たまりば

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2024年03月01日

2024年度入試結果です。


本日、都立高校の合格発表があり、これで、今年度の入試結果はほぼ出そろいました。
結果は以下の通りです。
2024年度入試結果
◎中学受験の部
八女学院 合格

◎高校受験の部
都立調布北高校 合格

◎大学受験の部
星薬科大学薬学部(公募推薦) 合格

横浜薬科大学薬学部 合格
帝京平成大学薬学部 合格
日本薬科大学薬学部 合格

明治大学法学部 合格
法政大学法学部 合格
成蹊大学法学部 合格

明治大学政治経済学部 合格
中央大学経済学部 合格
成蹊大学経済学部 合格
東洋大学経済学部 合格
東洋大学経営学部 合格

なお、前年度までの合格実績も以下に記します。

◎大学受験の部
2023年度 受験生在籍者なし

2022年度 明治大学政治経済学部

2021年度 東京外国語大学言語文化学部
  
2020年度 東京電機大学工学部      

2019年度 東京外国語大学言語文化学部  

2018年度
早稲田大学政治経済学部 
中央大学経済学部  
成蹊大学経済学部 
東洋大学経済学部  
デジタルハリウッド大学(推薦入試)


◎高校受験の部
2023年度 都立松ケ谷高校外国語コース 

2022年度 都立蘆花高校

2021年度 都立神代高校

2020年度 都立調布北高校 

2019年度 都立新宿高校

2018年度 
都立西高校   
都立南平高校 
女子美術大学付属高校(推薦入試)

2017年度・2016年度 
受験生在籍者なし

2015年度
都立神代高校 (推薦入試)
都立調布南高校

2014年度
都立青山高校
都立豊多摩高校 (推薦入試)
都立杉並高校


◎中学受験の部
2023年度 受験生在籍者なし
 
2022年度 明治学院中学校

2020年度 東京電機大学中学校 

2018年度 恵泉女学院 


息つく間もなく、新年度の受験指導が始まっています。
新入生を募集しています。

現在の成績は、問いません。
未来の秀才を求めています。
小さな個別指導塾ですが、1人1人の成績を確実に上げることを目標に、実績を上げています。
担当は、受験指導30年のベテラン。
「上手な授業」を行うパフォーマーもいいですが、受け持った生徒の成績を本当に上げることが目的の「学習トレーナー」です。
必要な時期に必要な学習内容を提示します。

大学受験英語は、受験科目の中でも最大の得点源として、筆記・リスニングで高得点を取るための授業を行っています。
英語は常に得意科目でありたい。
他の科目の少しの失敗は楽にカバーできる英語得点力を実現しています。

大学受験数学は、得意な人は得点源としてのびのびと能力を伸ばし、また、苦手な人は、他の科目に迷惑をかけない得点を必ず確保することを目標に、入試の出題傾向にあわせた、演習中心の実戦的な授業を行っています。
数学は苦手だが大学受験にどうしても必要な人、歓迎します。

高校入試においては、数学・英語は勿論、5教科すべての指導を行っています。
こちらも入試問題の出題傾向に焦点を絞り、必要な知識を身につけた上での実戦的な入試対策を行っています。
都立入試の数学・英語は得点源。
さらに、他の各科目も、得意科目なら90点以上を。
苦手科目でも、80点を。
そうした形で入試の朝を迎えることを毎年の目標とし、成果を上げています。
また、私立入試・都立自校作成校入試は、英語・数学ともに学校で学ぶ内容だけでは不足があります。
早くから志望を定めている方には、定期テスト対策で内申を確保しつつ、学校のカリキュラムを離れて入試に向けた発展的な学習を計画的に指導しています。

中学受験は、受験算数をメインとした指導を行っています。
他科目の受講もご相談に応じます。
当塾だけで入試対策をする方も、他の塾の補習の形で活用される方も歓迎です。

受験生が卒業し、現在、授業コマに空きがあります。
新規の生徒を募集しています。
塾は3月が新学期。
春は塾選びの時期です。
パソコン画面に変更の上、緑色のお問合わせボタンから、ご連絡ください。
まずは無料体験授業を受けてください。
ご連絡、お待ちしております。



  


  • Posted by セギ at 11:27Comments(0)講師日記コース案内

    2024年02月25日

    質問しても、しなくても、大丈夫。


    勉強が上手いか下手かというのは、ほんのちょっとした差です。

    相変わらず、私は、NHKラジオ講座「ラジオ英会話」を聴き続けています。

    番組の中で、例えば、look という動詞についての解説があります。
    look という動詞の意味は「見る」。
    何を見るのか、見る対象を点としてとらえているから、look at。
    だから、at という前置詞をつける。

    また、見ながら後をついていくというイメージだから、look after は、「世話する」「面倒をみる」。
    まさに、幼児がよちよち歩いていくのを後ろからずっと見ているようなイメージです。
    熟語の語感や成り立ちを大切にすることで、簡単に暗記ができます。

    うん。
    わかりやすい。
    面白い。

    でも、こういう授業を個別指導でやると、失敗することもあります。
    ラジオ講座は、一方向のもの。
    言いっぱなしで済みます。
    聴いた側が、「面白い。理解した」と思えばそれでいい。
    それで聴き手がその熟語を1つでも覚えられたら、それで良いのです。

    しかし、個別指導は、双方向性のものです。
    質問が返ってくる可能性があります。

    「じゃあ、同じ世話をするという熟語でも、take care of は、何で of なんですか?」
    「look for という熟語はなんで for なんですか?」
    「look to という熟語はありますか?」
    「look on は?」
    「look in は?」
    怒涛のように質問してくる子が、個別指導の場合は、存在します。
    何かが頭の中に浮かぶと、すぐに何でも質問してしまうのです。

    生徒が知的好奇心旺盛なのは良いことです。
    だから、個別指導において、生徒の質問にはできるだけ答えます。
    しかし、あれこれ何でも質問した翌週、その子は、覚えてほしかった重要熟語 look after の意味を覚えているかというと。
    残念ながら、その可能性は低いのです。
    余計な質問を沢山する子は、大事なことを覚えていないことがあります。
    余計な質問をし過ぎたために、印象が薄れてしまうのでしょうか。
    沢山質問したのに、大切なことを覚えていない。
    質問をいっぱいできて楽しかった記憶はある。
    でも、質問の回答は何1つ覚えていない。
    そんな、5歳児みたいな子も、います。
    思いつきの質問をとにかく沢山することが「良い学習態度」だと、おそらく就学前か小学生の頃に間違って「学習」してしまったのかもしれません。


    これは私の説明の癖ですが、順番に根拠を示し、理由から話し始めることがあります。
    AだからBで、BだからCで、CだからDになるんですよ。
    そのように解説するとき。
    私が結論を話し終わるのを待っていたかのようなタイミングで、
    「なぜですか?」
    と尋ねてくる子がかつていました。
    皆で一斉にそう発声することがお約束であるような、独特の抑揚でした。

    「・・・今、説明しましたよね?」
    「え・・・」
    積極的に質問したから当然褒められるはずなのに、変な顔をされた・・・。
    その子は、明らかに、驚いていました。
    「では、もう一度説明しますね」
    「・・・」
    入塾して半年ほどの間は、そうしたことが繰り返され、その子の成績は上がりませんでした。

    そういう観点で振り返ると、小学生が国語の授業で読む説明文には、「なぜかというと」という語句が使われているものが結構あります。
    いかにも幼稚な文章ですが、それを書かないと、以降は理由の説明部分であるということが、わからない子が多いからでしょう。
    小学生は、まだ読解力が低いですから。
    「なぜかというと」が合図で、その後に理由が説明されている・・・。
    しかし、そのように学習すると、中学に進学して以降、そのような構造ではない、大人の読む評論をほとんど読解できない子が現れます。
    大人の評論は、理由を説明していても、「から」や「ため」という語すら使っていないこともあります。
    それでも、理由は説明しています。
    文脈を読めば、どこが理由の説明かは、わかるのですが、そういう読解を要求されても、できない子たちがいます。
    小学生の読解テクニックで大人の文章を読もうとしても無理があるのですが、小学生の頃に成功した受験テクニックを捨てられないのかもしれません。

    いずれにせよ、文章でも、口頭でも、結論が先に述べられて、その後に理由を説明されることに、慣れている。
    理由から話し始めても、何の話をされているのか把握できない子たちがいます。
    理由を言うときには、「なぜかというと」というふうに、「今から理由を説明しますよー」と合図を送らないと、理解できない・・・。

    私も話し方に気をつけるようになり、一方、その子も、説明し終わった後で「なぜですか?」と訊いてくるような頓珍漢なところは減っていきました。
    それは、
    「なぜですか?」
    と抑揚をつけて質問することに一所懸命になる必要がなくなったことも一因のような気がします。
    何か質問しなければならない、という妙な思い込みがなくなり、黙って聞いていていいんだ、聴くことだけに集中していいんだと理解した頃から、説明を一度で理解できるようになっていったように思います。
    以後、その子から質問を受けることはほとんどありませんでしたが、対話は可能でした。
    私からの問いかけには答えられたので、理解していることが把握できました。
    成績は徐々に上がっていきました。


    しかし、わからないことは、質問するのが最善です。
    それができない子もいました。
    わからないのに、わかったふりをします。
    わからないままなので、宿題を解こうとしても、わからない。
    だから、宿題は、親に訊いて解いている様子でした。
    宿題は、ほとんど正解。
    「宿題について、質問はありますか」
    と尋ねても、
    「ありません」
    という返事。

    これは、保護者の方が、宿題の面倒を見ることをもう止めたいと思わないでいてくださったので、何とか上手くいきました。
    無論、本当はわかっていないことを、教える側も知っていることが前提です。
    本当は、わかっていない。
    でも、それを言えないらしい。
    では、もっと丁寧にやっていこう。
    前回の授業の復習から、ゆっくりやっていこう。
    質問できない子は、質問しなさいと叱っても、質問はできないままのことが多いです。
    「質問できない子」は「質問する必要のない子」に変わっていけるように、教える側が注意を払っていくことが必要になります。


    質問は一切しないけれど、頭の中は疑問でいっぱい、という子もいます。
    最近は、そういう子のほうが多いかもしれません。
    私が、上のように look after の説明をしたとします。
    しかし、本人は、そこで、look for のことを連想し、それについて考えています。
    なぜ、for なのだろう?
    それをずっと考えているのですが、質問はしません。
    個別指導を受けている途中でも、独りで考えています。
    当然、その後の授業は聞いていません。
    あるいは、その後の授業に集中できません。
    ならば、質問すればいいのに、それもしません。

    「何か質問がありますか?」
    とこちらから尋ねれば解決するのか?
    多くの場合、そうではありません。
    そういうときも、首を横に振り、質問はしないのです。
    でも、本人は、look for のことが気になって、その後の学習に集中できないのです。

    「look for のことを考えていますか?」
    と、ここまで具体的にこちらが気がついて質問すれば、表情が輝きます。
    以後は、質問をしてくれるようになるかもしれません。
    講師は、人の心が読めるわけではないので、なかなかそこまで気づかないですが・・・。

    まだ十代なので、人間関係への過剰の期待もあるのでしょう。
    心で思っているだけでは、相手には伝わらない。
    言葉にしないと、無理なんですよ。
    そんなことも、十代のうちは、それでも、言葉にしなくても伝わる関係に憧れる、ということもあるのかもしれません。

    ともあれ、その翌週。
    look after の意味を、その子は、覚えていない・・・。
    その後の授業に集中できないほど考えていたのだから、覚えていてもいいはずなのに、覚えていない・・・。
    不器用というのは、そういうことなのかもしれません。



    質問に良い質問も悪い質問もない。
    回答に良い回答とくだらない回答があるだけです。

    これは、私の座右の銘です。

    勿論、質問することは、良いこと。
    ただ、
    「沢山質問しなさい」
    と教えられているのみで、質問して得た回答をどう活用するかを教わっていないと、質問も回答も無駄に終わってしまうことがあります。
    むしろ、質問することを探すのに必死で相手の話をよく聞いていないという本末転倒なことすら起こります。
    「積極的に質問する」とは、何をどうすることなのか。
    それを理解していなければ、助言を誤解し、間違ったことをやり続けてしまいます。
    学習するということの本質を体得していない限りは、そうなります。
    思いつきの質問をいくらしても、それで学力が伸びることはないのです。

    思いつきではなく、本心からの根本の問いとして、例えば、
    「なぜ、三単現のときは、動詞にsをつけるんですか」
    という問いかけを、もしも生徒がしてきたなら。
    その問いこそが、その子にとって英語がよくわからない根本だったなら。
    私がそれに応えることができたら、何かが変わる。
    それをきっかけに、爆発的に英語力が伸びる可能性があります。





      


  • Posted by セギ at 14:59Comments(0)講師日記英語

    2024年02月13日

    勉強を自分でどう進めていくか。


    生徒から家庭学習のやり方について質問されたことがあります。
    今は何をやっているのか尋ね返すと、学校から配布された問題集をこつこつ解いているということでした。
    間違えた問題はチェックして、翌日、3日後、10日後に解き直していると言います。
    そう聞く限り、何も問題はないので、
    「それでいいと思いますよ」
    と応えると、
    「・・・こなしているだけじゃないかという気がして」
    というのです。

    ・・・いや、それをこなせるのは、それだけで凄いですが・・・。

    本人がやると決めたテキストなのに、まるでこなせない。
    宿題も、まるでこなせない。
    そういう子たちと七転八倒してきた経験のほうが多いものですから、つい、夢物語を聞いているような気分になってしまい、その子が本当に問いたいことは何だったのか、上手く把握できませんでした。

    では、自分のこととしてはどうか?
    何かを学ぶ際に、私はそれを学ぶのに最適な教材をこなしていけば、それで学力が上がった経験を重ねています。
    教える側の人間は、大体そうなのかもしれません。
    しかし、誰もがそうとは限らないのも知っています。
    同じ学習をしていても、ただこなしているだけになり、身につかない人もいます。
    一方、上のような丁寧な解き直しなどしなくても、問題を1回解くだけで深い学習が可能な人もいます。

    間違えた問題を、解き直す。
    その際に、何回解き直しても、同じことを同じように間違えてしまったり、解き方を忘れてしまって、やっぱり解けなかったり。
    そういうことが表層に出てしまう場合はむしろ、課題が明瞭です。
    その問題は、身についていません。
    反復しましょう。
    理解を深めましょう。
    身につけましょう。

    困るのは、解き直したら正解できる場合。
    正解できるのだから大丈夫なのかというと、類題は解けないのです。
    どれが何の類題であるか気づかないほどに、理解が浅い。
    でも、解き直しはやっている。
    同じ問題の解き直しなら、正解できる。
    これを指して「こなしているだけ」というのなら、確かにそれはそうなのです。

    1つの問題を解く中で、吸収できる事柄の質は、人によって異なります。
    本当に表層的に、その問題の解き方しか吸収できない人。
    その問題を解いた、あるいは解けなかったことを通して、言語化できないほどに深い本質まで吸収できる人。
    それが学習能力というものなのでしょう。
    そして、学習能力を鍛えるというのは、最も行わなければならないことでありながら、最も難しいことです。


    例えば、こんな問題。

    問題 4sinθ+3cosθ=5 のとき、sinθの値を求めよ。

    簡単に解ける人もいる一方で、これはハマると全く解けない種類の問題です。
    数Ⅱ「三角関数」まで学習すると、とにかく公式が多い。
    そのどれを使うのか、判断できないことがあります。

    何をどうしていいか、全くわからない・・・。
    そういう人もいると思います。
    こんな問題は解いたことがない。
    学校の教科書や問題集をパラパラとめくってみても、ありそうでない問題です。
    例題にはない。
    典型題ではない・・・。
    シンプルな1行だけの問題なのに、厄介です。

    問題を分析できる人もいます。
    sinθ を求めよというのだから、サインだけの式を作ればいいんだ。
    コサインをサインに変えればいいんだ。
    そういう発想は持てる人。
    それだけ、学習能力は高い人です。

    さて、そこで、何を使うか?
    ここで、思いつくのが、三角関数の合成。
    サインとコサインの式をサインだけにまとめるものです。
    数Ⅱの内容です。

    やってみましょう。
    4sinθ+3cosθ
    =√(16+9)sin(θ+α)
    =5sin(θ+α)
    ただし、sinα=3/5 , cosα=4/5

    あれ・・・。
    αが、暗記している角度ではない・・・。
    3辺の比が3:4:5の、見慣れた直角三角形の角ではあるけれど、角の大きさは知らない・・・。

    じゃあ、加法定理?

    5sin(θ+α)=5 より
    sin(θ+α)=1
    加法定理を用いて、
    sinθcosα+cosθsinα=1
    sinα=3/5 , cosα=4/5 を代入して、
    sinθ×4/5+cosθ3/5=1
    4sinθ+3cosθ=5

    ・・・え?
    元に戻った・・・。

    ここで行き詰まってしまいます。

    三角関数の合成や加法定理を身につけているのですから、それなりに勉強しているのですが。
    例題通りの基本問題ならば、解けるのですが。
    でも、この問題は、解けない・・・。


    コサインをサインに変える方法・・・。

    これを自力で発想するのは、実際のところ難しいと思います。
    しかし、この類題を解いたことがあり、そこから吸収したものが頭の中に残っている人ならば、解くことができます。

    やってみましょう。
    4sinθ+3cosθ=5
    まず、これをcosθについて解きます。
    3cosθ=-4sinθ+5
    cosθ=-4/3sinθ+5/3 ・・・①

    これをどうするのか?
    これを公式に代入するのです。
    sin^2 θ+cos^2 θ=1 ・・・②
    という、たいていの人は覚えている、数Ⅰで学習した基本公式に。

    ①を②に代入して、
    sin^2 θ+(-4/3sinθ+5/3)^2=1
    sin^2 θ+16/9sin^2 θ-40/9sinθ+25/9=1
    25/9sin^2 θ-40/9sinθ+16/9=0
    25sin^2 θ-40sinθ+16=0
    (5sinθ-4)^2=0
    sinθ=4/5

    解き方を知ってしまえば、とても簡単。
    でも、自力では発想できないことが多い問題です。


    私たちは数学者ではないので、無から有を生み出すことは、できない場合が多いです。
    数学において、ゼロから1を発想することは、多分、できない。
    知っている公式と知っている解法との組み合わせで、入試問題を解けばいい。
    受験勉強は、そのための準備をすればいい。
    つまり、上の解法パターンが頭の中にあればいいのです。
    sin^2 θ+cos^2 θ=1
    という基本公式の使い方を知っていればいい。
    新しい問題を見たときに、この解法パターンが使えるのではないかと、発想できればいいのです。

    この問題を解くことで、それを吸収し、全く関係のない別の場面でそれを思い出して使えるのが、学習能力。
    学習能力の高い人は、問題の解き直しをしなくても、この問題をまずは自分なりに解こうとして苦しみ、解けずに解説を読んで愕然とし、でも、以後、それを忘れずに頭の中に入れておいて適宜使います。
    1回では無理ならば、何回でも解き直すことで身につける場合もあるでしょう。
    それが、翌日に解き直し、3日後に解き直し、10日後に解き直す、というやり方なのだと思います。

    ただ、それが、その問題の解き方を覚えるだけで終わるのか、他の場面で応用が効くのかは、未知数です。
    できるのかもしれない。
    できないのかもしれない・・・。
    本人の学習能力次第です。

    さらに言えば、一人で勉強していると、この解法パターンを把握できない可能性があります。
    この問題の焦点は、sin^2 θ+cos^2 θ=1 という基本公式の使い方です。
    しかし、そのことを把握できず、全体に何だか混乱したまま、何がどうなのか分析もよくできないのに解き方だけ丸暗記する、という学習の仕方をしてしまう人もいます。
    そうした人は、一度解いたことのある個々の問題は解けるけれど、応用が効かないのです。

    個別指導は、そこを補助できます。
    この問題で吸収すべき要点は何なのか。
    どういう発想のものなのか。
    それを幾度も強調し、何をどう理解し頭に入れておけばいいのかを明瞭にします。
    どういうときに、どういう発想をすればいいのか。
    そこをシステム化すると、数学が苦手だった子も、数学で得点できるようになります。
    学習とは、何をどうすることであるかの、言語化、システム化。
    とても難しいことではあるのですが。

    だから、家庭学習で何をどのようにやればいいのかという質問に、私は上手く答えられないのかもしれません。
    何をどんな量で、どんなやり方でやれば必ず学力が上がる、ということはないからです。
    勿論、ある程度の量はこなす必要があります。
    そして、宿題は解いてくること。
    その宿題で授業をするから。
    そうとしか言えないのです。

    上の問題で、sin^2 θ+cos^2 θ=1 を用いる発想を、どの類題で、どのように思いつくのか。

    これは、感覚的には、空中から突然現れるようなものです。
    問題を正面から考え、行き詰まったら後ろから考えていると、わからないところの距離が縮まる。
    距離が縮まった瞬間に放電する。
    その電気は、空中から突然現れます。
    通電し、すべてがつながります。
    そんな言い方しかできないうちは、私もまだ、言語化できていないのかもしれませんが。

      


  • Posted by セギ at 21:51Comments(0)講師日記算数・数学

    2023年12月02日

    言葉が通じない若者というけれど。


    画像は三鷹跨線橋。

    さて、説明が通じにくい生徒がいることは、常に課題です。
    そんなこともあって、その類のネット記事を見つけたらつい読んでしまうのですが、先日読んだ記事にはがっかりしました。

    若者に「船をこぐ」という言葉を使ったら、通じなかった、という例があげられていたのです。
    船をこぐって・・・。
    それは慣用表現です。
    私も意味はわかるけれど、自分で使ったことは一度もないです。
    それは、確かに通じないだろうけれど、「若者に言葉が通じない」というのは、そういうことじゃないんだけどなあ・・・。
    若者が知らない言葉を使ったら、それは、伝わらないです。

    一方、別のネット記事の、
    語彙がひどく貧しく、何に対しても、
    「くそが」「やばい」
    といった言葉、あるいはここには書けないもっと直截な言葉を深い感情はなく連発する子がいたという話は興味深かったです。
    その隣りの席の子が、不登校になってしまったというのです。
    何が原因で不登校になったのか、その子も自分の気持ちを表現する言葉をもっていないのでなかなか理由がつかめなかった・・・。
    実は、隣りの子の強い言葉遣いにストレスを感じていた・・・。
    といった話には、これだ、こういうのを読みたかったのだ、と思いました。


    とはいえ、この話は、現実に起きている事象として極めて示唆的ではあるけれど、私の周りのこととしては、逆にこれではないのだろうとも思います。
    私が「生徒に伝わらない・・・」と感じている場合、それは結局「船をこぐ」のような言葉を使ってしまっているからなのでしょう。
    慣用表現は使わないけれど、数学でも英語でも、特有の用語は使います。
    相手が高校生ならば、特にそうなりがちです。

    例えば、数学の授業で、
    「この放物線の、頂点の座標を答えてください」
    と私が尋ねると、
    「2・・・」
    としか答えない子がいました。
    その問題の頂点の座標は、(-1 , 1) だったので、既に間違っていたのですが、頂点の座標と言われて「2」しか答えないことにも、かなりの課題がありました。
    「えーとですね。座標というのは、(x , y) というように、x 座標と y 座標とセットで答えるんです。もう一度答えてください。この放物線の頂点の座標は?」
    「x , y」
    「・・・え?」

    また別のとき。
    高校数Ⅱ「軌跡と領域」の単元で、領域を図示する問題を演習したのですが、領域を理解するはるか手前、境界線のグラフを正しく描くことができませんでした。
    座標平面に直線は描いてあるのですが、数字は何も書き込んでいないのです。
    放物線のときも、ただ、座標平面上に放物線が描いてあるだけでした。

    「直線のグラフを描くときは、そのグラフから直線の式を復元できるような情報が書いてあれば、正解なんです。グラフから式を復元できること。それが原則。何をどう書いたらいいのか迷ったら、そこに戻って考えてください。具体的には、x 切片と y 切片が書き込んであれば、傾きを計算できますから、式を復元できます」
    「・・・」
    「では、放物線の場合は、グラフを描くときは、何を書いておけば、式を復元できるでしょうか?」
    「・・・x と y・・・」
    「・・・え?」
    「あ・・・。傾き?」
    「・・・え?」

    全く授業内容が伝わっていない・・・。
    高校数Ⅱを学習していても、その子は、直線のグラフを正しく描くことすらできませんでした。
    私の言葉を理解できないのに、理解しているふりをしようとし、とにかく何か反応しようとするから、どんどん頓珍漢な反応になっていくのでした。
    学校の授業も真面目に受けているのでしょうに、ほぼ毎回、間違った内容を覚えてきてしまい、塾で、その修正をしなければなりませんでした。

    私は、相手が高校生であるという固定観念を捨てることにしました。
    上の私の説明。

    「直線のグラフを描くときは、そのグラフから直線の式を復元できるような情報が書いてあれば、正解なんです。グラフから式を復元できること。それが原則。何をどう書いたらいいのか迷ったら、そこに戻って考えてください。具体的には、x 切片と y 切片が書き込んであれば、傾きを計算できますから、式を復元できます」

    直線のグラフ。
    直線の式。
    復元。
    情報。
    正解。
    原則。
    具体的。
    x切片。
    y切片。
    傾き。
    傾きを計算する。

    こうした言葉が、その子には、聴き取れない、あるいは意味がわからないのかもしれない、と気づきました。

    「〇〇〇〇を描くときは、その〇〇〇から〇〇〇を〇〇できるような〇〇が書いてあれば、〇〇なんです。〇〇から〇を〇〇できること。それが〇〇。何をどう書いたらいいのか迷ったら、そこに戻って考えてください。〇〇には、x 〇〇と y 〇〇が書き込んであれば、〇〇を〇〇できますから、式を〇〇できます」

    このようにしか聞き取れないのだとしたら?
    それは、数学がわかるとかわからないとか、そういう話ではなくなります。
    少し硬い熟語と数学用語、あるいは英語ならば文法用語が理解できないのに授業を受けるというのは、そういうことなのでした。

    若者に対して「船をこぐ」という慣用表現を使って、それが伝わらないと嘆く大人と、数学用語や英語の文法用語を使って説明して、生徒が理解してくれないと嘆くのは、同じことなのだと思います。

    これは、その子の学力によります。
    上のような説明でガンガン授業が進み、どんどん成績が上がっていく子もまた多いのです。
    数学用語は、正しく使えば使うほど、最適な形で内容が伝わります。
    複雑な内容が一言で伝わります。
    「・・・そこは、相加平均・相乗平均でしょう?」
    とか、
    「・・・なぜ、そこで置換積分をしなかったのですか?」
    といった一言で、ダイレクトに伝わり、
    「うわ。今解きますから、ちょっと待ってください」
    と言う子も多いのです。
    しかし、同じ授業を別の生徒にして、成功するとは限りません。
    これは話が通じていない・・・と感じたら、相手が高校生であろうとも、小学生に話すように話すこと。
    数学というものを一切学習したことのない小学生に、一から数学を教えるように解説すること。
    直線のグラフを描けないということは、実際そういうことでした。
    中学で学んだことも、高校数ⅠAで学んだことも、すべて忘れてしまった高校生は、高校生の姿をしていても、数学的には小学生だったのです。

    何で中学数学を忘れてしまったのかなあ・・・という嘆きとは別に、それでも伝わる授業をすること。
    幾度説明しても、「直線の傾き」という言葉の意味を覚えてくれないなあと思うけれど、それでも何度でも説明すること。
    「船をこぐ」といった言葉は、使いたい人はどんどん使ったらいいけれど、私が授業で使う必要はない。
    相手に伝わらない言葉は、使っても意味がない。
    生徒の語彙や聴き取る力を正確に把握することが、教える側に必要な能力なのだと思います。


    さて、話は変わりますが、最近、別々のラジオ番組で別々に話題になったのが、「1時間弱」とは、何分くらいを指すか、という話。
    私くらいの年代ですと、それは当然、
    55分くらい?
    といった語感の言葉だと思うのですが、今の20代は、「1時間弱」を、65分くらい、ととらえている、というのです。
    1時間のほうが弱いという観点からそうなるのか?
    1時間と、あと、弱い時間、という意味なのか?
    などの分析がされていて、面白いですが、これも若者に使うときは気をつけるべき言葉のようです。

    とはいえ、私は、生徒にそのような曖昧な言葉を使うことはないので、それもどこか他人事ではあります。

    子どもを相手に事務的な話をするときは、特に気を遣います。
    「それでは、授業を『ようか』に振り替えましょう。『ようか』、はちにち、8日ですよ?」
    と念を押します。
    いつか、むいか、なのか、ようか、がわからない可能性があるからです。

    数学の「確率」でトランプの問題が出ているときも、そうです。
    トランプはどんなカードが何枚あるのか、知らない子も増えてきました。

    問題 ジョーカーを除く52枚のトランプからカードを1枚ひく。そのカードが絵札であるとき、それがハートのカードである確率を求めよ。

    「トランプのマークは何種類あるか、知っていますか?」
    「・・・8種類くらいですか?」
    「・・・いや、マークというのは、ハートとか、ダイヤとか、そういうのですよ?」
    「ああ・・・。ええと・・・」
    「トランプをやったことが、あまりないですか?」
    「ないですね。でも、修学旅行ではやりました」
    「ああ。盛り上がりますものね。大貧民とか」
    その子は、にやっと笑いました。
    「今は、大富豪というんですよ」
    「・・・うるさいわ」

    トランプは知らないようですが、言葉は十分に通じる子もいます。


      


  • Posted by セギ at 12:36Comments(0)講師日記

    2023年11月12日

    手段と目的が転倒する人。


    少し前の画像ですが、都立野川公園のヒガンバナ。
    今年は花が少なかったかもしれません。

    さて、本題。
    学校の問題集を解くのは、生徒に任せていますが、そうすると、数学の問題集をため込む生徒がいないわけではありません。
    「学校の進度にあわせてこつこつ解いておくと楽ですよ」
    と話すと、
    「範囲がまだ発表されていないから」
    という反応が返ってくることがあります。
    定期テスト当日の朝に、テスト範囲の問題集を解いたノートを提出という学校は多いです。
    テスト範囲は、年度の最初に一覧表にしてある学校もありますが、テスト1週間前に発表という学校もあります。
    「でも、テスト範囲は、前のテスト範囲の後から、学校の授業が進むまでなんですから、毎日の復習も兼ねてやっておくといいんですよ」
    「偶数番号の問題だけのときもあるので」

    ・・・え?

    「・・・それは、ノート提出するのは偶数番号だけなのに、奇数番号まで解いてしまったら、損だということですか?」

    まだ子どもなので仕方ないのですが、そういうことを言っているから、数学の力が群を抜いて伸びていくという感じにならないのです。
    そこそこできる、でとどまってしまうんです。
    奇数番号まで解いたほうが、勉強になる。
    むしろ、そのほうが得なのです。

    学校の問題集は、学習の手段なのですが、それがノート提出という目的になってしまうと、上のようなことが起こります。

    とはいえ、子どものそうした考え方を非難ばかりもできません。
    大人でも、目的と手段が転倒してしまう人はいます。


    授業に使うので、私はコンビニでコピーを取ることが多いです。
    ある日も、コピーを取りに行ったところ、先客の男性がいました。
    その人は、何か書籍のコピーを取ろうとしていました。
    該当ページを開いて、コピー機の鏡面に乗せると、それから、コピー機の蓋をして、コピーを開始していました。
    傍で見てもそれとわかるほど、手を離した途端に、書籍は鏡面から浮き上がり、そして、蓋をした瞬間に本の位置はズレていました。
    出来上がったコピーはピンボケで位置のズレた、ろくでもない仕上がりになったと思います。
    ところが、その人は、機械から吐き出されたコピーの仕上がりは確認せず、本をめくって、次のページのコピーを始めました。
    また同じように、書面と鏡面の間に空間ができてピンボケになり、位置もズレただろうコピーを取り続けたのです。
    うわあ・・・。
    使えないコピーをせっせと取っている・・・。

    「コピーを取る」
    という作業が、目的化していて、コピーを取るという手段を通じて何がしたいのかが置き去りにされたのだと思うのです。
    コピーをとることだけが目的。
    仕上がりに興味はない・・・。
    読めないコピー、使えないコピーを何枚取っても、意味はないのに。

    もう1つ考えられることは、
    「コピー機は蓋をするものだ」
    という思い込みがあったのかもしれません。
    それは、固定観念、といえるかもしれません。
    蓋をしないとコピーが開始されないと誤解している人もいるのでしょう。
    蓋などしなくてもコピーはできます。
    勿論、薄い書類をコピーするときは、蓋をしたほうがきれいにコピーできますが、書籍をコピーする場合、コピー機の蓋はせず、書籍をしっかり鏡面に押し付けてコピーを取るほうが、文字をきれいにコピーできます。
    書籍が閉じた状態に戻ろうとすると、鏡面から浮き上がるので、コピーはピンボケになってしまうのです。
    蓋で上から押しつければ大丈夫?
    それでは、書籍の位置がズレてしまう可能性が高いです。

    コピー機の放つ光は目にあまり良くないですが、別にあれは放射線が出ているわけではありません。
    強い光なので、直視はしないほうがいいというだけです。
    すぐに閉じようとしがちな製本の書籍をコピーするときは、自分の手で書籍を鏡面に押さえつけて、目を背けてコピーする。
    そうすれば、きれいなコピーが取れます。

    しかし、コピーの取り方に誤解のある人は、その男性だけではありません。
    以前、うちの生徒にも、そういう高校生がいました。
    受験校の過去問、いわゆる「赤本」は、すべて塾で買うとなると高価です。
    都立高校の過去問や、大学入試共通テストの過去問は、使いまわしが効きますので、塾の費用で購入しますが、個々の過去問は生徒に購入してもらい、それを貸していただいて、コピーを取って授業をしています。

    ある年、その生徒は、赤本を自分で購入するのは嫌だったようで、高校の進路指導室の赤本を借りて利用することにしたのでした。
    1年古いものだったりするけれど、それで構わない。
    そう考える生徒でした。
    それは、本人の判断なので、別に構いません。

    高校の進路指導室の赤本は、そんなに長期の貸し出しはできません。
    その子が学校から借りて、それを私が又借りして、1週間後の次の授業に返すとなると、貸出期限は切れてしまう・・・。
    そういうわけで、過去問は、その生徒がコピーして持ってきてくれることになりました。

    不安がなかったわけではありません。
    高校生がコピーをきちんと取れるかなあ・・・。

    え?
    高校生なら、取れるでしょう?

    そう思う方も多いと思います。
    きれいにコピーを取れる高校生もいるとは思います。
    しかし、その子は、取れないタイプでした。
    手段と目的が転倒するタイプだったのです。
    大人でもそういう人がいるのですから、仕方ないです。

    持ってきてくれたコピーは、もともと解像度の低い家庭用コピー機で取ったものでした。
    その上、案の定、赤本を開いて鏡面に乗せた後、蓋をしてコピーした様子で、すべてピンボケでした。
    小さい文字はほぼ読み取れませんでした。
    ときどき本がズレて、問題が途中で切れて読めなくなっているページもありました。
    なげやりになったのか、ページが折れた状態でコピーされているものもありました。

    とにかく「コピーを取ればいい」。
    それが目的になり、そのコピーを何に使うのかを考えていない。
    そういうコピーでした。

    どうすれば使えるコピーを取れるのか、それを考えない。
    そういう発想がない。
    自分が取ったコピーを確認することもなく、ただコピーをするだけ。
    言われた通りにコピーを持ってくれば、それでいいと思ってしまう・・・。
    役に立たない数十枚のコピーを見たときの私の衝撃は、大きかったです。
    その子の学力がなかなか伸びない根本の原因が、形になって表れているようでした。

    何のために何をやっているのか。
    これをやれば、どういう効果があるか。
    そういうことを考えながら勉強すれば、役に立たないコピーを取り続けるような無駄なことにはならない。
    必ず結果が表れると思うのです。
    少なくとも、学校から出されている宿題や、学校が設定してくれている単語テストを、一番無駄な方法で浪費してしまうようなことは避けられると思います。

    今年。
    生徒にコピーを取ってきてもらうことには、上のような経験から用心が働き、どうしてもコピーを取ってきてもらわなければならないときには、あれこれと細かく注意をしがちです。
    その注意が細かすぎて、受け止めきれなかったのか、頼んだコピーをなかなか取ってきてくれない子がいました。
    もうギリギリの時期でもあり、保護者の方にメールで頼んだところ、数日後に、レターパックが届きました。

    そこに入っていたコピーは、
    指数も、指数の指数も、クリアに読み取れる、完璧な解像度。
    各大学の問題と解答解説が個々にクリップで止められ、入試日の一覧表も添付されていました。
    それは、オフィスワークの経験のある人の、プロの仕事でした。

    久しぶりに「大人の仕事」を見て、身が引き締まりました。
    私自身の仕事は、「大人の仕事」になっているか?
    役に立たないコピーを取り続けるような仕事をしていないか?
    と、我が身を省みずにいられないほどの、「仕事」を見た気がしました。

    大丈夫。
    効果は上がっている。
    テストの得点は上がっている。
    過去問の得点も上がっている。
    ともすれば、役にたたないコピーを取り続けるような勉強をしてしまう子をカバーして、それでも結果を出してもいる。
    でも、さらに、今以上の結果を。

    そうした思いを強くしました。

      


  • Posted by セギ at 15:47Comments(0)講師日記

    2023年10月25日

    みたか太陽系ウォーク、コンプリートしました。2023年。


    先週の金曜日から始まった、「みたか太陽系ウォーク2023」、昨年に続き、今年も参加しました。
    昨年から、アプリを用いたウォーキングイベントになった、この太陽系ウォーク。
    昨年に参加した方はご存じと思いますが、アプリの不具合が頻発し、目的地のGPSはなかなかアプリに反応せず、ウォーキングイベントというよりも障害物走に近い印象がありました。
    それだけに、コンプリートの感慨はひとしおでしたが。

    今年は、スタンプポイントが、98か所。
    昨年は136か所だったと記憶しているので、かなり減って、シンプルになりました。
    昨年は市内全域にスタンプポイントが広がり、どうやっても、一筆書きでコンプリートは不可能。
    私は参加がほぼ10年ぶりで不慣れだったこともあって、三鷹市内を5周くらいした印象があります。
    今年は、随分周りやすく計画されたポイント設置と感じました。

    さて、10月20日(金)、イベント初日。
    仕事終わりに、まず三鷹駅周辺を回ることにしました。
    駅周辺は、微弱なフリーWi-Fiがそこら中からあふれて、スマホの動きが遅く、アプリの反応も遅いので、夜のほうがいい。
    これは、昨年学んだ知恵です。
    ところが、三鷹駅の真ん前でアプリを開いても、何の反応もない!
    昨年から引き続き、削除もせずにスマホの第1面に鎮座する「ミイね!」アプリは、普段は観光案内、市内の商店街案内的なアプリです。
    この時期だけは、太陽系アプリに変貌します。

    どういうことだ?
    「設定」を見て、「ガイド自動切替」がOFFになっていたので、試しにONにすると、たちまち「三鷹駅」その他2か所の反応が!
    「設定」画面の3つのものはすべてONにしておかないと、アプリが普通に動かないのです。
    うーん、これは昨年にはなかったことだ。

    さて、初日は、「三鷹駅」の他、昨年苦戦した、
    4.三鷹ヒロクリニック南口本院
    5.第一ゼミナール駅前スタジオ教室
    を早めにクリアすることに決めました。
    この2か所は、どこにあるか、わかりにくいんです。
    アプリ内のデジタル地図を最大に拡大しないと、場所を特定できない。
    しかし、拡大しすぎているせいで、全体の地理把握がうまくできない。
    三鷹駅の南西側の道は、意外に入り組んでいて、普段あの辺りを歩かない者にとっては、一瞬で方向感覚がおかしくなる妙な感じがあります。
    なぜ、この道を直進したら、ここの交差点に出るんだろう?というような、ぐらっと来る感覚があるのです。
    道が垂直に交わってはいないからですね。
    それでも、クリニックは、昨年、ビルの外観を覚えたので、わりとすぐにクリア。
    学習塾のほうは、結局、発見できないまま、電波だけは何とか拾うことができました。


    10月21日(土)
    さて、この日も、仕事終わりに、三鷹駅付近のポイントをまとめて集めていくことにしました。
    三鷹中央通り商店街で、スタンプを順調にゲット。
    途中で、さくら通りに移動。
    さらに、
    47.みたか井心亭
    28.山本有三記念館
    そこから、三鷹通りに移動しました。
    これだけで大量にスタンプをゲット。
    三鷹駅付近は、効率がいいです。

    帰宅して、道路地図のコピーを取り、ポイントを書き込みながら戦略を練りました。
    昨年度、国立天文台などの大沢方面から、新川のほうに大移動したのは、効率が悪いうえに大変でした。
    道に迷ってしまったのも大きかったです。
    坂の上り下りも多く、三鷹の地形の複雑さも実感しました。
    三鷹も、河岸段丘があるんですね。
    この2か所は行く日を分けたほうがいい。
    明日は、新川方面を中心に。
    そして、大沢方面は、また別の日に。


    10月22日(日) 秋晴れ
    絶好の太陽系ウオーキング日和です。
    朝から出発。
    三鷹通りを行きます。
    まずは、大成高校付近のポイントを集め、さらに、三鷹図書館本館へ。
    そこから、東八道路に出て、
    84.元気創造プラザ へ。
    こういう大きな施設は、電波も強く発信されているかと思うとそうでもなく、道路からはキャッチできませんでした。
    裏手に回り、建物の入口にて、ようやく受信。
    隣りの、
    83.JA東京むさし三鷹緑化センター
    も、道路からは受信できず。
    敷地内に入っていき、ようやく受信できました。

    さて、ここからは失敗できない新川エリア。
    泣く泣くまた戻るのは嫌です。

    ここで、問題発生。
    94.wata 焼き菓子
    が、見つからないのです。

    地図を拡大し、杏林大学の東側、ファミリーマート三鷹杏林前店の近くにあるのは確認したのですが、その付近でアプリを立ち上げても、気配ゼロ。
    ぐるぐる周囲を巡っても、お店が見当たらない・・・。
    焼き菓子のお店が、路面店でないということは、あり得るのだろうか?
    もしかしたら、デジタル地図が間違っているのだろうか・・・?
    こういう場合、アプリを立ち上げたまま、10㎝ずつ移動するしかありません。
    ほんの一瞬、アプリが反応して、すばやくつかまえました。
    ああ、良かった。
    これだけで、30分ほどかかりました。
    ここは、「また来ればいいや」とはならない遠い場所なのです。
    なお、これを書いている今(10月25日)、確認のためにデジタルマップを開いたら、
    94.wata 焼き菓子
    は、東八道路より北に位置することになっています。
    いや、さすがにそこじゃないと思う・・・。
    移動する店。
    謎です。

    さて、あとは、
    98.セブンイレブン三鷹新川1丁目店 
    まで順調にスタンプをゲットして行きました。
    ここが、今年は唯一の「冥王星」エリアです。

    さて、新川エリアにもれはないか、2度確認して、そこから、
    78.東部図書館
    に向かいました。
    天神山通りは、わかりやすい一本道で、歩道も広く、農園などの緑も多くて快適な道でした。
    うん、楽しい。

    さて、東部図書館。
    「お1人15冊まで」という図書館の掲示を二度見しました。
    そんなに借りられるの?
    子ども向けの絵本は、それくらい1度に借りたい人もいるのでしょう。
    図書館前には木陰のベンチがあり、ここで昼食を取りました。
    秋晴れの日曜日の図書館。
    ときおり人が入ったり出たりするのもほどよい感じです。
    いい雰囲気です。

    さて、東八道路に出て、東へ。
    目的地は、
    80.花と緑の広場
    ここは、東八道路からキャッチできましたが、良さそうな雰囲気だったので、入ってみました。
    花がたくさん咲いている公園でした。
    コスモスが風に揺れていました。

    さて、そこから三鷹台駅方面へ。
    ここも、そんなに気軽にまた来ようとはならない場所。
    慎重に、スタンプ帳を確認。

    さらに、井の頭公園駅付近へ移動。
    ここは、私が学生時代に住んでいたアパートがあった町です。
    71.栗原ストアー
    は、毎日のように買い物をした店でした。
    懐かしいなあ。
    そして、今年は、なぜか記憶がクリアで、迷うことなく昔住んでいた場所を探しあてました。
    感慨深く、建物を見上げました。
    無論、建て替えられていますが。

    そこから、井の頭公園へ。
    46.三鷹の森ジブリ美術館
    その通りをどんどん南下。
    ここで難関は、
    52.有限会社太田ふとん店
    昨年もそうでしたが、大通りに面している店ではないので、どこにあるのかよくわからないのです。
    付近をゆっくりと巡って、何とかキャッチ。

    連雀通りへ曲がって西へ。
    ここで、今年の最難関に遭遇。

    57.日産東京販売株式会社三鷹店

    こんなに大きな店舗の、しかも入口に立っても、アプリに反応がない!
    向かいの小さなラーメン屋さんはアプリに表示されているのに。
    5分待っても、反応がない。
    周囲を回って、方角を変えてアプリを開いても、反応がない。
    これは、元からOFFなのでは?

    しかし、今年から、みたか太陽系ウォークのアプリには新たな機能が搭載されたのです。
    店頭に貼られたポスターのQRコードからも、スタンプがゲットできるのでした。
    おそらく、昨年度の参加者の要望から生まれたものなのでしょう。
    反応が悪いとき、代替手段があるのはありがたいです。

    よし、ここでQRコードを使おう。
    と思ったら、画面が真っ黒で、カメラが起動しません。
    今年度最悪の苦闘が始まりました。

    アプリに反応がない。
    QRコードも読み取れない。

    これでは、スタンプをゲットできない。
    コンプリートできない。
    私が悪戦苦闘する間にやってきた人たちは、皆、やはりアプリを開いても反応しないようで、首を傾げていましたが、QRコードでさっとゲットして、次のポイントに移動していきました。
    うらやましい。
    なぜ、私のアプリだけ、画面が真っ黒で読み取れないのか?
    そこで気持ちを落ち着かせて、「アプリ利用でお困りの方」をクリック。
    「カメラが起動しない」
    というページがあり、「アプリにカメラアクセスを許可していないことが原因と思われます」と書かれていました。
    操作方法も。
    その通りにしたら、カメラが起動しました。
    そして、何とか、QRコードから、スタンプをゲット。
    30分以上のタイムロスをしましたが、諦めなくて良かった。
    頑張った、自分。
    あとは、連雀通りを西へ移動しながら、順調にスタンプをゲットしていきました。


    10月24日(火) 秋晴れ
    本日はコンプリートを目指し、自転車で大沢方面へ。
    山中通りを西へと進みながら、まだ回れていなかった箇所を順調にゲットしました。
    そして、
    95.国立天文台
    いったん、東八道路に戻って、
    96.西部図書館
    さらに、
    97.大沢の里古民家

    大沢の里古民家は、野川沿いの遊歩道に面しているので、馴染みのある場所です。
    しかし、昨年も反応が悪くて、苦戦した場所でした。
    昨年は中に入り、建物の前でようやく反応したのです。
    ところが、今年は、建物に通じる入口が閉じられていました。
    火曜日は定休日なのかな?

    アプリに反応はない。
    建物の入口に掲示してあるのだろうポスターにQRコードが書いてあるとしても、そこに近づく方法がない。
    これは・・・。
    日産以上の大惨事が、ここにきて勃発か?

    入口は閉じられていますが、迂回して、雁木坂を登っていく細い道があることを、以前に歩いて知っていました。
    そこのどこかで、反応するかもしれない。
    それしか、望みがありません。
    アプリを立ち上げたまま、一歩ずつゆっくりと雁木坂を登っていきました。
    全く反応がない・・・。
    観光名所なので、いくつかの音声ガイドの目次が画面に現れます。
    これらが妨害しているのかもしれません。
    もう無理か?
    そう思った一瞬、反応がありました。
    竹林の中で、スタンプをゲットしました。

    やった。
    ついにコンプリートです。
    このとき見上げた空が、一番上の画像です。

    さて、いったん家に帰り、教室に行くついでに、三鷹ネットワーク大学へ。
    10月24日(火)から、もう景品交換が始まりました。
    これも、昨年は景品交換の開始が遅く、その前にスタンプ帳が消えるという惨事が起こった人がいたことをふまえての措置かもしれません。
    私も心配なので、コンプリート当日、すぐに交換に行きました。

    ケプラー賞 スタンプ30個以上 クリアファイル
    林忠四郎賞 スタンプ50個以上 ハンドタオル
    古在由秀賞 スタンプ80個以上 定規
    コンプリート賞 ノート・記念シール

    すべていただきました。
    下が、その画像です。
    今年のクリアファイルは、オレンジ色で、可愛いです。
    画像では、裏側になっていますが、本当にきれいなオレンジ色です。
    去年のクリアファイルも勿体なくてまだ使っていないけれど、今年のも、可愛くて使えないなあ。
    ハンドタオルは、ミニタオルで、散歩中にポケットに入れておくのに便利なサイズ。
    定規は、使い勝手はそんなに良くなさそうですが、デザインは好きです。
    ノートは、去年と同じデザインですが、オレンジ色が濃くなっています。赤に近い。
    記念シールは、来年の手帳の表紙に貼ろう!

    今年も、本当に楽しかった。
    あっけなく終わって、勿体なかったかもしれません。


      


  • Posted by セギ at 13:14Comments(0)講師日記

    2023年09月05日

    SVOCを理解できれば、英語学習は楽になります。



    高校生と「分詞」の学習をしていたときのことです。
    例えば、こんな問題。

    問題 ( )の語を適切な形に直せ。
    (1) Do you know the man (sit) on the bench ?

    分詞の限定用法の問題です。
    中学では「分詞の形容詞的用法」という言い方で学びます。
    分詞が名詞を修飾する用法です。
    修飾される名詞 man が sit という動作をするのですから、現在分詞 sitting が正解です。

    (2) Ken showed me some pictures (take) by his brother.

    修飾される名詞 pictures は take という動作をされるのですから、過去分詞 taken に直します。

    ここまでは中学の復習。
    その子も、順調に正解していました。


    そこから先が高校の「分詞」の学習です。
    分詞の叙述用法に進みました。
    SVCやSVOCの、Cに分詞を用いる用法です。
    解説をして、練習を開始しました。

    He kept (knock) on the door until I opened it.

    その子の答えは knocked でした。

    「・・・・え?何で?」
    解説したばかりなのに、何で?
    「door はノックされるから・・・・」
    「・・・・え?」

    ここからは叙述用法、新しく学ぶ用法と明言し、解説したばかりなのに、何で限定用法に戻るのだろう?
    door は、分詞の直前・直後の名詞ではありません。
    分詞に修飾される名詞ではありません。

    文法が苦手な高校生に英文法の授業をしていると、上のようなことが起こりやすいのです。
    教えたことが上手く伝わっていきません。

    1つには、高校英語を学んでいるのに、中学英語の知識で乗り越えていこうとする点。
    何でも、ただ1つの解き方で解決しようとします。
    分詞ならば、すべて、限定用法で解決しようとします。


    もう一度、叙述用法の解説をした後、今度は、乱文整序問題を解きました。

    問題 次の日本語を以下の語句を並べ変えて英文にせよ。
    私は電車のドアに指をはさまれた。
    had , I , in , doors , fingers , the , train , my , caught .

    その子の答は。
    I had caught my fingers in the train doors.

    これも誤答です。
    この文を日本語にすると、
    「私は、電車のドアの中で、自分の指をつかまえてしまった」
    となってしまいます。
    なぜ、突然過去完了形?
    今は、分詞の叙述用法を学習しているのであって、had+過去分詞の学習をしているのではないのに・・・。

    しかし、その子だけのミスではなく、乱文整序でこういう英文を作ってしまう高校生は多いです。
    have または had と、過去分詞が存在したら、それは完了形の文、と思い込んでしまうようなのです。
    それもまた、やり方は1つだけ、中学で勉強したことだけ、という解決方法です。

    正解は、
    I had my fingers caught in the train doors.
    です。

    これは、「受身・被害の have 」と呼ばれる have の文です。
    第5文型をとります。
    英語は、語順がすべて。
    どの語句をどの順番に並べていくか。
    それが、英文法です。
    S、Vときたら、次はO。そしてCです。
    そのルールを覚えれば、あとは単語・熟語を覚えるだけ。
    日本語のように、「その語句は、ここに置いていいし、そこに置いてもいいけど、そこには置いたらダメ」といった、緩くてわかりにくいルールはありません。
    カチッと語順が決まっているので、英語は学習しやすいのです。

    ところが、英語が苦手な子は、5文型を理解しない。
    語順を理解しない。
    というより、無視する傾向があります。
    そういう概説的でよくわからなかったことは、どうでもいい、としてしまうようなのです。
    特に、第5文型SVOCは、
    「そんな不自然な語順はこの世に存在しない」
    と、心の中で消し去っている気配すら感じます。

    S、V、O、C、Mといった文の成分の話や、形容詞、副詞などの品詞の話を嫌う。
    何回説明しても覚えない子が多いです。
    目先の定期テストに出ないからかもしれません。
    これはCですかOですか、とか、この単語の品詞は何ですかといった問題は、確かにテストには出ないです。
    でも、テストに直接問われることはないけれど、その知識がないから問題が解けないのに・・・。
    そういうことを説明しても、その説明も耳を素通りしていくようです。

    SVCやSVOCの語順が理解できていないと、分詞の叙述用法は、理解できません。
    根本がわからないし、根本を覚えないから、結局、その上の文法知識は何も載っていかない・・・。

    SVOCの基本は、中3で学習しています。
    She named the dog Pochi.
    彼女は、その犬をポチと名付けた。

    こういう文を学習したことは、かろうじて覚えている子が多いです。

    しかし、
    Her parents let her study abroad.
    彼女の両親は、彼女が外国で学ぶことを許した。

    この文も、中学で学習しているのですが、それについては記憶がない子が大半です。
    新課程で、使役動詞 let も、高校の文法事項が中学に降りてきたのですが、なぜかそれだけをぽつんと学習することもあり、記憶に残らない様子です。

    SVOCのCが、名詞や形容詞の文は、かろうじて記憶に残る。
    しかし、Cが原形不定詞だった文は、記憶に残らない・・・。
    それは、1つのヒントかもしれません。
    その子の頭の中での「あるべき英語」は、中1レベルの英語であり、それより複雑な文や、そうではない語順の文は、異常な文として、記憶からシャットアウトするのではないか?
    主語+be動詞+補語。
    主語+一般動詞+目的語。
    その語順は、許容できる。
    しかし、その後に、また動詞の原形が出てくる文など、許容できない。
    そういうのは「よくない英語」として記憶から除去してしまうのではないか?
    少なくとも、本人が自力でその語順で英文を組み立てることは、できないのです。

    原形不定詞や to 不定詞の部分をCとしてよいかどうか。
    このあたりは、正確な英文法では否定的かもしれません。
    テキスト等で明示しないことが多いです。
    しかし、ここはゆったりざっくりと、SVOCととらえてしまえば、結局全部同じ語順として把握できる英文が多いのです。
    私は正しい英文法を修めたいわけではなく、受験に役立つ実用的な英語を教えたい。

    SVOCととらえれば、
    She named the dog Pochi.
    Her parents let her study abroad.
    Her parents allowed her to study abroad.
    I had my fingers caught in the train doors.
    I saw a duck cross the river.
    I saw a duck crossing the river.

    Cの位置にくるのは、名詞と形容詞の他に、原形不定詞、to不定詞、過去分詞、現在分詞。
    これらは、すべて、同じ構造の英文として把握できます。
    あとは、Cに何を用いるのかのルールを学べばいいだけ。
    それは、その文のVの種類と、OとCとの関係。
    根本の語順は、SVOCで変わらない。

    この教え方で劇的に高校英語がわかるようになる子もいます。
    何だかこまごまとして覚えにくかった英文法が、大きくまとまりますから。
    私の「S・V・O・C!」のかけ声で語句を並べる練習を繰り返して、SVOCの語順をマスターしています。
    不定詞や分詞の学習でちらちらと出てきてモヤモヤしてしまうのに、文法テキストのまとめ問題や模試問題にはよく出てくる問題。
    結局、いつもいつも何だかよくわからずに終わってしまうことが、大きな原則で整理できるのです。

    それでも、英語が苦手な子たちは、そうではない奇妙な語順の英語を、しかし、そのほうが正しい語順の気がするからという理由で並べ続けます。
    そういう英語のほうが正しい気がする。
    明らかに間違っているのですが、本人の中では、自分の誤答の堆積すらも、英語としての記憶なので、同じ誤答を繰り返します。


    「学校で、もう学習した内容ですよね?学校の文法のテキストを出してみて。ほら、そこに載っているでしょう、叙述用法」
    そうして、もう一度解説しました。
    その後、学校の文法テキストの見開き右側ページの練習問題を解くと、それは全部正解できました。
    SVC、SVOCのCにあたる分詞を正しい形で使用できたのです。

    「教科書の問題は正解できますね」
    と私が言うと、その生徒は、奇妙なことを言いだしました。
    「これは、答を覚えているから・・・・」
    「え・・・・?答を覚えている?」
    「復習したという意味ですよ」
    「え?」
    「・・・・」
    「・・・・私は何回解いても、答なんか覚えないけど?」
    「・・・・・?」
    「何でそんな意味のないことを覚えるの?」


    文法は覚えないのに、何で答を覚えるの?


    愕然として、私は悟りました。
    そういう勉強をしてしまうのか・・・・。
    なぜ英語が得意にならないのか、その一端が垣間見えた気がするのです。
    いや、英語に限らずなぜ勉強が得意にならないか。
    努力をしているのは伝わってくるのに、なぜ結果が出ないのか。
    その一端が見えた気がしました。

    うちの塾で、歴代でも最も英語が得意だった子は、90分の授業時間の中で、問題のぎっしり詰まったテキストや確認テストを毎回平均12ページ解いて帰っていきました。
    30分あたり4ページ。
    答え合わせの時間もありますから、1枚解くのに5~6分というところでしょう。
    決して速すぎるわけではありません。
    後に国立大学に合格したその子は、1冊40ページのテキストの残りのページを丸ごと宿題に出しても翌週全部解いてきていました。

    しかし、英語が苦手な子たちのスピードはガクッと落ちます。
    上に書いた高校生は、最初にいろいろ説明しなければなりませんでしたし、間違えているとさらに説明する時間も長くなるのですが、演習スピード自体も遅く、90分の中で結局1ページしか問題を解けないことが多かったのです。
    そしてその1ページの問題の答えを覚えることが、その子にとっての復習なのだとしたら・・・・。

    12ページと1ページ。
    塾だけで12ページ解く子が、問題の答えを覚えているかといったら、覚えているはずがありません。
    いちいち答えを覚えていられるような量ではありません。
    余程印象的な問題が含まれていたら別でしょうが、翌週同じ問題を渡しても、同じだと気づかず解き終わるかもしれません。
    学習した文法にしたがってサクサク解いているだけだからです。

    英語コミュニケーション教科書の重要文を日本語訳から復元するための暗唱はしていました。
    単語の暗記もやっていました。
    そういう暗記はするのです。
    でも、文法テキストの問題の答えは覚えない。
    何度解いても正答できましたが、それは、答えを覚えているからではなかったでしょう。


    復習すると自然に答えを覚えてしまうのだ。
    そういう反論はあるかもしれません。
    それでも、「その勉強のやり方は変えなさい」と言わざるをえません。
    類題は正答できないのなら、なおのこと。
    問題の見た目が変わると、自分はどうも解けなくなるんだなあ・・・。
    何の文法事項の問題なのか、わからないし・・・。
    そういう自覚があるのなら、それは、勉強のやり方に課題があるのです。

    教科書の問題の答えは覚えても、もっと重要なことを覚えていないのです。
    その問題を解く中で抽出し理解するべき文法を把握できていません。
    答えを覚えてしまうくらいに数少ない問題をねっとり見つめ続けているのに、それが文法把握につながっていないのです。

    有効なやり方は正反対のものです。
    教科書の問題の答えは覚えていないけれど、文法は覚えた。
    多くの問題練習でその文法を実践できるようになった。
    だから、教科書の問題は何度解いても正答できる。
    他の問題も正答できる。
    定期テストの問題も正答できる。
    入試問題も正答できる。
    文法の勉強はそういうふうにやっていってほしいです。


    「英語って文法だよ」
    「SVOCMの位置に、単語をぽんぽんぽんと入れていくだけだよ」
    「慣用表現以外は、理屈だよ」
    という私の説明が理解できると、ロケット並みの成績上昇を見せる子がいます。
    英語のシステムは理解しやすく明瞭で好ましい。
    こういう感覚になれば、あとは単語・熟語さえ覚えればどうにでもなるとわかりますので、覚えることにも抵抗がなくなります。

    有効な学習方法を体得できれば、その後は、速いのです。
    ただ、そこまでが長く、苦しい。
    いつまでも、いつまでも、SVOCという文型の存在を把握できない子は多いです。
    そのような語順の英文があることを発想できず、空所補充問題も乱文整序問題も、すべて間違えます。
    SVOCのCに、to 不定詞を入れるか、原形不定詞を入れるか、現在分詞か、過去分詞か。
    そのような文法問題の典型題が、その子にとっては、そのような切り口には全く見えない。
    熟語問題か何かにしか見えていないのだと思うのです。
    1つの英文を作るとき、「まず主語は?」とシステム的に考えず、「これと似た英文を前に見たことはなかっただろうか?」と自分の記憶をたぐりよせようとします。
    だから、乱文整序や和文英訳で誤答した後の解説で、私が、「まず、この文の主語は?」と問いかけると、その発想自体がなかったかのように絶句します。

    文法的には10個未満の例文把握で済むことを、何千もの英文を丸暗記することでカバーしていくしかない・・・。
    それが、その子にとっての英語学習なのかもしれません。
    でも、普通は、そのような暗記力はないのです。
    だから、英語ができるようにならない・・・。

    そして、それは、英語だけの話ではなく、他の科目でも、学力が伸びない根本に、そういうことがあるのだと思うのです。
    根本のルール、根本の理屈を理解せず、表面だけ追って、表面の解き方だけ丸暗記して、そして、すぐに忘れていく・・・。

    本質に手が届けばいいのです。
    本質に意識が届けば、後は速いのです。

    だから、私は繰り返し繰り返し、S・V・O・Cと生徒に声をかけ続けます。
    いつか、その意味が、その子の脳に届くことを信じて。

      


  • Posted by セギ at 12:21Comments(0)講師日記英語

    2023年07月21日

    テストは上がったら、次は下がります。


    さて、中高一貫校も都立高校も、期末テストの結果が出そろった頃です。
    定期テストの得点は、学習が上手くいっている子でも、ジグザグに上昇していくことが多いです。
    上がった後は、少し下がる。
    その後、また上がる。
    どうせなら、ずっと上がり続ければいいのですが、どうしても上がった後は下がってしまう傾向があります。

    1つには、学習量を確保せずにテストを受けてしまうことにあるのでしょう。
    塾に通い、最初のテストで結果も出たことで安心するのか、家庭学習が減る子がいるのです。
    塾の宿題は、やっつけ仕事。
    以前は、学校のワークや問題集は、自力でそれなりに頑張っていたのに、
    「塾で勉強しているんだから、大丈夫」
    「塾の宿題をやるから、学校の課題はやる時間がない」
    と自分に言い訳して、学校の課題も取り組みが雑になってしまいます。
    結果、通塾する前よりも家庭学習が減ってしまいます。

    今まで通りの学校の課題に加えて塾の課題を演習し、わからないところは解説を聞くことができるから、塾に通うと成績が上がるのです。
    けれど、子どもは不思議な辻褄合わせが好きで、塾で勉強すると、その分、家庭学習を減らしてバランスを取ることがあります。
    それでは、成績も以前の通りにバランスが取れてしまいます。
    そのため、次のテストは得点が下がります。
    このようなテストの失敗の原因が理解できると、本当に成績を上げたい子は変わり始めます。

    もう1つはテスト範囲の問題。
    1学期の中間テストまでの間は、学校の行事が多くバタバタしがちで、授業はそれほど順調には進みません。
    その進度に生徒は慣れてしまいます。
    ところが、その後は行事のない時期になり、授業のスピードが上がります。
    中間テストから期末テストまでは、正味ひと月しかないのですが、テスト範囲は中間テストと同じくらの分量になることが多いです。
    この量を、気がゆるんでいて消化できない子がいます。
    そうした中で塾の授業は都合で休んでいたりしますと、期末テストの範囲は、塾でもカバーできていない場合があります。
    その分は、本人が意識して学習すればいいのですが、前述のとおり、
    「塾でやるから、大丈夫」
    「中間テストが上手くいったから、大丈夫」
    と、根拠なき自信で家庭学習の時間も少ない。
    結果、中間テストより下がってしまいます。

    そういう話を事前にしたところで、子どもがそういう教訓を活用できるかといったら、まあ大多数はできないです。
    何を言われても、自分で実際に転んでみなければ、わからない。


    テストからは少し離れますが、宿題のやり方にしても、最初から助言通りにできる子は少ないです。
    本人から、
    「この夏はこの数学の問題集をやりたい」
    と提案のあった子がいます。
    問題総数500題ほど。
    1日に10題ずつやれば、9月中には何とか終わるでしょう。
    週に3回授業を取っている子でしたので、
    「では、次の授業までに、30題、解いてきてください。1日10題ずつやりましょう。まとめてやったらダメですよ。あなたは、授業の直前の2時間前くらいに宿題にとりかかる癖があるけれど、今回は、それでは終わりませんよ」
    そのように注意したのですが、次の授業は案の定、16題までしか解いてありませんでした。
    「今日の昼からやったのに・・・」
    と本人は哀しそうですが、なぜそういう発想になるのかと思うと、私のほうが哀しいのです。

    授業の直前2時間前では終わらないだろうから、昼からとりかかったようです。
    なぜ、その方向で頑張るのだろう?
    数学を1日30題なんて、私でもやりたくない・・・。
    途中で、嫌になってしまいます。
    能率が落ちるのは目に見えています。

    私自身は与えられた課題を、言われなくても分割するのが好きで、夏休みの宿題なども、出されたらすぐ「1日何ページやれば、何日で終わる」と計算し、その通りに実行していました。
    もっとやりたくても我慢して、やらない。
    やりたいからといって、1度に沢山やってしまうと、飽きてしまって、後半嫌になるだろうから。

    今も、生徒に出す宿題のうち、大学入試過去問などの下調べが必要なものは、1日1ページずつ、負担なく解くことにしています。
    生徒もそのペースで解けるような分量で宿題を出しているのですが、実際に生徒がそのペースで解いているのかはわかりません。
    まとめてやっているかもしれません。
    塾の宿題は1日でまとめて解き、他の日には他の課題を1日でまとめて解き、とにかく毎日何かしら勉強しているのなら、それでも構わないのです。
    宿題をしっかりやってあるのなら、それでいいのです。
    ただ、1日でこなせる分量の宿題ではないので、おそらく生徒も分割してやっていると思います。

    「数学の問題30題は、1日では解けませんよ。1日に10題ずつ解くんです。では、明後日の授業までに、20題」
    そう言うと、その次の授業は、20題、しっかり解いてありました。
    ところが、その子は、普段は週に3回授業を取っているのですが、夏期講習は週に1回ペースという取り方をした子です。
    1回の宿題が、問題70題。
    1日10題ずつやればこなせますが、さて、できるものかどうか。
    失敗するのも、また勉強。
    自分で転ばないとわからないことは多い。
    でも、2度と立ち上がれないような転び方はさせてはならない。


    定期テストの得点もそうで、上がったら次は下がるのが普通、と言っている間にも、それは確実に、高校3年間の評定平均にカウントされています。
    学校推薦や総合型選抜を目指す子にとっては、1回1回の定期テストが失敗できないものです。
    そうであるのに、失敗してしまう。
    心が幼いので、「大丈夫」という気持ちに負けてしまう。
    今回は少し下がった。
    次は、前回よりも上げていこう。
    そのために、この夏は何をしようか?

    来週から、夏期講習が始まります。
    良い夏になりますように。


      


  • Posted by セギ at 12:37Comments(0)講師日記

    2023年07月11日

    学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか。


    今日は、真面目にテスト勉強はしている様子なのに、なかなか成績が上昇しない高校生について考えます。
    考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
    今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
    しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
    「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
    学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。


    10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
    AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
    学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
    学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
    そのように思ったのです。

    結局、その予想は外れました。
    1つには、私立大学の定員厳格化があります。
    極端な水増し合格が許されなくなったのです。
    どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
    合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
    しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
    それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
    その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。

    もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
    一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
    これは大きかったです。
    AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
    高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
    それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
    それが、思いの他、高かったのです。
    高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
    そういう数字です。
    苦手科目を捨てることがない。
    こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
    高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
    3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
    そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
    3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
    そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
    真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
    彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
    あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
    それもまた、才能でしょう。
    そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。


    勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
    自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
    私も今は推奨しています。

    ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
    学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
    受験勉強しないで合格できるんだから。
    学校の成績だけ良ければいいんだから。
    そのように考えてしまうのです。
    学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
    学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
    そのように、視野が狭くなっていきます。

    これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。

    英語の場合で考えてみましょう。
    毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
    でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
    そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
    受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
    何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
    結局、単語のテスト範囲は捨てます。

    さらに。
    英語の定期テストの出題形式というものがあります。
    英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
    論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
    英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
    学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
    それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
    あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
    英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
    それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
    結果として、英語の定期テストは良くて60点台。

    自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
    そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
    でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?

    高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
    英語力は、中学英語のまま。
    単語力も文法力もない。
    そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。


    数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
    学校の定期テストの点数だけが大事。
    だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
    一般受験するわけじゃないんだから。
    そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
    しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
    「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
    定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
    一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
    だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
    わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
    次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
    スケジュールは、どんどん遅れていきます。

    本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
    自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
    だから、学校の問題集が大切。
    そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
    しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
    週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
    本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
    ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
    「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
    という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。

    テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
    塾の授業はテストまで何回あるのか?
    そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
    とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
    そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。

    この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
    もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
    それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
    「学校の成績だけ良ければいい」
    という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。


    学校の勉強だけをやりたい。
    だって、重要なのは、学校の成績だから。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    他のことはやりたくない。
    そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
    しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
    当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
    学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
    いいえ。
    学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
    そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。

    勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
    英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
    だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
    テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
    それなら、普段からやるしかないでしょう?
    それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
    そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
    その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
    そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。

    学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?

    それは、使い方次第でしょう。
    使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
    しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
    まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。

    学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
    それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
    これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
    論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
    それは自分で解いたほうが勉強になります。
    そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
    学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
    学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
    単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。

    数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
    学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
    本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
    学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
    しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
    それでも、昔に比べれば、随分易しい。
    昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
    典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
    それで失敗する子には、
    「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
    そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。

    繰り返します。
    学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
      


  • Posted by セギ at 14:43Comments(0)講師日記算数・数学英語

    2023年06月09日

    中間テストの反省と分析。


    画像は、フタリシズカ。林床にひっそりと静かに咲いていました。

    さて、私立中学や、都立・私立高校の中間テストの返却が終わり、得点が出揃いました。
    この春から、うちの教室で英語を学習し始めた高校2年生が2人います。
    前回のテスト、すなわち、1年の学年末テストと比べて、1人は10点アップ、もう1人は20点アップしました。
    英語だけで2科目の試験がありますが、それぞれ、20点ずつ上がっていました。
    最初のテストとして、まずまずの結果となりました。
    まだ伸びしろはあります。
    楽しみです。


    興味深かったのは、春から入会した子たちの前回までのデータを私は知りませんので、テストの答案を眺めて、
    「これは、1年のときの学年末テストと比べて上がったんですか?下がったんですか?」
    と素朴な疑問をぶつけてみたところ、1人は、学年末の英コミュは何点で、論理表現は何点だったと正確に情報を提供してくれたのですが、もう1人は、
    「1年生のときは、1学期中間が何点で、その後は、何点くらいになって、大体平均すると、1年の平均点は、今回の得点と同じくらいです」
    と答えたことでした。
    要するに、高1の1学期中間だけが非常に高い得点なのでした。
    学校推薦か総合型選抜での大学受験を考えているので、とにかく、3年間の平均について考える癖がある。
    前回の得点より何点上がったかではなく、1年の最初からのトータルの平均点が上昇しているのか下降しているのかが重要・・・。

    ここで気になるのが、高過ぎる高1の1学期の中間の得点でした。
    高1の1学期中間テストの得点だけが桁外れに高く、以後は、似たような低い得点の繰り返しなのでした。

    高1の1学期中間がどれだけ良くても、それ以後、2度と回復しなかったのであれば、その1学期中間テストの得点は、私から見れば「外れ値」であり、入試上のデータはともかく、自分の本当の実力としての平均点を出すときには除外すべき得点ではないかと思います。
    1年の1学期中間だけは良い得点だった、ということは、誰にでもあることです。
    中学生ならば、もっと起こりやすいことです。
    英語だけでなく数学でも、中学1年の1学期だけは、良い得点だった。
    1学期の成績も、5段階で「5」を取った。
    しかし、それは、振り返れば、英語・数学において、生涯で唯一の「5」だった・・・。
    そんな人は、多いと思います。

    でも、1回高得点を取ると、それがセルフイメージになってしまうのも、無理からぬところがあります。
    本人以上に、保護者の方は、「本当はこの成績のはず」という思いが強くなるかもしれません。
    だって、1度はとれたんだから。
    また、必ずそこに戻れるでしょう?
    そういう見方をすると、今回のテストも、上がったわけではなく、ようやく平均値に戻っただけ、となるようです。

    理想が高いのは嫌いではありません。
    今回の得点は、本人の中では、ようやく昨年度の平均点。
    了解。
    それ以上を目指しましょう。
    学年が上がり、学習内容が難化していく中で、流れに逆らって得点を上げていくのは大変なことですが、大変だからこそやらなければなりません。


    さて、テストで得点を上げていくには、そのテストに対する分析が必要です。
    それができるかどうかが、次回のテストの鍵となります。
    しかし、一般論として、これができない子が多いです。

    まずは、単純にテストの解き直しすらしない子がいます。
    テストが返却される頃には、問題用紙を紛失している子もいます。
    繰り返し繰り返し説諭し、何年もかけて治していくしかない課題です。
    学校から解き直しが宿題として出ていて、「テスト直しノート」を提出しなければならない場合でも、その作業が大嫌いという子は多いです。
    新しい問題を解き散らかすのは好きだけれど、自分が間違えた問題を解き直すのは嫌いなのです。
    塾の宿題の解き直しでも、傍目でそれとわかるほどテンションが下がる子がいます。
    自分のマイナスを見つめさせられているようで嫌なのでしょうか。
    あるいは、単純に、過ぎたことをいつまでもぐちゃぐちゃやっている感じが不愉快で、スッキリと新しい問題を解きたいのかもしれません。
    そういう、小学生みたいな子は、高校生になってもいます。



    というわけで、本人に任せていたら絶対に解き直しをしそうにない子は、塾の授業時に解き直しをします。
    英語のテストの解き直しの場合に、私が訊くことがあります。
    たとえば、英語コミュニケーションのテストで。まずは大問1。空所補充の4択問題。
    「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
    「・・・」
    学校の教科書のテスト範囲の対策はしていますので、教科書から出ているのではないことは、見てわかるのです。
    「単語集ですか?」
    「・・・多分、そうだと思います」
    「大問1の10問、各1点で合計10点。これが全部単語集からの出題なんですね?」
    「・・・はい」
    「ほお。学校の先生は、優しいですね。単語集からの出題の問題が、該当単語を書かせる問題ではなく、文中の空所補充の4択問題なんですね。これならスペルミスする可能性はないので、単語の意味さえ覚えておけば、満点が取れますね」
    「・・・」
    「嫌味で言っているんじゃないんですよ。テスト範囲の単語集をやっておきなさいと言ったのに、結局捨てたんだと思うんですが、こういう出題形式ならば、少し頑張れば得点できますから、次回は頑張りましょうよ」
    「・・・はい」

    さらに、大問2。乱文整序問題。
    「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
    「・・・単語集だと思います」
    「これも単語集から出ているんですか?単語集の例文を乱文整序する問題ということですか?」
    「・・・そうだと思います」
    「大問2の5問、各1点で合計5点。大問1と合わせると、合計15点。これが全部単語集からの出題ですか。それで、こんなに失点しているんですね」
    「・・・はい」
    「これは、他の人と比べて、あなただけが、85点満点のテストで奮闘したということですよ」
    「・・・」
    「それにしては、良い点ですよね。次回はここで得点しましょうね。あっという間に英語の得点は上がりますね。このテスト、楽勝ですわ」
    「・・・」

    本当に、近年は、英語も数学も高校の定期テストは易化しています。
    学校推薦や総合型選抜を目指す生徒が過半数の昨今、難し過ぎるテストでは評定平均が低くなるとの配慮からでしょうか。
    それでも、昔のテストを知らない高校生は、これで難しいと思っています。
    いやいやいや。
    ひと昔前の高校の英語のテストなんて、こんなものじゃなかったんですよ。
    例えば、コミュニケーション英語のテストは、単語や熟語は、スペルを書かせるのが当たり前でした。
    その後は、何のテスト範囲なのかよくわからない4択問題が大量に出題されていて、別紙のマークシート解答用紙が用意されている。
    その後、普通の解答用紙に戻ると、和訳問題が10~15問は出ていて、頑張って解いたところで△ばかり。
    解いても解いてもまだ問題があり、後半は初見の長文問題が2~3題。
    そこまで到達できる生徒はほとんどいない・・・。
    そして、英語表現は、文法4択問題や乱文整序問題が大量出題されているのは当然としても、なぜか初見の長文問題も出題されている。
    どちらが何の科目のテストなのか、ちょっと見ただけではよくわからない。
    さらに、和文英訳。
    そして、100語あるいは200語の課題英作文問題。
    この悪夢のようなテストで、高校生の英語の成績をどう上げていけば良いのだろう?
    平均点が40点というテストを作って、高校の先生は、何も感じていないのか?
    そう思うことも多くありました。
    それに比べれば、今どきの高校の定期テストなんて、本当に親切の塊、先生の「親心」の塊みたいなものです。

    さて、大問3以降は、教科書本文に関する問題でした。
    「よくできています。素晴らしいですね」
    「はい」
    「これを、もう少し厳密に分析するのならば、学校の教科書準拠ワークの問題とそっくり問題なのか、教科書の章末の演習問題なのか、学校の先生がくれたプリントとそっくり問題なのか、それとも、少し変えてあるのか、それも1問1問分析するといいですよ」
    「はあ・・・」
    「データ分析を徹底するなら、そうなります。その一方、とにかく、英語力をつければ、どんな出題がされても正解できるので、英語力をつける、本文の暗唱を今まで以上に頑張るという方向でも、勿論いいんですよ」
    「・・・」
    「英語力をつけることが究極の目標ですからね。データ分析ばかりやっていると、先生が出題傾向を変えた瞬間に敗北する、ということもありますから」
    「・・・」
    とりあえず、教科書範囲からの出題の正答率は高く、喜ばしいことです。
    「あとは、応用問題ですね。初見の長文問題を解くには、普段から、初見の長文問題を解いていくのが、遠回りのようで近道です。単語力増強にもなりますし。頑張りましょうね」
    「・・・はい」

    こんなふうに、手取り足取り、テストの反省の仕方と同時に、出題傾向の分析の仕方を教えます。
    その一方で、ほおっておけば生徒が自力では行わない、リスニング、教科書本文暗唱、初見の長文読解、文法事項のまとまった解説と演習、ライティングの添削などを繰り返していきます。
    何かもっと21世紀的な、AIを使った機能的などうのこうのを求めている生徒には、地味に映るかもしれません。
    努力しなくても楽勝で英語が得意になれる方法を探している人がきょろきょろしている間に、地道に当たり前の努力をして、サクサク得点を上げています。

    新規生徒、募集中です。

      


  • Posted by セギ at 13:51Comments(0)講師日記英語

    2023年05月04日

    高校生の学習上の課題。


    長年、小学生から高校生までを教えていますが、高校生を教えるのは、小学生や中学生を教えるのとはまた別の難しさを感じます。

    高校入試と比較すると、大学入試は多岐に渡っていて、指導する側が焦点を絞りにくいのが、1つの原因です。
    どのような大学受験を考えているのか。
    高校の成績を高く維持して、学校推薦か総合型選抜で大学を受けるのか。
    それとも、国立大学を一般受験するのか。
    あるいは、私立大学を一般受験するのか。
    早めに志望を確定してくれれば、早めにそれに合わせて対策をしていけるのですが、高校2年生の秋頃になってようやく確かな答えをもらえることも多いです。

    結局、本人も、わからないのかもしれません。
    だから、
    「とりあえず学校に進度を合わせて、定期テストの勉強をきちんとやっていきたいです」
    といった返事しかもらえないことがありますが、これは少々危険です。

    定期テストは、範囲のある勉強。
    しかし、テスト範囲の内容しか覚えず、テストが終われば、すぐ忘れる子がいます。
    驚くべき短期記憶。

    しかも、本当にテスト範囲の勉強をしっかりやってくれるのならまだいいのですが、あまり余計な勉強をしたくない言い訳に「学校に進度を合わせて定期テストの勉強をしたい」を使っている子の場合、結局、テスト範囲の勉強も甘いことがあります。

    例えば、英語。
    多くの高校は、英語コミュニケーションという教科で、教科書とは別に単語集が配布され、週に1度、授業時間内に単語の小テストが行われます。
    そして、その小テスト範囲全部が、定期テストの範囲になる学校が多いのです。
    週に1度の単語テストでもやっつけ仕事的に、ギリギリでどうにか覚えている子は、定期テストの単語の範囲を実にあっさりと捨てます。
    何百という単語のテスト範囲の広さに、諦めてしまうんです。
    あるいは、「小テストのときに1度覚えたから大丈夫」という謎の自信を持つ子もいます。
    子どもの中には、そういう意味で本当に幼く、記憶ということの実態を理解していない子もいるのです。
    1度覚えたら、もう忘れないと思っているんでしょうか。
    あるいは、覚えても忘れることは知っている。
    覚えてもどうせ忘れるので、単語なんか覚えても無駄だ、と愚かなことを考える子もいます。
    要するに、単語を覚えるのが苦しくて嫌だから、そういうふうになってしまうのでしょう。

    もっと簡単に単語を覚えられる方法があるはずなのに、学校の先生も、塾の先生も、後れていて、そういうことがわかっていない。
    どうにかして、単語を簡単に覚える方法を見つけたいのに、出会えない。
    自分は不運だ。
    単語を簡単に覚える方法は、この世に絶対にあるはずなのに・・・。

    ・・・そんな夢を見ている限りは、単語は覚えられないです。
    ネットにあふれている、金もうけ目的の甘い言葉に騙されて、課金して、単語力はつかずに終わっていくばかりです。
    努力しなければダメなことに対し、努力せずに済ます方法をただ探している。
    そうしているうちに時間だけが過ぎていきます。

    英語コミュニケーションのテストの中での、単語テストの配点は、10点~20点。
    ここを捨てたら、高い得点を取ることはもう不可能です。
    テストの他の出題は、まず、教科書の本文に関する問題。
    そして、初見の長文問題を出題する高校も多いです。
    これは実力が露骨に得点に反映されます。
    単語力がついていないと、そもそも本文を読めません。
    毎日頑張って英語を勉強している子以外は、パッとしない得点になります。

    「入試は厳しそうだから」
    「受験勉強は大変そうだから」
    という理由で学校推薦を望んでも、そんな怠け者は、普段の定期テストも、結局パッとしない・・・。
    憧れの大学の学校推薦はもらえない。
    総合型選抜を受けるにも、評定平均が足りない。
    評定平均は、3年間の高校での全教科を5段階評価したものの平均であることが多いです。
    憧れの大学・学部は高い数字を要求します。

    でも、一般入試は厳しそうだから、やはり嫌だ。
    となると、どうなるか?
    自分の評定平均で合格できる大学に学校推薦または総合型選抜で受験する、という形に落ち着きます。

    それは悪いことではありません。
    現実的な良い判断だと思います。
    賢い選択です。

    しかし、ここで悪夢のような現実が立ちふさがります。
    自分の成績では、総合型選抜で合格できる大学がない・・・。
    少なくとも、行きたい大学・学部で、自分の成績で総合型選抜で合格できる大学はない・・・。
    一般入試しか道がないのです。

    その現実に、気づいてほしいのです。
    遅くとも、高校1年生のうちに。
    高校の成績の大半が「5」の子が、学校推薦や総合型選抜を目標としていることに対しては、私は全力で応援しています。
    英語だけが4だ、数学だけが4だ、何とかしたいという要望には全力で応えています。

    学校選抜や総合型選抜で大学進学をすることを考えているのであれば、定期テストその他、成績に関係のあることには、本当に本気で3年間必死に取り組んでほしいです。
    それができないのであれば、一般入試で合格できるような勉強を早い時期から始めてほしい。
    勉強を怠けたいがためのどっちつかずの立ち位置が、一番危ないのです。


    単語の話に戻ります。
    中学生の頃に覚えた単語は、教科書に何回も出てきますし、高校入試のために反復もしたので、そこそこ覚えている子は多いです。
    しかし、高1の教科書に出てくる単語は、次にもう1度出てくるのは3か月後ということも多いので、覚えていない高2は多いです。
    高3になっても同じこと。
    高校側は、それではまずいと、高1の頃から単語集を生徒に与え、それを小テストしたり、定期テストの範囲に加えたりしています。
    そうした先生たちの配慮を有効活用できない。
    小テスト対策はやっつけ仕事。
    定期テストでは単語の範囲は捨てる。
    結果、高校生になっても単語力は中3レベルのままという子も多いです。
    本人が、学校の進度に合わせて学校の教科書の勉強をしていきたいというから、それにつきあって個別指導していると、こういう英語力になってしまうことがあります。
    そして、模試を受けて、低い偏差値に衝撃を受けて、大騒ぎになってしまいます。
    本人の落ち込み方も激しいですが、親が、子どもの学力がそこまで低いことに気がついていなかったための衝撃も大きいです。
    でも、そんな学力になってしまう勉強をしているのですから、当然、そうなります。


    数学も同じことです。
    定期テストの範囲は勉強し、そこそこの点数を取っているかもしれません。
    近年、特に私立高校の定期テストの問題は易しいですし。
    でも、テストが終われば、公式も何もかも、忘れてしまいます。
    1つ覚えれば、1つ忘れる。
    何も積み上がっていきません。
    そして、模試を受けます。
    何の単元の、何の公式を使う問題なのかさえ、わからない。
    全く解けません。

    「学校の定期テスト」だけが目標になっているので、間口の狭い勉強になり、実力がついていない。
    復習もしないので、そのままです。

    こういう子に、
    「教科書以外の英文も読めるように練習しよう」
    「夏休みは、数学で、今までの総復習をしよう」
    と呼びかけても、生返事のことが多いのです。
    宿題に出しても、結局、やってきません。
    何のためにそんなことをしなくてはならないのか、わからないからでしょうか。
    大学の一般入試は受けたくないので、受験勉強的なことはしたくない。
    しかし、学校推薦や総合型選抜がどの程度の成績を要求するのか、現実が見えていない。
    目先のテスト勉強をそこそこすることで、大学受験の準備をしているような勘違いを本人はしている・・・。

    高校生になると、それぞれ、やりたいことが出てきます。
    無限に時間を喰うような趣味にはまってしまうこともあります。
    ネットでの友達づきあいに、毎日数時間を割いてしまう子もいます。
    教わることの質も量も、中学の頃とは桁違いなのに、勉強に向かう姿勢が、むしろ後退していきます。
    でも、もう頭ごなしに叱れる年齢ではないと感じるからか、親も、「本人の意志を尊重し」と言いがちです。
    実際、説得は難しい。


    高校時代は、一番勉強しなければならない時期です。
    どうか、愚直に、ひたむきに、勉強してください。
    学校の勉強も、塾の勉強も、自分で買った問題集も。
    間口の狭い勉強を「能率的」と勘違いした瞬間に、敗北への道を歩み始めてしまいます。
      


  • Posted by セギ at 13:37Comments(0)講師日記算数・数学英語

    2023年04月19日

    勉強しやすい時代になりました。


    公園に、ギンランが咲き始めました。
    上の画像がそれです。

    さて、今回は、高校が新課程になって、非常に勉強しやすくなったという話です。

    この春から、高校2年生も新課程。
    そこで、英語コミュニケーションの教科書ガイドを探しに書店に行ってきました。
    教科書ガイドは、教科書本文が全文掲載されているものなら購入することにしています。
    そうではない場合やそもそも教科書ガイドが発売されていない場合は、生徒から教科書を1週間借りてコピーさせてもらう、ということはさすがにできないので、スマホで教科書本文を撮影して使用します。
    そうして、私が全訳し、重要文に下線を引き、暗唱してもらいます。

    書店で、教科書ガイドを見て驚きました。
    新課程の英語コミュニケーションの教科書ガイドは、教科書全文を意味のまとまりごとにスラッシュで区切り、その下に全訳がついていました。
    昔の「読んで訳して、読んで訳して」のリーダーの授業だったら、これで予習の必要がなくなります。
    ありえないほど親切な教科書ガイドになっていました。
    中学生向けの教科書ガイドは全訳がついているのが当たり前でしたが、高校生向けの教科書ガイドで全訳がついているものを今まで見たことがありませんでした。

    これは、新課程になり、学校の英語学習の方向が変わったからなのです。
    読んで訳すことが学習の第一義ではありません。
    ですから、高校の先生が教科書の全訳プリントを渡してくれる学校も今は多いのです。
    教科書ガイドが全訳を載せていることは、学校の授業妨害でもなければ、生徒の学習の機会の損失でもないのです。
    これでこそ、英語学習がはかどるというもの。

    ただし、です。
    これは以前も書きましたが、新しい英語学習の本質をつかめていない子も多いのです。
    全訳を学校でもらえることに安心しきってしまうのです。
    日本語を見て意味がわかったから、自分はその英文を理解した、と誤解してしまうようです。
    学校で学習済みの教科書本文を、
    「では、教科書の英文を日本語に直してみて。英語の順番のままで。意味のまとまりごとでいいですよ」
    そのように指示して、生徒に訳してもらおうとすると、絶句し、何も訳せない子が、新課程の子の中にいます。
    新出単語の意味も、重要表現の意味も、理解していない・・・。
    表面をふわっとなでているだけなのにわかったつもりでいる学習をしているのです。
    無論、重要文を日本語から英文に戻す暗唱もしっかり宿題にしないとやってきません。
    テスト前にやればいいと思っているようですが、テスト前になれば、テスト範囲の広さに投げだしてしまう可能性のほうが高いのです。
    全訳を眺めて、内容は理解したから大丈夫と言い訳してしまうのが関の山かもしれません。

    そもそも、英語を英語のまま理解するというのは崇高な理想ですが、私たちは日本人です。
    日本語に直せない英文は、本当に理解していることになるのでしょうか?
    私は英文を読むとき、いちいち日本語に直しませんが、直せと言われたら、すぐに日本語に直せます。
    それが、英語が理解できているということだと思うのです。

    全訳の載っている教科書ガイド。
    あるいは、学校の先生がくれた、全訳プリント。
    そんな最高の教材があるからこそ、教科書本文を自力で日本語に直したり、逆に、全訳から英文を復元する練習をすることが可能です。
    昔は、そういう練習をするために、まず自分でノートを作らねばなりませんでした。
    そのノート作りに、英語学習の時間の大半を奪われる結果にもなっていました。
    今は、そこを省略して次の段階にすぐ進めるのです。

    さらに言えば、新課程は、高校の教科書もQRコードで本文の音声を聴くことができます。
    高校教科書の音声副教材というものは、以前は存在しませんでした。
    それが聴き放題です。
    しかし、なぜか、活用している子は少ないように感じます。
    いや、それは私の目の前にいる生徒たちが活用していないだけで、日本中を見渡せば、活用している子たちが沢山いるのでしょう。
    これまで、家庭の事情で英語学習の機会が少なかった子たちにとって、無料で、あるいは極めて小さな費用で、豊かな英語学習が可能なのです。
    私なら使い倒します。
    教科書音声にあわせて音読。
    それから、シャドーイング。
    何度も何度もやります。
    どれほど英語力が上がることか。
    そこから這い上がってくる子は、きっと多い。
    目の前に最高の教材があるのに、使おうともせずぼんやりしている子たちもいる一方で。


    さらに、高校の数学教材のコーナーに移動し、棚を見ました。
    高校2年生が新課程に突入したので、青チャート数ⅡBも、新課程版が発売されているかな?

    ・・・ありました、ありました!
    そして、数ⅠAと同様、例題全問の解説動画を無料で見られるようになっています。

    旧課程でも、例題の解説動画は存在したのですが、無料で見られるのはそのうちの数問で、あとは有料でした。
    青チャート本体よりも高い価格で解説動画を販売していたのです。
    高い・・・。
    とはいえ、無料版を見る限りですが、この解説動画、とてもいいものでした。
    素人ユーチューバーがアクセス稼ぎ目当てにやっている数学動画は、早口で聞きづらかったり、間違っていたりして、あぶなっかしい。
    扱う問題も簡単すぎます。
    青チャートの動画は、青チャート学習者のレベルにあっていて、明瞭簡潔です。
    テストによく出る応用問題の典型題も解説されています。
    これなら、基礎力のある子なら、数学の自学自習が可能です。

    自学が可能だなんて、塾経営の危機ではないのか?

    いや、そうでもありません。
    高校生に数学を指導していて困難を感じるのは、宿題を出しても、全問不正解か白紙である場合があることです。
    そもそも学校の授業が理解できない。
    学校の問題集は、解答解説がついていても自力では理解できない。
    そういう課題を抱えている子は多いです。
    それでいて、
    「個別指導だから、わからないことは全部教えてもらえる」
    と生徒は思っているようです。
    1週間に90分の授業で、宿題がほぼ白紙では、次に進めません。
    宿題解説だけで授業は終わり、学校でもう学習しているのだからと次のページを宿題に出しても、やはり、全問不正解・・・。
    その状態が続いても、
    「個別指導だから、わからないことは全部教えてもらえる」
    「わからないことは、塾で勉強すればいい」
    という信念はなぜか揺らぐことなく、むしろ、独りで学習していたときよりも家庭学習の時間が減ってしまう高校生がいます。
    そのほうが、楽だからなのかもしれません。
    そういう子は、授業動画は見ないのです。
    見てもわからないと言います。
    やはり、個別指導が必要なのです。
    数学への取り組み方や意識を変えることも含めての個別指導が。

    数学がわからないのは、授業動画で全面解決。
    というわけにいかないのは、英語の教科書ガイドと同じです。
    結局、使い方なのです。
    授業動画は、青チャートこそ有料だったものの、旧課程の子でも、学校全体で加入していたり、個人で加入していたりして、実は、別の有料の授業動画を視聴可能な環境にいる高校生は多かったのです。
    そのわりに、活用していませんでした。
    学校の問題集も、塾の宿題も、わからなかったら類題の解説動画を探して自分で解決したらいいのに、そういうことをしない。
    学習姿勢が受け身で、活用しないのです。
    あるいは、類題の解説を上手く見つけられないのかもしれません。
    類題のどういうところが類題なのか。
    その分析ができるのは、ある程度数学がわかっている子たちです。
    個別指導しなければならない子は、変わらず多いです。
    むしろ、そうした子たちに、動画や音声の使い方を指導することで、授業をより効率的なものに変えていくことがこれからの個別指導の課題かもしれません。

    さらに、一点。
    大人の人で、高校数学をもう1度勉強したいと考えている人には、テキストと授業動画がセットになっている教材は使いやすいと思います。
    これは、朗報です。

    教科書ガイドと青チャートを購入し、ほくほくして私は教室に向かいました。


      


  • Posted by セギ at 13:48Comments(0)講師日記算数・数学英語

    2023年03月09日

    テレビの大学受験企画と偏差値のからくり。


    このブログでも、以前に一度触れましたが、タレントの小倉優子さんが、大学受験をやってみるテレビ企画の結果が出ました。
    こういう企画が大成功したことはかつて一度もなく、今回も、大成功とはいえない結果だったかもしれません。

    番組の中で、合格した白百合女子大の偏差値が52と表示されて、合否よりもその偏差値にネットがざわついていました。
    白百合女子大の偏差値は52もないだろうというのですね。
    番組をさらに見ていくと、早稲田大学教育学部は偏差値74と表示されていました。
    それは、さすがにないだろう・・・。

    でも、この偏差値、全くの虚偽ではないのです。
    これは、ベネッセの進研模試の偏差値なんです。

    河合塾が発表している偏差値では。
    白百合女子大は42.5。
    早稲田教育は、62.5。
    うん。
    馴染みのある数字です。

    何でそんなに偏差値が違うのかといえば、その模試を受ける母集団の学力が違うからです。

    都立の進学校でベネッセの進研模試を受けているという話は、聞いたことがありません。
    私が知らないだけかもしれませんが。
    東京から目を広げ、全国で考えた場合は、もっとそうだと思います。
    各都道府県に存在する、県下有数の進学校。
    第一志望は旧帝大。
    そこまで学力が届かなかったとしても、地元の国立大学は手堅い志望校。
    そういう学力の子たちが全国にいます。
    彼らは、進研模試は受けないでしょう。
    河合塾の全統模試を学校単位で受けることが多いと思います。

    つまり、進研模試は、高い学力層の子がごそっと抜けている母集団での模試なので、平均点は低く、相対的に大学偏差値は高くなります。

    さらにいえば、駿台模試になると、基本的に高い学力の子しか受けない模試なので、大学偏差値は相対的に低くなります。
    駿台模試の早稲田教育の偏差値は、54。
    これまたびっくりの数字です。

    結局、偏差値というものは、その模試を実際に受けた生徒が、自分の偏差値と大学の偏差値を見比べて志望校を決定するためのものなので、数字だけが独り歩きするものではありません。


    偏差値を求める公式は、

    50+(得点-平均点)/標準偏差×10

    この公式の分母にある「標準偏差」というのは、分散の正の平方根のことです。
    では、「分散」とは何か?
    各データと平均値との差を2乗したものの総和を、データの個数で割ったものです。
    分散は2乗した値なので、それを1乗に戻すため正の平方根としたものが標準偏差です。
    つまり、標準偏差は、全データが平均からどれくらい離れて散らばっているかの平均を示す数値です。

    ということは、
    (得点-平均点)/標準偏差 
    という部分は、その個人の得点が、どれくらい平均に近いか、また遠いかを、全体の散らばりとの割合で示したものとなります。
    それだけでも、母集団の得点がどれだけこの数値に影響するかわかると思います。
    自分の得点が平均点と完全に一致すれば、分子が0になるので、偏差値が50になります。


    さて、小倉優子さんに話を戻しますと。
    企画の当初から、最高の目標として、第一志望を早稲田大学教育学部とはするけれど、学力の伸びを考慮して志望校を考えていくという話だったので、今回の結果は、これでいいんじゃないかと私は思います。
    中学英語も理解していなかった人が、400日あまりの受験勉強で、偏差値42.5の大学に合格した。
    十分ではないかと思うのです。

    ただ、テレビ的にはそれではダメなのでしょう。
    「400日あまりの受験勉強で、偏差値42.5の大学に合格した」
    そのことが世間の評価を得られないと感じたのだと思うのです。
    だから、番組制作者は、偏差値のからくりをわかっていて、あえてベネッセの偏差値を使用したのではないかと思うのです。
    「400日あまりの受験勉強で、偏差値52の大学に合格した」
    これならば、ずいぶん印象が違います。
    せめて平均以上の大学に入ってみせないと、結果を出したことにならない。
    そういうことだと思うのです。

    世間では、偏差値が独り歩きしています。
    偏差値42.5と聞けば蔑み、52と聞けば、まあまあ頑張ったんじゃないかと思う。
    そういう感覚を知っていて、利用したのだと思うのです。


    おそらく、『ドラゴン桜』とか、『ビリギャル』とか、そういったものの影響で、「誰でも、優秀な先生に出会って、本人も努力すれば、とんでもなく高い結果を出せる」という夢が広がりました。
    それは、ある意味で真実で、ある意味で嘘です。
    とんでもなく高い結果が出ている場合、「優秀な先生」「本人の努力」の他に、「本人の素質」という要素が加わることは否定しようがありません。
    たとえ、それまでの成績が最悪でも、それは本人が勉強していなかっただけで、素質は本物だったのです。
    でも、誰もそのことを直視したくない。
    それを直視すると、じゃあ頑張っても無駄じゃん、と思ってしまう子たちがいます。
    誰でも努力すれば、という夢は大事にしたい。

    また、そういう素質は、本人には判断できないのでもあります。
    凄い才能が眠っているのに、何かが原因となって発露されていないということはあり得ることです。

    タレントを、超優秀な講師が個別指導すれば、大学受験でものすごい結果が出るんじゃないか?
    勿論、タレント本人は努力するのだし。

    そうした企画は、何十年も前から行われ、1例も成功していません。
    誰も東大に合格していません。
    早稲田も慶応も合格していません。
    こうした企画に協力する講師は、これで講師生命が絶たれるんじゃないかと心配になってしまうほどです。
    これで成功すれば、一躍時の人となれる。
    それに賭けて、しくじった。
    そういうことだと思います。


    私の知る限りで最も古いそうした企画は、『電波少年』という番組の東大受験企画でした。
    結果は、日大に合格というものでした。
    見ていた私はまだ若く、「何だ東大には結局合格できなかったのか」と思ったのも事実です。

    でも、そのときのタレントさんは、本人が高校生のとき、日大系の高校に在籍しながら日大への進学が叶わなかった人でした。
    成績が悪くて、内部進学を許されなかったのです。
    そのときの悔しさを晴らすことができた。
    日大に一般受験で実力で合格できた。
    そう涙していたのが、印象的でした。

    それでいいのではないか?

    東大に入れなければ失敗。
    早稲田に入れなければ失敗。
    そういう価値観の人もいるでしょう。
    けれど、そうとは限らないのではないか?

    どの学力から始めて、どこまで伸びたのか?
    そういうところを丁寧に評価することのほうが本当なのではないか? 
    良い指導を受けて努力すれば前よりは伸びる。
    それは本当のことなのですから。

    私自身も、そこのところで苦しんでいます。
    1科目の得点が30点上がるのなんて当たり前。
    私は50点上げている。
    そう胸を張ったところで、50点上げた結果ですら、高みには届かない。
    そういうこともあります。

    脳に何か独特の癖がある様子で、簡単なことを異様にまわりくどく考える。
    難しいことをスルッと理解する一方で、簡単なことがわからない。
    簡単なことが直せない。
    そうした子の指導も得意としていますが、成績が上がるにつれて、もう何もかも良くなった、昔の悪夢は消えたと保護者の方が思っていても、そうとは限らないかもしれません。
    果てしなく膨らむ夢と落胆とのはざまで、日々格闘しています。

    一見平凡な結果は、実はものすごい成果かもしれません。
    そういうことを見抜いてもらえると嬉しい。
    そして、きっとわかってもらえている。
    そう思い、今日も、仕事に向かいます。


      


  • Posted by セギ at 14:13Comments(0)講師日記

    2023年02月13日

    学習したことを、覚えていない。定着しない。


    今年も都立野川公園にセツブンソウが咲きました。
    春が来ますね。
    上の画像がセツブンソウです。

    さて、生徒に授業をする際には、学校の進度を必ず訊きます。
    中学・高校ならば、テスト範囲を把握するには、まず普段の進度から。
    予習が必要な子には、学校の進度を確認しつつ予習を。
    復習中心の学習のほうが良い子にはなおさら、学校の進度の把握が必要です。

    学力の高い子は、何のために学校の進度を問われているのか、当たり前に理解しています。
    「学校は、今、何をやっていますか?」
    そう尋ねれば、要領よくスパンと返答が返ってきます。

    しかし、そうした子ばかりではありません。
    「学校は、今、何をやっていますか?」
    「今日は、数学の授業はありませんでした」
    「・・・」
    そんな応答のこともあります。

    小学生ならばまだわかるのですが、高校生でもそういう返答の子はいます。
    「・・・今日、数学の授業がなくても、昨日とか一昨日には、ありましたよね。学校の最新の授業で何を学習しましたか」
    そのように質問し直すと、ひるんだ顔をします。
    即答できず、考えこんでしまう子は多いです。

    しばらく考えたすえの返答が、
    「三角比」
    「・・・はい。三角比の、何をやっていますか」
    「・・・」
    そんな大単元の名称を答えられても、情報価値は低いのです。
    新しい単元に進んだのならわかりますが、三角比を学習していることは、先週の授業でもわかっているのです。

    「・・・テキストを開いてみましょう。どこまで進んでいますか」
    本当は学校の教科書を開けば思い出しやすいのだと思いますが、そういう子が教科書を持ってきていることは期待できません。
    学校の進度を説明するために教科書を持ってくる。
    そのように備えの良い子なら、そもそも口頭で進度を説明できるように準備してきます。
    学校の進度を即答できない子は、総じて、「塾の授業の初めに学校の進度を訊かれる」ということを覚えていないのです。
    通い始めたばかりならともかく、半年以上通っても、学校の進度を訊かれると、「そんなことを訊かれるのか!」と驚いたようなひるんだ顔になり、必死に思い出そうとし、思い出せないのです。
    そして、当然ですが、学校の進度を即答できない子は、成績自体があまりよくありません。


    なぜ、学校の進度を即答できないのか?

    まず、単純に記憶力の問題があるのでしょう。
    その日に数学の授業があった場合は、まだ思い出しやすい。
    しかし、前日の学校で、数学の授業は何をやったのかは、思い出せない・・・。
    興味がないから覚えていない。
    こうした子は、学校の授業の復習もしていないのは明白です。
    こまめに振り返らないから忘れるのも早く、定期テスト前には全て最初からやり直しとなり、テストに間に合わず、得点はふるわないのです。

    過去のことだけではなく、未来のこともあまり把握していません。
    定期テストがいつから始まるのか覚えていないのは言うまでもありません。
    祝日を把握していない子も、今は珍しくなくなりました。
    今週の土曜日に学校があるのかないのか、把握していない子もいます。
    最近では、私立入試日を間違えていた中3がいて、心底驚きました。
    いくらすべり止めでも、それくらい覚えておきましょうよ・・・。

    過去も未来もない。
    ただ一切が目の前を過ぎていきます・・・。

    いやいやいや・・・。
    まだ10代で、そのような世捨て人の境地になられても困るのです。


    記憶力以上に考えられる課題は、学校で何を学習しているのか、本人が把握できていないことだと思います。
    こちらのほうが深刻です。
    それも、さらにいくつかの場合が考えられます。

    授業内容は漠然と覚えているのだが、その授業内容を他人に伝える用語を覚えていないので、説明できない場合。
    「三角比」は覚えているけれど、「正弦定理」という名称を覚えていない。
    だから、正弦定理を学習したことを伝える方法がなく、困惑して、黙り込んでしまう・・・。
    そうした場合は、塾のテキストをパラパラとめくれば、ああこれだと思い出して説明することができます。

    さらに深刻になると、学校の授業で何をやったのか本当に覚えていないため、塾のテキストを見ても、学習したのかしないのか、わからない場合もあります。
    例題解説を聞いても、まだ思い出せない。
    自分で演習し始めて、ようやく、
    「あ。これ、学校でやりました」
    と思い出す子もいます。

    怖いのは、塾のテキストは応用問題もそれなりに含んでいますが、学校は基本問題しか解いていない場合。
    応用問題の解説ページを見て、こんなことは学習していない、と言うのです。
    しかし、さらにページをめくったその先の基本問題を実は学校ではもう学習済みかもしれません。
    何で先週と同じところで授業が停滞しているのだろう?
    行事のある時期でもないのに・・・?
    私が違和感を抱き、あれこれ問い直し、ようやく進度を確認するということもあります。


    とはいえ、学校の進度を上手く説明できない子の場合、そうしたことは保護者の方も把握しています。
    自分の子には具体的にそうした課題がある。
    一歩一歩解決していこう。
    そのように保護者の方が理解してくださっている場合は、すぐに成績が上がらないことに対しても理解していただけることが多いです。
    そして、繰り返し繰り返し授業していく中で、学校の進度は言えるようになっていく子は多いのです。


    一方、課題が表面的には見えない子がいます。
    学校の進度は説明できる。
    本人は、自分はそれなりに勉強ができると思っている。
    保護者の方もそう思っている。
    確かに、今は大丈夫。
    しかし、将来的には・・・。
    そのような懸念を感じることがあります。

    小学生の秀才にとって、小学校の学習内容は総じて平易であり、学校の授業を聞いているだけで理解できます。
    場合によっては、授業を聞いていなくても、教科書を斜め読みすれば理解できます。
    そのまま中学に進学しても、いきなり成績が低下するということもないでしょう。
    中学の学習内容も、そんなに飛びぬけて難しいわけではありませんから。
    しかし、その子は、将来、どのような進路を選ぶつもりなのか?
    基本だけ理解していればいい進路を進むのか?
    学力がある子は、その学力に応じた高い壁に挑戦することになります。
    その壁を登れるのか?

    岐路はいくつもあります。
    もっとも早い場合は、中学受験の勉強を始める小4になる春に。
    学校の勉強は、簡単に理解できます。
    しかし、中学受験の塾に通うと、これまでとは桁外れの内容を学習することになります。
    受験算数で言えば、最初の「植木算」から、そもそも難しい・・・。
    こんなレベルのことは、学校で学習しない・・・。

    ここで子どもの反応は大きく分かれます。
    面白い、と感じる子。
    こういう難しい勉強は面白い。
    脳がワクワク踊っているのを感じる。
    こういうことがやりたかった。
    本当に楽しい、という子。
    これは、問題ないですね。

    わからないから、解き方だけ暗記しようとする子。
    植木算の場合で言えば、「たす1」「ひく1」だけ、何とか覚えようとします。
    なぜそうなるのか、意味はわかっていません。
    ただ、解き方だけ覚えようとします。
    先行き不安です。
    中学受験当日まで、学習姿勢は結局そのままだった・・・という場合もあります。

    そして、わからないから、その学習内容を否定する子。
    脳が、拒否する子です。
    植木算は、よくない問題。
    自分が理解できないようなレベルの問題は、よくない問題。
    こんなことを理解する必要はない。
    当然、復習する必要もない。
    はっきり自覚しているのではなく、無意識なのだろうと思いますが、わからないことは、わからないまま、復習しないのです。
    難しい内容は、スルーしていきます。

    ただ、中学受験生の場合は、そういうわけにもいきません。
    テストが繰り返され、偏差値や順位が出ます。
    自分が否定した問題を解けなければ、はっきりと悪い結果が出ます。
    わからない問題を否定している自分が、逆に否定されます。

    しかし、私立小学校に通っている子や、公立中学の秀才に、こういう傾向が温存されることがあります。
    私立小学校の子たちは、中学に進学すれば、中学から入学してきた子たちと学力を競うことになります。
    受験生たちは、中学数学を学習してきたわけではありませんが、たとえば方程式の文章題などは見慣れた問題ばかりです。
    見慣れた問題を新しい解き方で解くようになるだけなので、問題内容を分析する能力は既に鍛えられています。
    幾何になるともっと露骨で、中学受験生は、中学の幾何の多くを既に学習しています。
    特に、「相似」の学習で大差がつきます。
    受験秀才は、相似や比の利用は、やり込んでマスターしています。

    そうしたことを恐れ、小学校ではそんなに難しいことは学習しないのではあるけれど、中学の準備のために、学校よりも少し難しいことを学習しようとすると・・・。
    大抵、脳が拒否しているような反応になります。
    学校よりも少し難しい内容は、塾の授業で解説し、宿題に出しても、解けないままなのです。
    授業中に解いた問題の類題なのに、解けないままです。

    これには、もう1つ理由があって、本人の中に「復習」という概念がないことが考えられます。
    小学校で学習する内容は簡単なので、すぐに理解しますし、忘れません。
    だから、「復習」をしたことがなく、自分に必要なことだという意識がないのです。
    塾で解いた問題で、自力では解けなかった問題を家に帰って解き直す。
    せめて、見直してから宿題を解く。
    そういうことを知らない。
    自分がそんなことをしなければならないと、理解していないのではないかと思います。

    公立の中学生もそうです。
    本人の学力は高い。
    この学力ならば、高校は自校作成校か大学付属の私立を受験することになる。
    それならば、今から難しい問題に挑戦しておく必要がある。
    そう思って、発展的テキストを渡し、発展問題を解説し、宿題に出しても、解けないまま次の授業に持ってくる子がいます。
    学校の定期テストは、そのような難問は出ない。
    今、そのレベルの問題を理解する必要はない。
    そのように無意識に判断してしまうのか、まるで脳が拒否しているかのように未定着ということがあります。
    復習する気配もありません。
    完全スルーです。
    学校で学習した内容は理解しているのですが。

    私立高校の生徒にもそういう子はいます。
    数学でも英語でも、大学入試のレベルは決まっています。
    そのレベルに到達する必要があります。
    学力の高い子ならば、基本問題だけ解いているわけにはいきません。
    しかし、学校の授業では扱わない難度の問題は、脳が拒否しているかのように未定着になってしまう子がいます。
    そもそも、塾の宿題の扱いが雑で、真剣に解いたとは思えない。
    しっかり復習している気配もない。
    学校の問題集、学校のプリントへの執着は強く、それは理解しようとしているのですが。

    とにかく学校の成績だけ良くして、学校推薦か総合型選抜で大学に行くつもりなのか?
    そういう戦略ならばそれでもいいのですが、話してみると、そうと決めているわけではないのです。
    苦手科目を放置している様子からしても、総合型選抜への意識は低い。
    自分の通っている高校から推薦で行ける大学、あるいは自分の内申で受けることの可能な総合型選抜の大学の情報を集めていない。
    あるいは、推薦や総合型選抜ではあまり高いところを望めないことは知っていることもあります。
    本人の希望はもっと高いのです。
    だから、一般受験になりそうな気配の濃い子であるのに、学校の定期テスト対策だけに執着しています。
    定期テスト対策だけの間口の狭い勉強しかしないのです。

    都立高校は、それでも、定期テストの問題も難しいことが多いのですが、中堅クラスの私立高校の定期テスト問題は、近年、変に易しいです。
    総合型選抜で大学に入りやすいよう、内申が低くならないように配慮しているのだろうかと憶測してしまうほどに。
    そうなると、難しい問題を解く必然性を本人は感じません。
    それでいて、本人の志望大学はかなり高い。
    一般受験で、国立大学、あるいは有名私立大学に進学することを考えています。
    それなのに、難問を脳が拒否し、定着しない・・・。
    能力的に絶対に無理なのであれば私も諦めるのですが、どうもそのように思えないのです。
    努力すれば理解できるのだろうに、努力している様子が見られない・・・。
    復習し、マスターしようとしている気配を感じません。

    では、どうするか?
    本人が意識的に判断しているわけではなく、無意識のレベルのことであり、「脳が拒否する」ような反応である場合は、刺激を与える必要があります。
    集団指導塾ならば、秀才を競わせます。
    成績別にクラス分けし、このクラスならこのレベルの問題を解くのは当然だ、理解できない者は下位クラスに去れと無言で要求します。
    敗北していく子も多く出ますが、勝ち抜いていく子の学力は天井知らずです。
    本人だけの判断ならば、「こんな難しい問題はマスターする必要はない」となっても、周囲の秀才が当然のように解くのならば、意識が変わります。

    しかし、集団指導塾で、トップクラスに入れない場合。
    そもそも本人がそれをわかっているので、行く気はない。
    ぬるま湯クラスでのんびりすることが目に見えているので、保護者も行かせる気がない。
    個別指導がいい。

    他の生徒と競わせることができない個別指導では、では、どうするか?
    私が説得します。
    このレベルの問題を解く必要がある。
    あなたは、それを理解していない。
    あなたに能力がないのなら、もとよりそんな要求はしない。

    言葉による説得だけではありません。
    言外の目の動き。
    口調。
    その全てで、理解すべき課題を示し続けます。
    そうすることで危機を脱し、到達すべきレベルを理解し、努力していく秀才を、全力で支援しています。

      


  • Posted by セギ at 14:06Comments(0)講師日記

    2023年02月05日

    ノートに残らない勉強。



    国語や算数・数学は、とにかく問題を解いていれば、一応勉強している形にはなりますし、それである程度までは成果が出るのも事実です。
    ノートがいっぱい埋まって、目に見える形で勉強した結果が残るので、生徒もやりがいがあるようです。

    しかし、英語や理科や社会は、問題を解くだけでは結果が出ない科目です。
    ノートに残らない勉強に時間をかける必要があります。
    しかし、そのことがわかっていない子は、なかなか成績が上がりません。

    知識が頭に入っていないのに、問題だけ解き散らかして、「わからない」「わからない」と言います。
    解説を聞いて、「あ、わかった」と言っても、類題を1人で解いたら、また間違えます。

    一時期、そういうことは減っていたのですが、基本的な知識のなさに愕然とすることが近年増えてきました。
    「ゆとり教育」の再来を感じます。

    ゆとり教育は、インプットよりもアウトプットに重点の置かれた時代でした。
    しっかりとした考えや意見ではなく、浅い思いつきや感想しか口に出せない子が、それでも授業態度は評価された時代でした。
    アウトプットさえできればいい。
    そのため、知識が身についていない子が、大量に現れてしまいました。
    「これは、大切だから、覚えて」と言うと、
    「ええっ!覚えるんですかああああ?」
    と、論外のことを言われた、みたいな顔をする子がいた時代でした。

    実際、彼らは、暗記の仕方というものを、びっくりするほど知りませんでした。
    覚えるべきことを口の中で唱えて、見ないで言ってみる。
    時間をおいて、また自分にテストを繰り返す。
    そうしたことができず、漫然とテキストを眺めているだけなのに、暗記しているつもりでいる子の多かった時代でした。
    今、再びその時代が始まっているような気がします。

    いや、正確にはそうではないのでしょう。
    もの覚えがよく、しかもアウトプット能力の高い子たちも多いのです。
    一方、学校の授業についていけない子も多い。
    格差が広がっているのを感じます。

    理科や社会を中学三年生に教えていると特に感じることですが、データの読み方を知らない子がいます。
    特に、グラフの読み方がわからないようです。

    私自身が通った中学校は、「元祖アクティブラーニング」といった授業を行う中学校でしたから、例えば地理の授業は、その地域、あるいはその国の主な生産物のデータを読んで、気づいたことを発表するのが授業の基本的な仕組みでした。
    そして、なぜその産業が盛んなのか、地理的・歴史的背景を考察しました。
    そうした授業で得た地理の知識は、生きた知識でした。

    ただ、その授業が万能ではないことも、私は知っていました。
    そうした授業に積極的に参加し、生きた知識を得ることができるのは、一定以上の学力のある子だけでした。
    小学校からの内部進学の子の多くは、そうした授業についていけず、何のために何をやっているのか理解していないようでした。
    アクティブラーニングは、その授業を行う先生の教材研究や資料の準備も大変であるうえ、授業の実際の展開も大変です。
    なおかつ、知力の高い子にしか効果がないことがあります。
    授業に参加できない生徒を多数出してしまうのです。

    現在の公立中学校で行われているアクティブラーニングは、そういうものではなく、「アクティブラーニングもどき」のこともあります。
    例えば、プリントの穴埋めをグループに分かれてやっているだけなのです。
    教科書から答を探して埋めるだけです。
    勉強のできる子がさっさと見つけた正解を、勉強のできない子が教わって埋めるだけのグループ学習をアクティブラーニングと称しているだけ。
    教えている先生が、アクティブラーニングを体験したことがないから、そんなふうになってしまうのか?
    いえ。
    公立の学校の先生は、じっくり教材研究をする時間を与えられていないので、そうなってしまうのだろうと思います。

    とはいえ、そのプリントは貴重です。
    そのプリントを暗記すれば、定期テストは何とかなるでしょう。
    教科書の要点をまとめてくれていますから。
    本当のアクティブラーニングをやった場合、テストに何が出るのかわからない子が多数出てしまう可能性があります。
    アクティブラーニングもどきのほうが、それよりはましであるのかもしれません。

    そもそも勉強のできる子は、どんな授業を受けていても、家で問題を解くことで、グラフや資料の読み取り方を自力で学びます。
    しかし、勉強が苦手な子は、同じ問題を解いてもそうしたことを習得できません。
    グラフをどう読んでどう活用するのか、驚くほど知りません。
    データの変化を読む、あるいは他のデータとの違いを読むという基本に気づいていません。
    それを問題を解くことに活かすということも知りません。
    教えても、教えても、次の問題を解くときにはそれを忘れてあてずっぽうで解いてしまいます。

    「この帯グラフの輸送用機械の生産高の割合は他の帯グラフと比べて高いですね。
    それはこの帯グラフが中京工業地帯のものである証拠です」
    と解説しても、ポカンとしています。
    まず、輸送用機械というのが何であるか、わからない。
    それが他のグラフと比べて高いとか低いとか、そういう観点でグラフを見る習慣がないので、わからない。
    中京工業地帯の産業の特徴も知らない。
    覚えていない。
    だから、あてずっぽうで問題を解くしかないのです。

    理科のほうが、まだ、知識をダイレクトに使うだけだから、解き方も覚えられるし、得点が上がる。
    社会は、まじでわからない・・・。
    そんな子もいます。

    勉強に関するセンスが悪いということもあるかもしれません。
    歴史なら、知識をダイレクトに使うだけだから、得点源にできるのではないか?
    そう思うのですが、選択肢を時代順に並べるだけの問題も正解できません。

    「アの選択肢の時代がわかるキーワードは何でしょう?」
    そう問いかけると、
    「京都」
    と答えたりします。
    「京都・・・。京都は平安時代から今までずっと存在していますから、それで時代は特定できないと思いますよ?」
    と言うと、ひるんだ顔をし、そして実際、時代を間違えています。
    「人物名はどうですか。地名以外の固有名詞がいいですよ。イの選択肢の時代がわかるキーワードは何でしょうか?」
    「公家諸法度」
    「ほお。それは何時代ですか?」
    「平安時代」
    「・・・公家だからですか?もっとわかりやすいキーワードがいくつも入っていますよ?」
    「・・・」
    知識がないので、キーワードがキーワードに見えないのでしょう。
    キーワードを問われて何か答えるのも、あてずっぽうなのかもしれません。


    言語化されない部分、ノートに残らない部分に学習の神髄があります。
    しかし、そこにアクセスできない子たちがいます。
    それでも、受験という大きな課題の中で学力が変容する子を多く見てきました。
    本当にギリギリの土壇場で、問題を解くというのは何をどうすることであるか理解し、覚醒した子たちもいます。



      


  • Posted by セギ at 20:05Comments(0)講師日記

    2023年01月29日

    受験直前に学力の上がる子と下がる子。


    受験生を長年教えていると、冬期講習がピークとなってしまい、その後は学力が下がり続けていく子の多さを感じます。
    何だかわからないけれど、受験が近づくと、むしろそれまで出来ていたこともできなくなっていき、ケアレスミスも多くなり、点数がじりじり下がっていくのです。
    一方で、受験の朝まで学力の伸びるタイプの子も存在します。

    何が違うのか?

    受験勉強とは何をどうすることであるかをわかっている子は受験の朝まで伸びます。
    これに尽きるのかもしれません。
    そもそもの意識が違うので、毎日集中して何時間でも勉強できるのです。
    それを苦痛と感じている様子も見られません。
    集中して淡々とやるべきことをやっています。

    そういう子は問題の消費量も多いです。
    「問題数無尽蔵」を標榜する私ですら手渡す問題が尽きそうになり、その子に渡すべき良問を必死に探し、解説できるように私も解きます。
    生徒と私のデッドヒートとなり、最後に背中を押して、加速をしていく受験生がゴールテープを切っていく様子を後ろから眺める。
    成功する受験において、私の心象風景はそんなふうです。

    勿論、そういう子は、問題を解き散らかしているのではありません。
    そんな様子が見られれば、私は問題の供給を止めます。
    解き散らかすだけで、見直しもしない。
    自分が何をどう間違えたのか理解していない。
    それならば、繰り返し同じ問題を解いたほうがいいのです。
    何度解いても、同じところを同じように間違えるだけなので、その自覚を促したほうが効果があります。

    問題を解く中で知識を吸収し続けることが可能な子は伸びます。
    勉強とは何をどうすることであるか、体得している子たちです。


    しかし、冬期講習が学力のピークとなり、以後はじりじりと下がっていく子のほうが実際には多いです。
    下がっていくのは避けられなくても、その下がり方をできるだけ緩くし、何とか受験まで学力がもつようにする。
    そんな算段をしなければならないことのほうが多いです。

    冬期講習は、塾で学習している時間が長いうえに、家で宿題もしなければなりませんから、実質1日10時間は学習します。
    毎日、受験科目を全教科学習できます。
    そして、その期間だけは、学習量も学習内容も私が完全に把握できます。

    ところが、冬休みが終わると、例えば中3の受験生は、学校の3学期が始まり、1日10時間の学習時間は維持できません。
    冬期講習で頑張った分のゆり戻しで、家庭での学習時間がむしろ減ってしまう子が多いです。
    だから、冬期講習で身につけたことを忘れていくのでしょう。
    積み上げた知識が物凄い勢いで崩壊していきます。
    以前はできたことが、できなくなっていく。
    以前は正解できた問題の解き方がわからなくなっていきます。

    教えても、教えても、忘れていく・・・。
    覚えても、覚えても、記憶が消えていく・・・。

    中3の受験生なのだから。
    永遠のことではなく、受験までなのだから。
    あとひと月だけだから。
    毎日5教科、1時間ずつ、1日5時間の家庭学習くらい、できるよね?
    できるでしょう?

    私がそういえばうなずきますが、実際は、1日2時間も勉強できていないのではないか?
    しかも、その2時間も、気がつくとぼおっとしてしまっていたり、もたもたと学校の宿題をやっていたりして終わっているのではないか?
    まともに受験勉強できていないため、1度は頭に入れた知識を忘れていくのではないか?


    それだけではないのかもしれません。
    学力が低い子ほどそうした傾向が強く出やすいのは、ワーキングメモリの問題なのだろうかと思ってみたりします。
    冬休みは、落ち着いた環境で勉強に集中できます。
    しかし、3学期が始まると、勉強することだけに脳を使えません。
    学校は、先生、友達、友達じゃない子に1日中ごたごたと揉まれる場所です。
    別に学校が嫌いなわけではなく、それなりに楽しいと思っていても、学校は、その場その場で判断しなければならないことが多いです。
    どんどん情報が入ってきて、それを処理しなければなりません。
    脳が処理しなければらないことが多すぎる。
    学校生活でワーキングメモリを使いきってしまい、家に帰って、さて勉強しようとすると、脳は必要だった記憶を勝手に消去してしまっているのではないか?

    非科学的なことを言っているかもしれませんが、実感としてはそんなふうにしか説明がつかないようなひどい忘れ方をしていく子がいます。
    できたはずのことが、できなくなっていくのです。
    だからといって、中学3年生が受験勉強のために学校を休むというのには賛成できませんし。
    中3の3学期は、入試までは大した行事もなく、それまではトラブルメーカーだった子たちも比較的静かになり、穏やかな学校生活が送れるはずなのですが、それですら、本当に穏やかで単調で、毎日冬期講習に行って、あとは家で勉強していれば良かった冬休みとは違って、ひどく疲れるものであり、脳を酷使するものであるのかもしれません。
    もともと脳に余裕のある子には大きな影響はないけれど、いっぱいいっぱいな子ほど打撃を受けやすいのでしょうか。

    本人の自覚の問題もあるでしょう。
    幼いので、1度覚えたことはもう大丈夫だと誤解してしまう子もいます。
    1度覚えても、反復しなければ忘れるということを、理解できていない子は高校生でもいます。
    人間の脳なんてそれくらいポンコツなのだということを理解できていないのです。
    人間は、覚えてもすぐに忘れてしまうんです。
    記憶なんて、本当に儚い。
    何1つ覚えていられない。
    でも、そのことをわかっていなくて、1度覚えたから大丈夫と思ってしまう幼い受験生は、重要な知識を端から忘れていきます。
    受験日までに、多くのことを忘れていきます。


    冬期講習の翌日が受験日ならばなあ。
    そんなかなわない望みを抱いても仕方ない。
    受験生の知識がこぼれ落ちていくのを少しでも阻止するために奮闘する日々です。

      


  • Posted by セギ at 16:59Comments(0)講師日記

    2023年01月09日

    下位クラスの子の成績が上がらない理由。


    集団指導塾は、学力別にクラスが分かれていることが多いです。
    そして、下のクラスになるほど、そこから学力を上げていくのは難しいことが多いのです。
    なぜそうなってしまうのでしょうか?

    私が以前勤めていた集団指導塾は、面倒見が良いことで評判の地域密着型の学習塾でした。
    集団指導塾としては小規模な塾で、学年ごとに成績別に2つのクラスに分けるのがやっとでした。
    成績上位クラスは、意欲のある生徒が多く、そういう子たちがクラスの雰囲気を作っていましたので、自覚のなかった子もひきずられ、意欲が増していくのが手に取るようにわかりました。
    だから、宿題も、どんどん量を増やしていくことができました。
    1週間に問題集10ページ以上の宿題。
    受験生ともなれば、そんな量でも1日か2日でやり終えてしまう子もいて、
    「センセー、なんかプリントほしいー」
    と、自習に来ます。
    1人がもらいにくれば、他の子も、
    「オレもオレも」
    ともらいに来て、競争で解いていました。
    そういう子たちについては、担任から、
    「あいつは、志望校には内申が少し足りないんだけれど、どう思う?」
    と訊かれても、
    「あの子は、受験日の朝まで伸びますよ」
    と、自信をもって答えることができました。

    しかし、成績下位クラスの意欲は全体に低調でした。
    宿題を出しても、やってこない子も多かったのです。
    あるいは、やっていても、当日に慌てて解いたやっつけ仕事。
    他の子がやってこないと、それにひきずられ、やってこない子が増えます。
    成績は低迷していました。

    上のクラスの子たちは、ほぼ全員、志望校に合格していきました。
    上位クラスの半数は都立自校作成校を受験し、合格。
    他の生徒たちも、自校作成校に続く地域の一番校に合格しました。

    一方、下位クラスの子の半数以上は、都立高校に落ちました。

    これは、しかし、あの塾だけに特徴的なことではなく、集団指導塾ではよくあることのように思います。
    そもそも塾は、都立高校の合格率を公表できない場合が多いのです。
    「〇〇高校に何名合格!」
    「定期テスト30点アップ!」
    などの宣伝文句を使いますが、合格率は公表できません。
    不合格の子が多いからです。

    そういう事情に気づかず、宣伝文句につられて、自分の子も有名高校に合格できるような気がして通わせても、入れるクラスは下位クラス。
    そのクラスの合格率は、とても公表できる数字ではない。
    そんなこともあります。
    でも、集団指導塾で友達ができると、子どもは、そこを辞めたがらないのです。
    宿題もやらなくていい雰囲気のクラスならば特に。
    周りも自分と同じで、学習意欲のない子たちばかり。
    ぬるま湯は、快適です。

    その塾は、私立高校とつながりがありました。
    非公式ですが、「塾推薦」という形で、内申が1つ2つ足りなくても併願優遇のOKが取れることがありました。
    なぜそんなことが可能だったのか?
    すべり止めのその私立高校に、多くの生徒が実際に通ったからです。
    都立に落ちた子たちが、その私立高校に実際に通いました。
    私立高校としては、しっかり通ってくれる生徒を沢山紹介してくれる、良い塾だったのです。
    生徒が都立に落ちれば落ちるほど、私立高校と塾とのつながりは深くなり、多少のことは融通がきく。
    一方、上位クラスの子たちが併願優遇を取る高校とのつながりはほとんどありませんでした。
    上位クラスの子たちは、都立に合格していきますので、私立高校と塾との間に実績がなかったからでしょう。
    勿論、進路指導主任が塾向けの私立高校説明会などに一所懸命参加していましたので、一応話は聞いてもらえますが、内申が足りないのに無理が通るのは、実際に生徒が通うことになってしまった高校でした。
    下位クラスの子たちの、すべり止めの高校です。

    それは、塾の力として誇っていいことだったのだろうか?
    進路指導主任の努力を否定するつもりはありませんが、それは、それだけ生徒が都立高校に落ちていた証拠だったのではないか?
    私が勤務するようになるずっと前から。
    それに気づくと私は暗たんたる思いにとらわれました。

    とはいえ、塾は、私立高校とのつながりのために生徒に都立高校に落ちてもらっていたわけではありません。
    都立高校には合格してほしかったのです。
    でも、下位クラスの子の多くは、合格しませんでした。
    なぜだったのか?

    1つには、その塾だけの独特な理由がありました。
    過去問の扱いです。
    生徒に、12月の個人面談までには都立の過去問を全部解かせていました。
    その点数を一覧表にして提出させ、それで志望校を決めていたのです。
    模試の結果も参考にしていたのですが、一番見ていたのは、過去問の実際の点数でした。

    それは、わかります。
    模試は、どんなに「都立そっくり模試」とうたっていても、問題の書き方がシンプルで、わかりやすいのです。
    都立入試特有の、どこから突っ込まれても大丈夫なようにくどくどと全部説明していて問題が非常に読みにくい、ということがありません。
    模試の問題文はすっきりしていて読みやすいです。
    問題文が読みにくい都立過去問で、実際に何点取れるのか?
    私も、それは重視します。
    ただし、そのデータが、信用できるものであることが条件です。

    その塾の下位クラスの子は、過去問を、解答を見ながら解く癖があったのです。
    だから、実際に取れる点数よりもはるかに高い得点を自己申告していました。
    そのため、合格できるはずのない高校を受けることになってしまっていました。
    当然、落ちます。
    私は1年目でそれに気づきましたが、他の講師たち、特に塾長が、それを認めませんでした。
    生徒たちが持っていないもっと古い過去問を授業中に解かせたときの得点と、生徒たちが解答つきで持っている過去問の得点とに20点以上の差がある。
    そのデータを見せても、それでも、信用しませんでした。
    生徒は、嘘をつかない。
    自分には、嘘をつかない。
    そのように信じ込んでいるところのある塾長でした。
    私の見せるデータよりも、生徒の自己申告を信じたのです。

    20点も上乗せしたら、いくら何でも気づくのでは?
    いえ。
    これは、都立過去問の場合、起こります。
    過去問の実際の得点が40点なのを60点にしていることに、気づかない。
    20点を40点にしていることに気づかない。
    そういうことは、起こります。
    見る側が、まさかそこまで低いと予想していないからです。

    そんなことをしてはダメだ。
    解答を見て過去問を解いて、良い点を塾に申告して、高い志望校を受験しても、合格しない。
    毎年、その話を生徒にしました。
    私の話を理解した子もいたと思います。
    それでも、理解しない子たちは、取れるはずのない得点を自己申告し、受かるはずのない高校を受けて落ちていきました。

    下位クラスの生徒たちには、そもそも都立の過去問を見ても、何をどのように解くのか見当もつかないのだろう学力の子たちが含まれていました。
    国語や英語は、問題文を読み通すことかできないので、設問だけ読んで、適当に答を選ぶだけ。
    理科や社会は、知識を頭に入れていないので、これも勘で選択肢を選ぶだけ。
    数学は、計算問題だけは何とか解くことができるが、計算ミスが多い。
    そんなふうでも、都立は四択問題が多いので、勘で答を埋めることはできます。
    勘で解いているのが常態なのですから、解答解説を見てその後に選択肢を見て解くことに罪悪感は抱かなかったのかもしれません。

    あるいは、これも勉強ができない子に特徴的なことですが、解答を見て解いても「自分で解いた」と思い込み、記憶をそのようにすり替える子もいたと思います。
    ちょっと解説をヒントにしただけだから。
    考えたのも計算したのも自分だから。
    調べものをしたのと同じことだから。
    そのように考えてしまうのでしょうか。
    解答解説を見ることに、罪悪感がないのです。
    そんなことよりも、低い得点を自己申告するのは恥ずかしい。
    それなりの得点を取っているように見せかけたい。
    そんなふうに考えていたのでしょうか。

    都立の入試問題は、問題文はくどくて長いですが、難問ばかり並んでいるというわけではありません。
    どの科目も、難しい問題も多少ありますが、基礎的な問題が大半です。
    基礎的な問題を丹念に正解していければ、得点は整います。
    その塾の下位クラスの生徒は、それができない子が多かったのです。

    下位クラスの子が都立入試問題を解けなかった理由は、きわめて単純でした。
    勉強していなかったからです。
    授業を聞いて理解した気になっても、それはそれだけのこと。
    「解説を聞いてわかる」ことと「問題が解ける」ことは、似ているけれど別のこと。
    宿題をやってこない。
    あるいは、塾に来る直前にやっつけ仕事で宿題を解くだけ。
    日頃から、学習姿勢が受け身でした。
    勉強のこと。
    成績のこと。
    将来のこと。
    嫌なこと、恐ろしいことからは、目を背け、考えないようにしている。
    そんなふうに見えました。


    今年度のうちの塾の中三の受験生を見ていると、あの頃の下位クラスの子たちのことを思い出します。
    うちの塾では、例年、都立の社会や理科は簡単に70点、80点台に上がります。
    「これとこれを覚えて。テキストのここのページは全部覚えて。それから、これとこれをやって。これを解き直して」
    例年、そのように指示を出せは、簡単に成績が上がりました。
    都立の社会と理科はもっとも楽に挽回可能な得点源。
    私はそのように把握してきました。
    それが、今年は、全く伸びませんでした。
    そして、表情が、あの頃の下位クラスの子たちによく似ているのです。

    「毎日、勉強していますか?」
    「しています」
    「毎日、何時間?」
    「1時間半くらい・・・」
    「・・・受験生が?」

    また、あるとき。
    「昨日は理科をやりました」
    「え・・・?昨日は理科しかやらなかったの?」
    「え」
    「1日に1科目しか勉強しないの?1科目の勉強なんてそんなに集中力が続かないから、長くて1時間ちょっとくらいですか?それで、1週間の平日に1科目ずつ5教科勉強して、土曜日は塾の土曜教室で、日曜日は模試を受けるか、そうでなければ模試の復習。そういうスケジュールですか?」
    「まあ・・・」
    「あなた、大丈夫ですか?」
    「・・・」
    「1週間に1回ずつ1科目を勉強するだけですか。それで、1学期にはわかっていたはずの平方根の記憶が全部消えてしまって、何をどうしていいか、今わからなくなってしまったんですよね」
    「・・・」
    「理科も社会も、覚えなさいと言ったことを何1つ覚えていないですよね。1週間に1回では、覚えたこともすぐ忘れて、何も残っていないですね?」
    「覚えようとしているけれど、覚えられないんです」
    「1週間に1回しか勉強しないからじゃないんですか?」


    かなり遅いとはいえ、冬期講習前にこうしたことがわかって良かったです。
    こんなひどいやり方をしていながら、本人はしっかり受験勉強をしている気でいたのです。
    個別指導をしていてすら、こんなにも遠い。
    生徒が実際に家で何をやっているのかは、わからない部分があります。
    勉強のできる子たちは、勉強のやり方を知っています。
    しかし、勉強が苦手な子たちは、勉強のやり方そのものを知らないのです。
    あるいは、教えられても、そのやり方には忍耐が必要で、頭が重くなって苦しくて嫌なので、避けてしまうのです。


    あの頃、下位クラスの子たちは、受験前の秋から冬に、何をやっていたのでしょうか。
    本人は勉強しているつもりで、勉強の周りをふわふわ回っているだけのような、意味のないことを繰り返していたのでしょうか。
    勘で問題を解き、丸つけするだけ。
    教科書を眺めるだけ。
    教科書や参考書を丸写しするきれいなノートを作るだけ。
    何1つ頭に残らない「作業」を「勉強」と称していたのでしょうか。
    あるいは、それすらできず、1日1日を無駄に過ごしてしまったのでしょうか。
    そうして、そのまま、受験当日を迎え、詐称した自己申告の得点ならば合格できるはずだった高校を受けて、当たり前だけれど落ちて・・・。

    都立に合格することだけが成功ではありません。
    行くことになった私立高校には併設の短大もあり、そこで資格を得て、今は立派に働いている。
    そういう卒業生も多いと思います。
    一方的に憐れむのは、むしろ私のおごりというものでしょう。

    でも、あのときに戻れるのなら。
    あの子たちに言えることが他にあったのではないか?
    それを、今、私は目の前の生徒に言えているか?
    できることをしているか?

    そうしたことを繰り返し思う冬期講習でした。

      


  • Posted by セギ at 14:34Comments(0)講師日記

    2022年12月22日

    使えるノート作り。


    3年ほど前、三頭山に行くバスの中でのこと。
    混雑したバスの中はグループごとのおしゃべりでアナウンスが聞こえにくいほど賑やかでした。
    その中で若い女性2人の話し声が、私の近くの席だったこともあり、特によく聞こえてきました。
    話の内容から察するに、2人とも学校の先生のようでした。
    せっかく日曜日に山に遊びに行くのに、話の内容は教育論。
    それで気分転換になるのかなあと心配になるのですが、学校で意見を通すにはまだ若過ぎるので、対等に教育論を交わせる相手ととことん話すのは、ある意味ストレス解消なのかもしれません。

    その中で、興味をひかれた会話がありました。
    「成績の悪い子って、ノート、きれいだよね」
    「何であんなにきれいにノートを作って、あんなに成績悪いんだろうって思うよね」
    「ノート作りが目的になっちゃっているんだろうね。違うのにね」

    学校の先生が、そんなことをバスの中で大声で言う是非はあるかもしれません。
    でも、生徒のことを心配して言っている気持ちは本物だと思うんです。
    私も実感として知っています。
    ノートがやたらにきれいで勉強ができない子は一定の割合で存在します。

    以前、勤めていた集団指導塾でのこと。
    明日は定期テストという子ばかりだったので、普段の授業は中止し、自習に切り替えていた日のことでした。
    英語や数学は、テスト前日は最終チェックと微調整をすればいいだけなので、テスト前日は、案外やることがありません。
    生徒も、理科や社会の勉強をやりたがります。
    自習している様子を見ていると、ある女子生徒が、ノートに、それはそれは精密な細胞の図を描いていました。
    教科書に描いてある通りの、動物細胞と植物細胞の図です。

    「それ、何にするの?」と訊くと、
    「明日の1時間目は自習だから、これを見て、覚える」
    と言うのです。
    覚えるのなら、今、教科書を見て直接覚えたらいいのに、彼女は図を描くのにとにかく夢中なのでした。

    覚えるためのノートを作らないと覚えられないという人は、います。
    しかし、それは少なくともテスト1週間前には完成させておくものです。
    それを見て暗記するのに、また時間がかかりますから。
    テスト前日に精密な図を描いているのは、学習として疑問です。
    覚えることが最優先のはずです。
    きれいなノートを作ることは勉強の目的ではありません。

    他の子が、理科のプリントが欲しい、と言いだしたので、私は全員にテスト範囲の一問一答形式のプリントを渡しました。
    幸い、その子もプリントを受け入れてくれたのですが、今度は手が動きません。
    テスト範囲の重要事項や用語をまとめた、簡単なプリントでした。
    なのに、1問も解けない様子です。
    しばらくして解答を渡すと、彼女はプリントに解答を丁寧に写し始めました。
    オレンジ色のペンで、丁寧に、丁寧に。
    「これに赤シートをかけて、覚えるんだー」

    ・・・テストは明日でした。
    覚えるのなら、今覚えたらいいのに。
    しかも、そのプリントは、問題部分と解答欄とは別枠になっていて、解答欄を隠すか折るかすれば、すぐにテスト形式で解き直すことができるものでした。
    オレンジ色のペンに赤シートをかける意味などないのです。

    その子以外にも、そういう子はいます。
    ピンクとオレンジのペンで正解を書いておいて、赤シートをかける。
    その勉強法は間違っていませんが、それは、問題文中の空所に書き込むタイプの問題で行うことです。
    解答欄が右端に別枠であるプリントならば、そんなことをする必要はないのです。
    1度自分でシャーペンで書いた答を全部消して、オレンジのペンで書き直す子もいますが、プリントの形式によっては、そんなことは不要な作業。
    その見極めができないようなのです。

    「良い勉強法」をどこかで見たか友達から聞いたかして、実践している。
    でも、その良い勉強法の何が良いのか、本質が理解できていない・・・。
    そんなことを心配してしまいます。


    ノートなんか作っていないで、とにかく覚えましょう。
    何も覚えていない状態で問題を解いても、あてずっぽうになってしまうだけです。
    まずは理解し、暗記する。
    問題を解いてみる。
    間違えたところをチェックして、覚えなおす。
    問題を再度解く。

    こういう当たり前の勉強方法を、知らない子は多いです。
    あるいは、知っているのかもしれません。
    でも、その勉強方法は、その子にとっては、とても苦しいのでしょう。
    なかなか覚えられない自分。
    問題を解けば、間違いだらけの自分。
    ダメな自分。
    そういうものと向き合う作業になります。

    それは、どんな秀才だって、最初はそうなのです。
    訓練しているから、そういう作業が速くスムーズになっているだけです。
    でも、その子は、それを知らない。
    あるいは、そう説明されても信じない。
    そういう作業に、立ち向かえない。
    逃げてしまって、頭を使わない作業ばかりしてしまう。
    ほとんど頭を使っていないただの作業を「勉強」と称してしまうのです。
    やけにきれいなノートを作ったり、解答を見ながらプリントに答えを埋めたりと、何か作業はしているけれど実質的な勉強はしていない子が、勉強のできない子には多いと私も思います。


    また別のとき。
    英語の勉強の仕方がよくわからないと高校生から質問を受け、その子のコミュニケーション英語のノートを見せてもらいました。
    新課程では、英語コミュニケーションと科目名が変更されている科目です。
    見た瞬間に、これは使えないノートだ・・・とため息がもれました。

    まず教科書の英文をノートに3行おきに書いてあります。
    その英文の真下に、和訳が書いてあります。
    英文中には、学校の授業中に説明のあった文法事項や指示語の指示内容などがカラフルに書き加えてありました。

    え?
    良いノートじゃないかって?

    ・・・いいえ。
    そのノートを、その後、何に使うのでしょう?
    テスト前に繰り返し眺めるだけでしょうか?
    眺めるだけで、どうするのでしょうか?
    本当に覚えているかどうか、そのノートで確かめられるのでしょうか?

    それを考えると、そのノートの体裁はベストではないのです。

    ノートの見開き左側に英文。
    右側にその和訳。
    日本語と英語は、分けて書くほうが、使えるノートになります。

    そういうノートの形式を指示しますと当たり前に感じ、「何だ、古臭いな」という声もあるかと思います。
    これを古いと感じる人は、このノートの古い使い方をイメージしているのでしょう。
    とにかく教科書の英文をひたすら書き写し、その和訳を右ページに書くのが英語の予習の全て。
    高校の英語科目が「グラマー」「リーダー」「コンポジション」と呼ばれていた時代の、「リーダー」のノートの取り方ですね。
    そして、その昔、学校のリーダーの授業は、生徒の1人に英文を1段落音読させて、続いて同じ生徒にその1段落を訳させる、眠くなるばかりの授業でした。
    テストは、新出単語を書く問題の他は、本文の下線部の和訳ばかり。
    あの英語の授業もテストも、つまらなくて嫌いだったなー。
    あれで英語が嫌いになった。
    ・・・そんな声も聞こえてきそうです。

    ノートはそれと同じ見た目かもしれませんが、やることは英文を見て、和訳を覚えること、ではありません。
    逆なのです。
    和訳を見て、教科書本文の英文を復元する作業をします。
    余裕がないなら、重要表現や重要文法事項の含まれている文だけでも。
    余裕があるなら、本文全文を。

    テスト前だけではなく、日々、繰り返し繰り返しその作業を行っていて、英語コミュニケーションの成績が悪いわけがありません。
    最も負荷がかかるけれど、最も身につく勉強です。

    家庭学習で行うことは他にもあります。
    教科書準拠の音源で、教科書本文の朗読を聞いて、内容が聴き取れるか確認します。
    次に、その音源と一緒に音読。
    最初は教科書を見ながらでもいいですが、最終的には何も見ないで後について正確に言っていけることが目標です。
    それを、シャドーイングといいます。

    和訳を見ながら教科書本文を書く作業も、せめて重要文だけはやっておきたいです。
    それも、英文と和訳が左右に分かれているノートであるからこそ、すぐにその作業に移れます。

    あるいは、新出単語のスペル練習。
    これも、自分で単語テストをすぐできるように、英単語とその意味を分けて書いておくと活用しやすくなります。

    学校がワークを配ってくれていたら、ありがたい。
    どこが重要であるか、ワークの問題を解くことで理解できますから。

    英語の家庭学習は、やるべきことが沢山あります。
    しかも、これは「英語コミュニケーション」の学習にしぼっての解説であって、「論理・表現」の学習がこれにさらに加わります。

    ノート作りは、家庭学習をスムーズに行うためのもの。
    ノート作りが目的ではありません。
    ノート作りよりも覚えたり問題を解いたりすることにこそ時間を使いたい。
    だから、学校から禁止されていない限り、英文は教科書をコピーしたものをベタっとノートに貼っても良いのです。
    新出単語をいちいち辞書で引くことの意義はわかるものの、それに時間を取られ、それが英語学習の全てになるくらいなら、教科書準拠の単語集を購入し、それをささっと写しても構わないと思います。
    ただ、その浮いた時間で必ずその単語を覚えましょう。
    品詞も含めて正確に。
    派生語も覚えておくと完璧です。

    私の塾では、一度本人に口頭で教科書本文の和訳をしてもらった後、私から全訳を渡しています。
    学校から全訳が配られている場合も今は多いです。
    英語学習に対する考えが、学校も変化しています。
    調べものや単なる作業の時間をできるだけ減らし、英語をインプットし活用する時間を増やす方向に動いています。


    ところが、調べものや単なる作業が「勉強」である子の中には、全訳プリントをもらえるのなら予習する必要もないから、家では英語は勉強しない・・・という方向に流れてしまう子もいます。
    学校のテストでも、和訳は要求されないので、単語の意味も覚えない。
    勿論、音読や暗唱といった、形に残らない勉強はしない。
    学校から単語集を別に与えられ、毎週単語テストも行われているけれど、その勉強もいい加減。
    英語ができなくなる方向ばかり自ら選択してしまう子も今は多いです。

    日本語を見て英語を復元する学習方法は、英語学習の最初からそれをやっていれば、抵抗は少ないのです。
    教科書本文は徐々に長くなっていきますが、長年の継続の中で徐々に長くなっていったものには耐えられます。
    しかし、中3、あるいは高校生になって、突然この学習方法に切り替えると、最初はひどく苦しく感じると思います。
    苦しいことからは逃れたい。
    どうやって逃れるか?
    「こんなことをやっても意味がない」と理論武装する子がいます。
    本人が効果を実感し、積極的にこの学習方法を取り入れるまでは、このやり方を受け入れてほしいこちら側と、何とか否定したい生徒側との闘争が続きます。
    本来、英語が得意になりたいと望んでいるのは生徒のはずですが、その生徒自身が最大の障壁となることがあります。

    水は低きに流れる・・・。
    嫌な物言いですが、一面真理ではあるのでしょう。
    教科書全訳はちゃっかり受け取り、サブテキストの全訳もほしいと要求するけれど、その和訳から英語に直す練習はしない。
    音読練習もしない。
    英語を理解するのではなく、全訳を見て、書かれてある「お話」を理解して、それで英語の勉強をした気になってしまう。
    初見の長文問題を宿題に出しても、「わからなかった」と言って、解いてこない。

    「英語にそんなに時間はかけられないから」
    とうそぶく一方、スマホを眺める時間は1日2~3時間。

    時間の使い方が根本的に間違っています。
    スマホをいじる1時間を毎日英語を勉強する1時間に変えるだけで、英語力は変わります。
    勿論、そのときの「勉強」は「作業」ではなく、本当の勉強をしてください。


      


  • Posted by セギ at 13:04Comments(0)講師日記英語

    2022年12月09日

    伸びる学習、伸びない学習。


    少し前から、勉強が苦手な子たちの中に、会話が成立しない子が増えていると感じてきました。
    根本の学力が低いというのではないのです。
    ただ、言語能力は低い。
    人の話を聞くのが苦手で、まだらにしか話を聞いていない様子で、解説を理解できないのです。
    それでいて「わからない」と言うこともできない様子です。
    さあ問題を解いてみましょう、と声をかけると、慌ててテキストの例題解説を読んでいたりします。
    「今、解説しましたよね」
    と言いたいのを我慢して様子を見ていると、例題解説を読むのにも苦労している様子です。
    文字を読むのも苦手で、テキストの解説や例題も、斜め読みや飛ばし読みしかできない。
    学習にアクセスする手段を本人が持たないのです。
    問いかけても、こちらが期待するような返事はなかなか返ってきません。

    だから、1度は普通に解説をし、さて問題を解くという段になって、本人がテキストの例題解説を読んでも理解できずに首を傾げるようになってから、ゆっくり問いかけます。
    「もう1度解説しましょうか?」
    それに対しても、反応があるまで時間がかかります。
    本人なりに悩んでいるのでしょう。
    例題解説を読めば理解できるのか、理解できないのか。
    その判断も上手くできない。
    もう1度解説を聞いたら理解できるのか、理解できないのか。
    それも判断できない。
    しばらく待ってから、返事はないままもう1度解説します。
    それでも、理解できないこともあります。
    さらにもう1度解説します。
    2度手間、3度手間は、今は普通のことです。
    それでも、理解してくれれば上出来なのです。

    例えば、中3数学の「三平方の定理」をなかなか理解できない子がいました。
    説明しても理解できない。
    本人がテキストの解説を読んでも、理解できない。
    普段から言葉が通じにくいとは感じていましたが、三平方の定理を理解できないというのはかなり珍しいので、どうしたものかと思案していると、本人が突然叫びました。
    「あ、直角三角形?」

    いやいやいや。
    最初に強調して説明しましたよ?
    途中でも、何度もそう言いましたよ?
    何で聞いていないの?

    最初に聞き逃して、勘違いしてしまうと、後は音声情報も文字情報も本人に届かず、なかなか訂正できないようなのです。
    まだらにしか聞いていないので、常に誤解しやすい。
    これは大変だ。

    言語的アプローチが難しい。
    そういう子たちのために、マンガや動画を多用した教育ツールや、ゲーム感覚で勉強できるアプリなどが作られるのは結構なことだと思いますが、さて、その先、その子たちはどうするのだろうと考えると気持ちが暗くなります。
    就職した先で、上司は、マンガや動画で面白おかしく仕事を説明してくれるのだろうか?
    アルバイトならば、そういう研修もありそうだけれど・・・。
    ・・・所詮、アルバイトしかできない人材だということ?
    人の話を聞けないし、文書も読めないのだから、それは仕方ないことなのか・・・。

    しかし、人の話を聞けないし、文書も読めないのは事実ですが、辛抱強くアクセスし、本人が理解できれば、どの科目の問題も解くことができるのです。
    頭が悪いわけではないのです。
    これは、勿体ない・・・。
    そういう生徒を目にするにつけ、やはり根本の、人の話を聞くことができて文書を読めるようにすることが必要だと思うのです。
    その補助として他のツールを活用するのは、それは良いことですが。


    言葉が通じにくいということは、授業態度の貪欲さにも影響するようです。
    「これはテストに出ますよ」
    そのように言えば、秀才たちは食いついてきます。
    しかし、言葉の通じにくい子たちは、興味なさそうなのです。
    相手の言葉が理解できないという面の他に、相手の言うことを理解できても重視しないという面もあるのかもしれません。
    言葉が通じにくいからなおさらそうなるのかもしれませんが、本人の中で何か完結しているような気配があります。

    「テストに出る」というのは、その学校の定期テストの過去問を集めて分析して、といったちまちました対策ではありません。
    大事なことがテストに出る。
    絶対に身につけるべきことがテストに出る。
    そういう観点で話しています。
    その上で、出題傾向というものもありますから、短問形式はこういう内容が出ることが多いからそれは沢山練習して、後半の大きい問題はこの典型題か、もしくはこれだろうから重点演習して、というやり方をしています。
    それでも、興味なさそうなのです。

    私の言うことを信用していないからなのか?
    これは半分はそうで、半分はそうではないのではないかと思います。

    私が「テストに出るよ」といった問題が実際に出て、
    「ほら、この問題がやっぱりテストに出たでしょう」
    と言っても、愛想笑いはしますが、その次のテストでは、また同じことの繰り返し。
    証拠を示したところで、信用するわけではないのです。

    言葉が通じにくい子、勉強ができない子にも、テスト対策に対して、それなりの持論はあります。
    言葉で上手く説明することはできないでしょうけれど、漠然と思っていることはあるはずです。
    その「持論」が頓珍漢だからテストの点数が低いのですが、本人はその「持論」を変えるつもりがない。
    だから、その「持論」とは相容れない私の「テストに出るよ」は受け入れない・・・。
    そういうことではないかと思うのです。

    例えば、本人にとって非常に難しいと感じる問題は、
    「難しいから、こういうのはテストに出ない」
    という持論。

    前にも話しましたが、例えば高校数学で、x 以外の文字が多用されているような問題は、
    「こんなのは自分の思う数学ではないから、テストには出ない」
    という持論。

    もっとも恐ろしい「持論」は、本人は、自分のことをそれほど勉強ができないとは思っていない・・・。
    だから、改善する必要はない。
    自分の考えていることが正しいのだという「持論」。

    伸びない子は、
    「自分はどうせ勉強はできない」
    と諦めている子ばかりではありません。
    現実を直視せず、
    「自分はそれなりに勉強はできる」
    と思っている子のほうが今は多いように感じます。
    だから、「持論」を捨てられないのではないか?
    言語によるアプローチの難しい子たちも、自分の能力を低いとは思っていないようです。
    むしろ、日本中の同学年全体の中では上の下くらいには位置していると思っているのかもしれません。
    言語能力の低さは自己評価の低さにはつながりません。

    ただ、現在の本人の、
    「自分はそれなりに勉強ができる」
    は誤解ですが、将来その子が伸びる可能性があるのは事実です。
    妄想を現実に変えていくには、では、どうしたらよいのか?

    変な癖はある。
    だが、理解力もある。

    言語能力の低さを改善したいという要求すら本人にはない。
    しかし、これは何とかしなければまずい。
    頭の働き自体はむしろ良いほうかもしれず、それだけは事実なのですから。
    手さぐりしながら、その子が取るべき本来の得点を取ってもらう。
    そのように努力している途中です。

    そう簡単なことではありません。

    伸びる子の指導は楽なんです。
    例えば、今、うちの塾で圧倒的に数学のできる子は、入会当初は、判別式のD/4を使えませんでした。
    「全部 Dでやればいいかと思って」
    「・・・うん。でも、D/4で計算したほうが数字が小さくて済むので計算が楽ですし速いですよ」
    そのような会話を1度交わしました。
    その次の授業からは、その子は、D/4を完全にマスターしていました。

    1度の助言で完全マスター。
    これほど楽なことはありません。
    一方、言語能力が低く、成績がなかなか伸びない子たちは、一様に、D/4を覚えません。
    助言をしても覚えないし使わないのです。

    Dで計算しても、いいんです。
    それが間違いなわけではないんです。
    でも、D/4で計算したほうが楽だし速い、という助言を聴き流す子たちは、一様に数学が苦手です。
    D/4の公式を覚えることがつらくて、覚えられないのか?
    Dでも済むものを、D/4までいちいち覚えるのは無駄だと独自の判断をしてしまうのか?
    そんなのどうでもいいやと聴き流してしまうのか?
    使ったほうがいいとは理解しているが、問題を解くときになると忘れてしまってDを使ってしまうのか?
    D/4で計算したほうが楽だし速い、という解説を、そもそも聴いていないか理解していないのか?

    ことはD/4の話に限りません。
    これは氷山の一角です。

    言葉が通じにくい。
    そもそも理解するのに時間がかかる。
    そして、理解しても、受け入れない。
    助言を聞き入れない。

    助言が結局すべて言語による伝達であることを思うと、言語能力に課題のある子の指導の難しさを改めて思います。
    私がアニメキャラクターになって、
    「D/4を使える子は、数学の成績が上がるよ」
    とアニメ声で伝えれば、彼らの心に届くのでしょうか。
    いやいやいや・・・。


      


  • Posted by セギ at 14:10Comments(0)講師日記算数・数学

    2022年10月10日

    メンタルの弱さ


    2~3年前のこと。
    授業中に、私のスマホにメッセージが入りました。
    電話番号で入力できる、ショートメッセージでした。
    「お客様がご利用の口座が不正利用されている可能性があります。口座一時利用停止・再開手続き」
    と言う内容で、銀行名とサイトのアドレスが示されていました。

    うわあ・・・。
    偶然、ちょうどその日、授業の前に銀行に行き、教室の家賃を振り込んだばかりでしたので、それに関連して何か起きたかと一瞬思ってしまいました。
    しかし、こういうのは、大抵は詐欺。
    こんなアドレスをクリックしたら大変なことになる。
    落ち着いて、落ち着いて。

    とりあえずそのままにして、生徒が解いている数学の問題を一緒に解こうとしたのですが、問題文が何を言っているのか、全くわかりませんでした。
    内容を読み取れないのです。
    問題と自分との間に透明な膜が張られたようになり、問題にアクセスできない。
    意味を読み取れないのです。
    え、そんなバカな。
    何でこんなにわからないの?
    やばい、やばい、やばい・・・。

    理由は明白。
    読んでしまった詐欺メッセージのせいでした。
    詐欺だろうと思っても、そうした見知らぬ他人からの悪意が自分に向けられたことも含めて動揺してしまう・・・。

    私はもう一度スマホを取り出して、メッセージを眺めました。
    そして、気づきました。
    書かれていた銀行に、私は口座を持っていませんでした。
    だから、これは明らかに、詐欺です。
    最初に読んだとき、そんなことにも気がつかなかった。
    それほど文面に動揺してしまったのです。

    そうとわかって、問題を見直した瞬間、透明の膜はすっと消え、問題文は意味をもって読み取れるようになりました。
    完全にいつも通りとはいきませんが、何とか問題を解いていくことができました。

    あのとき、私は、生徒がケアレスミスを連発する精神状態や、テストのときに数学の問題が全くわからなくなる状態とはどのようなものなのか、体感できた気がします。
    あの精神状態で数学のテストを受ける恐ろしさが、垣間見えた気がしました。
    努力でどうにかなるとか、落ち着けばいいとか、そういうレベルのことを超えていました。
    落ち着けば良いことくらい、本人が一番わかっているのです。
    でも、頭がグラッとなって、精神を全てもっていかれたようなあの感覚。
    あれでは、問題は解けないです。

    メンタルの弱い子は、テスト中、あんな精神状態でテストを受けているのかもしれません。
    もしそうならば、実力を出せないのは無理もないと実感しました。
    メンタルの弱い人は、少なくともテストで「自己最高のパフォーマンス」を発揮するのは難しいでしょう。
    持っている力を出し切ることはできません。
    究極、「持っている力」のレベルを最大限に上げておく以外の対策はないのではないかと思います。
    何でそんなにメンタルが弱いのか?
    どうしたらメンタルは強くなるのか?
    それは、私の専門ではなく、別方向のアプローチが必要なことではないかと思います。


    また別の話。
    生徒の英語の模試の結果がひどいものだったことがありました。
    私はさすがに首をひねりました。
    英語が得意な生徒というわけではないけれど、ここまでひどいとは思っていなかったからです。
    「どうしました、これ?」
    と尋ねると、突然、爆弾的な告白がありました。
    「この前の学校のテストで時間が足りなくて、それから、どう解いていいのかわからなくなって、問題を読まないで解いた」
    と言うのでした。

    そうした爆弾発言を後になって言い出すことが以前もあった子でした。
    過去の爆弾発言の1つは、中3の都立入試対策で理科を教えていたときのこと。
    模試の結果を見ると、「電流」に関する大問が全滅でしたので、
    「どうしました、これ?この間、電流は復習したばかりですが」
    と尋ねたところ、やはり、爆弾発言が飛び出しました。
    「電熱線って、何ですか?」
    「・・・え?」

    復習したときは、電熱線を使った実験に関する問題を普通の顔で解いていたのです。
    全部正答というわけではなかったけれど、それなりに理解している解き方でした。
    電熱線が何かわからなかったのなら、なぜ、そのときに質問しなかったのでしょう。
    なぜ、模試で悪い結果が出てから、そんなことを言い出すのか?
    「電熱線って、抵抗なんですか?」
    「はい」
    「抵抗って、何ですか?」
    「・・・」
    中3都立対策の理科の授業は、そのような根本から解説するものではなく、都立でよく出題される問題の解き方が中心の実践的なものでした。
    そういう都立対策の授業がわからないとは、一言も言わなかったのです。
    なぜ、模試を受けた後になって、そんなことを言い出すのだろう?


    防衛的な言い訳をしているだけで本当のことではないのではないかと疑うほど、後になって爆弾発言をする・・・。
    「怒られる!」と思った瞬間に、こちらの怒りを逸らす爆弾発言をしてしまうのではないか?
    そのような疑いが私の中にうっすらと広がりました。
    ・・・いや、別に、模試の結果が悪くても、怒らないのです。
    それよりも、事実を分析したいのですが。

    こういう子の恐ろしいところは、家庭で、模試の結果について親に詰め寄られたときに、
    「塾の授業がわからない」
    と爆弾発言をする可能性があることでした。
    それが保護者にとってある種のリアリティをもったとき、一気に退会に進みます。
    怖い。


    テストのときにひどく動揺するのとはまた別の、これもメンタルの弱さが原因のことなのかもしれません。
    わからないことがあるとき、その場では質問できないのです。
    「わかりますか?」
    と問われると、わからなくても、にこにこと笑顔でうなずいてしまうのでした。
    「何か質問はありますか」
    と尋ねられも、何も質問しない。
    その場での講師との摩擦を避けたいからなのでしょうか。
    自分の能力を知られたくないという防衛的な気持ちも強かったのかもしれません。
    こんなことを質問したら、呆れられるのではないか?
    そう思うから、質問するべき時点で質問しない。
    そして、失敗へと突き進んでいきます。
    大失敗の結果が出た後で、自分の責任を問われそうになると、言い訳をする。
    それが、私には爆弾発言に見えてしまっていたのでしょう。
    そんなことは、早めに言いなさいよ、
    ということになってしまう・・・。

    この種の爆弾発言は、講師も被弾しますが、生徒本人の人生も破壊します。
    電熱線とは何であるかさえ、わかっていなかった。
    テストでは時間が足りないから、英語の長文問題は本文を読まないで解くことにした。
    しかも、それを自分からは言わない。
    追い詰められと、突然言い出す。


    対照的な子もいました。
    さらに何年も前、同じ理科でも、
    「酸化銅水溶液は、酸性。青いから」
    といった謎発言を繰り返していた子がいましたが、どれほど理解不足でも、そのようにその場で口に出し、納得できないうちはテコでも動かないという姿勢を崩さない子でしたので、驚異的な伸びを見せ、都立自校作成校に合格していきました。
    そして、生徒がそのように理解しない姿勢をはっきりと示すとき、個別指導ならば、生徒と講師の力関係は生徒が圧倒的に強いのです。
    理解させられないのは、講師が悪いんですから。
    胸を張って頓珍漢なことを言い続けたらいいのです。


    でも、それができない。
    そういう意味で、メンタルが弱い。
    そのメンタルの弱さに、私は寄り添う必要がありました。
    そうしなければ、成績は上がらないのです。
    同時に、
    「テストで時間が足りないから、本文を読まないで解くことにした」
    といった間違った判断をしてしまうことも、寄り添って解決していく必要がありました。
    その子は、愚かだから、弱かったのか。
    いいえ。
    弱いから愚かだったのだと思います。

    誰もが、独りで正しい判断をできるわけではありません。
    社会に出てからも、周囲に早めに報告や相談をすれば、追い詰められずに解決できることは多いでしょう。
    どんなにメンタルが弱くても、それはできるようになってほしい。
    そのためにも、自分のメンタルの弱さに他人は寄り添ってくれるものなのだという記憶は必要なのだと思います。


    薄氷を踏むような思いの中、その子は何とか志望校に合格し、卒業していきました。
      


  • Posted by セギ at 14:12Comments(0)講師日記