xとx1、yとy1は何が違うのかよくわからず、あるいは見間違いを起こして、混乱してしまうのでしょう。
だから、そういう人にとって、
5x+6y=r2
は、何がどうなっても接線の式なのだと思います。
そういうこともあって、思考は、迷宮に入っていくようです。
「それは違うよ」
と根拠をもって指摘されたとき、自分の考え違いに気づき、「あっ」と声をあげてすぐに改善できる人もいます。
しかし、一度間違えてしまうと、そこは違うと指摘されても、迷宮に入っていく人もいます。
DVDやブルーレイに、一度録画するともう上書きできないタイプのものと、繰り返し消去したり録画したりできるものとがあります。
それに似て、一度間違えると、もう上書きできない脳の癖というものがあるのだろうかと不審に感じることがあります。
自分が何をどう間違えたのか、なかなか納得できないだけではありません。
時間が経つと、自分が間違えたことのほうを正答と誤認したのか、同じところを同じように間違い続ける人もいます。
幾度解いても、同じことを同じように間違えます。
これは、学習上の大きな障壁となります。
意識して取り除きたい障壁です。
本当は納得していないから、そういうことが起きているとも考えられます。
現代の子は、対人関係をとにかく気にしますから、納得していないのに、わかったふりをすることがあります。
とにかく、今のこの場面だけを穏便に切り抜けたいと思うからなのか、わかったふりをしがちです。
しかし、本当はわかっていなかったので、自分で問題を解くときにそれがぶり返すのでしょう。
対人関係ばかり気にしてわかったふりをすると、むしろ、後日、同じところを同じように間違えていることに先生は眉を寄せ、対人関係は逆にピリピリする、という可能性もあるのですが、とにかく問題を先送りしたいという気持ちがあり、そうなってしまうのかと想像します。
別に何度同じところを間違えてもいいですし、何度でも説明するのが教える者の仕事ですが、それよりも、わからないことは、わかったふりをせず、最初から「わからない」と声を上げたほうがいいのです。
不思議なもので、
「わからない」
と生徒が声を上げた瞬間に、人間関係は逆転するのです。
わかるように説明できない先生が悪いのですから。
本当のことを口にした方が、常に圧倒的に強いのです。
円外の点(p , q)から、円x2+y2=r2にひいた接線の2つの接点を通る直線は、
px+qy=r2
です。
これを、円の極線と呼びます。
このとき、点(p , q)を、円の極点と呼びます。
これは、ただ丸暗記するのではなく、なぜそうであるのか、理屈を理解してください。
わかっていれば、簡単な解き方があるのですが、少し理解しにくい問題です。
「円の極線」という用語は習わないかもしれませんが、学校の問題集のB問題あるいは発展問題としては出題されていることの多い問題でもありますす。
問題 点(5,6)から円 x2+y2=9 に引いた2つの接線の接点をP、Qとするとき、直線PQの方程式を求めよ。
まずは、普通に発想できる地道な解き方で考えてみます。
直線PQの方程式を求めるには、点P、Qの座標がわかればいい。
その考え方で、まずは2つの座標を求めてみます。
点(5,6)を通る、円x2+y2=9 の接線の接点を(p,q)とおく。
この接点は、円上の点であるから、
p2+q2=9 ・・・①
また、点(x1,y1)を通る接線の方程式は、x1・x+y1・y=r2 だから、
px+qy=9 ・・・②
②の直線は、点(5,6)を通るから、代入して、
5p+6q=9
これを変形して、
5p=-6q+9
p=-6/5q+9/5 ・・・③
③を①に代入して、
(-6/5q+9/5)2+q2=9
これを計算します。
36/25q2-2・6/5・9/5q+81/25+q2=9
61/25q2-108/25q+81/25=9
61q2-108q+81=225
61q2-108q-144=0
解の公式で解きましょう。
q=(54±√2916+8784) / 61
=(54±30√13) / 61
この2つの値を③に代入すると、pの値も2つ求めることができます。
よって、接点は、
(45+36√13 / 61 , 54-30√13 / 61) と、
(45-36√13 / 61 , 54+30√13 / 61)です。
この2点を通る直線は、直線の式の公式に代入すれば、求めることができます。
式が煩雑なので、変化の割合の公式で、傾きだけ先に求めてみましょう。
さすがに、ネットで表示するには煩し過ぎるので、答だけ書くと、
この直線の傾きは、-5/6 となります。
計算過程が鬱陶しいわりに、シンプルな答となります。
そこで、傾きが-5/6で、点(45+36√13 / 61 , 54-30√13 / 61)を求める式を立て、計算します。
これも計算過程が非常に鬱陶しいので省略しますが、
y=-5/6x+3/2
という式を求めることができます。
このままでも構いませんが、全体を6倍して整理しておくと、
5x-6y-9=0
です。
求めることはできるのですが、上の解き方は、ネットに書き込むこともできないほどに煩雑な計算過程があります。
試しに紙に書いて実際に解いてみてください。
計算してみると、その煩雑さは、ひどいものです。
途中のどこかで、符号ミスや計算ミスをおかす可能性が高いです。
もっと、楽な求め方はないものでしょうか?
あるのです。
手品のように簡単な解き方があります。
しかし、理解しづらい点もあります。
一度の説明では理解してもらえず、「え?」と声を出す生徒が多いです。
詭弁を弄された。
何かおかしい。
そう感じるらしいのです。
もう一度問題を見てみましょう。
問題 点(5,6)から円x2+y2=9 に引いた2つの接線の接点をP、Qとするとき、直線PQの方程式を求めよ。
先ほどの解き方でも使いましたが、
円 x2+y2=r2 上の接点(x1 , y1)における接線は、x1・x+y1・y=r2
という公式があります。
この公式については、以前に解説しました。
今回の解き方も、まずはそれを使います。
2つの接点の座標を、P(p , q)、Q(s , t)とします。
上の公式を利用すると、それぞれの接線は、
px+qy=9
sx+ty=9
となります。
これらが、点(5 , 6)を通るから、代入すると、
5p+6q=9 ・・・①
5s+6t=9 ・・・②
これは、2点P、Qが、直線5x+6y=9 上にあることを示しています。
したがって、直線PQの方程式は、
5x+6y=9
・・・はい?
今、何が起きたの?
生徒は呆然とし、以後、授業が先に進まないことがあります。
①、②の2本の式を求めたところまでは、理解できると思います。
その後の、「これは、2点P、Qが、直線5x+6y=9 上にあることを示している」が謎。
そういう感想の人が多いのではないかと思います。
ここのところで、何か理屈がくるんと裏返る印象があるのでしょう。
接線の式を求めて、そこに代入して得た式なのだから、これは接線の式だ。
そこにとらわれ、脳が惑わされてしまうのでしょう。
①、②の2本の式は、接線の式ではありません。
x も y もないのに、接線の式のわけがありません。
①、②の式は、接点P、Qの x 座標と y 座標がどのような関係にあるかを示している式です。
p と q、そして s と t のそれぞれの関係を表している式です。
この2点の x 座標と y 座標は、
5p+6q=9
5s+6t=9
という同じ構造の関係を満たしています。
だとしたら、この2点を通る直線は、
5x+6y=9
となります。
それでも、まだよく呑み込めない、という場合。
では、接線の式ということを離れて、こんな問題だったら、どうでしょうか?
問題 2点(p , q) , (s , t)があり、
5p+6q=9
5s+6t=9
の関係を満たすことがわかっている。
2点を通る直線の式を求めよ。
先ほどの問題の印象がまだ残って、それにとらわれて、これもまた「わからない」「わからない」となってしまう人もいるかもしれません。
しかし、ごく単純な気持ちで、この式を見てください。
直線の式は、ax+by+c=0 という形のものです。
今、定数 c を右辺に移項するなら、
ax+by=-c
です。
その x と y に、この直線上の具体的な点の座標が入ります。
今、上の(p , q) , (s , t)が、x と y の具体的な中身です。
具体的な中身というわりに、文字なのがやや難点ですが。
1点(p , q)だけなら定まらない。
しかし、2点ともが、
5p+6q=9
5S+6t=9
と、同じ数を用いた関係である場合、この2点を満たす式は、
5x+6y=9
以外にはないでしょう。
逆に考えてみると、さらにわかりやすいかもしれません。
5x+6y=9
という直線の式があるとします。
その直線上の2点(p , q) , (s , t)の座標を用いて、式を立てろと言われたら、
5p+6q=9
5S+6t=9
という式を立てるのではありませんか?
では、逆に、
5p+6q=9
5S+6t=9
という関係を満たす2点(p , q) , (s , t)を通る式は、
5x+6y=9
以外にありえないでしょう。
2点を通る直線の式は、1本しかありません。
これ以外の式が、成立するわけがないのです。
・・・脳が揺れる。
以前、この問題を解説したとき、このような感想を述べた高校生がいました。
悪くない感想だと思います。
脳が揺れる。
何か騙されている気がする。
でも、何をどう騙されているのかは、わからない。
何も騙していないですよ?
1つわかりやすい混乱の要因としては、円外の点(5 , 6)から、円x2+y2=9にひいた接線の式を、
5x+6y=9
と誤解してしまうこと。
5x+6y=9
をこの円の接線と感じて、「それは求める答ではない」と除外してしまうようなのです。
円x2+y2=r2 上の接点(x1 , y1)を通る接線の式は、
x1・x+y1・y=r2
です。
しかし、この公式のどこに何を代入したら良いのかで混乱しやすい人がいます。
そうした人は、この式が、円外の点(5 , 6)を通ると言われたときにも、
5x+6y=r2
という式を立ててしまうのです。
式のどこに何を代入するかで混乱してしまうのです。
点(5 , 6)を通る接線に関連して成立可能な式は、
5x1+6y1=r2
なのですが、xとx1、yとy1は何が違うのかよくわからず、あるいは見間違いを起こして、混乱してしまうのでしょう。
だから、そういう人にとって、
5x+6y=r2
は、何がどうなっても接線の式なのだと思います。
そういうこともあって、思考は、迷宮に入っていくようです。
「それは違うよ」
と根拠をもって指摘されたとき、自分の考え違いに気づき、「あっ」と声をあげてすぐに改善できる人もいます。
しかし、一度間違えてしまうと、そこは違うと指摘されても、迷宮に入っていく人もいます。
DVDやブルーレイに、一度録画するともう上書きできないタイプのものと、繰り返し消去したり録画したりできるものとがあります。
それに似て、一度間違えると、もう上書きできない脳の癖というものがあるのだろうかと不審に感じることがあります。
自分が何をどう間違えたのか、なかなか納得できないだけではありません。
時間が経つと、自分が間違えたことのほうを正答と誤認したのか、同じところを同じように間違い続ける人もいます。
幾度解いても、同じことを同じように間違えます。
これは、学習上の大きな障壁となります。
意識して取り除きたい障壁です。
本当は納得していないから、そういうことが起きているとも考えられます。
現代の子は、対人関係をとにかく気にしますから、納得していないのに、わかったふりをすることがあります。
とにかく、今のこの場面だけを穏便に切り抜けたいと思うからなのか、わかったふりをしがちです。
しかし、本当はわかっていなかったので、自分で問題を解くときにそれがぶり返すのでしょう。
対人関係ばかり気にしてわかったふりをすると、むしろ、後日、同じところを同じように間違えていることに先生は眉を寄せ、対人関係は逆にピリピリする、という可能性もあるのですが、とにかく問題を先送りしたいという気持ちがあり、そうなってしまうのかと想像します。
別に何度同じところを間違えてもいいですし、何度でも説明するのが教える者の仕事ですが、それよりも、わからないことは、わかったふりをせず、最初から「わからない」と声を上げたほうがいいのです。
不思議なもので、
「わからない」
と生徒が声を上げた瞬間に、人間関係は逆転するのです。
わかるように説明できない先生が悪いのですから。
本当のことを口にした方が、常に圧倒的に強いのです。
円外の点(p , q)から、円x2+y2=r2にひいた接線の2つの接点を通る直線は、
px+qy=r2
です。
これを、円の極線と呼びます。
このとき、点(p , q)を、円の極点と呼びます。
これは、ただ丸暗記するのではなく、なぜそうであるのか、理屈を理解してください。
2020年11月16日
玉川上水緑道を歩きました。鷹の台駅から玉川上水駅まで。2020年11月。
2020年11月8日(日)、玉川上水緑道を歩いてきました。
前回の到達地点、西武国分寺線鷹の台駅の踏切の側に、自転車駐輪場があるのを前回見ていました。
そこまで、三鷹からまずは自転車で行きました。
何だかんだで11:00に出発。
結局、いつもこんな時間になってしまいます。
山に行くときとは違い、そもそも早起きする気がないうえに、朝食もしっかり作って食べるし、前夜ではなく出発する直前に支度をするし。
でも、この気軽さがウォーキングの魅力でしょう。
三鷹駅北口から、玉川上水沿いの道を自転車で出発。
交通量の多い道路はできるだけ避けて走りたい。
まずは、川の右岸、南側の道が細いけれど舗装されていて、安心して走れました。
ほどなく大きな交差点。
押しボタン式信号で道路を渡り、川の左岸、北側に回ります。
ここから、やがて境浄水場の脇を通る、桜橋交差点までの一直線の道は、車通りが少なく、信号もない、快適な道でした。
以後は、五日市街道と合流するので、左岸は避け、右岸の上水桜通りを走りました。
こちらも、道幅が比較的広いのに車通りは少なく、快適でした。
道路標識を見ていると、一方通行で、しかも交差点を挟んで一方通行の向きが変わったりします。
これでは、付近の詳細を知らないドライバーは入ってこられないですね。
信号が少なく、走っていて楽で、先週よりもあっと言う間という印象で小金井公園付近まで来ました。
ここから先、しかし、玉川上水緑道の両岸が交通量の多い道路である箇所がありました。
右岸から、小さな橋を渡って、左岸の緑道へ。
この付近だけ、緑道が舗装されているんです。
半分だけ舗装されている道は、途中から、全舗装に変わります。
これは、両岸の道路が交通量が多いので、自転車のことを考えて舗装してくれているのかもしれません。
前回歩いたときは、ここも土の道ならいいのにと思ったのですが。
立場を変えてみなければわからないことがあります。
ここは舗装してくれて、ありがとうございます。
緑道の舗装が尽き、再び、大きな交差点。
五日市街道が大きくそれていくと車の量は減り、再び道路の左端を走れるようになりました。
少し入り組んだ道から踏切を越え、そこからは川の右岸を走りました。
そろそろ鷹の台駅。
前回確認した駐輪場に到着です。11:50。
しかし、そこは月ぎめ契約している人のための駐輪場でした。
日曜だから空いているとはいえ、他人のスペースに駐輪したらまずいだろうときょろきょろしていると、奥に一時駐輪場を発見。
管理人さんがいて、前払い、24時間100円でした。
さあ歩き始めます。
今回も、行きは川の左岸、帰りは川の右岸を歩くことにしました。
まずは、前回も歩いた道を行きます。
玉川上水と並行して堀があり、水が流れています。
緑道の両側に樹木が並び、木陰が涼しく、広く気持ちの良い道でした。
ウオーキングの人が行き来していますが、皆さんマスクをつけていますし、「密」ということはなく、気持ちよく歩けました。
前回の終点、小平市立上水公園。
水際ということもあるのか、早い紅葉が始まっていました。
立ち止まって秋の風景の中にしばらく身をおきました。
さらに行くと、都立小平西高校。
ははあ、ここにあったのかあ。
さらにその先、足湯の施設がありました。
「こもれびの足湯」。
ごみ焼却場で生じた熱を利用している施設のようです。
無料。木曜定休。
ただし、11月19日~12月1日は、焼却炉定期点検のため休場だそうです。
屋外施設で、屋根がついている場所、ついていない場所、あわせて3か所ほどの足湯。
入口付近にザックがまとめて置いてあったりもして、団体客が来ていたのでしょう、それなりに混雑していました。
コロナ禍でなければ私も入りたかったなあ。
入口に設置されたアルコール消毒液をありがたく利用させていただき、さらに先に進みました。
そこまでずっと、道幅の広く気持ちのよい土の道が続いていましたが、足湯の施設からしばらく行くと、何やら玉川上水関連の石碑があり、そこで土の道は途絶えました。
そこからは、舗装道路を歩きました。
上水は、浄水場のような施設に変わり、それを眺めながら、舗装道路を歩いていくと、また道路の端には未舗装の道が。
しかし、乾いた砂利まじりの砂の道で、あまり気持ちのよい道ではありません。
右手に、駅が見えてきました。
ああ。玉川上水駅だ。
では、ここが玉川上水緑道の終点なのでしょうか?
駅前を通り過ぎて、緑の深いところに近寄っていくと、そこから再び、土の道が始まっていました。
川幅は広くなり、川面も明瞭で、さらさらと水が流れていきます。
これはもう、普通の川です。
三鷹の、水があるのかないのか、緑と底が深すぎてよくわからない玉川上水と同じ川とは思えないほどです。
緑道の雰囲気が変わるのが楽しく歩いてきたけれど、川がこれほど変わるとは予想していませんでした。
道に、イラストマップの看板が立っていました。13:30。
玉川上水緑道は、この先も、西武立川駅付近、拝島駅付近を過ぎ、多摩川まで続いているのが描かれていました。
緑道が途切れる箇所は少なく、少なくとも川のどちらかは未舗装の様子です。
これは、凄い。
凄いけれど、もうこの先は、公共交通機関を使わないと、歩けない。
コロナ禍が去ったら、電車を使って、この先を歩こうかな。
でも、そのときには、やっぱり山を歩くほうを選んでしまうかな。
橋を渡って、右岸へ。
右岸は南側なので、日当たりのせいでしょう、土が乾いていて、ある意味殺風景な道になりがちです。
山道でも、本当に気持ちの良い道と、この道あんまり好きじゃないなという道があります。
でも、それは、季節や天候によっても大きく左右されるので、春の頃に歩いたら、この道も花盛りの気持ちの良い道なのかもしれません。
左岸と違い、途中で舗装道路になることもなく、浄水施設横を過ぎました。
その先、前を歩く男性が、道から少し逸れる木段を下りて行ったので、何かあるのかと、それに続いて下りてみることにしました。
木段の下には、人工的な滝がありました。
石が何段にも組まれ、そこから、水があふれ出ています。
「甦る水100選」の説明版がありました。
「この水は、昭島市にある東京都流域下水道 多摩川上流処理場からの再生水です。
これによって、水がなくなった玉川上水に清流がよみがえりました。
わが国の清流復活の先駆けとして全国の甦る水100選に選ばれました」
木段をさらに下りていくと、細い沢が。
上の画像がそれです。
これが、玉川上水。
水質はわかりません。
けれど、山の中を流れる沢のように見えました。
ここまで来てよかった。
ここを終点として、満足だ。
そのように思い、川の右岸を戻りました。
前回の到達地点、西武国分寺線鷹の台駅の踏切の側に、自転車駐輪場があるのを前回見ていました。
そこまで、三鷹からまずは自転車で行きました。
何だかんだで11:00に出発。
結局、いつもこんな時間になってしまいます。
山に行くときとは違い、そもそも早起きする気がないうえに、朝食もしっかり作って食べるし、前夜ではなく出発する直前に支度をするし。
でも、この気軽さがウォーキングの魅力でしょう。
三鷹駅北口から、玉川上水沿いの道を自転車で出発。
交通量の多い道路はできるだけ避けて走りたい。
まずは、川の右岸、南側の道が細いけれど舗装されていて、安心して走れました。
ほどなく大きな交差点。
押しボタン式信号で道路を渡り、川の左岸、北側に回ります。
ここから、やがて境浄水場の脇を通る、桜橋交差点までの一直線の道は、車通りが少なく、信号もない、快適な道でした。
以後は、五日市街道と合流するので、左岸は避け、右岸の上水桜通りを走りました。
こちらも、道幅が比較的広いのに車通りは少なく、快適でした。
道路標識を見ていると、一方通行で、しかも交差点を挟んで一方通行の向きが変わったりします。
これでは、付近の詳細を知らないドライバーは入ってこられないですね。
信号が少なく、走っていて楽で、先週よりもあっと言う間という印象で小金井公園付近まで来ました。
ここから先、しかし、玉川上水緑道の両岸が交通量の多い道路である箇所がありました。
右岸から、小さな橋を渡って、左岸の緑道へ。
この付近だけ、緑道が舗装されているんです。
半分だけ舗装されている道は、途中から、全舗装に変わります。
これは、両岸の道路が交通量が多いので、自転車のことを考えて舗装してくれているのかもしれません。
前回歩いたときは、ここも土の道ならいいのにと思ったのですが。
立場を変えてみなければわからないことがあります。
ここは舗装してくれて、ありがとうございます。
緑道の舗装が尽き、再び、大きな交差点。
五日市街道が大きくそれていくと車の量は減り、再び道路の左端を走れるようになりました。
少し入り組んだ道から踏切を越え、そこからは川の右岸を走りました。
そろそろ鷹の台駅。
前回確認した駐輪場に到着です。11:50。
しかし、そこは月ぎめ契約している人のための駐輪場でした。
日曜だから空いているとはいえ、他人のスペースに駐輪したらまずいだろうときょろきょろしていると、奥に一時駐輪場を発見。
管理人さんがいて、前払い、24時間100円でした。
さあ歩き始めます。
今回も、行きは川の左岸、帰りは川の右岸を歩くことにしました。
まずは、前回も歩いた道を行きます。
玉川上水と並行して堀があり、水が流れています。
緑道の両側に樹木が並び、木陰が涼しく、広く気持ちの良い道でした。
ウオーキングの人が行き来していますが、皆さんマスクをつけていますし、「密」ということはなく、気持ちよく歩けました。
前回の終点、小平市立上水公園。
水際ということもあるのか、早い紅葉が始まっていました。
立ち止まって秋の風景の中にしばらく身をおきました。
さらに行くと、都立小平西高校。
ははあ、ここにあったのかあ。
さらにその先、足湯の施設がありました。
「こもれびの足湯」。
ごみ焼却場で生じた熱を利用している施設のようです。
無料。木曜定休。
ただし、11月19日~12月1日は、焼却炉定期点検のため休場だそうです。
屋外施設で、屋根がついている場所、ついていない場所、あわせて3か所ほどの足湯。
入口付近にザックがまとめて置いてあったりもして、団体客が来ていたのでしょう、それなりに混雑していました。
コロナ禍でなければ私も入りたかったなあ。
入口に設置されたアルコール消毒液をありがたく利用させていただき、さらに先に進みました。
そこまでずっと、道幅の広く気持ちのよい土の道が続いていましたが、足湯の施設からしばらく行くと、何やら玉川上水関連の石碑があり、そこで土の道は途絶えました。
そこからは、舗装道路を歩きました。
上水は、浄水場のような施設に変わり、それを眺めながら、舗装道路を歩いていくと、また道路の端には未舗装の道が。
しかし、乾いた砂利まじりの砂の道で、あまり気持ちのよい道ではありません。
右手に、駅が見えてきました。
ああ。玉川上水駅だ。
では、ここが玉川上水緑道の終点なのでしょうか?
駅前を通り過ぎて、緑の深いところに近寄っていくと、そこから再び、土の道が始まっていました。
川幅は広くなり、川面も明瞭で、さらさらと水が流れていきます。
これはもう、普通の川です。
三鷹の、水があるのかないのか、緑と底が深すぎてよくわからない玉川上水と同じ川とは思えないほどです。
緑道の雰囲気が変わるのが楽しく歩いてきたけれど、川がこれほど変わるとは予想していませんでした。
道に、イラストマップの看板が立っていました。13:30。
玉川上水緑道は、この先も、西武立川駅付近、拝島駅付近を過ぎ、多摩川まで続いているのが描かれていました。
緑道が途切れる箇所は少なく、少なくとも川のどちらかは未舗装の様子です。
これは、凄い。
凄いけれど、もうこの先は、公共交通機関を使わないと、歩けない。
コロナ禍が去ったら、電車を使って、この先を歩こうかな。
でも、そのときには、やっぱり山を歩くほうを選んでしまうかな。
橋を渡って、右岸へ。
右岸は南側なので、日当たりのせいでしょう、土が乾いていて、ある意味殺風景な道になりがちです。
山道でも、本当に気持ちの良い道と、この道あんまり好きじゃないなという道があります。
でも、それは、季節や天候によっても大きく左右されるので、春の頃に歩いたら、この道も花盛りの気持ちの良い道なのかもしれません。
左岸と違い、途中で舗装道路になることもなく、浄水施設横を過ぎました。
その先、前を歩く男性が、道から少し逸れる木段を下りて行ったので、何かあるのかと、それに続いて下りてみることにしました。
木段の下には、人工的な滝がありました。
石が何段にも組まれ、そこから、水があふれ出ています。
「甦る水100選」の説明版がありました。
「この水は、昭島市にある東京都流域下水道 多摩川上流処理場からの再生水です。
これによって、水がなくなった玉川上水に清流がよみがえりました。
わが国の清流復活の先駆けとして全国の甦る水100選に選ばれました」
木段をさらに下りていくと、細い沢が。
上の画像がそれです。
これが、玉川上水。
水質はわかりません。
けれど、山の中を流れる沢のように見えました。
ここまで来てよかった。
ここを終点として、満足だ。
そのように思い、川の右岸を戻りました。
2020年11月13日
高校英語。仮定法過去完了。
今回は、仮定法過去完了です。
例文を見てみましょう。
If I had left home ten minutes earlier, I would have caught the train.
もし10分早く家を出ていたら、その列車に乗れたのだが。
これは、「過去の事実に反する仮定」を表します。
過去にもしこうだったら、こうなっていただろうということを表したいときの文です。
事実としては、「私は10分早く家を出なかったので、その列車に乗り遅れた」のです。
俗に「たら・ればを言っても仕方ないだろう」などと言いますが、仮定法過去完了の文は、どれもこれも、この「たら・れば」ばかりです。
if 節は、「If+主語+過去完了」。
過去完了形とはhad+過去分詞の形です。
英語では、過去形より1つ古い時制にしたいときは、過去完了形にします。
「大過去」を表すときに過去完了形を用いることは、高校英文法のかなり早い時期に時制のところで学習しました。
仮定法は、とにかく時制を本来より1つ古くすることで、それが事実ではなく仮定の話であることを伝えます。
主節は、仮定法過去と同様に、助動詞の過去形を用います。
しかし、その後ろを動詞の原形にしたのでは、仮定法過去と全く同じになってしまいます。
かといって、助動詞の後ろに動詞の過去形を置いたりしては、英語の根本のルールに反します。
助動詞の後ろは動詞は原形にするのが、英語の原則。
根本のルールの1つです。
ではどうするか?
仮定法過去完了の主節は、「主語+助動詞過去形+現在完了」を用います。
現在完了形は、have+過去分詞です。
have は原形なので、「助動詞の後ろは原形」という原則に従っています。
これなら、原則通りです。
動名詞や不定詞の時制を1つ古くしたいときにも、現在完了形を用いるこの方法は活用されています。
完了形の動名詞、完了形の不定詞と呼ばれるものです。
単純な過去形を用いることができないときには現在完了形で代用する。
これが原則です。
英語は、同じルールを他の文法事項でもフル活用するので、大原則を理解しておくと覚えやすいのです。
原則に従ったわかりやすいルールだなあと私は思うのですが、仮定法が嫌いな人には、不評です。
何だか覚えにくいらしいのです。
いや、原則を理解したら、覚えやすいですよ。
「If+主語+過去完了 , 主語+助動詞過去形+現在完了」
仮定法過去完了のこの形をしっかり覚えて、そのルール通りに英文を作っていきましょう。
もう少し例文を見てみましょう。
If I had not broken my leg, I could have gone skiing.
もし足を骨折しなかったら、スキーに行くことができたのだが。
「If+主語+過去完了 , 主語+助動詞過去形+現在完了」
という骨組みがしっかり守られています。
事実としては、「私は足を骨折したので、スキーに行くことができなかった」のです。
まさに「たら・れば」です。
仮定法過去完了の例文や問題文を見ていると、何となくテンションが下がるのは、こうした繰り言が多いからでしょうか。
しかし、それは、仮定法過去完了に責任のあることではなく、語られている内容の問題です。
人は、無駄とわかっていて、こういうことを言いたくなるものだ。
英米の人も、こんなことを言っているんだなあ。
と、そんな感慨を新たにするのも、語学を学ぶ意味の1つなのかもしれません。
If I had voted against him, he would have had to resign.
もし私が彼に反対投票をしたら、彼は辞職しなければならなかっただろう。
これも、同じ構造なのがわかります。
事実としては、「私は彼に賛成投票をしたので、彼は辞職しなかった」ということです。
ところで、この例文になると、仮定法という以前のことで混乱する人がいます。
中3で現在完了を学習した頃から、英語が苦手な人にありがちな奇妙な「癖」として、have の後ろに had というのはおかしいのではないかと思い込み、そういう英文を書けない人がいるのです。
1つの文の中で have を2回使うのはおかしいと思うらしいのです。
この種の「癖」は他にもあります。
enjoying playing のように、ing 形を続けて書いてはいけないのではないか?
to を1つの文の中で2回使うのはおかしいのではないか?
こうした例は、枚挙に暇がありません。
英語が苦手な人に、こういう奇妙な「ルール」を自分で作ってそれに縛られる癖のある人がいます。
文法は苦手な様子なのに、なぜ、こんな変なルールを自分で作って、それに縛られてしまうのでしょう?
それは、正しい文法を覚えられないから、その代わりに、自分で変なルールを発見してしまうのだろうと想像されます。
文法をいくら嫌っても、いくら無視しても、言語を学ぶときに、やはり何かしらの法則というものを考えずにいられないのでしょう。
その結果、どこにも存在しない不可解なルールを発見して、それに縛られてしまうのです。
しかし、それは見方によっては明るい側面かもしれません。
英語を学ぶとき、結局は、ルールが必要なのです。
心の底では、ルールを求めているのです。
ならば、正しいルールを覚えて活用しましょう。
英語を使う上での正しいルール。
それが文法です。
自分が思いこんでいるルールは、正しいものか、それとも単なる幻想か。
それがわからないときは、質問するのが一番です。
「そんなことを質問したら、バカにされるのではないか?」
そんなことを思う必要はありません。
誰かが言っていました。
くだらない質問というものは、この世に存在しない。
くだらない答があるだけだ。
その通りだと思います。
例文を見てみましょう。
If I had left home ten minutes earlier, I would have caught the train.
もし10分早く家を出ていたら、その列車に乗れたのだが。
これは、「過去の事実に反する仮定」を表します。
過去にもしこうだったら、こうなっていただろうということを表したいときの文です。
事実としては、「私は10分早く家を出なかったので、その列車に乗り遅れた」のです。
俗に「たら・ればを言っても仕方ないだろう」などと言いますが、仮定法過去完了の文は、どれもこれも、この「たら・れば」ばかりです。
if 節は、「If+主語+過去完了」。
過去完了形とはhad+過去分詞の形です。
英語では、過去形より1つ古い時制にしたいときは、過去完了形にします。
「大過去」を表すときに過去完了形を用いることは、高校英文法のかなり早い時期に時制のところで学習しました。
仮定法は、とにかく時制を本来より1つ古くすることで、それが事実ではなく仮定の話であることを伝えます。
主節は、仮定法過去と同様に、助動詞の過去形を用います。
しかし、その後ろを動詞の原形にしたのでは、仮定法過去と全く同じになってしまいます。
かといって、助動詞の後ろに動詞の過去形を置いたりしては、英語の根本のルールに反します。
助動詞の後ろは動詞は原形にするのが、英語の原則。
根本のルールの1つです。
ではどうするか?
仮定法過去完了の主節は、「主語+助動詞過去形+現在完了」を用います。
現在完了形は、have+過去分詞です。
have は原形なので、「助動詞の後ろは原形」という原則に従っています。
これなら、原則通りです。
動名詞や不定詞の時制を1つ古くしたいときにも、現在完了形を用いるこの方法は活用されています。
完了形の動名詞、完了形の不定詞と呼ばれるものです。
単純な過去形を用いることができないときには現在完了形で代用する。
これが原則です。
英語は、同じルールを他の文法事項でもフル活用するので、大原則を理解しておくと覚えやすいのです。
原則に従ったわかりやすいルールだなあと私は思うのですが、仮定法が嫌いな人には、不評です。
何だか覚えにくいらしいのです。
いや、原則を理解したら、覚えやすいですよ。
「If+主語+過去完了 , 主語+助動詞過去形+現在完了」
仮定法過去完了のこの形をしっかり覚えて、そのルール通りに英文を作っていきましょう。
もう少し例文を見てみましょう。
If I had not broken my leg, I could have gone skiing.
もし足を骨折しなかったら、スキーに行くことができたのだが。
「If+主語+過去完了 , 主語+助動詞過去形+現在完了」
という骨組みがしっかり守られています。
事実としては、「私は足を骨折したので、スキーに行くことができなかった」のです。
まさに「たら・れば」です。
仮定法過去完了の例文や問題文を見ていると、何となくテンションが下がるのは、こうした繰り言が多いからでしょうか。
しかし、それは、仮定法過去完了に責任のあることではなく、語られている内容の問題です。
人は、無駄とわかっていて、こういうことを言いたくなるものだ。
英米の人も、こんなことを言っているんだなあ。
と、そんな感慨を新たにするのも、語学を学ぶ意味の1つなのかもしれません。
If I had voted against him, he would have had to resign.
もし私が彼に反対投票をしたら、彼は辞職しなければならなかっただろう。
これも、同じ構造なのがわかります。
事実としては、「私は彼に賛成投票をしたので、彼は辞職しなかった」ということです。
ところで、この例文になると、仮定法という以前のことで混乱する人がいます。
中3で現在完了を学習した頃から、英語が苦手な人にありがちな奇妙な「癖」として、have の後ろに had というのはおかしいのではないかと思い込み、そういう英文を書けない人がいるのです。
1つの文の中で have を2回使うのはおかしいと思うらしいのです。
この種の「癖」は他にもあります。
enjoying playing のように、ing 形を続けて書いてはいけないのではないか?
to を1つの文の中で2回使うのはおかしいのではないか?
こうした例は、枚挙に暇がありません。
英語が苦手な人に、こういう奇妙な「ルール」を自分で作ってそれに縛られる癖のある人がいます。
文法は苦手な様子なのに、なぜ、こんな変なルールを自分で作って、それに縛られてしまうのでしょう?
それは、正しい文法を覚えられないから、その代わりに、自分で変なルールを発見してしまうのだろうと想像されます。
文法をいくら嫌っても、いくら無視しても、言語を学ぶときに、やはり何かしらの法則というものを考えずにいられないのでしょう。
その結果、どこにも存在しない不可解なルールを発見して、それに縛られてしまうのです。
しかし、それは見方によっては明るい側面かもしれません。
英語を学ぶとき、結局は、ルールが必要なのです。
心の底では、ルールを求めているのです。
ならば、正しいルールを覚えて活用しましょう。
英語を使う上での正しいルール。
それが文法です。
自分が思いこんでいるルールは、正しいものか、それとも単なる幻想か。
それがわからないときは、質問するのが一番です。
「そんなことを質問したら、バカにされるのではないか?」
そんなことを思う必要はありません。
誰かが言っていました。
くだらない質問というものは、この世に存在しない。
くだらない答があるだけだ。
その通りだと思います。
2020年11月09日
玉川上水緑道を歩きました。小金井公園から小平上水公園まで。
2020年11月1日(日)、玉川上水緑道を歩きました。
2週間前、三鷹駅から小金井公園まで歩きました。
今日はその先を歩いてみよう。
そういうわけで、まずは自転車に乗って、小金井公園に向けて出発しました。11:00。
2週間前はてくてく歩いた玉川上水緑道。
それに沿った道を自転車で走ってみると、かなり距離があるのに驚きました。
むしろ逆なのじゃないかと思われるかもしれませんが、歩くこと自体が目的であるときは、長距離を歩いていても、何も感じません。
小金井公園に行くことだけが目的だと、自転車で走っていても、遠いのです。
玉川上水の左岸と右岸のどちらかが車で混雑した道路の場合は、そこを避けて走りました。
とにかく、五日市街道は避けるのが賢明。
そうやって走っていくと、車も少なく、直線距離の長い道が多く、自転車で走ると気持ちのよい道でした。
多摩湖歩行者自転車道のように、やたらに歩行者がいたり、信号が多かったり、ということもありません。
ストレスの少ない道でした。
小金井公園。11:30。
前日、小金井公園の駐輪場をネットで調べたのですが、見つかりませんでした。
駐輪場として指定されているところは特にないようです。
でも、自転車で来ている人も多いはずだがなあと正門から中へ。
奥へ入っていくと、自転車が大量に並んでいるところがありました。
子どもが遊ぶ場所近く、キッチンカーが並び、軽食や飲み物を売っています。
そこに駐輪し、さて、ここから歩き始めました。11:45。
玉川上水緑道・小金井公園前。
上水の左岸、北側をてくてく歩き始めました。
五日市街道沿いですが、歩道は舗装されていません。
土の道で歩きやすいです。
土の道を保存することに決めたのはいつのことなのかわかりせんが、英断だったと思います。
今よりも、環境に対する意識は低かったと思うのに、よく決断できたと思うのです。
舗装したほうが管理は楽でしょう。
先週歩いた、神田川自転車歩行者道は、がちがちに舗装されていました。
自転車道でもあるので、仕方ない面もありますが、舗装された道は、長距離歩くと、膝に腰に負担があります。
あの道も、川の片側だけでも舗装を剥がして、土の道に作り直したら良いのになあ。
ところがしばらく行くと、舗道の半分は舗装されて、自転車が横を走るようになりました。
それでも、半分は舗装されていないので、そこを歩けばいい、と思っていたら、やがて全て舗装されてしまいました。
えー、残念。
帰り道にわかったことですが、ここは、玉川上水の右岸の道が未舗装の土の道で歩きやすかったのです。
玉川上水を歩くときは、とにかく五日市街道を避けて反対側に回れば、良い歩道があるのですね。
桜橋交差点。
ここを左に行けば、国分寺駅。
昔、国分寺で働いていたことがあります。
考えたこともなかったけれど、これなら、国分寺まで、自転車通勤できたのかなあ。
やがて、五日市街道と別れ、その先、踏切。
そのあたりで気づきました。
水を忘れてきました!
これが山だったら大惨事でしたが、街を歩いているので、水はどこかで手に入るはず。
さらに歩いていくと、また踏切。
これは、西武国分寺線。
踏切を渡ると、右手に鷹の台駅が見えたので、そちらに曲がってみました。
思った通り、駅前にコンビニがあり、そこでスポーツドリンクを購入。
しかし、玉川上水緑道に戻ってすぐ、右手に別のコンビニを見つけました。
寄り道をしなくても、すぐにあったんだー。
そこから、緑道は、広く、まるで林のように雰囲気のある道に変わりました。
玉川上水と並行して、小さい堀があり、そこも水が流れています。
ところどころにベンチもあります。
歩道の両側に樹木が立ち、歩道をおおっているので、晴れていても木陰の道でした。
湿った土の匂い、草の匂いが、マスクをしていも感じられます。
森林浴。
小さいザックを背負って、帽子をかぶった、ウォーキングスタイルの人が行き来しています。
ここは、今まで歩いた玉川上水緑道の中でも屈指の気持ちのよい道でした。
時間は13:30。
そろそろUターンする頃合いです。
何か目印になるところに来たら、戻ろう。
そう思って歩いていると、右手に公園が見えてきました。
小さい公園ですが、ここも静かで雰囲気の良い場所でした。
小平市立上水公園。
うん。ここを次回の起点としよう。
さて、Uターン。
今度は、川の右岸、南側を歩きます。
さきほどの左岸と違い、樹木が少ない道でした。
道幅は十分にあり、土の道で歩きやすいのですが、南側なので日当たりがよく、土が乾いています。
すぐ横の道路は、車はほとんど通りませんが、何だか味気ない。
向こう側を歩く人が多い理由がわかるような気がします。
歩いていき、鷹の台駅前の駐輪場を確認しました。
うん、次回はここに自転車を置けそうです。
2つの踏切を越えて、五日市街道と合流すると、上水の右岸は、全く未舗装の歩道でした。
左岸は緑道でも舗装されているので、この区間は右岸を歩いたほうが気持ちいいようです。
さらにてくてく歩き、小金井橋から左岸に戻り、正門から小金井公園へ。14:50。
駐輪した場所に無事に自分の自転車を見つけました。
すぐに上水の右岸に渡り、車通りの少ない道路を快適に走って、三鷹まで戻りました。
自転車でも多少歩数計は進み、合計で25,485歩。
秋晴れの1日を楽しく過ごせました。
2週間前、三鷹駅から小金井公園まで歩きました。
今日はその先を歩いてみよう。
そういうわけで、まずは自転車に乗って、小金井公園に向けて出発しました。11:00。
2週間前はてくてく歩いた玉川上水緑道。
それに沿った道を自転車で走ってみると、かなり距離があるのに驚きました。
むしろ逆なのじゃないかと思われるかもしれませんが、歩くこと自体が目的であるときは、長距離を歩いていても、何も感じません。
小金井公園に行くことだけが目的だと、自転車で走っていても、遠いのです。
玉川上水の左岸と右岸のどちらかが車で混雑した道路の場合は、そこを避けて走りました。
とにかく、五日市街道は避けるのが賢明。
そうやって走っていくと、車も少なく、直線距離の長い道が多く、自転車で走ると気持ちのよい道でした。
多摩湖歩行者自転車道のように、やたらに歩行者がいたり、信号が多かったり、ということもありません。
ストレスの少ない道でした。
小金井公園。11:30。
前日、小金井公園の駐輪場をネットで調べたのですが、見つかりませんでした。
駐輪場として指定されているところは特にないようです。
でも、自転車で来ている人も多いはずだがなあと正門から中へ。
奥へ入っていくと、自転車が大量に並んでいるところがありました。
子どもが遊ぶ場所近く、キッチンカーが並び、軽食や飲み物を売っています。
そこに駐輪し、さて、ここから歩き始めました。11:45。
玉川上水緑道・小金井公園前。
上水の左岸、北側をてくてく歩き始めました。
五日市街道沿いですが、歩道は舗装されていません。
土の道で歩きやすいです。
土の道を保存することに決めたのはいつのことなのかわかりせんが、英断だったと思います。
今よりも、環境に対する意識は低かったと思うのに、よく決断できたと思うのです。
舗装したほうが管理は楽でしょう。
先週歩いた、神田川自転車歩行者道は、がちがちに舗装されていました。
自転車道でもあるので、仕方ない面もありますが、舗装された道は、長距離歩くと、膝に腰に負担があります。
あの道も、川の片側だけでも舗装を剥がして、土の道に作り直したら良いのになあ。
ところがしばらく行くと、舗道の半分は舗装されて、自転車が横を走るようになりました。
それでも、半分は舗装されていないので、そこを歩けばいい、と思っていたら、やがて全て舗装されてしまいました。
えー、残念。
帰り道にわかったことですが、ここは、玉川上水の右岸の道が未舗装の土の道で歩きやすかったのです。
玉川上水を歩くときは、とにかく五日市街道を避けて反対側に回れば、良い歩道があるのですね。
桜橋交差点。
ここを左に行けば、国分寺駅。
昔、国分寺で働いていたことがあります。
考えたこともなかったけれど、これなら、国分寺まで、自転車通勤できたのかなあ。
やがて、五日市街道と別れ、その先、踏切。
そのあたりで気づきました。
水を忘れてきました!
これが山だったら大惨事でしたが、街を歩いているので、水はどこかで手に入るはず。
さらに歩いていくと、また踏切。
これは、西武国分寺線。
踏切を渡ると、右手に鷹の台駅が見えたので、そちらに曲がってみました。
思った通り、駅前にコンビニがあり、そこでスポーツドリンクを購入。
しかし、玉川上水緑道に戻ってすぐ、右手に別のコンビニを見つけました。
寄り道をしなくても、すぐにあったんだー。
そこから、緑道は、広く、まるで林のように雰囲気のある道に変わりました。
玉川上水と並行して、小さい堀があり、そこも水が流れています。
ところどころにベンチもあります。
歩道の両側に樹木が立ち、歩道をおおっているので、晴れていても木陰の道でした。
湿った土の匂い、草の匂いが、マスクをしていも感じられます。
森林浴。
小さいザックを背負って、帽子をかぶった、ウォーキングスタイルの人が行き来しています。
ここは、今まで歩いた玉川上水緑道の中でも屈指の気持ちのよい道でした。
時間は13:30。
そろそろUターンする頃合いです。
何か目印になるところに来たら、戻ろう。
そう思って歩いていると、右手に公園が見えてきました。
小さい公園ですが、ここも静かで雰囲気の良い場所でした。
小平市立上水公園。
うん。ここを次回の起点としよう。
さて、Uターン。
今度は、川の右岸、南側を歩きます。
さきほどの左岸と違い、樹木が少ない道でした。
道幅は十分にあり、土の道で歩きやすいのですが、南側なので日当たりがよく、土が乾いています。
すぐ横の道路は、車はほとんど通りませんが、何だか味気ない。
向こう側を歩く人が多い理由がわかるような気がします。
歩いていき、鷹の台駅前の駐輪場を確認しました。
うん、次回はここに自転車を置けそうです。
2つの踏切を越えて、五日市街道と合流すると、上水の右岸は、全く未舗装の歩道でした。
左岸は緑道でも舗装されているので、この区間は右岸を歩いたほうが気持ちいいようです。
さらにてくてく歩き、小金井橋から左岸に戻り、正門から小金井公園へ。14:50。
駐輪した場所に無事に自分の自転車を見つけました。
すぐに上水の右岸に渡り、車通りの少ない道路を快適に走って、三鷹まで戻りました。
自転車でも多少歩数計は進み、合計で25,485歩。
秋晴れの1日を楽しく過ごせました。
2020年11月05日
神田川自転車歩行者道を歩きました。2020年10月。
2020年10月24日(土)、神田川自転車歩行者道を歩きました。
今年度の第2・第4土曜日は、三鷹市の小・中学校は授業があります。
中学校はその後に部活動もある様子で、いつもなら昼から授業が入っている土曜日も、授業は夜から。
天気もいいので、歩いてくることにしました。
東京都区分道路地図を開いたら、印刷が消えかけているコピーが挟まれていました。
感熱紙コピーだったので、日光に当てなくても、経年劣化で文字がほとんど読み取れないほど薄くなっています。
これは、いつ挟んだものだろう。
全く記憶にありませんでした。
それは、「神田川自転車歩行者道」の記事でした。
自転車でここを走った記憶ならありました。
もう20年も前でしょうか。
代々木公園まで行ったのかな?
いや、最終的には、自転車ごと船に乗ってお台場まで行ったのかもしれません。
自転車よりも山のほうが楽しくなって、このコピーも挟んだまま忘れていたのでした。
20年ぶりに、この道を、今度は歩いてみることにしました。
まずは三鷹駅北口から、この前と同じ風の散歩道を歩きました。
前日の雨が今朝は晴れて、青空が広がっています。
雨あがりのせいか、草の匂いが強く、マスクを通しても感じられました。
思わず、深呼吸。
そして、井の頭公園へ。
土曜日でしたが、学校があるからか親子連れの姿は少なく、さほど混雑していませんでした。
池の東端、神田川の源流に着きました。
ここから、さらに東へ。
川を見失わないように歩いていきます。
ここは、まだ井の頭公園の一部なのかな?
小さな橋があったので、川の左岸、北側に渡りました。
川の両岸とも、道は舗装されていません。
このままこういう道が続くといいのだけれど、「自転車歩行者道」というのは基本舗装されているものです。
自転車の走り易さを考えたら、そういうことになりますよね。
あまり期待はしないことだと自分に言い聞かせ、歩き続けました。
予想通り、公園はすぐに終わり、舗装道路が始まりました。
レンガ風に飾られた舗装道路だったりする箇所もありますが、普通のアスファルト道も多いです。
車が来ない点は安心して歩けました。
神田川の右岸も同じくらいの幅の道が川の向こうに見えました。
行きと帰りで岸を変えたら、同じ道を帰るのも退屈せずに済みそうです。
高い柵越しに見える神田川は、深い底にあり、水量もわずかでした。
丈の高い草に覆われて、川面が見えないこともあります。
この川幅。
コンクリートでがちがちに固めた川の様子。
このくらい深くないと、もしものときに対応できないのでしょう。
安心の深さです。
神田川沿いは、井の頭線の沿線でもあります。
駅が近くなると、私鉄の駅前らしい雰囲気に変わりました。
小さなスーパーやドラッグストア、居酒屋。
小さな踏切。
しばらく行くと、神田川と井の頭線が交差し、川沿いの歩道は柵で塞がれていました。
鍵がかけられ、侵入禁止になっています。
あれ?
この先、歩けないのかな?
川よりも1本外側の普通の道をしばらく歩き、通り抜けできそうな道があったので川の近くのほうに入っていくと、また歩道は始まっていました。
川にかかる小さな橋を渡り、再び川の左岸を歩きます。
杉並区に入ると、川の柵には、ときおり、「7.4㎞」などの表示がありました。
これは源流からではなく、杉並区内の下流の端からの距離のようです。
だんだんと、表示された距離が短くなっていきました。
あとは、淡々と自転車歩行者道が続きました。
1時間半ほど歩いて、高井戸駅。
今日はこれくらいにして戻ろう。
橋で川を渡り、今度は右岸を戻りました。
右岸もずっと舗装された道が続きます。
しばらく行くと、樹木が鬱蒼と茂る高台に阻まれ、こちらも侵入禁止でした。
橋で左岸に戻り、対岸の樹木が途切れたところで、再び右岸に。
右岸は、小さな公園や有料駐輪場が点在していました。
「玉川上水350m」という大きな看板も。
しかし、これは書店の看板のようにも見えました。
書店まで350mということだろうか?
玉川上水まで350mだろうか?
真剣に見ないのでよくわからないまま、通りすぎました。
神田川自転車歩行者道は、全部舗装されているわりには、ウォーキングの人が結構歩いていました。
しかし、舗装された道は、膝や腰への負担がやはり大きいです。
この道は、自転車で走るのがいいなあ。
歩くなら、玉川上水緑道のほうが魅力があります。
土の道を保存した英断に、改めて感謝する気持ちになりました。
神田川も、左岸と右岸のどちらかだけでも舗装をはがして土の道にしたら、ウォーキングが趣味の人は喜ぶだろうなあ。
そんなことを考えながらの帰り道はやはり早く、あっという間に井の頭公園に戻ってきました。
土の道に一歩入ると、その柔らかさに驚きました。
足裏が喜んでいる。
膝も腰も。
舗装されていない道は、歩きやすいですね。
源流付近の神田川は、水底が浅く、すぐほとりを歩けるようになっていました。
上の写真がそれです。
飛び石が置かれた徒渉点も設置されていました。
すぐ先に橋もあるので、川遊びのために設けられた徒渉点なのでしょう。
両岸とも公園になっていて、家族連れがレジャーシートを敷いて、のんびりしていました。
午後になって、やはり人が増えてきた様子です。
恩賜公園から、万助橋へ。
風の散歩道を三鷹駅に戻りました。
歩数計は、24,284歩。
ちょっと足裏が痛くなりました。
左のお尻が凝りました。
次回は、また土の道を歩きます。
今年度の第2・第4土曜日は、三鷹市の小・中学校は授業があります。
中学校はその後に部活動もある様子で、いつもなら昼から授業が入っている土曜日も、授業は夜から。
天気もいいので、歩いてくることにしました。
東京都区分道路地図を開いたら、印刷が消えかけているコピーが挟まれていました。
感熱紙コピーだったので、日光に当てなくても、経年劣化で文字がほとんど読み取れないほど薄くなっています。
これは、いつ挟んだものだろう。
全く記憶にありませんでした。
それは、「神田川自転車歩行者道」の記事でした。
自転車でここを走った記憶ならありました。
もう20年も前でしょうか。
代々木公園まで行ったのかな?
いや、最終的には、自転車ごと船に乗ってお台場まで行ったのかもしれません。
自転車よりも山のほうが楽しくなって、このコピーも挟んだまま忘れていたのでした。
20年ぶりに、この道を、今度は歩いてみることにしました。
まずは三鷹駅北口から、この前と同じ風の散歩道を歩きました。
前日の雨が今朝は晴れて、青空が広がっています。
雨あがりのせいか、草の匂いが強く、マスクを通しても感じられました。
思わず、深呼吸。
そして、井の頭公園へ。
土曜日でしたが、学校があるからか親子連れの姿は少なく、さほど混雑していませんでした。
池の東端、神田川の源流に着きました。
ここから、さらに東へ。
川を見失わないように歩いていきます。
ここは、まだ井の頭公園の一部なのかな?
小さな橋があったので、川の左岸、北側に渡りました。
川の両岸とも、道は舗装されていません。
このままこういう道が続くといいのだけれど、「自転車歩行者道」というのは基本舗装されているものです。
自転車の走り易さを考えたら、そういうことになりますよね。
あまり期待はしないことだと自分に言い聞かせ、歩き続けました。
予想通り、公園はすぐに終わり、舗装道路が始まりました。
レンガ風に飾られた舗装道路だったりする箇所もありますが、普通のアスファルト道も多いです。
車が来ない点は安心して歩けました。
神田川の右岸も同じくらいの幅の道が川の向こうに見えました。
行きと帰りで岸を変えたら、同じ道を帰るのも退屈せずに済みそうです。
高い柵越しに見える神田川は、深い底にあり、水量もわずかでした。
丈の高い草に覆われて、川面が見えないこともあります。
この川幅。
コンクリートでがちがちに固めた川の様子。
このくらい深くないと、もしものときに対応できないのでしょう。
安心の深さです。
神田川沿いは、井の頭線の沿線でもあります。
駅が近くなると、私鉄の駅前らしい雰囲気に変わりました。
小さなスーパーやドラッグストア、居酒屋。
小さな踏切。
しばらく行くと、神田川と井の頭線が交差し、川沿いの歩道は柵で塞がれていました。
鍵がかけられ、侵入禁止になっています。
あれ?
この先、歩けないのかな?
川よりも1本外側の普通の道をしばらく歩き、通り抜けできそうな道があったので川の近くのほうに入っていくと、また歩道は始まっていました。
川にかかる小さな橋を渡り、再び川の左岸を歩きます。
杉並区に入ると、川の柵には、ときおり、「7.4㎞」などの表示がありました。
これは源流からではなく、杉並区内の下流の端からの距離のようです。
だんだんと、表示された距離が短くなっていきました。
あとは、淡々と自転車歩行者道が続きました。
1時間半ほど歩いて、高井戸駅。
今日はこれくらいにして戻ろう。
橋で川を渡り、今度は右岸を戻りました。
右岸もずっと舗装された道が続きます。
しばらく行くと、樹木が鬱蒼と茂る高台に阻まれ、こちらも侵入禁止でした。
橋で左岸に戻り、対岸の樹木が途切れたところで、再び右岸に。
右岸は、小さな公園や有料駐輪場が点在していました。
「玉川上水350m」という大きな看板も。
しかし、これは書店の看板のようにも見えました。
書店まで350mということだろうか?
玉川上水まで350mだろうか?
真剣に見ないのでよくわからないまま、通りすぎました。
神田川自転車歩行者道は、全部舗装されているわりには、ウォーキングの人が結構歩いていました。
しかし、舗装された道は、膝や腰への負担がやはり大きいです。
この道は、自転車で走るのがいいなあ。
歩くなら、玉川上水緑道のほうが魅力があります。
土の道を保存した英断に、改めて感謝する気持ちになりました。
神田川も、左岸と右岸のどちらかだけでも舗装をはがして土の道にしたら、ウォーキングが趣味の人は喜ぶだろうなあ。
そんなことを考えながらの帰り道はやはり早く、あっという間に井の頭公園に戻ってきました。
土の道に一歩入ると、その柔らかさに驚きました。
足裏が喜んでいる。
膝も腰も。
舗装されていない道は、歩きやすいですね。
源流付近の神田川は、水底が浅く、すぐほとりを歩けるようになっていました。
上の写真がそれです。
飛び石が置かれた徒渉点も設置されていました。
すぐ先に橋もあるので、川遊びのために設けられた徒渉点なのでしょう。
両岸とも公園になっていて、家族連れがレジャーシートを敷いて、のんびりしていました。
午後になって、やはり人が増えてきた様子です。
恩賜公園から、万助橋へ。
風の散歩道を三鷹駅に戻りました。
歩数計は、24,284歩。
ちょっと足裏が痛くなりました。
左のお尻が凝りました。
次回は、また土の道を歩きます。
2020年11月02日
間違えた問題から学ぶ。
中学1年生の場合、2学期は下降傾向が続くことがあります。
1学期の定期テストは80点台だったのに、2学期中間は60点台、期末はさらに下がってしまう、というように。
これは、1学期の成績が良すぎたからであり、2学期以降の成績が本人の実力ということが多いのです。
英語も数学も、中学1年の1学期は、まだ内容も易しく、誰でも高得点を取ることが可能です。
中1の1学期の成績は幻なのです。
ところが、小学校のカラーテストの得点と、中1の1学期の定期テストの得点がよく似た点数のため、そこが地続きであるような印象を本人も保護者の方も抱いてしまうことがあります。
だから、2学期での急落に驚きます。
小学校のカラーテストがほとんど80点台、90点台だったとしても、中学のテストが60点台なのは、よくあることです。
中学生になって急に学力が下がったわけではありません。
テストのレベルや目的が違うのです。
小学校のカラーテストは、基本が身についていることを確認するためのものです。
誰でも100点を取ることが可能なように設計されています。
小学校で得点分布データが示されることはないでしょうが、最頻値は80点台から90点台だったはずです。
一方、中学の定期テストは、学力を測るためのものです。
平均点が65点前後で、中央値と平均値と最頻値がほぼ一致する、美しいヒストグラムが作られるのが理想です。
実際には、なかなかそうはならないのですが。
「うちの子、小学校のテストはいつも80点台か90点台だったし、中1の1学期も80点台だったけれど、2学期の中間テストは60点台、期末テストはさらに下がった・・・」
そのように嘆くのは、ちょっと違います。
むしろ、中学のテストで60点台以下になるだろう学力の子が、小学校のカラーテストで80点、90点を取っていたのだと考えたほうがいいのです。
学力は下がっていません。
変わっていないのです。
では、その得点は、運命なのか?
いいえ。
テストの得点が下がるだけ下がり、実力がわかったところで、そこからが勝負です。
小学生のような気分で勉強していたらダメなことは、もうわかったと思います。
ザルで水をすくうような勉強をしていると、今後も下がります。
中1の3学期は少し持ち直す子が多いですが、中2になると、さらに、中1でも取ったことのないような低い点を取る子もいます。
中2の2学期、悪夢のような「底」の「底」が待っています。
小学生のような勉強。
ザルで水をすくうような勉強。
成績の上がらない子は、勉強のやり方が悪いのです。
彼らの勉強のやり方は、それをやったらダメだというNG集のようです。
例えば、定期テストの範囲である、学校のワークや問題集。
間違えた問題は赤ペンで直して提出。
それは学校から指示されています。
しかし、その指示の本質を理解していないのです。
最初から解答解説を横に開いて、それを見ながら解き、全部丸をつけて提出する子がいます。
自分で解いて間違えてしまった場合も、自分の答は消しゴムで消して書き直し、丸をつけて提出する子もいます。
全部正答したことにして提出するという謎の行動は、真面目に勉強しているように見えるのに成績の上がらない子に多い傾向です。
誤答の多いワークを提出すると、学校の先生に「この子は勉強ができない」と思われてしまうから?
いや、学力は知られていますから、そんなことは気にしなくていいのです。
学校の先生が成績をつける際の、提出物に対する加点は、本人に解答を渡してある場合は、やってあれば全員同じ加点です。
丸が多い子に多くの点を与えるということはないのです。
ワークはバツだらけだが、テストは頑張って得点している。
この子は、努力して勉強している。
そういう子のほうが、むしろ印象が良いのです。
しかし、まだ子どもなので、それを理解できないのでしょう。
うわっ面にこだわってしまいます。
もっとも、さらに勉強が苦手な子になると、学校のワークの解答解説を管理することができず紛失してしまう子もいます。
解答を持っていても、「赤ペンで直して提出」という先生の指示に従うことが上手くできない子もいます。
解いていないところが多かったり。
丸つけをしていないワークを提出したり。
あるいは提出しなかったり。
そうやって、さらに成績を下げてしまうこともあります。
ただ、むしろ、そうした子は、学習上の課題が外からも見えやすいのです。
こうした課題が簡単に解決するとは限らないものの、何が原因であるかは明瞭です。
ワークは全部正答の形で提出し、テストの点数は60点台あるいはそれ以下、という子のほうが、問題の根が深いように思います。
課題が表面化しづらく、保護者の方の目からは、真面目に勉強しているように見えてしまうからです。
真面目に頑張っているのに、何で成績が上がらないのかしら?
・・・いや、上がるわけがないです。
テスト勉強というと、解答解説を見ながらワークを解くこと。
そうして、それに全部丸をつけて、正答したかのような形にしてしまう。
あとは、教科書や学校の授業ノートをきれいに書き写しただけのノート作り。
市販の問題集があれば、それも解答解説を見ながら解く。
それが、テスト勉強の全て。
それ以外に、何をしたらよいか、わからない・・・。
そんな勉強で、成績が上がるわけがありません。
仕方ないのです。
小学校のカラーテストのための勉強も、何をしたらよいかよくわからなかったはずです。
教科書準拠の市販のワークを持っている子は、漫然とそれを解いたり。
通信添削をやっている子は、漫然とそれを解いたり。
それだけで、でも、結構良い点が取れたと思います。
小学校の学習内容は易しいので、ザルですくうような学習でも、ザルに結構引っかかるのです。
家庭学習のやり方を自分で考えて実行しなくても、大丈夫だったのです。
中学に入って、急に学習方法を考えろと言われても、何をどうしていいかわかるわけがありません。
彼らは「学習する」ということの本質を理解していないのです。
そして、それはあまりにも本質であるため、言語化しにくく、それがわからない子には、なかなか伝わらないことなのです。
勉強が得意な人に勉強法を尋ねたら、標準的な答は、
「テスト勉強?まず、教科書や参考書や授業ノートを読んで、公式や重要事項を覚えて、それから問題を解く。間違えた問題は、赤ペンで答を直して、印をつけて、後で解き直すといいんじゃないかな」
といったものではないでしょうか?
その返答は、何も間違っていない。
しかし、勉強のやり方を知らない子にとっては、それは表面的な「作業」の伝達でしかなく、本質は伝わっていかないのです。
勉強が得意な子は、間違えた問題、解けなかった問題から多くのことを学び取ります。
自分がミスをしやすい箇所に気づく。
解き方のパターンや法則を把握する。
公式や定理の活用の仕方を把握する。
発想法を学ぶ。
無言で解答解説を読んたり書き写したりしているだけに見える作業の中に「学習」の本質があります。
学校の先生が、ワーク・問題集は丸つけをして赤ペンで直しなさいと要求していることの本質は、そういうことです。
間違えた問題は解き直しなさい、と要求していることの本質も、そういうことです。
しかし、それを理解していない子どもたちがいます。
わからないとすぐ解答を見ているようでは、「考える」とか「発想する」ということが何をどうすることなのかを学ぶことができません。
数学では、立式するまでが最重要であるのに、そこまでは解答を写し、その先の計算だけ自分でやって、勉強した気になってしまうのです。
理解したからいいだろう、これは自分で解いた問題だと、丸をつけてしまいます。
そして、テスト当日、自分が何も解けないことに愕然とする・・・。
公式だけは丸暗記しても、使い方を知らないことに、テスト当日になって気づくのです。
「赤ペンで直しなさい」という作業の意味を理解していない子は多いです。
そうした子にとって、正答を書き写すことは、本当にただ書き写すことなのです。
正答の内容を理解しようとか、自分が間違えた原因は何かとか、何が大事なことなのか、といったことは考えていません。
そんなふうだから、自分の誤答を書き直して丸をつけ、間違えたという事実を消してしまうという暴挙に出るのでしょう。
間違えた問題の価値をわかっていないからそうするのです。
間違えたことを、自分の記憶の中ですら消してしまいます。
そうして、大切な学習の機会を自ら失っていきます。
塾の授業でも同じです。
「あなたは、前回も、こういう問題のここのところを間違えていましたよ」
と私が指摘すると、何て嫌なことを言う人だろうと驚いた顔をするか、ごまかし笑いをするか、全く身に覚えがないのできょとんとした顔をするか、です。
そして、同じような問題の同じようなところを同じように間違い続けます。
自らの学習能力を封印しているかのように。
自分は何が出来、何が出来ないのか。
自分の課題は何か。
この問題から学ぶべきことは何か。
勉強が得意な子は、それを自力で分析し、改善します。
そうすることが学習の本質だとわかっているのです。
しかし、勉強が苦手な子は、間違えた問題から何かを学ぶということが上手くできません。
間違えた問題を解き直す習慣も持っていません。
自分の答を書き直し、丸をつけるだけです。
なぜそのような行動をとってしまうのかといえば、結局、理由は「勉強が苦手だから」なのでしょう。
勉強が苦手なことを隠したい。
認めたくない。
そうした気持ちが強いので、間違えた問題にバツをつけたり印をつけることさえできないのだと思います。
印をつけなさいと言われると、恥をかかされた、罰を受けた、と感じるのか、表情の歪む子もいます。
「間違えた問題は印をつけて、後で解き直すと力がつきますよ」
そのように、なぜ印をつけるのかを説明しますが、私が言わないと印をつけることが習慣にならない子が、勉強が苦手な子には多いです。
そして、言われたとおりに印をつけたとしても、助言通りに家に帰って解き直しをしているのかどうか・・・。
あるいは、言われた通りに解き直しているのだとしても、それは意味のある解き直しになっているのかどうか・・・。
同じことをまた同じように間違えているだけなのではないか?
先日、遅ればせながら『鬼滅の刃』を見ました。
味わい深いと思ったのは、主人公が同期の仲間に「全集中の呼吸・常中」という技を教える場面でした。
「肺をこう。こうやって大きくするんだ。血が驚いたら、骨と筋肉がブオンブオンて言ってくるから、留めるんだ」
・・・何を言っているのか、さっぱりわからない・・・。
奥義というものは、言葉にしても、本質が伝わりません。
学習能力も、それを会得していない子にとっては、同じようなものなのかもしれません。
勉強が得意な子は、数学の問題を1題間違えた際、解答解説を読み取る中で、そこで使われている公式もテクニックも発想法も習得します。
英語の問題を1題間違えた際、そこで扱われている文法事項や重要表現の何をどう自分が間違えたのか、習得します。
だから、類題を解くときには、習得した内容を活用して、今度は正答します。
しかし、勉強が苦手な子は、類題を解いても、同じことを同じように間違えてしまいます。
「同じことを同じように間違えている」と指摘されても、何がどう同じなのかわからないのかもしれません。
自ら学べないだけでなく、何をどう間違っているかを解説されても、習得できないことすらあります。
その後に類題を解いても、また同じことを同じように間違えてしまうのです。
間違えた問題から学ぶ。
それが学習の奥義です。
「間違えた問題があったら、解答解説を読むんだ。そうすると、大事なところがパッとわかるから、それを脳に入れると、他のこととブワンブワンとつながって、次に同じような問題を見たら解けるんだ」
・・・勉強が苦手な子にとっては、こんな説明を聞いても、訳がわからないと思います。
何をどうすることなのか、わからない・・・。
解答解説を読んでも、大事なところなどわからない。
次に同じような問題を見ても同じだとわからないし、解けない。
奥義にアクセスすることができないのです。
そうするうちに、学習した当初は自力で解いていた基本問題も解き方がわからなくなって解けなくなっていく子も多いです。
勉強が苦手な子は、間違えた問題だけを解き直していても、学習は完成しません。
もう一度、その単元の最初から解き直してみると、解けなくなっている問題が多いのです。
学習した当初は例題をなぞって正解した問題も、記憶にとどめていないので、時間が経過すれば解けなくなっています。
重要なことを識別し長く脳に留めておくという技術を身につけていないのでしょう。
勉強した内容はすぐに忘れてしまいます。
脳の空き容量を常に大きくしておくことが最優先であるかのように。
脳の使い方が違う。
脳の出来が違うのではないと思います。
脳の使い方が違うのです。
それを教えるのが個別指導です。
入会当初は自分の誤答を書き直して丸をつけるような暴挙に出ていた子に、不毛に感じるほどに繰り返し繰り返し間違えた問題には印をつけさせ、解き直すように指示します。
あわせて、類題を宿題に出します。
同じような問題が同じように解けないときも繰り返し繰り返し説明し、なぜ正答が増えないか、本人が開眼するのを辛抱強く待ちます。
生徒が把握できないことは私が把握し、学習を設計し、テスト直前まで、解ける問題と解けない問題を区別し続け、何が出来、何が出来ないか、何が課題かを説明し続けます。
何が重要で、何をどう考えて問題を解くのかを教え続けています。
自立して学習できるようになるまで。
中1の2学期、あるいは中2の2学期、「底」を見た生徒が、これまでも多く入会してくれました。
入会時は40点台。
いったん底を見たところから、今は80点台に上がった人もいます。
次のテストではまた下がるかもしれません。
しかし、40点台になることは、もうないでしょう。
ザルで水をすくうような勉強は、もうしていないですから。
他の子も、それぞれに回復を図り、今回のテストでは40点台はなくなりました。