2020年01月29日
高校英語。比較表現。as~as ever , as~as any
高校英語の比較表現。
今回は、as~as ever ・・・ と、 as~as any ・・・です。
これは、内容的にはシンプルですが、意味の取り方や訳し方が難しいかもしれません。
(1) as~as ever. と、ever で終わり、その後に語句がない場合は、「相変わらず~」という意味です。
My aunt is as kind and obliging as ever.
私の叔母は相変わらず親切で世話好きです。
She looks as cheerful as ever.
彼女は相変わらず元気そうだ。
これは、わかりやすいですね。
(2) as~as ever ・・・.
「これまで・・・した誰にも劣らず~」という意味になります。
I love you as truly as ever a man loved a woman.
ぼくはあなたをこよなく愛しています。
「これまで男が女を愛してきたその誰にも劣らず、真実あなたを愛している」という意味です。
He is as clever a man as ever lived.
彼は、きわめて頭のよい男だ。
「人類史上今まで生きてきた男の誰にも劣らず頭のよい男だ」という意味です。
本来の意味をどう日本語訳に反映させるかで悩む人もいるようですが、とにかく強めに表現しておけば大丈夫で、この訳し方でなければ不正解というものではありません。
「きわめて~」という訳し方で大体の場合は乗り切れるでしょう。
あるいは、語順がよくわからないという心配もあるかと思いますが、何を強調するかをよく考えて、そこを as と as で挟んだら、それ以外はいつも通りの語順です。
特に、2つ目の例文の as~as ever lived の形は覚えておくと使いまわしが利いて便利だと思います。
(3) as~as any ・・・.
「他の・・・にも劣らず~」という意味になります。
これも「きわめて~」という訳で大体の場合は乗り切れます。
He is as honest as any man I know.
彼は、きわめて正直な男だ。
「私の知るどんな男と比べても劣らず正直だ」という意味です。
This pen is just as good as any I've ever used.
このペンはきわめて良い。
「今まで使ったどのペンにも劣らず良い」という意味です。
any 以外の用法もあります。
The district round London in spring and summer enjoys a sun as bright as anywhere in Japan.
ロンドンの周辺地区では、春と夏には日本のどこにも劣らずきわめて明るい太陽が楽しめます。
何となく難しいし、学校の文法テキストを見ても、例文が1つあればましなほうで、載っていないこともある。
こういう表現が、むしろ大学入試では狙われやすいです。
勿論、大学によっては、とにかく基本だけは理解している生徒に入学してほしいという意図で入試問題が作られている場合もあります。
一方、どのように重箱の隅をつついて大多数の生徒を落とし、本当に勉強している生徒だけを入学させるかを狙っているような入試問題もあります。
自分が入りたい大学の入試問題のレベルを早めに知っておき、そこを目指して勉強していくと励みになると思います。
今回は、as~as ever ・・・ と、 as~as any ・・・です。
これは、内容的にはシンプルですが、意味の取り方や訳し方が難しいかもしれません。
(1) as~as ever. と、ever で終わり、その後に語句がない場合は、「相変わらず~」という意味です。
My aunt is as kind and obliging as ever.
私の叔母は相変わらず親切で世話好きです。
She looks as cheerful as ever.
彼女は相変わらず元気そうだ。
これは、わかりやすいですね。
(2) as~as ever ・・・.
「これまで・・・した誰にも劣らず~」という意味になります。
I love you as truly as ever a man loved a woman.
ぼくはあなたをこよなく愛しています。
「これまで男が女を愛してきたその誰にも劣らず、真実あなたを愛している」という意味です。
He is as clever a man as ever lived.
彼は、きわめて頭のよい男だ。
「人類史上今まで生きてきた男の誰にも劣らず頭のよい男だ」という意味です。
本来の意味をどう日本語訳に反映させるかで悩む人もいるようですが、とにかく強めに表現しておけば大丈夫で、この訳し方でなければ不正解というものではありません。
「きわめて~」という訳し方で大体の場合は乗り切れるでしょう。
あるいは、語順がよくわからないという心配もあるかと思いますが、何を強調するかをよく考えて、そこを as と as で挟んだら、それ以外はいつも通りの語順です。
特に、2つ目の例文の as~as ever lived の形は覚えておくと使いまわしが利いて便利だと思います。
(3) as~as any ・・・.
「他の・・・にも劣らず~」という意味になります。
これも「きわめて~」という訳で大体の場合は乗り切れます。
He is as honest as any man I know.
彼は、きわめて正直な男だ。
「私の知るどんな男と比べても劣らず正直だ」という意味です。
This pen is just as good as any I've ever used.
このペンはきわめて良い。
「今まで使ったどのペンにも劣らず良い」という意味です。
any 以外の用法もあります。
The district round London in spring and summer enjoys a sun as bright as anywhere in Japan.
ロンドンの周辺地区では、春と夏には日本のどこにも劣らずきわめて明るい太陽が楽しめます。
何となく難しいし、学校の文法テキストを見ても、例文が1つあればましなほうで、載っていないこともある。
こういう表現が、むしろ大学入試では狙われやすいです。
勿論、大学によっては、とにかく基本だけは理解している生徒に入学してほしいという意図で入試問題が作られている場合もあります。
一方、どのように重箱の隅をつついて大多数の生徒を落とし、本当に勉強している生徒だけを入学させるかを狙っているような入試問題もあります。
自分が入りたい大学の入試問題のレベルを早めに知っておき、そこを目指して勉強していくと励みになると思います。
2020年01月27日
絵に描いたような失敗。
授業中に小学生の宿題を見ていたときのことです。
その子は、長期の休み中の講習に参加しませんでした。
随分長い間授業をしないことになりますから、学力が下がるのは想定していました。
その分、沢山の宿題を出したとしても、休み明けの授業でその大量の宿題の答えあわせをするのは難しいのです。
ほとんどが正解であるならば、20ページくらいの宿題を出すことも可能ですが、半分は誤答であるなら、その宿題の答えあわせと解き直しをするのに、3~4回の授業が必要になります。
休み中の宿題の解き直しをしている間に、学校の授業はひと月も先に進んでしまいます。
それでも、特に計算力が心配な子でもありましたので、分数の加減乗除の問題がぎっしり詰まっている計算プリントを休み前に2ページ渡しました。
休み明け、その子は、その宿題の半分を解いてきませんでした。
言い訳は、
「昨日、頭が痛かったから」
・・・はあ?(''Д'')
休みはたっぷりありましたよね?
何で、長い休み中の宿題を、塾の前日に解くの?
塾の前日、たまたま頭が痛かったから、宿題はできなかった。
そういう言い訳が通用すると、何で思っているの?
しかし、そんなことも想定内のことでした。
勉強が苦手な子が長い休みの間に塾に来ないということは、そういうことです。
うちは、大手の塾のような積極的な電話勧誘や、休み前に個別面談の時間を作って講習参加への営業を行う、ということはありませんので、休み中の講習に参加しようとしない子は、そのままになってしまいます。
ただ、休み中に全く講習に参加しない例は珍しく、最低でも週1回の通塾ペースは保ってくださる方がほとんどですが。
さすがに、受験生なのに講習に参加しないという異常事態が起こった場合は理由を尋ね、解決に向けて努力しますし。
さて、宿題の残り半分は翌週までの宿題ということにして、とにかく演習を始めると、その子は、2桁のたし算・ひき算が上手く出来ないのでした。
式は正しいのですが、計算が合わないのです。
特にひき算。
繰り下がりのあるひき算ができなくなっていました。
筆算の上の数から下の数を引けない場合、下から上を引いていました。
例えば、93-47=54 としてしまうのです。
・・・これは想定外でした。
何でここまで計算力が落ちるんだろう?
計算スピードが遅くなるとか、ミスが増えるとか、その程度のことは予想していましたが、ひき算ができなくなるまで退化するとは、さすがに想像していませんでした。
「・・・計算力が落ちていますね」
そう指摘すると、その子は、答えました。
「そんなわけない。休み中はずっと〇〇タッチで勉強していた」
「・・・」
ああ、そうか・・・。
休み中、個別指導を受けない代わりに、通信端末とタッチペンで勉強する通信教育のほうに行っちゃったかー。
休み前に予習した内容に関しては、もう忘れていても仕方ないと思っていたら忘れていなかったので、それは、通信教育の効果なのかもしれません。
でも、たし算・ひき算ができないと、解き方がわかっていても、正解は出せません。
学習する際の用具というのは意外に学習に影響します。
日本の子どもが、国際的な読解能力テストで順位が低かったのも、コンピュータを使用する解答形式に慣れていないことも一因ではなかったか、と分析されています。
逆に、コンピュータを使った学習ばかりしていると、紙と鉛筆で問題を解くことに違和感があり、手が上手く動かずスムーズに計算出来ないということも起こるでしょう。
タッチペンによる学習も同様で、そればかりやっていると、紙と鉛筆を使って行う筆算の感覚がにぶる。
ふっと、やり方がわからなくなってしまう。
それは、学力的に心配な面のある子ほど影響が大きい。
そういうことがあるかもしれません。
通信端末のようなガジェットは子どもに受けがいいので、与えておけば学習意欲が高まるということはあると思います。
ただ、今のところ、日本の教育現場において、テストは紙と鉛筆で解くものです。
入試も同様です。
紙と鉛筆を持つとテンションが下がったり違和感があったりするようでは、テストの結果に影響します。
これはまた別の話になりますが、以前、ある英語塾が通信端末を導入して、生徒が家庭でも英文を読んだり聴いたりできるようにしたことがありました。
英語塾に週2回通うだけでは、効果は限定的。
毎日英語に触れるほうが学習効果が高い。
だから、それは英断だったはずなのですが、生徒たちは、その端末に他のアプリを入れられること、通信型の対戦ゲームができることを発見しました。
以後、その端末はゲーム機と化し、子どもたちは、英語の勉強をしているふりでゲームをやり放題となりました。
また、生徒同士のコミュニケーションも一気に深まり、塾の授業が終わっても塾の前にたむろし、いつまでも喋っていて帰らないという事態も発生しました。
ガジェット、おそるべし。
何でも使い方次第なので、全否定するのはおかしいのです。
ただ、端末を子どもに持たせるときは、大人が目を配る。
それは、ガラケーの時代から大人が学んでいることです。
新しいことを導入すれば、保護者は楽になるのではなく、むしろ目を配ることが増える。
そのように思ったほうがいいように思います。
話を、たし算・ひき算が上手くできなくなっていた子に戻します。
翌週、その子は、残りの宿題を解いてきました。
分数のわり算の宿題でした。
その宿題の結果は、全問不正解でした。
分数のわり算のやり方がわからなくなっていたのです。
わられる数とわる数の両方を逆数にして、計算していました。
その子は、全問不正解が納得できなかったのか、最初は私の採点ミスを疑ったようでした。
「そんなはずない。ネットで調べたのに」
と言うのです。
・・・分数のわり算のやり方を、ネットで調べた?
ネットで調べ、分数のわり算は逆数のかけ算に直せば良いことを知り、そうして、わられる数とわる数の両方を逆数にして計算したのでした。
それでは、全問不正解になります。
私は、その子に渡してある塾テキストの該当ページを開き、指さしました。
「分数のわり算のやり方は、ここに載っています。このテキストでも、学校の教科書でも、見やすく、わかりやすく載っています。なぜそのやり方で解けるのか、意味も書いてあります。やり方を忘れたのなら、なぜ、まず教科書やテキストを見ないの?」
「ああっ!」
その子は、幽霊を見たほどの衝撃を受けた顔をしていました。
いえ、ネットではダメで、教科書なら良いという話でもないのです。
肝心なのは、ネットでも何でも、本人の注意力や読解力が不足していれば、「分数のわり算は、逆数にしてかけ算する」という情報は、わられる数もわる数も逆数にするという方向へ行きやすいということなのです。
実際に学校で勉強していても、塾で演習していても、途中からそんなふうになってしまい、違う違う違う、わられる数はそのままだよと幾度も制して、意味を確認し、それでも、翌週もまた間違えているのでもう一度解説して、練習して、そんなふうにしてやっと分数のわり算が身につく子は多いのです。
情報を自ら得て活用する学力を育てる。
21世紀型の人材を育成する。
良い目標だと思います。
しかし、つまりそれは、子どもの地力では、その力が欠けている子が多いから、そういう力を育てる必要があるということです。
子どもが勉強のためにネットを利用しているときにも、大人は目を配る必要があります。
間違ったサイトを見ていないか。
正しく情報を読み取っているか。
家庭の役割は増えこそすれ、減ってはいないのです。
機械を用いて自学自習できるのは、ある程度の学力と判断力がついてからです。
それまでは、どのように機械を利用しているか、それを丁寧に見守る大人が必要です。
その子は、長期の休み中の講習に参加しませんでした。
随分長い間授業をしないことになりますから、学力が下がるのは想定していました。
その分、沢山の宿題を出したとしても、休み明けの授業でその大量の宿題の答えあわせをするのは難しいのです。
ほとんどが正解であるならば、20ページくらいの宿題を出すことも可能ですが、半分は誤答であるなら、その宿題の答えあわせと解き直しをするのに、3~4回の授業が必要になります。
休み中の宿題の解き直しをしている間に、学校の授業はひと月も先に進んでしまいます。
それでも、特に計算力が心配な子でもありましたので、分数の加減乗除の問題がぎっしり詰まっている計算プリントを休み前に2ページ渡しました。
休み明け、その子は、その宿題の半分を解いてきませんでした。
言い訳は、
「昨日、頭が痛かったから」
・・・はあ?(''Д'')
休みはたっぷりありましたよね?
何で、長い休み中の宿題を、塾の前日に解くの?
塾の前日、たまたま頭が痛かったから、宿題はできなかった。
そういう言い訳が通用すると、何で思っているの?
しかし、そんなことも想定内のことでした。
勉強が苦手な子が長い休みの間に塾に来ないということは、そういうことです。
うちは、大手の塾のような積極的な電話勧誘や、休み前に個別面談の時間を作って講習参加への営業を行う、ということはありませんので、休み中の講習に参加しようとしない子は、そのままになってしまいます。
ただ、休み中に全く講習に参加しない例は珍しく、最低でも週1回の通塾ペースは保ってくださる方がほとんどですが。
さすがに、受験生なのに講習に参加しないという異常事態が起こった場合は理由を尋ね、解決に向けて努力しますし。
さて、宿題の残り半分は翌週までの宿題ということにして、とにかく演習を始めると、その子は、2桁のたし算・ひき算が上手く出来ないのでした。
式は正しいのですが、計算が合わないのです。
特にひき算。
繰り下がりのあるひき算ができなくなっていました。
筆算の上の数から下の数を引けない場合、下から上を引いていました。
例えば、93-47=54 としてしまうのです。
・・・これは想定外でした。
何でここまで計算力が落ちるんだろう?
計算スピードが遅くなるとか、ミスが増えるとか、その程度のことは予想していましたが、ひき算ができなくなるまで退化するとは、さすがに想像していませんでした。
「・・・計算力が落ちていますね」
そう指摘すると、その子は、答えました。
「そんなわけない。休み中はずっと〇〇タッチで勉強していた」
「・・・」
ああ、そうか・・・。
休み中、個別指導を受けない代わりに、通信端末とタッチペンで勉強する通信教育のほうに行っちゃったかー。
休み前に予習した内容に関しては、もう忘れていても仕方ないと思っていたら忘れていなかったので、それは、通信教育の効果なのかもしれません。
でも、たし算・ひき算ができないと、解き方がわかっていても、正解は出せません。
学習する際の用具というのは意外に学習に影響します。
日本の子どもが、国際的な読解能力テストで順位が低かったのも、コンピュータを使用する解答形式に慣れていないことも一因ではなかったか、と分析されています。
逆に、コンピュータを使った学習ばかりしていると、紙と鉛筆で問題を解くことに違和感があり、手が上手く動かずスムーズに計算出来ないということも起こるでしょう。
タッチペンによる学習も同様で、そればかりやっていると、紙と鉛筆を使って行う筆算の感覚がにぶる。
ふっと、やり方がわからなくなってしまう。
それは、学力的に心配な面のある子ほど影響が大きい。
そういうことがあるかもしれません。
通信端末のようなガジェットは子どもに受けがいいので、与えておけば学習意欲が高まるということはあると思います。
ただ、今のところ、日本の教育現場において、テストは紙と鉛筆で解くものです。
入試も同様です。
紙と鉛筆を持つとテンションが下がったり違和感があったりするようでは、テストの結果に影響します。
これはまた別の話になりますが、以前、ある英語塾が通信端末を導入して、生徒が家庭でも英文を読んだり聴いたりできるようにしたことがありました。
英語塾に週2回通うだけでは、効果は限定的。
毎日英語に触れるほうが学習効果が高い。
だから、それは英断だったはずなのですが、生徒たちは、その端末に他のアプリを入れられること、通信型の対戦ゲームができることを発見しました。
以後、その端末はゲーム機と化し、子どもたちは、英語の勉強をしているふりでゲームをやり放題となりました。
また、生徒同士のコミュニケーションも一気に深まり、塾の授業が終わっても塾の前にたむろし、いつまでも喋っていて帰らないという事態も発生しました。
ガジェット、おそるべし。
何でも使い方次第なので、全否定するのはおかしいのです。
ただ、端末を子どもに持たせるときは、大人が目を配る。
それは、ガラケーの時代から大人が学んでいることです。
新しいことを導入すれば、保護者は楽になるのではなく、むしろ目を配ることが増える。
そのように思ったほうがいいように思います。
話を、たし算・ひき算が上手くできなくなっていた子に戻します。
翌週、その子は、残りの宿題を解いてきました。
分数のわり算の宿題でした。
その宿題の結果は、全問不正解でした。
分数のわり算のやり方がわからなくなっていたのです。
わられる数とわる数の両方を逆数にして、計算していました。
その子は、全問不正解が納得できなかったのか、最初は私の採点ミスを疑ったようでした。
「そんなはずない。ネットで調べたのに」
と言うのです。
・・・分数のわり算のやり方を、ネットで調べた?
ネットで調べ、分数のわり算は逆数のかけ算に直せば良いことを知り、そうして、わられる数とわる数の両方を逆数にして計算したのでした。
それでは、全問不正解になります。
私は、その子に渡してある塾テキストの該当ページを開き、指さしました。
「分数のわり算のやり方は、ここに載っています。このテキストでも、学校の教科書でも、見やすく、わかりやすく載っています。なぜそのやり方で解けるのか、意味も書いてあります。やり方を忘れたのなら、なぜ、まず教科書やテキストを見ないの?」
「ああっ!」
その子は、幽霊を見たほどの衝撃を受けた顔をしていました。
いえ、ネットではダメで、教科書なら良いという話でもないのです。
肝心なのは、ネットでも何でも、本人の注意力や読解力が不足していれば、「分数のわり算は、逆数にしてかけ算する」という情報は、わられる数もわる数も逆数にするという方向へ行きやすいということなのです。
実際に学校で勉強していても、塾で演習していても、途中からそんなふうになってしまい、違う違う違う、わられる数はそのままだよと幾度も制して、意味を確認し、それでも、翌週もまた間違えているのでもう一度解説して、練習して、そんなふうにしてやっと分数のわり算が身につく子は多いのです。
情報を自ら得て活用する学力を育てる。
21世紀型の人材を育成する。
良い目標だと思います。
しかし、つまりそれは、子どもの地力では、その力が欠けている子が多いから、そういう力を育てる必要があるということです。
子どもが勉強のためにネットを利用しているときにも、大人は目を配る必要があります。
間違ったサイトを見ていないか。
正しく情報を読み取っているか。
家庭の役割は増えこそすれ、減ってはいないのです。
機械を用いて自学自習できるのは、ある程度の学力と判断力がついてからです。
それまでは、どのように機械を利用しているか、それを丁寧に見守る大人が必要です。
2020年01月22日
高校数Ⅱ「式と証明」。複素数。2次方程式の解の正負。
今回も「複素数」。
まずは、複素数の範囲での因数分解です。
問題 x4+3x2-40 を次の範囲で因数分解せよ。
(1)有理数 (2)実数 (3)複素数
こうした問題でネックとなるのは、数学用語の理解です。
「有理数」「実数」「複素数」の定義を覚えていないと、問題が要求していることがよくわかりません。
言葉の定義がわからない場合は、下の記事に戻って、ご確認ください。
https://seghi.tamaliver.jp/e469030.html
(1)有理数
「有理数」の範囲での因数分解というのは、今まで通りの因数分解ということです。
x4+3x2-40
=(x2+8)(x2-5)
これ以上はどうにもならない。
これが有理数の範囲での因数分解です。
(2)実数
実数は、有理数の外側に無理数を含んだ集合です。
平たく言えば、√ が出てきても良いのです。
ならば、( )の中はまだ分解できますね。
a2-b2=(a+b)(a-b) の公式を使えば後ろのほうの( )をさらに分解できます。
(x2+8)(x2-5)
=(x2+8)(x+√5)(x-√5)
(3)複素数
複素数の範囲での因数分解ならば、前のほうの( )も分解できます。
まずは、x2+8=0 を解いてみましょう。
x2=-8
x=±√-8
x=±2√2 i
この解から逆に2次方程式を復元するなら、
(x-2√2 i)(x+2√2 i)=0
となります。
これが、最初の x2+8=0 と等しいのですから、
x2+8=(x-2√2 i)(x+2√2 i)
と分解できます。
公式 a2-b2=(a+b)(a-b) を利用しても同じです。
x2+8
=x2-(-8)
=x2-(2√2 i)2
=(x+2√2 i)(x-2√2 i)
よって、(3)の答えは、
(x+2√2 i)(x-2√2 i)(x+√5)(x-√5)
となります。
( )内が全てxの1次式に因数分解できました。
あとは、ここまでやる必要があるのかどうかということ。
やりたいならば、ここまでできるということなのです。
問題 2次方程式x2+2(a+2)x-a=0 が-3と2の間に異なる2つの解をもつような定数aの範囲を定めよ。
2次方程式の解の正負に関する問題です。
数Ⅰ範囲でのこの典型題については、以下に解説してありますので、ご覧ください。
http://seghi.tamaliver.jp/e446027.html
以下は、上のページをご参照いただいた、あるいは、その典型題なら理解していることを前提に解説が進みます。
f(x)=x2+2(a+2)x-a とおきます。
これは下に凸に放物線のグラフとなります。
それが、-3と2の間で2か所、x軸と交われば良いのです。
まずは、その通りのグラフを描いて考えます。
このようなグラフにするためには、ともかく、x軸と2点で交わらなければならないので、判別式を用いましょう。
判別式D>0 ならば、x軸と2点で交わります。
ここのところで、「え?」となってしまう人もいると思います。
「D>0ならば、放物線は、x軸の上に浮いて、交わらないんじゃないの?」
と言う子は多いです。
感覚的にわからないでもない誤解ですが、判別式は、そういうものではないです。
判別式は、放物線のグラフの概形とそのように短絡的につながるものではありません。
判別式は、2次方程式の解の公式の√ 部分の中身です。
√ 部分の中身が0ならば、2次方程式の解は、1つ、すなわち重解となります。
2次関数のグラフで言えば、x軸と接している状態です。
√ 部分の中身が正の数ならば、2次方程式の解は、2つの実数解となります。
2次関数のグラフで言えば、x軸と2点で交わっています。
√ 部分の中身が負の数ならば、2次方程式の解は、2つの虚数解となります。
グラフで言えば、x軸とは共有点がない、平たく言えば、下に凸のグラフならばX軸より上に浮いています。
それを判別するのが判別式でした。
グラフがx軸より上に浮いているからD>0ではないのです。
異なる2つの解をもつ、すなわちx軸と2か所で交わるから、D>0なのです。
[1]判別式D>0より
D/4=(a+2)2+a>0
a2+4a+4+a>0
a2+5a+4>0
(a+1)(a+4)>0
a<-4,-1<a ・・・①
この計算過程でも、「何をどうやっているのか、わからない」と混乱する高校生はいます。
2次不等式の解き方を忘れてしまっているのです。
わからない場合は、下のページを見てください。
http://seghi.tamaliver.jp/e445206.html
数Ⅱを高校生に教えていて困るのは、数Ⅰで学習したことをほとんど忘れている場合があること。
数Ⅰの内容が身についていないと、数Ⅱを学習していくのには多くの困難があります。
数Ⅱで新しく学ぶ内容がわからないわけではないのです。
数Ⅰで学習済みの内容がわからないのです。
数Ⅱで突然つまずくわけではないのです。
数Ⅰが身についていないから、その上にはもう何も積み上がらないだけなのです。
「でも、何を復習したら良いのかわからない」
という反応がありがちです。
復習して無駄な箇所などありませんので、自分で曖昧になっていると感じるところをどこからでも復習しましょう。
今回は、2次不等式の計算が必要なのに、そこが曖昧だと気づいたら、そこを復習してください。
春休みなどの時間があるときにまとまった復習をしたいのならば、特に「2次関数」と「三角比」は、今後もずっとネックとなり続けるので、最優先の復習課題です。
応用問題はわからなくても何とかなるので、基本の定理や計算方法とのその意味はわかるようにしておくと、数Ⅱの学習が随分楽になります。
さて、問題に戻りましょう。
x軸との交点が2つあることから、とにかく、[1]の条件を考えました。
他にどんな条件を満たせば、解は、-3と2との間に2つあるのでしょうか。
1つには、放物線の軸が、-3と2との間にあると良いですね。
y=ax2+bx+cの軸の方程式は、x=-b/2a でした。
それを用います。
(ここのところを唐突に感じたら、数Ⅰ「2次関数」の軸の方程式のところを復習してください)
[2]軸の方程式より
-3<-2(a+2)/2<2
-3<-a-2<2
-1<-a<4
1>a>-4
-4<a<1 ・・・②
しかし、この条件だけでは、放物線は横にだらんと広がり、-3と2の間にx軸との交点が2つあることにならないかもしれません。
ここで、あと2つの条件に気づきます。
f(-3)>0 と、f(2)>0 です。
x=-3のときのyの値が0より大きいならば、その右側で、放物線x軸と交わっているてしょう。
x=2のときのyの値が0より大きいならば、その左側で、放物線はx軸と交わっています。
[3] f(-3)>0, f(2)>0 より
f(-3)=(-3)2+2(a+2)(-3)-a>0
9-6(a+2)-a>0
9-6a-12-a>0
-7a-3>0
-7a>3
a<-3/7 ・・・③
f(2)=22+2(a+2)×2-a>0
4+4(a+2)-a>0
4+4a+8-a>0
3a+12>0
3a>-12
a>-4 ・・・④
これでグラフはイメージ通りの形になりますね。
よって、①~④より、
-1<a<-3/7となります。
2次方程式の解の正負に関する問題は、数Ⅰのときも数Ⅱのときも、テストに出て当然の典型題なのですが、難しいせいか、出ないことを祈る、祈っているから出ないだろうという訳のわからない神頼みで避けて通る人がいます。
意味を理解しながら、自力で解けるように練習を重ねてください。
2020年01月18日
新指導要領に思う。
このブログの本当に初期のものを読み返し、以下の内容のものを発見しました。
中学でようやく「ゆとり教育」が終わり、新しい学習指導要領になるときのものでした。
新しい学習指導要領とは、現行の指導要領です。
小学校では、来年度からさらに新しい学習指導要領となります。
その変わり目の今、昔のブログを読むと、当時との違いに感慨を新たにしました。
以下、当時のブログを採録します。
来年から、中学は新指導要領になり、教科書は大改訂されます。
「ゆとり教育」で、3割削減されていた指導内容の多くが、戻ってきます。
数学の教科書は、例題解説や練習問題のページが増え、発展的内容も盛り込まれ、教科書の「参考書化」「問題集化」が言われています。
私としては、今度の改訂は歓迎です。
今まで公立中学生に数学を教えていてダメだなあと感じてきたことの1つに、応用問題への拒絶反応ということがあります。
基礎学力がある。
数学センスもいい。
これなら、都立自校作成校や私立有名校に入れるかもしれない。
そう思って、そのために必要な難度の高い問題を教えるのですが、どうにも身につかない子がいます。
「学校で習っていない」と言うんです。
習っていなくても、入試には、出るのですが。
ただ、気持ちはわかります。
そんなに難しいことを勉強しても、学校の定期テストには出ない。
「入試のときに必要だ」と塾のセンセイが言っても、そんなに先のことは実感がわかない。
すぐに必要ではないことは後回しになるのは、子どもも大人も同じです。
そして、中3の晩秋。
いざ志望校の過去問を解いてみると、30点しか取れません。
数学が30点では、合格は難しい。
だから、自校作成校はあきらめ、一般都立に。
私立志望の場合も、一般受験は無理だから、単願推薦だけ。
そんなふうに、ランクダウンせざるを得ない子もいました。
もちろん、中1の最初から、私の言葉を信じて、不当なほどに難しい問題にもくいついてきてくれる公立中学生の子たちもいました。
集団指導の上位クラスで、高度な公式も、定理も、応用問題の解法パターンも、競って身につけるムードになれば、あとは楽勝でした。
私としても、その信頼は絶対に裏切れません。
そういう子たちには、都立自校作成校でも、私立でも、行きたい高校に合格してもらいました。
だけど、「信じてついてきてくれた子たちにだけ、信頼に応える。私の言葉を信じなかった子は、志望校に行けないのは仕方ない」では、少しおかしいですよね。
中学生の稚拙な判断が、将来を左右してしまうなんて。
素質のある子には、その素質を順当に開花してもらいたい。
私立入試に出題されるレベルの問題が、最初から教科書に載っていれば。
数学が得意な子だけにでも、学校で教えてくれれば。
定期テストに1問だけでも、そのレベルの応用問題が出題されるようになれば。
子どもの意識が変わる。
学校では完全に理解できなくてもいいんです。
学校で少しでも教わり、必要なことなんだと子どもが理解すれば、塾で完全に身につけます。
新しい教科書なら、それがあり得るかもしれない。
私は、そこに期待しています。
・・・さて、引用はここまで。
現在の私に戻ってまいりました。
ほんの9年前のことなのに、隔世の感があります。
今、公立中学校の生徒で、応用問題を解かせてこのような抵抗を示す子は存在しません。
本人の学力によっては、問題を解きたがらないということは、今もあります。
教わるのは好きだが問題演習は苦手で、宿題を出しても解いてこない子はいます。
1問わからないと、そこから先は全部解いてこないのです。
「わからなかった」といって、全て授業で教わろうとします。
そういう子は、現代も存在しますし、伸ばすのが難しいタイプの子です。
昔ならば、集団指導の授業で受験テクニック的なことを教わると満足し、良い授業を聞いたことで自分の学力は伸びたと誤解する子です。
今ならば、ネットの授業動画を見るだけで満足する子も、このタイプに入るでしょう。
しかし、聴いただけ、見ただけでは、学力は伸びません。
それで得た知識をもとに、さて、自力で問題を解くことができるのか?
テストは、演習力がものを言います。
最初は誤答ばかりでも、本人なりに何かを考えて根拠をもって解いてきてくれるなら、それに対し指導も補助もしていくことが可能です。
必ず伸びます。
しかし、全く解いてこない、あるいは「勘」で解いてくるだけで考えて問題を解くということがない場合、いつまで経っても演習力は養えません。
本人にとっては、わからないから解けない。
わからないから「勘」で解いている。
そこを直せと言われるのは不当だという気持ちがあるかもしれません。
受験が近づいても、志望校の過去問をまともに解けない。
「勘」で解くしかない。
そういう学力の子は、今も存在します。
しかし、基礎力は十分あるのに、定期テストには出ないからと応用問題の演習を拒むような子は、今は公立中学の生徒でもほとんど見なくなりました。
理由は単純。
定期テストに応用問題が出るからです。
しかも、移行措置で、テストに新傾向の問題もちらほら見られるようになってきています。
授業で扱われたわけではなく、既存の問題集にも存在しないタイプの問題が、するっと定期テストに出題されています。
今は配点が低いので影響は少ないですが、これの配点が高くなると、本人の思考力が得点を左右するようになっていきます。
新傾向というのは、まさに新傾向なので、その新傾向を分析するのは最初のうちは極めて難しいのです。
AIが分析しますよ、などというのは胡散臭い。
AIは、過去のビッグデータをもとに分析しますので、新傾向には弱いのです。
次のテストで何が出題されるかの特定は不可能でしょう。
そして、「新傾向」と称する問題に、出題頻度の高い形式が生まれてきたとき、それは新傾向でも何でもない「典型題」となっていきます。
AIが統計的にこういう問題の出題度数が高いと判断する頃には、既に人間の講師が典型題の判断をしているはずです。
問題として質が高い良問であるという判断基準が人間にはありますから。
しかし、こんなふうに書くのも、当時と比べると隔世の感があります。
個別指導塾を開いたばかりの当時の私のライバルは、集団指導塾であり、学生アルバイトを多数抱える大手個別指導塾でした。
現在の私のライバルは、授業を動画で提供する有料サイトであり、AIを活用した個別指導プログラムです。
学力向上の根本は基礎力。
基礎力を鍛えるカリキュラムの選定は、AIにも可能でしょう。
ただ、誤答する子の理由は様々です。
知識不足にしろ何にしろ、根拠をもって本気で解いて誤答したのなら、その能力をAIは正確に判定できるかもしれません。
しかし、「勘」で解いている子に次に解くべき適切な問題を指示できるのでしょうか。
また、理解はしているけれど多種多様なケアレスミスを繰り返す子に、正しい次の指示ができるでしょうか。
そうしたことは分析できず、誤答すれば少し易しい類題を指示するだけ、ということはないのでしょうか。
毎回、解けば解くほど「易しい類題の森」に迷い込み、それでもケアレスミスを繰り返すので、学力がついたと見なされない、という可哀想な子が現れないと良いのですが。
3.5-1=4.5 といった計算ミスをする子は、小数の計算の仕組みが理解できていないとは限りません。
答案を書くときのほんの一瞬、脳に何かが起こるのでしょう。
そうしたミスを見たとき、私は、その子に小数の計算の復習は命じません。
そうした子は、小数の計算だけを間違うわけではなく、次の問題では、56÷2=26 と暗算ミスをしてしまったり、さらに次の問題では、2x2と書くべきところを2x3と書き誤ってしまうのです。
ミスの原因は小数の理解不足ではありません。
しかし、AIは、小数の復習を命じるかもしれません。
それを命じられた恥ずかしさで、細心の注意を払うようになり、ケアレスミスが減る子もいると思います。
しかし、どこまでレベルを下げても、それでもケアレスミスをする子もいると思います。
小数の計算なんかできるよと思いながら、しぶしぶ解くと、それもまた、ケアレスミス・・・。
気がつくと、小学校の算数の復習コースに迷い込んでいた・・・。
そんな学力ではないのに。
その都度チューターに相談してレベルを操作し直してもらう繰り返し。
そんなことにならないと良いのですが。
教材会社から送られてくるAI導入のパンフレットなど見ながらも、初期費用の高さ以上にまだ心配な点が多くあり、導入する気にはなれません。
うちの教室に通ってくれる生徒の成績が順調に上がっている現在、私が判断したほうが適切だという気持ちがあります。
当面情勢を観察します。
2020年01月15日
高校英語。比較表現。~だからそれだけいっそう。
さて、今回も比較表現です。
「~だからそれだけいっそう・・・である」という表現を確認しましょう。
all the 比較級 because (for)~.
というのが主な構造です。
例文で確認しましょう。
We respect him all the more for his honesty.
私たちは、彼が正直だからいっそう彼を尊敬しています。
I like him all the better for his fault.
彼に欠点があるので、私はいっそう彼が好きだ。
She works all the harder because she has a child.
彼女は子どもがいるので、それだけいっそう一生懸命に働く。
「all the 比較級」のthe には、古い英語の用法として「それだけ」という程度を表す意味があります。
だから、「the 比較級」は、「それだけいっそう・・・である」という意味になります。
その前に強調の副詞 all がつくことで、この形が固定され、一種の慣用表現のようになっています。
文の後半が、for だったり because だったりするのは、その後ろが句ならば for 、節ならば because という違いがあるだけで、意味は同じです。
for は前置詞なので後ろは句(S・Vはない意味のまとまり)となり、because は接続詞なので後ろは節(S・Vのある意味のまとまり)となるのです。
どちらも、「~だから」と理由を表します。
これとセットで覚えたいのが、「none the 比較級 for(because)~」の用法です。
これは、「~だからといって、それだけ・・・ということはない」という意味になります。
He worked none the harder because he became a father.
彼は父親になったからといって、それだけ一生懸命働くということはなかった。
Man is none the happier for his wealth.
人は裕福だからといってそれだけ幸福であるということはない。
「the 比較級」の前に否定語 none がつきますので、for(because) 以降の理由では程度に何の変化も生じなかったことを表します。
あれ?そんなにシンプルなんだっけ?
何か、凄く覚えにくくて区別のつきにくいものがあった気がする・・・。
そんなふうにモヤモヤしている方もいらっしゃると思います。
そう。
これと似ているけれど、別のものが存在するのです。
それが、none the less for(because)~です。
これは、none と less と、否定語が2つ存在しますので、強い肯定になるのです。
「それでもなお・・・」という意味になります。
I like him none the less for his fault.
私は彼に欠点があっても、それでもなお彼が好きだ。
上のall the 比較級の文と内容的にも似ているので、混乱しやすいのです。
I like him all the better for his fault.
彼に欠点があるので、それだけいっそう彼が好きだ。
I like him none the less for his fault.
彼に欠点があっても、それでもなお彼が好きだ。
「彼が好きだ」ということは変わらないのです。
彼の欠点を肯定的にとらえて、「それだけいっそう好きだ」と言っているか。
彼の欠点を否定的にとらえているが、「それでもなお彼が好きだ」と言っているか。
そういう違いです。
これは人の気持ちに関わることなので、
「欠点のある人なんてダメじゃない?」
と単純に判断しがちな人は、all the better のほうの用法が理解できないということがあり、それで混乱しやすいようです。
欠点を好きになるということは、あります。
例えば、とても気の弱い男性をイメージしましょう。
それは、一般的には欠点かもしれないが、そういう人が本当に好きだ、という女性はいますね。
完璧な人よりも少し欠点があるくらいのほうが魅力的だという判断もあるかもしれません。
一方、気が弱いのは欠点だと思うけれど、他に良いところがあるので、それでも彼が好きだという女性もいるでしょう。
そういうことを言い表している表現なのです。
高校英語になると、こんな繊細なことを英語で語れるようになります。
英文法も捨てたものではないでしょう?
あとは、構造をしっかり覚えて使うだけです。
ヽ(^。^)ノ
「~だからそれだけいっそう・・・である」という表現を確認しましょう。
all the 比較級 because (for)~.
というのが主な構造です。
例文で確認しましょう。
We respect him all the more for his honesty.
私たちは、彼が正直だからいっそう彼を尊敬しています。
I like him all the better for his fault.
彼に欠点があるので、私はいっそう彼が好きだ。
She works all the harder because she has a child.
彼女は子どもがいるので、それだけいっそう一生懸命に働く。
「all the 比較級」のthe には、古い英語の用法として「それだけ」という程度を表す意味があります。
だから、「the 比較級」は、「それだけいっそう・・・である」という意味になります。
その前に強調の副詞 all がつくことで、この形が固定され、一種の慣用表現のようになっています。
文の後半が、for だったり because だったりするのは、その後ろが句ならば for 、節ならば because という違いがあるだけで、意味は同じです。
for は前置詞なので後ろは句(S・Vはない意味のまとまり)となり、because は接続詞なので後ろは節(S・Vのある意味のまとまり)となるのです。
どちらも、「~だから」と理由を表します。
これとセットで覚えたいのが、「none the 比較級 for(because)~」の用法です。
これは、「~だからといって、それだけ・・・ということはない」という意味になります。
He worked none the harder because he became a father.
彼は父親になったからといって、それだけ一生懸命働くということはなかった。
Man is none the happier for his wealth.
人は裕福だからといってそれだけ幸福であるということはない。
「the 比較級」の前に否定語 none がつきますので、for(because) 以降の理由では程度に何の変化も生じなかったことを表します。
あれ?そんなにシンプルなんだっけ?
何か、凄く覚えにくくて区別のつきにくいものがあった気がする・・・。
そんなふうにモヤモヤしている方もいらっしゃると思います。
そう。
これと似ているけれど、別のものが存在するのです。
それが、none the less for(because)~です。
これは、none と less と、否定語が2つ存在しますので、強い肯定になるのです。
「それでもなお・・・」という意味になります。
I like him none the less for his fault.
私は彼に欠点があっても、それでもなお彼が好きだ。
上のall the 比較級の文と内容的にも似ているので、混乱しやすいのです。
I like him all the better for his fault.
彼に欠点があるので、それだけいっそう彼が好きだ。
I like him none the less for his fault.
彼に欠点があっても、それでもなお彼が好きだ。
「彼が好きだ」ということは変わらないのです。
彼の欠点を肯定的にとらえて、「それだけいっそう好きだ」と言っているか。
彼の欠点を否定的にとらえているが、「それでもなお彼が好きだ」と言っているか。
そういう違いです。
これは人の気持ちに関わることなので、
「欠点のある人なんてダメじゃない?」
と単純に判断しがちな人は、all the better のほうの用法が理解できないということがあり、それで混乱しやすいようです。
欠点を好きになるということは、あります。
例えば、とても気の弱い男性をイメージしましょう。
それは、一般的には欠点かもしれないが、そういう人が本当に好きだ、という女性はいますね。
完璧な人よりも少し欠点があるくらいのほうが魅力的だという判断もあるかもしれません。
一方、気が弱いのは欠点だと思うけれど、他に良いところがあるので、それでも彼が好きだという女性もいるでしょう。
そういうことを言い表している表現なのです。
高校英語になると、こんな繊細なことを英語で語れるようになります。
英文法も捨てたものではないでしょう?
あとは、構造をしっかり覚えて使うだけです。
ヽ(^。^)ノ
2020年01月12日
つるかめ算と連立方程式。
小学校で学ぶ算数と、中学から学び始める数学は、違う構造をもっています。
例えば、代数の分野でいうと、文章題を解く場合、小学校の算数は、答えを求めるための式をたてます。
子どもたちは、問題を最後まで見通して、答えを求める式をたてなければなりません。
言い換えれば、最後まで見通すことができない子は、文章題の式をたてることをあきらめてしまいます。
ニュートンは、こういっています。
「算数では、与えられた量から求める量へと進んでいって問題が解けるのに比べて、代数は、逆の方向に進む。つまり、あたかもそれをよく知っているかのように、求める量から出発して、すでにわかっている量へ進んでいく」
連立方程式の文章題を例にとって考えてみます。
問題 ある展覧会の入場料は、大人1人250円、子ども1人100円である。ある日の入場者の総数は170人で、入場料の合計が27200円であった。この日の大人と子どもの入場者数をそれぞれ求めなさい。
小学校で学ぶ普通の算数では、この問題は解けません。
最後まで見通し、大人と子どもの人数を求める式をたてることが、この問題の構造では難しいからです。
しかし、中学で学ぶ数学ならば、これは、解けます。
求めたいものを x や y にすれば、式はたちます。
文章の流れにそって式をたてるだけ。
いわば、日本語で書かれた文章を方程式に翻訳する作業です。
大人の人数を x 人、子どもの人数を y 人とする。
x+y=170 ・・・①
250x+100y=27200 ・・・②
加減法で解きましょう。
①の式を100倍すれば、y を消すことができます。
①×100-②
100x+100y=17000
-)250x+100y=27200
-150x =-10200
x=68 ・・・③
③を①に代入して
68+y=170
y=102
よって、x=68 , y=102
大人68人、子ども102人
ところで、この問題、ふつうの小学生は解けませんが、これを方程式を使わずに解くのが、「受験算数」と呼ばれる私立中学を受験するための特別な算数です。
いわゆる特殊算。
その中で、これは、「つるかめ算」と呼ばれるものです。
「池に鶴と亀がいて、足の合計は何本、頭の合計は何個。鶴は何羽、亀は何匹いるか」というのが、江戸時代からのこの問題の古典的構造なので、「つるかめ算」と呼ばれています。
問題をもう一度確認しましょう。
問題 ある展覧会の入場料は、大人1人250円、子ども1人100円である。ある日の入場者の総数は170人で、入場料の合計が27200円であった。この日の大人と子どもの入場者数をそれぞれ求めなさい。
大人と子ども、どちらに揃えても、最終的には同じ答えが出ますが、今回は子どもに揃えてみましょう。
入場者を全員子どもだったと仮定します。
入場者の総数は170人ですから、入場料の合計は、
100×170=17000 (円)
現実の合計とは差があります。
現実との合計料金の差は、
27200-17000=10200 (円)
その差は何で生まれたものかというと、全員を子どもと仮定したからです。
大人と子どもの1人分の料金の差は、
250-100=150 (円)
ですから、子ども1人を大人1人に置き換えると、合計料金は150円ずつ増えて、現実に近づいていきます。
では、何人分を大人に置き換えたら、現実の合計料金と同じになるでしょう。
10200÷150=68 (人)
つまり、大人は68人。
では、子どもは、
170-68=102 (人)
この解き方が、つるかめ算です。
このように式だけで解いていく方法の他に、つるかめ算は面積図を用いて解く方法があり、今はそれで教えるのが主流です。
考え方の根本は、式だけで解いても面積図で解いても同じです。
なぜ小学生にこのような解き方を教えるのかというと、まだ定まっていないものをxやyとして方程式を立てるということが、子どもには理解しづらいことだからです。
大人が「え?こんなことが理解できないの?」と思うようなことが、子どもには理解できないことがあります。
発達段階の過程で、理解できないこともあるのです。
子どもは、身長・体重はそれなりに増え、口のきき方も大人と対等になっていたりしますが、頭の中はまだ混沌としています。
非常に主観的で、論理性に欠けます。
客観的なこと・論理的なこと・抽象的なことは受けいれられず、具体的なこと・即物的なことしかわかりません。
意味不明で幻想的なことのほうにリアリティを感じたりもします。
方程式は、もう少し成長しなければ、理解できないのです。
中学生になれば誰でも理解できるのかというとそうでもなく、本人の発達段階によっては、中学生でも、解き方の丸暗記はできるとしても、なぜそれで解けるのかは理解できない場合もあります。
なぜそれで解けるのか理解できないので、文章題を読み取って自力で立式し計算することはできません。
「文章題が苦手」という漠然としたことではなく、理解できないんだから仕方ない、ということもあると思います。
写真は、東京都神津島。2006年春撮影。
2020年01月08日
中1の壁。算数と数学。
小学校は、基本的なことのみ学習しますので、大多数の生徒は、自分は学校の勉強についていけていると感じています。
「学校では勉強ができるほうである」と感じている小学生が過半数かもしれません。
しかし、過半数が勉強ができるほう、というのは明らかに事実とは異なります。
易しいカラーテストと、好意的な絶対評価の成績によって、事実誤認が起きている・・・。
冷酷な言い方をすれば、そういうことになります。
しかし、学習に自信をもって取り組むのは良い効果のあることで、大半の生徒は、中学入学後もしばらくの間は、自分は学校の勉強についていけていると感じ、意欲的に学習を続けます。
むしろ、「学校では勉強ができるほうである」と感じる生徒も、中1の1学期までは多いのです。
心配していた英語も数学も、1学期の成績は「5」。
ああ、大丈夫だ、とさらに自信を深めます。
しかし、それは、英語や数学では人生で最初で最後の「5」だった・・・。
以後は下がり続け、やがて「3」で安定した。
そういう人も、多いのです。
その意味で、「中1の壁」は1学期にあるのではなく、2学期、3学期にあります。
中1の1学期の数学のテスト範囲である「正負の数」や「文字式」は、解き方を丸暗記した子が高得点を取ることも可能です。
それでたまたま「5」になってしまう子が多く現れます。
計算自体は、1桁や2桁の計算が多く、小学校の計算ドリルよりもむしろ簡単です。
英語も、中1の1学期はまだまだ易しい。
以後のテストで、名詞の複数形や、動詞の時制や、前置詞や冠詞を毎度間違えてしまう人も、1学期の間は、英語はまだミスする原因が少なく、楽勝です。
以後、長く苦しむことになる初見の長文読解問題も、最初のテストは、出ても数行。
長文と呼べるレベルのものではありません。
中1の1学期の成績は、その後を保証するものではありません。
中1の1学期で「5」を取って、その後普通に勉強していれば、中学生の間はおそらく「2」にはならないだろう・・・。
その程度の保証しかできません。
2学期で「4」、3学期で「3」と下がっていくのは、むしろ、よくあることです。
そういう成績表はよく見ます。
中1の1学期の成績は、幻です。
中1の壁は、2学期・3学期にあります。
特に数学。
中1の2学期は、「方程式の利用」「比例・反比例」を学習します。
数学的な考え方を問われるようになるのですが、ここで、小学校の算数から脱却できない子、すなわち壁を乗り越えられない子が現れます。
小学校の算数と中学の数学と、何がそれほど違うのか?
算数は、答えを求めるための式をたてます。
しかし、数学は、文字xを使って、数量の関係を表す方程式をたて、それを解いて答えを求めます。
文章で書かれてあることを方程式に翻訳する作業をすることになります。
あとは、式が自動的に答えを出してくれる。
方程式は、とても便利なものです。
しかし、その方程式の仕組みの根本を理解しない子が現れます。
いつまでも、小学生のような式を立てようとしてしまうのです。
それなら、小学生のときから方程式を教えればいいじゃないか。
途中で突然切り換えるから、そこで気持ちがついていけなくなって、数学が苦手になるのでは?
そういう思いもわかるのですが、子どもには発達段階があります。
小学生の脳は、方程式を理解できるほどには発達していないことが多いのです。
個人差はありますが、小学生が自ら方程式を立式し文章題を解くのは不可能に近い。
それが私の実感です。
大人から見たら、
え、何でこの程度の簡単なことが理解できないの?
小学生でも、これくらいのことは、ちゃんと説明すれば、わかるでしょう?
と思うようなことが、小学生には、全く理解できないことがあります。
小学生は、抽象思考ができないのです。
まだわかっていない数値を式の中に利用して式を立てることなど、絶対にできない。
だって、その数値はわかっていないのだから。
そういう思いが強いのでしょう。
抽象思考ができず、全て具体的に考えないとダメなので、具体的にわかっていないことは式の途中では扱えないのです。
「四角を使った式」という形で、小学校でもそれらしきものは学習しますが、自ら四角を使って式を立てる子はごくわずかです。
使うように命じられれば、そういう式もかろうじて立てられる・・・。
その程度までしか到達しないのが普通です。
6年生になれば少しだけ「文字を使った式」の学習は行うのですが、
x-40=120 とか、x×38+5=81
といったレベルの易しいものだけです。
文章題からその式を立てさせる場合は、本当に構造の易しいものに、しかも最大限の補助をして、ようやく式が立てられる程度です。
ここまで易しいと、方程式にする意味がないので、小学生には不評です。
なんで、この単元のときだけは、120+40という式をたてたらいけないんだろう?
なぜ、x-40=120 というわかりにくい式をわざわざ立てるのだろう?
子どもたちは首を傾げ、その単元が終われば、もう文字を使った式のことは忘れ、2度と方程式は立てません。
方程式のことが気に入り、以後ずっと使う子は、特別に数学センスのある子だけです。
また、方程式の学習の前に、まずは正負の数の学習が必要です。
負の数がわかっていないと、方程式は、解けるものと解けないものが出てしまいます。
さらに、逆算との違いをこんこんと解き、出来るようになるまで常に補助していく必要があります。
方程式は、逆算ではありません。
式の両辺に何かをたす、ひく、かける、割る、という作業を行うことで、式を解きほぐしていく。
xについて解くとはそういうことだいうことを、理解できるまで解説し続ける必要があります。
逆算して求めているのではないのだ。
xについて解いているのだ。
この大きな転換は、中学生でも理解できない子は理解できません。
作業手順として暗記するだけで、意味はわかっていない子は中学生でも多いのです。
小学生の間は方程式は絶対に理解できない。
一方、中学生になれば、誰でも方程式は理解できる。
そのように単純なことではありません。
個人差、ということをここでもう一度考える必要があります。
小学生でも方程式を理解できる子もまれに存在します。
一方、中学生になっても、方程式を理解できる発達段階に至っていない子も多いのです。
方程式の計算は、手順として覚えます。
学校で学習する内容ですし、周囲の皆がそれに従ってやっているのですから、本人も作業手順は覚えるのです。
何で中学に入ったらこのやり方に変わったのかはわからないけれど、逆らっても仕方ない。
移項すると符号が変わる理由はよくわからないけれど、それはそういうもの、皆がそれでやっているのだから仕方ない、覚えるだけ、と諦めて解いていきます。
しかし、そういう子たちは、文章題を読んで、方程式を自ら立てることは、できません。
何を要求されているのか、わからないのだと思います。
その子たちは、内心、
急にどうしたの?
何で文字を使って式を立てなければいけない?
何でそんなことをしなければならないの?
と思っているのかもしれません。
そして、小学生と同様に、
「わからない数値は、わからないのだから、そんなものを式の途中に使うことはできない」
「式というのは、答えを出すために立てるものだ。関係を表す式とか訳のわからないことを言われても、意味がわからない」
と思っているのかもしれません。
中学の数学の問題を解いているにも関わらず、文章題を見た瞬間に心が小学生に戻り、答を求めるための式を立てようとうんうんうなって、解けずに諦めてしまいます。
あるいは、
「自分は、小学生のときから文章題は苦手だった。文章題は、自分は解けない。でも、計算はできる。基本はできるから、それでいいでしょう?はい、それで終わり」
と心に決めてしまって、まともに問題を読まない子もいます。
文章題は特別に難しいものだから、自分はそれは解かなくてもいい。
文章題はできなくても、カラーテストは80点くらいは取れているから、自分は算数はできるほうだ。
そのように誤解したまま中学生になってしまった子も多いです。
ここの壁は厚いです。
文章題が解けないのに数学で「5」を取れる可能性はほぼありません。
しかも、中1の2学期には、その先に、もっと恐ろしい「関数」が待っています。
y=3x だなんて、xもyも結局定まらない。
比例だの何だと言っているが、何のために何を勉強しているのか、本当にわからない。
これは何に使うの?
何の役に立つの?
数学の根本がわからない子は、関数がわからないことが多いのです。
関数がなぜ存在しているのか、何のためにこんなことを大事そうに学ぶのか、意味がわからないのです。
本質が理解できないのです。
小6でも「比例・反比例」は学習しているのですが、そのときも、何のために何をしているのかは理解できず、作業手順だけ覚えてやり過ごす子は多いです。
本質を理解できていないことを、周りも本人も気づかないまま、中学生になります。
関数の基本問題は、作業手順を覚えるだけでもこなせますが、応用問題には対応できません。
中1の2学期に数学で「5」を維持するのは、難しいです。
ここまで悲観的なことばかり書いてきました。
実際、多くの場合、現実は上のようなものです。
中2以上のお子さんをもつ保護者の方の中には、首が折れるほど頷かれる方もいらっしゃると思います。
しかし、これは運命なわけではありません。
いや、たとえ運命であっても、変えていけるはずです。
作業手順を覚えるだけの勉強をやめられない子は、やがて「3」で安定します。
しかし、そこから変わっていける子も存在するのです。
「3」まで下がってからの起死回生で「5」に戻った子は、うちの塾生に何人もいます。
考えるとは、何をどうすることであるか。
作業手順の暗記ではない数学の勉強とは、どういうことか。
表面上は普通のテキストを普通に解いていくだけの授業の中にある、数学的な「対話」。
本質的な「理解」。
そうしたものがあれば、時間がかかっても、必ず成績は上向いていきます。
数学力がついていきます。