2023年07月30日
読み取りにくい英語長文を読むとき。

大学入試過去問の英語長文読解問題を生徒に宿題とし、そのため自分も読むことが多いですが、
「これは読みにくいな」
と感じる長文もあります。
例えば、こんな一節。
Another interesting idea Sue discusses is Damasio's hypothesis that we have body reactions or "body-centered markers" that link certain thoughts with emotional states, making them unpleasant, and focusing us on thoughts that are more acceptable.
1文の中に関係代名詞節が多用されています。
主語にも補語にも。
そして、補語を説明するthat節の中に、さらに関係代名詞節による修飾がされています。
これは読みにくい・・・。
しかも、こういう文章を書く人は、語る内容も抽象的でわかりにくいことが多いのです。
訳してみましょう。
「スーが論じているもう1つの興味深い考えは、私たちは身体的反応や肉体を中心とするマーカーを持っており、それらがある種の思考を心の状態と結びつけ、思考を不快なものにしたり、より受け入れやすい思考に私たちの意識を集中させる、というダマシオの仮説である」
・・・どういうこと?
先日、生徒とこの長文の宿題の答えあわせをしました。
その生徒は、問題8問中、7問正解していました。
誤答の1問を解説して次に進もうとしたところ、その生徒がこうつぶやきました。
「正解しているけれど、文章の意味がわからない」
「・・・」
これは、その子が実際に受験するわけではない大学・学部の入試問題の過去問でした。
そういう演習をできるレベルに達している生徒です。
そのレベルの生徒になりますと、私の授業も実践的になります。
とにかく、どうやって正解したらいいのか。
訳のわからない英文を読まされて、それでも設問に正解するには、どうするのか。
どうやってその英文の要旨をつかみ、同時に些末なところは訳がわからなくても無視して、正解を出していくか。
そういう、入試に向けての演習となります。
大学入試問題は、問題文の英文がわかりにくい場合、それに反して設問は平易なことが多いです。
細部はよくわからなくても、各段落のわかりやすい文をしっかり読み、文脈を把握すれば、正答できます。
くどくどと何か言っているけれど、実際どういうことなのかよくわからないし、文脈全体にも実はさほど影響しないところは、ざっくりと読み捨てることが可能です。
そうした英語長文問題を読む技術もよく身についている生徒です。
この英文にタイトルをつけるとしたら、という四択問題も正答していました。
だから、それでいいといえばいいのですが、何だかモヤモヤが残る・・・。
読んだ気がしない。
「・・・大丈夫ですよ。この文章は、日本語で書いてあっても、何が言いたいのかよくわからないですから」
生徒は、少しほっとした顔になりました。
実際、上の文はキーセンテンスという訳ではなく、放り投げるように述べられるのみで、それをかみくだいた解説はされないのです。
例えば、「肉体を中心とするマーカー」というのは何であるのか、前後を読んでも、何も説明されていませんでした。
すぐに次の話に移っていきます。
こういう、放り投げるように訳のわからないことを書く人はいるので、無視していいと、私は思います。
どういうことなのか、読者にわからせる意図があまりないように感じます。
上の文の後に続く英文を日本語にすると、
「このことがきっかけで、好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制について彼女は考えるようになった」
となり、上の文の意味はわからなくても話は先に進んでいくのです。
そして、その先、「好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制」ということの意味も語られることなく論理は進んでいきます。
ひと言書いたからもういいだろうとでもいうように、話はどんどん先に進んでいくのです。
何でこんな英文を入試に出題するのか。
それは、こういう英文にそれでも爪を立てることができる学生を欲しているということなのだと思います。
読みやすい文章しか読めない学生は要らない。
それは、わからないでもありません。
今や、日本語で書いてあるものですら、読みやすい文章しか読めない子もいます。
読みやすいことが何よりも大切であるとする価値観も存在します。
それもまた愚かなことです。
しかし、わかりやすく語れることを、わざわざ難解に語るのも、くだらない。
難解なだけの文章など、受験テクニックで読み流してやればいいと、私は思っています。
著者の張る無駄な煙幕は無視する。
些末なところは、そもそも、読まない。
とはいえ、私は個人的には読書が好きなので、読むのなら読む価値のあるものを読みたいという気持ちがあります。
せっかく英語力のついた生徒と英文を読んでいるのだから、受験テクニック中心の解説授業の後でも、この文章は面白かったね、と感想を語りあえるような英文を読めるのなら、そのほうがいい。
そんなことを思っていたとき、これは日本語で書かれた随筆を最近読みました。
大江健三郎『定義集』。
2012年に出版された本で、そのときに購入したのですが、積んでおくだけの本も多い私は、11年経って、ようやく読み始めました。
その中の一節に、英語学習の仕方についての文章がありました。
翻訳の文章は頭に入りにくいものがある。スッキリ理解するために良い方法はありますか、と著者は若い人に質問されたというのです。
以下、上の『定義集』から引用します。
ある、と私は答えました。きみは英語が読めるはず。英語の原書からの翻訳で考えよう。私の自己流のやり方が役に立つと思います。翻訳を読んで面白く思うところは赤鉛筆で囲む。わかりにくいと感じれば、青鉛筆で。
これを習慣にする。なかでとくにしっかり読みたい本の原書を、大きい書店かアマゾンで手に入れる。それからまずやることは、もう一度翻訳を読んで、囲ったところを原文で写す作業。それをやるうち、自分の語学力で読みとれる本であるかどうかはわかる。初めは易しく感じられる本がいい。それをやる段階で、きみは面白く、大切だとも感じた箇所を、原語で読み直す喜びをすでにあじわっている。
さてこれからきみは、本腰を入れていくことになる。翻訳の青線部分を何度もゆっくり読む。続いて写した原書のその部分を、ていねいに辞書を引きながら読みとってゆく。頭に入らないと感じながらでも、くりかえし読んだ翻訳が記憶にあって、原文を読むのをたすけてくれる。そして、ここがわかりにくいと感じるところを自分で解釈して、なんとか自分でわかる訳をつけてみる。(写したノートに、幾通りもやってみるのがいい)。
そのうちわかりにくかった翻訳の一節に自分のつけた訳文が添え木の役割をはたして、こういう意味なんだ、とつかめてくる。そこで、わかったとおりに、自分としての定訳を書き込むことができれば、難所は通過できたのだ。むしろ私にとっては、そういう自分の訳をつけてみる必要がないだけに、すでに原文のその箇所がなっとくできている、という場合が多かった。
それから、次つぎの青線部分へと同じことをやってゆくと、原書を通して読むのと変わらない。やがてこの方法から翻訳のない本を読む道がひらけてくる・・・それでも、私がよく思い出すのは、翻訳と辞書を左右に、真ん中に原書を置いて一冊読み終わっての、頭だけじゃなく全身運動をやりとげた爽快感!
引用、終わります。
さすが、大江健三郎。
この部分を読んで、自分が静謐な書斎か大学図書館にでもいるような気持ちになりました。
私は「受験屋」ですから、入試で合格するための英語指導をします。
その一方で、自分自身の英語学習を思い返すとき、大江健三郎さんの書いていることは、腑に落ちるものがあるのです。
私自身の英語力が「あのとき飛躍した」と感じたやり方は、これと同じではないけれど、それに通じるものがあった気がします。
読む能力よりも、聴きとる能力のほうでの体験ですが。
例えば、エミネムが一時期好きで、何百回と繰り返し聴いていたとき、ふと耳にした英語ニュースが今までと比較にならないほどクリアに聴きとれる経験をしました。
また、『ノッティングヒルの恋人』という映画が好きで、英語・日本語対訳の脚本集を片手に何十回と見ると、映画の中のぼそぼそとつぶやくような早口のセリフが聴き取れるようになりました。
目的が明確ではなく、ただ好きなものを深追いしていたときに、目的としていなかった効果が表れたのです。
勿論、私は、もっと目的が明確で能率的な英語学習もしていました。
単語集付属のCDをウォークマンに落とし、通勤電車の中で、あるいは山を歩きながら、何百回と聴きました。
しかし、それだけでは、もしかしたら途中でうんざりしていたのかもしれません。
実用的な英語学習は、心の栄養にはなりません。
むしろ、能率とか実用とかとは無縁に、好きなものに打ち込んだときに、思いがけない飛躍が訪れました。
私が上にあげた例が、あまりに俗っぽいので、何だかなあと思われる方もいらっしゃると思いますが、英語で書かれた原書を読むということでも、最初からそんなに背伸びする必要はないと思います。
大江健三郎さんが、その文章に続いて若い人にと勧めている本がありました。
以下、再び引用です。
こう話した上で私は若者に、すばらしい訳が岩波少年文庫に入っているフィリパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』と"Tom's Midnight Gaden" PUFFIN BOOKS を推しました。それは私がもう大人になってから、子供のための小説を子供たちと読む企画で、この小説を翻訳と原作あわせて読み、深く印象を受けたからです。
引用終わります。
『トムは真夜中の庭で』は、私は大人になってから読みました。
もっと心が柔らかくみずみずしかった頃に読んだなら、誰にも教えたくない特別な1冊になっていたのかもしれないと感じた小説でした。
そのような小説は、読書が好きな人には誰にもあると思います。
十代の時期に出会った、大切な1冊。
大江健三郎さんは、それを、大人になってから読んでも、同じくらいみずみずしく感動したのでしょうか。
この冬に受験するという人には勧めませんが、まだ時間的に余裕があり、そして、英語が多少は好きで、英語をもっと好きになりたい人は、大江健三郎さんの学習法を、夏休みのように時間に余裕のあるときにやってみるのは意味のあることだと思います。
本物の学問。
本物の教養。
そうしたものの空気だけでも触れることができるような気がします。
そして、そのような姿勢で読むのなら、一番上の英文の意味も、腑に落ちるものなのかもしれません。
入試の英語長文は、長いエッセイや評論の一部分を切り取ったものである場合も多く、著者の姿勢を否定するには、あまりにも短い。
「肉体を中心とするマーカー」も、実は、入試問題として切り抜かれた以外のどこかで説明されているのかもしれません。
「これは読みにくいな」
と感じる長文もあります。
例えば、こんな一節。
Another interesting idea Sue discusses is Damasio's hypothesis that we have body reactions or "body-centered markers" that link certain thoughts with emotional states, making them unpleasant, and focusing us on thoughts that are more acceptable.
1文の中に関係代名詞節が多用されています。
主語にも補語にも。
そして、補語を説明するthat節の中に、さらに関係代名詞節による修飾がされています。
これは読みにくい・・・。
しかも、こういう文章を書く人は、語る内容も抽象的でわかりにくいことが多いのです。
訳してみましょう。
「スーが論じているもう1つの興味深い考えは、私たちは身体的反応や肉体を中心とするマーカーを持っており、それらがある種の思考を心の状態と結びつけ、思考を不快なものにしたり、より受け入れやすい思考に私たちの意識を集中させる、というダマシオの仮説である」
・・・どういうこと?
先日、生徒とこの長文の宿題の答えあわせをしました。
その生徒は、問題8問中、7問正解していました。
誤答の1問を解説して次に進もうとしたところ、その生徒がこうつぶやきました。
「正解しているけれど、文章の意味がわからない」
「・・・」
これは、その子が実際に受験するわけではない大学・学部の入試問題の過去問でした。
そういう演習をできるレベルに達している生徒です。
そのレベルの生徒になりますと、私の授業も実践的になります。
とにかく、どうやって正解したらいいのか。
訳のわからない英文を読まされて、それでも設問に正解するには、どうするのか。
どうやってその英文の要旨をつかみ、同時に些末なところは訳がわからなくても無視して、正解を出していくか。
そういう、入試に向けての演習となります。
大学入試問題は、問題文の英文がわかりにくい場合、それに反して設問は平易なことが多いです。
細部はよくわからなくても、各段落のわかりやすい文をしっかり読み、文脈を把握すれば、正答できます。
くどくどと何か言っているけれど、実際どういうことなのかよくわからないし、文脈全体にも実はさほど影響しないところは、ざっくりと読み捨てることが可能です。
そうした英語長文問題を読む技術もよく身についている生徒です。
この英文にタイトルをつけるとしたら、という四択問題も正答していました。
だから、それでいいといえばいいのですが、何だかモヤモヤが残る・・・。
読んだ気がしない。
「・・・大丈夫ですよ。この文章は、日本語で書いてあっても、何が言いたいのかよくわからないですから」
生徒は、少しほっとした顔になりました。
実際、上の文はキーセンテンスという訳ではなく、放り投げるように述べられるのみで、それをかみくだいた解説はされないのです。
例えば、「肉体を中心とするマーカー」というのは何であるのか、前後を読んでも、何も説明されていませんでした。
すぐに次の話に移っていきます。
こういう、放り投げるように訳のわからないことを書く人はいるので、無視していいと、私は思います。
どういうことなのか、読者にわからせる意図があまりないように感じます。
上の文の後に続く英文を日本語にすると、
「このことがきっかけで、好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制について彼女は考えるようになった」
となり、上の文の意味はわからなくても話は先に進んでいくのです。
そして、その先、「好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制」ということの意味も語られることなく論理は進んでいきます。
ひと言書いたからもういいだろうとでもいうように、話はどんどん先に進んでいくのです。
何でこんな英文を入試に出題するのか。
それは、こういう英文にそれでも爪を立てることができる学生を欲しているということなのだと思います。
読みやすい文章しか読めない学生は要らない。
それは、わからないでもありません。
今や、日本語で書いてあるものですら、読みやすい文章しか読めない子もいます。
読みやすいことが何よりも大切であるとする価値観も存在します。
それもまた愚かなことです。
しかし、わかりやすく語れることを、わざわざ難解に語るのも、くだらない。
難解なだけの文章など、受験テクニックで読み流してやればいいと、私は思っています。
著者の張る無駄な煙幕は無視する。
些末なところは、そもそも、読まない。
とはいえ、私は個人的には読書が好きなので、読むのなら読む価値のあるものを読みたいという気持ちがあります。
せっかく英語力のついた生徒と英文を読んでいるのだから、受験テクニック中心の解説授業の後でも、この文章は面白かったね、と感想を語りあえるような英文を読めるのなら、そのほうがいい。
そんなことを思っていたとき、これは日本語で書かれた随筆を最近読みました。
大江健三郎『定義集』。
2012年に出版された本で、そのときに購入したのですが、積んでおくだけの本も多い私は、11年経って、ようやく読み始めました。
その中の一節に、英語学習の仕方についての文章がありました。
翻訳の文章は頭に入りにくいものがある。スッキリ理解するために良い方法はありますか、と著者は若い人に質問されたというのです。
以下、上の『定義集』から引用します。
ある、と私は答えました。きみは英語が読めるはず。英語の原書からの翻訳で考えよう。私の自己流のやり方が役に立つと思います。翻訳を読んで面白く思うところは赤鉛筆で囲む。わかりにくいと感じれば、青鉛筆で。
これを習慣にする。なかでとくにしっかり読みたい本の原書を、大きい書店かアマゾンで手に入れる。それからまずやることは、もう一度翻訳を読んで、囲ったところを原文で写す作業。それをやるうち、自分の語学力で読みとれる本であるかどうかはわかる。初めは易しく感じられる本がいい。それをやる段階で、きみは面白く、大切だとも感じた箇所を、原語で読み直す喜びをすでにあじわっている。
さてこれからきみは、本腰を入れていくことになる。翻訳の青線部分を何度もゆっくり読む。続いて写した原書のその部分を、ていねいに辞書を引きながら読みとってゆく。頭に入らないと感じながらでも、くりかえし読んだ翻訳が記憶にあって、原文を読むのをたすけてくれる。そして、ここがわかりにくいと感じるところを自分で解釈して、なんとか自分でわかる訳をつけてみる。(写したノートに、幾通りもやってみるのがいい)。
そのうちわかりにくかった翻訳の一節に自分のつけた訳文が添え木の役割をはたして、こういう意味なんだ、とつかめてくる。そこで、わかったとおりに、自分としての定訳を書き込むことができれば、難所は通過できたのだ。むしろ私にとっては、そういう自分の訳をつけてみる必要がないだけに、すでに原文のその箇所がなっとくできている、という場合が多かった。
それから、次つぎの青線部分へと同じことをやってゆくと、原書を通して読むのと変わらない。やがてこの方法から翻訳のない本を読む道がひらけてくる・・・それでも、私がよく思い出すのは、翻訳と辞書を左右に、真ん中に原書を置いて一冊読み終わっての、頭だけじゃなく全身運動をやりとげた爽快感!
引用、終わります。
さすが、大江健三郎。
この部分を読んで、自分が静謐な書斎か大学図書館にでもいるような気持ちになりました。
私は「受験屋」ですから、入試で合格するための英語指導をします。
その一方で、自分自身の英語学習を思い返すとき、大江健三郎さんの書いていることは、腑に落ちるものがあるのです。
私自身の英語力が「あのとき飛躍した」と感じたやり方は、これと同じではないけれど、それに通じるものがあった気がします。
読む能力よりも、聴きとる能力のほうでの体験ですが。
例えば、エミネムが一時期好きで、何百回と繰り返し聴いていたとき、ふと耳にした英語ニュースが今までと比較にならないほどクリアに聴きとれる経験をしました。
また、『ノッティングヒルの恋人』という映画が好きで、英語・日本語対訳の脚本集を片手に何十回と見ると、映画の中のぼそぼそとつぶやくような早口のセリフが聴き取れるようになりました。
目的が明確ではなく、ただ好きなものを深追いしていたときに、目的としていなかった効果が表れたのです。
勿論、私は、もっと目的が明確で能率的な英語学習もしていました。
単語集付属のCDをウォークマンに落とし、通勤電車の中で、あるいは山を歩きながら、何百回と聴きました。
しかし、それだけでは、もしかしたら途中でうんざりしていたのかもしれません。
実用的な英語学習は、心の栄養にはなりません。
むしろ、能率とか実用とかとは無縁に、好きなものに打ち込んだときに、思いがけない飛躍が訪れました。
私が上にあげた例が、あまりに俗っぽいので、何だかなあと思われる方もいらっしゃると思いますが、英語で書かれた原書を読むということでも、最初からそんなに背伸びする必要はないと思います。
大江健三郎さんが、その文章に続いて若い人にと勧めている本がありました。
以下、再び引用です。
こう話した上で私は若者に、すばらしい訳が岩波少年文庫に入っているフィリパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』と"Tom's Midnight Gaden" PUFFIN BOOKS を推しました。それは私がもう大人になってから、子供のための小説を子供たちと読む企画で、この小説を翻訳と原作あわせて読み、深く印象を受けたからです。
引用終わります。
『トムは真夜中の庭で』は、私は大人になってから読みました。
もっと心が柔らかくみずみずしかった頃に読んだなら、誰にも教えたくない特別な1冊になっていたのかもしれないと感じた小説でした。
そのような小説は、読書が好きな人には誰にもあると思います。
十代の時期に出会った、大切な1冊。
大江健三郎さんは、それを、大人になってから読んでも、同じくらいみずみずしく感動したのでしょうか。
この冬に受験するという人には勧めませんが、まだ時間的に余裕があり、そして、英語が多少は好きで、英語をもっと好きになりたい人は、大江健三郎さんの学習法を、夏休みのように時間に余裕のあるときにやってみるのは意味のあることだと思います。
本物の学問。
本物の教養。
そうしたものの空気だけでも触れることができるような気がします。
そして、そのような姿勢で読むのなら、一番上の英文の意味も、腑に落ちるものなのかもしれません。
入試の英語長文は、長いエッセイや評論の一部分を切り取ったものである場合も多く、著者の姿勢を否定するには、あまりにも短い。
「肉体を中心とするマーカー」も、実は、入試問題として切り抜かれた以外のどこかで説明されているのかもしれません。
2023年07月21日
テストは上がったら、次は下がります。

さて、中高一貫校も都立高校も、期末テストの結果が出そろった頃です。
定期テストの得点は、学習が上手くいっている子でも、ジグザグに上昇していくことが多いです。
上がった後は、少し下がる。
その後、また上がる。
どうせなら、ずっと上がり続ければいいのですが、どうしても上がった後は下がってしまう傾向があります。
1つには、学習量を確保せずにテストを受けてしまうことにあるのでしょう。
塾に通い、最初のテストで結果も出たことで安心するのか、家庭学習が減る子がいるのです。
塾の宿題は、やっつけ仕事。
以前は、学校のワークや問題集は、自力でそれなりに頑張っていたのに、
「塾で勉強しているんだから、大丈夫」
「塾の宿題をやるから、学校の課題はやる時間がない」
と自分に言い訳して、学校の課題も取り組みが雑になってしまいます。
結果、通塾する前よりも家庭学習が減ってしまいます。
今まで通りの学校の課題に加えて塾の課題を演習し、わからないところは解説を聞くことができるから、塾に通うと成績が上がるのです。
けれど、子どもは不思議な辻褄合わせが好きで、塾で勉強すると、その分、家庭学習を減らしてバランスを取ることがあります。
それでは、成績も以前の通りにバランスが取れてしまいます。
そのため、次のテストは得点が下がります。
このようなテストの失敗の原因が理解できると、本当に成績を上げたい子は変わり始めます。
もう1つはテスト範囲の問題。
1学期の中間テストまでの間は、学校の行事が多くバタバタしがちで、授業はそれほど順調には進みません。
その進度に生徒は慣れてしまいます。
ところが、その後は行事のない時期になり、授業のスピードが上がります。
中間テストから期末テストまでは、正味ひと月しかないのですが、テスト範囲は中間テストと同じくらの分量になることが多いです。
この量を、気がゆるんでいて消化できない子がいます。
そうした中で塾の授業は都合で休んでいたりしますと、期末テストの範囲は、塾でもカバーできていない場合があります。
その分は、本人が意識して学習すればいいのですが、前述のとおり、
「塾でやるから、大丈夫」
「中間テストが上手くいったから、大丈夫」
と、根拠なき自信で家庭学習の時間も少ない。
結果、中間テストより下がってしまいます。
そういう話を事前にしたところで、子どもがそういう教訓を活用できるかといったら、まあ大多数はできないです。
何を言われても、自分で実際に転んでみなければ、わからない。
テストからは少し離れますが、宿題のやり方にしても、最初から助言通りにできる子は少ないです。
本人から、
「この夏はこの数学の問題集をやりたい」
と提案のあった子がいます。
問題総数500題ほど。
1日に10題ずつやれば、9月中には何とか終わるでしょう。
週に3回授業を取っている子でしたので、
「では、次の授業までに、30題、解いてきてください。1日10題ずつやりましょう。まとめてやったらダメですよ。あなたは、授業の直前の2時間前くらいに宿題にとりかかる癖があるけれど、今回は、それでは終わりませんよ」
そのように注意したのですが、次の授業は案の定、16題までしか解いてありませんでした。
「今日の昼からやったのに・・・」
と本人は哀しそうですが、なぜそういう発想になるのかと思うと、私のほうが哀しいのです。
授業の直前2時間前では終わらないだろうから、昼からとりかかったようです。
なぜ、その方向で頑張るのだろう?
数学を1日30題なんて、私でもやりたくない・・・。
途中で、嫌になってしまいます。
能率が落ちるのは目に見えています。
私自身は与えられた課題を、言われなくても分割するのが好きで、夏休みの宿題なども、出されたらすぐ「1日何ページやれば、何日で終わる」と計算し、その通りに実行していました。
もっとやりたくても我慢して、やらない。
やりたいからといって、1度に沢山やってしまうと、飽きてしまって、後半嫌になるだろうから。
今も、生徒に出す宿題のうち、大学入試過去問などの下調べが必要なものは、1日1ページずつ、負担なく解くことにしています。
生徒もそのペースで解けるような分量で宿題を出しているのですが、実際に生徒がそのペースで解いているのかはわかりません。
まとめてやっているかもしれません。
塾の宿題は1日でまとめて解き、他の日には他の課題を1日でまとめて解き、とにかく毎日何かしら勉強しているのなら、それでも構わないのです。
宿題をしっかりやってあるのなら、それでいいのです。
ただ、1日でこなせる分量の宿題ではないので、おそらく生徒も分割してやっていると思います。
「数学の問題30題は、1日では解けませんよ。1日に10題ずつ解くんです。では、明後日の授業までに、20題」
そう言うと、その次の授業は、20題、しっかり解いてありました。
ところが、その子は、普段は週に3回授業を取っているのですが、夏期講習は週に1回ペースという取り方をした子です。
1回の宿題が、問題70題。
1日10題ずつやればこなせますが、さて、できるものかどうか。
失敗するのも、また勉強。
自分で転ばないとわからないことは多い。
でも、2度と立ち上がれないような転び方はさせてはならない。
定期テストの得点もそうで、上がったら次は下がるのが普通、と言っている間にも、それは確実に、高校3年間の評定平均にカウントされています。
学校推薦や総合型選抜を目指す子にとっては、1回1回の定期テストが失敗できないものです。
そうであるのに、失敗してしまう。
心が幼いので、「大丈夫」という気持ちに負けてしまう。
今回は少し下がった。
次は、前回よりも上げていこう。
そのために、この夏は何をしようか?
来週から、夏期講習が始まります。
良い夏になりますように。
2023年07月15日
数学。理解の深さと新傾向の問題。

テスト前は普通に解いていて、わかっているようだったのに、定期テスト中に突然、
「あれ、これ何だっけ?意味がわからない」
となり、問題を解くことができなくなる人がいます。
例えば、三角方程式。
問題 0≦θ<2πのとき、
sin 2θ=cos θ を解け。
問題として、あまりにシンプルで、それ以外の情報がなさ過ぎるからでしょうか、これを「解く」とは何をどうすることなのか突然わからなくなるようです。
これは、2倍角の公式を使います。
sin 2θ=2sin θ cos θ ですから、
2sin θ cos θ =cos θ
2sin θ cos θ -cos θ=0
cos θ(2sin θ-1)=0
よって、cos θ=0 , sin θ=1/2
と、ここまでは正しいのですが、答案が、ここで止まってしまう人もいます。
これが最終解答だと思ってしまうようです。
テストの答案がそこで止まっていた子に。
「それは、まだ解いている途中ですよ。θ の大きさを求めるんですよ」
「・・・」
そのように言葉で説明しても、何を言われたのか理解しかねる様子でポカンとしてしまうのです。
cos θ=0より、θ=π/2 , 3/2π
sin θ=1/2より、θ=π/ 6 , 5/6π
よって、解は、θ=π/ 6 , π/2 , 5/6π , 3/2π
そのように解いたものを板書してみせても、ぼんやり見つめて、何だろうこれは、と考えこんでしまいます。
初めてこの問題を解くわけではありません。
しかし、テストが終わった後では、もう意味がわからなくなっている様子です。
なぜ、これでなければならないのか。
なぜ、cos θ=0 , sin θ=1/2 で終わらせてはいけないのか?
その解決がつかず、しかし、それを質問する言葉も見つからず、呆然としている・・・。
そんな様子です。
あるいは、こんな問題。
問題 関数 f(x)=x^2-x について、x=1における微分係数を求めよ。
これも、テストでは、何を答えていいのかわからず、白紙・・・。
「微分係数」という言葉の意味が、ふっとわからなくなってしまった様子です。
これも、実はとても簡単な問題です。
f(x)=x^2-x を微分すると、
f'(x)=2x-1
これにx=1を代入して、
f'(1)=2-1=1
よって、
x=1における微分係数は、1。
しかし、これも、模範解答を見たところで、意味がわからない・・・。
微分係数とは何か、わからない。
「微分係数って、何ですか?」
「・・・では、テキストを見直しましょうか」
しかし、こういう場合、最初に学習したときよりも、理解し直すのには時間がかかるのが普通です。
微分係数の定義をテキストで読み返しても、意味がわからない・・・。
本当に、こんなことを学習したのだろうか?
記憶がないんだけど・・・。
そんな様子です。
テスト中、おかしな考えにとりつかれてしまう子もいます。
突然、わかっていたことがわからなくなるようです。
例えば、数A「図形」の三角形の五心がテスト範囲だったときのこと。
定義の空欄を穴埋めするだけの易しい問題が出題されていました。
「内心」「外心」といった用語を穴埋めするだけの問題です。
しかし、その子は、突然、点のことを「心」というのは変じゃないかという考えにとりつかれ、「内点」「外点」と答案に書いてしまい、5つの小問すべて誤答となっていました。
また、これは中3の英語の話ですが、教科書に出ていた重要表現の語句補充問題で。
「今回のテスト範囲の文法事項は現在完了だ」
という思いにとりつかれたようで、be interested in など、前日までしっかり覚えていた熟語をすべて have interested in といったように強引に現在完了形にして、ほとんど誤答となってしまった子もいました。
テスト勉強をしなかったわけではない。
それなのに、テスト中に、おかしな考えにとりつかれてしまう・・・。
「通りいっぺんの勉強をしているから、そうなるんだ」
「暗記に頼って、理解していないからそうなるんだ」
・・・そのような批判は、当たっている部分もあるとは思います。
でも、これは、ゲシュタルト崩壊に近い部分もあるのではないかとも思うのです。
ゲシュタルト崩壊とは、例えば、「粉」という漢字をずっと見ていると、本当に「コナ」はこんな漢字だったろうかと思えてくる、といったものです。
「米」などという偏が、この世に存在しただろうか?
これは、右と左が逆ではないのか?
そんな違和感にとりつかれるのです。
私は、「消耗品」の「耗」でたまにこれが起こります。
これは誰でも起こりうることなので、本人の学習姿勢を責めても、それで改善されるようなものではありません。
これの対策としては、そうなることを予測して、テスト中にそのようになってしまうことがあるから、心の準備をしておくこと。
これに尽きます。
例えば、三角方程式とは何のことか突然わからなくなることがあるので、そうなることを予期しておきましょう。
そうすれば、それは起こらなくなります。
いや。
そんなことで混乱してしまうのは、本質が理解できていない証拠だ。
暗記ばかりして、理解していないから、そういうことになるんだ。
日本の数学教育が、暗記ばかりさせているからだ!
そうした批判を声高に行う人もいます。
大学の先生の中には、自分が教えれば、そういう大学生が初めて「速さ」や「割合」の本質を理解して、そのことに感動するんだと自慢話をする人もいます。
誰でも、本当は数学の本質を理解したいと思っているんだ。
暗記ばかりさせているから、数学がわからないのだ。
日本の数学教育が良くない!
・・・しかし、私の知る限り、小学校でも中学校でも高校でも、生徒に暗記を強いる数学教育を行っている先生の話を聞いたことはありません。
誰もが、数学の体系を理解してもらおうと努力しているように感じます。
意味がわからない公式の丸暗記をしているだけでは、先は見えています。
考える力を身につけてほしい。
考えるための授業を提供したい。
そのように、努力されています。
ゆとり教育の頃も、その後も、そして現在も。
しかし、多くの生徒が、やり方だけ暗記することでやり過ごそうとします。
ある程度知力のある子も、やり方だけ覚えて済ますコツを自ら発見していきます。
まして学力に不足のある子は、例題の解き方の丸暗記に必死です。
なぜ、理解せず、暗記することで済まそうとするのか?
授業に魅力がないからだ。
数学で出される問題に魅力がないからだ!
・・・と声高な批判に応えて、魅力的な授業を展開しようとする先生もいますが、暗記で済まそうとしている子たちにとって、それは迷惑な場合も多いのです。
深く理解するよりも、やり方だけ覚えたほうが、頭が楽なんです。
やり方だけさっと覚えて、テストが終われば忘れれば、そのほうが脳のメモリの消費が少なくて楽なのです。
そういう頭の使い方が習い性になっている子は多いです。
そうした子たちにとって、「魅力的な授業」は必ずしも好ましいものではありません。
魅力的な授業。
すなわち、アクティブラーニング。
しかし、アクティブラーニングの授業は、何を学ぶための何の授業なのかわからず、混乱する子もまた多いです。
また、数学を現実生活に近づけた、新傾向の問題。
それらの問題は、読み取るだけで大変で、生徒をワクワクさせるどころか、苦痛を強いるものである場合も多いです。
100俵の俵を5段組みに積み上げるのに必要な地面の面積を、なぜ求めなければいけないのか?
敷設面積が決定している階段の段差をどうすればいいかを、なぜ私が計算しなければならないのか?
バスケットのシュートの角度など、私には関係ない。
稲妻が光ってから雷の音がするまでの時間と距離の関係なんて、興味ない。
そういう問題は、嫌い。
普通の数学の問題のほうがまし。
新しいことに頭を使いたくない。
覚えたことだけで対処したい。
自分の頭が上手く動かないことを思い知るだけの問題なんて、解きたくない。
・・・そういう子も、また多いのです。
そもそも「新傾向」と言いますが、このような問題は20世紀の頃から「新傾向」であり、今も新傾向です。
ちっとも定着しません。
生徒が問題を解くのを楽しんでいる様子がなく、効果もないからか、なかなか定着しないのです。
大学入試共通テストの数学にこのような文章題を出すから、純粋に数学が得意な子が正答できず損をしていると嘆く人もいます。
都立高校の入試数学問題も、20世紀の頃は「新傾向」の文章題が出題されていましたが、いつ頃からか、なくなりました。
数学が得意な生徒にとってさえ多少迷惑なこともある新傾向問題は、数学が苦手な子にとって多くは苦痛です。
こういう問題を解いてワクワクし、表情が輝いている子は、ごく少数です。
数学の楽しさは、そういうこととは限らないですし。
現実生活と結びついているから数学が楽しい、とは限りません。
現実と何も関係がなくても、数学は楽しいです。
実用的でなければ面白くない、という考えは、貧しいです。
どうすれば数学が好きになるか。
これは、難しい問題です。
どうすれば数学がわかるようになるか。
このほうが、課題として解決しやすいと思います。
これは、わからなくなったところまでさかのぼって、やり直す。
何回でも、やり直す。
それに尽きると思います。
数学が苦手だった子が大学生になり、例えば小学校の先生になるために大学で数学を学び直す。
そのときに、小学校の算数の「割合」や「速さ」や「分数の計算」を理解できたのなら、それは幸福なことだと思うのです。
ただ、そういう時期だった、という点も見過ごせません。
小学生のときには、その子の理解を越えた内容だった。
でも、大学生になり、それを理解できる脳になっていたのかもしれません。
人間の脳は、25歳まで発達を続けるそうです。
あるいは、「自分には数学は必要ない」と思ってきた子が、本当に切実に数学を理解したい動機を持った。
わかる時期がきて、幸運にもそのときに教わることができた。
それは、幸福なことだと思うのです。
「大学生が割合もわかっていない。小中高の数学教育はどうなっているんだ」
ではなく、
「割合や速さを理解することが本当に必要になった大学生が、ついに理解した。数学は、いつからでも学び直せる」
というメッセージのほうが、はるかに有益です。
また、そのときは理解したつもりでいても、時間が経つと忘れてしまい、またわからなくなってしまう人のほうが現実には多いです。
生徒がわかった顔を見せたときに、
「どうだ!私の教え方が上手いからだ!こう教えれば、誰でも理解できるんだ!」
などという自惚れを私も若い頃には抱きましたが、そんなものを簡単に踏みつぶしていくのが現実の子どもです。
継続的に子どもたちに数学を教えていくというのは、そういうことです。
時間が経てば、またわからなくなってしまう。
理解しても、また忘れてしまう。
記憶がもたないのです。
そして、いったんわからなくなってから再び理解することの難しさ。
最初に学ぶときとはまた別の混乱がそこにはあります。
「微分」の学習がひと通り終わって定期テストを受けたときに、「微分係数」という言葉の意味がわからない絶望と混乱。
テキストで定義を読み直しても、意味がわからない・・・。
「関数 f(x)の平均変化率において、x=a、x=bの値を定め、b を a に限りなく近づけ、平均変化率が限りなく一定の値 α に近づくとき、この値 α を、関数 f(x) の x=a における微分係数という」
・・・何、それ?
実は、最初に学習したときも、「何、それ?」だったのかもしれません。
わからないから、やり方だけ覚えた。
ああ、つまり、f(x) を微分した式 f'(x) の x に代入すれば答が出るんだな。
そのように、意味はわからないけれど、やり方だけ覚えたのでしょう。
やり方だけ覚えて済ます子に、意味に戻った授業をしても、にこにこ笑っているが聞いていない、ということがあります。
自分としてはやり方を覚えたので、もうそれはOK。
いつまでもしつこく意味を説明している先生は、笑顔でやり過ごすだけ。
もめごとは起こしたくないし、聞いているふりをするのは問題を解くよりも、むしろ楽。
にこにこしていればいいんだから。
子どものそうした処世術が悪い方向にものごとを引っ張っていきます。
その覚え方では、忘れるのも速かった。
しかし、本人は、やり方を覚えたことを「理解した」と誤解している傾向もあり、後になって自分がわかっていないことに動揺してしまうのでしょう。
細い1本道を何とか歩き通したつもりでいたのに、振り返ったら、そこにもう道はなかった。
歩いてきたはずの道は消えていた。
もう戻れない。
唐突に、そこのポイントに戻ろうとしたところで、もうわからない。
単元の最初からすべてやり直すしか、理解する方法がないかもしれないのです。
目の前の子は、高校生だけれど、「割合」や「速さ」が理解できていない可能性がある。
けれど、今は、「微分」を学習しなければならない。
そういう課題もあります。
そして、そういうことは、小学校から高校までの算数・数学教育の課題とはまた別のものであるような気がします。
従来通りの数学教育で数理の体系を把握している子も多いのです。
日本の数学教育が一概に悪いとは言い切れません。
むしろ、何歳になっても数学のやり直しができる環境整備のほうが考えられていい課題だと思いますし、それも、今は本人次第で可能だと思います。
やり方だけ覚えても記憶がもたないことに、誰でもいつか気づきます。
気づいたら、やり直しましょう。
できるだけ、意味に戻って。
やり方だけ覚えたいのもわかるけれど、意味に戻って。
わからなくなったら、最初に戻って。
新傾向問題が迷惑でしかなくても、意味に戻って、何とか乗り越えていきましょう。
2023年07月11日
学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか。
今日は、真面目にテスト勉強はしている様子なのに、なかなか成績が上昇しない高校生について考えます。
考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。
10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
そのように思ったのです。
結局、その予想は外れました。
1つには、私立大学の定員厳格化があります。
極端な水増し合格が許されなくなったのです。
どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。
もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
これは大きかったです。
AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
それが、思いの他、高かったのです。
高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
そういう数字です。
苦手科目を捨てることがない。
こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
それもまた、才能でしょう。
そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。
勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
私も今は推奨しています。
ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
受験勉強しないで合格できるんだから。
学校の成績だけ良ければいいんだから。
そのように考えてしまうのです。
学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
そのように、視野が狭くなっていきます。
これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。
英語の場合で考えてみましょう。
毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
結局、単語のテスト範囲は捨てます。
さらに。
英語の定期テストの出題形式というものがあります。
英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
結果として、英語の定期テストは良くて60点台。
自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?
高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
英語力は、中学英語のまま。
単語力も文法力もない。
そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。
数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
学校の定期テストの点数だけが大事。
だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
一般受験するわけじゃないんだから。
そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
スケジュールは、どんどん遅れていきます。
本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
だから、学校の問題集が大切。
そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。
テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
塾の授業はテストまで何回あるのか?
そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。
この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
「学校の成績だけ良ければいい」
という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。
学校の勉強だけをやりたい。
だって、重要なのは、学校の成績だから。
学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
他のことはやりたくない。
そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
いいえ。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。
勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
それなら、普段からやるしかないでしょう?
それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。
学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?
それは、使い方次第でしょう。
使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。
学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
それは自分で解いたほうが勉強になります。
そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。
数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
それでも、昔に比べれば、随分易しい。
昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
それで失敗する子には、
「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。
繰り返します。
学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。
10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
そのように思ったのです。
結局、その予想は外れました。
1つには、私立大学の定員厳格化があります。
極端な水増し合格が許されなくなったのです。
どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。
もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
これは大きかったです。
AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
それが、思いの他、高かったのです。
高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
そういう数字です。
苦手科目を捨てることがない。
こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
それもまた、才能でしょう。
そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。
勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
私も今は推奨しています。
ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
受験勉強しないで合格できるんだから。
学校の成績だけ良ければいいんだから。
そのように考えてしまうのです。
学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
そのように、視野が狭くなっていきます。
これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。
英語の場合で考えてみましょう。
毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
結局、単語のテスト範囲は捨てます。
さらに。
英語の定期テストの出題形式というものがあります。
英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
結果として、英語の定期テストは良くて60点台。
自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?
高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
英語力は、中学英語のまま。
単語力も文法力もない。
そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。
数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
学校の定期テストの点数だけが大事。
だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
一般受験するわけじゃないんだから。
そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
スケジュールは、どんどん遅れていきます。
本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
だから、学校の問題集が大切。
そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。
テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
塾の授業はテストまで何回あるのか?
そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。
この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
「学校の成績だけ良ければいい」
という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。
学校の勉強だけをやりたい。
だって、重要なのは、学校の成績だから。
学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
他のことはやりたくない。
そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
いいえ。
学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。
勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
それなら、普段からやるしかないでしょう?
それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。
学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?
それは、使い方次第でしょう。
使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。
学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
それは自分で解いたほうが勉強になります。
そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。
数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
それでも、昔に比べれば、随分易しい。
昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
それで失敗する子には、
「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。
繰り返します。
学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
2023年07月05日
英単語の覚え方。

単語力がないせいで、初見の長文を読み通せない。
単語さえ覚えられれば英語は何とかなるはずなのに、単語が覚えられない。
そういう悩みをもつ高校生は多いです。
教室で英語を教えていても、単語力のない生徒は悩みの種です。
単語暗記を宿題にしたところで、前日か当日にちゃちゃっと覚えてくるだけで、すぐに忘れます。
それすら息切れして、覚えてもこなくなる子もいます。
あまり練習してこないので思い出すのに時間がかかり、テスト時間が長くなります。
週に90分しかない塾での英語の時間を、単語テストに30分以上も浪費する結果になってしまいます。
だからといって、時間を切れば、テストは白紙です。
そうしたことも1度慣れてしまえば、恥ずかしさもなくなるようです。
何年か前、単語暗記の時間を独立させようとして、無料の単語暗記授業を開講したことがありました。
結果は、失敗に終わりました。
無料というのがむしろよくなかったようです。
「用事があるので休みます」
と気軽に欠席する。
出席しても、暗記をちゃんとしてこない。
徒労感に耐え切れず、1年で廃止しました。
そもそも、週に1度では効果は薄いのです。
単語を覚えられない子に単語を覚えさせるためには、毎日つきっきりで教える時間が必要になります。
毎日、この時間は英単語を覚えるという時間の設定があれば、誰でも、ある程度は覚えられます。
塾でそのような授業設定は、しかし、不可能です。
あとは、本人が自分でその時間を設定できるかどうか、です。
結局、単語暗記は、本人の自覚に任せることになります。
その結果は、露骨です。
努力して英単語を覚えている子の英語力は、簡単に偏差値60を越えます。
英検準1級に合格します。
単語を覚える時間を作れない子は、学年が上がっても中学英語の力のまま大学受験を迎えます。
明暗はくっきりと別れます。
その中間という子は、むしろ珍しいのではないかと思います。
単語が覚えられない。
しかし、「覚えられない」とギブアップするほどの努力をしているかというと、大抵の場合、それほどの努力はしていません。
学校で週に1度行われる単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
その後、その範囲を繰り返し復習するかというと、そんなことはしない。
翌週、また単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
単語暗記というと、それしかやっていないという人が大半ではないでしょうか。
そのことを称して、
「覚えようとしても、単語を覚えられない」
と思っているのだとしたら、それは誤解です。
それは、ほとんど何もしていないのと同義です。
単語が覚えられない・・・。
しかし、「覚えられない」と嘆くばかりで、実際は何もしていない場合のほうが多いのです。
英語が苦手な子は、英語にかけている時間が少ないです。
上記の単語テストのための勉強。
あとは、学校の宿題。
定期テストのための勉強。
英語が苦手な子は、それ以外のことはやっていないと思います。
英語の勉強に使っている時間は、せいぜいで週2~3時間ではないでしょうか?
もっと短い場合もあると思います。
それでいて、「英語が苦手」「単語が覚えられない」と嘆いているのが現実です。
とりあえず、毎日1時間英語を勉強し、しかもその半分にあたる30分は単語暗記にあてる。
それだけで、覚え方が多少効率の悪いものであっても、今よりは確実に前進するでしょう。
しかし、それがわかっていても、実行に移せない人は多いのです。
英語だけに毎日1時間なんて、そんな時間はない。
他の科目の勉強もあるのに、そんなバランスの悪いことを言われても・・・。
本人は本気でそう思っています。
スマホをいじる時間を英語の勉強をする時間にスライドするだけで、毎日1時間くらいは作れます。
よく考えたら大して面白くない動画を見ている時間、単なる暇潰しでゲームをしている時間など、無駄に使っている時間はすぐに見つけられるはずです。
他の科目の勉強を圧迫せず、新しい時間を1時間作り出し、それを英語の勉強にあてることができます。
しかし、「時間を作る」という話を聞くと、それだけで疲労感を覚える子もいると思います。
そういう、計画的なきちんとしたことが基本的に嫌いで、圧迫感を受けてしまう・・・。
それは、大人も同じかもしれません。
今、これを読んでいらっしゃるのが、お子さんが英語が苦手で困っている保護者の方であるとして。
お子さんの英語力を伸ばすために、まず自分の英語力を伸ばす。
自分が英語を勉強する時間を毎日1時間作るという話を、今日から実行に移せるでしょうか?
多種多様な理由づけとともに、その案は「却下」ではないでしょうか?
いや、忙しい。
他にやることがある。
子どもだって同じことです。
やらない理由はいくらでも見つかります。
なぜやろうとしないのか?
自分がやらない理由を冷静に分析することで、子どもがやろうとしない理由も分析できるかもしれません。
それが解決に役立つかもしれません。
英語が苦手な子は、まず単語力がありません。
単語を覚えられない子は、上に書いたように、その時間を作っていない場合がほとんどです。
入り口にも立っていないのです。
週に1度、学校の単語テストのために100語くらいを急いで覚えたところで、そんなのは、翌日には忘れます。
反復しない限り、定着しません。
1度で覚えて2度と忘れない方法。
何の努力もせずに気がついたら覚えている方法。
そうしたものを夢見ているうちに、中学英語の実力のまま高校を卒業してしまう子が、日本の高校生の大多数です。
高校3年生の過半数が、英検準2級の実力を持たない、という事実にそれが表れています。
単語の覚え方に「正解」はありません。
本人が覚えやすいと思った覚え方で構いません。
ただ、反復することです。
多少は能率的な覚え方もありますが、結局はどれも反復が必要です。
中には、暗記することが本当に苦手な子もいます。
小学生の頃から、ものを覚えてこなかった子たちです。
算数の九九も、覚えるのが本当につらかった記憶になっている様子です。
暗記が苦手な子は、暗記するときに頭にかかる負荷を嫌う傾向があります。
頭に負荷がかかって苦しい、つらい、と言います。
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと、脳細胞が潰れてしまう」
暗記が苦手な子がこのように発言するのを私は授業中に幾度か聞いています。
小学生もいましたが、高校生の中にもこの発言をする子がいました。
少し奇異に聞こえる発言です。
そういう子に対して、
「何て愚かな発言だろう」
「そんなことだからダメなんだ」
と全否定することもできます。
ですが、頭を使うことに対しての発言だから奇異に感じるだけかもしれません。
例えば、これが息切れの場合、わりとよくある感覚なのではないかと思うのです。
ランニングや山歩きなど。
好きな人は大好きなのですが、忌み嫌う人も多いです。
その根本は「息切れ」することへの嫌悪ではないでしょうか。
息切れするのは苦しい。
苦しいことは嫌い。
息が切れると心臓が止まるような気がする。
息切れするようなことをする人の気が知れない。
スポーツが嫌いな人のこういう感覚をそのまま勉強にスライドすると、それは、
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと脳細胞が潰れる」
という発言と同質のものではないかと思います。
息切れすることが嫌いな人にスポーツを習慣的に行わせることの難しさを思うとき、頭を使うと脳細胞が潰れる気がして頭をフルに使えない子に暗記をさせることの絶望的な難しさを感じます。
相手は、頭を使うことそのものを恐れています。
しかも、これは幼い小学生の発言ではありません。
高校生がこれを言っているのです。
ものを考えたり暗記したりすると脳細胞が潰れると、高校生が本気で思っています。
勉強すると自分の脳はダメージを受けると感じているのです。
だから、ものを考えたり、脳に負荷をかけることを回避しようとします。
使えば使うほど頭はよくなると言葉で説明しても信用しません。
ちょっと運動するとゼイゼイ息切れして苦しそうな人が、短距離走でもマラソン大会でも本気を出せないのと同じです。
全力を出すことを恐れます。
やっていけば慣れるとか、続けることで心肺能力は鍛えられるとか言っても心に響かないのでしょう。
これは難しい・・・。
身体を動かすことが好きな人は、「息切れするから運動は嫌い」と言う人の気持ちはわからないと思います。
なぜそんなにも息切れにこだわるのか、まずそこが理解できないと思うのです。
息切れがなぜそんなに嫌なのだろう?
そんなことより、スポーツには楽しいことが多いから、息なんか切れても別にいいだろうに。
気にしていることのポイントがズレてない?
そう感じると思います。
それと同じで、頭を使うことが好きな人は、「考えたり暗記したりすると脳に負荷がかかるから嫌い」という人が、なぜそんなにも頭への負荷にこだわるのか、そこが理解できないのです。
頭を使うことは楽しいことだから、脳への負荷なんか別にいいじゃない?
そんなことより、何かが理解できたときや、問題が解けたときの楽しさのほうが大きいじゃない?
脳が重くなるとか、なぜ、そんなくだらないことにこだわるの?
そう思うでしょう。
スポーツと勉強と、結局のところ構造は同じで、それを苦痛に感じている人は、気にしているポイントがズレているのです。
でも、本人にとっては実感を伴う、切実なことだとも思うのです。
そこが永遠にわかりあえない壁で終わるのか。
それとも、楽しさ、良さを伝えることができるのか。
いつか、本人が楽しさに気づくことができるのか。
振り返ると、私も息切れするのが大嫌いな子どもでしたが、今は、楽しく山を歩いています。
遠足の山歩きなんて、本当に嫌いだったのですが。
人の意識は何かの拍子に変わります。
私の場合、大人になって、ある日ふと山を歩いてみたくなり、ジーパンにスニーカー、ショルダーバッグという恰好で高尾山をゆっくり歩いてみたら、これが想像を越えて楽しかったのが始まりでした。
子どもの頃の遠足といえば、他人のペースで歩かなければならず、息が切れても休めず、休憩は人が決めた時間に取らねばならず、水分も十分に取れない。
そういう苦痛に満ちた学校遠足とは違う世界がそこにはありました。
英語学習にも、きっとそれがあるはずです。
ある日ふっと、英語を勉強してみようと思う瞬間はあるのだと思うのです。
そのときを逃さないこと。
ふっと飛び越えてみること。
単語集を使って、自分へのテストを繰り返すというやり方が有効なのは言うまでもありません。
たいていの単語集は赤シートをかけてテストしやすいように作られています。
100の単語を覚えたいのなら、1日15単語ずつを7日で覚えるのではなく、1日100単語を7日繰り返す。
このほうが有効です。
そして、学校の単語テストが終わったらそれっきりではなく、反復することです。
単語集は、何周もして初めて意味があります。
5周もすれば、さすがに、その単語集の70%程度の単語は見れば意味がぼんやりとではあるがわかるようになっているでしょう。
その単語力で初見の長文を読んだときに、英文の大意が取れることに自分で驚くと思います。
知らない間に、英文が読めるようになっているのです。
ただし、無理はしないこと。
どうしても嫌な日は休みましょう。
ただ、1日休んだら、もう何もかも終わり、と思うのではなく、また次の日から続けましょう。
ひと月サボってしまっても、また次の日から続けましょう。
少しでも結果が出ることが、楽しさの発見につながるはずです。
結果が出るまで、続けること。
たとえ、ときどき休んでも。
そして、結果が出るまで、諦めないこと。
結果が出ないのは、結果が出る前に途中でやめてしまうからなんです。
単語さえ覚えられれば英語は何とかなるはずなのに、単語が覚えられない。
そういう悩みをもつ高校生は多いです。
教室で英語を教えていても、単語力のない生徒は悩みの種です。
単語暗記を宿題にしたところで、前日か当日にちゃちゃっと覚えてくるだけで、すぐに忘れます。
それすら息切れして、覚えてもこなくなる子もいます。
あまり練習してこないので思い出すのに時間がかかり、テスト時間が長くなります。
週に90分しかない塾での英語の時間を、単語テストに30分以上も浪費する結果になってしまいます。
だからといって、時間を切れば、テストは白紙です。
そうしたことも1度慣れてしまえば、恥ずかしさもなくなるようです。
何年か前、単語暗記の時間を独立させようとして、無料の単語暗記授業を開講したことがありました。
結果は、失敗に終わりました。
無料というのがむしろよくなかったようです。
「用事があるので休みます」
と気軽に欠席する。
出席しても、暗記をちゃんとしてこない。
徒労感に耐え切れず、1年で廃止しました。
そもそも、週に1度では効果は薄いのです。
単語を覚えられない子に単語を覚えさせるためには、毎日つきっきりで教える時間が必要になります。
毎日、この時間は英単語を覚えるという時間の設定があれば、誰でも、ある程度は覚えられます。
塾でそのような授業設定は、しかし、不可能です。
あとは、本人が自分でその時間を設定できるかどうか、です。
結局、単語暗記は、本人の自覚に任せることになります。
その結果は、露骨です。
努力して英単語を覚えている子の英語力は、簡単に偏差値60を越えます。
英検準1級に合格します。
単語を覚える時間を作れない子は、学年が上がっても中学英語の力のまま大学受験を迎えます。
明暗はくっきりと別れます。
その中間という子は、むしろ珍しいのではないかと思います。
単語が覚えられない。
しかし、「覚えられない」とギブアップするほどの努力をしているかというと、大抵の場合、それほどの努力はしていません。
学校で週に1度行われる単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
その後、その範囲を繰り返し復習するかというと、そんなことはしない。
翌週、また単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
単語暗記というと、それしかやっていないという人が大半ではないでしょうか。
そのことを称して、
「覚えようとしても、単語を覚えられない」
と思っているのだとしたら、それは誤解です。
それは、ほとんど何もしていないのと同義です。
単語が覚えられない・・・。
しかし、「覚えられない」と嘆くばかりで、実際は何もしていない場合のほうが多いのです。
英語が苦手な子は、英語にかけている時間が少ないです。
上記の単語テストのための勉強。
あとは、学校の宿題。
定期テストのための勉強。
英語が苦手な子は、それ以外のことはやっていないと思います。
英語の勉強に使っている時間は、せいぜいで週2~3時間ではないでしょうか?
もっと短い場合もあると思います。
それでいて、「英語が苦手」「単語が覚えられない」と嘆いているのが現実です。
とりあえず、毎日1時間英語を勉強し、しかもその半分にあたる30分は単語暗記にあてる。
それだけで、覚え方が多少効率の悪いものであっても、今よりは確実に前進するでしょう。
しかし、それがわかっていても、実行に移せない人は多いのです。
英語だけに毎日1時間なんて、そんな時間はない。
他の科目の勉強もあるのに、そんなバランスの悪いことを言われても・・・。
本人は本気でそう思っています。
スマホをいじる時間を英語の勉強をする時間にスライドするだけで、毎日1時間くらいは作れます。
よく考えたら大して面白くない動画を見ている時間、単なる暇潰しでゲームをしている時間など、無駄に使っている時間はすぐに見つけられるはずです。
他の科目の勉強を圧迫せず、新しい時間を1時間作り出し、それを英語の勉強にあてることができます。
しかし、「時間を作る」という話を聞くと、それだけで疲労感を覚える子もいると思います。
そういう、計画的なきちんとしたことが基本的に嫌いで、圧迫感を受けてしまう・・・。
それは、大人も同じかもしれません。
今、これを読んでいらっしゃるのが、お子さんが英語が苦手で困っている保護者の方であるとして。
お子さんの英語力を伸ばすために、まず自分の英語力を伸ばす。
自分が英語を勉強する時間を毎日1時間作るという話を、今日から実行に移せるでしょうか?
多種多様な理由づけとともに、その案は「却下」ではないでしょうか?
いや、忙しい。
他にやることがある。
子どもだって同じことです。
やらない理由はいくらでも見つかります。
なぜやろうとしないのか?
自分がやらない理由を冷静に分析することで、子どもがやろうとしない理由も分析できるかもしれません。
それが解決に役立つかもしれません。
英語が苦手な子は、まず単語力がありません。
単語を覚えられない子は、上に書いたように、その時間を作っていない場合がほとんどです。
入り口にも立っていないのです。
週に1度、学校の単語テストのために100語くらいを急いで覚えたところで、そんなのは、翌日には忘れます。
反復しない限り、定着しません。
1度で覚えて2度と忘れない方法。
何の努力もせずに気がついたら覚えている方法。
そうしたものを夢見ているうちに、中学英語の実力のまま高校を卒業してしまう子が、日本の高校生の大多数です。
高校3年生の過半数が、英検準2級の実力を持たない、という事実にそれが表れています。
単語の覚え方に「正解」はありません。
本人が覚えやすいと思った覚え方で構いません。
ただ、反復することです。
多少は能率的な覚え方もありますが、結局はどれも反復が必要です。
中には、暗記することが本当に苦手な子もいます。
小学生の頃から、ものを覚えてこなかった子たちです。
算数の九九も、覚えるのが本当につらかった記憶になっている様子です。
暗記が苦手な子は、暗記するときに頭にかかる負荷を嫌う傾向があります。
頭に負荷がかかって苦しい、つらい、と言います。
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと、脳細胞が潰れてしまう」
暗記が苦手な子がこのように発言するのを私は授業中に幾度か聞いています。
小学生もいましたが、高校生の中にもこの発言をする子がいました。
少し奇異に聞こえる発言です。
そういう子に対して、
「何て愚かな発言だろう」
「そんなことだからダメなんだ」
と全否定することもできます。
ですが、頭を使うことに対しての発言だから奇異に感じるだけかもしれません。
例えば、これが息切れの場合、わりとよくある感覚なのではないかと思うのです。
ランニングや山歩きなど。
好きな人は大好きなのですが、忌み嫌う人も多いです。
その根本は「息切れ」することへの嫌悪ではないでしょうか。
息切れするのは苦しい。
苦しいことは嫌い。
息が切れると心臓が止まるような気がする。
息切れするようなことをする人の気が知れない。
スポーツが嫌いな人のこういう感覚をそのまま勉強にスライドすると、それは、
「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
「頭を使うと脳細胞が潰れる」
という発言と同質のものではないかと思います。
息切れすることが嫌いな人にスポーツを習慣的に行わせることの難しさを思うとき、頭を使うと脳細胞が潰れる気がして頭をフルに使えない子に暗記をさせることの絶望的な難しさを感じます。
相手は、頭を使うことそのものを恐れています。
しかも、これは幼い小学生の発言ではありません。
高校生がこれを言っているのです。
ものを考えたり暗記したりすると脳細胞が潰れると、高校生が本気で思っています。
勉強すると自分の脳はダメージを受けると感じているのです。
だから、ものを考えたり、脳に負荷をかけることを回避しようとします。
使えば使うほど頭はよくなると言葉で説明しても信用しません。
ちょっと運動するとゼイゼイ息切れして苦しそうな人が、短距離走でもマラソン大会でも本気を出せないのと同じです。
全力を出すことを恐れます。
やっていけば慣れるとか、続けることで心肺能力は鍛えられるとか言っても心に響かないのでしょう。
これは難しい・・・。
身体を動かすことが好きな人は、「息切れするから運動は嫌い」と言う人の気持ちはわからないと思います。
なぜそんなにも息切れにこだわるのか、まずそこが理解できないと思うのです。
息切れがなぜそんなに嫌なのだろう?
そんなことより、スポーツには楽しいことが多いから、息なんか切れても別にいいだろうに。
気にしていることのポイントがズレてない?
そう感じると思います。
それと同じで、頭を使うことが好きな人は、「考えたり暗記したりすると脳に負荷がかかるから嫌い」という人が、なぜそんなにも頭への負荷にこだわるのか、そこが理解できないのです。
頭を使うことは楽しいことだから、脳への負荷なんか別にいいじゃない?
そんなことより、何かが理解できたときや、問題が解けたときの楽しさのほうが大きいじゃない?
脳が重くなるとか、なぜ、そんなくだらないことにこだわるの?
そう思うでしょう。
スポーツと勉強と、結局のところ構造は同じで、それを苦痛に感じている人は、気にしているポイントがズレているのです。
でも、本人にとっては実感を伴う、切実なことだとも思うのです。
そこが永遠にわかりあえない壁で終わるのか。
それとも、楽しさ、良さを伝えることができるのか。
いつか、本人が楽しさに気づくことができるのか。
振り返ると、私も息切れするのが大嫌いな子どもでしたが、今は、楽しく山を歩いています。
遠足の山歩きなんて、本当に嫌いだったのですが。
人の意識は何かの拍子に変わります。
私の場合、大人になって、ある日ふと山を歩いてみたくなり、ジーパンにスニーカー、ショルダーバッグという恰好で高尾山をゆっくり歩いてみたら、これが想像を越えて楽しかったのが始まりでした。
子どもの頃の遠足といえば、他人のペースで歩かなければならず、息が切れても休めず、休憩は人が決めた時間に取らねばならず、水分も十分に取れない。
そういう苦痛に満ちた学校遠足とは違う世界がそこにはありました。
英語学習にも、きっとそれがあるはずです。
ある日ふっと、英語を勉強してみようと思う瞬間はあるのだと思うのです。
そのときを逃さないこと。
ふっと飛び越えてみること。
単語集を使って、自分へのテストを繰り返すというやり方が有効なのは言うまでもありません。
たいていの単語集は赤シートをかけてテストしやすいように作られています。
100の単語を覚えたいのなら、1日15単語ずつを7日で覚えるのではなく、1日100単語を7日繰り返す。
このほうが有効です。
そして、学校の単語テストが終わったらそれっきりではなく、反復することです。
単語集は、何周もして初めて意味があります。
5周もすれば、さすがに、その単語集の70%程度の単語は見れば意味がぼんやりとではあるがわかるようになっているでしょう。
その単語力で初見の長文を読んだときに、英文の大意が取れることに自分で驚くと思います。
知らない間に、英文が読めるようになっているのです。
ただし、無理はしないこと。
どうしても嫌な日は休みましょう。
ただ、1日休んだら、もう何もかも終わり、と思うのではなく、また次の日から続けましょう。
ひと月サボってしまっても、また次の日から続けましょう。
少しでも結果が出ることが、楽しさの発見につながるはずです。
結果が出るまで、続けること。
たとえ、ときどき休んでも。
そして、結果が出るまで、諦めないこと。
結果が出ないのは、結果が出る前に途中でやめてしまうからなんです。