たまりば

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2020年03月15日

少しでも良かったことをあげるなら。



今日も空は晴れているけれど、電車に乗るのはリスクが高いので、部屋でこのブログを書いています。

教室では、1コマの授業が終わるごとに、窓とドアを開けて換気をしています。
机や椅子などを台所用の塩素系漂白剤の薄め液で除菌。
その後、水拭き。
アルコール除菌ティッシュで、教室内部・外部のドアノブ・インターホン・灯りのスイッチなどを除菌。
その後、入念な手洗い。
このルーティンで対処しています。

普段の授業の合間と異なり、上の一連の作業がありますので、時間がかかるようになりました。
上の作業の途中で生徒が教室にやってくることも多いです。
入れ替え時間の際は教室ドアの鍵は開けてありますので、チャイムを鳴らしたらすぐドアを開けて入ってきてくださいとお願いしていますが、2度3度お願いしても、チャイムを鳴らしたままドアを開けずに待っている子もいます。
・・・なぜ、この話が通じないのだろう?
インターホンで応答するには、やっている作業を中断して、いったん手を洗い、手を拭かねばなりません。
しかし、チャイムを押してから長い時間がかかることに不審な表情の子は多いです。
いや、私が何をしているか、想像してください。
「チャイムを鳴らしたら、すぐドアを開けて入ってきてね?」
毎回、私が以上のことを説明し念を押すと、ちょろっと目が迷う様子が見えます。
普通の訪問のマナーでは、チャイムを押したら、応答を待つのが当然。
それとの心の折り合いがつかないのかもしれません。
私が遠慮して言っていると思い、判断に窮しているのだろうか?
なぜそうしてほしいか説明もしているのに、どうしてわかってくれないの?

・・・いや、私は何をいらいらしているのだろう?
こんなの、どうだっていいことでしょう。


また、ある日。
換気中は、ドアにストッパーをかけて少し開けてあります。
定刻よりも数分早く来る子は、ドアが開いていることに混乱し、逆に、チャイムも鳴らさず、いきなり入ってくることもあります。
「あー。まだ除菌していないから、ドアノブに触ったらダメだよ」
「え?」
「入ってきてもいいけど、ドアノブに触らないようにね」
「え?」
肩や腕で何とかドアを開けて中に入ってくるのですが、今度はドアが閉まらないことに困惑するようです。
「ドアが閉まらない」
「あ。ストッパーかけてあるからね。そのままでいいよ」
「え?」
普段と異なる状況に咄嗟に対応できない子は多いのです。
ドアがちょっと開いているというだけで、そんなに混乱しなくても・・・。
「あ、まだ机に鞄を置かないで。これから水ぶきするから」
「え?」
「まだ漂白剤で拭いただけだから。目にしみるから近づかないほうがいいよ」
「え?」
だから、そんなに混乱するなら、定刻に来なさい。
何でこんなに早く来るの?


・・・いや、私は何をいらいらしているのだろう?
そんなことは、大したことではないでしょう。

小さなことが気になるのは、「コロナ疲れ」なのかもしれません。


もともと、多くの子どもと接する仕事は、感染症のリスクの高い仕事です。
私も、大手の個別指導塾や集団指導塾で講師をしていた頃は、どんなに気をつけていても、インフルエンザ、肺炎、ものもらいなどにかかってきました。
ヘイヘイドクターという歌ネタの現役医師でもある芸人さんのネタに、
「ベテラン小児科医のかかる風邪、たち悪い」
というのがあって、それは凄くわかる気がする、と感じ入ったものです。
免疫力の弱い子どもの体内で小躍りしているウイルスの威力は強い。
大人がひいている風邪なんかうつらないけれど、子どもの風邪は一撃でうつるというのが私の体感です。
独身時代は風邪などひいたことがなかったのに、子どもを持つと、毎年どえらい風邪をうつされるようになった、という方も多いのではないかと思います。


しかし、自分で個別指導塾を開いてからは、この9年、肺炎・インフルエンザはおろか、軽い風邪もひかなくなりました。
衛生面のコントロールを自分でできることが大きいのだと思います。

例えば、やたら咳をしているのにマスクをしていない子を注意できるようになりました。
大手の個別指導塾や集団指導塾で働いていた頃は、それができなかったのです。
子どもは、マスクが嫌いです。
「暑い」「息苦しい」などと言い、マスクをつけるのを嫌がります。
喉にからんだ嫌な咳をする子と狭いブースの中で対峙し、ただ自分の免疫力と体力に期待するのみ、ということもしばしばありました。

集団指導塾のときは、生徒が複数なので、全ての子の行動に目が届かないこともありました。
一人の子が解いた問題の採点を教室の椅子に座ってしているときのこと。
私の横にたまたまゴミ箱があり、座っている私の背後で立ったまま鼻をかんだ子がいました。
翌日からその子はインフルエンザで休み、数日後に私も発熱しました。

今も、教室で、私の方を向いて鼻をかむ子はいますが、注意できます。
鼻をかんだティッシュは、教室のゴミ箱に捨てずに持ち帰りなさい、とも言えます。
マスクをしているとはいえ、私の方向を向いて咳をする子もいますが、それも注意できます。
子どもは、普段、「相手の目を見て話せ」等の注意を受けることが多いからなのか、鼻をかむときも、咳をするときも、こちらを向いてする癖がある子が多いのです。
本当に幼かった頃に、上手に鼻をかむと褒められた記憶があるからだろうか、と想像したりもします。
大人の顔を見ながら鼻をかむのが習慣になっているようなのです。

他人に向かって鼻をかまない。
他人に向かって咳をしない。

そうしたことを注意すると、
「そんなんでうつるわけがない」
などと一蹴した子もかつてはいましたが、このご時世、一言で話が通じます。
実際にそれで長年感染してきた私が言っているのだ。
私が感染したら、全ての生徒に広がる。
頼むからやめて。
その話が、今は、通じます。

悪いことばかりではない。
そう思うようにしましょう。
この状態はしばらく続くのですから。


私の住む家のあたりは、小学校の通学路で、毎朝8時過ぎになると集団登校の子どもたちが通り過ぎていきます。
仕事柄、朝が遅いのですが、引っ越してきた当初は、毎朝その声で目が覚めました。
しかし、10日も経つと、全く気にならず、目が覚めないようになりました。
子どものはしゃぐ声ほど平和で安全なものは、この世にないからでしょう。
子どもが窓の外でどんなに騒いでいても、それは私の眠りを脅かすものではありません。
だから、子どもが公園で騒いでいる声がうるさい、家にいろ、という人の気持ちが私にはよくわかりません。
一部の女の子が興奮すると発する独特の金切り声だけは、あれは怪音波の類なので、保護者が注意したほうがよいですが、普通にはしゃいでいる声は、気に障るものではありません。
あの声が消えることのほうが、恐ろしい。
子どものはしゃぐ声が聞こえてこない世の中は、良い状態ではない。
子どもに要求して良いことと悪いことをはき違えてはいけない。
そのように思います。

身体的な衛生ばかりでなく、精神衛生も考えたほうがいいのでしょう。
リスクばかり恐れて、部屋に閉じこもっていては疲弊します。

山に行きたいなあ。
山に行けば、小さなことは、どうでも良くなります。
マスク・手袋とアルコール除菌ティッシュで電車の中は何とか防御し、4月になったら山にも行ってみようか、と考え始めています。
  


  • Posted by セギ at 16:47Comments(0)講師日記

    2020年02月16日

    中学の英語のことを少し。



    中学入学をひかえた小学6年生はワクワクの季節が近づいてきました。
    一方、保護者の方は心配な季節。
    上手く中学生の生活にシフトできるかしら。
    勉強についていけるかしら。
    うちの教室でも、早めに中学の予習をという要請の入る時期です。

    ところで、今の小6は、果たして中学のことをどれくらい理解しているのでしょう?
    敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。

    口は達者だし、かなり反抗期も入ってるし、まあしっかりしているから大丈夫、と思っていると、この情報社会で、意外にカヤの外にいるのが、最近の子どもの特徴です。
    自分の知りたい情報しか得ようとしないので、勉強の情報があまり入ってこないのですね。
    勉強のことを話せる友達がいないという子が、案外多いのです。
    くだらないことは、話せるのですが。

    お兄さんお姉さんがいれば、その動きを見ていて、中学生活というものが大体わかっているのですが、ひとりっ子ですと、上からの情報も皆無。
    親は、そんなことは当然知っているだろうと思って説明しません。

    中学に定期テストというものが存在することを知らない子に会ったことがあります。
    「小学校だってテストはあるよ」
    センセイは、小学校にテストがあることも知らないの?みたいな顔で言い返してくる子でした。
    小学校のテストと同列で扱われても・・・。
    テストの紙質にまずびっくりする、というようなことがないと良いのですが。

    定期テストという名称は知っていても、その重要性をわかっていない子もいました。
    定期テストで成績の大半が決まるということを、知らなかったのです。
    科目ごとに5段階の数字でかっちり評価されるということを知りませんでした。
    「授業態度が良ければ、大丈夫でしょ?」
    と、どこかで聞き齧ったことを過大評価して言ったりします。
    「提出物が20点分あるって、学校の先生は言ってたよ」
    と、得意げに情報提供してくれる子もいました。
    しかし、近年、授業態度の悪い子などほとんど存在しません。
    提出物は、よほど意欲のない子や、物の管理が上手くできず教材やノートを紛失し、出したくても出せない子以外は全員が出します。
    出すのが前提なのです。
    しかし、学校のワークをテスト前に全部解いて提出するだけで物凄く努力している感覚のある子は、それで成績が上がる気がするようです。
    冷静に考えましょう。
    今の時代、授業態度の悪い子も、提出物を出さない子も、本当に少ないのです。

    では、結局、何で評価が分かれるのか?
    国・社・数・理・英の5教科は、定期テストの得点です。
    提出物を出し、授業態度で特に悪いところがないのを前提として。
    定期テストで90点以上取れば、大抵の場合「5」になります。
    定期テストで80点以上取れば、大抵の場合「4」になります。
    逆に、それより低くて「4」や「5」を望むのは、なかなか難しいのです。

    なお、音楽・美術・保健体育・技術家庭の4教科については、ペーパーテストよりも、実技と授業態度が評価を大きく左右します。
    こちらはむしろ、期末テストで満点を取ったところで「5」になる保証はありません。

    さらに、そうやって決定した成績を高校受験で使用するということを知らない子は多いです。
    「内申」というのは、各教科の「1」から「5」の評価から計算される数字です。
    そのことを知らず、内申とは担任の先生がその子についての評価を文章で書くものだけだと思っているのです。
    内申は、数値で出されるものがメインであることを知っておきましょう。
    都立高校の多くは、入試得点1000点満点のうち、300点が内申点です。
    国・社・数・理・英はそのまま、残る4教科は得点を2倍して、その合計65点満点を300点満点に換算したものが内申点です。

    極端な例ですと、中学に英語の定期テストがあることを知らない子もいました。
    小学校の外国語の授業では、簡単な英会話やゲームや歌ばかりやっていたので、「英語は遊びの時間なんだ」と思い込み、勉強だということがわかっていなかったのです。
    それは、英語との幸福な出会いですが、その思い込みが強すぎると、中学の英語の授業の雰囲気についていくことができません。
    中1の1学期の定期テストだけは易しいので何とか乗り切れても、その後、テストの度に得点が半減していきました。

    今後、小学校で英語が教科となりテストも行われることで多少は改善されると思いますが、小学校の英語のテストは書くことがメインではないので、そのことで新たな誤解が生まれる可能性もあります。
    本当は、小学生の頃から、アルファベットや簡単な単語をどしどしテストするようにしたほうがいいと思います。
    中学1年生の教科書では、小学校で習っている単語は、もう知っているものとしてどんどん進むので、スペルを覚えなければならない単語の数が多いのです。
    また、そこをスルーするので、中2になっても中3になっても、数字や曜日・月名を英語で正しく書けない子も多いです。
    中学に入ってから何もかも一気に書くようになるので、そこで落ちこぼれてしまうのです。

    英単語のスペル練習など、地道な作業をすると、
    「こんなのは英語の勉強じゃない。思っていたのと違う」
    と感じ、つらくなってしまう子は今も多いです。
    国語の漢字練習や数学の計算練習に対しては、それなりに諦めの気持ちをもって取り組んでいても、英単語の練習は「つらい」「つまらない」という気持ちが先に立ってしまうようです。
    本人の中で、「英語は楽しいもの」という意識が強すぎるのでしょう。
    使用することが多い単語のスペルを正しく書けないことは、学年が上がるにつれて決定的な学力差となっていきます。
    中学・高校の英語において、ペーパーテストの比重は相変わらず高いです。
    書くことができないと、どうにもなりません。

    確かに、今は、読んだり書いたりするだけの英語で済む時代ではありません。
    リスニングもスピーキングも重要です。
    しかし、それは、書くことを軽視して良いということではないのです。
    テーマと語数を指定された英作文が、定期テストや入試に導入されています。
    書く力も、昔よりもずっと高いレベルで問われているのです。

    英語学習の準備としては、ローマ字の読み書きも、できないよりはできるほうが良いでしょう。
    何となくでいいですので、文字と音との対応がわかっているほうが、読むように書くことが身についていきます。
    そうではない場合、読み方がわからないまま、文字だけ覚えるような状態になることがあります。
    読み方が全くわからないのに、スペルだけ何とか覚えようとする子に、かつて出会ったことがあります。
    英語の成績は「1」に近い「2」でした。
    それは、乱数表を覚えるようなもの。
    そんなのは、さすがに無理でした。

    とはいえ、正式にフォニックスを学習するのも敷居が高いです。
    フォニックスというのは、英語の文字と発音との関係を学習する方法です。
    アメリカの小学校などでは広く行われていますが、それは、そもそもその英単語を知っているネイティブの小学生だから可能な教育なのではないかと感じます。
    日本の学校でも、中1にフォニックスを教えるところがあるのですが、生徒の多くは消化不良で終わるようです。
    a という文字はどんなときに「ア」と読み、どんなときに「エイ」と読むか?
    そういう細かいルールを列挙してあるのがフォニックスです。
    フォニックスが難しすぎて、自分は英語のルールがわからない、英語は無理だと思ってしまうようなのです。
    そうした悩みを抱えて、うちの教室に入ってきた子もいました。

    最初のうちは、そんなの大体でいいんです。
    大体この文字はこんな読み方をするみたい。
    でも、そうじゃないときもある。
    同じ文字に何通りか読み方があるようだ。
    それでいいと思います。

    漢字だって、色々な読み方があるじゃない?
    単語ごとに、読み方とスペルを覚えていこう。
    最初はそれでいいと思いますよ。
    そう励まし、フォニックスよりも文法や読解・リスニングに力を入れたら、その子の英語への苦手意識は薄らいでいきました。
    日本人は、最初はローマ字の読み方を知っておくくらいでちょうどいいんじゃないかと思います。

    大体の読み方がわかるようになって、高校生になったら、もう一度フォニックスのテキストを読み返してみると、驚くと思います。
    当たり前に感じることが書いてある。
    でも、発音問題によく出てくることなのにルールがわからずずっとモヤモヤしてきたことも書いてある。
    あれ?このテキスト、役に立つ?
    そう思えるようになります。

    発音記号も同様で、易しい英単語の読み方やスペルもおぼつかないうちから発音記号を覚えようとしても無理があります。
    しかし、発音記号がわかれば、文字を見ただけでその単語の音がわかるのも事実。
    高校生になっても発音記号が全く読めない子には、大体でいいから覚えたほうがいいよと促しています。



    中学に入学すると直面することに、「カタカナ英語で発音しないと周囲から浮く」という問題があります。
    周囲がカタカナ英語なので、自分もそれを真似し、同調しようとする、と言い換えても良いかもしれません。
    そんな、20世紀の片田舎でも起こらなかったことが、この21世紀の東京で起こることなのか?
    ・・・起こっています。
    公立中学の生徒の英語は、絶望的に発音が悪いことが多いのです。
    英語の成績は「4」または「5」ですが、not は「ノット」、got は「ゴット」、didn't は「デドント」、written は「リトン」と、私が中学の頃だってそんな発音をする子はいなかったが?と驚くようなカタカナ英語の子が多いのです。

    勿論、国語の教科書を音読するのにもかなりの努力が必要な学力の子が3分の1はいるだろうと想像されますから、まして英文となると、とにかく読むだけで精一杯で、発音など構っていられない、ということはあると思います。
    しかし、やろうと思えばもっと良い発音が出来る子も、カタカナ英語に同調する空気があるのではないか?
    そうでなければ、本来、私の世代よりもずっと耳が良く身体的な感覚の鋭敏な子たちが、あの発音で平気でいられるわけがありません。
    しかも、リスニングはよくできるのです。
    リスニングで聴く本物の英語と自分の発音との乖離に、気が付かないはずがないのです。
    ・・・考えられるのは、英語らしい発音をして周囲から浮き上がりたくない、という気持ちが強いのではないか、ということです。

    ただ、勿論、公立中学に通う子は、ネイティブの英語に触れる機会が少ないことは否定できません。
    学校にALTの先生が来たときに耳にする英語。
    普段の授業で、授業中に流されるCDの英語。
    それだけが、耳にする英語の全てである可能性はあります。
    個人的に努力しなければ、模範となるきれいな英語を耳にする機会が少ないのです。
    一方、私立の学校は、ネイティブの先生の英会話の授業があり、会話のテストのある学校も多いです。
    またはインターネットでの個別指導を全員が学校で受講するなど、英会話については充実している学校が多いのです。

    本物の英語に触れる機会が少ない。
    それを打破する方法の1つが、NHKのラジオ講座ですが、公立中学の子は、ラジオ講座の存在すら知らない子が多いです。
    私立に通う子は、ラジオ講座「基礎英語」もテスト範囲とする学校も多く、真面目な子は、毎日毎日、ネイティブの英語に触れています。
    ラジオ講座を聴く習慣を確立できず、ラジオ講座のテスト範囲の分だけごっそり得点を失う私立の子も多いですが、それは自業自得の面があります。
    公立の子たちが、ラジオ講座の存在を知らないために学習の機会を失っているのは、悲しい。
    公立の秀才の発音が、私立に通う普通の学力の子と比べてひどく悪いのは、胸が痛いです。

    光明もあります。
    都立高校入試に、数年後、英語のスピーキングが導入される予定です。
    入試に出るなら、正しい発音に向けて努力するのは当然のこと。
    全員カタカナ英語で足並みを揃える空気は一掃される可能性はあると思います。

    なお、公立中学出身の子も、それで終わりということはなく、高校進学後、秀才であればあるほど、発音は良くなっていきます。
    うちの教室でも、高校生に対しては、単語暗記を目的としてCDによる例文暗唱を繰り返します。
    それで発音やイントネーションが矯正され、劇的に発音が良くなる子は多いです。
    あまりにもあっさりと変わるので、あのカタカナ英語は、仕方なくやっていたことだったんだろうなあと想像したりもします。

      


  • Posted by セギ at 17:04Comments(0)講師日記英語

    2020年01月27日

    絵に描いたような失敗。


    授業中に小学生の宿題を見ていたときのことです。
    その子は、長期の休み中の講習に参加しませんでした。
    随分長い間授業をしないことになりますから、学力が下がるのは想定していました。
    その分、沢山の宿題を出したとしても、休み明けの授業でその大量の宿題の答えあわせをするのは難しいのです。
    ほとんどが正解であるならば、20ページくらいの宿題を出すことも可能ですが、半分は誤答であるなら、その宿題の答えあわせと解き直しをするのに、3~4回の授業が必要になります。
    休み中の宿題の解き直しをしている間に、学校の授業はひと月も先に進んでしまいます。

    それでも、特に計算力が心配な子でもありましたので、分数の加減乗除の問題がぎっしり詰まっている計算プリントを休み前に2ページ渡しました。

    休み明け、その子は、その宿題の半分を解いてきませんでした。
    言い訳は、
    「昨日、頭が痛かったから」

    ・・・はあ?(''Д'')
    休みはたっぷりありましたよね?
    何で、長い休み中の宿題を、塾の前日に解くの?
    塾の前日、たまたま頭が痛かったから、宿題はできなかった。
    そういう言い訳が通用すると、何で思っているの?

    しかし、そんなことも想定内のことでした。
    勉強が苦手な子が長い休みの間に塾に来ないということは、そういうことです。
    うちは、大手の塾のような積極的な電話勧誘や、休み前に個別面談の時間を作って講習参加への営業を行う、ということはありませんので、休み中の講習に参加しようとしない子は、そのままになってしまいます。
    ただ、休み中に全く講習に参加しない例は珍しく、最低でも週1回の通塾ペースは保ってくださる方がほとんどですが。
    さすがに、受験生なのに講習に参加しないという異常事態が起こった場合は理由を尋ね、解決に向けて努力しますし。


    さて、宿題の残り半分は翌週までの宿題ということにして、とにかく演習を始めると、その子は、2桁のたし算・ひき算が上手く出来ないのでした。
    式は正しいのですが、計算が合わないのです。
    特にひき算。
    繰り下がりのあるひき算ができなくなっていました。
    筆算の上の数から下の数を引けない場合、下から上を引いていました。
    例えば、93-47=54 としてしまうのです。

    ・・・これは想定外でした。
    何でここまで計算力が落ちるんだろう?
    計算スピードが遅くなるとか、ミスが増えるとか、その程度のことは予想していましたが、ひき算ができなくなるまで退化するとは、さすがに想像していませんでした。
    「・・・計算力が落ちていますね」
    そう指摘すると、その子は、答えました。
    「そんなわけない。休み中はずっと〇〇タッチで勉強していた」
    「・・・」

    ああ、そうか・・・。
    休み中、個別指導を受けない代わりに、通信端末とタッチペンで勉強する通信教育のほうに行っちゃったかー。

    休み前に予習した内容に関しては、もう忘れていても仕方ないと思っていたら忘れていなかったので、それは、通信教育の効果なのかもしれません。
    でも、たし算・ひき算ができないと、解き方がわかっていても、正解は出せません。

    学習する際の用具というのは意外に学習に影響します。
    日本の子どもが、国際的な読解能力テストで順位が低かったのも、コンピュータを使用する解答形式に慣れていないことも一因ではなかったか、と分析されています。
    逆に、コンピュータを使った学習ばかりしていると、紙と鉛筆で問題を解くことに違和感があり、手が上手く動かずスムーズに計算出来ないということも起こるでしょう。
    タッチペンによる学習も同様で、そればかりやっていると、紙と鉛筆を使って行う筆算の感覚がにぶる。
    ふっと、やり方がわからなくなってしまう。
    それは、学力的に心配な面のある子ほど影響が大きい。
    そういうことがあるかもしれません。

    通信端末のようなガジェットは子どもに受けがいいので、与えておけば学習意欲が高まるということはあると思います。
    ただ、今のところ、日本の教育現場において、テストは紙と鉛筆で解くものです。
    入試も同様です。
    紙と鉛筆を持つとテンションが下がったり違和感があったりするようでは、テストの結果に影響します。

    これはまた別の話になりますが、以前、ある英語塾が通信端末を導入して、生徒が家庭でも英文を読んだり聴いたりできるようにしたことがありました。
    英語塾に週2回通うだけでは、効果は限定的。
    毎日英語に触れるほうが学習効果が高い。
    だから、それは英断だったはずなのですが、生徒たちは、その端末に他のアプリを入れられること、通信型の対戦ゲームができることを発見しました。
    以後、その端末はゲーム機と化し、子どもたちは、英語の勉強をしているふりでゲームをやり放題となりました。
    また、生徒同士のコミュニケーションも一気に深まり、塾の授業が終わっても塾の前にたむろし、いつまでも喋っていて帰らないという事態も発生しました。
    ガジェット、おそるべし。

    何でも使い方次第なので、全否定するのはおかしいのです。
    ただ、端末を子どもに持たせるときは、大人が目を配る。
    それは、ガラケーの時代から大人が学んでいることです。
    新しいことを導入すれば、保護者は楽になるのではなく、むしろ目を配ることが増える。
    そのように思ったほうがいいように思います。


    話を、たし算・ひき算が上手くできなくなっていた子に戻します。
    翌週、その子は、残りの宿題を解いてきました。
    分数のわり算の宿題でした。
    その宿題の結果は、全問不正解でした。
    分数のわり算のやり方がわからなくなっていたのです。
    わられる数とわる数の両方を逆数にして、計算していました。

    その子は、全問不正解が納得できなかったのか、最初は私の採点ミスを疑ったようでした。
    「そんなはずない。ネットで調べたのに」
    と言うのです。

    ・・・分数のわり算のやり方を、ネットで調べた?

    ネットで調べ、分数のわり算は逆数のかけ算に直せば良いことを知り、そうして、わられる数とわる数の両方を逆数にして計算したのでした。
    それでは、全問不正解になります。

    私は、その子に渡してある塾テキストの該当ページを開き、指さしました。
    「分数のわり算のやり方は、ここに載っています。このテキストでも、学校の教科書でも、見やすく、わかりやすく載っています。なぜそのやり方で解けるのか、意味も書いてあります。やり方を忘れたのなら、なぜ、まず教科書やテキストを見ないの?」
    「ああっ!」
    その子は、幽霊を見たほどの衝撃を受けた顔をしていました。

    いえ、ネットではダメで、教科書なら良いという話でもないのです。
    肝心なのは、ネットでも何でも、本人の注意力や読解力が不足していれば、「分数のわり算は、逆数にしてかけ算する」という情報は、わられる数もわる数も逆数にするという方向へ行きやすいということなのです。
    実際に学校で勉強していても、塾で演習していても、途中からそんなふうになってしまい、違う違う違う、わられる数はそのままだよと幾度も制して、意味を確認し、それでも、翌週もまた間違えているのでもう一度解説して、練習して、そんなふうにしてやっと分数のわり算が身につく子は多いのです。

    情報を自ら得て活用する学力を育てる。
    21世紀型の人材を育成する。
    良い目標だと思います。
    しかし、つまりそれは、子どもの地力では、その力が欠けている子が多いから、そういう力を育てる必要があるということです。
    子どもが勉強のためにネットを利用しているときにも、大人は目を配る必要があります。
    間違ったサイトを見ていないか。
    正しく情報を読み取っているか。
    家庭の役割は増えこそすれ、減ってはいないのです。

    機械を用いて自学自習できるのは、ある程度の学力と判断力がついてからです。
    それまでは、どのように機械を利用しているか、それを丁寧に見守る大人が必要です。

      


  • Posted by セギ at 13:10Comments(0)講師日記

    2020年01月18日

    新指導要領に思う。



    このブログの本当に初期のものを読み返し、以下の内容のものを発見しました。
    中学でようやく「ゆとり教育」が終わり、新しい学習指導要領になるときのものでした。
    新しい学習指導要領とは、現行の指導要領です。
    小学校では、来年度からさらに新しい学習指導要領となります。
    その変わり目の今、昔のブログを読むと、当時との違いに感慨を新たにしました。
    以下、当時のブログを採録します。


    来年から、中学は新指導要領になり、教科書は大改訂されます。
    「ゆとり教育」で、3割削減されていた指導内容の多くが、戻ってきます。
    数学の教科書は、例題解説や練習問題のページが増え、発展的内容も盛り込まれ、教科書の「参考書化」「問題集化」が言われています。
    私としては、今度の改訂は歓迎です。
    今まで公立中学生に数学を教えていてダメだなあと感じてきたことの1つに、応用問題への拒絶反応ということがあります。
    基礎学力がある。
    数学センスもいい。
    これなら、都立自校作成校や私立有名校に入れるかもしれない。
    そう思って、そのために必要な難度の高い問題を教えるのですが、どうにも身につかない子がいます。
    「学校で習っていない」と言うんです。
    習っていなくても、入試には、出るのですが。

    ただ、気持ちはわかります。
    そんなに難しいことを勉強しても、学校の定期テストには出ない。
    「入試のときに必要だ」と塾のセンセイが言っても、そんなに先のことは実感がわかない。
    すぐに必要ではないことは後回しになるのは、子どもも大人も同じです。

    そして、中3の晩秋。
    いざ志望校の過去問を解いてみると、30点しか取れません。
    数学が30点では、合格は難しい。
    だから、自校作成校はあきらめ、一般都立に。
    私立志望の場合も、一般受験は無理だから、単願推薦だけ。
    そんなふうに、ランクダウンせざるを得ない子もいました。
    もちろん、中1の最初から、私の言葉を信じて、不当なほどに難しい問題にもくいついてきてくれる公立中学生の子たちもいました。
    集団指導の上位クラスで、高度な公式も、定理も、応用問題の解法パターンも、競って身につけるムードになれば、あとは楽勝でした。
    私としても、その信頼は絶対に裏切れません。
    そういう子たちには、都立自校作成校でも、私立でも、行きたい高校に合格してもらいました。

    だけど、「信じてついてきてくれた子たちにだけ、信頼に応える。私の言葉を信じなかった子は、志望校に行けないのは仕方ない」では、少しおかしいですよね。
    中学生の稚拙な判断が、将来を左右してしまうなんて。
    素質のある子には、その素質を順当に開花してもらいたい。

    私立入試に出題されるレベルの問題が、最初から教科書に載っていれば。
    数学が得意な子だけにでも、学校で教えてくれれば。
    定期テストに1問だけでも、そのレベルの応用問題が出題されるようになれば。
    子どもの意識が変わる。
    学校では完全に理解できなくてもいいんです。
    学校で少しでも教わり、必要なことなんだと子どもが理解すれば、塾で完全に身につけます。
    新しい教科書なら、それがあり得るかもしれない。
    私は、そこに期待しています。


    ・・・さて、引用はここまで。
    現在の私に戻ってまいりました。
    ほんの9年前のことなのに、隔世の感があります。
    今、公立中学校の生徒で、応用問題を解かせてこのような抵抗を示す子は存在しません。

    本人の学力によっては、問題を解きたがらないということは、今もあります。
    教わるのは好きだが問題演習は苦手で、宿題を出しても解いてこない子はいます。
    1問わからないと、そこから先は全部解いてこないのです。
    「わからなかった」といって、全て授業で教わろうとします。
    そういう子は、現代も存在しますし、伸ばすのが難しいタイプの子です。
    昔ならば、集団指導の授業で受験テクニック的なことを教わると満足し、良い授業を聞いたことで自分の学力は伸びたと誤解する子です。
    今ならば、ネットの授業動画を見るだけで満足する子も、このタイプに入るでしょう。
    しかし、聴いただけ、見ただけでは、学力は伸びません。
    それで得た知識をもとに、さて、自力で問題を解くことができるのか?
    テストは、演習力がものを言います。

    最初は誤答ばかりでも、本人なりに何かを考えて根拠をもって解いてきてくれるなら、それに対し指導も補助もしていくことが可能です。
    必ず伸びます。
    しかし、全く解いてこない、あるいは「勘」で解いてくるだけで考えて問題を解くということがない場合、いつまで経っても演習力は養えません。
    本人にとっては、わからないから解けない。
    わからないから「勘」で解いている。
    そこを直せと言われるのは不当だという気持ちがあるかもしれません。
    受験が近づいても、志望校の過去問をまともに解けない。
    「勘」で解くしかない。
    そういう学力の子は、今も存在します。

    しかし、基礎力は十分あるのに、定期テストには出ないからと応用問題の演習を拒むような子は、今は公立中学の生徒でもほとんど見なくなりました。
    理由は単純。
    定期テストに応用問題が出るからです。
    しかも、移行措置で、テストに新傾向の問題もちらほら見られるようになってきています。
    授業で扱われたわけではなく、既存の問題集にも存在しないタイプの問題が、するっと定期テストに出題されています。
    今は配点が低いので影響は少ないですが、これの配点が高くなると、本人の思考力が得点を左右するようになっていきます。

    新傾向というのは、まさに新傾向なので、その新傾向を分析するのは最初のうちは極めて難しいのです。
    AIが分析しますよ、などというのは胡散臭い。
    AIは、過去のビッグデータをもとに分析しますので、新傾向には弱いのです。
    次のテストで何が出題されるかの特定は不可能でしょう。
    そして、「新傾向」と称する問題に、出題頻度の高い形式が生まれてきたとき、それは新傾向でも何でもない「典型題」となっていきます。
    AIが統計的にこういう問題の出題度数が高いと判断する頃には、既に人間の講師が典型題の判断をしているはずです。
    問題として質が高い良問であるという判断基準が人間にはありますから。

    しかし、こんなふうに書くのも、当時と比べると隔世の感があります。
    個別指導塾を開いたばかりの当時の私のライバルは、集団指導塾であり、学生アルバイトを多数抱える大手個別指導塾でした。
    現在の私のライバルは、授業を動画で提供する有料サイトであり、AIを活用した個別指導プログラムです。

    学力向上の根本は基礎力。
    基礎力を鍛えるカリキュラムの選定は、AIにも可能でしょう。
    ただ、誤答する子の理由は様々です。
    知識不足にしろ何にしろ、根拠をもって本気で解いて誤答したのなら、その能力をAIは正確に判定できるかもしれません。
    しかし、「勘」で解いている子に次に解くべき適切な問題を指示できるのでしょうか。
    また、理解はしているけれど多種多様なケアレスミスを繰り返す子に、正しい次の指示ができるでしょうか。
    そうしたことは分析できず、誤答すれば少し易しい類題を指示するだけ、ということはないのでしょうか。
    毎回、解けば解くほど「易しい類題の森」に迷い込み、それでもケアレスミスを繰り返すので、学力がついたと見なされない、という可哀想な子が現れないと良いのですが。

    3.5-1=4.5 といった計算ミスをする子は、小数の計算の仕組みが理解できていないとは限りません。
    答案を書くときのほんの一瞬、脳に何かが起こるのでしょう。
    そうしたミスを見たとき、私は、その子に小数の計算の復習は命じません。
    そうした子は、小数の計算だけを間違うわけではなく、次の問題では、56÷2=26 と暗算ミスをしてしまったり、さらに次の問題では、2x2と書くべきところを2x3と書き誤ってしまうのです。
    ミスの原因は小数の理解不足ではありません。
    しかし、AIは、小数の復習を命じるかもしれません。
    それを命じられた恥ずかしさで、細心の注意を払うようになり、ケアレスミスが減る子もいると思います。
    しかし、どこまでレベルを下げても、それでもケアレスミスをする子もいると思います。
    小数の計算なんかできるよと思いながら、しぶしぶ解くと、それもまた、ケアレスミス・・・。
    気がつくと、小学校の算数の復習コースに迷い込んでいた・・・。
    そんな学力ではないのに。
    その都度チューターに相談してレベルを操作し直してもらう繰り返し。
    そんなことにならないと良いのですが。

    教材会社から送られてくるAI導入のパンフレットなど見ながらも、初期費用の高さ以上にまだ心配な点が多くあり、導入する気にはなれません。
    うちの教室に通ってくれる生徒の成績が順調に上がっている現在、私が判断したほうが適切だという気持ちがあります。
    当面情勢を観察します。


      


  • Posted by セギ at 13:32Comments(0)講師日記

    2019年12月19日

    期末テストの結果が出ました。2019年2学期。


    2学期末テストの結果が出ました。

    数学
    90点台 1人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 2人
    英語
    90点台 1人 60点台 1人 40点台 1人

    この秋から入会した生徒が、今回のテストで、入会前の中間テストから+37点のジャンプアップをしました。
    大成功です。
    とはいえ、いつもそうなるとは限りません。
    場合によっては、入会後も停滞したり、入会前より一時的に下がってしまうこともあります。

    +37点の生徒には、最初から私が教材の選定をすることが可能でした。
    学校の問題集からの質問も受けますが、基本的にはどの問題を授業で扱うのかは、私が決めています。
    当然、定期テストに照準を定め、テストに出る問題を重点的に取り扱います。
    「テストに出る」というのは、その学校の過去問を集めて予想問題を用意してといった、ちまちました対策ではありません。
    大事なことがテストに出る。
    絶対に身につけるべきことがテストに出る。
    そういう観点で問題を選んでいます。
    その上で、出題傾向というものもありますから、短問形式はこういう内容が出ることが多いからそれは沢山練習して、後半の大きい問題はこの典型題か、もしくはこれだろうから重点演習して、というやり方をします。

    こんなに理解力のある子が、こんな得点のはずがない。
    絶対何かが起きている。
    何だろう?
    そのように手さぐりしながら、その子が取るべき本来の得点を取ってもらう。
    それが理想の授業の形です。

    しかし、それが上手くいかないこともあります。
    その教科を独りで勉強していくことに行き詰まりを感じて塾に通うことにしたにも関わらず、自分の学習スタイルがもう確固としてあり、それを崩すことができない子の場合です。

    これまで、なかなか成績が上昇しなかった子の一番の要因は、本人が学校の教材に拘泥していたことでした。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがるのでした。
    数学も英語も、学校の教材だけでかなりボリュームがあるのは事実です。
    学校は毎日の家庭学習が十分にできるような分量の教材を用意しています。

    高校生に対しては、塾の授業は塾用テキストで解説・演習し、塾から出す宿題は学校の問題集からにしています。
    テスト1週間前までに最低1回はテスト範囲の学校の教材が終わるようにスケジュールを組みます。
    そうすると、その中での応用問題・発展問題の質問を次の授業で受けざるを得ないこともあります。
    学校から解答解説は渡されていますので、基本問題はそれを見ればわかるのでしょう。
    解説を読んでも意味のわからない応用問題・発展問題のことを訊きたい。
    そのために個別指導に通っている。
    そういう思いがあるのもわかります。

    しかし、解答解説を読んでも意味がわからないような応用問題・発展問題は、定期テストには出ないのです。
    学校が生徒に渡す問題集には、無意味なほどの難問が多少は含まれています。
    学校の先生は、基本問題や典型題の質を評価して、その問題集を採択しています。
    応用問題・発展問題の質が高いからその教材を選んでいるわけではありません。
    しかし、応用問題にばかり目のいってしまう生徒もいます。
    応用問題さえ解けるようになれば・・・、と思ってしまうようなのです。

    その科目が苦手な生徒の傾向は、大きく2つに分かれます。
    1つは、自分は基本問題だけ解ければいい、B問題や練習問題は解けないと決めつけて、やろうとしないタイプ。
    もう1つは、とにかく応用がわからない、応用をやりたい、応用を教わりたい、というタイプ。
    レベルに合わない勉強をしてしまうという点で、どちらも伸び悩んでしまいます。

    前者は、本当に基本問題しか解けず、その中での失点もあるので、点数が伸びません。
    後者は、応用問題の解説を聞いて意味を理解することに勉強時間の大半を使ってしまうので、テストの結果は、基本問題で多くの取りこぼしを生んでしまいます。
    もっと、本人のレベルにあった学習をしましょう。
    本人がそのレベルの判断を誤っていると、成績が伸びません。
    その場合、その判断は塾講師がやったほうが良いのです。


    あるいは、学校の問題集を真面目に演習してはいるのですが、常に解答解説を見ながら解いてしまう子も、なかなか成績が伸びません。
    解答解説を見ながらスラスラ解いていると、自力で基本問題を解くことはできなくても、そのことに気づかないのです。
    その結果、解答解説を読んでも意味のわからない発展問題や章末問題ばかりを気にすることになりがちです。
    意味のわからない難問だけを塾で教えてほしい。
    真面目な子ほど、そう思ってしまうのです。
    質問されれば教えますが、発展問題は癖の強い難問であることが多いです。
    「こんな問題、定期テストに出るわけがない」
    と私は思いますし、その話をするのですが、真面目な子ほど、なぜか私のそうした言葉をあまり信用してくれません。
    学校の問題集に載っているんだから、テストに出るかもしれない。
    そういう思いが強いのかもしれません。
    その科目のテストの得点がふるわないということは、何が重要か、何がテストに出るかの判断がブレているということ。
    どこをどう勉強するべきかの判断を誤っているのですが、そこを指摘されてもなかなか認められない子は、真面目に勉強してきた子に多いです。

    返却されたテストを見れば、予想通り、質問を受けた問題はテストには出ていません。
    ああ良いテストだなあと納得する、基本問題・重要問題・典型題が並んでいます。
    そして、そうした問題でポロポロと点数を取りこぼしてしまうのが、真面目な子たちです。


    学校の教材にこだわる子は多いです。
    数学もそうですが、学校の英語の予習が負担になっている子たちも多いのです。
    学校の英語だけでも大変なので、他のことはやりたくない。
    学校の英語の予習を手伝ってほしい。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    学校の英語の授業に関係のあることだけをやりたい。
    他のことはやりたくない。
    しかし、そういう要望につきあっていると、英語学習の中身が痩せていきます。
    予習といっても、結局、私が代わりに解いてあげて、答を教えてあげることになりがちです。
    自力で英文を読んでいく力、問題を解いていく力が失われていくばかりです。
    だから、定期テストに初見の長文からの出題があると、それは解けなくなっていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強になり、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなっていくのです。

    もっと間口の広い英語学習をしましょう。
    定期テスト直前には学校の進度に合わせてテスト対策をするけれど、それ以外の時間はもっと間口を広くとり、英語力を根本的に鍛えましょう。
    そう話すと理解した顔はするのですが、実際にはコミュニケーション英語の教科書本文の予習をしたい。
    リーディングのサブテキストを全訳してほしい。
    英語表現の教科書の問題を予習したい。
    文法・語法の問題集を一緒に解いてほしい。
    というより、答えを教えてほしい。
    そういう痩せた勉強を望む子もいます。

    単語暗記の宿題を出しても、やってきません。
    長文読解の宿題を出しても、本気で解いてきません。
    本気でやらないから実力がつかず、学年相応の英語力になっていきません。
    学校の定期テストの成績は何とかキープしていても、校外実力テストや模試の英語の偏差値はいずれガクンと下がります。
    あるいは、そんな勉強では英検2級に受かるわけがないので、そのことは事前に伝え、今回は落ちるけれど、まずそのことを実感しなさいと送り出すと、予想通り落ちて、ショックを受けて、塾を辞めると言い出すこともあります。
    だから、今回は無理だって言ったのに・・・。
    許可しなければ良かったのかなあ。

    学力を鍛えるためには、学校の教材を私が代わりに解いてあげる授業ではダメなのです。
    それは当たり前のことなのですが、個別指導や家庭教師ならそういうことができるととらえている子は後を絶ちません。
    わからない問題を質問したい。
    わからないことを訊きたいから個別指導に通うのだ。
    気持ちはわかりますが、学習のピントのズレた内容に対応するだけでは成績は上がりません。

    個別指導を受ける強みは、学校の教材で授業してくれるかどうかの次元の話ではないのです。
    学習の本質をつかめば、学校の教科書も問題集も今までよりも効率的に自力で学習していけるようになります。
    自力で解けるのならば、家庭学習もあまり負担に感じなくなります。

    学習に対して視野が狭くなっていると、いずれその結果が表れてきます。
    学校の問題集を自力で解ける実力を鍛えること。
    テストにどんな問題が出るか、重要なところはどこか、自分で判断できる学力を鍛えること。
    そこに向かってさらに精進してまいります。

    今回、英語90点台の子は、学年トップの得点でした。
    普段、教科書の予習と本文の反訳トレーニングはしていますし、テスト前はテスト範囲の対策をしますが、授業時間の大半は、教科書の内容からは離れた学習をしています。
    近年、学校も英語で英語の学習をするスタイルが増え、リスニング力は強化されている一方、文法が曖昧な子が増えてきていると感じます。
    体系的な文法を、学校ですら学べないことがあります。
    にも拘わらず、定期テストには文法・語法の問題が大量に出題されています。
    英文法は、日本語で学んだほうがいい。
    結果、そのほうが英文も読めるようになっている。
    その子の答案を眺めながら、つくづくとそう感じました。


      


  • Posted by セギ at 11:49Comments(0)講師日記

    2019年11月03日

    中間テストの結果が出ました。2019年2学期中間。


    2019年度2学期中間テストの結果は以下の通りです。

    数学  60点台 4人   40点台 1人
    英語  90点台 1人   60点台 1人   50点台 1人

    2学期中間テストは、1年の中で一番得点が低くなることが多いテストです。
    学校や新しい学年に慣れて、緊張感を失っている。
    夏休みの勉強不足で学力が低下している。
    体育祭や文化祭、修学旅行といった学校行事が詰まっている時期で、勉強に集中できない。
    部活で責任ある学年になった、あるいは3年生が引退して部活の空気が変わり、ゴタゴタしている。
    そういったことがテストの得点に表れてしまうのが、中学生・高校生です。
    明らかに勉強不足でも、本人は「何とかなる」と思ってしまい、結果に青ざめる。
    塾としては毎年の繰り返しですが、本人にとっては初めての失敗で、事前に忠告したところで避けられないことが多いのが何とも歯がゆい限りです。
    「自分は大丈夫」と思ってしまうのが若さというものかもしれません。
    この反省を生かし、次回は頑張りましょう。

    数学は、いつもなら80点台の子が60点台、70点台の子も60点台、逆に50点台だった子、40点台だった子が上がって60点台と、団子状態となりました。
    高校生は、数Ⅰはよくできても数Aが、数Ⅱはできても数Bが足を引っ張る子が多く、それも苦慮するところです。
    ともあれ、次回に期待します。

    英語は、それぞれ入会当時よりも得点が10点以上上がっています。
    なお上昇傾向にありますので、さらに期待しています。


    先日のこと。
    授業中に私のスマホにメッセージが入りました。
    電話番号で入力できる、ショートメッセージです。
    「お客様がご利用の口座が不正利用されている可能性があります。口座一時利用停止・再開手続き」と言う内容で、銀行名と、サイトのアドレスが示されていました。

    うわあ・・・。
    偶然、ちょうどその日、授業の前に銀行に行き、教室の家賃を振り込んだばかりでしたので、それに関連して何か起きたかと一瞬思ってしまいました。
    しかし、こういうのは、大抵は詐欺。
    こんなアドレスをクリックしたら大変なことになる。
    落ち着いて、落ち着いて。

    とりあえずそのままにして、生徒が解いている数学の問題を一緒に解こうとしたのですが、問題文が何を言っているのか、全くわかりませんでした。
    内容を読み取れないのです。
    問題と自分との間に透明な膜が張られたようになり、問題にアクセスできない。
    意味を読み取れないのです。
    え、そんなバカな。
    何でこんなにわからないの?
    やばい、やばい、やばい・・・。

    理由は明白。
    読んでしまった詐欺メッセージのせいでした。
    詐欺だろうと思っても、そうした見知らぬ他人からの悪意が自分に向けられたことも含めて動揺してしまう・・・。

    私はもう一度スマホを取り出して、メッセージを眺めました。
    そして、気づきました。
    書かれていた銀行に私は口座を持っていませんでした。
    だから、これは明らかに、詐欺です。
    最初に読んだとき、そんなことにも気がつかなかった。
    それほど文面に動揺してしまったのです。

    そうとわかって、問題を見直した瞬間、透明の膜はすっと消え、問題文は意味をもって読み取れるようになりました。
    完全にいつも通りとはいきませんが、何とか問題を解いていくことができました。

    こんな経験をしますと、生徒がケアレスミスを連発する精神状態や、数学の問題が全くわからない状態とはどのようなものなのか、体感できた気がします。
    あの状態で数学のテストを受ける恐ろしさが、垣間見えた気がしました。
    努力でどうにかなるとか、落ち着けばいいとか、そういうことではないようです。
    落ち着けば良いことくらい、本人が一番わかっているのです。
    でも、頭がグラッとなったように動揺し、精神を全てもっていかれたようなあの感覚。
    あれでは、問題は解けないです。

    テストには、不安や動揺が一番いけないのですが、それだけではなく、変な興奮状態も妨げになります。
    「休日の朝に解くと良い点なんだけど、学校の帰り、友達とわあわあ喋って帰ってきてすぐに過去問を解いたら、こんな点数になった」
    と、前回より30点も下がった過去問を前にした、小学生にしては冷静な分析を聞いて、考え込んでしまいました。
    友達とわあわあ喋って、ある意味ちょっと興奮して、その状態で過去問を解いたら、ケアレスミスだらけ。
    問題に集中できなかったようなのです。
    友達と嫌な喧嘩をして、泣いて帰ってきて、その動揺のまま過去問を解いたというのではありません。
    友達と面白おかしくわあわあ喋って帰ってきたら、算数の問題を冷静に解く精神状態ではなくなった・・・。
    わかるけれど・・・。

    暗く不安な気持ちでもダメ。
    明るい興奮状態でもダメ。
    機械のように冷静に。
    そんな状態に自分をコントロールするには経験を積む必要があります。
    そのようにできるつもりでいても、私のように1本の偽メッセージで決壊することもあります。
    メンタルの問題は難しいですね。

    しかし、こんなことは考えれば考えるほど、ろくなことにならないのでもあります。
    テストで高い得点を取ることにこだわるだけでなく、とにかく実力をつけること。
    実力はついてきているのだから、大丈夫。
    そう思う中間テスト結果でした。
      


  • Posted by セギ at 13:08Comments(0)講師日記

    2019年10月31日

    近所の都立高校。


    昔、集団指導塾に勤め、中2のクラス担任をしていたある夏のこと。
    保護者面談を行っていたときのことです。
    集団指導塾といっても1クラス10人ほどで、その子の授業態度や宿題をやってきているかなどを正確に伝えることは問題ありませんでした。
    月例テストの成績の推移を示すことで、学力の伸びなども伝えることができました。
    しかし、保護者の中には、
    「〇〇高校に入れそうですか?」
    と、直球の問いを投げかけてくる方もいらっしゃいました。
    無理もありません。
    知りたいですよね、そういうこと。
    その子の成績は、3が大半でたまに4。
    授業中の私語が多く、宿題もやってきません。
    それなのに、志望校は、都立自校作成校でした。
    うーん・・・。

    月例テストは、目安として志望校の合格判定も出ました。
    中3の模試とは違いますので、そんなに正確な数値が出るわけではないですが、目安にはなります。
    本人の記入した志望校の合格判定は、無論、泣き顔の顔文字。
    とはいえ、どの高校を志望するのが妥当かを例示してくれるのが参考になりました。
    その子の場合、月例テストがお薦めする妥当な志望校として、その子の家の近くの都立高校の名前が上がっていました。
    これから頑張れば、そこを受験できるだろうと予想できました。
    しかし、その学校の名前を出すと、お母様は顔をゆがめました。
    「あんな高校」

    第一子のお子さんの高校受験の場合、進路指導でこういうことが起こりがちです。
    さすがに、中3の秋になってそうしたことをおっしゃる方は少ないのですが、まだ中2ですと、入試情報をほとんど得ていない中でイメージが先行し、志望校が高くなる傾向があります。
    近所の都立高校の実力を理解しづらいのも一因かもしれません。

    「あんな高校というのは、近所ですと、やはり、〇〇高校の生徒さんの登下校で迷惑を感じることがあるのでしょうか?」
    と質問してみると、そのお母様は具体的に不快な点を列挙されました。
    制服を着くずしたり、オーバーサイズのセーターやカーディガンをだらだら着ていたりするので、服装の印象がだらしない。
    道いっぱいに広がって大声で話しながら登校していく。
    自転車の子が徒歩の子と並んでだらだら下校するので、交通の邪魔。
    お菓子を食べながら歩き、道にゴミを散らかしていく子もいる。

    うーん・・・。
    大したことではないという見方もできるし、それが毎日のことであれば不愉快極まりないと見ることもできる・・・。
    そのイメージですと「あんな高校」と思ってしまうのも仕方ないのです。
    しかし、その「あんな高校」は、内申が3の中にたまに4があるという状態ですと、これから努力して何とか合格できる高校なのでした。
    中3までにもう少し4を増やして、その上で、入試できちんと得点できるように受験勉強を頑張れば合格できる。
    目標としてほしい、良い高校でした。


    非常にざっくりした話で、例外はいくらでもあり、正確にはきちんと数字を計算すべきことですが、一般に、内申に「2」があると、都立高校に入るのは難しいと言われています。
    言い換えれば、内申がオール3で、ようやく都立高校の学力的に一番下の高校に入れそうだということ。
    一方で、内申オール3は学力的には「普通」なのではないかと感じている保護者の方も多いです。
    普通なんだから、都立高校の「真ん中」くらいのランクのところに入れるのではないか?
    3の中に4もあるなら、中の上くらいの高校に入れるのではないか?
    そして、これから頑張れば、自校作成校に入れるのではないか?

    このような、中学校の内申と都立高校のランクとの感覚のズレは、中3の秋まで是正されないことがあります。
    それは生徒本人もそうで、中2から中3の夏休みくらいまでは、1000点満点で本人の実力よりも200点も上の高校を見学してしまいます。
    昔は、入試情報を一般には得にくく、それで誤解している場合も多かったと思います。
    しかし、今は、そうした情報は得ようと思えばすぐに手に入れることができます。
    模試を開催する会社が、都立高校の60%合格基準点を1000点満点で明示し、全ての都立高校を得点の高い順に並べています。
    それは、学校の先生や塾だけの資料ではなく、誰でも見ることができます。
    1000点満点の得点の出し方も調べればすぐにわかります。

    具体的に計算してみましょう。
    まずは内申点。
    5教科はそのまま、実技4教科は2倍にして得点を出します。
    オール5の場合、5×5+5×2×4=65
    オール3の場合、3×5+3×2×4=39
    これを300点満点に換算します。
    65点満点を300点満点に変えるのですから、300/65倍すれば良いです。
    39×300/65=180
    一方、入試は5教科500点満点。
    これを700点満点に換算します。
    すなわち、500×700/500=500×1.4
    例えば、入試で平均60点取れたら、
    60×5×1.4=420
    先程の内申との和が、その子の得点です。
    180+420=600

    内申と入試が4 : 6の高校もありますが、大多数の高校は上の計算で得点を出すことができます。

    600点で入れる高校はどこであるか、一覧表を見てがっかりされる方は、都立高校の見方にズレがある方です。
    実際には、学校の成績が「3」で、入試当日に60点を取るというのは、相当な受験指導がされて、その結果が出ている場合です。

    都立入試は、難しいのです。

    国語は、大問1、2の漢字の読み書き、大問3の小説の読み取りまでは自力で何とかなります。
    しかし、大問4の論説文は、文字を目で追うことはできても、意味を理解することができない子もいます。
    大問5の古典の鑑賞文となると、内容に興味が持てないことも手伝って、読み通せない子が続出します。
    古典の原文だけでなく、その口語訳も載っているので、落ち着いて読めば大丈夫なのですが、「古文はわからない」と言い出し、大問ごと捨てる子もいます。

    社会は、資料や表・グラフを読み取れない子は悪戦苦闘します。
    自校作成校を受験する子ですら、得点は70点台ということがあります。
    社会が得意な子にとっては得点源なのですが、そうではない子にとっては、地理分野の問題と「現代の日本と世界」に関する問題で得点を固めるのが難しい科目です。

    数学は、大問1の小問集だけは何とかなるはずです。
    しかし、せめてそこだけはとりこぼしのないようにと努めても、そこで計算ミスをし、ポロポロととりこぼす子はあとをたちません。
    あとは、残る大問のそれぞれ問1しか解けない子が多いですし、その問1を解けることに気づかせることも大きな課題となりがちです。

    理科は、大問1と2の短問集は知識が定着していないためのとりこぼしが多くなります。
    その上、大問3から6は、実験や観察の記述が膨大であるため読み通せない子が続出します。
    入試で理科が最低点となるのは常態です。

    英語は、初見の長文を読めない子が多いのです。
    1~2行で本文を読むのを諦めてしまいます。
    大問1のリスニングと大問2の短文を読む問題以外は、苦戦が必至です。

    内申が「3」の子が独りで受験勉強をしていると、この学力で入試当日を迎えることになってしまいかねないのです。
    50点を取るのも難しい場合もあります。

    入試得点は、平均が50点ならば、
    50×5×1.4=350
    内申との和は、
    180+350=530
    都立高校一覧表と見比べてみると、この数字で合格できる都立高校が極めて少ないことがわかると思います。

    内申が「3」でも、入試本番で頑張れば・・・と、つい思ってしまうのですが、入試本番で高い得点が取れるなら、それ以前に内申はもっと高いはずなのです。
    内申には様々な観点が加味されているといっても、ざっくりいって、定期テストで80点台を取っていれば大抵は「4」になりますし、90点台を取っていれば大抵は「5」になります。
    定期テストで70点台の、「4」に近い「3」の子なら入試問題への対応力もそれなりにありますが、定期テストで50点台をいったりきたりの「2」に近い「3」となりますと、入試問題への対応力はかなり弱まります。

    さらに、入試直前になると、志望校を下げる子が現れます。
    特に、自校作成校を志望していた子の多くが、普通の都立に志望を変えます。
    「上から受験生が降ってくる」という状況が起こります。
    どんどん押し出されて、一応合格しそうだった高校も、決して安心できない状況になっていきます。
    都立高校は、中位から下位になるほど合否の見極めが難しいのは、こうした事情もあるからです。

    そうした中で、入試得点を何とか固めていくこと。
    上のように、子どもに任せていたら全く歯が立たない問題を解けるようにしていくこと。
    塾の腕の見せどころであり、上のような学力の子が、ひと通りまともに入試問題を解いていけるようになった結果が、入試平均60点。
    そうであることは、塾講師と生徒本人はわかっています。
    受験をともに乗り越えれば、保護者の方も理解してくださることです。

    自校作成校に合格させることだけが難しいわけではありません。
    素質があり、自発的にどんどん勉強する子なら、むしろ指導は簡単なのです。

    入試問題の難しさに跳ね返され、眺めた瞬間に「無理」と諦めて解こうとせず、独りで勉強させると考える前に解答を見てしまう・・・。
    そういう子が、どうにか都立入試問題を6割解けるようになる。
    そこに詰まっている受験技術と指導技術。
    こちらのほうが仕事としては大変です。

    入試問題を解けない子は、学力の問題以前に、「応用問題は自分は解けない」という思い込みが強いのです。
    そして、解き方を知りません。
    問題への切り込み方がわかっていない。
    問題の亀裂にぐいぐい食い込んでいく方法を知らない。
    問題を眺めて、ぱっとわかれば「解ける問題」。
    ぱっと見てわからなければ「解けない問題」。
    入試問題は、ぱっと見てわかる問題ではありません。
    だから、入試問題は、永久に解けない問題。
    それで終わってしまいかねないのです。

    国語の評論も英語の長文も、ちょっと読みづらいとすぐに諦める。
    自分には無理だと思ってしまう。
    読み方がわかっていない以前に、勉強に対する耐性がない。
    秀才は、あれは異人種。
    自分はそういうのではないから。
    と自己評価の低い子は多いです。
    小学校の頃は、誰でも解ける基本問題以外は解く必要がありませんでした。
    中学になってそれが通用しなくなっても、その現実と向き合えない。
    勉強に対して心傷ついたまま、まともに向き合えない。
    難しい問題と正対できない子は多いです。
    自分の潜在能力をギリギリまで発揮しようとしない。
    すぐに逃げてしまう・・・。
    「2」に近い「3」の子の受験勉強は、そうした「逃げ」との闘いから始まります。

    自校作成校に〇〇人合格とうたいながら、その他の都立高校には大量の不合格ということもあるのが塾です。
    実際、私が昔勤めていたその集団指導塾も、上のクラスの半分以上の生徒が自校作成校を志望し、私の在籍した5年間では、もともと無謀な受験だった1人を除いて全員合格しましたが、下のクラスの都立の合格率は50%に満たない年もありました。

    1つには、進路指導上の困難があったこと。
    過去問の得点を生徒に自己申告してもらうシステムを取っていたのです。
    模試の判定も参考にしていましたが、模試の問題は本物の入試問題と比較するとやはりちょっとあっさりしています。
    「都立そっくり」といっても、国語や英語ほどの再現度にはなっていない科目もあります。
    難度は一致しているのですが、読み取らなければならない文字数がやたら多いのが都立入試です。
    くどくどと長い説明と設問を読み通す力が必要です。
    だから、模試も大切ですが、最終的には過去問で何点取れるかが合否の判断で重要となります。
    しかし、その塾の下のクラスでは、解答解説を見ながら解いた過去問の得点を申告してくる子が多く、進路指導の誤差が大きかったのです。
    中3のそのクラスは塾長が担任をするのが毎年の慣例で、塾長は、生徒のことを無条件に信じる人でした。
    私なりに進言しましたが、私の言うことよりも生徒の申告を信じてしまう人でした。
    生徒たちが解答を持っていない古い過去問を授業中に解いてその結果を塾長に渡したり、生徒本人に嘘の申告がどのような結果を招くか説明したりしましたが、解答解説を見て解いていながらも自力で解いているような錯覚に陥っている子も多く、なかなか改善しませんでした。
    水増しの過去問得点を申告した子たちは残念な結果に終わっていきました。
    志望校をあと1つ下げるべきだった子が多かったのです。

    勿論、それだけではなく、下のクラスの子は演習量を確保しづらいという課題もありました。
    宿題を出しても「難しかった」と言って解いてこない子が多いのです。
    易しいドリル形式の問題しか自力で解いてきません。
    しかし、入試問題はそんなレベルではありません。
    常に傍らにいて、
    「この問題は解けるよ」
    「この問題は、この前も解いたばかりだよ」
    と声をかけて励ますと解けるのですが、独りでは、すぐに諦めてしまうのです。
    自力で課題をぐんぐんこなす子たちとは学力差がさらに開いていってしまいます。

    過去問を買って、自分で解こうとしても、数問眺め、歯が立たないと諦めて、答えを見てしまう。
    解き方と答えをノートに書き写すことで勉強した気になってしまう。
    そして、難しい問題は解けないからと、易しい1問1答形式の薄い問題集などを自分で買って、それで受験勉強をした気になってしまう。
    自力で入試問題を解いた経験が一度もないまま、入試を迎える。
    そして、残念な結果に終わってしまうのですが、なぜ合格できなかったのか、保護者の方は真の理由を知りません。
    生徒本人が上のような分析を自力ではできないですから、知りようもないことです。
    内申は他の子と同じで、何とか合格できるのではないかという高校を受けても結局合格しなかった子の中には、受験勉強らしい受験勉強をできずに終わってしまう子も多かったのです。

    私の塾は、今年で8年目になりますが、都立高校に不合格だったのは、開校した最初の1人だけです。
    あとは、全員合格しています。
    5教科全てのその子の実力を把握し、私が直接保護者に連絡できるシステムがあること。
    常に傍らにいて、その子が解ける問題は絶対に解かせることが可能であること。
    受験事情を知らない人にとっては「何でもない都立高校」に合格させることが、私の大切な仕事です。


    都立高校に合格した子たちは、勉強のやり方を知っている子たちです。
    だらだらした服装でだらだら歩いている子も、勉強は標準以上にできるんです。
    そうした見た目と勉強ができるかどうかは、観点が異なります。
    道路にゴミを捨てていくのは・・・、それは絶対やめてほしい。


    近所の高校に対する不快な感情というのは、しかし、消え難いものなのかもしれません。
    お母様が「あんな高校」と言ったその生徒は、中3になって4をいくつか増やし、受験勉強を頑張って、都立高校に合格しました。
    ただし、1000点満点の数字がほぼ同じ、隣りの旧学区の高校に。
    その高校は、その地域の近所の人には「あんな高校」と言われていたかもしれません。
    近所の高校と何が違うというのだろう?
    そうも思いましたが、本人も保護者も納得しているのなら、それで良いのでしょう。
    自分が納得できる高校生活をおくれることが何よりも大切なこと。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 13:13Comments(0)講師日記

    2019年10月07日

    叱るよりも、支えること。


    もう何年も前のことになりますが、高校生に学校の英語のサイドリーダーの読解を授業でやってほしいと頼まれたことがありました。
    授業をするには、そのサイドリーダーの本文が必要です。
    しかし、サイドリーダーは、学校販売のみで、個人が書店やネットで入手するのは難しい場合がほとんどです。
    本文が私の手元にないのでは授業がしづらい。
    授業前に下調べをすることもできません。
    重要表現をまとめたり、重要文の暗唱のためのプリントを作ることもできません。

    「サイドリーダーをコピーして持ってきてください。1度に全部コピーしてきてくれると嬉しいけれど、まずは第1章だけでもいいよ」
    そのように、その高校生に話しました。
    しかし、翌週、その子はコピーするのを忘れてきていました。

    その翌週も、その子はコピーを持ってきませんでした。
    それだけでなく、
    「コピーがなくても良くないですか?」
    と言い出しました。
    なぜコピーが必要なのか、最初に説明したのですが、一度では理解できなかったようです。
    もう一度、
    「1冊しかサイドリーダーがないんだから、私が逆さに英文を読まないといけないでしょう。中学の教科書のような、字が大きくて簡単な内容なら平気だけれど、この字の小ささで、この内容を逆さに読むのは無理ですよ」
    と私が説明すると、その子はがっかりした顔をしました。
    このセンセイはそんなこともできないのかと、少し笑っているようにも見える表情でした。
    そこで、サイドリーダーを私が読みやすい向き、つまり生徒には逆さに向けて、
    「ずっとこれで授業しますが、これで大丈夫ですか?」
    と尋ねると、
    「大丈夫」
    と言うのです。
    私が逆さで読めない英文を、その子が逆さで読めるわけがなかったのですが。
    それでは自分の勉強にはならないということに気づかないのでした。
    「私の手元にコピーがなかったら、重要表現をまとめたプリントや予想問題を作ることもできないですよ」
    と説明しても、
    「どこがテストに出るのか、口で説明してくれればいい」
    と言い出すので、頭を抱えました。
    教材研究の時間を私に1秒もくれる気がない。
    その必要性を想像できないようでした。
    結局、私のほうにサイドリーダーを向けたまま全訳し、ここの表現は重要だねと次々指摘しました。
    5分ほどで、その子はギブアップしました。

    コピーがなければサイドリーダーの授業は無理です、来週はコピーを持ってきてねと頼んだ、その翌週。
    ようやく、その子は、コピーを持ってきました。
    「すっごく大変だった」
    と愚痴をこぼしながら手渡してくれたコピーは、1ページ目は曲がって左端が大きく欠け、2ページ目はぼやけて文字が見えませんでした。

    生徒が持ってくるコピーは、多少曲がっていようが、汚れていようが、必要な部分が読み取れれば良いのです。
    しかし、英文の左端が大きく欠けているコピーとか、ぼやけて文字が判読できないコピーは、さすがに使用に耐えるものではありませんでした。

    なぜそのようなことが起きたのか?
    その子は、家庭用プリンタでコピーしてきたのでした。
    家庭用プリンタは、コピー機としての性能は低いです。
    業務用のものと比べると解像度が低いので、文字がぼけやすいのです。
    1枚の書類をコピーするのはまだ楽ですが、本をコピーする場合には、手でしっかり本を押さえ、光が通り過ぎる間、その状態をキープする必要があります。
    しかし、その子は、本をガラス面に置くと手を離し、プリンターの蓋をしてコピーボタンを押したのでしょう。
    手を離した瞬間に本は位置がズレ、浮き上がって文字はぼけ、使い物にならないコピーになったようです。

    初めてコピーをとるときは、高校生でもそんなふうなことがあります。
    「コピーもろくに取れないのかっ」
    などと叱る必要はなく、やり方を知らないだけです。
    ただ、出来上がった失敗コピーを見て、これは取り直しだとなぜ判断できなかったのか?
    コピーするという作業が目的にすり替わってしまい、文字を読み取れるコピーでなければ意味がないということが理解できなかったようでした。

    「これ、家のプリンタでコピーしたの?これじゃ読めないですよ。家のプリンタは上手くコピーできないでしょう?」
    「すごく難しかった」
    「コンビニのコピー機でコピーしたほうがいいですよ。来週までに取り直してきてください」
    そう頼むと、しかし、その子の顔は曇りました。
    「・・・お金が勿体ない」
    「家のプリンタも紙代とインク代がかかるんですよ。特にインクは高い。1枚あたりにすれば、コンビニのコピーと大差ない金額になります」
    「え?そうなんですか」
    「お母さんに話して、コピー代を、お小遣いと別にもらいなさい。何なら、私からお母さんにメールするよ」
    「いや、それはいい。お金が勿体ないと言ったのがわかったら、怒られる」
    しかし、顔は曇ったままです。
    「うん?あとは何が問題?」
    「コンビニのコピーのやり方がわからない」
    「・・・じゃあ、お母さんに頼んで、一緒にコンビニに行ってコピーの取り方を教えてもらうといいよ」
    「・・・」
    もはや、それは嫌だという反応もなくなったのは、失敗しているという実感が自分でもあったからでしょうか。

    その翌週。
    B4版の美しいコピーの束を、その子は持ってきました。
    ただ、1枚目を見た瞬間に、異常に気づきました。
    文字が原本よりも大きく、その一方、上下左右に余白がなく、ページいっぱいに文字が広がっていたのです。
    本文のみを最大限に大きくする拡大コピーがされていたのでした。
    「お母さんが、凄く難しかったと言っていた」
    「・・・」
    余白がないように拡大コピーしたので、ページを示す数字はカットされていました。
    ページ数の記載がないコピーが40枚ほど。
    うっかり落として、紙をバラまいてしまったら終わりです。
    恐ろしいものを受け取ってしまいました。


    それにしても、なぜお母様は、拡大コピーをしたのでしょうか。
    余白なく、しかし本文は確実に入るよう拡大コピーするには、拡大率をあれこれ考え、数枚は試して、ようやく出来たと思うのです。
    拡大コピーなど頼んでいないのに、何でそんなことになったのでしょう?

    推測するに、
    「こんなに小さな字のサイドリーダーを逆さに読むことはできない」
    「このコピーは、字がぼやけていて読めない」
    と私が言ったという情報が、少し曲がった形でお母様に伝えられたのではないかと思うのです。
    そう言えば、塾のブログも何だか字が大きかったような気がする。
    もう1つ。
    お母さんに頼んで、一緒にコンビニに行ってコピーしなさいと私が言ったことが、お母様には理解しかねることだったのではないかと思うのです。
    何で私がやらなければならないのだろう?
    なぜ、子どもがやるのではダメなのだろう?
    何かとても難しいことを要求されて、だから私の助けが必要なのかしら?
    切れ切れの情報を統合した結果、お母様の判断は、
    「字が小さくて読めないからセンセイが困っていて、だから拡大コピーが必要なのだろう」
    というものになったのでしょうか。

    字が小さ過ぎて読めないっ。

    いやいや、本当にそんなことなら例のルーペを買います。
    逆さに読むのでなければ、小さい字でも読めるのです。
    そんなことよりも、ページ数の情報のほうが、コピーには重要です。

    そのお母様は、自分がコンビニでコピーを取らねばならない理由を、自分の子どもに原因があることと考えれられず、外部に理由を求めた。
    高校生である自分の子どもがコピーを取れないことなど想像もしなかったので、私の老眼を疑うほうに発想がいってしまったのだと思うのです。


    こんなのは笑い話ですが、このような「伝言ゲームの失敗」は、塾ではときどきあります。
    大きな理由の1つは、保護者が見ているお子さんと、私が見ているその子とは、見え方がかなり違うということ。
    家庭内ではしっかりしていても、外の世界で起こることには上手く対応できない子もいます。
    「もう中学生だから、もう高校生だから、大丈夫」
    と保護者の方は思っていても、新しいことへの対応力に乏しい子もいます。
    そこに、子どもの口から語られるあやふやな情報が加わると、こうした「伝言ゲーム」が起こります。

    家庭内では、子どもは生まれ育った安全な空間の中でルーティンで生活していますので、それなりにしっかりしているように見えるのかもしれません。
    親に対して一人前の口をきくこともあるでしょう。
    しかし、未経験のこと・新しいことに上手く対応できない。
    それだけでなく、当然その年齢ならばできるだろうと期待されていることを上手くできない傾向がある。
    そういう子が今は多いです。
    そのことに親は気づかない、ということがあるのかもしれません。
    その子が不器用であることよりも、その子の不器用さを保護者が気づいていないことのほうが根深い課題であると感じることがあります。
    必要なサポートがされないからです。

    忘れ物が多い。
    何が宿題に出されたのか忘れてしまう。
    メモをしても、そのメモを後で見ることを忘れてしまう。
    メモを失くしてしまう。
    学校の定期テスト日程を把握していない。
    テスト範囲を把握していない。

    失くし物も多い。
    塾で渡したプリントを、翌週には失くしてしまう。
    しばらく使っていなかった冊子テキストは、ほぼ100%失くしてしまっている。
    学校のワークや問題集の解答集を失くしてしまうこともあり、学校の宿題を提出したい気持ちはあっても、解答がないので丸つけして提出することができない。
    解答集だけでなく、ワークや問題集本体も、失くしてしまうことがある。
    学校の机の中かロッカーか、散らかった自分の部屋のどこかにはある。
    でも、どこにあるかはわからない・・・。

    定期テストが終われば、問題用紙を学校の机かカバンの中に突っ込んでしまい、そのまま失くしてしまう。
    「テストを持ってきてね」
    と頼んでも、答案用紙が返却された頃には問題用紙を失くしているので、セットで塾に持ってくることができない。


    コピー取りが上手くできなかったその子も、そういう傾向がありました。
    塾に持ってくる物の把握を上手くできませんでした。
    持ってくるものリストを作ってあげても、それを見てチェックすることも忘れてしまうので、結局リストも役に立ちません。
    教材不足の中で授業を成立させるのに苦慮しなければならない日も多くありました。
    宿題を解いたノートと、宿題に使ったテキストだけを持ってきて、あとは全部忘れてくるのです。
    宿題をやったときは、宿題のことだけで頭がいっぱいになってしまうようでした。
    他の教材を全部忘れてきているので、宿題の答えあわせが終わると、では授業は何をするの?という状態になってしまうのでした。
    あるいは、その日、自分が勉強したい学校の教材だけを持ってくることもありました。
    宿題はやってきたの?と尋ねると、そう言えばそんなものがあった、と驚いた顔をしていました。

    また、定期テスト前はテスト対策を2週ほどします。
    そうすると記憶がリセットされてしまうのか、テストの翌週は、筆記用具しか持ってこなかったこともありました。
    塾に何を持ってくればいいのか、わからなくなってしまったようでした。
    そうしたことが繰り返されていました。
    高校生です。

    コミュニケーションがとりづらい。
    私の要求していることが上手く伝わらない。
    スケジュールの管理・物の管理が上手くできない。
    不器用で、色々なことにつまずき、それが学習に影響している・・・。


    もう1つ驚いたことがありました。
    私は、ひと月ごとにまとめて授業の内容をメールで報告しています。
    その指導レポートの送り先として登録されていたメールアドレスは2つあり、お母様のアドレスと、もう1つはその子本人のアドレスだったことが、レポートを送り始めて数か月後にわかったのです。
    勉強のことで参考にするのは本人なので、本人が読むのが良いと思ったというのでした。

    お母様が、その子のことをそんなにも信用し、大人のように扱っていることに、私は心底驚きました。
    小学生ができることをできないでいる高校生を、大人と同じように扱っている・・・。
    テスト範囲を把握できないことも、持ち物を管理できないことも、その子の自覚に任され、家庭内で補助されていないのではないか?
    その一方、学校の成績が良くないことだけは問題視されているとしたら・・・。

    ちょっとだらしない性格傾向はあるけれど、能力の問題ではないと思われているのではないか?
    テスト範囲がわからなくても、教材の管理ができなくても、それは大きな問題ではないとされているのではないか?
    ただ、その性格は直したほうが良いので、ときどき、両親が叱る。
    部屋が散らかっていること。
    テストの点数が低いこと。
    叱って直させたいと思っているが、根本の解決には至らない・・・。
    そうなのだとしたら・・・。

    テスト日程やテスト範囲が把握できない。
    教材の管理が上手くできない。
    この2点は成績に大きく影響します。
    過保護になってはいけないと、物や情報の管理を子どもに任せ、失くすに任せていては、そのままです。
    そのように信頼しているのなら、子どもの成績についても子どもの自覚に任せたほうがいいです。
    それはできず、口を出す。
    口を出すが、助けない。
    ときどき、わっと叱る。
    叱るわりに、その子の課題が見えていない・・・。
    むしろ、課題があることなど認めたくないから、その子を一人前の大人のように扱っているということはないのだろうか。


    他人ごととして読むと「その子は発達障害なのかしら?」という疑問が浮かぶかもしれません。
    しかし、実際に発達障害と診断されていたり、グレーゾーンとされている子の指導もしてきましたが、彼らは、情報や持ち物の管理はしっかりしていました。
    この子のどこがグレーゾーンなのだろう?と、むしろ疑問に思うことのほうが多かったのです。
    高知能であることも多く、望む大学に進学していきました。
    ご両親が専門家と連絡をとり、勉強し工夫して子育てをされてきたからだと思います。

    むしろ、そのような診断をされていない子に、上のような状態の子が多いと感じます。
    物や情報の管理ができないのは、本人がだらしないから。
    勉強ができないのは、努力が足りないから。
    性格的にだらしないだけで、やればできるはずだ。
    叱れば直るはずだ。
    とされてしまうこともあると思います。

    グレーゾーンの一歩定型側は、グレーゾーンとどこが違うのでしょう?
    全てはグラデーションで、線引きなど本当はできないのではないでしょうか。

    ただ、他人ごととしては「発達障害の傾向があるのかしら?」で済むことも、保護者にとっては決して認められない場合もあると思います。
    実際、そのような診断は受けていないのだから認められるわけがない。
    事実として違う。
    それだけでなく、わが子のことと考えると、そのような「レッテル」は受け入れられない。
    その一言で勉強ができない理由を説明されてはたまらない。
    他人のこととしてなら偏見なく受け入れられるけれど、わが子のこととしては、受け入れられない。
    うちの子は、グレーゾーンではない。
    ただ、だらしないところがあるだけ。
    幼いところがあるだけ。
    努力が足りないだけ。
    それは直さなければならない。
    本人にもっと自覚してもらわなければ。
    ・・・そういう考えになってしまう親を誰が責められるでしょうか。

    そもそも必要なのは診断ではありませんでした。
    グレーゾーンかそうでないかなど、その方面の専門家ではない私にとっては、何の意味もないのです。
    ただ、課題は確実に存在し、それは、本人だけで解決できることではないように感じました。
    叱ればきちんとできるようになるわけではないと思いました。
    どうすれば教材を失くさないようになるのか。
    どうすればテスト範囲などの情報を正確に得て、私に正確に伝えられるようになるのか。
    どうすれば、必要なコピーを取って私に渡し、塾の授業をスムーズに受けられるようになるのか。

    しかし、私もまたその子にとっては、ただ注意ばかりするだけの嫌な大人の1人なのかもしれませんでした。
    その子が学校や家庭内で教材を失してくるのを、私は傍観することしかできません。
    サイドリーダーのコピーを渡してくれるまでにひと月かかり、定期テストはおそらく目前。
    詳しい日程はよくわからないし、テスト範囲もわからない。
    学校の問題集はまたも解答集を失くしている。
    テスト当日におそらく提出しなければならないだろう宿題のページもどこかわからない・・・。
    それがテスト範囲そのものであるのは、他の高校の例から考えて確実なのですが、それがわからない・・・。
    「とにかく解答集を探しなさい。それから、友達に、宿題のページを教えてもらいなさい。見つかったら、解答集は必ず問題集に挟み込んでおくんだよ。使ったら挟む、使ったら挟む。離しておいたら絶対なくなるから」
    そのように助言しても、実際にその子がどこまで実行できるのか、傍にいて気にしてあげることはできませんでした。
    1週間後、まだ解答集が見つからないこと、テスト範囲もわからないこと、テストはどうやら来週であることを確認し、注意するだけでした。
    お父さんかお母さんが、その子と一緒にその子の部屋を片付けて、必要な教材を見つけてくれないかなあ・・・。
    その子が友達に電話してテスト範囲やテスト日程を確認するのを傍にいてサポートしてくれないかなあ・・・。
    そうした作業が確実に終了するまで、傍にいて面倒をみてくれないかなあ・・・。
    たまにわっと叱るより、必要なのはそれだと思うなあ・・・。

    そう思うなら、それを伝えればいい。
    より具体的に解決策を提案してはどうだろう?

    私は指導レポートに、上の件の他、物の管理の仕方の具体例をいくつか提示し、メールで送信しました。

    その後、大きな変化が表れました。
    ただし、私が提案したことは一切実行されませんでした。
    しかし、教材を失くしてくること、忘れてくることは、ほとんどなくなりました。
    また、テスト日程とテスト範囲だけは、変な例えですが「歯を食いしばるようにして」正確に私に連絡してくれるようになったのです。
    そこが雑な間は、成績が上がるわけがない。
    逆に言えば、そこが正確になったとき、それでも成績が上がらない理由は、後は、何があるのか?
    そう反問されている、と感じるほどでした。
    そう。
    そこから先は、私の仕事でした。

    なぜかはわかりません。
    けれど、あのメールを境に、確実な支援がその子に入ったと感じました。
    その子の意識も変わりました。
    そして、成績は少しずつ上昇していきました。

    想像するに、その指導レポートの提案のあまりの具体性に、お母様は違和感を抱いたのではないか?
    そして、今度は、私の老眼を疑う方向には向かわなかったのではないか?
    高校生の子どもに対し、まるで小学生にするようにあれをしてくれ、これをしてくれと、親にやけに具体的に要求するメールの意図は何なのか?
    何か起きているのではないか?
    ようやく、その違和感が伝わったのではないかと思います。

    このセンセイ、目だけでなく、言うこともピントがズレてない?
    そんなふうに思われる危険性もあったかもしれません。
    良い感情はもたれなかったようにも思います。
    けれど、成績は少しずつ上昇していきました。

      


  • Posted by セギ at 14:29Comments(0)講師日記

    2019年07月20日

    期末テスト結果出ました。2019年1学期末。


    2019年1学期末テストの結果が出ました。
    高校生は、コミュニケーション英語と英語表現の平均を英語として、数学2科目の平均を数学として記してあります。

    数学 80点台 2人  60点台 1人  40点台 2人
    英語 80点台 1人  50点台 2人  40点台 1人 30点台 1人

    定期テスト得点は、上がったら下がる、下がったら上がるを繰り返す子が大半です。
    上がると気が緩んで次は下がる、下がると危機感を抱いて次は上がる。
    そうした中で、数回の推移が上昇基調であるか下降基調であるかを見通すと、その子が伸びているのか下っているのかを判断できます。
    上がったときの最高点が、上昇し続けているか。
    下がったときの最低点が、下降し続けているか。

    前回の中間テストで大幅に上昇した子が、予期した通りに下がりました。
    次は、頑張りましょう。

    特に高校生の場合、英語も数学もそれぞれ2科目ありますので、週1回90分の個別指導では全てをカバーしきれない場合もあります。
    英語で言えば、文法がわからない、独りでは勉強できないという場合、英語表現の学習に当面集中し、コミュニケーション英語は自力で学習してもらうこともあります。
    全訳プリントも、穴埋め式の重要表現をまとめたプリントも、教科書準拠ワークも解答付きで学校からもらっている場合は、あとは本人がそれで勉強するだけです。
    勉強のやり方は説明してありますし、入塾した頃には、それらを使ってどのように勉強するのか、手取り足取り練習してもいます。
    あとは、それを自分で継続するだけ。
    塾では独りではできない勉強をしたほうが合理的と思いますし、本人も「大丈夫」と安請け合いします。
    しかし、蓋を開けてみるとほとんど勉強していないことがあり、私は天を仰ぐことになります。
    「今回は、同じ日に世界史があったから」
    ( 一一)
    何で一夜漬けすることが前提なんでしょう。

    「塾に行くことにしたから大丈夫」
    と本人が思っている場合、塾の宿題しかしなくなる、果ては塾の宿題もしなくなる、塾でしか勉強しなくなるという、勉強嫌いな小学生みたいな学習姿勢になることがあります。
    塾に行かないほうがまだ危機感を維持できて、自分でそれなりに勉強するのでは?
    塾講師である私がそれを言うのは矛盾ですが、そう言わざるを得ない子もいないわけではありません。

    学習意欲が低く、学習習慣がほとんどない子の多くは、基礎学力や思考力が低い子ではありません。
    小学生の頃は、家で勉強しなくても学校の勉強は楽にこなしていただろうと思われる子たちです。
    勉強ができないわけではないのに、何でそんなに勉強しないのだろう・・・。

    特に中高一貫校の子の中には、公立・私立を問わず、勉強ができないわけではないのに勉強しない子がいます。
    中学受験が終わった後、伸び切ったゴムみたいになり、もう勉強しなくなる子たちです。
    保護者の方も、まあ受験勉強は頑張っていたし、多少無理もさせたから、少し休むのも良いだろうと思ってしまいます。
    すると、そのまま休む休む。
    頭は悪くないので、テスト前だけちょこちょこっと勉強するのでも、良い成績とは言いませんが、それなりの点数はとります。
    中高一貫校は進度も速くレベルも高いから、こんな成績でも仕方ないのかなと、本人も保護者も思ってしまうこともあります。
    全力を出してもいないのに、まあこのくらいで・・・と思ってしまいます。

    ただ、まあこのくらいで・・・のレベルは、年々下がっていきます。
    勉強していませんし、しても一夜漬けですから、積み上げ科目である英語や数学はジリジリ下がっていきます。
    中1の頃は、70点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    中2の頃は、60点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    中3の頃は、50点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    高1の頃は、40点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    高2の頃は、30点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    もっとこれよりも一気に下がっていく子もいますが、遅かれ早かれ30点台が見えてきます。

    なぜ、こんなに学習意欲が低いのだろう?
    なぜ、モチベーションが低いのだろう?
    どうしたら、モチベーションは高まるのだろう?
    どうしたら、やる気になってくれるのだろう?

    日々、そうしたことを考えていたところ、先日、興味深いネット記事を読みました。
    教育関係のネット記事ではなく、ビジネス関連の記事でした。
    「いちいちモチベーションという概念にふりまわされている人は生産性が低い」という内容でした。
    目からウロコが落ちました。

    生産性が低く、仕事のできない人の特徴は、
    ①自発的に動かない。
    ②当事者意識に欠けている。
    ③危機感がない。
    の3つなのだそうです。

    うわあ・・・。
    それは、成績不振の生徒に対して丸ごとあてはまることです。
    自発的に勉強しない。
    自分の人生だし自分の成績だという当事者意識に欠けている。
    このままいくとどうなるという危機感がない。

    では、そうした人のモチベーションをどう上げるか?
    あるいは、そういう本人がどうやって自分のモチベーションを上げるのか?
    答えは明快。
    そもそも、モチベーションという概念をいちいちもちだしてくる人は行動できない。
    モチベーションがむしろ言い訳になり、そこでワンクッションある人は、行動できない。

    朝ごはんを食べることは、モチベーションの問題ではないから、誰にでもできます。
    朝起きて顔を洗って身支度を整えることも。
    定刻に家を出ることも。
    昼ごはんを食べることも。
    家に帰ってとりあえずテレビをつけることも。
    着替えてベッドに寝転んでスマホをいじることも。
    モチベーションの問題ではないから、毎日行うことができる。
    それは、「習慣」。
    モチベーションがなくても、習慣になっていれば、それはできる、というのです。

    一方、そうしたことをモチベーションの問題にしてしまったら、そのいちいちでやるかやらないかを判断することになり、多大な精神力が必要となる。
    いちいちやるかやらないかを判断していたら、できない。
    やりたいかやりたくないかを考えていたら、できない。
    だから、やるべきことをモチベーションの問題にしないこと。
    生活習慣とすること。

    勉強することを生活習慣とすること。
    勉強したくないなあとか、モチベーションが上がらないなあとか考えないこと。
    考えそうになったら、
    「はいはい。それはモチベーションの問題じゃない。習慣習慣。考えない。考えない」
    と自分に言い聞かせ、とにかくいつもの時間になったらいつも通りに勉強する。
    半年も経てば、それは習慣になり、今日は勉強したいとかしたくないとか、そんなことは関係なくなる。
    勉強する時間が毎日の生活習慣の中にある。
    それが大事。

    そう考えますと、中学受験というのは罪深い側面もあります。
    受験勉強をしている3年間だけ、小学生としてはありえないほどの時間を使って勉強します。
    学校から帰ったら、毎日5時間、6時間。
    その反動で、中学入学後は全く勉強しなくなるという事態が起こり得ます。
    それに対して、親が強く言えない。
    受験期に無理をさせ過ぎたという後ろめたさがあると、特に言いづらいかもしれません。
    受験をしていなかったら、「もう中学生なんだから、しっかり勉強しないと」という当たり前の忠告ができます。
    「高校入試があるんだから」と言えます。
    それが言えないのです。
    学習習慣が消え去っていくのを手をこまねいて見ていることになります。

    勿論、保護者の方は危機感を抱いているのですが、中学受験のときほどには、子どもは親の言う通りには動かなくなります。
    「受験勉強のときだけだと思っていたのに、中学に入ったら入ったで、また勉強しろと言っている」
    口にはしなくても、そんな目で見返されると、ついひるむということもあると思います。
    あるいは、ひるまず「勉強しなさい」と言っても、もう言うことを聞いてくれない・・・。
    6年先の大学入試について何を言っても、子どもに当事者意識を持たせるのは難しいこともあります。

    中学受験をしていなかったら・・・。
    公立中学に通い高校受験をしたのであれば、少なくとも学習習慣は身についたのではないか?
    中高一貫校の中で成績が悪くても「みんな勉強ができるから」と言い訳できるけれど、地元の公立中学で自分が劣等生というのはあり得ない。
    勉強は普通にするでしょう。
    5教科「5」はマストだよね。
    そういう気持ちになっていたかもしれません。

    しかし、中学受験をしたのだし、その結果中高一貫校に通っているのですから、そのことについて今更どうこう言っても意味がありません。

    中高一貫校には良い面も多いのです。
    大学受験について学校側が強く意識していますから、全体の流れに乗っていればそれなりに何とかなります。
    中1の最初から大学受験に向けたカリキュラムが組まれ、どの程度頑張ればどの大学に入れるのか、そうした数値的なデータもそろっています。
    土曜日も授業。
    7限もあり。
    繰り返される小テスト。
    単元テスト。
    追試。
    放課後の補講。
    学校の夏期講習。
    山のような宿題。
    それをこなしていれば何とかなるのは、将来の目標を持って学習できていない子にはありがたいシステムです。
    高2までで高校の学習内容が終わるので、高3は受験勉強に集中できるのも強みです。

    全く学習習慣のない子も、高2になって周囲がざわつけば、意識もちょっと変わります。
    ずっと先だと思っていた大学入試はすぐそこ。
    中学受験のときには、もっと早くから準備していましたよね?
    そんな話が案外心に響くことがあります。

    さあ、ここから。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 12:47Comments(0)講師日記

    2019年06月24日

    ピグマリオン効果と、その否定と。



    ピグマリオン効果とは、教師がその生徒は高い能力を持っていると信じ、期待し、そのように接すると、実際に生徒の成績は上がっていくという効果のことです。
    この説には異論も多く、学術的に立証された説というのではありません。
    教師の期待が、実際に生徒にどのように伝わっていくものなのか、具体的に立証する術もないですし。

    「褒めて育てる」という考え方と混同されがちなのも批判される一因だと思います。
    確かに、褒めることがテクニックになってしまい、しかも「褒めて育てる教育」という教育論を子ども自身が見聞きしていては、褒めることも逆効果になってしまいかねません。
    当然注意されるべきことを注意されただけでも、
    「褒めなければ人は伸びないのに、叱るなんておかしい」
    と子ども本人が考えるようでは、褒めても叱っても、伸びる可能性は低いでしょう。
    大した結果も出していない子を褒め続ければ、こんな程度でいいのかと子どもの中での基準が低くなり、それ以上を目指さなくなることもあります。

    私の思うピグマリオン効果は、そういうものとは少し異なります。
    褒めるのではなく、ただ秀才として信じ、遇する。
    現在の成績は悪くても、目の前の問題を今は解けなくても、この子の中には才能が眠っていると確信して接しているとき、実際秀才になった例は多いというのが私の手ごたえです。

    それは、ピグマリオン効果ではなく、実際にその子に素質があって、それが開花しただけではないのか?
    そう言われたらそうかもしれないのですが。

    そしてその逆もあります。

    もう随分前のこと。
    私が大手の個別指導塾に勤めていた頃のことです。
    小学生の男の子の算数を担当したことがありました。
    受験算数ではなく、普通の算数でした。
    算数は苦手とのことでしたが、基本をしっかり学習していくことで、学校の算数の授業やテストに対応していくことができるようになりました。
    カラーテストも満点を取ることが多くなりました。

    数か月して、その子の態度が変わっていきました。
    必ず持ってきて見せてくれた学校のテストを、持ってこなくなったのです。
    「テスト・・・?ああ、100点、100点」
    と、結果は言うのですが、持ってこないのです。
    「テストは昨日あった。まだ返ってこないけど、どうせ100点」
    そう言うこともありました。

    計算問題を解くのを嫌がるようにもなりました。
    以前は、上手くできる自信がなくて嫌がるのを励ますと何とか出来るようになり、少しずつ自信を得ていったのですが、
    「こんなの簡単だし」
    と口にするようになりました。
    なめてかかれば失敗します。
    すると、
    「俺様としたことが」
    と言ったりもしました。
    そんなキャラクターの子ではなかったのに、どうしたのだろう?

    塾では、学校よりも少し先を予習します。
    初めて学ぶ内容を学習するときの態度も少しずつ変わっていきました。
    私の説明をよく聞かず、やたらと話を遮りました。
    「わかった。こういうことでしょう?」
    と自分の考えを口にしますが、まだ若かった私にとってはちょっと対処に困るほど見当外れなのでした。
    「いやいや、そういうことじゃない。とりあえず、この説明だけは聞いてから、その先を考えよう」
    そう制して、基本の説明を聞いてもらおうとしましたが、それもすぐにさえぎられました。
    「わかった。こういうことだ」
    「いや、違うよ」
    「えー・・・」
    露骨にがっかりした顔をします。
    そんなとき、その子は、
    「学校の授業はわかりやすくて面白いのになあ」
    とつぶやくこともありました。
    「・・・うーん。それは、塾で予習して問題も完璧に解けるようになってから学校の授業を受けているからでしょう」
    塾で既に学習済みのことを、学校では初めて自分で気づいたように発言したり問題を解いたりしているんだから、それはわかりやすくて楽しいでしょう?
    その子は、私の指摘が理解できたのかできなかったのか、黙ってしまい、その話はそれきりになりました。

    学校のテスト問題を楽に解けるよう、塾ではそれより少し難しい問題も解きます。
    そうした問題を解く際のその子の姿勢は、しかし、筋道立てて考えるというものではありませんでした。
    「これ、かけ算?」
    「・・・え?」
    「わり算?」
    「・・・いや、そういうことを言い出したら、ただの四択問題になって、いつかは当たるでしょう。そうじゃなくて、かけ算ならかけ算で、どうしてなのかを説明して」
    「じゃあ、わり算だ」
    「・・・今の話、聞いてた?」
    その子には、沈黙し、思考する時間が、5秒もありませんでした。
    かけ算?わり算?
    とすぐに言い出し、私の顔色を見てどれが正しいか判断する。
    筋道立てて考えるのではなく、相手の反応を見て正解を探る。
    そういう学習姿勢が表に出るようになっていました。

    その子は、私に褒めてほしかったのかもしれません。
    学校で「よくできる子」と遇されるようになったから、私にもそのように接してほしかったのだろうかと、今になって思います。
    パッと正解を出して、「わあ、よくできたね」と褒めてほしくて、即答にこだわった。
    その即答を疑問視され、よく考えなさいと押し戻される・・・。
    褒めてほしくてやっていることのいちいちを疑問視される・・・。

    それでも、学校で褒められるために予習を一所懸命やろうというモチベーションは高いようだったので、それでも良いと思っていたのですが、少しずつ色々なことが軋み始めていました。

    ある日、教務からとんでもない指示がきました。
    「あの子、中学受験をすることになったから、次の授業から内容を受験算数に変えて」
    「・・・え?」
    文章題の内容を汲み取って考えることをせず、「これ、かけ算?わり算?」と訊いてくる子にとって、受験算数は難しいです。
    しかし、無理だと言って通る話ではないのが当時の大手の個別指導塾でした。
    私が嫌だと言えば、私はその授業を下ろされ、他の講師がその授業に入るだけでした。

    1回目の「植木算」から、授業は困難を極めました。
    実際に絵を描いて考えよう。
    慣れるまではそうしよう?
    そのように呼びかけても、その子はただ呆然としていました。
    私が実際に植木を4本描き、間の数は3個だねと数えてみせても、何のことかわからない様子でした。
    問題文の意味が読み取れないのかと、本人に音読してもらい、私からも範読し、噛み砕いて説明しても、何も理解していないのが見てとれました。
    何のために何をやっているのか、まるでわからないようなのです。
    見たことのない問題が並んでいる。
    見たことのない問題への違和感に、ただ恐怖しているように見えました。
    こんなのは、自分の知っている算数じゃない。
    こんな問題は許せない。
    こんな問題は不当だ。
    受験算数に初めて接したときの多くの小学生が感じることを、その子も感じていたのかもしれません。
    簡単に解くことのできる問題が1題もないのです。
    中学受験生向けの月列テストは、惨憺たる結果となりました。
    塾で予習できないので、やがて学校の算数の授業にも上手くついていけなくなっていったようです。
    学年が上がり、学校の算数も単元によっては難しくなっていったのも一因でしょう。
    数か月後、その子は塾を辞めていきました。


    何がいけなかったのだろう?

    分岐点は沢山あったと思いますし、色々と弁明したいこともありますが、それでも、根本の原因の1つに、私がその子の素質を信じていなかったことは大きいのではないかと思います。
    学校のカラーテストで満点を取れるようにすることはできる。
    しかし、それ以上のことは、できないと感じていました。
    小学校の頃はそれで済んでも、中学に進学すれば、成績は「2」に近い「3」。
    それを維持するのも大変だろうと予測していました。
    伸びることを期待していませんでした。

    なぜ、私はその子の素質を信じなかったのか?
    素質の無さが垣間見える言動が多かったから・・・。
    特に、思考力。
    文章題への姿勢に、疑問を感じたから。

    しかし、そこに言い訳はなかったろうかと考えます。
    その子の素質のせいにすれば、自分の責任から逃れられると無意識に考えてはいなかったろうか?

    私が思う「素質」は、そのときの計算力や理解力ではありませんでした。
    算数や数学の問題を考えないでやり過ごそうとする姿勢が垣間見えると、その子の素質を疑う気持ちが生じていました。

    例えば、かけ算でなけりゃわり算だ、という姿勢が見えたときです。
    あるいは、文章題で、文章に出てきた数字を順番にかけ算しているだけなのが見てとれたとき。
    それは間違っていると言われると、今度は、文章に出てきた大きい数を小さい数で割る式を立てるのを見たとき。
    その子は、段階を踏んで考えていかなければならない文章題は解けませんでした。
    式をまず1つ立て、その結果を使って次の式を立てる問題は解けないのです。
    「考えなさい」と促しても、考えている様子がなく、無制限に喋り続けました。
    「えー?かけ算?わり算?ヒントは?ヒントを出して」
    というように。
    黙って考えなさいと注意しても、考えている気配がありませんでした。
    考えるということが何をどうすることかわからないのか、困惑した様子でした。
    時間が過ぎるのを待っているのか、時計をチラチラ見たりします。
    思索するとき特有の目の表情になりませんでした。
    自分で何か式を立てない限り、この無言の時間は終わらないのだと悟ると、何か式を立てましたが、自分が立てた式の意味を説明できません。
    「この式はどういう意味?」
    と、私が訊くと、慌てて消していました。
    式について話し合いにならず、算数の問題についての対話ができませんでした。
    私が問題について解説を始めると、私の言葉の端々をヒントに一刻も早く正しい式を自分が先に言おうと、それにばかり必死になりますが、深い理解をしていないことは明白でした。

    つまり、考えるということは何をどうすることなのか、そのことを学びそこねているのでした。
    そういう子を見ると、これは無理だ、と判断してきました。
    この子は、伸びない。

    これを学校の算数教育のせいにするのも家庭教育のせいにするのも可能だとは思いますが、それだけではない気がしていたのです。
    ほおっておいても、人というものは、何かを考えるものではないのか?
    なぜ、こんなにも考えることを学びそこねているのだろう?
    まるで空洞のように、そこが欠落している。
    一方で、考えずに算数の点数を取る方法を、なぜこんなに身につけているのだろう?
    それのせいで、まともに考えることから日々遠ざかっていたのです。
    表面上、学校の算数はそこそこできるように見えるので、抜本的な改革の必要を本人も保護者も感じていませんでした。
    算数・数学への理解は、こんなにも空洞化しているのに。
    これでは、中学の数学は理解できない・・・。


    しかし、考えることを知らないことは、素質ではないのではないかと、この頃は思います。
    それは、ただ知らないだけです。
    考えないことが習い性になっている子に、考えることを教えるのは難しい。
    困難を極めます。
    でも、可能なことなのではないか?

    来年度から、小学校の学習指導要領は新しくなり、対話的な深い学びが要求されます。
    考えることが今までよりも重視されます。
    今の小学校で、算数の問題を考えて解くことができない子は、大人が想像する以上に多いのに、です。
    考えることを知らない子は、実は算数をほとんどわかっていません。
    かけ算・わり算の意味すら本当にはわかっていない。
    だから、どんなときにどちらをやるのか、判断できない。
    それを露呈させ、明らかにする力が、その新しい授業にあるのかどうか、今のところはわかりません。
    ただ、考えることを体感的に理解していない子にとって、その授業は空洞化したものにはなると思います。
    これまでも学習を空洞化してきたように。
    その空洞化をごまかすテクニックを、生きる知恵として彼らはまた発見するのか?
    それとも、算数の根本が理解できていないことが、今度こそ露呈されるのか?
    そこから、考えることを学び直すことは可能なのか?

    考えることを知らない子は、今も多いです。
    しかし、少なくとも、考えることを体感として理解していない子を「素質がない」と断じるのをやめてから、伸びない子はいなくなりました。
    人間にとって、思考することは、快楽の1つです。
    考えることは、誰にでもできるのです。
    それは、才能ではない。
    そう信じます。

      


  • Posted by セギ at 15:33Comments(0)講師日記

    2019年06月17日

    1学期中間テストの結果が出ました。2019年。


    1学期中間テストの結果が出ました。

    数学 70点台 1人 60点台 1人 50点台 2人
    英語 80点台 1人 50点台 1人 40点台 2人

    受験が終わり、新学期になり、塾生の顔ぶれもかなり変わりました。
    さあ、まずはここから。
    前回、数学が40点台、英語が30点台だった人は、順調に上昇しました。


    数学の成績が思うように伸びない高校生の保護者の方からこんなふうな相談をされることがあります。
    「数学はこつこつ勉強しているようなんですが」

    数学をこつこつ・・・。
    それは、数学を勉強している時間は長いのだろうけれど、質や量の面はどうなのかなあ・・・。
    つい、そう考えてしまいます。

    大半の高校は、問題集を生徒に配っています。
    定期テスト範囲としてその問題集からページ指定があり、テスト当日の朝にそのページの問題を解いたノートを提出することになっている高校が多いです。
    数Ⅰと数A、数Ⅱと数Bのように、高校数学は2科目あります。
    1回のテスト範囲でそれぞれ15ページから20ページのテスト範囲が指定されます。

    数学が苦手な子は、高校数学の問題集を1ページ解くのに、2時間から3時間かかります。
    数学2科目で合計30ページの問題集を1回解くのに最低で60時間かかる計算になります。
    確かに数学をこつこつ勉強しているでしょう。
    けれど、それでもテスト範囲の問題集を1回解いただけなのです。

    その1回の中身も、質的にかなり怪しいのが実状です。
    公式を覚えていないので、教科書や問題集の解答解説と首っぴきで解いているのではないでしょうか。
    公式を代入するだけの基本問題ですら、教科書でその公式を見ながら代入しています。
    定期テスト必出の典型題も、解答解説を見ながら解いているだけです。

    そのように解答解説を見ながら解いても、時間はかかります。
    式を書き写した後は、自分で計算しようとする子が大半だからです。
    答えを書き写しているという意識が本人にはなく、わからないところだけ参考にしているつもりですから、そうなります。
    そうやって計算し終わって解答を見ると、間違っている・・・。
    どこかで計算ミスをしているのです。
    どこで計算ミスをしたのか?
    その発見と直しに、また時間がかかります。
    問題集を1回解き終わる頃には定期テスト前日になっています。

    その状態で定期テストを受けると結果はどうなるか?
    公式だけは、直前に暗記して、テスト用紙の上のほうに急いでメモしたとしても。
    どの問題でその公式を使うのか、よくわからない。
    その公式の代入の練習をしたのは随分前なので、どう代入するのかよくわからない。
    他の科目と比べて随分勉強時間を使ったのに、どうしてこんなに解けないんだろう・・・。
    そういうことになりがちです。

    少しの解決策としては。
    最初に公式を覚え、重要事項を復習し、その後、教科書や解答解説を見ないで問題を解くことです。
    せっかくこつこつ勉強している時間は、有効に使いましょう。
    「あとで覚えよう」
    と思っていたら、高校の公式は覚えきれません。
    忘れるのも早いです。

    抜本的な解決策としては。
    学校の問題集で少しでも解答解説を見て解いた問題は、必ずチェックを入れ、時間をおいて解き直しましょう。
    別の問題集でも復習するとなお良いでしょう。

    しかし、それには、それだけの勉強をする時間の確保が必要です。
    問題集1ページに2時間も3時間もかかっているのを何とかしないといけません。

    何で1ページに2時間も3時間もかかるのか?
    解き方を考えているから時間がかかっているわけではありません。
    それならむしろ良いのですが、大抵は、1分と考えずに解答解説を見ているはずです。
    それでも、2時間から3時間かかるのは、計算が遅いからです。
    遅い上に計算ミスもするので、その直しにさらに時間がかかり、結果、1ページに2~3時間かかってしまうのです。

    数学は頭脳のスポーツと言われるくらいですから、若いほうが有利です。
    理系に進む子は、高校生の段階で、私よりも計算は速くなります。
    文系でも、最低限、私と同程度のスピードでなければ、センター試験を時間内に最後まで解くことができません。

    しかし、現実には、何にそれほど時間がかかっているのだろうと疑問なほどに計算の遅い子が多いのです。
    しかも、ノートを覗き込んでも、何をしているのかよくわからないのです。
    計算過程が数学が得意な子とは違うため、何をしているのか見てもわからない・・・。
    なぜ、( )をそこで開くの?
    なぜ、そことそこを約分するの?
    なぜ、そんな順番で計算するの?
    なぜ、そこで同類項の整理をしないの?

    それは、やり方が間違っていることもありますし、間違ってはいないけれど遠回りになっていることもあります。
    そういうことの積み重なりが計算ミスをしやすい原因の1つであり、解くのにも直すのにも時間がかかる原因となっています。
    数学が頭脳のスポーツであるならば、計算には正しいフォームが必要です。
    合理的な正しいフォームで計算すれば、案外ゆっくり解いていても、答えは速く出ます。

    しかし、計算フォームというのは癖になっていて、きわめて直しにくいことの1つです。
    本人が強く自覚した上でも、矯正に時間がかかります。
    最初から正しいフォームを身につけていれば、こんなことにならないのに、と思います。

    また、そもそもかけ算・わり算の暗算が上手くできない人は、速く計算できません。
    そんなに凄い暗算をしろといっているわけではありません。
    ×1桁、÷1桁を暗算する力を持っていてほしいのです。
    もっと言えば、数字を頭の中で因数分解する力が欲しいのです。
    例えば、75=25×3 であることが筆算しなくてもパっとみてわかる力。
    48=16×3 であることを見てとれる力。
    あるいは、どんな数が7で割りきれ、どんな数が9で割りきれるかを見る力。

    これができないと、小学校5年以降の分数の通分・約分にもたつきます。
    小6以降、分数のかけ算・わり算にもたつきます。
    中1以降、小数の計算がほぼ姿を消し、分数計算ばかりになるため、数学そのものに苦手意識を持ちます。
    中3以降、因数分解が上手くできません。
    中3以降、平方根の整理にもたつきます。
    中3以降、2次方程式の計算にもたつきます。
    中3以降、三平方の定理の活用にもたつきます。
    高1以降、2次関数の整理にもたつきます。
    高1以降、三角比の計算にもたつきます。
    高1以降、確率の計算にもたつきます。
    高1以降、データの計算にもたつきます。
    高1以降、不定方程式の計算にもたつきます。
    高2以降、・・・もうやめましょう。

    整数を見たときに、その整数が何かの積の形に見えること。
    それができない数は素数であることを認識していること。

    数学が得意な人にとって当たり前のそのことに、数学が苦手な人は気づいていないことがあります。

    小学校5年になって約分・通分を学習してから急に「かけ算・わり算は暗算しろ」と命令されるわけではありません。
    そうとは言われない形で練習を繰り返しているのが、わり算の筆算です。
    わり算の筆算をスムーズに行う子は、×1桁、÷1桁の暗算がスムーズにできる子です。
    さらに言えば、わり算の筆算はそれにひき算も加わりますから、総合格闘技のようなものです。

    わり算の筆算自体は、中学以降は使う機会が減っていきます。
    全て分数で処理していきますから、筆算で割るのではなく、約分していきます。
    しかし、その約分は、わり算の筆算で鍛えてきたからこそ楽にできるようになるものです。
    約分は、わり算を暗算で行うものだからです。
    約分しなければならない段階になって急に「暗算しなさい」と言われても、練習していない子には難しいのです。
    一方、わり算の筆算が得意だった子は、最初から大きな数でバッサバサと約分できます。
    ちまちまと2や3で約分することを繰り返して途中で計算ミスをしたり、答案が汚くなって自分で見誤るといった事態を避けることができます。

    将来の約分のためにも、わり算の筆算は有効。
    ところが、全く暗算しないでわり算の筆算をする小学生もいます。
    商にまず「5」を立てて、実際に筆算し、違ったら消してやり直すのです。
    何でも「5」から始めて、1ずつ数字を上げていったり、下げていったりするのです。

    ・・・誰が教えたのだろう、こんな頭を使わない方法を。

    人間はコンピュータじゃないんですから、無駄なことを機械的に全部試すようなことは、させたらダメです。
    コンピュータはそういうことを猛スピードでできるので計算の結果は速く出ますが、人間がそれをやったら単なるわり算の筆算1問に5分もかかることがあります。
    人間を性能の悪い電卓にしてはいけない。
    わり算の筆算は、わり算をするためだけに練習しているのではありません。
    その先の学習の準備も兼ねています。
    全ての学習は、上へ上へと積み上がっていくのです。

    ただ、同じようにそれを教わっても、商に何でも「5」を立てることの無駄に早い時期で気づく子もいるでしょう。
    もっと予測を立てて、一度で正しい商を立てたら良くないか?
    わる数と予測した商との積を頭の中で暗算して、その商が正しいことを確認することは可能ではないか?
    繰り上がってくる数があるのが少しややこしいけれど、やろうと思えばできる。
    そう思う子は、商をスパスパ立て、わり算の計算問題をこなしながら、暗算力も鍛えていくのです。

    何でもまず「5」を立てて順番にやれば頭を使わなくていい。
    そんなところに安住していたら、将来、数学は相当苦しいものになると思います。

    ・・・結局、そういうことの繰り返しだったのではないか?
    例えば、中学3年になったとき、平方根の整理は、頭の中で数字を分解せず、何でも素因数分解の筆算をしてきたのではないか。
    平方根のかけ算は、平方根どうしをまずかけ算して、たとえ3桁の数になったとしても、それから素因数分解してきたのではないか。

    もっとも不器用で回り道なやり方を、それが一番頭を使わない方法だから、常に選択してきた。
    その結果が、今、高校数学の、遠回りで計算ミスだらけの答案になっているのではないか?
    工夫したやり方、頭を使うやり方を避けて、地道でも必ず答えの出るやり方を選んできたつもりが、地道過ぎて時間ばかりかかり、途中で計算ミスするため正答の出ないやり方にいつの間にかなっていた・・・。

    高校生の数学の答案に、そのような痕跡を見ることがあります。
    計算のフォームを変えましょう。
    遠回りで無駄な計算を長年やってきた分だけ、直すのに時間はかかると思います。
    それでも、改革が必要なことはあります。

      


  • Posted by セギ at 14:55Comments(0)講師日記

    2019年04月15日

    地図を修正しました。



    先日、三鷹市の外から体験授業にいらした方が、
    「道に迷ってしまって」
    とおっしゃったのが気になり、教室地図を見直しました。

    電車利用で三鷹駅からうちの教室に来ていただく場合、赤鳥居通りに入るのが一番近道ですが、言葉では説明しにくいのが難点です。
    三鷹駅南口デッキからどこの階段を下りるかを、絶対に迷わないように誘導するには、駅前付近図の他に、南口デッキの拡大図が必要となります。
    しかし、南口デッキの正確な形状をそのまま表さないと、見る人を逆に混乱させる可能性があります。
    デッキの形、伸びている歩道橋、エスカレーター、階段を全て正確に描かないと、人は、目の前の現実と一致しない略図には混乱することが多いのです。

    では、言葉による説明はどうでしょうか?
    「三鷹コラルの裏側と、新しく出来た何とかいうタワービルとの間の道に降りていく階段」
    この説明は、三鷹に土地勘のある人でなければ通じないでしょう。

    「新しく出来た何とかいうタワービル」の名前は何でしたっけ?
    とネット調べると、「グレーシアタワー三鷹」と出てきました。
    え、本当にそんな名前ですか?
    それは、タワーマンションの名称では?
    下のほうの店舗部分は、別の名前がついていると思うのですが、何でしたっけ?
    名称がわかったとして、南口デッキから、そのビルの名称がはっきり見えているでしょうか?
    という調子で、正確に誘導できる自信がありません。

    道案内は、そもそも相手に正確に情報が伝わる可能性は極めて低いことをこちらが認識していないと、思いもかけない行き違いが生じます。
    もう8年ほど前になりますが、
    「南口デッキからまっすぐエスカレーターを降りてください」
    と、三鷹中央通りに降りていく方法を文章で説明したことがありました。
    間違えるはずがないと思っていたのに、その説明を読んで独りで体験授業を受けにきた中学生は、東に向かうエスカレーターを下りて、桜並木を井の頭公園の方向にどこまでも歩いていってしまいました。
    それはまっすぐじゃなくて、左に曲がっている!

    土地勘がある人がこの話を聞けば、左に曲がるなんてありえない、まっすぐと言われて左に曲がるというのがそもそもおかしいでしょう、と感じるかもしれません。
    しかし、初めて三鷹駅から南口デッキに出た場合、まっすぐ三鷹中央通りへと降りていくエスカレーターは、あまり目立たないのです。
    横向きになっている分だけ、左に曲がるエスカレーターのほうが存在感があります。
    まさかもう1つエスカレーターがあるとは思っていない場合、最初に目に入った左に曲がるエスカレーターのほうに引き寄せられていくようです。
    方向の情報よりも、目に入ったエスカレーターのほうを優先させてしまうのです。
    土地勘がないというのはそういうこと。
    全体を見通すことができないので、正しい判断ができません。
    緊張していると視野が狭くなりますから、全ての情報は目に入らなくなってしまいます。
    降りるべきエスカレーターが目に入らないなら、間違ったエスカレーターに乗る以外の選択肢がありません。

    エスカレーターすら正しく誘導できないことを悟った私は、もっと数のある階段の降り口を正しく誘導することは諦めています。
    「デッキを渡って一番右の降り口です」
    といった説明は、説明した側としては完璧なつもりでも、その人がその降り口に気がつかなかったら、何の意味もありません。
    全体を把握していなかったら、一番右がどれかはわからないでしょう。
    もう1つ不安な点は、「デッキを渡って」の「渡って」を読み飛ばす可能性が高いこと。
    デッキを渡らず、すぐに右に曲がる人もいると思います。

    誤解されないよう全ての可能性を潰すべく長々と説明すると、今度はくどいと思われて正確に読んでもらえず、それもまた誤解を生む可能性もあります。


    これを解決する最善の方法は、逆説的ですが、説明しないことでした。
    不親切な地図だと思われてもいいから、間違った方向に誘導しないことが大事です。

    私の描いた教室地図は、南口デッキを省略し、描いてありません。
    デッキの細部の描写を読み違えて、間違った方向に歩みだすことがないよう、とにかく南へ行くことだけを地図は伝えています。
    南へ行くという意思のもと、南口デッキに降り立てば、左にも右にも曲がらないと思います。
    とにかくまっすぐ南に行きたい。
    そういう意思を持つ人は、階段を下りても、自力で方向を修正できます。
    まっすぐ南に降りるエスカレーターを自力で発見することも可能でしょう。

    南へ伸びている三鷹中央通りの道の両側を2つの銀行でしっかり示せば、デッキからどう降りるかは問題ではなく、どの道に降りるかが問題となります。
    そうすると、地図の見方が違ってきます。
    次に右折するスクランブル交差点は、角に「東急ストア」を示してあるから大丈夫。


    ・・・しかし、これが問題でした。
    東急ストアの文字、よく見ればまだ壁に残っていますが、店はもう存在しません。
    ここを曲がりそこねると、次の交差点は、うちの教室よりもずっと南です。
    大事な曲がり角の指示が不明瞭になっている!
    これは、地図を直さなければ。

    もう1つは、駅前郵便局の位置です。
    駅前郵便局は前述したタワービルの1階に入っています。
    そのビルは元の郵便局の敷地も含んでいますが、元の交差点の位置から郵便局が見えるかというと、見えないのです。
    交差点の名称はまだ「郵便局前」ですが。
    郵便局は、うちの教室に案内するために直接必要なものではないのですが、万が一、道に迷ってそちらのほうに逸れてしまった人に、「そこは違います」と示すための抑えとして重要な存在でした。
    それが間違った位置に残ったままの地図は、迷った人をさらに迷わせます。
    正しい位置に直さないと。


    早速、Wordに保存してあった地図を修正しました。
    修正は、感覚で触ってみたら簡単に修正できました。

    さて、問題は保存です。
    Wordのままでは、ブログに貼れません。
    ブログにはWordからの直接のコピーはできませんでした。
    画像として保存しないと。

    この地図の最初のバージョンを作った何年も前も、Wordで地図を作って画像として保存する作業を行いました。
    しかし、何年も前に1度やったきりの作業のやり方はもう覚えていませんでした。
    ネットで調べても、トップに出てくる解説は2010年のもので、今のWordとはバージョンが違うようです。

    ここで一気に、私は、説明する立場から、今度は説明を理解する立場に変わりました。
    ネット記事はスクリーンショットを用いて説明されていましたが、その画像が今のWordとはバージョンが異なるので、やってみてもその通りに画面は現れません。
    「図として保存」という選択肢が今はないのです。
    Wordの「ヘルプ」はいつもながら何のヘルプもしてくれません。

    最終的には、どうやったらそうできたのか何だかよくわからないけれど、偶然に「図」として保存できました。
    選択してコピーして、新規作成して添付するのを幾度か試みるうちに、偶然、コピーしたものが「図」になり、画像として保存できたのです。
    あー、良かったー。
    でも、腑に落ちないー。

    そんなわけで、ようやく修正できた地図が上の図です。

    説明すること。
    説明されること。
    教えること。
    教わること。
    やはり容易なことではない。
    こんなこと一つでも感じます。

    最初の教室地図は、教室開校時の2011年、Wordで作成しました。
    あの頃、生徒はまだ少なく、時間だけは沢山ありました。
    Wordの教本を買って、それと首っ引きで作りました。
    その地図が古びて問題を生じるほどに時間が経ちました。
    それは、それだけ長い時間、教室が続いてきたということ。
    ありがたいことだと噛みしめ、今年度も頑張ります。

      


  • Posted by セギ at 12:38Comments(0)講師日記

    2019年04月03日

    学年末テスト結果集計出ました。2019年3月。


    学年末テスト結果が出ました。
    数学 80点台 1人  60点台 1人  40点台 1人
    英語 100点  1人  90点台 1人  30点台 1人

    受験生が卒業したので、中学生・高校生の人数が随分少なくなりました。
    そんな中、今回から英語を受講することになった人が、いきなり90点台となりました。
    「これを覚えて」
    「ここがテストに出ます」
    と指示するだけでスルッと得点が上がりました。
    以前から、自分で勉強はしていたが、何が大事で、何がテストに出るかの焦点があまり定まっていなかった。
    自分で勉強するには、市販の教材では量が不足していた。
    そういう人は、簡単に成績が上がります。

    中学生、特に公立中学生にはそういう人が多いのです。
    何を勉強したら良いのか、わからない。
    基本はわかっているので、もっと応用力をつけたいと思うのに、定期テストに出そうな問題が沢山載っている問題集が手に入らない。
    書店で問題集を探しても、簡単過ぎたり難し過ぎたりで、何だかちょっと違う。
    学校で渡されるワークは簡単な問題が多く、でも、定期テストはそれよりずっと難しい。
    勉強を頑張ろうと思うのに、いつも何かピントがズレてしまうのを自分で感じる。

    そういう人が、早くうちの教室を見つけて、授業を受けにきてくれないかなあと思います。
    定期テストに関する正確な情報さえ提供してくれれば、高い精度で学習すべき内容を提示できます。


      


  • Posted by セギ at 14:33Comments(0)講師日記

    2019年03月01日

    都立高校入試結果が出ました。2019年3月。


    2019年3月1日、都立高校の合格発表がありました。
    今年度のセギ英数教室は中3受験生は1名。
    5教科みっちり個別指導の結果は、

    ◎都立新宿高校 合格

    やりましたー。ヽ(^。^)ノ
    合格おめでとうございます。

    今年度の高校受験指導は、1名とはいえ中身が濃く、苦闘の連続でした。
    始まりは順調だったのです。
    最初に提示された志望校は本人の成績から考えれば極めて順当なものでした。
    うん。
    ちゃんと受験勉強すれば、ここなら合格します。

    よし。
    まずはそこに向けて、内申を高め、盤石の基盤を作りましょう。
    入試に向けた総復習と並行して、定期テスト対策を強化。
    本人も定期テストに対して脅威の粘りを見せ、学校の成績は順調に上がりました。
    これで、志望校には余裕をもって合格するはずでした。

    秋も深まり。
    学校の三者面談で、当初の志望校よりもワンランク上の都立校の推薦入試の話が出ました。
    志望校の推薦入試を受けて、そこで合格する。
    内申が特に上がっている場合ならば可能なことです。
    ワンランク上の学校でも、この内申の上がり方ならば、推薦入試で合格するのではないか?
    ああ、良かった。
    やはり、上げておくべきは内申。
    今年度の受験対策は、早めにフィニッシュとなりそうでした。

    しかし、本人が、いつまでもいつまでもどうするか迷っているのでした。
    そして、出てきた名前が、都立新宿高校。
    そこは、都立自校作成校です。
    ・・・ちょっと待って。
    新宿高校は、推薦がもらえる高校よりもさらにワンランク上。
    というより、間に学校がないから「ワンランク上」という表現しかないけれど、その間には、深くて暗い河があるんです。
    高い高い壁があるんです。
    国語・数学・英語が独自入試で、入試問題がとても難しいんです。
    ( ;∀;)


    「どう思う?」
    その子は毎日のように進路のことを尋ねてきました。
    「推薦でいいんじゃないの?いい学校だと思うよ」
    私はそう言い続けたのですが、翌日になるとまた同じ問いかけが始まります。
    ちっとも納得していない。
    結局、新宿高校を受けたいのです。
    本人がとにかく受けたいのです。
    「じゃあ、新宿高校を受けたらいいじゃないの」
    「そうする!」
    そう言って、それっきり、もうその問いかけはなくなりました。
    ・・・おいおいおい。( ;∀;)
    私が許可したことになっちゃったの?
    私が太鼓判を押したことには、まさか、なってないよね?

    とはいえ、試しに1年分だけ過去問を解くと、合格射程圏内と感じる答案なのでした。
    得点で言えば、素点で50点ほども足りません。
    しかし、過去問を最初に解いた場合は、これまで教えてきた自校作成校に合格した子たちの多くもそうでした。
    大事なのは答案に伸びしろを感じるかどうかです。
    その答案からは、希望が立ち上がっていました。
    薄氷を踏む思いではあります。
    全教科、失敗できない。
    得点源など、どこにもない。
    しかし、合格しないと言い切れる要素もないのです。

    あとは、精神面です。
    女子に多い傾向ですが、冬期講習あたりが学力のピークとなり、1月、2月と徐々に学力が下がっていく子がいます。
    精神的緊張に耐えられず、力を出せなくなっていくようなのです。
    その子は、そういうタイプではありませんでした。
    定期テストでも、魔物でも通ったのか?と訊きたいような変なミスは少なく、間違うべくして間違い、出来るべくして出来る。
    学力の伸びを把握しやすく、入試当日の朝まで伸びるタイプです。
    2月もたっぷりと受験指導に使えました。

    実力が蓄えられるのを待つため、残りの過去問を解く時期をギリギリまで後ろに倒し、成功体験を積み重ねました。
    初めて解いた過去問で、しっかりと合格点を取ることが大切です。
    この年も大丈夫。
    この年も合格している。
    合格の可能性を否定する要素はありませんでした。

    願書提出の時期が近づくと、大手の塾に通う子たちで自校作成校が志望校だった子たちの多くは、志望校を下げたそうです。
    大手塾は、合格実績を出さねばなりませんから、そのように慎重な進路指導を行います。
    そのことに、その子はショックを受けていました。
    みんな、志望校を下げた。
    自分も下げるべきなのか?

    「じゃあ、下げれば?」
    「いや、受ける」
    「じゃあ、頑張れば?自校作成校受験はチキンレースです。諦めなかった人が合格するんです」
    とは言え、入試は水もの。
    絶対などありません。
    しかし、ここまで来たら、私のせいで不合格になったということになっても、まあいいかなと思いました。
    親のせいとか、本人のせいとか、家族の中でごたごたするのはその家族にとって一生の不幸です。
    敵は外部にあればいい。
    塾が悪かった。
    塾のせいだ。
    そういうことにして心の傷を癒し、また未来に向かっていけばいいのだと思うのです。


    自校作成校は、合格さえすればいいというものではありません。
    授業もテストも難しいです。
    そのわりに学校行事も部活も頑張るんだ、文武両道だ、という校風の学校が多く、その結果は高い浪人率となって表れています。
    推薦入試・AO入試の比率がますます高まっている昨今、大学受験を考えたら、自校作成校に進学するのはデメリットもあります。
    ほどほどの都立高校に進学し、わかりやすい授業を受けてしっかり基礎を固め、高い内申を確保して、指定校推薦で志望の大学に進むという道もあります。

    でも、高校は、一生の友達に出会える場所です。
    勉強のできる子は、ただ勉強ができるだけの「勉強バカ」もいるけれど、話していて手応えのある面白い子も沢山います。
    特殊な趣味や興味を深く掘り下げている子もいます。
    自分の感情を振り回して他人をいじめるような子は少ないと思います。
    自分が他人から嫌な関わり方をされたくないから、自分も他人に嫌な関わり方はしない。
    そういう最低限の想像力のある子が多いと感じます。
    かつて都立西高校に進学した子が、ぽつんと口にしたことがあります。
    「クラスの人が、みんな、優しい」
    うん、わかる。
    それ、凄くわかる。
    私は何度も頷きました。

    学校は、進学率とか、建物の新しさとか、制服の可愛らしさとか、そういうことで測るものではありません。
    そこに誰がいるか、誰と出会えるか、だと思うのです。



    都立新宿高校合格、おめでとうございます。
    本当に本当に良かった。
    素晴らしい春となりました。

      


  • Posted by セギ at 12:07Comments(0)講師日記

    2019年02月17日

    受験後、燃え尽きないために。


    「燃え尽き症候群」といった言葉は聞いたことがあると思います。
    長年個別指導をしていますと、それなのかなと感じる生徒に出会うことは日常茶飯事です。

    無論、それには個別指導の特性も影響しているのでしょう。
    中学受験を経験した子が、中学に入学後、家でほとんど勉強しなくなり、それを心配した保護者の方がお子さんを個別指導塾に連れてくるというパターンが多いのです。
    中高一貫校の指導上の特色から、集団指導塾、特に高校受験塾に通ってもカリキュラムが合いません。
    中高一貫校に通っていて、学習上、困った事態に至った場合、まずは個別指導塾を考えるでしょう。

    中高一貫校に通っているということは、以前は、中学受験の勉強をしています。
    だから、基礎学力はある場合が多いです。
    それで学習上困った事態に至っている原因の第一は、家庭学習をほとんどしないことです。
    だから、個別指導をしていると、中高一貫校の生徒は家庭学習の習慣がない子が多いようにすら感じます。

    一方、中学受験をしない子は、小学生でも中学生でも高校生でも、個別指導を受けに来る子の場合、家庭学習の習慣のある子が大半です。
    今よりもさらに高い学力をつけるべく、個別指導を受けに来ます。
    受験学年ではなくても意欲的で、宿題もきちんとやってきます。

    今の個別指導塾を開く前は、集団指導塾に勤めていたこともありました。
    中学・高校・大学受験のための集団指導塾です。
    高校受験クラスは、学力別にクラス分けを行っていました。
    全員が近隣の公立中学に通う生徒でした。
    上位クラスの子は、意欲があり、家庭学習の習慣もある子ばかりでした。
    一方、下位クラスの子は、家庭学習の習慣がなく、宿題をやってこない子がほとんどでした。
    そのように明瞭に学習意欲が別れていました。

    意欲がないから下位クラスになるとは限りません。
    下位クラスになったから、学習意欲がなくなったのかもしれません。
    大半が宿題をやってこないから、自分もやらない、それで安心という空気も生まれます。

    少人数クラスでしたから、クラスが荒れているということはなく、授業は成立しました。
    しかし、塾でしか勉強しないのですから、成績が上がる可能性は低いのです。
    学校の授業ではわからなかったことが、塾でわかるようになる。
    ただ、その後、宿題の問題演習で復習することがありませんから、テストの得点にはなかなか結びつきません。
    わかるだけじゃなくて、できるようになろう。
    そう呼びかけても、やはり宿題をやらないままの子は多かったのです。
    家でどう過ごすかは、もう既にルーティンが出来上がっています。
    それまで通りの日常の中に、家で勉強する時間は存在しません。
    勉強したほうがいいんだろうなあとは思いつつも、日々は何もせずに過ぎていきます。
    でも、別に、友達も勉強していないし。
    そうした停滞感が下位クラスを支配しているのは否定できませんでした。


    一方、個別指導に来る中高一貫校に通う学習意欲の低い子たちは、存在そのものが矛盾を抱えています。
    彼らは、中学を受験し、合格したのです。
    受験勉強をした経験者です。
    努力をしてきた子たちです。
    中高一貫校に合格したのに、なぜそんなにも学習意欲が低いのか?
    今通っている中高一貫校に、無試験で入学できる大学は存在しないというのに。
    あるいは、あっても、行きたい大学ではないだろうに。
    自分が大学受験をすることになるのは、わかっているはずなのに。
    それなのに、何でそんなに勉強しないでいられるのだろう?

    大学受験まで6年間あるのだから、まあ中学生の間はのんびり遊んでいてもいいのでは?
    保護者の方がそのように考え、そのように本人に言っているのなら、個別指導など受けに来ないでしょう。
    中学に通い始めたら、全く勉強しないので、学校の授業についていけなくなった。
    保護者の方が心配になって塾に連れて来た。
    そういう場合が多いです。

    数学の場合、中1の1学期でもうついていけなくなることがあります。
    中高一貫校は、6年間で学習すべき学習内容を5年で消化します。
    しかし、高校数学は、そんなに時間短縮はできません。
    圧縮するのは中学数学です。
    中1で、普通の中1・中2の内容を終わらせます。
    学校によっては、中1の3学期には中3の内容に入るところもあります。
    だから、授業スピードがとにかく速いです。

    公立中学ならば、中1の1学期と言えば、「正負の数」「文字式」の単元が終わり、「方程式」の途中まで進んでいれば進度は順調です。
    一方、中高一貫校の場合、数学の授業がそもそも代数と幾何に分かれているため、それぞれの授業時間は半減しているというのに、代数の1学期の進度は、「正負の数」「文字式」「1次方程式」「連立方程式」が終わり、「関数」に入っています。
    幾何は独自テキストの学校も多く、味も素っ気もない体裁のテキストに、公理やら定理やらがズラズラと並んでいます。
    中1の1学期で「図形の移動」「平面図形の求積」「空間図形の求積」「平行と合同」「三角形」まで終わっている・・・。
    恐ろしいスピードで授業が進んでいます。

    学校側も、その進度で授業を進めるリスクは理解しているのです。
    入試に合格した子たちとはいえ、算数・数学が得意な子ばかりではありません。
    受験算数はあまり得意ではないまま、他の科目でカバーして何とか合格した子もいるでしょう。
    それはわかっているので、数学は学力別のクラス編成を行っている学校がほとんどです。
    下位クラスの生徒たちには応用問題の演習を減らし、基本の解説を重視してはいるようです。
    授業中に小テストが多く実施され、基準の得点を満たさない生徒には放課後の補習と追試を行っている学校もあります。

    しかし、学校側がどれほどフォローしても、家庭学習の習慣のない子がこの進度の授業についていくのは難しいです。
    そうした生徒に個別指導を始めると、代数は方程式の基本も理解していないことがありました。
    3x-8=5x+7
    といったレベルの1次方程式の計算も、解き方がわからないのです。
    むしろ公立の中学に通っている子でこの問題を解けない子を探すほうが難しいというのに。
    方程式の計算問題ならばどうにか解ける子も、文章題になると、受験算数の解き方で何がごちゃごちゃ解いてしまうこともありました。
    そういう子は、式を立てず、暗算し、筆算し、答えだけを書きます。
    しかも、その答えが間違っています・・・。
    「式を書いて」
    と言っても、式を書く意味が理解できないのか、表情のない目で私を見返してきたりしました。
    「その答え、間違っていますよ」
    と言うと、目に少し表情が現れます。
    そうした子に、いきなり方程式を利用した解き方を説明しても理解してもらえません。
    もう中学生なのに、受験算数の解き方でいったん教え、どうして答えがそれではないのかを説明した上で、方程式で解く方法を教える。
    そういう二度手間が必要でした。
    方程式で解けばどれほど簡単であるか、本人が理解できるまで説明しないと、いつまでもいつまでも受験算数の解き方で中学の数学を解こうとするのです。
    「受験算数で解くより、方程式のほうが簡単でしょう?」
    と説明しても、
    「いや、自分はそうは思わない」
    と言って、正解が出せないのに受験算数でなおも解こうとする子もいました。
    もう新しいことは習得したくない。
    今まで身につけたことだけでやっていきたい。
    そういうことだったのかもしれません。

    幾何はもっと惨状を極めている場合がありました。
    学校の授業で何をやっているのか、全くわからないと言うのです。
    面積や体積を求める問題だけは意味がわかるけれど、他は、何のために何をやっているのか、本当に何もわからない。
    テストにどういう問題が出るのかわからないから、勉強の仕方がわからない。
    そう言う子もいました。
    これは、学校の独自テキストも影響しているのでしょう。
    教科書会社が作っている教科書ならば、全国一律の安心感があります。
    それが例え中高一貫校向けの難度の高い教科書であっても。
    学校の独自テキストは、自分の学校だけ特別なことをやっているという誤解を生徒に与えます。
    凄く凄く特別なので、学校の授業がわからない以上、もう勉強のしようがないと本人が誤解していることがあります。

    いや、実は、それほど特別ではないんです。
    教えていることは、公立の中学と順番は同じです。
    幾何の学習を基礎の基礎から行うのなら、自ずと学習する順番があります。
    突飛な順番で学習することはできません。

    確かに独自の表現もあります。
    「公理」という言葉は、今、普通の中学高校の教科書で見ることはありません。
    三角形の合同条件を「3辺相等」「2辺夾角相等」「2角夾辺相等」と表現をするのは、今は私立の学校だけです。
    易しいことを難しい言葉遣いで教えてわからなくする呪いでもかけているのか?
    そうも思いますが、最初からその言葉で教わればそのほうがわかりやすいという子もいます。

    普通の順番で、ただし進度は速く、応用問題を多めに勉強しているのが中高一貫校の幾何です。
    幾何は、何のために何をやっているのか、そもそもわかりにくい。
    直線ℓと直線mが垂直、直線ℓと直線nが垂直であるとき、直線mと直線nは平行であるかどうか、なんてところから学習が始まると、「意味不明・・・」と思うのもわからなくはないのです。
    あさっての方向から学習が始まった違和感をぬぐいがたいのは幾何という学習の特徴なのですが、それを学校の独自テキストや独自カリキュラムのせいと誤解している子が多いのです。

    とはいえ、そうした疑問は、個別指導で教われば解決することです。
    彼らに欠けるのは、何よりも学習習慣です。
    家庭学習をする習慣がありません。
    週1回の塾に来る直前に慌てて宿題を数問解いて、やった形跡を残してお茶を濁そうとします。
    これをどうにかするのは、理解は遅いけれど意欲のある子を指導し、問題を解けるようにすることよりも難しいのです。
    困難を極め、時間がかかります。


    彼らには、同情できる面もあるのです。
    中学に合格すれば、高校受験・大学受験の苦労はなくなる。
    勉強・勉強と追い込まれることなく、楽しい学園生活を満喫できる。
    そう思っていた子が多かったのではないでしょうか。

    楽ができると思っていたのに、むしろ勉強は大変になった。
    勉強しなさいと親は言うが、何を言っているのか?
    苦しい思いをして中学受験をしたのは何のためか?
    中学・高校で楽ができるから。
    そうだったんじゃないの?

    ・・・中学・高校で楽ができる。
    保護者の方に実際にそう言われたのでしょうか?
    何となく自分でそう思い込んでしまったのでしょうか?
    小学生のうちに勉強でこんなに苦労するのだから、後は楽になる。
    そう思いたい気持ちは、わからなくはありません。

    しかし、大多数の中学受験生は、中高一貫校に入学後、さらに大学受験をするのです。
    大学進学実績で定評のある中高一貫校だから受験したのです。
    あるいは、大学までエスカレーターで進める中学を第一志望とはしたものの、そこには合格できなかった。
    志望校を変更せざるを得なかった。
    結果、また、大学は受験しなければならない。
    そういうこともあるでしょう。

    保護者の方は、すぐに気持ちを切り替えて、大学受験のためにも、この中高一貫校に通うことは意味がある、と考えるでしょう。
    けれど、子どもはそうはいかないのかもしれません。
    3年も受験勉強で苦労したのです。
    小学生のときの3年は、長いです。

    それまで生きていた人生の中の何分の1であるかが「時間」というものの実感を生むとする説があります。
    子どもの頃は、1日が長く、1年もとてつもなく長かった記憶があります。
    年をとればとるほど、年月の過ぎるのがあまりにも早い。
    その実感は、例えば、40歳の人にとって、この1年は、人生の40分の1に過ぎない、といった時間感覚から来ているというのです。
    その考えでいくと、小学生のときの3年間は、3/12=1/4。
    人生の1/4を受験勉強してきたのです。
    それは、40歳の人にとって10年にあたります。
    小学生は、体感としては、大人の感じる10年間、受験勉強をしてきたのです。
    燃え尽きてしまう子が多くても不思議はありません。
    中学に合格したらもう勉強しなくていいはずだと思ってしまう子がいてもおかしくありません。
    少なくとも、まさか受験勉強していた頃よりも、中学入学後のほうが勉強しなければならないとは予想していなかったでしょう。

    実際は、中学受験のための受験勉強なんて、中学や高校の勉強と比べれば、易しいのです。
    特に今は、詰め込み型の受験塾は子どもを潰してしまうからと敬遠される傾向があり、宿題も少ない塾が多いです。
    昔と比べると、受験勉強が「ぬるくなった」感は否めません。
    それですら、小学生にとっては、辛く苦しい受験勉強です。

    繰り返しますが、中高一貫校に入学すると、最初の2年間で中学の学習内容を終え、中3からは高校の学習内容に入ります。
    その「中学の学習内容」も、発展的なテキストで難しい内容を2年間で習得します。
    想像を絶するボリュームと難度の学習内容を課せられるという覚悟が必要です。
    中学に合格すれば楽になる?
    ・・・いえ、公立中学に通ったほうが勉強は楽だと思います。
    基本を丁寧に学習できますから。

    中学に合格すれば楽になる。
    このことを、大人と子どもは別の意味にとらえています。
    大人は、「大学進学の可能性が高まる」「将来の可能性が広がる」といった意味で、「楽になる」と言います。
    しかし、子どもは、中学に合格すればもう今みたいに勉強しなくてもいいと誤解してしまうことがあります。
    そして、大人は、子どものその誤解に気づいていて、あえてその誤解を解かないこともあります。
    中学に合格したら、より大変な勉強が始まる。
    そんなことがわかったら、中学受験のモチベーションを維持できないと考えてしまうからかもしれません。
    小学生の今でさえ勉強が嫌いな様子の子に、中学受験のモチベーションを維持させるには、「中学に入れば、勉強しなくて済む」といった誤解をそのままにしておくほうがいいのではないか・・・。
    そう思ってしまう気持ちもわかります。
    しかし、それはまずいです。

    体感では10年に及ぶ長い受験勉強に耐え、合格したのです。
    もう勉強はしたくない。
    そのために頑張ったのだから。
    中学に入った後まで勉強しろと言われても、意味がわからない。
    中学の勉強がこんなに難しいなんて聞いていなかった。
    合格さえすれば、中学の勉強はもっと簡単だと思っていた。
    いや、そんな理屈をこねるつもりもない。
    ただ、もう勉強はしたくない。
    勉強はしたくない・・・。
    大学受験が近づいたら、また考えるかもしれないけれど、今は勉強はしたくない・・・。

    そんな様子の子を何人も何人も見てきました。

    中学受験をしても、勉強は楽になりません。
    むしろ、より難しく、より大変になります。
    せめて、保護者の方は、それを知っていてください。
    「中学さえ受かれば」
    と言葉にしなくても、保護者の方が内心でそう思っていれば、子どもは必ずそれを察します。
    中学入学後に「勉強しなさい」という親に、不信感を抱きます。
    より難しく、より大変で、より深く面白いことを学ぶために、中学を受験するのです。
    楽をするために中学を受けるわけではありません。
    そのことを理解していないと、入学後の現実に耐えられないと思います。

      


  • Posted by セギ at 16:03Comments(0)講師日記

    2019年01月01日

    2学期期末テスト結果出ました。2018年。



    明けましておめでとうございます。
    昨年中は大変お世話になりました。
    本年もよろしくお願いいたします。

    さて、2学期末テスト結果、出ました。
    数学 90点台 1人 80点台 3人 60点台 2人 
    英語 90点台 2人 40点台 1人

    テストの難度に左右されず安定して高い得点を取れるようになった人が多いです。
    数学では、特に女子生徒の数学的開眼が今年は続きました。
    思考力が高まり、初めて見る応用問題も自力で解決できる子が多くなりました。

    今回、英語の新入生が、まずは40点台から出発しました。
    家で英語を勉強する習慣がないようです。
    学校で週に一度ある単語テストや熟語テストの勉強もしたことがないと本人は言います。
    それが積もり積もって、英語表現の教科書の基本例文の単語も意味がわからないものがあります。
    文法に興味がないので、SとかVとか、全く意味がわからないと言います。
    英語だけでなく、勉強は一夜漬けの短期記憶が習い性になっている様子です。
    記憶を簡単に消してすぐに次の知識を入れるような仕組みに脳が出来上がっているのか、短期記憶能力は極めて高いのです。
    一方すぐに忘れて脳の記憶容量を空ける習慣があるのか、全てのことが長期の記憶になりにくい様子です。
    状況から考えて、そんなに簡単に成績が上がるとは思えません。
    1週間前に授業中に完璧にマスターしたことを、1週間後、なぜこうも完全に忘れることができるのか不思議なほどに、脳が全てを消去しています。
    また一から説明し直しでびっくりすることもしばしばです。

    家庭学習の習慣がないというのは本当に大変なことで、宿題を出したところでやってきませんから、塾にいる時間だけが勉強している時間になります。
    本人の日常生活のタイムテーブルに家で勉強する時間が設定されていないのでしょう。
    「勉強しなくちゃ」と本人はぼんやり思っていても、普段通りの日常を過ごしていると、1日は勉強時間ゼロで終わっていきます。
    日常習慣を変える必要があります。
    これは、口で言うほど簡単なことではありません。
    他の予定で埋まっているどこかの時間を勉強の時間に変えなければなりません。
    勉強が好きなこと・やりたいことならば、1日の中に勉強時間がないということはそもそも起こりません。
    勉強が嫌いなこと・避けたいことだから、そうなっています。

    とはいえ、生まれつき頭がいい。
    家で勉強なんかしなくても、ある程度までは何とかなるほどに頭がいいのです。
    小学生の頃は、家庭学習などゼロ時間でも、どうにでもなったのでしょう。
    中学生の頃は、テスト前だけちょろっと勉強すれば何とかなったのだと思います。
    高校の英語の定期テストで勉強しないで40点台というのは、ある意味凄いです。
    惜しい才能です・・・。
    これで子どもの頃から学習習慣があったなら、何でも望めたものを。
    勉強することの楽しさを子どもの頃から知っていたなら、誰が止めても勉強していたでしょうに。

    この冬休み。
    学校からは宿題プリントが沢山出ましたが、自力では解けないというので、塾で一緒に解いています。
    宿題プリントは何かのテキストのコピーを印刷機で中質紙に印刷したもののようで、字が小さく、しかもにじんでいます。
    逆さに見ながら一緒に解くのは、さすがに目の酷使となり耐えられません。
    本人に問題を読み上げてもらい、私は目を閉じてそれを聞いています。
    目を閉じて聞き取れないような読み方はしないようにと、その指導を兼ねています。
    入塾前に学校で学習した「不定詞」のプリントは、1問1問、私の助言なしでは先に進みませんでした。
    入塾後に学習した「動名詞」「分詞」も、最初は読み上げていたのですが、気がつくと黙って解いている時間が多くなりました。
    自力で解けるようです。
    私に教えてもらう必要がないから、読むのをやめてしまったのです。
    ・・・おや?
    脳が知識を消去していない。
    学習済みの文法問題は、自力で解けるようになっている・・・。

    今は高校の定期テストの多くが、毎週の単語テスト・熟語テストがそのまま定期テストの範囲になっているためテスト範囲が広く、その他に応用問題の配点も高いです。
    そんなに簡単に高得点が取れる仕組みになっていません。
    本当に英語力のある人しか、高い得点は取れません。
    とはいえ、成果の一端は見え始めている。
    そう感じる冬期講習です。
      


  • Posted by セギ at 14:57Comments(0)講師日記

    2018年11月14日

    2学期中間テスト結果出ました。2018年。



    2学期中間テストの結果が出揃いました。
    数学 80点台 2人 70点台 2人 60点台 2人 
    英語 90点台 2人

    数学は90点台こそ逃しましたが、高めに安定してきています。
    英語も好調です。ヽ(^。^)ノ

    さて、公立中学はもう期末テストの時期です。
    しかし、相変わらずテスト勉強のやり方を知らない子もいると思います。

    三頭山に行くバスの中でのこと。
    混雑したバスの中はグループごとのおしゃべりでアナウンスが聞こえにくいほど賑やかでした。
    その中で若い女性2人の話し声が、私の近くの席だったこともあり、特によく聞こえてきました。
    話の内容から察するに、2人とも高校の先生のようでした。
    せっかく日曜日に山に遊びに行くのに、話の内容は教育論。
    それで気分転換になるのかなあと心配になるのですが、学校で意見を通すにはまだ若過ぎるので、対等に教育論を交わせる相手ととことん話すのは、ある意味ストレス解消なのかもしれません。
    その中で、ちょっと面白かった会話。
    「成績の悪い子って、ノート、きれいだよね」
    「何であんなにきれいにノートを作って、あんなに成績悪いんだろうって思うよね」
    「ノート作りが目的になっちゃっているんだろうね。違うのにね」

    学校の先生が、そんなことをバスの中で大声で言う是非というのはあると思います。
    でも、生徒のことを心配して言っている気持ちも本物だと思うんです。
    私も実感として知っています。
    ノートがやたらにきれいで勉強ができない子は一定の割合で存在します。

    以前、勤めていた集団指導塾でのこと。
    明日は定期テストという子ばかりだったので、普段の授業は中止し、自習に切り替えていた日のことでした。
    英語や数学は、テスト前日は最終チェックと微調整をすればいいだけなので、テスト前日は、案外やることがありません。
    生徒も、理科や社会の勉強をやりたがります。
    自習している様子を見ていると、ある女子生徒が、ノートに、それはそれは精密な細胞の図を描いていました。
    教科書に描いてある、動物細胞と植物細胞の図です。

    「それ、何にするの?」と訊くと、
    「明日の1時間目は自習だから、これを見て、覚える」
    と言うのです。
    覚えるのなら、今、教科書を見て直接覚えたらいいのに、彼女は図を描くのにとにかく夢中なのでした。

    覚えるためのノートを作らないと覚えられないという人は、います。
    しかし、それは少なくともテスト1週間前には完成させておくものです。
    それを見て暗記するのに、また時間がかかりますから。
    テスト前日に精密な図を描いているのは、学習の方向性にかなり疑問を感じます。
    覚えることが最優先のはずです。
    きれいなノートを作ることが目的ではありません。

    他の子が、理科のプリントが欲しい、と言いだしたので、私は全員にテスト範囲の一問一答形式のプリントを渡しました。
    幸い、その子もプリントを受け入れてくれたのですが、今度は手が動きません。
    テスト範囲の重要事項や用語をまとめた、簡単なプリントでした。
    なのに、1問も解けない様子です。
    しばらくして解答を渡すと、彼女はプリントに解答を丁寧に写し始めました。
    きれいな字で、丁寧に、丁寧に。
    そして、全てに赤丸をつけて、プリント作業終了。

    学習の方向が、間違っているのです。
    暗記する。
    問題を解いてみる。
    間違えたところをチェックして、覚えなおす。
    問題を再度解く。

    こういう当たり前の勉強方法を、その子は知らない様子でした。
    あるいは、知っていたのかもしれません。
    でも、その勉強方法は、その子にとっては、とても苦しいのでしょう。
    なかなか覚えられない自分。
    問題を解けば、間違いだらけの自分。
    ダメな自分。
    そういうものと向き合う作業になります。

    それは、どんな秀才だって、最初はそうなのです。
    訓練しているから、そういう作業が速くスムーズになっているだけです。
    でも、その子は、それを知らない。
    あるいは、そう説明されても信じない。
    そういう作業に、立ち向かえない。
    逃げてしまって、頭を使わない作業ばかりしてしまう。
    ほとんど頭を使っていない作業を「勉強している」と称してしまうのです。

    このように、やけにきれいなノートを作ったり、解答を見ながらプリントに答えを埋めたりと、何か作業はしているけれど実質的な勉強はしていない子が、勉強のできない子には多いと私も思います。


    また別のとき、英語の勉強の仕方がよくわからないという質問を受け、その子のコミュニケーション英語のノートを見せてもらいました。
    これは使えないノートだ・・・とため息がもれました。
    まず教科書の英文をノートに3行おきに書いてあります。
    その英文の真下に、和訳が書いてあります。
    英文には、学校の授業中に説明のあった文法事項や指示語の指示内容などがカラフルに書き加えてありました。

    え?
    良いノートじゃないかって?

    ・・・いいえ。
    そのノートを、その後、何に使うのでしょう?
    テスト前に繰り返し眺めるだけでしょうか?
    眺めるだけで、覚えられるのでしょうか?
    本当に覚えているかどうか、そのノートで確かめられるのでしょうか?

    それを考えると、そのノートの体裁はベストではないのです。

    ノートの見開き左側に英文。
    右側にその和訳。

    そういうノートの形式を指示しますと「何だ、古臭いな」という声もあるかと思います。
    これを古いと感じる人は、このノートの古い使い方をイメージしているのでしょう。
    とにかく教科書の英文をひたすら書き写し、その和訳を右ページに書くのが英語の予習の全て。
    そして、学校の英語のリーディングの授業は、生徒の1人に英文を1段落音読させて、続いて同じ生徒にその1段落を訳させる、眠くなるばかりの授業。
    テストは、新出単語を書く問題の他は、本文の傍線部の和訳ばかり。
    あの英語の授業もテストも、つまらなくて嫌いだったなー。
    あれで英語が嫌いになった。
    ・・・そんな声も聞こえてきそうです。

    ノートはそれと同じ見た目かもしれませんが、やることは英文を眺め、和訳を覚えること、ではありません。
    和訳を見て、教科書本文の英文を復元する作業をします。
    余裕がないなら、重要表現や重要文法事項の含まれている文だけでも。
    余裕があるなら、本文全文を。

    家庭学習で行うことは他にもあります。
    教科書準拠のCDで、教科書本文の朗読を聞いて、内容が聴き取れるか確認します。
    次に、そのCDと一緒に音読。
    同じスピードで同じ発音で音読できることが目標です。

    あるいは、新出単語のスペル練習。
    和訳を見ながら教科書本文を書く作業も、せめて重要文だけはやっておきたいです。
    学校から配られているワークで演習もしなければ。

    英語の家庭学習は、やるべきことが沢山あります。
    しかも、これは「コミュニケーション英語」の学習であって、「英語表現」の学習がこれにさらに加わります。

    ノート作りは、家庭学習をスムーズに行うためのもの。
    ノート作りが目的ではありませんよね。
    だから、学校から禁止されていない限り、英文は教科書をコピーしたものをベタっとノートに貼っても良いと思います。
    新出単語をいちいち辞書で引くことの意義はわかるものの、それに時間を取られ、それが英語学習の全てになるくらいなら、教科書準拠の単語集をささっと写しても構わないと思います。
    ただ、その浮いた時間で必ずその単語を覚えましょう。
    品詞も含めて正確に。
    派生語も覚えておくと完璧です。
    和訳が本当に苦手でひどく時間がかかり、それだけで英語の家庭学習時間の全てが潰れてしまうようなら、ネットの教科書全訳サイトを適宜利用するのだって1案ではあります。

    私の塾では、一度本人に口頭で教科書本文の和訳をしてもらった後、私から全訳を渡しています。
    学校から全訳が配られている場合も今はあります。
    調べものや単なる作業の時間をできるだけ減らし、英語をインプットし活用する時間を増やすためです。
    教科書以外の英文に触れる機会を増やすことも大切です。
    長文問題集や英検問題集をどんどん解きたいですね。
    今の定期テストは、読んだことのない英文も出題される場合がほとんどです。

    この学習方法は、英語学習の最初からそれをやっていれば、抵抗は少ないのです。
    教科書本文は徐々に長くなっていきますが、長年の継続の中で徐々に長くなっていったものには耐えられます。
    中3、あるいは高校生になって、突然この学習方法に切り替えると、最初はひどく苦しく感じると思います。
    苦しいことからは逃れたい。
    どうやって逃れるか?
    「こんなことをやっても意味がない」と理論武装する子がいます。
    本人が効果を実感し、積極的にこの学習方法を取り入れるまでは、このやり方を受け入れてほしいこちら側と、何とか否定したい生徒側との闘争が続きます。
    本来、英語が得意になりたいと望んでいるのは生徒のはずですが、その生徒が最大の障壁となることがあります。

    水は低きに流れる・・・。
    嫌いなことわざですが、一面真理ではあるのでしょう。
    教科書全訳はちゃっかり受け取り、サブテキストの全訳もほしいと要求するけれど、その和訳から英語に直す練習はしない。
    音読練習もしない。
    長文問題は「わからなかった」と言って、解いてこない。
    「英語にそんなに時間はかけられないから」
    とうそぶいて、スマホを眺めて1日過ごす子もいるかもしれません。

    しかし、私は問い続けます。
    学校の教科書の英文だけなら勉強した後にそこそこ意味がわかるくらいの英語力がほしいのですか?
    定期テストを何とかこなし、高校卒業の資格がほしいだけですか?
    それとも、次元の違う英語力がほしいのですか?

    英語教育改革の足音は近づいています。
      


  • Posted by セギ at 14:34Comments(0)講師日記英語

    2018年09月13日

    聴き取る力・読み取る力。


    今朝、ラジオを聴いていたら、季節に関するひと口情報的なコーナーでこんな会話がなされました。
    1人はアナウンサーで、用意された原稿を読んでいます。
    アナウンサー「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません。本来はそのまま『あきざくら』と読み、これがコスモスの和名とされています。この漢字2文字でもコスモスという読み方が広まったのは、1977年の山口百恵さんのヒット曲『秋桜』がきっかけだと言われているんですね」
    パーソナリティー「これね、いつも諸説ありをぶつぶついうのが好きなんですけど、そうじゃない説を今思っていて」
    アナ「さだまさしさんが作詞作曲されたこの『秋桜』・・・」
    パーソ「コスモスは昔からあるよ。私たちが小学生のときから、コスモスはコスモス。そう言ってたよ。さだまさしさんが逆にコスモスを秋桜と書くのを最初にやったみたいな説ありましたよね。それで聞いているから。これとはちょっと食い違う」

    放送を聴いたときも、録音をこうして文字に起こして何回も読み直しても、このパーソナリティーが何にケチをつけて「逆に」と言っているのか、よくわからないのです。
    この情報を整理すると、コスモスの和名は「あきざくら」。
    「秋桜」と書いてコスモスと読ませた最初の人は、さだまさし。
    アナウンサーが読んでいる原稿も、パーソナリティーが「諸説ありだ」と言っていることも、同じ内容に思えるのです。

    このパーソナリティーは、何を言いたかったのでしょう?
    何かを誤解したのでしょうか?
    このパーソナリティーが?
    それとも私が?

    ラジオを長年、というより話芸を長年やっている人が、何かを聴き取り間違えたのではないか?
    「コスモス」という花の名前を広めたのがさだまさしだという説をアナウンサーが読んだと誤解したのでしょうか?
    その前までは人々はあの花を「あきざくら」と呼んでいたと聴き取り間違えて、いや、そんなことはない、と感じたのでしょうか。
    あるいは、「コスモス」という西洋の名称にさだまさしが「秋桜」という漢字を選んで充てたのであって、「あきざくら」という和名など存在しない、と言っているのか?

    そう悩みながらアナウンサーの原稿を読み直すと、そういう様ざまな解釈を招く隙がこの原稿にはあるのだと気づきます。

    誤解の分岐点は、
    「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません」
    「この漢字2文字でも『コスモス』という読み方が広まったのは」
    というところだと思います。
    ここに違和感を抱く人が多い。
    「コスモスと読まれる方が多いかもしれません」という言い方は、それは間違っていますよ、というニュアンスがあり、反論されやすい物言いなのでしょう。
    「コスモスと呼ばれる方が多いかもしれません」
    「『コスモス』という呼び名が広まったのは」
    と聞き間違える可能性も高く、そうなると意味が全く変わってしまうのです。
    自分が以前から思っていたことを否定されたように感じると、いや、それは諸説ありだ、自分の知っていることはこうだ、と主張したい気持ちにもなります。
    アナウンサーは、パーソナリティーよりもずっと若いので、いや、それは同じことなんじゃないですかと反論はしませんでした。
    1977年なんて生まれてもいないでしょうから、それ以前にあの花を「コスモス」と呼んだかどうか、「あきざくら」という和名が存在したかどうかなんて本人は知らないのですし。
    ああ、そうかもしれませんね、と受け流して先に進んでいきました。
    聞いている私は、取り残されて、朝からモヤモヤしてしまいました。

    ラジオだから?
    音声だから、情報が正確に伝わらないのだろうか?
    文字情報のほうが、確実なのか?

    しかし、そうとばかりも言えません。
    先日、北海道で大きな地震があり、それに伴って大規模な停電が起こりました。
    電力的には今も綱渡りの状態が続き、北海道では計画停電を実施する可能性もあるそうです。
    そうなると、「原子力発電所を動かしていればこんなことにならなかったのだ」という意見を口にする人もいます。
    北海道の泊原発は安全基準を満たしていないから、そもそも稼働できないそうですが、それはともかく。
    気になるのは、「泊原発」を「柏原発」とネットで書いている人がいること。
    「泊」と「柏」は文字としては似ています。
    肉筆の場合は、たまたま書き間違える可能性はあります。
    しかし、ネットで「柏原発」と打ち込むには、「かしわげんぱつ」と入力しないと無理です。
    つまり、最初から読み間違えていないと、この書き間違いは起こらない。
    そういう人たちにとって、北海道の原発は、その存在すら実は予備知識になく、むしろ原発といえば、新潟県の柏崎の原発のほうがまだしも名前の見覚えがあったのかもしれません。
    その連想もあって「かしわ原発」になってしまっているのでしょうか。

    そうした読み間違いや勘違いがなぜ訂正もされずその人の中でそのままになってしまうのか?
    ネットで「柏原発」と書いている人は、テレビやラジオでニュースを確認したことが一度もないからでしょうか?
    ネットでしか情報を得ていないのではないか?
    音声を伴う情報に触れないので、読み間違いが永遠に訂正されないのです。
    このように、文字情報だけの場合も、ある種の危うさがあります。

    昔、ネットにアクセスできない人を「情報弱者」と呼びました。
    今は、ネットでしか情報を得ない、新しい種類の情報弱者が生まれているのかもしれません。

    社会問題としてこれを論じているのではなく、私が気になるのは、やはり身近な話です。
    生徒は私の音声による解説をどこまで正確に聴き取ることができているのだろうか?
    私はどこまで正確に情報を伝達できているだろうか?

    また、生徒は、テキストに書いてある文字情報をどこまで正しく読めているのだろうか?

    相変わらず、
    「問題を読みましょう」
    「問題文に全部書いてあるよ」
    「設問を読みとばしたでしょう?大事な条件がここに書いてあるよ」
    と生徒に繰り返す日々ですが、問題文を読み取れないだけでなく、私のそうした音声による助言も情報として正確に聴き取れない子がもしいるとしたら、一体どうしたらよいのだろう?

    音声による情報も、文字による情報も、思っているよりも脆弱で、相手が誤解する可能性を常にはらんでいます。
    自分が何か誤解していないか。
    相手が何か誤解していないか。
    常にその可能性を探りながら、さらに細心の注意をもって情報の伝達をしていかなければ。
    改めてそう感じた秋の初めの朝でした。

    北海道だけでなく、大雨や台風の被災地もまだ苦しい毎日と思います。
    被害の様子を知る度、2011年を思い出します。
    心よりお見舞い申し上げます。
      


  • Posted by セギ at 13:27Comments(0)講師日記

    2018年09月03日

    勉強に向いている性格。



    先日、ネット記事を眺めておりましたら、「性格の悪い子は成績も悪い」というタイトルの記事を見つけました。
    こういう記事は閲覧数を稼ぐためにキャッチーで過激なタイトルをつけるもので、記事の内容はそんなにひどいものではないのだろうと一応読んだら、内容もそのままだったので驚きました。

    大手の塾の経営者の発言をまとめた記事でした。
    いわく、大人の指導に素直に従う子は伸びる。
    大人の言うことを素直に聞けない子は、指導を無視して勝手なことをするので、間違った勉強をして、成績が上がらない。
    すなわち、性格の悪い子は、成績が悪いのだ。

    言っていることは、部分的にわからないこともないのです。
    しかし、この言い方・・・。
    「俺の言うことさえ聞いていればいいんだ。そうすれば、成績は上がる。成績が上がらないのは、俺の言うことを聞かないからだ」
    そうした呪いの言葉に思えます。
    これほど言葉はひどくないけれど、結局、自分も同じようなことを言ってしまっていないか、考え込んでしまいました。

    私が以前に勤めていた集団指導塾は、私が勤務した頃には地域密着型の穏やかで小さな学習塾でした。
    しかし、スパルタ式の教育で近隣に名を馳せ、教室をいくつも広げるほどに躍進していた時代があったと、昔から勤めている講師に聞いたことがあります。
    宿題をやってこない子に対しては、男女関係なく、皆の前でビンタをしたそうです。
    その恐怖と恥ずかしさを思えば、誰もが必死に宿題をやってくるようになります。
    必死に宿題をやれば、成績が上がる。
    成績が上がれば、保護者は満足。
    塾にクレームをつけません。
    「やり方が気に入らないなら、どうぞ退会してください。
    うちの塾に通っていれば、しかし、成績は上がるんですよ」
    そういう形で実績を上げた塾だったというのです。

    大人の言うことを聞かない子どもは多いですが、そういう子ほど、恐怖と暴力で支配すれば簡単に従うのも事実です。
    いえ、大人も、恐怖と暴力の支配から逃れられる人は少ないでしょう。
    歴史がそれを証明しています。
    だからこそ、私たちは、用心に用心を重ね、そうしたことが起こらないようにアンテナを張っていなければなりません。

    「性格の悪い子は、成績が悪い」
    この発言は、そうした暴力的支配が許されなくなった時代に、それでも子どもを従わせたい人の苦しまぎれの物言いに思えます。
    ここでいう「性格が悪い」は、指導者にとって都合の悪い性格という意味に過ぎません。
    「性格の良い子」というのは、指導者にとって都合の良い性格の子ということです。
    言うことを聞かない子をどのように説得し、効果的な学習方法を伝えるか。
    そこで勝負しないで、子どもの性格のせいにしてどうするんだろう・・・。


    この夏、教室の入っているビルは大規模な外壁工事が行われました。
    通路も教室のドアも塗り替えられてピカピカです。
    4年前、今回ほどの規模ではないですが、ある土曜日、通路の床に防水加工の工事が行われたことがありました。
    しかし、うちの塾は土曜日も営業しています。
    業者の人と相談の結果、エレベーターからうちの教室の前まで養生をしてくれて、そこを通って教室に入れるようになりました。
    私は保護者にメールで連絡しました。
    「本日、うちの教室前の通路は塗装工事が行われております。エレベーターから教室の入口まで、養生してあるところを歩いてきてください」
    これで大丈夫でしょう。

    ところが、ここで不測の事態が発生しました。
    そのメールの内容をお母様から伝えられた生徒は、外階段からやってきてしまったのです。
    ('_')

    「エレベーターから教室入口まで、かなり歩きにくい状態になっているようだ」
    というふうに情報を読んで、
    「じゃあ、階段からなら、歩けるんじゃないか」
    という発想になったのでしょう。

    いやいやいや。
    「エレベーターから教室入口までなら、歩ける。他に歩ける道はない」
    というのが、私の伝えたかったことだったのですが。

    というよりも、そのとき、私の中に階段という発想はなかったのです。

    これは私の思考の癖なのかもしれません。
    業者さんに、
    「エレベーターから、この部屋の入口まで、通れるようにしますから」
    と言われれば、
    「なるほど、エレベーターからここまで、通れるのだな」
    と、そのまま受け止めます。
    「エレベーター」という言葉が思考のフックとなり、もうそれ以外の選択肢は念頭から消えます。
    相手が通れるようにしてくれている、その通りにやっていれば、間違いはない。
    はみ出す必要はない。

    そして、勉強をする上で、この考え方は楽だし、合理的なんです。
    解説を聞いて、あるいは解説を読んで、まずはその通りに再現する。
    その再現の正確さが、理解力。
    勉強する内容は、数千年の人類の叡智です。
    私の単なる思いつきが簡単に凌駕するわけがありません。
    現代科学の最善で最高の内容を教わっているのです。
    言われた通りに再現できることが、まず必要。

    とはいえ、
    「だから学校の秀才の考えることはつまらないんだ」
    と言われれば、それもその通りなのです。
    言われたことを言われた通りにやるのではなく、思ってもいなかった方向から発想できる人は、かっこいいですよね。
    少数のそういう人が文明を牽引し、そして、それを多くの秀才が再生して、世の中は進んでいくのだと思います。

    ただ、階段を使うという発想は、そういうユニークで魅力的なものなのかというと、そうではないように思います。
    それは、たとえ思いついても、総合的に判断して、自分で却下したほうがいいのです。
    階段を使えるのなら、最初からそういう誘導をします。
    階段の先は塗装直後で、一歩も先に進めなかったのです。

    相手が口にしないことを自分が思いつくと、思いついた途端に「それこそが最善」という思考の飛躍を起こす子がいるのではないか。


    また別の子の話ですが、英語の「受動態」をなかなか理解できない中学2年生がかつていました。
    最初の授業では、正確に理解したのです。
    基本的に頭の回転の速い子で、その場では器用に身につけることができました。
    しかし、家で復習する習慣がなく、宿題は、次の塾の日の直前に慌ててやってくる子でした。
    1週間経ってからでは、たいていのことは頭から抜け落ちています。
    宿題は間違いが多く、そうなると混乱し、わかったはずのことがわからなくなっていくようでした。
    1週間、また1週間、むしろ、どんどん「受動態」がわからなくなっていくのです。
    とうとう、簡単な穴埋め問題も解けなくなってしまいました。

    問題 次の空所に適切な語を補いなさい。
    (1) その歌は若い人たちに愛されている。
     The song (  )(   )among young people.
    (2) この本は10年前に書かれた。
     This book (  )(   )ten years ago.

    こういった、ごく簡単な穴埋め問題です。
    (1)の答えは、is loved
    (2)の答えは、was written
    be動詞と過去分詞を空所に埋めるだけの、受動態のテストとしては何のひねりもない基本問題でしたが、全問不正解でした。
    そこに全て過去分詞とbyを入れていたのです。
    (1)は、loved by
    (2)は、written by  と。

    「・・・・・・何で、by?」
    「だって、受動態は、必ずbyを使うし」
    と、その子は言いました。
    「・・・・・・そんなふうに教わった?」
    「自分で気がついたよ。頭いいー」
    「受動態かどうかは、動詞の形で決まるんだよ」
    「だって、byを使うでしょう?」
    「使わない受動態は、たくさんあるよ」
    「えー?なんでー?」

    ・・・・・教わったことを教わった通りに再生していれば、早いのになあ。
    なんで、別のルールを自分で見つけてしまうのかなあ。

    しかし、それは思考の癖のようなもので、
    「なぜ?」
    と問われても自分で説明できないし、
    「そのような考え方はやめなさい」
    と言われても、やめられるものでもないのでしょう。

    何か1つの情報を与えられたときに、いくつもの選択肢を発想すること自体は、むしろ良いことです。
    問題は、その選択肢のうち、妥当ではないものを消去する判断力をもつこと。
    「自分の思いついたことだから、正しい」
    というバイアスがかからない総合的な視野を持つこと。

    でも、子どもに総合的な視野を求めても難しい。
    総合的な視野に乏しいから、それを身につけるために勉強しているんです。

    結局、「A」と言われたときに「B」の発想をし、それに沿って問題を解決しようとしてしまうのは思考の癖です。
    性格が良いとか悪いとか、そういうことでなく、思考の癖。行動の癖。
    良い勉強法を教わっても、聞き流して、実行しない。
    これだけは覚えなさいと言われても、覚えない。
    「A」の提案に対して、常に「B」という案を本人は思いつき、大人の言う通りにすることに意味を感じない。
    ピントがズレている間は成績向上の邪魔になりますが、ピントが合えば大きな潜在能力かもしれません。

    この子の性格にあった勉強のやり方は、どういうものだろう?
    どう説明すれば「A」と教えたときに「B」と発想せず、「A」のまま伝えることができるのだろう?
    そのように考えていくのが建設的だと思うんです。
    「性格が悪い」と子どもをなじって自分の責任を回避するよりも。
      


  • Posted by セギ at 16:25Comments(0)講師日記

    2018年07月29日

    1学期末テスト結果集計出ました。2018年。





    1学期中間テストの結果が出ました。

    数学 90点台 2人 80点台 2人 60点台 3人 50点台 1人

    英語 90点台 2人 

    じわじわと全員の得点が上がり、定期テストでは開校以来の高得点が続いています。
    まだまだ、もっと得点は上がると期待できる、伸びしろの大きい生徒さんも複数います。
    今回も、高校数学で満点が出ました。ヽ(^。^)ノ
    数学は2科目の平均点を記してあるので、平均だと90点台になってしまうのが勿体ない。
    高校英語も2科目の平均点を記してあります。
    120点満点の学校は、100点満点に換算してあります。


    来たる大学入試改革。
    さらに今年度の大学入試の結果。
    既に報道されていますので、ご承知の方も多いでしょうが、今年は首都圏の私立大学入試は激戦でした。
    理由は端的に、合格者数が絞られたこと。
    入学定員を厳密に守らないと大学は国から補助金をもらえなくなるため、今までのように多めの水増し合格者を出すことが年々できなくなっています。
    つまりは、それだけ合格率は低くなっています。
    そうなると、偏差値の高い受験生がすべり止めを今までよりも多く受けるので、上から順にどんどん受験生が押し出され、これまでは比較的合格しやすいと言われていた大学も厳しくなっています。
    今年の受験に関しては、私もそれを実感しました。
    え、何でこの子が、この大学に落ちるの?ということは実際にありました。
    以前なら模試でB判定ならほぼ合格しました。
    今年は、模試でA判定でも合格するとは限らない。
    それほど厳しい入試でした。
    少子化で大学全入時代と言われていたのに、・・・・。
    AO入試や推薦入試に受験生が多く流れるのも、頷ける事態です。

    こうしたことも遠因なのでしょうか。
    中学も高校も、今年の定期テストは問題の量が増えた学校が多いと感じます。
    公立中学の数学の定期テストが大問15まであったりします。
    なぜ、こんなに問題数が多いのでしょう?
    数学のテストの配点が1問あたり1点とか2点なのです。

    従来は、大問8程度で典型題のみ、最後の1題だけ発展問題というテスト形式が多かったのです。
    しかし、それでは、解き方の手順を暗記して解いているだけの子が高得点になり、「5」を取る場合がありました。
    そうした子は、手順を暗記して解いているだけなので、理解していない可能性が高く、テストが終われば解き方ごと全部忘れてしまうことがありました。
    同じ公式や定理を使う問題でも少し形が変わっただけで全く対応できない学力の子の場合もありました。
    そういう子が「5」で良いのか?

    それはわかります。
    しかし、今のように小問が50問あるような数学のテストですと、最後まで到達できない子が多くなります。
    知能テストのようです。
    とにかくスピードだけが問われ、じっくり考えるタイプの子は得点できません。

    うちの塾にも、じっくりタイプの子がいます。
    説明してもヒントを出しても反応がないので、わからないのかなあと思いながら様子を見ていると、驚くほど遅いタイミングで、しかし確実に解き始める子はいます。
    わからないのではないのです。
    時間がかかるだけなのです。
    計算も、1行1行何かを確かめながら解いているので、時間がかかります。
    正直、計算は、頭ではなく手が計算するように機械的に処理してほしい。
    教える側としてそれも本音ですが、1つ1つ頭の中で何かを確かめながら計算しているのは、わかっていないということではありません。
    こういうタイプの子は、時間を切られると、プレッシャーを受け、本来の実力を発揮できません。
    いつものペースでじっくり解いていれば、最後まで解けなくても80点は取れるはずですが、問題の多さに慌て、パニックに陥り、計算ミスを多発し、しかも、それを見直す時間もなく、実力を発揮できずに終わってしまいます。

    そういう子は入試で実力を発揮できない。
    だから評価が低くなっても、入試得点とのズレがなくなり、むしろ正確な評価だ。
    このテスト形式は意味がある。
    テストに強い子が誰であるかを明確にできるのが、今のテストの形式。

    そういうことも、わからなくはありません。
    現行のセンター試験の数学も、時間配分を失敗したら、ほぼ終わりですから。
    スピードは重要です。

    でも、・・・・本当に?
    計算スピードと正確さでいったら、人間はコンピュータにかないません。
    では、コンピュータのほうが、人間より数学ができるということでOKですか?
    そちらの方向で勝負しないために、思考力を問う教育や考える授業が重視されようとしているのではないのですか?
    何でテストが大量の問題をフルスピードで解く競争になってしまうのでしょう?

    知能テストなら、それでいいのです。
    でも、数学の定期テストは、知能テストではないと思うのです。

    慌てなければ正解できる基本問題を計算ミスでポロポロ取りこぼしている。
    でも、後半の発展問題の立式は正しい。
    証明問題も、少し減点はあるが、答案の形になっている。
    ただ、結局、得点はパッとしない。

    そうした子の数学力は、少なくとも以前よりは確実に伸びていると思うのです。
    特に、考える力が育っています。
    文章題を見ただけで諦めていた頃とは違う。
    でも、それを評価する手立てがありません。

    アクティブラーニングもそうでしょう。
    グループワーク。
    ディスカッション。
    それも、その場での瞬発力やスピードが問われます。
    パッと反応し気の利いた発言ができる子がその場を支配します。
    社会で生きていくには、そういう能力も必要です。
    でも、数学力ってそれなのでしょうか?

    答案を見るたび、色々と考えてしまいます。
    足の速い子が勝つように、計算の速い子が勝つのは、1つの物差しとして正しい。
    でも、物差しはそれ1つではない。
    昨日の自分より数学がわかるようになっていること。
    前よりも、勉強が好きになっていること。
    それも評価されてほしい。
    そうであってほしい。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 13:05Comments(0)講師日記