2023年09月23日
100a+10b+cの意味。十進法が、わからない。

まずは、問題。
問題 3桁の整数がある。その数の百の位の数と一の位の数を入れ換えて整数を作る。もとの数から、入れ換えて作った整数を引いた差は、9の倍数であることを示しなさい。
典型題です。
まずは、正解から。
百の位の数をa、十の位の数をb、一の位の数をcとおくと、
もとの数は、
100a+10b+c
百の位の数と一の位の数とを入れ換えて作った数は、
100c+10b+a と表される。
よって、その差は、
(100a+10b+c)-(100c+10b+a)
=99a-99c
=9(11a-11c)
11a-11cは整数だから、9(11a-11c)は9の倍数である。
よって、もとの整数と入れ換えて作った整数との差は、9の倍数である。
特に問題ないはずなのですが、もとの数を、
100a+10b+c
と表すことから、既にわからない・・・、という子もいます。
もっと以前の、中1の「文字式」の学習で、
「百の位の数がa、十の位の数がb、一の位の数がcである3桁の整数の大きさを文字を使って表しなさい」
という問題も、当然、解けなかったのでしょう。
そういう子の答は、
a+b+c
となっていることが多いです。
「うーん。違いますよ」
と私が言うと、あわてて、
「abc」
と直したりします。
なぜ、aではなく100a、bではなく10bとしなければならないのか、わからないのです。
位取りの感覚、あるいは十進法の感覚が、その子の中で育っていない。
あるいは、その子の中で眠っていて、問題を解く際に結びついてこない。
そういうことのように思います。
位取りの感覚がその子の中で眠っているだけの場合、小学校の算数の問題に戻って考えると、覚醒することがあります。
小学校の算数では、新しい桁の学習に進む度に、以下のような問題を解いています。
例えば、千の位の数を初めて学習する際には、
次の( )にあてはまる数をこたえなさい。
2435=1000×( )+100×( )+10×( )+1×( )
あるいは、本質は同じで、見た目が異なる問題としては、
2435は、1000が( )つ、100が( )つ、10が( )つ、1が( )つ、集まってできた数です。
逆に、
1000が2つ、100が4つ、10が3つ、1が5つ集まってできた数は、( )です。
という問題も見たことがあると思います。
いずれにしても、これを答えられない小学生はほとんどいないのですが、この問題が何の理解を確認しているのかについては、わかっていない子のほうが多いのかもしれません。
自動的に答を出してしまい、問題の意図を理解していないのです。
「大きな数を勉強するときに最初に必ず出てくる簡単な問題」
「つまらない問題」
「どうでもいい問題」
として自動的に処理している子が多いと思うのです。
でも、これこそが、桁の概念の根本、十進法の根幹を確認している問題なのです。
頭の回転がある意味速く、その分だけ、頭の歯車がうわ滑りする傾向のある子は、こういう問題は、問題文をろくに読まずにちゃちゃっと解いてしまいます。
一方で、中学生になって、
「百の位の数がa、十の位の数がb、一の位の数がcである整数の大きさを文字を使って表しなさい」
という問題を解く際に、その正解が、
100a+10b+c
であることの意味がわからない。
なぜ、a+b+cではなく、100a+10b+cなのかが、わからない・・・。
そういう子に、
「小学校でこういう問題を解いたでしょう?」
と、問いかけ、
435=100×( )+10×( )+1×( )
の正解が、
435=100×4+10×3+1×5
であることを確認した後で、
100a+10b+c
と見比べさせると、
「ああっ!」と覚醒することがあります。
小学校のときに何度も解かされた「アホみたいな問題」の本当の意味に気づいたのです。
しかし、これでもまだ覚醒しないこともあり、ここからが、私と生徒との格闘の始まりです。
小学校で数理の基盤を身につけてこなかったツワモノが相手の格闘となります。
「例えば、432円の買い物をするときに、お金はどんな払い方をするかな?」
百円玉を4枚、十円玉を3枚、一円玉を2枚。
これが期待する模範解答なのですが、まあ、そんな答は返ってきません。
「お金はお母さんが払う」
「・・・ええと、自分で払うことは、ないのかな?お小遣いはもらっていないの?」
「もらってない。ほしいものは、お母さんと一緒に買う」
「・・・なるほど。お母さんはどういうお金の払い方をしているかな」
「カードかスマホ」
「・・・ですよねえ」
中1くらいですと、こういうことはよくあることです。
そして今後は、現金払いのさらなる衰退とともに、現金に対する実感から算数の基本を理解するということは、もっと難しくなっていくだろうと想像されます。
百円玉1枚と、一円玉1枚とでは価値が違う。
それは、桁が違うから。
1円玉が10枚集まると、それは十円玉1枚と同じ価値になり、十円玉が10枚集まると、それは百円玉1枚と同じ価値になる。
十進法の具象化として、これほどわかりやすい話はなく、子どもの頃に脳の奥までしみ込むはずのことが、何もしみ込まずに終わるのです。
何でもお金にたとえてものを考えるのも何だかなあとは思いますか、お金にたとえても何もイメージできないというのも残念な話です。
お金も、デジタル的な数字の羅列となり、実感を伴わない・・・。
これとは少し違う話ですが、アナログ時計が読めない子。
それどころか、アナログ時計を読めない大人もいます。
アナログ時計の凄いところは、針の回転が時間の進行を表すという「置き換え」を頭の中で行っているという点です。
時間の流れというものを、針の「回転」で表しています。
アナログ時計が読めない人は、その根本を理解していないため、
「短い針は意味がわかるけど、長い針が3のところにあるときに3分じゃないのが、意味がわからない」
と言ったりします。
それに対して、「5倍すればいいんだよ」というアドバイスをする人もいるようですが、それもまた何だか怖い会話と感じます。
双方がデジタルでものを言っているという気がするのです。
アナログ時計は、そういうことではなく、針の回転で時間の流れを把握するのです。
針が1回転するときの時間の流れを全体と見たとき、今、どの割合で時間が進行しているかを、針の回転で読み取ることが可能です。
だから、5倍しなくても、ぱっと見ただけで、時間がわかるのです。
時間の流れを針の回転に置き換える。
この置き換えが頭の中で自然なものになっている場合、例えば、中学受験の受験算数で、「数量を線分や面積に置き換える」ということも特に違和感なく理解しやすいと思います。
子どもは抽象思考が苦手なので、小学生に方程式を教えても理解できない場合が大半です。
だから、数量を目に見える形にします。
それが線分図です。
しかし、数量を線分で表すという根本を理解できない場合、線分で説明されても、何をやっているのか全く理解できない可能性があります。
なぜ、仕入れの値段を線分で表すのか?
本のページ数全体を線分で表すのか?
値段もページも、線じゃないのに・・・。
線ではないものを線で表す意味がわからない・・・。
そういう状態の場合、自分で線分図を描いて問題を解くことなど、できるはずがありません。
さて、十進法の話に戻りますと、十進法が理解できないと、高校数学で「n進法」を学習しても、怖いくらいに意味がわからないということになります。
そもそも、自分が普段使っている数が十進法だということがわからないのです。
2進法とか3進法とか言われても、意味がわかるわけがないのです。
以前も書きましたが、ある高校生が、
「普段使っている数は、十進法じゃない。だって、10の次は11で、次は12で、数は無限に続いていくんだから、十進法じゃない」
と私に言ったことがあります。
十進法が当たり前になりすぎて、かえって理解できなくなっているのでした。
ここを覚醒させるのは、本当に大変でした。
しかし、デジタル表記がすべて悪いとは限りません。
デジタル表記を活用すれば簡単に解ける問題もあります。
以下は、「場合の数」の問題。
問題 0、1、2、3、4の5種類の数字を用いて表すことのできる4桁以下の自然数は全部で何個あるか。ただし、同じ数字を何回用いても良いものとする。
4桁、と限定されたらむしろ簡単なんだけれど、4桁以下、と言われると難しい・・・。
4桁の場合、3桁の場合、2桁の場合、・・・と場合分けして求めないとダメなのかなあ?
それでも求められますが、もっと簡単な求め方があります。
これは、デジタル表記で考えたらいいのです。
たとえば、「0123」という数は、実際には3桁の数123だ、ととらえればいいのです。
この場合、一番大きな桁にも0を用いていいということになります。
では、千の位に使用できる数字の種類は、0を含めて、5通り。
百の位も同様に、5通り。
十の位も5通り。
一の位の5通り。
したがって、5×5×5×5=625
ただし、この中には、すべてが0である「0000」、すなわち0が含まれています。
0は、整数ですが、自然数ではありません。
これを除きます。
625-1=624
答は、624個です。
デジタル表記を活用するからこそ、簡単に解くことができました。
問題 3桁の整数がある。その数の百の位の数と一の位の数を入れ換えて整数を作る。もとの数から、入れ換えて作った整数を引いた差は、9の倍数であることを示しなさい。
典型題です。
まずは、正解から。
百の位の数をa、十の位の数をb、一の位の数をcとおくと、
もとの数は、
100a+10b+c
百の位の数と一の位の数とを入れ換えて作った数は、
100c+10b+a と表される。
よって、その差は、
(100a+10b+c)-(100c+10b+a)
=99a-99c
=9(11a-11c)
11a-11cは整数だから、9(11a-11c)は9の倍数である。
よって、もとの整数と入れ換えて作った整数との差は、9の倍数である。
特に問題ないはずなのですが、もとの数を、
100a+10b+c
と表すことから、既にわからない・・・、という子もいます。
もっと以前の、中1の「文字式」の学習で、
「百の位の数がa、十の位の数がb、一の位の数がcである3桁の整数の大きさを文字を使って表しなさい」
という問題も、当然、解けなかったのでしょう。
そういう子の答は、
a+b+c
となっていることが多いです。
「うーん。違いますよ」
と私が言うと、あわてて、
「abc」
と直したりします。
なぜ、aではなく100a、bではなく10bとしなければならないのか、わからないのです。
位取りの感覚、あるいは十進法の感覚が、その子の中で育っていない。
あるいは、その子の中で眠っていて、問題を解く際に結びついてこない。
そういうことのように思います。
位取りの感覚がその子の中で眠っているだけの場合、小学校の算数の問題に戻って考えると、覚醒することがあります。
小学校の算数では、新しい桁の学習に進む度に、以下のような問題を解いています。
例えば、千の位の数を初めて学習する際には、
次の( )にあてはまる数をこたえなさい。
2435=1000×( )+100×( )+10×( )+1×( )
あるいは、本質は同じで、見た目が異なる問題としては、
2435は、1000が( )つ、100が( )つ、10が( )つ、1が( )つ、集まってできた数です。
逆に、
1000が2つ、100が4つ、10が3つ、1が5つ集まってできた数は、( )です。
という問題も見たことがあると思います。
いずれにしても、これを答えられない小学生はほとんどいないのですが、この問題が何の理解を確認しているのかについては、わかっていない子のほうが多いのかもしれません。
自動的に答を出してしまい、問題の意図を理解していないのです。
「大きな数を勉強するときに最初に必ず出てくる簡単な問題」
「つまらない問題」
「どうでもいい問題」
として自動的に処理している子が多いと思うのです。
でも、これこそが、桁の概念の根本、十進法の根幹を確認している問題なのです。
頭の回転がある意味速く、その分だけ、頭の歯車がうわ滑りする傾向のある子は、こういう問題は、問題文をろくに読まずにちゃちゃっと解いてしまいます。
一方で、中学生になって、
「百の位の数がa、十の位の数がb、一の位の数がcである整数の大きさを文字を使って表しなさい」
という問題を解く際に、その正解が、
100a+10b+c
であることの意味がわからない。
なぜ、a+b+cではなく、100a+10b+cなのかが、わからない・・・。
そういう子に、
「小学校でこういう問題を解いたでしょう?」
と、問いかけ、
435=100×( )+10×( )+1×( )
の正解が、
435=100×4+10×3+1×5
であることを確認した後で、
100a+10b+c
と見比べさせると、
「ああっ!」と覚醒することがあります。
小学校のときに何度も解かされた「アホみたいな問題」の本当の意味に気づいたのです。
しかし、これでもまだ覚醒しないこともあり、ここからが、私と生徒との格闘の始まりです。
小学校で数理の基盤を身につけてこなかったツワモノが相手の格闘となります。
「例えば、432円の買い物をするときに、お金はどんな払い方をするかな?」
百円玉を4枚、十円玉を3枚、一円玉を2枚。
これが期待する模範解答なのですが、まあ、そんな答は返ってきません。
「お金はお母さんが払う」
「・・・ええと、自分で払うことは、ないのかな?お小遣いはもらっていないの?」
「もらってない。ほしいものは、お母さんと一緒に買う」
「・・・なるほど。お母さんはどういうお金の払い方をしているかな」
「カードかスマホ」
「・・・ですよねえ」
中1くらいですと、こういうことはよくあることです。
そして今後は、現金払いのさらなる衰退とともに、現金に対する実感から算数の基本を理解するということは、もっと難しくなっていくだろうと想像されます。
百円玉1枚と、一円玉1枚とでは価値が違う。
それは、桁が違うから。
1円玉が10枚集まると、それは十円玉1枚と同じ価値になり、十円玉が10枚集まると、それは百円玉1枚と同じ価値になる。
十進法の具象化として、これほどわかりやすい話はなく、子どもの頃に脳の奥までしみ込むはずのことが、何もしみ込まずに終わるのです。
何でもお金にたとえてものを考えるのも何だかなあとは思いますか、お金にたとえても何もイメージできないというのも残念な話です。
お金も、デジタル的な数字の羅列となり、実感を伴わない・・・。
これとは少し違う話ですが、アナログ時計が読めない子。
それどころか、アナログ時計を読めない大人もいます。
アナログ時計の凄いところは、針の回転が時間の進行を表すという「置き換え」を頭の中で行っているという点です。
時間の流れというものを、針の「回転」で表しています。
アナログ時計が読めない人は、その根本を理解していないため、
「短い針は意味がわかるけど、長い針が3のところにあるときに3分じゃないのが、意味がわからない」
と言ったりします。
それに対して、「5倍すればいいんだよ」というアドバイスをする人もいるようですが、それもまた何だか怖い会話と感じます。
双方がデジタルでものを言っているという気がするのです。
アナログ時計は、そういうことではなく、針の回転で時間の流れを把握するのです。
針が1回転するときの時間の流れを全体と見たとき、今、どの割合で時間が進行しているかを、針の回転で読み取ることが可能です。
だから、5倍しなくても、ぱっと見ただけで、時間がわかるのです。
時間の流れを針の回転に置き換える。
この置き換えが頭の中で自然なものになっている場合、例えば、中学受験の受験算数で、「数量を線分や面積に置き換える」ということも特に違和感なく理解しやすいと思います。
子どもは抽象思考が苦手なので、小学生に方程式を教えても理解できない場合が大半です。
だから、数量を目に見える形にします。
それが線分図です。
しかし、数量を線分で表すという根本を理解できない場合、線分で説明されても、何をやっているのか全く理解できない可能性があります。
なぜ、仕入れの値段を線分で表すのか?
本のページ数全体を線分で表すのか?
値段もページも、線じゃないのに・・・。
線ではないものを線で表す意味がわからない・・・。
そういう状態の場合、自分で線分図を描いて問題を解くことなど、できるはずがありません。
さて、十進法の話に戻りますと、十進法が理解できないと、高校数学で「n進法」を学習しても、怖いくらいに意味がわからないということになります。
そもそも、自分が普段使っている数が十進法だということがわからないのです。
2進法とか3進法とか言われても、意味がわかるわけがないのです。
以前も書きましたが、ある高校生が、
「普段使っている数は、十進法じゃない。だって、10の次は11で、次は12で、数は無限に続いていくんだから、十進法じゃない」
と私に言ったことがあります。
十進法が当たり前になりすぎて、かえって理解できなくなっているのでした。
ここを覚醒させるのは、本当に大変でした。
しかし、デジタル表記がすべて悪いとは限りません。
デジタル表記を活用すれば簡単に解ける問題もあります。
以下は、「場合の数」の問題。
問題 0、1、2、3、4の5種類の数字を用いて表すことのできる4桁以下の自然数は全部で何個あるか。ただし、同じ数字を何回用いても良いものとする。
4桁、と限定されたらむしろ簡単なんだけれど、4桁以下、と言われると難しい・・・。
4桁の場合、3桁の場合、2桁の場合、・・・と場合分けして求めないとダメなのかなあ?
それでも求められますが、もっと簡単な求め方があります。
これは、デジタル表記で考えたらいいのです。
たとえば、「0123」という数は、実際には3桁の数123だ、ととらえればいいのです。
この場合、一番大きな桁にも0を用いていいということになります。
では、千の位に使用できる数字の種類は、0を含めて、5通り。
百の位も同様に、5通り。
十の位も5通り。
一の位の5通り。
したがって、5×5×5×5=625
ただし、この中には、すべてが0である「0000」、すなわち0が含まれています。
0は、整数ですが、自然数ではありません。
これを除きます。
625-1=624
答は、624個です。
デジタル表記を活用するからこそ、簡単に解くことができました。
2023年09月19日
They say that ~. の受動態

They say that ~. という文の解説をするのは、昔は随分楽でした。
その昔、ゴダイゴというバンドの『ガンダーラ』という曲がありました。
『西遊記』というドラマのエンディングテーマでした。
この曲は、ヒットした直後だけでなく、後の世代の子も知っていて、この歌詞を例にとって説明すると、この英文は少し身近なものになるようでした。
サビの部分の歌詞ですね。
ガンダーラ、ガンダーラ。
They say it was in India.
ガンダーラという国はインドの北西部に実在したようですが、この歌の中でのガンダーラは、そういうことではなく、三蔵法師たちが心に思い描いた仏教の理想郷、幻の国なのでしょう。
ちなみに、「天竺」というのはインド全体のことで、これは普通に実在し、三蔵法師は到達しています。
そんな話はともかく、英文、英文。
They say it was in India.
このThey は、一般の人々の they。
特定の誰かではなく、一般の人々を指すとき、英語ではthey を使います。
ちなみに、聞き手、読み手を含むときは、you。
自分を含むときは、we。
こういう、特定の誰かではない主語というものが英語にはあります。
英語は、基本的には主語のない文はあり得ないので、こういう主語が必要になります。
したがって、これを日本語に訳すとき、theyを「彼ら」と訳すのはむしろ不自然なので、訳しません。
「彼らは、それはインドにあったと言う」
とうっかり訳してしまうと、
「彼らって誰?」
とつっこまれてしまいます。
今の時代、英文は意味がわかっていればいいので、学校の授業などでは、
「人々は、それはインドにあったと言う」
で大丈夫です。
しかし、大学入試の和訳問題の場合、この和訳は審議にかけられるかもしれません。
多分大丈夫だとは思いますが。
では、入試的正解の訳は?
「それは、インドにあったと言われている」
と受け身の文であるかのような訳をすると、むしろ日本語としては自然になります。
「それはインドにあったと言われている」
日本語では、そもそも受動態。
では、この日本語を英語に直すのだとしたら、どうなるでしょうか。
上の文のように、能動態の英文にしても、勿論正解です。
They say it was in India.
そして、勿論、受動態の英文にすることも可能です。
では、この英文を受動態にすると、どうなるでしょうか?
They say it was in India.
は、接続詞 that が省略されている表現です。
省略されている that を補うならば、
They say that it was in India.
となります。
さて、この英文を受動態にするには?
まず、能動態のこの文の成分を分析すると、
they はS(主語)、sayはV(動詞)、そしてthat 節全体がO(目的語)です。
受動態は、能動態でOだったものがSになります。
こういう話を聞くだけで、意識が遠のくというのか他のことを考え始め、書いてあるものなら目がすべって読み飛ばす人がいますが、これが、英語が得意になるかならないかの分かれ道なんです。
SVOCMの分析さえできれば、英語はとても簡単なのです。
文法を忌避するために英語ができない子が大量にいます。
そうした中で、文法をしっかり理解すれば、英語力はゴボウ抜き的上昇が可能なのです。
本当に、ちょっと考え方を変え、英語に対する見方と学習姿勢を変えるだけなのです。
というわけで、OだったものをSに変えて、動詞部分は、be 動詞+過去分詞の形にする。
それが、受動態の作り方。
その通りにやってみると、
That it was in India is said.
うーん。
これでは、不自然ですね。
主語が長過ぎて頭でっかちな文は意味がとりにくい。
何がどうなのか、まずスパッと言ってしまうのが英語です。
that 節を形式主語 it に置き換えます。
そして、文がひと通り終わった後で、形式主語 it の中身を語ります。
It is said that it was in India.
うん。
it が2回も入っているので、わかりにくいと感じるかもしれませんが、これが正しい英文です。
この程度の it の乱発は、大学入試レベルの英文にはよくあること。
このそれぞれの it の中身を問う問題を出題できるので、ちょうどいい。
とはいえ、上の文の2個目の it はガンダーラを指しますので、わかりやすく、2個目の it はガンダーラにしてみます。
It is said that Gandhara was in India.
わかりやすくなりました。
これが、「ガンダーラはインドにあったと言われている」
という英文です。
さて、ここから、さらに少し難しい話をします。
せっかく、that 節に Gandhara という名詞があるのだから、これを主語にして受動態を作れないのか?
だって、ガンダーラが言われているんだから、ガンダーラが主語でも構わないでしょう?
というわけで、英文を作ってみましょう。
Gandhara is said that Gandhara was in India.
・・・くどいな、これは。
何で2回もガンダーラを言うの?
それでは、どうするのか?
that 節の主語を、文全体の主語に使ってしまったら、that 節の主語はもう使えない。
節というのは、SとVのある意味のまとまりのこと。
Sがなくなったら、それは節ではなくなります。
では、どうするのか?
Sのない、意味のまとまりがありましたよね。
そうです。
句です。
句には、色々な句があります。
動名詞句、分詞句などなど。
でも、ここで使うのは、to 不定詞です。
すなわち、
Gandhara is said to have been in India.
不定詞は、そのまま to be の形で使ってしまうと、文全体の時制になってしまいます。
Gandhara is said to be in India.
ガンダーラはインドにあると言われている。
これは、ガンダーラが現在インドに存在しているという意味の文になります。
いいえ。
ガンダーラは、ガンダーラ美術などで今も有名ですが、現存しない国です。
時制をずらさなければなりません。
こういうときに使うのが、不定詞の完了形。
「to have+過去分詞」の形で、文全体の動詞より1つ古い時制であることを示します。
まとめましょう。
They say that Gandhara was in India.
It is said that Gandhara was in India.
Gandhara is said to have been in India.
どれも「ガンダーラはインドにあったといわれている」という文です。
では、練習問題。
次の日本語を3通りの英文で表せ。
「13は縁起が悪いと信じられている」
時制がズレていないので、ガンダーラの文より易しいです。
能動態の主語は they でいいですし、 people なども可能です。
動詞は、今回は、「信じられている」なので、believe を使います。
正解は、
They believe that thirteen is unlucky.
It is believed that thirteen is unlucky.
Thirteen is believed to be unlucky.
say , believe の他に、seem という動詞を用いる問題もよく出題されます。
まとめてマスターしてください。
このように、『ガンダーラ』の歌詞から授業をすると、昔は、「わかりやすい」「面白い」と言ってもらえたのですが、今は、何しろ『ガンダーラ』という歌を知らない高校生が増えました。
『ハチミツとクローバー』という漫画の中で、自転車で旅する若者の頭にエンドレスで『ガンダーラ』が流れる場面があるので、あの時代までは生きていた知識だったのだと思うのです。
あの漫画が完結したのが、2005年。
古いなあ、さすがに・・・。
他にも、誰でも知っている歌詞で英語の説明をするのに便利だったものといえば、『ラヴ・イズ・オーヴァー』。
このタイトルだけで、 be over が「終わる」という意味だと伝えることができました。
覚えやすかったと思います。
こういう便利なものは、今は存在しないのだろうか・・・。
個人の好みも細分化しています。
私でも知っているのだから、このグループの歌は知っているだろうと思っても、
「聞いたことがない」
と高校生に一蹴される可能性が高いです。
アニメソングなら大丈夫かなと思っても、
「僕はアニメは見ないので」
と一蹴されます。
見ているものも、聴いているものも、ひとりひとり違うのは、良い時代でもあるのですが。
その昔、ゴダイゴというバンドの『ガンダーラ』という曲がありました。
『西遊記』というドラマのエンディングテーマでした。
この曲は、ヒットした直後だけでなく、後の世代の子も知っていて、この歌詞を例にとって説明すると、この英文は少し身近なものになるようでした。
サビの部分の歌詞ですね。
ガンダーラ、ガンダーラ。
They say it was in India.
ガンダーラという国はインドの北西部に実在したようですが、この歌の中でのガンダーラは、そういうことではなく、三蔵法師たちが心に思い描いた仏教の理想郷、幻の国なのでしょう。
ちなみに、「天竺」というのはインド全体のことで、これは普通に実在し、三蔵法師は到達しています。
そんな話はともかく、英文、英文。
They say it was in India.
このThey は、一般の人々の they。
特定の誰かではなく、一般の人々を指すとき、英語ではthey を使います。
ちなみに、聞き手、読み手を含むときは、you。
自分を含むときは、we。
こういう、特定の誰かではない主語というものが英語にはあります。
英語は、基本的には主語のない文はあり得ないので、こういう主語が必要になります。
したがって、これを日本語に訳すとき、theyを「彼ら」と訳すのはむしろ不自然なので、訳しません。
「彼らは、それはインドにあったと言う」
とうっかり訳してしまうと、
「彼らって誰?」
とつっこまれてしまいます。
今の時代、英文は意味がわかっていればいいので、学校の授業などでは、
「人々は、それはインドにあったと言う」
で大丈夫です。
しかし、大学入試の和訳問題の場合、この和訳は審議にかけられるかもしれません。
多分大丈夫だとは思いますが。
では、入試的正解の訳は?
「それは、インドにあったと言われている」
と受け身の文であるかのような訳をすると、むしろ日本語としては自然になります。
「それはインドにあったと言われている」
日本語では、そもそも受動態。
では、この日本語を英語に直すのだとしたら、どうなるでしょうか。
上の文のように、能動態の英文にしても、勿論正解です。
They say it was in India.
そして、勿論、受動態の英文にすることも可能です。
では、この英文を受動態にすると、どうなるでしょうか?
They say it was in India.
は、接続詞 that が省略されている表現です。
省略されている that を補うならば、
They say that it was in India.
となります。
さて、この英文を受動態にするには?
まず、能動態のこの文の成分を分析すると、
they はS(主語)、sayはV(動詞)、そしてthat 節全体がO(目的語)です。
受動態は、能動態でOだったものがSになります。
こういう話を聞くだけで、意識が遠のくというのか他のことを考え始め、書いてあるものなら目がすべって読み飛ばす人がいますが、これが、英語が得意になるかならないかの分かれ道なんです。
SVOCMの分析さえできれば、英語はとても簡単なのです。
文法を忌避するために英語ができない子が大量にいます。
そうした中で、文法をしっかり理解すれば、英語力はゴボウ抜き的上昇が可能なのです。
本当に、ちょっと考え方を変え、英語に対する見方と学習姿勢を変えるだけなのです。
というわけで、OだったものをSに変えて、動詞部分は、be 動詞+過去分詞の形にする。
それが、受動態の作り方。
その通りにやってみると、
That it was in India is said.
うーん。
これでは、不自然ですね。
主語が長過ぎて頭でっかちな文は意味がとりにくい。
何がどうなのか、まずスパッと言ってしまうのが英語です。
that 節を形式主語 it に置き換えます。
そして、文がひと通り終わった後で、形式主語 it の中身を語ります。
It is said that it was in India.
うん。
it が2回も入っているので、わかりにくいと感じるかもしれませんが、これが正しい英文です。
この程度の it の乱発は、大学入試レベルの英文にはよくあること。
このそれぞれの it の中身を問う問題を出題できるので、ちょうどいい。
とはいえ、上の文の2個目の it はガンダーラを指しますので、わかりやすく、2個目の it はガンダーラにしてみます。
It is said that Gandhara was in India.
わかりやすくなりました。
これが、「ガンダーラはインドにあったと言われている」
という英文です。
さて、ここから、さらに少し難しい話をします。
せっかく、that 節に Gandhara という名詞があるのだから、これを主語にして受動態を作れないのか?
だって、ガンダーラが言われているんだから、ガンダーラが主語でも構わないでしょう?
というわけで、英文を作ってみましょう。
Gandhara is said that Gandhara was in India.
・・・くどいな、これは。
何で2回もガンダーラを言うの?
それでは、どうするのか?
that 節の主語を、文全体の主語に使ってしまったら、that 節の主語はもう使えない。
節というのは、SとVのある意味のまとまりのこと。
Sがなくなったら、それは節ではなくなります。
では、どうするのか?
Sのない、意味のまとまりがありましたよね。
そうです。
句です。
句には、色々な句があります。
動名詞句、分詞句などなど。
でも、ここで使うのは、to 不定詞です。
すなわち、
Gandhara is said to have been in India.
不定詞は、そのまま to be の形で使ってしまうと、文全体の時制になってしまいます。
Gandhara is said to be in India.
ガンダーラはインドにあると言われている。
これは、ガンダーラが現在インドに存在しているという意味の文になります。
いいえ。
ガンダーラは、ガンダーラ美術などで今も有名ですが、現存しない国です。
時制をずらさなければなりません。
こういうときに使うのが、不定詞の完了形。
「to have+過去分詞」の形で、文全体の動詞より1つ古い時制であることを示します。
まとめましょう。
They say that Gandhara was in India.
It is said that Gandhara was in India.
Gandhara is said to have been in India.
どれも「ガンダーラはインドにあったといわれている」という文です。
では、練習問題。
次の日本語を3通りの英文で表せ。
「13は縁起が悪いと信じられている」
時制がズレていないので、ガンダーラの文より易しいです。
能動態の主語は they でいいですし、 people なども可能です。
動詞は、今回は、「信じられている」なので、believe を使います。
正解は、
They believe that thirteen is unlucky.
It is believed that thirteen is unlucky.
Thirteen is believed to be unlucky.
say , believe の他に、seem という動詞を用いる問題もよく出題されます。
まとめてマスターしてください。
このように、『ガンダーラ』の歌詞から授業をすると、昔は、「わかりやすい」「面白い」と言ってもらえたのですが、今は、何しろ『ガンダーラ』という歌を知らない高校生が増えました。
『ハチミツとクローバー』という漫画の中で、自転車で旅する若者の頭にエンドレスで『ガンダーラ』が流れる場面があるので、あの時代までは生きていた知識だったのだと思うのです。
あの漫画が完結したのが、2005年。
古いなあ、さすがに・・・。
他にも、誰でも知っている歌詞で英語の説明をするのに便利だったものといえば、『ラヴ・イズ・オーヴァー』。
このタイトルだけで、 be over が「終わる」という意味だと伝えることができました。
覚えやすかったと思います。
こういう便利なものは、今は存在しないのだろうか・・・。
個人の好みも細分化しています。
私でも知っているのだから、このグループの歌は知っているだろうと思っても、
「聞いたことがない」
と高校生に一蹴される可能性が高いです。
アニメソングなら大丈夫かなと思っても、
「僕はアニメは見ないので」
と一蹴されます。
見ているものも、聴いているものも、ひとりひとり違うのは、良い時代でもあるのですが。
2023年09月12日
クールな計算のできる子は伸びます。

数学力をどのように判断するか、さまざまな観点があると思いますが、「思考力」「計算力」の2点だけで見ても、
思考力も計算力もある子。
思考力に乏しいが、計算力のある子。
思考力はあるが、計算力に乏しい子。
思考力も計算力も乏しい子。
の4つのタイプに分かれます。
それもそれぞれどの程度なのか、グラデーションのある話ではありますが。
思考力に乏しいが計算力のある子は、数学的思考のやり方に本人が気づくことさえできれば学力が飛躍します。
中1の段階では数学の成績は「3」で、言うことも何だかトンチンカンだけれど、計算ミスはほとんどない。
計算する様子を見ていると、地道でもっさりしたやり方ではなく、クールな計算方法を身につけている。
暗算するところと、しっかり書いていくところのメリハリがある。
こういう子は、いずれ大バケする可能性があります。
問題を解く過程で対話を繰り返しながら、いずれ伸びると呑気に構えていると、予想通りに中3では「5」になった。
そんな子を、今まで何人も見てきました。
計算を正しくできるというのは、やはり数学的には何らかの達成を見せているのだと思います。
計算をする際に使っている論理を思考に生かせていないだけで、思考力がないわけではなかったのだ、ということかもしれません。
「クールな計算方法」を身につけているのが鍵です。
計算をこのように論理的にこなしているのに、問題を解く際になぜその思考力を使わない?
そのように感じる子は、いずれどこかの回線がつながって何とかなるだろうという予感がするのです。
反対に「地道でもっさりした計算」というのは、しかし、多くの子がやってしまう計算です。
例えば、25000×5000 といった計算。
これは、25×5を計算して(暗算もできるはずです)、それに0を6個つけたらいいですね。
小学校でも教えている計算方法です。
習ったときは、誰でもできます。
しかし、その単元が終わると、それをコロッと忘れて、以後ずっと、0の大行進的な筆算をしてしまう子がいます。
そして、桁がズレてしまい、誤答します。
そういう計算をしているのを発見する度に助言しますが、しばらく経つと、また同じ0の大行進を行ってしまう子は多いです。
つまりは、なぜそれで計算できるのか、本質を理解していないのだと思います。
そういう解き方があることを習ったときだけそのように計算しますが、根本を理解できていないのです。
10進法と桁に関する感覚が脆弱なのだと思うのです。
10個たまると、次の桁に上がる。
10倍すると、次の桁に上がる。
そういう感覚が育っていないのです。
さらに、交換法則が理解できていないのです。
25000×5000
=25×5×1000×1000
=125000000
数字を上のように分解した上で、さらに交換法則・結合法則を利用して計算するのが、この計算方法の意味です。
やり方だけ覚えるのではなく、その意味がわかっている子は、学習した後は、ずっとこの計算方法で計算します。
意味がわかっていない子は、やり方をすぐ忘れてしまい、このやり方を自分のものとすることができないのです。
また、例えば、312×205 といった計算。
312
×205
1560
624
63960
といった筆算をすれば良いのですが、
312
×205
1560
000
624
63960
といった余計な1行を書かずにいられない子もいます。
これも、省略するよう小学校で教えられているのですが、それを省略できることをすぐに忘れ、型通りに計算してしまうのです。
また、例えば、25000÷5000 といった計算。
割られる数と割る数とに、それぞれ同じ数をかけても、あるいは同じ数で割っても、商は同じです。
だから、
25000÷5000
=25÷5
=5
と暗算できます。
慣れてくれば、0がついたままの状態でも桁を読むことで暗算できます。
しかし、これも、0が3個ついたまま、もっさりした筆算をする子は多いです。
25000÷5000=25÷5 であることは、小数のわり算を行うためにも重要な考え方です。
例えば、2.5÷0.5 をなぜ小数点を移動して計算するのかは、上の考え方がもとになっています。
小数点の移動は、すなわち、割られる数と割る数とをそれぞれ10倍して、25÷5 として筆算しているのです。
しかし、そのことを理解せず、ただ筆算のやり方だけを覚えている子は多いです。
計算は意味を失い、ただの作業手順となっています。
これは学校教育が悪いのではありません。
学校の授業でも、教科書でも、このことは強調されているのです。
ただ、本人が、やり方しか覚えない。
小学校でやり方しか覚えなかったため、中学生・高校生になって、論理的思考についていけなくなってしまうのです。
どれだけ意味を説明されても、それをまだるっこしいと感じて、
「やり方だけ教えて」
「やり方だけ知りたい」
となってしまうのです。
頭の回転が速いように見える子に、案外このタイプが多いので、苦慮するところです。
本人の頭の働かせ方の癖なのでしょう。
一方で、どんなに小さなことでも、意味を知りたいタイプの子もいます。
そして、意味を知っている子は、時間が経っても、25000÷5000 といった計算では、同じ論理を利用し、スマートに計算します。
算数・数学が統一された論理で動いていることを実感しています。
数理の根本がわかっているというのは、そういうことだと思います。
中学や高校の数学で、何をして良くて、何をしたらダメなのか、自分で判断できなくなるのは、やり方だけ覚えてきたけれど意味を理解していなかったからなのです。
また、例えばこんな計算。
-27+18-33+26
中1の最初に学習する「正負の数」の計算です。
これも、同符号の計算をまとめてやれば楽であることを学校で指導されています。
=-60+44
=-16
というように。
しかし、これを、
-27+18-33+26
=-9-33+26
=-42+26
=-16
と、順番通りに計算しなければ答えが出せない中学生もいます。
順番通りでなければ計算できないと思っているのか?
数字の前にある符号は、計算記号ではなく、その数のもつ正負の符号であることを、学習が終わると忘れてしまうのか?
つまり、その子にとって上の式は、小学校からお馴染みのたし算と引き算の式のままで、中学で新しく学習した、
(-27)+(+18)+(-33)+(+26)
と見ることができないのではないかと思うのです。
「正負の数」の学習の最初は、このように( )がついています。
省略して書くことができるというだけで、( )は常に存在すると思って計算して良いのです。
全てたし算ですから、交換法則も結合法則も利用できます。
そのことを、忘れてしまう。
あるいは、最初から理解していない。
だから、法則が使えることがわからない。
「え?ひき算って、順番変えたらダメなんじゃないの?」
という小学生の感覚に戻ってしまうのだと思います。
-27+18-33+26
=-9-33+26
=-42+26
=-16
という順番で正確に計算している子は、計算力はあるのではないか?
確かに「人間電卓」的な計算力はあると思います。
しかし、論理的思考力を感じさせるものではないのです。
交換法則も結合法則も分配法則も、桁移動の仕組みも、全ては小学校で学習しています。
大切なことは小学校で学んでいるのです。
しかし、大切なことを学んでいることに気づかない。
大切なことを、大切なことだと認識できず、記憶の中からあっさり消して、筆算のやり方や公式の丸暗記のみ行う子は、計算の過程にそれが表れます。
答は合っているけれど、もっさりした計算です。
そうではないクールな計算方法を身につけている子は、数学的思考が可能な子、いずれ大バケする子、と感じるのです。
一方、思考力はあるが計算ミスの多い子というのも存在します。
計算のやり方がわからないわけではありません。
ただ、雑なのか、正確さを保てないのか、計算の正答率はかなり低い。
計算問題を正答できるかどうか五分五分ということもあります。
しかし、理解力や思考力があるので、座標平面と図形の問題、動点に関する問題、図形の証明問題、円と三角形の相似に関する問題のような、数学嫌いな子が避けたがる問題も自力で解いていくことができます。
ただ、計算は合わないことが多いです。
なぜケアレスミスをそれほど繰り返すのか?
特定の計算でミスをしやすいのならそこを改善すれば良いのですが、多種多様なミスをその都度新たに繰り出してくるタイプの子が多いのも特徴です。
ある日は数字を書き間違い、ある日はひき算なのにうっかり足してしまい、ある日は符号を書き忘れる・・・。
考えることに夢中で、手元がおろそかになっているのか?
式を書いている間に、他のことを考えているのではないか?
思考力はあるが、集中力が足りないのか?
さまざまな理由が考えられますが、受験を機に解消される子と、それでは解消されないまま高校生になってしまう子とがいます。
ケアレスミスをしやすい傾向は、残念ですが非常に直りにくいものです。
計算ドリルを何冊解いても、目立った改善は見られないことがあります。
あとは、ミスしやすい自分と折り合いをつけながら、それを含み込んで点数を読んでいく。
複雑な計算過程を踏まないよう、ミスしなくて済む解き方を選ぶ。
そういうことで対応していくしかない場合もあります。
多少の改善はみられても根本的には直らない。
どうにも精度が低く、自分でミスに気づいて直すリカバーの力も乏しい。
この計算力を前提としてやっていくしかない、と感じることもあります。
本人が一番嫌な思いをしているのですから、自覚すれば直るというものではないのです。
まして、それを叱ったりしても、直りません。
誰にも苦手はあります。
その代わり、思考力を伸ばすだけ伸ばす。
基本問題でも失点してしまう分、テストの後半の応用問題で部分点を取る。
そういう得点の取り方を考えていくのが現実的ではないかと思います。
また、そうやってあまり思いつめないようにしていると、前よりは改善されていることもあります。
2023年09月05日
SVOCを理解できれば、英語学習は楽になります。

高校生と「分詞」の学習をしていたときのことです。
例えば、こんな問題。
問題 ( )の語を適切な形に直せ。
(1) Do you know the man (sit) on the bench ?
分詞の限定用法の問題です。
中学では「分詞の形容詞的用法」という言い方で学びます。
分詞が名詞を修飾する用法です。
修飾される名詞 man が sit という動作をするのですから、現在分詞 sitting が正解です。
(2) Ken showed me some pictures (take) by his brother.
修飾される名詞 pictures は take という動作をされるのですから、過去分詞 taken に直します。
ここまでは中学の復習。
その子も、順調に正解していました。
そこから先が高校の「分詞」の学習です。
分詞の叙述用法に進みました。
SVCやSVOCの、Cに分詞を用いる用法です。
解説をして、練習を開始しました。
He kept (knock) on the door until I opened it.
その子の答えは knocked でした。
「・・・・え?何で?」
解説したばかりなのに、何で?
「door はノックされるから・・・・」
「・・・・え?」
ここからは叙述用法、新しく学ぶ用法と明言し、解説したばかりなのに、何で限定用法に戻るのだろう?
door は、分詞の直前・直後の名詞ではありません。
分詞に修飾される名詞ではありません。
文法が苦手な高校生に英文法の授業をしていると、上のようなことが起こりやすいのです。
教えたことが上手く伝わっていきません。
1つには、高校英語を学んでいるのに、中学英語の知識で乗り越えていこうとする点。
何でも、ただ1つの解き方で解決しようとします。
分詞ならば、すべて、限定用法で解決しようとします。
もう一度、叙述用法の解説をした後、今度は、乱文整序問題を解きました。
問題 次の日本語を以下の語句を並べ変えて英文にせよ。
私は電車のドアに指をはさまれた。
had , I , in , doors , fingers , the , train , my , caught .
その子の答は。
I had caught my fingers in the train doors.
これも誤答です。
この文を日本語にすると、
「私は、電車のドアの中で、自分の指をつかまえてしまった」
となってしまいます。
なぜ、突然過去完了形?
今は、分詞の叙述用法を学習しているのであって、had+過去分詞の学習をしているのではないのに・・・。
しかし、その子だけのミスではなく、乱文整序でこういう英文を作ってしまう高校生は多いです。
have または had と、過去分詞が存在したら、それは完了形の文、と思い込んでしまうようなのです。
それもまた、やり方は1つだけ、中学で勉強したことだけ、という解決方法です。
正解は、
I had my fingers caught in the train doors.
です。
これは、「受身・被害の have 」と呼ばれる have の文です。
第5文型をとります。
英語は、語順がすべて。
どの語句をどの順番に並べていくか。
それが、英文法です。
S、Vときたら、次はO。そしてCです。
そのルールを覚えれば、あとは単語・熟語を覚えるだけ。
日本語のように、「その語句は、ここに置いていいし、そこに置いてもいいけど、そこには置いたらダメ」といった、緩くてわかりにくいルールはありません。
カチッと語順が決まっているので、英語は学習しやすいのです。
ところが、英語が苦手な子は、5文型を理解しない。
語順を理解しない。
というより、無視する傾向があります。
そういう概説的でよくわからなかったことは、どうでもいい、としてしまうようなのです。
特に、第5文型SVOCは、
「そんな不自然な語順はこの世に存在しない」
と、心の中で消し去っている気配すら感じます。
S、V、O、C、Mといった文の成分の話や、形容詞、副詞などの品詞の話を嫌う。
何回説明しても覚えない子が多いです。
目先の定期テストに出ないからかもしれません。
これはCですかOですか、とか、この単語の品詞は何ですかといった問題は、確かにテストには出ないです。
でも、テストに直接問われることはないけれど、その知識がないから問題が解けないのに・・・。
そういうことを説明しても、その説明も耳を素通りしていくようです。
SVCやSVOCの語順が理解できていないと、分詞の叙述用法は、理解できません。
根本がわからないし、根本を覚えないから、結局、その上の文法知識は何も載っていかない・・・。
SVOCの基本は、中3で学習しています。
She named the dog Pochi.
彼女は、その犬をポチと名付けた。
こういう文を学習したことは、かろうじて覚えている子が多いです。
しかし、
Her parents let her study abroad.
彼女の両親は、彼女が外国で学ぶことを許した。
この文も、中学で学習しているのですが、それについては記憶がない子が大半です。
新課程で、使役動詞 let も、高校の文法事項が中学に降りてきたのですが、なぜかそれだけをぽつんと学習することもあり、記憶に残らない様子です。
SVOCのCが、名詞や形容詞の文は、かろうじて記憶に残る。
しかし、Cが原形不定詞だった文は、記憶に残らない・・・。
それは、1つのヒントかもしれません。
その子の頭の中での「あるべき英語」は、中1レベルの英語であり、それより複雑な文や、そうではない語順の文は、異常な文として、記憶からシャットアウトするのではないか?
主語+be動詞+補語。
主語+一般動詞+目的語。
その語順は、許容できる。
しかし、その後に、また動詞の原形が出てくる文など、許容できない。
そういうのは「よくない英語」として記憶から除去してしまうのではないか?
少なくとも、本人が自力でその語順で英文を組み立てることは、できないのです。
原形不定詞や to 不定詞の部分をCとしてよいかどうか。
このあたりは、正確な英文法では否定的かもしれません。
テキスト等で明示しないことが多いです。
しかし、ここはゆったりざっくりと、SVOCととらえてしまえば、結局全部同じ語順として把握できる英文が多いのです。
私は正しい英文法を修めたいわけではなく、受験に役立つ実用的な英語を教えたい。
SVOCととらえれば、
She named the dog Pochi.
Her parents let her study abroad.
Her parents allowed her to study abroad.
I had my fingers caught in the train doors.
I saw a duck cross the river.
I saw a duck crossing the river.
Cの位置にくるのは、名詞と形容詞の他に、原形不定詞、to不定詞、過去分詞、現在分詞。
これらは、すべて、同じ構造の英文として把握できます。
あとは、Cに何を用いるのかのルールを学べばいいだけ。
それは、その文のVの種類と、OとCとの関係。
根本の語順は、SVOCで変わらない。
この教え方で劇的に高校英語がわかるようになる子もいます。
何だかこまごまとして覚えにくかった英文法が、大きくまとまりますから。
私の「S・V・O・C!」のかけ声で語句を並べる練習を繰り返して、SVOCの語順をマスターしています。
不定詞や分詞の学習でちらちらと出てきてモヤモヤしてしまうのに、文法テキストのまとめ問題や模試問題にはよく出てくる問題。
結局、いつもいつも何だかよくわからずに終わってしまうことが、大きな原則で整理できるのです。
それでも、英語が苦手な子たちは、そうではない奇妙な語順の英語を、しかし、そのほうが正しい語順の気がするからという理由で並べ続けます。
そういう英語のほうが正しい気がする。
明らかに間違っているのですが、本人の中では、自分の誤答の堆積すらも、英語としての記憶なので、同じ誤答を繰り返します。
「学校で、もう学習した内容ですよね?学校の文法のテキストを出してみて。ほら、そこに載っているでしょう、叙述用法」
そうして、もう一度解説しました。
その後、学校の文法テキストの見開き右側ページの練習問題を解くと、それは全部正解できました。
SVC、SVOCのCにあたる分詞を正しい形で使用できたのです。
「教科書の問題は正解できますね」
と私が言うと、その生徒は、奇妙なことを言いだしました。
「これは、答を覚えているから・・・・」
「え・・・・?答を覚えている?」
「復習したという意味ですよ」
「え?」
「・・・・」
「・・・・私は何回解いても、答なんか覚えないけど?」
「・・・・・?」
「何でそんな意味のないことを覚えるの?」
文法は覚えないのに、何で答を覚えるの?
愕然として、私は悟りました。
そういう勉強をしてしまうのか・・・・。
なぜ英語が得意にならないのか、その一端が垣間見えた気がするのです。
いや、英語に限らずなぜ勉強が得意にならないか。
努力をしているのは伝わってくるのに、なぜ結果が出ないのか。
その一端が見えた気がしました。
うちの塾で、歴代でも最も英語が得意だった子は、90分の授業時間の中で、問題のぎっしり詰まったテキストや確認テストを毎回平均12ページ解いて帰っていきました。
30分あたり4ページ。
答え合わせの時間もありますから、1枚解くのに5~6分というところでしょう。
決して速すぎるわけではありません。
後に国立大学に合格したその子は、1冊40ページのテキストの残りのページを丸ごと宿題に出しても翌週全部解いてきていました。
しかし、英語が苦手な子たちのスピードはガクッと落ちます。
上に書いた高校生は、最初にいろいろ説明しなければなりませんでしたし、間違えているとさらに説明する時間も長くなるのですが、演習スピード自体も遅く、90分の中で結局1ページしか問題を解けないことが多かったのです。
そしてその1ページの問題の答えを覚えることが、その子にとっての復習なのだとしたら・・・・。
12ページと1ページ。
塾だけで12ページ解く子が、問題の答えを覚えているかといったら、覚えているはずがありません。
いちいち答えを覚えていられるような量ではありません。
余程印象的な問題が含まれていたら別でしょうが、翌週同じ問題を渡しても、同じだと気づかず解き終わるかもしれません。
学習した文法にしたがってサクサク解いているだけだからです。
英語コミュニケーション教科書の重要文を日本語訳から復元するための暗唱はしていました。
単語の暗記もやっていました。
そういう暗記はするのです。
でも、文法テキストの問題の答えは覚えない。
何度解いても正答できましたが、それは、答えを覚えているからではなかったでしょう。
復習すると自然に答えを覚えてしまうのだ。
そういう反論はあるかもしれません。
それでも、「その勉強のやり方は変えなさい」と言わざるをえません。
類題は正答できないのなら、なおのこと。
問題の見た目が変わると、自分はどうも解けなくなるんだなあ・・・。
何の文法事項の問題なのか、わからないし・・・。
そういう自覚があるのなら、それは、勉強のやり方に課題があるのです。
教科書の問題の答えは覚えても、もっと重要なことを覚えていないのです。
その問題を解く中で抽出し理解するべき文法を把握できていません。
答えを覚えてしまうくらいに数少ない問題をねっとり見つめ続けているのに、それが文法把握につながっていないのです。
有効なやり方は正反対のものです。
教科書の問題の答えは覚えていないけれど、文法は覚えた。
多くの問題練習でその文法を実践できるようになった。
だから、教科書の問題は何度解いても正答できる。
他の問題も正答できる。
定期テストの問題も正答できる。
入試問題も正答できる。
文法の勉強はそういうふうにやっていってほしいです。
「英語って文法だよ」
「SVOCMの位置に、単語をぽんぽんぽんと入れていくだけだよ」
「慣用表現以外は、理屈だよ」
という私の説明が理解できると、ロケット並みの成績上昇を見せる子がいます。
英語のシステムは理解しやすく明瞭で好ましい。
こういう感覚になれば、あとは単語・熟語さえ覚えればどうにでもなるとわかりますので、覚えることにも抵抗がなくなります。
有効な学習方法を体得できれば、その後は、速いのです。
ただ、そこまでが長く、苦しい。
いつまでも、いつまでも、SVOCという文型の存在を把握できない子は多いです。
そのような語順の英文があることを発想できず、空所補充問題も乱文整序問題も、すべて間違えます。
SVOCのCに、to 不定詞を入れるか、原形不定詞を入れるか、現在分詞か、過去分詞か。
そのような文法問題の典型題が、その子にとっては、そのような切り口には全く見えない。
熟語問題か何かにしか見えていないのだと思うのです。
1つの英文を作るとき、「まず主語は?」とシステム的に考えず、「これと似た英文を前に見たことはなかっただろうか?」と自分の記憶をたぐりよせようとします。
だから、乱文整序や和文英訳で誤答した後の解説で、私が、「まず、この文の主語は?」と問いかけると、その発想自体がなかったかのように絶句します。
文法的には10個未満の例文把握で済むことを、何千もの英文を丸暗記することでカバーしていくしかない・・・。
それが、その子にとっての英語学習なのかもしれません。
でも、普通は、そのような暗記力はないのです。
だから、英語ができるようにならない・・・。
そして、それは、英語だけの話ではなく、他の科目でも、学力が伸びない根本に、そういうことがあるのだと思うのです。
根本のルール、根本の理屈を理解せず、表面だけ追って、表面の解き方だけ丸暗記して、そして、すぐに忘れていく・・・。
本質に手が届けばいいのです。
本質に意識が届けば、後は速いのです。
だから、私は繰り返し繰り返し、S・V・O・Cと生徒に声をかけ続けます。
いつか、その意味が、その子の脳に届くことを信じて。