たまりば

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2024年03月12日

中1数学「正負の数の乗法」。旅人は東を目指す。


さて、今回は正負の数の乗法。かけ算です。

(+2)×(+3)=+6
(+2)×(-3)=-6
(-2)×(+3)=-6
(-2)×(-3)=+6

こうしたかけ算の符合のルールは、作業手順の暗記で済ますタイプの子にとっても、比較的覚えやすいもののようで、かけ算で符号ミスをする子は少ないです。
ただ、問題は、こうしたかけ算のルールを学んだあと、正負の数の加減に戻ると、符号のルールがぐちゃぐちゃになってしまうことです。

たとえば、こんなミス。
(-2)+(+3)=-1
(-2)+(-3)=+5

(負の数)+(正の数)=(負の数)
(負の数)+(負の数)=(正の数)
と、間違ったルールで計算してしまうのです。
明らかに、かけ算の符合ルールに引きずられた誤答です。
作業手順の暗記で済ますタイプの子たちは、ここでつまずきます。

「違うんですよ。加減の符合ルールと乗除の符合ルールは異なります。混乱しやすいので、符号のルールを暗記するのではなく、加減は、数直線をイメージしましょう。数直線。わかります?」
「・・・わかります」

数直線をイメージして解く正負の数の加減は、このブログ内の該当ページをご参照いただけますと幸いです。
正負の数の加減の符合のルールは、なぜそのルールなのか。
数直線をイメージすれば、それは当たり前のことで、むしろ、ルールを覚えて解くようなことではないのです。

とはいえ、その後練習しても、改善は見られないことがあります。
「・・・数直線をイメージして解くということが、本当にわかっていますか?」
「・・・わかりません」

おお・・・。
わからない、と認めるまでの時間の長さよ。
本人の中で色々な葛藤があるのでしょう。

わかっていなければ前に戻ってやっていきます。
そのような中で、正負の数の乗除については、符号ルールをさらっと説明して、ルールだけ覚えろ、というわけにはいきません。
こちらも、何かしっかりとした根拠が必要です。
しかし、
(正の数)×(正の数)=(正の数)
(負の数)×(正の数)=(負の数)
は意味がわかる気がするものの、
(正の数)×(負の数)=(負の数)
(負の数)×(負の数)=(正の数)
とは、どういうことなのでしょうか?
何だか、実感は伴っていない気がしませんか。

(負の数)+(負の数)=(負の数)
なのに、
(負の数)×(負の数)=(正の数)
となるのはなぜか?

この疑問には、答えておく必要があります。

以降の説明は、別に私のオリジナルではなく、数学関係の本によく載っている解説です。

冒頭の数直線の図を見てください。
数直線上を、変な奴が歩こうとしていますね。
この人は、数直線上を歩く旅人です。
この旅人の速さと距離で考えていきます。

まずは、速さについて、ざっくりとおさらい。
一番簡単な、
時速×時間=道のり
で、解説しましょう。
時速4㎞の人が、2時間歩いたら、道のりは何㎞でしょうか。
4×2=8 で、8㎞
これは、大丈夫でしょうか。
時速4㎞というのは、1時間に4㎞進むことのできる速さだということ。
それが、2時間分なのだから、
4×2=8 で、道のりは8㎞ 
となります。
速さ×時間=道のり
という公式は、そういう意味のものです。

さて、これを利用しましょう。
今回は、正負の数のかけ算なので、速さに方向がともないます。
この旅人は、今、数直線上の原点にいて、東へ、すなわちプラスの方向に1時間で2㎞進むとします。
その速さを、時速+2㎞と表します。
では、+2時間後には、どこにいるでしょうか?
(+2)×(+2)=+4
原点から東へ、すなわちプラス方向に4㎞の地点にいます。

この旅人は、現在は、原点にいます。
プラスの方向に時速2㎞で歩き続けている旅人です。
では、2時間前には、どこにいたでしょうか?
原点より西、すなわちマイナス方向に4㎞のところにいなかったでしょうか?
いましたよね?
2時間前とは、-2時間のことです。
すなわち、
(+2)×(-2)=-4

さて、ここで方向転換。
別の旅人が登場します。
上の図とは反対方向に顔を向けている旅人だと想像してください。
新しい人物は、東から西へ、すなわちマイナス方向に旅をしているのです。
1時間で2㎞進みます。
この速さを、時速-2㎞と表します。
この人は、2時間後、すなわち+2時間後に、どこにいるでしょうか?
原点から西へ、すなわちマイナス方向に4㎞のところにいますよね?
すなわち、
(-2)×(+2)=-4

さらに、この新しい旅人は、2時間前にはどこにいたでしょうか?
原点より東に4㎞のところにいたのではないでしょうか。
すなわち、
(-2)×(-2)=+4

数直線上の旅人は、確かに、このように移動します。

以上をまとめると、
(+2)×(+2)=+4
(+2)×(-2)=-4
(-2)×(+2)=-4
(-2)×(-2)=+4

すなわち、
(正の数)×(正の数)=(正の数)
(正の数)×(負の数)=(負の数)
(負の数)×(正の数)=(負の数)
(負の数)×(負の数)=(正の数)
は、計算上の虚構ではなく、現実にそうであることが理解できます。

ルールをただ丸暗記する。
作業手順を暗記してこなす。
それに慣れ切っていて、他のやり方を知らない・・・。

中学数学の最初に、その悪習慣から離脱できれば、道は開けます。

  


  • Posted by セギ at 12:23Comments(0)算数・数学

    2024年03月06日

    考えて問題を解く習慣のない子。


    画像は、ユキワリイチゲ。都立神代植物公園多様性センターにて。

    さて、まずは、こんな問題から。
    これは、受験算数の問題です。単元は、「倍数と約数」。

    問題 5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数で、1000にもっとも近い数を求めなさい。

    さて、これは、どう解きましょうか?
    割り切れないし、あまりも一致していません。
    倍数の問題の中では、難しい問題です。
    「いきなり、1000にもっとも近い数を求めるのは難しいですね。1000に近くなくていいから、小さい数で、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数を1つ、探してみましょうか」
    と私が言う間もなく、その子は、即答しました。
    「88!」

    ・・・88?

    確かに、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数です。

    「・・・どうやって求めましたか?」
    「5+3=8で、7+4=11で、8×11=88!」
    「・・・・はい?」

    ・・・何だ、その求め方・・・。
    そんな裏技、あるの?
    聞いたことがないし、意味がわからない・・・。


    この求め方は、正しいのでしょうか?
    問題を少し変えてみましょう。
    5で割ると4あまり、7で割ると2あまる数、だとしたら?
    5+4=9
    7+2=9
    9×9=81
    ・・・いや、そんな数、5で割ると4あまる数でも、7で割ると2あまる数でもありません。
    つまり、この求め方はでたらめです。
    上の88は、偶然当てはまっただけなのでした。

    あー、びっくりした。

    「・・・もっと、地道に探しましょう。5と7なら、7のほうがすぐ大きくなって探しやすいので、7で割ると4あまる数を基準に、1つ1つ見ていきましょう。7で割ると4あまる数で、一番小さい数は?」
    「11!」
    「・・・うん。まあ、いいでしょう」
    4もそうですが、今はそれは考えなくてもいいので、今回は、割愛。
    「11は、5で割ると3あまる数ですか?」
    「ちがうー」
    「そうですね。では、11の次の、7で割ると4あまる数は?」
    「18!」
    「はい。そうですよね。そして、その18は、5で割ると3あまる数ですか?」
    「あ。わかった!」
    「・・・何が?」
    「ぶー」

    その子は、自分のノートに何やら計算を始めました。
    しばらくして、
    「わかった!答は、1800!」
    「・・・どういう計算をしたんですか?」
    「18×1000で1800!」
    「・・・18×1000は、18000です。18000は、1000に近くないので、絶対正解じゃないですね」
    「ぴっぽこぷー」


    11の次の、7で割ると4あまる数は、18であると即答したのは、上出来でした。
    実は、これを答えられない子も、中学受験生の中にいます。
    かけ算の仕組み、割り算とあまりの仕組みが頭の中で構築されていない子は、11の次に7で割ると4あまる数が18であることがわからない。
    このほうが、深刻です。

    「18は、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数ですね。見つけましたね。では、18の次の数で、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数は、何でしょうか」
    「ぺぽ?」
    「あまりは、このままでいきたいので、これに加える分は、5で割っても、7で割っても割り切れるといいですよね」
    「35!」
    「はい。35って、何ですか」
    「5と7の最小公倍数!」
    「そうですね。それなら、5で割っても、7で割っても、35の分は割り切れるので、あまりにズレが生じませんね。18のときのままのあまりでいけます。では、18の次の数で、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数は、いくつでしょうか」
    「わかった!」
    「計算する前に、式を言って」
    「18×35!」
    「何で、かけ算?」
    「・・・」

    もう一度、ゆっくりと説明しました。
    「35なら、5で割っても、7で割っても、35の分は割り切れるので、あまりにズレが生じません。18のときのあまりでいけます。では、18の次の数で、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数は、いくつでしょうか」
    「18+35!」
    「そう!計算して!」
    「43!」
    「繰り上がりミス」
    「44?」
    「違います」
    「53!」
    「そうそう。では、53の次に、5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数は、いくつでしょうか」
    「53+35!」
    「そう。それが?」
    「88!」
    「そうです」

    18 , 53 , 88 , ・・・

    「さて、これらの数は、どんな性質の数でしょうか。前の数に35ずつ足しているけれど、35の倍数ではないですね。では、何でしょうか」
    「5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数!」
    「それはそうなんですが、そこに戻ってもねえ。一歩先に進んだ性質を見つけられませんかね」
    「ぶー」
    「35で割ると?」
    「35で割ると?」
    「35で割ると?」
    「18あまる数!」
    「その通り!素晴らしい!5で割ると3あまり、7で割ると4あまる数は、35で割ると18あまる数なんですね」
    「へえ」

    「さて、こういう性質の数。つまり、35で割ると18あまる数で、1000にもっとも近い数は、どうすれば、求めることができるでしょうか」
    「イエス・アイ・ドゥー。ノー・アイ・ドーント」
    「はい・・・?」
    「35×1000!」
    「・・・何でかけ算?」

    授業はここで少し停滞。
    私は、その子が通う集団指導塾のテキストを開きました。
    「・・・やっぱり、載っていますよね。基本問題に。『8で割ると3あまる数のなかで、1000にもっとも近い数は何ですか』 この問題はもう解いたんでしょう?これと、考え方は同じですよ」
    「・・・」
    「基本問題は、ただ解いただけじゃ意味がないんですよ。それは、こなしているだけ。解いたという形だけ作っても、学力は伸びないのよ。そこから使えることを吸収しないと」
    その子の目に少し何かのニュアンスが浮かびました。
    「・・・1000÷35!」
    「おお。いいですね。では、その割り算、やってください」
    「こぽこぽー。1000÷35=28あまり20!」
    「いいですね。つまり、1000は、35で割ると、20あまる数なんですよ」
    「ぷー」
    「では、1000に近い数で、35で割ると、18あまる数は、ずばり、いくつでしょうか?」
    「・・・」
    「・・・無理かな?わからない?」
    ようやく、考える表情になりました。
    「20-18=2」
    「いいね。その2をどうするの?」
    「1000-2」
    「はい。では、最終解答は?」
    「998!」
    「正解!」


    1問に、こんなに時間がかかるのか・・・と思う方もいらっしゃるでしょうが、解き方の手順をさっさと全部解説しても、別の問題を解く役には立たないのです。
    実際、基本問題で解いたことをこの問題で使うという発想が、その子にはありませんでした。
    いや、むしろ、考えて算数の問題を解くという発想そのものがない、というほうが正確のような気がしました。
    与えられた数字を適当に組み合わせれば正解が出るのではないかと漠然と夢見ているような、そんな解き方をしていました。
    適当に式を立てるのならば、割り算は面倒なので、かけ算の式を立ててしまうことが多い。
    そこに、意味はないのだと思います。
    ただの思いつきなのでしょう。

    その子に限りません。
    算数・数学の問題を解くときに、「考える」ということをしない子たちは、かなりの割合で存在します。
    考えて問題を解いた経験がなく、考えるということが、何をどうすることなのかすら、よくわからないようです。
    小学校の算数は、考えるまでもなく、問題を見ればぱっと式を思いつくので、それで済んでいるのでしょう。
    小学校のカラーテストはそれでそこそこの点数が取れるので、そのことを反省したり改善したりする必要もないのです。
    しかし、中学受験の勉強を始めると、大きな壁が立ちふさがります。
    受験算数は、考えて問題を解く必要があります。
    思いつきや手順の丸暗記では、上手くいきません。

    「・・・今日、2ページ、終わる?」
    その子は、私に尋ねました。
    集団指導塾から出ている2ページの宿題をここでこなすことが、お母様から要求されている「ノルマ」なのかもしれない、とふと感じました。
    「・・・こなすことだけ考えても、仕方ないですよ。ここで2ページ分の問題を全部教わりながら解いても、テストで類題は解けないと思います。実際、今までそうだったのでしょう?ただ問題をこなすだけでは、これから、成績は下がっていくことはあっても、上がることはないんです。それよりも、1題でも2題でも、本当に自分で考えて解けば、その問題の類題は、テストで正解できますよ。成績はそうやって上がっていくんです」
    「ばぶー」

    それは、不満まじりながら「イエス」の返事であるように、私には聞こえました。
    全ては、一歩ずつ、です。
      


  • Posted by セギ at 13:57Comments(0)算数・数学

    2024年02月18日

    図形問題の攻略。


    来年度からは、大学入試共通テストも新課程となり、数ⅠAに関しては、選択問題はなくなります。
    全問必答です。
    これまでは、数Aの3つの単現「場合の数と確率」「図形」「整数の性質」のそれぞれから出題される3問から2問を選択して答える形でした。
    この3問からどの2問を選択するか?
    結局、どの単元も苦手な人が多いのですが、一番苦手なのは図形だからと、図形を真っ先に除外する人が多かったように思います。
    高校側も、特に私立中高一貫校は、中3内容の数学を学習している時期に、「チェバの定理」「メネラウスの定理」「方べきの定理」などを学習してしまうということもあって、数Aでは、「図形」の単元はやらない、あるいは、夏休みに自習することにして終わり、というところもありました。
    だから、図形はそもそも嫌いだし、高校でもあまり学習しなかった、という人が多かったかもしれません。
    しかし、新課程では、「整数の性質」は、「数学と人間の活動」という、漠然とした単元名に変わり、内容も薄くなり、共通テストの大問からは消えます。
    一方、図形は、共通テスト数ⅠAで必須単元に格上げです。
    これは、攻略しないとまずいです。

    そうはいっても、図形が苦手な子が多いです。
    なぜ多いのか?
    小学生の頃から苦手な子も勿論いますが、やはり本格的には、中学数学で挫折する子が多いように思います。
    それも、まずは、学習の入り口の段階で。

    1つには、小学校で学習してきた図形と、中学で学習する図形が、かなり印象の異なるものであること。
    だから、何を学習しているのか理解できない子が一定数現れます。
    中学で学習する図形は、まず、基礎の基礎から学習が始まります。
    つまり、用語と記号の定義から学習が始まるのですが、それへの違和感が強くて、混乱するようです。

    「算数・数学は、何か式を立てて、計算して、答を出すもの」
    という思い込みの強い子にとっては、図形問題というのは、三角形の面積を求めたり、角度を求めたりするものだという固定観念があります。
    そういう固定観念の強い子にとって、中学の幾何の冒頭は、確かにわかりづらいでしょう。

    直線とは何か。
    線分とは何か。

    2点A、Bを通る直線を、直線ABと呼ぶ。
    直線は、どちらの方向にも無限に伸びる。
    特定の点を使わずに、直線 ℓ と表すこともある。

    そんなところから学習が始まるので、何の話なのかわからない・・・。
    そこに、本人の多少ののみ込みの悪さが加わると、さらに大変です。

    例えば、角の表し方。
    △ABCの頂点Aのところの内角を、どう表すか?
    ∠A と表すことも可能ですが、3点を用いて表すならば、
    ∠BAC です。
    ∠CAB でも構いません。
    これがなかなか身につかない子が、います。

    Aのところの角なのだからでしょうが、どうしても、Aから始めてしまうのです。
    ∠ABC
    と言ってしまいます。
    「うーん、違います。角の表し方は、折れ線みたいなイメージで、まず、全然関係ないところの点を言って、そして、曲がり角の、つまり言いたいところの点を言って、それから、また全然関係ないところの点を言うと、その角を表せるんですよ」
    「・・・?」
    「わかります?」
    「・・・」

    これは、一度間違った思い込みをしますと、かなり尾を引くミスです。
    角を正しく指摘できないのですから、その後の図形学習の遅れが大きくなります。
    問題で指定している角がどこの角なのかわからない、という課題も生じます。


    そもそも、問題が何を要求しているのかよくわからない、という場合もあります。
    例えば、図が与えられていて、図中の角をどう表すかに関する問題。

    問題 右図のア~ウの角を、図中のA~Hの記号を用いて表しなさい。

    アの角は∠BAC、イの角は、∠EBA などと答えれば正解の問題です。
    そこで、

    ∠ア 、∠イ

    といった誤答をしてしまう子もいて、混乱に拍車をかけます。
    「いや。違います。そういうことじゃないんです。そういう問題じゃないんですよ」

    とはいえ、角を表す記号「∠」を使えているから、その点は、一歩前進しているのか?
    角アを∠アと表して、何がいけないのか?
    いやいやいや、でも、この問題の趣旨はそういうことではないんだけど。
    問題文を読む習慣がないのかな?
    うーん。
    そもそも、数学なのにやたらとアルファベットが出てくることだけでも、実はストレスで、それで無意識に避けて誤答してしまうのだろうか?
    教える側も、そんなふうにいろいろ考えて過ぎてナーバスになってしまったりもします。

    △という記号も、慣れるまでは時間のかかる子もいます。
    △ABCを、
    「さんかくABC」
    と読む子もいます。
    「うっ。いや、それは、三角形ABCです。『形』をつけてください。そこは省略しないです」
    そういえば、この子は、「×」の記号も「かけ」と省略して読むけど、何でなのかなあと、そんなことも思ったりします。
    「±」も、おそらく、「ぷらまい」と読むようになるんだろうなあ。
    何でちゃんと読まないのかなあ。
    いや、伝わるからいいんだけど。
    でも、さすがに「さんかく」はちょっとなあ・・・。

    ・・・と、学習の本質とは関係ないところで教える者も考え込んでしまったりもします。

    正しい用語、正しい定義、正しい記号。
    中1の最初の幾何は、土台を作っている段階なのです。
    今後、語ることになる様ざまな定理。
    そこで使うことになる用語に誤解があってはならない。
    用語に対して共通認識がなければ、話が通じない。
    しかし、教わる者にとっては、まだ入口にたったばかりで、先のことなどわかりません。
    用語の定義などされても意味不明で、何のために何をしているのか全くわからないのでしょう。

    前にも書きましたが、この土台を学校の独自テキストで学習すると、さらに違和感が強く、何を学習しているのか全くわからなくなる子が増えます。
    生徒にしてみれば、感覚はまだ小学生。
    面積や体積の計算をするのが図形問題、という感覚です。
    それなのに、直線がどうの角がどうの、平行がどうの、垂直がどうのと延々やっているので、意味がわからない・・・。
    だから、入口でつまずいてしまう子が多く現れます。

    そうして、初めて学習する者にとっては意味のわからない定義と用語の確認の後、何が始まるのかというと、学習はいきなり飛躍します。
    平行移動、対称移動、回転移動。
    半分以上は小学校の復習なのですが、小学校で学習したことなど全部忘れている強者も多いので、どの線分とどの線分の長さが等しいとか、ここの角の大きさはどうなるかとか言われても、ついていけない・・・。
    そして、そもそも、何で図形を移動させるのか、その根本がわからない・・・。
    図形を移動させるって、どういうこと?
    この学習は、何のために、何をやっているの?

    このあたりで、もう図形は「意味のわからないもの」になってしまいます。

    初めて学習することは、違和感が強いものです。
    主観でものをとらえやすい子ほど、抵抗感が強くなります。
    算数から数学への壁は厚く、高い。
    結局、中1の図形内容は、何をやっているのか全くわからなかった・・・。
    そんなこともあります。

    でも、大丈夫です。
    繰り返し学習していくなかで、違和感は徐々に薄らいでいきます。
    最初はどうなることかと思った子も、中2の図形内容である「三角形」「四角形」を学習する頃には、角の呼び方がおかしいというような基本ミスはほぼなくなります。
    焦らないこと。
    そして、諦めないことです。

    そして、本当の困難は、ここから始まるのです。
    中2の図形内容は、定理が次々と登場します。
    これを使えないと問題を解けないのですが、定理を覚えられないし活用できない子が多く現れます。

    それは、高校まで尾を引きます。
    例えば、
    「二等辺三角形の頂角の二等分線は、底辺を垂直に二等分する」
    という定理は、中2の数学内容ですが、図形が苦手な高校生でこの定理を使える子は少ないです。
    高校レベルの図形問題の中で用いる定理のうち、中学で学習するものとしては、これと三平方の定理がツートップではないかと思うほど使用頻度が高いのですが、不可解なほど忘れている子が多いです。
    使うべき定理を使えないから、図形問題が解けないのです。
    「二等辺三角形の定理で、覚えているものを言ってみてください」
    「2辺が等しい」
    「それは、定義です。2辺が等しい三角形を二等辺三角形というんです。定理は、何か覚えていないですか?」
    「あれだ。角で、何かあった」
    「・・・なるほど」
    要するに、嫌いだから勉強しない。
    勉強しないから、覚えていない。
    覚えていないから、問題が解けない。
    問題が解けないから、嫌い。
    そのスパイラルが起こっています。

    センター試験の時代から今年の共通テストにおいても、図形問題は、他の単元に比べれば問題文を読解すべき要素が少なく、使う定理も想像がつくので、図形が得意な子にとっては得点源です。
    共通テストの図形問題で使う定理は、多く見積もっても20程度。
    どうせ、大半は、内心・外心・重心・垂心・傍心か、相似か、チェバかメネラウスか、方べき。
    それに三角比の知識と、あとは、中学の図形の知識を使うだけ。
    練習次第で習得できます。

    とはいえ、もう1つ課題があります。
    問題文に書いてある通りの図を描けない人が多いのです。
    描く図が小さすぎて、問題が進むにしたがって、書き加えた線分が重なって、訳がわからなくなる。
    平行線ではないものが、平行に見えてしまう。

    そうした課題の解決法としては。
    当たり前のことですが、もう少し大きい図を描きましょう。
    最小でも5センチ四方の図を描くようにすれば、かなり見やすくなります。
    大きい図を描く習慣を持つだけで変えていけることがあります。
    あるいは、線がごちゃごちゃしてきたら、新たに図を描き直しましょう。
    気軽に図を描くことができず、頭の中で処理しようとすると、図形問題は難しいです。
    また、本当は鈍角三角形なのに鋭角三角形を描いているから、その先の辻褄が合わなくなる、ということもあります。
    「それ、△ABCは鈍角三角形ですよ」
    「・・・どうして、鈍角三角形だとわかるんですか?」
    「問題に、cos∠BAC<0 と書いてあるからです」
    「・・・!」

    使うべき知識を使えないので、問題が見えないのです。
    すべての知識を使えるようになればいいだけです。
    身につけるべき知識の総量は明確です。
    どこまでいっても、さらに限界を超えたような応用問題が出てくる他の単元と比べると、図形問題は穏当です。
    苦手意識を持たないこと。
    苦手意識を捨てること。
    コツをつかめば学習しやすいのが、図形問題です。

    諦めずに、挑戦し続けましょう。


      


  • Posted by セギ at 17:25Comments(0)算数・数学

    2024年02月13日

    勉強を自分でどう進めていくか。


    生徒から家庭学習のやり方について質問されたことがあります。
    今は何をやっているのか尋ね返すと、学校から配布された問題集をこつこつ解いているということでした。
    間違えた問題はチェックして、翌日、3日後、10日後に解き直していると言います。
    そう聞く限り、何も問題はないので、
    「それでいいと思いますよ」
    と応えると、
    「・・・こなしているだけじゃないかという気がして」
    というのです。

    ・・・いや、それをこなせるのは、それだけで凄いですが・・・。

    本人がやると決めたテキストなのに、まるでこなせない。
    宿題も、まるでこなせない。
    そういう子たちと七転八倒してきた経験のほうが多いものですから、つい、夢物語を聞いているような気分になってしまい、その子が本当に問いたいことは何だったのか、上手く把握できませんでした。

    では、自分のこととしてはどうか?
    何かを学ぶ際に、私はそれを学ぶのに最適な教材をこなしていけば、それで学力が上がった経験を重ねています。
    教える側の人間は、大体そうなのかもしれません。
    しかし、誰もがそうとは限らないのも知っています。
    同じ学習をしていても、ただこなしているだけになり、身につかない人もいます。
    一方、上のような丁寧な解き直しなどしなくても、問題を1回解くだけで深い学習が可能な人もいます。

    間違えた問題を、解き直す。
    その際に、何回解き直しても、同じことを同じように間違えてしまったり、解き方を忘れてしまって、やっぱり解けなかったり。
    そういうことが表層に出てしまう場合はむしろ、課題が明瞭です。
    その問題は、身についていません。
    反復しましょう。
    理解を深めましょう。
    身につけましょう。

    困るのは、解き直したら正解できる場合。
    正解できるのだから大丈夫なのかというと、類題は解けないのです。
    どれが何の類題であるか気づかないほどに、理解が浅い。
    でも、解き直しはやっている。
    同じ問題の解き直しなら、正解できる。
    これを指して「こなしているだけ」というのなら、確かにそれはそうなのです。

    1つの問題を解く中で、吸収できる事柄の質は、人によって異なります。
    本当に表層的に、その問題の解き方しか吸収できない人。
    その問題を解いた、あるいは解けなかったことを通して、言語化できないほどに深い本質まで吸収できる人。
    それが学習能力というものなのでしょう。
    そして、学習能力を鍛えるというのは、最も行わなければならないことでありながら、最も難しいことです。


    例えば、こんな問題。

    問題 4sinθ+3cosθ=5 のとき、sinθの値を求めよ。

    簡単に解ける人もいる一方で、これはハマると全く解けない種類の問題です。
    数Ⅱ「三角関数」まで学習すると、とにかく公式が多い。
    そのどれを使うのか、判断できないことがあります。

    何をどうしていいか、全くわからない・・・。
    そういう人もいると思います。
    こんな問題は解いたことがない。
    学校の教科書や問題集をパラパラとめくってみても、ありそうでない問題です。
    例題にはない。
    典型題ではない・・・。
    シンプルな1行だけの問題なのに、厄介です。

    問題を分析できる人もいます。
    sinθ を求めよというのだから、サインだけの式を作ればいいんだ。
    コサインをサインに変えればいいんだ。
    そういう発想は持てる人。
    それだけ、学習能力は高い人です。

    さて、そこで、何を使うか?
    ここで、思いつくのが、三角関数の合成。
    サインとコサインの式をサインだけにまとめるものです。
    数Ⅱの内容です。

    やってみましょう。
    4sinθ+3cosθ
    =√(16+9)sin(θ+α)
    =5sin(θ+α)
    ただし、sinα=3/5 , cosα=4/5

    あれ・・・。
    αが、暗記している角度ではない・・・。
    3辺の比が3:4:5の、見慣れた直角三角形の角ではあるけれど、角の大きさは知らない・・・。

    じゃあ、加法定理?

    5sin(θ+α)=5 より
    sin(θ+α)=1
    加法定理を用いて、
    sinθcosα+cosθsinα=1
    sinα=3/5 , cosα=4/5 を代入して、
    sinθ×4/5+cosθ3/5=1
    4sinθ+3cosθ=5

    ・・・え?
    元に戻った・・・。

    ここで行き詰まってしまいます。

    三角関数の合成や加法定理を身につけているのですから、それなりに勉強しているのですが。
    例題通りの基本問題ならば、解けるのですが。
    でも、この問題は、解けない・・・。


    コサインをサインに変える方法・・・。

    これを自力で発想するのは、実際のところ難しいと思います。
    しかし、この類題を解いたことがあり、そこから吸収したものが頭の中に残っている人ならば、解くことができます。

    やってみましょう。
    4sinθ+3cosθ=5
    まず、これをcosθについて解きます。
    3cosθ=-4sinθ+5
    cosθ=-4/3sinθ+5/3 ・・・①

    これをどうするのか?
    これを公式に代入するのです。
    sin^2 θ+cos^2 θ=1 ・・・②
    という、たいていの人は覚えている、数Ⅰで学習した基本公式に。

    ①を②に代入して、
    sin^2 θ+(-4/3sinθ+5/3)^2=1
    sin^2 θ+16/9sin^2 θ-40/9sinθ+25/9=1
    25/9sin^2 θ-40/9sinθ+16/9=0
    25sin^2 θ-40sinθ+16=0
    (5sinθ-4)^2=0
    sinθ=4/5

    解き方を知ってしまえば、とても簡単。
    でも、自力では発想できないことが多い問題です。


    私たちは数学者ではないので、無から有を生み出すことは、できない場合が多いです。
    数学において、ゼロから1を発想することは、多分、できない。
    知っている公式と知っている解法との組み合わせで、入試問題を解けばいい。
    受験勉強は、そのための準備をすればいい。
    つまり、上の解法パターンが頭の中にあればいいのです。
    sin^2 θ+cos^2 θ=1
    という基本公式の使い方を知っていればいい。
    新しい問題を見たときに、この解法パターンが使えるのではないかと、発想できればいいのです。

    この問題を解くことで、それを吸収し、全く関係のない別の場面でそれを思い出して使えるのが、学習能力。
    学習能力の高い人は、問題の解き直しをしなくても、この問題をまずは自分なりに解こうとして苦しみ、解けずに解説を読んで愕然とし、でも、以後、それを忘れずに頭の中に入れておいて適宜使います。
    1回では無理ならば、何回でも解き直すことで身につける場合もあるでしょう。
    それが、翌日に解き直し、3日後に解き直し、10日後に解き直す、というやり方なのだと思います。

    ただ、それが、その問題の解き方を覚えるだけで終わるのか、他の場面で応用が効くのかは、未知数です。
    できるのかもしれない。
    できないのかもしれない・・・。
    本人の学習能力次第です。

    さらに言えば、一人で勉強していると、この解法パターンを把握できない可能性があります。
    この問題の焦点は、sin^2 θ+cos^2 θ=1 という基本公式の使い方です。
    しかし、そのことを把握できず、全体に何だか混乱したまま、何がどうなのか分析もよくできないのに解き方だけ丸暗記する、という学習の仕方をしてしまう人もいます。
    そうした人は、一度解いたことのある個々の問題は解けるけれど、応用が効かないのです。

    個別指導は、そこを補助できます。
    この問題で吸収すべき要点は何なのか。
    どういう発想のものなのか。
    それを幾度も強調し、何をどう理解し頭に入れておけばいいのかを明瞭にします。
    どういうときに、どういう発想をすればいいのか。
    そこをシステム化すると、数学が苦手だった子も、数学で得点できるようになります。
    学習とは、何をどうすることであるかの、言語化、システム化。
    とても難しいことではあるのですが。

    だから、家庭学習で何をどのようにやればいいのかという質問に、私は上手く答えられないのかもしれません。
    何をどんな量で、どんなやり方でやれば必ず学力が上がる、ということはないからです。
    勿論、ある程度の量はこなす必要があります。
    そして、宿題は解いてくること。
    その宿題で授業をするから。
    そうとしか言えないのです。

    上の問題で、sin^2 θ+cos^2 θ=1 を用いる発想を、どの類題で、どのように思いつくのか。

    これは、感覚的には、空中から突然現れるようなものです。
    問題を正面から考え、行き詰まったら後ろから考えていると、わからないところの距離が縮まる。
    距離が縮まった瞬間に放電する。
    その電気は、空中から突然現れます。
    通電し、すべてがつながります。
    そんな言い方しかできないうちは、私もまだ、言語化できていないのかもしれませんが。

      


  • Posted by セギ at 21:51Comments(0)算数・数学

    2024年02月03日

    アクティブラーニングはどうなったのか。


    セツブンソウが、都立野川公園で咲き始めました。
    上の画像がそれです。
    今週はまだぽつぽつと咲き始めたところでした。

    さて、共通テストは、今年も難しかったですが、全体の平均点はむしろ年々上がっていると聞きます。
    ということは、生徒の学力が上がっているということなのか?
    どうも、そうではなさそうです。
    学力がおもわしくない層は、もうそもそも共通テストを受けなくなった可能性が高いのです。
    学校推薦や総合型選抜という形で、自分の成績で入れる大学に進学する子が過半数。
    それもありますが、それだけでもなさそうです。

    本来、共通テストは、国公立大学を受ける子にとって必須なだけでなく、私立志望の子も、受けることがあります。
    私立大学が、共通テスト利用枠を用意しているからです。
    個々の大学入試を受けなくても、共通テストの得点で、合否を判断される枠です。

    ただ、勿論、一般受験と比べて合格人数が少なく、倍率は高い。
    共通テストは、昔のセンター試験とは違って癖が強いので、そのための準備をしなければなりません。
    準備せずに受けても、いい点は取れないので、合格しないから、意味がない。
    国公立大学が第一志望の人たちは、共通テスト対策も十分なので、「別の勉強」をする必要がなく、私立大学の滑り止めを確保する。
    そういう人たちで、共通テスト枠の合格者は上から埋まっていきます。
    ならば、私立志望の人は、受けても意味のない共通テストのために中途半端に勉強するよりも、志望校の出題傾向に合わせた勉強をしたほうがいい。
    そのように考える受験生が増えているのかもしれません。

    共通テストはセンター試験とどう違うのか?
    もう、十分わかっている人が多いと思いますが、あえて簡単に説明すれば、問題文が長いのです。
    数学ですら、読解力が必要となります。
    一方、国語や英語でも、分析力や思考力が必要となります。
    しかも、問題量が多い。
    時間内に全問解くには戦略が必要です。
    厄介です。

    すべては教育改革の一環。
    センター試験が共通テストに変わったのと同じ頃、盛んに言われるようになったのが、アクティブラーニングでした。
    しかし、今、学校では、アクティブラーニングは以前ほどは言われなくなったような気がします。
    やっても、そんなに効果があるわけではないからでしょうか。
    最初の頃は、文科省の意向を汲んで、形だけやってみた。
    効果がないのを確認して、なし崩しに、以前の授業の形式に戻った。
    そんなこともあるような気がします。
    プリントによるグループ学習の形では残っているようですが、討論の形は、すたれつつあるように思います。

    共通テストと、アクティブラーニングは、同じものを目指しています。
    思考力を問う。
    ただの暗記ではない学力を養う。
    あるいは、そういう学力を試す。

    では、そうした「新しい学習」の恩恵を生徒全員が受けたのかというと、実際はそうではなく、むしろ格差が開いた、と感じることのほうが多いのです。
    共通テストに歯が立つ子は、限られています。
    そして、そうした子たちならば、アクティブラーニングで学習を深めることもできるのだと思うのです。


    アクティブラーニングが盛んに言われた当時、それを推奨する学者がツイッターで、こういうのがアクティブ・ラーニングだと説明しているのを目にしたことがあります。

    「黒板に先生が文を書く。
    『正方形の右に正三角形が2つ並んでいる』
    これを表す図を描いてみましょう、はアクティブ。
    『隣りの人と絵を交換して、合っているかどうか確認してみよう』
    もアクティブ。
    『合っているかどうかわからなかったのはある?』
    黒板にその図を貼って、みんなで議論。十分アクティブ」

    ・・・・うわあ・・・。

    何というか、過去に引きずり込まれるような嫌悪感がありました。
    確かに、これが、アクティブ・ラーニング。
    私が中学生の頃、毎日毎日、学校で受けていた授業です。
    私は、国立大学教育学部の附属中学に通っていました。
    新しい形の授業を、有能な先生たちが実験的に行う。
    私たちは、その実験台でした。

    ツイートはさらに続きました。
    「先ほどの問題。
    □△▽や◇▽▽について
    『間違っている』
    『よくわからない』
    に手を揚げる子は当然予想されて、
    『合っていると思います』
    という子と議論になる。
    それで『正方形とは何か』『正三角形とは何か』というまさに『定義とは何か』を学ぶことになる」

    ・・・うわあ。
    いやだいやだ。

    上のツイートを見て、
    「わあ、面白そう。そういう授業を私も受けたかったなあ」
    そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
    でも、それは、今、大人として、上のように平易な課題を見るからだと思うのです。
    正しい結論がすぐにわかりますから、議論に参加できそうで「面白そう」と感じるという側面はないでしょうか。
    知識も判断力も小学生に戻って、学校でその課題を与えられる幼い自分を想像してみてください。
    そのストレスの大きさ。
    正解がわからない議論に常に参加していくプレッシャー。
    何が最終目的なのかわからない課題を積極的に解決していかなければならないのです。
    子どもには、先生の意図や、この学習の真の目的は、見えないのです。
    謎解きの喜びと同じだけ、困惑と負荷の伴う学習です。


    そもそも、子どもというのは案外保守的で、固定観念が強いものです。
    上の課題が与えられて、◇▽△という、先生が歓喜するような非凡な図を描く子は、ほぼいないと考えたほうが良いのです。
    賢い子は、「□△△」という平凡な正答の図を描くと思います。
    一方、「△□□」などの明らかに間違った図を描いてしまう子も多いでしょう。
    凡庸な正解と、ただの不正解。
    それしか現れない可能性があります。

    間違った図を描いた子の中で、自分の間違いにすぐに気がついた子は、間違ってしまった恥ずかしさから立ち直るのに時間が必要です。
    その精神状態で、後の議論に参加するのは難しいかもしれません。
    もっとまずいのは、間違った図を描いて、隣りの子にバツをつけられても、なぜ間違っているのか理解できない子が一定数いると予想されることです。
    間違いを具体的に指摘されても、なぜ間違いなのか理解できない学力層の子が存在します。
    「△□□」の図が間違っていることに本来議論の余地はないのですが、間違っている子が多ければ、それも議論しないわけにはいきません。
    しかし、それは、その授業で予定していた学びとは違うでしょう。

    先生はそれを手短に終わらせるよう、議論をコントロールしなければなりません。
    予定していた学びとは異なる、つまらないミスによる間違いに関する議論は、深い学びにはつながらないからです。

    間違った図を描いたのに、それのどこが間違っているのか理解できない子は、そこで授業に取り残されます。
    その先の議論には参加できないと思います。
    その後の議論など耳に入らず、自分の間違った図をぼんやり見つめるだけでしょう。
    そして、その子のノートには、△□□という謎の図だけが残されます。

    家庭で、保護者の方が、
    「今日は学校で何を勉強してきたの?」
    と尋ねても、
    「わからない」
    以外の応えは返ってこないかもしれません。
    ノートを見ても、謎の図しか残っていません。
    アクティブ・ラーニングには、そうなる危険性があります。

    興味深く議論の題材になるような非凡な図を生徒が描く可能性は低いです。
    賢い子たちは、□△△という、わかりやすい正解の図を描きます。
    それでは、議論になりません。
    ですから、先生は、あらかじめ用意していた図を黒板に貼ることになるでしょう。
    ◇▽△ といった図です。
    さて、これは正しい図でしょうか?

    「正方形の右に正三角形が2つ並んでいる」
    この図は、それを正しく示しているでしょうか?
    正しいと思う人と思わない人に分かれて、議論始をめるための図です。

    この図を「間違っている」と考え、しかも積極的に議論に参加してくれる生徒は、この授業にとって貴重な存在です。
    この図を間違っていると思う生徒の学力評価がそれで下がることはありません。
    むしろ、議論の中で思考が深まり、劇的に考えが変わっていくなら、先生は特にその子を高く評価する可能性があります。

    しかし、秀才たるもの、最初からこんなことはわかっていることを周囲に示したい。
    最初から、正しい答えを選びたい。
    間違った判断は最初からしたくない。
    そんなこと、本当は誰も気にしていないのに、それを気にして立ち回り、疲れ果ててしまう子もいるでしょう。
    こうした学習が、秀才にとってもストレスであるのは、そうした点です。

    繰り返しますが、大人にとっては、□も◇も正方形、△も▽も正三角形であることは自明の理です。
    正解がわかり、何のための授業であるのか、その道筋もわかるから、この議論に参加するのは楽しいことに思えます。
    □も◇も正方形であることを理解することから、正方形の定義というものに考えが至り、さらには定義とは何かまで学習を深めていくのだ。
    凄いなあ。
    楽しい授業だろうなあ。
    アクティブだなあ。
    アクティブ・ラーニングっていいなあ。
    そんな授業、私も受けたかったなあ。
    そう思うかもしれません。

    しかし、好きでも得意でもない高等数学で、課題を与えられ、多様な解き方を示されて、どれが正しい解き方かを議論することを要求される自分を想像してみてください。
    恐怖しませんか?
    どれが正しい解き方か、どの解き方が一番合理的かなど、見てもわからないのだとしたら。
    議論に参加できる可能性がゼロなのだとしたら。
    そんなのはいいから、正しくて簡単な解き方を1つ教えてくれ、それを覚えるから、となりませんか?
    小学生にとっては、上の課題はそういう課題です。
    「定義とは何か」にまで学習を深めることができる子は、少数です。
    一握りの秀才の学力は飛躍的に伸びますが、大多数の子を置き去りにする可能性があります。

    新しい学習のように言うけれど、私が中学生の頃と何も変わりません。
    結局、日本の教育はこの40年、ここから一歩も先に進んでいないのかもしれません。
    私は、そのような授業でよく発言していました。
    あれは、面白い授業でした。
    当時の深い学びが、今の自分につながっていると、言えば言えるのかもしれません。
    それでも、ある種ぞっとする感じがつきまとうのです。
    深い霧の中で目的も定まらず、ただ生き残るために全神経を張り詰めるサバイバルゲームを常に続けていたような。
    自分は闘いたくはないのに、常に闘いを強いられていたような。
    そして、その授業でほとんど意見を言うことはなく、
    「勉強がわからない」
    「学校がつまらない」
    と言っていたクラスメートたちの顔が浮かぶのです。

    この仕事をするようになって、国立大学の附属中学に通う生徒の個別指導を受け持つ機会が幾度かありました。
    私の頃と同様に、そうした学校では実験授業が行われていました。
    アクティブ・ラーニングです。
    「学校の授業は、何をやっているのかわからない」
    「学校の授業は、勉強のできる何人かと先生が話しあっているだけ」
    同じような感想を異口同音に聞きました。

    そういう学校は、授業は難解でも、定期テストは、特別難しい問題が出題されるわけではありません
    前半は易しい基本問題、後半にいくにしたがって、難度を増していく、良問ぞろい。
    実験授業を行っている先生たちは有能ですから、テストもほれぼれするような構成になっていることが多かったのです。
    しかし、私が個別指導をすることになった子たちは、そのテストの基本問題さえ正解できていませんでした。
    単なる1次方程式や連立方程式の計算問題が解けないのでした。
    普通の公立中学に通っている数学が「2」の子だって、それくらいは正解するのに。

    国立の附属中学校は、私立の中高一貫校のように進度を速めた授業をしているわけでもありません。
    学年相当の普通のことを学んでいました。
    ただし、実験的な手法で。
    アクティブ・ラーニングで。
    学校の授業で何をやっているのかわからないので、家でも何を学習して良いのかわからず、テストに何が出題されるのか、わからないというのです。

    その子たちにも原因はあります。
    せめて、家に帰ったら、コツコツと基礎的学習をしたら良かったのです。
    そうした学校は、普通の教科書に沿った普通の教科書準拠ワークを生徒に配布していました。
    それをコツコツ解いたら良かったのです。
    学校で何をやっているかわからないから勉強しない、というのは言い訳です。
    学校の授業を口実に勉強しないでいるだけです。

    私が個別指導を担当した、学校の授業内容がわからず成績不振に悩んでいる子たちは、学習習慣が身についていない子ばかりでした。
    塾で基本を丁寧に教え、それについて復習するだけの宿題を出しても、解いてきませんでした。
    1週間後、塾に来る直前になって慌てて手をつけ、上手く解けず、もう忘れた、わからなくなったと言い訳することが多かったのです。
    宿題を解いてくるようになるまでが、まず第一関門。
    錆びついた巨大な機械に油を差し、動きだすようにするまでには、大変な時間と労力が必要でした。

    でも、その子たちだけを責めて、切り捨てるのは、いかがなものか。
    学習目標を明確に提示し、何を覚え何ができるようになれば良いかを示された授業で懇切丁寧に教えてもらえていれば、彼らはそれほどの学業不振にはならなかったでしょう。
    アクティブ・ラーニングは、両刃の剣です。

    もう一つ言うならば。
    ◇が正方形に見えない子、▽を正三角形と認識できない子は、いつの時代にもいます。
    学校でのクラス全体の議論や、グループ・ディスカッションには参加できず、学校でどのよう結論が出されようとも、◇は正方形ではない、これはひし形だ、と心の中で思っている子はいます。

    そうした子が何をどのように誤解しているのか、それを明らかにしていくことでしか解決のつかないことがあります。
    時間はかかるかもしれませんが。

      


  • Posted by セギ at 18:11Comments(0)算数・数学

    2024年01月24日

    中1数学「正負の数」。正負の数の加法・減法。


    もう4年前になりますが、中1の生徒の数学の宿題の答が、こんなふうだったことがあります。

    (+3)+(+5)
    =(+3)-(-5)
    =-2

    当時は、コロナ禍が始まったばかり。
    学校が突然休校になり、卒業式もなく小学校を卒業したその子は、中学に入学後も登校する機会は限られていました。
    私も、リモート授業を導入した時期です。
    生徒にとっては、とにかく、学習する機会が少ない。
    中学の最初の学習を、自習しなければならない。
    大変なハンデでした。

    そうした数々の困難があったとはいえ、しかし、この宿題の出来は、ありえないんじゃないか?
    これは、小学校の1年生で学習する
    3+5
    と同じなのに。
    答は、当然、8なのに。

    そう思う人もいるでしょう。
    特に保護者の方ならば、この答案を見たら貧血を起こしそうになるかもしれません。
    しかし、これは、そう珍しい現象ではありません。
    学習の初期に、こうなってしまう中学生は、います。
    そして、このまま、正負の数が全くわからなくなるのかというと、そういうことはありません。


    ただ、そのままでは課題があるのも事実です。

    中1「正負の数」は、数学の学習の中で、もっとも簡単なようでいて、教えるのは難しいものの1つです。
    基本中の基本になるほど、それを「わからない」という子に説明するのは困難を極めます。
    一応わかったのだろうと安心するのは禁物です。
    「正負の数」の単元の終わりに復習すると、
    (+3)+(+5)=-2
    といった答案を再び目にし、愕然としました。

    何で?
    それは、小学校1年生で学習した、3+5よ?
    答は8に決まっているでしょう。
    なぜ、中学に入ったら-2になると思うの?
    なるわけないでしょう?

    といった「常識の押し付け」は、しかし、教える者と教わる者、両者にとって不幸です。

    それは、「正負の数」の体系が、その子の中に形成されていないということなのです。
    いや、むしろ、算数・数学の基盤が形成されていなかったのです。
    算数の学習が、小学校の低学年からやり方の丸暗記に終始していたのかもしれません。
    だから、その子にとっては、やり方をちょっと間違ったためにそんな答になっただけで、深い意味はないのでした。
    そして、それは、小学校の低学年から延々と続いてきた学習習慣で、そう簡単には改められなかったのです。

    (+3)+(+5)
    =(+3)-(-5)
    =-2

    ところで、この答案の2行目は、数学的には間違っていません。
    そんなことをする必要がないのにそんなことをしているから、正答が出ないだけです。
    (+3)+(+5)
    =(+3)-(-5)
    は、正しい変換です。


    「正負の数」は、まず、正負の数の意味から学習が始まります。
    正の数と負の数が存在することは、大半の子が理解できます。
    寒暖計の目盛りの-10℃など、負の数の存在は、幼い頃から目にしています。
    そういうものが存在することは知っているのです。

    しかし、次の段階で早くもつまずく子が現れます。
    あることがらを、正負の数を用いて言い表す問題です。

    問題 次のことがらを正の数を用いて表せ。
    (1)-20㎏の増量
    (2)-30万円の収入
    (3)-1万人の減少
    (4)-4分の遅れ

    正解は、
    (1)+20㎏の減量
    (2)+30万円の支出
    (3)+1万人の増加
    (4)+4分の進み

    言葉遊びのようですが、後に正負の数の減法を理解するための全てがここに詰まっています。
    この言い換えが理解できないと、正負の数の減法の符号の操作は、理解できないのです。
    しかし、この問題の重要性どころか、その意味すら理解できずに通りすぎていく子は多いです。

    そうした子の誤答の例としては、
    (1)+20
    (2)+30
    (3)+1万
    (4)+4
    と、符号を+に変えただけで、㎏といった単位もついていなければその後に続く言葉も書いていない場合があります。
    問題の意味を理解していません。

    「いや。そういうことではないんですよ。その後に続く言葉も含めて、このことがら全体を正の数で言い表すんですよ」
    と説明しても、書き直したものは以下のような誤答ということもあります。
    (1)+20㎏の増量
    (2)+30万円の収入
    (3)+1万人の減少
    (4)+4分の遅れ
    後ろにつく言葉を言い換えていないのです。

    「-20㎏の増量と、+20㎏の増量は、意味が反対だと思わない?それでは、同じことを言い表したことにならないよね?」
    「え?同じことを表すの?」
    「・・・そうですよ」

    ・・・何だと思っていたの?

    やり方しか暗記しない子の多くは、また、問題文をほぼ読まないという、もう1つの習慣を持っていることがあります。

    さて、問題の指示する内容がわかったとして。
    ここでまた「やり方だけ暗記する」という悪い習慣を発動する子がいます。

    -20㎏の増量は、+20㎏の減量と言い換えれば正答らしい。
    ははあ、数字の符号を反対にして、言葉を反対にすればいいだけか。

    そのように「やり方」を把握し、それでさっさと処理する子が現れます。
    正解は出せるのですが、意味はわかっていません。
    こんなことを、なぜ学習したのか?
    なぜこんな問題が出題されるのか?
    それは、理解していません。

    意味を理解すると、これは面白いのです。
    -20㎏の増量は、+20㎏の減量。
    確かにそうだなあ。
    じゃあ、体重が1㎏増えたときは、「-1㎏減りました」って言えばいいんだ。
    1万円赤字のときは、「-1万円の黒字です」って言うんだ。
    面白い。
    ひねくれた言い方で、面白い。
    そうした言い換えを面白く感じ、頭に沁みていくなら、それが頭の中の数理の体系に静かに組み込まれていきます。

    とはいえ、
    「-5㎏の減量」=「+5㎏の増量」
    ということが、理解しづらい様子の子もいます。
    説明してもポカンとしてしまいます。
    それは、すんなりイコールではないのではないか?
    そうとは限らない、何か余白の部分のようなものがあるのではないか?
    そう感じるのかもしれません。
    これが、面白い、わかる、という子と。
    意味がわからない子と。
    その差は、確かに大きいのです。

    このことが、正負の数の減法に大きく影響してきます。


    でも、まずは、「正負の数の加法」、すなわち、たし算の学習に進みましょう。

    正負の数のたし算の考え方の基本は、数直線上の移動です。
    正の数は、原点よりも右に移動した点。
    負の数は、原点よりも左に移動した点、で表される。

    (+3)+(+5)
    これは、数直線上の原点から、まず右へ3移動した+3の位置から、さらに右へ5移動することを意味します。
    右へ3移動し、さらに5移動。
    だから、答は、+8。

    (+3)+(-5)
    これは、数直線上の原点から、まず右へ3移動した+3の位置から、左に5移動することを意味します。
    右に3移動した後、左に5移動。
    結局、原点から左に2だけ移動したことになります。
    だから、答は、-2。

    (-3)+(+5)
    これは、数直線上の原点から、まず左に3移動した-3の位置から、右に5移動することを意味します。
    左に3移動した後、右に5。
    だから、答は、+2。

    (-3)+(-5)
    これは、数直線上の原点から、まず左に3移動した-3の位置から、さらに左に5移動することを意味します。
    左に3移動後、さらに左に5。
    だから、答えは、-8。


    これを理解できない子は、ほとんどいません。
    教科書や問題集に書かれた数直線上にペン先を立てて、一所懸命右へ左へと移動させて、答を導いていきます。

    そして、これが加法の本質であり、私は今もそれを頭の中でやっています。
    頭の中の数直線で数を移動させています。
    いちいち数直線を描いたり、数直線の目盛りを数えたりはしないだけで、頭の中に数直線のイメージは常にあります。
    やり方だけ暗記する子は、おそらく、頭の中に数直線のイメージがないのだと思うのです。

    なぜ、頭の中に数直線のイメージがないのか?
    次の学習段階で、この計算方法のルールをまとめてしまうことも一因かもしれません。
    (+3)+(+5)=+8
    (+3)+(-5)=-2
    (-3)+(+5)=+2
    (-3)+(-5)=-8

    これからわかるルールは?
    同符号のたし算の答は、その符号で、絶対値の和。
    異符号のたし算の答は、絶対値の大きいほうの符号で、絶対値の差。

    このルールの整理は、頭の中の数直線上の移動を円滑にするための補助に過ぎないのですが、これが学習のメインになってしまう子も多いのです。
    このルールを丸暗記し、そのルール通りの操作で以後は計算しようとします。
    そして、まだこの段階では、大きな問題は起こらないのです。


    さて、いよいよ正負の数の減法に入ります。
    ひき算です。
    (+3)-(+5)
    さきほど出てきた「言葉遊び」がここで生きてきます。
    「+5をひく」ことは、「-5をたす」ことと同じです。
    よって、
    (+3)-(+5)
    =(+3)+(-5)
    =-2

    (-3)-(-5)
    「-5をひく」ことは、「+5をたす」ことと同じです。
    よって、
    (-3)-(-5)
    =(-3)+(+5)
    =+2

    正負の数の減法は、すべて加法に置きかえて計算します。
    この世にひき算は存在しない。
    全て、たし算なのだ。
    そのように意識を切り替えるのです。

    理解していれば、何も問題はないのです。
    しかし、丸暗記で済ませている子にとっては、そろそろ重荷が増してきています。
    上のような符号の操作も、丸暗記で済まそうとします。
    -+は、+-に書き換える。
    --は、++に書き換える。
    というように。

    だから、ミスが絶えません。
    (+3)-(+5)
    =(+3)-(-5)
    =(+3)+(+5)
    =+8
    という謎の二度手間の誤答をする子もいます。
    (-3)-(-5)
    =(-3)+(-5)
    =-8
    というミスも多いです。
    やり方を丸暗記しようとして暗記できずに起こった操作ミスです。
    意味がわかっていたら、こんな誤答はしないのですが。

    冒頭の宿題の誤答は、この時期に起こりやすいミスです。
    減法を学んだ後で加法の復習をすると、全部、減法のように符号を変えるのだと勘違いしてしまうのです。
    (+3)+(+5)
    =(+3)-(-5)
    これ自体は確かにイコールで結ばれる正しい変換ですが、こんなことをする必要はありません。
    もともと、与式が加法なのですから、そのままで計算できます。
    でも、減法の記憶が強く、加法も減法のように符号を変えてしまったのでしょう。
    ただの操作手順でやっているから、そういうミスが起こります。

    こんな簡単な正負の数の計算で誤答していると、多くの大人はこれを見て驚いてしまいます。
    でも、その驚きは不毛です。
    誤答しているから驚いているだけではないかと思うのです。
    単なる手順の丸暗記で解いていても、正答していれば、驚かない。
    手順をミスしているから、驚く。
    それだけのことかもしれないからです。
    やり方だけ覚えて正しい答が出せればそれでいいのなら、そんなのは、大抵の子は、いずれ出来るようになります。
    中3になっても、正負の数の計算でしくじる・・・という子は少数です。
    やり方だけなら、いずれ身につきます。
    4年前の子も、すぐにそんなミスはなくなりました。

    ただ、意味を理解する学習は、その後も本当に大変でした。
    意味がわかっていないまま、ただ手順を暗記しようとしていると感じる度に、それを阻止し、意味に戻りました。
    それでも、本人は、作業手順を暗記するだけのほうが楽なので、どうしてもそちらのほうに行こうとしました。
    先回りして、それを阻止する。
    その繰り返しでした。
    意味がわかっていないのに、正答だけ出ていても、それではダメです。
    高校数学に進めば、確実に挫折します。
    それは、
    (+3)+(+5)
    =(+3)-(-5)
    =-2
    と誤答してしまう状態と、そんなに違わない、と私は思うのです。


    数学は、丸暗記で済ませているといずれ限界がきます。
    意味を理解しなければ、先はありません。
    「正負の数」という単元で、何よりも学んでほしいのは、このことです。
    意味を理解して学んでください。
    頭の中に常に数直線をイメージし、実感で計算してください。


      


  • Posted by セギ at 12:51Comments(0)算数・数学

    2024年01月16日

    共通テストで失敗したと感じたら。2024年1月。



    さて、共通テストが終わりました。
    共通テスト、あるいはその前のセンター試験の思い出といえば、生徒が英語で失敗したことです。
    うちの塾で英語も数学も学習していた子と、数学のみだった子と、2人、時期は違いますが、それぞれ東京外語大に進学した子たちがいます。
    どちらも、英語は得意だったのですが、なぜかセンター試験、あるいは共通テストの英語でしくじっていました。

    ・・・何で?

    2日目の数学で起死回生の挽回を図り、二次試験も頑張って、無事に志望校に合格していきましたので、めでたしめでたし。
    だから、あまり気にしなかったのですが、よく考えたら不思議な話でした。

    模試でも、過去問を解いても、9割以上は得点していた子たちでした。
    それが、なぜ、センター試験・共通テストで失敗したのか?
    そして、なぜ、そんなに得意ではない数学で挽回したのか?

    考えてみて、ようやく気づいたのは、その子たちは、共通テスト前の2週間ほど、苦手科目ばかり勉強していたのかもしれない、ということでした。
    得意科目は、得意だから、もう大丈夫。
    苦手科目のほうがどうしても気になる。
    苦手科目で、どうしても、あと10点ほしい。
    そして、苦手科目のほうが、科目数も多い・・・。
    暗記教科は最後まで気になるし・・・。
    そこで、ついつい、英語の学習が後回しになったのではないか・・・?

    どれほど得意科目でも、2週間も放置したら勘が鈍ります。
    スピードも、解析力も、微妙に下がって、何より、そのことに本人が動揺します。
    語学は、継続以外に力を持続できる方法はないのです。

    考えてみたら簡単なことでした。
    注意を喚起し、声をかけるべきでした。
    それに気づかなかったのは、私はそういう勉強のやり方はしないからでしょうか。
    得意科目も苦手科目も、順番にまんべんなくやるタイプだったのです。
    1週間の予定表を立て、1科目を1時間勉強したら、ノートに描いた棒グラフをひとマス分塗っていました。
    何かの影響で、あまり勉強していない科目があれば、予定を立て直し、同じ時間になるように調整しました。
    何でそういうふうにしていたのか?
    これは性格的なことでしょう。
    それで問題が生じなかったから・・・としか説明のしようがありません。

    むしろ、そんなやり方のほうが、「何で?」と思われるのだろうと思いますし、そこまで厳密に学習時間を同じにしなくていいと思います。
    そして、直前に苦手科目ばかりに時間をかける人の気持ちも、わかるのです。
    得意科目は、もう93点が94点になるかどうかの話で、これ以上の伸びはないだろう。
    でも、苦手科目なら、直前に頑張れば、あと10点、もしかしたら20点、伸びるかもしれない。
    また、苦手というわけではなくても、暗記科目は、直前に時間をかけたい。
    考えれば、その気持ちは、わかります。

    でも、気づいてほしいのです。
    得意科目は、長期間放置しておくと、93点が73点に下がってしまう可能性があることに。
    特に、英語は。

    とはいえ、この助言は、たとえ事前に行ったとしても、聞き入れてもらえる種類のものではないのかもしれません。
    自分で失敗して、ようやく理解できることなのだと思うのです。

    ただ、だからといって入試自体の失敗に結びつくものでもない。
    希望は濃いのです。
    本質的には得意科目なのですから、二次試験までに立て直し、得意科目にも力を入れれば、問題はありませんでした。
    共通テストの得点なんて、合否判定では圧縮されます。
    93点も、73点も、圧縮されれば大差ありません。
    二次試験は科目数も減ります。
    ここで、得意科目がどれほど得意科目であるか、披露してみせればいい。
    そうやって、みんな合格していきました。


    さて、一方、苦手科目は?
    数学が苦手科目という人は多いです。
    たとえ得意科目で失敗しても、それを挽回できるくらいに、数学は、得意ではなくても苦手ではないというところまでは仕上げたい。
    とはいえ、数学の苦手を苦手でなくすのは、英語以上に難しいことです。
    数学が苦手になるに決まっているコースを、本人が小学生の頃から見事に歩んでいる、という場合が多いからです。
    しかも、本人自身の選択で。

    小学校低学年で、算数は、理解するよりも暗記するようになってしまう子が多いのは、これまでも繰り返し書いてきました。
    この単元は、かけ算。
    こういう問題なら、わり算、というように解き方を覚えてしまうのです。
    公式を覚えて、それに当てはめるだけ。
    意味を考えないで、それをやってしまうのです。
    問題文をろくに読まないで式を立てて解いてしまうようになります。
    何の実感もなく。
    小学校の低学年から。

    そして、中学受験をします。
    受験算数もまた、暗記、暗記、暗記。
    典型題の解法の丸暗記。
    それしか、勉強のやり方を知らないのです。
    そのやり方では、受験算数は難しくて、苦手意識ばかりが募ります。

    とはいえ、第一志望とはいかないものの、中学に合格する子が大多数です。
    算数は苦手なままだったけれど、他の科目でカバーして、合格します。
    さて、その後・・・。
    この先も、数学が苦手になる一本道が待ち構えている場合があります。
    これも、もう何度も書いてきました。

    私立は、そもそも、学校の進度が速い。
    中学1年生の1年間で、中1・中2の数学を終えます。
    それも、「代数」「幾何」の2科目に分けて一気に進んでいきます。
    学校の教科書は、文科省認定のものではなく、『体系数学』などの、ハイレベルなもの。
    問題集も、『体系問題集・発展編』などの、ハイレベルなもの。
    定期テストは、学年平均点が40点台。
    数学は得点が低いのが当たり前となり、それに慣れてしまいます。
    できなくて当然の科目になるのです。
    問題集のレベルが本人に合っていないため、易しい問題ですら混乱して、わからなくなっていきます。
    しかも、まずいことに、本人は受験がやっと終わって遊びたい気持ちが強いので、学習意欲が低い。
    あっという間に数学がわからなくなります。

    さらに、困難は続きます。
    幾何の教科書が、学校の独自テキストの場合があり、これがわかりにくいのです。
    素人がパソコンで編集しました、というようなレイアウトなので、つまらないし、見にくい。
    実は、幾何は、普通のことを普通の順番で学習しているだけなのに、テキストが独自なため、何か特殊なことを学習しているように本人が誤解し、「だから普通の参考書などでは勉強できないので、もう仕方ない」と思ってしまう・・・。
    幾何は勉強のやりようがないと思い込んで、捨ててしまいます。

    しかし、私立中学側も、企業努力をしないわけではないので、上のような点はこの10年ほどでかなり改善されました。
    幾何の学校独自テキストは、激減しました。
    諸悪の根源だったので、これが何よりありがたい。
    『体系数学』などの難解な教科書を採択する学校も随分減りました。
    あるいは、使ったとしても、中学数学の内容までの学校が多いです。
    高校数学は、文科省認定の数学の教科書を使用するのです。
    問題集も、ごく普通です。
    むしろ、都立高校で採択されているものよりも易しい問題集を採択している私立高校も多いです。
    無理をしない。
    無理をさせない。
    数学に苦手意識を持たせない。

    定期テスト問題も、易しくなりました。
    私立の数学のテストは、正直言って、公立の数学のテストよりも簡単なことがあります。
    結構有名な進学校で、ここに入れたら大喜びだろう私立の数学のテストがこんなに易しいのか・・・と驚くことがあります。
    本当に基本中の基本問題、そして、応用問題ならこれが出ると予想される典型題が、丁寧に出題されています。

    そうやって保護して保護して、数学ができるような気分にさせて、何とか大学受験に向かわせる。
    必ずしも間違ってはいない。
    良い教育姿勢だと思います。
    10年前までの、大多数が数学が嫌いになるような数学スパルタ教育がされていた頃とは時代が変わりました。
    過半数は、推薦入試か総合型選抜で大学に行くので、それで大丈夫なのですし。
    一般受験をするにしても、大学入試問題も、数学は年々易化しています。
    英語の爆発的難化とは対照的です。

    しかし、そうであってすら、数学が苦手な子は存在します。
    それは、小学生の頃から、本質を理解する学習をしてこなかった子たちです。
    意味を考えない学習を、ずっとやってきた子たちです。

    あまりにも算数がわからなくて、そうやってやり過ごすしかなかったからなのか。
    理解しようと思えばできたのに、理解せずに覚えたほうが楽だと判断して、それが習い性になってしまったのか。

    その結果。
    中学数学になると。
    数直線がわからない・・・。
    座標平面がわからない・・・。
    関数がわからない・・・。
    意味を理解せずにやり方だけ覚えてきた子たちは、数学そのものにアクセスできないので、苦手が長引きます。

    数直線上の2点間の距離を一目で把握できず、例えば、-2-(-4)といった式を立てて解くしかなく、それで符号ミスをしてしまい、距離が-2になっても、自分が間違えていることに気づかない子。
    高校生になっても、y軸上の点のy座標はゼロだと思ってしまう子。
    イコールの意味がわかっていないので、3/4x+6/5xといった、係数が分数の文字式全体を何倍かして分母を払ってしまう子。
    y=-2x-4 のグラフは、感覚的に、途中から y がプラスになって大きくなっていきそうに思えて、グラフが直線だと言われても納得できず混乱する子。

    数学オンチとでも呼ぶべき、そういう「感覚」のおかしさは、数学的な基盤がないことからくるのだろうと思うのです。
    そして、その基盤は、本当は小学生の頃に言語化されないレベルで頭の中に蓄積されているものなのですが、学習のやり方が悪かったために、それが行われなかったのだと思います。

    それを改善していくための対話。
    そして、意識を改革していくための暗記ではない学習。
    正しい情報の脳への刷り込み。
    そうしたものが必要です。

    数学が好きかどうかは別として、数学がわかるようになってください。
    共通テストで、あなたを救うのが、予想もしなかった数学であることは、案外あるかもしれないのですから。



      


  • Posted by セギ at 14:24Comments(0)算数・数学英語

    2024年01月01日

    冬休みなので難問を。正四面体を2色で塗る問題。


    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願い申し上げます。
    さて、冬休みなので、恒例のちょっとした難問を。

    問題1 正四面体の各面を2色の絵の具で塗る方法は何通りあるか。ただし、正四面体を回転させて一致する塗り方は同じとみなす。また、使わない色があってもよく、隣り合う面が同じ色であってもよいものとする。

    さて、自分で考えたい人は、ここでいったん閉じて、考えてみてください。

    この問題。簡単そうに見えて、意外に難しいのです。

    うーん?
    4つの面に1から4の番号を振って、考えればいいのかな?
    1つの面の塗り方は、2通り。
    4つの面では、塗り方は、2×2×2×2=16(通り)?
    でも、これでは、回転すると同じになる塗り方のことを考えていない・・・。
    では、回転すると同じになるのは何通りあるのか、考えればいいのかな?
    どの面を底面でとらえるかで、4通り?
    じゃあ、4で割って、答は、4通り?
    いや、円順列的なことも考えないとダメかな?
    じゃあ、4で割って、さらに底面以外の3面を円順列で考えると、2!だから、
    結局、8で割って、2通り?
    え?
    塗り方が、2通りしかないなんてことある?
    具体的に考えたって、全部同じ色で塗る塗り方だけで、もう2通りなんだけど・・?
    じゃあ、底面も含めての円順列で考えて、16通りを、3!で割る?
    16÷(3×2×1)
    え?
    答が自然数にならないんですけど・・・?

    この考え方の何がいけないのか?
    どのように色を塗っているのかによって、回転すると同じになる塗り方は違ってくるのです。
    だから、全部ひっくるめて、4×2!で割るとか、まして、3!で割るとかでは、正しい答は出ないのです。


    さて、ここからは解決編。
    面を基準に考えていたのでは、上のようにわからなくなります。
    これは、色の塗り方を基準に場合分けすると、比較的簡単に解けます。
    もっと簡単な解き方もあるかもしれませんが、わかりやすく場合分けする方法で解説します。

    (1) 4つの面をすべて同じ色で塗る場合。
    塗る色の選び方は2通り。

    (2) 4つの面のうち、3つの面を同じ色で塗り、残る1面を別の色で塗る場合。
    3面を塗る色の選び方は2通り。
    残る1面の塗り方は、残る色に自動的に決定。
    よって、2通り。

    (3)4つの面のうち、2つの面を同じ色で塗り、残る2面を別の色で塗る場合。
    これは、1通りしかありません。
    2面対2面で対等だからです。
    それはどの面を底面にして回転しても、同じ塗り方になります。

    (4)4つの面のうち、1つの面を1色で塗り、残る3面を別の色で塗る場合。
    これは、(2)と同じ塗り方なので、数える必要はありません。

    よって、(1)~(4)より、
    2+2+1=5
    答は、5通り です。


    さて、少し応用をやってみましょう。

    問題2 正四面体の各面を3色の絵の具で塗る方法は何通りあるか。ただし、正四面体を回転させて一致する塗り方は同じとみなす。また、使わない色があってもよく、隣り合う面が同じ色であってもよいものとする。

    さて、上の考え方ならば、もう簡単でしょうか。
    以下は、解答です。

    (1) 4つの面をすべて同じ色で塗る場合。
    塗る色の選び方は、色の数だけありますから、
    3通り。

    (2) 4つの面のうち、3つの面を同じ色で塗り、残る1面を別の色で塗る場合。
    3面を塗る色の選び方は3通り。
    そのそれぞれに対し、残る1面の塗り方は、残る色の2通り。
    よって、3×2=6 で
    6通り。

    (3)4つの面のうち、2つの面を同じ色で塗り、残る2面を別の色で塗る場合。
    2面対2面で対等。
    それはどの面を底面にしても、同じ塗り方になるのは、問題1と同じです。
    あとは、2色の選び方です。
    3色から2色を選ぶので、組み合わせの公式で考えて、
    (3×2)÷(2×1)=3 で、
    3通り。

    (4)4つの面のうち、2つの面を同じ色で塗り、1つの面を別の1色、残る1つの面をさらに別の1色で塗る場合。
    2面を塗る色の選び方は3通り。
    そのそれぞれで、残る1面ずつの色の選び方は1通りに決まります。
    これは、その2色の順番を考える必要はありません。
    回転させれば同じ色の塗り方だからです。
    よって、3通り。

    この他に色の塗り方はありません。

    よって、(1)~(4)より、
    3+6+3+3=15
    答は、15通り です。

    さらに応用。

    問題3 正四面体の各面を4色の絵の具で塗る方法は何通りあるか。ただし、正四面体を回転させて一致する塗り方は同じとみなす。また、使わない色があってもよく、隣り合う面が同じ色であってもよいものとする。

    もう簡単だと思いますよね?
    しかし、これは、落とし穴が待っています。
    気をつけて。

    以下が解答です。

    (1) 4つの面をすべて同じ色で塗る場合。
    塗る色の選び方は、色の数だけありますから、
    4通り。

    (2) 4つの面のうち、3つの面を同じ色で塗り、残る1面を別の色で塗る場合。
    3面を塗る色の選び方は4通り。
    そのそれぞれで、残る1面の塗り方は、残る色の3通り。
    よって、4×3=12 で
    12通り。

    (3)4つの面のうち、2つの面を同じ色で塗り、残る2面を別の色で塗る場合。
    2面対2面で対等。
    それはどの面を底面にしても、同じ塗り方になるのは、問題1と同じです。
    あとは、2色の選び方。
    4色から2色を選ぶので、組み合わせの公式で考えて、
    (4×3)÷(2×1)=6 で、
    6通り。

    (4)4つの面のうち、2つの面を同じ色で塗り、1つの面を別の1色、残る1つの面をさらに別の1色で塗る場合。
    2面を塗る色の選び方は4通り。
    残る2面の色の選び方は、残る3色から2色を選ぶので、3通り。
    よって、4×3=12 で、
    12通り。

    (5)4つの面を、1色ずつ別の色で塗り分ける場合。
    これは、1通り・・・?
    ・・・いいえ。
    ここが、落とし穴です。

    一番上の図を見てください。
    雑に描いた図なので、汚くてすみません。
    正四面体の展開図に、A、B、C、Dと書き込んであります。
    それぞれが、A色、B色、C色、D色だと思ってください。
    この展開図を組み立てます。
    上に描いた、2枚の展開図。
    組み立ててみると、この2枚は、色の配置が異なるのです。
    どう回転させても、左の展開図の正四面体は、右の展開図の正四面体とは色の配置が異なるのです。
    真ん中のA色を底面として考えるとわかりやすいと思います。
    側面が、右回りにB色、C色、D色となっているものと、左回りにB色、C色、D色となっているものは、どの向きに回転させても、決して重なりません。

    したがって、この塗り分け方は、2通り。

    この他に色の塗り方はありません。

    よって、(1)~(5)より、
    4+12+6+12+2=36
    答は、36通り です。


    うん?
    なぜ、問題3で左回り・右回り、と色分けを区別しなければならなかったことが、問題2では出てこなかったのか?
    問題2では、2色に塗った面どうしを入れ替えた位置に回転させた場合に、左回りの配置が右回りの配置となって現れるので、考えなくて良かったからなのです。
    3色での塗り分けならば、回転すれば同じ塗り方が現れます。
    4色で塗り分けると、回転しても一致しない塗り方が現れるのです。
    このあたりのことは、頭の中で正四面体を回転するイメージ力が必要になります。
    わかりにくかったら、紙で正四面体を作って、具体的に色を塗り分けて回転させてみてください。

    さて、これがわかれば、あとはもう何色でも大丈夫です。
    例えば、10色の場合の塗り方は何通りあるでしょうか。
    これも、上の解き方で計算できます。
    答は、925通り です。

      


  • Posted by セギ at 14:32Comments(0)算数・数学

    2023年12月25日

    問題の意味を考えることと、もう一度、「ひとりで解いた問題」。


    たとえば、小学生と、このような問題を解いているとき。

    問題 冷蔵庫に入っていたジュースの4/9を飲んだところ、350mL残りました。はじめに冷蔵庫に入っていたジュースは何mLですか。

    大人から見ると比較的単純な構造の割合の問題なのですが、受験勉強をしていない小学生でこれを解ける子は限られています。
    多くの場合は、
    350÷4/9 という式を立ててしまうのです。
    それは間違っていると言われると、混乱し、もうその先に進むことはできない子が多いです。

    「350mLというのは、残っているジュースです。4/9は、飲んだ分です。そこがズレていると『比べられる量÷割合=もとにする量』という公式にあてはめても、答は出ないですよ」
    そのように解説しても、目に光はやどりません。
    線分図を描いて解説しても、ポカンとしています。
    「4/9を飲んだのなら、残っている350mLは、最初にあったジュースの何分のいくつにあたるのでしょうか」
    そう声をかけても、日本語が通じていないのではないかというほどに反応がない子が多いです。

    実際、そういう説明をしているとき、私の日本語は、その子に通じていないのだと思います。
    思考体系が異なる宇宙人に解説しているような違和感をそんなとき覚えるのですが、それは、子どもにとっても同じことなのでしょう。

    では、その子は、どういう思考体系で算数の問題を見ているのでしょうか。
    おそらく、
    「割合の単元の問題は、かけ算か、わり算」
    そのような見方でこの問題をとらえているのだと思うのです。
    わり算が違うと言われたら、じゃあかけ算なのか?
    でも、こういう問題は、かけ算ではなかったような気がするけれど・・・?

    考えているのは、そんなふうなことではないのかと私は想像します。

    「冷蔵庫に入っていたジュースの全体①から、4/9 飲んだので、残りは、1-4/9=5/9 です。だから、350mLは、全体の5/9。
    もとにする量を求めるには、350÷5/9=630。答は、630mLです」
    そのように解説しても、霧の晴れた表情になることは、ほとんどありません。
    1-4/9 という式が、理解できないのでしょう。

    何でひき算?
    割合の問題なのに、ひき算?
    そもそも、1って何?

    ここが理解できない子は、中学受験生の中にもいます。

    もとにする量の割合は、➀。
    割合は、もとにする量を1と見たときに、比べられる量はどんな数で表すことができるか、それを示したもの。
    だから、割合は、たし算もひき算もできる。
    大人は、理解しています。
    例えば、3割引きの商品を見れば、つまり、それは、もとの値段の7割ということ。
    普通に、もとにする量➀、すなわち10割から3割を引いて考えます。

    しかし、子どもは、そのことが、当たり前のこととして理解できる子と、全く理解できない子に、大きく分かれます。
    そのように「割合」という単元を把握したことがないからだと思います。
    「くらべられる量」と「もとにする量」と「割合」が、頭の中に無関係に存在している子は、「もとにする量」を1と見ているということが、そもそも理解できません。
    もとにする量を➀ととらえたときに、比べられる量がどの程度であるのかを示した数字が「割合」であるということを理解していないのです。
    つまりは、割合をというものを、何も理解していないに等しいのです。

    それは、根本の定義を忘れて、解き方だけ覚えようとすることと関係があるのでしょう。

    割合の定義の最初に戻って考えましょう。
    例えばあるサッカーの試合で、Aさんは5本シュートし、3本ゴールしました。
    Aさんがゴールした割合は分数で言うと、どれだけですか?

    これは、割合がわからない子でも、答えられます。
    3/5です。
    では、全部ゴールできたのなら、その割合は?
    これは、5/5になります。
    すなわち、これがもとにする量➀なのです。
    普通のことです。

    この「普通のこと」が、頭の中でつながった瞬間、その子の目に光が宿ります。
    割合って、そういうことかっ!
    だから、「割合」という言葉なんだ。
    そもそも、そうなんだ!

    割合は、根本はこうした分数です。
    そして、分数は、式に直すと、わり算です。
    分子÷分母の式になります。
    比べられる量÷もとにする量=割合
    という公式は、このように、分数をわり算の式に直しただけのものです。
    そして、割合の式で、意味を伴っているのは、その式だけです。
    あとは、使い勝手がいいように、この式を逆算で変形した式があと2本あるのですが、それは逆算で変形しただけの式なので、意味は伴っていません。
    もとにする量×割合=比べられる量
    に関しては、ぎりぎり意味を理解することもできなくはないですが、
    比べられる量÷割合=もとにする量
    という式に、意味なんかありません。
    変形しただけだからです。
    これらの式をまとめて「割合の3用法」と呼ぶのは、変形しただけだからです。
    「3公式」ではなく、「3用法」。
    単に用法の問題で、別の公式ではないのです。

    ですから、割合は、意味をしっかり理解するところと、意味なんか関係ないとするところのメリハリが必要となります。
    そこが、常に逆に逆に作用してしまうタイプの子は、「割合」という単元で苦労します。
    意味を考えなくていいところで、意味でつまずく。
    一方、意味を考えなければならないところで、作業手順だけでやろうとしてしまうのです。


    もう何度も書いてきましたが、算数の問題は、この単元はかけ算、こういう問題はわり算、と解き方と手順だけ覚える子が多いのです。
    意味に戻って考えることがありません。
    そうした習慣が、小学校の低学年でついてしまい、そして、高校生になってもそのままである子も少なくありません。
    高校数学になってから急に「数学を理解したい」と思っても、理解するための基盤が、その子にないのです。
    小学校の算数を理解することを、してきてこなかったからです。

    意味に関して覚醒してくれれば、数学は得意科目になります。
    目を覚ませ。
    算数・数学の問題の解き方は、そういうものじゃないよ。
    手順を覚えるんじゃなく、なぜそうやって解くのか、理解しよう。
    意味に戻れるようにしましょう。
    そのように声をかけ、問いかけ、その子の脳が動き出すのを私は待っています。

    しかし、意味に戻って考えるというのは、本人の中に余程の動機がないと、なかなか始まらない作業でもあります。
    そんなとき、思い出す物語があります。

    それは、私が小学生の頃の国語の教科書に載っていた物語でした。
    教科書の終わりのほうにあった読み物で、実際の授業では扱われないまま終わりました。
    国語の教科書なのに、内容は算数の問題を解く話なので、扱わないのももっともだ、という内容なのですが、読んでいて、とても面白かった記憶があります。

    このブログで、もう10年以上前に書きましたが、もう一度改めて。
    人は、どんなときに、ものを考え、意味を考える動機を得るのか。
    そのヒントにもなると思うのです。

    物語のタイトルは、確か『ひとりで解いた問題』というものでした。
    大体、こんなふうな内容でした。
    随分昔の話ですから、細部には記憶違いもあると思いますが。

    主人公は、小学生の男の子。
    ある日、弟から算数の問題を質問されますが、解くことができません。
    しかし、「わからない」と言ったら、兄の立場が揺らぎます。
    そこで、「今は忙しい。あとで教えてやる」と言って、家を出て、時間を稼ぎます。

    問題は、こんなふうなものでした。
    「全部で24個のキャンディを、姉が妹の2倍の個数をもらうように分けました。姉と妹は、それぞれ何個もらいましたか」

    受験算数としては、易しい。
    でも、昔も今も、小学校で習う文章題ではありません。
    解き方を知っていれば簡単ですが、そうでないなら、思考力が必要になります。

    兄は、必死に考えます。
    まず、24個のキャンディを半分に分ける。それが姉の分。
    24÷2=12
    妹は、その半分。
    12÷2=6
    わかった。姉が12個で、妹が6個だ。

    ところが、弟に教えるにあたって、決して間違えてはならない兄は、ここで検算をします。
    姉が12個で、妹が6個。
    12+6=18
    あれ?
    何で24個に戻らないんだ?

    行き詰まった兄は、この問題を考えながら、歩き続けます。
    何度考えても、この考え方では、同じ式、同じ答え。
    何が違うのか、わからないけれど、検算して戻らないのだから、違うことだけは、確実。

    混乱のあれこれが、田園の風景とともに描写されていたと思うのですが、そこはもう覚えていないので割愛します。

    立ち止まって、兄は、地面に木の枝で絵を描きます。
    なぜ、姉は、妹の2倍のキャンディをもらったのだろう。
    エプロンドレスを着た、2人の女の子の絵を描いて、考えこみます。

    そして、思いつくのです。
    そうだ。
    姉は、ポケットを2つ持っていたから、妹の2倍のキャンディをもらえたんだ。
    そう考えて、姉のエプロンにポケットを2つ、妹のエプロンには、ポケットを1つ描きます。

    ポケットは、全部で3つ。
    だから、式は、
    24÷3=8
    8×2=16
    姉が16個。妹が8個。
    たして、24個。
    絶対、これが正解だ。

    素朴なこのお話、小学生の私は、なんだかとても気にいって、何回も読みました。
    今読んでも、面白いかもしれません。

    そして、今、作業手順でしか算数数学をとらえない勉強をしている子どもたちに、この兄のようであってほしいと思うのです。

    この兄の危機感。
    この問題が解けなかったら、兄としての立場を失う。
    こういう危機感があるときに、人間は、想像以上の力を出せるのでしょう。
    でも、本当は、その力は、いつでも出すことができる力です。

    1問の意味をとことん考える。
    わからなかったら、図を描いてみる。
    受験算数を体系的に学んでいる子は線分図を描きますが、この兄の描いた、エプロンドレスの女の子の絵は、とてもチャーミングでした。

    諦めないで、歩きながらでも、考え続ける。
    1問を、わかるまで、考える。
    なんて貴重な経験なんだろう。
    なんて贅沢な時間の使い方だろう。
    この兄は、そんなに算数ができるとは思えない設定で、だから、最初は、ありがちな失敗をしているのですが、そういう子が自力で正解にたどりつくところが素敵です。
    そして、その力は、本当は誰もが持っている力だと思うのです。

    『ひとりで解いた問題』
    自分だけの力で発想を得て正解にたどりついた問題は、決して忘れないと思います。
      


  • Posted by セギ at 12:39Comments(0)算数・数学

    2023年12月14日

    証明とは、何をどう書いていくことなのか。


    今回は、三角形の合同と、それを利用した証明の進め方の話。

    証明問題は、中学生が最も苦手とするところです。
    何をどう書いていいのか、わからない子は多いです。
    証明には書き方のスタイルがあります。
    それさえ理解できれば、基本の証明問題は誰でも書いていけるはずなのですが、何かを理解しそこねて、まったく証明が書けないまま高校生になってしまっている子もいます。

    例えば、三角形の合同の証明で、こんな答案を書いた子がいました。

    △ABC≡△EFG
    AB=EF 
    BC=FG
    ∠B=∠F 
    △ABC≡△EFG 

    その子は、中学3年生からうちの教室に通い始めた子でした。
    私立の生徒で、中学数学はもう終了し、学校では、高校数学ⅠAの学習をしていました。
    とはいえ、学校の夏休みの宿題は、中学数学の復習でした。
    宿題を解いたノートを見て、私は愕然としました。

    上の5行が、その子の書いた、三角形の合同の証明のすべてだったのです。

    公立中学の子は、高校入試を控えています。
    都立高校入試は、証明問題が毎年必ず出題されます。
    空所補充形式ではなく、自力で1行目から最後まですべて書いていく、完全な証明問題です。
    そのため、学校でもかなり練習しますし、塾でも練習します。
    簡単な証明問題は、数学の成績が5段階で「3」以上の子ならば書くことができます。
    成績が「2」の子でも、ある程度は書くことができる子が多いです。

    ところが、私立中学に通う子の中に、上のように、証明をほとんど書けない子たちが存在します。
    1人だけではありません。
    何人か、出会ってきました。

    学力が極端に低いというわけではありませんでした。
    ただ、証明問題に対して、何か根本的な誤解がある様子でした。

    その子たちは、高校数学の記述答案を書いていくことにも、何か誤解があるようでした。
    図形問題に限らず、方程式でも、関数でも、答案がひどく貧弱なのです。
    解き方の過程を書いていくということがない。
    意味不明のメモの他は、答しかノートに残っていないのです。

    それは、それまでの人生の中で一番頑張って勉強した受験算数が、「答案」というものを要求されなかったことが影響しているのかもしれません。
    答案重視の入試問題を作る中学校もありますが、私立中学の入試問題の多くは、答さえ合っていればそれでいい形式です。
    途中式など、書きません。
    そんな勉強をやりこんだせいで、価値観がそれで凝り固まってしまったのだろうか?
    そう思わせるほど、数学の答案を書くということが理解できない様子の子がいます。
    方程式を解く場合ですら、途中を書きません。
    与式の次は、
    x=・・・
    と平気で書いてしまいます。
    しかも、それではいけない、ということが、理解できない様子でした。
    繰り返し繰り返し説明しても、話が通じない・・・。
    彼らの価値観と私の説明に接点がないのです。

    彼らの中では、「答」がすべてなのかもしれません。
    答が合っていれば、それでいいのです。
    その固定観念で証明問題を見ているから、何を書けばいいか全くわからないのかもしれません。

    証明問題は、結論は与えられているのです。
    ならば、本来、もう書くことは、何もない。
    それなのに、何か書け、と言われる。
    それで混乱してしまうのかもしれません。

    私立の子に、数学の記述答案が書けない子たちがいる。
    私立中学でも、そのことを意識し、定期テストは中学数学から完全記述方式の学校もあります。
    完全記述方式のテストの平均点は、中学数学と思えないほど低い。
    なぜ、中学数学のテストの学年平均点が40点台なのだろう?
    公立中学のテストと比べて、特に難しいというわけでもないのに。

    一方、一種の救済措置なのか、テスト問題の半分以上は、答だけ書けばいい形式の中学もあります。
    完全記述方式にすると、数学でほとんど得点できない生徒が多く現れるからでしょう。
    その温情が、ますます、記述ができない生徒を生んでいく・・・。



    図形の証明問題が解けないのは、別に構わないのではないか?
    大学の入試問題に、図形の証明問題が出題されることはほとんどないし・・・。

    そう思うこともありますが、中学数学で、図形や整数の性質に関する証明問題の答案、あるいは、連立方程式の答案をしっかり書いていけるようになっておくことは、高校数学の答案を書いていくための、準備です。
    何をどう解いているのか。
    どの定理を用いているのか。
    根拠を示し、式を書く。
    どのように解いたかを、読む人に伝わるように書いていく。
    中学で記述の基礎を理解した子は、高校数学に進んでも、順調に階段を上っていけます。

    一方、中学数学で記述答案の基礎を学びそこねた子は、高校数学で急に記述答案を要求されても、何も書けないのです。
    高校数学の定期テストの得点が目に見えて下がっていきます。
    高校数学のテストでは、記述答案を書いていくことが必要なことは、さすがに理解し始めます。
    でも、何を書かねばならないのか、その根本を理解できないようなのです。

    いちいち根拠を書かねばならない意味が理解できない子。
    ものの考え方が主観的な子は、そのような状態に陥りやすいのでしょう。

    どんな定理を使ったのか、答案を読む先生にはわかるはずだ。
    そもそも、この解き方を教えたのは、先生なんだから。
    テストを作ったのも先生なんだから、どう解いたか、わかるはずだ。
    だから、そんなもの、書く必要はないだろう。
    ・・・そう思っているのだろうか?
    そんなふうに推察します。


    もう1つ。
    証明がわからない原因の1つは、教わったスタイルの悪さかもしれません。
    生徒のためを思ってなのか、ものすごく簡略化した証明の書き方を教える数学の先生がいます。

    どんなスタイルか。
    たとえば、こんな書き方です。

    △ABCと△EFGにおいて
    AB=EF (仮定)
    BC=FG (仮定)
    ∠B=∠F (対頂角)
    よって
    △ABC≡△EFG (2辺夾角相当)

    これの何がいけないのか?
    このスタイルは、( )の中に根拠を書いていくのですが、根拠が常にこれほどシンプルとは限らないのです。
    また、証明は、3段論法などで、段階を踏んで説明していかなければならない場合も多いです。
    長々と書かなければならないときに、( )の中にどのように書いていいのか、生徒はわからなくなります。

    これで書けないときは、別の書き方で書くんだぞ、という話が授業中にされていると思うのですが、そういう話は、たいていの場合、生徒は聞いていないです。
    2種類のスタイルを学ぶのも、大変です。
    やはり、いつも同じスタイルで書くほうが、学びやすい。

    △ABCと△EFGにおいて
    仮定より
    AB=EF
    BC=FG
    対頂角は等しいので
    ∠B=∠F
    2辺とその間の角がそれぞれ等しいので
    △ABC≡△EFG

    根拠を文の形で説明していくこのスタイルならば、どれだけ長文で説明することになっても、論理的で、正確であれば良いのですから、書きようがあります。

    3段論法。
    すなわち、間に、もう1つの要素をかませて、それで等しいことを証明する場合。
    例えば、AB=CDをであることを言いたいときに、
    AB=AC
    AC=CD
    よって
    AB=CD
    という形で論を進めていかなければならないとき。

    これは、番号を振っていくことで、簡単に解決します。
    AB=AC・・・①
    AC=CD・・・②
    ①、②より
    AB=CD・・・③
    として、最終的には、これのうちの③のみを使用します。
    この書き方をマスターすれば、複雑な証明問題も楽に書いていけるようになります。

    これは、
    AB=AC
    AC=CD
    よって
    AB=CD・・・①
    として、証明に使うものだけに番号を振るというやり方もあり、これでも大丈夫です。
    この場合は、今話題にしている内容は一気に書いてしまうこと。
    途中で別の要素を挟んでしまうと、論理が伝わりません。
    別の要素を挟まざるをえないときは、やはり番号を振って明確に示します。

    そして、これは、一番上のような簡略化した証明の書き方では、書くのが難しいのです。


    証明問題を学びにくいのには、もう1つの原因もあります。
    自分の答案のどこがどのように間違っているのか、問題集の模範解答を見ても、わからない子がいます。
    自分に甘い子は、何でもマルをつけてしまいます。
    自分に自信がない子は、少し言葉遣いが違うだけで、バツをつけてしまいます。
    採点基準がわからない。
    証明問題は、特にそうです。

    数学の基礎は身についていて、数学センスもあり、ただ証明問題だけが苦手なのだという生徒を教える場合、1題、本人に解いてもらって様子をみれば、大体わかります。
    何が抜けているから減点されるのか。
    証明を書くためのルールの何を誤解しているのか。
    書き方のちょっとしたコツの中の何を理解できていないのか。
    そこを調整していけば、証明は、たちまち得点源になります。


      


  • Posted by セギ at 12:19Comments(0)算数・数学

    2023年11月19日

    高校数学と計算力。


    数学の場合、本人の理解力の他に、計算力という課題があります。

    説明されたことは理解できる。
    ああ、そういうことだったのか。
    疑問が晴れた。
    これなら数学がわかる。
    成績はきっと上がる。

    そう思って頑張り始めた子の前に、すぐに壁が立ちはだかります。
    正しい式を立てることができても、その後の計算が上手くいかないのです。

    例えば、ある問題で、
    -x^2+4kx+4k=0
    という正しい式を立てることができたとします。
    これを x について解くことができれば、もう正解なのです。
    しかし、それが上手くいかないのです。

    あるとき、

    x=-2±√(16+16k)

    という生徒の答を見て、私は首を傾げました。
    その子は、中高一貫校に通う子で、高校生になってから、うちの教室に通い始めました。
    2次方程式の解の公式の学習は入塾する1年も前に、すでに終わっていました。

    「・・・解の公式の、2本目のほうを使っていますか?」
    「2本目?」
    「x の係数が偶数の場合の、b' を使う公式です」
    「ああ・・・。使っていません」
    「あれは使ったほうがいいですよ?」
    「D/4は使ってますけど、あっちは別に・・・」

    あっちは別に、意味はないから覚えなかったし、使ったことがない・・・。
    そういうことのようでした。

    数学が苦手になってから塾に通い始める子の1つの傾向として、使うべき公式を使っていないために計算がもっさりしてしまう、ということがあります。

    しかし、もっさりしていても、正確に計算すれば同じ答が出ます。
    まずはもっさりと正しく計算してみましょう。

    -x^2+4kx+4k=0
    両辺に-1をかけて、
    x^2-4kx-4k=0
    解の公式を用いて、
    x=4k±√(16k^2+16k) / 2
    =4k±4√(k^2+k) / 2
    =2k±2√(k^2+k)

    しかし、その子の誤答は x=-2±√(16+16k)

    ノートを見ると、ミスの原因がわかりました。

    -x^2+4kx+4k=0
    x=-4±√(16+16k) / 2
    =-4±√(16+16k) / 2
    =-2±√(16+16k)


    「・・・これ、式の両辺に-1をかけていないのですね」
    「え?」
    「x^2の係数が負の数のとき、まず、因数分解できるかどうかを見るため、両辺に-1をかけて、x^2の係数を正の数にしますが、それをやっていますか?」
    「やってません。必要ですか?」
    「・・・絶対に必要なわけではないんですが、x^2の係数は、正の数のほうが、扱いやすいと思いますよ。そういうことをしたことがない?」
    「ありません」

    中学の頃からうちの教室に通っている子では見ることのない種類のミスでした。
    学校の授業でも注意はされていると思うのですが、そういう細かい注意は、口頭でなされるので、ノートに残らないことが多いです。
    そのため、身につかなかったのでしょう。
    あるいは、「そんなのはどうでもいい」と判断してしまったのか・・・。
    それで間違えなければ別に構わないのですが、今回の符号ミスの原因は明らかにそれでした。
    すべての符号を変えないまま計算しているのに、分母を-2 とするのを忘れたのだと思うのです。

    方程式ならばまだましですが、2次不等式の場合は、x^2の係数が負の数のまま、その都度、放物線が上に凸か下に凸かあれこれと頭をひねって解いている子を見たこともあります。
    簡単なことを複雑にしてしまっています。
    どうでもいいようなことですし、それをやらなくても正解は出せるけれど、やったほうがミスはしにくいのです。
    常に同じ計算方法を行うことで、計算は安定し、速くなります。

    また、明らかに、xの1次の項の係数-4kの「k」が飛んでしまっていました。
    解の公式を使うときに、x以外の文字はすべて係数なのですが、見落としてしまうのは、よくあるミスです。

    さらに問題は、√ の中身の整理。
    √ の中身を外に出す方法を知らなかったのか、それとも、うっかり忘れたのか。
    間違った式とはいえ、せめて、
    √(16+16k)=4√(1+k)
    と直したい。
    正しくは、√(16k^2+16k)=4√(k^2+k)
    √16=4ですから、その部分は√ の外に出すことができるのです。
    丁寧に書いていくならば、
    √(16k^2+16k)
    =√16・√(k^2+k)
    =4√(k^2+k)
    となります。
    平方根を深く理解していないと、平方根が出てくる度に計算ミスをしてしまう、ということが起こります。

    また、分母を払うならば、分子の2つの項は平等に2で約分しなければならないのですが、整数の部分のみ約分し、√ のほうは放置してしまっていました。
    このあたりも、間違えてしまう子が多いです。

    中学1年生の計算問題で言えば、

    4+3a / 8
    =1+3a / 2

    というように、4と8だけ約分し、3aはそのままにしてしまうミスをする子は多いです。
    解説するとそのときはわかった顔をするのですが、「作業手順」として覚えようとするだけで、なぜそうしてはいけないのか、本質は理解しなかった様子で、しばらく経つとまた同じミスをしてしまうのです。

    前にも書きましたが、小学校の頃だけ計算重視の塾に通っても、中学で十分に計算練習をしなかったため、小学校では学習しない種類の計算に弱い子は多いです。

    上のような文字式の約分。
    文字式の通分。
    負の数の計算。
    式の変形。
    指数計算。
    平方根の計算。

    中学で学習する計算内容に習熟していないと、高校の数学で計算力不足が大きく足を引っ張ります。
    そもそも小学生の頃から計算が苦手という場合もありますが、
    中高一貫校の生徒で、中学進学後に気持ちが緩んで、あまり勉強しなかったために、中学数学がよく身についていず、正しい計算ができない、という場合も多いです。

    特に指数計算は深刻で、2^3=6 としてしまう癖が、なかなか治らない・・・という子がいます。
    累乗が理解できないほど理解力のない子ではないのですが、学習した最初に間違えて覚えてしまったため、その記憶を修正するのが難しく、直しても、直しても、少し時間が経つとまた誤解が復活していました。
    時間が経つと、またふっとわからなくなるのです。
    指数に対するその認識で、高校数学の「数列」や、「指数関数・対数関数」を学習するのは、本当に大変でした。

    小学生のときだけでなく、中学の時期にも、数学的に重要なことを学ぶのですが、高校受験がないので定着しない・・・。
    これは、中高一貫校の最大の欠点で、意識して練習しないと、数学で浮上できなくなります。
    中1・中2とずっと勉強をさぼって、中3になってから、そろそろ・・・と重い腰を上げたものの、そうやって高校数学を学び始めても、中学数学の基礎がないので、何をやっても脆弱な計算力が障害となるのです。
    数学は、積み上げ科目なので、中学受験に成功したと気を抜いていると、後で苦しむことになります。

    「わかる」ことと「できる」ことは違うことです。
    解き方が理解できても、自分で実際に正答できるとは限りません。

    やり方がわかるだけで済むのなら、例えば誰でもピアノは弾けるでしょう。
    やり方は、見ていればわかります。
    鍵盤を叩けばいいんでしょう?

    スポーツだってそうです。
    バスケなら、ボールを持ったままにしないように注意しながら、シュートすればいいんでしょう?
    やり方は、見ていれば、わかります。

    でも、そんなものではない。

    わかっていても、できないのです。
    芸術やスポーツに限りません。
    勉強もまたそうです。
    わかるだけでは無理なんです。
    できるようになるには、練習が必要です。

    しかし、そのことに対して無自覚な人は多いです。
    勉強だけは、「わかれ」ばすぐ「できる」と思ってしまうようなのです。

    「わかる」ことを「できる」ことに変えるためには、練習が必要です。
    素晴らしい授業を聞けば魔法のように成績が上がる、というわけにはいきません。
    授業を聞く時間の何倍も自分で努力する時間が必要となります。

    高校生になって、数学が苦手になって、塾に来る。
    さて、そのときに、それでも、「わかる」ことだけを重視して「わからない難しい問題」の解説だけを聞きたいのか?
    それとも、スポーツ的に言えば、「フォーム」を改良し、数学答案の書き方と計算処理の合理的なやり方を身につけ、さらには問題文の分析の仕方、何をどのように考えるかを学ぶか?
    前者ではダメなことは、冷静に考えれば理解できると思うのです。

    幸い、そのことを理解してくれる生徒は、順調に成績が上がっています。
    本人が何年も続けてきた、もっさりした計算を改良するのは、癖になってしまっている分だけ難しいです。
    最初からスマートな計算方法を身につけるよりも大変です。

    さらに、何でも作業手順で暗記しようとする癖。
    複雑なことを単純化しようとする癖。

    こうした癖は、高校数学の問題を解く際に、大きな障壁となります。

    しかし、改善していくことは、不可能ではないのです。

      


  • Posted by セギ at 14:07Comments(0)算数・数学

    2023年11月03日

    高校数B 数学的帰納法の問題を解きながら。


    数学的帰納法。
    数学B「数列」の単元の最後に登場するのが、これです。

    問題
    数学的帰納法を用いて、すべての自然数nについて、
    1+2+3+・・・+n=1/2n(n+1)
    が成り立つことを証明せよ。


    かつて、この問題を見つめたまま凝固していた子がいました。
    「どうですか?」
    と声をかけても、無言。
    「何がわからないですか?」
    と問いかけても、やはり、無言。
    言葉が上手く出てこない子で、わからないことがどのようにわからないのか、説明できないようでした。
    それでも、辛抱強く聞き取って、その子の疑問がわかりました。
    その式は、今まで普通に使ってきたものなのに、なぜ証明しろと言われるのか、まずそれがわからない・・・。
    その違和感に凝固していたのでした。

    公式や定理を使って何か別のことを証明する問題と、公式や定理そのものを証明する問題と。
    中学生の頃から、そのあたりでモヤモヤしてしまう子は多いです。
    公式や定理を証明しなければならないのなら、証明の中で公式や定理を使ってはいけないのではないか?
    でも、解答を見ると、普通に定理を使っている証明問題も多い。
    じゃあ、何で、定理の証明をする必要があるのだろう?
    そういう、わかるようなわからないような迷宮に迷い込んでしまうのです。
    定理は一度、しっかり証明する。
    証明できた定理は、その後は、別の証明問題で、普通に使っていいんですよ。
    そう解説するとすんなり理解する子も多いのですが。

    上の問題は、初項1、公差1の等差数列の和の問題とみれば、等差数列の和の公式を使って簡単に右辺のように整理できます。
    それをなぜ今さら証明しろと言うのか?

    証明方法は他にもあるけれど、数学的帰納法という新たに学習した証明方法で、この公式を証明する問題なのです。
    これは、そういう問題です。

    そう説明すると、一応は理解したのか、笑顔を見せたのですが、やはり少し難しかったようでした。
    例題の模範解答を見ながら書いた、その子の答案は、以下のようなものでした。

    1+2+3+・・・+n=1/2n(n+1) ・・・①
    [1] n=1のとき
    左辺=1+2+3+・・・+1
    右辺=1
    よって、①は成り立つ。
    [2] n=kのとき、
    1+2+3+・・・+k=1/2k(k+1)
    n=k+1のとき、
    1+2+3+・・・+k+1=1/2n(n+1)
    よって、①は成り立つ。
    [1]、[2]より、①は成り立つ。


    数学の答案の「形骸化」というものを生徒の答案から感じることがあります。
    何をどのように解いているのか、意味はわからないけれど、例題の模範解答を真似て何か書いてみる。
    しかも、例題の模範解答は、解説が多めだと感じるので、そこは本人の判断で適宜省略する。
    そうした結果、上のような形骸化した答案が出来上がるのでしょう。

    この答案、1行目から、大きな課題を感じます。
    1行目に、結論を書いてしまっているのです。
    本人は、問題に書いてある「与式」をそのまま書き写しただけのつもりだと思うのですが、証明ではそれはまずいのです。
    この式は、まだ証明していない式。
    これから証明する式。
    だから、結論をするっと書いてはいけないのです。

    1+2+3+・・・+n=1/2n(n+1) ・・・① を証明する。

    このように書けば、読む者に、これが結論であることが伝わります。

    しかし、そうした証明文の「文脈」を、理解しない子たちがいます。
    言われていることの意味がわからないようなのです。

    あるいは、
    「そんなことは、どうでもいいことだ」
    と思ってしまうのかもしれません。
    書いて何が悪いのか?
    いつもは与式を書け書けとうるさいのに、こういうときだけ書くなと言う。
    見やすいように書いただけで、それ以外の意味はないんだから、文句言うな。

    ・・・という気持ちなのかあ?と想像します。
    本人は、それほど重要なことだとは感じていないので、するっと書いてしまいます。
    なぜ書いてはいけないのかと、反論してくるわけでもない。
    指摘されれば、笑顔でうなずきます。
    しかし、宿題は、また全部同じように書いてきてしまいます。
    定期テストでも、同じように書いてしまい、学校の先生に赤ペンで指摘されてしまいます。
    答案を見ながら、
    「これは、何回も注意しましたよね?」
    と悲しい気持ちで私が言うと、防衛的な笑顔を見せます。
    この子の笑顔は、一種の拒絶なのかもしれない・・・。

    次に、[1] の部分。

    [1] n=1のとき
    左辺=1+2+3+・・・+1
    右辺=1
    よって、①は成り立つ。

    1+2+3+・・・+n
    という左辺は、nが十分大きいときの書き方です。
    nが1ならば、この左辺は、1です。
    ここでは関係ありませんが、n=2ならば、左辺=1+2=3となります。
    1+2+3+…と、順番に n までたしていくのが左辺なので、n=1ならば、1だけで終わるのです。
    でも、そのことが、呑み込めないのでした。
    説明すると笑顔でうなずくのですが、
    左辺=1+2+3+・・・+1
    と、何度でも書いてしまうのです。

    そのように書いたら、左辺は最低でも、7より大きくなりますよ?
    それでは、左辺=右辺にはならないですね。

    そう問いかけても、反応はありません。
    そのことには疑問はないようなのです。
    いや、正確には、そんなところは気にしていないので、本人にとっては、どうでもいいのかもしれません。
    模範解答を真似て書いているだけなので、左辺=右辺になってもならなくても、知ったことではない。
    でも、例題ではイコールになっているのだから、なるんでしょう?
    そんな、他人ごとのような感じが漂います。

    左辺は、変な代入をしているのに、右辺は、
    右辺=1
    と、やけにシンプルなのも不可解です。
    これは、
    1/2n(n+1)に、n=1を代入し、暗算したのだろうと思います。
    こういう代入のときは、なぜか暗算するのもその子の特徴でした。
    右辺=1/2・1・2=1
    と書いていくことがありません。

    高校数学がほとんどわかっていないのではないかと思われる子の中に、そのように、暗算だけはやたらとする子たちがいます。
    暗算する力があることに、プライドがあるのかもしれません。
    そこが拠り所になっていて、高校数学の成績が悪いのは、今たまたまそうなのであり、本当は自分は数学はできるのだと思いたい気持ちが強いのだろうかと想像してみることがあります。
    暗算を褒められた小学生の頃は、それだけで算数が得意のような気が自分でもしたし、他人もそう思ってくれた。
    だから、今も、暗算できるときは、すぐやってしまう・・・。
    ほとんどは、中学受験をした、中高一貫校の生徒です。

    しかし、それだけではないのかもしれません。
    単純に、文字を書くことに抵抗が強いので、できるだけ字を書きたくない。
    暗算で済むところは、暗算で済ませたい・・・。
    そういうことなのかもしれません。

    数学的帰納法をよく理解している子が、

    左辺=1
    右辺=1
    よって、n=1のとき、①は成り立つ。

    と書いている場合は、わかっているのだろうから、まあいいかと、実は私もスルーしがちです。
    だとしたら、数学が苦手な子に、どうでもいいところでケチをつけているだけなのだろうか?

    いいえ。
    そうではないのです。

    左辺=1+2+3+・・・+1

    と変なことを書いてしまっているため、わかっていないことがバレてしまっているのです。
    明らかに1より大きい左辺を書いていながら、
    左辺=右辺で、①は成り立つ、と書いてしまったら、それは、バレます。
    イコールの意味をそもそも理解していないのではないか?と疑われます。
    そのため、右辺に関しても、何だろうな、これはと、採点者は注目してしまうのです。

    さて、上の答案の続きを見ます。
    [2] n=kのとき、
    1+2+3+・・・+k=1/2k(k+1)
    n=k+1のとき、
    1+2+3+・・・+k+1=1/2n(n+1)
    よって、①は成り立つ。
    [1]、[2]より、①は成り立つ。

    何を書いているのか、本人にもわからないし、読む者にもわからない・・・。
    例題の模範解答をかいつまんでまとめてみました、という答案になっています。
    数学的帰納法が、本当に本当にわからないのだなあと悲しく感じます。
    説明したのだけれど。
    その子は、笑顔で聞いていたのだけれど。
    この断絶は、どうすれば解決するのだろうか?
    突破口はどこにあるのだろうか?

    数学的帰納法による自然数に関する等式の証明問題は、ほぼすべて同じ構造です。
    まず、[1] で、n=1のときに証明したい式が成り立つことを示します。
    それは、単純に代入して、左辺=右辺になることを示すだけで大丈夫です。

    次に、[2] で、n=kのときに、証明したい式が成り立つと仮定します。

    え?
    何で?

    ここの違和感が強いようなのですが、後でわかってきますから、ここはとにかく、n=kのときに、成り立つと仮定しましょう。
    その次に、その仮定を使えば、n=k+1のときも、その式が成り立つことを示します。
    ここが頑張りどころです。

    n=kのときに成り立つならば、n=k+1のときも必ず成り立つことを示せたら、
    n=1のときに実際に成り立っていたのですから、それより1大きいn=2のときにも成り立つことを示せたことになります。
    n=2のときに成り立つのですから、n=3のときにも成り立つことを示せます。
    ここは芋づる式です。
    そのようにして、すべての自然数で成り立つことを示せるのです。

    この理屈が、わかるかどうか・・・。
    数学的帰納法が理解できるかどうかは、そこにかかっています。

    実はそんなに難しい理屈ではありません。
    でも、話の通じにくい子はいます。
    論理的な話が、理解できない。
    音声は耳を素通りし、意味をなさないようなのです。
    文字なら理解できるのかというと、それは目が滑る様子で、やはり理解できない・・・。
    その子が、理屈を理解するすべがないのです。

    おそらくは小学生の頃から、音声による説明が上手く理解できなかったのだと思うのです。
    文字による説明も、うまく読み取れなかった。
    そこで、本人は、とにかく作業手順を真似るという方法を編み出した。
    それは案外上手くいき、受験算数すら、反復を重ねることでクリアできた。
    しかし、意味はわかっていない。
    論理にアクセスする手段がない・・・。
    それでは、高校数学はわからない。
    もう、無理なのか?

    無理なら無理で、もう仕方ないのでは?
    数学を使って受験しなければいいのだから。
    少なくとも、数ⅡBを使わなければいいのだから。
    高校数学なんかわからなくても生きていける。

    そう思うこともありますし、そういう選択をする子もいます。
    しかし、その子は、そういう選択をしませんでした。
    こんなにも数学がわからないのに。
    それでも、数ⅡBまでが試験科目にある学部を一般受験したい。

    それも、推薦入試などでは面接試験があるので、それが嫌だったからなのかもしれません。
    あるいは、進路について考えること自体が嫌で、自分で調べたり学校の先生に相談したりするのを後回しにし続けた結果、一般受験をするしかなくなったのかもしれません。

    高校三年生の秋。
    受験校の過去問をやってみましょうと話すと、その子の表情に明らかな拒絶が浮かびました。
    「え?過去問をやりたくないの?」
    私が問いかけると、うつむいてしまいました。
    「・・・過去問をやっても、合格点を取れる気がしないから、やりたくないんですか?」
    「やった・・・」
    「やった?過去問をもう解いたの?全部?」
    「1回」
    「1回分だけ?1年分だけ?」
    その子はうなずきました。
    「・・・それが最悪だったということ?」
    それにも、その子はうなずきました。

    仕方ないじゃありませんか。
    今まで逃げてきたんだから。
    理解することから逃げ、考えることから逃げ、頭を使うことから逃げ、逃げて逃げて、ここまで来たんだから。

    そう思わないでもありませんでしたが、
    ここより始まる。
    そうも思いました。

    もう逃げられない。
    逃げ場はもうどこにもない。
    それを理解したら、この子は、どうするのだろう?


    問題
    数学的帰納法を用いて、すべての自然数nについて、
    1+2+3+・・・+n=1/2n(n+1)
    が成り立つことを証明せよ。

    その子の受験校の1つの過去問に、数学的帰納法による証明問題が出題されていました。
    最初にそれを解いたときは、またも上のような答案でした。
    しかし、実際に出題された過去問に対しては、意欲や粘りが違ってきます。
    数学的帰納法とは何をどうすることであるか、その子は、私の解説を真剣に聞いていました。
    話を理解しようと思えば理解できる子なのか?
    首を傾げ、考え込み、長い時間をかけた後、その子は納得した様子でうなずいたのです。
    その類題として、上の問題を宿題に出したところ、以下の答案を書き上げてきました。

    [1] n=1のとき
    左辺=1
    右辺=1
    よって、成り立つ。
    [2] n=kのとき、
    1+2+3+・・・+k=1/2k(k+1) が成り立つと仮定する。
    n=k+1のとき、
    1+2+3+・・・+k+(k+1)
    =1/2k(k+1) +(k+1)
    =(k+1)(1/2k+1)
    =1/2(k+1)(k+2)
    =1/2(k+1){(k+1)+1}
    よって、成り立つ。
    [1]、[2]より、成り立つ。

    かなりきわどい省略もされていますが、後半、式の変形の部分で、本当に理解して答案を書いているのが感じられます。
    仮定を利用して、式の一部をまず置き換えて。
    それを、証明したい式の右辺に、似せていく努力をする。
    その流れを理解している答案でした。

    ついに覚醒した。
    数学は、本当に必要に迫られた子が、受験までもうギリギリの時期に、突然覚醒することがあります。
    考えることを拒絶していた子が、考えることを始めると、頭の中でこれまでのすべてがつながるのかもしれません。
    待って、待って、待った甲斐があった。
    ついに来た。
    「正解ですよ。凄いです」
    感心する私に、相変わらず言葉は少ないものの、その子は防衛的ではない笑顔を見せました。

      


  • Posted by セギ at 14:36Comments(0)算数・数学

    2023年10月13日

    数Ⅱ「高次方程式」。ωの計算。


    画像はワレモコウ。都立野川公園で撮影しました。
    ようやく秋ですね。
    さて、今日は、ω の話。
    まずは問題から。

    問題 x^3=1の虚数解の1つを ω とするとき、以下の式の値を求めよ。
    (1) ω^12+ω^6+1
    (2) ω^10+ω^5+1
    (3) ω^7+ω^8

    高次方程式に関する問題の1種です。
    しかし、混乱する高校生が多いのが、この ω に関する問題です。
    あまりにも唐突に出てきて、違和感が強すぎる。
    意味がわからない、ということのようです。
    そもそも、読み方すらわからない、という声さえ聞きます。
    間違えて「シグマ」と読む子もいます。
    シグマは Σ。
    「数列」の学習で出てくる記号です。

    ω は「オメガ」と読みます。
    ギリシャ文字です。
    数学にギリシャ文字が出てくることに違和感があり、迷惑に感じる高校生もたまにいるようです。
    α、β 程度でも、慣れない様子で、a , b と読み間違えてしまう子もいます。
    覚えることが1つ加わって、ハードルが高くなってしまうようです。

    以前も書きましたが、
    「文字を沢山使っているのは、数学としては邪道。傍流の問題。計算問題こそが、数学の本流」
    という謎の思い込みの強い子もいます。
    おそらく、小学生の頃から、計算問題こそが算数・数学だという謎の思い込みをしていて、そして、計算は比較的得意だったのでしょう。
    自分が得意なものの価値が目減りしていくのは、確かにつらいですよね。
    文字が含まれると、答が1つにはっきり定まらないことがあるので、
    「こんなのは、数学じゃない。こんなのではない数学の問題を解きたい」
    という気持ちが強くなってしまう子もいます。
    しかし、数学は、高度なものになればなるほど、文字ばかりです。
    計算すら正しくできないのは論外だが、計算だけ出来ても仕方ない。
    そういうふうになっていきます。
    そこへの気持ちの切り替えがまず必要です。

    とはいえ、ギリシャ文字は、普段使わない文字なので、その違和感は理解できます。
    書き慣れていないので、書きにくいですし。
    ω は小文字で、大文字は Ω です。
    Ω は、「オームの法則」で有名な、電気抵抗の単位を表す記号です。
    この説明をすると、高校生の顔が微妙に和らいだりします。
    Ω は許容範囲なのでしょう。
    要するに、慣れの問題なのだと思います。

    さて、本題。
    x^3=1 の虚数解の1つが ω です。

    ところが、ω=1であるという誤解をして、上の問題を異様に簡単に解いている子がいました。
    (1) ω^12+ω^6+1=1+1+1=3
    (2) ω^10+ω^5+1=1+1+1=3
    (3) ω^7+ω^8=1+1=2

    というふうに単純に解いていました。
    これ、解き方は間違っているのですが、実は、答だけなら、(1)は正解です。
    そのことが、その子の誤解をさらに深めてしまったのかもしれません。
    たまたま答が当たっていたことで、
    「何だやっぱり自分のやり方で正しいんじゃないか」
    と自信をもってしまったのでしょう。
    わざわざ面倒なことをしなくても、ω=1を代入すれば正解が出ると誤解したのだと思います。
    そうするうちに、「虚数解」という言葉は吹き飛び、1の3乗根 ω=1、という誤解が固まったのでしょう。

    その子は、ものごとをひどく単純化してしまう癖がありました。
    複雑なものごとをまるっと丸めてしまうのです。
    そんなに簡単にできるのならば、最初から簡単に説明します。
    そうはいかないから、こうして複雑なままなのですよ?
    そう話すと、にこにこ笑ってやり過ごす。
    またその次には、まるっと丸めて、誤答。
    そういうことを繰り返してしまう子でした。

    しっかり教えたはずなのに。
    授業中は正解していたのに。
    学校でも授業を受けているはずなのに。
    宿題は、全て、ω=1で解いて、大半は不正解となっていました。

    多くのことを勝手にまるっと丸めてしまう子は、こういうことの繰り返しです。
    一歩進んで、三歩後退。
    そして、次の授業で二歩前進。
    さらに次の授業でやっと一歩前進。
    習得まで、他の子の3倍の時間と手間がかかります。


    ω は、1の3乗根のうちの、虚数解です。
    ω といういう文字で表していますが、虚数単位 i を用いて表すことも可能です。
    試しに、3次方程式として、解いてみましょう。

    x^3=1
    x^3-1=0
    因数分解の公式を使えます。
    (x-1)(x^2+x+1)=0
    x^2+x+1=0 のとき、
    x=-1±√1-4 /2
     =-1±√3i /2
    共役な2つの複素数の解が得られました。

    え?それのどっちが ω なの?
    と高校生に質問されることがあるんですが、結論としては「それはどっちでもいい」となります。
    ここも高校生には理解しづらいところのようです。
    どっちでもいいわけないだろうと思うらしいのです。
    でも、本当にどっちでもいいのです。
    解答に影響しないのです。
    上の問題では、x^3=1の複素数の解の1つを ω とする、としてあるだけです。
    どちらと限定していません。
    それは、どちらでも同じ結果が得られるからです。

    ω=-1+√3i /2 としてみましょう。
    ω^2=(-1+√3i /2)^2
      =1-2√3i+√3^2i^2 /4
      =1-2√3i-3 /4
      =-2-2√3i /4
      =-1-√3i /2
    お?
    ω^2 は、ω と共役の複素数、-1-√3i /2 となりました

    今度は、ω=-1-√3i /2 としてみましょう。
    ω^2=(-1-√3i /2)^2
      =1+2√3i+√3^2i^2 /4
      =1+2√3i-3 /4
      =-2+2√3i /4
      =-1+√3i /2
    あ。
    やはり、ω^2 は、ω と共役の複素数、-1+√3i /2 となりました。
    つまり、ω が1の3乗根ならば、ω^2 も1の3乗根なのです。

    なぜω^2 にそんなこだわって説明しているか?
    上のx^3=1に戻って考えましょう。
    x3-1=0
    (x-1)(x^2+x+1)=0
    でした。
    x-1=0 のとき、x=1。
    これは、1の3乗根の1つが1であることを表します。
    そして、もう1つの( )の中身、すなわち、X^2+x+1=0 の解 が、x^3=1の虚数解 ω です。
    すなわち、x=ω を代入すると、
    ω^2+ω+1=0
    この式は、ω^2 と ω を入れ替えても、関係は変わりません。
    どちらがどちらでも、同じことなのです。
    そして、上のような問題を解くときに、この式は使い道が多いのです。

    ここまでのところをまとめます。
    ω は1の3乗根ですから、
    ω^3=1 です。
    そして、
    ω^2+ω+1=0
    この2つのことを使って、問題を解いていきます。

    (1) ω^12+ω^6+1の値。
    ω^3=1ですから、
    ω^12+ω^6+1
    =(ω^3)^4+(ω^3)^2+1
    =1+1+1
    =3

    (2) ω^10+ω^5+1の値。
    ω^10+ω^5+1
    =(ω^3)^3・ω+ω^3・ω^2+1
    =ω+ω^2+1
    =0

    (3) ω^7+ω^8 の値。
    ω^7+ω^8
    =(ω^3)^2・ω+(ω^3)^2・ω^2
    =ω+ω^2

    うん?
    これは、これで終わり?
    いいえ。
    ω^2+ω+1=0 より
    ω^2+ω=-1
    よって、
    ω^7+ω^8=-1 
    です。

    ω がどちらの虚数解であるかは、やはり何も影響しませんでした。
    ω に関する問題は、このような知識を利用するだけの問題。
    わかってみれば得点源です
    もしもテスト中に忘れたら、x^3=1 を自分で解き直せば、ω^2+ω+1=0の式は復元できます。

      


  • Posted by セギ at 13:06Comments(0)算数・数学

    2023年10月04日

    小数のわり算から読み取れる数学力。


    小学生の算数の習熟度を見る1つの目安に、小数のわり算があります。
    もちろん、筆算の必要な小数のわり算です。
    多くのご家庭では、子どもに算数のことを質問されてから教えます。
    「子どもの勉強を見ること」=「わからないところを教える」
    になりがちです。
    そして、たいてい、子どもの質問は文章題です。
    しかし、そもそも計算が上手くできていないということがありえます。
    子どもは、計算問題については親に質問しません。
    答が間違っていても、計算ミスをしただけだろうと、親も子どもも思ってしまいます。

    文章題も心配だとは思いますが、まずは、子どもが計算している様子をじっくり見てあげてください。
    とんでもないことが起きている可能性があります。

    例題 11.985÷1.7 を計算しなさい。

    ただ計算しなさいとだけ書いてある場合は、これは、割り切れるのでしょう。
    割り切れるまで、割り進めます。

    小数点を移動させることは、たいていの子どもは覚えています。
    ただ、その意味は、理解していないかもしれません。
    わり算は、わる数とわられる数の両方を10倍しても、商、すなわちわり算の答は変わりません。
    例えば、
    10÷5=2
    100÷50=2
    1000÷500=2
    また、逆に、わる数とわられる数の両方を10分の1にしても、商は変わりません。
    1÷0.5=2

    こうした性質を利用して、わり算の筆算を行います。
    11.985÷1.7の商と、119.85÷17の商は同じです。
    そのことを利用して、わり算の筆算を行います。

    ここまでは、まずクリアできたとして。

    私が教えてきた生徒の中で、一番困った状態だった子は、筆算のわる数とわられる数を逆に書いてしまう子でした。
    119.85÷17 の場合に、119.8を左端に書き、わり算の「がんだれ」のようなものの中に、17を書いてしまうのでした。

    おそらく、わり算の筆算を最初に学習した頃は、正しく書くことができたのだと思うのです。
    多分、ノートをきれいに書くことを優先してしまったのでしょう。
    算数のノートは、左端から詰めて書いていきたい。
    だったら、わる数から書いたほうがいい。
    最初は、そうやって自分なりの工夫でやっていたことが、そのうちに、どちらをどちらに書くか、わからなくなってしまった・・・。
    そういうことのようでした。

    ノートを左端から詰めて書いていくことなんて、どうでもいいことなのに・・・。
    式に書いてある順番通りに、わり算の「がんだれ」の中にわられる数を書いていくことを常に優先していたら、こんな混乱は起こらなかったのに。
    本人の記憶では、わられる数のほうを左端に書くことになっていたはずのようで、それは間違いだと言われて混乱し、頭の中でその折り合いがつかない様子でした。
    そのようなことも後々起こりえますから、子どもがわり算の筆算をしている様子は、ときどき見て、何か不自然なことをしていたら助言したほうがいいと思います。
    算数・数学が後々苦手になる子ほど、不自然な「本人なりの工夫」をすることがあります。
    優先するべきことが違うのです。

    さて、筆算の準備は正しくできたとして。
    次に、どこに商が立つかを理解できること。
    1の中に、17は1つもない。
    11の中に、17は、1つもない。
    119の中に、17は、いくつかある。
    よし、9の上に数字が立つぞ!

    しかし、わり算の筆算の最大の課題は、商の数字がなかなか立てられないことでしょう。
    スパンと一度で「7」が立つと気持ちいいですが、「9」から立て始めて、消して、「8」を立てて、消して、それで不安になって、「6」を立ててしまう不器用な子、案外多いです。
    商の立て方が余程わからなかったのか、どのわり算でもまず「5」を立てて、そこから1ずつ上げたり下げたりして調整している小学生を見たこともあります。

    必要なのは、17×1ケタのかけ算の暗算をする能力。
    その技を伝達しなければなりません。

    17×〇のかけ算の場合、7がかなり大きい数なので、繰り上がりで、上の桁に大きい数が上がってきます。
    そのことを考えあわせていく力が必要となります。
    そして、それができない子が、現実には多いのです。
    17×いくつが、119に限りなく近くなるのか?
    17×7=119 です。
    これがスパンと暗算で求められると、わり算は速くなり、そして楽しくなります。

    次に、正確にひき算をする能力。
    今回は簡単ですが、くり下がりのあるひき算が難しいこともあります。
    ミスをしやすいところです。

    そして、もう一度、次のケタの商を立てましょう。
    この作業を忘れていて、1回で終わらせてしまう子を見たこともあります。
    わり算は一度で終わると誤解していて、その後、どうしたらいいのか、わからなくなってしまっていました。

    さて、連続して商を立てるということは理解していたとして。
    この問題は、難しいです。

          7. 
    1.7 ) 11.985
        119

    このひき算で、余りは、桁を無視すれば、85・・・。
    ここで、8の上に「0」の商を立てられない子は、多いです。
    8の中に17はないので、0を立てる。
    そして、85の中に17はいくつかあるから、5の上に何か商を立てる。
    そのことを理解していないのです。
    理屈を理解していないので、注意されたときは「0」を立てるけれど、次のときにはまた忘れてしまう・・・。
    作業手順で筆算しているだけで、意味を理解して筆算していないので、そういうことになってしまうのだと思うのです。
    そうかと思うと、関係ないときに「0」を立てたりもします。
    手順の簡略化にばかり意識がいっているので、おかしなことをやり始めます。
    桁に関する感覚が育っていないのかもしれません。
    「8の中に17はないので、0を立てる」
    こうした作業を丁寧にやっていくことができない様子です。

    8の上に0を立てて。
    そして、85の中に17は5個あるので、5の上の5を立てる。
    よし、答が出ました。
    11.985÷1.7=7.05 です。


    さて、さらに難しくなります。

    例題 11.986÷1.7 の商を四捨五入して10分の1の位まで求めなさい。

    これは、わり切れないわり算です。
    「商を四捨五入して10分の1の位まで求めなさい」が重要。
    計算力だけでなく「問題文を読む力」が問われることになります。
    そもそも、そうした問題文の指示を読んでいないので、間違える子。
    あるいは、読んでいるけれど、意味がわからない子。

    どこで、筆算をやめたらいいのか?
    「四捨五入して10分の1の位まで求めなさい」
    とあるのですから、100分の1の位まで求めて、そこで四捨五入します。
    そのことを、きちんと意味から理解している子は、2度と忘れないし、以後は自力で解いていけます。
    しかし、作業手順で覚えようとする子は、しばらくやっていないとすぐ忘れます。
    なぜ、この問題文の意味が理解できないのかは、大人にはそれこそ「理解不能」ということもあります。
    なぜ、こんな簡単なことの意味が理解できないのか?

    本当に理解できない場合は少ないです。
    ただ、算数を「理解」する習慣がない子もいます。
    低学年の頃から、作業手順の丸暗記で済ませてきたので、算数を「理解する」ということを、そもそもやったことがないし、どうすればいいのか、わからない。
    今は、こういう子が多いように感じます。

    なぜ、そうなってしまうのか?
    なぜ、理解しないで、手順を覚える方向に逃げてしまうのか?
    教えると、
    「あ、わかったわかった」
    と慌てて理解したふりをする子もいます。
    しかし、作業手順を思い出しただけなのです。
    そのまま、中学生になり、高校生になると、数学は全くわからなくなります。
    高校数学の「作業手順」は、複雑です。
    高校生になっても、作業手順でやっていけると思い込み、しかも複雑な作業を簡略化しようとするので、まるで小学生が高校数学を見よう見真似で解いているように見えてしまう子もいます。
    仕方のないことですが、そうした子の答案は頓珍漢で、加点要素がありません。
    そうした子も、理解力がないわけではない。
    ただ、数学を理解する道筋が、高校生になっても見えていないのです。

    何度も書きましたが、「理解」するのは、頭のメモリを沢山使ってしまいます。
    そんなことは無駄なので、作業手順だけ覚えて、テストが終われば忘れてしまう子たちがいます。
    また、ものを考えると、頭が重くなって、つらくなる子たちもいます。
    脳細胞にダメージが与えられている、肉体的な痛みがある、と把握してしまうのです。
    考えることが、肉体的な苦痛なのです。
    だから、深く考えることができません。

    小学校の算数は、手順だけ覚えたほうが楽かもしれません。
    表面的には、理解しても、手順だけ覚えても、結果は変わりません。
    手順だけ覚えたほうが楽だ。
    頭のメモリもそんなに使わずに済む。
    そうやって、低学年のうちに横道にそれてしまったのだろうと、私は想像します。

    頭の回転がある意味速くて、小学校の算数をなめてしまった子。
    あるいは、ものを考えるのが苦手で、わかったふりをするしかなくて、手順を覚えることで済ませてきた子。
    どちらの場合もあるのだろうと思います。

    ただ、何がどうであろうと考える方向に進む子もいます。
    斜め読みでも立式できるような簡単な文章題でも、文字が書いてある限り、それをしっかり読まずにいられない子。
    読まないで解くという発想がない。
    「手順だけ覚える」と考えたことがない。
    「わり算は、問題文の大きい数を小さい数でわればいい」といった、子どもが発見してしまいがちな誤った手順に対し、
    「そんな薄気味悪いことはできない。意味のわからないことはできない」
    と踏みとどまれる子も、また多いのです。

    11.986÷1.7 の商を四捨五入して10分の1の位まで求めなさい。
    この計算は、7.05・・・まで求め、5を四捨五入します。
    答は、7.1です。


    さて、次の問題。
    問題 11.986÷1.7 の商を100分の1の位まで求め、あまりも答えなさい。

    問題の意味が理解できても、ここで、あまりの小数点はどこでしょう?
    計算を簡単にするために、小数点を移動して筆算しますが、実際の計算は、あくまでも、11.986÷1.7です。
    あまりまで、10倍するわけにはいきません。
    したがって、あまりに関しては、元の小数点が復活します。

    答は、7.05あまり0.001 です。

    小数のわり算は、奥深い。
    計算している様子を見ているだけで、その子の課題が見えてきます。

    小学生のうちに課題に気づくことは意味のあることです。
    作業手順でない算数・数学の解き方とは、何をどうすることなのか?
    生まれてから1度もやったことのないことに挑戦することになります。
    考えるとは何をどうすることなのか?
    それがわからない・・・。
    何をどうすることかわかりかけても、頭が重くなってつらくて、脳細胞が潰れそうな気がするので、考えることをすぐやめてしまう・・・。

    そうした課題が見えてきたときに、その子を支え、励ます力が必要になります。
    一人では、多分、乗り越えられないと思うのです。


      


  • Posted by セギ at 12:47Comments(0)算数・数学

    2023年09月23日

    100a+10b+cの意味。十進法が、わからない。


    まずは、問題。

    問題 3桁の整数がある。その数の百の位の数と一の位の数を入れ換えて整数を作る。もとの数から、入れ換えて作った整数を引いた差は、9の倍数であることを示しなさい。

    典型題です。
    まずは、正解から。

    百の位の数をa、十の位の数をb、一の位の数をcとおくと、
    もとの数は、
    100a+10b+c
    百の位の数と一の位の数とを入れ換えて作った数は、
    100c+10b+a と表される。
    よって、その差は、
    (100a+10b+c)-(100c+10b+a)
    =99a-99c
    =9(11a-11c)
    11a-11cは整数だから、9(11a-11c)は9の倍数である。
    よって、もとの整数と入れ換えて作った整数との差は、9の倍数である。


    特に問題ないはずなのですが、もとの数を、
    100a+10b+c
    と表すことから、既にわからない・・・、という子もいます。

    もっと以前の、中1の「文字式」の学習で、
    「百の位の数がa、十の位の数がb、一の位の数がcである3桁の整数の大きさを文字を使って表しなさい」
    という問題も、当然、解けなかったのでしょう。

    そういう子の答は、
    a+b+c
    となっていることが多いです。
    「うーん。違いますよ」
    と私が言うと、あわてて、
    「abc」
    と直したりします。
    なぜ、aではなく100a、bではなく10bとしなければならないのか、わからないのです。

    位取りの感覚、あるいは十進法の感覚が、その子の中で育っていない。
    あるいは、その子の中で眠っていて、問題を解く際に結びついてこない。
    そういうことのように思います。

    位取りの感覚がその子の中で眠っているだけの場合、小学校の算数の問題に戻って考えると、覚醒することがあります。
    小学校の算数では、新しい桁の学習に進む度に、以下のような問題を解いています。
    例えば、千の位の数を初めて学習する際には、

    次の( )にあてはまる数をこたえなさい。

    2435=1000×( )+100×( )+10×( )+1×( )

    あるいは、本質は同じで、見た目が異なる問題としては、

    2435は、1000が( )つ、100が( )つ、10が( )つ、1が( )つ、集まってできた数です。

    逆に、

    1000が2つ、100が4つ、10が3つ、1が5つ集まってできた数は、(    )です。

    という問題も見たことがあると思います。

    いずれにしても、これを答えられない小学生はほとんどいないのですが、この問題が何の理解を確認しているのかについては、わかっていない子のほうが多いのかもしれません。
    自動的に答を出してしまい、問題の意図を理解していないのです。
    「大きな数を勉強するときに最初に必ず出てくる簡単な問題」
    「つまらない問題」
    「どうでもいい問題」
    として自動的に処理している子が多いと思うのです。

    でも、これこそが、桁の概念の根本、十進法の根幹を確認している問題なのです。

    頭の回転がある意味速く、その分だけ、頭の歯車がうわ滑りする傾向のある子は、こういう問題は、問題文をろくに読まずにちゃちゃっと解いてしまいます。
    一方で、中学生になって、
    「百の位の数がa、十の位の数がb、一の位の数がcである整数の大きさを文字を使って表しなさい」
    という問題を解く際に、その正解が、
    100a+10b+c
    であることの意味がわからない。
    なぜ、a+b+cではなく、100a+10b+cなのかが、わからない・・・。

    そういう子に、
    「小学校でこういう問題を解いたでしょう?」
    と、問いかけ、

    435=100×( )+10×( )+1×( )
    の正解が、
    435=100×4+10×3+1×5

    であることを確認した後で、
    100a+10b+c
    と見比べさせると、
    「ああっ!」と覚醒することがあります。
    小学校のときに何度も解かされた「アホみたいな問題」の本当の意味に気づいたのです。


    しかし、これでもまだ覚醒しないこともあり、ここからが、私と生徒との格闘の始まりです。
    小学校で数理の基盤を身につけてこなかったツワモノが相手の格闘となります。

    「例えば、432円の買い物をするときに、お金はどんな払い方をするかな?」
    百円玉を4枚、十円玉を3枚、一円玉を2枚。

    これが期待する模範解答なのですが、まあ、そんな答は返ってきません。
    「お金はお母さんが払う」
    「・・・ええと、自分で払うことは、ないのかな?お小遣いはもらっていないの?」
    「もらってない。ほしいものは、お母さんと一緒に買う」
    「・・・なるほど。お母さんはどういうお金の払い方をしているかな」
    「カードかスマホ」
    「・・・ですよねえ」

    中1くらいですと、こういうことはよくあることです。
    そして今後は、現金払いのさらなる衰退とともに、現金に対する実感から算数の基本を理解するということは、もっと難しくなっていくだろうと想像されます。
    百円玉1枚と、一円玉1枚とでは価値が違う。
    それは、桁が違うから。
    1円玉が10枚集まると、それは十円玉1枚と同じ価値になり、十円玉が10枚集まると、それは百円玉1枚と同じ価値になる。
    十進法の具象化として、これほどわかりやすい話はなく、子どもの頃に脳の奥までしみ込むはずのことが、何もしみ込まずに終わるのです。
    何でもお金にたとえてものを考えるのも何だかなあとは思いますか、お金にたとえても何もイメージできないというのも残念な話です。
    お金も、デジタル的な数字の羅列となり、実感を伴わない・・・。


    これとは少し違う話ですが、アナログ時計が読めない子。
    それどころか、アナログ時計を読めない大人もいます。
    アナログ時計の凄いところは、針の回転が時間の進行を表すという「置き換え」を頭の中で行っているという点です。
    時間の流れというものを、針の「回転」で表しています。
    アナログ時計が読めない人は、その根本を理解していないため、
    「短い針は意味がわかるけど、長い針が3のところにあるときに3分じゃないのが、意味がわからない」
    と言ったりします。
    それに対して、「5倍すればいいんだよ」というアドバイスをする人もいるようですが、それもまた何だか怖い会話と感じます。
    双方がデジタルでものを言っているという気がするのです。
    アナログ時計は、そういうことではなく、針の回転で時間の流れを把握するのです。
    針が1回転するときの時間の流れを全体と見たとき、今、どの割合で時間が進行しているかを、針の回転で読み取ることが可能です。
    だから、5倍しなくても、ぱっと見ただけで、時間がわかるのです。

    時間の流れを針の回転に置き換える。
    この置き換えが頭の中で自然なものになっている場合、例えば、中学受験の受験算数で、「数量を線分や面積に置き換える」ということも特に違和感なく理解しやすいと思います。
    子どもは抽象思考が苦手なので、小学生に方程式を教えても理解できない場合が大半です。
    だから、数量を目に見える形にします。
    それが線分図です。
    しかし、数量を線分で表すという根本を理解できない場合、線分で説明されても、何をやっているのか全く理解できない可能性があります。
    なぜ、仕入れの値段を線分で表すのか?
    本のページ数全体を線分で表すのか?
    値段もページも、線じゃないのに・・・。
    線ではないものを線で表す意味がわからない・・・。
    そういう状態の場合、自分で線分図を描いて問題を解くことなど、できるはずがありません。


    さて、十進法の話に戻りますと、十進法が理解できないと、高校数学で「n進法」を学習しても、怖いくらいに意味がわからないということになります。
    そもそも、自分が普段使っている数が十進法だということがわからないのです。
    2進法とか3進法とか言われても、意味がわかるわけがないのです。
    以前も書きましたが、ある高校生が、
    「普段使っている数は、十進法じゃない。だって、10の次は11で、次は12で、数は無限に続いていくんだから、十進法じゃない」
    と私に言ったことがあります。
    十進法が当たり前になりすぎて、かえって理解できなくなっているのでした。
    ここを覚醒させるのは、本当に大変でした。


    しかし、デジタル表記がすべて悪いとは限りません。
    デジタル表記を活用すれば簡単に解ける問題もあります。
    以下は、「場合の数」の問題。

    問題 0、1、2、3、4の5種類の数字を用いて表すことのできる4桁以下の自然数は全部で何個あるか。ただし、同じ数字を何回用いても良いものとする。

    4桁、と限定されたらむしろ簡単なんだけれど、4桁以下、と言われると難しい・・・。
    4桁の場合、3桁の場合、2桁の場合、・・・と場合分けして求めないとダメなのかなあ?

    それでも求められますが、もっと簡単な求め方があります。
    これは、デジタル表記で考えたらいいのです。
    たとえば、「0123」という数は、実際には3桁の数123だ、ととらえればいいのです。
    この場合、一番大きな桁にも0を用いていいということになります。

    では、千の位に使用できる数字の種類は、0を含めて、5通り。
    百の位も同様に、5通り。
    十の位も5通り。
    一の位の5通り。
    したがって、5×5×5×5=625
    ただし、この中には、すべてが0である「0000」、すなわち0が含まれています。
    0は、整数ですが、自然数ではありません。
    これを除きます。
    625-1=624
    答は、624個です。

    デジタル表記を活用するからこそ、簡単に解くことができました。


      


  • Posted by セギ at 14:22Comments(0)算数・数学

    2023年09月12日

    クールな計算のできる子は伸びます。


    数学力をどのように判断するか、さまざまな観点があると思いますが、「思考力」「計算力」の2点だけで見ても、
    思考力も計算力もある子。
    思考力に乏しいが、計算力のある子。
    思考力はあるが、計算力に乏しい子。
    思考力も計算力も乏しい子。
    の4つのタイプに分かれます。
    それもそれぞれどの程度なのか、グラデーションのある話ではありますが。

    思考力に乏しいが計算力のある子は、数学的思考のやり方に本人が気づくことさえできれば学力が飛躍します。
    中1の段階では数学の成績は「3」で、言うことも何だかトンチンカンだけれど、計算ミスはほとんどない。
    計算する様子を見ていると、地道でもっさりしたやり方ではなく、クールな計算方法を身につけている。
    暗算するところと、しっかり書いていくところのメリハリがある。
    こういう子は、いずれ大バケする可能性があります。
    問題を解く過程で対話を繰り返しながら、いずれ伸びると呑気に構えていると、予想通りに中3では「5」になった。
    そんな子を、今まで何人も見てきました。
    計算を正しくできるというのは、やはり数学的には何らかの達成を見せているのだと思います。
    計算をする際に使っている論理を思考に生かせていないだけで、思考力がないわけではなかったのだ、ということかもしれません。

    「クールな計算方法」を身につけているのが鍵です。
    計算をこのように論理的にこなしているのに、問題を解く際になぜその思考力を使わない?
    そのように感じる子は、いずれどこかの回線がつながって何とかなるだろうという予感がするのです。

    反対に「地道でもっさりした計算」というのは、しかし、多くの子がやってしまう計算です。

    例えば、25000×5000 といった計算。
    これは、25×5を計算して(暗算もできるはずです)、それに0を6個つけたらいいですね。
    小学校でも教えている計算方法です。
    習ったときは、誰でもできます。
    しかし、その単元が終わると、それをコロッと忘れて、以後ずっと、0の大行進的な筆算をしてしまう子がいます。
    そして、桁がズレてしまい、誤答します。
    そういう計算をしているのを発見する度に助言しますが、しばらく経つと、また同じ0の大行進を行ってしまう子は多いです。
    つまりは、なぜそれで計算できるのか、本質を理解していないのだと思います。
    そういう解き方があることを習ったときだけそのように計算しますが、根本を理解できていないのです。

    10進法と桁に関する感覚が脆弱なのだと思うのです。
    10個たまると、次の桁に上がる。
    10倍すると、次の桁に上がる。
    そういう感覚が育っていないのです。
    さらに、交換法則が理解できていないのです。

    25000×5000
    =25×5×1000×1000
    =125000000

    数字を上のように分解した上で、さらに交換法則・結合法則を利用して計算するのが、この計算方法の意味です。
    やり方だけ覚えるのではなく、その意味がわかっている子は、学習した後は、ずっとこの計算方法で計算します。
    意味がわかっていない子は、やり方をすぐ忘れてしまい、このやり方を自分のものとすることができないのです。

    また、例えば、312×205 といった計算。


      312
     ×205
     1560
    624
    63960

    といった筆算をすれば良いのですが、

      312
     ×205
     1560
     000
    624
    63960

    といった余計な1行を書かずにいられない子もいます。
    これも、省略するよう小学校で教えられているのですが、それを省略できることをすぐに忘れ、型通りに計算してしまうのです。

    また、例えば、25000÷5000 といった計算。
    割られる数と割る数とに、それぞれ同じ数をかけても、あるいは同じ数で割っても、商は同じです。
    だから、
    25000÷5000
    =25÷5
    =5
    と暗算できます。
    慣れてくれば、0がついたままの状態でも桁を読むことで暗算できます。
    しかし、これも、0が3個ついたまま、もっさりした筆算をする子は多いです。
    25000÷5000=25÷5 であることは、小数のわり算を行うためにも重要な考え方です。
    例えば、2.5÷0.5 をなぜ小数点を移動して計算するのかは、上の考え方がもとになっています。
    小数点の移動は、すなわち、割られる数と割る数とをそれぞれ10倍して、25÷5 として筆算しているのです。
    しかし、そのことを理解せず、ただ筆算のやり方だけを覚えている子は多いです。
    計算は意味を失い、ただの作業手順となっています。

    これは学校教育が悪いのではありません。
    学校の授業でも、教科書でも、このことは強調されているのです。
    ただ、本人が、やり方しか覚えない。
    小学校でやり方しか覚えなかったため、中学生・高校生になって、論理的思考についていけなくなってしまうのです。
    どれだけ意味を説明されても、それをまだるっこしいと感じて、
    「やり方だけ教えて」
    「やり方だけ知りたい」
    となってしまうのです。

    頭の回転が速いように見える子に、案外このタイプが多いので、苦慮するところです。
    本人の頭の働かせ方の癖なのでしょう。
    一方で、どんなに小さなことでも、意味を知りたいタイプの子もいます。
    そして、意味を知っている子は、時間が経っても、25000÷5000 といった計算では、同じ論理を利用し、スマートに計算します。
    算数・数学が統一された論理で動いていることを実感しています。
    数理の根本がわかっているというのは、そういうことだと思います。
    中学や高校の数学で、何をして良くて、何をしたらダメなのか、自分で判断できなくなるのは、やり方だけ覚えてきたけれど意味を理解していなかったからなのです。

    また、例えばこんな計算。
    -27+18-33+26
    中1の最初に学習する「正負の数」の計算です。
    これも、同符号の計算をまとめてやれば楽であることを学校で指導されています。
    =-60+44
    =-16
    というように。
    しかし、これを、
    -27+18-33+26
    =-9-33+26
    =-42+26
    =-16
    と、順番通りに計算しなければ答えが出せない中学生もいます。

    順番通りでなければ計算できないと思っているのか?
    数字の前にある符号は、計算記号ではなく、その数のもつ正負の符号であることを、学習が終わると忘れてしまうのか?
    つまり、その子にとって上の式は、小学校からお馴染みのたし算と引き算の式のままで、中学で新しく学習した、
    (-27)+(+18)+(-33)+(+26)
    と見ることができないのではないかと思うのです。
    「正負の数」の学習の最初は、このように(  )がついています。
    省略して書くことができるというだけで、(  )は常に存在すると思って計算して良いのです。
    全てたし算ですから、交換法則も結合法則も利用できます。
    そのことを、忘れてしまう。
    あるいは、最初から理解していない。
    だから、法則が使えることがわからない。
    「え?ひき算って、順番変えたらダメなんじゃないの?」
    という小学生の感覚に戻ってしまうのだと思います。

    -27+18-33+26
    =-9-33+26
    =-42+26
    =-16
    という順番で正確に計算している子は、計算力はあるのではないか?
    確かに「人間電卓」的な計算力はあると思います。
    しかし、論理的思考力を感じさせるものではないのです。

    交換法則も結合法則も分配法則も、桁移動の仕組みも、全ては小学校で学習しています。
    大切なことは小学校で学んでいるのです。
    しかし、大切なことを学んでいることに気づかない。
    大切なことを、大切なことだと認識できず、記憶の中からあっさり消して、筆算のやり方や公式の丸暗記のみ行う子は、計算の過程にそれが表れます。
    答は合っているけれど、もっさりした計算です。
    そうではないクールな計算方法を身につけている子は、数学的思考が可能な子、いずれ大バケする子、と感じるのです。

    一方、思考力はあるが計算ミスの多い子というのも存在します。
    計算のやり方がわからないわけではありません。
    ただ、雑なのか、正確さを保てないのか、計算の正答率はかなり低い。
    計算問題を正答できるかどうか五分五分ということもあります。
    しかし、理解力や思考力があるので、座標平面と図形の問題、動点に関する問題、図形の証明問題、円と三角形の相似に関する問題のような、数学嫌いな子が避けたがる問題も自力で解いていくことができます。
    ただ、計算は合わないことが多いです。

    なぜケアレスミスをそれほど繰り返すのか?
    特定の計算でミスをしやすいのならそこを改善すれば良いのですが、多種多様なミスをその都度新たに繰り出してくるタイプの子が多いのも特徴です。
    ある日は数字を書き間違い、ある日はひき算なのにうっかり足してしまい、ある日は符号を書き忘れる・・・。
    考えることに夢中で、手元がおろそかになっているのか?
    式を書いている間に、他のことを考えているのではないか?
    思考力はあるが、集中力が足りないのか?
    さまざまな理由が考えられますが、受験を機に解消される子と、それでは解消されないまま高校生になってしまう子とがいます。

    ケアレスミスをしやすい傾向は、残念ですが非常に直りにくいものです。
    計算ドリルを何冊解いても、目立った改善は見られないことがあります。
    あとは、ミスしやすい自分と折り合いをつけながら、それを含み込んで点数を読んでいく。
    複雑な計算過程を踏まないよう、ミスしなくて済む解き方を選ぶ。
    そういうことで対応していくしかない場合もあります。

    多少の改善はみられても根本的には直らない。
    どうにも精度が低く、自分でミスに気づいて直すリカバーの力も乏しい。
    この計算力を前提としてやっていくしかない、と感じることもあります。
    本人が一番嫌な思いをしているのですから、自覚すれば直るというものではないのです。
    まして、それを叱ったりしても、直りません。
    誰にも苦手はあります。
    その代わり、思考力を伸ばすだけ伸ばす。
    基本問題でも失点してしまう分、テストの後半の応用問題で部分点を取る。
    そういう得点の取り方を考えていくのが現実的ではないかと思います。
    また、そうやってあまり思いつめないようにしていると、前よりは改善されていることもあります。

      


  • Posted by セギ at 18:33Comments(0)算数・数学

    2023年08月19日

    夏休みなので難問を。数Ⅰ三角比と三角形の面積の最大値。


    夏休みなので、難問を。

    問題 △ABCにおいて、BC=6、tan A=4/3 である。△ABCの面積の最大値を求めよ。

    さて、まずは自分で解いてみたいという方は、問題を書き写し、ここでブログを閉じてください。
    こういう、情報の少ない問題は、簡単そうに見えて、意外に難しいですね。


    さて、ここからは、解答・解説です。

    底辺だけわかっていても、高さが無限に伸びるのだから、この三角形の面積に最大値なんてないんじゃないの?

    と、一瞬思ってしまいそうですが、この三角形は、∠Aの大きさは決定しているのです。
    tan A=4/3 ですから。

    三角比は、それぞれの角の大きさに固有のものです。
    「直角三角形の辺の比」という感覚から意識が拡張されていないと気づきにくいことですが、サイン・コサイン・タンジェントの値は、角の大きさによって決まっています。
    三角比の表を見てもわかります。
    角度ごとに、サイン・コサイン・タンジェントの値は定まっていて、それが一覧表になっています。
    今回の問題でも、タンジェントの値が定まっていますので、∠Aの大きさも決定しています。

    それならば、△ABCの形は、1つに定まるのか?

    いや、そうではないですよね。
    ∠Aの大きさと、その対辺であるBCの長さが決まっているだけでは、△ABCは、色々な形をとることができます。
    でも、共通な性質というのはあるはずです。

    どんな性質?

    ここで発想の飛躍ができると、もうこの問題は解けたも同然。
    辺BCの長さは決定している。
    ∠Aの大きさも決定している。

    ・・・あれ?
    この三角形は、色々な形をとるけれど、どれも、1つの円に内接する三角形なのでは?
    なぜなら、辺BCを弦ととらえ、その弧BCの円周角が∠Aだと考えるならば、等しい弧の円周角は等しいですから、頂点Aが、その円周上のどこにあっても、∠Aは一定です。

    では、円を描き、辺BCを底辺として見やすい位置に描きこんでみましょう。
    頂点Aは、円周上のどこでもいい。
    だとすれば、△ABCの面積が最大になるのは、頂点Aがどこにあるときでしょうか?



    雑に描いたので、本当に下手な絵ですみません。
    △ABCは、上の図の黒い三角形でも、他に描いた赤い三角形でも、BC=6、tan A=4/3を満たします。
    では、この中で、もっとも面積の大きい三角形は?
    頂点Aと底辺BCとの距離が大きいほど、三角形の面積は大きくなります。
    ここで、辺BCを水平に描いたことが功を奏すると思います。
    どこに頂点Aを描けば、辺BCからもっとも遠いか?
    それは、てっぺんの位置。
    円を1つの時計と見立てるならば、12時の位置。

    そして、頂点Aがてっぺんの位置にあるのだとすれば、この△ABCは、AB=ACの二等辺三角形です。
    点Aが、てっぺんから少しでも下がれば、AB=ACではなくなりますよね。

    よし、わかった!

    二等辺三角形の頂角の二等分線は、底辺を垂直に二等分します。
    底辺BCの中点をMとし、線分AMを描きましょう。
    このAMが、△ABCの高さです。

    さて、△ABMは、直角三角形です。
    三平方の定理を使えば、AMを求めることができます。
    それには、他の2辺の長さが必要。
    BMは、BCの半分ですから、6×1/2=3
    それでは、ABは?

    ここで、tang A=4/3 が生きてきます。
    三角比は、サイン・コサイン・タンジェントのどれかの値がわかれば、残る2つの値を計算で求めることができます。
    タンジェントから、公式を使ってコサインの値を求められます。

    三角比の相互関係の公式を用います。
    1/cos^2 A=1+tang^2 A
    =1+(4/3)^2
    =1+16/9
    =25/9
    よって、
    cos^2 A=9/25

    ここで、0°<A<180° 
    tan A>0、sin A>0 より、
    cos A>0
    よって、
    cos A=3/5

    よし、これで、辺ABの長さを求めることができます。
    AB=AC=x とおくと、
    △ABCにおいて、余弦定理より、
    6^2=x^2+x^2-2x・x・cos A
    36=2x^2-2x^2・3/5
    2x^2-6/5x^2=36
    4/5x^2=36
    x^2=36×5/4
    x^2=45
    x>0より、
    x=3√5

    よって、AB=3√5。
    そして、先ほど求めた通り、BM=3 ですから、
    △ABMにおいて三平方の定理より、
    AM^2=(3√5)^2-3^2
    =45-9
    =36
    AM>0より
    AM=6

    これで△ABCの高さの最大値は6とわかりました。

    よって、△ABCの面積の最大値は、
    1/2・6・6=18

    面積の最大値は、18です。
      


  • Posted by セギ at 14:21Comments(2)算数・数学

    2023年08月12日

    説明の伝わりにくさ。



    例えば、私の解説が、生徒に伝わらない。
    あるいは、学校の問題集のかなり丁寧な解答解説集が、その生徒には理解できない。
    そうした方向の伝わりにくさは常に課題です。
    それとともに、反対方向から、すなわち生徒からの質問が、私には意味がわからない、ということもあります。

    例えば、こんな問題を解いていたときのことです。
    高校数Ⅰ「2次関数」の問題でした。

    問題 x^2+(2-a)x+4-2a=0 が、-1<x<1の範囲に2つの実数解を持つような定数aの範囲を求めよ。

    この2次方程式の左辺を、関数として考えましょう。
    すなわち、
    f(x)=x^2+(2-a)x+4-2a
    このグラフは、下に凸の放物線です。
    この放物線が、x軸に、-1<x<1の範囲で2か所交わればよいのです。
    よし、わかった。

    満たすべき条件は、
    (1)判別式D>0
    (2)軸が、-1<x<1の範囲にある。
    (3) f(-1)>0、f(1)>0

    こう言われても何のことやらさっぱりわからない、という場合は、もっと基礎からゆっくりと解説することになります。
    しかし、その子は、ここまでの解説はわかるようでした。
    初めて学習するわけではなく、「2次関数」を復習している受験生でしたので、それも当然です。

    しかし、(2) の、「軸が-1<x<1の範囲にある」に関して、その子は、奇妙な質問を口にしました。

    「軸は0じゃないんですか?」

    ・・・軸は0・・・?
    何のことだろう?

    「どういうこと?」
    「・・・え・・・」

    さて、ここからが大変なのでした。
    私には、解き方の正しい道筋が見えています。
    逆に言えば、正しい道筋しか見えない状態なのかもしれません。
    生徒がよくつまずくところならば把握していますが、数学が得意・不得意に関係なく、生徒はこちらの想像を絶する思い込みをすることがあります。
    しかも、生徒の質問の多くはカタコトで、伝えたいことが不明瞭です。
    何を尋ねているのか、本当にわからないときがあります。

    「軸が0って、どういうこと?」
    「・・・え・・・」

    ここで、生徒もひるんでしまうのです。
    もともと数学に関してはカタコトなのに、動揺してしまうと、言いたいことがさらに不明瞭になります。
    私は責めているのではなく、「軸が0」という言葉の意味が、本当にわからないだけなのですが。

    何往復ものやりとりが必要でした。
    真摯に告げる必要もあります。
    私は責めているのではない。
    質問の意味が本当にわからないのだ。
    私には正しい筋道が見えている分だけ、間違った考え方は見えにくい。
    脇道や獣道は、目に入らない。
    あなたに見えている、それは、何なのですか?

    そうして、ようやく質問の意味を理解しました。
    その子は、この放物線の軸の方程式は x=0 、すなわち y 軸しかないと思い込んだのです。

    ・・・何で?

    それは、その子が自分で描いた x 軸と放物線の図のせいでした。
    いや、私が描いても、多分同じ見た目のグラフになったとは思います。
    -1<x<1の範囲で、x軸と2か所交わる、下に凸の放物線。
    範囲が狭いこともあり、バランスよく、-1<x<1のちょうど真ん中を軸が通るような放物線を描いてしまうでしょう。
    でも、それはたまたまのこと。
    放物線はもう少し左に寄っても右に寄っても、構わないのです。

    「放物線の軸の方程式は、x=0 ではないのですか」

    このように質問してくれたら、質問の意味はもう少し早く理解できたと思います。
    「軸は0じゃないんですか?」
    と似ているようで、伝わり方が全く違うのです。

    正しいことならば、カタコトでも伝わります。
    でも、間違ったことは、カタコトになると、全く伝わらなくなります。
    とはいえ、高校生でそこまで正確に数学用語を駆使できる子は、めったにいないのですが。


    教える者の能力は、正しいことをわかりやすく解説する能力と同じくらいに、生徒の言うカタコトでしかも間違った内容のことをどれだけ理解できるか、その理解力によるところも大きいのだと思います。
    理屈に合わない間違ったことを、なぜか生徒は思い込んでいて、しかもそれをカタコトで発信してきます。
    それを受信し、何をどう誤解しているのかを理解し、解説する。
    どのように間違っているのかを説明し、誤解を解く。
    それをしないと、生徒は、自分の答は「別解」であると信じてしまうことすらあります。


    また別のとき、別の生徒で。
    今度はさらにレベルの高い問題を解いていました。

    問題 関数 f(x)= | x^2-4x | -2x について、
    曲線y=f(x) と、直線 y=a(x-6)-8が共有点を4個もつような定数 a の値を求めよ。

    式の中に絶対値の部分のある2次関数に関する問題です。
    まずは、グラフを描いてみましょう。
    絶対値を含む関数は、絶対値の内側の部分が0以上であるか0未満であるかに場合分けして考えます。

    x^2-4x≧0 のとき。
    よって、x(x-4)≧0、すなわち、x≦0 , 4≦x のとき、
    もとの2次関数は、そのまま絶対値記号を外すことができますから、
    f(x)=x^2-4x-2x
      =x^2-6x
      =(x-3)^2-9
    これは、頂点(3 , −9) の下に凸の放物線です。
    ただし、x≦0 , 4≦xの範囲で。

    また、
    x^2-4x<0 のとき。
    よって、x(x-4)<0、すなわち、0<x<4 のとき、
    絶対値記号の内側は負の数なので、絶対値記号を外すときには符号を変えることによって正の数になりますから、
    f(x)=-x^2+4x-2x
      =-x^2+2x
      =-(x^2-2x)
      =-(x-1)^2+1
    これは、頂点(1 , 1) の、上に凸の放物線です。
    ただし、0<x<4 の範囲で。

    理解していれば簡単なのですが、実際には、これをスラスラ描ける高校生は、ある程度の学力のある子たちです。
    その子は、自力でこのグラフを描いていました。
    さすがです。
    さて、問題を見直すと、これと、直線 y=a(x-6)-8 との共有点の個数を考えればよいわけです。
    この直線は、a によって傾きが変わるものの、点(6 , −8) を必ず通ります。
    その子は、そのことも理解していました。
    グラフは、下のようになります。



    赤い直線は、曲線 y=f(x) との共有点が3個の直線。
    青い直線もまた、y=f(x)との共有点が3個の直線です。
    この間の傾きのとき、y=f(x)とこの直線は、共有点を4個持ちます。

    赤い直線は、曲線 y=f(x) の上に凸の部分と接する直線です。
    では、接点の座標を求めれば、何とかなりそうです。
    上に凸の曲線と直線の式を連立して y を消去し、x についての2次方程式を作って、それが重解を持つのだから、判別式D=0とすれば・・・。

    しかし、そこで、その子は、奇妙なことを言い始めたのです。
    「いちいちを通るんじゃないんですか?」
    「・・・え?」

    いちいち・・・。
    意味がわかりませんでした。
    ・・・何の話だろう?

    「え?」
    「・・・」

    主語がない。
    「いちいち」とは何なのか、意味がわからない・・・。
    さすがにちょっとわからな過ぎて、そのまま、正しい解き方の解説をひと通り終えました。

    次の問題を解く生徒を眺めながら、私は、意味を考え始めました。
    「いちいち」とは、何のことだろう?

    思い出しました。
    その子は、座標の読み方に癖があるのでした。
    いちいちとは、(1 , 1) のことだったのです。
    「1カンマ1」と読まず、「いちいち」と読む癖のある子でした。
    その読み方は、例えば、「じゅういち」のとき、それは(10 , 1) なのか、単なる11なのか伝わらないので、あまり良くないのです。
    でも、数学の答案の読み方は、中1の初めからつきっきりで指導した子でない限り、どの子も癖がありますし、ついてしまった癖はほとんど直りません。
    数学の答案を音読する機会は、週に1度、私との授業のときのみなのですし。

    「いちいち」とは、点(1 , 1) のこと。
    点(1 , 1) を通るのではないかと、その子は言ったのでしょうか?
    点(1 , 1) を通る?
    何が点(1 , 1) を通るのでしょうか。
    主語がないというのは、本当に不便です。
    でも、おそらく、直線 y=a(x-6)-8 が、点(1 , 1) を通る、ということでしょう。

    なぜ?
    そんなところを通る直線に大した意味はありませんけど?
    点(6 , -8) と、あとは、上に凸の放物線との接点を通る図中の赤い直線が、a に関する1つの境目になります。

    点(1 , 1) って、何だろう?
    グラフを眺めて、気づきました。
    それは、上に凸の放物線の頂点の座標でした。

    ・・・何でそんなところを通る直線が境目になると思ったのだろう?

    そして、気づきました。
    グラフだ!
    その子は、グラフをノートに小さく描き、しかも、上に凸の放物線を尖り気味に描いていたため、頂点のところで、直線 y=a(x-6)-8 はその放物線に接しているように見えていたのだと気づきました。

    放物線の頂点で接する直線の傾きは、0です。
    x軸と平行な直線になってしまいます。
    そんな直線は、点(6 , -8) は通りません。

    放物線の頂点を通る接線の傾きは0。
    それは、微分を学習し、増減表から曲線のグラフを描くときに理解したはずの知識です。
    微分の学習が終わっている受験生が、それに気づかないはずがない。
    でも、それは、逆に私の思い込みでしょう。
    手書きのグラフのせいでそのような誤解をしてしまうことも、日によってはあるかもしれない・・・。

    「点(1 , 1) は関係ないですよ」
    顔を上げたその子に、ホワイトボードに大きくグラフを描いて再度解説すると、その子は、あっと気づいた様子で、自分のノートの放物線を丸みをつけて直していました。

    そもそもグラフを描くことができない人は、こうした問題には手も足も出ません。
    解き方がわからず、答案を1行も書くことができません。
    グラフを自分で描いて考えているだけで、さすがに数学を受験科目に使うつもりだけのことはあります。
    一定のレベルは越えています。
    しかし、自分の描いたグラフの見た目が、思わぬ誤解を生むこともある。
    そして、それをカタコトで伝えても、私にはなかなか伝わらない・・・。
    正確に入念にすべてを説明しなければ相手に伝わらないとは、まさか思っていないので、話し方が雑になるということもあるでしょう。

    でも、数学ってそういうものです。
    ちょっと言葉を省略しただけで、もう伝わらないのです。


    それにしても、何年数学を教えていても、まだ発見があります。
    生徒は新しい誤解を繰り出してきます。
    そして、それを分析し、理解することは、私にはとても興味深いことです。
    厄介だけれど、面白いです。

      


  • Posted by セギ at 16:12Comments(0)算数・数学

    2023年08月05日

    +、-を「たす」「ひく」と読む中学生・高校生。


    小学生が+、-を「たす」「ひく」と読むのは当然なのですが、中学生になっても、そして高校生になっても、+、-を「たす」「ひく」と読む癖の抜けない子たちがいます。
    例えば、
    -6-3
    を「マイナス6ひく3」と読みます。
    その子の頭の中では、先頭の符号だけは「マイナス」であり、式の中の「-」は「ひく」であるらしいのです。

    慣れ親しんだ記号の読み方について、本人なりの辻褄合わせが生んだ結果なのだと思うのですが、さて、これは放置しておいていいものなのかどうか。

    私の狭い見聞の中でのことでしかありませんが、中学生・高校生で+、-を「たす」「ひく」と読む子たちは、数学が全くできないわけではないけれど、数学が得意というわけでもない・・・。
    何となく伸び悩んでいく子たち、という印象があるのです。


    これは数学に限らない、学力の問題だからかもしれません。
    中学に進学した段階で、学校の数学の先生から、最低一度は、
    「今後、この記号は、たす、ひくではなく、プラス、マイナス、と読む」
    と教わっているはずです。
    さらに、学校の先生が、授業中に解説しながら数式を読むときは、常に、プラス、マイナス、のはずです。
    しかし、そうした授業を受けていても読み方を改められない子どもたちがいます。
    プラス、マイナス、と読むように自分を改革できないのです。
    小学校で6年間慣れ親しんだ「たす」「ひく」と読む習慣を改められない。
    知識の刷新ができない。
    脳がそのように刷新されない。
    これは、学ぶ力、すなわち学力と多少関係があるのではないか?


    これと似ている件に「>」「<」という不等号の読み方があります。
    「>」は「大なり」。
    「<」は「小なり」と読みます。
    不等式を音読する機会は、めったに訪れませんから、これの読み方を知っている生徒は、少ないです。
    それでも、パソコンで文字入力をするとき、「だいなり」と入力すれば、一発変換で「>」が出てきます。
    知る人は少ないけれど、これは現代も生きている正しい読み方です。

    うちの教室では、宿題の答え合わせなどでは、生徒は自分の答案を音読します。
    私は、自分の解いたものかテキストの模範解答を見ながら、その解答を聴き取り、正解かどうかの判断をしています。
    私が生徒の答案と自分の答をいちいち見比べて採点するよりも、音読してもらうほうが速いですし、私だけが採点していると、生徒は暇そうにしてしまいます。
    その間に他の問題を解いてもらっていると、わからなくて質問してくる子もいます。
    採点している暇がなくなります。
    答え合わせは、生徒参加型のほうが能率的であり、生徒もその時間を無駄な時間とは思わなくて済みます。
    というわけで、生徒に答案を音読してもらっています。

    +、-を「たす」「ひく」と音読する子については、私の頭の中でそれを「プラス」「マイナス」と変換しなければならないという手間はあるものの、答え合わせでの実害はありません。
    小学生に教えるときは「たす」「ひく」、中学生以上に教えるときには「プラス」「マイナス」と、私自身が長年使い分けていることもあり、頭の中での変換はスムーズです。

    しかし、不等号の読み方が逆になってしまう子の音読は実害しかありません。

    「a 大なり1」とその生徒は音読する。
    しかし、それは、本当に、
    a>1
    なのか、それとも、その子が読み間違えていて、その子の書いた答案は、
    a<1
    なのか、音読では判断がつかないのです。

    かといって、いちいちノートを受け取って見るというのも、このコロナの時代に、あまり好ましいことではありません。
    どうしても見なければならないときは見るけれど、音読で済ませられるときには、それで済ませたい。

    不等号の読み方くらい、覚えてほしい。
    それで万事解決するのだから。
    大したことではないし、邪魔になる知識でもないから。
    それでも、不等号の読み方をどうしても正しく覚えられない子たちがいます。
    そして、そうした子たちは、私が接してきた範囲では、例外なく、数学があまり得意ではありません。
    不等号を読み間違える子は、x についての不等式に他の文字 a などが入っている問題や、文章題など、応用問題になると歯が立たないのです。

    これは、数学センスがないということではなく、学力そのものに関係するのではないか?
    「>」を「大なり」と読む。
    「<」を「小なり」と読む。
    たったそれだけの読み方を、覚えられないのだから。

    a>1
    は、「a 大なり1」と読みます。
    それは、
    「a 大なり」で止めて考えれば、意味的にも明瞭です。
    「a 大なり」と断定したのですから、a は大きいのです。
    その言い方は、英語的です。
    a is larger than 1
    ということです。
    事実を最初に言い切ってしまう。
    主語がどのようであるのかを、まず断定する。
    補足事項は、その後につける。
    論理的な言語の特徴です。

    不等号の読み方と合わせて、そのように解説もするのですが、それでも、次の授業では、また読み間違える・・・。
    仕方ないので、ホワイトボードに、
    <  小なり
    と書いておくと、音読するときは、ボードをちらちら見ながら正しく音読します。
    しかし、毎回そうしてあげなければ、次の授業ではまた間違えます。
    定着する、ということがありません。


    もの覚えの悪い子には2通りあります。
    ①本当に記憶力が悪く、頑張っているが覚えられない子
    ②そんなことは覚える必要がないと、本人が判断している子

    そして、②の場合は、判断力がある分だけ頭が良さそうな感じがしますし、本人の自己肯定感も高いのですが、結果がついてきません。
    誤った判断が、その子の可能性を奪ってしまうのです。
    判断ミスの繰り返しですから。

    いえ。
    正直言って、不等号の読み方は覚えられなくても、教室での答えあわせ以外には何も影響しません。
    不等号の意味を理解していれば、大丈夫です。
    ただ、こういうことは氷山の一角です。
    本人の判断は随所に表れます。
    不等号の読み方を覚えられない子は、2次方程式の解の公式では、xの係数が偶数の場合の公式を、本人の判断で覚えないことがあります。
    判別式も、Dだけでなく、D/4も覚えたほうが計算する数字が小さくて済むのに、本人の判断で覚えない。
    乗法公式は意味がなさそうに思えても因数分解のときに使うのに、本人の判断で覚えない。
    組み立て除法は、微分などで3次方程式を解くときに使うのに、本人の判断で覚えない。
    等差数列の和の公式も、初項+末項のほうの公式しか覚えない。
    意味を考えて、自分で復元できるわけでもない。
    2種類公式がある場合、たいてい1種類しか覚えない。
    本人の判断で。

    それでは、本当に記憶力が悪く、頑張っているが覚えられない子と、表面的には同じことになってしまいます。
    教えられたことに、いちいち自分の判断を加えてしまい、そして判断ミスを繰り返す。
    そうしたほうが良い理由を説明されているのに、聞いていないのか、理解できないのか、自分の判断を優先する。
    性格なのか能力なのかは、微妙なところですが、客観的には、それが「能力」として評価されます。

    個別指導では、ここでいつも苦労しています。
    言われたことを言われた通りに覚えて活用してくれる子ならば、簡単に伸びる。
    でも、大抵の場合、それは期待できません。
    何にでも本人の判断が常に加わり、本人はそれを優先しようとします。
    それを論理で抑え、本人の失敗による経験で悟らせ、何とか合理的な方向に進んでもらう。
    数学指導は、煎じ詰めればそういうことです。

    さて、冒頭の、+、-を「たす」「ひく」と読み続ける中学生・高校生に戻ります。
    -6-3
    を、「マイナス6ひく3」と、謎の読み分けをする子たちです。
    たす、ひく、という読み方を直せない。
    これは、やはり、早い時期に直したほうがいいと思うのです。
    なぜなら、-6-3 を、引き算としか認識できていないかもしれないからです。
    -6-3
    =(-6)+(-3)
    という、負の数の和であるという見方ができていないから、そのように読んでいるのかもしれません。
    正負の数の計算をマスターしているようには見えるけれど、負の数の和と考えれば単純な計算を、その子は何か独特の理解の仕方で、複雑に把握しているのではないか?
    簡単なことがいちいち難しいことになっているのではないか。
    そのため、応用まで手が回らないのではないか。
    この場合、この先の数学の学習に影を落としかねません。

    すべての数には、プラスとマイナスの符号がある。
    それを理解していること。
    それは、移項の意味につながり、方程式を理解することにつながります。
    絶対値を含む式の理解につながり、絶対値を自ら活用できることにつながります。

      


  • Posted by セギ at 14:50Comments(0)算数・数学

    2023年07月15日

    数学。理解の深さと新傾向の問題。


    画像は、都立神代植物公園水生植物園のハンゲショウ。

    テスト前は普通に解いていて、わかっているようだったのに、定期テスト中に突然、
    「あれ、これ何だっけ?意味がわからない」
    となり、問題を解くことができなくなる人がいます。

    例えば、三角方程式。

    問題 0≦θ<2πのとき、
    sin 2θ=cos θ を解け。

    問題として、あまりにシンプルで、それ以外の情報がなさ過ぎるからでしょうか、これを「解く」とは何をどうすることなのか突然わからなくなるようです。

    これは、2倍角の公式を使います。
    sin 2θ=2sin θ cos θ ですから、
    2sin θ cos θ =cos θ
    2sin θ cos θ -cos θ=0
    cos θ(2sin θ-1)=0
    よって、cos θ=0 , sin θ=1/2

    と、ここまでは正しいのですが、答案が、ここで止まってしまう人もいます。
    これが最終解答だと思ってしまうようです。

    テストの答案がそこで止まっていた子に。
    「それは、まだ解いている途中ですよ。θ の大きさを求めるんですよ」
    「・・・」
    そのように言葉で説明しても、何を言われたのか理解しかねる様子でポカンとしてしまうのです。

    cos θ=0より、θ=π/2 , 3/2π
    sin θ=1/2より、θ=π/ 6 , 5/6π
    よって、解は、θ=π/ 6 , π/2 , 5/6π , 3/2π

    そのように解いたものを板書してみせても、ぼんやり見つめて、何だろうこれは、と考えこんでしまいます。
    初めてこの問題を解くわけではありません。
    しかし、テストが終わった後では、もう意味がわからなくなっている様子です。
    なぜ、これでなければならないのか。
    なぜ、cos θ=0 , sin θ=1/2 で終わらせてはいけないのか?
    その解決がつかず、しかし、それを質問する言葉も見つからず、呆然としている・・・。
    そんな様子です。


    あるいは、こんな問題。

    問題 関数 f(x)=x^2-x について、x=1における微分係数を求めよ。

    これも、テストでは、何を答えていいのかわからず、白紙・・・。
    「微分係数」という言葉の意味が、ふっとわからなくなってしまった様子です。

    これも、実はとても簡単な問題です。
    f(x)=x^2-x を微分すると、
    f'(x)=2x-1
    これにx=1を代入して、
    f'(1)=2-1=1
    よって、
    x=1における微分係数は、1。

    しかし、これも、模範解答を見たところで、意味がわからない・・・。
    微分係数とは何か、わからない。

    「微分係数って、何ですか?」
    「・・・では、テキストを見直しましょうか」

    しかし、こういう場合、最初に学習したときよりも、理解し直すのには時間がかかるのが普通です。
    微分係数の定義をテキストで読み返しても、意味がわからない・・・。
    本当に、こんなことを学習したのだろうか?
    記憶がないんだけど・・・。
    そんな様子です。


    テスト中、おかしな考えにとりつかれてしまう子もいます。
    突然、わかっていたことがわからなくなるようです。
    例えば、数A「図形」の三角形の五心がテスト範囲だったときのこと。
    定義の空欄を穴埋めするだけの易しい問題が出題されていました。
    「内心」「外心」といった用語を穴埋めするだけの問題です。
    しかし、その子は、突然、点のことを「心」というのは変じゃないかという考えにとりつかれ、「内点」「外点」と答案に書いてしまい、5つの小問すべて誤答となっていました。

    また、これは中3の英語の話ですが、教科書に出ていた重要表現の語句補充問題で。
    「今回のテスト範囲の文法事項は現在完了だ」
    という思いにとりつかれたようで、be interested in など、前日までしっかり覚えていた熟語をすべて have interested in といったように強引に現在完了形にして、ほとんど誤答となってしまった子もいました。

    テスト勉強をしなかったわけではない。
    それなのに、テスト中に、おかしな考えにとりつかれてしまう・・・。

    「通りいっぺんの勉強をしているから、そうなるんだ」
    「暗記に頼って、理解していないからそうなるんだ」
    ・・・そのような批判は、当たっている部分もあるとは思います。
    でも、これは、ゲシュタルト崩壊に近い部分もあるのではないかとも思うのです。
    ゲシュタルト崩壊とは、例えば、「粉」という漢字をずっと見ていると、本当に「コナ」はこんな漢字だったろうかと思えてくる、といったものです。
    「米」などという偏が、この世に存在しただろうか?
    これは、右と左が逆ではないのか?
    そんな違和感にとりつかれるのです。
    私は、「消耗品」の「耗」でたまにこれが起こります。
    これは誰でも起こりうることなので、本人の学習姿勢を責めても、それで改善されるようなものではありません。

    これの対策としては、そうなることを予測して、テスト中にそのようになってしまうことがあるから、心の準備をしておくこと。
    これに尽きます。
    例えば、三角方程式とは何のことか突然わからなくなることがあるので、そうなることを予期しておきましょう。
    そうすれば、それは起こらなくなります。

    いや。
    そんなことで混乱してしまうのは、本質が理解できていない証拠だ。
    暗記ばかりして、理解していないから、そういうことになるんだ。
    日本の数学教育が、暗記ばかりさせているからだ!

    そうした批判を声高に行う人もいます。
    大学の先生の中には、自分が教えれば、そういう大学生が初めて「速さ」や「割合」の本質を理解して、そのことに感動するんだと自慢話をする人もいます。
    誰でも、本当は数学の本質を理解したいと思っているんだ。
    暗記ばかりさせているから、数学がわからないのだ。
    日本の数学教育が良くない!

    ・・・しかし、私の知る限り、小学校でも中学校でも高校でも、生徒に暗記を強いる数学教育を行っている先生の話を聞いたことはありません。
    誰もが、数学の体系を理解してもらおうと努力しているように感じます。
    意味がわからない公式の丸暗記をしているだけでは、先は見えています。
    考える力を身につけてほしい。
    考えるための授業を提供したい。
    そのように、努力されています。
    ゆとり教育の頃も、その後も、そして現在も。

    しかし、多くの生徒が、やり方だけ暗記することでやり過ごそうとします。
    ある程度知力のある子も、やり方だけ覚えて済ますコツを自ら発見していきます。
    まして学力に不足のある子は、例題の解き方の丸暗記に必死です。
    なぜ、理解せず、暗記することで済まそうとするのか?

    授業に魅力がないからだ。
    数学で出される問題に魅力がないからだ!
    ・・・と声高な批判に応えて、魅力的な授業を展開しようとする先生もいますが、暗記で済まそうとしている子たちにとって、それは迷惑な場合も多いのです。

    深く理解するよりも、やり方だけ覚えたほうが、頭が楽なんです。
    やり方だけさっと覚えて、テストが終われば忘れれば、そのほうが脳のメモリの消費が少なくて楽なのです。
    そういう頭の使い方が習い性になっている子は多いです。
    そうした子たちにとって、「魅力的な授業」は必ずしも好ましいものではありません。

    魅力的な授業。
    すなわち、アクティブラーニング。
    しかし、アクティブラーニングの授業は、何を学ぶための何の授業なのかわからず、混乱する子もまた多いです。

    また、数学を現実生活に近づけた、新傾向の問題。
    それらの問題は、読み取るだけで大変で、生徒をワクワクさせるどころか、苦痛を強いるものである場合も多いです。

    100俵の俵を5段組みに積み上げるのに必要な地面の面積を、なぜ求めなければいけないのか?
    敷設面積が決定している階段の段差をどうすればいいかを、なぜ私が計算しなければならないのか?
    バスケットのシュートの角度など、私には関係ない。
    稲妻が光ってから雷の音がするまでの時間と距離の関係なんて、興味ない。
    そういう問題は、嫌い。
    普通の数学の問題のほうがまし。
    新しいことに頭を使いたくない。
    覚えたことだけで対処したい。
    自分の頭が上手く動かないことを思い知るだけの問題なんて、解きたくない。
    ・・・そういう子も、また多いのです。

    そもそも「新傾向」と言いますが、このような問題は20世紀の頃から「新傾向」であり、今も新傾向です。
    ちっとも定着しません。
    生徒が問題を解くのを楽しんでいる様子がなく、効果もないからか、なかなか定着しないのです。
    大学入試共通テストの数学にこのような文章題を出すから、純粋に数学が得意な子が正答できず損をしていると嘆く人もいます。
    都立高校の入試数学問題も、20世紀の頃は「新傾向」の文章題が出題されていましたが、いつ頃からか、なくなりました。

    数学が得意な生徒にとってさえ多少迷惑なこともある新傾向問題は、数学が苦手な子にとって多くは苦痛です。
    こういう問題を解いてワクワクし、表情が輝いている子は、ごく少数です。

    数学の楽しさは、そういうこととは限らないですし。
    現実生活と結びついているから数学が楽しい、とは限りません。
    現実と何も関係がなくても、数学は楽しいです。
    実用的でなければ面白くない、という考えは、貧しいです。

    どうすれば数学が好きになるか。
    これは、難しい問題です。

    どうすれば数学がわかるようになるか。
    このほうが、課題として解決しやすいと思います。
    これは、わからなくなったところまでさかのぼって、やり直す。
    何回でも、やり直す。
    それに尽きると思います。

    数学が苦手だった子が大学生になり、例えば小学校の先生になるために大学で数学を学び直す。
    そのときに、小学校の算数の「割合」や「速さ」や「分数の計算」を理解できたのなら、それは幸福なことだと思うのです。
    ただ、そういう時期だった、という点も見過ごせません。
    小学生のときには、その子の理解を越えた内容だった。
    でも、大学生になり、それを理解できる脳になっていたのかもしれません。
    人間の脳は、25歳まで発達を続けるそうです。
    あるいは、「自分には数学は必要ない」と思ってきた子が、本当に切実に数学を理解したい動機を持った。
    わかる時期がきて、幸運にもそのときに教わることができた。
    それは、幸福なことだと思うのです。

    「大学生が割合もわかっていない。小中高の数学教育はどうなっているんだ」
    ではなく、
    「割合や速さを理解することが本当に必要になった大学生が、ついに理解した。数学は、いつからでも学び直せる」
    というメッセージのほうが、はるかに有益です。


    また、そのときは理解したつもりでいても、時間が経つと忘れてしまい、またわからなくなってしまう人のほうが現実には多いです。
    生徒がわかった顔を見せたときに、
    「どうだ!私の教え方が上手いからだ!こう教えれば、誰でも理解できるんだ!」
    などという自惚れを私も若い頃には抱きましたが、そんなものを簡単に踏みつぶしていくのが現実の子どもです。
    継続的に子どもたちに数学を教えていくというのは、そういうことです。
    時間が経てば、またわからなくなってしまう。
    理解しても、また忘れてしまう。
    記憶がもたないのです。

    そして、いったんわからなくなってから再び理解することの難しさ。
    最初に学ぶときとはまた別の混乱がそこにはあります。
    「微分」の学習がひと通り終わって定期テストを受けたときに、「微分係数」という言葉の意味がわからない絶望と混乱。
    テキストで定義を読み直しても、意味がわからない・・・。

    「関数 f(x)の平均変化率において、x=a、x=bの値を定め、b を a に限りなく近づけ、平均変化率が限りなく一定の値 α に近づくとき、この値 α を、関数 f(x) の x=a における微分係数という」

    ・・・何、それ?

    実は、最初に学習したときも、「何、それ?」だったのかもしれません。
    わからないから、やり方だけ覚えた。
    ああ、つまり、f(x) を微分した式 f'(x) の x に代入すれば答が出るんだな。
    そのように、意味はわからないけれど、やり方だけ覚えたのでしょう。

    やり方だけ覚えて済ます子に、意味に戻った授業をしても、にこにこ笑っているが聞いていない、ということがあります。
    自分としてはやり方を覚えたので、もうそれはOK。
    いつまでもしつこく意味を説明している先生は、笑顔でやり過ごすだけ。
    もめごとは起こしたくないし、聞いているふりをするのは問題を解くよりも、むしろ楽。
    にこにこしていればいいんだから。
    子どものそうした処世術が悪い方向にものごとを引っ張っていきます。

    その覚え方では、忘れるのも速かった。
    しかし、本人は、やり方を覚えたことを「理解した」と誤解している傾向もあり、後になって自分がわかっていないことに動揺してしまうのでしょう。

    細い1本道を何とか歩き通したつもりでいたのに、振り返ったら、そこにもう道はなかった。
    歩いてきたはずの道は消えていた。
    もう戻れない。
    唐突に、そこのポイントに戻ろうとしたところで、もうわからない。
    単元の最初からすべてやり直すしか、理解する方法がないかもしれないのです。

    目の前の子は、高校生だけれど、「割合」や「速さ」が理解できていない可能性がある。
    けれど、今は、「微分」を学習しなければならない。
    そういう課題もあります。

    そして、そういうことは、小学校から高校までの算数・数学教育の課題とはまた別のものであるような気がします。
    従来通りの数学教育で数理の体系を把握している子も多いのです。
    日本の数学教育が一概に悪いとは言い切れません。
    むしろ、何歳になっても数学のやり直しができる環境整備のほうが考えられていい課題だと思いますし、それも、今は本人次第で可能だと思います。

    やり方だけ覚えても記憶がもたないことに、誰でもいつか気づきます。
    気づいたら、やり直しましょう。
    できるだけ、意味に戻って。
    やり方だけ覚えたいのもわかるけれど、意味に戻って。
    わからなくなったら、最初に戻って。
    新傾向問題が迷惑でしかなくても、意味に戻って、何とか乗り越えていきましょう。

      


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