2012年11月29日
くらべないで
期末テスト前の対策授業。
それなのに、授業中、集中できていない。
先日、そんな中学生に、
「うちの塾に通う中学生で、この前の中間テストで80点取れなかったのは、あなたと、もう1人の、合計2人だけでしたよ。原因はどこにあるか、わかりますか」
と言いました。
そういうことを聞くだけでお腹が痛くなる子もいますので、これはかなり危険なことです。
言う相手は、選ばなければならない。
でも、その子には良い刺激になったようです。
期末テストが終わるとすぐ、問題を塾に持ってきて、
「答えを教えて。80点とれたかな?」
と気にしていました。
本人いわく、「こんなさびれた塾」に、そんなに成績の良い子がいるわけないと思っていたそうです。
中間テストの点数では、自分がビリから2番目と知って、驚いたらしいです。
こんなさびれた塾って、個別指導なんだから、いつ来ても私以外に人の気配がないのは当たり前なのですが。
会社のオフィスみたいな内装にするには、その分を授業料に上乗せすることになります。
もう1つ言えば、個別指導なんだから、範囲のあるテストで80点取るくらいのクオリティは当たり前なんですよー。
(^_^;)
まあしかし、これは、誰にでもやって良いことではなく、基本、非常に危険なこと。
今回の場合は、顔も名前も知らず、永久に会うことのない人たちと比較されたので、傷つく要素は少なかったと思いますが。
比べられる場合、ごく狭い範囲の、目の前の相手と比べられるのが、逃げ場がなく、もっともつらいかもしれません。
兄弟姉妹と比べられてつらいと言う子は、昔も今もいます。
個別指導塾に勤めていたあるとき、新しく入って来た男の子が、
「センセイ、〇〇って知ってる?」
といきなり言うので、驚いたことがあります。
それは、その子の兄の名前でした。
卒業した誰それの弟だという話は、もちろん事前の情報として入っていましたが、どうでもいいことなので、念頭にありませんでした。
でも、本人にとっては、それはどうでもいいことではなかったようです。
誰もそのことに触れないのに、わざわざそれを自分から口に出すほど、意識していました。
その後も、ことあるごとに、兄の名前を口に出します。
授業態度が悪いので注意すると、
「〇〇は、違ったか」
わざわざ自分から、兄の名前を出して、どうせ比較して言っているんだろう、と決めつけてきます。
自分がきちんとできないのは、兄が優秀だからだ。
自分はむしろ被害者なのだ。
そう思っているのではないかと感じられることさえありました。
兄弟で、どちらかが成績優秀で、もう1人がそうでもない。
もし、そんなことがあったとしても、今の時代、それをとやかく言う親は、現実にはほとんどいないと思います。
それは、比べてはいけないこと。
そういう常識は、もう十分普及しています。
だから、親がその子を比べて傷つけたことは多分ないのに、なぜ、そんなに気にしていたのだろう。
親は比べないけれど、他人が比べていたのでしょうか。
「あなたは、いつもお兄さんの名前を口に出すけど、本当に、あなたとお兄さんのことを比べてあなたのことを批判する人が、いるの?」
あるとき、そう訊くと、その子は、顔をそむけました。
「みんな、比べてる」
「みんなって、誰?」
「・・・・・・」
「あなたのお父さん?お母さん?おじいさん?おばあさん?親戚の人?近所の人?学校の先生?誰?」
「・・・・・・」
明確な答えはありませんでした。
「本当は、比べて何か言う人は、誰もいないんじゃないの?」
学校の先生や塾の講師が、「兄弟だから」という、単なる血縁関係を理由に生徒を比べる可能性はほとんどありません。
こういう仕事をしている場合、ベテランになればなるほど、何百人、何千人という生徒を見ています。
それは、一種のデータベース。
そのデータベースの中での生徒の比較ならば、常に行っています。
この時期に、この学力で、この学習習慣・性格傾向の子。
どこまで伸びるか。
どこに進学できるか。
さらに伸ばすには、どのような指導が効果的か。
それは、結局、これまで教えてきた多くの生徒たちとの比較から判断しています。
兄弟なんて、むしろ、性格が違う場合のほうが多いので、比較対象になりません。
比べても意味がないので、比べようという気すら起こりません。
目の前の生徒は1人1人独立しているので、兄弟の誰それを念頭において何かを考えることもありません。
本人が口に出すので、ああ、そういえば、君のお兄さんは、〇〇君でしたね、という感覚なのが、ほとんどの学校の先生や塾講師だと思います。
ただ、面白いもので、保護者のほうは、自分は比べたことなど1度もないのに、他人が比べるので子どもが傷ついている、という把握をされている場合があります。
自分は気をつけているのに、他人が安易に比べるので、子どもが傷ついてしまう、と感じているようです。
真実はともかく、傷ついている子は現実にいます。
他人に比べられるかどうかよりも、やはり、家庭内のことのほうが、子どもには重いでしょう。
本当は、「どちらが優れているか」ではなく、「どちらがより多く親に愛されているか」という問題なのですから。
勉強が出来る真面目な兄貴のほうが、親に信頼され、愛されていると、弟は思っている。
勉強をさぼって悪さして、それでも何だかんだ、結局、親に甘やかされ愛されているのは弟のほうだと、兄は思っている。
親は、むろん、平等に愛しているつもりです。
でも、平等にしようと努力していることが、すでに不平等であることまで、肌で感じ取るのが子どもです。
親の愛情に差なんてあるはずがない、子どもを愛さない親はいない、と思うのと。
親だって人間なんだから、ソリの合う子もいれば合わない子もいるさ、と思うのと。
今、苦しんでいる子どもには、どちらが慰めになるのだろう。
昔、親が学校の先生である友人から聞かされた話で印象的だったことがあります。
親が教員なんて、ろくなことがない。
でも、それは、教師の子なら勉強ができて当たり前、と言われるからではない。
そんな無神経なことを言う他人は、たまにしかいない。
一番嫌だったのは、親が、うんざりするくらい現実をわかっていること。
私のテストや成績表を見るときの目つきが嫌だった。
志望校を決めるときも、こんなもんだろう、と何の夢も見ていない判断をされた。
うちの親は、私も生徒の1人のように思っていた。
家の中にいても、親じゃなくて、教師なんだよ。
普通の保護者は、子どもに夢を見ます。
こちらが「えっ?」と思うような高い志望校を口にする保護者も多くいらっしゃいます。
受験が近づき、何回も模試を受け、データを見て、夢と現実をすり合わせていきます。
でも、保護者が教師である場合、模試の結果を見るまでもなく、学校の成績やテストの答案を見ている段階で、高い精度で現実が見えています。
それは、子どもにとって、楽なことばかりではないのでしょう。
根拠のない比較をされているのではありません。
膨大なデータベースの中での精度の高い比較を、実の親にされている現実。
根拠なんかなくていいから、一緒に夢を見てよ。
そんな気持ちになることもあったのかもしれません。
子どもと一緒に甘い夢を見て、子どもと一緒に落胆して。
でも、また、一緒に夢を見る。
そういう親も、また良い親であると、私も思います。
2012年11月19日
倉岳山を歩きました
2012年11月18日(日)、中央線沿線の倉岳山を歩いてきました。
10月14日以来の、久しぶりの山です。
山に行くのが久しぶりなだけでなく、休日が、それ以降1日もありませんでした。
よく働いたひと月でした。
高尾から中央線に乗り換えて、鳥沢駅下車。9:30。
中央線沿いに戻るようにしばらく歩き、踏切を越え、その先も、登山口まで、車道歩きが続きます。
ときどき道標があるのですが、若干わかりにくいです。
道標がないときは、直進。
結局は、この原則を忘れないことなんですが、不安になる箇所がありました。
小篠の集落に入ると、道標は豊富。
でも、最後の道標通りに行ったら、柵に突き当りました。10:00。
「あれ?」と思いましたが、登山者用の入口が柵についていました。
自分で開けて、また閉めるタイプのものでした。
閉め終わって、しばらく行くと、「熊出没注意」の看板が見えてきました。
熊よけの柵なのかな。(^_^;)
そこから、登山道でした。
小篠は貯水池もあるところで、水が多く、最初、山道は濡れていました。
前夜、土曜日の夜は、ずいぶん雨が降りましたから。
前に来たのは2年前。
あまり記憶は確かではないが、小さな沢を越えたような気がするけど、大丈夫かなと思い出しながら歩いていくと、ありました、小さな沢。
飛び石が水没しているようなことはなく、大丈夫でした。
沢を越えるのは、飛び石が沢の中で2か所までなら、ストレスはありません。
1歩目は、まだ岸に片足があるまま、用心して足を置き、そこから、2歩目と向こう岸をよく確認。
2歩目は、ぽんと足を置くだけで、すぐに向こう岸へジャンプ。
これが、沢の中の飛び石が3つ以上になると、その数の2乗に比例してストレス増大というのが私の実感です。
(^_^;)
苔むした岩をはみ流れ落ちていく沢を眺めながら、木立の中、落ち葉を踏みしめて歩く。
秋の山道です。
ひと月来ない間に、山はすっかり秋が深まり、もう紅葉も終わっているのかなあと思いながら石仏の分岐に到着。10:25。
ここからは、道を右にとり、高畑山へ向かいました。
少しずつ、道は急になり、そして、山の色は一変しました。
登山道に落ちている葉も、木に残っている葉も、黄色。
玉子焼きみたいな黄色です。
わあ、山全体が黄色いなあ。
快晴の下、輝くような黄色い山道を登っていきました。
仙人小屋跡。10:25。
ここは、昔、「仙人」と呼ばれた人が住んでいたところだそうです。
一番近い集落からも30分の山の中。
ここに小屋を建て、1人で住んでいたらしいです。
昔と言っても、江戸時代などではなく、昭和の頃の話。
「仙人」は書道家で、和紙を持っていくと、育てているイチゴを分けてくれたとか。
でも、悪ガキたちがこっそりイチゴを盗み食いに行くと、すごく怒ったとか。
テレビのワイドショーに出演したこともあったとか。
現金収入があると、麓の町で外食したとか。(*^_^*)
伝え聞く、少し俗な情報が、むしろ、里の人に許され愛されていた「仙人」の横顔をしのばせます。
少し脇に、半分土に埋まって残っている鍋や茶碗は、その仙人のものなのでしょうか。
建物の跡は、もうほとんど何も残っていません。
土留めのように置いてある丸太は、もしかしたら、建物の跡なのかもしれません。
そこから急な上りをひと頑張りで、高畑山山頂。11:35。
富士山がどーんと見えました。
左側に激しく雲が巻き上がっている、冬の富士山でした。
日当たりがよく小広い山頂なので、ここで昼食をとっている人が多かったです。
倉岳山のほうが山頂は広いけれど、木立が多いせいか何となく暗いので、高畑山のほうが雰囲気は良いと思いました。
でも、まだお腹がすかないので、今日は、倉岳山で昼食にしよう。
そう思って歩きだしたら、20人ほどの団体さんが到着。
うん。歩きだしていて良かった。
山を1人で歩いていると、団体客が近くに来るのは、やっぱり少し面倒くさいなと感じることがあります。
もう10年くらい前になりますが、箱根の山を歩いていて、70人の団体と遭遇したときは、追い抜くのが本当に大変でした。
でも、山を最初に学び始めた頃、山歩きツアーによく参加し、お世話になったので、団体客に対して、根本の反感や軽蔑はありません。
山の基礎を学びたいと思ったら、山歩きツアーは有効です。
歩くペース。休憩の取り方。水分の取り方。良い行動食。装備。
そういうものを基本から学べます。
でも、先日、また山歩きツアーで遭難事故が起きてしまいました。
第一報を目にしたときは、私も「またか」と思いました。
だから、実状をあまりよく知らないんじゃないかなあと思われる人たちが、無責任な情報をネットで発信するのも、わからないわけじゃありません。
でも、やっぱり違う。
「あの会社は、ツアー料金が安いから人が集まる」
それは、違います。
むしろ、他の登山ツアー会社より料金は高いことが多いです。
日帰りで2000円程度。
泊まりがけのツアーになれば、1日あたりで3000円から5000円程度高い。
でも、高くても、あの会社を選ぶんです。
なぜなら、本当に面倒見が良いから。
力の弱い登山者も、登らせてくれるから。
「お年寄りは、ネットが使えないから、トムラウシの事故のことも知らず、あの会社を選ぶ」
それも、違うと思います。
情報源は、ネットだけではありません。
あの会社のツアーに参加する人で、トムラウシの事故のことを知らない人は、いないでしょう。
それでも、あの会社を選ぶんです。
添乗員もガイドも、痛々しいくらいに安全面に気を配っているのを見ていますから。
でも、また事故が起きてしまった。
どうしてだろう?
簡単に決めつけたくはない。
本当の理由が知りたいです。
これからあの会社がどうなるのかわからないけれど、もしもまたツアーが催行されるのなら、参加してみようと思います。
自分の目で見てきます。
高畑山から倉岳山へは晴れやかな尾根歩きでした。
急な下りに落ち葉が積もり、かなり歩きにくい。
落ち葉は脂がありますので、案外滑りやすいんです。
土が隠れて地面の凹凸が見えないのも、難度が上がる原因。
岩も露出しているところなので、転びたくありませんから、慎重に慎重に歩を進めました。
時おりカエデの木。
紅葉が始まったばかりの鮮やかな明るい朱色でした。
立ち止まり、飽きず眺めました。
倉岳山到着。12:45。
富士山は、ここでも良く見えました。
木立が多いので、見晴らしとしては、高畑山のほうがやはり良いです。
座って、1枚着て、昼食。
今日はおにぎりと、ポットに詰めてきた熱いお茶の昼食。
木枯らし1号が関東に吹き、山もなかなかの冷え込みでした。
さて、身体が冷えないうちに、再び出発。午後1:00。
ところどころの急な箇所を慎重に下り、立野峠。1:30。
ここから、梁川駅に向かって、月屋根沢沿いの登山道を下っていきました。
耳元で低くかけているラジオは、『爆笑問題の日曜サンデー』。
今日は、田中さんが入院中でお休み。
「多くは幼児がかかる病気」という説明に失笑する太田さん。
でも、リスナーの多くは、そういう太田さんが一番しょげているのがわかっているのでしょう。
ツイッターを後で見たら、
太田さんを励ますツイートがたくさん。
「幼児の病気にかかるなんて、本当に免疫力・体力が落ちていたんだなあ」
と心配するツイートもありました。
こういうツイートには、情報を読む力の高さを感じます。
こういうのもあるから、ネットは捨て難いです。
水場まで下りてくると、ラジオは雑音が多くなり、聴き取りづらくなってきました。
ラジオをやめて、英語のリスニング教材を聴きながら、沢を下りていきました。
山では、ラジオの他に、英語もよく聴きます。
人間は、歩いているとき、運動しているときが、一番頭が働くそうです。
山歩きをしながら勉強もできる。
一石二鳥。
でも、両耳にイヤホンをするのは危険なので、外の音も聞こえる状態にしています。
人がいないときは、スピーカーで。
他人に迷惑がかかりそうなときは、片耳イヤホンで。
沢は、ほとんど橋はかかっていませんでした。
飛び石2個以内の沢の徒渉が4か所。
楽なところばかりで良かったです。
林道に出たのは、2:40。
梁川駅到着。2:55。
立川行きの電車がすぐ来ました。
山歩き帰りの登山客が大半の電車。
四方津でも、藤野でも、相模湖でも、次々に登山客が乗り込んできます。
快晴の山歩きに、皆、満足げな表情。
良い1日でした。
2012年11月15日
就活にも必要な数学力
たとえ文系出身でも、就職試験には数学の問題が出ます。
数学というよりも、「算数」のレベルのことですが、これが苦手な人が増えているらしいです。
芳沢光雄『就活の算数』という本の宣伝文を読みました。
中身は読んでいないので知りませんし、特に薦めませんが、とりあえず、宣伝文に書いてあることは、説得力がある、と感じました。
時速80kmで、空いた道路を運転中、「目的地まであと20km」の標識を見たら、「あと15分で到着」と思うこと。
7800円の商品を購入するとき、外税ならば、「消費税額は390円」とすぐにわかること。
これらのことがパッとわかることは、社会人における大事なセンス。
だから、就職試験に出る。
うん、それは全くその通り。
そして、それがパッとわからない子が増えているから、試験で振り落とさないといけない現状。(-_-;)
実際、子どもたちに算数・数学を教えていても、頭が固いなあ、と思うことはよくあります。
上に書いてあるような「速さ」「割合」の文章題への対応力の弱さなど言わずもがなですが、少しの計算の工夫もできない頭の固さが気になります。
たとえば、多角形の1つの内角を求める問題。
五角形の内角の和は、540°です。
他の4つの内角が、105°、98°、73°、120°と示されていれば、残る1つの内角を求めるのは簡単。
やり方がわからない子は、あまりいません。
でも、正答が出せない子は、たくさんいます。
105+98+73+120 のたし算が、できないんです。
何をやってるのかなあというくらい、ノートにぐちゃぐちゃ書いていて、なかなか計算が終わりません。
3回たし算の筆算をするのがつらくて、途中で手が止まり、ぼんやりしてしまい、そのうちに、自分がノートのどこに何を書いたかわからなくなり、混乱し、最初からやり直し。
(>_<)
小学生でメンタルの弱い子ですと、
「わからない」
「できない」
と言い始めて、励ますのに苦労することがあります。
肉親ならキレてしまう場面かもしれません。
そもそも、なぜ、たし算の筆算をしているのだろう?
暗算で、パッパッパッと足して、メモしていけば、1分で終わるのに。
いや、筆算をするのならそれでもいいが、なぜ、まとめて4つ、筆算しないのだろう?
「たし算の筆算は、まとめてできるよ?」
と声をかけると、
「どうやって?」
と不思議そうに訊き返してきます。
たし算は、一の位の数字だけまとめて足して、その繰り上げも加えて、十の位の数字をまとめて足して、その繰り上げも含めて百の位の数字を足せば、一度で計算できます。
そのことを、知らない子が、今の小・中学生には、多いです。
計算ドリルに、そういう問題がないからでしょうか。
教わったことがないことは、全くできない。
先日、高校生と確率の勉強をしていたときのこと。
数学はよく出来る子ですので、反復試行の確率も、難なく立式し、解いていました。
反復試行の確率は、分母が8の6乗など、大きな数字になることが多いです。
式を立てるのは速いのに、計算が遅いなあ、と見ていると、
64×8=512
512×8=
・・・・と、1つ1つ計算していました。
「うーん。512×512で、答えを出そうか?」
とアドバイスしますと、さすがに根本的には数学のできる子ですので、その意味はすぐわかった様子で、驚愕していました。
×8の暗算がささっと出来るタイプなら、そのほうが速い場合もあるので、止めないのですが。
最初に書いた、時速80kmで、あと20kmなら、あと15分、という問題。
「速さ」に関する問題は、実感を伴うことなので、公式の意味もわかりやすいです。
本当は、覚え方なんて必要ありません。
でも、現実には、理解できない子があまりにも多いので、「は・じ・き」で教えざるを得ないのが現状です。
しかし、実感で理解していず、「は・じ・き」の図を描いて、公式に当てはめないと式が立てられない子は、結局、上の問題をパッと理解することはできないのかもしれません。
時速80kmとは、1時間で80km進むということ。
だったら、20km進むには、その4分の1の時間で良い。
1時間の4分の1は、15分。これは、アナログ時計をイメージすれば、すぐわかること。
20÷80=0.25(時間)
1時間=60分
60×0.25=15
なんて固い式を立てる必要はありません。
そんなものを立てるだけ、判断は遅れます。
でも、頭の固い子は、この計算方法じゃないと、正解にたどりつけないんです。
せめて、0.25はやめようよと思うのですが、分数アレルギーの強い子は、何でも小数で計算してしまいます。
そのほうがわかりやすいと、本人は信じこんでいます。
大学生になっても、社会人になっても、こういう計算が瞬時にできない人は、比例の関係を見抜き応用できないようです。
分数や割合を使えないことも、根本の原因と感じます。
最近、池谷裕二『受験脳の作り方』という本を読んで、驚いたことが1つ。
記憶の仕方に関する本で、特別目新しいことは書いてありません。
要するに、反復と努力だよ、という話で、全面的に賛成ですが、特にどうということでもないので、これも読めとは薦めません。
でも、1つ、面白かったのは、この人は、九九を覚えていないのだそうです。
せいぜいで、2の段までしか、覚えていない。
彼の頭の中の計算方法は3つだけ。
「十倍すること」「倍にすること」「半分にすること」
この3つだけで、全ての計算は瞬時に出来るというのです。
例えば、23×16という計算は、
まず、16を10と6に分ける。
23の十倍は、230。
次に、6を5と1に分ける。
5は10の半分だから、23×5は、230の半分。
つまり、115。
残る1は、そのまま、23。
すなわち、
23×16=230+115+23=368
初めて読んだときは、「うっ、面倒くさ!」と思いました。
こんなことをするくらいなら、普通に九九を覚えて、普通に筆算したほうがましです。
でも、考えてみると、似たようなことは、現実生活の中での計算では、私もやっています。
十倍すること。
あるいは、十分の一にすること。
倍にすること。
半分にすること。
その計算方法に慣れている人が、消費税を簡単に計算できる人です。
消費税率は、現在5%。
5%とは、100%を十分の一にして、さらに半分にしたもの。
だから、7800円の商品の消費税は、
780円の半分の390円。
常に頭をやわらかく。
現実生活に、数学は必要です。
2012年11月09日
中2病?
やっと、10月分の指導レポートを発送し終わりました。
あー、間に合ったー。
で、やっとブログを更新です。
今日は、「中2病」の話。
以前から、「中2病」という言葉は耳にしていました。
ただ、あまり好きな言葉ではありませんでした。
「中2病」とは、「まるで中2のような、子どもじみて奇矯な言動」のこと。
どんなのを、中2みたいな子どもじみて奇矯な言動というかというと、
コーヒーを気取ってしみじみと飲んでみせ、
「コーヒーは、ブラックに限る」
とか言ったりするのが、そうらしいです。
(^_^;)
コーヒーがやっと飲めるようになって何年も経ってないくせに、何言ってんだよ、というやつですね。
あるいは、「オレは将来有名になる」と言って、自分のサインを作って練習したり。
実際の中2と接する機会の多い私には、あまりよくわからない、というのが正直な感想です。
中2が、中2らしく幼いのは、何も問題はないですから。
いい大人が、まるで中2みたいに幼稚な言動をとることも「中2病」というらしいのですが、さすがに、そんな大人は、周囲にはいませんし。
ただ、先日、高校生と話していて、へえ、と思いました。
「最近、着るものがなくて。中2病みたいな服しか持ってないから、うんざりする」
と言うのです。
「中2病みたいな服って、どんな服?」
と訊きますと、
「英語の文字がやたら入っているTシャツとかですよ。そんなのばっかり持ってるんだ。昔は、そんなのがカッコいいと思ってたんだ。バカだな、オレは」
「へえ・・・・・」
なるほど、そういうことも、「中2病」というのか。
英語が書いてあるTシャツ。(*^_^*)
それはそれでいいんと思うんですけどね。
いい大人の外国人が、日本の文字の形がビューティホーだか何だかで、胸に大きく「段ボール収納」と書いてあるTシャツを楽しそうに着ているのを見たこともありますし。
いろんな意味でよくわからなかったけど、本人がそれをクールと思う分には、いいんじゃないかなあ。
実害はないですし。
そう思うのですが、最近、私は、「中2病」の実害に気づきました。
(@_@;)
秋の英検シーズン。
1次試験が終わり、今度の日曜日は、2次の面接試験です。
中3で、英検3級の1次試験に合格した子は、今受かっておかないと、後がありません。
英検3級資格は、高校入試以外では、使い道がありません。
なので、このところ、毎回、授業中に2次試験対策の模擬面接をしています。
英検3級の2次試験。
英語による質問は5つ。
そのうちの前半3問は、課題の英文やイラストに関する質問なので、特に問題はありません。
残る2つ、「あなた自身に質問します」というのが、かなり手ごわいです。
What kind of music do you like?
あなたは、どんな種類の音楽が好きですか?
こういうのは、もう何でもいいから答えてくれ、とこちらは思うわけです。
ロックでも、ポップスでも、クラシックでも。
とにかく、正しい英語で答えてくれ。
きちんと得点してくれー。
こちらは、それしか思っていないのですが、訊かれたほうは、ここで「中2病」を発症することがあります。
やや間があって、
「No!」
なんて答えるので、おいおいおい、それじゃ、文法的におかしいでしょう、疑問詞で始まる疑問文で質問されて、何で答えが「No」なのよと、がっかりして、そのことを解説するのですが、まともに耳を貸してくれません。
「だって、僕は、音楽なんか、聴かないんですよ」
何だかよくわからないが、ちょっと自慢げです。
「・・・・・そういうときは、I don't listen to music. か何か、ちょっと申し訳なさそうに答えておこうか?」
一番易しくて、何とか合格点はとれそうな答えの例を教えても、これも、まともに聞いてくれません。
自分のことを質問されると、インタビューを受けているような気になって、自意識を刺激されるんでしょうか。
「あ。そうだ。ジャズが好きというのは、英語でどう言えば、いいんですか?」
「・・・・・・」
音楽を聴いても聴かなくても、どうでもいいし、ジャズが好きと答えても、別にかっこよくないから、とにかく自分がわかる範囲の正しい英語で答えなさいー。
(^_^;)
内申に影響する、大切な英検2次試験を前に、こんなバカげた練習になってしまう子は、思い返せばいつの時代にもいました。
本番になると小心なのも、1つの傾向です。
面接官の英語が聞き取れず、訊き返すこともできず、黙ってにやにや笑っているうちに試験が終わり、あっけなく落ちてしまうのは、こういうタイプの子が多いんです。
女子は、1次さえ受かれば、2次は合格したも同然と安心できることが多いのですが、男子中学生は、精神的にまだまだ幼い場合が多く、面接試験はきついです。
かっこつけるな。
英検受かれ。
頑張ってよー。