たまりば

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2022年08月30日

学校の教材をどう使うか。


さて、夏休みが終わりました。
夏休みが終わると、公立中学はじきに中間テストシーズンが始まります。

テスト直前は、セギ英数教室では、宿題は「テスト勉強」という漠然とした課題を出すことが多いです。
というのも、テスト前は学校のワークの課題がたくさん出ているので、その上で塾の宿題まで出すと、学校のワークを解ききれない可能性があるからです。
「塾の宿題をやっていて、ワークができなかったから、提出しなかった」
と、真顔で言われてしまったら困ります。

以前に勤めていた大手の個別指導塾では、そのタイプの子が多かったのです。
優先順位を間違えてしまうんでしょうか。
あるいは、学校のワーク課題の、場合によっては30ページを越えるボリュームに気圧され、とにかく塾の宿題だけやって辻褄を合わせよう、あるいは言い訳しようと思ってしまったのかしれません。
塾の宿題ならば、2~3ページですから。

以前に勤めていた集団指導塾では、定期テストの直前は、何か講義をするのではなく、テスト勉強の時間に充てていました。
さらに、土曜日や日曜日にはテスト勉強のために塾を開放していました。
たいていの子は、その時間に学校の課題のワークを仕上げていました。

後に都立自校作成校に合格した子が、学校の数学のワークがまるまる残っている、ということもありました。
「あー、うざい。こんな問題、解く意味があるのかー」
と言いながら、基本的な計算問題を猛スピードで解いていました。

問題には解くべき時期があります。
もう発展問題が解けるようになってから、テスト前に基本問題ばかりそんなに大量に解いても仕方ない。
その問題で練習することが効果的であるよう、日常の予習復習に学校のワークを活用することを望みます。

でも、うざいと言いながらも自分で解くのが秀才です。
中には悪だくみをする子もいました。

テスト前に、何か数学の課題を出してくれと言うので、
「え?学校のワークは終わったの?」
と訊くと、終わったと言う子がいました。
まだ基本的なことも定着していない様子なのに、なぜ学校のワークが終わっているんだろう、何か変だなあと困惑していると、
「友達とワークを交換した。自分は理科を2冊解いて、友達は数学を2冊」
「同じワークを2回解いたということ?」
「うん。だから、理科は、今回ばっちりだよ」
「・・・」

そんなふうに、昔は、学校のワークを仕上げるのにも四苦八苦、あるいは七転八倒な子どもたちがいましたが、近年は、学校の授業中に教科書準拠ワークをかなり解いてしまっている場合もあります。
新課程になって以降、生徒に学校の進度をきくと、
「何もやっていない」
という謎の発言をすることがときどきあるようになりました。
「自習」
という言い方をする子もいます。
何もやっていないわけはなく、まして自習でもなく、先生は教室にいるのですが、ワークの問題を解いていたり、タブレットを使って問題を解いていたりする時間を、「何もやっていない」または「自習」と本人たちは呼ぶようです。
そのことだけでも、その時間の意味や目的が生徒に理解されていないのを感じます。

それでも、一斉授業だけでなく、各自で演習する時間がそのように確保されているのは、良いことです。
特に数学においては、解説を聞いて理解できればその問題を理解したと誤解するのは、かなりまずい事態ですから。
理解することと自力で解くこととの間には、大変な距離があります。

私が解説している間は、にこにことうなずきながら聞いている子。
「わかりましたか?」と尋ねると、こっくりうなずきます。
しかし、それではと演習に入ると、ペンが全く動かない。
自分が解くという場面になって初めて、自分が何も理解していないことに、本人が気づく。
何をどうしたらいいのか、わからない。

それは、勉強に限らないことだろうと思います。
例えば、ダンススクールで、講師が解説を加えながら模範演技をするのを見て、それをすぐ真似できる子は、余程の才能のある子か、訓練を積んでいる子。
自分がやるとしたらどうだろうかという頭の働かせ方をして解説を聞き、講師の振りを見ている子たちだけです。
普通は、さあやってみましょうという段になってから、え、最初の動きはまずどうするんですかと質問する子が大半でしょう。
最初の一歩から、もうわからないのです。

一度に全部解説するからいけないので、部分で区切って解説すれば良いのかというと、これもかなり厄介です。
「ここまでのところで、何か質問がありますか」
と、途中で質問を受けると、生徒の多くはポカンとしています。
まだ答案的には最初の一歩を踏み出したばかりの段階で、いったん区切って、
「ここまでのところで、ですよ」
と念を押しても、ここまでのところと、この先のところの区別があまりつかない様子で、混乱してしまう生徒は多いです。
黙って困った顔をしている子が大半ですが、質問してくる子は、大抵その先のことについて質問してきます。
「ここまでのところですよ。この先がまだまだありますが、ここまでのところで質問はありますか」
そのように「ここまでのところ」を強めに発音して強調しても、何かしっくりこない様子で、自分の質問に答えてもらえないことに動揺した顔をしたりします。
仕方ないので、長い解説になる問題も、ひと通り全部解説し、さて質問はありますかと問うと、今度は、
「全部わからない」
という、凄い返事が返ってくることもあります。
そうなるのが嫌だから、早めに区切って質問を受けたのに・・・。
そうして、結局、最初の一歩がわかっていなかったということは、よくあることです。
なぜその最初の一歩を踏むのか、そのときに念を押して2度3度解説しているのですが、それでも、その最初の一歩を理解せず、質問もしない。
そのときは、それからどうするのか、ばかり気にしている。
そうして、全ての解説が終わったときに、全部わからない、となる。
話の聞き方が下手といってしまえばそれまでですが。
学校の授業がよくわからないというのも、それはそうだろうなあと思います。

自分が問題を実際に解くことになって初めて真剣に考え始め、テキストの例題解説を必死に読み始める子も多いです。
解説を聞いているだけでは、理解できません。
だから、演習する時間は、本当に必要な時間です。
学校で、ワークその他の演習をする時間をとり、本人が自力で解くところまで学校でやってくれているのはありがたいです。

とはいえ、現代の子の中には、一度は理解したこともすぐに忘れてしまう子たちがいます。
1度解いた問題で、本人もマスターしたつもりでいるのに、テスト勉強を始めると、全く覚えていないのです。
学校のワークは仕上がっているのに、理解していない。
昔とは種類の違う状況が起こりやすくなってきています。

昔は、学習する教材と学習する時間を確保すれば、多くの生徒が伸びました。
今は、それだけでは伸びない生徒がいます。
手取り足取りの指導と、反復が必要です。
学校のワークも、仕上がっていても、答を隠して、何度でも解き直すと勉強になります。
  


  • Posted by セギ at 19:33Comments(0)講師日記

    2022年08月24日

    通過算と連立方程式。


    さて、今回は通過算について考えてみます。
    通過算というのは、電車の通過に関する問題です。
    例えば、こんな問題。

    問題 ある電車が636mの鉄橋を通過するのに31秒かかりました。また、同じ電車が、1356mのトンネルを通過する際に電車が見えなくなっていた時間は52秒でした。電車の速さは常に一定であるとします。この電車の長さと、電車の秒速を求めなさい。

    まず、受験算数として解いてみます。
    電車の長さを□、電車の秒速を①としましょう。

    線分図は、まず2本描くことができます。
    どちらも、電車が実際に動いた道のりを描いた線分図です。
    それを、1本目と2本目の2通りの表し方で表しています。




    電車が鉄橋を渡り終えるというのは、電車の頭が鉄橋にさしかかった瞬間から、電車の最後尾が鉄橋を出た瞬間までをいいます。
    つまり、電車の進んだみちのりは、鉄橋の長さだけでなく、その電車自体の長さも含みます。
    1本目の線分図は、電車の長さ+鉄橋の長さで、電車が実際に動いた道のりを表しています。
    それは、また、秒速①で31秒動いた道のりですから、①が31個分でもあります。
    2番目の線分図は、トンネル内で電車が実際に動いた道のりです。
    トンネルの中に完全に入って見えなかったので、電車が完全にトンネルに入ってしまった瞬間から、電車の頭が出てくる瞬間までが、実際に動いた道のりです。
    それは、トンネルの長さ1356メートルから電車の長さ□を引いた道のりになります。
    その道のりを52秒で進んだので、それは①52個分の道のりでもあります。

    線分図を使うときは、2本の線分図の差を読んでいくのが定石ですが、今回は差を読んでも、□が邪魔になります・・・。
    こんなときは、2本の線分図の和を考えてみます。
    それで□が消えることがわかるでしょうか。
    これが発想の転換点。
    これを思いつくことが、この問題の鍵です。
    それが、上の3本目の線分図です。
    ①が83個分で、1992mであることが読み取れます。
    したがって、1992÷83=24
    電車の速さは、秒速24m。
    では、電車の長さは?
    1本目の線分図を使えば、求められます。
    線分全体の長さは、24×31=744(m)
    □は、744-636=108
    電車の長さは、108mです。


    さて、中学生になると、こうした問題を方程式で解きます。
    ところが、中学生になっても受験算数から脱皮できない子がたまにいます。
    方程式の文章題なのに、それでも線分図を描いて、①だ□だという記号で解こうとするのです。
    どういう心理によるものなのか、個々の事情もあるのでしょうが、受験算数から脱皮できない子は、残念ですが、自分をレベルアップできない子である場合が多いです。
    過去にしがみついてしまうのは、中学の数学についていけないからです。
    本人は、せっかく努力して努力して努力して獲得した解き方を手放せないだけなのかもしれません。
    受験算数のほうが解きやすいと本気で思っています。
    しかし、受験算数そのものも、それほど卓越した能力を持っていたわけではないことが多いのです。
    悲しいことですが。

    受験算数が面白くてワクワクして解いていた子は、中学の数学はもっと面白く、ゾクゾクして解いていますから、右手に方程式、左手に線分図や面積図という武器を持って、縦横無尽に問題を解きます。
    今まで図を使って解いていた問題が、方程式を使えば、簡単なルールでさらっと解ける。
    これは衝撃であり、感動です。

    一方、方程式が頭に入らない子は、受験算数も、基本の典型題しか解けません。
    受験算数の解き方の手順を覚え、反復し、マスターして、基本の典型題を入試に多く出題する中学に合格したのです。
    そこまでは、輝かしい努力と勝利の道でした。
    しかし、そこからが続かない。
    通過算でも、上のようにちょっとひねった問題は自力では解けないのです。
    線分図を描いても、解けない。
    でも、方程式は、わからない。
    万事休すとなります。

    長年個別指導をしていますと、そのような生徒に、何人か出会ってきました。
    受験算数を捨てさせることが、まず、第一歩でした。
    それには、逆に私が受験算数で解いてみせ、本人には解けないことに気づかせる必要がありました。
    受験算数で解こうとすると、こんなに難しい。
    でも、方程式なら、簡単に立てられる。
    繰り返し、そう呼びかけて。

    方程式は、求めるものを文字におき、関係を表す式を立てるだけです。
    「関係を表す式」というと抽象的ですが、問題文中の何かの数量を表す式を立てればいいのです。

    もう一度、上の問題を見てみましょう。

    問題 ある電車が636mの鉄橋を通過するのに31秒かかりました。また、同じ電車が、1356mのトンネルを通過する際に電車が見えなくなっていった時間は52秒でした。電車の速さは常に一定であるとします。この電車の長さと、電車の秒速を求めなさい。

    求めるものは、電車の長さと電車の秒速。
    では、それをx、yとおきましょう。
    すなわち、答案の1行目は、
    電車の長さをxm、電車の速さをym/秒とおく。

    この1行目は、答案を読む採点者に、自分をどのようにこの問題を解いているかを告げる大切な1行です。
    それは、また、自分が途中で何をどう文字にしたのかわからなくなるのを防ぐナビでもあります。
    大切な1行です。
    それを書いていないと、数学の答案の体をなしていないのです。

    さて、方程式を立てましょう。
    何を表す式を立てるか。
    ここはまず、電車の進んだ道のりを表す式を考えてみます。
    通過算に限らず、「速さ」に関する問題を見たら、まずは道のりを表す式を立てられないかなと考えるのが定石です。
    時間や速さを表す式を立てるのは、面倒くさいですから。
    道のりを表す式でことが済むなら、ありがたい。
    道のりを表す式が立てにくいとき、かかった時間を表す式を立てることを次に考えます。

    まずは、鉄橋を渡ったときの道のりは。
    ここで、受験算数で通過算を学んだことが役に立ちます。
    この場合の道のりは、電車の長さも含む。
    そのことに対して、疑問や迷いがありませんから。
    受験算数を学んでいない中学生は、まず、それの理解に大きなハードルがあるのです。
    電車と鉄橋の図を描いて、丁寧に考えないと理解できません。
    だから、中学受験をしていない子は、このタイプの問題を最後まで自力では解けずに終わることも多いです。

    しかし、受験算数では、これは常識。
    受験算数で学ぶのは、線分図や面積図を描く作業手順ではないのです。
    事象に対する根本の考え方を理解するということなのです。
    これは、大きなアドバンテージです。
    小学校の数年間、遊ぶのを我慢して勉強した成果が、こういうところに結実します。

    鉄橋を渡ったときの道のりは、
    x+636=31y ・・・①
    続いて、トンネルの中を通ったときの道のりは、
    1356-x=52y ・・・②

    大切なのは、上のように意味のわかる方程式をしっかり立てることです。
    ところが、頭の回転がある意味速く、その分だけ上すべりしがちで、すぐに頭の歯車が外れてしまうタイプの子は、以下のような式を立ててしまうことがあります。

    x+31y=636
    x-52y=1356

    左辺にxとyと両方あるほうが、この後の加減法の計算がしやすいとか何とか、くだらないことを考えながら式を立てたのでしょうか。
    符号がめちゃくちゃな式になっています。
    今やっていることの先を考えてしまい、かえって手元がお留守。
    「脳の癖」なのかもしれないですが、直したい悪習です。
    余計な工夫はいらないのです。
    1行目は、意味のわかる式を書くこと。
    何を表しているのかがわかる式を書く。
    数学の答案として、それが最善です。
    計算の工夫はその後で勝手にやればよいのです。

    採点者は、文字の定義と、最初の立式をまずは見ます。
    それが正しければ、次は、xとyの値が出たところに飛びます。
    途中なんか、正直言って読みません。
    計算の結果が間違っているときのみ、目を上に戻し、どこまで正しいか、確認するだけです。
    ところが、変な工夫をして答案の途中から書いたような式を1行目に書いてしまう子は多いです。
    意味のわからない式を書いても、数学の答案にはなりません。
    1週間も経てば本人も説明できないような式は、書かない。
    それが数学の答案のルールです。

    上の①、②の式は、その後の計算上も、きわめてスマートな式です。
    ①+②より
    1992=83y
    このようにすぐにxは消えるのです。
    y=24
    これを①に代入して、
    x+636=744
    x=108

    電車の長さ、108m。電車の速さ、24m/s。
    これで正解です。


      


  • Posted by セギ at 09:53Comments(0)算数・数学

    2022年08月20日

    文章を読めない子。


    今日は、生徒と小説の読解問題を解いていて、そんな誤読をするのか、と驚いた話を。

    それは、浅田次郎『霞町物語』の一部を読んで、問に答える問題でした。
    私は、この小説を読んだことがないので、問題文の範囲のことしかわかりませんが、その場面での主な登場人物は、語り手の「僕」と父と祖父です。
    父と祖父は町のカメラマンのようで、その日、特別に装飾された都電を並んで撮影しました。
    シャッターチャンスは、都電が通過する一瞬だけ。
    祖父は、自分の腕に相当な自信のある、昔かたぎの人のようです。
    「僕」が撮れたの?と尋ねると、
    「焼いてみりゃわかる。まちがったって暗室のドアを開けたりすんじゃねえぞ」
    と言います。

    ここからは、小説の本文を引用します。
    以下が引用文です。

    その夜、僕と父は夕飯もそっちのけで暗室にこもった。
    赤ランプの下の父の顔はいつになく緊張していた。
    「おとうさんのフィルムは?」
    父は少し迷ってから言った。
    「おとうさんのフィルムは抜いておいた」
    「え、どうして?」
    「おとうさんのが撮れていて、おじいちゃんのが真黒だったら、おじいちゃんガッカリするだろう。おとうさんの方は失敗したことにしとけ」
    「おとうさん、やさしいね」
    「おじいちゃんは、もっとやさしいよ。較べものにならないくらい」
    話しながら、僕と父はあっと声を上げた。現像液の中に、素晴らしい花電車の姿が浮かび上がったのだった。
    「すごい、絵葉書みたい」
    父は濡れた写真を目の前にかざすと、唇をふるわせ、胸のつぶれるほど溜息をついた。
    「信じられねえ・・・すげえや、こりゃあ」
    暗室から転げ出て居間に行くと、祖父と母は勝手にケーキを食っていた。
    父と僕のあわてふためくさまをちらりと見て、祖父はひとこと、「メリークリスマス」と言った。家族が大騒ぎしている最中にも、まるで当然の結果だと言わんばかりに、焼き上がった写真を見ようともしなかった。


    問題文はもう少し続きますが、設問にかかわる部分はここまでです。
    「父」がなぜ「祖父」の写真の腕を信用せず、自分のフィルムをわざと抜き、祖父の面目をつぶさないようにしたのだろうという謎はありますが、それはここを読んだだけではわかりませんから、設問にはなっていません。
    なぜなのだろう?
    小説全体を読んでみたくなります。

    さて、それはともかく。
    この問題文を読んで設問を解いたある子は、全問不正解になってしまいました。

    問1 「おとうさん、やさしいね」とあるが、これは「父」のどのような行為に対して言ったものか。

    その子は、これが、わからなかったのです。
    正解は「自分のフィルムを事前に抜いておく行為」です。

    これがわからない。
    解答を見ても、意味がわからない様子で首をひねっていました。

    そういう子と会話を重ねて、聞き取った事実に、私は驚愕しました。
    小説中の人間関係と、起こった出来事が理解できていなかったのです。
    もう一度引用します。

    「おとうさんのフィルムは?」
    父は少し迷ってから言った。
    「おとうさんのフィルムは抜いておいた」

    ここの部分です。
    最初のセリフは、「僕」のセリフです。
    ここで呼びかけている「おとうさん」は勿論、「僕」のおとうさん。
    父のことです。
    そして、2番目のセリフは父のセリフ。
    ここで言う「おとうさん」は、父自身のこと。
    父が、自分のことを息子の前で「おとうさん」と自称しているのです。

    この小説が読み取れなかった子は、それが理解できなかったのでした。
    父が言う「おとうさん」は祖父のことだと思って読んでいたのです。
    おとうさんのおとうさんは、おじいちゃんだから。

    嘘でしょう・・・?

    そのように読んでしまうと、この父親は、祖父のカメラのフィルムをわざと抜いた、底意地の悪い父になってしまいます。
    どこがどうやさしいのか、見当もつかない・・・。
    そりゃあ、意味がわからない。

    父親が子どもの前で自分のことを「おとうさん」と自称することがあるのを、一般常識として知らない。
    自分の父親は、そんな自称をしないから。

    それはわからないでもありませんが、しかし、文章には文脈というものがあります。
    もう一度引用します。

    「おとうさんのフィルムは?」
    父は少し迷ってから言った。
    「おとうさんのフィルムは抜いておいた」

    問われて答えているのですから、この2つの「おとうさんのフィルム」は同一のものです。
    したがって、どちらも、「父」のフィルムです。
    これは、飛び抜けた推理力や読解力がなくても読み取れるはずのことです。
    自分の父親が「おとうさんが」「パパが」と自称する人ではなくても、理解できるはずのこと。
    普通に読めることです。

    さらに、
    「おとうさんのが撮れていて、おじいちゃんのが真黒だったら、おじいちゃんガッカリするだろう。おとうさんの方は失敗したことにしとけ」
    というセリフもあります。
    1つのセリフの中で、「おとうさん」と「おじいちゃん」が出てくることから、それぞれが誰を指しているのか、理解できるはずです。


    しかし、現代には、それを読み取れない子がいます。
    その子だけの話ではありません。
    そうした子に私は何人も出会ってきました。

    1文ずつで文意がリセットされてしまい、文と文とのつながりが理解できないのです。
    つながりがつかめず、流れがわからないので、その1文だけで判断します。
    おとうさんが言う「おとうさん」は、おじいちゃんのこと。
    自分の狭い範囲の「常識」を杓子定規に当てはめて、奇妙な誤読をします。


    算数・数学の文章題を読んでいても、それは影響します。
    以前も書きましたが、例えば、
    「ある数を2乗するところを間違えて2倍したため、計算の結果は19小さくなった。ある数を求めよ」
    という問題文が理解できない子がいました。
    計算の結果とは、ある数を2乗したほうなのか、間違えて2倍したほうなのか、問題文を読んでもわからないというのでした。

    また、割合に関する文章題では、
    「色紙でつるを600羽折りました。赤い色紙のつるは全体の30%にあたります。赤いつるは何羽でしょう」
    という問題にある「全体の30%」の「全体」が600羽であることが読み取れない子がいました。

    さらに、
    「定員55人のバスに、140%の人が乗っています。このバスに乗っているのは何人でしょう」
    という問題で、140%とは、定員55人の140%であることが読み取れない子がいました。

    あるいは、
    「めぐみさんの学校では、今日は18人休みました。これは学校全体の4%にあたるそうです。今日出席しているのは何人でしょう」
    という問題の「これ」が何を指すのか読み取れない子がいました。


    文章が、句点、最悪の場合は読点ごとに意味が区切れてしまい、その都度意味がリセットされてしまって、つながりが理解できない。
    そうした子たちは、国語の成績が常に悪いか、ひどくムラがあります。
    しかし、何が原因であるのか、あまり理解できていないように感じます。
    「出題者とセンスが合わない」と言ったりします。

    国語問題は、センスの問題ではありません。
    行間を読んだりするものでもありません。
    書いてあることを書いてある通りに読めば、正解に至ります。
    国語の成績が悪いのは、書いてあることを書いてある通りに読めないから。
    それに尽きるのです。

    1文ずつで意味をリセットしてしまう読み方の癖のある子は、読み飛ばしも多いです。
    結局、意味がよくわからないから丁寧に読まず、丁寧に読まないから、さらに意味がわからない。
    その悪循環なのでしょう。


    1つの解決策としては。
    これは都立高校を受験する子たちの話ですが、都立高校の国語入試問題は、200字の作文が出題されます。
    作文なんか小学校の頃から大嫌い。
    20字程度の記述問題でも全部空欄にしてしまうくらいなのに、200字の作文なんて書けるわけがない。
    何を書いていいか、わからない。
    そんな子が、大多数です。

    しかし、都立入試の200字作文の配点は10点です。
    ここは白紙にはできません。
    満点は取れなくても、せめて5点は取らないと、勝負になりません。

    だから、とにかく200字を埋めるシステムを私は教えます。
    満点は狙いません。
    1文字も書けない子が、とにかく200字埋めるための指導です。

    不思議なことですが、200字をとにかく埋められるようになった頃から、その子の読解力が上がり始めます。
    まずは小説の読解で、次いで説明文の読解問題で、正答が増えていきます。
    最後に、一番意味のわからない古典の鑑賞文に関する問題でも。
    勿論それは、教科書以外の文章をろくに読んだことがなかった子たちが、定期的に問題文を読むようになったことが大きいのでしょう。
    しかし、それだけでなく、「自分が書く」ようになったことで、文と文とはつながりがあることを少しずつ体得しているのではないかと思うのです。

    そうするうちに、あるとき、何も書けなかった子が、私が「こういうことをこのように書きなさい」と指示したものとは違うものを書いてくることがあります。
    自分には、別の考えがある。
    それを、このようなことを根拠に、このように伝える。
    そうした200字を書いてくるのです。

    ほぼ生まれて初めて文章を書くようになった子。
    入試答案という観点からまずいときには、否定します。
    しかし、そうでない限り、それを読む私は笑顔です。
    書きたいことがあるから書く。
    それを経験した子は、文章を読む力もまた一段階上がるのです。
    問題文を書いた筆者も、何か書きたいことがあって書いている。
    何かを伝えようとしている。
    それを体感して文章を読むようになると、読解力は上がります。

      


  • Posted by セギ at 12:04Comments(0)講師日記

    2022年08月17日

    中3数学。角の二等分線の定理。


    角の二等分線の定理。
    高校の数Aでも学習しますが、初めて学ぶのは中3です。
    2等分した角のところを中心に包み込むように、上の図でいえば、
    AB : AC=BD : CD となる。
    これが、角の二等分線の定理です。

    特に難しいことはないはずなのですが、上のような問題の場合、もたつくこともあります。

    問題 図のように∠Aの二等分線と辺BCとの交点をDとする。AB=5、BC=6、CA=7、CD=xであるとき、xの値を求めよ。

    角の二等分線の定理の通りに、比例式を立てます。
    AB:AC=BD:CDより、
    5 : 7=(6-x) : x

    何でもない問題のようなのですが、この後の計算が上手くいかない人がいます。
    その答案をよく見ると、正確には上のような式を書いていません。

    5 : 7=6-x : x

    と書いているのです。
    ( )をつけることを忘れる、というより、そのように書くことを理解していないのです。
    その状態で、「内項の積=外項の積」という形に変形しようとして、失敗し、
    42-x=5x
    といった式を立ててしまいます。
    これを解いて、
    -6x=-42
    x=7
    ・・・あれ?
    何でCDの長さが、BCよりも長いんだろう・・・。
    と、いつまでも考え込んでしまう。
    そんなことになってしまいがちです。

    比例式では、比が多項式のときには( )でくくりなさいと以前から助言はしていても、なぜそうしなければならないか、あまりわかっていない・・・。
    あまりわかっていないから、結局、それが原因でミスをすることになります。

    角の二等分線の定理がわからないわけではないのです。
    でも、それ以前の学習内容がしっかり身についていないと、そういうところで正答を出せなくなってしまいます。
    何をして良くて、何をしたらダメなのか、よくわかっていない。
    理解不足なんだなあと残念に感じてしまうことは多いです。

    5 : 7=(6-x) : x
    としっかり書き、変な省略や暗算はせずに「内項の積=外項の積」を活用するなら、
    5x=7(6-x)
    5x=42-7x
    12x=42
    x=42/12
     =7/2。
    と正解できるはずです。

    とはいえ、上のような問題はまだ基本問題。
    角の二等分線の定理に関する問題の本格的なものは、以下のような問題です。


    問題 上の図のように、∠Aの二等分線ADと∠Bの二等分線BEとの交点をFとする
    AB=8、BC=7、CA=6のとき、AF : FDを求めよ。

    これは、角の二等分線の定理の典型題です。

    数学の問題は、手順を踏んで解いていかねばなりません。
    ひらめきを待っているタイプの人は、こういう問題になると、永遠にひらめかない可能性があります。
    答を求めるためには、何の数値が必要か?
    そのためには、どうすればいいか?
    結論から逆に順をおって考えていく必要があるのです。

    中学や高校になって急速に数学が苦手になっていく人の中には、この「順をおって考えていく」が、致命的にできない人が多く存在します。
    そのように物事を考えた経験がないのかもしれません。
    物事はそのように考えるものであるということをそもそも知らないように見えます。
    いつまでも、心は小学生のまま、問題をぼんやり眺め、ひらめきを待っています。
    そして「わからない」と諦めてしまいます。

    上の問題について、実際に順をおって考えてみましょう。
    求めたいものは、AF : FD です。
    図に角の二等分線が引かれていますから、使うのは、角の二等分線の定理でしょう。
    どの三角形で、角の二等分線の定理を使ったら、AF : FD を求めることができるでしょうか?

    そのように問いかけたとき、
    「△ADC」
    と答えた子がかつていました。
    さすがに、そのときは、論理だけでなく、センスというものも少しは必要なのだろうかと私は腕を組んで宙を仰ぎました。
    そっちの三角形は、角の二等分線がないよー。
    何でそっちが見えてしまうのかなあ?

    それは「右側ばかりが見えてしまう」その子の「目の癖」あるいは「脳の癖」が影響しているのだと思います。
    物の見え方がフラットではない可能性があり、論理よりも前にトレーニングが必要かもしれません
    類題を繰り返し解いて、「目の癖」を改善し、図がフラットに見えるようにしていくと良いと思います。

    角の二等分線を使うのだということを考慮に入れれば、使うべき三角形は、△ABD。
    そして、その三角形で角の二等分線の定理を使うのならば、BDの長さが必要なのだとわかります。

    よし。
    では、まず、BDの長さを求めましょう。
    BDの長さを求めるには、どの三角形で角の二等分線の定理を使うのか?
    △ABCですね。
    角の二等分線の定理より、
    8 : 6=BD : (7-BD)
    などと大げさな式を立てるまでもなく、BD : CD=4 : 3 なのはすぐに見てとれます。
    BD=4で、CD=3 です。
    比と実数が、そのままだー。
    案外簡単な作りですね、この問題。

    でも、この「案外簡単」なところで混乱してしまう人もいます。
    「比と割合」が、小学生の頃から苦手で意味がわからない。
    中3になってもやっぱりわからない・・・。
    そして、考えこんだあげく、7÷4 といった意味のわからない式を立ててしまうのです。
    7÷7×4ということをやりたかったのでしょう。
    でも、7÷7という式は、算数がよくわかっている子でないと、立てられないんです・・・。
    同じ数で割るなんてありえない、という「謎ルール」に支配されている子は多いです。
    7÷7=0 になると誤解していて、そういう計算をしてはいけないと思っている子もいます。

    そこまで混乱している子には、私はささやきます。
    「中学で割合を使うときには、かけ算しか使わないから。かけるのか割るのかで悩むのはやめよう」
    もとにする量×割合=比べられる量
    この公式しか使わない。
    この公式だけを使えるようになりましょう。

    しかし、そうささやいても、
    7×3/4
    といった、間違ったかけ算の式を立ててしまう子もいます。
    そして、そんなところで全力を使ってしまう子は、「論理」を忘れてしまいます。
    悪戦苦闘の末に、BD=4と求めた後で、途方に暮れるのです。

    何のために、BDの長さを求めていたのだったっけ?

    そう問いかけても、ぽかんとしてしまいます。
    そもそも、本人が発案したことではないので、無理もないのではありますが。
    論理を身につける道のりは遠いです。

    とりあえず、BD=4 を図に書き込んで忘れないようにして、最初から考え直します。
    この問題は、何を求めるのですか?
    AF : FD です。
    角の二等分線の定理を使って、その比を求めるには、どの三角形に着目すればいいでしょう?

    ・・・△ADC。

    違う違う違う。
    本当に目の癖が強い。
    そちらではなく、左側。
    △ABDで、角の二等分線の定理を使いましょう。

    しかし、ここでまた、「目の癖」が影響してしまう子もいます。
    ∠Aの二等分線のように、上のほうにある角の二等分線ならば理解でき、定理を利用できます。
    しかし、∠Bの二等分線のように、左向きに横たわっている三角形では、角の二等分線の定理を利用できない子もいます。
    三角形が横に傾くと、もう混乱してしまうのです。
    これも、トレーニングするしかありません。
    今、見えないのは仕方ない。
    見えないものが見えるようになるまで、「
    目の癖」を治しましょう。

    見える人は、もう答がわかったと思います。
    角の二等分線の定理より、
    AF : FD=BA : BD=8 : 4=2 : 1 です。

    ここまできて、解答欄には、1 : 2 と書いてしまう、倒れ込みそうなケアレスミスもあります。
    何でそんな迂闊なことをやってしまうのか・・・。
    本当についうっかりの場合もありますが、比の始まりは、必ず「1」でなければならないという謎の思い込みをしていた子もかつていました。
    2 : 1 と書いてはいけなくて、必ず 1 : 2 と書かねばならないと信じていたのです。
    理由はありませんでした。
    思い込みに理由はないのです。


    後ろから物事を考えていく「論理」がどうしても呑み込めず、自分でその論理を構築するのは不可能な人は、前から物事を考えていくことも可能です。
    つまり、「今、求めることができるのは何か」を考えるのです。
    答に直接結びつくかどうかはわからないけれど、今求められるものがあるなら、とにかくそれを求めてみる。
    無駄でもいいから、やってみる。

    数学の問題の場合、それが無駄に終わる場合は少なく、大体それで問題はほぐれてきます。
    だから、信じてやってみると良いのですが、論理的思考はできないのに「損得」勘定だけはしてしまう子もいます。
    無駄になるかもしれないことは、やらないのです。

    無駄になってもいいから、やってみる。
    それができる子は、やってみたら無駄にならず問題が解けた経験を多く持っていますので、そうすることにためらいがありません。

    しかし、損得勘定だけでそうしている子ばかりではないのでしょう。
    「今、求めることができるのは何か」ということが、そもそもわからない。
    何も求められない。
    何もわからない。
    「角の二等分線の定理を使いましょう」
    と呼びかけても、それがヒントにならない・・・。

    作業手順だけ覚えて算数・数学をやり過ごしてきたので、解き方を覚えている問題しか解けないのです。
    残念ですが、そういう子が、実は最も多いのではないかと思います。
    そういう子は、この問題も「典型題」として解き方を覚えるしかありません。

    この問題は、解き方を覚えることにも多少は意味があるとは思います。
    典型的な発想を必要とする問題として。
    外側の形を覚えるのではなく、せめて内側にこもる論理を覚えてくれたら、と思います。


      


  • Posted by セギ at 14:12Comments(0)算数・数学

    2022年08月13日

    教材にまつわる小さなストレス。


    中学受験をする小学生に対しては、保護者がぴったりついて学習をサポートしている場合が以前よりもずっと増えてきたように感じます。
    子どもが勉強しているのを監督するというレベルではなく、保護者の方が学習内容や教材の準備に深く関わっているのです。
    志望校の過去問をコピーして1問ずつに切り分け、一度解いて間違えた問題をノートの1ページの上部に1問ずつ貼ってある「解き直しノート」を生徒が持っていたりします。
    スキャンして、パソコンで再編集してスペースを広く取ってプリントアウトしている人もいました。
    そうした「解き直しノート」は、お母様の労作なのです。
    フルタイムで働いているお母様でも、そんなに手間のかかることをしていました。
    それなのに、子どもは、そのお母様の労作の「解き直しノート」に雑な答案を書きちらし、同じことを同じように間違えている・・・。
    その様子を見ているだけで、私は徒労感に軽い吐き気を覚えました。
    自分の徒労にはわりと鈍感な体質ですが、他人の徒労は、見ているだけできつい・・・。
    しかし、子育てということは、そういうことの繰り返しなのかもしれません。

    いや、徒労と決めつけてはいけません。
    間違えた問題の解き直しは、小学生にとっては、想像以上に負担のかかる作業です。
    一度解いた問題をもう一度解くことの意味が、子どもにはわからないのかもしれません。
    当然、やる気が起きません。
    そもそも、「問題集を見て、解答はノートに書く」という作業が難しい子が今は多いです。
    書き込み式のほうが、目が1か所に集中し、学習が進むのです。
    だから、子どもの学習ストレスを少しでも軽減すべく、保護者の方たちは頑張ってコピーを取りまくり、切って切って貼りまくっています。


    私自身の話でいえば、生徒の学校の問題集からの質問を受けるときには、その問題をスマホで撮影し、その画像を見て問題を解き、解説します。
    リモート授業のときには、生徒にその問題を撮影して送ってもらいます。
    その画像を私がどう使っているか、あまり理解できていない生徒の場合は、端が切れていたり、ブレていたりなど、画像の質がかなり悪いこともあります。
    厚い問題集を撮影するときには、片手で押さえていないとページが閉じてしまうので、片手で押さえ、片手で撮影。
    そうなると画像はピンボケ。
    生徒ばかりを責められません。
    悪い画像を拡大してそれを見ながら私は問題を解きます。
    ところが、先日、塾との連携を進めている私立の学校から、生徒の夏休みの宿題を全部コピーしたものをいただきました。
    それを解いていて、あまりにもストレスフリーであることに驚きました。
    コピーを直接見て、直接書き込めるというのは、こんなに楽なものだったか・・・。

    とはいえ、コロナ禍までは、私は生徒と向き合い、生徒の問題集を逆さからのぞき込んで問題を解いていました。
    数学の関数の問題も、高校入試レベルなら英語の長文問題も。
    逆さに文字を読むことができ、生徒に向けて、逆さに文字を書くこともできる。
    個別指導講師の特殊技能を発揮していました。
    あれに比べたら、画像とはいえまともな向きで問題を読める今のほうがどれほど楽かしれません。


    子どもの場合も、本来は、間違えた問題は自分で問題集に印をつけて、ノートに解き直したらいいのです。
    しかし、そうしたことができない子どもは多いです。
    勉強にまつわるストレスを少しでも減らすべく、教材準備などの事務作業は保護者の方が一手に引き受け、勉強しやすい環境を作る。
    中学受験までは、そのように全面協力するのも仕方のないことなのだと思います。

    問題は、中学に入学後です。
    広いスペースをとった「書き込み形式」のプリントやテキストでないと問題を上手く解けない子どもは、中学生になっても多いです。
    しかし、多くの場合、学校の問題集は、それほどのスペースがありません。

    自校に入学した生徒がどんな受験勉強をしてきたかを把握している私立の先生たちは、そこのところを細かく丁寧に指導しています。
    例えば、数学では、問題集の問題文を、ノートに青ペンで全文書き写してから、解く。
    そのようなノートを作っていない場合は、再提出。
    それは、問題を読まずに解く癖のある子に少しでも問題文を読む時間を作らせる狙いもあるのでしょう。

    あるいは、学校に教材を卸す教材会社も、書き込み式でないと上手く解けない生徒が多いことを把握しているので、問題集に完全準拠の完成ノートを用意しています。
    問題集の問題文が印刷され、解答スペースが空けてあるノートです。
    それはまた、先生が生徒の宿題をチェックしやすいノートでもあります。

    先生の手作り感あふれる冊子テキストを生徒に配っている中学もあります。
    印刷したものをホチキスで中綴じしてある冊子です。
    スペースが広くとってある書き込み式で、易しい基本問題を繰り返し繰り返し練習できるようになっています。
    1つの単元で10冊ほどの冊子テキストが渡される学校もあります。
    これほどの反復をすれば、基本は身につきますね。

    しかし、学校によっては、うちの生徒はそこまで過保護な扱いをしなければならない学力ではないと判断しているのかもしれません。
    スペースのあまりないプリントをポンと渡し、しかもそれに書き込んで提出、という学校もあります。
    これは本来、ノートに解くタイプの問題集なのではないか?
    そう思われるプリントに、生徒が雑な字で強引に書き込んでいます。
    「これ、本当に書き込むことになっているの?ノートに解いて提出という指示はなかったの?」
    「書き込めと言われました」
    そんな場合もあります。

    計算問題のスペースも全体に狭いけれど、さらにその下の文章題は、解答スペースが縦3㎝程度。
    粒の小さい字を整然と書いていく訓練を積んでいるのでない限り、このスペースで方程式の文章題の答案として必要なことを全部盛り込むことは、不可能に思えます。
    何をxとしたのかという文字の定義がされていない。
    いきなり暗算した結果を使った意味不明な方程式を立てて計算し、出た解が「適」かどうかの判断も勿論しないで解答欄に答を書いている。
    そういうダメな答案を書くように、学校側がむしろ誘導しているようにすら感じます。

    でも、スペースがないからといって、必要なことを省略するようではダメなのです。
    その判断ができるかどうか、それを含めての夏の修行。
    そういう意味の宿題なのかなあと夏休み宿題プリントを眺めながら考えてみたりします。

    書き込み式教材の欠点は、解き直しがしにくいことです。
    小学生の保護者の方たちはそれを見越して、テキスト本体には何も書き込ませず、すべてコピーして与えています。
    繰り返し、解き直しができるように。

    塾としては、コピー代が経営を圧迫してしまうので、さすがにそれはできません。
    でも、解き直しは必要。
    そうなると、結論としては、ノートに解いてもらうことになります。
    高校入試のための受験勉強をしている生徒たちにとっては、問題をノートに解く練習は、高校入学後に本人が自分で勉強していくためのトレーニングでもあります。
    しかし、不安もあります。
    「間違えた問題は、後で解き直しましょう。
    受験勉強で何をしたらいいかわからないときは、テキストの解説部分を繰り返し読んで内容を理解し覚えるか、問題を解き直すかをしましょう。
    それが受験勉強です」
    そう助言していますが、答を書いたノートを生徒が捨ててしまう可能性は否定できません。
    「解き直したけど、答がわからない」
    と、すっとこどっこいなことを言い出すかもしれません。
    ノートが、この問題集の解答集。
    だから、ノートには、解いた問題のテキスト番号とページを必ず入れておきましょう。
    繰り返しそう話しているのですが、何しろ生徒というのは忘れっぽいところがあるので、そんな話は話として、実際には、使い終わったノートは、ああ終わったと、即廃棄してしまうかもしれません。
    だから、ノート管理は無理だろうと思われる生徒には、テキストに答を書き込ませることもあります。
    高校受験生は、もともと、類題が繰り返し繰り返し出てくる問題集を解いているので、何とかなるのでもあります。
    新しい問題を解いているけれど、実質は解き直し。
    そのようにして学習を積み重ねています。

    昔とは違い、今の子どもたちは、幼い子が多いです。
    勿論、昔通りの子もいますが、精神年齢は、「実年齢-5歳」と見積もっておいたほうがいい場合もあります。

    中学受験をする12歳は、精神年齢は7歳。
    高校受験をする15歳は、精神年齢は10歳。
    大学受験をする18歳は、精神年齢は13歳。

    その精神年齢にしては、よく頑張っている。
    つらい勉強を投げ出さずに取り組んでいる。
    それだけで、大丈夫だよ、と思います。
    昨日よりは今日のほうが、今日よりは明日のほうが、学力はついている。
    それだけで、大丈夫です。

      


  • Posted by セギ at 14:04Comments(0)講師日記

    2022年08月10日

    本当の自分はもっと学力が高い。


    間違えた問題には印をつけて解き直す。
    長く通塾している生徒たちは、それが定着しています。
    しかし、まだ通塾期間が短い間は、指示しても、なかなかそれを実行できないこともありました。
    間違えた問題でも、印をつけるときと、つけないときがあるのでした。
    なかなか思うように結果の出ない子ほどそのような傾向があるように感じました。

    見ていると、何か本人なりの判断をしている様子でした。
    「今のはケアレスミスで、本当は自分はこの問題は解けるから、印はつけない」
    「こんなくだらない問題は、本当は解けるから、印はつけない」
    ということなのかもしれません。
    そうして印をつけるのは、本人が気に入ったのらしい、難しい問題だけ。
    これは重要問題だ、と本人が感じた問題だけに印をつけているようでした。

    これは、その子の現実の学力と、本人が思っている学力とが乖離している子にときどき見られる傾向でした。
    学力テストの偏差値や学校の定期テストの得点で、自分が伸び悩んでいるのは多少理解しているはずなのですが、何かどこかで自分の能力を過信しているようなのでした。
    公立の子よりも、中高一貫校に通う子に多く見られる傾向です。
    公立の子は、良くも悪くも学習のやり方を知らず、その分「まっさら」ですから、
    「間違えた問題には印をつけて、後で解き直しなさい」
    といったアドバイスが、そのまましみ込んでいきます。
    一方、中高一貫校の子は、それなりに「自分の学習のやり方」というものがあります。
    それが上手くいっているのなら、私がとやかく言う必要はないのですが、学習に行き詰まりを迎えていても、自分のやり方を変えられないのです。

    「なぜ間違えた問題の全てに印をつけないの?」
    と尋ねても良かったのですが、こちらとしては単なる疑問でそう言っていても、
    「叱られた!」
    と、ビクッとなってしまう子もいますので、最初は様子を見ていました。
    ただし、そういう子の間違えた問題は、私が番号をすべてメモしていました。
    そして、時間をおいた授業時にもう一度解いてもらいました。
    たいていの場合、もう一度解いても、同じところを同じように間違えます。
    「くだらないケアレスミス」をした問題も。
    本人が印をつけた「重要問題」も。
    重要問題に印をつけただけで満足し、家で解き直すことをしないので、当然そうなります。

    簡単な問題は、簡単だと思って気を抜くから、ケアレスミスを繰り返す。
    あるいは、それはケアレアミスではなく、繰り返し同じミスをしてしまうその子の「穴」「欠落」がその問題に含まれている。
    そして、本人が重視する「重要問題」は、難しいから、解けない。
    そうした現実が見えていない間は、同じ問題を間違えます。

    まだ十代ですから。
    まだ子どもですから。
    自分のことは、見えないです。
    データが何を示していても、それはそれとして、
    「本当は、自分の能力はもっと高い」
    と思っていたいのは、それは当然のことです。
    テキストを汚してまで印をつけるのは、ケアレスミスしたどうでもいい問題ではなく、自分が「これは大切だ」と思った重要問題だけ。
    その気持ちはわからないでもありませんでした。

    本当は、その子の能力はもっと高い。
    確かに、それはそうなのでした。
    でも、その能力を形にすることができていませんでした。
    簡単な問題には気を抜き、難しい問題は無理だと諦める。
    問題を解いているときにそんなふうに感情が揺れていては、正答は増えません。

    秀才は、自分が間違えた問題に優劣はつけません。
    間違えた問題は、間違えた問題。
    実際に、間違えたんだから、仕方ない。
    それがすべて。
    そんなことにプライドが傷ついたりはしないのです。
    間違えたら、それを正答できるようにすればいいだけです。
    それが「学習」ということだから。
    自分は「学習」をしているので、今の段階で、全問正解にこだわる必要はない。
    全問正解を目指し、そこにプライドをかけるのは、自分の学力を試す場でのこと。
    普段の家庭学習や、塾での学習は、その場ではない。
    そういう割り切り方ができているものです。
    だから、私に対し、底抜けに「アホな」質問も平気でします。
    わからないときは、「わからない」と普通に言います。

    自分が間違えた問題に印すらつけられない。
    むしろ、それは自信のなさの表れなのかもしれません。
    あまりにも傷つきやすい。
    自分の学力に対して、内心で不安が強いのだろうと私は感じていました。

    現実を認め、現実を変えて、テストの得点を、テストの偏差値を、上げていくこと。
    中高一貫校の場合、本人の成長よりも学校の学習進度のほうが速く、学習内容が急カーブで難度を上げていくため、ある程度の努力をしてもむしろ得点は下がっていく時期もあります。
    そのまま退会した子もいましたが、そうしたなかで、余計なプライドや不安がそぎ落とされ、静かに学習に立ち向かえるようになった子もいました。

    本当の自分はもっと能力が高い。

    ・・・それは、どんなふうに?
    「本当の自分」と「現実の自分」とのギャップは、では、どこから生まれるのでしょうか?

    「本当の自分」を本当にするために、では、何が必要なのでしょう。
    「現実の自分」から目を背けていて、それは可能なことでしょうか。

    人よりミスが多いことを認められない自分。
    一度解いた問題は、二度目はもう正解できると、信じている自分。
    努力しなくても結果を出せるのがかっこいいと思ってしまう自分。
    そもそも自分はそんなに低いレベルではないと、何の根拠もないのに思っている自分。

    人はどうしても自分は特別だと思いたいので、そうした幻想は消えるものではありません。
    心の中は、どうにもなりません。

    それでも、まずは、間違えた問題に印をつけましょう。
    そして、解き直してください。
    そこに小さな現実があります。
    一度目に間違えた問題を、本当に二度目は全て正解できるでしょうか。
    小さな現実の積み重ねから、「現実の自分」が見えてきます。
    「現実の自分」を把握することから、「本当の自分」への道が始まると私は思います。

      


  • Posted by セギ at 12:28Comments(0)講師日記算数・数学

    2022年08月06日

    強調構文。疑問詞の強調。


    強調構文は、まあまあ理解しやすいと思います。
    文の中の、強調したいものを、意味のまとまりごと、It is ~ that で挟めば、それで強調できます。

    まずは、普通の文。
    Tom bought the book at the bookstore yesterday.

    これの主語Tom を強調して、
    「昨日、その書店でその本を買ったのは、トムなんだよ」
    と言いたいときは。

    It was Tom that bought the book at the bookstore yesterday.

    と、強調したい Tom をIt is ~ that で挟み、残りは、そのまま書いていけばよいだけです。
    ちなみに、主語を強調したいときは、that の代わりに who も用いられますので、
    It was Tom who bought the book at the bookstore yesterday.
    もOKです。

    the book を強調して、
    「昨日、トムがその書店で買ったのは、その本だ」
    と言いたいときは。
    It was the book that Tom bought at the bookstore yesterday.

    at the bookstore を強調して、
    「トムが昨日その本を買ったのは、その書店だ」
    と言いたいときは、
    It was at the bookstore that Tom bought the book yesterday.

    yesterday を強調して、
    「トムがその書店でその本を買ったのは、昨日だ」
    と言いたいときは、
    It was yesterday that Tom bought the book at the bookstore.

    とても単純。


    強調構文で気をつけなければならなのは、疑問詞の強調です。
    これは、ちょっと難度が上がり、覚えていないと間違えてしまいます。

    Who bought the book at the bookstore yesterday?
    「誰が昨日その書店でその本を買ったのだろう」

    この疑問文の who を強調したいとき。
    「昨日その書店でその本を買ったのは、誰なのだろう」
    と言いたいとき。
    who を挟むのだから、
    It was who that bought the book at the bookstore.
    でしょうか?
    うーん、ちょっと違います。
    疑問文なのですから、最後は疑問符「?」でなければなりません。
    そして、疑問文なのですから、疑問文の語順でなければなりません。
    しかも、これは疑問詞で始まる疑問文ですから、疑問詞で始めなければなりません。
    すなわち、

    Who was it that bought the book at the bookstore?

    これが正解です。

    なお、疑問詞を強調する方法としては、このような強調構文の他に、疑問詞を強調する語句をつける、というやり方があります。
    疑問詞を強調する語句としては、 on earth や in the world があります。
    これを疑問詞の直後につければ、その疑問詞を強調します。

    Who on earth bought the book at the bookstore yesterday?
    「いったい全体誰が昨日その書店でその本を買ったのだろう」
    という意味になります。

      


  • Posted by セギ at 15:37Comments(0)英語

    2022年08月03日

    暗算するとき、しないとき。


    以前勤めていた塾では、授業の初めに毎回小テストを実施していました。
    毎回例えば20点満点などにきっちり揃えたら良いのですが、つい面倒で、そのときそのときで、満点は、17点だったり、24点だったり。
    「8割得点できたら合格ね。8割未満の人は、追試」
    そう言うと、多くの生徒が、
    「8割って、何点?」
    と質問してきました。
    「自分で計算しなさい」
    「えー」
    生徒たちを見ていると、しぶしぶ始めるのは、24×0.8の筆算でした。
    テスト用紙の余白に書き始めます。
    「・・・それ、暗算できないの?」
    「暗算、苦手」
    2ケタかける1ケタの暗算くらい出来るようになってほしいのですが、しかし、それよりも、もっと楽な計算方法があります。
    この場合、8割が何点に当たるかよりも、何点間違えてもOKかがわかれば良いのです。
    まず、24点の1割を考えると、2.4点。
    2割は、その2倍だから、4.8点。
    4.8点まで、間違えても良いことになる。
    この説明をすると、数学の得意な子は、顔がぱあっと輝きました。
    しかし、計算の苦手な子は、意味がわからず、あたりをきょろきょろ見回していたりしました。
    さらに、その子の手元には、24÷0.8の筆算がしてあったりしました。
    うーん。

    子どもはともかく、大人は、この程度の割合の計算はざっくりとできます。
    さらに、大人は、「概算」ということもできます。
    598円均一セールの豚肉が、夕方になって、さらに3割引き。
    うーん。
    何円だ、これは?
    スーパーで、電卓をたたいている人は、あまりいないです。
    598円では計算しにくいから、大体600円で、その7割なら、420円くらい。

    一方、およその数が苦手な子どもは、598をおよその数にすると、「6」としてしまったりします。
    四捨五入して0になると、桁そのものもなくなると誤解している小学生は多いです。
    およその数の意味を理解せず、作業手順だけ覚えているので、そういうことになってしまうのでしょう。
    概算は、現実生活で役立つ、普通の知識です。

    ざっくりと暗算で済ませられることは世の中に沢山あります。
    しかし、どの程度まで暗算し、どこからは丁寧に計算するかは、個人差の大きい問題でもあります。


    例えば、次のような高校数Ⅰ「2次関数」の問題。

    問題 次の2次関数に最大値・最小値があれば、それを求めよ。
    y=-2x^2+6x+1

    これは、上に凸の放物線。
    だから、最小値はありません。
    最大値は、頂点のy座標になります。
    頂点の座標を求める必要があります。
    それには、平方完成が必要です。

    そこまでは思いつくことができても、こういう問題の正答率は低いです。
    平方完成で失敗してしまうんです。
    よくある誤答。

    y=-2x^2+6x+1
     =-2(x-3)2-8
    よってx=3のとき、最大値-8

    本当によく見る誤答なのですが、こんなふうに間違った平方完成を1行で済ませてしまう子は多いです。
    もっと丁寧に解けば、正解できるのに。
    毎回毎回、そのように言っても、こういうことをやってしまう子は、治らないんです・・・。

    y=-2x^2+6x+1
     =-2(x^2-3x)+1
     =-2(x-3/2)2+9/2+2/2
     =-2(x-3/2)2+11/2
    よって、x=3/2のとき、最大値11/2

    これが正答です。

    このように無理せず丁寧に平方完成すれば、特に難しい問題ではありません。
    書いていきながら、暗算できるところは暗算していますので、時間もそんなにかかりません。
    うんうんうなって暗算するよりも、むしろ速いと思います。
    頭の中で暗算した結果を使ってさらに暗算するような過程を踏むとミスが増え、無駄に時間もかかります。
    書いていきながら、簡単な暗算で済むところは暗算すれば、頭が楽で正確で、かつ速いのです。

    上のように書いていくことの合理性を理解して改善してくれる子は、数学の得点はたちまち上がっていきます。
    数学は、正解できる問題で無駄に失点しなければ、すぐに得点は固まります。
    そうやって得点を固めると自信もつき、欲も出てくるので、応用問題にも挑戦できるようになっていきます。
    良い循環が生まれます。

    しかし、現実には、上のような計算ミスを繰り返し、正解できるところで無駄に失点し続けるため、得点が上昇しない子もいます。
    そういう子は、
    y=-2x^2+6x+1
     =-2(x-3/2)2+11/2
    という答案を書きたいのです。
    実際にはそれができないから、毎度毎度しくじってしまうのですが、その自覚はないことが多いです。
    よくミスをする子ほど、自分のミスを覚えていません。

    いや。
    そもそも暗算が習慣になっているので、それ以外の答案の書き方など、発想にない。
    何度しくじっても、しくじったことを忘れて、その都度新たに失敗を重ねていくのだと思います。

    その場合は、
    y=-2x^2+6x+1
     =-2(x-3/2)2+11/2
    と、1行で済ます方法を教える以外に道はありません。

    何でこんなふうに頭に負荷がかかり、しかもリスキーな暗算をしなければならないのだろうと私は思うのですが、こういうところを丁寧に書いていけない子は、おそらく、もう治らないです。
    意識してそうしているのではなく、本人はそういう無理な暗算がもう自動化していますし、それで失点を繰り返していることを、不思議なくらい自覚していないのです。
    自動化していて無自覚なのですから、治る理由がありません。

    y=-2x^2+6x+1

    これを一度で平方完成するには。
    まず、-2を( )の前に立てることになることを意識します。
    すると、
    y=-2(x  )・・・までをまず書いていくことができます。
    次に、6xの処理。
    大抵はここでミスをしてしまうのですが、頑張ってそのミスを回避するには。
    -2を前に立てたのだから、その段階で、6xは-3xになっています。
    乗法公式の、x^2+2ax+a^2の、2axのところが、今、-3xなのです。
    だから、aは、-3のさらに半分。
    -3/2です。
    y=-2x^2+6x+1
     =-2(x-3/2)^2・・・
    よし。
    ここまで書くことができました。
    ここまで目に見える形にすれば、あともう一歩。
    ( )の前に-2があるのですから、平方完成したあとのつじつま合わせは、いつもの引き算ではなく、たし算。
    何を足せばいいのか。
    2×(3/2)^2を足せばいい。
    これは計算する前に約分できるからわりと簡単で、9/2
    後ろに+1があるから、それも計算すると、11/2
    したがって、
    y=-2x^2+6x+1
     =-2(x-3/2)^2+11/2

    しかし、繰り返しますが、こんな苦労をしてまでやらねばならない暗算だとは私には思えないのです。
    頭は、問題の解き方を発想するために使うので、こんなつまらない計算をいちいち頭を使って考えたくありません。
    計算は手がやればいいのです。

    2行で平方完成し、しかもミスのない子なら、
    「そんな暗算はやめろ」
    と言う必要はありません。
    できるのならば、やればいい。

    自分にはそれは無理だなと判断する賢さのある子は、そういう無理な暗算は避けたらいい。

    自分に出来ることを出来るレベルで行うことが正答につながります。

    そう考えると、一番上の、「24点の8割」を暗算できないから筆算する子を責める理由もないのでしょう。
    筆算したほうが楽ならば、筆算したらいい。
    欲しいのは、正しい答。
    暗算できることが偉いことではありません。
    制限時間内に正しい答を導くことができるなら、どちらでも良いのです。

      


  • Posted by セギ at 13:02Comments(0)算数・数学