たまりば

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2019年11月03日

中間テストの結果が出ました。2019年2学期中間。


2019年度2学期中間テストの結果は以下の通りです。

数学  60点台 4人   40点台 1人
英語  90点台 1人   60点台 1人   50点台 1人

2学期中間テストは、1年の中で一番得点が低くなることが多いテストです。
学校や新しい学年に慣れて、緊張感を失っている。
夏休みの勉強不足で学力が低下している。
体育祭や文化祭、修学旅行といった学校行事が詰まっている時期で、勉強に集中できない。
部活で責任ある学年になった、あるいは3年生が引退して部活の空気が変わり、ゴタゴタしている。
そういったことがテストの得点に表れてしまうのが、中学生・高校生です。
明らかに勉強不足でも、本人は「何とかなる」と思ってしまい、結果に青ざめる。
塾としては毎年の繰り返しですが、本人にとっては初めての失敗で、事前に忠告したところで避けられないことが多いのが何とも歯がゆい限りです。
「自分は大丈夫」と思ってしまうのが若さというものかもしれません。
この反省を生かし、次回は頑張りましょう。

数学は、いつもなら80点台の子が60点台、70点台の子も60点台、逆に50点台だった子、40点台だった子が上がって60点台と、団子状態となりました。
高校生は、数Ⅰはよくできても数Aが、数Ⅱはできても数Bが足を引っ張る子が多く、それも苦慮するところです。
ともあれ、次回に期待します。

英語は、それぞれ入会当時よりも得点が10点以上上がっています。
なお上昇傾向にありますので、さらに期待しています。


先日のこと。
授業中に私のスマホにメッセージが入りました。
電話番号で入力できる、ショートメッセージです。
「お客様がご利用の口座が不正利用されている可能性があります。口座一時利用停止・再開手続き」と言う内容で、銀行名と、サイトのアドレスが示されていました。

うわあ・・・。
偶然、ちょうどその日、授業の前に銀行に行き、教室の家賃を振り込んだばかりでしたので、それに関連して何か起きたかと一瞬思ってしまいました。
しかし、こういうのは、大抵は詐欺。
こんなアドレスをクリックしたら大変なことになる。
落ち着いて、落ち着いて。

とりあえずそのままにして、生徒が解いている数学の問題を一緒に解こうとしたのですが、問題文が何を言っているのか、全くわかりませんでした。
内容を読み取れないのです。
問題と自分との間に透明な膜が張られたようになり、問題にアクセスできない。
意味を読み取れないのです。
え、そんなバカな。
何でこんなにわからないの?
やばい、やばい、やばい・・・。

理由は明白。
読んでしまった詐欺メッセージのせいでした。
詐欺だろうと思っても、そうした見知らぬ他人からの悪意が自分に向けられたことも含めて動揺してしまう・・・。

私はもう一度スマホを取り出して、メッセージを眺めました。
そして、気づきました。
書かれていた銀行に私は口座を持っていませんでした。
だから、これは明らかに、詐欺です。
最初に読んだとき、そんなことにも気がつかなかった。
それほど文面に動揺してしまったのです。

そうとわかって、問題を見直した瞬間、透明の膜はすっと消え、問題文は意味をもって読み取れるようになりました。
完全にいつも通りとはいきませんが、何とか問題を解いていくことができました。

こんな経験をしますと、生徒がケアレスミスを連発する精神状態や、数学の問題が全くわからない状態とはどのようなものなのか、体感できた気がします。
あの状態で数学のテストを受ける恐ろしさが、垣間見えた気がしました。
努力でどうにかなるとか、落ち着けばいいとか、そういうことではないようです。
落ち着けば良いことくらい、本人が一番わかっているのです。
でも、頭がグラッとなったように動揺し、精神を全てもっていかれたようなあの感覚。
あれでは、問題は解けないです。

テストには、不安や動揺が一番いけないのですが、それだけではなく、変な興奮状態も妨げになります。
「休日の朝に解くと良い点なんだけど、学校の帰り、友達とわあわあ喋って帰ってきてすぐに過去問を解いたら、こんな点数になった」
と、前回より30点も下がった過去問を前にした、小学生にしては冷静な分析を聞いて、考え込んでしまいました。
友達とわあわあ喋って、ある意味ちょっと興奮して、その状態で過去問を解いたら、ケアレスミスだらけ。
問題に集中できなかったようなのです。
友達と嫌な喧嘩をして、泣いて帰ってきて、その動揺のまま過去問を解いたというのではありません。
友達と面白おかしくわあわあ喋って帰ってきたら、算数の問題を冷静に解く精神状態ではなくなった・・・。
わかるけれど・・・。

暗く不安な気持ちでもダメ。
明るい興奮状態でもダメ。
機械のように冷静に。
そんな状態に自分をコントロールするには経験を積む必要があります。
そのようにできるつもりでいても、私のように1本の偽メッセージで決壊することもあります。
メンタルの問題は難しいですね。

しかし、こんなことは考えれば考えるほど、ろくなことにならないのでもあります。
テストで高い得点を取ることにこだわるだけでなく、とにかく実力をつけること。
実力はついてきているのだから、大丈夫。
そう思う中間テスト結果でした。
  


  • Posted by セギ at 13:08Comments(0)講師日記

    2019年10月31日

    近所の都立高校。


    昔、集団指導塾に勤め、中2のクラス担任をしていたある夏のこと。
    保護者面談を行っていたときのことです。
    集団指導塾といっても1クラス10人ほどで、その子の授業態度や宿題をやってきているかなどを正確に伝えることは問題ありませんでした。
    月例テストの成績の推移を示すことで、学力の伸びなども伝えることができました。
    しかし、保護者の中には、
    「〇〇高校に入れそうですか?」
    と、直球の問いを投げかけてくる方もいらっしゃいました。
    無理もありません。
    知りたいですよね、そういうこと。
    その子の成績は、3が大半でたまに4。
    授業中の私語が多く、宿題もやってきません。
    それなのに、志望校は、都立自校作成校でした。
    うーん・・・。

    月例テストは、目安として志望校の合格判定も出ました。
    中3の模試とは違いますので、そんなに正確な数値が出るわけではないですが、目安にはなります。
    本人の記入した志望校の合格判定は、無論、泣き顔の顔文字。
    とはいえ、どの高校を志望するのが妥当かを例示してくれるのが参考になりました。
    その子の場合、月例テストがお薦めする妥当な志望校として、その子の家の近くの都立高校の名前が上がっていました。
    これから頑張れば、そこを受験できるだろうと予想できました。
    しかし、その学校の名前を出すと、お母様は顔をゆがめました。
    「あんな高校」

    第一子のお子さんの高校受験の場合、進路指導でこういうことが起こりがちです。
    さすがに、中3の秋になってそうしたことをおっしゃる方は少ないのですが、まだ中2ですと、入試情報をほとんど得ていない中でイメージが先行し、志望校が高くなる傾向があります。
    近所の都立高校の実力を理解しづらいのも一因かもしれません。

    「あんな高校というのは、近所ですと、やはり、〇〇高校の生徒さんの登下校で迷惑を感じることがあるのでしょうか?」
    と質問してみると、そのお母様は具体的に不快な点を列挙されました。
    制服を着くずしたり、オーバーサイズのセーターやカーディガンをだらだら着ていたりするので、服装の印象がだらしない。
    道いっぱいに広がって大声で話しながら登校していく。
    自転車の子が徒歩の子と並んでだらだら下校するので、交通の邪魔。
    お菓子を食べながら歩き、道にゴミを散らかしていく子もいる。

    うーん・・・。
    大したことではないという見方もできるし、それが毎日のことであれば不愉快極まりないと見ることもできる・・・。
    そのイメージですと「あんな高校」と思ってしまうのも仕方ないのです。
    しかし、その「あんな高校」は、内申が3の中にたまに4があるという状態ですと、これから努力して何とか合格できる高校なのでした。
    中3までにもう少し4を増やして、その上で、入試できちんと得点できるように受験勉強を頑張れば合格できる。
    目標としてほしい、良い高校でした。


    非常にざっくりした話で、例外はいくらでもあり、正確にはきちんと数字を計算すべきことですが、一般に、内申に「2」があると、都立高校に入るのは難しいと言われています。
    言い換えれば、内申がオール3で、ようやく都立高校の学力的に一番下の高校に入れそうだということ。
    一方で、内申オール3は学力的には「普通」なのではないかと感じている保護者の方も多いです。
    普通なんだから、都立高校の「真ん中」くらいのランクのところに入れるのではないか?
    3の中に4もあるなら、中の上くらいの高校に入れるのではないか?
    そして、これから頑張れば、自校作成校に入れるのではないか?

    このような、中学校の内申と都立高校のランクとの感覚のズレは、中3の秋まで是正されないことがあります。
    それは生徒本人もそうで、中2から中3の夏休みくらいまでは、1000点満点で本人の実力よりも200点も上の高校を見学してしまいます。
    昔は、入試情報を一般には得にくく、それで誤解している場合も多かったと思います。
    しかし、今は、そうした情報は得ようと思えばすぐに手に入れることができます。
    模試を開催する会社が、都立高校の60%合格基準点を1000点満点で明示し、全ての都立高校を得点の高い順に並べています。
    それは、学校の先生や塾だけの資料ではなく、誰でも見ることができます。
    1000点満点の得点の出し方も調べればすぐにわかります。

    具体的に計算してみましょう。
    まずは内申点。
    5教科はそのまま、実技4教科は2倍にして得点を出します。
    オール5の場合、5×5+5×2×4=65
    オール3の場合、3×5+3×2×4=39
    これを300点満点に換算します。
    65点満点を300点満点に変えるのですから、300/65倍すれば良いです。
    39×300/65=180
    一方、入試は5教科500点満点。
    これを700点満点に換算します。
    すなわち、500×700/500=500×1.4
    例えば、入試で平均60点取れたら、
    60×5×1.4=420
    先程の内申との和が、その子の得点です。
    180+420=600

    内申と入試が4 : 6の高校もありますが、大多数の高校は上の計算で得点を出すことができます。

    600点で入れる高校はどこであるか、一覧表を見てがっかりされる方は、都立高校の見方にズレがある方です。
    実際には、学校の成績が「3」で、入試当日に60点を取るというのは、相当な受験指導がされて、その結果が出ている場合です。

    都立入試は、難しいのです。

    国語は、大問1、2の漢字の読み書き、大問3の小説の読み取りまでは自力で何とかなります。
    しかし、大問4の論説文は、文字を目で追うことはできても、意味を理解することができない子もいます。
    大問5の古典の鑑賞文となると、内容に興味が持てないことも手伝って、読み通せない子が続出します。
    古典の原文だけでなく、その口語訳も載っているので、落ち着いて読めば大丈夫なのですが、「古文はわからない」と言い出し、大問ごと捨てる子もいます。

    社会は、資料や表・グラフを読み取れない子は悪戦苦闘します。
    自校作成校を受験する子ですら、得点は70点台ということがあります。
    社会が得意な子にとっては得点源なのですが、そうではない子にとっては、地理分野の問題と「現代の日本と世界」に関する問題で得点を固めるのが難しい科目です。

    数学は、大問1の小問集だけは何とかなるはずです。
    しかし、せめてそこだけはとりこぼしのないようにと努めても、そこで計算ミスをし、ポロポロととりこぼす子はあとをたちません。
    あとは、残る大問のそれぞれ問1しか解けない子が多いですし、その問1を解けることに気づかせることも大きな課題となりがちです。

    理科は、大問1と2の短問集は知識が定着していないためのとりこぼしが多くなります。
    その上、大問3から6は、実験や観察の記述が膨大であるため読み通せない子が続出します。
    入試で理科が最低点となるのは常態です。

    英語は、初見の長文を読めない子が多いのです。
    1~2行で本文を読むのを諦めてしまいます。
    大問1のリスニングと大問2の短文を読む問題以外は、苦戦が必至です。

    内申が「3」の子が独りで受験勉強をしていると、この学力で入試当日を迎えることになってしまいかねないのです。
    50点を取るのも難しい場合もあります。

    入試得点は、平均が50点ならば、
    50×5×1.4=350
    内申との和は、
    180+350=530
    都立高校一覧表と見比べてみると、この数字で合格できる都立高校が極めて少ないことがわかると思います。

    内申が「3」でも、入試本番で頑張れば・・・と、つい思ってしまうのですが、入試本番で高い得点が取れるなら、それ以前に内申はもっと高いはずなのです。
    内申には様々な観点が加味されているといっても、ざっくりいって、定期テストで80点台を取っていれば大抵は「4」になりますし、90点台を取っていれば大抵は「5」になります。
    定期テストで70点台の、「4」に近い「3」の子なら入試問題への対応力もそれなりにありますが、定期テストで50点台をいったりきたりの「2」に近い「3」となりますと、入試問題への対応力はかなり弱まります。

    さらに、入試直前になると、志望校を下げる子が現れます。
    特に、自校作成校を志望していた子の多くが、普通の都立に志望を変えます。
    「上から受験生が降ってくる」という状況が起こります。
    どんどん押し出されて、一応合格しそうだった高校も、決して安心できない状況になっていきます。
    都立高校は、中位から下位になるほど合否の見極めが難しいのは、こうした事情もあるからです。

    そうした中で、入試得点を何とか固めていくこと。
    上のように、子どもに任せていたら全く歯が立たない問題を解けるようにしていくこと。
    塾の腕の見せどころであり、上のような学力の子が、ひと通りまともに入試問題を解いていけるようになった結果が、入試平均60点。
    そうであることは、塾講師と生徒本人はわかっています。
    受験をともに乗り越えれば、保護者の方も理解してくださることです。

    自校作成校に合格させることだけが難しいわけではありません。
    素質があり、自発的にどんどん勉強する子なら、むしろ指導は簡単なのです。

    入試問題の難しさに跳ね返され、眺めた瞬間に「無理」と諦めて解こうとせず、独りで勉強させると考える前に解答を見てしまう・・・。
    そういう子が、どうにか都立入試問題を6割解けるようになる。
    そこに詰まっている受験技術と指導技術。
    こちらのほうが仕事としては大変です。

    入試問題を解けない子は、学力の問題以前に、「応用問題は自分は解けない」という思い込みが強いのです。
    そして、解き方を知りません。
    問題への切り込み方がわかっていない。
    問題の亀裂にぐいぐい食い込んでいく方法を知らない。
    問題を眺めて、ぱっとわかれば「解ける問題」。
    ぱっと見てわからなければ「解けない問題」。
    入試問題は、ぱっと見てわかる問題ではありません。
    だから、入試問題は、永久に解けない問題。
    それで終わってしまいかねないのです。

    国語の評論も英語の長文も、ちょっと読みづらいとすぐに諦める。
    自分には無理だと思ってしまう。
    読み方がわかっていない以前に、勉強に対する耐性がない。
    秀才は、あれは異人種。
    自分はそういうのではないから。
    と自己評価の低い子は多いです。
    小学校の頃は、誰でも解ける基本問題以外は解く必要がありませんでした。
    中学になってそれが通用しなくなっても、その現実と向き合えない。
    勉強に対して心傷ついたまま、まともに向き合えない。
    難しい問題と正対できない子は多いです。
    自分の潜在能力をギリギリまで発揮しようとしない。
    すぐに逃げてしまう・・・。
    「2」に近い「3」の子の受験勉強は、そうした「逃げ」との闘いから始まります。

    自校作成校に〇〇人合格とうたいながら、その他の都立高校には大量の不合格ということもあるのが塾です。
    実際、私が昔勤めていたその集団指導塾も、上のクラスの半分以上の生徒が自校作成校を志望し、私の在籍した5年間では、もともと無謀な受験だった1人を除いて全員合格しましたが、下のクラスの都立の合格率は50%に満たない年もありました。

    1つには、進路指導上の困難があったこと。
    過去問の得点を生徒に自己申告してもらうシステムを取っていたのです。
    模試の判定も参考にしていましたが、模試の問題は本物の入試問題と比較するとやはりちょっとあっさりしています。
    「都立そっくり」といっても、国語や英語ほどの再現度にはなっていない科目もあります。
    難度は一致しているのですが、読み取らなければならない文字数がやたら多いのが都立入試です。
    くどくどと長い説明と設問を読み通す力が必要です。
    だから、模試も大切ですが、最終的には過去問で何点取れるかが合否の判断で重要となります。
    しかし、その塾の下のクラスでは、解答解説を見ながら解いた過去問の得点を申告してくる子が多く、進路指導の誤差が大きかったのです。
    中3のそのクラスは塾長が担任をするのが毎年の慣例で、塾長は、生徒のことを無条件に信じる人でした。
    私なりに進言しましたが、私の言うことよりも生徒の申告を信じてしまう人でした。
    生徒たちが解答を持っていない古い過去問を授業中に解いてその結果を塾長に渡したり、生徒本人に嘘の申告がどのような結果を招くか説明したりしましたが、解答解説を見て解いていながらも自力で解いているような錯覚に陥っている子も多く、なかなか改善しませんでした。
    水増しの過去問得点を申告した子たちは残念な結果に終わっていきました。
    志望校をあと1つ下げるべきだった子が多かったのです。

    勿論、それだけではなく、下のクラスの子は演習量を確保しづらいという課題もありました。
    宿題を出しても「難しかった」と言って解いてこない子が多いのです。
    易しいドリル形式の問題しか自力で解いてきません。
    しかし、入試問題はそんなレベルではありません。
    常に傍らにいて、
    「この問題は解けるよ」
    「この問題は、この前も解いたばかりだよ」
    と声をかけて励ますと解けるのですが、独りでは、すぐに諦めてしまうのです。
    自力で課題をぐんぐんこなす子たちとは学力差がさらに開いていってしまいます。

    過去問を買って、自分で解こうとしても、数問眺め、歯が立たないと諦めて、答えを見てしまう。
    解き方と答えをノートに書き写すことで勉強した気になってしまう。
    そして、難しい問題は解けないからと、易しい1問1答形式の薄い問題集などを自分で買って、それで受験勉強をした気になってしまう。
    自力で入試問題を解いた経験が一度もないまま、入試を迎える。
    そして、残念な結果に終わってしまうのですが、なぜ合格できなかったのか、保護者の方は真の理由を知りません。
    生徒本人が上のような分析を自力ではできないですから、知りようもないことです。
    内申は他の子と同じで、何とか合格できるのではないかという高校を受けても結局合格しなかった子の中には、受験勉強らしい受験勉強をできずに終わってしまう子も多かったのです。

    私の塾は、今年で8年目になりますが、都立高校に不合格だったのは、開校した最初の1人だけです。
    あとは、全員合格しています。
    5教科全てのその子の実力を把握し、私が直接保護者に連絡できるシステムがあること。
    常に傍らにいて、その子が解ける問題は絶対に解かせることが可能であること。
    受験事情を知らない人にとっては「何でもない都立高校」に合格させることが、私の大切な仕事です。


    都立高校に合格した子たちは、勉強のやり方を知っている子たちです。
    だらだらした服装でだらだら歩いている子も、勉強は標準以上にできるんです。
    そうした見た目と勉強ができるかどうかは、観点が異なります。
    道路にゴミを捨てていくのは・・・、それは絶対やめてほしい。


    近所の高校に対する不快な感情というのは、しかし、消え難いものなのかもしれません。
    お母様が「あんな高校」と言ったその生徒は、中3になって4をいくつか増やし、受験勉強を頑張って、都立高校に合格しました。
    ただし、1000点満点の数字がほぼ同じ、隣りの旧学区の高校に。
    その高校は、その地域の近所の人には「あんな高校」と言われていたかもしれません。
    近所の高校と何が違うというのだろう?
    そうも思いましたが、本人も保護者も納得しているのなら、それで良いのでしょう。
    自分が納得できる高校生活をおくれることが何よりも大切なこと。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 13:13Comments(0)講師日記

    2019年10月07日

    叱るよりも、支えること。


    もう何年も前のことになりますが、高校生に学校の英語のサイドリーダーの読解を授業でやってほしいと頼まれたことがありました。
    授業をするには、そのサイドリーダーの本文が必要です。
    しかし、サイドリーダーは、学校販売のみで、個人が書店やネットで入手するのは難しい場合がほとんどです。
    本文が私の手元にないのでは授業がしづらい。
    授業前に下調べをすることもできません。
    重要表現をまとめたり、重要文の暗唱のためのプリントを作ることもできません。

    「サイドリーダーをコピーして持ってきてください。1度に全部コピーしてきてくれると嬉しいけれど、まずは第1章だけでもいいよ」
    そのように、その高校生に話しました。
    しかし、翌週、その子はコピーするのを忘れてきていました。

    その翌週も、その子はコピーを持ってきませんでした。
    それだけでなく、
    「コピーがなくても良くないですか?」
    と言い出しました。
    なぜコピーが必要なのか、最初に説明したのですが、一度では理解できなかったようです。
    もう一度、
    「1冊しかサイドリーダーがないんだから、私が逆さに英文を読まないといけないでしょう。中学の教科書のような、字が大きくて簡単な内容なら平気だけれど、この字の小ささで、この内容を逆さに読むのは無理ですよ」
    と私が説明すると、その子はがっかりした顔をしました。
    このセンセイはそんなこともできないのかと、少し笑っているようにも見える表情でした。
    そこで、サイドリーダーを私が読みやすい向き、つまり生徒には逆さに向けて、
    「ずっとこれで授業しますが、これで大丈夫ですか?」
    と尋ねると、
    「大丈夫」
    と言うのです。
    私が逆さで読めない英文を、その子が逆さで読めるわけがなかったのですが。
    それでは自分の勉強にはならないということに気づかないのでした。
    「私の手元にコピーがなかったら、重要表現をまとめたプリントや予想問題を作ることもできないですよ」
    と説明しても、
    「どこがテストに出るのか、口で説明してくれればいい」
    と言い出すので、頭を抱えました。
    教材研究の時間を私に1秒もくれる気がない。
    その必要性を想像できないようでした。
    結局、私のほうにサイドリーダーを向けたまま全訳し、ここの表現は重要だねと次々指摘しました。
    5分ほどで、その子はギブアップしました。

    コピーがなければサイドリーダーの授業は無理です、来週はコピーを持ってきてねと頼んだ、その翌週。
    ようやく、その子は、コピーを持ってきました。
    「すっごく大変だった」
    と愚痴をこぼしながら手渡してくれたコピーは、1ページ目は曲がって左端が大きく欠け、2ページ目はぼやけて文字が見えませんでした。

    生徒が持ってくるコピーは、多少曲がっていようが、汚れていようが、必要な部分が読み取れれば良いのです。
    しかし、英文の左端が大きく欠けているコピーとか、ぼやけて文字が判読できないコピーは、さすがに使用に耐えるものではありませんでした。

    なぜそのようなことが起きたのか?
    その子は、家庭用プリンタでコピーしてきたのでした。
    家庭用プリンタは、コピー機としての性能は低いです。
    業務用のものと比べると解像度が低いので、文字がぼけやすいのです。
    1枚の書類をコピーするのはまだ楽ですが、本をコピーする場合には、手でしっかり本を押さえ、光が通り過ぎる間、その状態をキープする必要があります。
    しかし、その子は、本をガラス面に置くと手を離し、プリンターの蓋をしてコピーボタンを押したのでしょう。
    手を離した瞬間に本は位置がズレ、浮き上がって文字はぼけ、使い物にならないコピーになったようです。

    初めてコピーをとるときは、高校生でもそんなふうなことがあります。
    「コピーもろくに取れないのかっ」
    などと叱る必要はなく、やり方を知らないだけです。
    ただ、出来上がった失敗コピーを見て、これは取り直しだとなぜ判断できなかったのか?
    コピーするという作業が目的にすり替わってしまい、文字を読み取れるコピーでなければ意味がないということが理解できなかったようでした。

    「これ、家のプリンタでコピーしたの?これじゃ読めないですよ。家のプリンタは上手くコピーできないでしょう?」
    「すごく難しかった」
    「コンビニのコピー機でコピーしたほうがいいですよ。来週までに取り直してきてください」
    そう頼むと、しかし、その子の顔は曇りました。
    「・・・お金が勿体ない」
    「家のプリンタも紙代とインク代がかかるんですよ。特にインクは高い。1枚あたりにすれば、コンビニのコピーと大差ない金額になります」
    「え?そうなんですか」
    「お母さんに話して、コピー代を、お小遣いと別にもらいなさい。何なら、私からお母さんにメールするよ」
    「いや、それはいい。お金が勿体ないと言ったのがわかったら、怒られる」
    しかし、顔は曇ったままです。
    「うん?あとは何が問題?」
    「コンビニのコピーのやり方がわからない」
    「・・・じゃあ、お母さんに頼んで、一緒にコンビニに行ってコピーの取り方を教えてもらうといいよ」
    「・・・」
    もはや、それは嫌だという反応もなくなったのは、失敗しているという実感が自分でもあったからでしょうか。

    その翌週。
    B4版の美しいコピーの束を、その子は持ってきました。
    ただ、1枚目を見た瞬間に、異常に気づきました。
    文字が原本よりも大きく、その一方、上下左右に余白がなく、ページいっぱいに文字が広がっていたのです。
    本文のみを最大限に大きくする拡大コピーがされていたのでした。
    「お母さんが、凄く難しかったと言っていた」
    「・・・」
    余白がないように拡大コピーしたので、ページを示す数字はカットされていました。
    ページ数の記載がないコピーが40枚ほど。
    うっかり落として、紙をバラまいてしまったら終わりです。
    恐ろしいものを受け取ってしまいました。


    それにしても、なぜお母様は、拡大コピーをしたのでしょうか。
    余白なく、しかし本文は確実に入るよう拡大コピーするには、拡大率をあれこれ考え、数枚は試して、ようやく出来たと思うのです。
    拡大コピーなど頼んでいないのに、何でそんなことになったのでしょう?

    推測するに、
    「こんなに小さな字のサイドリーダーを逆さに読むことはできない」
    「このコピーは、字がぼやけていて読めない」
    と私が言ったという情報が、少し曲がった形でお母様に伝えられたのではないかと思うのです。
    そう言えば、塾のブログも何だか字が大きかったような気がする。
    もう1つ。
    お母さんに頼んで、一緒にコンビニに行ってコピーしなさいと私が言ったことが、お母様には理解しかねることだったのではないかと思うのです。
    何で私がやらなければならないのだろう?
    なぜ、子どもがやるのではダメなのだろう?
    何かとても難しいことを要求されて、だから私の助けが必要なのかしら?
    切れ切れの情報を統合した結果、お母様の判断は、
    「字が小さくて読めないからセンセイが困っていて、だから拡大コピーが必要なのだろう」
    というものになったのでしょうか。

    字が小さ過ぎて読めないっ。

    いやいや、本当にそんなことなら例のルーペを買います。
    逆さに読むのでなければ、小さい字でも読めるのです。
    そんなことよりも、ページ数の情報のほうが、コピーには重要です。

    そのお母様は、自分がコンビニでコピーを取らねばならない理由を、自分の子どもに原因があることと考えれられず、外部に理由を求めた。
    高校生である自分の子どもがコピーを取れないことなど想像もしなかったので、私の老眼を疑うほうに発想がいってしまったのだと思うのです。


    こんなのは笑い話ですが、このような「伝言ゲームの失敗」は、塾ではときどきあります。
    大きな理由の1つは、保護者が見ているお子さんと、私が見ているその子とは、見え方がかなり違うということ。
    家庭内ではしっかりしていても、外の世界で起こることには上手く対応できない子もいます。
    「もう中学生だから、もう高校生だから、大丈夫」
    と保護者の方は思っていても、新しいことへの対応力に乏しい子もいます。
    そこに、子どもの口から語られるあやふやな情報が加わると、こうした「伝言ゲーム」が起こります。

    家庭内では、子どもは生まれ育った安全な空間の中でルーティンで生活していますので、それなりにしっかりしているように見えるのかもしれません。
    親に対して一人前の口をきくこともあるでしょう。
    しかし、未経験のこと・新しいことに上手く対応できない。
    それだけでなく、当然その年齢ならばできるだろうと期待されていることを上手くできない傾向がある。
    そういう子が今は多いです。
    そのことに親は気づかない、ということがあるのかもしれません。
    その子が不器用であることよりも、その子の不器用さを保護者が気づいていないことのほうが根深い課題であると感じることがあります。
    必要なサポートがされないからです。

    忘れ物が多い。
    何が宿題に出されたのか忘れてしまう。
    メモをしても、そのメモを後で見ることを忘れてしまう。
    メモを失くしてしまう。
    学校の定期テスト日程を把握していない。
    テスト範囲を把握していない。

    失くし物も多い。
    塾で渡したプリントを、翌週には失くしてしまう。
    しばらく使っていなかった冊子テキストは、ほぼ100%失くしてしまっている。
    学校のワークや問題集の解答集を失くしてしまうこともあり、学校の宿題を提出したい気持ちはあっても、解答がないので丸つけして提出することができない。
    解答集だけでなく、ワークや問題集本体も、失くしてしまうことがある。
    学校の机の中かロッカーか、散らかった自分の部屋のどこかにはある。
    でも、どこにあるかはわからない・・・。

    定期テストが終われば、問題用紙を学校の机かカバンの中に突っ込んでしまい、そのまま失くしてしまう。
    「テストを持ってきてね」
    と頼んでも、答案用紙が返却された頃には問題用紙を失くしているので、セットで塾に持ってくることができない。


    コピー取りが上手くできなかったその子も、そういう傾向がありました。
    塾に持ってくる物の把握を上手くできませんでした。
    持ってくるものリストを作ってあげても、それを見てチェックすることも忘れてしまうので、結局リストも役に立ちません。
    教材不足の中で授業を成立させるのに苦慮しなければならない日も多くありました。
    宿題を解いたノートと、宿題に使ったテキストだけを持ってきて、あとは全部忘れてくるのです。
    宿題をやったときは、宿題のことだけで頭がいっぱいになってしまうようでした。
    他の教材を全部忘れてきているので、宿題の答えあわせが終わると、では授業は何をするの?という状態になってしまうのでした。
    あるいは、その日、自分が勉強したい学校の教材だけを持ってくることもありました。
    宿題はやってきたの?と尋ねると、そう言えばそんなものがあった、と驚いた顔をしていました。

    また、定期テスト前はテスト対策を2週ほどします。
    そうすると記憶がリセットされてしまうのか、テストの翌週は、筆記用具しか持ってこなかったこともありました。
    塾に何を持ってくればいいのか、わからなくなってしまったようでした。
    そうしたことが繰り返されていました。
    高校生です。

    コミュニケーションがとりづらい。
    私の要求していることが上手く伝わらない。
    スケジュールの管理・物の管理が上手くできない。
    不器用で、色々なことにつまずき、それが学習に影響している・・・。


    もう1つ驚いたことがありました。
    私は、ひと月ごとにまとめて授業の内容をメールで報告しています。
    その指導レポートの送り先として登録されていたメールアドレスは2つあり、お母様のアドレスと、もう1つはその子本人のアドレスだったことが、レポートを送り始めて数か月後にわかったのです。
    勉強のことで参考にするのは本人なので、本人が読むのが良いと思ったというのでした。

    お母様が、その子のことをそんなにも信用し、大人のように扱っていることに、私は心底驚きました。
    小学生ができることをできないでいる高校生を、大人と同じように扱っている・・・。
    テスト範囲を把握できないことも、持ち物を管理できないことも、その子の自覚に任され、家庭内で補助されていないのではないか?
    その一方、学校の成績が良くないことだけは問題視されているとしたら・・・。

    ちょっとだらしない性格傾向はあるけれど、能力の問題ではないと思われているのではないか?
    テスト範囲がわからなくても、教材の管理ができなくても、それは大きな問題ではないとされているのではないか?
    ただ、その性格は直したほうが良いので、ときどき、両親が叱る。
    部屋が散らかっていること。
    テストの点数が低いこと。
    叱って直させたいと思っているが、根本の解決には至らない・・・。
    そうなのだとしたら・・・。

    テスト日程やテスト範囲が把握できない。
    教材の管理が上手くできない。
    この2点は成績に大きく影響します。
    過保護になってはいけないと、物や情報の管理を子どもに任せ、失くすに任せていては、そのままです。
    そのように信頼しているのなら、子どもの成績についても子どもの自覚に任せたほうがいいです。
    それはできず、口を出す。
    口を出すが、助けない。
    ときどき、わっと叱る。
    叱るわりに、その子の課題が見えていない・・・。
    むしろ、課題があることなど認めたくないから、その子を一人前の大人のように扱っているということはないのだろうか。


    他人ごととして読むと「その子は発達障害なのかしら?」という疑問が浮かぶかもしれません。
    しかし、実際に発達障害と診断されていたり、グレーゾーンとされている子の指導もしてきましたが、彼らは、情報や持ち物の管理はしっかりしていました。
    この子のどこがグレーゾーンなのだろう?と、むしろ疑問に思うことのほうが多かったのです。
    高知能であることも多く、望む大学に進学していきました。
    ご両親が専門家と連絡をとり、勉強し工夫して子育てをされてきたからだと思います。

    むしろ、そのような診断をされていない子に、上のような状態の子が多いと感じます。
    物や情報の管理ができないのは、本人がだらしないから。
    勉強ができないのは、努力が足りないから。
    性格的にだらしないだけで、やればできるはずだ。
    叱れば直るはずだ。
    とされてしまうこともあると思います。

    グレーゾーンの一歩定型側は、グレーゾーンとどこが違うのでしょう?
    全てはグラデーションで、線引きなど本当はできないのではないでしょうか。

    ただ、他人ごととしては「発達障害の傾向があるのかしら?」で済むことも、保護者にとっては決して認められない場合もあると思います。
    実際、そのような診断は受けていないのだから認められるわけがない。
    事実として違う。
    それだけでなく、わが子のことと考えると、そのような「レッテル」は受け入れられない。
    その一言で勉強ができない理由を説明されてはたまらない。
    他人のこととしてなら偏見なく受け入れられるけれど、わが子のこととしては、受け入れられない。
    うちの子は、グレーゾーンではない。
    ただ、だらしないところがあるだけ。
    幼いところがあるだけ。
    努力が足りないだけ。
    それは直さなければならない。
    本人にもっと自覚してもらわなければ。
    ・・・そういう考えになってしまう親を誰が責められるでしょうか。

    そもそも必要なのは診断ではありませんでした。
    グレーゾーンかそうでないかなど、その方面の専門家ではない私にとっては、何の意味もないのです。
    ただ、課題は確実に存在し、それは、本人だけで解決できることではないように感じました。
    叱ればきちんとできるようになるわけではないと思いました。
    どうすれば教材を失くさないようになるのか。
    どうすればテスト範囲などの情報を正確に得て、私に正確に伝えられるようになるのか。
    どうすれば、必要なコピーを取って私に渡し、塾の授業をスムーズに受けられるようになるのか。

    しかし、私もまたその子にとっては、ただ注意ばかりするだけの嫌な大人の1人なのかもしれませんでした。
    その子が学校や家庭内で教材を失してくるのを、私は傍観することしかできません。
    サイドリーダーのコピーを渡してくれるまでにひと月かかり、定期テストはおそらく目前。
    詳しい日程はよくわからないし、テスト範囲もわからない。
    学校の問題集はまたも解答集を失くしている。
    テスト当日におそらく提出しなければならないだろう宿題のページもどこかわからない・・・。
    それがテスト範囲そのものであるのは、他の高校の例から考えて確実なのですが、それがわからない・・・。
    「とにかく解答集を探しなさい。それから、友達に、宿題のページを教えてもらいなさい。見つかったら、解答集は必ず問題集に挟み込んでおくんだよ。使ったら挟む、使ったら挟む。離しておいたら絶対なくなるから」
    そのように助言しても、実際にその子がどこまで実行できるのか、傍にいて気にしてあげることはできませんでした。
    1週間後、まだ解答集が見つからないこと、テスト範囲もわからないこと、テストはどうやら来週であることを確認し、注意するだけでした。
    お父さんかお母さんが、その子と一緒にその子の部屋を片付けて、必要な教材を見つけてくれないかなあ・・・。
    その子が友達に電話してテスト範囲やテスト日程を確認するのを傍にいてサポートしてくれないかなあ・・・。
    そうした作業が確実に終了するまで、傍にいて面倒をみてくれないかなあ・・・。
    たまにわっと叱るより、必要なのはそれだと思うなあ・・・。

    そう思うなら、それを伝えればいい。
    より具体的に解決策を提案してはどうだろう?

    私は指導レポートに、上の件の他、物の管理の仕方の具体例をいくつか提示し、メールで送信しました。

    その後、大きな変化が表れました。
    ただし、私が提案したことは一切実行されませんでした。
    しかし、教材を失くしてくること、忘れてくることは、ほとんどなくなりました。
    また、テスト日程とテスト範囲だけは、変な例えですが「歯を食いしばるようにして」正確に私に連絡してくれるようになったのです。
    そこが雑な間は、成績が上がるわけがない。
    逆に言えば、そこが正確になったとき、それでも成績が上がらない理由は、後は、何があるのか?
    そう反問されている、と感じるほどでした。
    そう。
    そこから先は、私の仕事でした。

    なぜかはわかりません。
    けれど、あのメールを境に、確実な支援がその子に入ったと感じました。
    その子の意識も変わりました。
    そして、成績は少しずつ上昇していきました。

    想像するに、その指導レポートの提案のあまりの具体性に、お母様は違和感を抱いたのではないか?
    そして、今度は、私の老眼を疑う方向には向かわなかったのではないか?
    高校生の子どもに対し、まるで小学生にするようにあれをしてくれ、これをしてくれと、親にやけに具体的に要求するメールの意図は何なのか?
    何か起きているのではないか?
    ようやく、その違和感が伝わったのではないかと思います。

    このセンセイ、目だけでなく、言うこともピントがズレてない?
    そんなふうに思われる危険性もあったかもしれません。
    良い感情はもたれなかったようにも思います。
    けれど、成績は少しずつ上昇していきました。

      


  • Posted by セギ at 14:29Comments(0)講師日記

    2019年07月20日

    期末テスト結果出ました。2019年1学期末。


    2019年1学期末テストの結果が出ました。
    高校生は、コミュニケーション英語と英語表現の平均を英語として、数学2科目の平均を数学として記してあります。

    数学 80点台 2人  60点台 1人  40点台 2人
    英語 80点台 1人  50点台 2人  40点台 1人 30点台 1人

    定期テスト得点は、上がったら下がる、下がったら上がるを繰り返す子が大半です。
    上がると気が緩んで次は下がる、下がると危機感を抱いて次は上がる。
    そうした中で、数回の推移が上昇基調であるか下降基調であるかを見通すと、その子が伸びているのか下っているのかを判断できます。
    上がったときの最高点が、上昇し続けているか。
    下がったときの最低点が、下降し続けているか。

    前回の中間テストで大幅に上昇した子が、予期した通りに下がりました。
    次は、頑張りましょう。

    特に高校生の場合、英語も数学もそれぞれ2科目ありますので、週1回90分の個別指導では全てをカバーしきれない場合もあります。
    英語で言えば、文法がわからない、独りでは勉強できないという場合、英語表現の学習に当面集中し、コミュニケーション英語は自力で学習してもらうこともあります。
    全訳プリントも、穴埋め式の重要表現をまとめたプリントも、教科書準拠ワークも解答付きで学校からもらっている場合は、あとは本人がそれで勉強するだけです。
    勉強のやり方は説明してありますし、入塾した頃には、それらを使ってどのように勉強するのか、手取り足取り練習してもいます。
    あとは、それを自分で継続するだけ。
    塾では独りではできない勉強をしたほうが合理的と思いますし、本人も「大丈夫」と安請け合いします。
    しかし、蓋を開けてみるとほとんど勉強していないことがあり、私は天を仰ぐことになります。
    「今回は、同じ日に世界史があったから」
    ( 一一)
    何で一夜漬けすることが前提なんでしょう。

    「塾に行くことにしたから大丈夫」
    と本人が思っている場合、塾の宿題しかしなくなる、果ては塾の宿題もしなくなる、塾でしか勉強しなくなるという、勉強嫌いな小学生みたいな学習姿勢になることがあります。
    塾に行かないほうがまだ危機感を維持できて、自分でそれなりに勉強するのでは?
    塾講師である私がそれを言うのは矛盾ですが、そう言わざるを得ない子もいないわけではありません。

    学習意欲が低く、学習習慣がほとんどない子の多くは、基礎学力や思考力が低い子ではありません。
    小学生の頃は、家で勉強しなくても学校の勉強は楽にこなしていただろうと思われる子たちです。
    勉強ができないわけではないのに、何でそんなに勉強しないのだろう・・・。

    特に中高一貫校の子の中には、公立・私立を問わず、勉強ができないわけではないのに勉強しない子がいます。
    中学受験が終わった後、伸び切ったゴムみたいになり、もう勉強しなくなる子たちです。
    保護者の方も、まあ受験勉強は頑張っていたし、多少無理もさせたから、少し休むのも良いだろうと思ってしまいます。
    すると、そのまま休む休む。
    頭は悪くないので、テスト前だけちょこちょこっと勉強するのでも、良い成績とは言いませんが、それなりの点数はとります。
    中高一貫校は進度も速くレベルも高いから、こんな成績でも仕方ないのかなと、本人も保護者も思ってしまうこともあります。
    全力を出してもいないのに、まあこのくらいで・・・と思ってしまいます。

    ただ、まあこのくらいで・・・のレベルは、年々下がっていきます。
    勉強していませんし、しても一夜漬けですから、積み上げ科目である英語や数学はジリジリ下がっていきます。
    中1の頃は、70点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    中2の頃は、60点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    中3の頃は、50点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    高1の頃は、40点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    高2の頃は、30点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    もっとこれよりも一気に下がっていく子もいますが、遅かれ早かれ30点台が見えてきます。

    なぜ、こんなに学習意欲が低いのだろう?
    なぜ、モチベーションが低いのだろう?
    どうしたら、モチベーションは高まるのだろう?
    どうしたら、やる気になってくれるのだろう?

    日々、そうしたことを考えていたところ、先日、興味深いネット記事を読みました。
    教育関係のネット記事ではなく、ビジネス関連の記事でした。
    「いちいちモチベーションという概念にふりまわされている人は生産性が低い」という内容でした。
    目からウロコが落ちました。

    生産性が低く、仕事のできない人の特徴は、
    ①自発的に動かない。
    ②当事者意識に欠けている。
    ③危機感がない。
    の3つなのだそうです。

    うわあ・・・。
    それは、成績不振の生徒に対して丸ごとあてはまることです。
    自発的に勉強しない。
    自分の人生だし自分の成績だという当事者意識に欠けている。
    このままいくとどうなるという危機感がない。

    では、そうした人のモチベーションをどう上げるか?
    あるいは、そういう本人がどうやって自分のモチベーションを上げるのか?
    答えは明快。
    そもそも、モチベーションという概念をいちいちもちだしてくる人は行動できない。
    モチベーションがむしろ言い訳になり、そこでワンクッションある人は、行動できない。

    朝ごはんを食べることは、モチベーションの問題ではないから、誰にでもできます。
    朝起きて顔を洗って身支度を整えることも。
    定刻に家を出ることも。
    昼ごはんを食べることも。
    家に帰ってとりあえずテレビをつけることも。
    着替えてベッドに寝転んでスマホをいじることも。
    モチベーションの問題ではないから、毎日行うことができる。
    それは、「習慣」。
    モチベーションがなくても、習慣になっていれば、それはできる、というのです。

    一方、そうしたことをモチベーションの問題にしてしまったら、そのいちいちでやるかやらないかを判断することになり、多大な精神力が必要となる。
    いちいちやるかやらないかを判断していたら、できない。
    やりたいかやりたくないかを考えていたら、できない。
    だから、やるべきことをモチベーションの問題にしないこと。
    生活習慣とすること。

    勉強することを生活習慣とすること。
    勉強したくないなあとか、モチベーションが上がらないなあとか考えないこと。
    考えそうになったら、
    「はいはい。それはモチベーションの問題じゃない。習慣習慣。考えない。考えない」
    と自分に言い聞かせ、とにかくいつもの時間になったらいつも通りに勉強する。
    半年も経てば、それは習慣になり、今日は勉強したいとかしたくないとか、そんなことは関係なくなる。
    勉強する時間が毎日の生活習慣の中にある。
    それが大事。

    そう考えますと、中学受験というのは罪深い側面もあります。
    受験勉強をしている3年間だけ、小学生としてはありえないほどの時間を使って勉強します。
    学校から帰ったら、毎日5時間、6時間。
    その反動で、中学入学後は全く勉強しなくなるという事態が起こり得ます。
    それに対して、親が強く言えない。
    受験期に無理をさせ過ぎたという後ろめたさがあると、特に言いづらいかもしれません。
    受験をしていなかったら、「もう中学生なんだから、しっかり勉強しないと」という当たり前の忠告ができます。
    「高校入試があるんだから」と言えます。
    それが言えないのです。
    学習習慣が消え去っていくのを手をこまねいて見ていることになります。

    勿論、保護者の方は危機感を抱いているのですが、中学受験のときほどには、子どもは親の言う通りには動かなくなります。
    「受験勉強のときだけだと思っていたのに、中学に入ったら入ったで、また勉強しろと言っている」
    口にはしなくても、そんな目で見返されると、ついひるむということもあると思います。
    あるいは、ひるまず「勉強しなさい」と言っても、もう言うことを聞いてくれない・・・。
    6年先の大学入試について何を言っても、子どもに当事者意識を持たせるのは難しいこともあります。

    中学受験をしていなかったら・・・。
    公立中学に通い高校受験をしたのであれば、少なくとも学習習慣は身についたのではないか?
    中高一貫校の中で成績が悪くても「みんな勉強ができるから」と言い訳できるけれど、地元の公立中学で自分が劣等生というのはあり得ない。
    勉強は普通にするでしょう。
    5教科「5」はマストだよね。
    そういう気持ちになっていたかもしれません。

    しかし、中学受験をしたのだし、その結果中高一貫校に通っているのですから、そのことについて今更どうこう言っても意味がありません。

    中高一貫校には良い面も多いのです。
    大学受験について学校側が強く意識していますから、全体の流れに乗っていればそれなりに何とかなります。
    中1の最初から大学受験に向けたカリキュラムが組まれ、どの程度頑張ればどの大学に入れるのか、そうした数値的なデータもそろっています。
    土曜日も授業。
    7限もあり。
    繰り返される小テスト。
    単元テスト。
    追試。
    放課後の補講。
    学校の夏期講習。
    山のような宿題。
    それをこなしていれば何とかなるのは、将来の目標を持って学習できていない子にはありがたいシステムです。
    高2までで高校の学習内容が終わるので、高3は受験勉強に集中できるのも強みです。

    全く学習習慣のない子も、高2になって周囲がざわつけば、意識もちょっと変わります。
    ずっと先だと思っていた大学入試はすぐそこ。
    中学受験のときには、もっと早くから準備していましたよね?
    そんな話が案外心に響くことがあります。

    さあ、ここから。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 12:47Comments(0)講師日記

    2019年06月24日

    ピグマリオン効果と、その否定と。



    ピグマリオン効果とは、教師がその生徒は高い能力を持っていると信じ、期待し、そのように接すると、実際に生徒の成績は上がっていくという効果のことです。
    この説には異論も多く、学術的に立証された説というのではありません。
    教師の期待が、実際に生徒にどのように伝わっていくものなのか、具体的に立証する術もないですし。

    「褒めて育てる」という考え方と混同されがちなのも批判される一因だと思います。
    確かに、褒めることがテクニックになってしまい、しかも「褒めて育てる教育」という教育論を子ども自身が見聞きしていては、褒めることも逆効果になってしまいかねません。
    当然注意されるべきことを注意されただけでも、
    「褒めなければ人は伸びないのに、叱るなんておかしい」
    と子ども本人が考えるようでは、褒めても叱っても、伸びる可能性は低いでしょう。
    大した結果も出していない子を褒め続ければ、こんな程度でいいのかと子どもの中での基準が低くなり、それ以上を目指さなくなることもあります。

    私の思うピグマリオン効果は、そういうものとは少し異なります。
    褒めるのではなく、ただ秀才として信じ、遇する。
    現在の成績は悪くても、目の前の問題を今は解けなくても、この子の中には才能が眠っていると確信して接しているとき、実際秀才になった例は多いというのが私の手ごたえです。

    それは、ピグマリオン効果ではなく、実際にその子に素質があって、それが開花しただけではないのか?
    そう言われたらそうかもしれないのですが。

    そしてその逆もあります。

    もう随分前のこと。
    私が大手の個別指導塾に勤めていた頃のことです。
    小学生の男の子の算数を担当したことがありました。
    受験算数ではなく、普通の算数でした。
    算数は苦手とのことでしたが、基本をしっかり学習していくことで、学校の算数の授業やテストに対応していくことができるようになりました。
    カラーテストも満点を取ることが多くなりました。

    数か月して、その子の態度が変わっていきました。
    必ず持ってきて見せてくれた学校のテストを、持ってこなくなったのです。
    「テスト・・・?ああ、100点、100点」
    と、結果は言うのですが、持ってこないのです。
    「テストは昨日あった。まだ返ってこないけど、どうせ100点」
    そう言うこともありました。

    計算問題を解くのを嫌がるようにもなりました。
    以前は、上手くできる自信がなくて嫌がるのを励ますと何とか出来るようになり、少しずつ自信を得ていったのですが、
    「こんなの簡単だし」
    と口にするようになりました。
    なめてかかれば失敗します。
    すると、
    「俺様としたことが」
    と言ったりもしました。
    そんなキャラクターの子ではなかったのに、どうしたのだろう?

    塾では、学校よりも少し先を予習します。
    初めて学ぶ内容を学習するときの態度も少しずつ変わっていきました。
    私の説明をよく聞かず、やたらと話を遮りました。
    「わかった。こういうことでしょう?」
    と自分の考えを口にしますが、まだ若かった私にとってはちょっと対処に困るほど見当外れなのでした。
    「いやいや、そういうことじゃない。とりあえず、この説明だけは聞いてから、その先を考えよう」
    そう制して、基本の説明を聞いてもらおうとしましたが、それもすぐにさえぎられました。
    「わかった。こういうことだ」
    「いや、違うよ」
    「えー・・・」
    露骨にがっかりした顔をします。
    そんなとき、その子は、
    「学校の授業はわかりやすくて面白いのになあ」
    とつぶやくこともありました。
    「・・・うーん。それは、塾で予習して問題も完璧に解けるようになってから学校の授業を受けているからでしょう」
    塾で既に学習済みのことを、学校では初めて自分で気づいたように発言したり問題を解いたりしているんだから、それはわかりやすくて楽しいでしょう?
    その子は、私の指摘が理解できたのかできなかったのか、黙ってしまい、その話はそれきりになりました。

    学校のテスト問題を楽に解けるよう、塾ではそれより少し難しい問題も解きます。
    そうした問題を解く際のその子の姿勢は、しかし、筋道立てて考えるというものではありませんでした。
    「これ、かけ算?」
    「・・・え?」
    「わり算?」
    「・・・いや、そういうことを言い出したら、ただの四択問題になって、いつかは当たるでしょう。そうじゃなくて、かけ算ならかけ算で、どうしてなのかを説明して」
    「じゃあ、わり算だ」
    「・・・今の話、聞いてた?」
    その子には、沈黙し、思考する時間が、5秒もありませんでした。
    かけ算?わり算?
    とすぐに言い出し、私の顔色を見てどれが正しいか判断する。
    筋道立てて考えるのではなく、相手の反応を見て正解を探る。
    そういう学習姿勢が表に出るようになっていました。

    その子は、私に褒めてほしかったのかもしれません。
    学校で「よくできる子」と遇されるようになったから、私にもそのように接してほしかったのだろうかと、今になって思います。
    パッと正解を出して、「わあ、よくできたね」と褒めてほしくて、即答にこだわった。
    その即答を疑問視され、よく考えなさいと押し戻される・・・。
    褒めてほしくてやっていることのいちいちを疑問視される・・・。

    それでも、学校で褒められるために予習を一所懸命やろうというモチベーションは高いようだったので、それでも良いと思っていたのですが、少しずつ色々なことが軋み始めていました。

    ある日、教務からとんでもない指示がきました。
    「あの子、中学受験をすることになったから、次の授業から内容を受験算数に変えて」
    「・・・え?」
    文章題の内容を汲み取って考えることをせず、「これ、かけ算?わり算?」と訊いてくる子にとって、受験算数は難しいです。
    しかし、無理だと言って通る話ではないのが当時の大手の個別指導塾でした。
    私が嫌だと言えば、私はその授業を下ろされ、他の講師がその授業に入るだけでした。

    1回目の「植木算」から、授業は困難を極めました。
    実際に絵を描いて考えよう。
    慣れるまではそうしよう?
    そのように呼びかけても、その子はただ呆然としていました。
    私が実際に植木を4本描き、間の数は3個だねと数えてみせても、何のことかわからない様子でした。
    問題文の意味が読み取れないのかと、本人に音読してもらい、私からも範読し、噛み砕いて説明しても、何も理解していないのが見てとれました。
    何のために何をやっているのか、まるでわからないようなのです。
    見たことのない問題が並んでいる。
    見たことのない問題への違和感に、ただ恐怖しているように見えました。
    こんなのは、自分の知っている算数じゃない。
    こんな問題は許せない。
    こんな問題は不当だ。
    受験算数に初めて接したときの多くの小学生が感じることを、その子も感じていたのかもしれません。
    簡単に解くことのできる問題が1題もないのです。
    中学受験生向けの月列テストは、惨憺たる結果となりました。
    塾で予習できないので、やがて学校の算数の授業にも上手くついていけなくなっていったようです。
    学年が上がり、学校の算数も単元によっては難しくなっていったのも一因でしょう。
    数か月後、その子は塾を辞めていきました。


    何がいけなかったのだろう?

    分岐点は沢山あったと思いますし、色々と弁明したいこともありますが、それでも、根本の原因の1つに、私がその子の素質を信じていなかったことは大きいのではないかと思います。
    学校のカラーテストで満点を取れるようにすることはできる。
    しかし、それ以上のことは、できないと感じていました。
    小学校の頃はそれで済んでも、中学に進学すれば、成績は「2」に近い「3」。
    それを維持するのも大変だろうと予測していました。
    伸びることを期待していませんでした。

    なぜ、私はその子の素質を信じなかったのか?
    素質の無さが垣間見える言動が多かったから・・・。
    特に、思考力。
    文章題への姿勢に、疑問を感じたから。

    しかし、そこに言い訳はなかったろうかと考えます。
    その子の素質のせいにすれば、自分の責任から逃れられると無意識に考えてはいなかったろうか?

    私が思う「素質」は、そのときの計算力や理解力ではありませんでした。
    算数や数学の問題を考えないでやり過ごそうとする姿勢が垣間見えると、その子の素質を疑う気持ちが生じていました。

    例えば、かけ算でなけりゃわり算だ、という姿勢が見えたときです。
    あるいは、文章題で、文章に出てきた数字を順番にかけ算しているだけなのが見てとれたとき。
    それは間違っていると言われると、今度は、文章に出てきた大きい数を小さい数で割る式を立てるのを見たとき。
    その子は、段階を踏んで考えていかなければならない文章題は解けませんでした。
    式をまず1つ立て、その結果を使って次の式を立てる問題は解けないのです。
    「考えなさい」と促しても、考えている様子がなく、無制限に喋り続けました。
    「えー?かけ算?わり算?ヒントは?ヒントを出して」
    というように。
    黙って考えなさいと注意しても、考えている気配がありませんでした。
    考えるということが何をどうすることかわからないのか、困惑した様子でした。
    時間が過ぎるのを待っているのか、時計をチラチラ見たりします。
    思索するとき特有の目の表情になりませんでした。
    自分で何か式を立てない限り、この無言の時間は終わらないのだと悟ると、何か式を立てましたが、自分が立てた式の意味を説明できません。
    「この式はどういう意味?」
    と、私が訊くと、慌てて消していました。
    式について話し合いにならず、算数の問題についての対話ができませんでした。
    私が問題について解説を始めると、私の言葉の端々をヒントに一刻も早く正しい式を自分が先に言おうと、それにばかり必死になりますが、深い理解をしていないことは明白でした。

    つまり、考えるということは何をどうすることなのか、そのことを学びそこねているのでした。
    そういう子を見ると、これは無理だ、と判断してきました。
    この子は、伸びない。

    これを学校の算数教育のせいにするのも家庭教育のせいにするのも可能だとは思いますが、それだけではない気がしていたのです。
    ほおっておいても、人というものは、何かを考えるものではないのか?
    なぜ、こんなにも考えることを学びそこねているのだろう?
    まるで空洞のように、そこが欠落している。
    一方で、考えずに算数の点数を取る方法を、なぜこんなに身につけているのだろう?
    それのせいで、まともに考えることから日々遠ざかっていたのです。
    表面上、学校の算数はそこそこできるように見えるので、抜本的な改革の必要を本人も保護者も感じていませんでした。
    算数・数学への理解は、こんなにも空洞化しているのに。
    これでは、中学の数学は理解できない・・・。


    しかし、考えることを知らないことは、素質ではないのではないかと、この頃は思います。
    それは、ただ知らないだけです。
    考えないことが習い性になっている子に、考えることを教えるのは難しい。
    困難を極めます。
    でも、可能なことなのではないか?

    来年度から、小学校の学習指導要領は新しくなり、対話的な深い学びが要求されます。
    考えることが今までよりも重視されます。
    今の小学校で、算数の問題を考えて解くことができない子は、大人が想像する以上に多いのに、です。
    考えることを知らない子は、実は算数をほとんどわかっていません。
    かけ算・わり算の意味すら本当にはわかっていない。
    だから、どんなときにどちらをやるのか、判断できない。
    それを露呈させ、明らかにする力が、その新しい授業にあるのかどうか、今のところはわかりません。
    ただ、考えることを体感的に理解していない子にとって、その授業は空洞化したものにはなると思います。
    これまでも学習を空洞化してきたように。
    その空洞化をごまかすテクニックを、生きる知恵として彼らはまた発見するのか?
    それとも、算数の根本が理解できていないことが、今度こそ露呈されるのか?
    そこから、考えることを学び直すことは可能なのか?

    考えることを知らない子は、今も多いです。
    しかし、少なくとも、考えることを体感として理解していない子を「素質がない」と断じるのをやめてから、伸びない子はいなくなりました。
    人間にとって、思考することは、快楽の1つです。
    考えることは、誰にでもできるのです。
    それは、才能ではない。
    そう信じます。

      


  • Posted by セギ at 15:33Comments(0)講師日記

    2019年06月17日

    1学期中間テストの結果が出ました。2019年。


    1学期中間テストの結果が出ました。

    数学 70点台 1人 60点台 1人 50点台 2人
    英語 80点台 1人 50点台 1人 40点台 2人

    受験が終わり、新学期になり、塾生の顔ぶれもかなり変わりました。
    さあ、まずはここから。
    前回、数学が40点台、英語が30点台だった人は、順調に上昇しました。


    数学の成績が思うように伸びない高校生の保護者の方からこんなふうな相談をされることがあります。
    「数学はこつこつ勉強しているようなんですが」

    数学をこつこつ・・・。
    それは、数学を勉強している時間は長いのだろうけれど、質や量の面はどうなのかなあ・・・。
    つい、そう考えてしまいます。

    大半の高校は、問題集を生徒に配っています。
    定期テスト範囲としてその問題集からページ指定があり、テスト当日の朝にそのページの問題を解いたノートを提出することになっている高校が多いです。
    数Ⅰと数A、数Ⅱと数Bのように、高校数学は2科目あります。
    1回のテスト範囲でそれぞれ15ページから20ページのテスト範囲が指定されます。

    数学が苦手な子は、高校数学の問題集を1ページ解くのに、2時間から3時間かかります。
    数学2科目で合計30ページの問題集を1回解くのに最低で60時間かかる計算になります。
    確かに数学をこつこつ勉強しているでしょう。
    けれど、それでもテスト範囲の問題集を1回解いただけなのです。

    その1回の中身も、質的にかなり怪しいのが実状です。
    公式を覚えていないので、教科書や問題集の解答解説と首っぴきで解いているのではないでしょうか。
    公式を代入するだけの基本問題ですら、教科書でその公式を見ながら代入しています。
    定期テスト必出の典型題も、解答解説を見ながら解いているだけです。

    そのように解答解説を見ながら解いても、時間はかかります。
    式を書き写した後は、自分で計算しようとする子が大半だからです。
    答えを書き写しているという意識が本人にはなく、わからないところだけ参考にしているつもりですから、そうなります。
    そうやって計算し終わって解答を見ると、間違っている・・・。
    どこかで計算ミスをしているのです。
    どこで計算ミスをしたのか?
    その発見と直しに、また時間がかかります。
    問題集を1回解き終わる頃には定期テスト前日になっています。

    その状態で定期テストを受けると結果はどうなるか?
    公式だけは、直前に暗記して、テスト用紙の上のほうに急いでメモしたとしても。
    どの問題でその公式を使うのか、よくわからない。
    その公式の代入の練習をしたのは随分前なので、どう代入するのかよくわからない。
    他の科目と比べて随分勉強時間を使ったのに、どうしてこんなに解けないんだろう・・・。
    そういうことになりがちです。

    少しの解決策としては。
    最初に公式を覚え、重要事項を復習し、その後、教科書や解答解説を見ないで問題を解くことです。
    せっかくこつこつ勉強している時間は、有効に使いましょう。
    「あとで覚えよう」
    と思っていたら、高校の公式は覚えきれません。
    忘れるのも早いです。

    抜本的な解決策としては。
    学校の問題集で少しでも解答解説を見て解いた問題は、必ずチェックを入れ、時間をおいて解き直しましょう。
    別の問題集でも復習するとなお良いでしょう。

    しかし、それには、それだけの勉強をする時間の確保が必要です。
    問題集1ページに2時間も3時間もかかっているのを何とかしないといけません。

    何で1ページに2時間も3時間もかかるのか?
    解き方を考えているから時間がかかっているわけではありません。
    それならむしろ良いのですが、大抵は、1分と考えずに解答解説を見ているはずです。
    それでも、2時間から3時間かかるのは、計算が遅いからです。
    遅い上に計算ミスもするので、その直しにさらに時間がかかり、結果、1ページに2~3時間かかってしまうのです。

    数学は頭脳のスポーツと言われるくらいですから、若いほうが有利です。
    理系に進む子は、高校生の段階で、私よりも計算は速くなります。
    文系でも、最低限、私と同程度のスピードでなければ、センター試験を時間内に最後まで解くことができません。

    しかし、現実には、何にそれほど時間がかかっているのだろうと疑問なほどに計算の遅い子が多いのです。
    しかも、ノートを覗き込んでも、何をしているのかよくわからないのです。
    計算過程が数学が得意な子とは違うため、何をしているのか見てもわからない・・・。
    なぜ、( )をそこで開くの?
    なぜ、そことそこを約分するの?
    なぜ、そんな順番で計算するの?
    なぜ、そこで同類項の整理をしないの?

    それは、やり方が間違っていることもありますし、間違ってはいないけれど遠回りになっていることもあります。
    そういうことの積み重なりが計算ミスをしやすい原因の1つであり、解くのにも直すのにも時間がかかる原因となっています。
    数学が頭脳のスポーツであるならば、計算には正しいフォームが必要です。
    合理的な正しいフォームで計算すれば、案外ゆっくり解いていても、答えは速く出ます。

    しかし、計算フォームというのは癖になっていて、きわめて直しにくいことの1つです。
    本人が強く自覚した上でも、矯正に時間がかかります。
    最初から正しいフォームを身につけていれば、こんなことにならないのに、と思います。

    また、そもそもかけ算・わり算の暗算が上手くできない人は、速く計算できません。
    そんなに凄い暗算をしろといっているわけではありません。
    ×1桁、÷1桁を暗算する力を持っていてほしいのです。
    もっと言えば、数字を頭の中で因数分解する力が欲しいのです。
    例えば、75=25×3 であることが筆算しなくてもパっとみてわかる力。
    48=16×3 であることを見てとれる力。
    あるいは、どんな数が7で割りきれ、どんな数が9で割りきれるかを見る力。

    これができないと、小学校5年以降の分数の通分・約分にもたつきます。
    小6以降、分数のかけ算・わり算にもたつきます。
    中1以降、小数の計算がほぼ姿を消し、分数計算ばかりになるため、数学そのものに苦手意識を持ちます。
    中3以降、因数分解が上手くできません。
    中3以降、平方根の整理にもたつきます。
    中3以降、2次方程式の計算にもたつきます。
    中3以降、三平方の定理の活用にもたつきます。
    高1以降、2次関数の整理にもたつきます。
    高1以降、三角比の計算にもたつきます。
    高1以降、確率の計算にもたつきます。
    高1以降、データの計算にもたつきます。
    高1以降、不定方程式の計算にもたつきます。
    高2以降、・・・もうやめましょう。

    整数を見たときに、その整数が何かの積の形に見えること。
    それができない数は素数であることを認識していること。

    数学が得意な人にとって当たり前のそのことに、数学が苦手な人は気づいていないことがあります。

    小学校5年になって約分・通分を学習してから急に「かけ算・わり算は暗算しろ」と命令されるわけではありません。
    そうとは言われない形で練習を繰り返しているのが、わり算の筆算です。
    わり算の筆算をスムーズに行う子は、×1桁、÷1桁の暗算がスムーズにできる子です。
    さらに言えば、わり算の筆算はそれにひき算も加わりますから、総合格闘技のようなものです。

    わり算の筆算自体は、中学以降は使う機会が減っていきます。
    全て分数で処理していきますから、筆算で割るのではなく、約分していきます。
    しかし、その約分は、わり算の筆算で鍛えてきたからこそ楽にできるようになるものです。
    約分は、わり算を暗算で行うものだからです。
    約分しなければならない段階になって急に「暗算しなさい」と言われても、練習していない子には難しいのです。
    一方、わり算の筆算が得意だった子は、最初から大きな数でバッサバサと約分できます。
    ちまちまと2や3で約分することを繰り返して途中で計算ミスをしたり、答案が汚くなって自分で見誤るといった事態を避けることができます。

    将来の約分のためにも、わり算の筆算は有効。
    ところが、全く暗算しないでわり算の筆算をする小学生もいます。
    商にまず「5」を立てて、実際に筆算し、違ったら消してやり直すのです。
    何でも「5」から始めて、1ずつ数字を上げていったり、下げていったりするのです。

    ・・・誰が教えたのだろう、こんな頭を使わない方法を。

    人間はコンピュータじゃないんですから、無駄なことを機械的に全部試すようなことは、させたらダメです。
    コンピュータはそういうことを猛スピードでできるので計算の結果は速く出ますが、人間がそれをやったら単なるわり算の筆算1問に5分もかかることがあります。
    人間を性能の悪い電卓にしてはいけない。
    わり算の筆算は、わり算をするためだけに練習しているのではありません。
    その先の学習の準備も兼ねています。
    全ての学習は、上へ上へと積み上がっていくのです。

    ただ、同じようにそれを教わっても、商に何でも「5」を立てることの無駄に早い時期で気づく子もいるでしょう。
    もっと予測を立てて、一度で正しい商を立てたら良くないか?
    わる数と予測した商との積を頭の中で暗算して、その商が正しいことを確認することは可能ではないか?
    繰り上がってくる数があるのが少しややこしいけれど、やろうと思えばできる。
    そう思う子は、商をスパスパ立て、わり算の計算問題をこなしながら、暗算力も鍛えていくのです。

    何でもまず「5」を立てて順番にやれば頭を使わなくていい。
    そんなところに安住していたら、将来、数学は相当苦しいものになると思います。

    ・・・結局、そういうことの繰り返しだったのではないか?
    例えば、中学3年になったとき、平方根の整理は、頭の中で数字を分解せず、何でも素因数分解の筆算をしてきたのではないか。
    平方根のかけ算は、平方根どうしをまずかけ算して、たとえ3桁の数になったとしても、それから素因数分解してきたのではないか。

    もっとも不器用で回り道なやり方を、それが一番頭を使わない方法だから、常に選択してきた。
    その結果が、今、高校数学の、遠回りで計算ミスだらけの答案になっているのではないか?
    工夫したやり方、頭を使うやり方を避けて、地道でも必ず答えの出るやり方を選んできたつもりが、地道過ぎて時間ばかりかかり、途中で計算ミスするため正答の出ないやり方にいつの間にかなっていた・・・。

    高校生の数学の答案に、そのような痕跡を見ることがあります。
    計算のフォームを変えましょう。
    遠回りで無駄な計算を長年やってきた分だけ、直すのに時間はかかると思います。
    それでも、改革が必要なことはあります。

      


  • Posted by セギ at 14:55Comments(0)講師日記

    2019年04月15日

    地図を修正しました。



    先日、三鷹市の外から体験授業にいらした方が、
    「道に迷ってしまって」
    とおっしゃったのが気になり、教室地図を見直しました。

    電車利用で三鷹駅からうちの教室に来ていただく場合、赤鳥居通りに入るのが一番近道ですが、言葉では説明しにくいのが難点です。
    三鷹駅南口デッキからどこの階段を下りるかを、絶対に迷わないように誘導するには、駅前付近図の他に、南口デッキの拡大図が必要となります。
    しかし、南口デッキの正確な形状をそのまま表さないと、見る人を逆に混乱させる可能性があります。
    デッキの形、伸びている歩道橋、エスカレーター、階段を全て正確に描かないと、人は、目の前の現実と一致しない略図には混乱することが多いのです。

    では、言葉による説明はどうでしょうか?
    「三鷹コラルの裏側と、新しく出来た何とかいうタワービルとの間の道に降りていく階段」
    この説明は、三鷹に土地勘のある人でなければ通じないでしょう。

    「新しく出来た何とかいうタワービル」の名前は何でしたっけ?
    とネット調べると、「グレーシアタワー三鷹」と出てきました。
    え、本当にそんな名前ですか?
    それは、タワーマンションの名称では?
    下のほうの店舗部分は、別の名前がついていると思うのですが、何でしたっけ?
    名称がわかったとして、南口デッキから、そのビルの名称がはっきり見えているでしょうか?
    という調子で、正確に誘導できる自信がありません。

    道案内は、そもそも相手に正確に情報が伝わる可能性は極めて低いことをこちらが認識していないと、思いもかけない行き違いが生じます。
    もう8年ほど前になりますが、
    「南口デッキからまっすぐエスカレーターを降りてください」
    と、三鷹中央通りに降りていく方法を文章で説明したことがありました。
    間違えるはずがないと思っていたのに、その説明を読んで独りで体験授業を受けにきた中学生は、東に向かうエスカレーターを下りて、桜並木を井の頭公園の方向にどこまでも歩いていってしまいました。
    それはまっすぐじゃなくて、左に曲がっている!

    土地勘がある人がこの話を聞けば、左に曲がるなんてありえない、まっすぐと言われて左に曲がるというのがそもそもおかしいでしょう、と感じるかもしれません。
    しかし、初めて三鷹駅から南口デッキに出た場合、まっすぐ三鷹中央通りへと降りていくエスカレーターは、あまり目立たないのです。
    横向きになっている分だけ、左に曲がるエスカレーターのほうが存在感があります。
    まさかもう1つエスカレーターがあるとは思っていない場合、最初に目に入った左に曲がるエスカレーターのほうに引き寄せられていくようです。
    方向の情報よりも、目に入ったエスカレーターのほうを優先させてしまうのです。
    土地勘がないというのはそういうこと。
    全体を見通すことができないので、正しい判断ができません。
    緊張していると視野が狭くなりますから、全ての情報は目に入らなくなってしまいます。
    降りるべきエスカレーターが目に入らないなら、間違ったエスカレーターに乗る以外の選択肢がありません。

    エスカレーターすら正しく誘導できないことを悟った私は、もっと数のある階段の降り口を正しく誘導することは諦めています。
    「デッキを渡って一番右の降り口です」
    といった説明は、説明した側としては完璧なつもりでも、その人がその降り口に気がつかなかったら、何の意味もありません。
    全体を把握していなかったら、一番右がどれかはわからないでしょう。
    もう1つ不安な点は、「デッキを渡って」の「渡って」を読み飛ばす可能性が高いこと。
    デッキを渡らず、すぐに右に曲がる人もいると思います。

    誤解されないよう全ての可能性を潰すべく長々と説明すると、今度はくどいと思われて正確に読んでもらえず、それもまた誤解を生む可能性もあります。


    これを解決する最善の方法は、逆説的ですが、説明しないことでした。
    不親切な地図だと思われてもいいから、間違った方向に誘導しないことが大事です。

    私の描いた教室地図は、南口デッキを省略し、描いてありません。
    デッキの細部の描写を読み違えて、間違った方向に歩みだすことがないよう、とにかく南へ行くことだけを地図は伝えています。
    南へ行くという意思のもと、南口デッキに降り立てば、左にも右にも曲がらないと思います。
    とにかくまっすぐ南に行きたい。
    そういう意思を持つ人は、階段を下りても、自力で方向を修正できます。
    まっすぐ南に降りるエスカレーターを自力で発見することも可能でしょう。

    南へ伸びている三鷹中央通りの道の両側を2つの銀行でしっかり示せば、デッキからどう降りるかは問題ではなく、どの道に降りるかが問題となります。
    そうすると、地図の見方が違ってきます。
    次に右折するスクランブル交差点は、角に「東急ストア」を示してあるから大丈夫。


    ・・・しかし、これが問題でした。
    東急ストアの文字、よく見ればまだ壁に残っていますが、店はもう存在しません。
    ここを曲がりそこねると、次の交差点は、うちの教室よりもずっと南です。
    大事な曲がり角の指示が不明瞭になっている!
    これは、地図を直さなければ。

    もう1つは、駅前郵便局の位置です。
    駅前郵便局は前述したタワービルの1階に入っています。
    そのビルは元の郵便局の敷地も含んでいますが、元の交差点の位置から郵便局が見えるかというと、見えないのです。
    交差点の名称はまだ「郵便局前」ですが。
    郵便局は、うちの教室に案内するために直接必要なものではないのですが、万が一、道に迷ってそちらのほうに逸れてしまった人に、「そこは違います」と示すための抑えとして重要な存在でした。
    それが間違った位置に残ったままの地図は、迷った人をさらに迷わせます。
    正しい位置に直さないと。


    早速、Wordに保存してあった地図を修正しました。
    修正は、感覚で触ってみたら簡単に修正できました。

    さて、問題は保存です。
    Wordのままでは、ブログに貼れません。
    ブログにはWordからの直接のコピーはできませんでした。
    画像として保存しないと。

    この地図の最初のバージョンを作った何年も前も、Wordで地図を作って画像として保存する作業を行いました。
    しかし、何年も前に1度やったきりの作業のやり方はもう覚えていませんでした。
    ネットで調べても、トップに出てくる解説は2010年のもので、今のWordとはバージョンが違うようです。

    ここで一気に、私は、説明する立場から、今度は説明を理解する立場に変わりました。
    ネット記事はスクリーンショットを用いて説明されていましたが、その画像が今のWordとはバージョンが異なるので、やってみてもその通りに画面は現れません。
    「図として保存」という選択肢が今はないのです。
    Wordの「ヘルプ」はいつもながら何のヘルプもしてくれません。

    最終的には、どうやったらそうできたのか何だかよくわからないけれど、偶然に「図」として保存できました。
    選択してコピーして、新規作成して添付するのを幾度か試みるうちに、偶然、コピーしたものが「図」になり、画像として保存できたのです。
    あー、良かったー。
    でも、腑に落ちないー。

    そんなわけで、ようやく修正できた地図が上の図です。

    説明すること。
    説明されること。
    教えること。
    教わること。
    やはり容易なことではない。
    こんなこと一つでも感じます。

    最初の教室地図は、教室開校時の2011年、Wordで作成しました。
    あの頃、生徒はまだ少なく、時間だけは沢山ありました。
    Wordの教本を買って、それと首っ引きで作りました。
    その地図が古びて問題を生じるほどに時間が経ちました。
    それは、それだけ長い時間、教室が続いてきたということ。
    ありがたいことだと噛みしめ、今年度も頑張ります。

      


  • Posted by セギ at 12:38Comments(0)講師日記

    2019年04月03日

    学年末テスト結果集計出ました。2019年3月。


    学年末テスト結果が出ました。
    数学 80点台 1人  60点台 1人  40点台 1人
    英語 100点  1人  90点台 1人  30点台 1人

    受験生が卒業したので、中学生・高校生の人数が随分少なくなりました。
    そんな中、今回から英語を受講することになった人が、いきなり90点台となりました。
    「これを覚えて」
    「ここがテストに出ます」
    と指示するだけでスルッと得点が上がりました。
    以前から、自分で勉強はしていたが、何が大事で、何がテストに出るかの焦点があまり定まっていなかった。
    自分で勉強するには、市販の教材では量が不足していた。
    そういう人は、簡単に成績が上がります。

    中学生、特に公立中学生にはそういう人が多いのです。
    何を勉強したら良いのか、わからない。
    基本はわかっているので、もっと応用力をつけたいと思うのに、定期テストに出そうな問題が沢山載っている問題集が手に入らない。
    書店で問題集を探しても、簡単過ぎたり難し過ぎたりで、何だかちょっと違う。
    学校で渡されるワークは簡単な問題が多く、でも、定期テストはそれよりずっと難しい。
    勉強を頑張ろうと思うのに、いつも何かピントがズレてしまうのを自分で感じる。

    そういう人が、早くうちの教室を見つけて、授業を受けにきてくれないかなあと思います。
    定期テストに関する正確な情報さえ提供してくれれば、高い精度で学習すべき内容を提示できます。


      


  • Posted by セギ at 14:33Comments(0)講師日記

    2019年03月01日

    都立高校入試結果が出ました。2019年3月。


    2019年3月1日、都立高校の合格発表がありました。
    今年度のセギ英数教室は中3受験生は1名。
    5教科みっちり個別指導の結果は、

    ◎都立新宿高校 合格

    やりましたー。ヽ(^。^)ノ
    合格おめでとうございます。

    今年度の高校受験指導は、1名とはいえ中身が濃く、苦闘の連続でした。
    始まりは順調だったのです。
    最初に提示された志望校は本人の成績から考えれば極めて順当なものでした。
    うん。
    ちゃんと受験勉強すれば、ここなら合格します。

    よし。
    まずはそこに向けて、内申を高め、盤石の基盤を作りましょう。
    入試に向けた総復習と並行して、定期テスト対策を強化。
    本人も定期テストに対して脅威の粘りを見せ、学校の成績は順調に上がりました。
    これで、志望校には余裕をもって合格するはずでした。

    秋も深まり。
    学校の三者面談で、当初の志望校よりもワンランク上の都立校の推薦入試の話が出ました。
    志望校の推薦入試を受けて、そこで合格する。
    内申が特に上がっている場合ならば可能なことです。
    ワンランク上の学校でも、この内申の上がり方ならば、推薦入試で合格するのではないか?
    ああ、良かった。
    やはり、上げておくべきは内申。
    今年度の受験対策は、早めにフィニッシュとなりそうでした。

    しかし、本人が、いつまでもいつまでもどうするか迷っているのでした。
    そして、出てきた名前が、都立新宿高校。
    そこは、都立自校作成校です。
    ・・・ちょっと待って。
    新宿高校は、推薦がもらえる高校よりもさらにワンランク上。
    というより、間に学校がないから「ワンランク上」という表現しかないけれど、その間には、深くて暗い河があるんです。
    高い高い壁があるんです。
    国語・数学・英語が独自入試で、入試問題がとても難しいんです。
    ( ;∀;)


    「どう思う?」
    その子は毎日のように進路のことを尋ねてきました。
    「推薦でいいんじゃないの?いい学校だと思うよ」
    私はそう言い続けたのですが、翌日になるとまた同じ問いかけが始まります。
    ちっとも納得していない。
    結局、新宿高校を受けたいのです。
    本人がとにかく受けたいのです。
    「じゃあ、新宿高校を受けたらいいじゃないの」
    「そうする!」
    そう言って、それっきり、もうその問いかけはなくなりました。
    ・・・おいおいおい。( ;∀;)
    私が許可したことになっちゃったの?
    私が太鼓判を押したことには、まさか、なってないよね?

    とはいえ、試しに1年分だけ過去問を解くと、合格射程圏内と感じる答案なのでした。
    得点で言えば、素点で50点ほども足りません。
    しかし、過去問を最初に解いた場合は、これまで教えてきた自校作成校に合格した子たちの多くもそうでした。
    大事なのは答案に伸びしろを感じるかどうかです。
    その答案からは、希望が立ち上がっていました。
    薄氷を踏む思いではあります。
    全教科、失敗できない。
    得点源など、どこにもない。
    しかし、合格しないと言い切れる要素もないのです。

    あとは、精神面です。
    女子に多い傾向ですが、冬期講習あたりが学力のピークとなり、1月、2月と徐々に学力が下がっていく子がいます。
    精神的緊張に耐えられず、力を出せなくなっていくようなのです。
    その子は、そういうタイプではありませんでした。
    定期テストでも、魔物でも通ったのか?と訊きたいような変なミスは少なく、間違うべくして間違い、出来るべくして出来る。
    学力の伸びを把握しやすく、入試当日の朝まで伸びるタイプです。
    2月もたっぷりと受験指導に使えました。

    実力が蓄えられるのを待つため、残りの過去問を解く時期をギリギリまで後ろに倒し、成功体験を積み重ねました。
    初めて解いた過去問で、しっかりと合格点を取ることが大切です。
    この年も大丈夫。
    この年も合格している。
    合格の可能性を否定する要素はありませんでした。

    願書提出の時期が近づくと、大手の塾に通う子たちで自校作成校が志望校だった子たちの多くは、志望校を下げたそうです。
    大手塾は、合格実績を出さねばなりませんから、そのように慎重な進路指導を行います。
    そのことに、その子はショックを受けていました。
    みんな、志望校を下げた。
    自分も下げるべきなのか?

    「じゃあ、下げれば?」
    「いや、受ける」
    「じゃあ、頑張れば?自校作成校受験はチキンレースです。諦めなかった人が合格するんです」
    とは言え、入試は水もの。
    絶対などありません。
    しかし、ここまで来たら、私のせいで不合格になったということになっても、まあいいかなと思いました。
    親のせいとか、本人のせいとか、家族の中でごたごたするのはその家族にとって一生の不幸です。
    敵は外部にあればいい。
    塾が悪かった。
    塾のせいだ。
    そういうことにして心の傷を癒し、また未来に向かっていけばいいのだと思うのです。


    自校作成校は、合格さえすればいいというものではありません。
    授業もテストも難しいです。
    そのわりに学校行事も部活も頑張るんだ、文武両道だ、という校風の学校が多く、その結果は高い浪人率となって表れています。
    推薦入試・AO入試の比率がますます高まっている昨今、大学受験を考えたら、自校作成校に進学するのはデメリットもあります。
    ほどほどの都立高校に進学し、わかりやすい授業を受けてしっかり基礎を固め、高い内申を確保して、指定校推薦で志望の大学に進むという道もあります。

    でも、高校は、一生の友達に出会える場所です。
    勉強のできる子は、ただ勉強ができるだけの「勉強バカ」もいるけれど、話していて手応えのある面白い子も沢山います。
    特殊な趣味や興味を深く掘り下げている子もいます。
    自分の感情を振り回して他人をいじめるような子は少ないと思います。
    自分が他人から嫌な関わり方をされたくないから、自分も他人に嫌な関わり方はしない。
    そういう最低限の想像力のある子が多いと感じます。
    かつて都立西高校に進学した子が、ぽつんと口にしたことがあります。
    「クラスの人が、みんな、優しい」
    うん、わかる。
    それ、凄くわかる。
    私は何度も頷きました。

    学校は、進学率とか、建物の新しさとか、制服の可愛らしさとか、そういうことで測るものではありません。
    そこに誰がいるか、誰と出会えるか、だと思うのです。



    都立新宿高校合格、おめでとうございます。
    本当に本当に良かった。
    素晴らしい春となりました。

      


  • Posted by セギ at 12:07Comments(0)講師日記

    2019年02月17日

    受験後、燃え尽きないために。


    「燃え尽き症候群」といった言葉は聞いたことがあると思います。
    長年個別指導をしていますと、それなのかなと感じる生徒に出会うことは日常茶飯事です。

    無論、それには個別指導の特性も影響しているのでしょう。
    中学受験を経験した子が、中学に入学後、家でほとんど勉強しなくなり、それを心配した保護者の方がお子さんを個別指導塾に連れてくるというパターンが多いのです。
    中高一貫校の指導上の特色から、集団指導塾、特に高校受験塾に通ってもカリキュラムが合いません。
    中高一貫校に通っていて、学習上、困った事態に至った場合、まずは個別指導塾を考えるでしょう。

    中高一貫校に通っているということは、以前は、中学受験の勉強をしています。
    だから、基礎学力はある場合が多いです。
    それで学習上困った事態に至っている原因の第一は、家庭学習をほとんどしないことです。
    だから、個別指導をしていると、中高一貫校の生徒は家庭学習の習慣がない子が多いようにすら感じます。

    一方、中学受験をしない子は、小学生でも中学生でも高校生でも、個別指導を受けに来る子の場合、家庭学習の習慣のある子が大半です。
    今よりもさらに高い学力をつけるべく、個別指導を受けに来ます。
    受験学年ではなくても意欲的で、宿題もきちんとやってきます。

    今の個別指導塾を開く前は、集団指導塾に勤めていたこともありました。
    中学・高校・大学受験のための集団指導塾です。
    高校受験クラスは、学力別にクラス分けを行っていました。
    全員が近隣の公立中学に通う生徒でした。
    上位クラスの子は、意欲があり、家庭学習の習慣もある子ばかりでした。
    一方、下位クラスの子は、家庭学習の習慣がなく、宿題をやってこない子がほとんどでした。
    そのように明瞭に学習意欲が別れていました。

    意欲がないから下位クラスになるとは限りません。
    下位クラスになったから、学習意欲がなくなったのかもしれません。
    大半が宿題をやってこないから、自分もやらない、それで安心という空気も生まれます。

    少人数クラスでしたから、クラスが荒れているということはなく、授業は成立しました。
    しかし、塾でしか勉強しないのですから、成績が上がる可能性は低いのです。
    学校の授業ではわからなかったことが、塾でわかるようになる。
    ただ、その後、宿題の問題演習で復習することがありませんから、テストの得点にはなかなか結びつきません。
    わかるだけじゃなくて、できるようになろう。
    そう呼びかけても、やはり宿題をやらないままの子は多かったのです。
    家でどう過ごすかは、もう既にルーティンが出来上がっています。
    それまで通りの日常の中に、家で勉強する時間は存在しません。
    勉強したほうがいいんだろうなあとは思いつつも、日々は何もせずに過ぎていきます。
    でも、別に、友達も勉強していないし。
    そうした停滞感が下位クラスを支配しているのは否定できませんでした。


    一方、個別指導に来る中高一貫校に通う学習意欲の低い子たちは、存在そのものが矛盾を抱えています。
    彼らは、中学を受験し、合格したのです。
    受験勉強をした経験者です。
    努力をしてきた子たちです。
    中高一貫校に合格したのに、なぜそんなにも学習意欲が低いのか?
    今通っている中高一貫校に、無試験で入学できる大学は存在しないというのに。
    あるいは、あっても、行きたい大学ではないだろうに。
    自分が大学受験をすることになるのは、わかっているはずなのに。
    それなのに、何でそんなに勉強しないでいられるのだろう?

    大学受験まで6年間あるのだから、まあ中学生の間はのんびり遊んでいてもいいのでは?
    保護者の方がそのように考え、そのように本人に言っているのなら、個別指導など受けに来ないでしょう。
    中学に通い始めたら、全く勉強しないので、学校の授業についていけなくなった。
    保護者の方が心配になって塾に連れて来た。
    そういう場合が多いです。

    数学の場合、中1の1学期でもうついていけなくなることがあります。
    中高一貫校は、6年間で学習すべき学習内容を5年で消化します。
    しかし、高校数学は、そんなに時間短縮はできません。
    圧縮するのは中学数学です。
    中1で、普通の中1・中2の内容を終わらせます。
    学校によっては、中1の3学期には中3の内容に入るところもあります。
    だから、授業スピードがとにかく速いです。

    公立中学ならば、中1の1学期と言えば、「正負の数」「文字式」の単元が終わり、「方程式」の途中まで進んでいれば進度は順調です。
    一方、中高一貫校の場合、数学の授業がそもそも代数と幾何に分かれているため、それぞれの授業時間は半減しているというのに、代数の1学期の進度は、「正負の数」「文字式」「1次方程式」「連立方程式」が終わり、「関数」に入っています。
    幾何は独自テキストの学校も多く、味も素っ気もない体裁のテキストに、公理やら定理やらがズラズラと並んでいます。
    中1の1学期で「図形の移動」「平面図形の求積」「空間図形の求積」「平行と合同」「三角形」まで終わっている・・・。
    恐ろしいスピードで授業が進んでいます。

    学校側も、その進度で授業を進めるリスクは理解しているのです。
    入試に合格した子たちとはいえ、算数・数学が得意な子ばかりではありません。
    受験算数はあまり得意ではないまま、他の科目でカバーして何とか合格した子もいるでしょう。
    それはわかっているので、数学は学力別のクラス編成を行っている学校がほとんどです。
    下位クラスの生徒たちには応用問題の演習を減らし、基本の解説を重視してはいるようです。
    授業中に小テストが多く実施され、基準の得点を満たさない生徒には放課後の補習と追試を行っている学校もあります。

    しかし、学校側がどれほどフォローしても、家庭学習の習慣のない子がこの進度の授業についていくのは難しいです。
    そうした生徒に個別指導を始めると、代数は方程式の基本も理解していないことがありました。
    3x-8=5x+7
    といったレベルの1次方程式の計算も、解き方がわからないのです。
    むしろ公立の中学に通っている子でこの問題を解けない子を探すほうが難しいというのに。
    方程式の計算問題ならばどうにか解ける子も、文章題になると、受験算数の解き方で何がごちゃごちゃ解いてしまうこともありました。
    そういう子は、式を立てず、暗算し、筆算し、答えだけを書きます。
    しかも、その答えが間違っています・・・。
    「式を書いて」
    と言っても、式を書く意味が理解できないのか、表情のない目で私を見返してきたりしました。
    「その答え、間違っていますよ」
    と言うと、目に少し表情が現れます。
    そうした子に、いきなり方程式を利用した解き方を説明しても理解してもらえません。
    もう中学生なのに、受験算数の解き方でいったん教え、どうして答えがそれではないのかを説明した上で、方程式で解く方法を教える。
    そういう二度手間が必要でした。
    方程式で解けばどれほど簡単であるか、本人が理解できるまで説明しないと、いつまでもいつまでも受験算数の解き方で中学の数学を解こうとするのです。
    「受験算数で解くより、方程式のほうが簡単でしょう?」
    と説明しても、
    「いや、自分はそうは思わない」
    と言って、正解が出せないのに受験算数でなおも解こうとする子もいました。
    もう新しいことは習得したくない。
    今まで身につけたことだけでやっていきたい。
    そういうことだったのかもしれません。

    幾何はもっと惨状を極めている場合がありました。
    学校の授業で何をやっているのか、全くわからないと言うのです。
    面積や体積を求める問題だけは意味がわかるけれど、他は、何のために何をやっているのか、本当に何もわからない。
    テストにどういう問題が出るのかわからないから、勉強の仕方がわからない。
    そう言う子もいました。
    これは、学校の独自テキストも影響しているのでしょう。
    教科書会社が作っている教科書ならば、全国一律の安心感があります。
    それが例え中高一貫校向けの難度の高い教科書であっても。
    学校の独自テキストは、自分の学校だけ特別なことをやっているという誤解を生徒に与えます。
    凄く凄く特別なので、学校の授業がわからない以上、もう勉強のしようがないと本人が誤解していることがあります。

    いや、実は、それほど特別ではないんです。
    教えていることは、公立の中学と順番は同じです。
    幾何の学習を基礎の基礎から行うのなら、自ずと学習する順番があります。
    突飛な順番で学習することはできません。

    確かに独自の表現もあります。
    「公理」という言葉は、今、普通の中学高校の教科書で見ることはありません。
    三角形の合同条件を「3辺相等」「2辺夾角相等」「2角夾辺相等」と表現をするのは、今は私立の学校だけです。
    易しいことを難しい言葉遣いで教えてわからなくする呪いでもかけているのか?
    そうも思いますが、最初からその言葉で教わればそのほうがわかりやすいという子もいます。

    普通の順番で、ただし進度は速く、応用問題を多めに勉強しているのが中高一貫校の幾何です。
    幾何は、何のために何をやっているのか、そもそもわかりにくい。
    直線ℓと直線mが垂直、直線ℓと直線nが垂直であるとき、直線mと直線nは平行であるかどうか、なんてところから学習が始まると、「意味不明・・・」と思うのもわからなくはないのです。
    あさっての方向から学習が始まった違和感をぬぐいがたいのは幾何という学習の特徴なのですが、それを学校の独自テキストや独自カリキュラムのせいと誤解している子が多いのです。

    とはいえ、そうした疑問は、個別指導で教われば解決することです。
    彼らに欠けるのは、何よりも学習習慣です。
    家庭学習をする習慣がありません。
    週1回の塾に来る直前に慌てて宿題を数問解いて、やった形跡を残してお茶を濁そうとします。
    これをどうにかするのは、理解は遅いけれど意欲のある子を指導し、問題を解けるようにすることよりも難しいのです。
    困難を極め、時間がかかります。


    彼らには、同情できる面もあるのです。
    中学に合格すれば、高校受験・大学受験の苦労はなくなる。
    勉強・勉強と追い込まれることなく、楽しい学園生活を満喫できる。
    そう思っていた子が多かったのではないでしょうか。

    楽ができると思っていたのに、むしろ勉強は大変になった。
    勉強しなさいと親は言うが、何を言っているのか?
    苦しい思いをして中学受験をしたのは何のためか?
    中学・高校で楽ができるから。
    そうだったんじゃないの?

    ・・・中学・高校で楽ができる。
    保護者の方に実際にそう言われたのでしょうか?
    何となく自分でそう思い込んでしまったのでしょうか?
    小学生のうちに勉強でこんなに苦労するのだから、後は楽になる。
    そう思いたい気持ちは、わからなくはありません。

    しかし、大多数の中学受験生は、中高一貫校に入学後、さらに大学受験をするのです。
    大学進学実績で定評のある中高一貫校だから受験したのです。
    あるいは、大学までエスカレーターで進める中学を第一志望とはしたものの、そこには合格できなかった。
    志望校を変更せざるを得なかった。
    結果、また、大学は受験しなければならない。
    そういうこともあるでしょう。

    保護者の方は、すぐに気持ちを切り替えて、大学受験のためにも、この中高一貫校に通うことは意味がある、と考えるでしょう。
    けれど、子どもはそうはいかないのかもしれません。
    3年も受験勉強で苦労したのです。
    小学生のときの3年は、長いです。

    それまで生きていた人生の中の何分の1であるかが「時間」というものの実感を生むとする説があります。
    子どもの頃は、1日が長く、1年もとてつもなく長かった記憶があります。
    年をとればとるほど、年月の過ぎるのがあまりにも早い。
    その実感は、例えば、40歳の人にとって、この1年は、人生の40分の1に過ぎない、といった時間感覚から来ているというのです。
    その考えでいくと、小学生のときの3年間は、3/12=1/4。
    人生の1/4を受験勉強してきたのです。
    それは、40歳の人にとって10年にあたります。
    小学生は、体感としては、大人の感じる10年間、受験勉強をしてきたのです。
    燃え尽きてしまう子が多くても不思議はありません。
    中学に合格したらもう勉強しなくていいはずだと思ってしまう子がいてもおかしくありません。
    少なくとも、まさか受験勉強していた頃よりも、中学入学後のほうが勉強しなければならないとは予想していなかったでしょう。

    実際は、中学受験のための受験勉強なんて、中学や高校の勉強と比べれば、易しいのです。
    特に今は、詰め込み型の受験塾は子どもを潰してしまうからと敬遠される傾向があり、宿題も少ない塾が多いです。
    昔と比べると、受験勉強が「ぬるくなった」感は否めません。
    それですら、小学生にとっては、辛く苦しい受験勉強です。

    繰り返しますが、中高一貫校に入学すると、最初の2年間で中学の学習内容を終え、中3からは高校の学習内容に入ります。
    その「中学の学習内容」も、発展的なテキストで難しい内容を2年間で習得します。
    想像を絶するボリュームと難度の学習内容を課せられるという覚悟が必要です。
    中学に合格すれば楽になる?
    ・・・いえ、公立中学に通ったほうが勉強は楽だと思います。
    基本を丁寧に学習できますから。

    中学に合格すれば楽になる。
    このことを、大人と子どもは別の意味にとらえています。
    大人は、「大学進学の可能性が高まる」「将来の可能性が広がる」といった意味で、「楽になる」と言います。
    しかし、子どもは、中学に合格すればもう今みたいに勉強しなくてもいいと誤解してしまうことがあります。
    そして、大人は、子どものその誤解に気づいていて、あえてその誤解を解かないこともあります。
    中学に合格したら、より大変な勉強が始まる。
    そんなことがわかったら、中学受験のモチベーションを維持できないと考えてしまうからかもしれません。
    小学生の今でさえ勉強が嫌いな様子の子に、中学受験のモチベーションを維持させるには、「中学に入れば、勉強しなくて済む」といった誤解をそのままにしておくほうがいいのではないか・・・。
    そう思ってしまう気持ちもわかります。
    しかし、それはまずいです。

    体感では10年に及ぶ長い受験勉強に耐え、合格したのです。
    もう勉強はしたくない。
    そのために頑張ったのだから。
    中学に入った後まで勉強しろと言われても、意味がわからない。
    中学の勉強がこんなに難しいなんて聞いていなかった。
    合格さえすれば、中学の勉強はもっと簡単だと思っていた。
    いや、そんな理屈をこねるつもりもない。
    ただ、もう勉強はしたくない。
    勉強はしたくない・・・。
    大学受験が近づいたら、また考えるかもしれないけれど、今は勉強はしたくない・・・。

    そんな様子の子を何人も何人も見てきました。

    中学受験をしても、勉強は楽になりません。
    むしろ、より難しく、より大変になります。
    せめて、保護者の方は、それを知っていてください。
    「中学さえ受かれば」
    と言葉にしなくても、保護者の方が内心でそう思っていれば、子どもは必ずそれを察します。
    中学入学後に「勉強しなさい」という親に、不信感を抱きます。
    より難しく、より大変で、より深く面白いことを学ぶために、中学を受験するのです。
    楽をするために中学を受けるわけではありません。
    そのことを理解していないと、入学後の現実に耐えられないと思います。

      


  • Posted by セギ at 16:03Comments(0)講師日記

    2019年01月01日

    2学期期末テスト結果出ました。2018年。



    明けましておめでとうございます。
    昨年中は大変お世話になりました。
    本年もよろしくお願いいたします。

    さて、2学期末テスト結果、出ました。
    数学 90点台 1人 80点台 3人 60点台 2人 
    英語 90点台 2人 40点台 1人

    テストの難度に左右されず安定して高い得点を取れるようになった人が多いです。
    数学では、特に女子生徒の数学的開眼が今年は続きました。
    思考力が高まり、初めて見る応用問題も自力で解決できる子が多くなりました。

    今回、英語の新入生が、まずは40点台から出発しました。
    家で英語を勉強する習慣がないようです。
    学校で週に一度ある単語テストや熟語テストの勉強もしたことがないと本人は言います。
    それが積もり積もって、英語表現の教科書の基本例文の単語も意味がわからないものがあります。
    文法に興味がないので、SとかVとか、全く意味がわからないと言います。
    英語だけでなく、勉強は一夜漬けの短期記憶が習い性になっている様子です。
    記憶を簡単に消してすぐに次の知識を入れるような仕組みに脳が出来上がっているのか、短期記憶能力は極めて高いのです。
    一方すぐに忘れて脳の記憶容量を空ける習慣があるのか、全てのことが長期の記憶になりにくい様子です。
    状況から考えて、そんなに簡単に成績が上がるとは思えません。
    1週間前に授業中に完璧にマスターしたことを、1週間後、なぜこうも完全に忘れることができるのか不思議なほどに、脳が全てを消去しています。
    また一から説明し直しでびっくりすることもしばしばです。

    家庭学習の習慣がないというのは本当に大変なことで、宿題を出したところでやってきませんから、塾にいる時間だけが勉強している時間になります。
    本人の日常生活のタイムテーブルに家で勉強する時間が設定されていないのでしょう。
    「勉強しなくちゃ」と本人はぼんやり思っていても、普段通りの日常を過ごしていると、1日は勉強時間ゼロで終わっていきます。
    日常習慣を変える必要があります。
    これは、口で言うほど簡単なことではありません。
    他の予定で埋まっているどこかの時間を勉強の時間に変えなければなりません。
    勉強が好きなこと・やりたいことならば、1日の中に勉強時間がないということはそもそも起こりません。
    勉強が嫌いなこと・避けたいことだから、そうなっています。

    とはいえ、生まれつき頭がいい。
    家で勉強なんかしなくても、ある程度までは何とかなるほどに頭がいいのです。
    小学生の頃は、家庭学習などゼロ時間でも、どうにでもなったのでしょう。
    中学生の頃は、テスト前だけちょろっと勉強すれば何とかなったのだと思います。
    高校の英語の定期テストで勉強しないで40点台というのは、ある意味凄いです。
    惜しい才能です・・・。
    これで子どもの頃から学習習慣があったなら、何でも望めたものを。
    勉強することの楽しさを子どもの頃から知っていたなら、誰が止めても勉強していたでしょうに。

    この冬休み。
    学校からは宿題プリントが沢山出ましたが、自力では解けないというので、塾で一緒に解いています。
    宿題プリントは何かのテキストのコピーを印刷機で中質紙に印刷したもののようで、字が小さく、しかもにじんでいます。
    逆さに見ながら一緒に解くのは、さすがに目の酷使となり耐えられません。
    本人に問題を読み上げてもらい、私は目を閉じてそれを聞いています。
    目を閉じて聞き取れないような読み方はしないようにと、その指導を兼ねています。
    入塾前に学校で学習した「不定詞」のプリントは、1問1問、私の助言なしでは先に進みませんでした。
    入塾後に学習した「動名詞」「分詞」も、最初は読み上げていたのですが、気がつくと黙って解いている時間が多くなりました。
    自力で解けるようです。
    私に教えてもらう必要がないから、読むのをやめてしまったのです。
    ・・・おや?
    脳が知識を消去していない。
    学習済みの文法問題は、自力で解けるようになっている・・・。

    今は高校の定期テストの多くが、毎週の単語テスト・熟語テストがそのまま定期テストの範囲になっているためテスト範囲が広く、その他に応用問題の配点も高いです。
    そんなに簡単に高得点が取れる仕組みになっていません。
    本当に英語力のある人しか、高い得点は取れません。
    とはいえ、成果の一端は見え始めている。
    そう感じる冬期講習です。
      


  • Posted by セギ at 14:57Comments(0)講師日記

    2018年11月14日

    2学期中間テスト結果出ました。2018年。



    2学期中間テストの結果が出揃いました。
    数学 80点台 2人 70点台 2人 60点台 2人 
    英語 90点台 2人

    数学は90点台こそ逃しましたが、高めに安定してきています。
    英語も好調です。ヽ(^。^)ノ

    さて、公立中学はもう期末テストの時期です。
    しかし、相変わらずテスト勉強のやり方を知らない子もいると思います。

    三頭山に行くバスの中でのこと。
    混雑したバスの中はグループごとのおしゃべりでアナウンスが聞こえにくいほど賑やかでした。
    その中で若い女性2人の話し声が、私の近くの席だったこともあり、特によく聞こえてきました。
    話の内容から察するに、2人とも高校の先生のようでした。
    せっかく日曜日に山に遊びに行くのに、話の内容は教育論。
    それで気分転換になるのかなあと心配になるのですが、学校で意見を通すにはまだ若過ぎるので、対等に教育論を交わせる相手ととことん話すのは、ある意味ストレス解消なのかもしれません。
    その中で、ちょっと面白かった会話。
    「成績の悪い子って、ノート、きれいだよね」
    「何であんなにきれいにノートを作って、あんなに成績悪いんだろうって思うよね」
    「ノート作りが目的になっちゃっているんだろうね。違うのにね」

    学校の先生が、そんなことをバスの中で大声で言う是非というのはあると思います。
    でも、生徒のことを心配して言っている気持ちも本物だと思うんです。
    私も実感として知っています。
    ノートがやたらにきれいで勉強ができない子は一定の割合で存在します。

    以前、勤めていた集団指導塾でのこと。
    明日は定期テストという子ばかりだったので、普段の授業は中止し、自習に切り替えていた日のことでした。
    英語や数学は、テスト前日は最終チェックと微調整をすればいいだけなので、テスト前日は、案外やることがありません。
    生徒も、理科や社会の勉強をやりたがります。
    自習している様子を見ていると、ある女子生徒が、ノートに、それはそれは精密な細胞の図を描いていました。
    教科書に描いてある、動物細胞と植物細胞の図です。

    「それ、何にするの?」と訊くと、
    「明日の1時間目は自習だから、これを見て、覚える」
    と言うのです。
    覚えるのなら、今、教科書を見て直接覚えたらいいのに、彼女は図を描くのにとにかく夢中なのでした。

    覚えるためのノートを作らないと覚えられないという人は、います。
    しかし、それは少なくともテスト1週間前には完成させておくものです。
    それを見て暗記するのに、また時間がかかりますから。
    テスト前日に精密な図を描いているのは、学習の方向性にかなり疑問を感じます。
    覚えることが最優先のはずです。
    きれいなノートを作ることが目的ではありません。

    他の子が、理科のプリントが欲しい、と言いだしたので、私は全員にテスト範囲の一問一答形式のプリントを渡しました。
    幸い、その子もプリントを受け入れてくれたのですが、今度は手が動きません。
    テスト範囲の重要事項や用語をまとめた、簡単なプリントでした。
    なのに、1問も解けない様子です。
    しばらくして解答を渡すと、彼女はプリントに解答を丁寧に写し始めました。
    きれいな字で、丁寧に、丁寧に。
    そして、全てに赤丸をつけて、プリント作業終了。

    学習の方向が、間違っているのです。
    暗記する。
    問題を解いてみる。
    間違えたところをチェックして、覚えなおす。
    問題を再度解く。

    こういう当たり前の勉強方法を、その子は知らない様子でした。
    あるいは、知っていたのかもしれません。
    でも、その勉強方法は、その子にとっては、とても苦しいのでしょう。
    なかなか覚えられない自分。
    問題を解けば、間違いだらけの自分。
    ダメな自分。
    そういうものと向き合う作業になります。

    それは、どんな秀才だって、最初はそうなのです。
    訓練しているから、そういう作業が速くスムーズになっているだけです。
    でも、その子は、それを知らない。
    あるいは、そう説明されても信じない。
    そういう作業に、立ち向かえない。
    逃げてしまって、頭を使わない作業ばかりしてしまう。
    ほとんど頭を使っていない作業を「勉強している」と称してしまうのです。

    このように、やけにきれいなノートを作ったり、解答を見ながらプリントに答えを埋めたりと、何か作業はしているけれど実質的な勉強はしていない子が、勉強のできない子には多いと私も思います。


    また別のとき、英語の勉強の仕方がよくわからないという質問を受け、その子のコミュニケーション英語のノートを見せてもらいました。
    これは使えないノートだ・・・とため息がもれました。
    まず教科書の英文をノートに3行おきに書いてあります。
    その英文の真下に、和訳が書いてあります。
    英文には、学校の授業中に説明のあった文法事項や指示語の指示内容などがカラフルに書き加えてありました。

    え?
    良いノートじゃないかって?

    ・・・いいえ。
    そのノートを、その後、何に使うのでしょう?
    テスト前に繰り返し眺めるだけでしょうか?
    眺めるだけで、覚えられるのでしょうか?
    本当に覚えているかどうか、そのノートで確かめられるのでしょうか?

    それを考えると、そのノートの体裁はベストではないのです。

    ノートの見開き左側に英文。
    右側にその和訳。

    そういうノートの形式を指示しますと「何だ、古臭いな」という声もあるかと思います。
    これを古いと感じる人は、このノートの古い使い方をイメージしているのでしょう。
    とにかく教科書の英文をひたすら書き写し、その和訳を右ページに書くのが英語の予習の全て。
    そして、学校の英語のリーディングの授業は、生徒の1人に英文を1段落音読させて、続いて同じ生徒にその1段落を訳させる、眠くなるばかりの授業。
    テストは、新出単語を書く問題の他は、本文の傍線部の和訳ばかり。
    あの英語の授業もテストも、つまらなくて嫌いだったなー。
    あれで英語が嫌いになった。
    ・・・そんな声も聞こえてきそうです。

    ノートはそれと同じ見た目かもしれませんが、やることは英文を眺め、和訳を覚えること、ではありません。
    和訳を見て、教科書本文の英文を復元する作業をします。
    余裕がないなら、重要表現や重要文法事項の含まれている文だけでも。
    余裕があるなら、本文全文を。

    家庭学習で行うことは他にもあります。
    教科書準拠のCDで、教科書本文の朗読を聞いて、内容が聴き取れるか確認します。
    次に、そのCDと一緒に音読。
    同じスピードで同じ発音で音読できることが目標です。

    あるいは、新出単語のスペル練習。
    和訳を見ながら教科書本文を書く作業も、せめて重要文だけはやっておきたいです。
    学校から配られているワークで演習もしなければ。

    英語の家庭学習は、やるべきことが沢山あります。
    しかも、これは「コミュニケーション英語」の学習であって、「英語表現」の学習がこれにさらに加わります。

    ノート作りは、家庭学習をスムーズに行うためのもの。
    ノート作りが目的ではありませんよね。
    だから、学校から禁止されていない限り、英文は教科書をコピーしたものをベタっとノートに貼っても良いと思います。
    新出単語をいちいち辞書で引くことの意義はわかるものの、それに時間を取られ、それが英語学習の全てになるくらいなら、教科書準拠の単語集をささっと写しても構わないと思います。
    ただ、その浮いた時間で必ずその単語を覚えましょう。
    品詞も含めて正確に。
    派生語も覚えておくと完璧です。
    和訳が本当に苦手でひどく時間がかかり、それだけで英語の家庭学習時間の全てが潰れてしまうようなら、ネットの教科書全訳サイトを適宜利用するのだって1案ではあります。

    私の塾では、一度本人に口頭で教科書本文の和訳をしてもらった後、私から全訳を渡しています。
    学校から全訳が配られている場合も今はあります。
    調べものや単なる作業の時間をできるだけ減らし、英語をインプットし活用する時間を増やすためです。
    教科書以外の英文に触れる機会を増やすことも大切です。
    長文問題集や英検問題集をどんどん解きたいですね。
    今の定期テストは、読んだことのない英文も出題される場合がほとんどです。

    この学習方法は、英語学習の最初からそれをやっていれば、抵抗は少ないのです。
    教科書本文は徐々に長くなっていきますが、長年の継続の中で徐々に長くなっていったものには耐えられます。
    中3、あるいは高校生になって、突然この学習方法に切り替えると、最初はひどく苦しく感じると思います。
    苦しいことからは逃れたい。
    どうやって逃れるか?
    「こんなことをやっても意味がない」と理論武装する子がいます。
    本人が効果を実感し、積極的にこの学習方法を取り入れるまでは、このやり方を受け入れてほしいこちら側と、何とか否定したい生徒側との闘争が続きます。
    本来、英語が得意になりたいと望んでいるのは生徒のはずですが、その生徒が最大の障壁となることがあります。

    水は低きに流れる・・・。
    嫌いなことわざですが、一面真理ではあるのでしょう。
    教科書全訳はちゃっかり受け取り、サブテキストの全訳もほしいと要求するけれど、その和訳から英語に直す練習はしない。
    音読練習もしない。
    長文問題は「わからなかった」と言って、解いてこない。
    「英語にそんなに時間はかけられないから」
    とうそぶいて、スマホを眺めて1日過ごす子もいるかもしれません。

    しかし、私は問い続けます。
    学校の教科書の英文だけなら勉強した後にそこそこ意味がわかるくらいの英語力がほしいのですか?
    定期テストを何とかこなし、高校卒業の資格がほしいだけですか?
    それとも、次元の違う英語力がほしいのですか?

    英語教育改革の足音は近づいています。
      


  • Posted by セギ at 14:34Comments(0)講師日記英語

    2018年09月13日

    聴き取る力・読み取る力。


    今朝、ラジオを聴いていたら、季節に関するひと口情報的なコーナーでこんな会話がなされました。
    1人はアナウンサーで、用意された原稿を読んでいます。
    アナウンサー「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません。本来はそのまま『あきざくら』と読み、これがコスモスの和名とされています。この漢字2文字でもコスモスという読み方が広まったのは、1977年の山口百恵さんのヒット曲『秋桜』がきっかけだと言われているんですね」
    パーソナリティー「これね、いつも諸説ありをぶつぶついうのが好きなんですけど、そうじゃない説を今思っていて」
    アナ「さだまさしさんが作詞作曲されたこの『秋桜』・・・」
    パーソ「コスモスは昔からあるよ。私たちが小学生のときから、コスモスはコスモス。そう言ってたよ。さだまさしさんが逆にコスモスを秋桜と書くのを最初にやったみたいな説ありましたよね。それで聞いているから。これとはちょっと食い違う」

    放送を聴いたときも、録音をこうして文字に起こして何回も読み直しても、このパーソナリティーが何にケチをつけて「逆に」と言っているのか、よくわからないのです。
    この情報を整理すると、コスモスの和名は「あきざくら」。
    「秋桜」と書いてコスモスと読ませた最初の人は、さだまさし。
    アナウンサーが読んでいる原稿も、パーソナリティーが「諸説ありだ」と言っていることも、同じ内容に思えるのです。

    このパーソナリティーは、何を言いたかったのでしょう?
    何かを誤解したのでしょうか?
    このパーソナリティーが?
    それとも私が?

    ラジオを長年、というより話芸を長年やっている人が、何かを聴き取り間違えたのではないか?
    「コスモス」という花の名前を広めたのがさだまさしだという説をアナウンサーが読んだと誤解したのでしょうか?
    その前までは人々はあの花を「あきざくら」と呼んでいたと聴き取り間違えて、いや、そんなことはない、と感じたのでしょうか。
    あるいは、「コスモス」という西洋の名称にさだまさしが「秋桜」という漢字を選んで充てたのであって、「あきざくら」という和名など存在しない、と言っているのか?

    そう悩みながらアナウンサーの原稿を読み直すと、そういう様ざまな解釈を招く隙がこの原稿にはあるのだと気づきます。

    誤解の分岐点は、
    「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません」
    「この漢字2文字でも『コスモス』という読み方が広まったのは」
    というところだと思います。
    ここに違和感を抱く人が多い。
    「コスモスと読まれる方が多いかもしれません」という言い方は、それは間違っていますよ、というニュアンスがあり、反論されやすい物言いなのでしょう。
    「コスモスと呼ばれる方が多いかもしれません」
    「『コスモス』という呼び名が広まったのは」
    と聞き間違える可能性も高く、そうなると意味が全く変わってしまうのです。
    自分が以前から思っていたことを否定されたように感じると、いや、それは諸説ありだ、自分の知っていることはこうだ、と主張したい気持ちにもなります。
    アナウンサーは、パーソナリティーよりもずっと若いので、いや、それは同じことなんじゃないですかと反論はしませんでした。
    1977年なんて生まれてもいないでしょうから、それ以前にあの花を「コスモス」と呼んだかどうか、「あきざくら」という和名が存在したかどうかなんて本人は知らないのですし。
    ああ、そうかもしれませんね、と受け流して先に進んでいきました。
    聞いている私は、取り残されて、朝からモヤモヤしてしまいました。

    ラジオだから?
    音声だから、情報が正確に伝わらないのだろうか?
    文字情報のほうが、確実なのか?

    しかし、そうとばかりも言えません。
    先日、北海道で大きな地震があり、それに伴って大規模な停電が起こりました。
    電力的には今も綱渡りの状態が続き、北海道では計画停電を実施する可能性もあるそうです。
    そうなると、「原子力発電所を動かしていればこんなことにならなかったのだ」という意見を口にする人もいます。
    北海道の泊原発は安全基準を満たしていないから、そもそも稼働できないそうですが、それはともかく。
    気になるのは、「泊原発」を「柏原発」とネットで書いている人がいること。
    「泊」と「柏」は文字としては似ています。
    肉筆の場合は、たまたま書き間違える可能性はあります。
    しかし、ネットで「柏原発」と打ち込むには、「かしわげんぱつ」と入力しないと無理です。
    つまり、最初から読み間違えていないと、この書き間違いは起こらない。
    そういう人たちにとって、北海道の原発は、その存在すら実は予備知識になく、むしろ原発といえば、新潟県の柏崎の原発のほうがまだしも名前の見覚えがあったのかもしれません。
    その連想もあって「かしわ原発」になってしまっているのでしょうか。

    そうした読み間違いや勘違いがなぜ訂正もされずその人の中でそのままになってしまうのか?
    ネットで「柏原発」と書いている人は、テレビやラジオでニュースを確認したことが一度もないからでしょうか?
    ネットでしか情報を得ていないのではないか?
    音声を伴う情報に触れないので、読み間違いが永遠に訂正されないのです。
    このように、文字情報だけの場合も、ある種の危うさがあります。

    昔、ネットにアクセスできない人を「情報弱者」と呼びました。
    今は、ネットでしか情報を得ない、新しい種類の情報弱者が生まれているのかもしれません。

    社会問題としてこれを論じているのではなく、私が気になるのは、やはり身近な話です。
    生徒は私の音声による解説をどこまで正確に聴き取ることができているのだろうか?
    私はどこまで正確に情報を伝達できているだろうか?

    また、生徒は、テキストに書いてある文字情報をどこまで正しく読めているのだろうか?

    相変わらず、
    「問題を読みましょう」
    「問題文に全部書いてあるよ」
    「設問を読みとばしたでしょう?大事な条件がここに書いてあるよ」
    と生徒に繰り返す日々ですが、問題文を読み取れないだけでなく、私のそうした音声による助言も情報として正確に聴き取れない子がもしいるとしたら、一体どうしたらよいのだろう?

    音声による情報も、文字による情報も、思っているよりも脆弱で、相手が誤解する可能性を常にはらんでいます。
    自分が何か誤解していないか。
    相手が何か誤解していないか。
    常にその可能性を探りながら、さらに細心の注意をもって情報の伝達をしていかなければ。
    改めてそう感じた秋の初めの朝でした。

    北海道だけでなく、大雨や台風の被災地もまだ苦しい毎日と思います。
    被害の様子を知る度、2011年を思い出します。
    心よりお見舞い申し上げます。
      


  • Posted by セギ at 13:27Comments(0)講師日記

    2018年09月03日

    勉強に向いている性格。



    先日、ネット記事を眺めておりましたら、「性格の悪い子は成績も悪い」というタイトルの記事を見つけました。
    こういう記事は閲覧数を稼ぐためにキャッチーで過激なタイトルをつけるもので、記事の内容はそんなにひどいものではないのだろうと一応読んだら、内容もそのままだったので驚きました。

    大手の塾の経営者の発言をまとめた記事でした。
    いわく、大人の指導に素直に従う子は伸びる。
    大人の言うことを素直に聞けない子は、指導を無視して勝手なことをするので、間違った勉強をして、成績が上がらない。
    すなわち、性格の悪い子は、成績が悪いのだ。

    言っていることは、部分的にわからないこともないのです。
    しかし、この言い方・・・。
    「俺の言うことさえ聞いていればいいんだ。そうすれば、成績は上がる。成績が上がらないのは、俺の言うことを聞かないからだ」
    そうした呪いの言葉に思えます。
    これほど言葉はひどくないけれど、結局、自分も同じようなことを言ってしまっていないか、考え込んでしまいました。

    私が以前に勤めていた集団指導塾は、私が勤務した頃には地域密着型の穏やかで小さな学習塾でした。
    しかし、スパルタ式の教育で近隣に名を馳せ、教室をいくつも広げるほどに躍進していた時代があったと、昔から勤めている講師に聞いたことがあります。
    宿題をやってこない子に対しては、男女関係なく、皆の前でビンタをしたそうです。
    その恐怖と恥ずかしさを思えば、誰もが必死に宿題をやってくるようになります。
    必死に宿題をやれば、成績が上がる。
    成績が上がれば、保護者は満足。
    塾にクレームをつけません。
    「やり方が気に入らないなら、どうぞ退会してください。
    うちの塾に通っていれば、しかし、成績は上がるんですよ」
    そういう形で実績を上げた塾だったというのです。

    大人の言うことを聞かない子どもは多いですが、そういう子ほど、恐怖と暴力で支配すれば簡単に従うのも事実です。
    いえ、大人も、恐怖と暴力の支配から逃れられる人は少ないでしょう。
    歴史がそれを証明しています。
    だからこそ、私たちは、用心に用心を重ね、そうしたことが起こらないようにアンテナを張っていなければなりません。

    「性格の悪い子は、成績が悪い」
    この発言は、そうした暴力的支配が許されなくなった時代に、それでも子どもを従わせたい人の苦しまぎれの物言いに思えます。
    ここでいう「性格が悪い」は、指導者にとって都合の悪い性格という意味に過ぎません。
    「性格の良い子」というのは、指導者にとって都合の良い性格の子ということです。
    言うことを聞かない子をどのように説得し、効果的な学習方法を伝えるか。
    そこで勝負しないで、子どもの性格のせいにしてどうするんだろう・・・。


    この夏、教室の入っているビルは大規模な外壁工事が行われました。
    通路も教室のドアも塗り替えられてピカピカです。
    4年前、今回ほどの規模ではないですが、ある土曜日、通路の床に防水加工の工事が行われたことがありました。
    しかし、うちの塾は土曜日も営業しています。
    業者の人と相談の結果、エレベーターからうちの教室の前まで養生をしてくれて、そこを通って教室に入れるようになりました。
    私は保護者にメールで連絡しました。
    「本日、うちの教室前の通路は塗装工事が行われております。エレベーターから教室の入口まで、養生してあるところを歩いてきてください」
    これで大丈夫でしょう。

    ところが、ここで不測の事態が発生しました。
    そのメールの内容をお母様から伝えられた生徒は、外階段からやってきてしまったのです。
    ('_')

    「エレベーターから教室入口まで、かなり歩きにくい状態になっているようだ」
    というふうに情報を読んで、
    「じゃあ、階段からなら、歩けるんじゃないか」
    という発想になったのでしょう。

    いやいやいや。
    「エレベーターから教室入口までなら、歩ける。他に歩ける道はない」
    というのが、私の伝えたかったことだったのですが。

    というよりも、そのとき、私の中に階段という発想はなかったのです。

    これは私の思考の癖なのかもしれません。
    業者さんに、
    「エレベーターから、この部屋の入口まで、通れるようにしますから」
    と言われれば、
    「なるほど、エレベーターからここまで、通れるのだな」
    と、そのまま受け止めます。
    「エレベーター」という言葉が思考のフックとなり、もうそれ以外の選択肢は念頭から消えます。
    相手が通れるようにしてくれている、その通りにやっていれば、間違いはない。
    はみ出す必要はない。

    そして、勉強をする上で、この考え方は楽だし、合理的なんです。
    解説を聞いて、あるいは解説を読んで、まずはその通りに再現する。
    その再現の正確さが、理解力。
    勉強する内容は、数千年の人類の叡智です。
    私の単なる思いつきが簡単に凌駕するわけがありません。
    現代科学の最善で最高の内容を教わっているのです。
    言われた通りに再現できることが、まず必要。

    とはいえ、
    「だから学校の秀才の考えることはつまらないんだ」
    と言われれば、それもその通りなのです。
    言われたことを言われた通りにやるのではなく、思ってもいなかった方向から発想できる人は、かっこいいですよね。
    少数のそういう人が文明を牽引し、そして、それを多くの秀才が再生して、世の中は進んでいくのだと思います。

    ただ、階段を使うという発想は、そういうユニークで魅力的なものなのかというと、そうではないように思います。
    それは、たとえ思いついても、総合的に判断して、自分で却下したほうがいいのです。
    階段を使えるのなら、最初からそういう誘導をします。
    階段の先は塗装直後で、一歩も先に進めなかったのです。

    相手が口にしないことを自分が思いつくと、思いついた途端に「それこそが最善」という思考の飛躍を起こす子がいるのではないか。


    また別の子の話ですが、英語の「受動態」をなかなか理解できない中学2年生がかつていました。
    最初の授業では、正確に理解したのです。
    基本的に頭の回転の速い子で、その場では器用に身につけることができました。
    しかし、家で復習する習慣がなく、宿題は、次の塾の日の直前に慌ててやってくる子でした。
    1週間経ってからでは、たいていのことは頭から抜け落ちています。
    宿題は間違いが多く、そうなると混乱し、わかったはずのことがわからなくなっていくようでした。
    1週間、また1週間、むしろ、どんどん「受動態」がわからなくなっていくのです。
    とうとう、簡単な穴埋め問題も解けなくなってしまいました。

    問題 次の空所に適切な語を補いなさい。
    (1) その歌は若い人たちに愛されている。
     The song (  )(   )among young people.
    (2) この本は10年前に書かれた。
     This book (  )(   )ten years ago.

    こういった、ごく簡単な穴埋め問題です。
    (1)の答えは、is loved
    (2)の答えは、was written
    be動詞と過去分詞を空所に埋めるだけの、受動態のテストとしては何のひねりもない基本問題でしたが、全問不正解でした。
    そこに全て過去分詞とbyを入れていたのです。
    (1)は、loved by
    (2)は、written by  と。

    「・・・・・・何で、by?」
    「だって、受動態は、必ずbyを使うし」
    と、その子は言いました。
    「・・・・・・そんなふうに教わった?」
    「自分で気がついたよ。頭いいー」
    「受動態かどうかは、動詞の形で決まるんだよ」
    「だって、byを使うでしょう?」
    「使わない受動態は、たくさんあるよ」
    「えー?なんでー?」

    ・・・・・教わったことを教わった通りに再生していれば、早いのになあ。
    なんで、別のルールを自分で見つけてしまうのかなあ。

    しかし、それは思考の癖のようなもので、
    「なぜ?」
    と問われても自分で説明できないし、
    「そのような考え方はやめなさい」
    と言われても、やめられるものでもないのでしょう。

    何か1つの情報を与えられたときに、いくつもの選択肢を発想すること自体は、むしろ良いことです。
    問題は、その選択肢のうち、妥当ではないものを消去する判断力をもつこと。
    「自分の思いついたことだから、正しい」
    というバイアスがかからない総合的な視野を持つこと。

    でも、子どもに総合的な視野を求めても難しい。
    総合的な視野に乏しいから、それを身につけるために勉強しているんです。

    結局、「A」と言われたときに「B」の発想をし、それに沿って問題を解決しようとしてしまうのは思考の癖です。
    性格が良いとか悪いとか、そういうことでなく、思考の癖。行動の癖。
    良い勉強法を教わっても、聞き流して、実行しない。
    これだけは覚えなさいと言われても、覚えない。
    「A」の提案に対して、常に「B」という案を本人は思いつき、大人の言う通りにすることに意味を感じない。
    ピントがズレている間は成績向上の邪魔になりますが、ピントが合えば大きな潜在能力かもしれません。

    この子の性格にあった勉強のやり方は、どういうものだろう?
    どう説明すれば「A」と教えたときに「B」と発想せず、「A」のまま伝えることができるのだろう?
    そのように考えていくのが建設的だと思うんです。
    「性格が悪い」と子どもをなじって自分の責任を回避するよりも。
      


  • Posted by セギ at 16:25Comments(0)講師日記

    2018年07月29日

    1学期末テスト結果集計出ました。2018年。





    1学期中間テストの結果が出ました。

    数学 90点台 2人 80点台 2人 60点台 3人 50点台 1人

    英語 90点台 2人 

    じわじわと全員の得点が上がり、定期テストでは開校以来の高得点が続いています。
    まだまだ、もっと得点は上がると期待できる、伸びしろの大きい生徒さんも複数います。
    今回も、高校数学で満点が出ました。ヽ(^。^)ノ
    数学は2科目の平均点を記してあるので、平均だと90点台になってしまうのが勿体ない。
    高校英語も2科目の平均点を記してあります。
    120点満点の学校は、100点満点に換算してあります。


    来たる大学入試改革。
    さらに今年度の大学入試の結果。
    既に報道されていますので、ご承知の方も多いでしょうが、今年は首都圏の私立大学入試は激戦でした。
    理由は端的に、合格者数が絞られたこと。
    入学定員を厳密に守らないと大学は国から補助金をもらえなくなるため、今までのように多めの水増し合格者を出すことが年々できなくなっています。
    つまりは、それだけ合格率は低くなっています。
    そうなると、偏差値の高い受験生がすべり止めを今までよりも多く受けるので、上から順にどんどん受験生が押し出され、これまでは比較的合格しやすいと言われていた大学も厳しくなっています。
    今年の受験に関しては、私もそれを実感しました。
    え、何でこの子が、この大学に落ちるの?ということは実際にありました。
    以前なら模試でB判定ならほぼ合格しました。
    今年は、模試でA判定でも合格するとは限らない。
    それほど厳しい入試でした。
    少子化で大学全入時代と言われていたのに、・・・・。
    AO入試や推薦入試に受験生が多く流れるのも、頷ける事態です。

    こうしたことも遠因なのでしょうか。
    中学も高校も、今年の定期テストは問題の量が増えた学校が多いと感じます。
    公立中学の数学の定期テストが大問15まであったりします。
    なぜ、こんなに問題数が多いのでしょう?
    数学のテストの配点が1問あたり1点とか2点なのです。

    従来は、大問8程度で典型題のみ、最後の1題だけ発展問題というテスト形式が多かったのです。
    しかし、それでは、解き方の手順を暗記して解いているだけの子が高得点になり、「5」を取る場合がありました。
    そうした子は、手順を暗記して解いているだけなので、理解していない可能性が高く、テストが終われば解き方ごと全部忘れてしまうことがありました。
    同じ公式や定理を使う問題でも少し形が変わっただけで全く対応できない学力の子の場合もありました。
    そういう子が「5」で良いのか?

    それはわかります。
    しかし、今のように小問が50問あるような数学のテストですと、最後まで到達できない子が多くなります。
    知能テストのようです。
    とにかくスピードだけが問われ、じっくり考えるタイプの子は得点できません。

    うちの塾にも、じっくりタイプの子がいます。
    説明してもヒントを出しても反応がないので、わからないのかなあと思いながら様子を見ていると、驚くほど遅いタイミングで、しかし確実に解き始める子はいます。
    わからないのではないのです。
    時間がかかるだけなのです。
    計算も、1行1行何かを確かめながら解いているので、時間がかかります。
    正直、計算は、頭ではなく手が計算するように機械的に処理してほしい。
    教える側としてそれも本音ですが、1つ1つ頭の中で何かを確かめながら計算しているのは、わかっていないということではありません。
    こういうタイプの子は、時間を切られると、プレッシャーを受け、本来の実力を発揮できません。
    いつものペースでじっくり解いていれば、最後まで解けなくても80点は取れるはずですが、問題の多さに慌て、パニックに陥り、計算ミスを多発し、しかも、それを見直す時間もなく、実力を発揮できずに終わってしまいます。

    そういう子は入試で実力を発揮できない。
    だから評価が低くなっても、入試得点とのズレがなくなり、むしろ正確な評価だ。
    このテスト形式は意味がある。
    テストに強い子が誰であるかを明確にできるのが、今のテストの形式。

    そういうことも、わからなくはありません。
    現行のセンター試験の数学も、時間配分を失敗したら、ほぼ終わりですから。
    スピードは重要です。

    でも、・・・・本当に?
    計算スピードと正確さでいったら、人間はコンピュータにかないません。
    では、コンピュータのほうが、人間より数学ができるということでOKですか?
    そちらの方向で勝負しないために、思考力を問う教育や考える授業が重視されようとしているのではないのですか?
    何でテストが大量の問題をフルスピードで解く競争になってしまうのでしょう?

    知能テストなら、それでいいのです。
    でも、数学の定期テストは、知能テストではないと思うのです。

    慌てなければ正解できる基本問題を計算ミスでポロポロ取りこぼしている。
    でも、後半の発展問題の立式は正しい。
    証明問題も、少し減点はあるが、答案の形になっている。
    ただ、結局、得点はパッとしない。

    そうした子の数学力は、少なくとも以前よりは確実に伸びていると思うのです。
    特に、考える力が育っています。
    文章題を見ただけで諦めていた頃とは違う。
    でも、それを評価する手立てがありません。

    アクティブラーニングもそうでしょう。
    グループワーク。
    ディスカッション。
    それも、その場での瞬発力やスピードが問われます。
    パッと反応し気の利いた発言ができる子がその場を支配します。
    社会で生きていくには、そういう能力も必要です。
    でも、数学力ってそれなのでしょうか?

    答案を見るたび、色々と考えてしまいます。
    足の速い子が勝つように、計算の速い子が勝つのは、1つの物差しとして正しい。
    でも、物差しはそれ1つではない。
    昨日の自分より数学がわかるようになっていること。
    前よりも、勉強が好きになっていること。
    それも評価されてほしい。
    そうであってほしい。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 13:05Comments(0)講師日記

    2018年06月10日

    1学期中間テストの結果が出ました。2018年。


    2018年1学期中間テストの結果集計出ました。

    数学 90点台 1人  70点台 2人  60点台 3人  50点台 1人
    英語 90点台1人              60点台 1人

    高めに安定している子と、急成長している子と。
    今回も頼もしい結果となりました。

    国公立・私立に通う高校生に多いのですが、過去、なかなか成績が上昇しなかった子の主な要因は、本人が学校の教材に拘泥していたことでした。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがるのでした。

    数学の場合、国公立・私立の学校の教材はボリュームがあるのは事実です。
    学校は毎日の家庭学習が十分にできるような分量の教材を用意しています。
    それをテスト前までため込むので、消化しきれない子がいます。
    数学が苦手な子に対しては、塾の授業は塾用テキストで解説・演習し、塾から出す宿題は学校の問題集からにして、テスト1週間前までに最低1回は学校の問題集が終わるようにスケジュールを組みます。
    しかし、その宿題を解いてこない子がいました。
    「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
    それを次の授業中に解かなければならなくなります。
    次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
    スケジュールが遅れていき、やがて、塾の授業も学校の問題集を解いていくだけになってしまうことがありました。

    本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えているのでしょうが、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
    週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいいから」と言い訳して、現実から目を逸らしてしまう子がいます。
    本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないのです。
    ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこないのです。

    テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
    塾の授業はテストまで何回あるのか?
    そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
    とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
    そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていく子も過去にはいました。
    定期テスト1週間前になっても、学校の問題集が10ページ以上も残っています。
    それを解答解説を見ながら1回解くことが、数学のテスト勉強の全てになっていました。
    当然、演習量が足りず、数学の成績は前の成績をキープするだけでも至難の業でした。


    英語の場合も同様で、とにかく学校の教材の種類と量が多いのが国公立・私立の傾向です。
    薄い冊子状のテキストを含め、1科目で5~6冊あります。
    学校の英語の予習だけでも大変なので、他のことはやりたくない。
    学校の英語の予習を手伝ってほしい。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    学校の英語の授業に関係のあることだけをやりたい。
    他のことはやりたくない。
    そういう要望につきあっていると、英語学習の中身がどんどん痩せていきます。
    定期テストに初見の長文からの出題があると、それは解けなくなっていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強になり、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなっています。
    もっと間口の広い英語学習をしよう。
    定期テスト直前には学校の進度に合わせてテスト対策をするけれど、それ以外の時間はもっと間口を広くとり、英語力を根本的に鍛えていこうよ。
    そう話すと理解した顔はするのですが、実際にはコミュニケーション英語の教科書本文の予習をしたい。
    薄い冊子のリーディング問題を全訳してほしい。
    英語表現の教科書の問題を予習したい。
    文法・語法の問題集を一緒に解いてほしい。
    というより、答えを教えてほしい。
    そういう痩せた勉強を望むようになっていきます。
    単語暗記の宿題を出しても、やってきません。
    長文読解の宿題を出しても、本気で解いてきません。
    本気でやらないから実力がつかず、じわじわと英語力が落ちていきます。
    学校の定期テストの成績は何とかキープしていたのですが、校外実力テストや模試で英語の偏差値がガクンと下がると、そのショックで塾を辞めたいと言い出します。
    そんなことも過去にはありました。

    現在、授業は上手く回転し、それがテストの得点上昇につながっています。
    学力を鍛えるためには、学校の教材を私が代わりに解いてあげる授業ではダメなのです。
    それは当たり前のことなのですが、個別指導や家庭教師をそういうことができる場所ととらえている子は多いです。
    学校とは別の教材で勉強しなければならないのなら、負担が増えるだけ。
    そう思うのでしょう。
    違うんだけどなあ。
    今、何ができ何ができないかを常に把握している講師の個人指導を受ける圧倒的な強みは、学校の教材で授業してくれるかどうかの次元の話ではないのです。
    むしろ、そんなところに拘泥している学習姿勢だから、成績が上がらないのだと思うのです。
    学習の本質をつかめば、学校の教科書も問題集も今までよりも効率的に自力で学習していけるようになります。
    自力で解けるのならば、家庭学習もあまり負担に感じなくなり、勉強がそれまでほどには苦でなくなります。

    学習に対して視野が狭くなっていると、いずれ必ずその結果が表れてきます。

    学校から配布された問題集を自力で解ける実力を鍛えること。
    学校から配布された問題集をテストまでに二巡する学習習慣を身につけること。
    テストにどんな問題が出るか、重要なところはどこか、自分で判断できる学力を鍛えること。
    そこに向かってさらに精進してまいります。

      


  • Posted by セギ at 12:09Comments(0)講師日記

    2018年04月18日

    自宅では勉強しない主義?


    数年前、高校3年生の女子生徒が、とにかく授業を増やしたい、空いているコマに全部入りたいと言い出したことがありました。
    そのとき、コマは全て埋まっていましたので、そもそも無理な話ではあったのですが、違和感もあり、よくよく話を聞いてみると、『ビリギャル』に影響を受けてのこととわかり、さらに複雑な気持ちになってしまいました。

    学年ビリのビリギャルが、偏差値30上昇して有名大学に合格した話。
    そういえばそんなのがあったなあ、と思い出される方も多いと思います。
    の舞台となった塾は、講師を何人も抱えている個別指導塾のようです。
    システムの詳細はわかりませんが、自習ブースが沢山あり、そこで勉強して疑問点があると講師に質問したり、自習の前後に、あるいは途中に講師と学習内容を打ち合わせたり確認したりする様子です。
    つきっきりの完全1対1の個別指導ではないようでした。
    その自習が「授業」ということで、1コマあたりの授業料が設定されているのですが、年間200万円払うと通い放題なんだとか。
    彼女は、その「通い放題」に憧れたようなのです。

    「また、ビリギャルですか」
    ため息をついた私に、彼女は言いました。
    「ビリギャルはお母さんが200万円出してくれたんだよ。いいなあ。うちなんか・・・」
    「あの本を読んだ最終的な感想が、それですか?」
    「別に、それだけじゃないけどさ・・・。家だと勉強できないんだよ」

    ビルギャルの本に影響を受けて、自分も頑張ればできるようになると思ってくれるのは良い影響です。
    しかし、200万円で塾に通い放題なら自分も勉強ができるようになると思うようでは、がっかりしてしまいます。
    200万円出してくれたお母さんは、良いお母さん。
    あれは、そういう話なんでしょうか?

    その子は、私の提示する英単語暗記1週間分を塾に来る30分前に慌ててやっていました。
    当然、ほとんど暗記できず、
    「無理だ」
    を連発していました。
    家で勉強できないなら、確かにそういう結果になるのです。
    しかし、なぜ家で勉強できないのでしょう?


    今年、高校3年生の女子生徒が、コマを20:00からのに変更したい、空いていないかと問いあわせてきました。
    20:00からのコマは、部活のある中高生に人気の時間帯で、そのコマからほぼ埋まっていきますから、そのときは空いていませんでした。
    それにしても、高校3年生ならもう部活もないので、むしろ夕方明るいうちのコマに変更しても良いと思うし、今までの高校3年生はその方向で時間帯を変更することが多かったのです。
    なぜ夜遅くのコマに変更したいのかと問うと、学校が8時まで自習可能なので、できるだけ学校に残って自習し、その後で塾のほうが都合が良いというのでした。

    学校が夜8時まで自習可能・・・・。
    生徒がそんな時間まで学校に残っているということは、学校の先生たちもそんな時間まで残っているということ。
    学校の先生たちの労働条件はどうなっているのだろうと心配になってしまうのですが、それはともかく、ここでも、自分の家で勉強できず外で勉強する今の高校生の一端が見えたような気がしました。
    そういえば、「自分の部屋では勉強するな」とアドバイスをしている受験マンガもあります。

    図書館などに行って勉強する習慣というのは、私が高校生の頃からありましたから、そのこと自体は特別新しいことではありません。
    私も気分を変えて図書館に行くことはありましたが、そうやって外で勉強するのはイベント感が強く、たまにやることで、普段は自分の部屋で勉強していました。
    中学生くらいまではリビングで勉強したりもしましたが、高校生になると、自室で集中したい。
    正直、私は自分の部屋で勉強するのが一番集中できます。
    外で勉強するのは、どうしても時間が限定されますし。
    自分の部屋で集中できるなら、時間は無尽蔵です。
    受験のために毎日5時間勉強するのだとしたら、学校の図書室や自習室で2時間プラス自分の部屋で3時間くらいが良いバランスと感じます。
    自分の部屋では勉強できないとなると、学習時間の総量がどうしても減ってしまう懸念があります。
    外だけで毎日5時間は確保しづらいです。
    それに、自分の部屋はいろいろと便利です。
    わからない問題があったとき、これはあの参考書に類題が載っていた気がすると、すぐに手を伸ばして調べられます。
    自分の部屋以外で勉強するときは、手元には持ち運べる分の勉強道具しかありません。
    重い辞書の変わりに電子辞書を使うようになったりと、勉強道具はかなり軽量化されたけれど、良い参考書は今も重いし、使う参考書は1冊ではありません。
    自室は誘惑が多いとはいうけれど、誘惑にそんなに毎度毎度負けないでしょう?
    目標があるとき、人間は、そんなに負けないです。

    とはいえ、そういう精神論で済む話でもないのでしょう。
    どうも、近年の高校生は自室では勉強に集中できないらしいのです。
    どういうことだろう?

    それで思い出したことがあります。
    数年前、高校生の男子生徒に授業をしていたときのこと。
    定期テスト直前の授業だったのですが、英語のテスト範囲をその子は把握していませんでした。
    人なつっこい性格で、学校でも人気のある子だろうと想像されましたし、数学は抜群にできたのですが、そういう雑なところもある子でした。
    テスト範囲がわからない?
    どうするの?
    と問いかけると、その子は、ちょっと待ってと言って、メールを打ち始めました。
    そして数分後、テスト範囲の詳細を記した返信が届いたのです。
    ともかくテスト範囲がわかったので、その範囲の勉強を始めました。
    「コミュニケーション英語」の本文の和訳で、学校の先生はここをどう訳していたの?と私が問いかけると。
    その子はまたメールを送り、数分して、該当部分の授業ノートを撮影した画像が届きました。
    女の子のきれいな文字で記されたノートでした。
    こうしたことが日常で行われているのだとしたら、これは・・・。

    テスト前ですから、その女の子も勉強していたでしょう。
    それでも、その男子生徒からのメールに最優先で応じていました。
    その時間、彼女は自分の勉強を放棄しています。
    これは、ちょっと問題だぞ・・・。
    そういうことはやめなさいと注意し、以後、私の前でそれをすることはなかったのですが、何が問題であるのか、その男子は問題の根本を理解したかどうか・・・。
    「えー?邪魔なら、無視すればいいじゃん」
    要求するほうは、その程度の気軽さなのです。

    そのことと考えあわせると、例の「200万円通い放題」をうらやましがる女の子から、そういえば以前こんな話を聞いたことがあったのも思い出しました。
    毎朝、Twitterで「おはよう」とフォロワー全員に挨拶するのに20分かかるというのです。
    Twitterって、朝の挨拶が必要なツールでしたっけ?
    インターネットの利用の仕方は、世代によって全く異なります。
    身近な友人や知り合いよりも、顔も名前も知らないネット上のつながりのほうが優しくて切実で他に変え難いところもあると、わからないわけでもないのです。
    でも、それは幻想でもあります。
    青い鳥の寓話を待つまでもなく、幸せは身近なところにあるよ。
    本当にあなたを心配している人は、あなたの近くにいるよ。
    そのことも含めて、ネットにのめり込む子は心配になります。
    しかも、その子がやっているのはTwitterだけではありませんでした。
    LineはLineで、現実の顔見知りと、もっと頻繁な、ほぼ1日中のコミュニケーションが必要とのこと。
    つまり、1日中、スマホに触わっているのが日常なのでした。
    塾での授業中も、机の上にスマホを置き、返信まではしないものの、誰かから連絡が入る度に確認することはやめられない様子でした。

    本人にも自覚はあり、勉強に集中するためにTwitterはやめるLineをやめるとアカウントを消すのですが、ひと月も経つと復活しているのでした。
    一種の依存症だったのかもしれません。
    スマホの習慣性の怖さ、それで失われる時間の長さについては近年よく言われるようになりましたが、他人事でなく、ごく身近に迫っている課題となっています。
    顔も名前も知らないTwitterのフォロワーに朝の挨拶をするのに毎日失われる20分。
    それは、本当に必要な人間関係なのだろうか・・・・。
    それが必要な人もいると思います。
    世界とのつながりがそれしかない人もいるでしょう。
    それが命綱の人もいると思います。
    大切な人間関係かもしれません。
    しかし、彼女は果たしてそうなのだろうか・・・。

    スマホのことをあわせて考えてみると、高校生が自分の部屋で集中して勉強できないのは、つい勉強以外のことをしてしまうというだけのことではなさそうです。
    何より、スマホが集中の妨げになっているのかもしれません。

    勉強を始める。
    数分で友達からLineに連絡が入る。
    スマホを手に持つ。
    友達に返信する。
    それだけでは済まず、つい、Twitterやインスタグラムなどひと通り見て回る。
    勉強しなくちゃと思い、再び勉強をする。
    友達からLineに連絡が入る。
    その返信をする。
    つい、Twitterやインスタグラムをひと通り見て回る。
    あまり時間が経っていないので大きな変化はない。
    物足りないので、ついでに動画を見てしまったり、ゲームをしたり。
    ひと通りやって、勉強しなくちゃと思い、再び勉強をする。
    友達からLineに連絡が入る・・・。
    この無限ループにはまって、自分の部屋では勉強できなくなっている高校生はいないでしょうか?
    いや、これは大人もそうかも・・・。

    学校の自習室や塾の最大の利点は、そこがスマホ禁止だからでしょうか。
    スマホの電源を切り連絡を絶つ大義名分があるから。
    人間関係を壊さずにスマホから離れることが可能です。
    実際、テスト前の貴重な時間に、テスト範囲がどうのノートがどうのと問い合わせを受け続けて自分の勉強ができない、お人好しで真面目な女の子は、スマホから避難せざるを得ない状況があると思います。
    問い合わせではなくても「勉強してる?」といったどうでもいいLineの会話にもつきあわなければならないでしょう。
    勉強しているのにいちいち集中を削がれる。
    これはかなり問題です。

    賢い子は、そのあたりも上手にさばいているかもしれません。
    でも、上手くさばけない子も、いるでしょう。

    それを早めに察した保護者の方は、高校生にもスマホは与えず、インターネットに接続できない設定にしたガラケーしか持たせない場合も目にするようになりました。
    インターネットは、タブレットやパソコンを親の管理下で使用。
    自室には持ち込ませない。

    親の独断でそれを行うと反発される場合も多いでしょうが、お人好しの高校生で、友達に何かと重宝され、見方によれば善意を「搾取」されている子は、もしかしたら、自分からは言い出せないだけで、スマホを手放すことを望んでいるかもしれません。
    「親に取り上げられた」
    と友達に言い訳できるのなら、むしろそのほうがいい。
    そのほうが自宅での自分の時間を有効に使えます。

    一方、人間関係はそれで大丈夫なのか、不安もあります。
    1日中Lineでつながっているというのは、凄まじい相互依存です。
    それは、相手への依存なのかスマホへの依存なのか、既に判然としませんが、一方的に断ち切った場合、その後の人間関係に影響しないわけがありません。
    高校3年生になって、既にこの人間関係はあと1年。
    お互い、自分の進路のことで頭がいっぱいで、つまらないゴタゴタには関心が薄くなっている。
    人間関係が切れたら切れたで、それまでのこと。
    そう思いきれる時期でないと難しい決断かもしれません。

    スマホを長時間使用する子の成績は全体に低く、スマホの使用をやめればそうした子の成績は上がっていくという調査結果も出ています。
    スマホのせいで睡眠不足になるといった要因よりも、学習時間の質がスマホのせいで悪化しているのが何より大きいというのです。
    スマホがある限り集中して勉強できないのですから、それも自然なこと。
    塾などのために夜は音信不通になるのが常態の子のほうが、依存症になりにくいと言えるかもしれません。

    とはいえ、便利なはずなのに、生きにくい時代になったものです・・・。

      


  • Posted by セギ at 14:36Comments(0)講師日記

    2018年03月21日

    学年末テスト結果集計出ました。2018年3月。




    学年末テスト結果集計出ました。

    数学 90点台 1人 80点台 2人 70点台 2人 60点台 1人 50点台 1人 40点台 1人
    英語 90点台 1人 70点台 1人 

    高校の数学は、2科目の平均点を結果としていますが、片方の科目で100点満点を獲得した人もいました。
    前回のテストから+23点の人、+14点も人も。
    学年末はテスト範囲が広く、得点しづらい範囲であることも多い中、大きな成果が出ています。
    さあ、次は新学期です。


    さて、着々と結果を出し続けるためにさらに精進しつつ、最近はなお、新学習指導要領とアクティブ・ラーニングのことを考えています。

    先日、学者の人がツイッターで、こういうのがアクティブ・ラーニングだと説明しているのを目にしました。

    「黒板に先生が文を書く。
    『正方形の右に正三角形が2つ並んでいる』
    これを表す図を描いてみましょう、はアクティブ。
    『隣りの人と絵を交換して、合っているかどうか確認してみよう』
    もアクティブ。
    『合っているかどうかわからなかったのはある?』
    黒板にその図を貼って、みんなで議論。十分アクティブ」

    ・・・・うわあ・・・。( 一一)

    何というか、過去のトラウマに襲われ引きずり込まれるような恐怖感があります。
    そうそう。これ。
    これが、アクティブ・ラーニングです。
    私が中学生の頃、毎日毎日、学校で受けていた授業です。

    ツイートはさらに続きました。
    「先ほどの問題。
    □△▽や◇▽▽について
    『間違っている』
    『よくわからない』
    に手を揚げる子は当然予想されて、
    『合っていると思います』
    という子と議論になる。
    それで『正方形とは何か』『正三角形とは何か』というまさに『定義とは何か』を学ぶことになる」

    ・・・うわあ。(T^T)
    いやだいやだ。

    「わあ、面白そう。そういう授業を私も受けたかったなあ」
    そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
    でも、それは、今、大人として、上のような平易な課題を見るからではないでしょうか。
    正しい結論がすぐにわかりますから、議論に参加できそうで「面白そう」と感じるという側面はないでしょうか。
    知識も判断力も小学生に戻って、学校でその課題を与えられる幼い自分を想像してみてください。
    そのストレスの大きさを想像してほしいのです。
    正解がわからない議論に常に参加していくプレッシャー。
    何が最終目的なのかわからない課題を積極的に解決していかなければならないプレッシャー。
    子どもには、先生の意図や、この学習の真の目的は、見えないのです。
    謎解きの喜びと同じだけ、恐怖と困惑を伴う学習です。


    そもそも、子どもというのは案外保守的で、固定観念が強いものです。
    上の課題が与えられて、◇▽△という、先生が歓喜するような非凡な図を描く子は、ほぼいないと考えたほうが良いでしょう。
    賢い子は、「□△△」という平凡な正答の図を描くと思います。
    一方、「△□□」などの明らかに間違った図を描いてしまう子も多いかもしれません。
    そして、間違った図を描いた子の中で、自分の間違いにすぐに気がついた子は、間違ってしまった恥ずかしさから立ち直るのに時間が必要です。
    その精神状態で、後の議論に参加するのは難しいかもしれません。
    もっとまずいのは、間違った図を描いて、隣りの子にバツをつけられても、なぜ間違っているのか理解できない子が一定数いると予想されること。
    間違いを具体的に指摘されても、なぜ間違いなのか理解できない学力層の子が存在することです。

    「△□□」の図が間違っていることに本来議論の余地はないのですが、間違っている子が多ければ、それも議論しないわけにはいきません。
    しかし、それは、その授業で予定していた学びとは違うでしょう。
    先生はそれを上手く避け、議論をコントロールしなければなりません。
    予定していた学びとは異なる、つまらないミスによる間違いに関する議論は手短に行われるでしょう。
    間違った図を描いたのに、それのどこが間違っているのか理解できない子は、そこで授業に取り残されます。
    その先の議論に参加できません。
    その後の議論など耳に入らず、自分の間違った図をぼんやり見つめるだけかもしれないのです。
    そして、その子のノートには、△□□という謎の図が残されます。
    家庭で、保護者の方が、
    「今日は学校で何を勉強してきたの?」
    と尋ねても、
    「わからない」
    以外の応えは返ってこないかもしれません。
    ノートを見ても、謎の図しか残っていません。
    アクティブ・ラーニングには、そうなる危険性があります。

    興味深く議論の題材になるような非凡な図を生徒が描く可能性は低いです。
    賢い子たちは、□△△という、わかりやすい正解の図を描くでしょう。
    しかし、それでは、議論になりません。
    ですから、先生は、あらかじめ用意していた図を黒板に貼ることになるでしょう。
    ▽△ の図です。
    さて、これは正しい図でしょうか?
    「正方形の右に正三角形が2つ並んでいる」
    この図は、それを正しく示しているでしょうか?
    正しいと思う人と思わない人に分かれて、議論が始まります。

    この図を「間違っている」と考え、しかも積極的に議論に参加してくれる生徒は、この授業にとって貴重な存在です。
    この図を間違っていると思う生徒の学力評価が下がることはありません。
    むしろ、議論の途中で思考が深まり、劇的に考えが変わっていくなら、先生は特にその子を高く評価する可能性があります。
    しかし、秀才たるもの、最初からこんなことはわかっていることを周囲に示したい。
    最初から、正しい答えを選びたい。
    間違った判断は最初からしたくない。
    そんなこと、本当は誰も気にしていないのに、それを気にして立ち回り、疲れ果ててしまう子もいるでしょう。
    こうした学習が、秀才にとってストレスであるのは、そうした点です。

    繰り返しますが、大人にとっては、□も◇も正方形、△も▽も正三角形であることは自明の理です。
    正解がわかり、道筋がわかるから、この議論に参加するのは楽しいことに思えます。
    □も◇も正方形であることを理解することから、正方形の定義というものに考えが至り、さらには定義とは何かまで学習を深めていくのだ。
    凄いなあ。
    楽しいだろうなあ。
    アクティブだなあ。
    アクティブ・ラーニングっていいなあ。
    そんな授業、私も受けたかったなあ。
    そう思うかもしれません。

    しかし、高等数学で、イエス・ノーの課題を与えられ、意見を言えと要求される自分を想像してみてください。
    恐怖しませんか?
    それがアクティブ・ラーニングだ、新しい学習なのだと言われる自分を想像してみてください。
    トラウマになりそうじゃありませんか?
    小学生にとっては、上の課題はそういう可能性を含んでいないでしょうか?
    の課題から「定義とは何か」にまで学習を深めることができる子は、少数です。
    限られた少数の秀才の学力を飛躍的に伸ばすために、大多数の子を置き去りにする可能性があります。

    私は国立大学教育学部の附属中学校に通っていました。
    授業はこういう実験授業が大半でした。
    結局、日本の教育はこの40年、ここから一歩も先に進んでいないのかもしれません。
    私は、こうした授業でよく発言していましたし、そうした議論を当時は楽しんでいました。
    あれは、面白い授業でした。
    成績も良かったです。
    当時の深い学びが、今の自分につながっていると、言えば言えるのかもしれません。
    それでも、ある種ぞっとする感じがつきまとうのです。
    深い霧の中で目的も定まらず、ただ生き残るために全神経を張り詰めるサバイバルゲームを常に続けていたような。
    自分は闘いたくはないのに、常に闘いを強いられていたような。
    そして、その授業でほとんど意見を言うことはなく、
    「勉強がわからない」
    「学校がつまらない」
    と言っていたクラスメートたちの顔が浮かぶのです。

    この仕事をするようになって、やはり国立大学の附属中学に通う生徒の個別指導を受け持つ機会が幾度かありました。
    私の頃と同様に、そうした学校では実験授業が行われていました。
    アクティブ・ラーニングです。
    「学校の授業は、何をやっているのかわからない」
    「学校の授業は、勉強のできる何人かと先生が話しあっているだけ」
    同じような感想を異口同音に聞きました。
    そういう学校は、授業は難解でも、定期テストは、特別難しい問題が出題されるわけではありません。
    前半は易しい基本問題、後半にいくにしたがって、難度を増していきます。
    実験授業を行っている先生たちは有能ですから、テストもほれぼれするような構成になっていることが多いのです。
    しかし、私が個別指導をすることになった子たちは、そのテストの基本問題さえ正解できていませんでした。
    単なる1次方程式や連立方程式の計算問題が解けないのです。
    市内の公立中学に通っている数学が「2」の子だって、それくらいは正解するのに。
    国立の附属中学校は、私立の中高一貫校のように進度を速めた授業をしているわけでもありません。
    学年相当の普通のことを学んでいます。
    ただし、実験的な手法で。
    アクティブ・ラーニングで。
    学校の授業で何をやっているのかわからないので、家でも何を学習して良いのかわからず、テストに何が出題されるのか、わからないというのです。

    その子たちにも原因はあります。
    授業中、ぼんやりしていないで、とにかく議論に加わったら良いのです。
    授業中の発言をバカにされることはありません。
    あまりにも意味のない発言、議論を後退させるだけの発言は、スルーされる可能性はありますが、恥をかいてもいいから議論に参加したら良いのです。
    そして、家に帰ったら、コツコツと基礎的学習をしたら良いでしょう。
    学校は、普通の教科書に沿った普通の教科書準拠ワークを配布しています。
    それをコツコツ解いたら良いのです。
    学校で何をやっているかわからないから勉強しない、というのは言い訳です。
    学校の授業を口実に勉強しないでいるだけです。
    私が個別指導を担当した、学校の授業内容がわからず成績不振に悩んでいる子たちは、学習習慣が身についていない子ばかりでした。
    塾で基本を丁寧に教え、それについて復習するだけの宿題を出しても、解いてきませんでした。
    1週間後、塾に来る直前になって慌てて手をつけ、上手く解けず、もう忘れた、わからなくなったと言い訳することが多かったのです。
    宿題を解いてくるようにするまでが、まず第一関門。
    錆びついた巨大な機械に油を差し、動きだすようにするまでには、大変な時間と労力が必要でした。

    でも、その子たちだけを責めて、切り捨てるのは、いかがなものか。
    学習目標を明確に提示し、何を覚え何ができるようになれば良いかを示された授業で懇切丁寧に教えてもらえていれば、彼らはそれほどの学業不振にはならなかったでしょう。
    アクティブ・ラーニングは、両刃の剣です。

    学校が基礎を丁寧に教え込む役割を担ってくれなくなるならば、家庭と塾が渾身のフォローをしていきましょう。
    ゆとり教育の再来だけは避けなければ。
    そう思います。

    もう一つ言うならば。
    ◇が正方形に見えない子、▽を正三角形と認識できない子は、いつの時代にもいます。
    学校でのクラス全体の議論や、グループ・ディスカッションには参加できず、学校でどのよう結論が出されようとも、◇は正方形ではない、これはひし形だ、と心の中でずっと思っている子はいます。
    そうした子と、対話を繰り返すことで学習を深めることが可能なのが、個別指導です。
    とても時間はかかりますが。
    そして、それもアクティブ・ラーニングだとは、私も思うのです。

      


  • Posted by セギ at 13:24Comments(2)講師日記

    2018年03月16日

    アクティブ・ラーニングで思い出すのは、ゆとり教育。


    新学習指導要領とともに、近年盛んに言われているのが「アクティブ・ラーニング」です。
    21世紀型スキルを身につけるには、アクティブ・ラーニング。
    「自らが学ぶ力」を養うアクティブ・ラーニング。
    ・・・と、今のところ褒め上げられているアクティブ・ラーニングですが、さほど万能なものでもないのは、容易に想像がつくことです。

    アクティブ・ラーニング型学習とは具体的には何なのかと言えば、発見学習・課題解決学習・グループディスカッション・ディベート・グループワークなど。
    このように具体的な項目を目にすると、何だかこれは見た覚えがあるぞと思う方が多いと思います。
    どれも、「ゆとり教育」の頃に盛んに言われていたことですよね。
    (+_+)

    ゆとり教育というと、今となっては、
    「円周率が3だった」
    「台形の面積の公式を教えなかった」
    など、学習内容を減らし授業時間を減らしたことばかりが印象に残っているかもしれません。
    その結果、国際学力テストで日本は順位を落とし、子どもの学力低下が叫ばれるようになりました。
    同時に、ゆとり教育で育った世代の言動が何かおかしいとも言われるようになり、今やほぼ全否定されているのが「ゆとり教育」です。

    しかし、ゆとり教育というのは、教える内容をただ減らしただけのものではありませんでした。
    減らしたところにアクティブ・ラーニングを導入しようとしたのが真の姿です。
    そのことが忘れられているように思います。
    小学校で「総合」の時間が設けられ、教科の枠を越えた学習が推進されたり。
    ディベートの授業が行われたり。
    中学生が実際の企業や店舗で働く職業体験をするようになったり。
    修学旅行が観光地の物見遊山から、目的地の産業・歴史・文化を調べてその現場に行き、体験学習をするものになったり。
    これらはゆとり教育の時期に導入されたことです。

    「生きる力」を育てる「新学力観」に基づく教育を進める。
    ゆとり教育とは、そういう理想の教育でした。
    これらの例の中で何らかの成果を生んだものは今も教育活動として残っていますが、しかし、それは全面的な成功とばかりは言えないのが実情です。
    アクティブ・ラーニングを享受し、それによって学力を高めることができているのは、一部の生徒に限られているのではないでしょうか。


    国際学力テストは、多くの子どもが受験した学力テストの平均値で比較されています。
    日本は、ゆとり教育の時期に子どもの平均学力が大きく下がりました。
    これは、教える内容が減ったことだけが原因ではなく、アクティブ・ラーニングが、学力が中位以下の子どもを学習から疎外する可能性があることを示していると思います。

    例えば、ディベートの授業。
    優秀な子どもたちは、よく考えて自分の意見を述べ、相手の意見にも耳を傾け、ただ言い負かすのではなく、論点を整理し妥結点を探っていくことを実地に学んでいくでしょう。
    しかし、それほどの聡明さを持たない子どもは、パッと思いついただけの底の浅い印象や感想を大きな声ではきはきと発表し、何か意見を言った気になって満足するでしょう。
    自分の発言の底の浅さを主体的に把握するのは困難ですし、教師がそれを指摘したら何も発言できなくなる子が多いでしょう。
    さらには、そうしたことにどうしても加われず、クラスメートたちが「ディベートの授業」なるものでワアワア言っている中で黙ってうつむき、早くこんな時間終わらないかなあと思っている子たちもいるでしょう。
    ・・・・こんな授業で学力が伸びるのは、一部の生徒だけかもしれません。

    それよりも、もっと基礎的な知識を全員が習得することに力を入れたほうが良いのでないか。
    中位以下の子どもたちの学力は、アクティブ・ラーニングよりも、基礎知識を丁寧に教え込み、それを運用できるようにしていくほうが底上げされるのではないか。
    ゆとり教育への反省から、そういう取り組みが全国で行われ、評価もされてきました。
    日本国内の学力テストで例えば秋田県が毎回高い順位を示すのも、中位以下の子の学力が基礎訓練によって底上げされていることが大きいでしょう。

    ゆとり教育のはるか以前から行われていることを考えてもみても明らかです。
    例えば、夏休みの自由研究。
    素晴らしい発想力と緻密な作業の結合した高度な自由研究をする子もいます。
    一方、毎年毎年、何をやったらいいのかわからず、自由研究が夏休みに暗い影を落としてしまう子も多いです。
    「自由研究アイディア集」的な本から何か適当に選んで真似する子。
    ネットの丸写しでチャチャッと済ませてしまう子。
    書店やデパートで自由研究キットを購入する子。
    ・・・夏休みの自由研究って、日本の戦後教育の中でも最古のアクティブ・ラーニングの1つではないでしょうか。
    それがこのありさまです。
    夏休みの自由研究が深い学びにつながる子もいますが、あまり意味のあるものになっていない子も多いです。
    本人の能力や性格によって、同じ課題を与えられても、それが真の学習に結びつくこともあれば、時間の無駄になってしまうこともあります。
    アクティブ・ラーニングの成果は、本人の自発性と能力によるところが大きく、学力格差が広がりやすい学習法だとも言えます。

    アクティブ・ラーニングには長所も多いです。
    主体的な学習は何しろ楽しいです。
    発見の喜び、自主的に学ぶ喜びを知ることができれば、それは生涯の財産です。
    私が中学生のときに受けていた授業の多くは今でいうアクティブ・ラーニングでした。
    私たちは日々議論を重ね、学習を深めていました。
    しかし、創造的なことが好きな子にとっては喜びであることが、そうではない子にとっては苦痛で成果も上がらないことを、私は同時に知っていました。
    附属小学校から内部進学した子たちの中には、授業で何が話し合われているのかを上手く把握できない子たちがいました。
    成果の上がらないことに時間を取られ、その子に必要な基礎的学習の時間を削られる。
    そもそも、誰も彼もがそんなに創造的で主体的である必要はないのではないか。
    教わったことをしっかり身につけて、それを確実に運用できることだって、重要な能力ではないのか?
    アクティブ・ラーニングのマイナス面に気がついていないと、子どもの学力はまた大きく下がる可能性があります。

    ここで立ちはだかってくるのが、AIです。
    教わったことを確実に再生するだけなら、AIのほうが精度が高い。
    創造的なことができない奴は、21世紀的人材ではない。
    計算練習をしっかりやって、計算問題だけは正答できる子どもたちは、国際学力テストの順位は底上げするかもしれないが、応用問題は解けない。
    そんな学力の子どもでは、今世紀は生き抜けない。
    ・・・・うーん、それはそうかもしれない。
    (''Д'')

    しかし、基礎学力の乏しい子は、アクティブ・ラーニングの学習主体になれないかもしれません。
    アクティブ・ラーニングの周辺をうろうろして、勉強した気になるだけの可能性があります。
    それを有効な学習にしていくには、どうすれば良いのか。
    逆に、基礎学力しかなく、言われたことを言われた通りにやれるだけでは、確かに将来は不安です。
    今回の新学習指導要領は「ゆとり教育」の再来となるのか。
    それとも、何か新しい展開があるのか。
    結果が出るまであと10年はかかるでしょうが、またしても失敗だったという結論は避けたいです。

    塾としてやれることは、まずはとにかく基礎学力を確立すること。
    その上で、応用力を養成すること。
    自分で考えて自分で学習できる学力を鍛えること。
    知識のインプットがされていない子はアウトプットできないことは、ゆとり教育の失敗から学んでいることです。
    まずは確かなインプットを。
    そしてアウトプットできるスキルを。
    アクティブ・ラーニングから疎外されない学力を育てましょう。
    時代が変わっても、私にできることは、結局あまり変わらないのかもしれません。

      


  • Posted by セギ at 12:01Comments(0)講師日記

    2018年03月07日

    それぞれの夢を心に宿して。



    今年は芸人さんが大学受験をしたのが話題になりました。
    テレビ番組の企画で東大受験を目指し、センター試験を受けた方もいました。
    結果は、
    国語148/200(現代文92古文35漢文21)
    英語76/200
    数学1A32/100
    数学ⅡB20/100
    地理B66/100
    日本史B51/100
    生物基礎30/50
    地学基礎25/50 だったとのこと。

    この数字をどう読むかは難しい問題です。
    その人の基準がどこにあるかによって見え方は違ってくると思うのです。
    「結局、国語しかできていない。本当に勉強したのか?」
    と言うことも可能です。
    特に英語と数学の得点は胸が痛いです。
    基礎を積み上げ、理解を深めないと、なかなか伸びないのがこの2科目です。

    あの番組を見ていた人の中には、合格が可能なのではないかと本気で思っていた人もいたかもしれません。
    「たった3か月で偏差値が30上がった!」という宣伝文句を見ることもそう珍しくない昨今です。
    それは本当に可能なのではないか?
    宣伝文句に煽られ、慣らされて、
    簡単なことのように感じてしまう人もいると思います。
    それは危険なことです。
    実際にはかなり珍しい事例ですから。
    だから話題になるのです。
    とはいえ、それは絶対に不可能なことでもない。
    そのはざまで、生徒本人も保護者の方も心が揺れてしまうのかもしれません。
    自分の子どももそれは簡単にできると信じたい気持ちになってしまうこともあるのでしょうか。

    最近、教育関係のネット記事など拾い読みしていて、1つ興味を引いたのが、学力の低い子たち向けの学習プログラムを提供する会社が業績を上げているという記事でした。
    教育関係というよりもビジネス記事です。
    その学習プログラムを導入した塾に通う生徒たちは、各自、パソコンで勉強します。
    アニメが多用され、クイズ形式で進行する学習プログラムには、パスワードを使って自宅の端末でもアクセスでき、繰り返し学習が可能。
    平均で1割の得点増加が見られ、評判は上々である、とのこと。

    ・・・・1割?
    学力の低い子で1割の得点増加?
    それは、例えば、定期テストで20点の子が、22点になったということですか?
    30点の子が、33点になったということですか?
    え?
    そんなことでいいんですか?
    それ、誤差の範囲ではないんですか?
    それで本当に「成績が上がった!」と喜んでもらえるんですか?
    思わず記事を二度見しましたが、やはり「1割」と書いてあるのです。
    普段ビジネス記事を書いている記者は、売り上げが1割上がることのような感覚でそれをとらえてしまったのでしょうか。

    一方で、「3か月で偏差値30上昇」が簡単なことのように言われ、一方で、学力の低い子の得点が1割上昇したことが凄い成果であるように言われる。
    この落差に、振り回されそうになります。

    現実は、それと似ているようで、でも、それぞれに異なると思うのです。

    今年、セギ英数教室は受験生が多く、まとまった結果を出しました。
    高校入試では2015年度入試以来の成果です。
    その間の数年に、受験生がいなかったわけではありません。
    高校受験をした子はその間もいました。
    合格しているのですが、それをこのブログに記すのはちょっと違うかなあと感じていました。
    年に1人ずつで、ぽつんとした印象になってしまうのを懸念してのことでもあります。
    でも、それだけではありませんでした。

    ある子は、中学2年の冬に入会しましたが、直前の定期テストの英語の得点は、ひと桁でした。
    公立中学の英語の定期テストで10点未満というのは深刻です。
    提出物や授業態度で加点があったのでしょう、成績は「2」でしたが、いつ「1」になってもおかしくありません。
    授業をしてみると、英語が全く読めないことがわかりました。
    単語の識別がほとんどできないのです。
    fatherとfamilyの区別がつかず、同じ単語に見えるようでした。
    「faしか同じじゃないよ。アルファベットは文字の種類が少ないから、どんな単語も多少は似ているよ。それを見分けるんだよ」
    と説明しても、
    「えー、同じだよー」
    と、にこにこ笑っていました。

    とにかく、教科書の重要例文・重要表現をどんなことをしてでも丸暗記すれば、穴埋め問題くらいはいくらか得点できるようになるだろうか。
    すぐに結果が表れないと辞めてしまう子もいますから、最初のテストの得点の動きは大切です。
    しかし、その学校の定期テストの問題を見て、私は青ざめました。
    リスニング問題を除く大問1はテスト範囲の文法問題、大問2はテスト範囲の重要表現、と穏当な出題でしたが、大問3以降は、都立入試問題と同じ形式の問題でした。
    初見の長文読解問題と英作文です。
    中学2年で、応用問題だらけの英語のテストです。
    テスト範囲が直接反映されている配点は20点程度。
    本当に英語力がないと太刀打ちできないテストでした・・・・。

    公立中学の英語問題は、テスト範囲の問題しか出題されない場合、問題自体がワークブックのように単調で簡単なことがあります。
    んなテストのための試験勉強しかしていない子は、中3になって突然、都立入試に向けての学力診断テストを学校で受けると、初見の英文を全く読めないため、普段の成績とはかけ離れて低い点数を取って慌てることになります。
    極端な話、学校の英語の成績は「5」なのに、初見の長文を読めない子もいます。
    その場合、学校の英語の成績は、その子の本当の英語力を表していません。
    変にふわふわと高い内申のため志望校が高くなってしまうと、それに見合った入試得点を取れないため、結局、他校の受験生に競り負けてしまいます。

    そういうことがありますから、学校の英語の定期テストに応用の長文読解問題があると、塾講師として、この学校の英語の先生は信頼できると感じます。
    学校のテストに応用問題が出るのだから、教科書を離れた問題も解いていくべきだよねという話を生徒にしやすいですし、生徒も納得してくれます。
    しかし、2割がリスニング、6割が応用問題で、しかも都立入試形式となると、学力の低い子は、どこから手をつけていいかわからない状態です。
    これは厳しい・・・。

    それからのことは、思い出すだけで胃酸が逆流してきそうです。
    週に1回塾に通うだけで英語力がつくわけがないのです。
    宿題の質、そして、宿題を解いている学習時間の質が学力を左右します。
    しかし、その子は独りで家庭学習ができる学力ではありませんでした。
    文法の基礎からやり直すといっても、中1の1学期の内容であるbe動詞と一般動詞の章で学習はほぼストップしました。
    文法問題を解くときに、文法を考えて答えていくという学習習慣がなかったのです。
    何となくそれらしい単語で( )を埋め、何となく英語っぽい順番で与えられた単語を並べていくだけなのでした。
    問題を解くスピードは速いのですが、それは考えていないからでした。
    常に当てずっぽうです。
    正答はほとんどありませんでした。

    適当に答えを埋めれば勉強した気分になれるので、文法の勉強はそれでも好きなようでしたが、長文読解問題は、中1向けの5行程度のものでも解いてきませんでした。
    全く読めないというのです。
    文法の宿題はやったのだから、長文の宿題はやらなくてもまあいいだろう、勉強はしている、と本人の中では辻褄が合ってしまう様子でした。
    当てずっぽうに解いているだけの勉強が英語の家庭学習の全てでは、英語力はつきません。
    ( ;∀;)

    一方、保護者の方は、わざわざ塾に通わせているのだから、効果があるのが当然と思っています。
    そして、それは塾という存在への信頼でもありますから、その信頼には応えたい。
    しかし、
    「目標は私立単願です。40点とるだけでいいのです」
    と言われてしまうと、それがどんなに大変なことかわかりますか、奇跡への挑戦ですよ、という気持ちにもなります。
    1割アップどころの話ではありません。
    得点を5倍にしろというのですから。

    勉強が苦手な子どものテストの得点が1割アップしただけで喜ぶ保護者は本当に実在するのでしょうか。
    10点が11点に。
    20点が22点に。
    30点が33点に。
    それで喜んでいただけるのでしょうか。
    私はそれで喜んでいただいたことはありません。
    そんなことでは喜べないほど現実は厳しく、保護者の方も追い込まれているのです。

    しかし、
    「40点とるだけでいいのです」
    と言っていただけたことはむしろ幸いだったと思います。
    それには家庭の協力が不可欠です。
    家庭学習の具体的な方法を私から提案できました。

    それ以降、保護者の方もその生徒も、本当に頑張りました。
    中3の2学期の定期テストでついに40点台を取り、無事に「2」をキープ。
    その子は、私立単願推薦をもらうことができ、高校に合格しました。
    内申に「1」があると、さすがに私立単願も難しいのです。
    私立単願が不可能となれば、一般入試に賭けなければなりません。
    入試で合格点が取れるようなら、そもそもこんな苦労はしないのです。


    偏差値が高いとはいえない私立高校の単願推薦合格です。
    しかし、私にとっては、今年の受験結果とはまた別の意味で誇らしい成果でした。
    ただ、その凄さ、その価値はなかなか伝わらないと思い、ここには書きませんでした。
    何しろ胃酸が逆流しそうな生々しい記憶でもあり、こうして時間が経過して、ようやくここに記しています。

    勉強が得意で、もっともっと勉強を得意になりたい人も大歓迎です。
    でも、勉強のやり方がわからず、結果が出せないでいる人も歓迎します。
    一番上に記した、芸人さんのセンター得点に、
    「何だこんな低い点。あったま悪いな」
    と笑う周囲の人たちに同調して作り笑いを浮かべはしても、あれは勉強した人の得点だ、勉強したけれど夢かなわなかった人の得点だと読み取ることのできる人。

    私と勉強しませんか?

      


  • Posted by セギ at 14:30Comments(0)講師日記