たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2022年12月22日

使えるノート作り。


3年ほど前、三頭山に行くバスの中でのこと。
混雑したバスの中はグループごとのおしゃべりでアナウンスが聞こえにくいほど賑やかでした。
その中で若い女性2人の話し声が、私の近くの席だったこともあり、特によく聞こえてきました。
話の内容から察するに、2人とも学校の先生のようでした。
せっかく日曜日に山に遊びに行くのに、話の内容は教育論。
それで気分転換になるのかなあと心配になるのですが、学校で意見を通すにはまだ若過ぎるので、対等に教育論を交わせる相手ととことん話すのは、ある意味ストレス解消なのかもしれません。

その中で、興味をひかれた会話がありました。
「成績の悪い子って、ノート、きれいだよね」
「何であんなにきれいにノートを作って、あんなに成績悪いんだろうって思うよね」
「ノート作りが目的になっちゃっているんだろうね。違うのにね」

学校の先生が、そんなことをバスの中で大声で言う是非はあるかもしれません。
でも、生徒のことを心配して言っている気持ちは本物だと思うんです。
私も実感として知っています。
ノートがやたらにきれいで勉強ができない子は一定の割合で存在します。

以前、勤めていた集団指導塾でのこと。
明日は定期テストという子ばかりだったので、普段の授業は中止し、自習に切り替えていた日のことでした。
英語や数学は、テスト前日は最終チェックと微調整をすればいいだけなので、テスト前日は、案外やることがありません。
生徒も、理科や社会の勉強をやりたがります。
自習している様子を見ていると、ある女子生徒が、ノートに、それはそれは精密な細胞の図を描いていました。
教科書に描いてある通りの、動物細胞と植物細胞の図です。

「それ、何にするの?」と訊くと、
「明日の1時間目は自習だから、これを見て、覚える」
と言うのです。
覚えるのなら、今、教科書を見て直接覚えたらいいのに、彼女は図を描くのにとにかく夢中なのでした。

覚えるためのノートを作らないと覚えられないという人は、います。
しかし、それは少なくともテスト1週間前には完成させておくものです。
それを見て暗記するのに、また時間がかかりますから。
テスト前日に精密な図を描いているのは、学習として疑問です。
覚えることが最優先のはずです。
きれいなノートを作ることは勉強の目的ではありません。

他の子が、理科のプリントが欲しい、と言いだしたので、私は全員にテスト範囲の一問一答形式のプリントを渡しました。
幸い、その子もプリントを受け入れてくれたのですが、今度は手が動きません。
テスト範囲の重要事項や用語をまとめた、簡単なプリントでした。
なのに、1問も解けない様子です。
しばらくして解答を渡すと、彼女はプリントに解答を丁寧に写し始めました。
オレンジ色のペンで、丁寧に、丁寧に。
「これに赤シートをかけて、覚えるんだー」

・・・テストは明日でした。
覚えるのなら、今覚えたらいいのに。
しかも、そのプリントは、問題部分と解答欄とは別枠になっていて、解答欄を隠すか折るかすれば、すぐにテスト形式で解き直すことができるものでした。
オレンジ色のペンに赤シートをかける意味などないのです。

その子以外にも、そういう子はいます。
ピンクとオレンジのペンで正解を書いておいて、赤シートをかける。
その勉強法は間違っていませんが、それは、問題文中の空所に書き込むタイプの問題で行うことです。
解答欄が右端に別枠であるプリントならば、そんなことをする必要はないのです。
1度自分でシャーペンで書いた答を全部消して、オレンジのペンで書き直す子もいますが、プリントの形式によっては、そんなことは不要な作業。
その見極めができないようなのです。

「良い勉強法」をどこかで見たか友達から聞いたかして、実践している。
でも、その良い勉強法の何が良いのか、本質が理解できていない・・・。
そんなことを心配してしまいます。


ノートなんか作っていないで、とにかく覚えましょう。
何も覚えていない状態で問題を解いても、あてずっぽうになってしまうだけです。
まずは理解し、暗記する。
問題を解いてみる。
間違えたところをチェックして、覚えなおす。
問題を再度解く。

こういう当たり前の勉強方法を、知らない子は多いです。
あるいは、知っているのかもしれません。
でも、その勉強方法は、その子にとっては、とても苦しいのでしょう。
なかなか覚えられない自分。
問題を解けば、間違いだらけの自分。
ダメな自分。
そういうものと向き合う作業になります。

それは、どんな秀才だって、最初はそうなのです。
訓練しているから、そういう作業が速くスムーズになっているだけです。
でも、その子は、それを知らない。
あるいは、そう説明されても信じない。
そういう作業に、立ち向かえない。
逃げてしまって、頭を使わない作業ばかりしてしまう。
ほとんど頭を使っていないただの作業を「勉強」と称してしまうのです。
やけにきれいなノートを作ったり、解答を見ながらプリントに答えを埋めたりと、何か作業はしているけれど実質的な勉強はしていない子が、勉強のできない子には多いと私も思います。


また別のとき。
英語の勉強の仕方がよくわからないと高校生から質問を受け、その子のコミュニケーション英語のノートを見せてもらいました。
新課程では、英語コミュニケーションと科目名が変更されている科目です。
見た瞬間に、これは使えないノートだ・・・とため息がもれました。

まず教科書の英文をノートに3行おきに書いてあります。
その英文の真下に、和訳が書いてあります。
英文中には、学校の授業中に説明のあった文法事項や指示語の指示内容などがカラフルに書き加えてありました。

え?
良いノートじゃないかって?

・・・いいえ。
そのノートを、その後、何に使うのでしょう?
テスト前に繰り返し眺めるだけでしょうか?
眺めるだけで、どうするのでしょうか?
本当に覚えているかどうか、そのノートで確かめられるのでしょうか?

それを考えると、そのノートの体裁はベストではないのです。

ノートの見開き左側に英文。
右側にその和訳。
日本語と英語は、分けて書くほうが、使えるノートになります。

そういうノートの形式を指示しますと当たり前に感じ、「何だ、古臭いな」という声もあるかと思います。
これを古いと感じる人は、このノートの古い使い方をイメージしているのでしょう。
とにかく教科書の英文をひたすら書き写し、その和訳を右ページに書くのが英語の予習の全て。
高校の英語科目が「グラマー」「リーダー」「コンポジション」と呼ばれていた時代の、「リーダー」のノートの取り方ですね。
そして、その昔、学校のリーダーの授業は、生徒の1人に英文を1段落音読させて、続いて同じ生徒にその1段落を訳させる、眠くなるばかりの授業でした。
テストは、新出単語を書く問題の他は、本文の下線部の和訳ばかり。
あの英語の授業もテストも、つまらなくて嫌いだったなー。
あれで英語が嫌いになった。
・・・そんな声も聞こえてきそうです。

ノートはそれと同じ見た目かもしれませんが、やることは英文を見て、和訳を覚えること、ではありません。
逆なのです。
和訳を見て、教科書本文の英文を復元する作業をします。
余裕がないなら、重要表現や重要文法事項の含まれている文だけでも。
余裕があるなら、本文全文を。

テスト前だけではなく、日々、繰り返し繰り返しその作業を行っていて、英語コミュニケーションの成績が悪いわけがありません。
最も負荷がかかるけれど、最も身につく勉強です。

家庭学習で行うことは他にもあります。
教科書準拠の音源で、教科書本文の朗読を聞いて、内容が聴き取れるか確認します。
次に、その音源と一緒に音読。
最初は教科書を見ながらでもいいですが、最終的には何も見ないで後について正確に言っていけることが目標です。
それを、シャドーイングといいます。

和訳を見ながら教科書本文を書く作業も、せめて重要文だけはやっておきたいです。
それも、英文と和訳が左右に分かれているノートであるからこそ、すぐにその作業に移れます。

あるいは、新出単語のスペル練習。
これも、自分で単語テストをすぐできるように、英単語とその意味を分けて書いておくと活用しやすくなります。

学校がワークを配ってくれていたら、ありがたい。
どこが重要であるか、ワークの問題を解くことで理解できますから。

英語の家庭学習は、やるべきことが沢山あります。
しかも、これは「英語コミュニケーション」の学習にしぼっての解説であって、「論理・表現」の学習がこれにさらに加わります。

ノート作りは、家庭学習をスムーズに行うためのもの。
ノート作りが目的ではありません。
ノート作りよりも覚えたり問題を解いたりすることにこそ時間を使いたい。
だから、学校から禁止されていない限り、英文は教科書をコピーしたものをベタっとノートに貼っても良いのです。
新出単語をいちいち辞書で引くことの意義はわかるものの、それに時間を取られ、それが英語学習の全てになるくらいなら、教科書準拠の単語集を購入し、それをささっと写しても構わないと思います。
ただ、その浮いた時間で必ずその単語を覚えましょう。
品詞も含めて正確に。
派生語も覚えておくと完璧です。

私の塾では、一度本人に口頭で教科書本文の和訳をしてもらった後、私から全訳を渡しています。
学校から全訳が配られている場合も今は多いです。
英語学習に対する考えが、学校も変化しています。
調べものや単なる作業の時間をできるだけ減らし、英語をインプットし活用する時間を増やす方向に動いています。


ところが、調べものや単なる作業が「勉強」である子の中には、全訳プリントをもらえるのなら予習する必要もないから、家では英語は勉強しない・・・という方向に流れてしまう子もいます。
学校のテストでも、和訳は要求されないので、単語の意味も覚えない。
勿論、音読や暗唱といった、形に残らない勉強はしない。
学校から単語集を別に与えられ、毎週単語テストも行われているけれど、その勉強もいい加減。
英語ができなくなる方向ばかり自ら選択してしまう子も今は多いです。

日本語を見て英語を復元する学習方法は、英語学習の最初からそれをやっていれば、抵抗は少ないのです。
教科書本文は徐々に長くなっていきますが、長年の継続の中で徐々に長くなっていったものには耐えられます。
しかし、中3、あるいは高校生になって、突然この学習方法に切り替えると、最初はひどく苦しく感じると思います。
苦しいことからは逃れたい。
どうやって逃れるか?
「こんなことをやっても意味がない」と理論武装する子がいます。
本人が効果を実感し、積極的にこの学習方法を取り入れるまでは、このやり方を受け入れてほしいこちら側と、何とか否定したい生徒側との闘争が続きます。
本来、英語が得意になりたいと望んでいるのは生徒のはずですが、その生徒自身が最大の障壁となることがあります。

水は低きに流れる・・・。
嫌な物言いですが、一面真理ではあるのでしょう。
教科書全訳はちゃっかり受け取り、サブテキストの全訳もほしいと要求するけれど、その和訳から英語に直す練習はしない。
音読練習もしない。
英語を理解するのではなく、全訳を見て、書かれてある「お話」を理解して、それで英語の勉強をした気になってしまう。
初見の長文問題を宿題に出しても、「わからなかった」と言って、解いてこない。

「英語にそんなに時間はかけられないから」
とうそぶく一方、スマホを眺める時間は1日2~3時間。

時間の使い方が根本的に間違っています。
スマホをいじる1時間を毎日英語を勉強する1時間に変えるだけで、英語力は変わります。
勿論、そのときの「勉強」は「作業」ではなく、本当の勉強をしてください。


  


  • Posted by セギ at 13:04Comments(0)講師日記英語

    2022年12月16日

    英語が下手の横好きな子の課題。


    英語は数学と異なり、「下手の横好き」な子も多いです。

    数学の場合は、数学のテストの点数が低いのに数学が好きという子に出会うことはほとんどありません。
    しかし、英語は、テストの点数が低いのに英語が好きという子がいます。
    テストの点数が低く成績も良くはないのに、「自分は英語が得意だ」と思っている子に出会うこともあります。
    中学校の英語の成績は5段階の「3」なのに。
    そういう子は、ペーパーテストで得点できないことには目をつぶり、音声英語がそこそこ得意であることに焦点を絞って、自分はリスニングやスピーキングは平均以上にできるから英語は得意だと思っているふしがあります。

    「そこそこ得意」というところが重要であり、突き抜けて得意なわけではありません。
    典型的なのが、小学校の途中まで海外で過ごしていた子です。
    無論、発音はいいですし、リスニングもできます。
    でも、文法問題は間違いだらけ。
    英文を書くと、スペルミスだらけ。
    小学校の途中までの海外経験ですから、そういうことになってしまいます。

    逆に考えたらわかりやすいと思います。
    日本の小学校に途中まで通っていた外国人の子どもを想像してみてください。
    その子は、日本語を聴き取れるし、話せるでしょう。
    でも、日本語の文章をどこまで読み取れるかといったら、それは、小学校の途中くらいまでの読解力しかないでしょう。
    漢字も、小学校の途中くらいまでの漢字しか書けないでしょう。
    その後もこつこつと勉強し続けたというのでない限り。
    海外で過ごした日本人の子どもも同じことです。
    子どもの英語力なのです。

    そして、本人としては自信のよりどころであるスピーキングもリスニングも、子どもの英語力ですから、鍛えない限り、そのままです。
    日常会話には苦労しないですが、大人の話す英語ではありません。
    英語に教養を載せていくことができません。

    しかし、日本人の英語講師がこうした子を指導するのは難しいです。
    私のような日本人英語講師は、発音の正確さで負けます。
    子どもは、自分の強みを絶対のものと思いますから、そんな日本人英語講師は尊敬しません。
    こういう子の指導をするのは、外国人講師か、日本人でもネイティブ並みの発音のできる人が良いでしょう。
    そういう人にダメ出しされれば、謙虚になれる可能性があります。
    しかし、そういう講師は、スピーキングやリスニングの能力を高く評価し、ほめそやす傾向があります。
    読解力の低さや語彙の乏しさ、文法の理解不足を徹底的に突いて鍛える、ということはあまりないのです。
    そこを強くやってくださいと保護者から要求する必要が出てきます。
    定期テストで何点以上ほしい、あるいは英語のあの資格でスコアがいくつ以上ほしい、といった具体的な要求を講師に求めていく必要が生じます。
    そうでない限り、「お稽古ごと英語」の域を出ず、本人は楽しく授業を受けるでしょうが成績は変わらず、ということになりかねません。


    もう1つ厄介なのが、キッズ英会話教室に通って英語が得意なつもりでいる、「もどき」な子どもたちです。
    本物の帰国生ほどのスピーキング能力もリスニング能力もないのですが、なぜか「英語は得意」という自信だけはゆるがない子たちです。
    小学生で英検3級に合格し、中1の1学期の英語の成績は5段階で「5」だったけれど、それ以後はパッとしない子たちです。
    英語も学校で学習する教科の1つなので、結局、勉強ができる子が英語もできるようになっていきます。
    そうした子たちに簡単に追い抜かれていくのですが、本人はなかなかそれを認めません。
    認めたくないことは認めない。
    そんな事実は存在しないかのようにふるまいます。
    学校の英語の成績が「3」なのは、多分、授業に積極的に参加していないから。
    英語の先生に嫌われているのかもしれない。
    英語力以外のよくわからない観点で評価されているから「3」なだけで、本当は私は英語ができる。
    そんなふうに思っている子もいます。
    ・・・いや、そもそも中学の定期テストの点数が80点未満では、「4」なんか取れませんよ?

    英文の精読や、文法事項の学習、単語のスペル練習には興味を示さない。
    子ども向けの英語のYouTubeを見るのが英語の勉強。
    ・・・それが楽しいのなら別に止めませんが、それだけでは、ペーパーテストの得点は上がりません。

    学校の英語の成績は「3」だけど、英検準2級は落ちたけど、私は本当は英語ができる!

    そんな、訳のわからない「無冠の帝王」みたいな感覚でいられても。
    それ、英語ができるとは言わないですよ。
    いつまでもいつまでも日常会話の英語にとどまって、それについては得意意識があって、それが本人の思う「本当の英語」。

    ・・・「本当の英語」って何なんですかね?

    知らない単語の意味は、そのときに覚えてくれたらそれでいいですが、日本語に直しても意味を理解できない子もいます。
    例えば環境問題に関する文章。
    「温室効果」と日本語にしたところで、その言葉の意味がわからない。
    「温室効果ガスが熱を吸収し、大気に向けて放出するので、地表の気温が下がらない」という文の意味がわからない。
    また、「オゾン・ホール」の意味がわからない。
    温室効果ガスとオゾン層を同じものだと思っている・・・。

    最近のテストは、表面的な英文の字面だけで正解が出せるような出題は減っています。
    本文の内容を受けての4択問題は、本文に書いてある内容を別の言葉で言い換えたものが正解であることが多いです。
    しかし、本文の内容がそもそも理解できないのに、それを別の言葉で言い換えられても、理解できるはずがありません。
    だから、本文と同じ表現を使っている選択肢に簡単に騙されて、誤答を繰り返す子もいます。

    それでも、私は、本当は英語ができる!

    ・・・え?
    どこらへんが?

    しかし、そうした子たちの鼻っぱしらを折ったところで、良い効果があるわけでもありません。
    この先生も、私の英語力を認めない種類の人間か。
    そのように思われてしまうだけです。
    誰が見たってあなたに英語力はないぞ、と言っても、話は通じません。
    だから、ほめもせず、くさしもしない。
    そして、正解を出すべきレベルの問題をひたすら解かせます。
    その子が、できない言い訳を必死にするのも、笑顔でスルー。
    はいはい、とにかく問題を解きましょう。
    あなたがなぜ間違えたのかを解説しますから、それは聞きなさい。
    言い訳で頭の中をいっぱいにしていないで、私の話を聞きなさい。

    そうやっていると、少しずつですがペーパーテストの得点が上がっていきます。
    英文を読むことで教養を獲得し、英文を読むことで思考を深める。
    そうしたことが可能になっていく子もいます。

    あんなに愚かそうに見えた子が、今、目の前で静かに英文を読んでいる。
    その表情にうかがえる知性。
    そうして、こうなってみれば、その子のスピーキング能力とリスニング力は、本当にその子の強みなのです。

      


  • Posted by セギ at 12:15Comments(0)英語

    2022年12月13日

    中3数学。「相似」か「三平方の定理」か。


    問題 上の図は、長方形ABCDの紙を、頂点Dが辺BC上にくるように折り返したものである。辺BC上の点Fは、頂点Dが移った点、AEは折り返し目の線である。AD=15、DE=5のとき、ABの長さを求めよ。

    この問題は、難問の部類に入ると思います。
    中学生は、三平方の定理を学ぶと、直角三角形を見ればすぐに三平方の定理というように、発想が固定化されがちです。
    頭が固い。
    発想の幅が狭い。
    そのあげく、角度の指定などは一切ないのに、見た目が少し似ているというだけで、30°、60°、90°の特別な比の直角三角形を使って解いてしまうことさえあります。
    そうであってほしいという願望が見せる幻なのでしょうか?

    しかし、この問題は、三平方の定理だけで解くことはできない問題です。
    これは、「相似」の問題なのです。

    しかも、これは段階を踏んで解いていかなければならない問題です。
    そして、多くの中学生は、段階を踏んで解いていく問題が苦手です。
    論理を追えないのです。

    複雑な問題を解く方法は大きく分けて2通り。
    ①今、わかることは何かを考えて、とりあえずそれを求めていくうちに問題がほぐれてくる、という解き方。
    ②答を出すためには、何の値が必要であるかを考えて、そこから、逆に逆にさかのぼっていく解き方。

    数学が苦手な子は、①ができません。
    「今、わかることは何かな?」
    と問いかけても、
    「わかることはない」
    と答えてしまいます。
    小学生の頃のように、問題を読んだら、ぱっと解答への筋道が見えるのが問題を解くということだという意識が強いせいなのか、答とは関係ないけど、とりあえず求められるものを求めるということが、そもそもよくわからない。
    「これを求められるでしょう?」
    と言われたときに、反応は2つ。
    「何だ、そんなのでいいのか」という反応。
    「え、そんなのが求められるなんて思わなかった」という反応。

    この場合、「何だ、そんなのでいいのか」という感想の子のほうが、正解に近いような印象がありますが、実際には、まだまだはるかに遠いのです。
    「そんなのでいいのか」と思うということは、本人の判断基準に誤りがあるということ。
    正解への道をわざわざ除外するような発想しかできないということ。
    こういう考え方の癖は、なかなか治らないです。

    そして、数学が苦手な子は、②もできません。
    論理的思考ということがそもそも苦手で、解説を聞いても、何の話をされているのか、理解できない。
    AならばBで、BならばCである。
    だから、AならばCである。
    こうした単純な論法すら、なかなか理解できないようです。
    間にBを挟むということが、理解できないのです。
    なぜBを挟まなければならないのか、わからない。
    だから、直接答に至る解き方以外は理解できない。


    今回は②の解き方で上の問題を解いてみましょう。

    求めるものは、ABの長さです。
    では、ABを1辺としてもつ三角形と、それと相似なもう1つの三角形があるのではないか?
    そうした発想で図を見てみると、ありますね。

    △ABF∽△FCE
    相似比は?
    対応する辺で長さがわかっているのは、
    AF:FE=15:5=3:1
    です。

    問題を解く際に証明は必要ありませんが、なぜ相似なのかわからない人のために、証明を以下に書きます。

    △ABFと△FCEにおいて
    ∠B=∠C=90° ・・・①
    また、
    三角形の内角の和は180°なので、
    ∠BAF=180°-∠B-∠BFA=180°-90°-∠BFA=90°-∠BFA
    1直線は180°なので、
    ∠CFE=180°-∠C-∠BFA=180°-90°-∠BFA=90°-∠BFA
    よって、
    ∠BAF=∠CFE ・・・②
    ①、②より、
    2組の角がそれぞれ等しいので、
    △ABF∽△FCE

    この、角度の引き算から等しいことを示すパターンは、多くの証明問題で使います。
    証明問題は「仮定」と「共通」しか使えない子。
    「対頂角は等しい」「平行線の錯角は等しい」などのよく使う定理だけはどうにか使える子。
    そうした子たちと差をつける出題で、これだけで、1段階、問題のレベルが上がります。

    ともあれ、証明はできなくても、多分相似だろうという感覚だけでも、この問題を解くことは可能です。
    問題に戻りましょう。
    △ABF∽△FCE
    相似比は?
    対応する辺で長さがわかっているのは、
    AF:FE=15:5=3:1

    ここで、AF=15、FE=5に気がついていない場合もあります。
    これは、中学受験の算数の問題でもそうですが、図形の折り返し問題では、折り返す前と折り返した後は、辺の長さも角度も変わらないということを理解していない子が一定数います。
    気がついていないだけで、言われればわかる子もいますが、言われてもわからない子もいます。
    「折り返したら長さが変わるのだったら、折り紙なんかできないでしょう?」
    と話すと、ああそうかと思う子もいますが、それも何のことかわからない様子でぼんやりしてしまう子もいます。

    当然そうなるだろうことが、あまり理解できないようなのです。
    こういうことは、子どもの頃に知育玩具を与えればどうにかなるというレベルのことではないと思います。
    ものを考える子は、折り紙1枚でも、何かを考えながら折ります。
    ものを考えない子は、知育玩具を与えられても、力任せに遊ぶだけで、知的な発達はありません。
    そして、ものを考えるか考えないかは、生まれつきの場合か、そうでなければ周囲の大人がものを考える方向に仕向けなければならないのだと思うのです。
    与えときゃ大丈夫、というわけにはいかないのです。

    ものを考えないというよりも、発想の幅が狭いのかもしれません。
    あるいは、予見性が低い。
    こうするとどうなる、と論理的に考えない。
    そういうことでもあるのかもしれません。

    それは大人でもそうで、例えば、エレベーターを待っているとき。
    ドアの開いたエレベーターに誰も乗っていない様子なので入ろうとすると、ドアの影からふいに人が出てきて驚くことがあります。
    エレベーターのドアは、横に順に開いていきます。
    そして、ドアが吸い込まれていく方向に、大抵、開閉ボタンがあります。
    そこの開閉ボタンを押したまま、その位置でずっと乗っている痩せた女性などは、かなりドアが開かないと存在が見えない。
    ドアが完全に開くまで私は一歩下がって待ち、中の様子を見てから入るのですが、それでも、「大丈夫そう」と思った瞬間に出てくる痩せた女に恐怖の叫びを上げそうになるときがあります。
    心臓に悪いから、本当にやめてほしい。
    エレベーター内では、ドアが開いてすぐ見える位置に立って待つということが、なぜできないのか?
    本人も、エレベーターから出ようとしたら、自分が出るより先に入ろうとする人がいて、不快な思いをすることが多いのではないか?
    それは、相手が失礼なのではなく、自分の立ち位置がおかしいのだという発想を1度でも抱いたことはあるのでしょうか。
    このタイプの痩せた女に、私はいくつものエレベーターで出会ってきました。
    特定の誰かというのではなく、そういう人がかなりいるということなのだと思うのです。

    一方、エレベーターを待っている側も、スマホを見ながら待っていて、ドアさえ開けばスマホに目を落としたまま入ってくるという暴挙に出る人もいます。
    中に人が乗っているという発想がないのでしょう。
    一度でも、中から出てくる人とぶつかりかけて、あ、まずいと感じたことはないのか?
    感じたら、以後はやめないか?

    こうしたことを見る度に、世の中の大人にも予見性の低い人、論理的にものを考えない人はいると感じるのです。
    交通事故も、避けられなかった種類のものもあるでしょうか、こうした予見性の低い人がやらかしてしまう事故も多いと思うのです。
    子どもだけを責められるわけではないのです。


    問題に戻りましょう。
    △ABF∽△FCE
    ならば、相似比は?
    対応する辺で長さがわかっているのは、
    AF:FE=15:5=3:1

    よし、これでいけますね。
    AB=x とおく。
    相似な三角形の対応する辺だから、
    FC=1/3x
    四角形ABCDは長方形だから、
    AB=CD=x
    よって、CE=x-5
    相似な三角形の対応する辺だから、
    BF=3(x-5)

    よし、これで求められます。
    x についての方程式を立てることができますね。
    BC=AD=15 です。
    また、
    BC=BF+FC です。
    よって、
    3(x-5)+1/3x=15
    3x-15+1/3x=15
    3x+1/3x=30
    9x+x=90
    10x=90
    x=9
    よって、AB=9 です。

    これは、最後の方程式を求める部分で、三平方の定理を使うこともできます。
    △ABFにおいて、三平方の定理より、
    x^2+3(x-5)^2=15^2
    という式を立てれば求められます。
    2次方程式になる分だけ計算が面倒なので勧めませんが、それしか発想できなかったのならそれでいいと思います。

      


  • Posted by セギ at 14:45Comments(0)算数・数学

    2022年12月09日

    伸びる学習、伸びない学習。


    少し前から、勉強が苦手な子たちの中に、会話が成立しない子が増えていると感じてきました。
    根本の学力が低いというのではないのです。
    ただ、言語能力は低い。
    人の話を聞くのが苦手で、まだらにしか話を聞いていない様子で、解説を理解できないのです。
    それでいて「わからない」と言うこともできない様子です。
    さあ問題を解いてみましょう、と声をかけると、慌ててテキストの例題解説を読んでいたりします。
    「今、解説しましたよね」
    と言いたいのを我慢して様子を見ていると、例題解説を読むのにも苦労している様子です。
    文字を読むのも苦手で、テキストの解説や例題も、斜め読みや飛ばし読みしかできない。
    学習にアクセスする手段を本人が持たないのです。
    問いかけても、こちらが期待するような返事はなかなか返ってきません。

    だから、1度は普通に解説をし、さて問題を解くという段になって、本人がテキストの例題解説を読んでも理解できずに首を傾げるようになってから、ゆっくり問いかけます。
    「もう1度解説しましょうか?」
    それに対しても、反応があるまで時間がかかります。
    本人なりに悩んでいるのでしょう。
    例題解説を読めば理解できるのか、理解できないのか。
    その判断も上手くできない。
    もう1度解説を聞いたら理解できるのか、理解できないのか。
    それも判断できない。
    しばらく待ってから、返事はないままもう1度解説します。
    それでも、理解できないこともあります。
    さらにもう1度解説します。
    2度手間、3度手間は、今は普通のことです。
    それでも、理解してくれれば上出来なのです。

    例えば、中3数学の「三平方の定理」をなかなか理解できない子がいました。
    説明しても理解できない。
    本人がテキストの解説を読んでも、理解できない。
    普段から言葉が通じにくいとは感じていましたが、三平方の定理を理解できないというのはかなり珍しいので、どうしたものかと思案していると、本人が突然叫びました。
    「あ、直角三角形?」

    いやいやいや。
    最初に強調して説明しましたよ?
    途中でも、何度もそう言いましたよ?
    何で聞いていないの?

    最初に聞き逃して、勘違いしてしまうと、後は音声情報も文字情報も本人に届かず、なかなか訂正できないようなのです。
    まだらにしか聞いていないので、常に誤解しやすい。
    これは大変だ。

    言語的アプローチが難しい。
    そういう子たちのために、マンガや動画を多用した教育ツールや、ゲーム感覚で勉強できるアプリなどが作られるのは結構なことだと思いますが、さて、その先、その子たちはどうするのだろうと考えると気持ちが暗くなります。
    就職した先で、上司は、マンガや動画で面白おかしく仕事を説明してくれるのだろうか?
    アルバイトならば、そういう研修もありそうだけれど・・・。
    ・・・所詮、アルバイトしかできない人材だということ?
    人の話を聞けないし、文書も読めないのだから、それは仕方ないことなのか・・・。

    しかし、人の話を聞けないし、文書も読めないのは事実ですが、辛抱強くアクセスし、本人が理解できれば、どの科目の問題も解くことができるのです。
    頭が悪いわけではないのです。
    これは、勿体ない・・・。
    そういう生徒を目にするにつけ、やはり根本の、人の話を聞くことができて文書を読めるようにすることが必要だと思うのです。
    その補助として他のツールを活用するのは、それは良いことですが。


    言葉が通じにくいということは、授業態度の貪欲さにも影響するようです。
    「これはテストに出ますよ」
    そのように言えば、秀才たちは食いついてきます。
    しかし、言葉の通じにくい子たちは、興味なさそうなのです。
    相手の言葉が理解できないという面の他に、相手の言うことを理解できても重視しないという面もあるのかもしれません。
    言葉が通じにくいからなおさらそうなるのかもしれませんが、本人の中で何か完結しているような気配があります。

    「テストに出る」というのは、その学校の定期テストの過去問を集めて分析して、といったちまちました対策ではありません。
    大事なことがテストに出る。
    絶対に身につけるべきことがテストに出る。
    そういう観点で話しています。
    その上で、出題傾向というものもありますから、短問形式はこういう内容が出ることが多いからそれは沢山練習して、後半の大きい問題はこの典型題か、もしくはこれだろうから重点演習して、というやり方をしています。
    それでも、興味なさそうなのです。

    私の言うことを信用していないからなのか?
    これは半分はそうで、半分はそうではないのではないかと思います。

    私が「テストに出るよ」といった問題が実際に出て、
    「ほら、この問題がやっぱりテストに出たでしょう」
    と言っても、愛想笑いはしますが、その次のテストでは、また同じことの繰り返し。
    証拠を示したところで、信用するわけではないのです。

    言葉が通じにくい子、勉強ができない子にも、テスト対策に対して、それなりの持論はあります。
    言葉で上手く説明することはできないでしょうけれど、漠然と思っていることはあるはずです。
    その「持論」が頓珍漢だからテストの点数が低いのですが、本人はその「持論」を変えるつもりがない。
    だから、その「持論」とは相容れない私の「テストに出るよ」は受け入れない・・・。
    そういうことではないかと思うのです。

    例えば、本人にとって非常に難しいと感じる問題は、
    「難しいから、こういうのはテストに出ない」
    という持論。

    前にも話しましたが、例えば高校数学で、x 以外の文字が多用されているような問題は、
    「こんなのは自分の思う数学ではないから、テストには出ない」
    という持論。

    もっとも恐ろしい「持論」は、本人は、自分のことをそれほど勉強ができないとは思っていない・・・。
    だから、改善する必要はない。
    自分の考えていることが正しいのだという「持論」。

    伸びない子は、
    「自分はどうせ勉強はできない」
    と諦めている子ばかりではありません。
    現実を直視せず、
    「自分はそれなりに勉強はできる」
    と思っている子のほうが今は多いように感じます。
    だから、「持論」を捨てられないのではないか?
    言語によるアプローチの難しい子たちも、自分の能力を低いとは思っていないようです。
    むしろ、日本中の同学年全体の中では上の下くらいには位置していると思っているのかもしれません。
    言語能力の低さは自己評価の低さにはつながりません。

    ただ、現在の本人の、
    「自分はそれなりに勉強ができる」
    は誤解ですが、将来その子が伸びる可能性があるのは事実です。
    妄想を現実に変えていくには、では、どうしたらよいのか?

    変な癖はある。
    だが、理解力もある。

    言語能力の低さを改善したいという要求すら本人にはない。
    しかし、これは何とかしなければまずい。
    頭の働き自体はむしろ良いほうかもしれず、それだけは事実なのですから。
    手さぐりしながら、その子が取るべき本来の得点を取ってもらう。
    そのように努力している途中です。

    そう簡単なことではありません。

    伸びる子の指導は楽なんです。
    例えば、今、うちの塾で圧倒的に数学のできる子は、入会当初は、判別式のD/4を使えませんでした。
    「全部 Dでやればいいかと思って」
    「・・・うん。でも、D/4で計算したほうが数字が小さくて済むので計算が楽ですし速いですよ」
    そのような会話を1度交わしました。
    その次の授業からは、その子は、D/4を完全にマスターしていました。

    1度の助言で完全マスター。
    これほど楽なことはありません。
    一方、言語能力が低く、成績がなかなか伸びない子たちは、一様に、D/4を覚えません。
    助言をしても覚えないし使わないのです。

    Dで計算しても、いいんです。
    それが間違いなわけではないんです。
    でも、D/4で計算したほうが楽だし速い、という助言を聴き流す子たちは、一様に数学が苦手です。
    D/4の公式を覚えることがつらくて、覚えられないのか?
    Dでも済むものを、D/4までいちいち覚えるのは無駄だと独自の判断をしてしまうのか?
    そんなのどうでもいいやと聴き流してしまうのか?
    使ったほうがいいとは理解しているが、問題を解くときになると忘れてしまってDを使ってしまうのか?
    D/4で計算したほうが楽だし速い、という解説を、そもそも聴いていないか理解していないのか?

    ことはD/4の話に限りません。
    これは氷山の一角です。

    言葉が通じにくい。
    そもそも理解するのに時間がかかる。
    そして、理解しても、受け入れない。
    助言を聞き入れない。

    助言が結局すべて言語による伝達であることを思うと、言語能力に課題のある子の指導の難しさを改めて思います。
    私がアニメキャラクターになって、
    「D/4を使える子は、数学の成績が上がるよ」
    とアニメ声で伝えれば、彼らの心に届くのでしょうか。
    いやいやいや・・・。


      


  • Posted by セギ at 14:10Comments(0)講師日記算数・数学

    2022年12月01日

    算数・数学。比例配分のちょっとした難問。


    今回は、比例配分に関するちょっとした難問を解いてみます。
    こんな問題です。

    問題
    80枚の色紙を姉と妹で分けました。姉が10枚を友達にあげたので、姉と妹の色紙の枚数の比は3:2になりました。姉と妹は、はじめどのような比で色紙を分けましたか。

    まずは小学生としての解き方から。
    受験算数的に解くと。
    これは、線分図を描くことを苦にしない子なら、何でもない問題です。
    比例配分の場合、線分図は1本でも、2本描いても、間違いではありません。
    「分配算」という定形の問題としてとらえれば、線分図は2本描きます。
    今回は1本の線分図で考えてみましょう。
    まず、全体が80枚であることを端から端までで示します。
    姉が10枚を友達にあげたので、右でも左でも、どちらでもいいですから、10枚をとりのぞきます。
    今回、姉が左側と考えるほうが自然なので、左から10枚取ると見やすいでしょう。
    その残りを3:2に分けます。
    ③+②のあわせて⑤が、80-10=70(枚)であることが、見てとれます。
    ①にあたる量は、70÷5=14
    ③は、14×3=42
    ②は、14×2=28
    ただし、③である姉は、本当は友達にあげた10枚分多く持っていたのですから、
    姉は、42+10=52(枚)
    妹は、28枚。
    よって、はじめの比は、
    52:28=13:7
    答は、13:7 です。

    このように解くならば、
    「え?この問題の何が難しいの?」
    と感じる人も多いと思うのですが、描けそうで描けないのが、線分図です。
    どれだけ教えこんでも、何だか頭の奥まで沁みていっている気配がなく、型通りの問題を型通りに解くことにしか線分図を使えない子は受験生でも多いです。
    線分の長さが何かの数量を表しているという根本を理解できていないのかもしれません。
    あるいは、算数の問題を解くということは解き方の手順を覚えることだと思っているので、今までと少し見た目の違う問題は、手順がわからず、だから解けないということになってしまう子も多いです。
    和差算などの定型の問題を定型の線分図を描いて解くことしかできないのです。
    「線分図を描いて考えてみたら?」
    と声をかけても、
    「描き方がわからない」
    という答が返ってきます。

    そうした子たちは、線分図を描いたからこそ解けた、という体験がないのだと思うのです。
    問題を解くだけでも難しいのに、線分図を描くという苦役まで加わっている・・・。
    そのような感覚しかないのだと思います。

    算数の問題は、自分で解き方を考えるもの。
    その補助をしてくれるのか線分図です。
    しかし、そうした発想のない子は多いです。
    算数は、とにかく解き方を覚えるもの。
    線分図も描き方を覚えるもの。
    だから、見たことのない問題なんか解けるわけがない。
    暗記、暗記、暗記。
    作業手順の暗記。
    そういうことになってしまっている受験生が実際には多いのです。
    昔は中学受験を考えなかっただろう学力層の子が今は受験することが増えていますから、そういう実態になっています。

    といっても、諦める必要はありません。
    そのように努力している受験生を受け入れるための入試問題を作っている中学もあるので、それで合格できます。
    見事に定型の基本問題が並んでいる入試問題。
    これができないのは、努力不足。
    暗記し反復練習した子なら、解ける。
    そういう入試問題です。

    そんな中学に入っても・・・と思う必要もないと思います。
    同じ学力の子がそろっている中学でのびのび学習する中で、何かの拍子に数学が理解できるようになるという可能性もゼロではないからです。
    そのような学校は、中学でも高校でも、学校が沢山の課題を出して、勉強の面倒を見てくれます。
    それにそってこつこつ真面目に勉強していれば、それなりに何とかなる。
    そういう私立は多いです。


    ところで、中学受験をしない小学生でも、6年生になれば「比」は学習します。
    上のような比例配分の問題も、公立小学校でも学習しますが、単元の最後の応用問題という扱いで、理解できないまま終わる子も多いところです。
    これが理解できないと、中学で比を活用できないのに・・・。
    そう思うのですが、小学校の算数で学びそこねてしまうのです。
    今、上の問題を簡略化してみましょう。
    「70枚の色紙を姉と妹に3:2に分けました。姉は何枚もらったでしょう」
    という問題に変えてみます。
    それでも解けない子はいます。
    教科書に載っている例題の解き方、そして、勿論、中学・高校で活用するために私も推奨する解き方は、
    70×3/5=42(枚)
    です。
    でも、この解き方ができないのです。
    70÷3
    といった、よくわからない式を立ててしまうことが多いです。
    70×2/3
    という式もよく見ます。

    公立小学校でも、5年生で「割合」は学習していますから、
    もとにする量×割合
    という式は使えるはずなのですが、「割合」を理解できないまま忌避し、2度と使うつもりがない気でいる6年生は多いです。
    「割合」は、一生使うんですよー。
    中学でも高校でも、多くの単元で使うんですよー。
    そういう私の声が、呪いに聞こえることもあるかと思います。

    「3:2のうちの3ということは、5個に分けたうちの3個分。それは、全体の3/5ということですよね」
    という説明がすっと頭に入る子と、よくわからないまま迎合してうなずく子と。
    「全体の3/5ということは、全体×3/5ということです」
    という説明がすっと頭に入る子と、全く理解できないまま、わかったふりをしてうなずく子と。

    わからないときに、
    「わからない!」
    と声を上げることができれば、形勢は逆転するのに、それができない。
    諦めて、丸暗記しようとする子がいます。
    学校の授業では、ある意味仕方ないかもしれません。
    理解できる子たちの邪魔になりますから。
    冷たい視線を浴びるでしょう。
    わかったふりをしているほうが安全。
    それが習い性になり、個別指導でも、わかったふりをするのでしょうか。

    「3:2のうちの3ということは、5個に分けたうちの3個分。それは、全体の3/5ということですよね」
    という説明が理解できないとなると、これはもしかしたら分数の意味が理解できていないのではないかという疑いがあり、もし生徒に「わからない」と言われれば、ここからは私の闘いです。
    本当に根本的なことほど、全く理解できていない子は存在します。
    ほおっておけば、そのまま、中学生になり、高校生になります。
    どういう説明をすれば、その子は理解できるのだろう?

    一方、
    「全体の3/5ということは、全体×3/5ということです」
    この説明が理解できない子は、「割合」が理解できていない子です。
    そして、それは仕方ない面もあります。
    もとにする量×割合
    という公式に、実は、意味はありません。
    比べられる量÷もとにする量=割合
    という公式を変形しただけだからです。
    だから、子どもがそれを実感できないのは当然のことです。
    何でかけ算なの?
    そう思う子がいても当然です。

    「速さ」の公式を、「速さの3公式」と呼ぶのに対し、「割合」の公式は「割合の3用法」と呼びます。
    速さの3本の公式は、それぞれ意味を伴っていますが、「割合」の公式で意味があるのは、1本目だけです。
    あとは、その1本を変形しただけの式。
    運用上の式です。
    だから、「割合の3用法」と呼びます。

    もとにする量×割合=比べられる量
    この式は、実感をともなうものではないので、理解できないことはそんなにおかしいことではありません。
    大人は、それが実感だと誤解するほどにこの式を長年使い倒してきただけのことです。
    本当に本当のところで、実感はありません。

    70の2個分を求めるなら、70×2。
    だから、
    70の3/5を求めるときも、70×3/5。

    この説明ですっと納得する子は、数学センスのある子です。
    整数で言えることは、分数でも言えるんだー。
    そういう仕組みになっているんだー。
    システム、すげー。
    算数・数学すげー、と感動できる子です。

    「分数はまた話が別なんじゃないの?」
    と思う子がいても仕方ありません。

    70の3/5ということは、70を5つに分けた、その3個分。
    70÷5×3
    =70×1/5×3
    =70×3/5

    こういう説明が理解できる子は、さらに数学センスのある子です。
    分数に関する式の操作は意味がわからない子のほうが多いです。

    もう諦めて暗記して、実感がもてるようになるのを待つしかないのか?
    理解できなくても、正しい解き方を暗記して、それを利用し続け、いつか実感になるのなら、それでもいいのかもしれません。
    でも、理解できないまま、間違った解き方を繰り返し、それが頭に残って、永久に間違い続ける子もまた多いのです。


    問題に戻りましょう。

    問題
    80枚の色紙を姉と妹で分けました。姉が10枚を友達にあげたので、姉と妹の色紙の枚数の比は3:2になりました。姉と妹は、はじめどのような比で色紙を分けましたか。

    受験をしない小学生にとっては、これは、「比」の学習の中での最高難度の問題です。
    線分図の描き方など、習ったことがありません。
    さて、どう解くか?

    それでも、問題の意味を深く理解できる子なら、解けるのです。
    姉が友達にあげた10枚を除外して考えるという発想さえもてるならば。
    姉と妹の色紙の枚数の比が3:2になっているとき、全体は、
    80-10=70(枚)
    あとは、比例配分で、姉は、
    70×3/5=42
    でも、姉は本当はもう10枚持っていたのだから、
    42+10=52
    一方、妹の枚数は、
    70×2/5=28
    でもいいし、
    80-52=28
    でも求められる。
    よって、その比は、
    52:28=13:7



    最後に、これを中学生の1次方程式として解きましょう。
    はじめの姉の枚数をx枚としましょう。
    すると、妹は、(80-x)枚。
    しかし、姉は友達に10枚あげましたから、今持っているのは、(x-10)枚。
    これで比例式を立てます。
    (x-10):(80-x)=3:2
    内項の積=外項の積 であることを利用して、方程式に直します。
    2(x-10)=3(80-x)
    2x-20=240-3x
    5x=260
    x=52
    よって、妹の枚数は、80-52=28(枚)
    はじめの比は、
    52:28=13:7

    となります。
    同じ答になりました。
    中学1年生の1次方程式の文章題としても、これはある程度の難度の問題です。

      


  • Posted by セギ at 14:45Comments(0)算数・数学