2019年05月30日
高校数A n進法 その3。分数の処理。
今回が数A最後の内容です。
内容は、「分数の小数表示と記数法」。
10進法の分数をn進法の小数に直す問題を解きましょう。
例題 1/4を5進法の小数で表せ。
これは、10進法の小数をn進法の小数に直すときと、基本の考え方は同じです。
まず、
1/4=a/5+b/5の2乗+c/5の3乗+・・・・① とおきます。
①×5をすると、
5/4=a+b/5+c/5の2乗+d/5の3乗+・・・
両辺の整数部分を比較して、
a=1とわかります。
次に両辺から1を引いて、
1/4=b/5+c/5の2乗+d/5の3乗+・・・② とおきます。
②×5をすると、
5/4=b+c/5+d/5の2乗+・・・・
よって、b=1。
以下同様に、c=d=・・・・・=1とわかります。
したがって、1/4=0.1111・・・・・です。
分数や小数とn進法は、さすがにそこまで復習していないという人もいて、センター試験あるいはセンター模試でそれが出てしまうと、もう完全にアウトとなってしまう人が多くいました。
解き方を知っているか知らないかだけの問題で白紙答案になってしまうのは勿体ないので、解き方をいつでも復元できるように、なぜそれで解けるのか、その理屈を理解しておくことをお薦めします。
手順だけ覚えるのは、忘れるのも速いです。
理屈を理解していれば、復元可能です。
さて、ここで、n進法の応用問題を少し。
問題 150台が駐車可能な駐車場がある。駐車位置は1から順に番号が付けられているが、4という数は使われていない。駐車位置の番号の中で最大の数は何番か。
例えば0と1しか使わないのなら2進法だとわかるけれど、逆に、4だけは使わないというのは、どう解いたら良いのかわからない・・・。
そういう人もいるかもしれません。
もっと頭を柔らかく。
4だけは使わないのですから、0、1、2、3、5、6、7、8、9の数字を使う。
つまり、これは9進法なのだとわかります。
ただし、普通の9進法は、0から8までの数字を使うのですが、これは4を使わないが9を使います。
だから、計算した後に数字を変換する必要があります。
まず、150を普通の9進法で表すと、
150=1×92+7×9+6
すなわち、176(9) となります。
4を使っていないから、このままでいいでしょうか?
いいえ、そういうわけにはいきません。
9の2乗の位の数である1は、そのままでいいでしょう。
9の2乗のまとまりが1組あるということは、4という数字を使っても使わなくても変わらずに1です。
しかし、9の1乗の位の7は、普通の9進法での7です。
9のまとまりが7組あるということです。
その7組に、4を使わずに番号をつけるならば、1組目、2組目、3組目、5組目、6組目、7組目、8組目。
つまり、これは7ではなく、8と表さなければなりません。
最後に、一の位の6も、普通の9進法で、1が6個あるということです。
それに番号をつけるならは、1、2、3、5、6、7。
つまり、これも6ではなく7と表さなければなりません。
よって、この駐車場の最大の番号は、187となります。
さて、数ⅠAの学習がこれでひと通り終わりました。
最初のほうで学習したことを忘れてしまっていると、数Ⅱの学習は困難を極めます。
数Ⅱの学習を進めながらも、常に数ⅠAを復習すると良いと思います。
1度では理解できなかったことも、2度目なら、案外すんなりと理解できることがあります。
1度目は覚えきれなかった公式も2度目なら見慣れて、頭にすっと入ってきます。
数学の学習は、諦めなければ必ず前に進むことができます。
頑張りましょう。
ヽ(^。^)ノ
内容は、「分数の小数表示と記数法」。
10進法の分数をn進法の小数に直す問題を解きましょう。
例題 1/4を5進法の小数で表せ。
これは、10進法の小数をn進法の小数に直すときと、基本の考え方は同じです。
まず、
1/4=a/5+b/5の2乗+c/5の3乗+・・・・① とおきます。
①×5をすると、
5/4=a+b/5+c/5の2乗+d/5の3乗+・・・
両辺の整数部分を比較して、
a=1とわかります。
次に両辺から1を引いて、
1/4=b/5+c/5の2乗+d/5の3乗+・・・② とおきます。
②×5をすると、
5/4=b+c/5+d/5の2乗+・・・・
よって、b=1。
以下同様に、c=d=・・・・・=1とわかります。
したがって、1/4=0.1111・・・・・です。
分数や小数とn進法は、さすがにそこまで復習していないという人もいて、センター試験あるいはセンター模試でそれが出てしまうと、もう完全にアウトとなってしまう人が多くいました。
解き方を知っているか知らないかだけの問題で白紙答案になってしまうのは勿体ないので、解き方をいつでも復元できるように、なぜそれで解けるのか、その理屈を理解しておくことをお薦めします。
手順だけ覚えるのは、忘れるのも速いです。
理屈を理解していれば、復元可能です。
さて、ここで、n進法の応用問題を少し。
問題 150台が駐車可能な駐車場がある。駐車位置は1から順に番号が付けられているが、4という数は使われていない。駐車位置の番号の中で最大の数は何番か。
例えば0と1しか使わないのなら2進法だとわかるけれど、逆に、4だけは使わないというのは、どう解いたら良いのかわからない・・・。
そういう人もいるかもしれません。
もっと頭を柔らかく。
4だけは使わないのですから、0、1、2、3、5、6、7、8、9の数字を使う。
つまり、これは9進法なのだとわかります。
ただし、普通の9進法は、0から8までの数字を使うのですが、これは4を使わないが9を使います。
だから、計算した後に数字を変換する必要があります。
まず、150を普通の9進法で表すと、
150=1×92+7×9+6
すなわち、176(9) となります。
4を使っていないから、このままでいいでしょうか?
いいえ、そういうわけにはいきません。
9の2乗の位の数である1は、そのままでいいでしょう。
9の2乗のまとまりが1組あるということは、4という数字を使っても使わなくても変わらずに1です。
しかし、9の1乗の位の7は、普通の9進法での7です。
9のまとまりが7組あるということです。
その7組に、4を使わずに番号をつけるならば、1組目、2組目、3組目、5組目、6組目、7組目、8組目。
つまり、これは7ではなく、8と表さなければなりません。
最後に、一の位の6も、普通の9進法で、1が6個あるということです。
それに番号をつけるならは、1、2、3、5、6、7。
つまり、これも6ではなく7と表さなければなりません。
よって、この駐車場の最大の番号は、187となります。
さて、数ⅠAの学習がこれでひと通り終わりました。
最初のほうで学習したことを忘れてしまっていると、数Ⅱの学習は困難を極めます。
数Ⅱの学習を進めながらも、常に数ⅠAを復習すると良いと思います。
1度では理解できなかったことも、2度目なら、案外すんなりと理解できることがあります。
1度目は覚えきれなかった公式も2度目なら見慣れて、頭にすっと入ってきます。
数学の学習は、諦めなければ必ず前に進むことができます。
頑張りましょう。
ヽ(^。^)ノ
2019年05月27日
高校英語 助動詞その3 will の用法。
まずはこんな問題から。
問題 以下の空所に適切な語句を選べ。
He ( ) often go fishing on Sundays.
1. would 2. used to 3.had 4.has
こうした四択問題になると、「そんな英語を見た覚えがある」という主観で英文法の問題を解く人がいます。
勘で解いているので、正解でも不正解でも、学習したことになりません。
まずその癖を自覚し、直すことが必要となります。
中学生の頃から、英語の問題はそのように感覚や勘で解いてきたし、それ以外の解き方を知らない。
こうした問題を「考えて」解くということが、どういうことなのかわからない。
そういう人もいるかと思います。
「考える」とは何をどうすることなのか。
では、こんな問題はどうでしょうか。
問題 以下の空所に適切な語句を選べ。
With more than 60 books to his name , the norvelist was one of the most ( ) of the twentieth century.
1.arcane 2.somber 3.erratic 4.prolific
普通の英語力を持つ高校生なら、問題文はまあまあ意味が取れると思います。
しかし、選択肢の単語は、ほとんど意味がわからないのではないでしょうか。
そんなにスペルが長いわけではなく、一見ありふれた印象の単語なのに、見たことがない・・・。
意味など想像もつかない・・・。
この問題を解けと言われたら?
うーん・・・。
3と4は語尾が同じ。
1と3は最初のほうが似ている気がする。
では、両方がかぶっている3が正解かな?
・・・残念。
正解は、4.prolific「多作な」です。
「その小説家の名で出版された本は60以上あるので、彼は20世紀で最も多作な一人である」
これは、英検1級の過去問です。
高校生がこの問題を解けなくても、落ち込む必要はありません。
ただ、上のような選択肢の分析で正解が選べるほど甘くはないということです。
考えるとは、そういうことではないのです。
考えるとは、知識を根拠としてものごとの筋道を立てていくこと。
AならばBであり、BならばCである。
原因と結果を明瞭にしていくこと。
ですから、根拠となる知識がない場合、考えようがないのです。
もう一度、最初の問題に戻りましょう。
問題 以下の空所に適切な語句を選べ。
He ( ) often go fishing on Sundays.
1. would 2. used to 3.had 4.has
この問題で、まず3と4は早めに選択肢から消去できます。
had にしろ has にしろ、完了形の文を作ろうとしているのだろうと推測できますが、それならば、後に続く動詞は過去分詞 gone になっているはずです。
go という原形が使われている以上、これは完了形ではありません。
また、「~しなければならなかった」という意味なのだとしたら、hadだけではダメで、had to としなければなりません。
3と4は、正解ではありません。
では、1と2と、どちらか正解か?
そもそも、1と2は、何なのか?
考えるためには、その知識が必要です。
考えようにも、根拠が見つからないという場合。
それは根拠となる知識がないからです。
知識がなければ、考えることができません。
短期記憶でパッと覚えてパッと消去してきた知識が、実は全部必要なものだったのです。
知識を蓄えましょう。
問題を解くときは、常に「根拠は?」「理由は?」と自問する習慣をつけましょう。
根拠は、自分の中の知識です。
助動詞。今回は、will の学習をします。
will というと、未来の助動詞。
will you ~?で相手の意志を尋ねたり依頼したりすることもある。
そこまではスラスラと出てくる高校生が多いのですが、それらは中学英語です。
高校で新しく学習した will があるはずなのですが、それを記憶に残さない人が多いのです。
もう何度も繰り返し書いていますが、高校生になっても中学英語からバージョンアップしない人は、自分が既に知っている基礎知識を確認すると安心し、それだけで大丈夫と思ってしまうようです。
しかし、高校の定期テストや大学入試に出るのは、高校で学習した will の用法です。
そこに力を入れて学習するのだという視点を持ちましょう。
will には他にいくつも意味があります。
「未来の意味だけ覚えておけば良くない?」
という感覚を捨ててください。
では、高校の定期テストでよく出題される will 、あるいはその過去形 would の用法とはどんなものでしょうか?
1つ目は、強い意志の will です。
主に否定形で用いられ、「どうしても~しようとしない」「どうしても~しようとしなかった」という強い否定の意志を表します。
He won't listen to my advice.
彼は、どうしても私の助言を聞こうとしない。
この will は、人以外の主語でも成立します。
The door wouldn't open.
そのドアは、どうしても開こうとしなかった。
2つ目は、「性質・傾向のwill」と呼ばれるものです。
Teenagers will not do as they told.
10代の子は、言われた通りにはしないものだ。
Gasoline will float on water.
ガソリンは水に浮くものだ。
このように、人やものごとの性質や傾向を表します。
3つ目は、習慣を表す will です。
現在の習慣でも用いますが、テストによく出るのは、過去の習慣です。
He would often go fishing on Sundays.
彼は、日曜日によく釣りに行ったものだった。
ただ、過去の習慣を表す助動詞は、この often の他に used to があります。
He used to go fishing on Sundays.
彼は、日曜日に釣りに行ったものだった。
両方とも同じ過去の習慣。
では、その使い分けは?
would の後ろは、動作動詞のみがきます。
語り手・書き手が個人的に過去を回想する場合に用いられ、現在もそうであるかないかを明言するものではありません。
また、他の would の用法と区別するため、often , sometimes などの頻度の副詞とともに用いられるのが普通です。
used to の後ろは、動作動詞・状態動詞の両方がきます。
現在はそうではないが、過去はそうだった場合にのみ用いられます。
そして、頻度の副詞とともに用いられることはありません。
「過去は常に~したものだった」という意味になります。
その視点で、もう一度問題を見直しましょう。
問題 以下の空所に適切な語句を埋めよ。
He ( ) often go fishing on Sundays.
1. would 2. used to 3.had 4.has
( )の後ろに、often があります。
明らかに、正解は、1.would です。
根拠をもって考える。
根拠をもって四択問題を解くとは、このようにすることです。
文法問題を勘で解かず、間違えたら、正答の根拠を把握すること。
その問題を解くのに必要だった知識を確認すること。
答えを覚えるのではなく、根拠を覚えます。
間違えた問題には必ずチェックを入れて、時間をおいて解き直すこと。
その繰り返しで、力がついていきます。
頑張りましょう。
2019年05月23日
小学校算数。公式と交換法則・分配法則。
問題 底辺7㎝、高さ13㎝の平行四辺形の面積を求めなさい。
四角形の面積は、5年生で学習します。
平行四辺形の面積の公式は、底辺×高さ=面積 です。
7×13=91 答え 91c㎡
となります。
しかし、これを、
13×7=91
と書く小学生は案外多いです。
問題 直径8cmの円の円周を求めなさい。
公式は、直径×円周率=円周 です。
順当に式を書くならば、
8×3.14
となります。
しかし、これも、
3.14×8
と書く子を多く見ます。
Twitterなどで、ときどき、こういう式を書いた子どもがテストでバツにされた、おかしい、という投稿を見かけます。
この式をどうとらえるかは微妙な問題です。
かけ算は交換法則が成立します。
かける数とかけられる数の順番を入れ替えても、計算の結果は変わりません。
どうせ計算の結果は同じになるのに、公式通りではないからといってバツをつけるのは、おかしい。
そのように考える人が多いのも理解できます。
中学生になれば、公式の順番が変わってしまうことがあります。
円周は、半径をrとし、2πr と表します。
円周をどのように求めているかの意味を伝えるよりも、文字式の順番を優先した公式に変わってしまいます。
答えも、文字式の順番が優先されます。
直径8a cmの円の円周は、8πa cmです。
8aπ cmと書いたら、誤りです。
中学に入れば変わってしまう順番なのですから、3.14×8という式でも正解として良いと私も思います。
小学校の大多数の先生は、3.14×8 という式を見たら、丸をつけた上で、横に、赤ペンで、8×3.14 と書いています。
それで十分でしょう。
しかし、1つ気になるのは、なぜわざわざ公式の順番に逆らって、
3.14×8
という式を立てる子が多いのかということです。
どっちが先でもいいという雑な神経で式を立てているのでしょうか?
そんな雑な感覚で、中学・高校と複雑になっていく公式を正確に活用できるでしょうか。
そう思うと、ちょっと心配にはなるのです。
そういう式を立てている子に対しては、
「丸をつけていいけれど、公式通りの正しい順番で式を書こうね」
と助言します。
公式通りに書かない雑な立式をする子は、例えば、直方体を組み合わせた複雑な図形の体積の問題などで立式ミスをすることがあります。
常に、縦×横×高さ の順番で立式していれば数値を確認しやすいのですが、適当な順番で数字を並べていくと途中で混乱し、高さ×横×高さ といった式を立ててしまうことがあるのです。
3つの数字をどれでも適当な順番にかけときゃいいという考えでいると、そんなミスが起こります。
小学生の中には、面積と体積、平面と立体との識別が、わかっているようで案外わかっていない子もいて、立体の「高さ」と「縦」との区別が曖昧になってしまうことがあります。
公式通りの順番で式を立てるのは、そうしたミスを防ぐための安全策でもあるのです。
6年生で、奇妙な立式ミスをする子がかつていました。
問題 面積が13㎝で、高さが26/3㎝である平行四辺形の底辺の長さを求めなさい。
こうした問題で、1/13×26/3という式を立ててしまうのです。
13÷26/3=13×3/26 とすべきところを、わられる数のほうを逆数にしてしまいます。
分数のわり算のやり方がわかっていないのなら、それを教えれば済みます。
しかし、単なる計算問題では、そんなミスはしませんでした。
文章題になると、いきなりそんな式を立ててしまいます。
「式を書きながらその後の計算のことも考えているから、こういう式になったのかな。わり算だなと思ったら、まずわり算の式を書いて、それを逆数のかけ算に変えて計算しましょう」
その子には、そういう助言をしましたが、なかなか直りませんでした。
まずわり算の式を書くことが無駄な作業のように思えて、省略したかったようです。
式を書きながら、その後の計算のことを考えていると、こういう式になる・・・。
そのとき、何気なく自分で言ったことに、あ、と気づきました。
公式通りの順番で式を立てない子は、単に雑なのではなく、その後の計算のことを考えているのではないか?
円周を求める式を、
3.14×8
と立ててしまう子は、その後、3.14×8 と筆算するつもりでいるから、そのように書いてしまうのではないでしょうか。
しかし、8×3.14 という式を書いても、その後の筆算は、3.14×8 として良いのです。
もしかしたら、8×3.14 という式を立てたら、その順番で筆算しなければならないと思い込んでいるのでしょうか?
式は式。
計算は計算。
式は8×3.14 でも、計算は交換法則を利用して良いのです。
8×3.14 ではなく、3.14×8 という式を立てる子は、交換法則が理解できているのだから、むしろ数学センスがある。
そのように言う人もいます。
しかし、本当にそうでしょうか。
小学生から高校生まで、長期に渡って算数・数学の指導をしている実感から言えば、3.14×8 という式を立てるかどうかでは数学センスは測れないと感じます。
立式と計算とは別だということが理解できていない。
むしろ、そうしたことが懸念されます。
式を立てることと計算することを頭の中で分割できず混同しているから、そういう式を立ててしまう。
式とは、どのように解いたのかを示すもので、計算ではありません。
自分の思考の過程を示すものです。
公式を使用したのなら、公式の通りの順番に書いてあるほうが、どのように解いたかを明瞭に示せます。
小学校で学習する易しい内容ならば、逆に書いても意味はまあまあ伝わります。
しかし、その習慣は後々まで残る可能性があります。
高校数学で、何の定理を使ったかを示さず、自分の計算優先で暗算したり順番を変えたりしてある答案は、1週間も経てば、本人もその式の意味を説明できなくなります。
そして、そういう答案を書いてしまう子ほど、記述式の問題を恐れます。
何をどう書いていいのかわからないと言うのです。
答案を読む人が理解しやすい式を書く努力をしてこなかったので、記述答案をどう書いていいかわからなくなるのです。
式の1行目は、意味の伝わる式を立てる。
高校数学ならば、何の定理であるか、どういう考え方であるかも示します。
2行目以降は、ガンガン計算の工夫をします。
というより、計算過程など書いても書かなくても良いのです。
そうしたメリハリを理解できていない子が高校生でも多いのが現状です。
式と計算とを混同しているのです。
そういう意味では、前述の 3.14×8 という式に褒めるべき要素はありません。
バツにするのは可哀想だとは思いますが。
小学生の段階で数学センスを感じるのは、交換法則よりも分配法則を活用できる子です。
円周の問題や円の面積の問題で分配法則を活用できれば、計算が楽になり、正確になります。
しかし、活用できない子は多いです。
例えば、いくつかの半円が組み合わさった図形の面積。
5×5×3.14÷2-3×3×3.14÷2+2×2×3.14÷2
=(5×5÷2-3×3÷2+2×2÷2)×3.14
=(12.5-4.5+2)×3.14
=10×3.14
=31.4
といった計算の工夫ができる小学生は、限られています。
中学受験生でもこれはできない子が多いのです。
☐×〇+△×〇=(☐+△)×〇
という分配法則は、普通に学校で小4で学習するのにほとんど定着しない内容です。
それだけに、これを活用する子に出会うと、この子は数学センスがあるなと感じます。
ただし、センスはあっても、上のように丁寧に式を書かず、1行目から、
(12.5-4.5+2)×3.14
といった式を立てる子も多いです。
そうした子には、
「式と計算とは違うのですよ」
と注意をしなければなりません。
意味のわかる1行目を書くことの意義を理解してもらうのに時間がかかります。
え?そんなのわかるでしょう?という気持ちが本人の中で強いようです。
そういう意味では、センスがあっても小学生はまだ主観的ですから、自分が意味がわかることは、他人も意味がわかって当然と思っているのかもしれません。
あるいは、自分の計算のために式を書いているので、他人がそれを理解するかどうかは、どうでも良いのでしょう。
高校数学がどのようであるかを想像できるはずのない子に、高校数学に至る道筋を指導していくのは、なかなか難しいです。
3.14×8 という式が表面上正しいかどうかではなく、その式を書く子が、数学的にこの先どう成長するのか。
注目すべきはそちらだと思います。
四角形の面積は、5年生で学習します。
平行四辺形の面積の公式は、底辺×高さ=面積 です。
7×13=91 答え 91c㎡
となります。
しかし、これを、
13×7=91
と書く小学生は案外多いです。
問題 直径8cmの円の円周を求めなさい。
公式は、直径×円周率=円周 です。
順当に式を書くならば、
8×3.14
となります。
しかし、これも、
3.14×8
と書く子を多く見ます。
Twitterなどで、ときどき、こういう式を書いた子どもがテストでバツにされた、おかしい、という投稿を見かけます。
この式をどうとらえるかは微妙な問題です。
かけ算は交換法則が成立します。
かける数とかけられる数の順番を入れ替えても、計算の結果は変わりません。
どうせ計算の結果は同じになるのに、公式通りではないからといってバツをつけるのは、おかしい。
そのように考える人が多いのも理解できます。
中学生になれば、公式の順番が変わってしまうことがあります。
円周は、半径をrとし、2πr と表します。
円周をどのように求めているかの意味を伝えるよりも、文字式の順番を優先した公式に変わってしまいます。
答えも、文字式の順番が優先されます。
直径8a cmの円の円周は、8πa cmです。
8aπ cmと書いたら、誤りです。
中学に入れば変わってしまう順番なのですから、3.14×8という式でも正解として良いと私も思います。
小学校の大多数の先生は、3.14×8 という式を見たら、丸をつけた上で、横に、赤ペンで、8×3.14 と書いています。
それで十分でしょう。
しかし、1つ気になるのは、なぜわざわざ公式の順番に逆らって、
3.14×8
という式を立てる子が多いのかということです。
どっちが先でもいいという雑な神経で式を立てているのでしょうか?
そんな雑な感覚で、中学・高校と複雑になっていく公式を正確に活用できるでしょうか。
そう思うと、ちょっと心配にはなるのです。
そういう式を立てている子に対しては、
「丸をつけていいけれど、公式通りの正しい順番で式を書こうね」
と助言します。
公式通りに書かない雑な立式をする子は、例えば、直方体を組み合わせた複雑な図形の体積の問題などで立式ミスをすることがあります。
常に、縦×横×高さ の順番で立式していれば数値を確認しやすいのですが、適当な順番で数字を並べていくと途中で混乱し、高さ×横×高さ といった式を立ててしまうことがあるのです。
3つの数字をどれでも適当な順番にかけときゃいいという考えでいると、そんなミスが起こります。
小学生の中には、面積と体積、平面と立体との識別が、わかっているようで案外わかっていない子もいて、立体の「高さ」と「縦」との区別が曖昧になってしまうことがあります。
公式通りの順番で式を立てるのは、そうしたミスを防ぐための安全策でもあるのです。
6年生で、奇妙な立式ミスをする子がかつていました。
問題 面積が13㎝で、高さが26/3㎝である平行四辺形の底辺の長さを求めなさい。
こうした問題で、1/13×26/3という式を立ててしまうのです。
13÷26/3=13×3/26 とすべきところを、わられる数のほうを逆数にしてしまいます。
分数のわり算のやり方がわかっていないのなら、それを教えれば済みます。
しかし、単なる計算問題では、そんなミスはしませんでした。
文章題になると、いきなりそんな式を立ててしまいます。
「式を書きながらその後の計算のことも考えているから、こういう式になったのかな。わり算だなと思ったら、まずわり算の式を書いて、それを逆数のかけ算に変えて計算しましょう」
その子には、そういう助言をしましたが、なかなか直りませんでした。
まずわり算の式を書くことが無駄な作業のように思えて、省略したかったようです。
式を書きながら、その後の計算のことを考えていると、こういう式になる・・・。
そのとき、何気なく自分で言ったことに、あ、と気づきました。
公式通りの順番で式を立てない子は、単に雑なのではなく、その後の計算のことを考えているのではないか?
円周を求める式を、
3.14×8
と立ててしまう子は、その後、3.14×8 と筆算するつもりでいるから、そのように書いてしまうのではないでしょうか。
しかし、8×3.14 という式を書いても、その後の筆算は、3.14×8 として良いのです。
もしかしたら、8×3.14 という式を立てたら、その順番で筆算しなければならないと思い込んでいるのでしょうか?
式は式。
計算は計算。
式は8×3.14 でも、計算は交換法則を利用して良いのです。
8×3.14 ではなく、3.14×8 という式を立てる子は、交換法則が理解できているのだから、むしろ数学センスがある。
そのように言う人もいます。
しかし、本当にそうでしょうか。
小学生から高校生まで、長期に渡って算数・数学の指導をしている実感から言えば、3.14×8 という式を立てるかどうかでは数学センスは測れないと感じます。
立式と計算とは別だということが理解できていない。
むしろ、そうしたことが懸念されます。
式を立てることと計算することを頭の中で分割できず混同しているから、そういう式を立ててしまう。
式とは、どのように解いたのかを示すもので、計算ではありません。
自分の思考の過程を示すものです。
公式を使用したのなら、公式の通りの順番に書いてあるほうが、どのように解いたかを明瞭に示せます。
小学校で学習する易しい内容ならば、逆に書いても意味はまあまあ伝わります。
しかし、その習慣は後々まで残る可能性があります。
高校数学で、何の定理を使ったかを示さず、自分の計算優先で暗算したり順番を変えたりしてある答案は、1週間も経てば、本人もその式の意味を説明できなくなります。
そして、そういう答案を書いてしまう子ほど、記述式の問題を恐れます。
何をどう書いていいのかわからないと言うのです。
答案を読む人が理解しやすい式を書く努力をしてこなかったので、記述答案をどう書いていいかわからなくなるのです。
式の1行目は、意味の伝わる式を立てる。
高校数学ならば、何の定理であるか、どういう考え方であるかも示します。
2行目以降は、ガンガン計算の工夫をします。
というより、計算過程など書いても書かなくても良いのです。
そうしたメリハリを理解できていない子が高校生でも多いのが現状です。
式と計算とを混同しているのです。
そういう意味では、前述の 3.14×8 という式に褒めるべき要素はありません。
バツにするのは可哀想だとは思いますが。
小学生の段階で数学センスを感じるのは、交換法則よりも分配法則を活用できる子です。
円周の問題や円の面積の問題で分配法則を活用できれば、計算が楽になり、正確になります。
しかし、活用できない子は多いです。
例えば、いくつかの半円が組み合わさった図形の面積。
5×5×3.14÷2-3×3×3.14÷2+2×2×3.14÷2
=(5×5÷2-3×3÷2+2×2÷2)×3.14
=(12.5-4.5+2)×3.14
=10×3.14
=31.4
といった計算の工夫ができる小学生は、限られています。
中学受験生でもこれはできない子が多いのです。
☐×〇+△×〇=(☐+△)×〇
という分配法則は、普通に学校で小4で学習するのにほとんど定着しない内容です。
それだけに、これを活用する子に出会うと、この子は数学センスがあるなと感じます。
ただし、センスはあっても、上のように丁寧に式を書かず、1行目から、
(12.5-4.5+2)×3.14
といった式を立てる子も多いです。
そうした子には、
「式と計算とは違うのですよ」
と注意をしなければなりません。
意味のわかる1行目を書くことの意義を理解してもらうのに時間がかかります。
え?そんなのわかるでしょう?という気持ちが本人の中で強いようです。
そういう意味では、センスがあっても小学生はまだ主観的ですから、自分が意味がわかることは、他人も意味がわかって当然と思っているのかもしれません。
あるいは、自分の計算のために式を書いているので、他人がそれを理解するかどうかは、どうでも良いのでしょう。
高校数学がどのようであるかを想像できるはずのない子に、高校数学に至る道筋を指導していくのは、なかなか難しいです。
3.14×8 という式が表面上正しいかどうかではなく、その式を書く子が、数学的にこの先どう成長するのか。
注目すべきはそちらだと思います。
2019年05月20日
高校数A n進法 その2。小数の処理。
今回も「n進法」の続きです。
2進法は、「2の0乗の位」「2の1乗の位」「2の2乗の位」というように、1桁上がるごとに桁の2の指数が上がっていくのだということを前回確認しました。
では、小数はどのように扱われるのでしょうか?
まず10進法で考えるのならば、小数第1位は「10分の1の位」、小数第2位は「100分の1の位」、小数第3位は「1000分の1の位」です。
それは、「10分の1の位」「10の2乗分の1の位」「10の3乗分の1の位」と書き表すこともできます。
1つ下の位から見て、1つ上の位はそれを10倍した数の桁、という関係が成立しているのが10進法です。
2進法も同じように考えます。
小数第1位は、「2分の1の位」、小数第2位は「2の2乗分の1の位」、小数第3位は「2の3乗分の位」です。
そうすることで、1つ下の桁から見て1つ上の桁の数は2倍の関係が成立しています。
ちなみに、2分の1は、指数では「2の-1乗」、2の2乗分の1は、指数では「2の-2乗」と表します。
ところで、「2の2乗」を「にのじじょう」と読む人は中高生ではかなり減ってきましたが、まだ一応存在します。
「2の-2乗」を「にのマイナスじじょう」と読む人はさすがに減っています。
高校の数学の先生は「にじょう」と正しく読む人が大半であることも関係しているかもしれません。
「2乗」のときだけ「じじょう」と読むのは、本来、不自然なことです。
数字は「いち、に、さん」と読みます。
「いち、じ、さん」ではありません。
「2乗」だけ「じじょう」と特別扱いの読み方をすることには理由がありません。
しかし、自分が信じてきたことを否定されると強い拒絶反応を示す人もいます。
「じじょう」は「自乗」という意味なんだ!
と言う人がいます。
「2乗」だけそのような特別扱いをする理由はないのですが。
「にじょう」なんて読み方はまぬけっぽい、と言う人もいます。
しかし、そういう主観は、数学とは関係ありません。
ただ、読み方なんか究極どうでも良いので、生徒が「じじょう」と読むのを訂正しないのですが、私が「にじょう」と読むのを生徒が「このセンセイ、読み方を間違えている」と感じているのではないかと考えてしまうことはあります。
こういうことは、間違っていてもそれを信じている人のほうが強いのです。
おっと話が逸れました。
マイナスの指数の話でした。
2分の1は、「2の-1乗」、2の2乗分の1は「2の-2乗」、2の3乗分の1は、「2の-3乗」。
指数はこのように表記されます。
これは、n進法の桁の仕組みと整合しています。
指数がこのように負の数に拡張されることは、n進法を理解していると容易に納得できることです。
指数の拡張は、詳しくは数Ⅱの「指数関数」で学習します。
では、n進法に戻って、実際に問題を問いてみましょう。
問題 10進数0.375を6進法で表せ。
6進法の小数第1位は、6分の1の位。
6進法の小数第2位は、6の2乗分の1の位。
ですから、
0.375=a/6+b/62+c/63+・・・・
と表すことができます。
この両辺を6倍すると、
2.25=a+b/6+c/62+d/63+・・・・・
b/6以下は、全て分母のほうが分子より大きい真分数です。
b/6以下の総和は、1より大きくなることはありせん。
そこで、両辺を比較すると、
2=aであることがわかります。
両辺から2=aを引いて、
0.25=b/6+c/62+d/63+・・・・
この両辺を6倍すると、
1.5=b+c/6+d/62+e/63・・・・
よって、1=bであることがわかります。
さらに、両辺から1=bを引いて、
0.5=c/6+d/62+e/63+・・・・
この両辺を6倍すると、
3=c+d/6+e/62・・・・・
3=cであり、d以降は0であることがわかります。
よって、10進数0.375は、6進法では、2.13です。
上のように、6倍して整数になったものを次の桁の数字と確定していくと、それを利用した筆算が可能です。
整数になったものを取り除きながら、次々と×6をしていく方法です。
数学Aの参考書などに筆算のやり方が載っていますので、参考にしてください。
そして、やり方だけ覚えるのではなく、なぜそれで筆算できるのか、意味を理解してください。
意味を伴っていない筆算は、すぐに忘れます。
n進法の勉強ばかりそんなに毎日していられませんから、突然テストに出て、全く解けないという事態に至ります。
意味を理解していれば、やり方の復元が可能です。
2進法は、「2の0乗の位」「2の1乗の位」「2の2乗の位」というように、1桁上がるごとに桁の2の指数が上がっていくのだということを前回確認しました。
では、小数はどのように扱われるのでしょうか?
まず10進法で考えるのならば、小数第1位は「10分の1の位」、小数第2位は「100分の1の位」、小数第3位は「1000分の1の位」です。
それは、「10分の1の位」「10の2乗分の1の位」「10の3乗分の1の位」と書き表すこともできます。
1つ下の位から見て、1つ上の位はそれを10倍した数の桁、という関係が成立しているのが10進法です。
2進法も同じように考えます。
小数第1位は、「2分の1の位」、小数第2位は「2の2乗分の1の位」、小数第3位は「2の3乗分の位」です。
そうすることで、1つ下の桁から見て1つ上の桁の数は2倍の関係が成立しています。
ちなみに、2分の1は、指数では「2の-1乗」、2の2乗分の1は、指数では「2の-2乗」と表します。
ところで、「2の2乗」を「にのじじょう」と読む人は中高生ではかなり減ってきましたが、まだ一応存在します。
「2の-2乗」を「にのマイナスじじょう」と読む人はさすがに減っています。
高校の数学の先生は「にじょう」と正しく読む人が大半であることも関係しているかもしれません。
「2乗」のときだけ「じじょう」と読むのは、本来、不自然なことです。
数字は「いち、に、さん」と読みます。
「いち、じ、さん」ではありません。
「2乗」だけ「じじょう」と特別扱いの読み方をすることには理由がありません。
しかし、自分が信じてきたことを否定されると強い拒絶反応を示す人もいます。
「じじょう」は「自乗」という意味なんだ!
と言う人がいます。
「2乗」だけそのような特別扱いをする理由はないのですが。
「にじょう」なんて読み方はまぬけっぽい、と言う人もいます。
しかし、そういう主観は、数学とは関係ありません。
ただ、読み方なんか究極どうでも良いので、生徒が「じじょう」と読むのを訂正しないのですが、私が「にじょう」と読むのを生徒が「このセンセイ、読み方を間違えている」と感じているのではないかと考えてしまうことはあります。
こういうことは、間違っていてもそれを信じている人のほうが強いのです。
おっと話が逸れました。
マイナスの指数の話でした。
2分の1は、「2の-1乗」、2の2乗分の1は「2の-2乗」、2の3乗分の1は、「2の-3乗」。
指数はこのように表記されます。
これは、n進法の桁の仕組みと整合しています。
指数がこのように負の数に拡張されることは、n進法を理解していると容易に納得できることです。
指数の拡張は、詳しくは数Ⅱの「指数関数」で学習します。
では、n進法に戻って、実際に問題を問いてみましょう。
問題 10進数0.375を6進法で表せ。
6進法の小数第1位は、6分の1の位。
6進法の小数第2位は、6の2乗分の1の位。
ですから、
0.375=a/6+b/62+c/63+・・・・
と表すことができます。
この両辺を6倍すると、
2.25=a+b/6+c/62+d/63+・・・・・
b/6以下は、全て分母のほうが分子より大きい真分数です。
b/6以下の総和は、1より大きくなることはありせん。
そこで、両辺を比較すると、
2=aであることがわかります。
両辺から2=aを引いて、
0.25=b/6+c/62+d/63+・・・・
この両辺を6倍すると、
1.5=b+c/6+d/62+e/63・・・・
よって、1=bであることがわかります。
さらに、両辺から1=bを引いて、
0.5=c/6+d/62+e/63+・・・・
この両辺を6倍すると、
3=c+d/6+e/62・・・・・
3=cであり、d以降は0であることがわかります。
よって、10進数0.375は、6進法では、2.13です。
上のように、6倍して整数になったものを次の桁の数字と確定していくと、それを利用した筆算が可能です。
整数になったものを取り除きながら、次々と×6をしていく方法です。
数学Aの参考書などに筆算のやり方が載っていますので、参考にしてください。
そして、やり方だけ覚えるのではなく、なぜそれで筆算できるのか、意味を理解してください。
意味を伴っていない筆算は、すぐに忘れます。
n進法の勉強ばかりそんなに毎日していられませんから、突然テストに出て、全く解けないという事態に至ります。
意味を理解していれば、やり方の復元が可能です。
2019年05月17日
高校英語。助動詞その2。助動詞の否定形。
助動詞は、肯定形ですら意味が紛らわしくて覚えにくいのに、それぞれの否定形もあるから、本当にわかりにくい・・・。
そんな話も聞きます。
でも、実際はそんなに紛らわしくはなく、注意して覚えれば大丈夫です。
結局、英語を学ぶ意欲の問題が大きいのだと思います。
できるだけ覚えることを少なくしたいと思う人にとって、英語は覚えることが多過ぎる科目なのかもしれません。
不思議なのは、彼らは、自分の脳の容量をスマホ並みだと思っているふしがあることです。
こんなに沢山のことは、自分の脳には入らない。
あらかじめ、そう決めてしまっている様子が見られます。
実際、子どもの頃からものを覚えることに脳を使うことが少なかったので、最初のうちは脳が上手く動かず、なかなか覚えられないということはあると思います。
しかし、暗記はトレーニング次第です。
沢山覚えると、さらに沢山覚えられるようになるのが人間の脳です。
最初は苦しくても、頑張れば楽になっていきます。
覚えたり考えたりするときに脳にかかる負担が嫌だ、怖い、という子もいます。
運動が苦手な子は、息切れするのをひどく恐れ、嫌がり、走っていてもすぐに立ち止まってしまいます。
同じように、脳に負担がかかると、苦しくて嫌だ、脳細胞が潰れる、脳が壊れる、と感じる子がいます。
痛みや苦しさに対する原始的な恐怖があるのでしょう。
運動嫌いな子に、息切れなんか我慢すれば済むことだ、じきに慣れるよといっても、話は通じません。
同様に、頭を使うことが嫌いな子に、頭に負荷がかかっても別に大丈夫、じきに慣れるよといっても、なかなか話は通じないのです。
原始的な恐怖なので、頭が重い、苦しい、と感じた瞬間に、考えることも覚えることも止めてしまいます。
そうしたことのバカらしさを、本人が客観視し、気づいてくれると良いと思います。
高校生なら、そういうことに客観的になれるはずです。
脳に負担がかかり、脳が重くて苦しい、脳細胞が潰れると感じても、実際のところ脳には何らダメージはありません。
それに耐えれば、前より脳がよく動くようになります。
さて、助動詞に話を戻します。
助動詞には否定形があります。
そこで混乱が生じることがあります。
それは、中学の頃から始まっています。
can は「~できる」。
cannot は「~できない」。
これは、わかりやすい。
しかし、次に学習する助動詞 must でもう混乱が始まります。
must は「~しなければならない」。
must not は、「~してはいけない」。
それを覚えるだけで済むのなら良いのですが、疑問文とその答え方との対応は?
Must I write the report ?
--- No , you ( )( )( ).
これに答えようとして、
--- No , you (must)(not)( ).
・・・あれ?
( )が1つ余る・・・。
中2で、この問題に直面します。
上のやりとりを日本語に直すと、
「私はそのレポートを書かなければなりませんか」
「いいえ、書いてはいけません」
となります。
それは、会話としては不自然です。
「私はそのレポートを書かなければなりませんか」
「いいえ、書く必要はありません」
が、自然な会話です。
だから、正解は、
Must I write the report ?
--- No , you (don't)(have)(to).
となります。
中2の段階で、これが覚えられない。
毎回毎回、この問題で間違える。
そういう子は多いです。
そのまま高校生になっていますから、さらにバリエーションが増えると、ますます混乱し、訳がわからなくなります。
しかし、なぜ上の問題を毎回毎回間違えるのでしょうか。
おそらく、例外的なところがテストに出る、そこが問われる、ということを自覚していないのではないかと思うのです。
勉強が得意な子は、こうした説明を1回受けたときに、「ああ、ここがテストに出るんだな」と理解しています。
ちょっと変則的で、気をつけなければならない。
じゃあ、ここがテストに出る、と気づいているのです。
ここは間違えやすいから、注意してよく覚えておこう。
そういう覚え方をしています。
一方、勉強が苦手な子は、規則的なところにばかり目を向けがちです。
canの反対は、cannot 。
じゃあ、must の反対は、must not 。
よーし、覚えた。
こういう学習をしています。
・・・そんなの、あまりテストに出ないんですが。( 一一)
そうは言っても、1回失敗すれば、あ、ここが問われるんだと理解し、できるようになっても良くないか?
しかし、そう甘くはありません。
毎回同じ問題を間違える子は、自分がどの問題を間違い、どの問題を正答したかを記憶しませんし、記録もしません。
間違えた問題に印をつけ、後で解き直すということをしません。
しばらく時間をおいて類題を解くときに、同じ発想で同じ誤答をしてしまいます。
そして、誤答の回数が増えるほど、誤答の記憶のほうが強くなっていきます。
違ったような気もする・・・とは思いつつも、どちらが正しかったのか、誤答の回数が多くなるほど、曖昧になっていきます。
変則的なところは、最初の覚え方が大切。
最初にきちっと覚えて正答しておけば、記憶は曖昧になりません。
もう1つ、この問題を誤答しがちな人の特徴は、英語の言い換え表現を無視する傾向があるのです。
must = have to と教わっても、覚えません。
同じ意味の別の表現なんか要らなくない?
1つ覚えておけば良くない?
そういう意識が働いているようです。
これも、自分の脳の容量をスマホ並みと誤解しているところからきているのかもしれません。
出来るだけ覚える量を減らしたい。
2つ同じ意味の言葉があるのなら、1つだけ覚えて済ませたい。
学習内容をスリム化したい・・・。
人間の脳の容量はスマホ並みではありません。
覚えれば覚えるほど自動的に容量が拡張されるから、大丈夫です。
まず、そのことを信じてほしいと思います。
一生使わないで終わる脳細胞が無尽蔵にあるんです。
have to すら眼中にない人は、don't have to は、確かに発想できないですよね・・・。
全ての言語は多くの類義語をもっているもので、それがその言語の豊かさの表れの1つです。
また、英語で文章を書く場合、同じ単語ばかり使わず、できるだけ言い換えるのが文章作法です。
それは、長文を読む場合にも理解しておかなければならないことです。
筆者が言い換える度に意味を見失ってしまい、そのせいで英文が読めない人は多いのです。
それだけでなく、個々の助動詞に言い換えがあるのは、時制の上で必要なことです。
must は現在形です。
過去も must で表せますが、had to を用いたほうが、過去であることが明瞭です。
さらに、未来は、will must のように助動詞を2個つなげる用法はありません。
will have to となります。
have to は、無視できるものではなく、絶対に使わなければならないものです。
公立中学ですと、学習するのはそれだけなので、要点をおさえてしっかり覚えれば大丈夫です。
しかし、中高一貫校の英語は、中学の段階で高校英語の内容が入ってきていますので、別のややこしさがあります。
高校英語も勿論そうです。
Must I write the report ?
--- No , you ( )( ).
こういう問題が出題されます。
・・・あれ?
( )が2つしかない?
じゃあ、--- No , you (must)(not).
でいいということ?
いえ、そんなわけがありません。
正解は、
--- No , you (need)(not).
あるいは、
--- No , you (may)(not).
うわあ、色々出てきた・・・。
覚えることが複数あるなら、その複数のものを全部覚える必要があります。
それを自覚するだけで、英語力はかなり違ってきます。
need は、一般動詞でもありますが、否定文・疑問文のみ、助動詞としても使用します。
だから、don't need to という用法もありますが、 need not でも、「~する必要はない」という意味になります。
may は「~してもよい」ですから、may not は、「~しなくてもよい」です。
こうした隅々の学習内容をきちんと押さえていくこと。
助動詞に限らず、この先の文法学習でも、こうした不規則なところ、色々な言い方があるところがテストに出るのだと注目し、そこをしっかり学習しましょう。
英語の勉強はテストで良い点を取るためだけにするものではありません。
しかし、実際に英語のテストで良い点を取ると、気持ちが変わってきます。
自分が得意なこと・良くできることは、好きになります。
じゃあ、学校の教科書の勉強だけでなく、英検にも挑戦してみようかなとか、ラジオ講座も聴いてみようかなという気持ちになります。
そうして、本当に英語が得意になっていきます。
まずはテストで得点するための勉強のコツを身につけましょう。
そんな話も聞きます。
でも、実際はそんなに紛らわしくはなく、注意して覚えれば大丈夫です。
結局、英語を学ぶ意欲の問題が大きいのだと思います。
できるだけ覚えることを少なくしたいと思う人にとって、英語は覚えることが多過ぎる科目なのかもしれません。
不思議なのは、彼らは、自分の脳の容量をスマホ並みだと思っているふしがあることです。
こんなに沢山のことは、自分の脳には入らない。
あらかじめ、そう決めてしまっている様子が見られます。
実際、子どもの頃からものを覚えることに脳を使うことが少なかったので、最初のうちは脳が上手く動かず、なかなか覚えられないということはあると思います。
しかし、暗記はトレーニング次第です。
沢山覚えると、さらに沢山覚えられるようになるのが人間の脳です。
最初は苦しくても、頑張れば楽になっていきます。
覚えたり考えたりするときに脳にかかる負担が嫌だ、怖い、という子もいます。
運動が苦手な子は、息切れするのをひどく恐れ、嫌がり、走っていてもすぐに立ち止まってしまいます。
同じように、脳に負担がかかると、苦しくて嫌だ、脳細胞が潰れる、脳が壊れる、と感じる子がいます。
痛みや苦しさに対する原始的な恐怖があるのでしょう。
運動嫌いな子に、息切れなんか我慢すれば済むことだ、じきに慣れるよといっても、話は通じません。
同様に、頭を使うことが嫌いな子に、頭に負荷がかかっても別に大丈夫、じきに慣れるよといっても、なかなか話は通じないのです。
原始的な恐怖なので、頭が重い、苦しい、と感じた瞬間に、考えることも覚えることも止めてしまいます。
そうしたことのバカらしさを、本人が客観視し、気づいてくれると良いと思います。
高校生なら、そういうことに客観的になれるはずです。
脳に負担がかかり、脳が重くて苦しい、脳細胞が潰れると感じても、実際のところ脳には何らダメージはありません。
それに耐えれば、前より脳がよく動くようになります。
さて、助動詞に話を戻します。
助動詞には否定形があります。
そこで混乱が生じることがあります。
それは、中学の頃から始まっています。
can は「~できる」。
cannot は「~できない」。
これは、わかりやすい。
しかし、次に学習する助動詞 must でもう混乱が始まります。
must は「~しなければならない」。
must not は、「~してはいけない」。
それを覚えるだけで済むのなら良いのですが、疑問文とその答え方との対応は?
Must I write the report ?
--- No , you ( )( )( ).
これに答えようとして、
--- No , you (must)(not)( ).
・・・あれ?
( )が1つ余る・・・。
中2で、この問題に直面します。
上のやりとりを日本語に直すと、
「私はそのレポートを書かなければなりませんか」
「いいえ、書いてはいけません」
となります。
それは、会話としては不自然です。
「私はそのレポートを書かなければなりませんか」
「いいえ、書く必要はありません」
が、自然な会話です。
だから、正解は、
Must I write the report ?
--- No , you (don't)(have)(to).
となります。
中2の段階で、これが覚えられない。
毎回毎回、この問題で間違える。
そういう子は多いです。
そのまま高校生になっていますから、さらにバリエーションが増えると、ますます混乱し、訳がわからなくなります。
しかし、なぜ上の問題を毎回毎回間違えるのでしょうか。
おそらく、例外的なところがテストに出る、そこが問われる、ということを自覚していないのではないかと思うのです。
勉強が得意な子は、こうした説明を1回受けたときに、「ああ、ここがテストに出るんだな」と理解しています。
ちょっと変則的で、気をつけなければならない。
じゃあ、ここがテストに出る、と気づいているのです。
ここは間違えやすいから、注意してよく覚えておこう。
そういう覚え方をしています。
一方、勉強が苦手な子は、規則的なところにばかり目を向けがちです。
canの反対は、cannot 。
じゃあ、must の反対は、must not 。
よーし、覚えた。
こういう学習をしています。
・・・そんなの、あまりテストに出ないんですが。( 一一)
そうは言っても、1回失敗すれば、あ、ここが問われるんだと理解し、できるようになっても良くないか?
しかし、そう甘くはありません。
毎回同じ問題を間違える子は、自分がどの問題を間違い、どの問題を正答したかを記憶しませんし、記録もしません。
間違えた問題に印をつけ、後で解き直すということをしません。
しばらく時間をおいて類題を解くときに、同じ発想で同じ誤答をしてしまいます。
そして、誤答の回数が増えるほど、誤答の記憶のほうが強くなっていきます。
違ったような気もする・・・とは思いつつも、どちらが正しかったのか、誤答の回数が多くなるほど、曖昧になっていきます。
変則的なところは、最初の覚え方が大切。
最初にきちっと覚えて正答しておけば、記憶は曖昧になりません。
もう1つ、この問題を誤答しがちな人の特徴は、英語の言い換え表現を無視する傾向があるのです。
must = have to と教わっても、覚えません。
同じ意味の別の表現なんか要らなくない?
1つ覚えておけば良くない?
そういう意識が働いているようです。
これも、自分の脳の容量をスマホ並みと誤解しているところからきているのかもしれません。
出来るだけ覚える量を減らしたい。
2つ同じ意味の言葉があるのなら、1つだけ覚えて済ませたい。
学習内容をスリム化したい・・・。
人間の脳の容量はスマホ並みではありません。
覚えれば覚えるほど自動的に容量が拡張されるから、大丈夫です。
まず、そのことを信じてほしいと思います。
一生使わないで終わる脳細胞が無尽蔵にあるんです。
have to すら眼中にない人は、don't have to は、確かに発想できないですよね・・・。
全ての言語は多くの類義語をもっているもので、それがその言語の豊かさの表れの1つです。
また、英語で文章を書く場合、同じ単語ばかり使わず、できるだけ言い換えるのが文章作法です。
それは、長文を読む場合にも理解しておかなければならないことです。
筆者が言い換える度に意味を見失ってしまい、そのせいで英文が読めない人は多いのです。
それだけでなく、個々の助動詞に言い換えがあるのは、時制の上で必要なことです。
must は現在形です。
過去も must で表せますが、had to を用いたほうが、過去であることが明瞭です。
さらに、未来は、will must のように助動詞を2個つなげる用法はありません。
will have to となります。
have to は、無視できるものではなく、絶対に使わなければならないものです。
公立中学ですと、学習するのはそれだけなので、要点をおさえてしっかり覚えれば大丈夫です。
しかし、中高一貫校の英語は、中学の段階で高校英語の内容が入ってきていますので、別のややこしさがあります。
高校英語も勿論そうです。
Must I write the report ?
--- No , you ( )( ).
こういう問題が出題されます。
・・・あれ?
( )が2つしかない?
じゃあ、--- No , you (must)(not).
でいいということ?
いえ、そんなわけがありません。
正解は、
--- No , you (need)(not).
あるいは、
--- No , you (may)(not).
うわあ、色々出てきた・・・。
覚えることが複数あるなら、その複数のものを全部覚える必要があります。
それを自覚するだけで、英語力はかなり違ってきます。
need は、一般動詞でもありますが、否定文・疑問文のみ、助動詞としても使用します。
だから、don't need to という用法もありますが、 need not でも、「~する必要はない」という意味になります。
may は「~してもよい」ですから、may not は、「~しなくてもよい」です。
こうした隅々の学習内容をきちんと押さえていくこと。
助動詞に限らず、この先の文法学習でも、こうした不規則なところ、色々な言い方があるところがテストに出るのだと注目し、そこをしっかり学習しましょう。
英語の勉強はテストで良い点を取るためだけにするものではありません。
しかし、実際に英語のテストで良い点を取ると、気持ちが変わってきます。
自分が得意なこと・良くできることは、好きになります。
じゃあ、学校の教科書の勉強だけでなく、英検にも挑戦してみようかなとか、ラジオ講座も聴いてみようかなという気持ちになります。
そうして、本当に英語が得意になっていきます。
まずはテストで得点するための勉強のコツを身につけましょう。
2019年05月15日
数A「整数の性質」n進法。
数A最後の学習内容は、「n進法」です。
n進法は、中学受験の受験算数でも出題されることがあります。
容易に理解できる小学生もいれば、高校生でも全く理解できない子もいる単元です。
理解できない子は、10進法の仕組みの根本を理解できていない可能性があります。
10進法の仕組みは、子どもの頃から慣れ親しみ過ぎて自明の理のようになっていて、むしろ意識しにくいということはあります。
しかし、n進法を学ぶことで10進法の仕組みが逆に照射され、それが絶対のものではないことに気づかされます。
そのとき、頭の中が一瞬揺れるような快感があるはずなんです。
数が10集まったら上の桁に上げることは、絶対のことではない。
他の可能性もあるのだ。
n進法を学ぶ最大の意義は、これに気づくことではないでしょうか。
当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではない。
そういうルールを皆で守っているだけで、自明の理のわけではない。
そのことに気づくもう1つの単元というと、これも受験算数で出題される「約束記号」があります。
しかし、こちらも、理解できない子は、見ていて不可解なほどに理解できません。
まず、そちらから見ていきましょう。
なぜn進法の理解が進まないか、原因をさぐる一助になると思います。
問題 A◎B=A+A×B-B とする。3◎19を計算しなさい。
何も難しくないはずなんです。
問題に書いてある通りに代入して、
3+3×19-19=41
と解答するだけです。
ところが、この問題、理解できない子は全く理解できません。
小学生だけではありません。
中学生でも、高校生でも、この種の問題には全く対応できない子がいます。
「問題が何を言っているのか、わからない」
異口同音にそう言います。
この問題のときだけ、◎に計算記号の意味をもたせる。
そのことが理解できないようです。
そんなことをしていいはずがない。
あり得ない。
だから、全く理解できない。
そういうことなのだろうかと想像するのですが、想像の域を出ません。
本人が、明確に言葉にして表現することがないからです。
このことが理解できない子は、大抵うろたえています。
どこがわからないのか問い返しても、絶句している場合が大半です。
解き方や正解を教えても、動揺は消えません。
説明の仕方を変えても、類題を解いても、動揺したまま、理解が進みません。
「割合」がわからないとか、「速さ」がわからないという場合は、何がどうわかりにくいのか、教える側が推測できる余地があるのですが、約束記号がわからない場合は、違う種類の断絶がそこにある気がします。
大袈裟に言ってしまえば、世界観が違うのかもしれないというほどの断絶がそこにあります。
+、-、×、÷なんて計算記号は、単なる記号で、絶対のものではありません。
そう決めて、その通りに使っているだけです。
世界中でそうしているので、その記号を使えば便利だから今後も使い続けるでしょうが、絶対のものではありません。
だから、今だけ◎に計算記号の意味あいをもたせても何も悪くありません。
勿論、それはその問題だけの約束で、一般には通用しません。
小学生でも一瞬でそうしたことがわかり、パッと顔の輝く子がいます。
当たり前だと思っていたことは、何1つ当たり前ではない。
頭の中がグラッと揺れる快感がそこにあります。
数学を学ぶ快感の1つだと思います。
n進法も、そのような単元です。
小学生でも理解できる一方、高校生でも理解できない子がいます。
思い込みにしばられると理解しにくいようです。
2進法を例にとって考えてみましょう。
便宜上10進法と同じ数字を使いますが、本当は全く別の文字や記号を使っても良いのです。
受験算数では、むしろ数字を使わない2進法の問題のほうが多く出題されるくらいです。
10進法と同じ数字を使って2進法で数を表す場合、使える数字は、0と1の2種類だけです。
これで全ての数量を表します。
10進法の1にあたる数は、2進法でも、1です。
10進法の2にあたる数は、2進法では10と表します。
10進法の3にあたる数は、2進法では11です。
10進法の4にあたる数は、2進法では100です。
10進法の5にあたる数は、2進法では101です。
10進法の6にあたる数は、2進法では110です。
10進法の7にあたる数は、2進法では、111です。
10進法の8にあたる数は、2進法では、1000です。
それぞれの桁で2つ数がたまると、上の桁に上げていくということです。
それは、10進法で、それぞれの桁で数が10個たまると上の桁に上げていくということと対応しています。
10進法では、1が10集まると、十の位に数を上げて、「10」と表します。
10が10集まると、百の位に数を上げて、「100」と表します。
同じように、2進法では、1が2集まると「10」と上の桁に上げます。
2が2集まると「100」と上の桁に上げます。
10進法では、各桁を「一の位」「十の位」「百の位」と通常呼びますが、それは指数を用いて「1の位」「10の位」「10の2乗の位」「10の3乗の位」と呼ぶこともできます。
同じように、2進法では、「1の位」「2の位」「2の2乗の位」「2の3乗の位」となります。
さらに言えば「1の位」は「2の0乗の位」、「2の位」は「2の1乗の位」と表しても良いですね。
n進法と連動させると、指数法則がより明確になってきます。
しかし、10進法の説明自体を10進法を基盤として行わざるを得ないという皮肉もあり、理解できない子は全く理解できないということが起こります。
「数字が10個集まると、十の位に上げて、10と表す」
説明の中に既に10が出てくるので、何のことやらわからない、ということになりがちです。
「10進法で使う数字は、0から9までの10個でしょう?2進法では、0と1の2個の数字を使うんですよ」
と説明すると、
「10進法で使う数字は10個じゃない」
と言う子がかつていました。
9の次は、10だし、次は11だし、12だし、数字は無限にあるんだから、数字は10個じゃない。10進法じゃない。
そう言うのです。
これが、n進法が理解できない根本の原因だと思います。
核心が見えた瞬間でした。
n進法を理解できない原因を言語化できず、ただ動揺する子が多い中で、それを言語化できる。
言語能力は高いが数学がよくわからない子とのこういう対話は、興味深いです。
こちらが学べることが沢山あります。
11は、「11」という数字ではなく、10と1です。
12は、「12」という数字ではなく、10と2です。
そのことは、小学校の低学年から幾度も幾度も勉強しています。
例えば、
475=100×☐+10×☐+1×☐
といった穴埋め問題は、新しい桁の数を学ぶ際に、小学生が繰り返し練習させられることです。
あるいは、
475は、100が☐こ、10が☐こ、1が☐こ集まってできた数です。
といった問題もあります。
この穴埋め問題は簡単に正解できる子が大半です。
しかし、この問題が何を伝えようとしているのか、その本質を理解できないまま通り過ぎてしまう子が多いのだと思います。
小学校で学んでいる数理の本質は、あまりにも本質なため、言葉にすると難解になり、子どもに伝えにくい内容です。
しかし、子どもは、難解なことを言語化されなくても本質的に理解できる能力があります。
それに頼って繰り返されるこうした問題。
ここから数理の本質を理解した子と、何も気がつかなかった子と。
n進法の理解についての根本の差は、そうしたところから生まれているのだと思います。
就学前、あるいは小学1年生が数を数えると、まだ10進法のルールを理解していないことがあります。
「1、2、3、・・・・・、9、10、11、12、13、・・・19、100」
19の次がもう100になってしまう子が、たまにいます。
12くらいまでは耳慣れているので、その流れで19までは知っているのですが、その先の数の仕組みがどうなっているのかわからないので、19の次は100になってしまうのです。
10が2個たまったら100にしているので、十の位だけ2進法になっているのです。
10が10個たまると、100になる。
このように幼い段階で正しい10進法へと導びかれているのですが、そのことがあまりにも無意識のレベルに沈み込み、意識されないようです。
小学校で、大きい数や小数へと数が拡張されていく度に、上述のように桁に対して正しい理解をしているかを確認する問題が出されているのですが、何を確認されているのか、意識できないのです。
それは、10倍、100倍、あるいは1/10、1/100する際に、桁移動で処理できることが身につかない子の中にも見られます。
÷100の計算を、真面目に筆算してしまう子がいます。
×100の計算も同様です。
桁を移動すれば良いと助言すると、「あ、そうだった」と言うのですが、100倍するのに3桁移動してしまう子も多いです。
そのやり方を教わったことがあるのを覚えているだけで、意味を理解していないのだと、そうした様子から気づきます。
そのまま高校生になって、n進法に出会い、愕然とする。
どうしてもどうしても理解できない。
そういう人がいるようです。
どうか頭を柔らかく。
小学生のときにはわからなかったことでも、高校生の今なら理解できるかもしれません。
数字の桁の仕組みについて、改めて考えてみる、良い機会です。
n進法は、中学受験の受験算数でも出題されることがあります。
容易に理解できる小学生もいれば、高校生でも全く理解できない子もいる単元です。
理解できない子は、10進法の仕組みの根本を理解できていない可能性があります。
10進法の仕組みは、子どもの頃から慣れ親しみ過ぎて自明の理のようになっていて、むしろ意識しにくいということはあります。
しかし、n進法を学ぶことで10進法の仕組みが逆に照射され、それが絶対のものではないことに気づかされます。
そのとき、頭の中が一瞬揺れるような快感があるはずなんです。
数が10集まったら上の桁に上げることは、絶対のことではない。
他の可能性もあるのだ。
n進法を学ぶ最大の意義は、これに気づくことではないでしょうか。
当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではない。
そういうルールを皆で守っているだけで、自明の理のわけではない。
そのことに気づくもう1つの単元というと、これも受験算数で出題される「約束記号」があります。
しかし、こちらも、理解できない子は、見ていて不可解なほどに理解できません。
まず、そちらから見ていきましょう。
なぜn進法の理解が進まないか、原因をさぐる一助になると思います。
問題 A◎B=A+A×B-B とする。3◎19を計算しなさい。
何も難しくないはずなんです。
問題に書いてある通りに代入して、
3+3×19-19=41
と解答するだけです。
ところが、この問題、理解できない子は全く理解できません。
小学生だけではありません。
中学生でも、高校生でも、この種の問題には全く対応できない子がいます。
「問題が何を言っているのか、わからない」
異口同音にそう言います。
この問題のときだけ、◎に計算記号の意味をもたせる。
そのことが理解できないようです。
そんなことをしていいはずがない。
あり得ない。
だから、全く理解できない。
そういうことなのだろうかと想像するのですが、想像の域を出ません。
本人が、明確に言葉にして表現することがないからです。
このことが理解できない子は、大抵うろたえています。
どこがわからないのか問い返しても、絶句している場合が大半です。
解き方や正解を教えても、動揺は消えません。
説明の仕方を変えても、類題を解いても、動揺したまま、理解が進みません。
「割合」がわからないとか、「速さ」がわからないという場合は、何がどうわかりにくいのか、教える側が推測できる余地があるのですが、約束記号がわからない場合は、違う種類の断絶がそこにある気がします。
大袈裟に言ってしまえば、世界観が違うのかもしれないというほどの断絶がそこにあります。
+、-、×、÷なんて計算記号は、単なる記号で、絶対のものではありません。
そう決めて、その通りに使っているだけです。
世界中でそうしているので、その記号を使えば便利だから今後も使い続けるでしょうが、絶対のものではありません。
だから、今だけ◎に計算記号の意味あいをもたせても何も悪くありません。
勿論、それはその問題だけの約束で、一般には通用しません。
小学生でも一瞬でそうしたことがわかり、パッと顔の輝く子がいます。
当たり前だと思っていたことは、何1つ当たり前ではない。
頭の中がグラッと揺れる快感がそこにあります。
数学を学ぶ快感の1つだと思います。
n進法も、そのような単元です。
小学生でも理解できる一方、高校生でも理解できない子がいます。
思い込みにしばられると理解しにくいようです。
2進法を例にとって考えてみましょう。
便宜上10進法と同じ数字を使いますが、本当は全く別の文字や記号を使っても良いのです。
受験算数では、むしろ数字を使わない2進法の問題のほうが多く出題されるくらいです。
10進法と同じ数字を使って2進法で数を表す場合、使える数字は、0と1の2種類だけです。
これで全ての数量を表します。
10進法の1にあたる数は、2進法でも、1です。
10進法の2にあたる数は、2進法では10と表します。
10進法の3にあたる数は、2進法では11です。
10進法の4にあたる数は、2進法では100です。
10進法の5にあたる数は、2進法では101です。
10進法の6にあたる数は、2進法では110です。
10進法の7にあたる数は、2進法では、111です。
10進法の8にあたる数は、2進法では、1000です。
それぞれの桁で2つ数がたまると、上の桁に上げていくということです。
それは、10進法で、それぞれの桁で数が10個たまると上の桁に上げていくということと対応しています。
10進法では、1が10集まると、十の位に数を上げて、「10」と表します。
10が10集まると、百の位に数を上げて、「100」と表します。
同じように、2進法では、1が2集まると「10」と上の桁に上げます。
2が2集まると「100」と上の桁に上げます。
10進法では、各桁を「一の位」「十の位」「百の位」と通常呼びますが、それは指数を用いて「1の位」「10の位」「10の2乗の位」「10の3乗の位」と呼ぶこともできます。
同じように、2進法では、「1の位」「2の位」「2の2乗の位」「2の3乗の位」となります。
さらに言えば「1の位」は「2の0乗の位」、「2の位」は「2の1乗の位」と表しても良いですね。
n進法と連動させると、指数法則がより明確になってきます。
しかし、10進法の説明自体を10進法を基盤として行わざるを得ないという皮肉もあり、理解できない子は全く理解できないということが起こります。
「数字が10個集まると、十の位に上げて、10と表す」
説明の中に既に10が出てくるので、何のことやらわからない、ということになりがちです。
「10進法で使う数字は、0から9までの10個でしょう?2進法では、0と1の2個の数字を使うんですよ」
と説明すると、
「10進法で使う数字は10個じゃない」
と言う子がかつていました。
9の次は、10だし、次は11だし、12だし、数字は無限にあるんだから、数字は10個じゃない。10進法じゃない。
そう言うのです。
これが、n進法が理解できない根本の原因だと思います。
核心が見えた瞬間でした。
n進法を理解できない原因を言語化できず、ただ動揺する子が多い中で、それを言語化できる。
言語能力は高いが数学がよくわからない子とのこういう対話は、興味深いです。
こちらが学べることが沢山あります。
11は、「11」という数字ではなく、10と1です。
12は、「12」という数字ではなく、10と2です。
そのことは、小学校の低学年から幾度も幾度も勉強しています。
例えば、
475=100×☐+10×☐+1×☐
といった穴埋め問題は、新しい桁の数を学ぶ際に、小学生が繰り返し練習させられることです。
あるいは、
475は、100が☐こ、10が☐こ、1が☐こ集まってできた数です。
といった問題もあります。
この穴埋め問題は簡単に正解できる子が大半です。
しかし、この問題が何を伝えようとしているのか、その本質を理解できないまま通り過ぎてしまう子が多いのだと思います。
小学校で学んでいる数理の本質は、あまりにも本質なため、言葉にすると難解になり、子どもに伝えにくい内容です。
しかし、子どもは、難解なことを言語化されなくても本質的に理解できる能力があります。
それに頼って繰り返されるこうした問題。
ここから数理の本質を理解した子と、何も気がつかなかった子と。
n進法の理解についての根本の差は、そうしたところから生まれているのだと思います。
就学前、あるいは小学1年生が数を数えると、まだ10進法のルールを理解していないことがあります。
「1、2、3、・・・・・、9、10、11、12、13、・・・19、100」
19の次がもう100になってしまう子が、たまにいます。
12くらいまでは耳慣れているので、その流れで19までは知っているのですが、その先の数の仕組みがどうなっているのかわからないので、19の次は100になってしまうのです。
10が2個たまったら100にしているので、十の位だけ2進法になっているのです。
10が10個たまると、100になる。
このように幼い段階で正しい10進法へと導びかれているのですが、そのことがあまりにも無意識のレベルに沈み込み、意識されないようです。
小学校で、大きい数や小数へと数が拡張されていく度に、上述のように桁に対して正しい理解をしているかを確認する問題が出されているのですが、何を確認されているのか、意識できないのです。
それは、10倍、100倍、あるいは1/10、1/100する際に、桁移動で処理できることが身につかない子の中にも見られます。
÷100の計算を、真面目に筆算してしまう子がいます。
×100の計算も同様です。
桁を移動すれば良いと助言すると、「あ、そうだった」と言うのですが、100倍するのに3桁移動してしまう子も多いです。
そのやり方を教わったことがあるのを覚えているだけで、意味を理解していないのだと、そうした様子から気づきます。
そのまま高校生になって、n進法に出会い、愕然とする。
どうしてもどうしても理解できない。
そういう人がいるようです。
どうか頭を柔らかく。
小学生のときにはわからなかったことでも、高校生の今なら理解できるかもしれません。
数字の桁の仕組みについて、改めて考えてみる、良い機会です。
2019年05月13日
鷹ノ巣山を歩いてきました。2019年5月。
2019年5月12日(土)、奥多摩の鷹ノ巣山を歩いてきました。
去年は、水根沢林道から登り、時間切れで鷹ノ巣山には到達できませんでしたので、今年は普通のコースを行きます。
ホリデー快速おくたま1号に乗車。
国分寺からは座っていくことができました。
続く立川駅で、ザックを担いだ中高年がどっと乗ってくると、私の両側に座っていた若い登山者がさっと席を立ちました。
向かい側の若い子も、席を譲っていました。
いやいや、普段の電車はともかく、これから山に行こうという中高年に席なんか譲らなくていいんですよー。
これから5時間以上も山を歩こうという人たちばかりなんですから。
でも、譲られた中高年はやはり嬉しそうで、ほっこりする光景ではありました。
「年寄り扱いするなっ」
とプライドをぶつけて怒りだす人がいないのは、むしろ自分の健脚に自信がある表れなのかもしれません。
えへへ、譲ってもらっちゃった、嬉しい、といった表情です。
席を1つ移動し、二人連れの登山者が並んで座れるようにして、電車の旅は続きました。
奥多摩駅8:21着。
「川乗橋」行きの増発便が、私がバス停の行列の最後尾に着く間もなく出発していきました。
すぐに次の「東日原」行きの増発がバス停に入ってきて、それも満員となり、出発。
その次にまたすぐバス停に入ってきた「東日原」行き増発バスに座っていくことができました。
乗客の半分は川乗橋で下車し、終点「東日原」。8:50。
バス停は、バスがそこでUターンできるスペースを確保した構造になっているのですが、そこに高校生の集団がたまって身動きとれないようになっていました。
何だ何だ?
高校の登山部かな?
前のバスから下車したばかりで、移動の指示も出ていないようでした。
バスは、そうした高校生たちを避けて何とかUターンし、停車しました。
トイレを済ませ、支度をして出発。9:00。
バスの進行方向のまま、まずは舗装道路を歩いていきます。
20人ほどの高校生の集団は、場所を別の駐車場に移動していましたが、まだ出発していませんでした。
集団の動きの鈍さは、思えば不思議です。
1人なら、さっと出発できます。
でも、集団になると、「10分後に出発」と指示したところで、実際の出発はそのさらに5分後にできれば早いほうです。
途中、派出所の登山ポストに登山届を投函し、さらに歩いていくと、稲村岩が大きく見えてきます。
その左手に、そこから続く尾根も見えました。
高いなあ。
あんなところに1時間で行けるんだから、それも思えば不思議な気がします。
登山口の看板から、裏の畑に下りていくような印象の石段を下ると、登山道の始まりです。
まだ身体のバランスの悪い朝一番に歩くにしては細めの道で、沢を高まく崖っぷち道が苦手な私は、このコースの最初の緊張箇所です。
水根沢の登山道ほど細くはないので、気をつけて歩けば大丈夫ですが。
しっかりとした造りの已ノ戸橋を渡ると、登山道は稲村岩の基部をまわり込みながら登っていきます。
登山道が崩落した箇所に桟道が作られ、その桟道も老朽化して、今は山側にまわり込んで歩くようになっていました。
時の流れを感じます。
さらに登っていくと、高校生が追いついてきました。
「広くなったところで、抜かせてください」
先頭を歩くリーダーがはきはきと声をかけてきました。
已ノ戸沢。
まず1つ目の木橋を渡り、岩をぬって沢の右岸を上っていきます。
続いて、2つ目の木橋。
沢の左岸に渡り返し、これも崩落した登山道をさらに山側に付け替えた道を歩いていきます。
最後に3つ目の木橋。
沢の右岸に戻ると、今までよりも平らで歩きやすい道が少しあり、その先、4つ目の木橋は渡りません。
昔は、渡れそうな印象があり紛らわしかったのですが、今は苔蒸して渡れる気がしない木橋です。
ここからジグザグの急登の始まりです。
しばらく登っていくと、再び、高校生20人ほどの集団がやってきました。
もう1パーティいたんですね。
私が出発する頃、次のバスがバス停に入ってきていたので、そのバスに乗っていた人たちかもしれません。
同じ高校の別パーティか、あるいは別の高校か。
曲がり角のわずかなスペースで道を譲っていると、高校生の集団の先頭のほうの誰かが落石を起こしました。
ジグザグ道で落石は、まずいです。
幸い、登山道からそれて落ちていきましたが、後方を歩く顧問の先生らしい人が一喝。
「落石したら、声を出せっ」
ピタっと止まり、振り返るパーティの先頭の子たち。
しかし、落石した子は、自分が落石した自覚がおそらくなかったのでしょう。
何を怒られたのかよくわからないという様子でポカンとしています。
わずかなスペースでちょっと無理をして道を譲っているため、右足のふくらはぎに変な負担のかかっている私。
落石の注意は大切だが、今はさっさと追い抜いてくれるとありがたい気も・・・。
その場で叱らないと理解できない年齢の子たちでもないし。
後日、ミーティングで、たっぷり叱ってやってください・・・。
いや、でも、落石の注意は人命に関わることだから本当に重要・・・。
ただ、ふ、ふくらはぎが痛い・・・。
そんなこんなで、高校生たちが通り過ぎていくと、あとは静かな山道でした。
急登をいったん登り切って、稲村岩手前のコル。10:05。
ここは狭いので、高校生たちはその上の木の根がややこしくからんでいるあたりのところで休憩していました。
私は、岩の1つに座って、休憩。
風の通りがよく、汗がすっとひいていきます。
稲村岩では数年前に死亡事故があったので「稲村岩への不用意な立ち入りはやめましょう」といった掲示がありました。
「不用意」という言葉の選択に感心しました。
技術的にも精神的にも不用意な人は、稲村岩には行ってはいけない。
さて、出発。
木の根のややこしいところを上っていき、道はいったん緩やかになりますが、その先はまた急登の連続です。
コースタイムで2時間10分の連続急登です。
まだ桜が咲き残っていました。
風が吹き、桜吹雪の中の急登。
まだ淡いブナ新緑の中の急登。
山の雰囲気は素晴らしいのですが、とにかく急登です。
長い急登を上りきると、ブナの倒木のある少し平らなところに着きました。11:15。
5年前の大雪で、おそらく雪崩に巻き込まれて倒れた巨木です。
好きな木だったので、ここを目印にいつも休憩ポイントとしてきました。
倒れてもなお、ここは大切な休憩ポイントです。
急登はなおも続きます。
はあ、暑い。
坂に緩急がなく、とにかく急坂一辺倒なので、ここがどこなのかの把握もしにくく、あとどれくらいなのか目途が立たないので気持ちも疲れます。
耐えて登っていくと、ヒルメシクイノタワ。12:05。
アセビの花が沢山咲いていました。
さあ、山頂まであと30分。
ここからは道の記憶も明瞭で、精神的には楽になりました。
傾斜の緩いところも多いです。
最後に、木の根につかまりながら登るような急登を越えると、空が見えてきて、鷹ノ巣山山頂。
この山も慰霊碑のような山頂標識が立っていました。12:40。
空は雲に覆われ、大岳山すら霞んでいました。
雨が降るかもしれません。
ラジオに雑音は入っていないので、今のところは大丈夫でしょうが、早めに標高を下げたほうが良さそうです。
昼食を取り、出発。13:00。
まずは山頂直下の急な下り。
道が乾いているので、まあまあ歩きやすくて助かりました。
そこからは、広い石尾根の道です。
まだこれから咲く桜がありました。
枝先のつぼみがようやく開きかけています。
足許には、マルバダケブキ。
まだ背も低く、葉も小さい。
昔、ここはお花畑だったそうですが、鹿の食害にあい、毒のあるマルバダケブキの巨大な葉ばかりが繁茂するようになりました。
今は、それすら数が減ってきているそうです。
鹿は、毒草まで食べるのですね。
毒ではない部分を選んで食べるのか。
毒に耐性がついたのか。
鹿って凄い・・・。
1か所急な下りはありますが、おおむね平坦な広い尾根道を歩いていくと、雨がぽつぽつと降ってきました。
ラジオに雑音はないので、激しい雷雨に変わることはないだろうと思い、ザックにカバーだけかけて、先を急ぎます。
道はやがてピークを巻くようになっていきました。
そこから、急下降点。
このコースでちょっと嫌だなと感じる箇所です。
木につかまったり、重心を低くしたりして、用心して通過しました。
下りきると細めの尾根歩きとなり、尾根が広くなっていくと、石尾根縦走路のまき道と合流。
もう雨は止んでいましたが、遠雷が聞こえるようになりました。
ラジオに雑音は入らないのに、微かな遠雷が長く長く鳴り続けます。
このとき、山梨県では線路が冠水するほどのゲリラ豪雨が降っていたようです。
中央線のダイヤが乱れ、あずさが30分遅れになるなどの影響が出たのを帰りの電車で知りました。
山梨県というと遠いようですが、雲取山の向こうは山梨県。
雲取山から続く石尾根で遠雷が聞こえたのも不思議はないのでしょう。
とにかく、高度を下げよう。
石尾根縦走路を道なりに左に曲がっていくと、やがてジグザグの下りとなりました。
ショートカットの踏み跡が明瞭だったので、そちらを選び、いったん大きく下ります。
一番低い地点にあるベンチ代わりの丸太に座って、ちょっと水分補給。
そこから、六ツ石山分岐へと緩く登っていきました。
右手の尾根がいったん切れて、その先に現れるのが六ツ石山の尾根。
尾根の高さとだんだん差がなくなっていくと、分岐。14:30。
今日は六ツ石山へ寄り道せず、先を急ぎます。
少し段差もある道を行くと、ぱっと尾根が開けます。
広い尾根の急な下りが始まりました。
晴れている日なら、御前山の眺めが素晴らしい尾根ですが、遠雷が鳴っているときに広い尾根はただ怖い。
一所懸命くだって樹林帯に入り、ほっと息をつきました。
三ノ木戸の林道との分岐。15:00。
道なりに歩いていくと、右側が崖の道から、左側が崖の道へと変わります。
新緑の中を歩く、美しい道でした。
もう雷の心配もなさそうで、安心して歩いていくことができました。
しばらく行くと、登山道は深くえぐれた溝となり、泥がたまって歩けなくなっていました。
その右手の林の中を行きます。
木の根の作る段差をどんどん下っていくと、再び登山道と合流。
秋や冬は落ち葉が深く積もって歩きにくいところですが、今は、落ち葉は踏み砕かれて粉々で歩きやすい道が続きました。
緩やかな坂道をただただ同じ方向に下っていきます。
石尾根の長さを実感します。
植林帯となり、道が緩やかに右にカーブすると、下に登山道が見えてくるようになり、あともう少しだと励まされます。
三ノ木戸の林道からの道との合流点。
そこから一段下がって左に曲がります。
さらに歩いていくと、桟道。16:05。
桟道の直前に少し歩きにくい箇所もあります。
桟道は隙間が広いので、一歩ずつ用心して通過しました。
本日のコースでちょっと嫌だなと思う箇所は、これで全てクリア。
崩れかけた小さな小屋の前を過ぎ、文字の消えてしまった道しるべのところを右に曲がります。
あとは道なりにジグザグに下っていくと、林道がみえてきました。
登山口。16:15。
舗装された林道を下り、去年は見逃したショートカットコースを今回は下ることができました。
いったん舗装道路に出て、またすぐにショートカット。
羽黒三田神社を通って、林道と合流。
最後のショートカットの階段を下りていくと、コンビニのすぐ横に出ます。
橋を渡って、ビジターセンターの前から、もえぎの湯へ。17:05。
ゴールデンウィーク翌週で、さらに天気もあまりよくなかったからか、もえぎの湯は空いていました。
入館待ちもなく、すんなり入ることができ、脱衣所も洗い場も空いていました。
本日は珍しく女湯が温泉のほうでした。
露天から見る山の眺め、目の前の新緑の美しさ。
汗を流して気持ちもさっぱり。
奥多摩駅18:16発の電車も空いていました。
去年は、水根沢林道から登り、時間切れで鷹ノ巣山には到達できませんでしたので、今年は普通のコースを行きます。
ホリデー快速おくたま1号に乗車。
国分寺からは座っていくことができました。
続く立川駅で、ザックを担いだ中高年がどっと乗ってくると、私の両側に座っていた若い登山者がさっと席を立ちました。
向かい側の若い子も、席を譲っていました。
いやいや、普段の電車はともかく、これから山に行こうという中高年に席なんか譲らなくていいんですよー。
これから5時間以上も山を歩こうという人たちばかりなんですから。
でも、譲られた中高年はやはり嬉しそうで、ほっこりする光景ではありました。
「年寄り扱いするなっ」
とプライドをぶつけて怒りだす人がいないのは、むしろ自分の健脚に自信がある表れなのかもしれません。
えへへ、譲ってもらっちゃった、嬉しい、といった表情です。
席を1つ移動し、二人連れの登山者が並んで座れるようにして、電車の旅は続きました。
奥多摩駅8:21着。
「川乗橋」行きの増発便が、私がバス停の行列の最後尾に着く間もなく出発していきました。
すぐに次の「東日原」行きの増発がバス停に入ってきて、それも満員となり、出発。
その次にまたすぐバス停に入ってきた「東日原」行き増発バスに座っていくことができました。
乗客の半分は川乗橋で下車し、終点「東日原」。8:50。
バス停は、バスがそこでUターンできるスペースを確保した構造になっているのですが、そこに高校生の集団がたまって身動きとれないようになっていました。
何だ何だ?
高校の登山部かな?
前のバスから下車したばかりで、移動の指示も出ていないようでした。
バスは、そうした高校生たちを避けて何とかUターンし、停車しました。
トイレを済ませ、支度をして出発。9:00。
バスの進行方向のまま、まずは舗装道路を歩いていきます。
20人ほどの高校生の集団は、場所を別の駐車場に移動していましたが、まだ出発していませんでした。
集団の動きの鈍さは、思えば不思議です。
1人なら、さっと出発できます。
でも、集団になると、「10分後に出発」と指示したところで、実際の出発はそのさらに5分後にできれば早いほうです。
途中、派出所の登山ポストに登山届を投函し、さらに歩いていくと、稲村岩が大きく見えてきます。
その左手に、そこから続く尾根も見えました。
高いなあ。
あんなところに1時間で行けるんだから、それも思えば不思議な気がします。
登山口の看板から、裏の畑に下りていくような印象の石段を下ると、登山道の始まりです。
まだ身体のバランスの悪い朝一番に歩くにしては細めの道で、沢を高まく崖っぷち道が苦手な私は、このコースの最初の緊張箇所です。
水根沢の登山道ほど細くはないので、気をつけて歩けば大丈夫ですが。
しっかりとした造りの已ノ戸橋を渡ると、登山道は稲村岩の基部をまわり込みながら登っていきます。
登山道が崩落した箇所に桟道が作られ、その桟道も老朽化して、今は山側にまわり込んで歩くようになっていました。
時の流れを感じます。
さらに登っていくと、高校生が追いついてきました。
「広くなったところで、抜かせてください」
先頭を歩くリーダーがはきはきと声をかけてきました。
已ノ戸沢。
まず1つ目の木橋を渡り、岩をぬって沢の右岸を上っていきます。
続いて、2つ目の木橋。
沢の左岸に渡り返し、これも崩落した登山道をさらに山側に付け替えた道を歩いていきます。
最後に3つ目の木橋。
沢の右岸に戻ると、今までよりも平らで歩きやすい道が少しあり、その先、4つ目の木橋は渡りません。
昔は、渡れそうな印象があり紛らわしかったのですが、今は苔蒸して渡れる気がしない木橋です。
ここからジグザグの急登の始まりです。
しばらく登っていくと、再び、高校生20人ほどの集団がやってきました。
もう1パーティいたんですね。
私が出発する頃、次のバスがバス停に入ってきていたので、そのバスに乗っていた人たちかもしれません。
同じ高校の別パーティか、あるいは別の高校か。
曲がり角のわずかなスペースで道を譲っていると、高校生の集団の先頭のほうの誰かが落石を起こしました。
ジグザグ道で落石は、まずいです。
幸い、登山道からそれて落ちていきましたが、後方を歩く顧問の先生らしい人が一喝。
「落石したら、声を出せっ」
ピタっと止まり、振り返るパーティの先頭の子たち。
しかし、落石した子は、自分が落石した自覚がおそらくなかったのでしょう。
何を怒られたのかよくわからないという様子でポカンとしています。
わずかなスペースでちょっと無理をして道を譲っているため、右足のふくらはぎに変な負担のかかっている私。
落石の注意は大切だが、今はさっさと追い抜いてくれるとありがたい気も・・・。
その場で叱らないと理解できない年齢の子たちでもないし。
後日、ミーティングで、たっぷり叱ってやってください・・・。
いや、でも、落石の注意は人命に関わることだから本当に重要・・・。
ただ、ふ、ふくらはぎが痛い・・・。
そんなこんなで、高校生たちが通り過ぎていくと、あとは静かな山道でした。
急登をいったん登り切って、稲村岩手前のコル。10:05。
ここは狭いので、高校生たちはその上の木の根がややこしくからんでいるあたりのところで休憩していました。
私は、岩の1つに座って、休憩。
風の通りがよく、汗がすっとひいていきます。
稲村岩では数年前に死亡事故があったので「稲村岩への不用意な立ち入りはやめましょう」といった掲示がありました。
「不用意」という言葉の選択に感心しました。
技術的にも精神的にも不用意な人は、稲村岩には行ってはいけない。
さて、出発。
木の根のややこしいところを上っていき、道はいったん緩やかになりますが、その先はまた急登の連続です。
コースタイムで2時間10分の連続急登です。
まだ桜が咲き残っていました。
風が吹き、桜吹雪の中の急登。
まだ淡いブナ新緑の中の急登。
山の雰囲気は素晴らしいのですが、とにかく急登です。
長い急登を上りきると、ブナの倒木のある少し平らなところに着きました。11:15。
5年前の大雪で、おそらく雪崩に巻き込まれて倒れた巨木です。
好きな木だったので、ここを目印にいつも休憩ポイントとしてきました。
倒れてもなお、ここは大切な休憩ポイントです。
急登はなおも続きます。
はあ、暑い。
坂に緩急がなく、とにかく急坂一辺倒なので、ここがどこなのかの把握もしにくく、あとどれくらいなのか目途が立たないので気持ちも疲れます。
耐えて登っていくと、ヒルメシクイノタワ。12:05。
アセビの花が沢山咲いていました。
さあ、山頂まであと30分。
ここからは道の記憶も明瞭で、精神的には楽になりました。
傾斜の緩いところも多いです。
最後に、木の根につかまりながら登るような急登を越えると、空が見えてきて、鷹ノ巣山山頂。
この山も慰霊碑のような山頂標識が立っていました。12:40。
空は雲に覆われ、大岳山すら霞んでいました。
雨が降るかもしれません。
ラジオに雑音は入っていないので、今のところは大丈夫でしょうが、早めに標高を下げたほうが良さそうです。
昼食を取り、出発。13:00。
まずは山頂直下の急な下り。
道が乾いているので、まあまあ歩きやすくて助かりました。
そこからは、広い石尾根の道です。
まだこれから咲く桜がありました。
枝先のつぼみがようやく開きかけています。
足許には、マルバダケブキ。
まだ背も低く、葉も小さい。
昔、ここはお花畑だったそうですが、鹿の食害にあい、毒のあるマルバダケブキの巨大な葉ばかりが繁茂するようになりました。
今は、それすら数が減ってきているそうです。
鹿は、毒草まで食べるのですね。
毒ではない部分を選んで食べるのか。
毒に耐性がついたのか。
鹿って凄い・・・。
1か所急な下りはありますが、おおむね平坦な広い尾根道を歩いていくと、雨がぽつぽつと降ってきました。
ラジオに雑音はないので、激しい雷雨に変わることはないだろうと思い、ザックにカバーだけかけて、先を急ぎます。
道はやがてピークを巻くようになっていきました。
そこから、急下降点。
このコースでちょっと嫌だなと感じる箇所です。
木につかまったり、重心を低くしたりして、用心して通過しました。
下りきると細めの尾根歩きとなり、尾根が広くなっていくと、石尾根縦走路のまき道と合流。
もう雨は止んでいましたが、遠雷が聞こえるようになりました。
ラジオに雑音は入らないのに、微かな遠雷が長く長く鳴り続けます。
このとき、山梨県では線路が冠水するほどのゲリラ豪雨が降っていたようです。
中央線のダイヤが乱れ、あずさが30分遅れになるなどの影響が出たのを帰りの電車で知りました。
山梨県というと遠いようですが、雲取山の向こうは山梨県。
雲取山から続く石尾根で遠雷が聞こえたのも不思議はないのでしょう。
とにかく、高度を下げよう。
石尾根縦走路を道なりに左に曲がっていくと、やがてジグザグの下りとなりました。
ショートカットの踏み跡が明瞭だったので、そちらを選び、いったん大きく下ります。
一番低い地点にあるベンチ代わりの丸太に座って、ちょっと水分補給。
そこから、六ツ石山分岐へと緩く登っていきました。
右手の尾根がいったん切れて、その先に現れるのが六ツ石山の尾根。
尾根の高さとだんだん差がなくなっていくと、分岐。14:30。
今日は六ツ石山へ寄り道せず、先を急ぎます。
少し段差もある道を行くと、ぱっと尾根が開けます。
広い尾根の急な下りが始まりました。
晴れている日なら、御前山の眺めが素晴らしい尾根ですが、遠雷が鳴っているときに広い尾根はただ怖い。
一所懸命くだって樹林帯に入り、ほっと息をつきました。
三ノ木戸の林道との分岐。15:00。
道なりに歩いていくと、右側が崖の道から、左側が崖の道へと変わります。
新緑の中を歩く、美しい道でした。
もう雷の心配もなさそうで、安心して歩いていくことができました。
しばらく行くと、登山道は深くえぐれた溝となり、泥がたまって歩けなくなっていました。
その右手の林の中を行きます。
木の根の作る段差をどんどん下っていくと、再び登山道と合流。
秋や冬は落ち葉が深く積もって歩きにくいところですが、今は、落ち葉は踏み砕かれて粉々で歩きやすい道が続きました。
緩やかな坂道をただただ同じ方向に下っていきます。
石尾根の長さを実感します。
植林帯となり、道が緩やかに右にカーブすると、下に登山道が見えてくるようになり、あともう少しだと励まされます。
三ノ木戸の林道からの道との合流点。
そこから一段下がって左に曲がります。
さらに歩いていくと、桟道。16:05。
桟道の直前に少し歩きにくい箇所もあります。
桟道は隙間が広いので、一歩ずつ用心して通過しました。
本日のコースでちょっと嫌だなと思う箇所は、これで全てクリア。
崩れかけた小さな小屋の前を過ぎ、文字の消えてしまった道しるべのところを右に曲がります。
あとは道なりにジグザグに下っていくと、林道がみえてきました。
登山口。16:15。
舗装された林道を下り、去年は見逃したショートカットコースを今回は下ることができました。
いったん舗装道路に出て、またすぐにショートカット。
羽黒三田神社を通って、林道と合流。
最後のショートカットの階段を下りていくと、コンビニのすぐ横に出ます。
橋を渡って、ビジターセンターの前から、もえぎの湯へ。17:05。
ゴールデンウィーク翌週で、さらに天気もあまりよくなかったからか、もえぎの湯は空いていました。
入館待ちもなく、すんなり入ることができ、脱衣所も洗い場も空いていました。
本日は珍しく女湯が温泉のほうでした。
露天から見る山の眺め、目の前の新緑の美しさ。
汗を流して気持ちもさっぱり。
奥多摩駅18:16発の電車も空いていました。
2019年05月10日
高校英語。助動詞その1。基本の助動詞。
今回は、助動詞の学習です。
助動詞というと、まずは基本の助動詞の意味を覚えきれていないためのミスが多く出るところです。
基本助動詞とは、can , may , should , must の4つです。
この4つの助動詞の訳し方を1種類しか知らない、あるいは1種類しか覚えていないために、助動詞の問題を正答できなくなっている場合があります。
自分の知らない用法が文法テキストの問題に載っているので何かモヤモヤするものの、何となく見過ごしてテストを受けてしまう・・・。
英語が苦手な人は、そんな人が多いのではないでしょうか。
中学で初めてその助動詞が出てきた段階で知識が固定され、その先に進んでいないようなのです。
すなわち、
can は「~できる」
may は「~してもよい」
should は「~するべきだ」
must は「~しなければならない」
その意味しか知らないし、それ以上は覚えられない・・・。
こうしたことを避けるために、まずはその助動詞が持つ根本のニュアンスを理解しましょう。
can のイメージは、「可能性」。
その気があれば実行できる可能性がある。
状況次第で起こる可能性がある。
そういう可能性を意味するのが、この助動詞です。
よって、訳し方は、
「~できる」
「~してもよい」
「~でありうる」
may のイメージは、「容認」。
そうしてもしなくても構わないという容認。
そうであってもなくてもおかしくないと思う容認。
よって、訳し方は、
「~してもよい」
「~かもしれない」
should のイメージは、「正当性」。
そうであるのが当然だという正当性。
それが正しいことだという正当性。
よって、訳し方は、
「~すべきだ」
「~のはずだ」
must のイメージは、「必然性」。
そうでないとおかしいという必然性。
そうに決まっているという必然性。
よって、訳し方は、
「~しなければならない」
「~に違いない」
このイメージの中で、訳し方は2系列があるとわかると、基本助動詞の意味はさらに把握しやすくなると思います。
つまり、「許可・義務」系の流れと、「推量」系の流れです。
「許可・義務」系の流れだけまとめると、
can は、「~できる・~してもよい」
may は、「~してもよい」
shouldは、「~すべきだ」
must は、「~しなければならない」
「推量」系の流れだけまとめると、
can は、「~でありうる」
may は、「~かもしれない」
should は、「~のはずだ」
must は、「~に違いない」
こうしてまとめると、それぞれの助動詞の意味が見えてくると思います。
中学英語の知識で止まっている人は、上の「許可・義務」系の意味しか把握していないことが多いのです。
下の「推量」系の意味もそれぞれの助動詞がもっているのだと認識すると、理解の幅が広がります。
当然ですが、高校の定期テストや大学入試に多く出題されるのは、「推量」系の意味のほうです。
テストに出るとわかっているところをみすみす見逃してしまう状況が、助動詞という単元でも起こりやすいのです。
なぜ英語が苦手な人は、そういうことを見逃してしまうのでしょうか。
どうやら、1つの単語には1つの意味しかない、という思い込みが原因のようです。
それは、1つの日本語の単語には1つの英単語が必ず1対1で対応しているはずだという思い込みでもあります。
だから、1つの英単語がいくつも意味を持っていることが理解できない。
許せない。
覚えない。
そういう狭量な学習姿勢になってしまうことがあるようです。
とにかく英語が嫌いで、英語を勉強しない口実を探したい。
英語に難癖をつけたい。
そういう意識が根底にあると、そうなってしまうのかもしれません。
英語と日本語は2000年以上もの間、全く関係ない離れた土地でそれぞれ発達した言語です。
文法も語法も異なります。
単語の意味が1対1の対応であるはずがないのです。
世界の全ての言語は日本語と同じ構造であるべきなのに、英語はそうじゃないから許せない。
嫌いだ。
そうした主観的な思い込みを捨てましょう。
意識を変えましょう。
英語の嫌なところを探している間は、得意にはなれないです。
英語ができるようになりたいのなら、英語の嫌なところを探して難癖をつけることを自分に禁じましょう。
助動詞は、これだけでは終わらず、覚えることがもっと沢山あります。
でも、まずは基本助動詞4つの2系統の意味を把握するのが基本です。
個々の助動詞の訳し方を覚えられない、という人がいます。
その日本語の意味をあまり正確に理解できないというのです。
「~しなければならない」と「~すべきだ」は、どちらが強制力が強いのか、わからない・・・。
「~のはずだ」とか「~に違いない」とか、意味の違いがよくわからない・・・。
そういうときは、意味の強弱で把握すると理解しやすいと思います。
「許可・義務」系の意味では、should と must の間に had better という熟語の助動詞があります。
must > had better > should
という意味の強さの順を知っておくと目安となるでしょう。
must は強い義務を表します。強制・命令的な意味があります。
had better は、忠告を表しますが、命令的な感じを与える忠告です。「~したほうがいい」という訳が与えられているため、弱い印象がありますが、意味はかなり強く、目上の人に使うべきではないとされています。
should は、当然そうするべきだという意味を表しますが、「正当性」というのは主観的なものなので、強制力はそれほどありません。
20年くらい前からでしょうか、今もよくあるのですが、日本の英語教育は間違っている、現代英語はそんなふうではないといった内容の本が出版されるようになりました。
「間違いだらけの学校英語」という内容の本です。
同じ頃、日本にALTのネイティブ講師が、それまでと比べて急激に増え、日本の英語教育を多くの英語ネイティブの人が目撃するようにもなりました。
そこで注目されたのが、had better と should の日本語訳は、現実の英語と逆なのではないかということでした。
「~したほうがいい」と「~すべきだ」では、「~すべきだ」のほうが意味が強いが、英語では、had better のほうが意味が強い。
日本の英語教育は間違っている、というのです。
それを受けて、had better は「~すべきだ」、should は「~したほうがいい」と訳している文法テキストや、両方を併記しているテキストも一時期あったのですが、そうしない参考書や問題集も多くありました。
大学の入試問題、特に過去問は、「~すべきだ」は should なのですから、そこをいじると受験生が混乱します。
また、別の機会に書く予定ですが、「~すべきだったのに」という表現は、やはり should を用います。
結局、無駄に混乱するだけなので、had better は「~したほうがいい」、 should は「~すべきだ」という訳のまま、しかし、had better のほうが意味は強いということを教えるという形で今は安定しています。
日本の英語教育は、勿論、今も間違っているところがあるかもしれませんが、ネイティブの助言を受け入れて進化しています。
ガラパゴス化したまま変な英語教育をしているわけではありせん。
指摘されたことの妥当性を確認するのに多少時間がかかるというだけのことです。
日本の英語教育は間違いだらけだ、といった内容の本にかぶれて、学校の英語の授業を軽視し勉強するのをやめるのは、リスクだけを自分が負うことになります。
本を売るために先鋭的な口調で日本の英語教育を攻撃している本もあります。
その本に書いてあることが本当に正しい保証はありません。
気をつけて。
明治時代の英語教育では、
To be or not to be. That is the question.
を、「あります。ありません。あれが質問です」と訳したという逸話があります。
ハムレットは何に悩んでいるのか、これでは全くわからない・・・。
その時代から考えれば、英語教育は進歩しました。
ラジオ講座は、ネイティブ講師が日本語で授業をしてくれるものが増えました。
映画を見れば、生きた英語がそこにあります。
日本の英語教育はそんなに大きくズレているわけではありません。
ズレたままでいられる世の中ではありません。
安心して、学校英語を学びましょう。
助動詞というと、まずは基本の助動詞の意味を覚えきれていないためのミスが多く出るところです。
基本助動詞とは、can , may , should , must の4つです。
この4つの助動詞の訳し方を1種類しか知らない、あるいは1種類しか覚えていないために、助動詞の問題を正答できなくなっている場合があります。
自分の知らない用法が文法テキストの問題に載っているので何かモヤモヤするものの、何となく見過ごしてテストを受けてしまう・・・。
英語が苦手な人は、そんな人が多いのではないでしょうか。
中学で初めてその助動詞が出てきた段階で知識が固定され、その先に進んでいないようなのです。
すなわち、
can は「~できる」
may は「~してもよい」
should は「~するべきだ」
must は「~しなければならない」
その意味しか知らないし、それ以上は覚えられない・・・。
こうしたことを避けるために、まずはその助動詞が持つ根本のニュアンスを理解しましょう。
can のイメージは、「可能性」。
その気があれば実行できる可能性がある。
状況次第で起こる可能性がある。
そういう可能性を意味するのが、この助動詞です。
よって、訳し方は、
「~できる」
「~してもよい」
「~でありうる」
may のイメージは、「容認」。
そうしてもしなくても構わないという容認。
そうであってもなくてもおかしくないと思う容認。
よって、訳し方は、
「~してもよい」
「~かもしれない」
should のイメージは、「正当性」。
そうであるのが当然だという正当性。
それが正しいことだという正当性。
よって、訳し方は、
「~すべきだ」
「~のはずだ」
must のイメージは、「必然性」。
そうでないとおかしいという必然性。
そうに決まっているという必然性。
よって、訳し方は、
「~しなければならない」
「~に違いない」
このイメージの中で、訳し方は2系列があるとわかると、基本助動詞の意味はさらに把握しやすくなると思います。
つまり、「許可・義務」系の流れと、「推量」系の流れです。
「許可・義務」系の流れだけまとめると、
can は、「~できる・~してもよい」
may は、「~してもよい」
shouldは、「~すべきだ」
must は、「~しなければならない」
「推量」系の流れだけまとめると、
can は、「~でありうる」
may は、「~かもしれない」
should は、「~のはずだ」
must は、「~に違いない」
こうしてまとめると、それぞれの助動詞の意味が見えてくると思います。
中学英語の知識で止まっている人は、上の「許可・義務」系の意味しか把握していないことが多いのです。
下の「推量」系の意味もそれぞれの助動詞がもっているのだと認識すると、理解の幅が広がります。
当然ですが、高校の定期テストや大学入試に多く出題されるのは、「推量」系の意味のほうです。
テストに出るとわかっているところをみすみす見逃してしまう状況が、助動詞という単元でも起こりやすいのです。
なぜ英語が苦手な人は、そういうことを見逃してしまうのでしょうか。
どうやら、1つの単語には1つの意味しかない、という思い込みが原因のようです。
それは、1つの日本語の単語には1つの英単語が必ず1対1で対応しているはずだという思い込みでもあります。
だから、1つの英単語がいくつも意味を持っていることが理解できない。
許せない。
覚えない。
そういう狭量な学習姿勢になってしまうことがあるようです。
とにかく英語が嫌いで、英語を勉強しない口実を探したい。
英語に難癖をつけたい。
そういう意識が根底にあると、そうなってしまうのかもしれません。
英語と日本語は2000年以上もの間、全く関係ない離れた土地でそれぞれ発達した言語です。
文法も語法も異なります。
単語の意味が1対1の対応であるはずがないのです。
世界の全ての言語は日本語と同じ構造であるべきなのに、英語はそうじゃないから許せない。
嫌いだ。
そうした主観的な思い込みを捨てましょう。
意識を変えましょう。
英語の嫌なところを探している間は、得意にはなれないです。
英語ができるようになりたいのなら、英語の嫌なところを探して難癖をつけることを自分に禁じましょう。
助動詞は、これだけでは終わらず、覚えることがもっと沢山あります。
でも、まずは基本助動詞4つの2系統の意味を把握するのが基本です。
個々の助動詞の訳し方を覚えられない、という人がいます。
その日本語の意味をあまり正確に理解できないというのです。
「~しなければならない」と「~すべきだ」は、どちらが強制力が強いのか、わからない・・・。
「~のはずだ」とか「~に違いない」とか、意味の違いがよくわからない・・・。
そういうときは、意味の強弱で把握すると理解しやすいと思います。
「許可・義務」系の意味では、should と must の間に had better という熟語の助動詞があります。
must > had better > should
という意味の強さの順を知っておくと目安となるでしょう。
must は強い義務を表します。強制・命令的な意味があります。
had better は、忠告を表しますが、命令的な感じを与える忠告です。「~したほうがいい」という訳が与えられているため、弱い印象がありますが、意味はかなり強く、目上の人に使うべきではないとされています。
should は、当然そうするべきだという意味を表しますが、「正当性」というのは主観的なものなので、強制力はそれほどありません。
20年くらい前からでしょうか、今もよくあるのですが、日本の英語教育は間違っている、現代英語はそんなふうではないといった内容の本が出版されるようになりました。
「間違いだらけの学校英語」という内容の本です。
同じ頃、日本にALTのネイティブ講師が、それまでと比べて急激に増え、日本の英語教育を多くの英語ネイティブの人が目撃するようにもなりました。
そこで注目されたのが、had better と should の日本語訳は、現実の英語と逆なのではないかということでした。
「~したほうがいい」と「~すべきだ」では、「~すべきだ」のほうが意味が強いが、英語では、had better のほうが意味が強い。
日本の英語教育は間違っている、というのです。
それを受けて、had better は「~すべきだ」、should は「~したほうがいい」と訳している文法テキストや、両方を併記しているテキストも一時期あったのですが、そうしない参考書や問題集も多くありました。
大学の入試問題、特に過去問は、「~すべきだ」は should なのですから、そこをいじると受験生が混乱します。
また、別の機会に書く予定ですが、「~すべきだったのに」という表現は、やはり should を用います。
結局、無駄に混乱するだけなので、had better は「~したほうがいい」、 should は「~すべきだ」という訳のまま、しかし、had better のほうが意味は強いということを教えるという形で今は安定しています。
日本の英語教育は、勿論、今も間違っているところがあるかもしれませんが、ネイティブの助言を受け入れて進化しています。
ガラパゴス化したまま変な英語教育をしているわけではありせん。
指摘されたことの妥当性を確認するのに多少時間がかかるというだけのことです。
日本の英語教育は間違いだらけだ、といった内容の本にかぶれて、学校の英語の授業を軽視し勉強するのをやめるのは、リスクだけを自分が負うことになります。
本を売るために先鋭的な口調で日本の英語教育を攻撃している本もあります。
その本に書いてあることが本当に正しい保証はありません。
気をつけて。
明治時代の英語教育では、
To be or not to be. That is the question.
を、「あります。ありません。あれが質問です」と訳したという逸話があります。
ハムレットは何に悩んでいるのか、これでは全くわからない・・・。
その時代から考えれば、英語教育は進歩しました。
ラジオ講座は、ネイティブ講師が日本語で授業をしてくれるものが増えました。
映画を見れば、生きた英語がそこにあります。
日本の英語教育はそんなに大きくズレているわけではありません。
ズレたままでいられる世の中ではありません。
安心して、学校英語を学びましょう。
2019年05月08日
なぜ子どもは「速さ」の問題が苦手なのか。
ラジオ講座と同様、好きなラジオ番組は録音して、家事などやりながら、あるいは寝る前に聴くことにしています。
どうしても録音はたまりがちで、ひと月ほども後に番組を聴くことがあります。
前にもこのブログで書いた、『%がわからない大学生』という本の著者がゲスト出演しているラジオ番組を昨日になって聴きました。
日本の算数・数学教育がつまらない。
その例として、ラジオ番組で語られた内容に、再び首を傾げてしまいました。
「花子さんは、340円のお弁当を6個買いました。いくら払ったでしょうか」
例えば、かけ算の文章題はこんなのばかりだからつまらないと、その著者は言うのです。
代案としては、
「稲妻が光った後、6秒経って雷の音が聞こえました。雷が落ちた場所は、ここから何m離れているでしょう?」
という問題が良いというのです。
・・・いやいやいや。
それ、音の速さの問題ですよね?
その問題で、340×6という式の意味を理解でき、面白いと感じる子は、ほおっておいても数学や理科が好きです。
数学嫌いな子は、何かのトラウマでもあるのかというくらいに「速さ」が苦手です。
それに「音速」という物理の要素が加わると、ごく簡単なことも全く理解できない様子の子に何人も出会ってきました。
「速さ」という単元は、小学校5年生で学習します。
これといって難しい要素はないはずなのに、苦手な子は多いです。
速さ×時間=みちのり
という感覚的にもごく自然な式がわからない子もいます。
実感がわかない。
理解できない。
自分は絶対に速さの問題は解くことができないという謎の主張をする子をなだめ、落ち着かせてようやく学習に入ることもあります。
「速さ」という単元の難しさは、まず「速さ」の定義にあるのだと思います。
学校や塾での最初の授業時に正確に定義されているはずなのですが、子どもは、多くの場合、そういうものは聞き流します。
速さの定義がそれほど重要なものであることに気づかないのだと思います。
言葉の意味を聞き流す学習習慣がついているのでしょう。
必要なのは解き方を丸暗記することだけ。
そういう学習姿勢が既に出来上がっているのかもしれません。
「速さ」とは何か?
目の前を何かビューンと動いていく物のスピードのこと。
速いほど、ビューンというスピードが速い。
・・・実感としては、そんなふうではないでしょうか。
そして、この実感が、「速さ×時間=みちのり」という公式の理解を阻む最初の壁です。
ビューンというのは擬声語です。
何かを表現しているようでも、これでは何も説明していません。
スピードというのは「速さ」のことですから、英語で言い換えただけです。
結果として、何も説明していないことになります。
でも、速さは、実感としては確かにそういうことです。
速いと遅いはどう違うのか?
どうすれば、速さを比べられるか?
どうすれば、速さを量的に表すことができるか?
目の前をビューンと動いていくスピードそのものを表すことは、現実には不可能です。
でも、同じ時間を与えられたら、速いものほど長い距離を移動します。
そのことで、速さを量的に表すことができるでしょう。
そこから生まれたのが速さの定義です。
1時間で進む道のりを速さとして表したものが、時速。
1分で進む道のりを速さとして表したものが、分速。
1秒で進む道のりを速さとして表したものが、秒速。
単位時間で進む道のりを、速さと定義しています。
この定義をしっかり理解した子と理解していない子とで、その後の理解が大きく異なります。
わかったような顔でふんふんとうなずいて見せても、「速さ」が後になるほどわからなくなる子は、この定義が理解できていないのです。
速さに時間をかけるとなぜ道のりになるのか理解できないのは、速さの定義を理解していないからです。
ここで恐ろしいのは、短期記憶能力の高い子ほど、その場では完全に理解したような顔をすることです。
教わったときだけは完璧に公式を活用できます。
しかし、言葉の定義や公式の意味は、すぐに忘れます。
1週間後には、もう速さの定義を忘れています。
公式だけは、必要だと思うからか覚えています。
意味は本人の中で後退し、公式は、もはや単なる記号です。
その繰り返しで、算数・数学は意味のわからないものになっていきます。
そうした学習方法が後になるほどどれだけの困難を本人にもたらすか、本人には自覚がないので、注意して治るようなものではありません。
中学生や高校生になってから、
「数学は意味がわからない」
と、急に本人が意味を重視した発言をすることがあります。
しかし、小学生の頃、本人が意味を重視した学習をしていたのかどうかは疑問です。
立ち止まって意味を理解しようとするより、公式を丸暗記して目の前の問題を解くほうが楽ですから。
小学校の算数の頃に学習したことの意味が記憶の中で後退し、全てはただの作業手順となっている子が、中学や高校の数学の意味を理解しようとしても、それには多くの労力が必要となります。
中学・高校の数学の意味を理解するための前提となる知識が本人の中にないのです。
頭の中にあるのは、形骸化し記号化した公式と作業手順だけです。
教え方をちょっと変えたくらいでこういうことが改まるとは思えません。
意味を含んで全部を理解するのは、重いのです。
学習内容を軽量化するには、公式や解法手順だけ丸暗記すること。
本人がそのように無意識に判断し、全てを忘却しようとする脳の仕組みがそれを助けています。
それで一見上手くいっているように見えることに楔を打ち込むのは、大変な作業です。
しかし、楔は打ち込まなければなりません。
解法手順だけ丸暗記して解いている子に、数学的な未来はありません。
「速さ」に話を戻します。
例えば、時速。
時速は、1時間に進む道のりのことです。
だから、時速4kmの人は、1時間に4km歩きます。
では、2時間では、何km歩くことができるか?
2時間は、1時間が2個分ですから、
4×2=8 で、8kmです。
速さ×時間=道のり
この公式の意味は、そういうことです。
15kmの道のりを、3時間で歩いたとします。
この人の時速は?
時速というのは、1時間で何km進んだか、です。
15kmは、3時間の道のりなのだから、1時間あたりの道のりは、
15÷3=5 で、
時速5km。
時間を求めるのも簡単ですね。
時速3kmの人が、12km歩くのに何時間かかるか?
時速3kmというのは、1時間で3kmということだから、12kmの中に3kmが何個分あるかと考えると、
12÷3=4
4時間です。
速さ×時間=道のり
道のり÷時間=速さ
道のり÷速さ=時間
この3つをまとめて「速さの3公式」と呼びます。
全て意味を理解できる公式ですので、覚え方は本来必要ありません。
意味から考えれば、当然そうなるものです。
そういう点では、「速さ」は「割合」とは異なります。
「割合」は式を変形しただけなので意味を実感できませんが、「速さ」は、常に意味を伴っています。
だから、私は「は・じ・き」や「は・じ・み」の図は基本的には教えません。
速さの問題は、文章題から意味を汲み取って正しい式を立てることが可能だからです。
しかし、私が教えなくても「は・じ・き」の図を誰かから教わって使うようになる子が大半です。
気持ちはわからないでもありません。
上の3つの公式は意味から理解できる公式ですが、「単位量あたり」の問題など、それ以前の学習が未消化で終わっている子の場合、公式の意味がわからないことがあります。
この単元はかけ算。
この単元はわり算。
そういう把握をしてきた子は、かけ算かわり算かを自分で判断しなければならない単元が苦手です。
そもそも意味を考えて公式を利用したことがなく、意味から算数にアプローチをした経験がないのだと思います。
理解するのではなく、覚えることが算数。
そういう学習をずっと続けてきた子が、いきなり「速さ」だけは意味を理解するというのは、困難を伴うことだと思います。
速さを本当に理解しているかどうかは、問題のレベルを少し上げると露呈します。
問題 時速4kmで歩く人が、30分歩きました。何m歩きましたか。
4×30=120
答え 120m
速さの本質を理解していない子は、こういった誤答をしがちです。
そして、公式通りに式を立てたのに正解できなかったことで混乱し、「速さ」という単元にトラウマを抱き、「速さ」と聞いただけで嫌な顔をするようになっていきます。
意味から考えるならば、時速4kmの人、とは1時間で4km歩く人のことです。
4×30 という式では、30時間歩いた道のりが出てしまうと気づきます。
30分というのは、1時間の半分なのだから、進む道のりも半分になるでしょう。
それは、30分=1/2時間ということでもあります。
4×1/2=2
この2は2kmということだから、mに単位を直して、答えは、2000m。
意味を考えれば、このように楽に解いていけます。
しかし、意味を考えず、全てが公式と作業手順だけになっている子にとって、単位換算は作業手順として複雑で厄介です。
単位換算の1つ1つに実感はなく、作業手順として暗記しようとしているので、覚えきれないのです。
分を時間に直すとき、60倍するのだったか、1/60にするのだったか、すぐわからなくなってしまいます。
長さの単位換算をただの丸暗記をしている子は、1km=100m としがちです。
1kmに対して、100mに対して、何も実感がないのだと思います。
あるいは、それぞれの距離感は実感しているのだとしても、それを算数と結びつける発想がないのかもしれません。
算数は、とにかく公式と手順を丸暗記するものと思い込んでいるのでしょう。
こんなに簡単な問題を、なぜこんなに大変そうに解いているのだろう・・・?
そう感じるとき、この子は意味を理解していない、作業手順で解いているのだと透けて見えてきます。
「速さ」だけ理解させようとしても、そう簡単にいかないのです。
「音」についての学習も同様です。
「音」や「光」は、中学1年で学習するのは無理なのではないかと感じるほど、苦手な子が多い単元です。
中学3年になって、高校受験のために復習しても、中1の他の分野ほどには理解が進まないことが多いです。
ともあれ、中1以降は、理科で既に学習済みということで、数学でも音に関する文章題がたまに出題されることがあります。
そして、ほとんどの生徒が、補助しなければその問題を解けません。
「音の速さを秒速340mとして求めなさい」
というように、解き方の何もかもが問題文の中に書いてあるのに正答率が低い。
それが音の速さに関する問題です。
速さだけでも苦手なのに、さらに嫌いな理科の要素が加わったら、もう解ける気がしない・・・。
そういう子が多いのです。
現実に雷が鳴ったときに、雷と自分との距離の求め方がわかる。
だから、こういう問題なら興味をもって生き生きと学習できるだろう・・・。
『%がわからない大学生』の著者のそうした狙いはわかるのですが、そのような安易な理想を全て踏みつぶしていくのが現実の子どもたちです。
雷と自分との距離なんて、現実の子どもたちは「興味ない」で終わりにします。
もう恐ろしいくらいに全てのことに「興味ない」なのです。
勉強に関わることは全部「興味ない」のかもしれません。
そもそも勉強が嫌いなので、勉強に興味をもたせようと大人が仕向けてくる気配を感じると、早めにシャットアウトするのかもしれません。
そういう現実の子どもたちに拒否され、安易な理想は簡単に潰されて。
現実の数学教育は、しかし、そこから始まります。
地獄絵図のような思い出もあれば、宝石のような思い出もあります。
算数・数学を長く教えてきて、振り返った感想はそういうものです。
なかなか理想通りにはいかないけれど、思いもしなかった成果もありました。
ただ、こういう著者の勘違いはわからないでもないのです。
この人、大学教授なのだそうです。
数学教員になりたい教育学部の学生に教えているようです。
現実にうといのは、そういう立場だからかもしれません。
毎日子どもたちに算数・数学を教えている立場の人ではないのです。
学校の学習内容を扱う民放のテレビ番組などもそうです。
生徒役の若い女性タレントなどが、
「わかりやすーい。学校でも、こうやって教えてくれたら授業を聞いたのにー」
といった感想を口にすることがあります。
番組的にはそれで良いわけですが、あの女性タレントは、収録が終わったら番組の内容はほとんど覚えていないのではないかと思います。
わかりやすーい。
理解できた気がするー。
しかし、それはそれだけのこと。
右の耳から左の耳へと通り抜けていき、記憶には残りません。
その教授は、子どもたちに実際に授業をすることもあるのかもしれません。
そんなときの子どもたちの反応もそういうものではないのでしょうか。
大学の先生が、自分たちに授業をしてくれる。
普段とは違う、その特別な雰囲気。
そんなときには、
「わかりやすーい」
「面白ーい」
「はじめて算数がわかったー」
子どもは、そういう感想を口にすると思います。
私も、そういう子どもの称賛を受けることがあります。
「わかりやすーい」
「学校の先生もこうやって教えてくれればいいのにー」
そのように褒めてくれる生徒は昔も今もいます。
若い頃は、そういう称賛に自惚れたこともありました。
でも、今は、そういう褒め言葉は聞き流すことにしています。
「わかりやすーい」
と言った子は、翌週にはその内容を覚えていないかもしれません。
「学校もこうやって教えてくれればいいのにー」
と褒めてくれたところで、その子が、その考え方を利用した問題を解けるとは限りません。
私は何のために存在するのか?
わかりやすいけれど子どもの耳を素通りしていく授業ではダメなのです。
「わかりやすーい」だけではダメ。
理解したら、その理論を利用する問題を自力で解いて正答する。
それが本当に理解したということです。
そこに至れない子がいくら褒めてくれても、それではダメだと思っています。
褒めてくれるその気持ちを大切にしたいからこそ、その子が本当に算数・数学の問題を解けるようにしたいのです。
「花子さんは、340円の弁当を6個買いました。いくら支払ったでしょうか」
旧態依然としたこの問題は、確かに面白くないかもしれません。
けれど、かけ算の概念を子どもが最も理解しやすいのは、こうした値段に関する問題です。
340円の弁当を6個。
それなら、340×6だ。
この式は、多くの子が自力で立てられます。
面白いかどうかよりも、自分が理解できて正答できることのほうが、子どもにとってはどれほど嬉しいことか。
花子さんには、永遠に弁当を買わせてやってほしい。
私は、そう思います。
そのラジオ番組で面白かったのは、数学が大嫌いだという番組のパーソナリティーが、子どもの頃の思い出を語った部分でした。
わり算を勉強したときに、先生が、8÷2を教えるのに、
「8の中に2は大体いくつあるでしょう」
という教え方をしたのにつまずいたというのです。
算数に「大体」はありえないと思い、そこからわり算がわからなくなった、という話でした。
それに対して、その教授は、
「わり算というのは難しいですからね」
などと言葉を濁して済ませていました。
学校の先生がうっかり使った「大体いくつ」という言葉でつまずく子どもがいる・・・。
そのことの恐ろしさに、もっと鋭く反応しても良かったのではないかと思います。
その番組の中で、最も聴く価値があったのは、その部分でした。
しかし、本当にそんなたった一言でつまずくものでしょうか。
「大体」という言葉につまずくのは、それ以前に算数に対する苦手意識や嫌悪感があったからではないかと思うのです。
もともと、算数・数学に対して良い感情を持っていなかったのではないか?
否定するための理由を無意識にずっと探していたのではないか?
だから、その一言に飛びついたのではないか?
理由さえ見つければ、算数が嫌いな自分を肯定できる・・・。
子どもは、ありとあらゆる理由を見つけて、算数を嫌います。
幼く判断力不足な子どもは、安易に算数・数学を嫌い、理解することよりも解き方を暗記することを選びます。
理解しなさい、考えなさい、と言われることをひどく嫌います。
学習の軽量化・スリム化には、丸暗記が有効。
深い理解は脳の容量をやたらと喰うだけ。
無意識に、そのような判断をしているようです。
しかし、そうやって意味を失い形骸化した公式や作業手順の集積の上に、高校数学の知識は乗りません。
高校生になると数学が全くわからなくなるのは、そのためです。
数学がわからないことは、進路を決める上で大きく影響します。
そのリスクを、幼い子どもは知りません。
自分の将来を自分が狭めていることを、知りません。
大人の責任は重い。
そのことに関しては、その教授の言いたいことはわかります。
頑張らなければ。
そう思います。
どうしても録音はたまりがちで、ひと月ほども後に番組を聴くことがあります。
前にもこのブログで書いた、『%がわからない大学生』という本の著者がゲスト出演しているラジオ番組を昨日になって聴きました。
日本の算数・数学教育がつまらない。
その例として、ラジオ番組で語られた内容に、再び首を傾げてしまいました。
「花子さんは、340円のお弁当を6個買いました。いくら払ったでしょうか」
例えば、かけ算の文章題はこんなのばかりだからつまらないと、その著者は言うのです。
代案としては、
「稲妻が光った後、6秒経って雷の音が聞こえました。雷が落ちた場所は、ここから何m離れているでしょう?」
という問題が良いというのです。
・・・いやいやいや。
それ、音の速さの問題ですよね?
その問題で、340×6という式の意味を理解でき、面白いと感じる子は、ほおっておいても数学や理科が好きです。
数学嫌いな子は、何かのトラウマでもあるのかというくらいに「速さ」が苦手です。
それに「音速」という物理の要素が加わると、ごく簡単なことも全く理解できない様子の子に何人も出会ってきました。
「速さ」という単元は、小学校5年生で学習します。
これといって難しい要素はないはずなのに、苦手な子は多いです。
速さ×時間=みちのり
という感覚的にもごく自然な式がわからない子もいます。
実感がわかない。
理解できない。
自分は絶対に速さの問題は解くことができないという謎の主張をする子をなだめ、落ち着かせてようやく学習に入ることもあります。
「速さ」という単元の難しさは、まず「速さ」の定義にあるのだと思います。
学校や塾での最初の授業時に正確に定義されているはずなのですが、子どもは、多くの場合、そういうものは聞き流します。
速さの定義がそれほど重要なものであることに気づかないのだと思います。
言葉の意味を聞き流す学習習慣がついているのでしょう。
必要なのは解き方を丸暗記することだけ。
そういう学習姿勢が既に出来上がっているのかもしれません。
「速さ」とは何か?
目の前を何かビューンと動いていく物のスピードのこと。
速いほど、ビューンというスピードが速い。
・・・実感としては、そんなふうではないでしょうか。
そして、この実感が、「速さ×時間=みちのり」という公式の理解を阻む最初の壁です。
ビューンというのは擬声語です。
何かを表現しているようでも、これでは何も説明していません。
スピードというのは「速さ」のことですから、英語で言い換えただけです。
結果として、何も説明していないことになります。
でも、速さは、実感としては確かにそういうことです。
速いと遅いはどう違うのか?
どうすれば、速さを比べられるか?
どうすれば、速さを量的に表すことができるか?
目の前をビューンと動いていくスピードそのものを表すことは、現実には不可能です。
でも、同じ時間を与えられたら、速いものほど長い距離を移動します。
そのことで、速さを量的に表すことができるでしょう。
そこから生まれたのが速さの定義です。
1時間で進む道のりを速さとして表したものが、時速。
1分で進む道のりを速さとして表したものが、分速。
1秒で進む道のりを速さとして表したものが、秒速。
単位時間で進む道のりを、速さと定義しています。
この定義をしっかり理解した子と理解していない子とで、その後の理解が大きく異なります。
わかったような顔でふんふんとうなずいて見せても、「速さ」が後になるほどわからなくなる子は、この定義が理解できていないのです。
速さに時間をかけるとなぜ道のりになるのか理解できないのは、速さの定義を理解していないからです。
ここで恐ろしいのは、短期記憶能力の高い子ほど、その場では完全に理解したような顔をすることです。
教わったときだけは完璧に公式を活用できます。
しかし、言葉の定義や公式の意味は、すぐに忘れます。
1週間後には、もう速さの定義を忘れています。
公式だけは、必要だと思うからか覚えています。
意味は本人の中で後退し、公式は、もはや単なる記号です。
その繰り返しで、算数・数学は意味のわからないものになっていきます。
そうした学習方法が後になるほどどれだけの困難を本人にもたらすか、本人には自覚がないので、注意して治るようなものではありません。
中学生や高校生になってから、
「数学は意味がわからない」
と、急に本人が意味を重視した発言をすることがあります。
しかし、小学生の頃、本人が意味を重視した学習をしていたのかどうかは疑問です。
立ち止まって意味を理解しようとするより、公式を丸暗記して目の前の問題を解くほうが楽ですから。
小学校の算数の頃に学習したことの意味が記憶の中で後退し、全てはただの作業手順となっている子が、中学や高校の数学の意味を理解しようとしても、それには多くの労力が必要となります。
中学・高校の数学の意味を理解するための前提となる知識が本人の中にないのです。
頭の中にあるのは、形骸化し記号化した公式と作業手順だけです。
教え方をちょっと変えたくらいでこういうことが改まるとは思えません。
意味を含んで全部を理解するのは、重いのです。
学習内容を軽量化するには、公式や解法手順だけ丸暗記すること。
本人がそのように無意識に判断し、全てを忘却しようとする脳の仕組みがそれを助けています。
それで一見上手くいっているように見えることに楔を打ち込むのは、大変な作業です。
しかし、楔は打ち込まなければなりません。
解法手順だけ丸暗記して解いている子に、数学的な未来はありません。
「速さ」に話を戻します。
例えば、時速。
時速は、1時間に進む道のりのことです。
だから、時速4kmの人は、1時間に4km歩きます。
では、2時間では、何km歩くことができるか?
2時間は、1時間が2個分ですから、
4×2=8 で、8kmです。
速さ×時間=道のり
この公式の意味は、そういうことです。
15kmの道のりを、3時間で歩いたとします。
この人の時速は?
時速というのは、1時間で何km進んだか、です。
15kmは、3時間の道のりなのだから、1時間あたりの道のりは、
15÷3=5 で、
時速5km。
時間を求めるのも簡単ですね。
時速3kmの人が、12km歩くのに何時間かかるか?
時速3kmというのは、1時間で3kmということだから、12kmの中に3kmが何個分あるかと考えると、
12÷3=4
4時間です。
速さ×時間=道のり
道のり÷時間=速さ
道のり÷速さ=時間
この3つをまとめて「速さの3公式」と呼びます。
全て意味を理解できる公式ですので、覚え方は本来必要ありません。
意味から考えれば、当然そうなるものです。
そういう点では、「速さ」は「割合」とは異なります。
「割合」は式を変形しただけなので意味を実感できませんが、「速さ」は、常に意味を伴っています。
だから、私は「は・じ・き」や「は・じ・み」の図は基本的には教えません。
速さの問題は、文章題から意味を汲み取って正しい式を立てることが可能だからです。
しかし、私が教えなくても「は・じ・き」の図を誰かから教わって使うようになる子が大半です。
気持ちはわからないでもありません。
上の3つの公式は意味から理解できる公式ですが、「単位量あたり」の問題など、それ以前の学習が未消化で終わっている子の場合、公式の意味がわからないことがあります。
この単元はかけ算。
この単元はわり算。
そういう把握をしてきた子は、かけ算かわり算かを自分で判断しなければならない単元が苦手です。
そもそも意味を考えて公式を利用したことがなく、意味から算数にアプローチをした経験がないのだと思います。
理解するのではなく、覚えることが算数。
そういう学習をずっと続けてきた子が、いきなり「速さ」だけは意味を理解するというのは、困難を伴うことだと思います。
速さを本当に理解しているかどうかは、問題のレベルを少し上げると露呈します。
問題 時速4kmで歩く人が、30分歩きました。何m歩きましたか。
4×30=120
答え 120m
速さの本質を理解していない子は、こういった誤答をしがちです。
そして、公式通りに式を立てたのに正解できなかったことで混乱し、「速さ」という単元にトラウマを抱き、「速さ」と聞いただけで嫌な顔をするようになっていきます。
意味から考えるならば、時速4kmの人、とは1時間で4km歩く人のことです。
4×30 という式では、30時間歩いた道のりが出てしまうと気づきます。
30分というのは、1時間の半分なのだから、進む道のりも半分になるでしょう。
それは、30分=1/2時間ということでもあります。
4×1/2=2
この2は2kmということだから、mに単位を直して、答えは、2000m。
意味を考えれば、このように楽に解いていけます。
しかし、意味を考えず、全てが公式と作業手順だけになっている子にとって、単位換算は作業手順として複雑で厄介です。
単位換算の1つ1つに実感はなく、作業手順として暗記しようとしているので、覚えきれないのです。
分を時間に直すとき、60倍するのだったか、1/60にするのだったか、すぐわからなくなってしまいます。
長さの単位換算をただの丸暗記をしている子は、1km=100m としがちです。
1kmに対して、100mに対して、何も実感がないのだと思います。
あるいは、それぞれの距離感は実感しているのだとしても、それを算数と結びつける発想がないのかもしれません。
算数は、とにかく公式と手順を丸暗記するものと思い込んでいるのでしょう。
こんなに簡単な問題を、なぜこんなに大変そうに解いているのだろう・・・?
そう感じるとき、この子は意味を理解していない、作業手順で解いているのだと透けて見えてきます。
「速さ」だけ理解させようとしても、そう簡単にいかないのです。
「音」についての学習も同様です。
「音」や「光」は、中学1年で学習するのは無理なのではないかと感じるほど、苦手な子が多い単元です。
中学3年になって、高校受験のために復習しても、中1の他の分野ほどには理解が進まないことが多いです。
ともあれ、中1以降は、理科で既に学習済みということで、数学でも音に関する文章題がたまに出題されることがあります。
そして、ほとんどの生徒が、補助しなければその問題を解けません。
「音の速さを秒速340mとして求めなさい」
というように、解き方の何もかもが問題文の中に書いてあるのに正答率が低い。
それが音の速さに関する問題です。
速さだけでも苦手なのに、さらに嫌いな理科の要素が加わったら、もう解ける気がしない・・・。
そういう子が多いのです。
現実に雷が鳴ったときに、雷と自分との距離の求め方がわかる。
だから、こういう問題なら興味をもって生き生きと学習できるだろう・・・。
『%がわからない大学生』の著者のそうした狙いはわかるのですが、そのような安易な理想を全て踏みつぶしていくのが現実の子どもたちです。
雷と自分との距離なんて、現実の子どもたちは「興味ない」で終わりにします。
もう恐ろしいくらいに全てのことに「興味ない」なのです。
勉強に関わることは全部「興味ない」のかもしれません。
そもそも勉強が嫌いなので、勉強に興味をもたせようと大人が仕向けてくる気配を感じると、早めにシャットアウトするのかもしれません。
そういう現実の子どもたちに拒否され、安易な理想は簡単に潰されて。
現実の数学教育は、しかし、そこから始まります。
地獄絵図のような思い出もあれば、宝石のような思い出もあります。
算数・数学を長く教えてきて、振り返った感想はそういうものです。
なかなか理想通りにはいかないけれど、思いもしなかった成果もありました。
ただ、こういう著者の勘違いはわからないでもないのです。
この人、大学教授なのだそうです。
数学教員になりたい教育学部の学生に教えているようです。
現実にうといのは、そういう立場だからかもしれません。
毎日子どもたちに算数・数学を教えている立場の人ではないのです。
学校の学習内容を扱う民放のテレビ番組などもそうです。
生徒役の若い女性タレントなどが、
「わかりやすーい。学校でも、こうやって教えてくれたら授業を聞いたのにー」
といった感想を口にすることがあります。
番組的にはそれで良いわけですが、あの女性タレントは、収録が終わったら番組の内容はほとんど覚えていないのではないかと思います。
わかりやすーい。
理解できた気がするー。
しかし、それはそれだけのこと。
右の耳から左の耳へと通り抜けていき、記憶には残りません。
その教授は、子どもたちに実際に授業をすることもあるのかもしれません。
そんなときの子どもたちの反応もそういうものではないのでしょうか。
大学の先生が、自分たちに授業をしてくれる。
普段とは違う、その特別な雰囲気。
そんなときには、
「わかりやすーい」
「面白ーい」
「はじめて算数がわかったー」
子どもは、そういう感想を口にすると思います。
私も、そういう子どもの称賛を受けることがあります。
「わかりやすーい」
「学校の先生もこうやって教えてくれればいいのにー」
そのように褒めてくれる生徒は昔も今もいます。
若い頃は、そういう称賛に自惚れたこともありました。
でも、今は、そういう褒め言葉は聞き流すことにしています。
「わかりやすーい」
と言った子は、翌週にはその内容を覚えていないかもしれません。
「学校もこうやって教えてくれればいいのにー」
と褒めてくれたところで、その子が、その考え方を利用した問題を解けるとは限りません。
私は何のために存在するのか?
わかりやすいけれど子どもの耳を素通りしていく授業ではダメなのです。
「わかりやすーい」だけではダメ。
理解したら、その理論を利用する問題を自力で解いて正答する。
それが本当に理解したということです。
そこに至れない子がいくら褒めてくれても、それではダメだと思っています。
褒めてくれるその気持ちを大切にしたいからこそ、その子が本当に算数・数学の問題を解けるようにしたいのです。
「花子さんは、340円の弁当を6個買いました。いくら支払ったでしょうか」
旧態依然としたこの問題は、確かに面白くないかもしれません。
けれど、かけ算の概念を子どもが最も理解しやすいのは、こうした値段に関する問題です。
340円の弁当を6個。
それなら、340×6だ。
この式は、多くの子が自力で立てられます。
面白いかどうかよりも、自分が理解できて正答できることのほうが、子どもにとってはどれほど嬉しいことか。
花子さんには、永遠に弁当を買わせてやってほしい。
私は、そう思います。
そのラジオ番組で面白かったのは、数学が大嫌いだという番組のパーソナリティーが、子どもの頃の思い出を語った部分でした。
わり算を勉強したときに、先生が、8÷2を教えるのに、
「8の中に2は大体いくつあるでしょう」
という教え方をしたのにつまずいたというのです。
算数に「大体」はありえないと思い、そこからわり算がわからなくなった、という話でした。
それに対して、その教授は、
「わり算というのは難しいですからね」
などと言葉を濁して済ませていました。
学校の先生がうっかり使った「大体いくつ」という言葉でつまずく子どもがいる・・・。
そのことの恐ろしさに、もっと鋭く反応しても良かったのではないかと思います。
その番組の中で、最も聴く価値があったのは、その部分でした。
しかし、本当にそんなたった一言でつまずくものでしょうか。
「大体」という言葉につまずくのは、それ以前に算数に対する苦手意識や嫌悪感があったからではないかと思うのです。
もともと、算数・数学に対して良い感情を持っていなかったのではないか?
否定するための理由を無意識にずっと探していたのではないか?
だから、その一言に飛びついたのではないか?
理由さえ見つければ、算数が嫌いな自分を肯定できる・・・。
子どもは、ありとあらゆる理由を見つけて、算数を嫌います。
幼く判断力不足な子どもは、安易に算数・数学を嫌い、理解することよりも解き方を暗記することを選びます。
理解しなさい、考えなさい、と言われることをひどく嫌います。
学習の軽量化・スリム化には、丸暗記が有効。
深い理解は脳の容量をやたらと喰うだけ。
無意識に、そのような判断をしているようです。
しかし、そうやって意味を失い形骸化した公式や作業手順の集積の上に、高校数学の知識は乗りません。
高校生になると数学が全くわからなくなるのは、そのためです。
数学がわからないことは、進路を決める上で大きく影響します。
そのリスクを、幼い子どもは知りません。
自分の将来を自分が狭めていることを、知りません。
大人の責任は重い。
そのことに関しては、その教授の言いたいことはわかります。
頑張らなければ。
そう思います。
2019年05月05日
相模湖与瀬神社から奥高尾を歩き、雷雨にあいました。2019年5月。
2019年5月4日(土)、奥高尾を歩きました。
三鷹駅に行ってみると、いつもの7:47発の中央特快高尾行きがありません。(''_'')
ゴールデンウィーク期間は、臨時の「あずさ」か「かいじ」のために、この中央特快が間引きされたのでしょうか。
ショックを受けつつ、次の中央快速に乗車。
ベストな接続の中央本線には乗れず、1本後の8:45高尾発の中央本線に乗りました。
相模湖駅着8:53。
支度をして、出発。9:00。
これまでは甲州街道に出て歩道を歩いていたのですが、どうやら1本線路側に歩いていける道があるようなので、今回はその道を模索しました。
駅前の階段を下りて、甲州街道には出ず、すぐに右へ。
公民館の前を過ぎると、道はさらに線路のフェンス脇へと曲がっていきました。
袋小路じゃないよね?とおそるおそる覗き込むと、線路脇に細い道がどこまでも続いているのでした。
途中、古い歩道橋で線路を渡っていく登山者の姿が見れました。
そのコースからも与瀬神社に行けるようです。
私はもう少し直進。
前回、「あれ?こんなところに階段がある?」と気づいた階段から、中央自動車道を渡ることができました。
上の写真は、中央自動車道の真上の階段踊り場で撮影したものです。
山も空もすっかり初夏の気配ですね。
与瀬神社の苔蒸した急な石段も嫌いではないのですが、今日は石段の右手にある緩やかなスロープのコースをとりました。
苦もなく、与瀬神社。
石段を上っていた若い登山者たちが、なぜかそこでたまってキョロキョロしています。
あ、登山口がわからないんだ。
道しるべの位置がちょっと奥まっていて、わかりづらいんですね。
神社に向かって左に歩いていくと、道しるべがあり、すぐに登山口。
振り返ると、若い子たちは皆、後ろをついてきていました。
朝から急登なので、若い子たちに道を譲り、ゆっくり登っていきました。
展望台。9:30。
ベンチとテーブルがあり、相模湖を見晴らすことができます。
座って休憩。
ここからさらに道は急な木段が続きます。
登山道にずり落ちてきたように斜めに生えている大木の右手を強引にまわり込んで、登っていきました。
朝一番の急な箇所を越えると、道はほぼ水平になりました。
キイチゴの白い花が登山道の両側に咲き乱れています。
これは、クサイチゴでしょうか。
キイチゴ類の識別ができないので、よくわかりません。
ニガイチゴ・モミジイチゴ・クサイチゴ・・・。
モミジイチゴだけは、葉の形で何とかわかります。
ゴールデンウィークに奥高尾を歩くのは初めてですが、花盛りで気持ちのよい道でした。
道が広くなり、緩い上り坂になりました。
右手に、林道でも作ろうとしたのか幅広い道のようなものがあり、しかし、そのまま放置されているようでした。
去年の9月に歩いたときも気になったのですが、これは何だろう?
ほどなく、大平小屋跡。10:35。
何年も前、初めてこのコースを歩いたときは、まだ売店のように見えなくもなかった建物も、今は屋根があるだけです。
その代わり、ベンチがいくつも整備され、気持ちのよい休憩適地です。
ここからは短いジクザグ道の急坂が始まりました。
その先、また道は平らになり、以後、少し急な道と平らな道が繰り返されます。
林道を横切り、石投げ地蔵尊のこんもり積もった石を右手に見て、しばらく行くと、木段が始まりました。
最初の木段は短く、また平坦な道。
次の木段も短く、また平坦な道。
そして、最後の木段は長く、一気に明王峠へと登っていきます。
夏に歩くときつい道ですが、今日は木陰は案外涼しく、淡々と登っていくとあっけなく明王峠に着きました。11:20。
ここまで、後ろから来る人はほとんどなく、木段を上る頃になってすれ違う人が何組か現れる静かな登山道でした。
ゴールデンウィークの奥高尾でも、道を選べばこんなに静かな山歩きが楽しめるんですね。
明王峠は、奥高尾縦走路を行く人たちで大賑わいでした。
さあ、いよいよメインストリート。
混雑は予想通りですが、道が広いのでさほどストレスはありませんでした。
この時期は新緑が美しいので、まき道よりも尾根歩きが楽しみです。
高尾方面に歩いていく左側、北斜面の雑木林の新緑の美しさ。
5月の明るい日差しにきらきら光っていました。
景信山。12:35。
展望の良いベンチは満席でした。
富士山が見えるほうのベンチは空いていました。
新緑を眺められるベンチなので、富士山は雲の中でも、やはり特等席です。
昼食。
さて出発。13:05。
小型ラジオをつけると、ザザッと雑音が入りました。
おかしい。
奥高尾縦走路の尾根で、こんなに電波状態が悪いわけがないのです。
ラジオの調子が悪いのかな?
それとも、・・・雷?
小仏峠まで下りていく間も、断続的に謎の雑音は入り続けました。
小仏峠。
地図を売っています。
1万2500分の1の、高尾山登山詳細図です。
実際に歩いて確認し、登山道以外の歩ける道も記載されている地図です。
見る度に気になっていたものの結局買いそびれているうちに、今年2月に新版が出たとのこと。
今回、ついに購入しました。
そんなこんなで、少し時間がかかったのと、まき道の花を見たかったので、小仏城山は巻きました。
日影沢林道の頂上点。13:50。
花の写真を撮った後にふと見上げると、明らかに雲の様子がおかしいのです。
黒い雲が西から迫ってきています。
ラジオに雑音。
ここで、初めて、微かな遠雷を聞きました。
同じようにまき道を歩いてきた人たちは、何も聞こえなかったように高尾へと進んでいきます。
ちょっと棒立ちになって考えた後、日影沢林道を下山することに決めました。
遠雷は徐々に確かなものになっていきました。
ラジオに雑音が入って、1、2、3秒後に雷鳴。
まだ遠い。
まだ雨も降っていない。
雲は西に流れ、日影林道はギリギリ逸れていくようにも見えます。
このまま、降られずに逃げ切れるかな?
日影林道の上部は舗装された歩きやすい道です。
林道を閉じている扉の脇をすり抜け、さらにどんどん下っていくと、ぽつぽつと雨が降り始めました。
ついに雨です。
急いで折り畳み傘を出し、ザックにカバーをかけました。
今日の天気予報は、上空の大気が不安定。
局地的に雨の可能性あり。
でも、この時期、雨具は暑いし、奥高尾の登山道は広いから、雨具よりも傘でしょう。
そう思って持ってきた傘が役に立ちました。
高い山や尾根での使用は危険ですが、低山の林道歩きに便利な超軽量折り畳み傘が山の道具屋さんで売られています。
それよりは重くなる、まあまあ軽量な廉価版なら、衣料品店にもあります。
雨はしとしとと本降りに。
ついに稲妻が空に走りました。
雲に覆われた空が一瞬全体に光ります。
尾根にいる人たちは、大丈夫でしょうか。
今日は山慣れない観光客も多いでしょう。
雨具の準備のない人もいそうです。
レジャーシートをかぶれば大丈夫かな。
雨よりも稲妻や雷の音のほうが怖いと思います。
日影沢林道のてっぺんで棒立ちになったとき、実は、そういう尾根の様子を見たいとチラと思ったのです。
私は傘もツエルトも持っているし、登山道を把握しているから何とでもなる。
・・・いや、そういうのは本当にダメ。
台風の日にわざわざ危険な場所に行って写真を撮っている人と同じでしょう。
危険を察知したら、1秒でも早く行動。
でも、城山直下のまき道を歩いていたとき「雷が来ますよ」と周囲の登山者に声をかける勇気はありませんでした・・・。
来ますよ来ますよと言って来なかったら恥ずかしいし迷惑をかけるという気持ちのほうが強かったです。
稲妻で時おり空が光りますが、雨はしとしと降るのみで、日影沢林道は穏やかでした。
雷雲の中心は高尾山は逸れている様子で、稲妻と雷鳴の差が2秒ほどの状態を維持しています。
林道の砂利道を歩いていくと、前を行く人たちに追いつきました。
どの人も、傘を差していたり、しっかりとした山用の雨具を着ていたり。
危険を察して早めに下山する人は、もともとの備えも良い人なのでしょう。
雷の直撃はなかったので、奥高尾の尾根でもそんなにひどいことは起こらなかったと思います。
ただ、雷の影響で、一時的にケーブルカーとリフトが運休になったとか。
最大2時間待ちの行列ができたそうです。
雨がその後も降り続ける中、登山者の大半が大混雑の1号路をのろのろ下った様子を想像すると、それを避けられて良かったと思います。
日影沢登山口。14:50。
道路を右にしばらくいくとバス停があり、10人ほどの行列ができていました。
次のバスは15:03。
そんなに悪くないタイミングです。
やってきた3台のバスは、立っている人が少しいる程度の混雑で、身動きできないような不快感はありませんでした。
始発の小仏バス停は、景信山から下山してくる人の乗るバス停。
景信山からでは時間がかかるので、雨が降った直後にすぐに下山者が増えることはなく、まだ混雑しなかったようです。
バスは出発。
途中、小仏行きのバスと何台もすれ違いました。
臨時増発便が出ている様子です。
この雨で日影林道を降りてくる人が普段より多くなるからという判断でしょうか。
高尾駅に着くと、雨はぽつぽつと降っている程度で、もう傘も差さずに済みました。
空いている電車の中で身支度を整え、ようやくスマートフォンを見て、驚きました。
高尾山よりも、府中や国分寺で雹が降ったり豪雨になったりと、とんでもないことになっていたのですね。
高尾山で雹が降ったら、恐ろしいことだった・・・。
運が良かったと思います。
三鷹駅に行ってみると、いつもの7:47発の中央特快高尾行きがありません。(''_'')
ゴールデンウィーク期間は、臨時の「あずさ」か「かいじ」のために、この中央特快が間引きされたのでしょうか。
ショックを受けつつ、次の中央快速に乗車。
ベストな接続の中央本線には乗れず、1本後の8:45高尾発の中央本線に乗りました。
相模湖駅着8:53。
支度をして、出発。9:00。
これまでは甲州街道に出て歩道を歩いていたのですが、どうやら1本線路側に歩いていける道があるようなので、今回はその道を模索しました。
駅前の階段を下りて、甲州街道には出ず、すぐに右へ。
公民館の前を過ぎると、道はさらに線路のフェンス脇へと曲がっていきました。
袋小路じゃないよね?とおそるおそる覗き込むと、線路脇に細い道がどこまでも続いているのでした。
途中、古い歩道橋で線路を渡っていく登山者の姿が見れました。
そのコースからも与瀬神社に行けるようです。
私はもう少し直進。
前回、「あれ?こんなところに階段がある?」と気づいた階段から、中央自動車道を渡ることができました。
上の写真は、中央自動車道の真上の階段踊り場で撮影したものです。
山も空もすっかり初夏の気配ですね。
与瀬神社の苔蒸した急な石段も嫌いではないのですが、今日は石段の右手にある緩やかなスロープのコースをとりました。
苦もなく、与瀬神社。
石段を上っていた若い登山者たちが、なぜかそこでたまってキョロキョロしています。
あ、登山口がわからないんだ。
道しるべの位置がちょっと奥まっていて、わかりづらいんですね。
神社に向かって左に歩いていくと、道しるべがあり、すぐに登山口。
振り返ると、若い子たちは皆、後ろをついてきていました。
朝から急登なので、若い子たちに道を譲り、ゆっくり登っていきました。
展望台。9:30。
ベンチとテーブルがあり、相模湖を見晴らすことができます。
座って休憩。
ここからさらに道は急な木段が続きます。
登山道にずり落ちてきたように斜めに生えている大木の右手を強引にまわり込んで、登っていきました。
朝一番の急な箇所を越えると、道はほぼ水平になりました。
キイチゴの白い花が登山道の両側に咲き乱れています。
これは、クサイチゴでしょうか。
キイチゴ類の識別ができないので、よくわかりません。
ニガイチゴ・モミジイチゴ・クサイチゴ・・・。
モミジイチゴだけは、葉の形で何とかわかります。
ゴールデンウィークに奥高尾を歩くのは初めてですが、花盛りで気持ちのよい道でした。
道が広くなり、緩い上り坂になりました。
右手に、林道でも作ろうとしたのか幅広い道のようなものがあり、しかし、そのまま放置されているようでした。
去年の9月に歩いたときも気になったのですが、これは何だろう?
ほどなく、大平小屋跡。10:35。
何年も前、初めてこのコースを歩いたときは、まだ売店のように見えなくもなかった建物も、今は屋根があるだけです。
その代わり、ベンチがいくつも整備され、気持ちのよい休憩適地です。
ここからは短いジクザグ道の急坂が始まりました。
その先、また道は平らになり、以後、少し急な道と平らな道が繰り返されます。
林道を横切り、石投げ地蔵尊のこんもり積もった石を右手に見て、しばらく行くと、木段が始まりました。
最初の木段は短く、また平坦な道。
次の木段も短く、また平坦な道。
そして、最後の木段は長く、一気に明王峠へと登っていきます。
夏に歩くときつい道ですが、今日は木陰は案外涼しく、淡々と登っていくとあっけなく明王峠に着きました。11:20。
ここまで、後ろから来る人はほとんどなく、木段を上る頃になってすれ違う人が何組か現れる静かな登山道でした。
ゴールデンウィークの奥高尾でも、道を選べばこんなに静かな山歩きが楽しめるんですね。
明王峠は、奥高尾縦走路を行く人たちで大賑わいでした。
さあ、いよいよメインストリート。
混雑は予想通りですが、道が広いのでさほどストレスはありませんでした。
この時期は新緑が美しいので、まき道よりも尾根歩きが楽しみです。
高尾方面に歩いていく左側、北斜面の雑木林の新緑の美しさ。
5月の明るい日差しにきらきら光っていました。
景信山。12:35。
展望の良いベンチは満席でした。
富士山が見えるほうのベンチは空いていました。
新緑を眺められるベンチなので、富士山は雲の中でも、やはり特等席です。
昼食。
さて出発。13:05。
小型ラジオをつけると、ザザッと雑音が入りました。
おかしい。
奥高尾縦走路の尾根で、こんなに電波状態が悪いわけがないのです。
ラジオの調子が悪いのかな?
それとも、・・・雷?
小仏峠まで下りていく間も、断続的に謎の雑音は入り続けました。
小仏峠。
地図を売っています。
1万2500分の1の、高尾山登山詳細図です。
実際に歩いて確認し、登山道以外の歩ける道も記載されている地図です。
見る度に気になっていたものの結局買いそびれているうちに、今年2月に新版が出たとのこと。
今回、ついに購入しました。
そんなこんなで、少し時間がかかったのと、まき道の花を見たかったので、小仏城山は巻きました。
日影沢林道の頂上点。13:50。
花の写真を撮った後にふと見上げると、明らかに雲の様子がおかしいのです。
黒い雲が西から迫ってきています。
ラジオに雑音。
ここで、初めて、微かな遠雷を聞きました。
同じようにまき道を歩いてきた人たちは、何も聞こえなかったように高尾へと進んでいきます。
ちょっと棒立ちになって考えた後、日影沢林道を下山することに決めました。
遠雷は徐々に確かなものになっていきました。
ラジオに雑音が入って、1、2、3秒後に雷鳴。
まだ遠い。
まだ雨も降っていない。
雲は西に流れ、日影林道はギリギリ逸れていくようにも見えます。
このまま、降られずに逃げ切れるかな?
日影林道の上部は舗装された歩きやすい道です。
林道を閉じている扉の脇をすり抜け、さらにどんどん下っていくと、ぽつぽつと雨が降り始めました。
ついに雨です。
急いで折り畳み傘を出し、ザックにカバーをかけました。
今日の天気予報は、上空の大気が不安定。
局地的に雨の可能性あり。
でも、この時期、雨具は暑いし、奥高尾の登山道は広いから、雨具よりも傘でしょう。
そう思って持ってきた傘が役に立ちました。
高い山や尾根での使用は危険ですが、低山の林道歩きに便利な超軽量折り畳み傘が山の道具屋さんで売られています。
それよりは重くなる、まあまあ軽量な廉価版なら、衣料品店にもあります。
雨はしとしとと本降りに。
ついに稲妻が空に走りました。
雲に覆われた空が一瞬全体に光ります。
尾根にいる人たちは、大丈夫でしょうか。
今日は山慣れない観光客も多いでしょう。
雨具の準備のない人もいそうです。
レジャーシートをかぶれば大丈夫かな。
雨よりも稲妻や雷の音のほうが怖いと思います。
日影沢林道のてっぺんで棒立ちになったとき、実は、そういう尾根の様子を見たいとチラと思ったのです。
私は傘もツエルトも持っているし、登山道を把握しているから何とでもなる。
・・・いや、そういうのは本当にダメ。
台風の日にわざわざ危険な場所に行って写真を撮っている人と同じでしょう。
危険を察知したら、1秒でも早く行動。
でも、城山直下のまき道を歩いていたとき「雷が来ますよ」と周囲の登山者に声をかける勇気はありませんでした・・・。
来ますよ来ますよと言って来なかったら恥ずかしいし迷惑をかけるという気持ちのほうが強かったです。
稲妻で時おり空が光りますが、雨はしとしと降るのみで、日影沢林道は穏やかでした。
雷雲の中心は高尾山は逸れている様子で、稲妻と雷鳴の差が2秒ほどの状態を維持しています。
林道の砂利道を歩いていくと、前を行く人たちに追いつきました。
どの人も、傘を差していたり、しっかりとした山用の雨具を着ていたり。
危険を察して早めに下山する人は、もともとの備えも良い人なのでしょう。
雷の直撃はなかったので、奥高尾の尾根でもそんなにひどいことは起こらなかったと思います。
ただ、雷の影響で、一時的にケーブルカーとリフトが運休になったとか。
最大2時間待ちの行列ができたそうです。
雨がその後も降り続ける中、登山者の大半が大混雑の1号路をのろのろ下った様子を想像すると、それを避けられて良かったと思います。
日影沢登山口。14:50。
道路を右にしばらくいくとバス停があり、10人ほどの行列ができていました。
次のバスは15:03。
そんなに悪くないタイミングです。
やってきた3台のバスは、立っている人が少しいる程度の混雑で、身動きできないような不快感はありませんでした。
始発の小仏バス停は、景信山から下山してくる人の乗るバス停。
景信山からでは時間がかかるので、雨が降った直後にすぐに下山者が増えることはなく、まだ混雑しなかったようです。
バスは出発。
途中、小仏行きのバスと何台もすれ違いました。
臨時増発便が出ている様子です。
この雨で日影林道を降りてくる人が普段より多くなるからという判断でしょうか。
高尾駅に着くと、雨はぽつぽつと降っている程度で、もう傘も差さずに済みました。
空いている電車の中で身支度を整え、ようやくスマートフォンを見て、驚きました。
高尾山よりも、府中や国分寺で雹が降ったり豪雨になったりと、とんでもないことになっていたのですね。
高尾山で雹が降ったら、恐ろしいことだった・・・。
運が良かったと思います。
2019年05月02日
高校英語。受動態その3。受動態の疑問文。
受動態の問題で失点が多いのは、まず、byを使わない受動態です。
しかし、それは覚えれば大丈夫な問題です。
be caught in a shower にわか雨にあう
などの具体例を熟語として覚えてしまえば、失点原因はむしろ得点源に変わります。
とりあえず、学校で使用している文法テキストに載っているものを全て覚えるようにすれば、定期テストは大丈夫です。
それが覚えられないんだ、だから困っているんだという人もいるかと思います。
覚え方としては、前置詞を隠したり、日本語だけを見たりして、繰り返し自分にテストをすることが最善です。
暗記が苦手な人は、自分にテストをしない人が多いのです。
自分にテストした結果、出来が悪いと、ひどく気が滅入ってしまうらしいのです。
自分で自分にテストしているだけですから、最初は5割程度の正答率でも構わないのに、それに耐えられないようです。
「暗記ができない自分」ということを直視できないのかもしれません。
それだけ劣等感が強い、自己否定の感情が強いということなのかと推測すると、あまり強いことは言えないのですが、でも、それは違いますよね。
繰り返し自分にテストし、出来るようになって、本番のテストに臨めば、高い得点が取れるのです。
一度で覚えられないのは当たり前なのに、一度で覚えられない自分にすぐ傷ついてしまうのは、それは違います。
自分にテストできず、他人からテストされて、練習不足で出来が悪く、ますます劣等感が強くなる・・・。
その繰り返しで、さらにテストが苦手になってしまうのは、残念です。
覚えるべきことは早めに覚えてしまいましょう。
その後、練習問題は、一覧表を見ずに解きます。
間違っていたら、また覚え直します。
その繰り返しで、暗記事項は身につきます。
暗記が比較的得意な人の中には、覚えるべきことをテスト直前までほおっておく人もいます。
テスト前日に覚えるからいいや、と思うようです。
たとえそれが上手くいくとしても、それらは全て短期記憶となります。
テストが終わればすぐに忘れます。
しかし、byを使わない受動態などの知識は、以後もずっと使い続けるものです。
長期記憶にとどめておかないと、他の文法事項の英作文や課題作文を書く際に影響します。
長期記憶にとどめたいなら、テキストに出てきたらすぐ暗記し反復し、練習ができるだけ長期に渡るように工夫しましょう。
忘れたら覚える、その繰り返しで長期記憶になります。
それは無駄なことではないのですが、暗記ものは前日にやらなければ損だと思っている人は、多いです。
それは、勉強ができなくなるように自分を誘導してしまうやり方です。
英語に限らず、数学でも、高校1年生まではギリギリ何とかなっていたのに、高校2年になった途端に手も足も出ない、まるで歯が立たないという状態に追い込まれる人は、案外多いのです。
短期記憶で全部済ませてきたツケが高校2年で一気に表れます。
コミュニケーション英語は教科書の本文が急に難しくなったように感じて、自力で読めなくなります。
高1で学習した単語や熟語、文法事項を覚えていないのが原因なのですが、本人にとっては不意打ちと思えるほど、高1と高2で教科書の英文のレベルに差があると感じるようです。
当然ですが、高3のリーディングは、もっと各段に難しくなります。
英語表現は、高校1年でひと通りの文法事項を終えてしまう学校の場合は、高2からは総合演習に入ります。
実は単なる復習なのですが、何も覚えていない人にとっては、急に授業スピードが速くなり、難しくなったと感じるようです。
1つ1つの知識を身につけていなかったことが、ここで大きく影響します。
高校1年までに学習した内容が身についていることが前提の演習を、短期記憶でやり過ごしてしまって頭の中に何も残っていない人がやらなければならない。
ついていけなくなるのが当たり前です。
高校2年でそのことに気づいても、遅い。
どうか高1から、短期記憶で処理する学習習慣を改めてください。
後悔しないために。
前置きが長くなりました。
本日のメインは、暗記ものの話ではなく、疑問文の受動態。
例えば、こんな問題です。
問題 以下の文を受動態にせよ。
Who turned on the radio ?
結論から言えば、こういう問題は、丸暗記で解くのは難しいタイプの問題です。
何通りもバリエーションがありますから。
こういう問題は、理屈で理解することで応用が効くようになります。
理屈とは何か?
文法です。
S・V・O・Cの分析が、この問題に正解する近道です。
上の文は、能動態の文です。
who が主語S。
turned on が動詞V。
the radio が目的語Oです。
冒頭の who は能動態では主語なのですから、受動態では by ~「~によって」という修飾語Mに転換されます。
しかし、いずれにせよ疑問詞は先頭に置くものですから、とりあえず、書き出しは who で良いでしょう。
疑問文なのですから、その後ろ、主語よりも前に何か1語書きますね。
受動態は、be動詞を主語の前に置くことで疑問文となります。
新しい主語は the radio 。
時制は過去形。
ではbe動詞は、was が適切でしょう。
Who was the radio
ここまで作れました。
この後は、過去分詞。規則動詞ですから、ed をつければ良いですね。
Who was the radio turned on
これで完成でしょうか?
いいえ。
繰り返しますが、冒頭の who は、主語ではありません。
by ~「~によって」というものが、疑問詞なので先頭に来ているだけです。
では、by が必要ですね。
よって正解は、
Who was the radio turned on by ?
となります。
書き言葉としては、冒頭の who が主語ではないことを明確にしたほうが読みやすいので、
Whom was the radio turned on by ?
あるいは、
By whom was the radio turned on ?
という解答もあります。
堅苦しい言い回しにはなりますが、文の構造が明確であることは、書き言葉としては意味が取りやすい文です。
話し言葉としても、先頭で By whom と言ってしまうほうが疑問の中心が何であるかを相手に伝えることができるので、論理的な話をしているときなら好まれます。
疑問文の受動態は、以上のように能動態のSVOを分析すると正確に作っていくことができます。
感覚に頼り、英語の語順は大体こんなものだろうと、自分のセンス任せで書いていく愚は避けたいものです。
日本生まれの日本育ちの日本人。
学校の授業と自分で勉強している時間しか英語に触れていない。
それで英語センス、英語の感覚を養うのは無理です。
理屈で並べましょう。
初学者の味方は、感覚ではなく、文法です。
問題 次の文を受動態にせよ。
Who did they elect mayer ?
この能動態の文の主語は who ではありません。
主語が who である疑問文は、肯定文と同じ語順になります。
疑問文を作るための助動詞 did を使う必要がありません。
Who elected mayer ? となります。
上の文は、これとは違います。
では、上の文の who は何なのか?
これは、目的語Oです。
仮にこの who を Bob として、能動態の肯定文に直してみると、
They elected Bob mayer.
ボブは市長に選ばれた。
という文になります。
SVOCの文です。
その Bob がわからず誰なのかを訊いている文なので、文頭に who があり、疑問文の語順の通りに続いているのが、問題文です。
Who did they elect mayer ?
who は目的語O。
they が主語S。
elect が動詞V。
mayer が補語C。
ちなみに、こうしたときの mayer は、役職・機能なので、冠詞をつけません。
さて、これを受動態に直すのですから、主語は who です。
受動態としては、主語が疑問詞の疑問文となります。
主語が疑問詞の疑問文は肯定文の語順です。
Who was ellected mayer ?
これが正解です。
この場合、by them は必要ありません。
この they は「一般の人々の they 」と呼ばれるものです。
誰か特定の「彼ら」を示すものではありません。
そういうものは、受動態では省略されます。
「一般の人々の they 」は、昔なら、『ガンダーラ』を歌えば一度で理解してもらえました。
They say it was in India.
この they が、それですね。
今は、『ガンダーラ』という歌を知る子が少ないので、これで説明しても伝わりません。
誰もが知っている現代のヒット曲でこの they を含むものがあると良いのですが。
疑問文を受動態にするには、SVOCの分析が必要。
文法知識はこのように互いに連動しています。
5文型の分析なんて何の必要があるの?
そう思っていた人は、今後はさらにSVOCの分析が活きてきますので、復習してください。
SVOCを分析する力は、全ての文法の理解につながります。
もっとも大切なことであるのに、「それだけは嫌だ」と避けたがる人が多数出るところでもあります。
このブログも、文法的な分析のところは、飛ばし読みしてしまう・・・。
気持ちはわかりますが、文法的なことが嫌いなのに文法問題で正答したいというのは、矛盾しています。
ここは、頑張りどころです。
しかし、それは覚えれば大丈夫な問題です。
be caught in a shower にわか雨にあう
などの具体例を熟語として覚えてしまえば、失点原因はむしろ得点源に変わります。
とりあえず、学校で使用している文法テキストに載っているものを全て覚えるようにすれば、定期テストは大丈夫です。
それが覚えられないんだ、だから困っているんだという人もいるかと思います。
覚え方としては、前置詞を隠したり、日本語だけを見たりして、繰り返し自分にテストをすることが最善です。
暗記が苦手な人は、自分にテストをしない人が多いのです。
自分にテストした結果、出来が悪いと、ひどく気が滅入ってしまうらしいのです。
自分で自分にテストしているだけですから、最初は5割程度の正答率でも構わないのに、それに耐えられないようです。
「暗記ができない自分」ということを直視できないのかもしれません。
それだけ劣等感が強い、自己否定の感情が強いということなのかと推測すると、あまり強いことは言えないのですが、でも、それは違いますよね。
繰り返し自分にテストし、出来るようになって、本番のテストに臨めば、高い得点が取れるのです。
一度で覚えられないのは当たり前なのに、一度で覚えられない自分にすぐ傷ついてしまうのは、それは違います。
自分にテストできず、他人からテストされて、練習不足で出来が悪く、ますます劣等感が強くなる・・・。
その繰り返しで、さらにテストが苦手になってしまうのは、残念です。
覚えるべきことは早めに覚えてしまいましょう。
その後、練習問題は、一覧表を見ずに解きます。
間違っていたら、また覚え直します。
その繰り返しで、暗記事項は身につきます。
暗記が比較的得意な人の中には、覚えるべきことをテスト直前までほおっておく人もいます。
テスト前日に覚えるからいいや、と思うようです。
たとえそれが上手くいくとしても、それらは全て短期記憶となります。
テストが終わればすぐに忘れます。
しかし、byを使わない受動態などの知識は、以後もずっと使い続けるものです。
長期記憶にとどめておかないと、他の文法事項の英作文や課題作文を書く際に影響します。
長期記憶にとどめたいなら、テキストに出てきたらすぐ暗記し反復し、練習ができるだけ長期に渡るように工夫しましょう。
忘れたら覚える、その繰り返しで長期記憶になります。
それは無駄なことではないのですが、暗記ものは前日にやらなければ損だと思っている人は、多いです。
それは、勉強ができなくなるように自分を誘導してしまうやり方です。
英語に限らず、数学でも、高校1年生まではギリギリ何とかなっていたのに、高校2年になった途端に手も足も出ない、まるで歯が立たないという状態に追い込まれる人は、案外多いのです。
短期記憶で全部済ませてきたツケが高校2年で一気に表れます。
コミュニケーション英語は教科書の本文が急に難しくなったように感じて、自力で読めなくなります。
高1で学習した単語や熟語、文法事項を覚えていないのが原因なのですが、本人にとっては不意打ちと思えるほど、高1と高2で教科書の英文のレベルに差があると感じるようです。
当然ですが、高3のリーディングは、もっと各段に難しくなります。
英語表現は、高校1年でひと通りの文法事項を終えてしまう学校の場合は、高2からは総合演習に入ります。
実は単なる復習なのですが、何も覚えていない人にとっては、急に授業スピードが速くなり、難しくなったと感じるようです。
1つ1つの知識を身につけていなかったことが、ここで大きく影響します。
高校1年までに学習した内容が身についていることが前提の演習を、短期記憶でやり過ごしてしまって頭の中に何も残っていない人がやらなければならない。
ついていけなくなるのが当たり前です。
高校2年でそのことに気づいても、遅い。
どうか高1から、短期記憶で処理する学習習慣を改めてください。
後悔しないために。
前置きが長くなりました。
本日のメインは、暗記ものの話ではなく、疑問文の受動態。
例えば、こんな問題です。
問題 以下の文を受動態にせよ。
Who turned on the radio ?
結論から言えば、こういう問題は、丸暗記で解くのは難しいタイプの問題です。
何通りもバリエーションがありますから。
こういう問題は、理屈で理解することで応用が効くようになります。
理屈とは何か?
文法です。
S・V・O・Cの分析が、この問題に正解する近道です。
上の文は、能動態の文です。
who が主語S。
turned on が動詞V。
the radio が目的語Oです。
冒頭の who は能動態では主語なのですから、受動態では by ~「~によって」という修飾語Mに転換されます。
しかし、いずれにせよ疑問詞は先頭に置くものですから、とりあえず、書き出しは who で良いでしょう。
疑問文なのですから、その後ろ、主語よりも前に何か1語書きますね。
受動態は、be動詞を主語の前に置くことで疑問文となります。
新しい主語は the radio 。
時制は過去形。
ではbe動詞は、was が適切でしょう。
Who was the radio
ここまで作れました。
この後は、過去分詞。規則動詞ですから、ed をつければ良いですね。
Who was the radio turned on
これで完成でしょうか?
いいえ。
繰り返しますが、冒頭の who は、主語ではありません。
by ~「~によって」というものが、疑問詞なので先頭に来ているだけです。
では、by が必要ですね。
よって正解は、
Who was the radio turned on by ?
となります。
書き言葉としては、冒頭の who が主語ではないことを明確にしたほうが読みやすいので、
Whom was the radio turned on by ?
あるいは、
By whom was the radio turned on ?
という解答もあります。
堅苦しい言い回しにはなりますが、文の構造が明確であることは、書き言葉としては意味が取りやすい文です。
話し言葉としても、先頭で By whom と言ってしまうほうが疑問の中心が何であるかを相手に伝えることができるので、論理的な話をしているときなら好まれます。
疑問文の受動態は、以上のように能動態のSVOを分析すると正確に作っていくことができます。
感覚に頼り、英語の語順は大体こんなものだろうと、自分のセンス任せで書いていく愚は避けたいものです。
日本生まれの日本育ちの日本人。
学校の授業と自分で勉強している時間しか英語に触れていない。
それで英語センス、英語の感覚を養うのは無理です。
理屈で並べましょう。
初学者の味方は、感覚ではなく、文法です。
問題 次の文を受動態にせよ。
Who did they elect mayer ?
この能動態の文の主語は who ではありません。
主語が who である疑問文は、肯定文と同じ語順になります。
疑問文を作るための助動詞 did を使う必要がありません。
Who elected mayer ? となります。
上の文は、これとは違います。
では、上の文の who は何なのか?
これは、目的語Oです。
仮にこの who を Bob として、能動態の肯定文に直してみると、
They elected Bob mayer.
ボブは市長に選ばれた。
という文になります。
SVOCの文です。
その Bob がわからず誰なのかを訊いている文なので、文頭に who があり、疑問文の語順の通りに続いているのが、問題文です。
Who did they elect mayer ?
who は目的語O。
they が主語S。
elect が動詞V。
mayer が補語C。
ちなみに、こうしたときの mayer は、役職・機能なので、冠詞をつけません。
さて、これを受動態に直すのですから、主語は who です。
受動態としては、主語が疑問詞の疑問文となります。
主語が疑問詞の疑問文は肯定文の語順です。
Who was ellected mayer ?
これが正解です。
この場合、by them は必要ありません。
この they は「一般の人々の they 」と呼ばれるものです。
誰か特定の「彼ら」を示すものではありません。
そういうものは、受動態では省略されます。
「一般の人々の they 」は、昔なら、『ガンダーラ』を歌えば一度で理解してもらえました。
They say it was in India.
この they が、それですね。
今は、『ガンダーラ』という歌を知る子が少ないので、これで説明しても伝わりません。
誰もが知っている現代のヒット曲でこの they を含むものがあると良いのですが。
疑問文を受動態にするには、SVOCの分析が必要。
文法知識はこのように互いに連動しています。
5文型の分析なんて何の必要があるの?
そう思っていた人は、今後はさらにSVOCの分析が活きてきますので、復習してください。
SVOCを分析する力は、全ての文法の理解につながります。
もっとも大切なことであるのに、「それだけは嫌だ」と避けたがる人が多数出るところでもあります。
このブログも、文法的な分析のところは、飛ばし読みしてしまう・・・。
気持ちはわかりますが、文法的なことが嫌いなのに文法問題で正答したいというのは、矛盾しています。
ここは、頑張りどころです。