たまりば

  地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾  三鷹市 三鷹市

2018年09月13日

聴き取る力・読み取る力。


今朝、ラジオを聴いていたら、季節に関するひと口情報的なコーナーでこんな会話がなされました。
1人はアナウンサーで、用意された原稿を読んでいます。
アナウンサー「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません。本来はそのまま『あきざくら』と読み、これがコスモスの和名とされています。この漢字2文字でもコスモスという読み方が広まったのは、1977年の山口百恵さんのヒット曲『秋桜』がきっかけだと言われているんですね」
パーソナリティー「これね、いつも諸説ありをぶつぶついうのが好きなんですけど、そうじゃない説を今思っていて」
アナ「さだまさしさんが作詞作曲されたこの『秋桜』・・・」
パーソ「コスモスは昔からあるよ。私たちが小学生のときから、コスモスはコスモス。そう言ってたよ。さだまさしさんが逆にコスモスを秋桜と書くのを最初にやったみたいな説ありましたよね。それで聞いているから。これとはちょっと食い違う」

放送を聴いたときも、録音をこうして文字に起こして何回も読み直しても、このパーソナリティーが何にケチをつけて「逆に」と言っているのか、よくわからないのです。
この情報を整理すると、コスモスの和名は「あきざくら」。
「秋桜」と書いてコスモスと読ませた最初の人は、さだまさし。
アナウンサーが読んでいる原稿も、パーソナリティーが「諸説ありだ」と言っていることも、同じ内容に思えるのです。

このパーソナリティーは、何を言いたかったのでしょう?
何かを誤解したのでしょうか?
このパーソナリティーが?
それとも私が?

ラジオを長年、というより話芸を長年やっている人が、何かを聴き取り間違えたのではないか?
「コスモス」という花の名前を広めたのがさだまさしだという説をアナウンサーが読んだと誤解したのでしょうか?
その前までは人々はあの花を「あきざくら」と呼んでいたと聴き取り間違えて、いや、そんなことはない、と感じたのでしょうか。
あるいは、「コスモス」という西洋の名称にさだまさしが「秋桜」という漢字を選んで充てたのであって、「あきざくら」という和名など存在しない、と言っているのか?

そう悩みながらアナウンサーの原稿を読み直すと、そういう様ざまな解釈を招く隙がこの原稿にはあるのだと気づきます。

誤解の分岐点は、
「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません」
「この漢字2文字でも『コスモス』という読み方が広まったのは」
というところだと思います。
ここに違和感を抱く人が多い。
「コスモスと読まれる方が多いかもしれません」という言い方は、それは間違っていますよ、というニュアンスがあり、反論されやすい物言いなのでしょう。
「コスモスと呼ばれる方が多いかもしれません」
「『コスモス』という呼び名が広まったのは」
と聞き間違える可能性も高く、そうなると意味が全く変わってしまうのです。
自分が以前から思っていたことを否定されたように感じると、いや、それは諸説ありだ、自分の知っていることはこうだ、と主張したい気持ちにもなります。
アナウンサーは、パーソナリティーよりもずっと若いので、いや、それは同じことなんじゃないですかと反論はしませんでした。
1977年なんて生まれてもいないでしょうから、それ以前にあの花を「コスモス」と呼んだかどうか、「あきざくら」という和名が存在したかどうかなんて本人は知らないのですし。
ああ、そうかもしれませんね、と受け流して先に進んでいきました。
聞いている私は、取り残されて、朝からモヤモヤしてしまいました。

ラジオだから?
音声だから、情報が正確に伝わらないのだろうか?
文字情報のほうが、確実なのか?

しかし、そうとばかりも言えません。
先日、北海道で大きな地震があり、それに伴って大規模な停電が起こりました。
電力的には今も綱渡りの状態が続き、北海道では計画停電を実施する可能性もあるそうです。
そうなると、「原子力発電所を動かしていればこんなことにならなかったのだ」という意見を口にする人もいます。
北海道の泊原発は安全基準を満たしていないから、そもそも稼働できないそうですが、それはともかく。
気になるのは、「泊原発」を「柏原発」とネットで書いている人がいること。
「泊」と「柏」は文字としては似ています。
肉筆の場合は、たまたま書き間違える可能性はあります。
しかし、ネットで「柏原発」と打ち込むには、「かしわげんぱつ」と入力しないと無理です。
つまり、最初から読み間違えていないと、この書き間違いは起こらない。
そういう人たちにとって、北海道の原発は、その存在すら実は予備知識になく、むしろ原発といえば、新潟県の柏崎の原発のほうがまだしも名前の見覚えがあったのかもしれません。
その連想もあって「かしわ原発」になってしまっているのでしょうか。

そうした読み間違いや勘違いがなぜ訂正もされずその人の中でそのままになってしまうのか?
ネットで「柏原発」と書いている人は、テレビやラジオでニュースを確認したことが一度もないからでしょうか?
ネットでしか情報を得ていないのではないか?
音声を伴う情報に触れないので、読み間違いが永遠に訂正されないのです。
このように、文字情報だけの場合も、ある種の危うさがあります。

昔、ネットにアクセスできない人を「情報弱者」と呼びました。
今は、ネットでしか情報を得ない、新しい種類の情報弱者が生まれているのかもしれません。

社会問題としてこれを論じているのではなく、私が気になるのは、やはり身近な話です。
生徒は私の音声による解説をどこまで正確に聴き取ることができているのだろうか?
私はどこまで正確に情報を伝達できているだろうか?

また、生徒は、テキストに書いてある文字情報をどこまで正しく読めているのだろうか?

相変わらず、
「問題を読みましょう」
「問題文に全部書いてあるよ」
「設問を読みとばしたでしょう?大事な条件がここに書いてあるよ」
と生徒に繰り返す日々ですが、問題文を読み取れないだけでなく、私のそうした音声による助言も情報として正確に聴き取れない子がもしいるとしたら、一体どうしたらよいのだろう?

音声による情報も、文字による情報も、思っているよりも脆弱で、相手が誤解する可能性を常にはらんでいます。
自分が何か誤解していないか。
相手が何か誤解していないか。
常にその可能性を探りながら、さらに細心の注意をもって情報の伝達をしていかなければ。
改めてそう感じた秋の初めの朝でした。

北海道だけでなく、大雨や台風の被災地もまだ苦しい毎日と思います。
被害の様子を知る度、2011年を思い出します。
心よりお見舞い申し上げます。
  


  • Posted by セギ at 13:27Comments(0)講師日記

    2018年09月03日

    勉強に向いている性格。



    先日、ネット記事を眺めておりましたら、「性格の悪い子は成績も悪い」というタイトルの記事を見つけました。
    こういう記事は閲覧数を稼ぐためにキャッチーで過激なタイトルをつけるもので、記事の内容はそんなにひどいものではないのだろうと一応読んだら、内容もそのままだったので驚きました。

    大手の塾の経営者の発言をまとめた記事でした。
    いわく、大人の指導に素直に従う子は伸びる。
    大人の言うことを素直に聞けない子は、指導を無視して勝手なことをするので、間違った勉強をして、成績が上がらない。
    すなわち、性格の悪い子は、成績が悪いのだ。

    言っていることは、部分的にわからないこともないのです。
    しかし、この言い方・・・。
    「俺の言うことさえ聞いていればいいんだ。そうすれば、成績は上がる。成績が上がらないのは、俺の言うことを聞かないからだ」
    そうした呪いの言葉に思えます。
    これほど言葉はひどくないけれど、結局、自分も同じようなことを言ってしまっていないか、考え込んでしまいました。

    私が以前に勤めていた集団指導塾は、私が勤務した頃には地域密着型の穏やかで小さな学習塾でした。
    しかし、スパルタ式の教育で近隣に名を馳せ、教室をいくつも広げるほどに躍進していた時代があったと、昔から勤めている講師に聞いたことがあります。
    宿題をやってこない子に対しては、男女関係なく、皆の前でビンタをしたそうです。
    その恐怖と恥ずかしさを思えば、誰もが必死に宿題をやってくるようになります。
    必死に宿題をやれば、成績が上がる。
    成績が上がれば、保護者は満足。
    塾にクレームをつけません。
    「やり方が気に入らないなら、どうぞ退会してください。
    うちの塾に通っていれば、しかし、成績は上がるんですよ」
    そういう形で実績を上げた塾だったというのです。

    大人の言うことを聞かない子どもは多いですが、そういう子ほど、恐怖と暴力で支配すれば簡単に従うのも事実です。
    いえ、大人も、恐怖と暴力の支配から逃れられる人は少ないでしょう。
    歴史がそれを証明しています。
    だからこそ、私たちは、用心に用心を重ね、そうしたことが起こらないようにアンテナを張っていなければなりません。

    「性格の悪い子は、成績が悪い」
    この発言は、そうした暴力的支配が許されなくなった時代に、それでも子どもを従わせたい人の苦しまぎれの物言いに思えます。
    ここでいう「性格が悪い」は、指導者にとって都合の悪い性格という意味に過ぎません。
    「性格の良い子」というのは、指導者にとって都合の良い性格の子ということです。
    言うことを聞かない子をどのように説得し、効果的な学習方法を伝えるか。
    そこで勝負しないで、子どもの性格のせいにしてどうするんだろう・・・。


    この夏、教室の入っているビルは大規模な外壁工事が行われました。
    通路も教室のドアも塗り替えられてピカピカです。
    4年前、今回ほどの規模ではないですが、ある土曜日、通路の床に防水加工の工事が行われたことがありました。
    しかし、うちの塾は土曜日も営業しています。
    業者の人と相談の結果、エレベーターからうちの教室の前まで養生をしてくれて、そこを通って教室に入れるようになりました。
    私は保護者にメールで連絡しました。
    「本日、うちの教室前の通路は塗装工事が行われております。エレベーターから教室の入口まで、養生してあるところを歩いてきてください」
    これで大丈夫でしょう。

    ところが、ここで不測の事態が発生しました。
    そのメールの内容をお母様から伝えられた生徒は、外階段からやってきてしまったのです。
    ('_')

    「エレベーターから教室入口まで、かなり歩きにくい状態になっているようだ」
    というふうに情報を読んで、
    「じゃあ、階段からなら、歩けるんじゃないか」
    という発想になったのでしょう。

    いやいやいや。
    「エレベーターから教室入口までなら、歩ける。他に歩ける道はない」
    というのが、私の伝えたかったことだったのですが。

    というよりも、そのとき、私の中に階段という発想はなかったのです。

    これは私の思考の癖なのかもしれません。
    業者さんに、
    「エレベーターから、この部屋の入口まで、通れるようにしますから」
    と言われれば、
    「なるほど、エレベーターからここまで、通れるのだな」
    と、そのまま受け止めます。
    「エレベーター」という言葉が思考のフックとなり、もうそれ以外の選択肢は念頭から消えます。
    相手が通れるようにしてくれている、その通りにやっていれば、間違いはない。
    はみ出す必要はない。

    そして、勉強をする上で、この考え方は楽だし、合理的なんです。
    解説を聞いて、あるいは解説を読んで、まずはその通りに再現する。
    その再現の正確さが、理解力。
    勉強する内容は、数千年の人類の叡智です。
    私の単なる思いつきが簡単に凌駕するわけがありません。
    現代科学の最善で最高の内容を教わっているのです。
    言われた通りに再現できることが、まず必要。

    とはいえ、
    「だから学校の秀才の考えることはつまらないんだ」
    と言われれば、それもその通りなのです。
    言われたことを言われた通りにやるのではなく、思ってもいなかった方向から発想できる人は、かっこいいですよね。
    少数のそういう人が文明を牽引し、そして、それを多くの秀才が再生して、世の中は進んでいくのだと思います。

    ただ、階段を使うという発想は、そういうユニークで魅力的なものなのかというと、そうではないように思います。
    それは、たとえ思いついても、総合的に判断して、自分で却下したほうがいいのです。
    階段を使えるのなら、最初からそういう誘導をします。
    階段の先は塗装直後で、一歩も先に進めなかったのです。

    相手が口にしないことを自分が思いつくと、思いついた途端に「それこそが最善」という思考の飛躍を起こす子がいるのではないか。


    また別の子の話ですが、英語の「受動態」をなかなか理解できない中学2年生がかつていました。
    最初の授業では、正確に理解したのです。
    基本的に頭の回転の速い子で、その場では器用に身につけることができました。
    しかし、家で復習する習慣がなく、宿題は、次の塾の日の直前に慌ててやってくる子でした。
    1週間経ってからでは、たいていのことは頭から抜け落ちています。
    宿題は間違いが多く、そうなると混乱し、わかったはずのことがわからなくなっていくようでした。
    1週間、また1週間、むしろ、どんどん「受動態」がわからなくなっていくのです。
    とうとう、簡単な穴埋め問題も解けなくなってしまいました。

    問題 次の空所に適切な語を補いなさい。
    (1) その歌は若い人たちに愛されている。
     The song (  )(   )among young people.
    (2) この本は10年前に書かれた。
     This book (  )(   )ten years ago.

    こういった、ごく簡単な穴埋め問題です。
    (1)の答えは、is loved
    (2)の答えは、was written
    be動詞と過去分詞を空所に埋めるだけの、受動態のテストとしては何のひねりもない基本問題でしたが、全問不正解でした。
    そこに全て過去分詞とbyを入れていたのです。
    (1)は、loved by
    (2)は、written by  と。

    「・・・・・・何で、by?」
    「だって、受動態は、必ずbyを使うし」
    と、その子は言いました。
    「・・・・・・そんなふうに教わった?」
    「自分で気がついたよ。頭いいー」
    「受動態かどうかは、動詞の形で決まるんだよ」
    「だって、byを使うでしょう?」
    「使わない受動態は、たくさんあるよ」
    「えー?なんでー?」

    ・・・・・教わったことを教わった通りに再生していれば、早いのになあ。
    なんで、別のルールを自分で見つけてしまうのかなあ。

    しかし、それは思考の癖のようなもので、
    「なぜ?」
    と問われても自分で説明できないし、
    「そのような考え方はやめなさい」
    と言われても、やめられるものでもないのでしょう。

    何か1つの情報を与えられたときに、いくつもの選択肢を発想すること自体は、むしろ良いことです。
    問題は、その選択肢のうち、妥当ではないものを消去する判断力をもつこと。
    「自分の思いついたことだから、正しい」
    というバイアスがかからない総合的な視野を持つこと。

    でも、子どもに総合的な視野を求めても難しい。
    総合的な視野に乏しいから、それを身につけるために勉強しているんです。

    結局、「A」と言われたときに「B」の発想をし、それに沿って問題を解決しようとしてしまうのは思考の癖です。
    性格が良いとか悪いとか、そういうことでなく、思考の癖。行動の癖。
    良い勉強法を教わっても、聞き流して、実行しない。
    これだけは覚えなさいと言われても、覚えない。
    「A」の提案に対して、常に「B」という案を本人は思いつき、大人の言う通りにすることに意味を感じない。
    ピントがズレている間は成績向上の邪魔になりますが、ピントが合えば大きな潜在能力かもしれません。

    この子の性格にあった勉強のやり方は、どういうものだろう?
    どう説明すれば「A」と教えたときに「B」と発想せず、「A」のまま伝えることができるのだろう?
    そのように考えていくのが建設的だと思うんです。
    「性格が悪い」と子どもをなじって自分の責任を回避するよりも。
      


  • Posted by セギ at 16:25Comments(0)講師日記

    2018年07月29日

    1学期末テスト結果集計出ました。2018年。





    1学期中間テストの結果が出ました。

    数学 90点台 2人 80点台 2人 60点台 3人 50点台 1人

    英語 90点台 2人 

    じわじわと全員の得点が上がり、定期テストでは開校以来の高得点が続いています。
    まだまだ、もっと得点は上がると期待できる、伸びしろの大きい生徒さんも複数います。
    今回も、高校数学で満点が出ました。ヽ(^。^)ノ
    数学は2科目の平均点を記してあるので、平均だと90点台になってしまうのが勿体ない。
    高校英語も2科目の平均点を記してあります。
    120点満点の学校は、100点満点に換算してあります。


    来たる大学入試改革。
    さらに今年度の大学入試の結果。
    既に報道されていますので、ご承知の方も多いでしょうが、今年は首都圏の私立大学入試は激戦でした。
    理由は端的に、合格者数が絞られたこと。
    入学定員を厳密に守らないと大学は国から補助金をもらえなくなるため、今までのように多めの水増し合格者を出すことが年々できなくなっています。
    つまりは、それだけ合格率は低くなっています。
    そうなると、偏差値の高い受験生がすべり止めを今までよりも多く受けるので、上から順にどんどん受験生が押し出され、これまでは比較的合格しやすいと言われていた大学も厳しくなっています。
    今年の受験に関しては、私もそれを実感しました。
    え、何でこの子が、この大学に落ちるの?ということは実際にありました。
    以前なら模試でB判定ならほぼ合格しました。
    今年は、模試でA判定でも合格するとは限らない。
    それほど厳しい入試でした。
    少子化で大学全入時代と言われていたのに、・・・・。
    AO入試や推薦入試に受験生が多く流れるのも、頷ける事態です。

    こうしたことも遠因なのでしょうか。
    中学も高校も、今年の定期テストは問題の量が増えた学校が多いと感じます。
    公立中学の数学の定期テストが大問15まであったりします。
    なぜ、こんなに問題数が多いのでしょう?
    数学のテストの配点が1問あたり1点とか2点なのです。

    従来は、大問8程度で典型題のみ、最後の1題だけ発展問題というテスト形式が多かったのです。
    しかし、それでは、解き方の手順を暗記して解いているだけの子が高得点になり、「5」を取る場合がありました。
    そうした子は、手順を暗記して解いているだけなので、理解していない可能性が高く、テストが終われば解き方ごと全部忘れてしまうことがありました。
    同じ公式や定理を使う問題でも少し形が変わっただけで全く対応できない学力の子の場合もありました。
    そういう子が「5」で良いのか?

    それはわかります。
    しかし、今のように小問が50問あるような数学のテストですと、最後まで到達できない子が多くなります。
    知能テストのようです。
    とにかくスピードだけが問われ、じっくり考えるタイプの子は得点できません。

    うちの塾にも、じっくりタイプの子がいます。
    説明してもヒントを出しても反応がないので、わからないのかなあと思いながら様子を見ていると、驚くほど遅いタイミングで、しかし確実に解き始める子はいます。
    わからないのではないのです。
    時間がかかるだけなのです。
    計算も、1行1行何かを確かめながら解いているので、時間がかかります。
    正直、計算は、頭ではなく手が計算するように機械的に処理してほしい。
    教える側としてそれも本音ですが、1つ1つ頭の中で何かを確かめながら計算しているのは、わかっていないということではありません。
    こういうタイプの子は、時間を切られると、プレッシャーを受け、本来の実力を発揮できません。
    いつものペースでじっくり解いていれば、最後まで解けなくても80点は取れるはずですが、問題の多さに慌て、パニックに陥り、計算ミスを多発し、しかも、それを見直す時間もなく、実力を発揮できずに終わってしまいます。

    そういう子は入試で実力を発揮できない。
    だから評価が低くなっても、入試得点とのズレがなくなり、むしろ正確な評価だ。
    このテスト形式は意味がある。
    テストに強い子が誰であるかを明確にできるのが、今のテストの形式。

    そういうことも、わからなくはありません。
    現行のセンター試験の数学も、時間配分を失敗したら、ほぼ終わりですから。
    スピードは重要です。

    でも、・・・・本当に?
    計算スピードと正確さでいったら、人間はコンピュータにかないません。
    では、コンピュータのほうが、人間より数学ができるということでOKですか?
    そちらの方向で勝負しないために、思考力を問う教育や考える授業が重視されようとしているのではないのですか?
    何でテストが大量の問題をフルスピードで解く競争になってしまうのでしょう?

    知能テストなら、それでいいのです。
    でも、数学の定期テストは、知能テストではないと思うのです。

    慌てなければ正解できる基本問題を計算ミスでポロポロ取りこぼしている。
    でも、後半の発展問題の立式は正しい。
    証明問題も、少し減点はあるが、答案の形になっている。
    ただ、結局、得点はパッとしない。

    そうした子の数学力は、少なくとも以前よりは確実に伸びていると思うのです。
    特に、考える力が育っています。
    文章題を見ただけで諦めていた頃とは違う。
    でも、それを評価する手立てがありません。

    アクティブラーニングもそうでしょう。
    グループワーク。
    ディスカッション。
    それも、その場での瞬発力やスピードが問われます。
    パッと反応し気の利いた発言ができる子がその場を支配します。
    社会で生きていくには、そういう能力も必要です。
    でも、数学力ってそれなのでしょうか?

    答案を見るたび、色々と考えてしまいます。
    足の速い子が勝つように、計算の速い子が勝つのは、1つの物差しとして正しい。
    でも、物差しはそれ1つではない。
    昨日の自分より数学がわかるようになっていること。
    前よりも、勉強が好きになっていること。
    それも評価されてほしい。
    そうであってほしい。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 13:05Comments(0)講師日記

    2018年06月10日

    1学期中間テストの結果が出ました。2018年。


    2018年1学期中間テストの結果集計出ました。

    数学 90点台 1人  70点台 2人  60点台 3人  50点台 1人
    英語 90点台1人              60点台 1人

    高めに安定している子と、急成長している子と。
    今回も頼もしい結果となりました。

    国公立・私立に通う高校生に多いのですが、過去、なかなか成績が上昇しなかった子の主な要因は、本人が学校の教材に拘泥していたことでした。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがるのでした。

    数学の場合、国公立・私立の学校の教材はボリュームがあるのは事実です。
    学校は毎日の家庭学習が十分にできるような分量の教材を用意しています。
    それをテスト前までため込むので、消化しきれない子がいます。
    数学が苦手な子に対しては、塾の授業は塾用テキストで解説・演習し、塾から出す宿題は学校の問題集からにして、テスト1週間前までに最低1回は学校の問題集が終わるようにスケジュールを組みます。
    しかし、その宿題を解いてこない子がいました。
    「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
    それを次の授業中に解かなければならなくなります。
    次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
    スケジュールが遅れていき、やがて、塾の授業も学校の問題集を解いていくだけになってしまうことがありました。

    本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えているのでしょうが、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
    週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいいから」と言い訳して、現実から目を逸らしてしまう子がいます。
    本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないのです。
    ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこないのです。

    テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
    塾の授業はテストまで何回あるのか?
    そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
    とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
    そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていく子も過去にはいました。
    定期テスト1週間前になっても、学校の問題集が10ページ以上も残っています。
    それを解答解説を見ながら1回解くことが、数学のテスト勉強の全てになっていました。
    当然、演習量が足りず、数学の成績は前の成績をキープするだけでも至難の業でした。


    英語の場合も同様で、とにかく学校の教材の種類と量が多いのが国公立・私立の傾向です。
    薄い冊子状のテキストを含め、1科目で5~6冊あります。
    学校の英語の予習だけでも大変なので、他のことはやりたくない。
    学校の英語の予習を手伝ってほしい。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    学校の英語の授業に関係のあることだけをやりたい。
    他のことはやりたくない。
    そういう要望につきあっていると、英語学習の中身がどんどん痩せていきます。
    定期テストに初見の長文からの出題があると、それは解けなくなっていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強になり、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなっています。
    もっと間口の広い英語学習をしよう。
    定期テスト直前には学校の進度に合わせてテスト対策をするけれど、それ以外の時間はもっと間口を広くとり、英語力を根本的に鍛えていこうよ。
    そう話すと理解した顔はするのですが、実際にはコミュニケーション英語の教科書本文の予習をしたい。
    薄い冊子のリーディング問題を全訳してほしい。
    英語表現の教科書の問題を予習したい。
    文法・語法の問題集を一緒に解いてほしい。
    というより、答えを教えてほしい。
    そういう痩せた勉強を望むようになっていきます。
    単語暗記の宿題を出しても、やってきません。
    長文読解の宿題を出しても、本気で解いてきません。
    本気でやらないから実力がつかず、じわじわと英語力が落ちていきます。
    学校の定期テストの成績は何とかキープしていたのですが、校外実力テストや模試で英語の偏差値がガクンと下がると、そのショックで塾を辞めたいと言い出します。
    そんなことも過去にはありました。

    現在、授業は上手く回転し、それがテストの得点上昇につながっています。
    学力を鍛えるためには、学校の教材を私が代わりに解いてあげる授業ではダメなのです。
    それは当たり前のことなのですが、個別指導や家庭教師をそういうことができる場所ととらえている子は多いです。
    学校とは別の教材で勉強しなければならないのなら、負担が増えるだけ。
    そう思うのでしょう。
    違うんだけどなあ。
    今、何ができ何ができないかを常に把握している講師の個人指導を受ける圧倒的な強みは、学校の教材で授業してくれるかどうかの次元の話ではないのです。
    むしろ、そんなところに拘泥している学習姿勢だから、成績が上がらないのだと思うのです。
    学習の本質をつかめば、学校の教科書も問題集も今までよりも効率的に自力で学習していけるようになります。
    自力で解けるのならば、家庭学習もあまり負担に感じなくなり、勉強がそれまでほどには苦でなくなります。

    学習に対して視野が狭くなっていると、いずれ必ずその結果が表れてきます。

    学校から配布された問題集を自力で解ける実力を鍛えること。
    学校から配布された問題集をテストまでに二巡する学習習慣を身につけること。
    テストにどんな問題が出るか、重要なところはどこか、自分で判断できる学力を鍛えること。
    そこに向かってさらに精進してまいります。

      


  • Posted by セギ at 12:09Comments(0)講師日記

    2018年04月18日

    自宅では勉強しない主義?


    数年前、高校3年生の女子生徒が、とにかく授業を増やしたい、空いているコマに全部入りたいと言い出したことがありました。
    そのとき、コマは全て埋まっていましたので、そもそも無理な話ではあったのですが、違和感もあり、よくよく話を聞いてみると、『ビリギャル』に影響を受けてのこととわかり、さらに複雑な気持ちになってしまいました。

    学年ビリのビリギャルが、偏差値30上昇して有名大学に合格した話。
    そういえばそんなのがあったなあ、と思い出される方も多いと思います。
    の舞台となった塾は、講師を何人も抱えている個別指導塾のようです。
    システムの詳細はわかりませんが、自習ブースが沢山あり、そこで勉強して疑問点があると講師に質問したり、自習の前後に、あるいは途中に講師と学習内容を打ち合わせたり確認したりする様子です。
    つきっきりの完全1対1の個別指導ではないようでした。
    その自習が「授業」ということで、1コマあたりの授業料が設定されているのですが、年間200万円払うと通い放題なんだとか。
    彼女は、その「通い放題」に憧れたようなのです。

    「また、ビリギャルですか」
    ため息をついた私に、彼女は言いました。
    「ビリギャルはお母さんが200万円出してくれたんだよ。いいなあ。うちなんか・・・」
    「あの本を読んだ最終的な感想が、それですか?」
    「別に、それだけじゃないけどさ・・・。家だと勉強できないんだよ」

    ビルギャルの本に影響を受けて、自分も頑張ればできるようになると思ってくれるのは良い影響です。
    しかし、200万円で塾に通い放題なら自分も勉強ができるようになると思うようでは、がっかりしてしまいます。
    200万円出してくれたお母さんは、良いお母さん。
    あれは、そういう話なんでしょうか?

    その子は、私の提示する英単語暗記1週間分を塾に来る30分前に慌ててやっていました。
    当然、ほとんど暗記できず、
    「無理だ」
    を連発していました。
    家で勉強できないなら、確かにそういう結果になるのです。
    しかし、なぜ家で勉強できないのでしょう?


    今年、高校3年生の女子生徒が、コマを20:00からのに変更したい、空いていないかと問いあわせてきました。
    20:00からのコマは、部活のある中高生に人気の時間帯で、そのコマからほぼ埋まっていきますから、そのときは空いていませんでした。
    それにしても、高校3年生ならもう部活もないので、むしろ夕方明るいうちのコマに変更しても良いと思うし、今までの高校3年生はその方向で時間帯を変更することが多かったのです。
    なぜ夜遅くのコマに変更したいのかと問うと、学校が8時まで自習可能なので、できるだけ学校に残って自習し、その後で塾のほうが都合が良いというのでした。

    学校が夜8時まで自習可能・・・・。
    生徒がそんな時間まで学校に残っているということは、学校の先生たちもそんな時間まで残っているということ。
    学校の先生たちの労働条件はどうなっているのだろうと心配になってしまうのですが、それはともかく、ここでも、自分の家で勉強できず外で勉強する今の高校生の一端が見えたような気がしました。
    そういえば、「自分の部屋では勉強するな」とアドバイスをしている受験マンガもあります。

    図書館などに行って勉強する習慣というのは、私が高校生の頃からありましたから、そのこと自体は特別新しいことではありません。
    私も気分を変えて図書館に行くことはありましたが、そうやって外で勉強するのはイベント感が強く、たまにやることで、普段は自分の部屋で勉強していました。
    中学生くらいまではリビングで勉強したりもしましたが、高校生になると、自室で集中したい。
    正直、私は自分の部屋で勉強するのが一番集中できます。
    外で勉強するのは、どうしても時間が限定されますし。
    自分の部屋で集中できるなら、時間は無尽蔵です。
    受験のために毎日5時間勉強するのだとしたら、学校の図書室や自習室で2時間プラス自分の部屋で3時間くらいが良いバランスと感じます。
    自分の部屋では勉強できないとなると、学習時間の総量がどうしても減ってしまう懸念があります。
    外だけで毎日5時間は確保しづらいです。
    それに、自分の部屋はいろいろと便利です。
    わからない問題があったとき、これはあの参考書に類題が載っていた気がすると、すぐに手を伸ばして調べられます。
    自分の部屋以外で勉強するときは、手元には持ち運べる分の勉強道具しかありません。
    重い辞書の変わりに電子辞書を使うようになったりと、勉強道具はかなり軽量化されたけれど、良い参考書は今も重いし、使う参考書は1冊ではありません。
    自室は誘惑が多いとはいうけれど、誘惑にそんなに毎度毎度負けないでしょう?
    目標があるとき、人間は、そんなに負けないです。

    とはいえ、そういう精神論で済む話でもないのでしょう。
    どうも、近年の高校生は自室では勉強に集中できないらしいのです。
    どういうことだろう?

    それで思い出したことがあります。
    数年前、高校生の男子生徒に授業をしていたときのこと。
    定期テスト直前の授業だったのですが、英語のテスト範囲をその子は把握していませんでした。
    人なつっこい性格で、学校でも人気のある子だろうと想像されましたし、数学は抜群にできたのですが、そういう雑なところもある子でした。
    テスト範囲がわからない?
    どうするの?
    と問いかけると、その子は、ちょっと待ってと言って、メールを打ち始めました。
    そして数分後、テスト範囲の詳細を記した返信が届いたのです。
    ともかくテスト範囲がわかったので、その範囲の勉強を始めました。
    「コミュニケーション英語」の本文の和訳で、学校の先生はここをどう訳していたの?と私が問いかけると。
    その子はまたメールを送り、数分して、該当部分の授業ノートを撮影した画像が届きました。
    女の子のきれいな文字で記されたノートでした。
    こうしたことが日常で行われているのだとしたら、これは・・・。

    テスト前ですから、その女の子も勉強していたでしょう。
    それでも、その男子生徒からのメールに最優先で応じていました。
    その時間、彼女は自分の勉強を放棄しています。
    これは、ちょっと問題だぞ・・・。
    そういうことはやめなさいと注意し、以後、私の前でそれをすることはなかったのですが、何が問題であるのか、その男子は問題の根本を理解したかどうか・・・。
    「えー?邪魔なら、無視すればいいじゃん」
    要求するほうは、その程度の気軽さなのです。

    そのことと考えあわせると、例の「200万円通い放題」をうらやましがる女の子から、そういえば以前こんな話を聞いたことがあったのも思い出しました。
    毎朝、Twitterで「おはよう」とフォロワー全員に挨拶するのに20分かかるというのです。
    Twitterって、朝の挨拶が必要なツールでしたっけ?
    インターネットの利用の仕方は、世代によって全く異なります。
    身近な友人や知り合いよりも、顔も名前も知らないネット上のつながりのほうが優しくて切実で他に変え難いところもあると、わからないわけでもないのです。
    でも、それは幻想でもあります。
    青い鳥の寓話を待つまでもなく、幸せは身近なところにあるよ。
    本当にあなたを心配している人は、あなたの近くにいるよ。
    そのことも含めて、ネットにのめり込む子は心配になります。
    しかも、その子がやっているのはTwitterだけではありませんでした。
    LineはLineで、現実の顔見知りと、もっと頻繁な、ほぼ1日中のコミュニケーションが必要とのこと。
    つまり、1日中、スマホに触わっているのが日常なのでした。
    塾での授業中も、机の上にスマホを置き、返信まではしないものの、誰かから連絡が入る度に確認することはやめられない様子でした。

    本人にも自覚はあり、勉強に集中するためにTwitterはやめるLineをやめるとアカウントを消すのですが、ひと月も経つと復活しているのでした。
    一種の依存症だったのかもしれません。
    スマホの習慣性の怖さ、それで失われる時間の長さについては近年よく言われるようになりましたが、他人事でなく、ごく身近に迫っている課題となっています。
    顔も名前も知らないTwitterのフォロワーに朝の挨拶をするのに毎日失われる20分。
    それは、本当に必要な人間関係なのだろうか・・・・。
    それが必要な人もいると思います。
    世界とのつながりがそれしかない人もいるでしょう。
    それが命綱の人もいると思います。
    大切な人間関係かもしれません。
    しかし、彼女は果たしてそうなのだろうか・・・。

    スマホのことをあわせて考えてみると、高校生が自分の部屋で集中して勉強できないのは、つい勉強以外のことをしてしまうというだけのことではなさそうです。
    何より、スマホが集中の妨げになっているのかもしれません。

    勉強を始める。
    数分で友達からLineに連絡が入る。
    スマホを手に持つ。
    友達に返信する。
    それだけでは済まず、つい、Twitterやインスタグラムなどひと通り見て回る。
    勉強しなくちゃと思い、再び勉強をする。
    友達からLineに連絡が入る。
    その返信をする。
    つい、Twitterやインスタグラムをひと通り見て回る。
    あまり時間が経っていないので大きな変化はない。
    物足りないので、ついでに動画を見てしまったり、ゲームをしたり。
    ひと通りやって、勉強しなくちゃと思い、再び勉強をする。
    友達からLineに連絡が入る・・・。
    この無限ループにはまって、自分の部屋では勉強できなくなっている高校生はいないでしょうか?
    いや、これは大人もそうかも・・・。

    学校の自習室や塾の最大の利点は、そこがスマホ禁止だからでしょうか。
    スマホの電源を切り連絡を絶つ大義名分があるから。
    人間関係を壊さずにスマホから離れることが可能です。
    実際、テスト前の貴重な時間に、テスト範囲がどうのノートがどうのと問い合わせを受け続けて自分の勉強ができない、お人好しで真面目な女の子は、スマホから避難せざるを得ない状況があると思います。
    問い合わせではなくても「勉強してる?」といったどうでもいいLineの会話にもつきあわなければならないでしょう。
    勉強しているのにいちいち集中を削がれる。
    これはかなり問題です。

    賢い子は、そのあたりも上手にさばいているかもしれません。
    でも、上手くさばけない子も、いるでしょう。

    それを早めに察した保護者の方は、高校生にもスマホは与えず、インターネットに接続できない設定にしたガラケーしか持たせない場合も目にするようになりました。
    インターネットは、タブレットやパソコンを親の管理下で使用。
    自室には持ち込ませない。

    親の独断でそれを行うと反発される場合も多いでしょうが、お人好しの高校生で、友達に何かと重宝され、見方によれば善意を「搾取」されている子は、もしかしたら、自分からは言い出せないだけで、スマホを手放すことを望んでいるかもしれません。
    「親に取り上げられた」
    と友達に言い訳できるのなら、むしろそのほうがいい。
    そのほうが自宅での自分の時間を有効に使えます。

    一方、人間関係はそれで大丈夫なのか、不安もあります。
    1日中Lineでつながっているというのは、凄まじい相互依存です。
    それは、相手への依存なのかスマホへの依存なのか、既に判然としませんが、一方的に断ち切った場合、その後の人間関係に影響しないわけがありません。
    高校3年生になって、既にこの人間関係はあと1年。
    お互い、自分の進路のことで頭がいっぱいで、つまらないゴタゴタには関心が薄くなっている。
    人間関係が切れたら切れたで、それまでのこと。
    そう思いきれる時期でないと難しい決断かもしれません。

    スマホを長時間使用する子の成績は全体に低く、スマホの使用をやめればそうした子の成績は上がっていくという調査結果も出ています。
    スマホのせいで睡眠不足になるといった要因よりも、学習時間の質がスマホのせいで悪化しているのが何より大きいというのです。
    スマホがある限り集中して勉強できないのですから、それも自然なこと。
    塾などのために夜は音信不通になるのが常態の子のほうが、依存症になりにくいと言えるかもしれません。

    とはいえ、便利なはずなのに、生きにくい時代になったものです・・・。

      


  • Posted by セギ at 14:36Comments(0)講師日記

    2018年03月21日

    学年末テスト結果集計出ました。2018年3月。




    学年末テスト結果集計出ました。

    数学 90点台 1人 80点台 2人 70点台 2人 60点台 1人 50点台 1人 40点台 1人
    英語 90点台 1人 70点台 1人 

    高校の数学は、2科目の平均点を結果としていますが、片方の科目で100点満点を獲得した人もいました。
    前回のテストから+23点の人、+14点も人も。
    学年末はテスト範囲が広く、得点しづらい範囲であることも多い中、大きな成果が出ています。
    さあ、次は新学期です。


    さて、着々と結果を出し続けるためにさらに精進しつつ、最近はなお、新学習指導要領とアクティブ・ラーニングのことを考えています。

    先日、学者の人がツイッターで、こういうのがアクティブ・ラーニングだと説明しているのを目にしました。

    「黒板に先生が文を書く。
    『正方形の右に正三角形が2つ並んでいる』
    これを表す図を描いてみましょう、はアクティブ。
    『隣りの人と絵を交換して、合っているかどうか確認してみよう』
    もアクティブ。
    『合っているかどうかわからなかったのはある?』
    黒板にその図を貼って、みんなで議論。十分アクティブ」

    ・・・・うわあ・・・。( 一一)

    何というか、過去のトラウマに襲われ引きずり込まれるような恐怖感があります。
    そうそう。これ。
    これが、アクティブ・ラーニングです。
    私が中学生の頃、毎日毎日、学校で受けていた授業です。

    ツイートはさらに続きました。
    「先ほどの問題。
    □△▽や◇▽▽について
    『間違っている』
    『よくわからない』
    に手を揚げる子は当然予想されて、
    『合っていると思います』
    という子と議論になる。
    それで『正方形とは何か』『正三角形とは何か』というまさに『定義とは何か』を学ぶことになる」

    ・・・うわあ。(T^T)
    いやだいやだ。

    「わあ、面白そう。そういう授業を私も受けたかったなあ」
    そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
    でも、それは、今、大人として、上のような平易な課題を見るからではないでしょうか。
    正しい結論がすぐにわかりますから、議論に参加できそうで「面白そう」と感じるという側面はないでしょうか。
    知識も判断力も小学生に戻って、学校でその課題を与えられる幼い自分を想像してみてください。
    そのストレスの大きさを想像してほしいのです。
    正解がわからない議論に常に参加していくプレッシャー。
    何が最終目的なのかわからない課題を積極的に解決していかなければならないプレッシャー。
    子どもには、先生の意図や、この学習の真の目的は、見えないのです。
    謎解きの喜びと同じだけ、恐怖と困惑を伴う学習です。


    そもそも、子どもというのは案外保守的で、固定観念が強いものです。
    上の課題が与えられて、◇▽△という、先生が歓喜するような非凡な図を描く子は、ほぼいないと考えたほうが良いでしょう。
    賢い子は、「□△△」という平凡な正答の図を描くと思います。
    一方、「△□□」などの明らかに間違った図を描いてしまう子も多いかもしれません。
    そして、間違った図を描いた子の中で、自分の間違いにすぐに気がついた子は、間違ってしまった恥ずかしさから立ち直るのに時間が必要です。
    その精神状態で、後の議論に参加するのは難しいかもしれません。
    もっとまずいのは、間違った図を描いて、隣りの子にバツをつけられても、なぜ間違っているのか理解できない子が一定数いると予想されること。
    間違いを具体的に指摘されても、なぜ間違いなのか理解できない学力層の子が存在することです。

    「△□□」の図が間違っていることに本来議論の余地はないのですが、間違っている子が多ければ、それも議論しないわけにはいきません。
    しかし、それは、その授業で予定していた学びとは違うでしょう。
    先生はそれを上手く避け、議論をコントロールしなければなりません。
    予定していた学びとは異なる、つまらないミスによる間違いに関する議論は手短に行われるでしょう。
    間違った図を描いたのに、それのどこが間違っているのか理解できない子は、そこで授業に取り残されます。
    その先の議論に参加できません。
    その後の議論など耳に入らず、自分の間違った図をぼんやり見つめるだけかもしれないのです。
    そして、その子のノートには、△□□という謎の図が残されます。
    家庭で、保護者の方が、
    「今日は学校で何を勉強してきたの?」
    と尋ねても、
    「わからない」
    以外の応えは返ってこないかもしれません。
    ノートを見ても、謎の図しか残っていません。
    アクティブ・ラーニングには、そうなる危険性があります。

    興味深く議論の題材になるような非凡な図を生徒が描く可能性は低いです。
    賢い子たちは、□△△という、わかりやすい正解の図を描くでしょう。
    しかし、それでは、議論になりません。
    ですから、先生は、あらかじめ用意していた図を黒板に貼ることになるでしょう。
    ▽△ の図です。
    さて、これは正しい図でしょうか?
    「正方形の右に正三角形が2つ並んでいる」
    この図は、それを正しく示しているでしょうか?
    正しいと思う人と思わない人に分かれて、議論が始まります。

    この図を「間違っている」と考え、しかも積極的に議論に参加してくれる生徒は、この授業にとって貴重な存在です。
    この図を間違っていると思う生徒の学力評価が下がることはありません。
    むしろ、議論の途中で思考が深まり、劇的に考えが変わっていくなら、先生は特にその子を高く評価する可能性があります。
    しかし、秀才たるもの、最初からこんなことはわかっていることを周囲に示したい。
    最初から、正しい答えを選びたい。
    間違った判断は最初からしたくない。
    そんなこと、本当は誰も気にしていないのに、それを気にして立ち回り、疲れ果ててしまう子もいるでしょう。
    こうした学習が、秀才にとってストレスであるのは、そうした点です。

    繰り返しますが、大人にとっては、□も◇も正方形、△も▽も正三角形であることは自明の理です。
    正解がわかり、道筋がわかるから、この議論に参加するのは楽しいことに思えます。
    □も◇も正方形であることを理解することから、正方形の定義というものに考えが至り、さらには定義とは何かまで学習を深めていくのだ。
    凄いなあ。
    楽しいだろうなあ。
    アクティブだなあ。
    アクティブ・ラーニングっていいなあ。
    そんな授業、私も受けたかったなあ。
    そう思うかもしれません。

    しかし、高等数学で、イエス・ノーの課題を与えられ、意見を言えと要求される自分を想像してみてください。
    恐怖しませんか?
    それがアクティブ・ラーニングだ、新しい学習なのだと言われる自分を想像してみてください。
    トラウマになりそうじゃありませんか?
    小学生にとっては、上の課題はそういう可能性を含んでいないでしょうか?
    の課題から「定義とは何か」にまで学習を深めることができる子は、少数です。
    限られた少数の秀才の学力を飛躍的に伸ばすために、大多数の子を置き去りにする可能性があります。

    私は国立大学教育学部の附属中学校に通っていました。
    授業はこういう実験授業が大半でした。
    結局、日本の教育はこの40年、ここから一歩も先に進んでいないのかもしれません。
    私は、こうした授業でよく発言していましたし、そうした議論を当時は楽しんでいました。
    あれは、面白い授業でした。
    成績も良かったです。
    当時の深い学びが、今の自分につながっていると、言えば言えるのかもしれません。
    それでも、ある種ぞっとする感じがつきまとうのです。
    深い霧の中で目的も定まらず、ただ生き残るために全神経を張り詰めるサバイバルゲームを常に続けていたような。
    自分は闘いたくはないのに、常に闘いを強いられていたような。
    そして、その授業でほとんど意見を言うことはなく、
    「勉強がわからない」
    「学校がつまらない」
    と言っていたクラスメートたちの顔が浮かぶのです。

    この仕事をするようになって、やはり国立大学の附属中学に通う生徒の個別指導を受け持つ機会が幾度かありました。
    私の頃と同様に、そうした学校では実験授業が行われていました。
    アクティブ・ラーニングです。
    「学校の授業は、何をやっているのかわからない」
    「学校の授業は、勉強のできる何人かと先生が話しあっているだけ」
    同じような感想を異口同音に聞きました。
    そういう学校は、授業は難解でも、定期テストは、特別難しい問題が出題されるわけではありません。
    前半は易しい基本問題、後半にいくにしたがって、難度を増していきます。
    実験授業を行っている先生たちは有能ですから、テストもほれぼれするような構成になっていることが多いのです。
    しかし、私が個別指導をすることになった子たちは、そのテストの基本問題さえ正解できていませんでした。
    単なる1次方程式や連立方程式の計算問題が解けないのです。
    市内の公立中学に通っている数学が「2」の子だって、それくらいは正解するのに。
    国立の附属中学校は、私立の中高一貫校のように進度を速めた授業をしているわけでもありません。
    学年相当の普通のことを学んでいます。
    ただし、実験的な手法で。
    アクティブ・ラーニングで。
    学校の授業で何をやっているのかわからないので、家でも何を学習して良いのかわからず、テストに何が出題されるのか、わからないというのです。

    その子たちにも原因はあります。
    授業中、ぼんやりしていないで、とにかく議論に加わったら良いのです。
    授業中の発言をバカにされることはありません。
    あまりにも意味のない発言、議論を後退させるだけの発言は、スルーされる可能性はありますが、恥をかいてもいいから議論に参加したら良いのです。
    そして、家に帰ったら、コツコツと基礎的学習をしたら良いでしょう。
    学校は、普通の教科書に沿った普通の教科書準拠ワークを配布しています。
    それをコツコツ解いたら良いのです。
    学校で何をやっているかわからないから勉強しない、というのは言い訳です。
    学校の授業を口実に勉強しないでいるだけです。
    私が個別指導を担当した、学校の授業内容がわからず成績不振に悩んでいる子たちは、学習習慣が身についていない子ばかりでした。
    塾で基本を丁寧に教え、それについて復習するだけの宿題を出しても、解いてきませんでした。
    1週間後、塾に来る直前になって慌てて手をつけ、上手く解けず、もう忘れた、わからなくなったと言い訳することが多かったのです。
    宿題を解いてくるようにするまでが、まず第一関門。
    錆びついた巨大な機械に油を差し、動きだすようにするまでには、大変な時間と労力が必要でした。

    でも、その子たちだけを責めて、切り捨てるのは、いかがなものか。
    学習目標を明確に提示し、何を覚え何ができるようになれば良いかを示された授業で懇切丁寧に教えてもらえていれば、彼らはそれほどの学業不振にはならなかったでしょう。
    アクティブ・ラーニングは、両刃の剣です。

    学校が基礎を丁寧に教え込む役割を担ってくれなくなるならば、家庭と塾が渾身のフォローをしていきましょう。
    ゆとり教育の再来だけは避けなければ。
    そう思います。

    もう一つ言うならば。
    ◇が正方形に見えない子、▽を正三角形と認識できない子は、いつの時代にもいます。
    学校でのクラス全体の議論や、グループ・ディスカッションには参加できず、学校でどのよう結論が出されようとも、◇は正方形ではない、これはひし形だ、と心の中でずっと思っている子はいます。
    そうした子と、対話を繰り返すことで学習を深めることが可能なのが、個別指導です。
    とても時間はかかりますが。
    そして、それもアクティブ・ラーニングだとは、私も思うのです。

      


  • Posted by セギ at 13:24Comments(2)講師日記

    2018年03月16日

    アクティブ・ラーニングで思い出すのは、ゆとり教育。


    新学習指導要領とともに、近年盛んに言われているのが「アクティブ・ラーニング」です。
    21世紀型スキルを身につけるには、アクティブ・ラーニング。
    「自らが学ぶ力」を養うアクティブ・ラーニング。
    ・・・と、今のところ褒め上げられているアクティブ・ラーニングですが、さほど万能なものでもないのは、容易に想像がつくことです。

    アクティブ・ラーニング型学習とは具体的には何なのかと言えば、発見学習・課題解決学習・グループディスカッション・ディベート・グループワークなど。
    このように具体的な項目を目にすると、何だかこれは見た覚えがあるぞと思う方が多いと思います。
    どれも、「ゆとり教育」の頃に盛んに言われていたことですよね。
    (+_+)

    ゆとり教育というと、今となっては、
    「円周率が3だった」
    「台形の面積の公式を教えなかった」
    など、学習内容を減らし授業時間を減らしたことばかりが印象に残っているかもしれません。
    その結果、国際学力テストで日本は順位を落とし、子どもの学力低下が叫ばれるようになりました。
    同時に、ゆとり教育で育った世代の言動が何かおかしいとも言われるようになり、今やほぼ全否定されているのが「ゆとり教育」です。

    しかし、ゆとり教育というのは、教える内容をただ減らしただけのものではありませんでした。
    減らしたところにアクティブ・ラーニングを導入しようとしたのが真の姿です。
    そのことが忘れられているように思います。
    小学校で「総合」の時間が設けられ、教科の枠を越えた学習が推進されたり。
    ディベートの授業が行われたり。
    中学生が実際の企業や店舗で働く職業体験をするようになったり。
    修学旅行が観光地の物見遊山から、目的地の産業・歴史・文化を調べてその現場に行き、体験学習をするものになったり。
    これらはゆとり教育の時期に導入されたことです。

    「生きる力」を育てる「新学力観」に基づく教育を進める。
    ゆとり教育とは、そういう理想の教育でした。
    これらの例の中で何らかの成果を生んだものは今も教育活動として残っていますが、しかし、それは全面的な成功とばかりは言えないのが実情です。
    アクティブ・ラーニングを享受し、それによって学力を高めることができているのは、一部の生徒に限られているのではないでしょうか。


    国際学力テストは、多くの子どもが受験した学力テストの平均値で比較されています。
    日本は、ゆとり教育の時期に子どもの平均学力が大きく下がりました。
    これは、教える内容が減ったことだけが原因ではなく、アクティブ・ラーニングが、学力が中位以下の子どもを学習から疎外する可能性があることを示していると思います。

    例えば、ディベートの授業。
    優秀な子どもたちは、よく考えて自分の意見を述べ、相手の意見にも耳を傾け、ただ言い負かすのではなく、論点を整理し妥結点を探っていくことを実地に学んでいくでしょう。
    しかし、それほどの聡明さを持たない子どもは、パッと思いついただけの底の浅い印象や感想を大きな声ではきはきと発表し、何か意見を言った気になって満足するでしょう。
    自分の発言の底の浅さを主体的に把握するのは困難ですし、教師がそれを指摘したら何も発言できなくなる子が多いでしょう。
    さらには、そうしたことにどうしても加われず、クラスメートたちが「ディベートの授業」なるものでワアワア言っている中で黙ってうつむき、早くこんな時間終わらないかなあと思っている子たちもいるでしょう。
    ・・・・こんな授業で学力が伸びるのは、一部の生徒だけかもしれません。

    それよりも、もっと基礎的な知識を全員が習得することに力を入れたほうが良いのでないか。
    中位以下の子どもたちの学力は、アクティブ・ラーニングよりも、基礎知識を丁寧に教え込み、それを運用できるようにしていくほうが底上げされるのではないか。
    ゆとり教育への反省から、そういう取り組みが全国で行われ、評価もされてきました。
    日本国内の学力テストで例えば秋田県が毎回高い順位を示すのも、中位以下の子の学力が基礎訓練によって底上げされていることが大きいでしょう。

    ゆとり教育のはるか以前から行われていることを考えてもみても明らかです。
    例えば、夏休みの自由研究。
    素晴らしい発想力と緻密な作業の結合した高度な自由研究をする子もいます。
    一方、毎年毎年、何をやったらいいのかわからず、自由研究が夏休みに暗い影を落としてしまう子も多いです。
    「自由研究アイディア集」的な本から何か適当に選んで真似する子。
    ネットの丸写しでチャチャッと済ませてしまう子。
    書店やデパートで自由研究キットを購入する子。
    ・・・夏休みの自由研究って、日本の戦後教育の中でも最古のアクティブ・ラーニングの1つではないでしょうか。
    それがこのありさまです。
    夏休みの自由研究が深い学びにつながる子もいますが、あまり意味のあるものになっていない子も多いです。
    本人の能力や性格によって、同じ課題を与えられても、それが真の学習に結びつくこともあれば、時間の無駄になってしまうこともあります。
    アクティブ・ラーニングの成果は、本人の自発性と能力によるところが大きく、学力格差が広がりやすい学習法だとも言えます。

    アクティブ・ラーニングには長所も多いです。
    主体的な学習は何しろ楽しいです。
    発見の喜び、自主的に学ぶ喜びを知ることができれば、それは生涯の財産です。
    私が中学生のときに受けていた授業の多くは今でいうアクティブ・ラーニングでした。
    私たちは日々議論を重ね、学習を深めていました。
    しかし、創造的なことが好きな子にとっては喜びであることが、そうではない子にとっては苦痛で成果も上がらないことを、私は同時に知っていました。
    附属小学校から内部進学した子たちの中には、授業で何が話し合われているのかを上手く把握できない子たちがいました。
    成果の上がらないことに時間を取られ、その子に必要な基礎的学習の時間を削られる。
    そもそも、誰も彼もがそんなに創造的で主体的である必要はないのではないか。
    教わったことをしっかり身につけて、それを確実に運用できることだって、重要な能力ではないのか?
    アクティブ・ラーニングのマイナス面に気がついていないと、子どもの学力はまた大きく下がる可能性があります。

    ここで立ちはだかってくるのが、AIです。
    教わったことを確実に再生するだけなら、AIのほうが精度が高い。
    創造的なことができない奴は、21世紀的人材ではない。
    計算練習をしっかりやって、計算問題だけは正答できる子どもたちは、国際学力テストの順位は底上げするかもしれないが、応用問題は解けない。
    そんな学力の子どもでは、今世紀は生き抜けない。
    ・・・・うーん、それはそうかもしれない。
    (''Д'')

    しかし、基礎学力の乏しい子は、アクティブ・ラーニングの学習主体になれないかもしれません。
    アクティブ・ラーニングの周辺をうろうろして、勉強した気になるだけの可能性があります。
    それを有効な学習にしていくには、どうすれば良いのか。
    逆に、基礎学力しかなく、言われたことを言われた通りにやれるだけでは、確かに将来は不安です。
    今回の新学習指導要領は「ゆとり教育」の再来となるのか。
    それとも、何か新しい展開があるのか。
    結果が出るまであと10年はかかるでしょうが、またしても失敗だったという結論は避けたいです。

    塾としてやれることは、まずはとにかく基礎学力を確立すること。
    その上で、応用力を養成すること。
    自分で考えて自分で学習できる学力を鍛えること。
    知識のインプットがされていない子はアウトプットできないことは、ゆとり教育の失敗から学んでいることです。
    まずは確かなインプットを。
    そしてアウトプットできるスキルを。
    アクティブ・ラーニングから疎外されない学力を育てましょう。
    時代が変わっても、私にできることは、結局あまり変わらないのかもしれません。

      


  • Posted by セギ at 12:01Comments(0)講師日記

    2018年03月07日

    それぞれの夢を心に宿して。



    今年は芸人さんが大学受験をしたのが話題になりました。
    テレビ番組の企画で東大受験を目指し、センター試験を受けた方もいました。
    結果は、
    国語148/200(現代文92古文35漢文21)
    英語76/200
    数学1A32/100
    数学ⅡB20/100
    地理B66/100
    日本史B51/100
    生物基礎30/50
    地学基礎25/50 だったとのこと。

    この数字をどう読むかは難しい問題です。
    その人の基準がどこにあるかによって見え方は違ってくると思うのです。
    「結局、国語しかできていない。本当に勉強したのか?」
    と言うことも可能です。
    特に英語と数学の得点は胸が痛いです。
    基礎を積み上げ、理解を深めないと、なかなか伸びないのがこの2科目です。

    あの番組を見ていた人の中には、合格が可能なのではないかと本気で思っていた人もいたかもしれません。
    「たった3か月で偏差値が30上がった!」という宣伝文句を見ることもそう珍しくない昨今です。
    それは本当に可能なのではないか?
    宣伝文句に煽られ、慣らされて、
    簡単なことのように感じてしまう人もいると思います。
    それは危険なことです。
    実際にはかなり珍しい事例ですから。
    だから話題になるのです。
    とはいえ、それは絶対に不可能なことでもない。
    そのはざまで、生徒本人も保護者の方も心が揺れてしまうのかもしれません。
    自分の子どももそれは簡単にできると信じたい気持ちになってしまうこともあるのでしょうか。

    最近、教育関係のネット記事など拾い読みしていて、1つ興味を引いたのが、学力の低い子たち向けの学習プログラムを提供する会社が業績を上げているという記事でした。
    教育関係というよりもビジネス記事です。
    その学習プログラムを導入した塾に通う生徒たちは、各自、パソコンで勉強します。
    アニメが多用され、クイズ形式で進行する学習プログラムには、パスワードを使って自宅の端末でもアクセスでき、繰り返し学習が可能。
    平均で1割の得点増加が見られ、評判は上々である、とのこと。

    ・・・・1割?
    学力の低い子で1割の得点増加?
    それは、例えば、定期テストで20点の子が、22点になったということですか?
    30点の子が、33点になったということですか?
    え?
    そんなことでいいんですか?
    それ、誤差の範囲ではないんですか?
    それで本当に「成績が上がった!」と喜んでもらえるんですか?
    思わず記事を二度見しましたが、やはり「1割」と書いてあるのです。
    普段ビジネス記事を書いている記者は、売り上げが1割上がることのような感覚でそれをとらえてしまったのでしょうか。

    一方で、「3か月で偏差値30上昇」が簡単なことのように言われ、一方で、学力の低い子の得点が1割上昇したことが凄い成果であるように言われる。
    この落差に、振り回されそうになります。

    現実は、それと似ているようで、でも、それぞれに異なると思うのです。

    今年、セギ英数教室は受験生が多く、まとまった結果を出しました。
    高校入試では2015年度入試以来の成果です。
    その間の数年に、受験生がいなかったわけではありません。
    高校受験をした子はその間もいました。
    合格しているのですが、それをこのブログに記すのはちょっと違うかなあと感じていました。
    年に1人ずつで、ぽつんとした印象になってしまうのを懸念してのことでもあります。
    でも、それだけではありませんでした。

    ある子は、中学2年の冬に入会しましたが、直前の定期テストの英語の得点は、ひと桁でした。
    公立中学の英語の定期テストで10点未満というのは深刻です。
    提出物や授業態度で加点があったのでしょう、成績は「2」でしたが、いつ「1」になってもおかしくありません。
    授業をしてみると、英語が全く読めないことがわかりました。
    単語の識別がほとんどできないのです。
    fatherとfamilyの区別がつかず、同じ単語に見えるようでした。
    「faしか同じじゃないよ。アルファベットは文字の種類が少ないから、どんな単語も多少は似ているよ。それを見分けるんだよ」
    と説明しても、
    「えー、同じだよー」
    と、にこにこ笑っていました。

    とにかく、教科書の重要例文・重要表現をどんなことをしてでも丸暗記すれば、穴埋め問題くらいはいくらか得点できるようになるだろうか。
    すぐに結果が表れないと辞めてしまう子もいますから、最初のテストの得点の動きは大切です。
    しかし、その学校の定期テストの問題を見て、私は青ざめました。
    リスニング問題を除く大問1はテスト範囲の文法問題、大問2はテスト範囲の重要表現、と穏当な出題でしたが、大問3以降は、都立入試問題と同じ形式の問題でした。
    初見の長文読解問題と英作文です。
    中学2年で、応用問題だらけの英語のテストです。
    テスト範囲が直接反映されている配点は20点程度。
    本当に英語力がないと太刀打ちできないテストでした・・・・。

    公立中学の英語問題は、テスト範囲の問題しか出題されない場合、問題自体がワークブックのように単調で簡単なことがあります。
    んなテストのための試験勉強しかしていない子は、中3になって突然、都立入試に向けての学力診断テストを学校で受けると、初見の英文を全く読めないため、普段の成績とはかけ離れて低い点数を取って慌てることになります。
    極端な話、学校の英語の成績は「5」なのに、初見の長文を読めない子もいます。
    その場合、学校の英語の成績は、その子の本当の英語力を表していません。
    変にふわふわと高い内申のため志望校が高くなってしまうと、それに見合った入試得点を取れないため、結局、他校の受験生に競り負けてしまいます。

    そういうことがありますから、学校の英語の定期テストに応用の長文読解問題があると、塾講師として、この学校の英語の先生は信頼できると感じます。
    学校のテストに応用問題が出るのだから、教科書を離れた問題も解いていくべきだよねという話を生徒にしやすいですし、生徒も納得してくれます。
    しかし、2割がリスニング、6割が応用問題で、しかも都立入試形式となると、学力の低い子は、どこから手をつけていいかわからない状態です。
    これは厳しい・・・。

    それからのことは、思い出すだけで胃酸が逆流してきそうです。
    週に1回塾に通うだけで英語力がつくわけがないのです。
    宿題の質、そして、宿題を解いている学習時間の質が学力を左右します。
    しかし、その子は独りで家庭学習ができる学力ではありませんでした。
    文法の基礎からやり直すといっても、中1の1学期の内容であるbe動詞と一般動詞の章で学習はほぼストップしました。
    文法問題を解くときに、文法を考えて答えていくという学習習慣がなかったのです。
    何となくそれらしい単語で( )を埋め、何となく英語っぽい順番で与えられた単語を並べていくだけなのでした。
    問題を解くスピードは速いのですが、それは考えていないからでした。
    常に当てずっぽうです。
    正答はほとんどありませんでした。

    適当に答えを埋めれば勉強した気分になれるので、文法の勉強はそれでも好きなようでしたが、長文読解問題は、中1向けの5行程度のものでも解いてきませんでした。
    全く読めないというのです。
    文法の宿題はやったのだから、長文の宿題はやらなくてもまあいいだろう、勉強はしている、と本人の中では辻褄が合ってしまう様子でした。
    当てずっぽうに解いているだけの勉強が英語の家庭学習の全てでは、英語力はつきません。
    ( ;∀;)

    一方、保護者の方は、わざわざ塾に通わせているのだから、効果があるのが当然と思っています。
    そして、それは塾という存在への信頼でもありますから、その信頼には応えたい。
    しかし、
    「目標は私立単願です。40点とるだけでいいのです」
    と言われてしまうと、それがどんなに大変なことかわかりますか、奇跡への挑戦ですよ、という気持ちにもなります。
    1割アップどころの話ではありません。
    得点を5倍にしろというのですから。

    勉強が苦手な子どものテストの得点が1割アップしただけで喜ぶ保護者は本当に実在するのでしょうか。
    10点が11点に。
    20点が22点に。
    30点が33点に。
    それで喜んでいただけるのでしょうか。
    私はそれで喜んでいただいたことはありません。
    そんなことでは喜べないほど現実は厳しく、保護者の方も追い込まれているのです。

    しかし、
    「40点とるだけでいいのです」
    と言っていただけたことはむしろ幸いだったと思います。
    それには家庭の協力が不可欠です。
    家庭学習の具体的な方法を私から提案できました。

    それ以降、保護者の方もその生徒も、本当に頑張りました。
    中3の2学期の定期テストでついに40点台を取り、無事に「2」をキープ。
    その子は、私立単願推薦をもらうことができ、高校に合格しました。
    内申に「1」があると、さすがに私立単願も難しいのです。
    私立単願が不可能となれば、一般入試に賭けなければなりません。
    入試で合格点が取れるようなら、そもそもこんな苦労はしないのです。


    偏差値が高いとはいえない私立高校の単願推薦合格です。
    しかし、私にとっては、今年の受験結果とはまた別の意味で誇らしい成果でした。
    ただ、その凄さ、その価値はなかなか伝わらないと思い、ここには書きませんでした。
    何しろ胃酸が逆流しそうな生々しい記憶でもあり、こうして時間が経過して、ようやくここに記しています。

    勉強が得意で、もっともっと勉強を得意になりたい人も大歓迎です。
    でも、勉強のやり方がわからず、結果が出せないでいる人も歓迎します。
    一番上に記した、芸人さんのセンター得点に、
    「何だこんな低い点。あったま悪いな」
    と笑う周囲の人たちに同調して作り笑いを浮かべはしても、あれは勉強した人の得点だ、勉強したけれど夢かなわなかった人の得点だと読み取ることのできる人。

    私と勉強しませんか?

      


  • Posted by セギ at 14:30Comments(0)講師日記

    2018年03月01日

    入試結果、出ました。


    2018年度入学試験結果が本日全て揃いましたので、ご報告いたします。

    ◎大学受験の部
    早稲田大学文学部合格
    中央大学文学部合格
    成蹊大学経済学部合格
    東洋大学経済学部合格
    デジタルハリウッド大学合格(推薦入試)

    ◎高校受験の部
    都立西高校合格
    都立南平高校合格
    女子美術大学付属高校合格(推薦入試)

    ◎中学受験の部
    恵泉女学院合格

    今年は受験生の人数も塾内で過去最大、合格実績も高いものとなりました。
    受験生の努力が結実しました。
    塾の歴史が長くなり、長期間通ってくれた生徒さんの合格には喜びもひとしおです。
    本当に良かった。
    皆さん合格おめでとうございます。


    今日から3月。
    また新しい出発です。
    セギ英数教室は、生徒を募集しています。

    大学受験英語は、受験科目の中でも最大の得点源として、ペーパーテストで高得点を取るための授業を行っています。
    英語4技能への移行を睨みつつも、現時点では、やはり筆記試験の得点力が入試を左右します。
    英語は常に得意科目でありたい。
    他の科目の少しの失敗は楽にカバーできる英語得点力を実現しています。

    数学は、得意な人は得点源としてのびのびと能力を伸ばし、また、苦手な人は、他の科目に迷惑をかけない得点を必ず確保することを目標に、演習中心の実戦的な授業を行っています。
    数学は苦手だが大学受験にどうしても必要な人、歓迎します。

    高校入試においては、数学・英語を含め、5教科の指導を行っています。
    こちらも入試問題の出題傾向に焦点を絞り、必要な知識を身につけた上での実戦的な入試対策を行っています。
    都立入試の数学・英語は得点源。
    さらに、他の各科目も最低でも85点は取る
    そうした形で入試の朝を迎えることを毎年の目標とし、成果を上げています。
    また、私立入試・都立自校作成校入試は、英語・数学ともに学校で学ぶ内容だけでは不足があります。
    早くから志望を定めている方には、定期テスト対策で内申を確保しつつ、学校のカリキュラムを離れて入試に向けた発展的な学習を計画的に指導しています。

    中学受験は、受験算数をメインとした指導を行っています。
    他科目の受講もご相談に応じます。
    当塾だけで入試対策をする方も、他の塾の補習の形で活用される方も歓迎です。

    受験生が卒業し、現在、授業コマに余裕があります。
    新規の生徒を募集しています。
    塾は3月が新学期。
    一般的にも、個別指導は、実力・実績のある講師から授業が埋まっていきます。
    新学期から通うのでは、指導経験のない新人アルバイト講師しか空きがないということにもなりかねません。
    今が塾選びの時期です。

    左のお問い合わせボタンから、ご連絡ください。
    まずは無料体験授業を受けてください。
    ご連絡、お待ちしております。



      


  • Posted by セギ at 12:07Comments(0)講師日記

    2018年02月23日

    AIの有効性と読解力のない子どもたちの話。


    少し前に「リーディングスキルテスト」のことをこのブログでも話題にしました。
    そのときは、公表された問題から、能動態と受動態の区別のつかない子が目立つし、それは実感として私もわかるということを書いたのですが、このほど、そのテストの主催者からさらに詳しい情報が公開されました。

    寡聞にして知らなかったのですが、このリーディングスキルテストの責任者である新井紀子さんは数学者で、「東ロボくん」という東大入試を受験するAIプロジェクトの指導者だった人でした。
    「東ロボくん」は、東大合格を目指すと言われていましたが、プロジェクトの真の目的は、AIは東大には合格できないことを証明することだったそうです。
    AIには、そのような能力はない。
    数学者だからこそ、そのことは予見できていた、というのは説得力のある話です。

    AIは、徹頭徹尾、数学の塊。
    数学的な情報に変換できないものは、入力も出力もできません。
    AIが本質的に「ものごとの意味を理解する」ことはありません。
    だから、東大に合格することなどありえない。

    AIが特に苦手としている科目は英語だそうです。
    AIは、英文の意味を理解しません。
    「東ロボくん」には1500億の英文を入力したそうですが、それでも意味など理解しようがありません。
    その1500億のデータから、次にくる可能性の最も高い単語を特定していくだけで、意味を汲み取ってはいません。
    言い換えれば、AIは、自動翻訳機の役割を果たすことはできても、AI単独で国際会議に出席することはできない。
    英語で商談を成立させ、契約を取ることはできない。
    人間に求められる英語力がそのようなものである以上、AIが人間を凌ぐことはあり得ないのです。

    ところが、「東ロボくん」は、東大に合格することは無理ではあっても、年月を重ねるうちに偏差値が上がっていきました。
    ついには、MARCH・関関同立のうちのいくつかの入試で合格点を取るに至ったそうです。
    現役高校3年生の学力上位数%に達することは不可能。
    しかし、学力上位20%に入ることは可能となりました。
    これは極めて危険なことです。

    学力上位者は、AIにはできない仕事を今後も続け、収入も今よりさらに上がる可能性があります。
    一方、AIと似たような判断・行動の傾向を持つ人は、処理スピードや正確さではAIに勝てませんから、大学を卒業しても、AIの下で最低時給で働くことになりかねません。

    いますね・・・・、AIみたいな人。
    この場合の「AIみたいな人」は、褒め言葉ではなく悪口で、「AIみたいなおバカさん」ということなのですが。
    ものの考え方が一本調子というか。
    そうした人たちは、500万円にものぼる奨学金を借りて大学を卒業しても、その借金を返せる職にはつけないことになってしまいます。
    大学に進学することは、それだけのリスクを負うことになってしまう・・・・。

    この状況を危惧した新井紀子さんは、AIに学力で負けてしまう子の負け方に着目したそうです。
    なぜ彼らは入試問題で誤答するのか。
    なぜAIよりも正答率が低いのか。
    それを調べ、誤答のパターンが奇妙であることに気付きます。
    あれ?
    この子たち、問題文の意味が理解できていないのでは?
    そういう誤答をする子が多いことに気づいたそうです。
    それが「リーディングスキルテスト」プロジェクトのそもそもの始まりでした。

    リーディングスキルテスト。
    教科書に実際にある文を読解し、簡単な正誤問題や選択問題に答えるテストです。
    現在、4万人以上の試験データが集まっているとのこと。
    子どもだけでなく、大人でも、誤答する人は多いらしいです。
    例えば、こんな問題が公開されています。

    アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

    この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

    セルロースは(  )と形が違う。

    ①デンプン ②アミラーゼ ③グルコース ④酵素

    この解答は、このページの一番最後に記します。


    こうした問題で誤読をする人は、目立つ単語を目で拾っているだけで、その単語と単語の結びつきや関係、それがどう機能しているかを読みとっていないのではないか?

    新井紀子さんのその解説に、私は「ああっ!」と思いました。
    私は英語や数学を教えていて、確かにそういうタイプの子に出会っています。
    前回のブログにも書きましたが、英語の長文を読むのに、知っているいくつかの単語だけで「妄想誤読」をしてしまう子。
    あるいは、英語教科書本文の和訳をする際、その前までの文脈と、次の英文の目立つ単語からストーリーを類推するのか、大意は一致しているものの、該当の英文の訳ではないものをスラスラと口にする子。
    そういう子は、物語の和訳は比較的得意なのですが、自然科学系の説明文になると類推できず、行き詰まります。
    算数・数学の文章題では、問題文中の数字を適当に組み合わせて、かけたり割ったりすれば答えが出ると漠然と期待しているような奇妙な式を立てる子。
    そもそも問題文を読まず、図やグラフだけ眺めて解いている子。
    私は、彼らは基本ものぐさで、問題文を精読する習慣がないのだと思っていましたし、確かにその傾向もあるのですが、もしかしたら、彼らの中には、単語を拾う以外の読解がそもそもできない子もいるのではないか?
    学校の国語の定期テストの得点の上下の変動が激しい子は怪しいです。
    本人は、
    「今回のテスト範囲の文章とは相性が悪かった」
    と言うのですが、実は、単語を拾っているだけなのではないか?
    だから当たり外れが大きいのではないか?


    リーディングスキルテストの結果によれば、こうした教科書の文章を読解できない子どもは、全体の半分近くにのぼるそうです。
    AIは、意味を理解しません。
    しかし、教科書の文章を読解できない子どもたちも、意味を理解できていない。
    それでは、AIに職を奪われ、AIの下で働くことになりかねません。

    偏差値では評価できない能力を持つ子には生きる道があります。
    いわゆる「人間力」でしょう。
    AIで代替できない能力を持つ子は、生きていけます。
    しかし、学力的弱者のまま、皆と同じように高校に入り、偏差値のあまり高くない大学に入り、AIと似たような思考パターン・行動傾向しか持てず、AIができないことはその子もできない状態で社会に出てしまう子の将来は暗い・・・。
    ともかく、教科書の文章は理解できなくては。
    新井紀子さんは、今後の自身の研究生活を、教科書の文章を読めない子たちの救済に捧げる覚悟とのことです。
    詳しくは、新井紀子著『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)をご覧ください。


    個人的には、子どもに教える仕事はAIでは代替できないものだと思っているので、私は、AIに対する関心もこれまで低かったかもしれません。
    「AIによるラーニング・プログラム」といったパンフレットが塾に届いたりもするのですが、内容を読むと、まだまだ導入には時期尚早と感じます。
    「生徒の誤答を分析し、理解できていないところまでさかのぼります」
    とパンフレットには書いてありますが、数学の場合、生徒の誤答の原因の第一は計算ミスです。
    誤答する度に、小学校の「2桁のかけ算」や「分数の計算」、中1の「正負の数」に戻って、計算練習をするんでしょうか。
    計算ミスの原因が、計算の仕組みを理解できていないせいならばそれで良いでしょうが、人間の計算精度の低さというのは、そういうことだけが原因ではないのです。
    特に、女子生徒は、表情に出さなくても、数学の問題を解きながら全く関係ないことを考えていたりします。
    友達とごだごたもめていたり、出がけにお母さんと口論したり、彼氏とトラブっていたり。
    そういうことのいちいちで心の中に大波が立っているのに、無表情で数学の問題を解いています。
    計算なんか合うわけがないんです。( ;∀;)
    そして、そういうことを現時点のAIラーニング・プログラムが理解できるとは思えないんです。
    心の中に大波が立っている女子生徒に、
    「あなたは中1の正負の数の計算を復習しましょう」
    なんて指示を出してご覧なさい。
    泣き出すか、怒りだしますよ。
    怖い怖い怖い。( ; ゜Д゜)

    そういうときは、相談に乗れるようなら相談に乗るし、あるいは、あえて知らない顔で問題難度を調節しながら数学の授業をし、「今日は無理だなあ。そんな日もある。また次回」と判断する人間の講師のほうが有効だと思います。

    また、数学は、基本は理解しているが応用問題は全く解けない子が多く存在します。
    基本問題ならば解けます。
    しかし、基本と基本を組み合わせることはできない。
    それに対し、現時点のAIに、どの程度の対応力があるのでしょう。
    基本は理解しているが応用問題が解けない子どもは、どこに遡って学習をするのでしょう?
    AIの言う通りにしていたら、わかりきっている基本問題しか練習できずに勉強が終わってしまう可能性がありそうなのです。
    AIによるラーニングプログラムには無限の可能性があるとは思うものの、現時点ではまだ人間の講師の判断のほうが重要で、それなら今と変わらないのです。
    過去50年の全ての入試問題が入力され、分析されて、類題学習がいくらでもできるようなプログラムが開発されたら、それはもう私自身が一番ウキウキして導入すると思いますが。

    新しい教育機器の活用ということで言えば、私は国立大学教育学部の附属中学に通っていましたから、実験的な教育として、当時の最先端のLL教室での英語の授業を週1回受けていました。
    ヘッドホンから英語のリスニング問題が流れ、正答と思う手元のボタンを押します。
    生徒の解答はブースにいる英語の先生のもとに集約されます。
    正答率や解答分布などが瞬時に分析できるシステムだったのだと思います。
    そういう英語学習を目新しく格好いいと、当時の私が思わなかったわけではありません。
    だから当時の授業を今も記憶しているのでしょう。

    しかし、それで私は英語が好きになったのか?
    そのLL授業の成果で私は英語が得意になったのか?
    それは違うと思います。
    どんなに形が目新しくても、ヘッドホンから流れてくるのは、心弾む曲でもなければ、好きなラジオパーソナリティーの軽妙なおしゃべりでもないのです。
    どこまでいっても面白くなりようがない内容の会話や1人語りが英語でされているだけでした。
    トムやメアリーがショッピングモールで何を買ったかレベルの話に延々とつきあわされるんです。
    面白いわけがないです。
    それが英語で語られ、英語を聴き取るということそのものが楽しみでない限り、LL教室なんかちっとも楽しくなかったのです。

    さらに言えば、LL教室ではない、普段の英語の授業のほうが、その先生は素晴らしかったのです。
    フリップを高く掲げ、英文の転換練習を繰り返す授業でした。
    主語を変え、目的語を変え、動詞を変え。
    肯定文を疑問文にし、否定文にし。
    そうした転換練習を繰り返します。
    どの生徒も1時間の授業で2~3回は指名され、答えていました。
    その授業スピード。
    全ての生徒に指名していく目配り。
    あの授業は職人技でした。

    定期テストの範囲だったので毎日聴いていたNHKラジオ講座「基礎英語」も、私には面白かったです。
    nameという単語が初めて出てきたとき、ラジオ講座の先生は「私は中学生で初めてこの単語を見たとき、ナメーと読んで、英語と日本語は似ているなあと嬉しくなりました」と真面目な声で話していたのを今も覚えています。
    この先生、何を言っているの?
    ラジオをまじまじと見つめてしまい、以後ずっと、真面目な声でときどき変なことを言う講師のファンでした。

    これも結局は人間力で、ガジェットの魅力よりもコンテンツだったなあと思うのです。
    今、AIプログラムを導入すれば、端末を使うのがとりあえず楽しい子どもたちの学習意欲は一時的に上昇するでしょう。
    しかし、それはどの程度持続するものなのか?
    そもそも、我々大人がウキウキするほど、彼らは端末にウキウキしてくれるのでしょうか?
    AIに興味津々なのは、自分が子どもの頃にそんなものが存在しなかった大人たちであって、子どもは案外冷静な反応を示すかもしれません。
    結局、何で学ぶかではなく、何を学ぶかだと思うのです。

    さて、最後にリーディングスキルテストの解答を。
    正解は、①デンプン です。
    正解されましたか?ヽ(^。^)ノ
      


  • Posted by セギ at 13:01Comments(0)講師日記

    2018年01月19日

    字が雑な子どもが増えているように感じます。



    字は、下手ではあっても、とにかく判読できることが大切です。
    字は曲線と直線の組合せです。
    正しい位置関係に直線と曲線がないと、その文字を構成できません。
    しかし、生徒の中に、そこに意識の及んでいない字を書く子が増えてきたように感じます。
    勿論、以前と同様に、しっかりした字を書く子もいます。
    一方、きれい汚いを通り越して、他人には読めない字、自分で読み返そうとしても判読に時間のかかる字を書く子が増えているように感じます。

    私が子どもの頃は、俗に言う「丸文字」の流行があり、特に女子は皆きれいな字、かわいい字を書いていました。
    私のように字の下手な女子はむしろ異端でした。
    しかし、近年、きれいな字を書く女子は減り、男子と女子と、字では識別できなくなってきています。
    女子の字が雑になり、男子と同じレベルになってきたのです。

    こんなことを書くと、女子生徒のお母様から「すみません、すみません。よく言って聞かせます」という反応がありそうで気が重いのですが、そういうことではないのです。
    女子中学生や高校生の字が雑なのは、親の責任ではありません。
    本人の問題ですよー。
    私の世代の女子の字がきれいだったのが親の躾の賜物だったとは思えないですし。

    なぜ、我々の世代の女子の字はきれいだったのか。
    それは、手書きの文字を他人に見せる機会が多かったからでしょう。
    大人に見られることよりも、男子に見られることよりも、女の子同士でお手紙を回すとき、きれいな字、かわいい字は必須のものでした。
    女の子から見てかわいい文字を書くことが、女の子にとって必要なことでした。

    今、文字はスマホで打ち込みます。
    友達同士も、連絡はスマホが中心です。
    互いの手書き文字を見る回数は激減しました。
    きれいな字を書く練習をしたり工夫をしたりする必然がなくなったのだと思うのです。

    もう1つ、最近、自分のこととして感じたのですが、普段自分の書く字が以前より汚くなっているのです。
    あれ、これは何だ?と思いました。
    保護者の方に送る学習指導レポートの下書きは、そもそも走り書きで、自分が読めればそれでいいのですが、それにしても汚い字だなあと自分で感じて、これはどういうことだろうと思ったのです。
    そして、気づきました。
    字を書いているスピードが、以前より速いのです。
    速記じゃあるまいし、そんなスピードで字が書けるわけがないじゃない、というスピードで字を書いていたのでした。
    これは何のスピードだ?
    とさらに考えると、それはスマホやパソコンに文字を入力するときのスピードなのでした。
    機械に打ち込むときと同じスピードで、手書きの文字も書いていたのです。
    手で書くのがまだるっこしくて、無意識に、機械に打ち込むスピードで文字を書いていることに自分で気づきました。
    ・・・・それじゃ、雑な字になりますね。
    手書きの文字はもっとゆっくり書くものだよと自分に言い聞かせて意識すると、すぐに昔の自分の文字に戻りました。

    生徒の雑な字も、字を書くスピードが速くなりすぎているのが原因なのではないかと思います。
    ゆっくり書けば、もっときれいに書けるのでしょう。
    このところ、生徒の英作文を見る機会が多いのですが、私以上に慌てて書くせいなのか、字が異様に読みにくいのです。
    mとw、aとuの区別がつかない文字を書く子は以前から多いのですが、aとnの識別ができないなど、以前からは考えられないようなことも起きています。
    これは、やはりパソコン・スマホの普及が原因の1つと思います。
    スマホで文字を1つ打ち込むのと同じスピードで手書きの文字を書こうとしてしまうのだと思うのです。
    文字を手書きすることのスピードの遅さに自分で耐えられず、速く雑に文字を書いてしまう。
    これは、自覚して治さないと、治らないです。

    入試の答案、英検などの検定の答案は、採点する先生に自分の熱意を伝えるものです。
    採点する先生が、あまりの読みにくさに心の中で舌打ちするような文字を書いて、良いことが起こるとは思えません。
    丁寧に文字を書いても、時間内にはおさまります。
    字はスマホのときよりもスピードを落として、丁寧に書いてください。



      


  • Posted by セギ at 12:14Comments(0)講師日記

    2017年12月20日

    2学期期末テスト結果出ました。2017年。


    2学期期末テスト結果出ました。

    数学 90点台 1人 80点台 3人 60点台 1人 50点台 1人 40点台 1人
    英語 90点台 1人 80点台 3人 60点台 1人 50点台 1人 40点台 1人

    数学の場合、本人の理解力の他に、計算力という課題があります。
    説明されたことはすんなり理解できる。
    ああ、そういうことだったのか。
    疑問が解けた。
    これなら数学がわかる。
    成績はきっと上がる。
    そう思って頑張り始める子の前に、すぐに壁が立ちはだかります。
    正しい式を立てることができても、その後の計算が上手くいかないのです。
    平方根の計算。
    指数計算。
    式の変形。
    方程式の計算。
    符号処理。
    分数計算。
    分配法則・交換法則を利用した計算の工夫。
    2桁以上のかけ算の筆算力。
    たし算・ひき算の筆算力。
    中学で数学の勉強に時間をかけていたかが大きく影響するのですが、さらにそれ以前、小学校の算数の計算にそんなに自信のないまま、中学2年になり、3年になり、そして高校生になってしまった子にとって障壁となるのが、計算力です。

    単に練習不足なだけで計算センスのある子は順調に伸びていきます。
    残念なことにセンスに恵まれていない場合、努力と知識で補うことが必要になるので、時間が必要です。
    マイナスの符号を書く習慣や読み取る習慣が絶望的に身につかず、答えが負の数である限り、ほとんど正答に至らない子もいます。
    分配法則を使いなさいと命じられればできないわけではないのですが、実際の計算でそうした工夫を発想できず、二度手間、三度手間の計算を延々と繰り返して、途中で計算ミスをしてしまう子もいます。
    因数という発想がその子の内側にないせいなのか、約分や累乗根の処理を機械的にしかできず、時間がかかる子もいます。
    例えば、64は4の3乗ですが、それを1秒で変換できる子もいれば、3分かかる子もいます。

    「わかる」ことと「できる」ことは違うこと。
    解き方が理解できても、自分で再生できるとは限りません。
    「わかる」ことを「できる」ことに変えるためには、練習が必要です。
    素晴らしい授業を聞けば魔法のように成績が上がる、というわけにはいきません。
    授業を聞く時間の何倍も自分で努力する時間が必要となります。

    幸い、そのことを理解してくれる生徒は、順調に成績が上がっています。
    下が重い状態から、「上が重い」、嬉しい状態に変わってきました。
    さあ、冬期講習も頑張っていきましょう。
    (*^^)v

      


  • Posted by セギ at 13:36Comments(0)講師日記

    2017年11月06日

    中間テスト結果出ました。2017年2学期。


    2017年2学期中間テストの結果が出ました。

    数学 90点台 1人  80点台 1人  70点台 1人 
        60点台 1人  50点台 3人  30点台 1人
    英語 100点 1人  90点台 1人  80点台 2人 
        60点台 1人  50点台 1人

    50点未満が常連の人たちが、今回、50点を突破し、やったーと思っていたら、最後の最後で数学に30点台が1人出てしまい、予想外の展開でした。
    でも、今回は、病気だったので仕方ないです。
    また次回。

    今回、良かったなあと思うことの1つは、
    「テストまで、学校の問題集を1回解いてノートを完成させるだけ」
    という学習習慣からの脱却が成功しつつあることです。
    学校の問題集を1回解いたのが数学の勉強の全てで、成績が上がるわけないのですから。

    そうでない授業を徹底すれば良いだけなんじゃないの?

    と言われると、本当にその通りなのですが、なかなかそれが難しいのです。
    入塾してくる生徒のうち、中高一貫校の生徒の大半は、数学の「体系問題集」を教えてほしくてやってくるのです。

    中高一貫校の多くは「体系数学」という特殊な教科書を採用しています。
    5年間で数Ⅲまでを終える、特別な構成の教科書です。
    「三角比」と「三角関数」を一気に学習してしまうなど、類似の単元を一気にやるため、学習上の「無駄」が省かれます。
    言い換えれば、反復がなされない教科書です。
    一度つまずくと、それっきりです。

    それでも、教科書「体系数学」は読み物としてなかなか丁寧な作りで、数学を独学する大人の人にはこの教科書の注文購入を勧めたいくらいです。
    しかし、準拠問題集「体系問題集」は厄介です。
    レベルAの問題は教科書「体系数学」で扱っている例題の類題が多いので、特に問題ありません。
    しかし、レベルB、レベルCは、教科書で扱っていないパターンの難問が多数含まれています。
    これを自習してノートを提出するのが学校の宿題となります。
    詳しい解答・解説は学校から配られていますが、数学が苦手な子は、解説を読んでもわからないのです。
    だから、個別指導で教えてほしい。
    そういう生徒が入塾してきます。
    つまり、入塾の目的が「体系問題集の解説」です。
    「学校の問題集は扱いませんよ」
    と言いにくい、というより、言えない。
    そんな事情が最初に発生しています。


    うちの塾で、数学で高得点をマークしている子たちは、中学生にしろ高校生にしろ、学校の問題集を塾で扱うことはありません。
    体系問題集でも、それ以外でも、どんな問題集でどんなレベルのものがその子の学校の問題集であるかは把握していますが、内容を扱うことはありません。
    学校の宿題は自分で解きます。
    その他に塾テキストで学習し、塾の宿題を解きます。
    余裕があれば、さらに自分で市販の問題集を買って解きます。
    進度は学校に合わせて塾の授業を行っていますが、学校の教材は扱いません。
    そのほうが、結果が出るからです。
    立体的な学習となり、その単元の重要ポイントがわかります。
    テストにどんな問題が出題されるかも、わかるようになっていきます。
    何より、演習量の差は、露骨に得点に反映されます。

    一方、体系問題集での授業を望んで入塾してくる数学が苦手な子たちは、

    学校の宿題がわからないので解説してほしい。
    一緒に解いてほしい。
    それ以外のことはやりたくない。
    とにかく宿題のノートを完成させたい。
    そういう幅の狭い、視野の狭い学習に陥りがちです。

    保護者の方は数学の成績が良くなることもあわせて希望していらっしゃるのですが、子どもは楽ができるとなると、どんどん甘えてきます。
    ちょっとわからないと「塾で教わればいいや」と思い、深く考えなくなります。
    宿題のノートが完成すると、理解できているように思ってしまう子もいます。
    教わって解いた問題は全部自力で解けるような気がするのでしょうか。
    家で解き直したり、別の問題集で類題を解いたりということは、なかなか自発的には行いません。
    宿題のノートさえ完成すれば良いのです。
    もともと、数学の勉強は嫌いなので、それ以上はやりたくないのです。

    その意識のズレに、保護者の方はなかなか気づきません。

    実際、この数年の間には、ちょっと困った生徒もいました。
    先まで予習が進むと、塾を休むのです。
    こちらは、先に先に学習を進めて、テスト前に復習の時間を作りたいと頑張ります。
    そうやって必死に作った時間的余裕を、生徒が休んで空費してしまうのです。
    学校の問題集の件が大丈夫である限り、塾を休むことが増えていきます。
    何でそんなことを保護者が許可しちゃうのかなあ・・・・と思いますが、子どもが「大丈夫」と言う限り大丈夫と思いたい気持ちもわからないではありません。

    これまで、テスト前の最後の授業も、体系問題集の中でもテストに出そうにない応用問題のページを解くことで終了することもありました。
    テスト当日に提出する宿題ノートを完成させることが、数学のテスト勉強の全てでした。
    そんなことですと、やがて成績が下がっていきます。
    結果、塾をやめてしまうことにもつながったこともありました。

    入会の目的が「体系問題集を教えてほしい」である子に、どうにか体系問題集以外のテキストをメインとした授業を行い、成績を上げ、納得してもらう。
    体系問題集もできるだけ自力で解ける学力を養成する。
    この難しい課題に、ようやく少しずつ解決策が見つかってきました。
    授業中に、体系問題集も勿論扱います。
    それでいて、演習量も確保します。
    それをどうするかが解決できるようになってきました。
    それが、今回の成績上昇につながったと思います。

    期末は、さらに頑張っていきましょう。

      


  • Posted by セギ at 14:16Comments(0)講師日記

    2017年08月06日

    戦争のことを少し。


    今もそうですが、私は夏野菜が好きです。
    高校生の頃、夏になるとよく路地物のキュウリを丸ごと1本、マヨネーズをつけてかじっていました。
    そういう私を見て、必ず母は、
    「戦争中みたいねえ」
    と言っていました。
    「戦争中はキュウリに味噌をつけて食べていたものよ」
    「・・・・・」

    キュウリと味噌のある「戦争中」は、随分とのんびりした印象でした。
    少なくとも、私が本で読んだりドラマで見たり学校で習ったりしていた「戦争中」とは違うものでした。
    母の口にする戦争中の話には「餓死」も「空襲」も「罹災」も「疫病」も「疎開」も出てきませんでした。
    キュウリと味噌と、そしてもちろんお米のある「戦争中」は、果たして戦争中なのだろうか?
    それはそれなりに豊かな生活であるような気がしたのです。
    勿論、戦争を知らない私が安易にそんなことを言うわけにいかず、黙ってキュウリをぽりぽり食べているのが常でしたが。

    太平洋戦争の頃、母は新潟市に住む旧制女学校の生徒でした。
    近隣にはまだ農家が多く、祖父の友人の農家から野菜などを分けてもらっていたようです。
    食糧を求めに来たよそ者には辛くあたったかもしれない農家の人も、以前からの知り合いには優しかったと思います。

    母は、女学校の生徒でしたが、戦争末期には動員されて軍で働いていました。
    乱数表から暗号を読み取っていたそうです。
    ときどき、軍人さんからお菓子や肉の缶詰をもらえたと言います。
    「戦争中でも、軍には何でもあったのよ」
    と母は不満げに言っていましたが、ときどきでも分けてもらえる母の立場もかなり羨ましいものではなかったかと思うのです。
    私が知識として知っている女学生の動員は、軍需工場で働かされた上にその工場が空襲されて友達は死に、自分の身体は一生残る傷を負うという、この世の地獄のようなことばかりでしたから。
    そういう話と比べれば楽そうな職場にいた母は、それでも動員で働かされたことが不満だったようです。
    「結婚前に働きたくなかったのに」
    と言っていました。
    望まない労働を強制されたというよりも、女学校を出たら仕事などせず、花嫁修業をして、良い縁談に恵まれて結婚するというあるべき人生に余計なものが挟まったことに対する不快感が先にきている様子でした。
    そういう時代だから仕方ないのですが。

    『火垂るの墓』を書いた野坂昭如氏は、神戸の戦災で幼い妹さんを亡くし、新潟に住む実父に引き取られました。
    妹さんを亡くした経緯は小説とは随分違うものらしいのですが、妹さんは亡くなり野坂さんは生き残ったという事実は変わらないようです。
    自分だけが生き延びたつらい記憶を抱えて暮らすことになった新潟での、戦争があったとは思えない豊かな暮らしへの複雑な思いが書かれた著作を読んで、母が語る断片的な思い出とそれがつながり、ああ、そういうことだと腑に落ちました。
    まして、母は、私が読んでいる本の内容には頓着せず、
    「ああ。野坂昭如さん?あの人の義理のお母さんと、私、お茶の教室が一緒だったのよ」
    などと、さらにそれを裏付ける断片をぶっ込んでくるのでした。( ;∀;)
    お茶の教室って・・・・。
    いや、それはさすがに戦争中ではなく、戦後すぐの話だと思いますが。
    戦後の混乱期、母はお茶だお花だと花嫁修業にいそしんでいたのでした。

    『火垂るの墓』はひどく読みにくい文体でつづられています。
    それは、野坂昭如さんがいかにあの主題を語りにくかったのか、その辛さがそのまま文体になったものだろうと思います。
    学生時代の夏、うんうんうなりながらそれでも一応は読んだものの、以後、読み返すのはさすがにつらく、もっぱらアニメの記憶になってしまいます。
    アニメで印象的だったのは、主人公が餓死に直面している同じときに、戦争が終わって疎開から帰ってきた女の子が晴れ晴れとクラシック音楽を聴いて平和を享受している場面でした。
    たったそれだけのシーンで、その女の子は、戦争中ですら、それほどの苦難は味わわなかったのではないかと想像されるのです。

    悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
    戦争は平等に不幸をもたらすものではない。

    そのことに、私は戦慄します。
    みんな平等に不幸なら、まだましなような気がします。
    そもそも、みんな平等に不幸になるなら、もう2度と戦争は起こらないのです。
    誰もそんなことはやりたがらないのですから。

    どれほど悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
    だから、また戦争は起こる可能性がある。

    戦争で苦しむかどうかは、財力だけの問題ではないのでしょう。
    新潟は、軍事施設のある港でしたが、最後まで大きな空襲はありませんでした。
    しかし、原子爆弾投下候補地のリストに載っていたそうです。
    なぜ、新潟には原爆が落ちなかったのか。
    そんなのは、紙一重の問題でしょう。

    戦争末期、広島と長崎に「新型爆弾」が投下された後、8月11日だったのか12日だったのか、新潟市に3つ目の新型爆弾が投下されるという警報が出され、市民が一斉に避難した日があったそうです。
    「あのときは、リヤカーを引いて皆で避難したのよ。関屋まで逃げたよ」
    母はそう言うのですが、その「関屋」は、爆心地がどこになるかによるにせよ、被災から完全に逃れられたとは到底思えない距離にある地名なのです。
    戦争中に食糧にそれほど不自由しなかった幸運など、そうなってしまったら、もう何にも関係がありません。
    歴史的事実としては、新潟に原子爆弾は落ちなかった。
    落とされる可能性も低かったことが今はわかっている。
    それでも・・・・。

    財力があれば戦争から逃れられるわけではありません。
    戦争になったとき、どうすれば自分だけは苦しまないでいられるのか。
    そんなのは、戦争を引き起こした当事者でもわからないかもしれません。
    それでも、本人はわかっているつもりかもしれない。
    それが、恐ろしい。

    終戦の日、軍で玉音放送を聴いた母は、その直後、将校の1人が抜刀して女学生に切りかかり暴れだしたのを見たそうです。
    そうでもしないと気持ちのやり場がなかったのか。
    そうでもしないと面子が保てなかったのか。
    女学生に切りかかって暴れる軍人の話は、母の話の中で最もリアリティのある話でした。

    ああ、軍人ってそういうメンタルか。
    乱心して切りかかるにしても、女学生相手なんですね。
    結局、怪我人はいなかったそうで、全部ポーズですよね。
    ああ、嫌だ、嫌だ。

    その話は、私が二十歳を過ぎてからようやく母の口から語られたことでした。
    もしかしたら、母は、子ども相手に語るべきではないもっと嫌なことも見聞したのかもしれません。

    戦争がなかったら、東京の女子大で勉強できたのに。
    母から、幾度かそう聞きました。
    戦後の混乱期の東京に、娘を出すわけにはいかない。
    そういう理由で、母の大学進学はかないませんでした。

    何となく聞き流してきたけれど、私が当たり前のように大学に進学したのは、母のそういう気持ちも背景にあったろうと思います。
    母の戦争体験をのんびりしたもののように思う私ですが、では、自分が戦争のせいで大学に行けないとなったとき、それを我慢できるのかと考えると、そんなの我慢できるわけがないのです。
    本で読んだだけの悲惨な話に頭でっかちになり、小さな不幸に共感できないなんて。
    薄っぺらいのはむしろ私でしょう。

    戦争体験を語れる人が少なくなってきました。
    私の知っている断片だけでもここに残しておこうと思います。


      


  • Posted by セギ at 15:39Comments(0)講師日記

    2017年07月23日

    1学期末テスト結果集計出ました。2017年。


    2017年度1学期期末テスト結果は以下の通りです。

    数学 90点台 1人 80点台 1人 70点台 2人 60点台 1人 40点台 2人
    英語 100点 1人 80点台 2人 60点台 1人 50点台 1人 

    数学は、上がった子もいる一方、下がった子もいて、全体の結果としては、あまり変わりませんでした。
    前回90点台に上がった子が、今回は勉強を半ば放棄した印象があり、ガクンと下がってしまいした。
    テスト前もあからさまに意欲が低く、テスト前日まで学校の課題が残っていました。
    中間テストで高得点を取り、それを以後も期待されることが、居心地が悪かったのかもしれません。

    ダイエットするとすぐにリバウンドしてしまう人の心理に近いものがあるのでしょうか。
    頑張ったけれど今回はダメだったというのではなく、高得点を取ると、次はなぜか頑張れなくなり、元に戻ってしまう子がいます。
    以前も、そういう子がいました。
    良い成績を取ると、バランスを取るように次はサボるのです。
    しかし、本人は自覚してバランスを取っているわけではなさそうです。
    無意識にそうしてしまう様子なのです。

    「やればできる子」は、頑張って高得点を取った成功体験が、以後、悪影響を及ぼす場合もあります。
    いつでも、やればできる。
    いつからでも巻き返せる。
    本人の中にそんな期待があるからなのか、ギリギリまで頑張らなくなります。
    やればまたできるようになると思うからか、むしろ以前よりも勉強しなくなる子がいます。

    いや、そんなに単純な話ではないのかもしれません。
    一度は努力できたはずなのに、同じ努力をできなくなるのはなぜなのか。
    努力をした時間が苦しかったので、同じ思いをするのはもう嫌なのか。
    努力をしても同じ結果が出るとは限らないことを、本人は気づいているのか。
    努力することが怖くなってしまうのか。

    多感な子の指導は難しいです。

    いつからでも巻き返せるのも事実だろうけれど、あまりにも低くなってからでは、到達点は、最初に期待したようなところにはいきません。
    誰より頭の良い子だったのに、本人の望むような受験はできなかった子もいました。

    今回は、それでも、結果が悪かったことへの反応がまっすぐで、また落ち着いて勉強し始めていますので、だんだん高めに安定してくると期待しています。


      


  • Posted by セギ at 14:06Comments(0)講師日記

    2017年06月22日

    授業の受け方、ノートの取り方。




    少し前になりますが、勉強が得意な芸人さんが勉強のやり方を紹介するテレビ番組があり、何かヒントになることがないかと思って見ていた私は、その中の1つのコーナーに衝撃を受けました。

    京都大学出身の芸人さんと、勉強が苦手な芸人さんの2人が、同じ世界史の授業を受けて、その後にその授業内容に関するペーパーテストを受け、その成績を比較するという実験が行われたのです。
    京都大学出身の芸人さんの使う筆記用具はシャーペン1本でした。
    板書されたことや先生の説明で気になったことなどメモしながら、基本、ずっと板書と講師の顔を見ています。
    一方、勉強ができない芸人さんは、先生が板書した通りの色でノートをとろうとカラフルなペンを出しては片付け、出しては片付け、板書をノートに書き写すのに精一杯で、話を聞いている様子がないのです。
    板書を書き取ることだけに必死なのでした。

    その後のペーパーテストの結果は、
    京都大学出身の芸人さんは1問ミスしたのみ。
    勉強が苦手な芸人さんは、0点。
    見ていて、背筋が寒くなる結果でした。

    色使いのことに関して言えば、先生の板書する通りの色でノートを取ること自体は私は悪いことではないと思っています。
    重要度がひと目でわかりますからね。
    ただ、勉強が苦手な芸人さんのやっていたことは、目を覆うようなことでした。
    黄色いチョークが使われているところは、黄色で書こうとするのです。
    ペンケースからガサガサと黄色を探し、結局、黄色のマーカーで字を書いていました。
    先生が黒板で黄色を使うのは強調したいところだからでしょうに、白いノートに黄色いマーカーで字を書いたら、読めないですよ・・・・。
    なぜ、黄色を他の色に転換にする知恵がないんだ?
    緑とかにすればいいのに・・・・。
    そもそも色探しに時間がかかりすぎていました。
    授業を受けるときは、よく使う色のペンをあらかじめ机の上に出しておけばいいのです。
    よく使う色を1本のペンに集めて自分用にカスタマイズした4色ボールペンを使用するのも良いですよね。
    ペンをいちいち探すという無駄なことに授業時間を割き、どの色にするかに必死で、肝心の授業を聞いていないのは、いくら何でもまずいです。

    字を書くこと自体にも時間がかかる人のようでした。
    きれい汚いということではなく、自分が後で読みやすい字を安定したスピードで書いていく。
    そういうことができない子は、勉強が苦手な子に確かに多いなあ・・・・。
    時間がかかるだけでなく、板書を書き写している間はそれに必死で、授業を聞いていないことも課題です。
    まとまった語句ごとに書き写すということができず、1文字見てはその1文字を書き、また1文字見てはその1文字を書く子は、板書を書き写すのが苦手な子に多いですね。
    でも、本人は、一所懸命授業を受けているつもりでいます。
    ああ、勉強が苦手って、こういうことだ・・・・。
    見ていて悲しくなってしまう映像でした。

    番組を見て、それに付随して考えたことは、授業の受け方で本人が損をしていることはまだまだあるなあということでした。
    個別指導でも、勉強が苦手な子は、私が期待しているような行動はとりません。
    「はい。次の例題を解説しますよ」
    と言っても、目がテキストの例題のところに動きません。
    仕方なく指さすと、一瞬そこに目が行きますが、またすぐ逸れていきます。
    問題の内容を理解してくれないことには解説ができません。
    そこで私が問題を音読すると、その間、ペンを出したりノートを閉じたり開いたりと余計なことをしています。
    数学の問題文を音読を聞いて理解できますか?
    そして、私が解説を始めると、今度は解説は聞かず、テキストの問題を読んでいます。
    ( 一一)
    つまりはマイペースなのですね。
    自分のやりたいことをやりたいときにやってしまい、授業のペースに合わせることができないのだと思います。
    相手の言動の目的が理解できないのでもあるでしょう。

    個別指導でこれですから、学校の授業をその子がどう受けているかを想像すると、気持ちが沈みます。
    「学校の授業がよくわからない」
    と本人は不満を漏らしたりするのですが、
    「でしょうねえ・・・・」
    以外の感想のもちようがないことも多いのです。
    学校の先生が、特に大切なことだから、
    「はい。黒板を見て」
    などと声をかけても、その通りに行動できていなのではないでしょうか。

    そうした子たちは、私が解説をしているときに、テキストの解説をじっと読んでいて顔をあげないことも多いです。
    わざわざ個別指導を受けにきて、テキストの解説を読んでいます。
    彼女たちは、学校の先生が説明しているときにも、独りで教科書を読んでいるのかもしれません。
    そうして、
    「わからない。わからない」
    と思い続けている・・・・。
    教科書を読むのは大切ですが、授業中に読むように指示されたとき以外は、予習か復習のときに読むほうが有効です。
    特に予習として1回教科書を読んで、理解できるかできないかだけでも確認しておけば、授業を受ける姿勢が違ってきます。
    でも、授業中に教科書を読めば時間が短縮できて能率的だと本人は思うのかもしれません。
    授業中に独りで自習しているようなものなのですが、本人はそれが合理的だと思っている可能性があります。
    先生の解説がよくわからないからテキストの解説を読むのだと本人は思っているかもしれせん。
    先生の長い解説を聞くよりテキストの解説を読んでささっと理解したいという気持ちも働いているでしょうか。
    結局、それで理解できないから個別指導を受けに来るのですが、そこでも同じことを繰り返してしまいます。
    成績不振の子は、自分の授業の受け方が下手だということに気づいていません。
    そこに課題があります。

    個別指導では、そういう本人の授業の受け方の課題にあわせて授業方法を変えています。
    しかし、自覚して治せるものなら本人の努力で治したほうが良いだろうなあとも思います。

    上の番組の話に戻れば、秀才の芸人さんの言葉が印象的でした。
    「小学生の頃から、僕は先生に『おまえとは授業中によく目が合う』と言われてきた」
    秀才は、授業を受けるときは顔を上げ、常に全力で先生の話を聞きます。
    その当たり前のことに気づくだけで変わっていくことがあると思います。
      


  • Posted by セギ at 12:38Comments(0)講師日記

    2017年06月15日

    中間テスト結果出ました。2017年1学期。




    1学期中間テストの集計が出ました。
    高校の数学は「数Ⅰ」「数A」などの2科目の平均、英語は「コミュニケーション英語」「英語表現」の2科目の平均点をその科目の得点としています。

    数学 
    90点台 1人 80点台 2人 70点台 1人 60点台 2人 50点台 1人 50点未満2人
    英語 
    90点台 1人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点未満1人


    英語はやればやっただけ、あっという間に結果が出る科目ですが、一方数学は、結果が出るまで時間がかかることを改めて感じます。

    数学が苦手というのは多重構造で、一番の根本には、数学的なものの考え方が理解できないことがあるのだと思います。
    何をどれだけ学習しても表面的な作業手順をなぞるだけで終わってしまい、根本的なことが理解できない様子の子はやはり存在します。
    関数の学習などでそれは顕著に表れてきます。

    そこが核なのですが、その外側に「公式が覚えられない」という状況があります。
    根本が理解できないまま、小学校・中学校の間は、それでも公式と作業手順を何とか覚えてやり過ごすのですが、高校数学になると、学習する公式の数が本人が覚えられる限界を越えていきます。
    しかも、習った公式はその後も使うので、テスト前だけ公式を無理に暗記してすぐに忘れていると、やがてツケがまわってきます。

    さらにその周囲に、ケアレスミスが多いという本人の傾向が加わってきます。
    数学に限らず他のどの科目でもミスをしやすい子もいれば、他の科目ではそんなにミスをしないのに数学だけ突出してミスを繰り返す子もいます。
    単なる練習不足から起こるミスは、練習量を増やすことで減っていきます。
    ミスをしやすいようなやり方で解いているから起こるミスは、やり方を変えればなくなります。
    数学に対する苦手意識やプレッシャーによる動揺から起こるミス。
    多分全てのことでうっかりしやすい性格的なものが要因のミス。
    後者の2つは、果たして治るものだろうかと、首をひねる場合もあります。
    本人が自分を深く見つめることで解決していくしかない課題です。

    上の三重構造だけでも大変なのですが、まだあります。
    その外側に、「数学の勉強にそんなに時間はかけられない」という本人の気持ちがコーテイングされていることが多いのです。
    本人は、それでも数学にはそれなりに時間をかけているつもりでいますし、保護者の方も「数学はやっているようですが」とおっしゃるのですが、学校の課題を提出するために、教科書準拠の問題集を教科書の例題や解答解説と首っぴきで解き方をなぞって解いているだけの時間が数学の学習時間の大半になっていないでしょうか。
    何も見ないで自分で考えて数学の問題を解いてはいません。
    模範解答をなぞっているだけです。
    テストは、解答解説を見ることができませんから、解くことができません。

    数学が苦手な高校生の多くは、この強固な四重構造を形成しています。
    さて、打開策はあるか。
    考え込む日々です。

      


  • Posted by セギ at 12:29Comments(0)講師日記

    2017年03月26日

    学年末テスト結果集計出ました。2017年3月。


    学年末テストの結果が出ました。
    以下の通りです。

    数学
    90点台 1人  80点台 2人 70点台 1人 50点台 1人 50点未満 2人
    英語 
    90点台 3人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 1人 50点未満1人


    中学・高校の数学のテスト勉強は、どこに力点を置くべきかが子どもの学力によって異なり、そこの対応が難しいところです。

    公立中学に通う子に多いのが、基本問題しか解かない子です。
    学校から配られている教科書準拠ワークの「基本問題」「A問題」などのページはそれなりにやりますが「B問題」のページは解けなくてもいいと思っている様子です
    「わからない」
    「難しい」
    と本人は言うのですが、公立中学のワークの「B問題」は、大抵の場合、最後の別枠の1問だけは本当に応用問題でも、他は「標準問題」です。
    わからないことはないし、難しいこともなく、解けないと後で困るものばかりです。
    一般都立の入試問題も、そのくらいのレベルですから。
    勿論、定期テストもそのレベルの問題が多く出ます。
    しかし、本人はそのことに対して無自覚です。

    小学校からその傾向は表れているのかもしれません。
    カラーテストの表の面さえ解ければ良い。
    裏の面は応用問題だから、自分は解けなくて良い。
    そう思い込んでいないでしょうか?

    勿論、現時点でそういう学力の子もいます。
    とにかく基本問題だけはきちんと解けるようになろう。
    当面そういう学習目標の子もいます。
    でも、「あなたは裏の面も解けなくちゃ」という学力の子が、裏は応用だから自分は関係ないと思い込んでいることがあります。
    応用と言ったって、受験算数のような問題が出ているわけではありません。
    少し難しいだけで、学校で学習する内容の枠内の問題です。

    何でこうなるのだろうと不思議に思います。
    自己評価が低いのでしょうか。
    あるいは、意識が低いのでしょうか。
    難しいことをやらずに済ますほうが楽だからでしょうか。
    素質があるのに勿体ない。
    そういう子は案外多いです。

    ただ、そういう子の成績は上げやすいのです。
    集団指導塾に通っている間は、面倒くさがって宿題をきちんと解かなかったり、
    「わからなかった」
    と言い訳して済ませていた子も、個別指導ではそうはいきません。
    その子の学力は手応えですぐにわかってしまいます。
    「わからなかった」
    と本人が主張しても、本当にわからない問題か、考えればわかるのにわからないと決めつけて解いてこなかったかは、講師は判断できます。
    本人がしぶるのを叱ったり励ましたりしながら、できるだけその子が自分の手を使って解くようにしていけば、だんだんと頭の中に道筋はできてきます。
    本人が勝手な判断で「自分には関係のないもの」と思い込んでいたレベルの問題を解くようになれば、当然学力が上がります。
    「難しい問題ばかり解かされて嫌だなあ」
    と最初は思っていたとしても、実際にテストの得点が上がれば、これで良いのだと本人も納得するようになります。


    一方、私立や都立の中高一貫校に通う子の中には、逆に「応用問題さえ解ければ」と思い込んでいる子がいます。
    しかし、本人に足りないのはむしろ基礎力です。
    こういう場合、成績を上げるのはそう簡単ではありません。

    数学の定期テストは前半が基本問題、後半が少し難しい問題というわかりやすい構成になっている場合がほとんどです。
    その中でも、本当の応用問題は最後の1問だけという構成のテストは多いです。
    本人は過度に応用問題にこだわるのですが、実際のテスト結果を見ると前半でぽろぽろ失点しています。
    計算ミスもありますが、それ以上に、基本的な公式や解法が身についていないのを感じる答案です。

    テスト対策をしている間、
    「定期テストというのは、そんなに難しいものではないよ。問題の難易度は普通だから、基本をしっかりやろう」
    と言っても納得せず、
    「うちの学校のテストは難しい。応用問題が出る」
    と主張します。
    「応用問題は最後の1問だけだよね。あれは、今は解けなくてもいいよ。あれを解こうとする時間があったら、見直しをしよう」
    そう助言しても、なかなか納得してくれません。
    応用問題さえ解けるようになれば自分の成績は上がると思い込み、諦めがつかない様子です。

    「80点台を取れるようになったら、応用問題をやろう。でも、今はまだ50点も取れないのに、最後の応用問題を気にすることに何の意味があるの?」
    「だって、テスト当日にノートを提出しなければならないから」
    学校の教科書準拠問題集からテスト範囲が指定されていて、テスト当日にノートを提出しなければならないことを気にしている様子です。
    「解けない応用問題は解答を赤ペンで書き写せばいいよ。そういうふうに学校で言われているでしょう」
    だって、テストに出るから」
    「問題集と同じ問題は出ていませんよ。テストの応用問題は本当に応用問題じゃないですか」
    「だって、最後の問題は、1問7点ですよ」
    「・・・・あなたは基本問題で何点失っているの?」
    「・・・・・・」
    こんな会話を続けていると、相手の生徒は傷つくし、私も気が滅入ります。
    ろくなことがないのですが、ここまで言わないと諦めてくれないほどに、「応用問題さえ解ければ」という幻想に取り付かれている子もいます。

    学校側としては、数人でも有名大学の理系に進学する子がいますので、その子たちを伸ばすためにかなり高度な課題も出すのだと思います。
    これは全員が取り組むべき課題かなあ?と思われる内容も含んでいます。
    一方、定期テストの問題は生徒全体の学力にあわせた標準的なレベルのもので、基礎をしっかり固めておけば80点は楽に取れる内容です。

    学校の先生も、生徒によっては発展問題・応用問題を解くのは無理だとわかっているので、ノートを点検する際に、応用問題を自力で解いていないからといって平常点を下げるようなことはしません。
    しかし、そういうことをわかっていない生徒が多いです。
    丸が多いノートのほうがいいのだと誤解して、解答を見ながら解いたのに全部赤丸をつけてしまう場合もあります。
    それは解答を丸写ししたノートと見た目が同じなのでむしろ印象が悪いよと助言しても、それすらなかなか納得しない子もいます。

    教わって解いた応用問題や、解答解説を見ながら解いた応用問題は、その類題を何題も解くことで定着します。
    しかし、そうしたことに時間をかけられるのは、基礎が身についている子に限っての話です。
    公式通りに当てはめれば解ける基本問題でも自力で解けるかどうかわからない学力の子は、テスト前に本当に公式を覚えているか確認しなければなりません。

    特に、家庭学習では教科書や問題集の解答解説を見ながら問題を解くことが常態化している子は危険です。
    本人はスラスラ解いているつもりでも、公式や解法を見ながら解いているだけなので、解答解説がないと基本問題も解けない可能性があります。
    そのことを自覚してもらい、何も見ないで基本問題を解けるように練習するのがその子に対するテスト対策です。

    一方、本人は「そういう勉強は自分でもできる」と思っています。
    その子の勉強方法では、教科書の例題や問題集の解答解説を見ながら単なる代入をしているだけで、学習が空洞化しているのですが。
    真面目に時間をかけて勉強しているはずなのに、学習した内容が頭にとどまっていないのです。

    しかし、わからないときに教科書の例題を参考にしたり、いっそ解答解説を見て確認したりというのは、勉強法として悪いわけではありません。
    勉強が得意な子も、それはやっています。
    勉強が得意な子の勉強法と表面上は似ているということが、この問題が解決しない原因なのかもしれません。

    勉強が得意な子は、自分が例題を参考にしたことや解答解説を見たことを自覚しています。
    それは「自力で解けなかった問題」です。
    当然、問題にチェックを入れます。
    解けなくて悔しかった記憶とともに、その問題の解法は鮮明に記憶に残ります。
    だから、次に類題を解くときに、
    「あ、これはあの問題だ」
    と気づいて、今度は自力で正答することができます。

    基本問題が解けない子は、解答解説を見ながら解いたことに無自覚です。
    「自力で解けなかった」
    と思っていません。
    だから、基本問題はチェックしません。
    チェックを入れるのは、難しい応用問題ばかり。
    解答解説を読んでもわからない問題だけが「自力で解けなかった問題」という判断をしている様子です。
    そして、テスト本番で、基本問題も解けないことに自分で驚き、動揺してしまいます。

    不本意な点数の答案が返ってきてからの反省も的外れです。
    わかっていたのに、度忘れしたー。
    うっかりしてたー。
    やっぱり、うちの学校のテストは難しい・・・。
    ・・・・と、分析もそんなふうに間違っていることが多いです。

    基本問題を自力で解けますか?
    解答解説を見て理解できることと、自力で解けることとは違うんですよ。

    このつらい現実を認めて、やり方を変えることができた子は、成績に変化が見えています。

      


  • Posted by セギ at 11:13Comments(0)講師日記

    2017年03月17日

    消しゴムやシャーペンの使い方。




    もうすぐ新年度。
    教科書もテキストも新しくなり、気分も一新されます。
    高等部に進学する子たちの高校数学の予習も始まりました。

    高校数学の最初の学習内容は、「式の計算」。
    まずは、「降べきの順」というルールについて。
    次数の高い項から順番に項を書いていくということで、中学生の頃から数学の教科書や問題集は降べきの順で書いてあります。
    例えば、 5x2+2x-3 といった形ですね。
    そうやって何年もかけて無意識に訴えかけていますので、大体は問題ありません。

    ところが、中学生の中に、なぜか降べきの順に逆らって書く子がいます。
    問題に 5x2+2x-3 と書いてあるのに、わざわざ -3+2x+5x2 と書き直すんです。
    なぜそのように書き直すのか尋ねても、明確な理由を語りません。

    「次数の高い項から書いていったほうがいいよ」
    「でも、これでも、いいんでしょう?」
    「中学生の間は、それでもいいけど」
    「・・・・・これでもいいんなら、いいでしょう?」
    「いいんだけど、なぜ、わざわざ順番を換えて、そう書くの?問題の通りに順番に書いていったら、そうはならないよね?」
    「・・・・・でも、これでも、いいんでしょう?」
    「・・・・・いいけどねえ・・・・・」
    と、歯切れの悪い会話を交わすことがあります。
    本人の中で、「昇べきの順」のほうが気持ちがいいというルールがあるのなら、それは仕方ないのですが、その「本人ルール」が私には読み取れないこともあります。
    いつもそのように書くわけではないからです。
    そのときどきで順番はバラバラです。

    ・・・・目についたものから書いているだけなのではないか?
    ルールをもって整理しながら書いていくということが、出来ないのではないか?
    「ルールをもって順番に」ということが、理解できていないのではないか?
    それは、分析力に関わっていくことなので、心配になります。

    あるいは。
    うっかり書き始めて、消すのが面倒くさいだけなのではないか?
    消しゴムを使うのが面倒くさいのではないか?
    そんなふうに思えてくることもあります。

    消しゴムの使い方1つとっても、個別指導をしていますと心配なことがあるんです。
    「この消しゴム、消えない」
    と文句を言う子どもがいます。
    消し方が汚く、元の文字が残っていて、その上に新しく書いても、何を書いたのかよくわかりません。
    玩具みたいな消しゴムを使っている場合は、それは消えないでしょうと思いますが、普通の消しゴムを使っていても、そんなことがあります。
    「貸して」
    と受け取って、試しに消してみますと、別に何の問題もない消しゴムです。
    本人の消し方が悪いんです。
    力の入れ方や、丁寧に消すやり方が身についていないのでしょう。

    「消しゴム」を使わない勉強方法というのは、あります。
    間違えた答案を消して直すのではなく、きちんとバツをつけて、横か下に赤で正答を書き込むという勉強方法です。
    間違えた答案をすぐ消して書き直し、赤で堂々と丸をつけて、正答したと自分でも思い込む不可解な子どももいますから、その勉強方法を小中学校の先生が生徒に義務づけるのは理解できます。
    でも、書き間違いには消しゴムを使います。
    そんなのをいちいち残していたら、答案が汚ならしくて、読み取れないですから。
    そんなときに、消しゴムをきれいに使えない子がいます。

    なぜ、消しゴムを正しく使えないか。
    それは、教わっていないからなんでしょう。
    手取り足取り教わらないと、消しゴムの正しい使い方が身につかない子はいます。
    大人がやっているのを観察して、見よう見真似で正しい方法を身につけていくということができないようです。
    あるいは、消し方を自分なりに少しずつ工夫し、改善していくということもできないのでしょう。
    教わらない限り、消しゴムを使ってきれいに消す方法が身につかないのです。

    学習能力の根本は、自分で観察し、考え、工夫していくところにあると思うのですが、教わらないと自分では改善できない子は一定数います。
    自分で改善しなければならないという発想そのものがないようにも感じます。
    そして、自分の技能の低さを無視し、消しゴムのせいにします。

    シャーペンもそうですね。
    芯を折りまくる生徒は多いです。
    バキバキボキボキ、90分間に5回や10回は芯を折っている子がいます。
    あげく、シャーペンを詰まらせて、その修理のために授業停止。
    (^_^;)

    「このシャーペン、芯がすぐ折れる」
    と生徒は言います。
    本当にそう思うのなら、シャーペンの先端をよく観察したほうが良いです。
    ペン先に微かな凹凸がある場合、それにひっかかって芯が折れやすいということはあると思います。

    芯が粗悪品ということも、ないわけではありません。
    以前は、100円ショップで購入した芯は、折れやすかったかもしれません。
    かなり当たり外れがある印象は、私も持っていました。
    でも、最近は、そうでもないような気がします。

    多くの場合、芯がすぐ折れるのは、ペンや芯のせいではなく、本人のせいです。
    芯を出し過ぎているんです。
    出し過ぎた芯で、シャーペンを斜めに持って、高い筆圧で書いたら、それは折れます。
    力学的に考えたらわかることです。

    自分が何をしているために、どういう結果になっているか。
    シャーペン1つのことでも、少し考えて、少し工夫したら、わかること。
    どうして何年も何年も、そのことに気づかず、芯を折り続けているのか。
    家電ですら学習能力を持つ昨今、そんなことでどうするのか?
    どうしてもどうしても芯を折ることを改善できないのなら、芯の折れないシャーペンも発売されていますよ。
    (*^_^*)

    消しゴムを使うと、よく消えない。
    シャーペンを使うと、すぐ折れる。
    勉強自体よくわからないのに、勉強の周辺にもストレスがいっぱい。
    これは、学習意欲に影響します。
    同時に、目の前の課題を解決できないという点において、学習能力が多少表れていると見ることもできます。

    シャーペンの芯くらいいいじゃないか、好きなだけ折らせておけば、というのも1つの見解かもしれませんが、何しろ個別指導をしていますで、折れた芯が私の顔に当たることがあります。
    さすがに ┐(´д`)┌ヤレヤレ という気持ちになります。
    私は眼鏡をかけているから良いですが、他人の目に芯が入る危険もあります。
    芯を折っている子は、そういうことに気づかないという点も、私は心配しています。

    そういうわけで、自衛の意味もあり、シャーペンの芯をよく折る子には、その指導も行っています。
    面白いもので、シャーペンの使い方に改善が見られ、芯を折らなくなる子は、成績も上がっていきます。
    細かいことではあるけれど、私が何のために何を言っているのか理解でき、改善できるということは、学習面の他のことも改善可能だからでしょうか。
    技術の伝達が可能だということかもしれません。

    一方、助言や注意がいちいち耳に逆らう様子の子もいます。
    ありのままの自分が最高に素晴らしいことを褒めてほしい。
    褒めて伸ばしてほしい。
    そういう願望の子どもや保護者の方は最近減ってきました。
    褒めるだけでは限界があることが広く知られるようになってきました。
    それでも、自分のやり方を直させられることに不満を感じる子も中にはいます。
    しかし、その子がスポーツをやっている場合、スポーツになぞらえて説明すると案外理解してくれます。
    フォームが悪ければ直すでしょう。
    我流の間違ったフォームでどれだけ練習したって、結果なんか出ないでしょう。
    逆に、ちょっと直すだけで大きく変わってくることはあるでしょう。
    こう言うと、反発せず、耳を澄まして聞いてくれたりします。
    腑に落ちる経験があるのだと思います。


    私が何か言うまでもなく、成績の良い子は、勉強するための正しい形が小学生でも身についています。
    どこをどう直せばさらに良い結果が出るようになるか。
    その助言が欲しくて個別指導塾に来ています。

    そうした内面だけでなく、見た目も勉強するにふさわしい良い形を身につけている子が多いです。
    「姿勢が良い」といっても、変に緊張した姿勢の良さではなく、何時間でも楽にそのままでいられる座り方をしています。
    勉強道具は使いやすい大きめのペンケースに必要なものが入っています。
    シャーペンの使い方も、消しゴムの使い方も、無駄な動きがなく、安定しています。
    使い終わった消しゴムを放り投げるように置いて、机から落として、身をかがめてそれを拾って、といったくだらないストレスとも無縁です。
    勉強をたくさんする毎日なので、文房具は友達。
    大切に使って失くしませんし、新しい文房具にも興味があり、新製品を私に見せてくれたりします。
    (*^_^*)

      


  • Posted by セギ at 14:26Comments(0)講師日記

    2017年01月06日

    感動と発見のある授業。




    そろそろ中学3年生は「三平方の定理」の学習をする時期です。
    「三平方の定理」とは、直角三角形に関する定理。
    直角三角形の斜辺の2乗は、残る2辺の2乗の和に等しい。
    そういう定理です。
    この定理は証明方法が100通り以上あることでも有名です。
    大抵2つくらいは教科書や参考書に載っています。

    以前も書きましたが、私が中学生のとき、教科書に載っているもの以外の三平方の定理の証明をレポートにまとめて提出という宿題が出て、それがもう本当に負担で嫌だったことを覚えています。
    今だったら、そんなのはネットで調べてチャチャッと書きあげてしまうのでしょうが、当時は、図書館で調べるか自分で考えるしか方法がありませんでした。
    学校の図書室の本は、早めに行動した子がもう借り出したのか、もともと蔵書にないのか、それらしい本は見当たりませんでした。
    学校から徒歩10分の県立図書館まで行っても、やはりなし。
    考えて考えて、途中まで教科書と同じでその後が少し違うだけ、という我ながら納得のいかないレポートを書いた記憶があります。
    友人の友人のそのまた友人から回ってきた、レポートの下書きも目にしましたっけ。
    家庭教師に書いてもらったというものでした。
    先生の意図はわかるんですが、定理の証明ってそこらへんの中学生が自力で出来るものではないと思うんですよね。
    (^_^;)

    私が通った中学は、国立大学の付属中学校でした。
    東京にも、その種の中学はいくつかあります。
    混同されがちですが、今とても人気のある都立中高一貫校とは少し性質の異なる学校です。
    都立中高一貫校は、保護者の経済力とは関係なく、学力優秀な子に高度な教育を与えるための学校です。
    私立中学に流れがちな優秀な生徒を都立でも育成するということでしょう。
    だから、1期生が東大に何人合格ということが話題になります。

    国立大学の付属中学は、少し存在目的が異なります。
    そこは、選抜された有能な先生たちの実験の場です。
    同時に、教育学部の大学生たちの教育実習の場でもあります。
    つまり、有能な先生たちの前衛的な授業と、教育実習生たちの下手くそな授業が行われる研修の場です。
    授業に協力的で均質な生徒たちが対象でなければ、そうした実験や研修は成立しません。
    実験が失敗し、生徒の学力に悪影響が出ても困ります。
    だから、そういう学校は、強引な展開の授業にも耐えられ、自学自習も可能な、ある程度の学力を持つことが入学の条件になります。

    私たちには、自分たちが「教育モルモット」であることの自覚は大なり小なりありました。
    そのことが、自虐の種でありながら、自慢でもありましたっけ。
    今思えば幼稚な自意識です。(^-^;

    年に2回ほど行われる大きな研究授業の日には、県内から先生たちが集まり、教室の後ろだけでは入りきれず、廊下の窓からも授業を見学していました。
    それは、保護者参観日や学校公開日とは異なる異様な空気の1日でした。
    授業が終わった後、後ろで見学していた知らない先生から話しかけられたことがあります。
    「今の授業、わかる?」
    「・・・・・・はい」
    「わかるの?」
    その先生は首を横に振りながら、「生徒が優秀だからねえ」とつぶやいて、ため息をついて去っていきました。

    自分自身も教える立場にたつようになり、自分が中学のときに受けていた授業が、通常の授業とは異なることがわかってきました。
    私が受けていた授業は、何でも根本から生徒に発見させる授業でした。

    単純な例を挙げれば、例えば数学の「単項式と多項式」。
    普通の授業は、単項式はこういうもので多項式はこういうものと最初に先生が説明します。
    そして、教科書の問題やプリントで単項式と多項式とを識別する練習問題を解きます。
    生徒1人1人が説明されたことを理解し、練習問題を解けるようになることが大切。
    それが授業の目的です。

    実験的な授業はそうではありません。
    いろいろな文字式が1つ1つ書かれたマジックシートを、まず先生が黒板に貼っていきます。
    「さあ、これを分類してみよう」
    先生の呼びかけに、多くの生徒から積極的な案が出されます。
    その間も先生の的確な誘導があり、生徒たちは先生の意図を汲み取りながら、何を発見すれば良いのか常に考えていきます。
    そして、結論に達します。

    文字式には、1つの積の形のものと、積のまとまりがいくつか集まった和の形のものとがある。
    生徒たちがその結論に達した上で、先生が生徒たちに告げます。
    「積の形の文字式を単項式と言い、和の形の文字式を多項式と言います」
    うーん、そうだったのかー。
    生徒たちは、感動し納得して、授業終了。
    そして、単項式と多項式との識別の練習問題は、家庭で学習。
    これが、1つの授業の流れです。

    感動と発見のある授業とは、こういうものなのでしょう。
    私は、その素晴らしさを自分が中学生のときに体感しています。
    ただ、これは、誰もができる授業ではないし、誰に対して行ってもよい授業でもないとも感じます。
    「生徒が優秀だからねえ」
    と嫌味のようなつぶやきとともに去った、かつての先生の気持ちが、今はわかります。

    単項式と多項式との違いを発見するためだけに、1時間。
    授業中に単項式と多項式との識別を練習する時間はとれないので、定着は家庭学習に頼りきり。
    感動と発見のある授業は、時間がかかります。
    あまり能率的ではありません。
    しかも、先生に相当な教育技術と自信がないと、出来ない授業です。
    生徒の間違った意見を上手く捨てていき、たどりつきたい結論を導く技術が必要になります。
    「この先生の言うことには従おう。皆で面白い授業を作っていこう」
    という共通の認識を生徒の多くが持っていることも必要です。
    たった1人の「わからんちん」に繰り返し妨害されたら、それで成立しなくなる授業形態です。
    自分のしゃべりたいことだけ自分のタイミングでしゃべりたい、他人の話を聞く気はない、というモンスターが存在する昨今の教育現場では、当時よりももっと難しいでしょう。

    また、前提として、生徒は決して予習をしてはいけないのもこうした授業のルールです。
    予習してきたら、発見も何もないですから。
    しかし、今日、それはかなり難しいです。
    先生たちがいくら予習するなと言っても、生徒たちは塾に行きます。
    勝手に予習をしてしまいます。
    そのため、現在のこうした実験的な授業は上に書いたようなシンプルなものではなく、普通の予習ではたちうちできない課題を生徒に解かせる方向に進んでいます。
    本当に学ぶ必要があることは何なのか、さらに見えにくくなっています。
    そうした学校に通っている生徒さんやその保護者の方から、
    「学校の授業でやっていることが何なのか全くわからない」
    と相談を受けることがあるのはそのためです。

    こうした授業は、積極的に参加する生徒にとっては楽しいのですが、何の勉強をしているのか理解できない生徒が現れる可能性も高いのです。
    結論が見えないまま進んでいく授業は、理解の遅い生徒には不安です。
    他人の議論をただ聞いているだけ。
    論点がよくわからず、皆が何を話しているのかわかりません。
    だんだん頭がぼんやりして、考えごとをしてしまいます。
    そして、気がついたらまとめが終わっていて、大事なことを聞き逃してしまいます。
    そのまま、何をやっているのか理解できずに授業が終わります。
    家で復習しようとしても、学校で何を勉強したのかわからないので、復習のしようがありません。
    だから、わからない子は本当に何もわからず、学習内容が定着しません。

    中学生の中には、
    「教科書の何ページをやっていますよ」
    と先生が明言しないと、黒板に書かれた問題が教科書の問題と同じであることすら気がつかない子がいます。
    自分たちで議論し、発見する授業よりも、
    「今、こういうことをやっているんですよ。これは、こうなんですよ。覚えなさいね」
    と言われたほうがわかりやすい、と感じる生徒も多いのです。

    高校生になっても、
    「うちの数学の先生は、教科書じゃなくてプリントで授業をするから、全然わかんない」
    と、毎回あせった顔で塾にやってくる子がいます。
    学校の授業の様子を私に説明すればするほど、声が震えてうろたえていきます。
    でも、プリントの実物を見せてもらうと、とてもわかりやすく、よく出来ているものであることが多いのです。
    このプリントのこの問題は、教科書のここのところの問題で、問題集のここのところの問題だから、あなたの学校の数学の先生は標準的な授業をしているんだよ、大丈夫だよと、毎回、まずその生徒を安心させるところから授業を始めています。

    わかりやすく面白い授業をしようと先生たちは工夫しているのですが、そんな工夫よりも教科書の内容を教科書の通りにやってくれるほうが余程わかりやすいという生徒は、案外多いのかもしれません。
    そんな授業はつまらないけれど、でも、何をやっているのかわからないよりはずっといいのでしょう。
    わからない授業に感動も発見もあるはすがないのです。
    自分がわかることのほうが、どれだけ嬉しいか。
    自分が自力で問題を解けることのほうがどれだけ感動的か。

    私が中学生だった頃から、40年が経ちました。
    生徒から、「学校の授業がわからない」と言われ、話を聞くと、私が体験した実験授業に近いものであることが今もあります。
    学校教育とは、教育の大衆化、一般化を目的に始められたもの。
    貴族やお金持ちだけでなく、全ての子どもに平等な教育をという理想から生まれたものが学校です。
    カリスマではなく普通の能力を持つ教師が、普通の生徒たちに行って効果のある授業が、もっと研究されても良いように思います。

    ただ、私が中学時代に受けた授業は、本当に面白かった。
    日々、感動と発見があった。
    それもまた事実なのです。



      


  • Posted by セギ at 21:56Comments(0)講師日記