2024年02月25日
質問しても、しなくても、大丈夫。
勉強が上手いか下手かというのは、ほんのちょっとした差です。
相変わらず、私は、NHKラジオ講座「ラジオ英会話」を聴き続けています。
番組の中で、例えば、look という動詞についての解説があります。
look という動詞の意味は「見る」。
何を見るのか、見る対象を点としてとらえているから、look at。
だから、at という前置詞をつける。
また、見ながら後をついていくというイメージだから、look after は、「世話する」「面倒をみる」。
まさに、幼児がよちよち歩いていくのを後ろからずっと見ているようなイメージです。
熟語の語感や成り立ちを大切にすることで、簡単に暗記ができます。
うん。
わかりやすい。
面白い。
でも、こういう授業を個別指導でやると、失敗することもあります。
ラジオ講座は、一方向のもの。
言いっぱなしで済みます。
聴いた側が、「面白い。理解した」と思えばそれでいい。
それで聴き手がその熟語を1つでも覚えられたら、それで良いのです。
しかし、個別指導は、双方向性のものです。
質問が返ってくる可能性があります。
「じゃあ、同じ世話をするという熟語でも、take care of は、何で of なんですか?」
「look for という熟語はなんで for なんですか?」
「look to という熟語はありますか?」
「look on は?」
「look in は?」
怒涛のように質問してくる子が、個別指導の場合は、存在します。
何かが頭の中に浮かぶと、すぐに何でも質問してしまうのです。
生徒が知的好奇心旺盛なのは良いことです。
だから、個別指導において、生徒の質問にはできるだけ答えます。
しかし、あれこれ何でも質問した翌週、その子は、覚えてほしかった重要熟語 look after の意味を覚えているかというと。
残念ながら、その可能性は低いのです。
余計な質問を沢山する子は、大事なことを覚えていないことがあります。
余計な質問をし過ぎたために、印象が薄れてしまうのでしょうか。
沢山質問したのに、大切なことを覚えていない。
質問をいっぱいできて楽しかった記憶はある。
でも、質問の回答は何1つ覚えていない。
そんな、5歳児みたいな子も、います。
思いつきの質問をとにかく沢山することが「良い学習態度」だと、おそらく就学前か小学生の頃に間違って「学習」してしまったのかもしれません。
これは私の説明の癖ですが、順番に根拠を示し、理由から話し始めることがあります。
AだからBで、BだからCで、CだからDになるんですよ。
そのように解説するとき。
私が結論を話し終わるのを待っていたかのようなタイミングで、
「なぜですか?」
と尋ねてくる子がかつていました。
皆で一斉にそう発声することがお約束であるような、独特の抑揚でした。
「・・・今、説明しましたよね?」
「え・・・」
積極的に質問したから当然褒められるはずなのに、変な顔をされた・・・。
その子は、明らかに、驚いていました。
「では、もう一度説明しますね」
「・・・」
入塾して半年ほどの間は、そうしたことが繰り返され、その子の成績は上がりませんでした。
そういう観点で振り返ると、小学生が国語の授業で読む説明文には、「なぜかというと」という語句が使われているものが結構あります。
いかにも幼稚な文章ですが、それを書かないと、以降は理由の説明部分であるということが、わからない子が多いからでしょう。
小学生は、まだ読解力が低いですから。
「なぜかというと」が合図で、その後に理由が説明されている・・・。
しかし、そのように学習すると、中学に進学して以降、そのような構造ではない、大人の読む評論をほとんど読解できない子が現れます。
大人の評論は、理由を説明していても、「から」や「ため」という語すら使っていないこともあります。
それでも、理由は説明しています。
文脈を読めば、どこが理由の説明かは、わかるのですが、そういう読解を要求されても、できない子たちがいます。
小学生の読解テクニックで大人の文章を読もうとしても無理があるのですが、小学生の頃に成功した受験テクニックを捨てられないのかもしれません。
いずれにせよ、文章でも、口頭でも、結論が先に述べられて、その後に理由を説明されることに、慣れている。
理由から話し始めても、何の話をされているのか把握できない子たちがいます。
理由を言うときには、「なぜかというと」というふうに、「今から理由を説明しますよー」と合図を送らないと、理解できない・・・。
私も話し方に気をつけるようになり、一方、その子も、説明し終わった後で「なぜですか?」と訊いてくるような頓珍漢なところは減っていきました。
それは、
「なぜですか?」
と抑揚をつけて質問することに一所懸命になる必要がなくなったことも一因のような気がします。
何か質問しなければならない、という妙な思い込みがなくなり、黙って聞いていていいんだ、聴くことだけに集中していいんだと理解した頃から、説明を一度で理解できるようになっていったように思います。
以後、その子から質問を受けることはほとんどありませんでしたが、対話は可能でした。
私からの問いかけには答えられたので、理解していることが把握できました。
成績は徐々に上がっていきました。
しかし、わからないことは、質問するのが最善です。
それができない子もいました。
わからないのに、わかったふりをします。
わからないままなので、宿題を解こうとしても、わからない。
だから、宿題は、親に訊いて解いている様子でした。
宿題は、ほとんど正解。
「宿題について、質問はありますか」
と尋ねても、
「ありません」
という返事。
これは、保護者の方が、宿題の面倒を見ることをもう止めたいと思わないでいてくださったので、何とか上手くいきました。
無論、本当はわかっていないことを、教える側も知っていることが前提です。
本当は、わかっていない。
でも、それを言えないらしい。
では、もっと丁寧にやっていこう。
前回の授業の復習から、ゆっくりやっていこう。
質問できない子は、質問しなさいと叱っても、質問はできないままのことが多いです。
「質問できない子」は「質問する必要のない子」に変わっていけるように、教える側が注意を払っていくことが必要になります。
質問は一切しないけれど、頭の中は疑問でいっぱい、という子もいます。
最近は、そういう子のほうが多いかもしれません。
私が、上のように look after の説明をしたとします。
しかし、本人は、そこで、look for のことを連想し、それについて考えています。
なぜ、for なのだろう?
それをずっと考えているのですが、質問はしません。
個別指導を受けている途中でも、独りで考えています。
当然、その後の授業は聞いていません。
あるいは、その後の授業に集中できません。
ならば、質問すればいいのに、それもしません。
「何か質問がありますか?」
とこちらから尋ねれば解決するのか?
多くの場合、そうではありません。
そういうときも、首を横に振り、質問はしないのです。
でも、本人は、look for のことが気になって、その後の学習に集中できないのです。
「look for のことを考えていますか?」
と、ここまで具体的にこちらが気がついて質問すれば、表情が輝きます。
以後は、質問をしてくれるようになるかもしれません。
講師は、人の心が読めるわけではないので、なかなかそこまで気づかないですが・・・。
まだ十代なので、人間関係への過剰の期待もあるのでしょう。
心で思っているだけでは、相手には伝わらない。
言葉にしないと、無理なんですよ。
そんなことも、十代のうちは、それでも、言葉にしなくても伝わる関係に憧れる、ということもあるのかもしれません。
ともあれ、その翌週。
look after の意味を、その子は、覚えていない・・・。
その後の授業に集中できないほど考えていたのだから、覚えていてもいいはずなのに、覚えていない・・・。
不器用というのは、そういうことなのかもしれません。
質問に良い質問も悪い質問もない。
回答に良い回答とくだらない回答があるだけです。
これは、私の座右の銘です。
勿論、質問することは、良いこと。
ただ、
「沢山質問しなさい」
と教えられているのみで、質問して得た回答をどう活用するかを教わっていないと、質問も回答も無駄に終わってしまうことがあります。
むしろ、質問することを探すのに必死で相手の話をよく聞いていないという本末転倒なことすら起こります。
「積極的に質問する」とは、何をどうすることなのか。
それを理解していなければ、助言を誤解し、間違ったことをやり続けてしまいます。
学習するということの本質を体得していない限りは、そうなります。
思いつきの質問をいくらしても、それで学力が伸びることはないのです。
思いつきではなく、本心からの根本の問いとして、例えば、
「なぜ、三単現のときは、動詞にsをつけるんですか」
という問いかけを、もしも生徒がしてきたなら。
その問いこそが、その子にとって英語がよくわからない根本だったなら。
私がそれに応えることができたら、何かが変わる。
それをきっかけに、爆発的に英語力が伸びる可能性があります。
2024年01月16日
共通テストで失敗したと感じたら。2024年1月。
共通テスト、あるいはその前のセンター試験の思い出といえば、生徒が英語で失敗したことです。
うちの塾で英語も数学も学習していた子と、数学のみだった子と、2人、時期は違いますが、それぞれ東京外語大に進学した子たちがいます。
どちらも、英語は得意だったのですが、なぜかセンター試験、あるいは共通テストの英語でしくじっていました。
・・・何で?
2日目の数学で起死回生の挽回を図り、二次試験も頑張って、無事に志望校に合格していきましたので、めでたしめでたし。
だから、あまり気にしなかったのですが、よく考えたら不思議な話でした。
模試でも、過去問を解いても、9割以上は得点していた子たちでした。
それが、なぜ、センター試験・共通テストで失敗したのか?
そして、なぜ、そんなに得意ではない数学で挽回したのか?
考えてみて、ようやく気づいたのは、その子たちは、共通テスト前の2週間ほど、苦手科目ばかり勉強していたのかもしれない、ということでした。
得意科目は、得意だから、もう大丈夫。
苦手科目のほうがどうしても気になる。
苦手科目で、どうしても、あと10点ほしい。
そして、苦手科目のほうが、科目数も多い・・・。
暗記教科は最後まで気になるし・・・。
そこで、ついつい、英語の学習が後回しになったのではないか・・・?
どれほど得意科目でも、2週間も放置したら勘が鈍ります。
スピードも、解析力も、微妙に下がって、何より、そのことに本人が動揺します。
語学は、継続以外に力を持続できる方法はないのです。
考えてみたら簡単なことでした。
注意を喚起し、声をかけるべきでした。
それに気づかなかったのは、私はそういう勉強のやり方はしないからでしょうか。
得意科目も苦手科目も、順番にまんべんなくやるタイプだったのです。
1週間の予定表を立て、1科目を1時間勉強したら、ノートに描いた棒グラフをひとマス分塗っていました。
何かの影響で、あまり勉強していない科目があれば、予定を立て直し、同じ時間になるように調整しました。
何でそういうふうにしていたのか?
これは性格的なことでしょう。
それで問題が生じなかったから・・・としか説明のしようがありません。
むしろ、そんなやり方のほうが、「何で?」と思われるのだろうと思いますし、そこまで厳密に学習時間を同じにしなくていいと思います。
そして、直前に苦手科目ばかりに時間をかける人の気持ちも、わかるのです。
得意科目は、もう93点が94点になるかどうかの話で、これ以上の伸びはないだろう。
でも、苦手科目なら、直前に頑張れば、あと10点、もしかしたら20点、伸びるかもしれない。
また、苦手というわけではなくても、暗記科目は、直前に時間をかけたい。
考えれば、その気持ちは、わかります。
でも、気づいてほしいのです。
得意科目は、長期間放置しておくと、93点が73点に下がってしまう可能性があることに。
特に、英語は。
とはいえ、この助言は、たとえ事前に行ったとしても、聞き入れてもらえる種類のものではないのかもしれません。
自分で失敗して、ようやく理解できることなのだと思うのです。
ただ、だからといって入試自体の失敗に結びつくものでもない。
希望は濃いのです。
本質的には得意科目なのですから、二次試験までに立て直し、得意科目にも力を入れれば、問題はありませんでした。
共通テストの得点なんて、合否判定では圧縮されます。
93点も、73点も、圧縮されれば大差ありません。
二次試験は科目数も減ります。
ここで、得意科目がどれほど得意科目であるか、披露してみせればいい。
そうやって、みんな合格していきました。
さて、一方、苦手科目は?
数学が苦手科目という人は多いです。
たとえ得意科目で失敗しても、それを挽回できるくらいに、数学は、得意ではなくても苦手ではないというところまでは仕上げたい。
とはいえ、数学の苦手を苦手でなくすのは、英語以上に難しいことです。
数学が苦手になるに決まっているコースを、本人が小学生の頃から見事に歩んでいる、という場合が多いからです。
しかも、本人自身の選択で。
小学校低学年で、算数は、理解するよりも暗記するようになってしまう子が多いのは、これまでも繰り返し書いてきました。
この単元は、かけ算。
こういう問題なら、わり算、というように解き方を覚えてしまうのです。
公式を覚えて、それに当てはめるだけ。
意味を考えないで、それをやってしまうのです。
問題文をろくに読まないで式を立てて解いてしまうようになります。
何の実感もなく。
小学校の低学年から。
そして、中学受験をします。
受験算数もまた、暗記、暗記、暗記。
典型題の解法の丸暗記。
それしか、勉強のやり方を知らないのです。
そのやり方では、受験算数は難しくて、苦手意識ばかりが募ります。
とはいえ、第一志望とはいかないものの、中学に合格する子が大多数です。
算数は苦手なままだったけれど、他の科目でカバーして、合格します。
さて、その後・・・。
この先も、数学が苦手になる一本道が待ち構えている場合があります。
これも、もう何度も書いてきました。
私立は、そもそも、学校の進度が速い。
中学1年生の1年間で、中1・中2の数学を終えます。
それも、「代数」「幾何」の2科目に分けて一気に進んでいきます。
学校の教科書は、文科省認定のものではなく、『体系数学』などの、ハイレベルなもの。
問題集も、『体系問題集・発展編』などの、ハイレベルなもの。
定期テストは、学年平均点が40点台。
数学は得点が低いのが当たり前となり、それに慣れてしまいます。
できなくて当然の科目になるのです。
問題集のレベルが本人に合っていないため、易しい問題ですら混乱して、わからなくなっていきます。
しかも、まずいことに、本人は受験がやっと終わって遊びたい気持ちが強いので、学習意欲が低い。
あっという間に数学がわからなくなります。
さらに、困難は続きます。
幾何の教科書が、学校の独自テキストの場合があり、これがわかりにくいのです。
素人がパソコンで編集しました、というようなレイアウトなので、つまらないし、見にくい。
実は、幾何は、普通のことを普通の順番で学習しているだけなのに、テキストが独自なため、何か特殊なことを学習しているように本人が誤解し、「だから普通の参考書などでは勉強できないので、もう仕方ない」と思ってしまう・・・。
幾何は勉強のやりようがないと思い込んで、捨ててしまいます。
しかし、私立中学側も、企業努力をしないわけではないので、上のような点はこの10年ほどでかなり改善されました。
幾何の学校独自テキストは、激減しました。
諸悪の根源だったので、これが何よりありがたい。
『体系数学』などの難解な教科書を採択する学校も随分減りました。
あるいは、使ったとしても、中学数学の内容までの学校が多いです。
高校数学は、文科省認定の数学の教科書を使用するのです。
問題集も、ごく普通です。
むしろ、都立高校で採択されているものよりも易しい問題集を採択している私立高校も多いです。
無理をしない。
無理をさせない。
数学に苦手意識を持たせない。
定期テスト問題も、易しくなりました。
私立の数学のテストは、正直言って、公立の数学のテストよりも簡単なことがあります。
結構有名な進学校で、ここに入れたら大喜びだろう私立の数学のテストがこんなに易しいのか・・・と驚くことがあります。
本当に基本中の基本問題、そして、応用問題ならこれが出ると予想される典型題が、丁寧に出題されています。
そうやって保護して保護して、数学ができるような気分にさせて、何とか大学受験に向かわせる。
必ずしも間違ってはいない。
良い教育姿勢だと思います。
10年前までの、大多数が数学が嫌いになるような数学スパルタ教育がされていた頃とは時代が変わりました。
過半数は、推薦入試か総合型選抜で大学に行くので、それで大丈夫なのですし。
一般受験をするにしても、大学入試問題も、数学は年々易化しています。
英語の爆発的難化とは対照的です。
しかし、そうであってすら、数学が苦手な子は存在します。
それは、小学生の頃から、本質を理解する学習をしてこなかった子たちです。
意味を考えない学習を、ずっとやってきた子たちです。
あまりにも算数がわからなくて、そうやってやり過ごすしかなかったからなのか。
理解しようと思えばできたのに、理解せずに覚えたほうが楽だと判断して、それが習い性になってしまったのか。
その結果。
中学数学になると。
数直線がわからない・・・。
座標平面がわからない・・・。
関数がわからない・・・。
意味を理解せずにやり方だけ覚えてきた子たちは、数学そのものにアクセスできないので、苦手が長引きます。
数直線上の2点間の距離を一目で把握できず、例えば、-2-(-4)といった式を立てて解くしかなく、それで符号ミスをしてしまい、距離が-2になっても、自分が間違えていることに気づかない子。
高校生になっても、y軸上の点のy座標はゼロだと思ってしまう子。
イコールの意味がわかっていないので、3/4x+6/5xといった、係数が分数の文字式全体を何倍かして分母を払ってしまう子。
y=-2x-4 のグラフは、感覚的に、途中から y がプラスになって大きくなっていきそうに思えて、グラフが直線だと言われても納得できず混乱する子。
数学オンチとでも呼ぶべき、そういう「感覚」のおかしさは、数学的な基盤がないことからくるのだろうと思うのです。
そして、その基盤は、本当は小学生の頃に言語化されないレベルで頭の中に蓄積されているものなのですが、学習のやり方が悪かったために、それが行われなかったのだと思います。
それを改善していくための対話。
そして、意識を改革していくための暗記ではない学習。
正しい情報の脳への刷り込み。
そうしたものが必要です。
数学が好きかどうかは別として、数学がわかるようになってください。
共通テストで、あなたを救うのが、予想もしなかった数学であることは、案外あるかもしれないのですから。
2023年11月24日
「覚える」ということが、何をどうすることか、わからない。
画像は、都立小金井公園のコスモス。
さて、一度で理解して以後二度と忘れない子。
何回解説してもほとんど覚えない子。
個別指導の特徴なのでしょうが、その中間という子は少なく、生徒はどちらかに偏ります。
英語が苦手、と漠然と言いますが、英語が苦手な子は、まず単語を覚えていない子が大半です。
そして、文法を覚えていません。
英語が苦手の子の多くは、覚えることが苦手な子たちです。
小学生の頃から、そして中学入学後も、英語がきわめて苦手な子たちの場合。
初めて英語を学び始めた段階で、曜日や月の名称、数字のスペルなどの基本を覚えられないことが多いです。
名詞を複数形にするルールも覚えられません。
人称代名詞も覚えられません。
3単現のルールも覚えられません。
一般動詞の疑問文の作り方を覚えず、何でも Are you ~?としてしまうことをやめられません。
とにかく、覚えない、覚えない、覚えない。
覚えれば済むのに、何でこうも覚えないのか?
本人は「覚えたくても覚えられないんだ」と言う場合が多いです。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
あるいは、中学英語はそこそこ出来た子たち。
英検3級は合格し、英検準2級も何とか合格します。
でも、その先には、永久に進めない子たちがいます。
高校で英語が急速に苦手になっていく子たちです。
もう何度も書いてきましたが、そうした子たちは、高校で学習する英単語を覚えないのです。
高校で学習する英文法も覚えません。
中学生の英語力のまま、高2になり、高3になり、大学受験を迎えます。
しかし、本人は、それなりに英語を勉強している気でいる場合が多いです。
なぜ、こうまで覚えられないのだろうか?
小学生の頃、九九を覚えられなくて苦労した。
今でも、七の段はちょっと厳しい・・・。
そういう子の場合は、わかります。
本当にものを覚えるのが苦手なのだと思うのです。
でも、九九はそこそこ問題なく覚えられたという場合は、記憶力のせいではないのではないか?
「覚える」ということが何をどうすることなのか、あまりよくわかっていないのではないか?
そう感じることがあるのです。
小学生の頃は、身につけなければならない知識もそんなに多くはないので、小学校の授業中や宿題で何度か練習しているうちに大抵覚えてしまいます。
その経験があるので、「覚える」というのは、そういうふうに苦もなく自然に覚えることを指すと、思い込んでいるのではないでしょうか。
覚えるためには、覚えるための作業と反復が必要になります。
それは、基本的に、つらくてつまらない作業です。
それをせず、自然に覚えられるものだと誤解しているため、「覚えられない」と言っている子もいるのではないかと思うのです。
もう1つは、覚えるときに脳にかかる負荷が嫌いな子。
頭が重くなって、つらくて嫌なので、ものを覚えるのが嫌いな子たちがいます。
覚えられないのではなく、つらいから、嫌で、避けているのです。
幾度も唱え、反復し、自分にテストを繰り返し、大脳に刻みつける作業。
そういうことはしたくない。
覚えるというのは、自然に頭に入ってくるものであってほしい。
でも、自然に頭に入ることだけを期待していても、中学・高校と学年が進むにつれ、学習量は爆発的に増えていきます。
自然に覚えるには、量が多いです。
だから、人工的に、意図的に、無理をして覚える作業が必要になるのです。
それをしないでいると、本人の生来の能力に応じて、中学で、あるいは高校で、停滞していくのです。
2~3度眺めるだけで覚えられるわけがないのです。
楽をして自然に覚えたい、という気持ちはわかるけれど、それは、無理な望みなのです。
金儲けをしたい人が、それができるかのような宣伝をしていることがありますが、罪深いことだと思います。
そんなものにお金を払っても、楽をして自然に覚えることは、結局できません。
だって、文科省だってそんなにバカじゃないんですから、そんな方法があるなら、学校の正規のカリキュラムに導入しますよ?
楽して自然に覚える方法は、ないんです。
覚えようと強く意識し、大脳に刻み込むように、覚える、覚える、覚える。
大脳に負荷がかかるように、覚える、覚える。
そうやって暗記するのだということを、あきらめて、悟ってください。
でも、好きなことなら楽しく覚えられます。
ゲームやアニメのキャラクターの名前。
好きなアイドルグループ全員の名前とメンバーカラー。
好きなアニメの全サブタイトル。
そういうことなら、いくらでも覚えられる。
それなら、生来の暗記力はあるはずです。
その能力を使って、好きではないことも、覚える。
必要なことだから、覚える。
そういうふうに意識を変えてほしいんです。
英語を好きになれれば良いけれど、ある程度英語ができるようにならない限り、好きにはなれないと思います。
まず、できるようになることが先です。
それには、好きじゃないけれど暗記する、つまらないけれど暗記する、そういう作業が必要です。
暗記したことが反映されて、英語がわかるようになれば、好きになります。
基本、自分が上手くできることには、人は良い感情を持ちますから。
暗記はしないけれど、英語を完全に捨ててしまっているのかというとそうでもなく、今学校で学習していることはそれなりに勉強する子は多いです。
学校の教科書の英語の本文の重要事項を解説すると、そういうことは熱心に聞いています。
けれど、テストで間違えるのは、習いたての文法事項ではありません。
空所補充問題や和文英訳問題で、以前に習っている単語のスペルを正しく書くことができなかったり。
名詞を複数形にすることや、冠詞を書くことを忘れたり。
今回のテスト範囲の文法事項をクリアできても、上に書いたようなところを間違えていたらテストでは逐一減点されますから、本人が達成感を味わえるような得点にはなりません。
本人なりに頑張っているつもりでも成績に変化がないので嫌気がさし、ますます学習意欲が下がっていく・・・。
英語という科目に起こりやすいことです。
本人の脳の癖なのかもしれませんが、新しいことを学習する度、古いことを頭の中から一掃する人もいます。
1つ覚えると、1つ忘れる。
何も積みあがっていかないのです。
新しいことを学習しても、それと同時に、英語学習の初期に習った時制の使い分けや、曜日や月名のスペルは永遠に必要な知識です。
しかし、脳にそんな容量はないと思い込んでいることも手伝い、びっくりするほどあっさりと記憶を捨てていくタイプの人がいます。
そして、せっかく学習した新しい内容も、定期テストが終わると、すっぱりと忘れていきます。
もともと脳は、不要な記憶をどんどん消していきます。
それにストップをかけ、「あ、これは消去したらダメな記憶なんだ」と脳に悟らせるには、反復です。
他人よりも記憶が消えるのが速いなと感じたら、自分の脳にストップをかけましょう。
本来、10代の記憶は、一生消えないものになるのです。
ストップをかけていないのは、本人の意思も入っていると思います。
テストが終わったら、後は要らない記憶と思い、忘れるままにしていないでしょうか。
本来、10代で得た知識の多くは、一生消えません。
そういう人は多いと思います。
今では役に立たない妙な記憶が残っている、そういう大人は多いと思います。
大人の人と話す機会があったら、
「中学や高校の頃に暗記したことで、今でも妙に覚えていること、ありますか」
と話を振ってみてください。
変な暗記事項を披露してくれる人は多いと思います。
徳川十五代の名前を全部言える人。
中国の王朝名を順番に言える人。
なかには、私のように「ソ連のコンビナート」という、本当にそれは何なんだという使えない記憶を披露してくれる人もいるかもしれません。
3日前の昼ご飯に何を食べたかはもう忘れたけれど、10代の頃に勉強した記憶は、消えない。
記憶とは、そういうものです。
10代のうちに、せめて英単語は最大限頭に入れておけば良かった・・・と後悔している大人は多いと思うのです。
あの頃ならば、今よりもずっと暗記は楽だった、と。
それでも、何歳になっても、それなりに、やりようはありますが。
脳は大容量です。
無制限に何でも記憶し、保存できます。
それを信じ、全てため込みましょう。
また、脳にどれほど負荷がかかっても、それで脳細胞がつぶれてダメになったりはしません。
負荷をかけると、むしろ頭は良くなります。
筋肉と同じです。
筋肉は、ダメージから回復した後のほうが強くなります。
だから、負荷をかけ、アイシングして、休む。
脳も同じです。
まず、脳に負荷をかける方向に自分の気持ちをもっていってください。
脳に負荷をかけた後、リラックスして、そしてよく寝る。
これを繰り返すことで、脳は強くなります。
そのように「覚えるぞ!」という意欲をもつことが第一。
そのうえで、英単語の暗記には、いくつかコツがあると思います。
例えば、よくある暗記のダメな例。
1日10個ずつ英単語を覚える。
次の日は、別の10個を覚える・・・。
しかし、そんなやり方では、翌日にはもう前日の10個は忘れています。
何1つ頭に残らないのですが、それを称して「単語暗記はやっている」、「でも、覚えられない」としてしまうのは、残念です。
それは、覚えられないやり方をわざわざ選んでいるのです。
ちょっと苦しくても、頑張って、1日100個覚える。
翌日も、同じ100個を覚える。
その翌日も、同じ100個を覚える。
覚えているかどうか、毎日自分にテストをして、覚えていなかったら覚え直す。
そうして、最低でも1週間、同じ100個を繰り返します。
翌週は、新しい単語を1日100個覚える。
ついでに、先週の100個のテストをして、覚えていなかったら覚え直す。
翌日、同じ100個を覚える。
ついでに、先週の100個のテストをして、覚えていなかったら覚え直す。
これを繰り返します。
あるいは、覚えるべき英単語が1つの例文や文章中にぎゅうぎゅうに詰まっているタイプの単語集を購入し、それの音声もスマホなどの機器にダウンロードしておきます。
これを繰り返し聴きます。
あるときは、文字を見ないで聴く。
あるときは、文字を見ながら聴く。
慣れてきたら、その音声にあわせて、文字は見ないでシャドーイング。
そして、また、文字を見ながら聴く。
毎日1時間、これをやり続けます。
上のやり方よりも効率は悪いのですが、長い目で見れば、いつの間にか知っている単語が増えています。
時間はかかりますが、比較的負荷の少ない方法です。
日本語と英語が交互に繰り返されるタイプの音声も、自分にテストをするのに向いています。
英語が先の場合は、日本語が流れる前に、自分で先に日本語を言う。
日本語が先の場合は、英語が流れる前に、自分で先に英語を言う。
そのように、常にテストを繰り返します。
聞き流すだけでは、ダメなのです。
日本人は、英語を音楽のように聞き流す習慣が脳についている場合が多く、意味などわからなくても平気なのです。
聞き流していたら、ある日突然、意味を伴って英語が聞こえてくる、ということはありません。
英語の抑揚がちょうどいい感じに脳から α 波でも出す様子で、心地よく眠くなることすらあります。
英語をBGMとして、快適に別のことを集中して考えたりもします。
だから、聞き流すだけでは、何も身につきません。
自分からアクションを起こすようにして聴かないと、音声教材は身につきません。
そして、回数も、「え?そんなに?」と驚くほどの回数を聴く必要があります。
2~3回では覚えられないのです。
100回聞いたら、そのうちの1つ2つは自然に覚えている単語があるかもしれないね、という程度です。
基本は、1,000回以上聴くことが必要です。
それくらいの反復が必要だと、知ってください。
それも、上の1日100単語ずつ意図的に覚えることと並行して行えば、1,000回までいかなくても、かなりの単語を覚えられます。
普通にしていれば覚えられないのは、誰でもそうです。
苦労して覚えることをしているかどうか、だと思うのです。
つらくても頑張ることが、必要なときも、あるのです。
その作業は、必ず実を結び、良い結果につながります。
初見の英文を普通に読むことができ、テストの得点も上がり、模試も苦痛ではなくなります。
英語が楽しくなります。
2023年10月20日
英語長文読解。具体例から論理を推理する。
ホトトギス。都立野川公園にて。
さて、辞書を引くことができない状態で英語長文読解問題を解かねばならない機会は多いです。
入試に辞書持ち込みが許可されている大学も少数ながらありますが、いちいち辞書を引いていたら時間が足りないのが現実。
学校の定期テストや英語検定となると、辞書は持ち込めませんし。
自分の知っている単語だけで勝負していかなければなりません。
どこまで頑張っても、わからない単語が1行に1個くらいあるのは覚悟の上。
それでも英文の意味を取っていくことが必要となります。
そもそも単語力がなくて、1行にわからない単語が3つも4つもある場合、それはさすがに読み取りは無理なので、単語を覚えましょう。
それは、大前提です。
単語の覚え方については、過去にも幾度となく書いてきましたが、毎日1時間、単語を覚える時間を作って、それを半年続けて、それでも何も効果がない、ということはありえないです。
毎日1時間、半年続ける。
それさえやれば、人生が変わります。
多くの人は、それができないだけなのです。
高校の英語の授業の、週1回の単語テストのために、前日か当日にちょろちょろっと単語暗記したことを、「努力している」と誤解している人は多いです。
「やってるもん!」と口をとがらせます。
しかし、私は、それは「何もやっていない」のカテゴリーに入れます。
だって、それでは効果が表れないですから。
単語暗記は、反復するしかないのです。
覚えても、覚えても、覚えても、忘れていく。
頑張っているのに、何で覚えられないのだろう?と自分をのろい、頭を抱え、涙を流して。
それでも諦めずに頑張った人だけが、気がつくと違う地平に立っているのです。
即効性など期待できません。
まず、半年努力する。
頑張りましょう。
さて、そうやって、わからない単語は1行に1単語程度になったとして。
それで、もう楽々と長文読解問題の正答率を上げていく人もいれば、それでも、何だか英文の意味が取れない・・・という人もいます。
以下の文を読んでみましょう。
まずは、文章全体の冒頭の1文です。
Work expands so as to fill the time available for its completion.
英文の冒頭を読むとき、読みにくいなあと感じるのは、話題の見当がつかないからです。
それは、英文をかなり読み慣れてもそうなので、ここで諦めないことです。
「わからない単語はありますか?」
「あります・・・」
「どれが?」
「completion」
「・・・complete の意味は?」
「完成する」
「では、それの名詞形ですよ。どういう意味になりますか?」
「完成すること」
「・・・はい。『完成』ですね」
「ああ・・・」
「あとは大丈夫?so as to の意味は?」
「~するために」
「うん。available の意味は?」
「利用可能な」
「うん。よく覚えていますね。では、1文目を訳してみて」
「仕事は、その完成のために利用可能な時間を満たすために拡大する」
「はい」
「・・・どういう意味ですか?」
「そうね・・・」
日本語に直してはみたものの、意味がわからない・・・。
英文には、そういうことがあります。
まして、文章の冒頭となると、何が言いたいのか、本当にわからない、ということは当然あります。
こういう、作者の「論」を述べている文は、このようにとかく抽象的で意味がわかりにくいのです。
しかし、その後に具体例を述べて、わかりやすくしてくれているのが普通です。
英文は、(そして、日本文もそうですが)、1段落に1つの内容しか述べないことになっています。
だから、1つの段落のどこかで意味を理解できれば、そこから全てが氷解する、ということがあります。
続く2文目。
General recognition of this fact is shown in the proverbial phrase "It is the busiest man who has time to spare."
「わからない単語はありますか?」
「proverbial」
「proverb の意味は?」
「ことわざ?」
「そうです。それの形容詞形ではないですか?『ことわざ的な』という意味では?」
「ああ・・・」
単語暗記をそれなりに頑張っても、英文の読めない子の1つの特徴として、派生語を把握できない、ということがあります。
1文字違うと、もう把握できない。
頭が固い、と言ってしまえばそれまでですが、派生語についての理解がないということもあるかもしれません。
それは、品詞に対する知識がないことも、1つの原因かもしれません。
同じ単語の動詞形、名詞形、形容詞形、副詞形というものがあっても当然だ。
そのような認識で英文を読めば、理解できる単語は爆発的に増えます。
「他にわからない単語は?」
「ぷれーず?」
「ぷ?phrase ですね」
「ああ」
その前のプロバービアルの読みに引きずられたのだろうとは思うのですが、ph は f の音、と把握できていると読むのが楽になります。
スペルを覚えるためにローマ字読みを優先してきた「ペーパーテスト系の子」に、このように、もう既に日本語になっている英単語の存在に気づかない子がいます。
これは、「フレーズ」。
「句」という意味です。
「あの歌の歌詞はいいフレーズが多いよね」
などと、日本語でも使います。
もう日本語になっている英単語は多いので、それを認識できると理解できる単語はさらに増えます。
「では、訳してください」
「この事実の一般的な認識は、ことわざ的なフレーズに示される。『それは、割く時間を持っている最も忙しい男だ』」
「・・・意味、わかりますか?」
「わかりません」
"It is the busiest man who has time to spare."
「it の中身は何ですかね?」
「the proverbial phrase ?」
「でも、この文はSVCですから、it =the busiest man の構造ですよね。だったら、it の中身は人間のはずです」
「ああ・・・」
「これは、強調構文なんですよ」
「ああっ」
「では、日本語にしてみて」
「割く時間を持っているのは、もっとも忙しい男だ」
「わかりますか?」
「わかりません・・・」
「では、続きを読んでみましょう」
さらに具体例が続きます。
Thus, an elderly lady of leisure can spend the entire day in writing and dispatching a postcard to her niece in London. An hour will be spent in finding the postcard, another in hunting for spectacles, half an hour in a search for the address, an hour and a quarter in composition, and twenty minutes in deciding whether or not to take an umbrella when going to the mailbox in the next street.
お気づきの方も多いと思いますが、この文章、書かれたのが20世紀なので、今のジェンダー平等的な観点からいえば、言葉遣いに難があります。
人間のことを man と呼ぶのは、今の英語ではありえない。
悪い例に「おばあさん」と性別を指定するのもダメです。
今、イギリスの新聞にこんなエッセイが掲載されたら炎上するでしょう。
いや、そもそも掲載されないと思います。
しかし、長文読解問題としては解く価値のある英文なので、遺憾ながら使用しています。
具体例から、著者の「論」を推理する基本問題として、良い英文なんです。
ちょっと古いともう価値がないと誤解する今どきの高校生をなだめながら。
勿論、それと並行して、最新の大学入試過去問も使用していますが、Facebook やAmazon の経営者の言動がやたらと出てくるだけで、あまり読む価値のない文章もあります。
新しい文章であることは間違いないのですが。
アップデートしているイメージを保つため、そして生徒の興味を引くためには有効。
1種の息抜き問題と言えるかもしれません。
それはともかく。
さて上の例は、言葉遣いも易しいので、上記の生徒も内容をよく読み取れました。
「このおばあさんの行動を、簡単に述べてください。正確な訳でなくて構いませんから。ざっくりと」
「おばあさんが、姪に、ハガキを送る」
「うんうん」
「まず、ハガキを探すのに1時間かけて」
「はい」
「眼鏡を探すのに、1時間。住所を探すのに30分。文章を書くのに、1時間15分。ポストに入れるために外出するのに傘を持っていくか決めるのに、20分」
「素晴らしい。よく意味が読み取れています」
Work expands so as to fill the time available for its completion.
ここで、この冒頭の英文に戻りました。
「仕事は、利用可能な時間を満たすために拡大する。この意味がわかりましたか?」
「・・・わかりません」
"It is the busiest man who has time to spare."
「割く時間があるのは、もっとも忙しい人だ。この意味がわかりましたか?」
「わかりません」
・・・うーん。
ということで、その次の文を読んでみます。
The total effort that would occupy a busy man for three minutes all told may in this fashion leave another person prostrate after a day of doubt, anxiety, and toil.
さて、設問は、この文に下線が引かれてあり、これとほぼ同じ意味の英文を選ぶ4択問題になっていました。
この英文を解釈するのは、単体では、難しいかもしれません。
でも、今までのところを理解していれば、大体の意味は取れるので、正解できるのです。
「さあ、この文で、第1段落が終わります。今まで著者が言っていたことを繰り返しているだけです」
「わからないです」
「・・・何が?」
「all told とか、in this fashion とか、prostrate とか、toil とか、わからない・・・」
「大丈夫ですよ。些末なところは無視しましょう。和訳しろと言われているわけじゃないんです。文意が取れればいいんです。大体どういう意味ですか?」
「わからない・・・」
細かいところがわからないと、不安になって、意味がとれない。
高校生としては十分な単語力がもうついているのですが。
ここからは、独学では難しい領域です。
独学では、ここで全訳を見てしまい、何だそういう意味かと安心して、終わってしまうのです。
all told 、in this fashion 、prostrate、toil の意味をそれで覚えるのなら、それもまた何か少しは意味があるでしょうが、大学受験にはそれでは間に合わない。
それらの単語・熟語がわからなくても、設問には正解できる。
そういう学力が必要なのです。
それが実践力です。
もう一度、英文を見てみましょう。
The total effort that would occupy a busy man for three minutes all told may in this fashion leave another person prostrate after a day of doubt, anxiety, and toil.
「訳せるところだけ、訳してみて。わからない部分は英語のままでいいし、無視してもいいよ」
「・・・忙しい男に3分を占領させる全体の努力が、別の人は1日。疑って、疲れて」
「素晴らしい!それで十分。つまり、どういう意味?」
「・・・わからない・・・」
「第1文に戻りましょう。『仕事は拡大する』。次の文は、『割く時間があるのは、もっとも忙しい人だ』。どういうことでしょうか?」
「・・・わからない・・・」
「どんな人と、どんな人が比較されていますか?」
「忙しい人と、別の人」
「別の人。例えば?」
「おばあさん」
「そうそう。忙しい人と、おばあさん。ここで例として出されている仕事の内容は?」
「・・・ハガキを書くこと」
「その仕事にかかる時間は?忙しい人は?」
「3分」
「おばあさんは?」
「1日」
「そう。つまり、仕事は、膨張する」
「・・・わからない・・・」
「大丈夫。もうわかっています。選択肢を読んでみて。答がわかったら、言って」
選択肢を日本語に訳すと。
1 . 暇な人は、1つの仕事を、さまざまに考慮して丁寧に行う。
2 . 仕事は時間をかけただけの効果がある。
3 . 同じ仕事が、人によってかかる時間が違う。
4 . 忙しい人に仕事を頼むのは、その人をわずらわせることだ。
「答は?」
「3?」
「はい、正解」
「えー・・・。あ。ああ!そういうことか!」
「はい。読解とは、そういうことなんですよ」
下線を引いてある英文は、難しい文だから引いてあるのです。
そして、重要だから、引いてあることも多いです。
その2つを兼ね備えているこの設問の作り方は、惚れ惚れするようです。
そして、下線部に多少わからない単語・熟語があっても、そこまで読み進めることができたのなら、正解できるのです。
良問です。
論でわからないことは、具体例で読み取る。
少しくらいわからない単語があっても、わかる部分をしっかり読んでいく。
つまりどういうことなのか、常に考えながら読んでいく。
1つの段落には、1つのことしか書かれていない。
その1つを読み取るだけでいいのですから。
そういう読み方は、体得するまでには補助が必要です。
そのように文章を読んだことのない子が、自力で体得するのは、相当に難しいと思います。
「仕事は、忙しい奴に頼め」
日本でも、そのようなことわざ的なものは存在しますね。
暇な人間に、暇だからできるだろうと仕事を頼んでも、いつになっても出来上がらない。
忙しい人のほうが、時間を捻出して、さっとやってくれる。
仕事の質も高い。
そういう考え方があります。
高校生にはなじみのない考え方かもしれません。
それを知るという意味でも、現代に通用する良問だと思います。
私見を言えば。
悪い例として出ている、姪に葉書を書き送るのが1日仕事になっているおばあさん。
私は、何だかチャーミングだなあと思うのです。
そして、忙しい人が3分で送信したメールは、受け取った姪は読み終わって返信したら消去するかもしれないけれど、おばあさんの1日仕事の葉書は、しばらくボードにピンで止めておき、後には文箱に保管すると思うのです。
ラジオで聴いた好きなエピソードがあります。
あるラジオパーソナリティが、久しぶりに帰省したら、新聞から顔を上げたおじいさんが言ったというのです。
「恐ろしいことだよ。朝刊を読んでいると、もう夕刊が届くんだよ」
タイパもいいですけれど、ゆったり時間を使うことの中にも、価値のあることがきっとある。
そんなことも考えてしまうのです。
私自身は、今年度、大学受験生が今までで最多の人数になり、タイトなスケジュールの中、過去問分析に時間を使い果たす日々なのですが。
さて、辞書を引くことができない状態で英語長文読解問題を解かねばならない機会は多いです。
入試に辞書持ち込みが許可されている大学も少数ながらありますが、いちいち辞書を引いていたら時間が足りないのが現実。
学校の定期テストや英語検定となると、辞書は持ち込めませんし。
自分の知っている単語だけで勝負していかなければなりません。
どこまで頑張っても、わからない単語が1行に1個くらいあるのは覚悟の上。
それでも英文の意味を取っていくことが必要となります。
そもそも単語力がなくて、1行にわからない単語が3つも4つもある場合、それはさすがに読み取りは無理なので、単語を覚えましょう。
それは、大前提です。
単語の覚え方については、過去にも幾度となく書いてきましたが、毎日1時間、単語を覚える時間を作って、それを半年続けて、それでも何も効果がない、ということはありえないです。
毎日1時間、半年続ける。
それさえやれば、人生が変わります。
多くの人は、それができないだけなのです。
高校の英語の授業の、週1回の単語テストのために、前日か当日にちょろちょろっと単語暗記したことを、「努力している」と誤解している人は多いです。
「やってるもん!」と口をとがらせます。
しかし、私は、それは「何もやっていない」のカテゴリーに入れます。
だって、それでは効果が表れないですから。
単語暗記は、反復するしかないのです。
覚えても、覚えても、覚えても、忘れていく。
頑張っているのに、何で覚えられないのだろう?と自分をのろい、頭を抱え、涙を流して。
それでも諦めずに頑張った人だけが、気がつくと違う地平に立っているのです。
即効性など期待できません。
まず、半年努力する。
頑張りましょう。
さて、そうやって、わからない単語は1行に1単語程度になったとして。
それで、もう楽々と長文読解問題の正答率を上げていく人もいれば、それでも、何だか英文の意味が取れない・・・という人もいます。
以下の文を読んでみましょう。
まずは、文章全体の冒頭の1文です。
Work expands so as to fill the time available for its completion.
英文の冒頭を読むとき、読みにくいなあと感じるのは、話題の見当がつかないからです。
それは、英文をかなり読み慣れてもそうなので、ここで諦めないことです。
「わからない単語はありますか?」
「あります・・・」
「どれが?」
「completion」
「・・・complete の意味は?」
「完成する」
「では、それの名詞形ですよ。どういう意味になりますか?」
「完成すること」
「・・・はい。『完成』ですね」
「ああ・・・」
「あとは大丈夫?so as to の意味は?」
「~するために」
「うん。available の意味は?」
「利用可能な」
「うん。よく覚えていますね。では、1文目を訳してみて」
「仕事は、その完成のために利用可能な時間を満たすために拡大する」
「はい」
「・・・どういう意味ですか?」
「そうね・・・」
日本語に直してはみたものの、意味がわからない・・・。
英文には、そういうことがあります。
まして、文章の冒頭となると、何が言いたいのか、本当にわからない、ということは当然あります。
こういう、作者の「論」を述べている文は、このようにとかく抽象的で意味がわかりにくいのです。
しかし、その後に具体例を述べて、わかりやすくしてくれているのが普通です。
英文は、(そして、日本文もそうですが)、1段落に1つの内容しか述べないことになっています。
だから、1つの段落のどこかで意味を理解できれば、そこから全てが氷解する、ということがあります。
続く2文目。
General recognition of this fact is shown in the proverbial phrase "It is the busiest man who has time to spare."
「わからない単語はありますか?」
「proverbial」
「proverb の意味は?」
「ことわざ?」
「そうです。それの形容詞形ではないですか?『ことわざ的な』という意味では?」
「ああ・・・」
単語暗記をそれなりに頑張っても、英文の読めない子の1つの特徴として、派生語を把握できない、ということがあります。
1文字違うと、もう把握できない。
頭が固い、と言ってしまえばそれまでですが、派生語についての理解がないということもあるかもしれません。
それは、品詞に対する知識がないことも、1つの原因かもしれません。
同じ単語の動詞形、名詞形、形容詞形、副詞形というものがあっても当然だ。
そのような認識で英文を読めば、理解できる単語は爆発的に増えます。
「他にわからない単語は?」
「ぷれーず?」
「ぷ?phrase ですね」
「ああ」
その前のプロバービアルの読みに引きずられたのだろうとは思うのですが、ph は f の音、と把握できていると読むのが楽になります。
スペルを覚えるためにローマ字読みを優先してきた「ペーパーテスト系の子」に、このように、もう既に日本語になっている英単語の存在に気づかない子がいます。
これは、「フレーズ」。
「句」という意味です。
「あの歌の歌詞はいいフレーズが多いよね」
などと、日本語でも使います。
もう日本語になっている英単語は多いので、それを認識できると理解できる単語はさらに増えます。
「では、訳してください」
「この事実の一般的な認識は、ことわざ的なフレーズに示される。『それは、割く時間を持っている最も忙しい男だ』」
「・・・意味、わかりますか?」
「わかりません」
"It is the busiest man who has time to spare."
「it の中身は何ですかね?」
「the proverbial phrase ?」
「でも、この文はSVCですから、it =the busiest man の構造ですよね。だったら、it の中身は人間のはずです」
「ああ・・・」
「これは、強調構文なんですよ」
「ああっ」
「では、日本語にしてみて」
「割く時間を持っているのは、もっとも忙しい男だ」
「わかりますか?」
「わかりません・・・」
「では、続きを読んでみましょう」
さらに具体例が続きます。
Thus, an elderly lady of leisure can spend the entire day in writing and dispatching a postcard to her niece in London. An hour will be spent in finding the postcard, another in hunting for spectacles, half an hour in a search for the address, an hour and a quarter in composition, and twenty minutes in deciding whether or not to take an umbrella when going to the mailbox in the next street.
お気づきの方も多いと思いますが、この文章、書かれたのが20世紀なので、今のジェンダー平等的な観点からいえば、言葉遣いに難があります。
人間のことを man と呼ぶのは、今の英語ではありえない。
悪い例に「おばあさん」と性別を指定するのもダメです。
今、イギリスの新聞にこんなエッセイが掲載されたら炎上するでしょう。
いや、そもそも掲載されないと思います。
しかし、長文読解問題としては解く価値のある英文なので、遺憾ながら使用しています。
具体例から、著者の「論」を推理する基本問題として、良い英文なんです。
ちょっと古いともう価値がないと誤解する今どきの高校生をなだめながら。
勿論、それと並行して、最新の大学入試過去問も使用していますが、Facebook やAmazon の経営者の言動がやたらと出てくるだけで、あまり読む価値のない文章もあります。
新しい文章であることは間違いないのですが。
アップデートしているイメージを保つため、そして生徒の興味を引くためには有効。
1種の息抜き問題と言えるかもしれません。
それはともかく。
さて上の例は、言葉遣いも易しいので、上記の生徒も内容をよく読み取れました。
「このおばあさんの行動を、簡単に述べてください。正確な訳でなくて構いませんから。ざっくりと」
「おばあさんが、姪に、ハガキを送る」
「うんうん」
「まず、ハガキを探すのに1時間かけて」
「はい」
「眼鏡を探すのに、1時間。住所を探すのに30分。文章を書くのに、1時間15分。ポストに入れるために外出するのに傘を持っていくか決めるのに、20分」
「素晴らしい。よく意味が読み取れています」
Work expands so as to fill the time available for its completion.
ここで、この冒頭の英文に戻りました。
「仕事は、利用可能な時間を満たすために拡大する。この意味がわかりましたか?」
「・・・わかりません」
"It is the busiest man who has time to spare."
「割く時間があるのは、もっとも忙しい人だ。この意味がわかりましたか?」
「わかりません」
・・・うーん。
ということで、その次の文を読んでみます。
The total effort that would occupy a busy man for three minutes all told may in this fashion leave another person prostrate after a day of doubt, anxiety, and toil.
さて、設問は、この文に下線が引かれてあり、これとほぼ同じ意味の英文を選ぶ4択問題になっていました。
この英文を解釈するのは、単体では、難しいかもしれません。
でも、今までのところを理解していれば、大体の意味は取れるので、正解できるのです。
「さあ、この文で、第1段落が終わります。今まで著者が言っていたことを繰り返しているだけです」
「わからないです」
「・・・何が?」
「all told とか、in this fashion とか、prostrate とか、toil とか、わからない・・・」
「大丈夫ですよ。些末なところは無視しましょう。和訳しろと言われているわけじゃないんです。文意が取れればいいんです。大体どういう意味ですか?」
「わからない・・・」
細かいところがわからないと、不安になって、意味がとれない。
高校生としては十分な単語力がもうついているのですが。
ここからは、独学では難しい領域です。
独学では、ここで全訳を見てしまい、何だそういう意味かと安心して、終わってしまうのです。
all told 、in this fashion 、prostrate、toil の意味をそれで覚えるのなら、それもまた何か少しは意味があるでしょうが、大学受験にはそれでは間に合わない。
それらの単語・熟語がわからなくても、設問には正解できる。
そういう学力が必要なのです。
それが実践力です。
もう一度、英文を見てみましょう。
The total effort that would occupy a busy man for three minutes all told may in this fashion leave another person prostrate after a day of doubt, anxiety, and toil.
「訳せるところだけ、訳してみて。わからない部分は英語のままでいいし、無視してもいいよ」
「・・・忙しい男に3分を占領させる全体の努力が、別の人は1日。疑って、疲れて」
「素晴らしい!それで十分。つまり、どういう意味?」
「・・・わからない・・・」
「第1文に戻りましょう。『仕事は拡大する』。次の文は、『割く時間があるのは、もっとも忙しい人だ』。どういうことでしょうか?」
「・・・わからない・・・」
「どんな人と、どんな人が比較されていますか?」
「忙しい人と、別の人」
「別の人。例えば?」
「おばあさん」
「そうそう。忙しい人と、おばあさん。ここで例として出されている仕事の内容は?」
「・・・ハガキを書くこと」
「その仕事にかかる時間は?忙しい人は?」
「3分」
「おばあさんは?」
「1日」
「そう。つまり、仕事は、膨張する」
「・・・わからない・・・」
「大丈夫。もうわかっています。選択肢を読んでみて。答がわかったら、言って」
選択肢を日本語に訳すと。
1 . 暇な人は、1つの仕事を、さまざまに考慮して丁寧に行う。
2 . 仕事は時間をかけただけの効果がある。
3 . 同じ仕事が、人によってかかる時間が違う。
4 . 忙しい人に仕事を頼むのは、その人をわずらわせることだ。
「答は?」
「3?」
「はい、正解」
「えー・・・。あ。ああ!そういうことか!」
「はい。読解とは、そういうことなんですよ」
下線を引いてある英文は、難しい文だから引いてあるのです。
そして、重要だから、引いてあることも多いです。
その2つを兼ね備えているこの設問の作り方は、惚れ惚れするようです。
そして、下線部に多少わからない単語・熟語があっても、そこまで読み進めることができたのなら、正解できるのです。
良問です。
論でわからないことは、具体例で読み取る。
少しくらいわからない単語があっても、わかる部分をしっかり読んでいく。
つまりどういうことなのか、常に考えながら読んでいく。
1つの段落には、1つのことしか書かれていない。
その1つを読み取るだけでいいのですから。
そういう読み方は、体得するまでには補助が必要です。
そのように文章を読んだことのない子が、自力で体得するのは、相当に難しいと思います。
「仕事は、忙しい奴に頼め」
日本でも、そのようなことわざ的なものは存在しますね。
暇な人間に、暇だからできるだろうと仕事を頼んでも、いつになっても出来上がらない。
忙しい人のほうが、時間を捻出して、さっとやってくれる。
仕事の質も高い。
そういう考え方があります。
高校生にはなじみのない考え方かもしれません。
それを知るという意味でも、現代に通用する良問だと思います。
私見を言えば。
悪い例として出ている、姪に葉書を書き送るのが1日仕事になっているおばあさん。
私は、何だかチャーミングだなあと思うのです。
そして、忙しい人が3分で送信したメールは、受け取った姪は読み終わって返信したら消去するかもしれないけれど、おばあさんの1日仕事の葉書は、しばらくボードにピンで止めておき、後には文箱に保管すると思うのです。
ラジオで聴いた好きなエピソードがあります。
あるラジオパーソナリティが、久しぶりに帰省したら、新聞から顔を上げたおじいさんが言ったというのです。
「恐ろしいことだよ。朝刊を読んでいると、もう夕刊が届くんだよ」
タイパもいいですけれど、ゆったり時間を使うことの中にも、価値のあることがきっとある。
そんなことも考えてしまうのです。
私自身は、今年度、大学受験生が今までで最多の人数になり、タイトなスケジュールの中、過去問分析に時間を使い果たす日々なのですが。
2023年09月19日
They say that ~. の受動態
They say that ~. という文の解説をするのは、昔は随分楽でした。
その昔、ゴダイゴというバンドの『ガンダーラ』という曲がありました。
『西遊記』というドラマのエンディングテーマでした。
この曲は、ヒットした直後だけでなく、後の世代の子も知っていて、この歌詞を例にとって説明すると、この英文は少し身近なものになるようでした。
サビの部分の歌詞ですね。
ガンダーラ、ガンダーラ。
They say it was in India.
ガンダーラという国はインドの北西部に実在したようですが、この歌の中でのガンダーラは、そういうことではなく、三蔵法師たちが心に思い描いた仏教の理想郷、幻の国なのでしょう。
ちなみに、「天竺」というのはインド全体のことで、これは普通に実在し、三蔵法師は到達しています。
そんな話はともかく、英文、英文。
They say it was in India.
このThey は、一般の人々の they。
特定の誰かではなく、一般の人々を指すとき、英語ではthey を使います。
ちなみに、聞き手、読み手を含むときは、you。
自分を含むときは、we。
こういう、特定の誰かではない主語というものが英語にはあります。
英語は、基本的には主語のない文はあり得ないので、こういう主語が必要になります。
したがって、これを日本語に訳すとき、theyを「彼ら」と訳すのはむしろ不自然なので、訳しません。
「彼らは、それはインドにあったと言う」
とうっかり訳してしまうと、
「彼らって誰?」
とつっこまれてしまいます。
今の時代、英文は意味がわかっていればいいので、学校の授業などでは、
「人々は、それはインドにあったと言う」
で大丈夫です。
しかし、大学入試の和訳問題の場合、この和訳は審議にかけられるかもしれません。
多分大丈夫だとは思いますが。
では、入試的正解の訳は?
「それは、インドにあったと言われている」
と受け身の文であるかのような訳をすると、むしろ日本語としては自然になります。
「それはインドにあったと言われている」
日本語では、そもそも受動態。
では、この日本語を英語に直すのだとしたら、どうなるでしょうか。
上の文のように、能動態の英文にしても、勿論正解です。
They say it was in India.
そして、勿論、受動態の英文にすることも可能です。
では、この英文を受動態にすると、どうなるでしょうか?
They say it was in India.
は、接続詞 that が省略されている表現です。
省略されている that を補うならば、
They say that it was in India.
となります。
さて、この英文を受動態にするには?
まず、能動態のこの文の成分を分析すると、
they はS(主語)、sayはV(動詞)、そしてthat 節全体がO(目的語)です。
受動態は、能動態でOだったものがSになります。
こういう話を聞くだけで、意識が遠のくというのか他のことを考え始め、書いてあるものなら目がすべって読み飛ばす人がいますが、これが、英語が得意になるかならないかの分かれ道なんです。
SVOCMの分析さえできれば、英語はとても簡単なのです。
文法を忌避するために英語ができない子が大量にいます。
そうした中で、文法をしっかり理解すれば、英語力はゴボウ抜き的上昇が可能なのです。
本当に、ちょっと考え方を変え、英語に対する見方と学習姿勢を変えるだけなのです。
というわけで、OだったものをSに変えて、動詞部分は、be 動詞+過去分詞の形にする。
それが、受動態の作り方。
その通りにやってみると、
That it was in India is said.
うーん。
これでは、不自然ですね。
主語が長過ぎて頭でっかちな文は意味がとりにくい。
何がどうなのか、まずスパッと言ってしまうのが英語です。
that 節を形式主語 it に置き換えます。
そして、文がひと通り終わった後で、形式主語 it の中身を語ります。
It is said that it was in India.
うん。
it が2回も入っているので、わかりにくいと感じるかもしれませんが、これが正しい英文です。
この程度の it の乱発は、大学入試レベルの英文にはよくあること。
このそれぞれの it の中身を問う問題を出題できるので、ちょうどいい。
とはいえ、上の文の2個目の it はガンダーラを指しますので、わかりやすく、2個目の it はガンダーラにしてみます。
It is said that Gandhara was in India.
わかりやすくなりました。
これが、「ガンダーラはインドにあったと言われている」
という英文です。
さて、ここから、さらに少し難しい話をします。
せっかく、that 節に Gandhara という名詞があるのだから、これを主語にして受動態を作れないのか?
だって、ガンダーラが言われているんだから、ガンダーラが主語でも構わないでしょう?
というわけで、英文を作ってみましょう。
Gandhara is said that Gandhara was in India.
・・・くどいな、これは。
何で2回もガンダーラを言うの?
それでは、どうするのか?
that 節の主語を、文全体の主語に使ってしまったら、that 節の主語はもう使えない。
節というのは、SとVのある意味のまとまりのこと。
Sがなくなったら、それは節ではなくなります。
では、どうするのか?
Sのない、意味のまとまりがありましたよね。
そうです。
句です。
句には、色々な句があります。
動名詞句、分詞句などなど。
でも、ここで使うのは、to 不定詞です。
すなわち、
Gandhara is said to have been in India.
不定詞は、そのまま to be の形で使ってしまうと、文全体の時制になってしまいます。
Gandhara is said to be in India.
ガンダーラはインドにあると言われている。
これは、ガンダーラが現在インドに存在しているという意味の文になります。
いいえ。
ガンダーラは、ガンダーラ美術などで今も有名ですが、現存しない国です。
時制をずらさなければなりません。
こういうときに使うのが、不定詞の完了形。
「to have+過去分詞」の形で、文全体の動詞より1つ古い時制であることを示します。
まとめましょう。
They say that Gandhara was in India.
It is said that Gandhara was in India.
Gandhara is said to have been in India.
どれも「ガンダーラはインドにあったといわれている」という文です。
では、練習問題。
次の日本語を3通りの英文で表せ。
「13は縁起が悪いと信じられている」
時制がズレていないので、ガンダーラの文より易しいです。
能動態の主語は they でいいですし、 people なども可能です。
動詞は、今回は、「信じられている」なので、believe を使います。
正解は、
They believe that thirteen is unlucky.
It is believed that thirteen is unlucky.
Thirteen is believed to be unlucky.
say , believe の他に、seem という動詞を用いる問題もよく出題されます。
まとめてマスターしてください。
このように、『ガンダーラ』の歌詞から授業をすると、昔は、「わかりやすい」「面白い」と言ってもらえたのですが、今は、何しろ『ガンダーラ』という歌を知らない高校生が増えました。
『ハチミツとクローバー』という漫画の中で、自転車で旅する若者の頭にエンドレスで『ガンダーラ』が流れる場面があるので、あの時代までは生きていた知識だったのだと思うのです。
あの漫画が完結したのが、2005年。
古いなあ、さすがに・・・。
他にも、誰でも知っている歌詞で英語の説明をするのに便利だったものといえば、『ラヴ・イズ・オーヴァー』。
このタイトルだけで、 be over が「終わる」という意味だと伝えることができました。
覚えやすかったと思います。
こういう便利なものは、今は存在しないのだろうか・・・。
個人の好みも細分化しています。
私でも知っているのだから、このグループの歌は知っているだろうと思っても、
「聞いたことがない」
と高校生に一蹴される可能性が高いです。
アニメソングなら大丈夫かなと思っても、
「僕はアニメは見ないので」
と一蹴されます。
見ているものも、聴いているものも、ひとりひとり違うのは、良い時代でもあるのですが。
その昔、ゴダイゴというバンドの『ガンダーラ』という曲がありました。
『西遊記』というドラマのエンディングテーマでした。
この曲は、ヒットした直後だけでなく、後の世代の子も知っていて、この歌詞を例にとって説明すると、この英文は少し身近なものになるようでした。
サビの部分の歌詞ですね。
ガンダーラ、ガンダーラ。
They say it was in India.
ガンダーラという国はインドの北西部に実在したようですが、この歌の中でのガンダーラは、そういうことではなく、三蔵法師たちが心に思い描いた仏教の理想郷、幻の国なのでしょう。
ちなみに、「天竺」というのはインド全体のことで、これは普通に実在し、三蔵法師は到達しています。
そんな話はともかく、英文、英文。
They say it was in India.
このThey は、一般の人々の they。
特定の誰かではなく、一般の人々を指すとき、英語ではthey を使います。
ちなみに、聞き手、読み手を含むときは、you。
自分を含むときは、we。
こういう、特定の誰かではない主語というものが英語にはあります。
英語は、基本的には主語のない文はあり得ないので、こういう主語が必要になります。
したがって、これを日本語に訳すとき、theyを「彼ら」と訳すのはむしろ不自然なので、訳しません。
「彼らは、それはインドにあったと言う」
とうっかり訳してしまうと、
「彼らって誰?」
とつっこまれてしまいます。
今の時代、英文は意味がわかっていればいいので、学校の授業などでは、
「人々は、それはインドにあったと言う」
で大丈夫です。
しかし、大学入試の和訳問題の場合、この和訳は審議にかけられるかもしれません。
多分大丈夫だとは思いますが。
では、入試的正解の訳は?
「それは、インドにあったと言われている」
と受け身の文であるかのような訳をすると、むしろ日本語としては自然になります。
「それはインドにあったと言われている」
日本語では、そもそも受動態。
では、この日本語を英語に直すのだとしたら、どうなるでしょうか。
上の文のように、能動態の英文にしても、勿論正解です。
They say it was in India.
そして、勿論、受動態の英文にすることも可能です。
では、この英文を受動態にすると、どうなるでしょうか?
They say it was in India.
は、接続詞 that が省略されている表現です。
省略されている that を補うならば、
They say that it was in India.
となります。
さて、この英文を受動態にするには?
まず、能動態のこの文の成分を分析すると、
they はS(主語)、sayはV(動詞)、そしてthat 節全体がO(目的語)です。
受動態は、能動態でOだったものがSになります。
こういう話を聞くだけで、意識が遠のくというのか他のことを考え始め、書いてあるものなら目がすべって読み飛ばす人がいますが、これが、英語が得意になるかならないかの分かれ道なんです。
SVOCMの分析さえできれば、英語はとても簡単なのです。
文法を忌避するために英語ができない子が大量にいます。
そうした中で、文法をしっかり理解すれば、英語力はゴボウ抜き的上昇が可能なのです。
本当に、ちょっと考え方を変え、英語に対する見方と学習姿勢を変えるだけなのです。
というわけで、OだったものをSに変えて、動詞部分は、be 動詞+過去分詞の形にする。
それが、受動態の作り方。
その通りにやってみると、
That it was in India is said.
うーん。
これでは、不自然ですね。
主語が長過ぎて頭でっかちな文は意味がとりにくい。
何がどうなのか、まずスパッと言ってしまうのが英語です。
that 節を形式主語 it に置き換えます。
そして、文がひと通り終わった後で、形式主語 it の中身を語ります。
It is said that it was in India.
うん。
it が2回も入っているので、わかりにくいと感じるかもしれませんが、これが正しい英文です。
この程度の it の乱発は、大学入試レベルの英文にはよくあること。
このそれぞれの it の中身を問う問題を出題できるので、ちょうどいい。
とはいえ、上の文の2個目の it はガンダーラを指しますので、わかりやすく、2個目の it はガンダーラにしてみます。
It is said that Gandhara was in India.
わかりやすくなりました。
これが、「ガンダーラはインドにあったと言われている」
という英文です。
さて、ここから、さらに少し難しい話をします。
せっかく、that 節に Gandhara という名詞があるのだから、これを主語にして受動態を作れないのか?
だって、ガンダーラが言われているんだから、ガンダーラが主語でも構わないでしょう?
というわけで、英文を作ってみましょう。
Gandhara is said that Gandhara was in India.
・・・くどいな、これは。
何で2回もガンダーラを言うの?
それでは、どうするのか?
that 節の主語を、文全体の主語に使ってしまったら、that 節の主語はもう使えない。
節というのは、SとVのある意味のまとまりのこと。
Sがなくなったら、それは節ではなくなります。
では、どうするのか?
Sのない、意味のまとまりがありましたよね。
そうです。
句です。
句には、色々な句があります。
動名詞句、分詞句などなど。
でも、ここで使うのは、to 不定詞です。
すなわち、
Gandhara is said to have been in India.
不定詞は、そのまま to be の形で使ってしまうと、文全体の時制になってしまいます。
Gandhara is said to be in India.
ガンダーラはインドにあると言われている。
これは、ガンダーラが現在インドに存在しているという意味の文になります。
いいえ。
ガンダーラは、ガンダーラ美術などで今も有名ですが、現存しない国です。
時制をずらさなければなりません。
こういうときに使うのが、不定詞の完了形。
「to have+過去分詞」の形で、文全体の動詞より1つ古い時制であることを示します。
まとめましょう。
They say that Gandhara was in India.
It is said that Gandhara was in India.
Gandhara is said to have been in India.
どれも「ガンダーラはインドにあったといわれている」という文です。
では、練習問題。
次の日本語を3通りの英文で表せ。
「13は縁起が悪いと信じられている」
時制がズレていないので、ガンダーラの文より易しいです。
能動態の主語は they でいいですし、 people なども可能です。
動詞は、今回は、「信じられている」なので、believe を使います。
正解は、
They believe that thirteen is unlucky.
It is believed that thirteen is unlucky.
Thirteen is believed to be unlucky.
say , believe の他に、seem という動詞を用いる問題もよく出題されます。
まとめてマスターしてください。
このように、『ガンダーラ』の歌詞から授業をすると、昔は、「わかりやすい」「面白い」と言ってもらえたのですが、今は、何しろ『ガンダーラ』という歌を知らない高校生が増えました。
『ハチミツとクローバー』という漫画の中で、自転車で旅する若者の頭にエンドレスで『ガンダーラ』が流れる場面があるので、あの時代までは生きていた知識だったのだと思うのです。
あの漫画が完結したのが、2005年。
古いなあ、さすがに・・・。
他にも、誰でも知っている歌詞で英語の説明をするのに便利だったものといえば、『ラヴ・イズ・オーヴァー』。
このタイトルだけで、 be over が「終わる」という意味だと伝えることができました。
覚えやすかったと思います。
こういう便利なものは、今は存在しないのだろうか・・・。
個人の好みも細分化しています。
私でも知っているのだから、このグループの歌は知っているだろうと思っても、
「聞いたことがない」
と高校生に一蹴される可能性が高いです。
アニメソングなら大丈夫かなと思っても、
「僕はアニメは見ないので」
と一蹴されます。
見ているものも、聴いているものも、ひとりひとり違うのは、良い時代でもあるのですが。
2023年09月05日
SVOCを理解できれば、英語学習は楽になります。
高校生と「分詞」の学習をしていたときのことです。
例えば、こんな問題。
問題 ( )の語を適切な形に直せ。
(1) Do you know the man (sit) on the bench ?
分詞の限定用法の問題です。
中学では「分詞の形容詞的用法」という言い方で学びます。
分詞が名詞を修飾する用法です。
修飾される名詞 man が sit という動作をするのですから、現在分詞 sitting が正解です。
(2) Ken showed me some pictures (take) by his brother.
修飾される名詞 pictures は take という動作をされるのですから、過去分詞 taken に直します。
ここまでは中学の復習。
その子も、順調に正解していました。
そこから先が高校の「分詞」の学習です。
分詞の叙述用法に進みました。
SVCやSVOCの、Cに分詞を用いる用法です。
解説をして、練習を開始しました。
He kept (knock) on the door until I opened it.
その子の答えは knocked でした。
「・・・・え?何で?」
解説したばかりなのに、何で?
「door はノックされるから・・・・」
「・・・・え?」
ここからは叙述用法、新しく学ぶ用法と明言し、解説したばかりなのに、何で限定用法に戻るのだろう?
door は、分詞の直前・直後の名詞ではありません。
分詞に修飾される名詞ではありません。
文法が苦手な高校生に英文法の授業をしていると、上のようなことが起こりやすいのです。
教えたことが上手く伝わっていきません。
1つには、高校英語を学んでいるのに、中学英語の知識で乗り越えていこうとする点。
何でも、ただ1つの解き方で解決しようとします。
分詞ならば、すべて、限定用法で解決しようとします。
もう一度、叙述用法の解説をした後、今度は、乱文整序問題を解きました。
問題 次の日本語を以下の語句を並べ変えて英文にせよ。
私は電車のドアに指をはさまれた。
had , I , in , doors , fingers , the , train , my , caught .
その子の答は。
I had caught my fingers in the train doors.
これも誤答です。
この文を日本語にすると、
「私は、電車のドアの中で、自分の指をつかまえてしまった」
となってしまいます。
なぜ、突然過去完了形?
今は、分詞の叙述用法を学習しているのであって、had+過去分詞の学習をしているのではないのに・・・。
しかし、その子だけのミスではなく、乱文整序でこういう英文を作ってしまう高校生は多いです。
have または had と、過去分詞が存在したら、それは完了形の文、と思い込んでしまうようなのです。
それもまた、やり方は1つだけ、中学で勉強したことだけ、という解決方法です。
正解は、
I had my fingers caught in the train doors.
です。
これは、「受身・被害の have 」と呼ばれる have の文です。
第5文型をとります。
英語は、語順がすべて。
どの語句をどの順番に並べていくか。
それが、英文法です。
S、Vときたら、次はO。そしてCです。
そのルールを覚えれば、あとは単語・熟語を覚えるだけ。
日本語のように、「その語句は、ここに置いていいし、そこに置いてもいいけど、そこには置いたらダメ」といった、緩くてわかりにくいルールはありません。
カチッと語順が決まっているので、英語は学習しやすいのです。
ところが、英語が苦手な子は、5文型を理解しない。
語順を理解しない。
というより、無視する傾向があります。
そういう概説的でよくわからなかったことは、どうでもいい、としてしまうようなのです。
特に、第5文型SVOCは、
「そんな不自然な語順はこの世に存在しない」
と、心の中で消し去っている気配すら感じます。
S、V、O、C、Mといった文の成分の話や、形容詞、副詞などの品詞の話を嫌う。
何回説明しても覚えない子が多いです。
目先の定期テストに出ないからかもしれません。
これはCですかOですか、とか、この単語の品詞は何ですかといった問題は、確かにテストには出ないです。
でも、テストに直接問われることはないけれど、その知識がないから問題が解けないのに・・・。
そういうことを説明しても、その説明も耳を素通りしていくようです。
SVCやSVOCの語順が理解できていないと、分詞の叙述用法は、理解できません。
根本がわからないし、根本を覚えないから、結局、その上の文法知識は何も載っていかない・・・。
SVOCの基本は、中3で学習しています。
She named the dog Pochi.
彼女は、その犬をポチと名付けた。
こういう文を学習したことは、かろうじて覚えている子が多いです。
しかし、
Her parents let her study abroad.
彼女の両親は、彼女が外国で学ぶことを許した。
この文も、中学で学習しているのですが、それについては記憶がない子が大半です。
新課程で、使役動詞 let も、高校の文法事項が中学に降りてきたのですが、なぜかそれだけをぽつんと学習することもあり、記憶に残らない様子です。
SVOCのCが、名詞や形容詞の文は、かろうじて記憶に残る。
しかし、Cが原形不定詞だった文は、記憶に残らない・・・。
それは、1つのヒントかもしれません。
その子の頭の中での「あるべき英語」は、中1レベルの英語であり、それより複雑な文や、そうではない語順の文は、異常な文として、記憶からシャットアウトするのではないか?
主語+be動詞+補語。
主語+一般動詞+目的語。
その語順は、許容できる。
しかし、その後に、また動詞の原形が出てくる文など、許容できない。
そういうのは「よくない英語」として記憶から除去してしまうのではないか?
少なくとも、本人が自力でその語順で英文を組み立てることは、できないのです。
原形不定詞や to 不定詞の部分をCとしてよいかどうか。
このあたりは、正確な英文法では否定的かもしれません。
テキスト等で明示しないことが多いです。
しかし、ここはゆったりざっくりと、SVOCととらえてしまえば、結局全部同じ語順として把握できる英文が多いのです。
私は正しい英文法を修めたいわけではなく、受験に役立つ実用的な英語を教えたい。
SVOCととらえれば、
She named the dog Pochi.
Her parents let her study abroad.
Her parents allowed her to study abroad.
I had my fingers caught in the train doors.
I saw a duck cross the river.
I saw a duck crossing the river.
Cの位置にくるのは、名詞と形容詞の他に、原形不定詞、to不定詞、過去分詞、現在分詞。
これらは、すべて、同じ構造の英文として把握できます。
あとは、Cに何を用いるのかのルールを学べばいいだけ。
それは、その文のVの種類と、OとCとの関係。
根本の語順は、SVOCで変わらない。
この教え方で劇的に高校英語がわかるようになる子もいます。
何だかこまごまとして覚えにくかった英文法が、大きくまとまりますから。
私の「S・V・O・C!」のかけ声で語句を並べる練習を繰り返して、SVOCの語順をマスターしています。
不定詞や分詞の学習でちらちらと出てきてモヤモヤしてしまうのに、文法テキストのまとめ問題や模試問題にはよく出てくる問題。
結局、いつもいつも何だかよくわからずに終わってしまうことが、大きな原則で整理できるのです。
それでも、英語が苦手な子たちは、そうではない奇妙な語順の英語を、しかし、そのほうが正しい語順の気がするからという理由で並べ続けます。
そういう英語のほうが正しい気がする。
明らかに間違っているのですが、本人の中では、自分の誤答の堆積すらも、英語としての記憶なので、同じ誤答を繰り返します。
「学校で、もう学習した内容ですよね?学校の文法のテキストを出してみて。ほら、そこに載っているでしょう、叙述用法」
そうして、もう一度解説しました。
その後、学校の文法テキストの見開き右側ページの練習問題を解くと、それは全部正解できました。
SVC、SVOCのCにあたる分詞を正しい形で使用できたのです。
「教科書の問題は正解できますね」
と私が言うと、その生徒は、奇妙なことを言いだしました。
「これは、答を覚えているから・・・・」
「え・・・・?答を覚えている?」
「復習したという意味ですよ」
「え?」
「・・・・」
「・・・・私は何回解いても、答なんか覚えないけど?」
「・・・・・?」
「何でそんな意味のないことを覚えるの?」
文法は覚えないのに、何で答を覚えるの?
愕然として、私は悟りました。
そういう勉強をしてしまうのか・・・・。
なぜ英語が得意にならないのか、その一端が垣間見えた気がするのです。
いや、英語に限らずなぜ勉強が得意にならないか。
努力をしているのは伝わってくるのに、なぜ結果が出ないのか。
その一端が見えた気がしました。
うちの塾で、歴代でも最も英語が得意だった子は、90分の授業時間の中で、問題のぎっしり詰まったテキストや確認テストを毎回平均12ページ解いて帰っていきました。
30分あたり4ページ。
答え合わせの時間もありますから、1枚解くのに5~6分というところでしょう。
決して速すぎるわけではありません。
後に国立大学に合格したその子は、1冊40ページのテキストの残りのページを丸ごと宿題に出しても翌週全部解いてきていました。
しかし、英語が苦手な子たちのスピードはガクッと落ちます。
上に書いた高校生は、最初にいろいろ説明しなければなりませんでしたし、間違えているとさらに説明する時間も長くなるのですが、演習スピード自体も遅く、90分の中で結局1ページしか問題を解けないことが多かったのです。
そしてその1ページの問題の答えを覚えることが、その子にとっての復習なのだとしたら・・・・。
12ページと1ページ。
塾だけで12ページ解く子が、問題の答えを覚えているかといったら、覚えているはずがありません。
いちいち答えを覚えていられるような量ではありません。
余程印象的な問題が含まれていたら別でしょうが、翌週同じ問題を渡しても、同じだと気づかず解き終わるかもしれません。
学習した文法にしたがってサクサク解いているだけだからです。
英語コミュニケーション教科書の重要文を日本語訳から復元するための暗唱はしていました。
単語の暗記もやっていました。
そういう暗記はするのです。
でも、文法テキストの問題の答えは覚えない。
何度解いても正答できましたが、それは、答えを覚えているからではなかったでしょう。
復習すると自然に答えを覚えてしまうのだ。
そういう反論はあるかもしれません。
それでも、「その勉強のやり方は変えなさい」と言わざるをえません。
類題は正答できないのなら、なおのこと。
問題の見た目が変わると、自分はどうも解けなくなるんだなあ・・・。
何の文法事項の問題なのか、わからないし・・・。
そういう自覚があるのなら、それは、勉強のやり方に課題があるのです。
教科書の問題の答えは覚えても、もっと重要なことを覚えていないのです。
その問題を解く中で抽出し理解するべき文法を把握できていません。
答えを覚えてしまうくらいに数少ない問題をねっとり見つめ続けているのに、それが文法把握につながっていないのです。
有効なやり方は正反対のものです。
教科書の問題の答えは覚えていないけれど、文法は覚えた。
多くの問題練習でその文法を実践できるようになった。
だから、教科書の問題は何度解いても正答できる。
他の問題も正答できる。
定期テストの問題も正答できる。
入試問題も正答できる。
文法の勉強はそういうふうにやっていってほしいです。
「英語って文法だよ」
「SVOCMの位置に、単語をぽんぽんぽんと入れていくだけだよ」
「慣用表現以外は、理屈だよ」
という私の説明が理解できると、ロケット並みの成績上昇を見せる子がいます。
英語のシステムは理解しやすく明瞭で好ましい。
こういう感覚になれば、あとは単語・熟語さえ覚えればどうにでもなるとわかりますので、覚えることにも抵抗がなくなります。
有効な学習方法を体得できれば、その後は、速いのです。
ただ、そこまでが長く、苦しい。
いつまでも、いつまでも、SVOCという文型の存在を把握できない子は多いです。
そのような語順の英文があることを発想できず、空所補充問題も乱文整序問題も、すべて間違えます。
SVOCのCに、to 不定詞を入れるか、原形不定詞を入れるか、現在分詞か、過去分詞か。
そのような文法問題の典型題が、その子にとっては、そのような切り口には全く見えない。
熟語問題か何かにしか見えていないのだと思うのです。
1つの英文を作るとき、「まず主語は?」とシステム的に考えず、「これと似た英文を前に見たことはなかっただろうか?」と自分の記憶をたぐりよせようとします。
だから、乱文整序や和文英訳で誤答した後の解説で、私が、「まず、この文の主語は?」と問いかけると、その発想自体がなかったかのように絶句します。
文法的には10個未満の例文把握で済むことを、何千もの英文を丸暗記することでカバーしていくしかない・・・。
それが、その子にとっての英語学習なのかもしれません。
でも、普通は、そのような暗記力はないのです。
だから、英語ができるようにならない・・・。
そして、それは、英語だけの話ではなく、他の科目でも、学力が伸びない根本に、そういうことがあるのだと思うのです。
根本のルール、根本の理屈を理解せず、表面だけ追って、表面の解き方だけ丸暗記して、そして、すぐに忘れていく・・・。
本質に手が届けばいいのです。
本質に意識が届けば、後は速いのです。
だから、私は繰り返し繰り返し、S・V・O・Cと生徒に声をかけ続けます。
いつか、その意味が、その子の脳に届くことを信じて。
2023年08月26日
自分のミスを自分で修正する力。
生徒と大学入試共通テストの模試問題を解いていたときのことです。
英語力のある子ですので、共通テストの英語リーディングなら、100点満点のうち90点以上は取りたい。
共通テストは、易しい英文を80分で大量に読まなくてはなりません。
そういう意味で、ペース配分の難しさはありますが、大問1の最初の英文などは、中学生でも読めるものです。
その模試も、最初の英文は、非常に易しい内容でした。
それは、学校の掲示板に貼られていた英文という設定でした。
日本語に訳してみます。
ぼくは、1年間ここで学ぶためにロンドンから来ました。
ぼくの日本語の能力は基本的なものですが、みなさんの助けで、すぐに向上できると思います。
ぼくは新しいロックバンドを作るために仲間を探しています。
ぼくは故郷で日本の音楽を沢山聴きました。
そして、去年、有名な日本のミュージシャンの素晴らしいコンサートにいくつか行きました。
すごくかっこいいと思いましたが、歌の意味がわかりませんでした。
そういうわけで、ぼくは日本語を学び始め、ここに来ることに決めました。
ぼくは、自分たちのバンドが日本語と英語でパフォーマンスをするのを望みます。
そうすれば、あなたの英語もきっと上達するでしょう。
高校三年生が読む英文としては、非常に易しい。
ところが、英語秀才が、この英文をなかなか読み取れなかったのです。
状況と人間関係がよくわからない、というのです。
設問の大半にはかろうじて正答していましたが、難しかったし時間がかかったというのです。
こんなシンプルな英文のどこに落とし穴があるのでしょう?
実は、この告知文の上には、短い英文が載っていました。
You visited your school bulletin board where students often share information.
あなたは、生徒たちがよく情報を共有する学校の掲示板を訪れた。
ここで、難しい単語はただの1語「bulletin」ですし、これは読解の妨げにはならないと思います。
こんな1語くらい、意味がわからなくても、前後から推測できます。
「生徒たちが情報を共有する」bulletin board。
それは、掲示板でしょう。
内容から考えても、これは学校の掲示板に貼られた文章です。
ところが、その子は、bulletin を、Britain と読み間違えたのです。
私が、生徒のその誤読に気づくまで、本当に時間がかかりました。
そんな誤読、起こるわけがない。
大文字で始まっていないし、スペルもかなり異なるのだし。
そもそも、そんな勘違いをするような学力の子ではないのに、なぜ?
でも、どんな誤読も、起こるときは起こるのです。
school Briten board って、何?
そもそも、その言葉が奇妙なので、そこで自分の誤読に気づいても良さそうなのですが、誤読しやすい子は、そこで引き返さないのです。
「これは、イギリスの掲示板」
と、そこは断定してしまうのが、誤読のメカニズムです。
そうなると、この告知を書いた少年は、イギリスにいて、イギリス人の生徒たちに向けて告知しています。
この少年がイギリスにいると断定したうえで、上の文章をもう一度読んでください。
わかりにくいです。
矛盾に満ちています。
この少年は、いったい何を言っているんだろう?
ロンドンから、イギリスのどこか他の町に、やって来たのだろうか?
それで何で日本語がどうとか言っているのだろう?
どういうこと?
それで、バンドを結成する?
バンドを結成するために、この町に来たの?
日本語と英語の両方を使うバンドを、イギリスで?
この少年は、誰に向かって何を言っているの?
この意味不明な状況を、論理的に飲み込もう、何とか辻褄を合わせようとして読むので、ひどく読みにくく、意味をつかみにくい英文になったようなのです。
いや、そんな無理な辻褄合わせをするより、最初に戻って、自分の誤読に気づけばいいだけなのに・・・。
こんな誤読のため、大問1の読解に時間がかかってしまい、焦りが生じて、あとはドミノ倒し。
得意な英語でこの子がなぜこんな出来なんだろう、という得点になってしまっていました。
一般に、英語は、スペルの似た単語が多いです。
例えば、through , thought , though などは、よく似たスペルの語です。
ただ、これらの単語は、英文の中で出てくる場所が異なります。
意味も大きく異なるので、文脈上、どの単語であるか特定しやすい。
だから、本来、誤読する可能性は低いのです。
英語が得意な人は、これらの語のスペルが似ていると感じたことすらないかもしれません。
それぞれ、全く別の単語として認識できますので、紛らわしくないのです。
ところが、誤読する子もいます。
まず、音読できません。
訳も、意味を取り違えて変な訳をしてしまいます。
一つには、個々の単語を把握できていない、ということがあるかもしれません。
thought という単語が、何かの過去分詞だったのは、ぼんやりと覚えている。
一方、through という前置詞や、though という接続詞は、その存在を把握していない。
何度も教科書その他の英文に出てきている単語なのですが、前置詞や接続詞を無視する心理的傾向があるようで、覚えられない。
前置詞といえば、on , at , in , to , from くらいしかイメージにない。
それも、言われればわかるけれど、自分では書き忘れる。
接続詞といえば、and , but , because くらいしかわからない。
それ以外のものもあると言われると、何となく不愉快で、嫌な気分になる。
もやもやと、似ているものがあったようだという印象しか残らない・・・。
英語が苦手な子の典型的な状態です。
これは、基礎力不足なので、誤読が大きな課題、というわけではないと思います。
根本の問題は、英語力不足です。
英語学習にそれなりの時間をかけて、努力をして脱出してほしいです。
気になるのは、そうではない誤読。
十分な力があるのに、なぜ、ふっと奇妙な誤読をしてしまうのか?
それもまた英語力の一種なのだといってしまえばそれまでなのですが、それでは可哀相です。
努力しているのに、なぜ、そうなってしまうのか。
振り返ると、私も、生徒の前で音読するときなどに単語を読み間違うことがあります。
でも、すぐに気づいて、読み直します。
すぐに、あ、間違えた、違う単語だと気づくのです。
間違えることは、ある。
でも、自分で気づく。
自分が間違える可能性を想定しているからです。
一方、誤読をしやすい人は、自分が誤読をしたことに気づかず、そのまま突き進んでしまう傾向が強いです。
自分が何か読み間違えているんじゃないかと思うことがないようなのです。
誤読しやすい人は、自分が間違える可能性を想定していないのではないか?
何かおかしいと感じたときに、そのままの方向で辻褄合わせをしてしまい、後戻りできない。
自分のやったことを点検する機能が働いていない。
先ばかり見てしまい、視野が狭い。
では、なぜ、視野が狭いのか?
それは、経験値が足りないからでしょうか。
そうなのだとすれば。
本番の前に、できるだけ失敗しておくことです。
そして、自分が誤読しやすいことを、自覚しておくこと。
自分の特徴、特性を知っておくことは、最大の武器です。
英語力のある子ですので、共通テストの英語リーディングなら、100点満点のうち90点以上は取りたい。
共通テストは、易しい英文を80分で大量に読まなくてはなりません。
そういう意味で、ペース配分の難しさはありますが、大問1の最初の英文などは、中学生でも読めるものです。
その模試も、最初の英文は、非常に易しい内容でした。
それは、学校の掲示板に貼られていた英文という設定でした。
日本語に訳してみます。
ぼくは、1年間ここで学ぶためにロンドンから来ました。
ぼくの日本語の能力は基本的なものですが、みなさんの助けで、すぐに向上できると思います。
ぼくは新しいロックバンドを作るために仲間を探しています。
ぼくは故郷で日本の音楽を沢山聴きました。
そして、去年、有名な日本のミュージシャンの素晴らしいコンサートにいくつか行きました。
すごくかっこいいと思いましたが、歌の意味がわかりませんでした。
そういうわけで、ぼくは日本語を学び始め、ここに来ることに決めました。
ぼくは、自分たちのバンドが日本語と英語でパフォーマンスをするのを望みます。
そうすれば、あなたの英語もきっと上達するでしょう。
高校三年生が読む英文としては、非常に易しい。
ところが、英語秀才が、この英文をなかなか読み取れなかったのです。
状況と人間関係がよくわからない、というのです。
設問の大半にはかろうじて正答していましたが、難しかったし時間がかかったというのです。
こんなシンプルな英文のどこに落とし穴があるのでしょう?
実は、この告知文の上には、短い英文が載っていました。
You visited your school bulletin board where students often share information.
あなたは、生徒たちがよく情報を共有する学校の掲示板を訪れた。
ここで、難しい単語はただの1語「bulletin」ですし、これは読解の妨げにはならないと思います。
こんな1語くらい、意味がわからなくても、前後から推測できます。
「生徒たちが情報を共有する」bulletin board。
それは、掲示板でしょう。
内容から考えても、これは学校の掲示板に貼られた文章です。
ところが、その子は、bulletin を、Britain と読み間違えたのです。
私が、生徒のその誤読に気づくまで、本当に時間がかかりました。
そんな誤読、起こるわけがない。
大文字で始まっていないし、スペルもかなり異なるのだし。
そもそも、そんな勘違いをするような学力の子ではないのに、なぜ?
でも、どんな誤読も、起こるときは起こるのです。
school Briten board って、何?
そもそも、その言葉が奇妙なので、そこで自分の誤読に気づいても良さそうなのですが、誤読しやすい子は、そこで引き返さないのです。
「これは、イギリスの掲示板」
と、そこは断定してしまうのが、誤読のメカニズムです。
そうなると、この告知を書いた少年は、イギリスにいて、イギリス人の生徒たちに向けて告知しています。
この少年がイギリスにいると断定したうえで、上の文章をもう一度読んでください。
わかりにくいです。
矛盾に満ちています。
この少年は、いったい何を言っているんだろう?
ロンドンから、イギリスのどこか他の町に、やって来たのだろうか?
それで何で日本語がどうとか言っているのだろう?
どういうこと?
それで、バンドを結成する?
バンドを結成するために、この町に来たの?
日本語と英語の両方を使うバンドを、イギリスで?
この少年は、誰に向かって何を言っているの?
この意味不明な状況を、論理的に飲み込もう、何とか辻褄を合わせようとして読むので、ひどく読みにくく、意味をつかみにくい英文になったようなのです。
いや、そんな無理な辻褄合わせをするより、最初に戻って、自分の誤読に気づけばいいだけなのに・・・。
こんな誤読のため、大問1の読解に時間がかかってしまい、焦りが生じて、あとはドミノ倒し。
得意な英語でこの子がなぜこんな出来なんだろう、という得点になってしまっていました。
一般に、英語は、スペルの似た単語が多いです。
例えば、through , thought , though などは、よく似たスペルの語です。
ただ、これらの単語は、英文の中で出てくる場所が異なります。
意味も大きく異なるので、文脈上、どの単語であるか特定しやすい。
だから、本来、誤読する可能性は低いのです。
英語が得意な人は、これらの語のスペルが似ていると感じたことすらないかもしれません。
それぞれ、全く別の単語として認識できますので、紛らわしくないのです。
ところが、誤読する子もいます。
まず、音読できません。
訳も、意味を取り違えて変な訳をしてしまいます。
一つには、個々の単語を把握できていない、ということがあるかもしれません。
thought という単語が、何かの過去分詞だったのは、ぼんやりと覚えている。
一方、through という前置詞や、though という接続詞は、その存在を把握していない。
何度も教科書その他の英文に出てきている単語なのですが、前置詞や接続詞を無視する心理的傾向があるようで、覚えられない。
前置詞といえば、on , at , in , to , from くらいしかイメージにない。
それも、言われればわかるけれど、自分では書き忘れる。
接続詞といえば、and , but , because くらいしかわからない。
それ以外のものもあると言われると、何となく不愉快で、嫌な気分になる。
もやもやと、似ているものがあったようだという印象しか残らない・・・。
英語が苦手な子の典型的な状態です。
これは、基礎力不足なので、誤読が大きな課題、というわけではないと思います。
根本の問題は、英語力不足です。
英語学習にそれなりの時間をかけて、努力をして脱出してほしいです。
気になるのは、そうではない誤読。
十分な力があるのに、なぜ、ふっと奇妙な誤読をしてしまうのか?
それもまた英語力の一種なのだといってしまえばそれまでなのですが、それでは可哀相です。
努力しているのに、なぜ、そうなってしまうのか。
振り返ると、私も、生徒の前で音読するときなどに単語を読み間違うことがあります。
でも、すぐに気づいて、読み直します。
すぐに、あ、間違えた、違う単語だと気づくのです。
間違えることは、ある。
でも、自分で気づく。
自分が間違える可能性を想定しているからです。
一方、誤読をしやすい人は、自分が誤読をしたことに気づかず、そのまま突き進んでしまう傾向が強いです。
自分が何か読み間違えているんじゃないかと思うことがないようなのです。
誤読しやすい人は、自分が間違える可能性を想定していないのではないか?
何かおかしいと感じたときに、そのままの方向で辻褄合わせをしてしまい、後戻りできない。
自分のやったことを点検する機能が働いていない。
先ばかり見てしまい、視野が狭い。
では、なぜ、視野が狭いのか?
それは、経験値が足りないからでしょうか。
そうなのだとすれば。
本番の前に、できるだけ失敗しておくことです。
そして、自分が誤読しやすいことを、自覚しておくこと。
自分の特徴、特性を知っておくことは、最大の武器です。
2023年07月30日
読み取りにくい英語長文を読むとき。
大学入試過去問の英語長文読解問題を生徒に宿題とし、そのため自分も読むことが多いですが、
「これは読みにくいな」
と感じる長文もあります。
例えば、こんな一節。
Another interesting idea Sue discusses is Damasio's hypothesis that we have body reactions or "body-centered markers" that link certain thoughts with emotional states, making them unpleasant, and focusing us on thoughts that are more acceptable.
1文の中に関係代名詞節が多用されています。
主語にも補語にも。
そして、補語を説明するthat節の中に、さらに関係代名詞節による修飾がされています。
これは読みにくい・・・。
しかも、こういう文章を書く人は、語る内容も抽象的でわかりにくいことが多いのです。
訳してみましょう。
「スーが論じているもう1つの興味深い考えは、私たちは身体的反応や肉体を中心とするマーカーを持っており、それらがある種の思考を心の状態と結びつけ、思考を不快なものにしたり、より受け入れやすい思考に私たちの意識を集中させる、というダマシオの仮説である」
・・・どういうこと?
先日、生徒とこの長文の宿題の答えあわせをしました。
その生徒は、問題8問中、7問正解していました。
誤答の1問を解説して次に進もうとしたところ、その生徒がこうつぶやきました。
「正解しているけれど、文章の意味がわからない」
「・・・」
これは、その子が実際に受験するわけではない大学・学部の入試問題の過去問でした。
そういう演習をできるレベルに達している生徒です。
そのレベルの生徒になりますと、私の授業も実践的になります。
とにかく、どうやって正解したらいいのか。
訳のわからない英文を読まされて、それでも設問に正解するには、どうするのか。
どうやってその英文の要旨をつかみ、同時に些末なところは訳がわからなくても無視して、正解を出していくか。
そういう、入試に向けての演習となります。
大学入試問題は、問題文の英文がわかりにくい場合、それに反して設問は平易なことが多いです。
細部はよくわからなくても、各段落のわかりやすい文をしっかり読み、文脈を把握すれば、正答できます。
くどくどと何か言っているけれど、実際どういうことなのかよくわからないし、文脈全体にも実はさほど影響しないところは、ざっくりと読み捨てることが可能です。
そうした英語長文問題を読む技術もよく身についている生徒です。
この英文にタイトルをつけるとしたら、という四択問題も正答していました。
だから、それでいいといえばいいのですが、何だかモヤモヤが残る・・・。
読んだ気がしない。
「・・・大丈夫ですよ。この文章は、日本語で書いてあっても、何が言いたいのかよくわからないですから」
生徒は、少しほっとした顔になりました。
実際、上の文はキーセンテンスという訳ではなく、放り投げるように述べられるのみで、それをかみくだいた解説はされないのです。
例えば、「肉体を中心とするマーカー」というのは何であるのか、前後を読んでも、何も説明されていませんでした。
すぐに次の話に移っていきます。
こういう、放り投げるように訳のわからないことを書く人はいるので、無視していいと、私は思います。
どういうことなのか、読者にわからせる意図があまりないように感じます。
上の文の後に続く英文を日本語にすると、
「このことがきっかけで、好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制について彼女は考えるようになった」
となり、上の文の意味はわからなくても話は先に進んでいくのです。
そして、その先、「好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制」ということの意味も語られることなく論理は進んでいきます。
ひと言書いたからもういいだろうとでもいうように、話はどんどん先に進んでいくのです。
何でこんな英文を入試に出題するのか。
それは、こういう英文にそれでも爪を立てることができる学生を欲しているということなのだと思います。
読みやすい文章しか読めない学生は要らない。
それは、わからないでもありません。
今や、日本語で書いてあるものですら、読みやすい文章しか読めない子もいます。
読みやすいことが何よりも大切であるとする価値観も存在します。
それもまた愚かなことです。
しかし、わかりやすく語れることを、わざわざ難解に語るのも、くだらない。
難解なだけの文章など、受験テクニックで読み流してやればいいと、私は思っています。
著者の張る無駄な煙幕は無視する。
些末なところは、そもそも、読まない。
とはいえ、私は個人的には読書が好きなので、読むのなら読む価値のあるものを読みたいという気持ちがあります。
せっかく英語力のついた生徒と英文を読んでいるのだから、受験テクニック中心の解説授業の後でも、この文章は面白かったね、と感想を語りあえるような英文を読めるのなら、そのほうがいい。
そんなことを思っていたとき、これは日本語で書かれた随筆を最近読みました。
大江健三郎『定義集』。
2012年に出版された本で、そのときに購入したのですが、積んでおくだけの本も多い私は、11年経って、ようやく読み始めました。
その中の一節に、英語学習の仕方についての文章がありました。
翻訳の文章は頭に入りにくいものがある。スッキリ理解するために良い方法はありますか、と著者は若い人に質問されたというのです。
以下、上の『定義集』から引用します。
ある、と私は答えました。きみは英語が読めるはず。英語の原書からの翻訳で考えよう。私の自己流のやり方が役に立つと思います。翻訳を読んで面白く思うところは赤鉛筆で囲む。わかりにくいと感じれば、青鉛筆で。
これを習慣にする。なかでとくにしっかり読みたい本の原書を、大きい書店かアマゾンで手に入れる。それからまずやることは、もう一度翻訳を読んで、囲ったところを原文で写す作業。それをやるうち、自分の語学力で読みとれる本であるかどうかはわかる。初めは易しく感じられる本がいい。それをやる段階で、きみは面白く、大切だとも感じた箇所を、原語で読み直す喜びをすでにあじわっている。
さてこれからきみは、本腰を入れていくことになる。翻訳の青線部分を何度もゆっくり読む。続いて写した原書のその部分を、ていねいに辞書を引きながら読みとってゆく。頭に入らないと感じながらでも、くりかえし読んだ翻訳が記憶にあって、原文を読むのをたすけてくれる。そして、ここがわかりにくいと感じるところを自分で解釈して、なんとか自分でわかる訳をつけてみる。(写したノートに、幾通りもやってみるのがいい)。
そのうちわかりにくかった翻訳の一節に自分のつけた訳文が添え木の役割をはたして、こういう意味なんだ、とつかめてくる。そこで、わかったとおりに、自分としての定訳を書き込むことができれば、難所は通過できたのだ。むしろ私にとっては、そういう自分の訳をつけてみる必要がないだけに、すでに原文のその箇所がなっとくできている、という場合が多かった。
それから、次つぎの青線部分へと同じことをやってゆくと、原書を通して読むのと変わらない。やがてこの方法から翻訳のない本を読む道がひらけてくる・・・それでも、私がよく思い出すのは、翻訳と辞書を左右に、真ん中に原書を置いて一冊読み終わっての、頭だけじゃなく全身運動をやりとげた爽快感!
引用、終わります。
さすが、大江健三郎。
この部分を読んで、自分が静謐な書斎か大学図書館にでもいるような気持ちになりました。
私は「受験屋」ですから、入試で合格するための英語指導をします。
その一方で、自分自身の英語学習を思い返すとき、大江健三郎さんの書いていることは、腑に落ちるものがあるのです。
私自身の英語力が「あのとき飛躍した」と感じたやり方は、これと同じではないけれど、それに通じるものがあった気がします。
読む能力よりも、聴きとる能力のほうでの体験ですが。
例えば、エミネムが一時期好きで、何百回と繰り返し聴いていたとき、ふと耳にした英語ニュースが今までと比較にならないほどクリアに聴きとれる経験をしました。
また、『ノッティングヒルの恋人』という映画が好きで、英語・日本語対訳の脚本集を片手に何十回と見ると、映画の中のぼそぼそとつぶやくような早口のセリフが聴き取れるようになりました。
目的が明確ではなく、ただ好きなものを深追いしていたときに、目的としていなかった効果が表れたのです。
勿論、私は、もっと目的が明確で能率的な英語学習もしていました。
単語集付属のCDをウォークマンに落とし、通勤電車の中で、あるいは山を歩きながら、何百回と聴きました。
しかし、それだけでは、もしかしたら途中でうんざりしていたのかもしれません。
実用的な英語学習は、心の栄養にはなりません。
むしろ、能率とか実用とかとは無縁に、好きなものに打ち込んだときに、思いがけない飛躍が訪れました。
私が上にあげた例が、あまりに俗っぽいので、何だかなあと思われる方もいらっしゃると思いますが、英語で書かれた原書を読むということでも、最初からそんなに背伸びする必要はないと思います。
大江健三郎さんが、その文章に続いて若い人にと勧めている本がありました。
以下、再び引用です。
こう話した上で私は若者に、すばらしい訳が岩波少年文庫に入っているフィリパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』と"Tom's Midnight Gaden" PUFFIN BOOKS を推しました。それは私がもう大人になってから、子供のための小説を子供たちと読む企画で、この小説を翻訳と原作あわせて読み、深く印象を受けたからです。
引用終わります。
『トムは真夜中の庭で』は、私は大人になってから読みました。
もっと心が柔らかくみずみずしかった頃に読んだなら、誰にも教えたくない特別な1冊になっていたのかもしれないと感じた小説でした。
そのような小説は、読書が好きな人には誰にもあると思います。
十代の時期に出会った、大切な1冊。
大江健三郎さんは、それを、大人になってから読んでも、同じくらいみずみずしく感動したのでしょうか。
この冬に受験するという人には勧めませんが、まだ時間的に余裕があり、そして、英語が多少は好きで、英語をもっと好きになりたい人は、大江健三郎さんの学習法を、夏休みのように時間に余裕のあるときにやってみるのは意味のあることだと思います。
本物の学問。
本物の教養。
そうしたものの空気だけでも触れることができるような気がします。
そして、そのような姿勢で読むのなら、一番上の英文の意味も、腑に落ちるものなのかもしれません。
入試の英語長文は、長いエッセイや評論の一部分を切り取ったものである場合も多く、著者の姿勢を否定するには、あまりにも短い。
「肉体を中心とするマーカー」も、実は、入試問題として切り抜かれた以外のどこかで説明されているのかもしれません。
「これは読みにくいな」
と感じる長文もあります。
例えば、こんな一節。
Another interesting idea Sue discusses is Damasio's hypothesis that we have body reactions or "body-centered markers" that link certain thoughts with emotional states, making them unpleasant, and focusing us on thoughts that are more acceptable.
1文の中に関係代名詞節が多用されています。
主語にも補語にも。
そして、補語を説明するthat節の中に、さらに関係代名詞節による修飾がされています。
これは読みにくい・・・。
しかも、こういう文章を書く人は、語る内容も抽象的でわかりにくいことが多いのです。
訳してみましょう。
「スーが論じているもう1つの興味深い考えは、私たちは身体的反応や肉体を中心とするマーカーを持っており、それらがある種の思考を心の状態と結びつけ、思考を不快なものにしたり、より受け入れやすい思考に私たちの意識を集中させる、というダマシオの仮説である」
・・・どういうこと?
先日、生徒とこの長文の宿題の答えあわせをしました。
その生徒は、問題8問中、7問正解していました。
誤答の1問を解説して次に進もうとしたところ、その生徒がこうつぶやきました。
「正解しているけれど、文章の意味がわからない」
「・・・」
これは、その子が実際に受験するわけではない大学・学部の入試問題の過去問でした。
そういう演習をできるレベルに達している生徒です。
そのレベルの生徒になりますと、私の授業も実践的になります。
とにかく、どうやって正解したらいいのか。
訳のわからない英文を読まされて、それでも設問に正解するには、どうするのか。
どうやってその英文の要旨をつかみ、同時に些末なところは訳がわからなくても無視して、正解を出していくか。
そういう、入試に向けての演習となります。
大学入試問題は、問題文の英文がわかりにくい場合、それに反して設問は平易なことが多いです。
細部はよくわからなくても、各段落のわかりやすい文をしっかり読み、文脈を把握すれば、正答できます。
くどくどと何か言っているけれど、実際どういうことなのかよくわからないし、文脈全体にも実はさほど影響しないところは、ざっくりと読み捨てることが可能です。
そうした英語長文問題を読む技術もよく身についている生徒です。
この英文にタイトルをつけるとしたら、という四択問題も正答していました。
だから、それでいいといえばいいのですが、何だかモヤモヤが残る・・・。
読んだ気がしない。
「・・・大丈夫ですよ。この文章は、日本語で書いてあっても、何が言いたいのかよくわからないですから」
生徒は、少しほっとした顔になりました。
実際、上の文はキーセンテンスという訳ではなく、放り投げるように述べられるのみで、それをかみくだいた解説はされないのです。
例えば、「肉体を中心とするマーカー」というのは何であるのか、前後を読んでも、何も説明されていませんでした。
すぐに次の話に移っていきます。
こういう、放り投げるように訳のわからないことを書く人はいるので、無視していいと、私は思います。
どういうことなのか、読者にわからせる意図があまりないように感じます。
上の文の後に続く英文を日本語にすると、
「このことがきっかけで、好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制について彼女は考えるようになった」
となり、上の文の意味はわからなくても話は先に進んでいくのです。
そして、その先、「好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制」ということの意味も語られることなく論理は進んでいきます。
ひと言書いたからもういいだろうとでもいうように、話はどんどん先に進んでいくのです。
何でこんな英文を入試に出題するのか。
それは、こういう英文にそれでも爪を立てることができる学生を欲しているということなのだと思います。
読みやすい文章しか読めない学生は要らない。
それは、わからないでもありません。
今や、日本語で書いてあるものですら、読みやすい文章しか読めない子もいます。
読みやすいことが何よりも大切であるとする価値観も存在します。
それもまた愚かなことです。
しかし、わかりやすく語れることを、わざわざ難解に語るのも、くだらない。
難解なだけの文章など、受験テクニックで読み流してやればいいと、私は思っています。
著者の張る無駄な煙幕は無視する。
些末なところは、そもそも、読まない。
とはいえ、私は個人的には読書が好きなので、読むのなら読む価値のあるものを読みたいという気持ちがあります。
せっかく英語力のついた生徒と英文を読んでいるのだから、受験テクニック中心の解説授業の後でも、この文章は面白かったね、と感想を語りあえるような英文を読めるのなら、そのほうがいい。
そんなことを思っていたとき、これは日本語で書かれた随筆を最近読みました。
大江健三郎『定義集』。
2012年に出版された本で、そのときに購入したのですが、積んでおくだけの本も多い私は、11年経って、ようやく読み始めました。
その中の一節に、英語学習の仕方についての文章がありました。
翻訳の文章は頭に入りにくいものがある。スッキリ理解するために良い方法はありますか、と著者は若い人に質問されたというのです。
以下、上の『定義集』から引用します。
ある、と私は答えました。きみは英語が読めるはず。英語の原書からの翻訳で考えよう。私の自己流のやり方が役に立つと思います。翻訳を読んで面白く思うところは赤鉛筆で囲む。わかりにくいと感じれば、青鉛筆で。
これを習慣にする。なかでとくにしっかり読みたい本の原書を、大きい書店かアマゾンで手に入れる。それからまずやることは、もう一度翻訳を読んで、囲ったところを原文で写す作業。それをやるうち、自分の語学力で読みとれる本であるかどうかはわかる。初めは易しく感じられる本がいい。それをやる段階で、きみは面白く、大切だとも感じた箇所を、原語で読み直す喜びをすでにあじわっている。
さてこれからきみは、本腰を入れていくことになる。翻訳の青線部分を何度もゆっくり読む。続いて写した原書のその部分を、ていねいに辞書を引きながら読みとってゆく。頭に入らないと感じながらでも、くりかえし読んだ翻訳が記憶にあって、原文を読むのをたすけてくれる。そして、ここがわかりにくいと感じるところを自分で解釈して、なんとか自分でわかる訳をつけてみる。(写したノートに、幾通りもやってみるのがいい)。
そのうちわかりにくかった翻訳の一節に自分のつけた訳文が添え木の役割をはたして、こういう意味なんだ、とつかめてくる。そこで、わかったとおりに、自分としての定訳を書き込むことができれば、難所は通過できたのだ。むしろ私にとっては、そういう自分の訳をつけてみる必要がないだけに、すでに原文のその箇所がなっとくできている、という場合が多かった。
それから、次つぎの青線部分へと同じことをやってゆくと、原書を通して読むのと変わらない。やがてこの方法から翻訳のない本を読む道がひらけてくる・・・それでも、私がよく思い出すのは、翻訳と辞書を左右に、真ん中に原書を置いて一冊読み終わっての、頭だけじゃなく全身運動をやりとげた爽快感!
引用、終わります。
さすが、大江健三郎。
この部分を読んで、自分が静謐な書斎か大学図書館にでもいるような気持ちになりました。
私は「受験屋」ですから、入試で合格するための英語指導をします。
その一方で、自分自身の英語学習を思い返すとき、大江健三郎さんの書いていることは、腑に落ちるものがあるのです。
私自身の英語力が「あのとき飛躍した」と感じたやり方は、これと同じではないけれど、それに通じるものがあった気がします。
読む能力よりも、聴きとる能力のほうでの体験ですが。
例えば、エミネムが一時期好きで、何百回と繰り返し聴いていたとき、ふと耳にした英語ニュースが今までと比較にならないほどクリアに聴きとれる経験をしました。
また、『ノッティングヒルの恋人』という映画が好きで、英語・日本語対訳の脚本集を片手に何十回と見ると、映画の中のぼそぼそとつぶやくような早口のセリフが聴き取れるようになりました。
目的が明確ではなく、ただ好きなものを深追いしていたときに、目的としていなかった効果が表れたのです。
勿論、私は、もっと目的が明確で能率的な英語学習もしていました。
単語集付属のCDをウォークマンに落とし、通勤電車の中で、あるいは山を歩きながら、何百回と聴きました。
しかし、それだけでは、もしかしたら途中でうんざりしていたのかもしれません。
実用的な英語学習は、心の栄養にはなりません。
むしろ、能率とか実用とかとは無縁に、好きなものに打ち込んだときに、思いがけない飛躍が訪れました。
私が上にあげた例が、あまりに俗っぽいので、何だかなあと思われる方もいらっしゃると思いますが、英語で書かれた原書を読むということでも、最初からそんなに背伸びする必要はないと思います。
大江健三郎さんが、その文章に続いて若い人にと勧めている本がありました。
以下、再び引用です。
こう話した上で私は若者に、すばらしい訳が岩波少年文庫に入っているフィリパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』と"Tom's Midnight Gaden" PUFFIN BOOKS を推しました。それは私がもう大人になってから、子供のための小説を子供たちと読む企画で、この小説を翻訳と原作あわせて読み、深く印象を受けたからです。
引用終わります。
『トムは真夜中の庭で』は、私は大人になってから読みました。
もっと心が柔らかくみずみずしかった頃に読んだなら、誰にも教えたくない特別な1冊になっていたのかもしれないと感じた小説でした。
そのような小説は、読書が好きな人には誰にもあると思います。
十代の時期に出会った、大切な1冊。
大江健三郎さんは、それを、大人になってから読んでも、同じくらいみずみずしく感動したのでしょうか。
この冬に受験するという人には勧めませんが、まだ時間的に余裕があり、そして、英語が多少は好きで、英語をもっと好きになりたい人は、大江健三郎さんの学習法を、夏休みのように時間に余裕のあるときにやってみるのは意味のあることだと思います。
本物の学問。
本物の教養。
そうしたものの空気だけでも触れることができるような気がします。
そして、そのような姿勢で読むのなら、一番上の英文の意味も、腑に落ちるものなのかもしれません。
入試の英語長文は、長いエッセイや評論の一部分を切り取ったものである場合も多く、著者の姿勢を否定するには、あまりにも短い。
「肉体を中心とするマーカー」も、実は、入試問題として切り抜かれた以外のどこかで説明されているのかもしれません。
2023年07月11日
学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか。
今日は、真面目にテスト勉強はしている様子なのに、なかなか成績が上昇しない高校生について考えます。
考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。
10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
そのように思ったのです。
結局、その予想は外れました。
1つには、私立大学の定員厳格化があります。
極端な水増し合格が許されなくなったのです。
どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。
もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
これは大きかったです。
AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
それが、思いの他、高かったのです。
高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
そういう数字です。
苦手科目を捨てることがない。
こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
それもまた、才能でしょう。
そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。
勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
私も今は推奨しています。
ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
受験勉強しないで合格できるんだから。
学校の成績だけ良ければいいんだから。
そのように考えてしまうのです。
学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
そのように、視野が狭くなっていきます。
これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。
英語の場合で考えてみましょう。
毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
結局、単語のテスト範囲は捨てます。
さらに。
英語の定期テストの出題形式というものがあります。
英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
結果として、英語の定期テストは良くて60点台。
自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?
高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
英語力は、中学英語のまま。
単語力も文法力もない。
そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。
数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
学校の定期テストの点数だけが大事。
だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
一般受験するわけじゃないんだから。
そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
スケジュールは、どんどん遅れていきます。
本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
だから、学校の問題集が大切。
そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。
テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
塾の授業はテストまで何回あるのか?
そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。
この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
「学校の成績だけ良ければいい」
という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。
学校の勉強だけをやりたい。
だって、重要なのは、学校の成績だから。
学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
他のことはやりたくない。
そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
いいえ。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。
勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
それなら、普段からやるしかないでしょう?
それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。
学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?
それは、使い方次第でしょう。
使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。
学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
それは自分で解いたほうが勉強になります。
そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。
数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
それでも、昔に比べれば、随分易しい。
昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
それで失敗する子には、
「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。
繰り返します。
学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。
10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
そのように思ったのです。
結局、その予想は外れました。
1つには、私立大学の定員厳格化があります。
極端な水増し合格が許されなくなったのです。
どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。
もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
これは大きかったです。
AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
それが、思いの他、高かったのです。
高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
そういう数字です。
苦手科目を捨てることがない。
こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
それもまた、才能でしょう。
そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。
勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
私も今は推奨しています。
ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
受験勉強しないで合格できるんだから。
学校の成績だけ良ければいいんだから。
そのように考えてしまうのです。
学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
そのように、視野が狭くなっていきます。
これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。
英語の場合で考えてみましょう。
毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
結局、単語のテスト範囲は捨てます。
さらに。
英語の定期テストの出題形式というものがあります。
英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
結果として、英語の定期テストは良くて60点台。
自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?
高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
英語力は、中学英語のまま。
単語力も文法力もない。
そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。
数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
学校の定期テストの点数だけが大事。
だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
一般受験するわけじゃないんだから。
そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
スケジュールは、どんどん遅れていきます。
本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
だから、学校の問題集が大切。
そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。
テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
塾の授業はテストまで何回あるのか?
そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。
この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
「学校の成績だけ良ければいい」
という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。
学校の勉強だけをやりたい。
だって、重要なのは、学校の成績だから。
学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
他のことはやりたくない。
そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
いいえ。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。
勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
それなら、普段からやるしかないでしょう?
それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。
学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?
それは、使い方次第でしょう。
使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。
学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
それは自分で解いたほうが勉強になります。
そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。
数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
それでも、昔に比べれば、随分易しい。
昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
それで失敗する子には、
「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。
繰り返します。
学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
2023年07月05日
英単語の覚え方。
単語力がないせいで、初見の長文を読み通せない。
単語さえ覚えられれば英語は何とかなるはずなのに、単語が覚えられない。
そういう悩みをもつ高校生は多いです。
教室で英語を教えていても、単語力のない生徒は悩みの種です。
単語暗記を宿題にしたところで、前日か当日にちゃちゃっと覚えてくるだけで、すぐに忘れます。
それすら息切れして、覚えてもこなくなる子もいます。
あまり練習してこないので思い出すのに時間がかかり、テスト時間が長くなります。
週に90分しかない塾での英語の時間を、単語テストに30分以上も浪費する結果になってしまいます。
だからといって、時間を切れば、テストは白紙です。
そうしたことも1度慣れてしまえば、恥ずかしさもなくなるようです。
何年か前、単語暗記の時間を独立させようとして、無料の単語暗記授業を開講したことがありました。
結果は、失敗に終わりました。
無料というのがむしろよくなかったようです。
「用事があるので休みます」
と気軽に欠席する。
出席しても、暗記をちゃんとしてこない。
徒労感に耐え切れず、1年で廃止しました。
そもそも、週に1度では効果は薄いのです。
単語を覚えられない子に単語を覚えさせるためには、毎日つきっきりで教える時間が必要になります。
毎日、この時間は英単語を覚えるという時間の設定があれば、誰でも、ある程度は覚えられます。
塾でそのような授業設定は、しかし、不可能です。
あとは、本人が自分でその時間を設定できるかどうか、です。
結局、単語暗記は、本人の自覚に任せることになります。
その結果は、露骨です。
努力して英単語を覚えている子の英語力は、簡単に偏差値60を越えます。
英検準1級に合格します。
単語を覚える時間を作れない子は、学年が上がっても中学英語の力のまま大学受験を迎えます。
明暗はくっきりと別れます。
その中間という子は、むしろ珍しいのではないかと思います。
単語が覚えられない。
しかし、「覚えられない」とギブアップするほどの努力をしているかというと、大抵の場合、それほどの努力はしていません。
学校で週に1度行われる単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
その後、その範囲を繰り返し復習するかというと、そんなことはしない。
翌週、また単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
単語暗記というと、それしかやっていないという人が大半ではないでしょうか。
そのことを称して、
「覚えようとしても、単語を覚えられない」
と思っているのだとしたら、それは誤解です。
それは、ほとんど何もしていないのと同義です。
単語が覚えられない・・・。
しかし、「覚えられない」と嘆くばかりで、実際は何もしていない場合のほうが多いのです。
英語が苦手な子は、英語にかけている時間が少ないです。
上記の単語テストのための勉強。
あとは、学校の宿題。
定期テストのための勉強。
英語が苦手な子は、それ以外のことはやっていないと思います。
英語の勉強に使っている時間は、せいぜいで週2~3時間ではないでしょうか?
もっと短い場合もあると思います。
それでいて、「英語が苦手」「単語が覚えられない」と嘆いているのが現実です。
とりあえず、毎日1時間英語を勉強し、しかもその半分にあたる30分は単語暗記にあてる。
それだけで、覚え方が多少効率の悪いものであっても、今よりは確実に前進するでしょう。
しかし、それがわかっていても、実行に移せない人は多いのです。
英語だけに毎日1時間なんて、そんな時間はない。
他の科目の勉強もあるのに、そんなバランスの悪いことを言われても・・・。
本人は本気でそう思っています。
スマホをいじる時間を英語の勉強をする時間にスライドするだけで、毎日1時間くらいは作れます。
よく考えたら大して面白くない動画を見ている時間、単なる暇潰しでゲームをしている時間など、無駄に使っている時間はすぐに見つけられるはずです。
他の科目の勉強を圧迫せず、新しい時間を1時間作り出し、それを英語の勉強にあてることができます。
しかし、「時間を作る」という話を聞くと、それだけで疲労感を覚える子もいると思います。
そういう、計画的なきちんとしたことが基本的に嫌いで、圧迫感を受けてしまう・・・。
それは、大人も同じかもしれません。
今、これを読んでいらっしゃるのが、お子さんが英語が苦手で困っている保護者の方であるとして。
お子さんの英語力を伸ばすために、まず自分の英語力を伸ばす。
自分が英語を勉強する時間を毎日1時間作るという話を、今日から実行に移せるでしょうか?
多種多様な理由づけとともに、その案は「却下」ではないでしょうか?
いや、忙しい。
他にやることがある。
子どもだって同じことです。
やらない理由はいくらでも見つかります。
なぜやろうとしないのか?
自分がやらない理由を冷静に分析することで、子どもがやろうとしない理由も分析できるかもしれません。
それが解決に役立つかもしれません。
英語が苦手な子は、まず単語力がありません。
単語を覚えられない子は、上に書いたように、その時間を作っていない場合がほとんどです。
入り口にも立っていないのです。
週に1度、学校の単語テストのために100語くらいを急いで覚えたところで、そんなのは、翌日には忘れます。
反復しない限り、定着しません。
1度で覚えて2度と忘れない方法。
何の努力もせずに気がついたら覚えている方法。
そうしたものを夢見ているうちに、中学英語の実力のまま高校を卒業してしまう子が、日本の高校生の大多数です。
高校3年生の過半数が、英検準2級の実力を持たない、という事実にそれが表れています。
単語の覚え方に「正解」はありません。
本人が覚えやすいと思った覚え方で構いません。
ただ、反復することです。
多少は能率的な覚え方もありますが、結局はどれも反復が必要です。
中には、暗記することが本当に苦手な子もいます。
小学生の頃から、ものを覚えてこなかった子たちです。
算数の九九も、覚えるのが本当につらかった記憶になっている様子です。
暗記が苦手な子は、暗記するときに頭にかかる負荷を嫌う傾向があります。
頭に負荷がかかって苦しい、つらい、と言います。
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと、脳細胞が潰れてしまう」
暗記が苦手な子がこのように発言するのを私は授業中に幾度か聞いています。
小学生もいましたが、高校生の中にもこの発言をする子がいました。
少し奇異に聞こえる発言です。
そういう子に対して、
「何て愚かな発言だろう」
「そんなことだからダメなんだ」
と全否定することもできます。
ですが、頭を使うことに対しての発言だから奇異に感じるだけかもしれません。
例えば、これが息切れの場合、わりとよくある感覚なのではないかと思うのです。
ランニングや山歩きなど。
好きな人は大好きなのですが、忌み嫌う人も多いです。
その根本は「息切れ」することへの嫌悪ではないでしょうか。
息切れするのは苦しい。
苦しいことは嫌い。
息が切れると心臓が止まるような気がする。
息切れするようなことをする人の気が知れない。
スポーツが嫌いな人のこういう感覚をそのまま勉強にスライドすると、それは、
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと脳細胞が潰れる」
という発言と同質のものではないかと思います。
息切れすることが嫌いな人にスポーツを習慣的に行わせることの難しさを思うとき、頭を使うと脳細胞が潰れる気がして頭をフルに使えない子に暗記をさせることの絶望的な難しさを感じます。
相手は、頭を使うことそのものを恐れています。
しかも、これは幼い小学生の発言ではありません。
高校生がこれを言っているのです。
ものを考えたり暗記したりすると脳細胞が潰れると、高校生が本気で思っています。
勉強すると自分の脳はダメージを受けると感じているのです。
だから、ものを考えたり、脳に負荷をかけることを回避しようとします。
使えば使うほど頭はよくなると言葉で説明しても信用しません。
ちょっと運動するとゼイゼイ息切れして苦しそうな人が、短距離走でもマラソン大会でも本気を出せないのと同じです。
全力を出すことを恐れます。
やっていけば慣れるとか、続けることで心肺能力は鍛えられるとか言っても心に響かないのでしょう。
これは難しい・・・。
身体を動かすことが好きな人は、「息切れするから運動は嫌い」と言う人の気持ちはわからないと思います。
なぜそんなにも息切れにこだわるのか、まずそこが理解できないと思うのです。
息切れがなぜそんなに嫌なのだろう?
そんなことより、スポーツには楽しいことが多いから、息なんか切れても別にいいだろうに。
気にしていることのポイントがズレてない?
そう感じると思います。
それと同じで、頭を使うことが好きな人は、「考えたり暗記したりすると脳に負荷がかかるから嫌い」という人が、なぜそんなにも頭への負荷にこだわるのか、そこが理解できないのです。
頭を使うことは楽しいことだから、脳への負荷なんか別にいいじゃない?
そんなことより、何かが理解できたときや、問題が解けたときの楽しさのほうが大きいじゃない?
脳が重くなるとか、なぜ、そんなくだらないことにこだわるの?
そう思うでしょう。
スポーツと勉強と、結局のところ構造は同じで、それを苦痛に感じている人は、気にしているポイントがズレているのです。
でも、本人にとっては実感を伴う、切実なことだとも思うのです。
そこが永遠にわかりあえない壁で終わるのか。
それとも、楽しさ、良さを伝えることができるのか。
いつか、本人が楽しさに気づくことができるのか。
振り返ると、私も息切れするのが大嫌いな子どもでしたが、今は、楽しく山を歩いています。
遠足の山歩きなんて、本当に嫌いだったのですが。
人の意識は何かの拍子に変わります。
私の場合、大人になって、ある日ふと山を歩いてみたくなり、ジーパンにスニーカー、ショルダーバッグという恰好で高尾山をゆっくり歩いてみたら、これが想像を越えて楽しかったのが始まりでした。
子どもの頃の遠足といえば、他人のペースで歩かなければならず、息が切れても休めず、休憩は人が決めた時間に取らねばならず、水分も十分に取れない。
そういう苦痛に満ちた学校遠足とは違う世界がそこにはありました。
英語学習にも、きっとそれがあるはずです。
ある日ふっと、英語を勉強してみようと思う瞬間はあるのだと思うのです。
そのときを逃さないこと。
ふっと飛び越えてみること。
単語集を使って、自分へのテストを繰り返すというやり方が有効なのは言うまでもありません。
たいていの単語集は赤シートをかけてテストしやすいように作られています。
100の単語を覚えたいのなら、1日15単語ずつを7日で覚えるのではなく、1日100単語を7日繰り返す。
このほうが有効です。
そして、学校の単語テストが終わったらそれっきりではなく、反復することです。
単語集は、何周もして初めて意味があります。
5周もすれば、さすがに、その単語集の70%程度の単語は見れば意味がぼんやりとではあるがわかるようになっているでしょう。
その単語力で初見の長文を読んだときに、英文の大意が取れることに自分で驚くと思います。
知らない間に、英文が読めるようになっているのです。
ただし、無理はしないこと。
どうしても嫌な日は休みましょう。
ただ、1日休んだら、もう何もかも終わり、と思うのではなく、また次の日から続けましょう。
ひと月サボってしまっても、また次の日から続けましょう。
少しでも結果が出ることが、楽しさの発見につながるはずです。
結果が出るまで、続けること。
たとえ、ときどき休んでも。
そして、結果が出るまで、諦めないこと。
結果が出ないのは、結果が出る前に途中でやめてしまうからなんです。
単語さえ覚えられれば英語は何とかなるはずなのに、単語が覚えられない。
そういう悩みをもつ高校生は多いです。
教室で英語を教えていても、単語力のない生徒は悩みの種です。
単語暗記を宿題にしたところで、前日か当日にちゃちゃっと覚えてくるだけで、すぐに忘れます。
それすら息切れして、覚えてもこなくなる子もいます。
あまり練習してこないので思い出すのに時間がかかり、テスト時間が長くなります。
週に90分しかない塾での英語の時間を、単語テストに30分以上も浪費する結果になってしまいます。
だからといって、時間を切れば、テストは白紙です。
そうしたことも1度慣れてしまえば、恥ずかしさもなくなるようです。
何年か前、単語暗記の時間を独立させようとして、無料の単語暗記授業を開講したことがありました。
結果は、失敗に終わりました。
無料というのがむしろよくなかったようです。
「用事があるので休みます」
と気軽に欠席する。
出席しても、暗記をちゃんとしてこない。
徒労感に耐え切れず、1年で廃止しました。
そもそも、週に1度では効果は薄いのです。
単語を覚えられない子に単語を覚えさせるためには、毎日つきっきりで教える時間が必要になります。
毎日、この時間は英単語を覚えるという時間の設定があれば、誰でも、ある程度は覚えられます。
塾でそのような授業設定は、しかし、不可能です。
あとは、本人が自分でその時間を設定できるかどうか、です。
結局、単語暗記は、本人の自覚に任せることになります。
その結果は、露骨です。
努力して英単語を覚えている子の英語力は、簡単に偏差値60を越えます。
英検準1級に合格します。
単語を覚える時間を作れない子は、学年が上がっても中学英語の力のまま大学受験を迎えます。
明暗はくっきりと別れます。
その中間という子は、むしろ珍しいのではないかと思います。
単語が覚えられない。
しかし、「覚えられない」とギブアップするほどの努力をしているかというと、大抵の場合、それほどの努力はしていません。
学校で週に1度行われる単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
その後、その範囲を繰り返し復習するかというと、そんなことはしない。
翌週、また単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
単語暗記というと、それしかやっていないという人が大半ではないでしょうか。
そのことを称して、
「覚えようとしても、単語を覚えられない」
と思っているのだとしたら、それは誤解です。
それは、ほとんど何もしていないのと同義です。
単語が覚えられない・・・。
しかし、「覚えられない」と嘆くばかりで、実際は何もしていない場合のほうが多いのです。
英語が苦手な子は、英語にかけている時間が少ないです。
上記の単語テストのための勉強。
あとは、学校の宿題。
定期テストのための勉強。
英語が苦手な子は、それ以外のことはやっていないと思います。
英語の勉強に使っている時間は、せいぜいで週2~3時間ではないでしょうか?
もっと短い場合もあると思います。
それでいて、「英語が苦手」「単語が覚えられない」と嘆いているのが現実です。
とりあえず、毎日1時間英語を勉強し、しかもその半分にあたる30分は単語暗記にあてる。
それだけで、覚え方が多少効率の悪いものであっても、今よりは確実に前進するでしょう。
しかし、それがわかっていても、実行に移せない人は多いのです。
英語だけに毎日1時間なんて、そんな時間はない。
他の科目の勉強もあるのに、そんなバランスの悪いことを言われても・・・。
本人は本気でそう思っています。
スマホをいじる時間を英語の勉強をする時間にスライドするだけで、毎日1時間くらいは作れます。
よく考えたら大して面白くない動画を見ている時間、単なる暇潰しでゲームをしている時間など、無駄に使っている時間はすぐに見つけられるはずです。
他の科目の勉強を圧迫せず、新しい時間を1時間作り出し、それを英語の勉強にあてることができます。
しかし、「時間を作る」という話を聞くと、それだけで疲労感を覚える子もいると思います。
そういう、計画的なきちんとしたことが基本的に嫌いで、圧迫感を受けてしまう・・・。
それは、大人も同じかもしれません。
今、これを読んでいらっしゃるのが、お子さんが英語が苦手で困っている保護者の方であるとして。
お子さんの英語力を伸ばすために、まず自分の英語力を伸ばす。
自分が英語を勉強する時間を毎日1時間作るという話を、今日から実行に移せるでしょうか?
多種多様な理由づけとともに、その案は「却下」ではないでしょうか?
いや、忙しい。
他にやることがある。
子どもだって同じことです。
やらない理由はいくらでも見つかります。
なぜやろうとしないのか?
自分がやらない理由を冷静に分析することで、子どもがやろうとしない理由も分析できるかもしれません。
それが解決に役立つかもしれません。
英語が苦手な子は、まず単語力がありません。
単語を覚えられない子は、上に書いたように、その時間を作っていない場合がほとんどです。
入り口にも立っていないのです。
週に1度、学校の単語テストのために100語くらいを急いで覚えたところで、そんなのは、翌日には忘れます。
反復しない限り、定着しません。
1度で覚えて2度と忘れない方法。
何の努力もせずに気がついたら覚えている方法。
そうしたものを夢見ているうちに、中学英語の実力のまま高校を卒業してしまう子が、日本の高校生の大多数です。
高校3年生の過半数が、英検準2級の実力を持たない、という事実にそれが表れています。
単語の覚え方に「正解」はありません。
本人が覚えやすいと思った覚え方で構いません。
ただ、反復することです。
多少は能率的な覚え方もありますが、結局はどれも反復が必要です。
中には、暗記することが本当に苦手な子もいます。
小学生の頃から、ものを覚えてこなかった子たちです。
算数の九九も、覚えるのが本当につらかった記憶になっている様子です。
暗記が苦手な子は、暗記するときに頭にかかる負荷を嫌う傾向があります。
頭に負荷がかかって苦しい、つらい、と言います。
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと、脳細胞が潰れてしまう」
暗記が苦手な子がこのように発言するのを私は授業中に幾度か聞いています。
小学生もいましたが、高校生の中にもこの発言をする子がいました。
少し奇異に聞こえる発言です。
そういう子に対して、
「何て愚かな発言だろう」
「そんなことだからダメなんだ」
と全否定することもできます。
ですが、頭を使うことに対しての発言だから奇異に感じるだけかもしれません。
例えば、これが息切れの場合、わりとよくある感覚なのではないかと思うのです。
ランニングや山歩きなど。
好きな人は大好きなのですが、忌み嫌う人も多いです。
その根本は「息切れ」することへの嫌悪ではないでしょうか。
息切れするのは苦しい。
苦しいことは嫌い。
息が切れると心臓が止まるような気がする。
息切れするようなことをする人の気が知れない。
スポーツが嫌いな人のこういう感覚をそのまま勉強にスライドすると、それは、
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと脳細胞が潰れる」
という発言と同質のものではないかと思います。
息切れすることが嫌いな人にスポーツを習慣的に行わせることの難しさを思うとき、頭を使うと脳細胞が潰れる気がして頭をフルに使えない子に暗記をさせることの絶望的な難しさを感じます。
相手は、頭を使うことそのものを恐れています。
しかも、これは幼い小学生の発言ではありません。
高校生がこれを言っているのです。
ものを考えたり暗記したりすると脳細胞が潰れると、高校生が本気で思っています。
勉強すると自分の脳はダメージを受けると感じているのです。
だから、ものを考えたり、脳に負荷をかけることを回避しようとします。
使えば使うほど頭はよくなると言葉で説明しても信用しません。
ちょっと運動するとゼイゼイ息切れして苦しそうな人が、短距離走でもマラソン大会でも本気を出せないのと同じです。
全力を出すことを恐れます。
やっていけば慣れるとか、続けることで心肺能力は鍛えられるとか言っても心に響かないのでしょう。
これは難しい・・・。
身体を動かすことが好きな人は、「息切れするから運動は嫌い」と言う人の気持ちはわからないと思います。
なぜそんなにも息切れにこだわるのか、まずそこが理解できないと思うのです。
息切れがなぜそんなに嫌なのだろう?
そんなことより、スポーツには楽しいことが多いから、息なんか切れても別にいいだろうに。
気にしていることのポイントがズレてない?
そう感じると思います。
それと同じで、頭を使うことが好きな人は、「考えたり暗記したりすると脳に負荷がかかるから嫌い」という人が、なぜそんなにも頭への負荷にこだわるのか、そこが理解できないのです。
頭を使うことは楽しいことだから、脳への負荷なんか別にいいじゃない?
そんなことより、何かが理解できたときや、問題が解けたときの楽しさのほうが大きいじゃない?
脳が重くなるとか、なぜ、そんなくだらないことにこだわるの?
そう思うでしょう。
スポーツと勉強と、結局のところ構造は同じで、それを苦痛に感じている人は、気にしているポイントがズレているのです。
でも、本人にとっては実感を伴う、切実なことだとも思うのです。
そこが永遠にわかりあえない壁で終わるのか。
それとも、楽しさ、良さを伝えることができるのか。
いつか、本人が楽しさに気づくことができるのか。
振り返ると、私も息切れするのが大嫌いな子どもでしたが、今は、楽しく山を歩いています。
遠足の山歩きなんて、本当に嫌いだったのですが。
人の意識は何かの拍子に変わります。
私の場合、大人になって、ある日ふと山を歩いてみたくなり、ジーパンにスニーカー、ショルダーバッグという恰好で高尾山をゆっくり歩いてみたら、これが想像を越えて楽しかったのが始まりでした。
子どもの頃の遠足といえば、他人のペースで歩かなければならず、息が切れても休めず、休憩は人が決めた時間に取らねばならず、水分も十分に取れない。
そういう苦痛に満ちた学校遠足とは違う世界がそこにはありました。
英語学習にも、きっとそれがあるはずです。
ある日ふっと、英語を勉強してみようと思う瞬間はあるのだと思うのです。
そのときを逃さないこと。
ふっと飛び越えてみること。
単語集を使って、自分へのテストを繰り返すというやり方が有効なのは言うまでもありません。
たいていの単語集は赤シートをかけてテストしやすいように作られています。
100の単語を覚えたいのなら、1日15単語ずつを7日で覚えるのではなく、1日100単語を7日繰り返す。
このほうが有効です。
そして、学校の単語テストが終わったらそれっきりではなく、反復することです。
単語集は、何周もして初めて意味があります。
5周もすれば、さすがに、その単語集の70%程度の単語は見れば意味がぼんやりとではあるがわかるようになっているでしょう。
その単語力で初見の長文を読んだときに、英文の大意が取れることに自分で驚くと思います。
知らない間に、英文が読めるようになっているのです。
ただし、無理はしないこと。
どうしても嫌な日は休みましょう。
ただ、1日休んだら、もう何もかも終わり、と思うのではなく、また次の日から続けましょう。
ひと月サボってしまっても、また次の日から続けましょう。
少しでも結果が出ることが、楽しさの発見につながるはずです。
結果が出るまで、続けること。
たとえ、ときどき休んでも。
そして、結果が出るまで、諦めないこと。
結果が出ないのは、結果が出る前に途中でやめてしまうからなんです。
2023年06月22日
英語の誤読。書いてないことを読み取ってしまう。
画像はクサタチバナ。何年か前のこの時期に、三つ峠山で撮影したものです。
さて、今回は英語の話。
誤読のメカニズムについて。
英語の問題を解く場合、誤読の最大の原因は単語力不足です。
前にも書きましたが、例えば、英検過去問の、メールを読み取る問題で。
乳幼児を持つ親が、保健所に予防接種をどこで受けることができるか問い合わせるメールの読み取りだったのですが、その子は、高校生であるにも関わらず、単語力は中学英語から一歩も先に進めなかった子でした。
英文を読もうとしても基本的に虫食い状態の文章を読んでいるようなものでした。
結局、本文中に出てきた department というただ1語にすがるようにして、その英文を、デパートに対してクレームを入れているメール、と誤読していました。
たった1語で、そんな妄想を展開できることにむしろ驚きましたが、英文が読めないということは、そういうことなのだと改めて感じました。
department は、部署といった意味です。
日本語の百貨店、デパートは、department store です。
こういうことの解決は、もっとも単純で、もっとも難しいです。
単語力をつければいいだけなのですが、その単語力をつけられず、日々を空費してしまう生徒が多いのが実情です。
「単語を覚えられない。どうすれば覚えられるんですか?」
という子は、実際のところ、それほど覚える努力をしていないのです。
単語を覚えることに時間も労力も使っていません。
もっと楽に単語を覚える方法があるはずなのに、自分はそれを知らないから覚えられないのだ、と誤解しているのかもしれません。
そんな方法はないと見切って、今日からでも地道に努力すれば、一歩でも先に進めます。
でも、その一歩が踏み出せない。
単語を覚える時間を、1日の中に設定できない。
単語力がないから英文が読めないということは理解していても、何もしないで1日1日が過ぎていきます。
単語を覚えるには、反復しかありません。
人によって続けられる方法、好む方法は異なると思いますが、要するに、どれだけ反復するか、です。
単語集に赤シートをかけて、テスト形式で、反復する。
音声を併用して、反復する。
例文を暗唱して、反復する。
とにかく、毎日何百語と目を通すことで、反復する。
どのやり方でも、効果があります。
覚えて忘れて覚えて忘れて、の繰り返し。
要するに、反復です。
それができる子は、新しいステージに上がることができ、それのできない子は、中学英語のまま、うろうろし続けることになります。
英単語を覚えるかどうかが差し迫った課題でない人は、それを後回しにしてしまいがちです。
学校で週1回の単語テストは、前日や当日にちゃちゃっと覚えて、やり過ごす。
当然、すぐ忘れます。
それを称して「単語を覚えられない」と本人は思っているようです。
そのやり方では覚えられなくて当然なのですが。
せめて、学校の英語コミュニケーションの教科書本文に出てきた単語だけでもしっかり覚えていくかというと、そういうこともありません。
英語力が伸びない子にありがちなのですが、本文の個々の単語の意味を覚えることはなく、本文のストーリーを覚えて、それで英語の勉強をした気になってしまうのです。
例えば、生徒に英語コミュニケーションの本文を訳してもらったときのことです。
それは、災害非常食用のパンの缶詰を開発した人についての話でした。
One day, a farmer in the neighborhood was canning bamboo shoots.
この文を、その子は、
「ある日、農家が、サバ缶を作っていた」
と訳しました。
「・・・え?サバ缶?どの単語がサバの缶詰なの?」
「・・・」
「私の質問の意味がわかりますか?この英文の、どの単語が、サバの缶詰なのですか?」
「・・・canning bamboo shoots.」
「bamboo shoots が、サバなんですか?」
「・・・」
「bamboo は竹、shoot は芽という意味ですよ。竹の芽。つまりタケノコのことですよ」
「・・・」
しかし、その子の表情は、むしろ、この先生は何を勘違いしているのだろうと言いたげな表情なのでした。
続く、次の文。
Canning is a time-honored way to preserve food.
その子は、この文を、
「サバ缶は、いい食べ方だ」
と訳しました。
「・・・はい?だから、サバ缶じゃないですよ。何でサバ缶?」
「・・・」
「この文章にサバ缶は出てこないですよ。考えてください。farmer ですよ。農家の人ですよ。農家の人が何でサバ缶を作るの?タケノコを缶詰にしていたんですよ」
「・・・」
「あなたは、もしかしたら、『缶詰』と『サバ缶』は同じ意味だと思っている?サバ缶というのは、サバの缶詰のことですよ。サバの水煮缶詰とかサバの味噌煮缶詰とか。缶詰とサバ缶は、別の言葉ですよ?サバという魚があるんですよ。知ってる?」
「・・・」
「それとも、学校の授業の余談で、缶詰に関連して、サバ缶の話が出て、それで混線したの?」
「・・・」
こうなると、私の問いかけが矢継ぎ早過ぎて、その子の思考が追い付いていっていなかったと思います。
それだけ、私も、驚いていたのですが。
上手く言葉が出てこないタイプの子に、こんなに多方向の角度から矢継ぎ早に問いかけると、ブラックアウトの可能性があります。
1つの情報だけ繰り返したほうがいいのです。
「bamboo shoots はタケノコです。リピート・アフター・ミー。bamboo shoots はタケノコ」
「・・・bamboo shoots はタケノコ」
「もう1度」
「bamboo shoots はタケノコ」
「タケノコは、わかりますか?」
その子は黙ってうなずきました。
サバ缶問題があまりにも衝撃だったのですが、本題はそれではなく、2番目の文の訳し方でした。
Canning is a time-honored way to preserve food.
「サバ缶はいい食べ方だ」
この文の個々の単語を理解していないのが明らかでした。
Canning , way , food
単語としては、この3つしか理解していないのでしょう。
それを組み合わせて、「サバ缶は、いい食べ方だ」としていました。
学校でもう学習済みの教科書本文であるにも関わらず、でした。
パンの缶詰がどのように開発されたか、その大体のストーリーを把握しているだけで、個々の文、個々の単語の意味は、中学英語のレベルから進化していない・・・。
そういう学習が、しかし、その子に限らず、多くの高校生の英語学習になっている可能性があります。
学校の定期テストだけ何とかなればいいので、学校の教科書本文の意味がわかればそれでいいと思ってしまうのかもしれません。
その場合、テストに初見の長文読解問題も出ることは、無視するようです。
応用問題はテスト対策はできないから、実力で勝負する、と思うのでしょうか。
こうした学習を続ける人は、中学英語のまま一歩も先に進めずに高校3年生になる可能性が高いのです。
教科書本文の「お話」を覚えても仕方ないのです。
もっと視野を広くして、英語力そのものをつけることを考えましょう。
単語力と文法力をつけましょう。
さて、そういうことはクリアし、高校生にふさわしい語彙力のある子の場合。
しかし、何だかときどき奇妙な誤読をする、という子もいます。
例えば、こんな問題。
これは文法問題です。
問題 次の文の空所に入れるのに最も適当な語句を下から選び、番号で答えよ。
He ( ) be ill, for he runs about like that.
① must ② should ③ would ④ cannot
助動詞に関する高校英語の文法問題です。
本文を日本語にすると、
彼は具合が悪い( )、というのは、彼はあんなふうに走りまわっているのだから。
となります。
したがって、正解は、④ cannot の「はずがない」となります。
しかし、その子は、① must 「違いない」を選びました。
「あんなふうに走っているのだから、具合が悪いに違いない、という意味じゃないんですか」
「・・・うん?」
「あんなふうに、何かよろよろと、具合が悪そうに走っているんじゃないんですか」
「・・・そんなこと、書いてないけど?」
「書いてないけど、そういうふうにも読めませんか?」
「・・・」
「迷ったんですよ。走っているんだから、具合が悪いはずがないという意味かなと最初は思ったんですけど、でも、よろよろ走っているから、具合が悪いに違いないとも、読めませんか?」
「・・・よろよろと具合が悪そうに走っているという情報はありません。書いていないことを読み取るのは、やめましょう」
「えー・・・」
そんな誤読があり得るのか、と驚いてしまいました。
「あんなふうに」をよたよたと具合が悪そうにと誤読する。
何で、そんな妄想をするのだろう・・・。
国語でも英語でもそうですが、私は常に「行間を読むな」と言います。
書いていないことを勝手に読み取って解釈する癖のある人が、誤読をします。
誤読する人は、必ずそれをやってしまいます。
変な妄想はやめて、書いてあることだけを読み取れば、そのような誤読は起こりません。
でも、よたよた走っているという解釈は、もしかしたら、可能なのだろうか・・・?
私は、もう一度、その問題を見直しました。
He ( ) be ill, for he runs about like that.
① must ② should ③ would ④ cannot
「・・・run about って、どういう意味ですかね?」
「・・・」
「走りまわる、という意味です。この彼は、具合が悪そうによろよろ走っているのではありません。走りまわっています。だから、具合が悪いはずがありません」
「・・・あっ。そうか!」
実は、別の観点から言っても、正解は④です。
この四択の①から③は、どれも肯定的内容の強弱でしかありません。
①「違いない」 ②「はずだ」 ③「だろう」
彼が具合が悪いということを肯定する場合、この3つからどれかを選ぶということは、こんな短い1文だけからでは不可能です。
そういう観点からも、意味が真逆の④だけが、正解となります。
入試問題は、相当緻密に作られているもので、「そういう解釈もありうるじゃないか」と言われないように布石を打ってあります。
こんな短い文でも、run ではなく、 run about とすることで、別の解釈の可能性がないようにしてあるのでした。
誤読する人は、書いていないことを妄想する一方で、書いてあることを正確に読んでいないのです。
それは、次の問題でも明らかでした。
同じく、適語を補充する問題でした。
"Could you join us for dinner tonight?"
"If you don't mind, ( ). I've got a toothache."
① I'd like not ② I'd like to ③ I'd rather do ④ I'd rather not
その子は、②を選びました。
正解は④です。
「え?では、この人は、夕食の誘いに同意しているのですか?歯が痛いのに?」
「あ。そうか」
と、今度は、するっと自分の誤答を認めました。
今回は単なるちょっとしたケアレスミスであるかのように。
しかし、上の問題とこれは、誤読という意味において、本質は同じなのではないかと思います。
この問題を解いたときも、おそらく、 I've got a toothache. という部分を読まないで解いたと思うのです。
読んでも意味がわからないような英語力の子ではありませんでした。
でも、読まなかった。
目がそこに届かなかった。
そういう「読み癖」のようなものが、あるのだと思うのです。
1語だったり、部分だったり、何かふっと読み飛ばし、その瞬間に誤読が起こるのでしょう。
前半だけ読んだら、誘いに応じるか応じないかは、どちらもあり得るのです。
そこで、本人の好みを優先し、誘いに応じる選択肢を選んだのだろうと思います。
断る方向の会話より、応じる会話のほうが想像しやすかったのでしょうか。
誤読というのは、勝手に行間を読んでしまうから起こる。
基本的にはそう思っていたのですが、語彙力があるのに奇妙な誤読を繰り返す生徒を指導するようになって、私は理解しました。
結局、正確に読んでいないのです。
細部まで緻密に読むという作業をしていない。
ふっと、読み飛ばしてしまうようです。
誤読の原因は、それだと思います。
誤読をする人の誤読っぷりに触れると、「えっ。そんな読み方があるの?」と私も衝撃を受けてしまいます。
あまりの衝撃に、そういう可能性もあるのだろうか、と説得されそうになります。
でも、体勢を立て直し、よくよく読み直すと、その誤読をつぶす布石が、本文中に必ずあるのです。
普通に読んでいれば、そんな誤読はしないのに・・・。
そういう感想を抱くのですが、しかし、それでは、誤読の癖は直せないでしょう。
「普通に」とは何がどう「普通に」なのか、わかりません。
誤読する子と文章を読むときは、普通よりももっと正確に読むことが必要です。
誤読癖のある子と文章を読むと、私も1語1語に本当にこだわった精読が必要になり、面白いです。
書いていない行間は読まない。
書いてあることは、1語もおろそかにせず、精読する。
誤読を避けるために行うことは、上の2つです。
本人に奇妙な想像力があるから、誤読癖は直らない、と諦めてしまう必要はありません。
正確に読んでいないから誤読する。
これに尽きるのですし、それなら、必ず直せると思います。
2023年06月09日
中間テストの反省と分析。
画像は、フタリシズカ。林床にひっそりと静かに咲いていました。
さて、私立中学や、都立・私立高校の中間テストの返却が終わり、得点が出揃いました。
この春から、うちの教室で英語を学習し始めた高校2年生が2人います。
前回のテスト、すなわち、1年の学年末テストと比べて、1人は10点アップ、もう1人は20点アップしました。
英語だけで2科目の試験がありますが、それぞれ、20点ずつ上がっていました。
最初のテストとして、まずまずの結果となりました。
まだ伸びしろはあります。
楽しみです。
興味深かったのは、春から入会した子たちの前回までのデータを私は知りませんので、テストの答案を眺めて、
「これは、1年のときの学年末テストと比べて上がったんですか?下がったんですか?」
と素朴な疑問をぶつけてみたところ、1人は、学年末の英コミュは何点で、論理表現は何点だったと正確に情報を提供してくれたのですが、もう1人は、
「1年生のときは、1学期中間が何点で、その後は、何点くらいになって、大体平均すると、1年の平均点は、今回の得点と同じくらいです」
と答えたことでした。
要するに、高1の1学期中間だけが非常に高い得点なのでした。
学校推薦か総合型選抜での大学受験を考えているので、とにかく、3年間の平均について考える癖がある。
前回の得点より何点上がったかではなく、1年の最初からのトータルの平均点が上昇しているのか下降しているのかが重要・・・。
ここで気になるのが、高過ぎる高1の1学期の中間の得点でした。
高1の1学期中間テストの得点だけが桁外れに高く、以後は、似たような低い得点の繰り返しなのでした。
高1の1学期中間がどれだけ良くても、それ以後、2度と回復しなかったのであれば、その1学期中間テストの得点は、私から見れば「外れ値」であり、入試上のデータはともかく、自分の本当の実力としての平均点を出すときには除外すべき得点ではないかと思います。
1年の1学期中間だけは良い得点だった、ということは、誰にでもあることです。
中学生ならば、もっと起こりやすいことです。
英語だけでなく数学でも、中学1年の1学期だけは、良い得点だった。
1学期の成績も、5段階で「5」を取った。
しかし、それは、振り返れば、英語・数学において、生涯で唯一の「5」だった・・・。
そんな人は、多いと思います。
でも、1回高得点を取ると、それがセルフイメージになってしまうのも、無理からぬところがあります。
本人以上に、保護者の方は、「本当はこの成績のはず」という思いが強くなるかもしれません。
だって、1度はとれたんだから。
また、必ずそこに戻れるでしょう?
そういう見方をすると、今回のテストも、上がったわけではなく、ようやく平均値に戻っただけ、となるようです。
理想が高いのは嫌いではありません。
今回の得点は、本人の中では、ようやく昨年度の平均点。
了解。
それ以上を目指しましょう。
学年が上がり、学習内容が難化していく中で、流れに逆らって得点を上げていくのは大変なことですが、大変だからこそやらなければなりません。
さて、テストで得点を上げていくには、そのテストに対する分析が必要です。
それができるかどうかが、次回のテストの鍵となります。
しかし、一般論として、これができない子が多いです。
まずは、単純にテストの解き直しすらしない子がいます。
テストが返却される頃には、問題用紙を紛失している子もいます。
繰り返し繰り返し説諭し、何年もかけて治していくしかない課題です。
学校から解き直しが宿題として出ていて、「テスト直しノート」を提出しなければならない場合でも、その作業が大嫌いという子は多いです。
新しい問題を解き散らかすのは好きだけれど、自分が間違えた問題を解き直すのは嫌いなのです。
塾の宿題の解き直しでも、傍目でそれとわかるほどテンションが下がる子がいます。
自分のマイナスを見つめさせられているようで嫌なのでしょうか。
あるいは、単純に、過ぎたことをいつまでもぐちゃぐちゃやっている感じが不愉快で、スッキリと新しい問題を解きたいのかもしれません。
そういう、小学生みたいな子は、高校生になってもいます。
というわけで、本人に任せていたら絶対に解き直しをしそうにない子は、塾の授業時に解き直しをします。
英語のテストの解き直しの場合に、私が訊くことがあります。
たとえば、英語コミュニケーションのテストで。まずは大問1。空所補充の4択問題。
「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
「・・・」
学校の教科書のテスト範囲の対策はしていますので、教科書から出ているのではないことは、見てわかるのです。
「単語集ですか?」
「・・・多分、そうだと思います」
「大問1の10問、各1点で合計10点。これが全部単語集からの出題なんですね?」
「・・・はい」
「ほお。学校の先生は、優しいですね。単語集からの出題の問題が、該当単語を書かせる問題ではなく、文中の空所補充の4択問題なんですね。これならスペルミスする可能性はないので、単語の意味さえ覚えておけば、満点が取れますね」
「・・・」
「嫌味で言っているんじゃないんですよ。テスト範囲の単語集をやっておきなさいと言ったのに、結局捨てたんだと思うんですが、こういう出題形式ならば、少し頑張れば得点できますから、次回は頑張りましょうよ」
「・・・はい」
さらに、大問2。乱文整序問題。
「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
「・・・単語集だと思います」
「これも単語集から出ているんですか?単語集の例文を乱文整序する問題ということですか?」
「・・・そうだと思います」
「大問2の5問、各1点で合計5点。大問1と合わせると、合計15点。これが全部単語集からの出題ですか。それで、こんなに失点しているんですね」
「・・・はい」
「これは、他の人と比べて、あなただけが、85点満点のテストで奮闘したということですよ」
「・・・」
「それにしては、良い点ですよね。次回はここで得点しましょうね。あっという間に英語の得点は上がりますね。このテスト、楽勝ですわ」
「・・・」
本当に、近年は、英語も数学も高校の定期テストは易化しています。
学校推薦や総合型選抜を目指す生徒が過半数の昨今、難し過ぎるテストでは評定平均が低くなるとの配慮からでしょうか。
それでも、昔のテストを知らない高校生は、これで難しいと思っています。
いやいやいや。
ひと昔前の高校の英語のテストなんて、こんなものじゃなかったんですよ。
例えば、コミュニケーション英語のテストは、単語や熟語は、スペルを書かせるのが当たり前でした。
その後は、何のテスト範囲なのかよくわからない4択問題が大量に出題されていて、別紙のマークシート解答用紙が用意されている。
その後、普通の解答用紙に戻ると、和訳問題が10~15問は出ていて、頑張って解いたところで△ばかり。
解いても解いてもまだ問題があり、後半は初見の長文問題が2~3題。
そこまで到達できる生徒はほとんどいない・・・。
そして、英語表現は、文法4択問題や乱文整序問題が大量出題されているのは当然としても、なぜか初見の長文問題も出題されている。
どちらが何の科目のテストなのか、ちょっと見ただけではよくわからない。
さらに、和文英訳。
そして、100語あるいは200語の課題英作文問題。
この悪夢のようなテストで、高校生の英語の成績をどう上げていけば良いのだろう?
平均点が40点というテストを作って、高校の先生は、何も感じていないのか?
そう思うことも多くありました。
それに比べれば、今どきの高校の定期テストなんて、本当に親切の塊、先生の「親心」の塊みたいなものです。
さて、大問3以降は、教科書本文に関する問題でした。
「よくできています。素晴らしいですね」
「はい」
「これを、もう少し厳密に分析するのならば、学校の教科書準拠ワークの問題とそっくり問題なのか、教科書の章末の演習問題なのか、学校の先生がくれたプリントとそっくり問題なのか、それとも、少し変えてあるのか、それも1問1問分析するといいですよ」
「はあ・・・」
「データ分析を徹底するなら、そうなります。その一方、とにかく、英語力をつければ、どんな出題がされても正解できるので、英語力をつける、本文の暗唱を今まで以上に頑張るという方向でも、勿論いいんですよ」
「・・・」
「英語力をつけることが究極の目標ですからね。データ分析ばかりやっていると、先生が出題傾向を変えた瞬間に敗北する、ということもありますから」
「・・・」
とりあえず、教科書範囲からの出題の正答率は高く、喜ばしいことです。
「あとは、応用問題ですね。初見の長文問題を解くには、普段から、初見の長文問題を解いていくのが、遠回りのようで近道です。単語力増強にもなりますし。頑張りましょうね」
「・・・はい」
こんなふうに、手取り足取り、テストの反省の仕方と同時に、出題傾向の分析の仕方を教えます。
その一方で、ほおっておけば生徒が自力では行わない、リスニング、教科書本文暗唱、初見の長文読解、文法事項のまとまった解説と演習、ライティングの添削などを繰り返していきます。
何かもっと21世紀的な、AIを使った機能的などうのこうのを求めている生徒には、地味に映るかもしれません。
努力しなくても楽勝で英語が得意になれる方法を探している人がきょろきょろしている間に、地道に当たり前の努力をして、サクサク得点を上げています。
新規生徒、募集中です。
さて、私立中学や、都立・私立高校の中間テストの返却が終わり、得点が出揃いました。
この春から、うちの教室で英語を学習し始めた高校2年生が2人います。
前回のテスト、すなわち、1年の学年末テストと比べて、1人は10点アップ、もう1人は20点アップしました。
英語だけで2科目の試験がありますが、それぞれ、20点ずつ上がっていました。
最初のテストとして、まずまずの結果となりました。
まだ伸びしろはあります。
楽しみです。
興味深かったのは、春から入会した子たちの前回までのデータを私は知りませんので、テストの答案を眺めて、
「これは、1年のときの学年末テストと比べて上がったんですか?下がったんですか?」
と素朴な疑問をぶつけてみたところ、1人は、学年末の英コミュは何点で、論理表現は何点だったと正確に情報を提供してくれたのですが、もう1人は、
「1年生のときは、1学期中間が何点で、その後は、何点くらいになって、大体平均すると、1年の平均点は、今回の得点と同じくらいです」
と答えたことでした。
要するに、高1の1学期中間だけが非常に高い得点なのでした。
学校推薦か総合型選抜での大学受験を考えているので、とにかく、3年間の平均について考える癖がある。
前回の得点より何点上がったかではなく、1年の最初からのトータルの平均点が上昇しているのか下降しているのかが重要・・・。
ここで気になるのが、高過ぎる高1の1学期の中間の得点でした。
高1の1学期中間テストの得点だけが桁外れに高く、以後は、似たような低い得点の繰り返しなのでした。
高1の1学期中間がどれだけ良くても、それ以後、2度と回復しなかったのであれば、その1学期中間テストの得点は、私から見れば「外れ値」であり、入試上のデータはともかく、自分の本当の実力としての平均点を出すときには除外すべき得点ではないかと思います。
1年の1学期中間だけは良い得点だった、ということは、誰にでもあることです。
中学生ならば、もっと起こりやすいことです。
英語だけでなく数学でも、中学1年の1学期だけは、良い得点だった。
1学期の成績も、5段階で「5」を取った。
しかし、それは、振り返れば、英語・数学において、生涯で唯一の「5」だった・・・。
そんな人は、多いと思います。
でも、1回高得点を取ると、それがセルフイメージになってしまうのも、無理からぬところがあります。
本人以上に、保護者の方は、「本当はこの成績のはず」という思いが強くなるかもしれません。
だって、1度はとれたんだから。
また、必ずそこに戻れるでしょう?
そういう見方をすると、今回のテストも、上がったわけではなく、ようやく平均値に戻っただけ、となるようです。
理想が高いのは嫌いではありません。
今回の得点は、本人の中では、ようやく昨年度の平均点。
了解。
それ以上を目指しましょう。
学年が上がり、学習内容が難化していく中で、流れに逆らって得点を上げていくのは大変なことですが、大変だからこそやらなければなりません。
さて、テストで得点を上げていくには、そのテストに対する分析が必要です。
それができるかどうかが、次回のテストの鍵となります。
しかし、一般論として、これができない子が多いです。
まずは、単純にテストの解き直しすらしない子がいます。
テストが返却される頃には、問題用紙を紛失している子もいます。
繰り返し繰り返し説諭し、何年もかけて治していくしかない課題です。
学校から解き直しが宿題として出ていて、「テスト直しノート」を提出しなければならない場合でも、その作業が大嫌いという子は多いです。
新しい問題を解き散らかすのは好きだけれど、自分が間違えた問題を解き直すのは嫌いなのです。
塾の宿題の解き直しでも、傍目でそれとわかるほどテンションが下がる子がいます。
自分のマイナスを見つめさせられているようで嫌なのでしょうか。
あるいは、単純に、過ぎたことをいつまでもぐちゃぐちゃやっている感じが不愉快で、スッキリと新しい問題を解きたいのかもしれません。
そういう、小学生みたいな子は、高校生になってもいます。
というわけで、本人に任せていたら絶対に解き直しをしそうにない子は、塾の授業時に解き直しをします。
英語のテストの解き直しの場合に、私が訊くことがあります。
たとえば、英語コミュニケーションのテストで。まずは大問1。空所補充の4択問題。
「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
「・・・」
学校の教科書のテスト範囲の対策はしていますので、教科書から出ているのではないことは、見てわかるのです。
「単語集ですか?」
「・・・多分、そうだと思います」
「大問1の10問、各1点で合計10点。これが全部単語集からの出題なんですね?」
「・・・はい」
「ほお。学校の先生は、優しいですね。単語集からの出題の問題が、該当単語を書かせる問題ではなく、文中の空所補充の4択問題なんですね。これならスペルミスする可能性はないので、単語の意味さえ覚えておけば、満点が取れますね」
「・・・」
「嫌味で言っているんじゃないんですよ。テスト範囲の単語集をやっておきなさいと言ったのに、結局捨てたんだと思うんですが、こういう出題形式ならば、少し頑張れば得点できますから、次回は頑張りましょうよ」
「・・・はい」
さらに、大問2。乱文整序問題。
「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
「・・・単語集だと思います」
「これも単語集から出ているんですか?単語集の例文を乱文整序する問題ということですか?」
「・・・そうだと思います」
「大問2の5問、各1点で合計5点。大問1と合わせると、合計15点。これが全部単語集からの出題ですか。それで、こんなに失点しているんですね」
「・・・はい」
「これは、他の人と比べて、あなただけが、85点満点のテストで奮闘したということですよ」
「・・・」
「それにしては、良い点ですよね。次回はここで得点しましょうね。あっという間に英語の得点は上がりますね。このテスト、楽勝ですわ」
「・・・」
本当に、近年は、英語も数学も高校の定期テストは易化しています。
学校推薦や総合型選抜を目指す生徒が過半数の昨今、難し過ぎるテストでは評定平均が低くなるとの配慮からでしょうか。
それでも、昔のテストを知らない高校生は、これで難しいと思っています。
いやいやいや。
ひと昔前の高校の英語のテストなんて、こんなものじゃなかったんですよ。
例えば、コミュニケーション英語のテストは、単語や熟語は、スペルを書かせるのが当たり前でした。
その後は、何のテスト範囲なのかよくわからない4択問題が大量に出題されていて、別紙のマークシート解答用紙が用意されている。
その後、普通の解答用紙に戻ると、和訳問題が10~15問は出ていて、頑張って解いたところで△ばかり。
解いても解いてもまだ問題があり、後半は初見の長文問題が2~3題。
そこまで到達できる生徒はほとんどいない・・・。
そして、英語表現は、文法4択問題や乱文整序問題が大量出題されているのは当然としても、なぜか初見の長文問題も出題されている。
どちらが何の科目のテストなのか、ちょっと見ただけではよくわからない。
さらに、和文英訳。
そして、100語あるいは200語の課題英作文問題。
この悪夢のようなテストで、高校生の英語の成績をどう上げていけば良いのだろう?
平均点が40点というテストを作って、高校の先生は、何も感じていないのか?
そう思うことも多くありました。
それに比べれば、今どきの高校の定期テストなんて、本当に親切の塊、先生の「親心」の塊みたいなものです。
さて、大問3以降は、教科書本文に関する問題でした。
「よくできています。素晴らしいですね」
「はい」
「これを、もう少し厳密に分析するのならば、学校の教科書準拠ワークの問題とそっくり問題なのか、教科書の章末の演習問題なのか、学校の先生がくれたプリントとそっくり問題なのか、それとも、少し変えてあるのか、それも1問1問分析するといいですよ」
「はあ・・・」
「データ分析を徹底するなら、そうなります。その一方、とにかく、英語力をつければ、どんな出題がされても正解できるので、英語力をつける、本文の暗唱を今まで以上に頑張るという方向でも、勿論いいんですよ」
「・・・」
「英語力をつけることが究極の目標ですからね。データ分析ばかりやっていると、先生が出題傾向を変えた瞬間に敗北する、ということもありますから」
「・・・」
とりあえず、教科書範囲からの出題の正答率は高く、喜ばしいことです。
「あとは、応用問題ですね。初見の長文問題を解くには、普段から、初見の長文問題を解いていくのが、遠回りのようで近道です。単語力増強にもなりますし。頑張りましょうね」
「・・・はい」
こんなふうに、手取り足取り、テストの反省の仕方と同時に、出題傾向の分析の仕方を教えます。
その一方で、ほおっておけば生徒が自力では行わない、リスニング、教科書本文暗唱、初見の長文読解、文法事項のまとまった解説と演習、ライティングの添削などを繰り返していきます。
何かもっと21世紀的な、AIを使った機能的などうのこうのを求めている生徒には、地味に映るかもしれません。
努力しなくても楽勝で英語が得意になれる方法を探している人がきょろきょろしている間に、地道に当たり前の努力をして、サクサク得点を上げています。
新規生徒、募集中です。
2023年06月01日
英語長文読解。木を見て森を見ずな読み方をする子もいます。
単語力はある。
文法も理解している。
だから、難問でも正解できる。
その一方で、簡単な問題で間違える・・・。
共通テスト模試などで、最後まで解ききるスピードも読解力も持ち合わせていながら、前半の簡単なところで誤答する子がいます。
例えば、ある共通テスト模試の、大問1のポスターの内容を読み取る問題。
「ローカル・フード・フェスティバル」に参加するシェフを募集するポスターを読む問題でした。
郷土料理フェスの中で料理コンテストを開催するので、その参加者を募集中。
優勝は、当日来た人たちの投票で決める。
あわせて、フェスの設営ボランティアも募集。
そういう内容の英文でした。
設問1 The purpose of this notice is to find people from the local town to ( ).
① donate food to a school
② take cooking lesson
③ take part in an event
④ volunteer for a charity
日本語に直すと、
設問1 この告知の目的は、( )地元の町の人々を見つけること 。
①食べ物を学校に寄付してくれる
②料理のレッスンを受けてくれる
③イベントに参加してくれる
④チャリティーのためにボランティアをしてくれる
大問1の問1ですから、正直、ポスターの1行目、太く大きい文字で書かれたところを読んだだけで正解できるレベルの問題でした。
正解は、③です。
しかし、その子は、④を選びました。
前にも書きましたが、英文が実際のところほとんど読めないので、本文と同じ単語を使っている選択肢を選んでしまう子の場合は、③は選べないかもしれません。
③は本文の内容を別の言葉で言い換えています。
take part in という熟語の意味がわからないので、正解できない、ということもあるでしょう。
本文中にある volunteer という単語を使ってある④の選択肢をとりあえず選んでしまう、という誤答パターンに陥りがちです。
しかし、その子は、そんな英語力ではありませんでした。
必要ないから英検準1級は受けないけれど、受ければ合格するでしょう。
そういう英語力で、こういうすっぽ抜けがときどきあるのでした。
共通テストの英語なんて、満点に限りなく近い点を取っておきたいのに。
その子は、③と④で迷ったけれど、④をどうしても消せなかった、と言うのでした。
「・・・でも、このポスターは、料理コンテストに参加する人を募集するのが主な目的だというのは、わかりますよね?」
「それはわかりますけど」
「それがわかるのならば、③にすればいいんじゃないですか?」
「でも、ボランティア募集って書いてあるから」
どうすれば、この子の誤解を解けるのだろう。
私は考えこみました。
どうすれば、説得できる?
「・・・このフェスは、チャリティーですか?」
「でも、ボランティアは、お金は取らないからチャリティーです」
「お金を取らないと、チャリティーなの?チャリティーは、慈善事業という意味です。このフェスは、慈善事業なんでしょうか。これは、郷土料理の振興とか拡散とか、そういうのが目的で、チャリティーではないと思いますが?」
「・・・」
「ボランティアとチャリティーは、意味が違うんですが、もしかして、そこの混同がある?」
「あ。そうかもしれない」
どこか知らない架空の町の、自治体か地元団体主催の郷土料理振興イベントはチャリテイーであるのかないのかを真剣に考えることになる。
奇妙な誤読をする子との会話は、面白いです。
私の指導力が問われ、わくわくします。
また、別の問題。
これも、共通テスト形式の模試の中ではまだまだ易しい大問3。
外国人の女性が、日本の銭湯に行く話でした。
他人の前で服を脱ぐなんて、恥ずかしいんじゃないかしら。
自分にはわからない慣習やルールがあるんじゃないかしら。
何より心配なのは、自分は肩にタトゥーがあるんだけど、それでは銭湯に入れないんじゃないかしら。
そのように心配している外国人女性に、日本人の友人がアドバイスをくれます。
タトゥーのところにばんそうこうを貼っていけば、大丈夫。
必死の思いで打ち明けたタトゥーの件を、日本人の友人が意に介さない様子に、外国人女性は驚きます。
そんなこんなで、第3段落。
In the baths a few days later, indeed I had forgotten all about my worries. I was allowed to enter the baths because I covered my tattoo with an adhesive bandage.
数日後の銭湯の中で、本当に、私は心配ごとをすべて忘れてしまった。私は、銭湯に入ることを許された。なぜなら、私はタトゥーをばんそうこうで覆ったからだ。
しかし、その後、銭湯の中で日本人のおばあさんに、
「その肩はどうしたの?」
と訊かれます。
外国人女性は当惑するのですが、正直に、
「実はタトゥーがあって、それを隠しているんです」
と説明します。
すると、おばあさんは、
「そうなの。怪我をしているのかと心配しただけ。怪我でなくてよかった」
と応えます。
外国人の女性、それを聞いて、ハッピーになり、物語終了。
この種の問題の典型題として、語り手の心情を正しい順番で述べている選択肢を選ぶ問題というものがあります。
正答は、
「不安→驚き→安堵→当惑→ハッピー」
という流れです。
これを誤答した子がいました。
「不安→安堵→驚き→当惑→ハッピー」
という選択肢を選んだのです。
なぜ、その選択肢を選んだのかについて、その子は、この外国人女性は、銭湯に行く前にもう安堵していたと主張するのでした。
だから、安堵は前のほうに来ているはず。
その根拠が、上の一文、
In the baths a few days later, indeed I had forgotten all about my worries.
でした。
ここが、過去完了なので、銭湯に行く前に、もうすでに、すべての心配事は忘れてしまっていたのだというのです。
だから、「安堵」は早めに来ていないとおかしい、というのでした。
うん?
ちょっと待って。
どういうこと?
なぜ、その1文だけで、文脈を無視して、感情の流れを誤読してしまうのだろう?
その1文に、なぜ、そんなにこだわるのだろう?
同じ文章なのに、私とは見えているものが違うことに、正直、驚くのです。
何か特定の1文、あるいは1部分だけが、太字ゴシックで見えているのだろうかと思うほど、些末な1部にこだわって、前後の流れを無視します。
そういう誤読は、どういうメカニズムで起こるのだろう・・・。
「・・・文脈を読みましょう」
「でも、書いてあるから」
「この外国人女性は、銭湯に入る前に不安が消えたと思いますか?」
「でも、書いてあるから」
「確かに、書いていないことは、読まなくていいです。行間は読まなくていいです。でも、文脈は読んでください」
「でも、書いてある」
「その文は、『数日後の銭湯の中で、本当に、私はすべての心配を忘れてしまった』という意味です。湯舟につかって、ようやく安堵したんでしょう?」
「あ・・・。そうか!そういう意味なのか!書いてある!」
「うん」
そのたった1文の過去完了形のために、前後を無視して、別の意味を読み取ってしまう・・・。
こういう誤読をするから、秀才なのに案外国語が苦手。
英語も、簡単な問題で誤答してしまうのです。
木を見て、森を見ず。
1文にこだわり、そこに引き付けられ、それだけを重視した読み方をしてしまうようなのです。
なぜ、特定の1文にこだわるのか。
他の文から得られる情報との矛盾を無視するのか。
文脈が破壊されるのも構わず、その1文を誤読し、幻覚を見てしまうのか。
それで思い出したのは、国語を教えていた別の生徒のことでした。
以前に書きましたが、小説の主人公と、その父親と祖父との人間関係の読み取りができない子がいました。
写真館の一家の話で、父親と祖父が写真を撮りに行った夜のこと。
少年が父親に、
「お父さんのフィルムは現像したの?」
と尋ね、それに対して父親が、
「お父さんのフィルムは抜いておいた。お父さんのだけが撮影されていて、おじいちゃんのが撮影されていなかったら・・・」
「お父さんは、優しいね」
そういう会話部分の読み取りでした。
その会話の意味を読み取れなかったのです。
主人公は、お父さんのどういう行動を優しいと考えていますか。
そういう設問に、その子は答えられませんでした。
答は、「自分のカメラのフィルムを抜いておいた行為」です。
特に難しい設問ではありませんでした。
しかし、その子の答案は白紙で、解説しても呆然としていました。
このときも、色々と対話を重ねて、ようやくわかったことがありました。
その子は、父親のセリフの中の「お父さん」は、お父さんのお父さんなのだから、おじいちゃんのことを指すのだと思い込み、父親が祖父のカメラのフィルムを故意に抜き取ったと誤読したのです。
それは、確かに「優しい行動」とは思えない。
設問の意味も、文章の意味も、これではわからない・・・。
文字が読めないわけではない。
読み飛ばしているのでもなさそうです。
でも、読み方が奇妙なのです。
何か偏っています。
「お父さんのお父さんは、お祖父ちゃん」ということ自体は間違っていません。
でも、ここで用いることではありません。
そういうことを、なぜか唐突に用いてくるのです。
前後とつながらなくても、そのことを優先します。
根本的には、文章の流れを読まず、1文1文で意味が区切れてしまうことが影響しているのだろうと思います。
独りで読んでいては、これは解決しない。
どういう読み方をしているのか、丹念に分析する個別指導が必要になります。
会話が可能な子であれば、修正は早いのです。
自説にこだわる分だけ言葉数が多い子なら、変化も速いです。
対話が可能であり、説得が可能なのです。
対話する中で、読み方の奇妙な癖が明らかになります。
自分の読み方の癖を理解できれば、それにより、修正が可能です。
四択問題で誤答したときに、なぜ、その誤答を選んだのか?
私のその問いかけに、何か説明できる子です。
話す内容は、たどたどしくてもいいのです。
単語だけでも、何か伝えようとしてくれれば、その言葉を私が拾っていけます。
対話が可能であれば、私が分析でき、それを本人に説明することができます。
本人が、自分の「読み癖」のようなものを意識すれば、変化が起こります。
一方、黙り込んでしまう子は、伸ばすのが難しく、苦労が多いです。
なぜ黙り込んでしまうのか。
誤答したことを責められているように感じるのでしょうか。
責めているのではない。
ここで原因をはっきりさせておけば、次は正解できるでしょう?
そのように言っても、反応は薄いです。
音声言語を理解する力も、不足しているのだろうか・・・。
いや、言われたことは理解しても、なお自分の思いを優先したいのかもしれません。
大人との距離の取り方が防衛的な子もいます。
何だかよくわからない小さな嘘をつくことがあるので、そういうことなのかなと想像します。
最近は、教室に入ってきて、洗面所で手を洗うふりをする、という小さい嘘を見て、何だろうなあこれは、と思ったことがありました。
ハンドタオルを忘れたことを知られたくなかったようです。
タオル忘れたから、ティッシュ貸してください。
たったそれだけのことが言えない。
手を洗うふりだけする、という方向に逃げてしまう。
そのとっさの判断ミスは、テストでの間違い方に似ている気がするのです。
黙り込んでしまう子は、あるいは、選択肢を選ぶときの根拠を言語化できないだけかもしれません。
何となく選んでいるだけだから。
何となく、これが正解のような気がしたから。
その「何となく」を言語化できない。
それができると、自分が陥りやすい過ちが分析できるようになります。
何となく、その選択肢を選んでしまう理由は何なのか。
私も必死に考えます。
私が正確に言い当てることができれば、その子の信頼を獲得できるかもしれないのです。
以前も書きましたが、算数の割合に関する文章題で、
「色紙でつるを600羽折りました。赤い色紙のつるは全体の30%にあたります。赤いつるは何羽でしょう」
という問題にある「全体の30%」の「全体」が600羽であることが読み取れない小学生がいました。
あるいは、
「めぐみさんの学校では、今日は18人休みました。これは学校全体の4%にあたるそうです。今日出席しているのは何人でしょう」
という問題の「これ」が18人を指すことも読み取れませんでした。
また、空所補充問題では、
「2は8の( )です」
「8は2の( )です」
のどちらに約数を、どちらに倍数を入れたらいいのかわからず、正解を教えても首をひねっていました。
文章を読んでいて、句点、最悪の場合は読点ごとに意味が区切れてしまうようなのです。
その都度意味がリセットされてしまって、つながりが理解できないようでした。
また、特に、助詞の機能を理解していない傾向を感じました。
助詞を読み飛ばし、目立つ単語しか目で拾っていないので、文意を取れないのです。
それでも、読解力不足は、諦めてしまわなければならない課題ではありませんでした。
解決の道はあります。
読み方の癖を分析し、修正していくことは可能です。
ただし、それはかなり時間のかかることです。
10何年もかけて育ってしまった誤った読解の癖を修正していくのは、ひと月やふた月では不可能です。
年単位での地道な対話が必要となります。
本人の中に、文章を読むことへのモチベーションが生まれると、それはさらに効果的です。
割合の文章題の読解ができなかった小学生は、その後、高校受験でついに覚醒し、最終的に、都立高校入試本番、国語の四択問題は満点を取りました。
2023年05月27日
英語の成績の上がりやすい子、上がりにくい子。
都立小金井公園のヒナゲシ。
今年もきれいに咲いていました。
さて、今回は、英語の成績の上がりやすい子は、どういう子かという話。
それはもう指示したことをその通りに実行してくれる子が一番成績が上がりやすいです。
これをやりなさい、と私が言ったことをその通りにやる子です。
しかし、これがなかなか難しいのが現実です。
本人の判断で、助言されたことを実行しない子もいます。
反抗しようと思っているわけではなく、指示通りにやろうとしても、できない子もいます。
英語で多いのが、授業を受けるのに、学校の教科書を持ってこない子です。
単純に忘れてしまうようです。
学校に置きっぱなしなのでしょう。
今は、公立中学ではむしろ「置き勉」を推奨する動きもあります。
しかし、それは、普段は家庭では使わないだろう重い紙の辞書や社会や理科の教科書、資料集などの話だと思うのです。
英語の教科書なんて薄いし、家庭学習に必要なのに、学校に置きっぱなし。
高校生にもいます。
塾の英語の授業では、高校の英語コミュニケーションの教科書本文を1文ずつ読んで訳してもらっています。
今どき古くさいやり方のようですが、結局、英文を英文のままざっくり読んで、学校の先生から全訳プリントをもらって意味を理解しているだけの子の中には、実は自力では全く英文を読めない子たちがいます。
そうした子たちの指導には、やはり1文ずつ丁寧に読んで訳す過程が必要です。
昔のように、日本語の順番に直すことはしません。
英文の意味のまとまりごとに、日本語に直していくだけです。
直訳で構いません。
英文の意味を本当に理解しているかどうかの確認をしているのです。
そして、訳してもらった後は、重要文にアンダーラインを引いた全訳プリントを渡しています。
重要文とは、文法重要事項が含まれている文と、重要表現を含む文です。
その暗唱が宿題です。
暗唱といっても、お経のような丸暗記ではなく、全訳を見ながら、意味のまとまりごとに復元していく練習です。
英文の構造把握の練習でもあります。
これをやっておけば、空所補充問題も乱文整序問題も、和文英訳問題も大丈夫。
一度自力で訳した英文は内容の理解も深まり、内容に関する問題の精度も上がります。
基本的に、この繰り返しで、英語コミュニケーションの教科書範囲の問題は確実に得点が上がっていきます。
ところが、この授業の流れをなし崩しに破壊していく生徒もいます。
教科書を忘れてくるんです。
例えば、
「プリントなら持っています」
という子。
高校の英語の先生も、今は本当に親切なので、教科書本文を行間をかなり空けて印刷しているプリントを配ってくれることが多いです。
そこに、生徒は、和訳や重要文法事項を書き込めばいいようになっています。
それは、教科書にカタカナで読み方を書き込んだり意味を書き込んだりするのを止める意味があると思います。
教科書にそんなものを書き込んだら、その助けを常に借りて英文を読むことになります。
結果として、そうした補助のない定期テストでは、まるで初めて読む英文のように意味がわからない・・・ということになります。
教科書は、常にまっさらに。
それを読んで意味がわかるようにしておく。
英語学習の基本です。
「プリントなら持っています」
という子。
そのプリントには、当然、文法上の注意事項や全訳が書き込まれていました。
「・・・私はこれからあなたに、いつものように、教科書本文を読んで訳してもらおうと思うのですが、あなたは、それを、訳が全部書き込んであるそのプリントでやるのですか?」
「・・・」
「その時間に何の意味があるんですか?」
「・・・」
「意味のある学習をしましょうよ」
「・・・」
それは、教科書を単純に忘れただけなのか。
それとも、本当に、そのプリントで大丈夫だと思い込んで、故意に教科書を持ってこなかったのか。
後者の可能性もあるところが、子どもの判断力の怖いところです。
また別のとき。
その子は、やはり教科書を持ってこなかったのですが、
「スマホに全文入っていますから、大丈夫です」
と言いました。
スマホで、教科書本文を撮影したのでしょうか?
なぜ、わざわざそんなことを・・・?
意味はわからないですが、それで学習できないわけではないですから様子を見ていますと、なかなか画面が出てこないのでした。
「・・・どうしました?」
「何か、画面にぐるぐる回る円が出てきて、それから白いままで・・・」
「・・・あなたのスマホで撮影した画像ではないのですか?」
「サイトからダウンロードするんです」
「・・・」
どこのサイト?
教科書会社のサイト?
学校のサイト?
今の高校生は、学習する際に、デジタル面で色々な特典を享受していますが、そのすべてが常に万全に機能するとは限りません。
ついに、その時間内に、サイトにアクセスすることができませんでした。
デジタルなんて、そんなものです。
便利なようで、いざというときに使えないことも覚悟しておかなければならないのがデジタルです。
紙の教科書を毎回持ってきなさいよー。
なぜ、そんな簡単なことが実行できないのー?
そうやって、1週また1週と学習が遅れているのに、定期テストのときだけ、
「何で塾に通っているのに、成績が上がらないんだろう?」
と変な顔をされても困るんですよ。
障壁は、あなたなのよー。
私は、あなたの成績を上げたいのだよー。
英語の「論理・表現」も、学校のテキストを持ってこない子がいます。
もしも、私が、学校のテキストで文法を解説し、学校のテキストの練習問題を授業中に解くのならば、嬉々として持ってくるのだと思いますが、そういうことは、自分でやるように話しています。
それを面倒見ていると、むしろ、成績が下がっていく可能性のほうが高いのです。
昔、大手の個別指導塾で働いていた頃は、そういうことを生徒に要望されることが多く、対応に苦慮しました。
数学でも英語でも、学校から配布されるテキストや問題集だけをやりたがるのです。
それすら自力ではできない子の場合はまた話が違ってきますが、普通の理解力のある子ならば、学校のテキストや問題集は自分で解けます。
塾では、同じ進度で別の問題を解くことで理解を深め、演習量を増やすのが学習上の効果が高いです。
しかし、個別指導塾に中学生・高校生が期待することは、学校の問題集や宿題を一緒に解いてほしい、わからないところを教えてほしい、ということだったりします。
それをやっていると、多くの場合、だんだんと本人が考えなくなってしまうのです。
ちょっと解けないと、すぐ諦める。
私が解くのを待っている。
私の解説を聞いて理解できれば、それでOKだと思ってしまう。
「解説を聞いて理解できる」ことと「自力で類題が解ける」こととは、次元の違うこと。
そういうことがわかっているのか、いないのか。
わかっていても、楽なほうに流れてしまうのかもしれません。
塾に通うということは、学習量が増えるということでなければおかしいです。
市販では手に入らない良い教材で、多くの演習ができるということ。
わからないことを解決するのはもちろん重要なのですが、「わかった」だけではダメなのです。
「わかった」ことを「自力で解ける」に変えていくには多くの演習が必要です。
それを保証するのが塾という場です。
ところが、学校のテキストで教えていると、学校のテキストすら自力で解かなくなる子が現れます。
もちろん、それ以外の勉強なんかやりません。
真面目で、人一倍成績のことを気にしている子が、そうなってしまうことがあります。
学校のテキストをやりたいのは、学校の先生に優等生と見られたいから。
学校推薦か総合型選抜で大学に行くつもりなので、学校の成績がとにかく大事。
それはわかります。
「では、学校の定期テストは、学校の問題集と全く同じ問題しか出題されないのですか?」
と尋ねると、ぐっと答に詰まってしまう子もいます。
そこまで定期テストの点数を気にしているのなら、受けた後のテストを正確に分析しましょう。
学校の問題集と1字1句たがわぬそっくり問題しか出ないのならば、私も、学校の問題集で教えます。
でも、類題が出題されるのであるなら、学校の問題集だけ解いていてもダメじゃないの?
そのように説明すると、さすがにその損得は理解できるようで、学校のテキストの問題を塾で解くことは諦めてくれます。
大手の個別指導塾で働いた頃は、この問題の解決がつかないことがありました。
生徒本人と、講師と、保護者と、教務(塾の正社員)。
この四者の思惑が絡まってしまうのです。
私が生徒を説得しても、生徒が家に帰って保護者に何か違う伝え方をして、保護者から教務にクレームがくる可能性は常にありました。
その場合に、教務が私をかばってくれることはありません。
クレームがきたら、講師を変えるだけです。
それが特に間違っているとも思えません。
組織としては、そういう判断になるでしょう。
そうなると、講師側は、保身のため、生徒の望む通りの授業をすることになります。
波風立てないことが一番大切。
成績は上がらなくても、生徒本人の希望通りの授業をしている限り、講師を変えるとか塾をやめるということにはならないから・・・。
これは、構造的な問題で、誰が悪いということではないのです。
大きな組織は、そうなってしまいます。
生徒の成績を上げたいという目標は1つのはずなのですが。
自分の学習のやり方では成績が伸びないから塾に来るのに、結局、自分のスタイルを通したい子は多いのです。
大人の言うことにいちいち懐疑的になる年齢なので、単純に強要もできません。
説得を繰り返していかなければならない中で、早めに了解して助言通りにやってくれる子は、成績が上がっていきます。
一方、本人の望んでいることと私の要求することがなかなか一致しない場合、その間は成績は上がらないことが多いです。
特に、本人が「わからないところを教えてもらいたい」という認識だけで個別指導塾に入ってくると、なかなか成績が上がらないことがあります。
これは、一見優等生で真面目な印象の子に多いのです。
さて、そんなわけで、論理・表現の学校のテキストを塾に持ってこない・・・。
「動名詞の慣用表現は、学校のテキストには何が載っていますか?テキストを出して」
「・・・持ってきていません」
「・・・では、学校のテキストにどれが載っていたか、この塾のテキストで見て、思い出せるものはありますか?」
「・・・」
「慣用表現は、学校のテキストに小さい字でまとめて書いてあるので、あまり大事じゃないと思うでしょう?でも、テストに出るのは、それですよ」
「・・・」
英文法が苦手な子には、さまざまな理由があります。
根本は、そもそも英文法の意義を認めていない。
そんなものを学習しなくても、大丈夫だと誤解しています。
そんなのじゃない英語の勉強をしたいと、本人は願っています。
これも、結局、自分の考え、自分の学習スタイルを通したいことの現れでしょう。
その認識を改めない限り、成績は上がりません。
しかし、英文法の意義は認めていても、学習が下手な子もいます。
英文法のテキストの各単元の冒頭は、中学の復習です。
例えば、「動名詞」ならば、まずは、普通に動名詞を用いた例文が並んでいます。
動名詞が主語の文。
動名詞が目的語の文。
動名詞が補語の文。
そんなもの、生徒にとっては大差ありません。
どうでもいい。
全部中学の復習だ。
これならわかる、と思うと、それでもう大丈夫だと誤解してしまう子がいます。
希望的観測が優先されてしまうようです。
しかし、高校で学習する動名詞は、その先の内容です。
動名詞の意味上の主語。
動名詞の否定形。
動名詞の完了形。
動名詞の受動態。
さらに、慣用表現。
こちらが高校で新出の内容で、定期テストに出るのは、当然そちらのほうなのですが、学習のポイントが理解できず、ズレてしまうのです。
学校の英文法テキストは、左側が解説ページ、右側が練習問題ページの構成のものが普通です。
右側の練習問題を解くことで、自分の理解のズレに気がついて修正できる子もいます。
しかし、できない子もいるのです。
自分が何で誤答しているのか、よくわからない。
何を問われている問題なのか、把握していない。
さて、定期テスト直前。
「では、学校のテキストの問題を解き直しましょうか。テキストを開いて」
と私が言うと、さすがに定期テスト直前は、学校のテキストを持ってきていますが、見ると、問題の答を全部テキストに直接書き込んでいる子がいます。
「・・・テキストに答を直接書き込むなと、言いましたよね。解き直せなくなるから。ノートに解きなさいと言いましたよね?」
「・・・」
高校生になっても、「書き込み式ドリル」が大好きで、ノートに解くのはあまり好きではない・・・。
その癖が強く、注意されたことも忘れ、つい書き込んでしまう・・・。
気持ちはわかるのです。
でも、そこを改めないと、成績は上がりません。
やってはいけない、と言われていても直せない。
その繰り返しです。
このように、幾度か失敗を繰り返して、ようやく、生徒の成績は少しずつ上がっていきます。
2023年05月10日
日本語でわからないものは英語でもわからない。
今年はニオイバンマツリの花が咲くのも早かったですね。
さて、本日は英語長文読解の話です。
そもそも単語力・文法力が足りず、ぼんやりとしか英文を理解できないのに加えて、内容的に理解できないとなると、正答できる可能性はきわめて低くなります。
例えば、労働と余暇、あるいはライフワークバランスに関する長文問題。
高校生にはピンとこない内容なのですが、ピンとこないからわからなくても平気、というわけにはいきません。
入試問題ですから。
その長文問題での、筆者の主張は、
「過度にきつい労働ではない限り、何もすることがないことに比べれば、労働は喜びなのである」
というものでした。
さて、その中の英文と、それに関する問題。
Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.
問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
ア. Most people are very careful in choosing.
イ. The number of choices is limited.
ウ. Few people want to act on their own initiative.
エ. Quite a few people want to act on their own initiative.
大学受験に向けて、多少は本腰を入れて英語の受験勉強を始めてはいるけれど、これまで英語の勉強がいい加減だったことは否定しようがなく、また、おそらく、国語もかなり苦手であるだろう生徒と、この問題を解いたときのこと。
本文の下線部の意味を取ることができず、その理由を選ぶことなど不可能であり、4択は勘で選ぶしかない状態でした。
「Moreover の意味は?」
「さらに」
「うん、いいねえ」
ある程度の勉強は、しているのです。
「じゃあ、exercise の意味は?」
「運動」
「うーん、そういう意味もあるけれど、他には?」
「・・・」
「では、choice の意味は?」
「選ぶ!」
「うんうん。でも、選ぶは choose 。choice は名詞形です」
「・・・選ぶこと?」
「そうね。では、the exercise of choice の意味は?」
「運動を選ぶ!」
「・・・どういうこと?」
of は前置詞で、前置詞というのは前置詞というくらいですから、その意味のまとまりの先頭にきています。
of choice で「選択の」という意味のまとまりになります。
the exercise of choice で、直訳すれば「選択の練習」という意味になります。
ここでは、「選択の実践」といった程度の意味でしょう。
「では、次の in itself は?これは、再帰代名詞を学習したときにやりましたね。重要表現です。熟語として覚えておくよう言いました。何でしょう?」
「・・・」
文法を学習する際、高校生にありがちなことですが、中学で学習済みの基本が理解できていればそれでいいような気になって、高校レベルの学習内容は頭を素通りしていく子は多いです。
中学で学習したことすら忘れているとその先に何も積み上げられないので、文法テキストの各単元の冒頭は中学の復習ですが、それが学習のメインではありません。
高校で新しく学習する、細かいところが重要です。
さらに、その文法事項にからむ慣用表現も、覚えるべき重要ポイントです。
学校の定期テストに必ず出題されるだけでなく、入試問題でも予期せぬところにすっと出てきます。
「 in itself は、それ自体、という意味です」
「・・・」
「では、最後の tiresome の意味は?」
「・・・」
この単語は、単独で意味を覚えている高校生は少ないと思います。
文脈がわかっていて、あとは単語を構成する一部分の意味がわかるので、そこから推測して意味を把握すれば何とかなる、という種類の単語です。
実際に長文を読むときは、どれだけ単語を覚えても、長文中に知らない単語が出てくるのは仕方のないことです。
その意味を推測する力があると有利です。
「では、最後の単語を音読してみて」
直前に私が一度音読しているのですが、そういうのはちゃんと聞いていない子がほとんどです。
「・・・ティレソー?」
「・・・前半の4文字だけ、読んでみて」
「ティレ・・・」
「タイヤー」
「・・・!」
「tire 。何か聞いたことのある単語じゃないかな?最後に d のついている形のことが多いかな?」
「・・・わからない」
「tired。 I'm tired. は、どんな意味?」
「私は疲れています」
「そうそう。その tire 。疲れさせるという意味です。疲れるーって、日本語でも言うでしょう?本当に体が疲労しているのではないときでも、疲れるなあって。どんなとき?」
「疲れているとき」
「いや・・・」
早口で言っているわけではないのだけれど、音声言語の咀嚼に時間のかかる子もいます。
口で説明しても、あまり伝わらないことがあります。
「うんざりする、わずらわしい、というときに、『疲れる』ということが、日本語でもあります。英語もまあ、そんな感じです。わからない単語も、そのように、一部分を把握することで、大体の意味を推測することができることがあります」
「・・・」
しかし、それは、部分を正確に見分ける力が必要です。
tiresome をティレソムと読んでいるのでは、その単語の構成要素を把握できないのです。
その子は、以前に uninteresting という単語を見たときも、「ユニンターレー」と読んでしまい、意味を取ることができませんでした。
un-interesting であることを見抜けたら、簡単に意味のわかる単語なのですが。
これは、1つの原因としては、音声としての英語を無視し、スペルを覚えるためにローマ字読みする習慣から来ているものと想像されます。
スペルを覚えるには、ローマ字読みで覚えるほうが合理的だと、本人は考えているのです。
それなりに学力があると世間は思っている中高一貫校の子の中にもそういう子がいます。
ローマ字読みとはまた別に正しい読み方も覚えているのならそれもいいでしょうが、ローマ字読みは長く続けていると脳の奥まで浸食していくようで、その読み方しかできなくなっていくようです。
正しく読むことに本人があまり意味を感じていないならば、特に。
音声英語に興味がないようなのです。
音声英語にしか興味がない、浮わついたタイプの子も心配ですが、この現代に、音声英語を無視するというのも課題が大きいです。
リスニングやスピーキングができなくても、大丈夫だと思っているの?
君は、昭和からやってきたの?
もう1つの原因は、そもそも、識字能力に課題があるかもしれないということ。
音読してもらうとわかるのですが、似ている別の単語として識字し、音読してしまうことが多い子がいます。
あるいは、動詞や名詞の s,es 形、特に、y を i に変えて es をつけている形は、その単語の原形を把握できません。
また、もう外来語として日本語に定着している単語も、正しく読むことができないので、意味を取れません。
英語の音読は、そういう弱点を補強することができる練習です。
英語学習に、必ず音読練習を組み入れてください。
さて、問題に戻ります。
Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome.
は、「さらに、選択することは、それ自体わずらわしい」という意味だとわかりました。
しかし、これだけでは抽象的で、どういうことなのかピンとこないです。
そういうとき、次の文を読めば、どういうことなのかわかるかもしれません。
それが文章の「呼吸」、すなわち文脈です。
基本的に、1つの段落には、1つの内容しか書かれていません。
1つの文が抽象的でわからなければ、前後の文がヒントになります。
もっとわかりやすく言い換えてくれていたり、具体例を挙げてくれていたりします。
Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.
「普通でない主導権を持っている人々を除けば、積極的に心地よいものだ。1日のそれぞれの時間に何をすれば良いかを言われるのは。その命令が、あまりにも好ましくないものでなければ」
直訳しました。
でも、この直訳で意味は理解できると思います。
よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいか命令されている状態は快適だというのですね。
それで、「選択することは、それ自体がわずらわしい」の意味も、明瞭になりました。
問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
ア. Most people are very careful in choosing.
「ほとんどの人々は、選択するときにとても注意深い」
イ. The number of choices is limited.
「選択の数は限られている」
ウ. Few people want to act on their own initiative.
「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
エ. Quite a few people want to act on their own initiative.
「かなり多くの人々が、自分の主導で行動したがる」
この4択は比較的親切です。
本文と同じような表現は、どの選択肢も同じくらいの量です。
とにかく本文と同じ表現の分量の多い選択肢を選んでしまう人をだますようなひっかけの選択肢はありません。
ただ、逆に言えば、どの選択肢もかなり本文を言い換えているので、本文の内容を理解できないことには、どれも選べません。
でも、ウとエが非常に似ていますね。
裏をかかれることもありますが、これは、ウかエが正解なのではないでしょうか。
「選択することは、それ自体がわずらわしい」
それは、なぜか?
「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だから」
つまり、正解は、ウです。
ここで、ウとエとの違いがわからない、という問題が生じます。
few と quite a few の違いがわからない・・・。
これは、文法問題です。
few は、名詞の前に置き、その名詞がほとんどないことを示す、準否定表現です。
一方、quite a few は、「かなり多くの」という意味です。
え?few なのに?
そうです。
a few というのは、少数ながら存在する、という意味合いになります。
肯定的なのです。
それに quite がついています。これは強めている表現。
その結果、「かなり多くの人が」という意味になります。
これは、「否定」を学習したときに、まとめて理解しておくべき内容。
こういう些末なところを些末だからと忘れてしまうから、問題が解けなくなる、という一例です。
結局文法問題だったねー。
とニコニコしている私に、その生徒は首をひねったままでした。
「どうしました?わからない?」
「・・・」
わかるのか、わからないのか、意思表示もなく、ただ黙り込んでしまうのは、わからないからでしょう。
「何がわからないですか?」
「・・・」
何がわからないかを説明してくれず、黙って考えこんでしまう子でした。
カタコトでも何か言ってくれれば解説できるのですが、独りで考え込んでしまうのです。
何がわからないかを説明するのもその子にとってはかなり難しいことなのだろうと思います。
つまりは、言語表現に課題が多い。
自分の考えを日本語にすることにも時間がかかるのです。
時間をかけて聴き取りをすると、その子は、英語的にわからないわけではなく、この文章が述べている内容がそもそも理解できなかったのでした。
「選択することは、それ自体がわずらわしい」
「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だ」
こういう考え方が、理解できなかったのでした。
いつ何をすればいいかを命令されている状態。
その日にやることがきまっていることの快適さ。
高校生の実感としては、そんなのはわからないかもしれません。
自分の好きなようにしていたいですものね。
というか、何もしたくないですよね。
1日、ごろごろと寝ころんで、スマホをいじっていたい。
命令されるのには、飽き飽きですよね。
でも、その子自身は、選択に時間がかかり、選択を常に要求されると苦痛を感じる子のはずなのです。
「定期テスト前は、授業は休みにしますか。それとも、テスト対策をしますか」
そのように2択を提示しても、瞬時に選ぶことはできないのでした。
選べない。
わからない。
ぐっと言葉に詰まってしまうのです。
その子に限りません。
選ぶのは、大変なんです。
エネルギーが必要です。
どちらかよいのか、いちいち自分で判断しなければなりません。
選択することは、それ自体がわずらわしい。
誰かが決めてくれて、それに沿って行動しているほうが楽だ。
それは、一面真理なのです。
でも、そういうことが、わからない・・・。
選ぶことができるほうがいいことだと、表面的に考えてしまうので、理解できない・・・。
本人は選ぶことに苦労しているタイプであるにも関わらず。
まして、やることが何もないことの苦痛など、理解できるはずもないのでした。
この文章は、次の段落で、何もすることがないよりは、苦痛ではない労働をしているほうがずっと楽なのだという話に進んでいきます。
仕事を引退した高齢者ならばすぐに理解できることでしょうが、高校生にはわかりにくいのでしょう。
朝起きて、何もすることがない。
何をするかを、自分で決めなければならない。
必死で色々と選び、何とか時間を埋めている人も、世の中には存在するでしょう。
自分とは関係がなくても、そのようなこともあるのだろうと想像する力がたりないので、文章の意味がわからないのです。
日本語で書かれていてもわからないことを、英語で書かれているので、なおさらわからない・・・。
英語の長文読解には、そうした課題もあります。
英文は、その言葉で語られている字面を追うだけでは理解できません。
語られていることの概念、考え方を理解できなければ、設問に答えることができない場合もあります。
それには、日本語でも英語でも、多くの文章に触れることが必要になります。
それが全く足りない子が、今は多いと感じます。
自分の体験や感想だけで判断するので、自分とは真逆の意見を理解できないのです。
まして、英語で書かれているので、自分の考えに沿うように誤読してしまうことも多いです。
英語はわかったとしても、
「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
という選択肢が正解だとはどうしても思えない。
だから、選べない。
「どちらにするか選びなさい、と言うと、あなたも随分迷って、上手く決められないことが多いように見えますよ。決めるのって、大変ですよね」
そう呼びかけても、自分のことはよくわからない様子で、あまり共感してはいない表情のままでした。
「これは筆者の意見ですから、あなたには正しいことに見えなくても、それは構わないのですよ」
そう説明しても、なお首をひねっていました。
文章というのは、自分が納得するような「正しい」ことしか書かれていないと誤解しているのかもしれません。
英語を理解することと、英語で書かれている内容に納得することを混同し、混乱している様子でした。
こういう読解力だと、共通テストで出題される「事実」と「意見」を分けて考えることも、何をどう分けるのか意味がわからない、という事態も起こります。
知識が足りないから、混乱してしまうのです。
知識とは、自分とは別の立場、別の考えもあるのだと、あらかじめインプットしておくことも含めて知識です。
そして、自分自身は選択を迫られるとぐっと詰まって決められないと自覚しておくことも知識です。
それでも、「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」という表現には反発を感じる・・・。
それもわかります。
自分自身の主導で行動したい人はほとんどいないとは、何ごとですか。
ですが、この英文の筆者は、こうも語っているのです。
「知的に余暇を埋めることは、高度に文化的なことであるが、そのレベルに達している人は、まだほとんどいないのだ」と。
知的に余暇を過ごせ。
それが文化だ。
何をしたいかは、自分で選択しろ。
言われた通りに働いているほうが楽だとか、そんなところに安住するな。
筆者の本音はそこにあり、その文章の主題はそこにあるのでした。
そこを読むことが、本当に英文を読むということだと思うのです。
さて、本日は英語長文読解の話です。
そもそも単語力・文法力が足りず、ぼんやりとしか英文を理解できないのに加えて、内容的に理解できないとなると、正答できる可能性はきわめて低くなります。
例えば、労働と余暇、あるいはライフワークバランスに関する長文問題。
高校生にはピンとこない内容なのですが、ピンとこないからわからなくても平気、というわけにはいきません。
入試問題ですから。
その長文問題での、筆者の主張は、
「過度にきつい労働ではない限り、何もすることがないことに比べれば、労働は喜びなのである」
というものでした。
さて、その中の英文と、それに関する問題。
Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.
問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
ア. Most people are very careful in choosing.
イ. The number of choices is limited.
ウ. Few people want to act on their own initiative.
エ. Quite a few people want to act on their own initiative.
大学受験に向けて、多少は本腰を入れて英語の受験勉強を始めてはいるけれど、これまで英語の勉強がいい加減だったことは否定しようがなく、また、おそらく、国語もかなり苦手であるだろう生徒と、この問題を解いたときのこと。
本文の下線部の意味を取ることができず、その理由を選ぶことなど不可能であり、4択は勘で選ぶしかない状態でした。
「Moreover の意味は?」
「さらに」
「うん、いいねえ」
ある程度の勉強は、しているのです。
「じゃあ、exercise の意味は?」
「運動」
「うーん、そういう意味もあるけれど、他には?」
「・・・」
「では、choice の意味は?」
「選ぶ!」
「うんうん。でも、選ぶは choose 。choice は名詞形です」
「・・・選ぶこと?」
「そうね。では、the exercise of choice の意味は?」
「運動を選ぶ!」
「・・・どういうこと?」
of は前置詞で、前置詞というのは前置詞というくらいですから、その意味のまとまりの先頭にきています。
of choice で「選択の」という意味のまとまりになります。
the exercise of choice で、直訳すれば「選択の練習」という意味になります。
ここでは、「選択の実践」といった程度の意味でしょう。
「では、次の in itself は?これは、再帰代名詞を学習したときにやりましたね。重要表現です。熟語として覚えておくよう言いました。何でしょう?」
「・・・」
文法を学習する際、高校生にありがちなことですが、中学で学習済みの基本が理解できていればそれでいいような気になって、高校レベルの学習内容は頭を素通りしていく子は多いです。
中学で学習したことすら忘れているとその先に何も積み上げられないので、文法テキストの各単元の冒頭は中学の復習ですが、それが学習のメインではありません。
高校で新しく学習する、細かいところが重要です。
さらに、その文法事項にからむ慣用表現も、覚えるべき重要ポイントです。
学校の定期テストに必ず出題されるだけでなく、入試問題でも予期せぬところにすっと出てきます。
「 in itself は、それ自体、という意味です」
「・・・」
「では、最後の tiresome の意味は?」
「・・・」
この単語は、単独で意味を覚えている高校生は少ないと思います。
文脈がわかっていて、あとは単語を構成する一部分の意味がわかるので、そこから推測して意味を把握すれば何とかなる、という種類の単語です。
実際に長文を読むときは、どれだけ単語を覚えても、長文中に知らない単語が出てくるのは仕方のないことです。
その意味を推測する力があると有利です。
「では、最後の単語を音読してみて」
直前に私が一度音読しているのですが、そういうのはちゃんと聞いていない子がほとんどです。
「・・・ティレソー?」
「・・・前半の4文字だけ、読んでみて」
「ティレ・・・」
「タイヤー」
「・・・!」
「tire 。何か聞いたことのある単語じゃないかな?最後に d のついている形のことが多いかな?」
「・・・わからない」
「tired。 I'm tired. は、どんな意味?」
「私は疲れています」
「そうそう。その tire 。疲れさせるという意味です。疲れるーって、日本語でも言うでしょう?本当に体が疲労しているのではないときでも、疲れるなあって。どんなとき?」
「疲れているとき」
「いや・・・」
早口で言っているわけではないのだけれど、音声言語の咀嚼に時間のかかる子もいます。
口で説明しても、あまり伝わらないことがあります。
「うんざりする、わずらわしい、というときに、『疲れる』ということが、日本語でもあります。英語もまあ、そんな感じです。わからない単語も、そのように、一部分を把握することで、大体の意味を推測することができることがあります」
「・・・」
しかし、それは、部分を正確に見分ける力が必要です。
tiresome をティレソムと読んでいるのでは、その単語の構成要素を把握できないのです。
その子は、以前に uninteresting という単語を見たときも、「ユニンターレー」と読んでしまい、意味を取ることができませんでした。
un-interesting であることを見抜けたら、簡単に意味のわかる単語なのですが。
これは、1つの原因としては、音声としての英語を無視し、スペルを覚えるためにローマ字読みする習慣から来ているものと想像されます。
スペルを覚えるには、ローマ字読みで覚えるほうが合理的だと、本人は考えているのです。
それなりに学力があると世間は思っている中高一貫校の子の中にもそういう子がいます。
ローマ字読みとはまた別に正しい読み方も覚えているのならそれもいいでしょうが、ローマ字読みは長く続けていると脳の奥まで浸食していくようで、その読み方しかできなくなっていくようです。
正しく読むことに本人があまり意味を感じていないならば、特に。
音声英語に興味がないようなのです。
音声英語にしか興味がない、浮わついたタイプの子も心配ですが、この現代に、音声英語を無視するというのも課題が大きいです。
リスニングやスピーキングができなくても、大丈夫だと思っているの?
君は、昭和からやってきたの?
もう1つの原因は、そもそも、識字能力に課題があるかもしれないということ。
音読してもらうとわかるのですが、似ている別の単語として識字し、音読してしまうことが多い子がいます。
あるいは、動詞や名詞の s,es 形、特に、y を i に変えて es をつけている形は、その単語の原形を把握できません。
また、もう外来語として日本語に定着している単語も、正しく読むことができないので、意味を取れません。
英語の音読は、そういう弱点を補強することができる練習です。
英語学習に、必ず音読練習を組み入れてください。
さて、問題に戻ります。
Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome.
は、「さらに、選択することは、それ自体わずらわしい」という意味だとわかりました。
しかし、これだけでは抽象的で、どういうことなのかピンとこないです。
そういうとき、次の文を読めば、どういうことなのかわかるかもしれません。
それが文章の「呼吸」、すなわち文脈です。
基本的に、1つの段落には、1つの内容しか書かれていません。
1つの文が抽象的でわからなければ、前後の文がヒントになります。
もっとわかりやすく言い換えてくれていたり、具体例を挙げてくれていたりします。
Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.
「普通でない主導権を持っている人々を除けば、積極的に心地よいものだ。1日のそれぞれの時間に何をすれば良いかを言われるのは。その命令が、あまりにも好ましくないものでなければ」
直訳しました。
でも、この直訳で意味は理解できると思います。
よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいか命令されている状態は快適だというのですね。
それで、「選択することは、それ自体がわずらわしい」の意味も、明瞭になりました。
問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
ア. Most people are very careful in choosing.
「ほとんどの人々は、選択するときにとても注意深い」
イ. The number of choices is limited.
「選択の数は限られている」
ウ. Few people want to act on their own initiative.
「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
エ. Quite a few people want to act on their own initiative.
「かなり多くの人々が、自分の主導で行動したがる」
この4択は比較的親切です。
本文と同じような表現は、どの選択肢も同じくらいの量です。
とにかく本文と同じ表現の分量の多い選択肢を選んでしまう人をだますようなひっかけの選択肢はありません。
ただ、逆に言えば、どの選択肢もかなり本文を言い換えているので、本文の内容を理解できないことには、どれも選べません。
でも、ウとエが非常に似ていますね。
裏をかかれることもありますが、これは、ウかエが正解なのではないでしょうか。
「選択することは、それ自体がわずらわしい」
それは、なぜか?
「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だから」
つまり、正解は、ウです。
ここで、ウとエとの違いがわからない、という問題が生じます。
few と quite a few の違いがわからない・・・。
これは、文法問題です。
few は、名詞の前に置き、その名詞がほとんどないことを示す、準否定表現です。
一方、quite a few は、「かなり多くの」という意味です。
え?few なのに?
そうです。
a few というのは、少数ながら存在する、という意味合いになります。
肯定的なのです。
それに quite がついています。これは強めている表現。
その結果、「かなり多くの人が」という意味になります。
これは、「否定」を学習したときに、まとめて理解しておくべき内容。
こういう些末なところを些末だからと忘れてしまうから、問題が解けなくなる、という一例です。
結局文法問題だったねー。
とニコニコしている私に、その生徒は首をひねったままでした。
「どうしました?わからない?」
「・・・」
わかるのか、わからないのか、意思表示もなく、ただ黙り込んでしまうのは、わからないからでしょう。
「何がわからないですか?」
「・・・」
何がわからないかを説明してくれず、黙って考えこんでしまう子でした。
カタコトでも何か言ってくれれば解説できるのですが、独りで考え込んでしまうのです。
何がわからないかを説明するのもその子にとってはかなり難しいことなのだろうと思います。
つまりは、言語表現に課題が多い。
自分の考えを日本語にすることにも時間がかかるのです。
時間をかけて聴き取りをすると、その子は、英語的にわからないわけではなく、この文章が述べている内容がそもそも理解できなかったのでした。
「選択することは、それ自体がわずらわしい」
「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だ」
こういう考え方が、理解できなかったのでした。
いつ何をすればいいかを命令されている状態。
その日にやることがきまっていることの快適さ。
高校生の実感としては、そんなのはわからないかもしれません。
自分の好きなようにしていたいですものね。
というか、何もしたくないですよね。
1日、ごろごろと寝ころんで、スマホをいじっていたい。
命令されるのには、飽き飽きですよね。
でも、その子自身は、選択に時間がかかり、選択を常に要求されると苦痛を感じる子のはずなのです。
「定期テスト前は、授業は休みにしますか。それとも、テスト対策をしますか」
そのように2択を提示しても、瞬時に選ぶことはできないのでした。
選べない。
わからない。
ぐっと言葉に詰まってしまうのです。
その子に限りません。
選ぶのは、大変なんです。
エネルギーが必要です。
どちらかよいのか、いちいち自分で判断しなければなりません。
選択することは、それ自体がわずらわしい。
誰かが決めてくれて、それに沿って行動しているほうが楽だ。
それは、一面真理なのです。
でも、そういうことが、わからない・・・。
選ぶことができるほうがいいことだと、表面的に考えてしまうので、理解できない・・・。
本人は選ぶことに苦労しているタイプであるにも関わらず。
まして、やることが何もないことの苦痛など、理解できるはずもないのでした。
この文章は、次の段落で、何もすることがないよりは、苦痛ではない労働をしているほうがずっと楽なのだという話に進んでいきます。
仕事を引退した高齢者ならばすぐに理解できることでしょうが、高校生にはわかりにくいのでしょう。
朝起きて、何もすることがない。
何をするかを、自分で決めなければならない。
必死で色々と選び、何とか時間を埋めている人も、世の中には存在するでしょう。
自分とは関係がなくても、そのようなこともあるのだろうと想像する力がたりないので、文章の意味がわからないのです。
日本語で書かれていてもわからないことを、英語で書かれているので、なおさらわからない・・・。
英語の長文読解には、そうした課題もあります。
英文は、その言葉で語られている字面を追うだけでは理解できません。
語られていることの概念、考え方を理解できなければ、設問に答えることができない場合もあります。
それには、日本語でも英語でも、多くの文章に触れることが必要になります。
それが全く足りない子が、今は多いと感じます。
自分の体験や感想だけで判断するので、自分とは真逆の意見を理解できないのです。
まして、英語で書かれているので、自分の考えに沿うように誤読してしまうことも多いです。
英語はわかったとしても、
「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
という選択肢が正解だとはどうしても思えない。
だから、選べない。
「どちらにするか選びなさい、と言うと、あなたも随分迷って、上手く決められないことが多いように見えますよ。決めるのって、大変ですよね」
そう呼びかけても、自分のことはよくわからない様子で、あまり共感してはいない表情のままでした。
「これは筆者の意見ですから、あなたには正しいことに見えなくても、それは構わないのですよ」
そう説明しても、なお首をひねっていました。
文章というのは、自分が納得するような「正しい」ことしか書かれていないと誤解しているのかもしれません。
英語を理解することと、英語で書かれている内容に納得することを混同し、混乱している様子でした。
こういう読解力だと、共通テストで出題される「事実」と「意見」を分けて考えることも、何をどう分けるのか意味がわからない、という事態も起こります。
知識が足りないから、混乱してしまうのです。
知識とは、自分とは別の立場、別の考えもあるのだと、あらかじめインプットしておくことも含めて知識です。
そして、自分自身は選択を迫られるとぐっと詰まって決められないと自覚しておくことも知識です。
それでも、「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」という表現には反発を感じる・・・。
それもわかります。
自分自身の主導で行動したい人はほとんどいないとは、何ごとですか。
ですが、この英文の筆者は、こうも語っているのです。
「知的に余暇を埋めることは、高度に文化的なことであるが、そのレベルに達している人は、まだほとんどいないのだ」と。
知的に余暇を過ごせ。
それが文化だ。
何をしたいかは、自分で選択しろ。
言われた通りに働いているほうが楽だとか、そんなところに安住するな。
筆者の本音はそこにあり、その文章の主題はそこにあるのでした。
そこを読むことが、本当に英文を読むということだと思うのです。
2023年05月04日
高校生の学習上の課題。
長年、小学生から高校生までを教えていますが、高校生を教えるのは、小学生や中学生を教えるのとはまた別の難しさを感じます。
高校入試と比較すると、大学入試は多岐に渡っていて、指導する側が焦点を絞りにくいのが、1つの原因です。
どのような大学受験を考えているのか。
高校の成績を高く維持して、学校推薦か総合型選抜で大学を受けるのか。
それとも、国立大学を一般受験するのか。
あるいは、私立大学を一般受験するのか。
早めに志望を確定してくれれば、早めにそれに合わせて対策をしていけるのですが、高校2年生の秋頃になってようやく確かな答えをもらえることも多いです。
結局、本人も、わからないのかもしれません。
だから、
「とりあえず学校に進度を合わせて、定期テストの勉強をきちんとやっていきたいです」
といった返事しかもらえないことがありますが、これは少々危険です。
定期テストは、範囲のある勉強。
しかし、テスト範囲の内容しか覚えず、テストが終われば、すぐ忘れる子がいます。
驚くべき短期記憶。
しかも、本当にテスト範囲の勉強をしっかりやってくれるのならまだいいのですが、あまり余計な勉強をしたくない言い訳に「学校に進度を合わせて定期テストの勉強をしたい」を使っている子の場合、結局、テスト範囲の勉強も甘いことがあります。
例えば、英語。
多くの高校は、英語コミュニケーションという教科で、教科書とは別に単語集が配布され、週に1度、授業時間内に単語の小テストが行われます。
そして、その小テスト範囲全部が、定期テストの範囲になる学校が多いのです。
週に1度の単語テストでもやっつけ仕事的に、ギリギリでどうにか覚えている子は、定期テストの単語の範囲を実にあっさりと捨てます。
何百という単語のテスト範囲の広さに、諦めてしまうんです。
あるいは、「小テストのときに1度覚えたから大丈夫」という謎の自信を持つ子もいます。
子どもの中には、そういう意味で本当に幼く、記憶ということの実態を理解していない子もいるのです。
1度覚えたら、もう忘れないと思っているんでしょうか。
あるいは、覚えても忘れることは知っている。
覚えてもどうせ忘れるので、単語なんか覚えても無駄だ、と愚かなことを考える子もいます。
要するに、単語を覚えるのが苦しくて嫌だから、そういうふうになってしまうのでしょう。
もっと簡単に単語を覚えられる方法があるはずなのに、学校の先生も、塾の先生も、後れていて、そういうことがわかっていない。
どうにかして、単語を簡単に覚える方法を見つけたいのに、出会えない。
自分は不運だ。
単語を簡単に覚える方法は、この世に絶対にあるはずなのに・・・。
・・・そんな夢を見ている限りは、単語は覚えられないです。
ネットにあふれている、金もうけ目的の甘い言葉に騙されて、課金して、単語力はつかずに終わっていくばかりです。
努力しなければダメなことに対し、努力せずに済ます方法をただ探している。
そうしているうちに時間だけが過ぎていきます。
英語コミュニケーションのテストの中での、単語テストの配点は、10点~20点。
ここを捨てたら、高い得点を取ることはもう不可能です。
テストの他の出題は、まず、教科書の本文に関する問題。
そして、初見の長文問題を出題する高校も多いです。
これは実力が露骨に得点に反映されます。
単語力がついていないと、そもそも本文を読めません。
毎日頑張って英語を勉強している子以外は、パッとしない得点になります。
「入試は厳しそうだから」
「受験勉強は大変そうだから」
という理由で学校推薦を望んでも、そんな怠け者は、普段の定期テストも、結局パッとしない・・・。
憧れの大学の学校推薦はもらえない。
総合型選抜を受けるにも、評定平均が足りない。
評定平均は、3年間の高校での全教科を5段階評価したものの平均であることが多いです。
憧れの大学・学部は高い数字を要求します。
でも、一般入試は厳しそうだから、やはり嫌だ。
となると、どうなるか?
自分の評定平均で合格できる大学に学校推薦または総合型選抜で受験する、という形に落ち着きます。
それは悪いことではありません。
現実的な良い判断だと思います。
賢い選択です。
しかし、ここで悪夢のような現実が立ちふさがります。
自分の成績では、総合型選抜で合格できる大学がない・・・。
少なくとも、行きたい大学・学部で、自分の成績で総合型選抜で合格できる大学はない・・・。
一般入試しか道がないのです。
その現実に、気づいてほしいのです。
遅くとも、高校1年生のうちに。
高校の成績の大半が「5」の子が、学校推薦や総合型選抜を目標としていることに対しては、私は全力で応援しています。
英語だけが4だ、数学だけが4だ、何とかしたいという要望には全力で応えています。
学校選抜や総合型選抜で大学進学をすることを考えているのであれば、定期テストその他、成績に関係のあることには、本当に本気で3年間必死に取り組んでほしいです。
それができないのであれば、一般入試で合格できるような勉強を早い時期から始めてほしい。
勉強を怠けたいがためのどっちつかずの立ち位置が、一番危ないのです。
単語の話に戻ります。
中学生の頃に覚えた単語は、教科書に何回も出てきますし、高校入試のために反復もしたので、そこそこ覚えている子は多いです。
しかし、高1の教科書に出てくる単語は、次にもう1度出てくるのは3か月後ということも多いので、覚えていない高2は多いです。
高3になっても同じこと。
高校側は、それではまずいと、高1の頃から単語集を生徒に与え、それを小テストしたり、定期テストの範囲に加えたりしています。
そうした先生たちの配慮を有効活用できない。
小テスト対策はやっつけ仕事。
定期テストでは単語の範囲は捨てる。
結果、高校生になっても単語力は中3レベルのままという子も多いです。
本人が、学校の進度に合わせて学校の教科書の勉強をしていきたいというから、それにつきあって個別指導していると、こういう英語力になってしまうことがあります。
そして、模試を受けて、低い偏差値に衝撃を受けて、大騒ぎになってしまいます。
本人の落ち込み方も激しいですが、親が、子どもの学力がそこまで低いことに気がついていなかったための衝撃も大きいです。
でも、そんな学力になってしまう勉強をしているのですから、当然、そうなります。
数学も同じことです。
定期テストの範囲は勉強し、そこそこの点数を取っているかもしれません。
近年、特に私立高校の定期テストの問題は易しいですし。
でも、テストが終われば、公式も何もかも、忘れてしまいます。
1つ覚えれば、1つ忘れる。
何も積み上がっていきません。
そして、模試を受けます。
何の単元の、何の公式を使う問題なのかさえ、わからない。
全く解けません。
「学校の定期テスト」だけが目標になっているので、間口の狭い勉強になり、実力がついていない。
復習もしないので、そのままです。
こういう子に、
「教科書以外の英文も読めるように練習しよう」
「夏休みは、数学で、今までの総復習をしよう」
と呼びかけても、生返事のことが多いのです。
宿題に出しても、結局、やってきません。
何のためにそんなことをしなくてはならないのか、わからないからでしょうか。
大学の一般入試は受けたくないので、受験勉強的なことはしたくない。
しかし、学校推薦や総合型選抜がどの程度の成績を要求するのか、現実が見えていない。
目先のテスト勉強をそこそこすることで、大学受験の準備をしているような勘違いを本人はしている・・・。
高校生になると、それぞれ、やりたいことが出てきます。
無限に時間を喰うような趣味にはまってしまうこともあります。
ネットでの友達づきあいに、毎日数時間を割いてしまう子もいます。
教わることの質も量も、中学の頃とは桁違いなのに、勉強に向かう姿勢が、むしろ後退していきます。
でも、もう頭ごなしに叱れる年齢ではないと感じるからか、親も、「本人の意志を尊重し」と言いがちです。
実際、説得は難しい。
高校時代は、一番勉強しなければならない時期です。
どうか、愚直に、ひたむきに、勉強してください。
学校の勉強も、塾の勉強も、自分で買った問題集も。
間口の狭い勉強を「能率的」と勘違いした瞬間に、敗北への道を歩み始めてしまいます。
2023年04月19日
勉強しやすい時代になりました。
公園に、ギンランが咲き始めました。
上の画像がそれです。
さて、今回は、高校が新課程になって、非常に勉強しやすくなったという話です。
この春から、高校2年生も新課程。
そこで、英語コミュニケーションの教科書ガイドを探しに書店に行ってきました。
教科書ガイドは、教科書本文が全文掲載されているものなら購入することにしています。
そうではない場合やそもそも教科書ガイドが発売されていない場合は、生徒から教科書を1週間借りてコピーさせてもらう、ということはさすがにできないので、スマホで教科書本文を撮影して使用します。
そうして、私が全訳し、重要文に下線を引き、暗唱してもらいます。
書店で、教科書ガイドを見て驚きました。
新課程の英語コミュニケーションの教科書ガイドは、教科書全文を意味のまとまりごとにスラッシュで区切り、その下に全訳がついていました。
昔の「読んで訳して、読んで訳して」のリーダーの授業だったら、これで予習の必要がなくなります。
ありえないほど親切な教科書ガイドになっていました。
中学生向けの教科書ガイドは全訳がついているのが当たり前でしたが、高校生向けの教科書ガイドで全訳がついているものを今まで見たことがありませんでした。
これは、新課程になり、学校の英語学習の方向が変わったからなのです。
読んで訳すことが学習の第一義ではありません。
ですから、高校の先生が教科書の全訳プリントを渡してくれる学校も今は多いのです。
教科書ガイドが全訳を載せていることは、学校の授業妨害でもなければ、生徒の学習の機会の損失でもないのです。
これでこそ、英語学習がはかどるというもの。
ただし、です。
これは以前も書きましたが、新しい英語学習の本質をつかめていない子も多いのです。
全訳を学校でもらえることに安心しきってしまうのです。
日本語を見て意味がわかったから、自分はその英文を理解した、と誤解してしまうようです。
学校で学習済みの教科書本文を、
「では、教科書の英文を日本語に直してみて。英語の順番のままで。意味のまとまりごとでいいですよ」
そのように指示して、生徒に訳してもらおうとすると、絶句し、何も訳せない子が、新課程の子の中にいます。
新出単語の意味も、重要表現の意味も、理解していない・・・。
表面をふわっとなでているだけなのにわかったつもりでいる学習をしているのです。
無論、重要文を日本語から英文に戻す暗唱もしっかり宿題にしないとやってきません。
テスト前にやればいいと思っているようですが、テスト前になれば、テスト範囲の広さに投げだしてしまう可能性のほうが高いのです。
全訳を眺めて、内容は理解したから大丈夫と言い訳してしまうのが関の山かもしれません。
そもそも、英語を英語のまま理解するというのは崇高な理想ですが、私たちは日本人です。
日本語に直せない英文は、本当に理解していることになるのでしょうか?
私は英文を読むとき、いちいち日本語に直しませんが、直せと言われたら、すぐに日本語に直せます。
それが、英語が理解できているということだと思うのです。
全訳の載っている教科書ガイド。
あるいは、学校の先生がくれた、全訳プリント。
そんな最高の教材があるからこそ、教科書本文を自力で日本語に直したり、逆に、全訳から英文を復元する練習をすることが可能です。
昔は、そういう練習をするために、まず自分でノートを作らねばなりませんでした。
そのノート作りに、英語学習の時間の大半を奪われる結果にもなっていました。
今は、そこを省略して次の段階にすぐ進めるのです。
さらに言えば、新課程は、高校の教科書もQRコードで本文の音声を聴くことができます。
高校教科書の音声副教材というものは、以前は存在しませんでした。
それが聴き放題です。
しかし、なぜか、活用している子は少ないように感じます。
いや、それは私の目の前にいる生徒たちが活用していないだけで、日本中を見渡せば、活用している子たちが沢山いるのでしょう。
これまで、家庭の事情で英語学習の機会が少なかった子たちにとって、無料で、あるいは極めて小さな費用で、豊かな英語学習が可能なのです。
私なら使い倒します。
教科書音声にあわせて音読。
それから、シャドーイング。
何度も何度もやります。
どれほど英語力が上がることか。
そこから這い上がってくる子は、きっと多い。
目の前に最高の教材があるのに、使おうともせずぼんやりしている子たちもいる一方で。
さらに、高校の数学教材のコーナーに移動し、棚を見ました。
高校2年生が新課程に突入したので、青チャート数ⅡBも、新課程版が発売されているかな?
・・・ありました、ありました!
そして、数ⅠAと同様、例題全問の解説動画を無料で見られるようになっています。
旧課程でも、例題の解説動画は存在したのですが、無料で見られるのはそのうちの数問で、あとは有料でした。
青チャート本体よりも高い価格で解説動画を販売していたのです。
高い・・・。
とはいえ、無料版を見る限りですが、この解説動画、とてもいいものでした。
素人ユーチューバーがアクセス稼ぎ目当てにやっている数学動画は、早口で聞きづらかったり、間違っていたりして、あぶなっかしい。
扱う問題も簡単すぎます。
青チャートの動画は、青チャート学習者のレベルにあっていて、明瞭簡潔です。
テストによく出る応用問題の典型題も解説されています。
これなら、基礎力のある子なら、数学の自学自習が可能です。
自学が可能だなんて、塾経営の危機ではないのか?
いや、そうでもありません。
高校生に数学を指導していて困難を感じるのは、宿題を出しても、全問不正解か白紙である場合があることです。
そもそも学校の授業が理解できない。
学校の問題集は、解答解説がついていても自力では理解できない。
そういう課題を抱えている子は多いです。
それでいて、
「個別指導だから、わからないことは全部教えてもらえる」
と生徒は思っているようです。
1週間に90分の授業で、宿題がほぼ白紙では、次に進めません。
宿題解説だけで授業は終わり、学校でもう学習しているのだからと次のページを宿題に出しても、やはり、全問不正解・・・。
その状態が続いても、
「個別指導だから、わからないことは全部教えてもらえる」
「わからないことは、塾で勉強すればいい」
という信念はなぜか揺らぐことなく、むしろ、独りで学習していたときよりも家庭学習の時間が減ってしまう高校生がいます。
そのほうが、楽だからなのかもしれません。
そういう子は、授業動画は見ないのです。
見てもわからないと言います。
やはり、個別指導が必要なのです。
数学への取り組み方や意識を変えることも含めての個別指導が。
数学がわからないのは、授業動画で全面解決。
というわけにいかないのは、英語の教科書ガイドと同じです。
結局、使い方なのです。
授業動画は、青チャートこそ有料だったものの、旧課程の子でも、学校全体で加入していたり、個人で加入していたりして、実は、別の有料の授業動画を視聴可能な環境にいる高校生は多かったのです。
そのわりに、活用していませんでした。
学校の問題集も、塾の宿題も、わからなかったら類題の解説動画を探して自分で解決したらいいのに、そういうことをしない。
学習姿勢が受け身で、活用しないのです。
あるいは、類題の解説を上手く見つけられないのかもしれません。
類題のどういうところが類題なのか。
その分析ができるのは、ある程度数学がわかっている子たちです。
個別指導しなければならない子は、変わらず多いです。
むしろ、そうした子たちに、動画や音声の使い方を指導することで、授業をより効率的なものに変えていくことがこれからの個別指導の課題かもしれません。
さらに、一点。
大人の人で、高校数学をもう1度勉強したいと考えている人には、テキストと授業動画がセットになっている教材は使いやすいと思います。
これは、朗報です。
教科書ガイドと青チャートを購入し、ほくほくして私は教室に向かいました。
2023年04月13日
英文の意味が上手く取れない人の課題。
公園にキンランが咲き始めました。
見頃は来週でしょうか。
さて、今回は、英文の内容理解に関する話。
英語を英語のまま、理解する。
崇高な理想ですが、ネイティブではないので、そんなことはできない場合のほうがやはり多いのです。
たとえば、こんな英文。
これは、子どもの体育教育に関する文章中の1文です。
子どもには学校でもっと運動をさせる必要があるのだが、どうもうまくいかない、という内容の文章です。
そんな中の1文。
Schools can only fit so many things into a day, and often, testing and other areas of education are more important than physical education.
学校はあまりにも多くのことを1日に詰め込むことがあり、そして、しばしば、テストと他の分野の教育が体育よりも重要なのだ。
この英文を受けての、四択問題が以下のものです。
問題 本文の内容と一致するものとしてもっとも適切なものを以下から選べ。
(1) It is surprising that students have many things for physical education.
(2) It is unfortunate that physical education is more important than other subjects.
(3) It is surprising that school teachers are doing many things to improve kids' fitness.
(4) It is unfortunate that schools are too busy to leave enough time for physical education.
前にも書きましたが、英語が苦手な子たちは、そもそも英文の内容をほとんど理解していないために、こういう問題では、本文と同じ、または似ている語句が使われている選択肢を選んでしまいます。
選択肢を訳してみましょう。
(1) 生徒たちが体育のための多くのものを持っているのは驚くべきことだ。
(2) 体育が他の科目よりも重要であるのは、不運なことだ。
(3) 学校の先生たちが子どもの健康を改善するために多くのことを行っているのは驚くべきことだ。
(4) 学校があまりにも忙しくて体育のための十分な時間を残せないのは不運なことだ。
こう訳してみると簡単です。
正解は(4)です。
英語が苦手な子たちが選ぶのは、例によって(1)か(2)です。
本文と同じ語句の含有量が多い選択肢を選びます。
真逆の内容であることなど、知ったことではない。
意味がわかっていませんから、内容が真逆であることに気づかないのです。
そういう選び方をしている限り、こういう読解問題の正答率は低いままです。
内容がわからないなら、むしろ本文と同じ語句の含有量の少ない選択肢を選んだほうが、まだ正答率は上がるよと解説すると、さすがに憮然とする子が多いのは、良いことだと思います。
バカにするな。
自分は、英文の意味をわかるようになりたいんだ、ということでしょう。
その気持ち、よし。
内容をわかりたいのなら、では、日本語にしてみましょう。
和訳問題ではないので、そんなに正確な訳でなくていいよ。
直訳でいいよ。
日本語の順番に整えなくてもいいよ。
そのように促しても、上手くいかない子は多いです。
Schools can only fit so many things into a day, and often, testing and other areas of education are more important than physical education.
「学校は、1日の多くのことと合うことができる。体育よりも重要なのは、他の地域の教育と味見だ。」
・・・何だそれ?
Schools can only fit so many things into a day, の部分は、確かに難しい。
fit ~into ・・・で、「~を・・・に詰め込む」という意味になりますが、それを知らないと、fit をどう訳していいのか苦慮することになります。
でも、そういう難しいところはわからなくてもいいのです。
教えたら済むことです。
むしろ、課題が多いと感じるのは、後半の訳が奇妙なことです。
testing and other areas of education are more important than physical education.
「体育よりも重要なのは、他の地域の教育と味見だ」
・・・なぜ、後ろから訳すのだろう?
新課程の子たちですから、中学の頃から、英文の和訳はほとんど要求されていないはずなのですが、訳すとなると、和訳を逐一要求されていた昔の子どもたちと同じ課題を抱えています。
自分で訳すことはなくても、先生が訳してくれるのを聞いたり、先生から教科書本文の全訳プリントを渡されてそれを読むことは多いからでしょうか。
日本語と英語は順番が違うので、英語の順番で訳してはいけないと思っているようです。
それでいて、では、どういう順番で訳すべきなのか、そのルールは知らない・・・。
だから、とにかく後ろから訳すのが正しいと思っていたり、あるいは、目についた単語を適当に組み合わせて訳そうとしたりします。
例えば、「A and B」という内容を日本語に訳してもらうと、「BとA」と訳す子は意外に多いです。
後ろから訳さなければならないと誤解しているようなのです。
AとBは対等ですから、Bから訳すのは絶対に間違いだとは言いませんが、やはり普通は「AとB」です。
この子は、日本語に訳すということについて、何か誤解しているのだなあと感じます。
そういう誤解は簡単には解決しません。
意味のまとまりごとに英語の順番のままで訳していいと言っても、相当練習した後でないと、その指示が生徒に伝わっていきません。
「どこからどこまでが意味のまとまりなのか、わからないかな?意味のまとまりというのは、つまり、SVOCMです。文の成分です。どこからどこまでがS?まず、Sを訳しましょう」
そのように、手取り足取り指導していくと、前から順番に訳していくことが徐々にできるようになっていきます。
そういう訳し方の順番のおかしさ以外にも、上の和訳は課題を感じます。
testing を「味見」と訳していること。
other areas を「他の地域」と訳していること。
そして、そんな奇妙な訳をしても、訂正する気持ちが働いていないこと。
自分の和訳が奇妙であることに気づいても、放置してしまうのです。
教育の話をしているのに、なぜそこに唐突に「味見」が出てくるの?
それは変じゃないかな?
「他の地域の教育」?
地域ごとの教育格差の話はしていないよ?
その1つの学校の中で、体育と他の何かを比較しているんだよ?
それでも、訳せと言われると、1語1語の直訳にこだわり、文脈を無視するのです。
testing 「テストすること」と、 tasting 「味見」とを見間違えるのは、似ているから仕方ないです。
しかし、見間違えた後で、「いや、そんなの変だろう」と自分で気づくことができれば訂正可能です。
自分が見間違えたことに対して、自分で訂正する機能が働きにくいのは、学力の低い子に多い傾向です。
自分の間違いを自分で修正することも含めて、それを能力と呼びます。
ケアレスミスに自分で気づく。
何か変だなと感じて、見直す。
細部を見ているのと同時に全体を俯瞰しているから可能なことです。
そういうことができず、「味見」で押し通してしまうのです。
英単語の意味が日本語と1対1対応になっているのも課題です。
area というと「地域」という訳しか覚えていない。
「体育という科目と比較して other areas と言っているのだから、具体的な地域や場所のことじゃないよ。場所じゃなくて、もっと抽象的なエリアのことだよ?」
そのようにヒントを出しても、憮然とし、だんだんと機嫌が悪くなっていく子もいます。
抽象的という言葉が難しいのか・・・。
私の説明がそもそも抽象的でわからないのか・・・。
高校生なのに、そうか・・・。
そう思うこともあります。
全く勉強していないわけではないのです。
本人なりに努力しているのは感じます。
でも、その読み方では、結局、英文の意味はわからない・・・。
本来、「地域」という意味を1つわかっていれば、それを具体的な「地域」と限定せず、抽象的な領域、「分野」ととらえることが可能です。
そのように理解していれば、その英文ごとに最適な日本語が見つかります。
そういう単語理解をしてほしいのです。
でも、そのこと自体が難しい。
そして、英文の意味を「他の地域の教育」と思っている限りは、設問に対して(4)という正答を選ぶことはできません。
ところで、近年、私立大学入試では「和訳せよ」という出題はほとんど見られません。
国立大学の2次試験にはまだ多く残っていますが、2024年度入試が旧課程最後の入試。
新課程になれば、国立大学も入試問題の傾向を変えていくかもしれません。
新課程では、高校の授業もテストも、和訳問題のない学校が増えています。
つまり、生徒は和訳の練習をほとんどしていません。
その状態で国立大学だけ和訳問題を出題し続ける場合、特別な勉強が必要となります。
内容に関する四択問題でこれほどの困難がありますから、和訳問題になると、さらなる苦難が待っています。
例えば、こんな和訳問題です。
問題 以下の文を日本語に直せ。
This article contains a lot of experience I gathered when I was in Japan.
まずは直訳してみましょう。
「この記事は、私が日本にいたときに私が集めた多くの経験を含んでいます」
意味を取るだけなら、これでいいと思います。
しかし、和訳問題というのは、そういうことではありません。
まず気になるのは、「私が集めた経験」という表現です。
経験を集めるとは、どういうことでしょうか?
この人は、日本にいたときに、「経験大募集!私はさまざまな人の経験を集めています!」と呼びかけて経験を集めたのでしょうか?
違うと思います。
上のような直訳をした生徒に、私は尋ねました。
「経験というのは、集めるものでしょうか?日本語では、経験は、どうするものですか?」
「・・・」
「経験は、『積む』ものです」
「・・・!!」
「和訳問題は、直訳で大丈夫ならば直訳を優先しますが、それよりも大切なことがあります。日本語として正しいことです。日本語として不自然な表現は避けること。日本語として不自然な表現は減点されます」
「あ、それはつまり」
と、その生徒は、なぜか、私が解説したことを自分なりの言葉で言い換えて咀嚼する癖があり、そのときも、言い換えました。
「それはつまり、易しい日本語に直す、ということですか」
「・・・違います。易しい日本語でも、難しい日本語でもいいのです。観点はそこじゃない。正しい日本語かどうかです」
「・・・それは、つまり、わかりやすい日本語に直すということですか」
「違います。わかりやすくてもわかりにくくても構いません。正しい日本語に直すんです」
正しいを易しいと言い換えてしまう・・・。
その言語感覚では、和訳がブレてしまいかねません。
和訳問題は、英語能力問題であると同時に、日本語能力問題です。
日本語として不自然なものにセンサーが働くかどうか、です。
これは、現代の高校生には困難な課題です。
「この記事は、私が日本にいたときに私が積んだ多くの経験を含んでいます」
さて、ここまで直したとして。
おそらく、この程度の答案で多くの加点があると思いますし、緩い採点基準ならば、正解になると思います。
しかし、ここでもう一歩攻めたい。
上のような文を、日本人が日本語で書くでしょうか?
無生物主語の文ですね。
「この記事には、私が日本にいたときに積んだ多くの経験が含まれています」
多分、これで大丈夫です。
もっと言い換えてもいいかもしれませんが、あまりにも言い換えると本体が消えてしまうので、この程度でよしとしましょう。
正答例の許容範囲にぎりぎりすべりこめばいいのです。
こういう気の遣い方をしなければならないので、和訳問題は私自身あまり好きではありません。
新課程入試に変わったら国立大学の2次試験も和訳問題が減るといいなあと思うのですが、本人の英語力と日本語力を最も評価できる問題は和訳問題であることも否定できません。
見頃は来週でしょうか。
さて、今回は、英文の内容理解に関する話。
英語を英語のまま、理解する。
崇高な理想ですが、ネイティブではないので、そんなことはできない場合のほうがやはり多いのです。
たとえば、こんな英文。
これは、子どもの体育教育に関する文章中の1文です。
子どもには学校でもっと運動をさせる必要があるのだが、どうもうまくいかない、という内容の文章です。
そんな中の1文。
Schools can only fit so many things into a day, and often, testing and other areas of education are more important than physical education.
学校はあまりにも多くのことを1日に詰め込むことがあり、そして、しばしば、テストと他の分野の教育が体育よりも重要なのだ。
この英文を受けての、四択問題が以下のものです。
問題 本文の内容と一致するものとしてもっとも適切なものを以下から選べ。
(1) It is surprising that students have many things for physical education.
(2) It is unfortunate that physical education is more important than other subjects.
(3) It is surprising that school teachers are doing many things to improve kids' fitness.
(4) It is unfortunate that schools are too busy to leave enough time for physical education.
前にも書きましたが、英語が苦手な子たちは、そもそも英文の内容をほとんど理解していないために、こういう問題では、本文と同じ、または似ている語句が使われている選択肢を選んでしまいます。
選択肢を訳してみましょう。
(1) 生徒たちが体育のための多くのものを持っているのは驚くべきことだ。
(2) 体育が他の科目よりも重要であるのは、不運なことだ。
(3) 学校の先生たちが子どもの健康を改善するために多くのことを行っているのは驚くべきことだ。
(4) 学校があまりにも忙しくて体育のための十分な時間を残せないのは不運なことだ。
こう訳してみると簡単です。
正解は(4)です。
英語が苦手な子たちが選ぶのは、例によって(1)か(2)です。
本文と同じ語句の含有量が多い選択肢を選びます。
真逆の内容であることなど、知ったことではない。
意味がわかっていませんから、内容が真逆であることに気づかないのです。
そういう選び方をしている限り、こういう読解問題の正答率は低いままです。
内容がわからないなら、むしろ本文と同じ語句の含有量の少ない選択肢を選んだほうが、まだ正答率は上がるよと解説すると、さすがに憮然とする子が多いのは、良いことだと思います。
バカにするな。
自分は、英文の意味をわかるようになりたいんだ、ということでしょう。
その気持ち、よし。
内容をわかりたいのなら、では、日本語にしてみましょう。
和訳問題ではないので、そんなに正確な訳でなくていいよ。
直訳でいいよ。
日本語の順番に整えなくてもいいよ。
そのように促しても、上手くいかない子は多いです。
Schools can only fit so many things into a day, and often, testing and other areas of education are more important than physical education.
「学校は、1日の多くのことと合うことができる。体育よりも重要なのは、他の地域の教育と味見だ。」
・・・何だそれ?
Schools can only fit so many things into a day, の部分は、確かに難しい。
fit ~into ・・・で、「~を・・・に詰め込む」という意味になりますが、それを知らないと、fit をどう訳していいのか苦慮することになります。
でも、そういう難しいところはわからなくてもいいのです。
教えたら済むことです。
むしろ、課題が多いと感じるのは、後半の訳が奇妙なことです。
testing and other areas of education are more important than physical education.
「体育よりも重要なのは、他の地域の教育と味見だ」
・・・なぜ、後ろから訳すのだろう?
新課程の子たちですから、中学の頃から、英文の和訳はほとんど要求されていないはずなのですが、訳すとなると、和訳を逐一要求されていた昔の子どもたちと同じ課題を抱えています。
自分で訳すことはなくても、先生が訳してくれるのを聞いたり、先生から教科書本文の全訳プリントを渡されてそれを読むことは多いからでしょうか。
日本語と英語は順番が違うので、英語の順番で訳してはいけないと思っているようです。
それでいて、では、どういう順番で訳すべきなのか、そのルールは知らない・・・。
だから、とにかく後ろから訳すのが正しいと思っていたり、あるいは、目についた単語を適当に組み合わせて訳そうとしたりします。
例えば、「A and B」という内容を日本語に訳してもらうと、「BとA」と訳す子は意外に多いです。
後ろから訳さなければならないと誤解しているようなのです。
AとBは対等ですから、Bから訳すのは絶対に間違いだとは言いませんが、やはり普通は「AとB」です。
この子は、日本語に訳すということについて、何か誤解しているのだなあと感じます。
そういう誤解は簡単には解決しません。
意味のまとまりごとに英語の順番のままで訳していいと言っても、相当練習した後でないと、その指示が生徒に伝わっていきません。
「どこからどこまでが意味のまとまりなのか、わからないかな?意味のまとまりというのは、つまり、SVOCMです。文の成分です。どこからどこまでがS?まず、Sを訳しましょう」
そのように、手取り足取り指導していくと、前から順番に訳していくことが徐々にできるようになっていきます。
そういう訳し方の順番のおかしさ以外にも、上の和訳は課題を感じます。
testing を「味見」と訳していること。
other areas を「他の地域」と訳していること。
そして、そんな奇妙な訳をしても、訂正する気持ちが働いていないこと。
自分の和訳が奇妙であることに気づいても、放置してしまうのです。
教育の話をしているのに、なぜそこに唐突に「味見」が出てくるの?
それは変じゃないかな?
「他の地域の教育」?
地域ごとの教育格差の話はしていないよ?
その1つの学校の中で、体育と他の何かを比較しているんだよ?
それでも、訳せと言われると、1語1語の直訳にこだわり、文脈を無視するのです。
testing 「テストすること」と、 tasting 「味見」とを見間違えるのは、似ているから仕方ないです。
しかし、見間違えた後で、「いや、そんなの変だろう」と自分で気づくことができれば訂正可能です。
自分が見間違えたことに対して、自分で訂正する機能が働きにくいのは、学力の低い子に多い傾向です。
自分の間違いを自分で修正することも含めて、それを能力と呼びます。
ケアレスミスに自分で気づく。
何か変だなと感じて、見直す。
細部を見ているのと同時に全体を俯瞰しているから可能なことです。
そういうことができず、「味見」で押し通してしまうのです。
英単語の意味が日本語と1対1対応になっているのも課題です。
area というと「地域」という訳しか覚えていない。
「体育という科目と比較して other areas と言っているのだから、具体的な地域や場所のことじゃないよ。場所じゃなくて、もっと抽象的なエリアのことだよ?」
そのようにヒントを出しても、憮然とし、だんだんと機嫌が悪くなっていく子もいます。
抽象的という言葉が難しいのか・・・。
私の説明がそもそも抽象的でわからないのか・・・。
高校生なのに、そうか・・・。
そう思うこともあります。
全く勉強していないわけではないのです。
本人なりに努力しているのは感じます。
でも、その読み方では、結局、英文の意味はわからない・・・。
本来、「地域」という意味を1つわかっていれば、それを具体的な「地域」と限定せず、抽象的な領域、「分野」ととらえることが可能です。
そのように理解していれば、その英文ごとに最適な日本語が見つかります。
そういう単語理解をしてほしいのです。
でも、そのこと自体が難しい。
そして、英文の意味を「他の地域の教育」と思っている限りは、設問に対して(4)という正答を選ぶことはできません。
ところで、近年、私立大学入試では「和訳せよ」という出題はほとんど見られません。
国立大学の2次試験にはまだ多く残っていますが、2024年度入試が旧課程最後の入試。
新課程になれば、国立大学も入試問題の傾向を変えていくかもしれません。
新課程では、高校の授業もテストも、和訳問題のない学校が増えています。
つまり、生徒は和訳の練習をほとんどしていません。
その状態で国立大学だけ和訳問題を出題し続ける場合、特別な勉強が必要となります。
内容に関する四択問題でこれほどの困難がありますから、和訳問題になると、さらなる苦難が待っています。
例えば、こんな和訳問題です。
問題 以下の文を日本語に直せ。
This article contains a lot of experience I gathered when I was in Japan.
まずは直訳してみましょう。
「この記事は、私が日本にいたときに私が集めた多くの経験を含んでいます」
意味を取るだけなら、これでいいと思います。
しかし、和訳問題というのは、そういうことではありません。
まず気になるのは、「私が集めた経験」という表現です。
経験を集めるとは、どういうことでしょうか?
この人は、日本にいたときに、「経験大募集!私はさまざまな人の経験を集めています!」と呼びかけて経験を集めたのでしょうか?
違うと思います。
上のような直訳をした生徒に、私は尋ねました。
「経験というのは、集めるものでしょうか?日本語では、経験は、どうするものですか?」
「・・・」
「経験は、『積む』ものです」
「・・・!!」
「和訳問題は、直訳で大丈夫ならば直訳を優先しますが、それよりも大切なことがあります。日本語として正しいことです。日本語として不自然な表現は避けること。日本語として不自然な表現は減点されます」
「あ、それはつまり」
と、その生徒は、なぜか、私が解説したことを自分なりの言葉で言い換えて咀嚼する癖があり、そのときも、言い換えました。
「それはつまり、易しい日本語に直す、ということですか」
「・・・違います。易しい日本語でも、難しい日本語でもいいのです。観点はそこじゃない。正しい日本語かどうかです」
「・・・それは、つまり、わかりやすい日本語に直すということですか」
「違います。わかりやすくてもわかりにくくても構いません。正しい日本語に直すんです」
正しいを易しいと言い換えてしまう・・・。
その言語感覚では、和訳がブレてしまいかねません。
和訳問題は、英語能力問題であると同時に、日本語能力問題です。
日本語として不自然なものにセンサーが働くかどうか、です。
これは、現代の高校生には困難な課題です。
「この記事は、私が日本にいたときに私が積んだ多くの経験を含んでいます」
さて、ここまで直したとして。
おそらく、この程度の答案で多くの加点があると思いますし、緩い採点基準ならば、正解になると思います。
しかし、ここでもう一歩攻めたい。
上のような文を、日本人が日本語で書くでしょうか?
無生物主語の文ですね。
「この記事には、私が日本にいたときに積んだ多くの経験が含まれています」
多分、これで大丈夫です。
もっと言い換えてもいいかもしれませんが、あまりにも言い換えると本体が消えてしまうので、この程度でよしとしましょう。
正答例の許容範囲にぎりぎりすべりこめばいいのです。
こういう気の遣い方をしなければならないので、和訳問題は私自身あまり好きではありません。
新課程入試に変わったら国立大学の2次試験も和訳問題が減るといいなあと思うのですが、本人の英語力と日本語力を最も評価できる問題は和訳問題であることも否定できません。
2023年02月21日
英文を読む力。
画像は福寿草。
都立神代植物公園植物多様性センターで、当たり前に地べたに沢山咲いていました。
それはともかく、今日は英語の長文読解の話。
例えば、外国語学習の重要性を述べている文中に、こんな英文があるとします。
Learning another language makes us realize the relativity of our value.
問題 文中の、 the relativity of our value に最も近い意味を表すのは、以下のどれか。
(1) that our value are perfect in a sence
(2) that our value are related to those in foreign countries
(3) that we pride ourselves on our relatives
(4) that there are no universal or perfect values
高校レベルの英語長文問題ですが、決して難しいものではありません。
でも、この問題の正答率は低いです。
英語が苦手な子が選んでしまうのは、(3)です。
真っ先に選んでしまいます。
ほぼ即答の子すらいます。
無論、これは、誤答です。
解説します。
まずは本文の内容を確認しましょう。
Learning another language makes us realize the relativity of our value.
は、直訳すれば、「別の言語を学ぶことは、私たちに、私たちの価値観の相対性を理解させる」という意味です。
Learning another language 「別の言語を学ぶこと」が主語。
make は使役動詞。「~させる」という意味です。
使役動詞は、SVOCの形をとります。
us「私たちに」というO(目的語)の後、C(補語)に原形不定詞(動詞の原形が不定詞の役割を果たすもの)がきます。
realize は「了解する・理解する」という意味の動詞。
これがここでは、原形不定詞です。
主語である「別の言語を学ぶこと」が「私たちに」「理解させる」のです。
何を?
the relativity of our value 「私たちの価値観の相対性を」です。
relativity は、「相対性」という意味です。
国語も苦手という生徒の場合、「相対性」の意味がわからないことがありますが、「相対」の対義語は「絶対」です。
そこから、何となく意味は把握できると思います。
相対的であるということは、絶対的ではないということ。
外国語を学ぶことによって、私たちは、自分の価値観が絶対ではないことを理解する、ということです。
では、4つの選択肢を見ていきましょう。
(1) that our value are perfect in a sence
私たちの価値観は、ある意味完璧だということ。
(2) that our value are related to those in foreign countries
私たちの価値観は、外国の価値観と関係があるということ。
(3) that we pride ourselves on our relatives
私たちは、私たちの親戚を誇りにしているということ。
(4) that there are no universal or perfect values
普遍的あるいは完璧な価値観はないということ。
わかりました。
正解は、(4)です。
でも、似ている単語の多い選択肢を選ぶ癖のある子は、(4)は、選ばないのです。
本文と同じ単語が少ないので、一番関係がなさそうな選択肢に見えてしまうのでしょう。
まず(3)を選ぶ。
それが間違いだと言われたら、(2)を選ぶ。
そのような間違いを繰り返します。
relativity と見た目の似ている単語にこだわります。
relate 「関係がある」, relatives 「親戚」, relativity「相対性」。
relativity「相対性」だけが意味が異なるということではありません。
他者との関係を考慮するからこその「相対性」です。
他者と無関係で全く比較しないのが「絶対」です。
語源が同じである単語に注目することで、語彙は増え、深まります。
とはいえ、そうした似ている単語さえ使ってあれば正しい選択肢、というわけではありません。
全く違う言葉遣いで同じ内容を表しているものが正解になっていることは多いのです。
そういう問題は、良問だと思います。
大学受験をするならば、このレベルの英文は知らない単語は1語もないところまで語彙力を上げてほしいとは思いますが、これは、多少わからない単語があっても、文脈を読めば正答に至ることのできる問題でもあります。
大切なのは、1語の見た目にだまされて飛びついてしまうのではなく、文脈を把握することです。
もう一度本文を見てみましょう。
Learning another language makes us realize the relativity of our value.
この文の中で、relativity の意味がわからなかったとして。
「別の言語を学ぶことは、私たちに、私たちの価値観のナントカを理解させる」
のナントカは、何となく想像できます。
外国語を学ぶことの意義。
それについて、ぼんやりとでもポジティブなイメージがあれが、それにそって選択肢を検討していきましょう。
(1) that our value are perfect in a sence
私たちの価値観は、イン・ア・センスで完璧だということ。
(2) that our value are related to those in foreign countries
私たちの価値観は、外国の価値観とナントカだということ。
(3) that we pride ourselves on our relatives
私たちは、私たちのナントカを誇りにしているということ。
(4) that there are no universal or perfect values
ナントカあるいは完璧な価値観はないということ。
と、それぞれの選択肢も、一番難しい語句はわからないとして。
それでも、(1)や(3) は、ないなあと判断できます。
外国語を学ぶことで、むしろ日本が完璧だと感じたり、誇りに思うようになる?
視野が狭くなっているだけでしょう、それでは。
それは、ありえない。
(2)か、(4)か。
外国語を学ぶことでわかることは、何か?
日本と外国と、それぞれの価値観があるということ。
どの価値観が正しいとは言えないということ。
そうであるならば、
「完璧な価値観はない」
文脈上、これが適切。
だから、正解は(4)です。
多くの文章を読んでいて、
「こういう文章は大体こういう内容」
ということを理解していると、この程度の単語力でも正解に至ることができます。
とはいえ、単語力がもっと低い高校生も珍しくありません。
そもそも value が何なのかわからない。
「ほら、バリューセットってあるじゃない?」
とヒントを出しても、
「あ。安売り?」
と、奇妙な連想が働いてしまい、正しい意味からさらに遠ざかってしまう子もいます。
値段以上の価値があるからバリューセットというんだろうと思うけど?
そう説明すると、驚いています。
本文も選択肢も虫食いだらけで、意味がわからない・・・。
だから、見た目の似ている語句に頼って正解らしきものを選ぶしかない。
それが正解ではない可能性があることもわかっているけれど・・・。
文法力・単語力に乏しく、英文を読み通すことができないので、下線部分とその前後だけ読み、それと同じような語句のある選択肢を選ぶしかない。
中学生の頃から、英語長文に関しては、そのような解き方しかできない子は多いです。
昔は、都立高校の入試問題は、そんな解き方でも正答できる問題が多かったのですが、今は、そんな読み方をする子を誤答させるための選択肢を故意に作ってある問題が多くなりました。
高校入試ですら、そうなのです。
英検の問題も、級が上がればそういう問題が大半です。
大学入試共通テストの問題も、各大学の入試問題もそうです。
単語を覚え、文法を理解し、本文を正確に読めるようにしておくことが、遠回りのようで、確実に正答を増やしていく道です。
そのうえで、英文でも日本文でも、多くの文章に触れて、論説文の文脈を理解しておくと、読むのはさらに楽になります。
「外国語を学ぶことの意義」
という語句を見ただけで、大体どんな内容が書いてあるか、想像がつく。
そうであれば、それが英語で書いてあっても、わからない単語が多少含まれていても、読み通すのはさほど苦痛ではありません。
選択肢も、常識的にあり得ない選択肢は除外できます。
2023年01月22日
英検2級という壁。
文部科学省が、2018年度から2022年度で目指すとした計画を覚えていますか。
中学3年までで英検3級、高校3年までで英検準2級程度の英語力を、5割以上の生徒が達成する、というものでした。
まだ、2022年度の結果は出ていませんが、
21年度の割合は、中3が47.0%。高3が46.1%。
まあ、近いところまではいっているけれど、達成せず、という結果です。
そして、達成されないまま、文科省は、2027年度までに達成を目指す英語力水準について、
中3までで英検3級、高校3年までで英検準2級を、6割以上とするそうです。
5割も達成できなかったのに・・・。
何か、英語ができない子で、そういう子がいるなあと連想してしまいます。
英検3級に合格しなかったから、次は英検準2級を受ける、というような。
無理はしないほうがいいと思うなあ・・・。
とはいえ、中3で英検3級は順当な目標ですが、高3で英検準2級はそもそも目標が低めです。
それでも、達成できないのです。
この先改善されるだろうかと考えても、希望的観測はもてません。
これは、英語の教育改革が良い効果をもたらしていないのもさることながら、結局、英語力は個人の問題に帰するところが大きいので、そのせいだから仕方ないんじゃないかなあと思うのです。
英語が出来る子は、特に留学経験などなくても、高校生の間に英検準1級に合格します。
一方、英語が苦手な子は、昔も今も英語がわかりません。
新しい傾向もありますが、昔ながらのことが今も続いているのでもあります。
学校で6年も、あるいは小学校から考えれば8年も英語を勉強しているのに、なぜ英語が身につかないのか?
この疑問の立て方にそもそも問題があります。
学校の授業だけで英語が身につくわけがないからです。
語学というのは、そういうものではありません。
学校は学ぶべき指針は示してくれます。
学ぶべき教材も提供してくれます。
しかし、個人のたゆまぬ努力がどうしても必要なのです。
何年英語を学習しても中学英語のレベルにとどまり、高校英語レベルに進歩しない子は、多いです。
その最大の原因は、単語力です。
中学で学習した単語はそこそこ覚えているのですが、高校で新出の単語を覚えられないのです。
それは、学校のせいだとは思えないんです。
高校生の多くは、高校レベルの単語が多く含まれている初見の英文を読めません。
書いてあることの意味がわからないのですから、正答できません。
そういう子の英語学習は、学校で毎週行われている単語テストは一夜漬け、あるいはテスト直前だけの即席漬けのことが多いです。
覚えてもすぐ忘れるので、単語力の蓄積がなく、中学生の単語力のまま、高2になり、高3になります。
高1の頃は、教科書に出てくる知らない単語は新出単語の場合がほとんどです。
しかし、高1での新出単語を覚えないまま高2、高3と進級してしまうので、教科書の中で、新出単語ではないのに意味のわからない単語が増えていきます。
高3の教科書は、1行の中でわからない単語が3つも4つもあるということになります。
勿論、大学入試の長文問題も。
英検2級の問題文も。
この症状はもっと早くに出る子もいます。
高校の入試問題の英語長文を読み通す英語力がない中学生たちです。
「ものを覚える」ということが本当に苦手な様子で、単語の意味を覚えるのに苦労していますし、また、忘れるのも早いです。
単語力の蓄積がなく、都立高校入試の普通の長文も、読み通すことができないのです。
様子をよく見ていますと、記憶力だけの問題ではなく、文字の解析力にも課題があるようで、似ている単語の区別がつかないのです。
単語がどれも同じように見えて、そして、どれも意味がわからない・・・。
語源を意識すれば英単語は覚えやすい。
それは事実です。
あるレベルの子たちには有効な情報ですが、そもそも語源が覚えられない、語呂合わせですら覚えられないという、記憶力がきわめて悪い子たちが存在するという事実を忘れてはいけません。
幼い頃からものを覚えるのが苦手で、ものを覚えようとすると頭が重くなってつらいので、脳を鍛えるということもしてこなかった子たちです。
英語が苦手な子の多くは、そういう子たちです。
低学力をなめたらダメです。
英語だけが苦手なわけじゃないんです。
そこそこもの覚えはよくて、中学英語くらいはどうにかこなしてきた子たちも、上記のように高校生になれば、爆発的に増えていく新出単語に対応できなくなります。
これは、性格的なものも影響します。
もの覚えが悪いわけではないので、中学受験や高校受験は、それなりに成功します。
そうして始まった楽しい高校生活。
学校から単語集が配られ、毎週単語テストが行われても、どこまで本気になれるか?
真面目に努力できる子もいますが、やっつけ仕事になってしまう子も多いです。
あるいは、単語テストは真面目に備えるとして、その後、繰り返しその単語を復習できるか?
それが英語を身につけるのには絶対に必要なことだと大人から説明されても、それでもその通りにはできない。
日々のことに追われて、1度覚えた単語も気がつくと忘れている。
そんな子のほうが普通です。
単語が覚えられない。
語彙が増えない。
永遠に中学英語のままです。
英検準2級ならば、それでも高校生の間に何とか取れる可能性はあり、そういう意味では文科省の掲げる目標もまるっきり現実離れしているとは思いませんが、本来は、高校卒業程度という設定である英検2級となると、壁は厚いです。
どうして、英語が身につかないのか?
高校の「英語コミュニケーション」の授業の形態は、昔とは違います。
例えばこんな授業です。
教科書本文を読む前に、まず本文の内容を音声で聴きます。
聴き取った内容に対して、まずは易しい四択問題のプリントを解きます。
次に本文を読み、読み取った内容に関する少し難しいプリントを解きます。
その答えあわせや解説が終わると、本文の全訳プリントが渡されます。
その全訳プリントで、重要文を英語に直す反訳練習。
それで授業は終了。
本文を読んで訳して、読んで訳して。
そうした昔ながらの「リーダー」の授業と比べると、上のような英語の授業はすごく進化しているような気がします。
しかし、英語学習の意欲のない子にとっては、予習しなくて済む好都合な授業形態になっているだけかもしれません。
本人は授業に参加しているつもりでも、学習内容に全くアクセスできていないということも起こり得ます。
本人の英語のレベルとは関係のない、雲の上のことが行われているだけ。
それでも英語を勉強していることに形の上ではなっています。
勿論、復習もしません。
予習も復習もしない。
つまり、家庭で英語を学習しないのです。
何にもわからないから、勉強のしようもないですし。
テスト前に全訳プリントを眺めて、こんなお話だったと振り返って、テスト勉強は終了。
テストは、教科書本文以外からの出題も多いから、テスト勉強してもどうせそんなにいい点は取れないし。
と、色々と言い訳しやすいシステムにもなっています。
「論理・表現」の授業も、難しくて諦めてしまう子が多いです。
文科省認定の「過度の文法事項を排した」ふわふわした内容の教科書を実際に使用する高校は少ないです。
生徒にそういう教科書も渡してはありますが、実際に使うのは副読本のほうです。
英文法のテキスト、参考書、ワークブックを、多くの高校が生徒にしっかり渡しています。
しかし、英語が苦手な高校生は、そうした文法学習は何のために何をやっているのか、よく理解できないのです。
国語の文法も苦手で、文法なんか意味がないと、文法を敵視しているような子が一定数います。
国語の文法がわからなくても日本語を話せるように、英語の文法なんかわからなくても英語は話せるはずだ、と誤解しているのです。
英文法なんて意味ない。
こういうのじゃない英語を勉強したい。
と、変なことを夢想します。
あるいは、そこまで強気ではなくても、何を勉強しているのかとにかくわからなくて困ってしまう子もいます。
英文法の問題を漠然と解いていても、それがどういう意図の問題で、何が問われているのか、よくわからないようです。
全部、熟語の問題だと思って解いていた子もかつていました。
文法がわからない子は、自分が何を学んでいるのか、わからないのです。
文法学習をしているということは自覚していても、文法用語を覚えられない子も多いです。
「時・条件を表す副詞節は未来のことを現在形で表す」
たったこれだけの内容を、何度反復しても理解できない子もいますし、理解した顔をしてもすぐに忘れてしまう子もいます。
副詞とは何か。
節とは何か。
常にそこに戻って説明しても、次のときには、全部忘れています。
心のどこかで文法の価値を認めていないからかもしれませんし、単純に覚えられないだけかもしれません。
英文法の宿題は解きますが、文法を理解せずに解いているので、あてずっぽうで解いているだけで、そんなのは勉強ではありません。
そして、学校で宿題の答えあわせと解説の授業を受けても、意味がわからないので、復習もできませんし、しません。
また、文法を、英文を読むとき、書くとき、話すときに使うのだということを理解していない子は多いです。
文法の勉強は受け入れても、それはそれとして、長文を読むときにはそんなのは全部忘れて我流で読んでしまうのです。
短い文なら何とかなっても、複雑な構造の英文は意味が取れません。
英文中の単語をいくつか拾って意味を想像するような読み方しかできないのです。
単語の意味がわからないことが、それに拍車をかけます。
それで英文を読めるわけがありません。
そんな英語学習をしているのに、いや、本質的には英語学習と呼べるものを全くしていないのに、英検を受けるのです。
いやいや・・・・。
そんな英語力じゃないでしょう?
そんな勉強をしていないでしょう?
単語力が全く足りないでしょう?
長文をまともに読めないでしょう?
否定的なことばかり書いてきましたが、要するに上と反対のことをやっていれば、英語力がつくのです。
まずは1日最低1時間は英語を勉強すると決めましょう。
これが大切。
やる気だけあっても、具体的にいつ英語を勉強するか決めていない人は、実行できません。
「英語コミュニケーション」は、
まずは、教科書の音声を聴きながら、それにあわせて音読してみましょう。
次に、本文を見ないで、音声にあわせて言ってみるシャドーイング。
こういう練習の効果を信じない子は多いですが、読めない英語は身につきません。
英文読解が、暗号解読みたいになってしまうのは、読めない単語の羅列を読んでいかなければならないからです。
そして、読めない英語は聞こえない。
これはリスニング対策でもあるのです。
さらに、教科書全訳を見て、それを英文に直す練習。
大体直せるようだったら、全訳を見て、ノートに英文を書いてみる練習。
スペルミスがあったら、単語練習。
学校の単語集は、テスト範囲にこだわらず、繰り返し繰り返し反復練習しましょう。
赤シートをかけて、常に自分にテストをしてください。
単語集の音源も積極的に活用します。
今はその単語集の出版社のサイトで音源を無料で利用できることもあります。
高校から配布された単語集を1冊丸ごと覚えれば、英検2級くらいはどうにでもなります。
しかし、学校の単語テストにあわせて、その範囲を覚えただけでは、1冊終わった頃には最初のほうの単語は忘れています。
幾度も自分で反復することが必要です。
大人なら、そんなの当たり前だとわかっているのですが、記憶というものについて、高校生は案外わかっていない子がいます。
「1回覚えたのに、何ですぐ忘れてしまうの?こんなの、覚えても無駄じゃん」
と、訳のわからないことを平気で言ったりします。
人間は忘れるものです。
脳は不要な記憶を消去することに一所懸命なんですから。
脳に「このことは大事だから覚えておけ」と指令を出さなければなりません。
それには反復・反復・反復。
幾度も反復すると、脳は「あれ?これ、消去する記憶じゃないの?」と気づいて、長期記憶に組み替えてくれます。
また、「論理・表現」の学習は、学校で使うメインテキストだけの勉強になりがちですが、厚い参考書が配られていたら、それも必ず読みましょう。
知りたかったことが全部書いてあって、目からウロコがぽろぽろ落ちます。
それで文法が面白くなったという英語秀才は多いです。
さらに、学校の文法のテキストやワークに答を直接書き込むような愚挙だけは絶対に避けてください。
解き直せなくなるからです。
ノートにしっかり解いて、学校の授業で正解を確認したら、それを正答集として、繰り返し解き直しましょう。
そして、上のようなことをやっても、毎日1時間の英語の学習時間が余るなあと感じたら。
そこからは、何をやるか、自分で決めていきましょう。
NHKのラジオ講座をやるもよし。
市販の英語教材を購入してやってみるもよし。
英検の過去問もいいですね。
塾に来てくれれば、教材はいくらでもあります。
英語の初歩の初歩から大学入試問題まで。
無尽蔵にあります。
中学3年までで英検3級、高校3年までで英検準2級程度の英語力を、5割以上の生徒が達成する、というものでした。
まだ、2022年度の結果は出ていませんが、
21年度の割合は、中3が47.0%。高3が46.1%。
まあ、近いところまではいっているけれど、達成せず、という結果です。
そして、達成されないまま、文科省は、2027年度までに達成を目指す英語力水準について、
中3までで英検3級、高校3年までで英検準2級を、6割以上とするそうです。
5割も達成できなかったのに・・・。
何か、英語ができない子で、そういう子がいるなあと連想してしまいます。
英検3級に合格しなかったから、次は英検準2級を受ける、というような。
無理はしないほうがいいと思うなあ・・・。
とはいえ、中3で英検3級は順当な目標ですが、高3で英検準2級はそもそも目標が低めです。
それでも、達成できないのです。
この先改善されるだろうかと考えても、希望的観測はもてません。
これは、英語の教育改革が良い効果をもたらしていないのもさることながら、結局、英語力は個人の問題に帰するところが大きいので、そのせいだから仕方ないんじゃないかなあと思うのです。
英語が出来る子は、特に留学経験などなくても、高校生の間に英検準1級に合格します。
一方、英語が苦手な子は、昔も今も英語がわかりません。
新しい傾向もありますが、昔ながらのことが今も続いているのでもあります。
学校で6年も、あるいは小学校から考えれば8年も英語を勉強しているのに、なぜ英語が身につかないのか?
この疑問の立て方にそもそも問題があります。
学校の授業だけで英語が身につくわけがないからです。
語学というのは、そういうものではありません。
学校は学ぶべき指針は示してくれます。
学ぶべき教材も提供してくれます。
しかし、個人のたゆまぬ努力がどうしても必要なのです。
何年英語を学習しても中学英語のレベルにとどまり、高校英語レベルに進歩しない子は、多いです。
その最大の原因は、単語力です。
中学で学習した単語はそこそこ覚えているのですが、高校で新出の単語を覚えられないのです。
それは、学校のせいだとは思えないんです。
高校生の多くは、高校レベルの単語が多く含まれている初見の英文を読めません。
書いてあることの意味がわからないのですから、正答できません。
そういう子の英語学習は、学校で毎週行われている単語テストは一夜漬け、あるいはテスト直前だけの即席漬けのことが多いです。
覚えてもすぐ忘れるので、単語力の蓄積がなく、中学生の単語力のまま、高2になり、高3になります。
高1の頃は、教科書に出てくる知らない単語は新出単語の場合がほとんどです。
しかし、高1での新出単語を覚えないまま高2、高3と進級してしまうので、教科書の中で、新出単語ではないのに意味のわからない単語が増えていきます。
高3の教科書は、1行の中でわからない単語が3つも4つもあるということになります。
勿論、大学入試の長文問題も。
英検2級の問題文も。
この症状はもっと早くに出る子もいます。
高校の入試問題の英語長文を読み通す英語力がない中学生たちです。
「ものを覚える」ということが本当に苦手な様子で、単語の意味を覚えるのに苦労していますし、また、忘れるのも早いです。
単語力の蓄積がなく、都立高校入試の普通の長文も、読み通すことができないのです。
様子をよく見ていますと、記憶力だけの問題ではなく、文字の解析力にも課題があるようで、似ている単語の区別がつかないのです。
単語がどれも同じように見えて、そして、どれも意味がわからない・・・。
語源を意識すれば英単語は覚えやすい。
それは事実です。
あるレベルの子たちには有効な情報ですが、そもそも語源が覚えられない、語呂合わせですら覚えられないという、記憶力がきわめて悪い子たちが存在するという事実を忘れてはいけません。
幼い頃からものを覚えるのが苦手で、ものを覚えようとすると頭が重くなってつらいので、脳を鍛えるということもしてこなかった子たちです。
英語が苦手な子の多くは、そういう子たちです。
低学力をなめたらダメです。
英語だけが苦手なわけじゃないんです。
そこそこもの覚えはよくて、中学英語くらいはどうにかこなしてきた子たちも、上記のように高校生になれば、爆発的に増えていく新出単語に対応できなくなります。
これは、性格的なものも影響します。
もの覚えが悪いわけではないので、中学受験や高校受験は、それなりに成功します。
そうして始まった楽しい高校生活。
学校から単語集が配られ、毎週単語テストが行われても、どこまで本気になれるか?
真面目に努力できる子もいますが、やっつけ仕事になってしまう子も多いです。
あるいは、単語テストは真面目に備えるとして、その後、繰り返しその単語を復習できるか?
それが英語を身につけるのには絶対に必要なことだと大人から説明されても、それでもその通りにはできない。
日々のことに追われて、1度覚えた単語も気がつくと忘れている。
そんな子のほうが普通です。
単語が覚えられない。
語彙が増えない。
永遠に中学英語のままです。
英検準2級ならば、それでも高校生の間に何とか取れる可能性はあり、そういう意味では文科省の掲げる目標もまるっきり現実離れしているとは思いませんが、本来は、高校卒業程度という設定である英検2級となると、壁は厚いです。
どうして、英語が身につかないのか?
高校の「英語コミュニケーション」の授業の形態は、昔とは違います。
例えばこんな授業です。
教科書本文を読む前に、まず本文の内容を音声で聴きます。
聴き取った内容に対して、まずは易しい四択問題のプリントを解きます。
次に本文を読み、読み取った内容に関する少し難しいプリントを解きます。
その答えあわせや解説が終わると、本文の全訳プリントが渡されます。
その全訳プリントで、重要文を英語に直す反訳練習。
それで授業は終了。
本文を読んで訳して、読んで訳して。
そうした昔ながらの「リーダー」の授業と比べると、上のような英語の授業はすごく進化しているような気がします。
しかし、英語学習の意欲のない子にとっては、予習しなくて済む好都合な授業形態になっているだけかもしれません。
本人は授業に参加しているつもりでも、学習内容に全くアクセスできていないということも起こり得ます。
本人の英語のレベルとは関係のない、雲の上のことが行われているだけ。
それでも英語を勉強していることに形の上ではなっています。
勿論、復習もしません。
予習も復習もしない。
つまり、家庭で英語を学習しないのです。
何にもわからないから、勉強のしようもないですし。
テスト前に全訳プリントを眺めて、こんなお話だったと振り返って、テスト勉強は終了。
テストは、教科書本文以外からの出題も多いから、テスト勉強してもどうせそんなにいい点は取れないし。
と、色々と言い訳しやすいシステムにもなっています。
「論理・表現」の授業も、難しくて諦めてしまう子が多いです。
文科省認定の「過度の文法事項を排した」ふわふわした内容の教科書を実際に使用する高校は少ないです。
生徒にそういう教科書も渡してはありますが、実際に使うのは副読本のほうです。
英文法のテキスト、参考書、ワークブックを、多くの高校が生徒にしっかり渡しています。
しかし、英語が苦手な高校生は、そうした文法学習は何のために何をやっているのか、よく理解できないのです。
国語の文法も苦手で、文法なんか意味がないと、文法を敵視しているような子が一定数います。
国語の文法がわからなくても日本語を話せるように、英語の文法なんかわからなくても英語は話せるはずだ、と誤解しているのです。
英文法なんて意味ない。
こういうのじゃない英語を勉強したい。
と、変なことを夢想します。
あるいは、そこまで強気ではなくても、何を勉強しているのかとにかくわからなくて困ってしまう子もいます。
英文法の問題を漠然と解いていても、それがどういう意図の問題で、何が問われているのか、よくわからないようです。
全部、熟語の問題だと思って解いていた子もかつていました。
文法がわからない子は、自分が何を学んでいるのか、わからないのです。
文法学習をしているということは自覚していても、文法用語を覚えられない子も多いです。
「時・条件を表す副詞節は未来のことを現在形で表す」
たったこれだけの内容を、何度反復しても理解できない子もいますし、理解した顔をしてもすぐに忘れてしまう子もいます。
副詞とは何か。
節とは何か。
常にそこに戻って説明しても、次のときには、全部忘れています。
心のどこかで文法の価値を認めていないからかもしれませんし、単純に覚えられないだけかもしれません。
英文法の宿題は解きますが、文法を理解せずに解いているので、あてずっぽうで解いているだけで、そんなのは勉強ではありません。
そして、学校で宿題の答えあわせと解説の授業を受けても、意味がわからないので、復習もできませんし、しません。
また、文法を、英文を読むとき、書くとき、話すときに使うのだということを理解していない子は多いです。
文法の勉強は受け入れても、それはそれとして、長文を読むときにはそんなのは全部忘れて我流で読んでしまうのです。
短い文なら何とかなっても、複雑な構造の英文は意味が取れません。
英文中の単語をいくつか拾って意味を想像するような読み方しかできないのです。
単語の意味がわからないことが、それに拍車をかけます。
それで英文を読めるわけがありません。
そんな英語学習をしているのに、いや、本質的には英語学習と呼べるものを全くしていないのに、英検を受けるのです。
いやいや・・・・。
そんな英語力じゃないでしょう?
そんな勉強をしていないでしょう?
単語力が全く足りないでしょう?
長文をまともに読めないでしょう?
否定的なことばかり書いてきましたが、要するに上と反対のことをやっていれば、英語力がつくのです。
まずは1日最低1時間は英語を勉強すると決めましょう。
これが大切。
やる気だけあっても、具体的にいつ英語を勉強するか決めていない人は、実行できません。
「英語コミュニケーション」は、
まずは、教科書の音声を聴きながら、それにあわせて音読してみましょう。
次に、本文を見ないで、音声にあわせて言ってみるシャドーイング。
こういう練習の効果を信じない子は多いですが、読めない英語は身につきません。
英文読解が、暗号解読みたいになってしまうのは、読めない単語の羅列を読んでいかなければならないからです。
そして、読めない英語は聞こえない。
これはリスニング対策でもあるのです。
さらに、教科書全訳を見て、それを英文に直す練習。
大体直せるようだったら、全訳を見て、ノートに英文を書いてみる練習。
スペルミスがあったら、単語練習。
学校の単語集は、テスト範囲にこだわらず、繰り返し繰り返し反復練習しましょう。
赤シートをかけて、常に自分にテストをしてください。
単語集の音源も積極的に活用します。
今はその単語集の出版社のサイトで音源を無料で利用できることもあります。
高校から配布された単語集を1冊丸ごと覚えれば、英検2級くらいはどうにでもなります。
しかし、学校の単語テストにあわせて、その範囲を覚えただけでは、1冊終わった頃には最初のほうの単語は忘れています。
幾度も自分で反復することが必要です。
大人なら、そんなの当たり前だとわかっているのですが、記憶というものについて、高校生は案外わかっていない子がいます。
「1回覚えたのに、何ですぐ忘れてしまうの?こんなの、覚えても無駄じゃん」
と、訳のわからないことを平気で言ったりします。
人間は忘れるものです。
脳は不要な記憶を消去することに一所懸命なんですから。
脳に「このことは大事だから覚えておけ」と指令を出さなければなりません。
それには反復・反復・反復。
幾度も反復すると、脳は「あれ?これ、消去する記憶じゃないの?」と気づいて、長期記憶に組み替えてくれます。
また、「論理・表現」の学習は、学校で使うメインテキストだけの勉強になりがちですが、厚い参考書が配られていたら、それも必ず読みましょう。
知りたかったことが全部書いてあって、目からウロコがぽろぽろ落ちます。
それで文法が面白くなったという英語秀才は多いです。
さらに、学校の文法のテキストやワークに答を直接書き込むような愚挙だけは絶対に避けてください。
解き直せなくなるからです。
ノートにしっかり解いて、学校の授業で正解を確認したら、それを正答集として、繰り返し解き直しましょう。
そして、上のようなことをやっても、毎日1時間の英語の学習時間が余るなあと感じたら。
そこからは、何をやるか、自分で決めていきましょう。
NHKのラジオ講座をやるもよし。
市販の英語教材を購入してやってみるもよし。
英検の過去問もいいですね。
塾に来てくれれば、教材はいくらでもあります。
英語の初歩の初歩から大学入試問題まで。
無尽蔵にあります。