2018年09月30日
メネラウスの定理。
高校数A「図形の性質」の学習。
センター試験にもよく出る定理がこの「メネラウスの定理」です。
チェバの定理と同様、これも、楽な覚え方をすれば、何でもなく活用できるようになります。
上の左図で、
ブログでは分数表記をできないので読みにくいと思います。
テキスト・参考書等で確認してください。
証明は、ネットで検索したらすぐ出てきます。
この定理も、証明よりも覚え方、活用の仕方が重要です。
決して記号で覚えないこと。
左図のような配置からの順番だけで覚えるのも得策ではありません。
実際の問題は、左図のような配置になっているとは限らないからです。
メネラウスの定理も、三角形が基本です。
その三角形の2辺と、頂点以外で交わる直線があること。
その直線は、当然、残る1辺の延長線とも交わります。
この構造の図のとき、メネラウスの定理が使えます。
まず、三角形の3つの頂点を強く意識します。
それ以外の点は、「交点」ととらえます。
あとは、チェバの定理と同じ呪文を唱えます。
「頂点・交点・頂点・交点・頂点・交点・頂点」
必ず頂点から始め、そこから直接進める交点へ。
それが最初の分子です。
その交点から次の頂点へ。
それが分母。
その頂点から次の交点へ。
それが次の分子。
その交点から次の頂点へ。
それが分母。
そうしてひと筆書きをして元の頂点に戻れば、メネラウスの定理を使った式の右辺が完成します。
左図のような配置だけでメネラウスの定理を覚えてしまうと、実際の問題で三角形と交わる直線の向きがその配置と異なっているとき、メネラウスの定理を使えること自体を発想できなくなりがちです。
「使えるよ」とヒントを出しても、どう使うのかわからず、図を回転したり首をひねったりと苦戦する子は多いです。
メネラウスの定理の構造を理解すれば、そういうことはありません。
頂点Aから始める必要もなく、どこからでも、呪文の通りにひと筆書きをしていけば良いのです。
どうか「呪文」を、すなわちこの定理の本質を理解してください。
どんな配置の図でも、どの頂点からでも、メネラウスの定理を使えるようにしておくと心強いです。
上の左図でも右図でも、頂点BからもCからも、メネラウスの定理は利用できます。
上の図は反時計回りですが、時計回りも可能です。
どうか頭を柔軟に。
それは定理の本質を理解するということでもあります。
センター試験にもよく出る定理がこの「メネラウスの定理」です。
チェバの定理と同様、これも、楽な覚え方をすれば、何でもなく活用できるようになります。
上の左図で、
AB・FC・EA=1
BF・CE・EA
BF・CE・EA
ブログでは分数表記をできないので読みにくいと思います。
テキスト・参考書等で確認してください。
証明は、ネットで検索したらすぐ出てきます。
この定理も、証明よりも覚え方、活用の仕方が重要です。
決して記号で覚えないこと。
左図のような配置からの順番だけで覚えるのも得策ではありません。
実際の問題は、左図のような配置になっているとは限らないからです。
メネラウスの定理も、三角形が基本です。
その三角形の2辺と、頂点以外で交わる直線があること。
その直線は、当然、残る1辺の延長線とも交わります。
この構造の図のとき、メネラウスの定理が使えます。
まず、三角形の3つの頂点を強く意識します。
それ以外の点は、「交点」ととらえます。
あとは、チェバの定理と同じ呪文を唱えます。
「頂点・交点・頂点・交点・頂点・交点・頂点」
必ず頂点から始め、そこから直接進める交点へ。
それが最初の分子です。
その交点から次の頂点へ。
それが分母。
その頂点から次の交点へ。
それが次の分子。
その交点から次の頂点へ。
それが分母。
そうしてひと筆書きをして元の頂点に戻れば、メネラウスの定理を使った式の右辺が完成します。
左図のような配置だけでメネラウスの定理を覚えてしまうと、実際の問題で三角形と交わる直線の向きがその配置と異なっているとき、メネラウスの定理を使えること自体を発想できなくなりがちです。
「使えるよ」とヒントを出しても、どう使うのかわからず、図を回転したり首をひねったりと苦戦する子は多いです。
メネラウスの定理の構造を理解すれば、そういうことはありません。
頂点Aから始める必要もなく、どこからでも、呪文の通りにひと筆書きをしていけば良いのです。
どうか「呪文」を、すなわちこの定理の本質を理解してください。
どんな配置の図でも、どの頂点からでも、メネラウスの定理を使えるようにしておくと心強いです。
上の左図でも右図でも、頂点BからもCからも、メネラウスの定理は利用できます。
上の図は反時計回りですが、時計回りも可能です。
どうか頭を柔軟に。
それは定理の本質を理解するということでもあります。
2018年09月24日
相模湖与瀬神社から奥高尾を歩きました。2018年9月。
2018年9月23日(日)、今週も奥高尾を歩きました。
前日までは、富士山の見える山に行こうと計画していたのですが、朝になったら予報よりずっと雲が多く、こんな日に富士山の見える山に遠出するのは何だか勿体ない。
でも、山を歩くのに問題のある天候ではない。
となると、奥高尾ですね。
今回は久しぶりに、相模湖から登ることにしました。
中央快速・中央線と乗り継いで、相模湖駅下車。
相模湖駅のトイレは、一番線のホームにあり、いつも混雑しています。
改札を抜け、駅構内のベンチで山支度。
ふと見ると、更衣室がありました。
山から戻ってきて着替えたい人に向けてのものでしょうか?
更衣室を作るスペースがあるなら、トイレにしてくれたら良かったのに。
今からでも、トイレに改築してくれないかなあ。
さて出発。8:35。
まずは、ロータリーから甲州街道に出て、右折。
そのまま、舗道をてくてく歩いていきました。
もうすぐ舗道が尽きて、しかも坂道になりますけど?
というところまでまっすぐ歩いていくと、ようやく与瀬神社。
舗道に面して、与瀬神社の長い石段が始まっています。
明王峠・景信山を示す道しるべもありました。
苔むした石段は風情があり、晩秋に歩いたらもっと良いでしょうね。
途中、広い踊り場。
高速道路の上を越えるための踊り場です。
ここは極めて人工的で、情緒のかけらもありません。
そこから見ると、甲州街道に面していない裏道からの階段が見えました。
甲州街道を歩いても舗道がついていますからストレスはありませんが、裏道があるなら、そのほうがいいかもしれません。
そこから、ヒガンバナが満開の墓地を左手に見ながら、さらにまっすぐ石段を登っていきました。
石段の段差が大きく、バランスを崩したら転落の危険を感じないでもありません。
右手に、少し遠回りな形で段差の小さな石段も設置されていました。
与瀬神社本堂。
向かって左手に道しるべがあり、細い登山道が始まります。
あまり人の来ない道なので、クマ鈴をつけて、さて出発。
本日の最高気温28度。
そんなに高い数字ではないのですが、それまで数日涼しかったせいか、暑さが堪えます。
しばらく登りが続き、大量の発汗。
展望地。9:25。
相模湖が見晴らせる場所で、ベンチが設置されていました。
ここで大休止。
風が通るので、しばらく休めば身体も冷えてくるでしょう。
休んでいると、ぽつぽつと人が登ってきました。
全て、男性の単独登山者でした。
山慣れた様子の中高年。
短パンに高機能タイツの若者。
ここは歩く人が少ないから、歩く人が少ない道を歩きたい人が好んで歩くのでしょう。
今日は3連休の中日で、天気予報では唯一の晴天の日。
奥多摩の人気コースはどんなことになっているか、あまり想像したくありません。
急な登りはそこまでで、あとは緩やかな登りや平坦な道が続きました。
花が増えてきました。
キバナアキギリ。
シモバシラ。
ガンクビソウ。
サラシナショウマ。
見慣れた秋の花々を足元に見ながら歩いていて、足が止まりました。
・・・・あれ?ギンリョウソウ?
梅雨時の花だと思ったけれど。
季節を間違えて咲いてしまったのかな?
そうも思いましたが、ポケット植物図鑑で調べると、アキノギンリョウソウという花もあるのだそうです。
アキノギンリョウソウは、ギンリョウソウに似ているが、シャクジョウソウの仲間。ほお。
大平。10:30。
小さな売店のような建物があり、ベンチがあります。
売店は閉まっていましたが、鋸で何か作っている人がいました。
以前に来たときよりもベンチやら手製の道しるべやらが増えていて、気持ちのよい場所になっています。
売店を過ぎると、ツリフネソウが増えてきました。
花盛りの緩やかな道を辿りながら、中学校で習った短歌を思い出しました。
葛の花 踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり
山道を歩くことにとんと興味がなく、しかも葛の花というのも具体的なイメージがなかったですが、何だか不思議と覚えている短歌です。
この山道を行きし人あり。
そういう気持ちになることがあります。
そんな人の少ない山道を歩くのが好きです。
今日この山道を行きし人が沢山いることは朝のうちにわかっていますし、その後もときどき道を譲っていますが。
舗装された林道といったん交差して、また登山道を少し登っていくと、石投げ地蔵。
石が沢山積まれた塚があり、説明の看板が立っていました。
「明王峠・石投げ地蔵
景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に堂所山という小峰がある。その昔、武田信玄が北条と合戦のとき、鐘によって敵の情報を知らせるための鐘つき堂のあった跡でその名が付けらた。
また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願したと伝えられる。
この峠の山頂に上り詰める一歩手前の道筋に小石を積み重ねた小塚があるのが目につく。伝説に塚の由来を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の国佐竹家に嫁したが、不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ母に思慕の念がつのるようになった。やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ乳母とともに母の消息を尋ねたいと父に懇願し、許しを得て従士三人乳母ら五人で甲州に旅立つことになった。何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった。あるときは木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆ど不眠不休の旅であった」
看板の説明は、そこで終わっていました。
・・・・・え?
その話とこの小塚との関係は?
むしろ、この説明板が面白いので一見の価値ありです。
昔はもう1枚あったのかなあ?
その先、しばらく行くと、長い木段。
木々の隙間から空が見えます。
きっとあそこが明王峠。
それを励みに一歩一歩木段を登っていきました。
明王峠。11:20。
本日は売店も営業中。
周りの沢山のベンチがほぼ埋まる盛況でした。
ひと休みして、あとはいつもの奥高尾主脈を行きます。
雨上がりの泥んこ道が続きました。
まき道、まき道と選び、景信山。12:40。
木陰のベンチは風がよく通ります。
カエデの緑の葉が風に揺れています。
誰かの食べているカップラーメンのカレーの匂いが鼻腔をくすぐります。
夏の山で食べるカップラーメンは、カレー味の占有率がやはり高い。
景信山、小仏峠を通って、小仏城山。13:45。
今日も暑いので、かき氷がよく売れています。
私は、本日はコーラを1本購入。
さて、高尾山へ。
木段を降りていくと、前を行くお母さんが、女の子を叱っていました。
「ほら、急いでっ。あんたの足じゃ高尾山までに夕方になっちゃうじゃないの!」
お母さんは、繰り返し子どもを急かしています。
私自身が母親に叱られるとかなり凹む子どもだったので、山で子どもが叱られているのを見ると、この子、山が嫌いにならないかなあと心配になります。
休日、観光地に遊びに行って、結局、親に叱られてしまうのは切ない。
観光地では、危険なことをしたときや他人に迷惑をかけそうなとき以外は叱らないであげて・・・。
どうせ登山道は渋滞気味で、急いだところでそんなに変わらないのだから。
女の子は、渋滞の中、前の人を追い越そうとしました。
お母さんが引き留めます。
「ダメ。渋滞のときは追い越したらダメ」
いや、お母さんが急かすからそういう行動をとったんだと思うけど、でも、ルールを教えるのは良いことです。
しばらく行くと、木段の狭い部分で、登る人が立ち止まって道を譲ってくれていました。
礼を言って通り過ぎた後、お母さんは、
「本当は、登り優先といって、下る人のほうが道を譲るの。下る人は石を蹴ってしまったりする危険もあるから、立ち止まって、登る人を優先させるの」
山のルールを女の子に説いていました。
かなり山好きなお母さんのようです。
「え?日本のきまり?」
女の子のこの質問に、聞いていた私は虚をつかれました。
お母さんもそうだったと思います。
「・・・・・え?日本っていうか・・・」
世界共通のルールなのかどうか、そんなの私も知りません。
すると女の子が一言。
「アメリカのきまりだね」
・・・・何で?
ぷっと笑った声が聞こえてしまったのでしょうか、女の子は振り向き、私をじっと見ました。
「ラジオ、何聞いてるの?」
人見知りしない子だなあ。
ともあれ、凹んでいなくて良かった。
「登り優先」のルールは、そんなに厳密なものではなく、確かに落石の危険のあるような場所では下る人のほうが待つのが良いと思いますが、あとは適宜、待つ場所があるほうの人が立ち止まったら良いと私は思います。
3メートルも手前で下りの人に立ち止まられると、こちらは急いで登らなくてはならず、苦しいので勘弁してくれと思わないでもないですから。
むしろ「立ち止まるのは1メートル以内」ルールを私は広めたい。
余程その先の道が細く、手前で立ち止まったほうが良い場合を除いて、あまり手前で立ち止まらないでほしい。
昔、山岳ガイドに聞いたのですが、大学の山岳部同士など、相手の力量を信頼できる者がすれ違うときは、互いに立ち止まらなかったそうです。
細い道で横幅の広いキスリングを互いに担いでいても、スルスルとすれ違いあう。
そうしてすれ違った後、「あいつら、なかなかやるな」と健闘をたたえたとのこと。
さて、今日も紅葉台は巻いて、高尾山下。14:45。
高尾山も巻いて、トイレのところの分岐から、今日は琵琶滝コースを下りました。
ここはいつも湿っていますから、雨上がりで観光客が避けたのでしょう、むしろいつもより空いていて、楽に下っていけました。
下山。15:50。
今日も1日、楽しかった。ヽ(^。^)ノ
前日までは、富士山の見える山に行こうと計画していたのですが、朝になったら予報よりずっと雲が多く、こんな日に富士山の見える山に遠出するのは何だか勿体ない。
でも、山を歩くのに問題のある天候ではない。
となると、奥高尾ですね。
今回は久しぶりに、相模湖から登ることにしました。
中央快速・中央線と乗り継いで、相模湖駅下車。
相模湖駅のトイレは、一番線のホームにあり、いつも混雑しています。
改札を抜け、駅構内のベンチで山支度。
ふと見ると、更衣室がありました。
山から戻ってきて着替えたい人に向けてのものでしょうか?
更衣室を作るスペースがあるなら、トイレにしてくれたら良かったのに。
今からでも、トイレに改築してくれないかなあ。
さて出発。8:35。
まずは、ロータリーから甲州街道に出て、右折。
そのまま、舗道をてくてく歩いていきました。
もうすぐ舗道が尽きて、しかも坂道になりますけど?
というところまでまっすぐ歩いていくと、ようやく与瀬神社。
舗道に面して、与瀬神社の長い石段が始まっています。
明王峠・景信山を示す道しるべもありました。
苔むした石段は風情があり、晩秋に歩いたらもっと良いでしょうね。
途中、広い踊り場。
高速道路の上を越えるための踊り場です。
ここは極めて人工的で、情緒のかけらもありません。
そこから見ると、甲州街道に面していない裏道からの階段が見えました。
甲州街道を歩いても舗道がついていますからストレスはありませんが、裏道があるなら、そのほうがいいかもしれません。
そこから、ヒガンバナが満開の墓地を左手に見ながら、さらにまっすぐ石段を登っていきました。
石段の段差が大きく、バランスを崩したら転落の危険を感じないでもありません。
右手に、少し遠回りな形で段差の小さな石段も設置されていました。
与瀬神社本堂。
向かって左手に道しるべがあり、細い登山道が始まります。
あまり人の来ない道なので、クマ鈴をつけて、さて出発。
本日の最高気温28度。
そんなに高い数字ではないのですが、それまで数日涼しかったせいか、暑さが堪えます。
しばらく登りが続き、大量の発汗。
展望地。9:25。
相模湖が見晴らせる場所で、ベンチが設置されていました。
ここで大休止。
風が通るので、しばらく休めば身体も冷えてくるでしょう。
休んでいると、ぽつぽつと人が登ってきました。
全て、男性の単独登山者でした。
山慣れた様子の中高年。
短パンに高機能タイツの若者。
ここは歩く人が少ないから、歩く人が少ない道を歩きたい人が好んで歩くのでしょう。
今日は3連休の中日で、天気予報では唯一の晴天の日。
奥多摩の人気コースはどんなことになっているか、あまり想像したくありません。
急な登りはそこまでで、あとは緩やかな登りや平坦な道が続きました。
花が増えてきました。
キバナアキギリ。
シモバシラ。
ガンクビソウ。
サラシナショウマ。
見慣れた秋の花々を足元に見ながら歩いていて、足が止まりました。
・・・・あれ?ギンリョウソウ?
梅雨時の花だと思ったけれど。
季節を間違えて咲いてしまったのかな?
そうも思いましたが、ポケット植物図鑑で調べると、アキノギンリョウソウという花もあるのだそうです。
アキノギンリョウソウは、ギンリョウソウに似ているが、シャクジョウソウの仲間。ほお。
大平。10:30。
小さな売店のような建物があり、ベンチがあります。
売店は閉まっていましたが、鋸で何か作っている人がいました。
以前に来たときよりもベンチやら手製の道しるべやらが増えていて、気持ちのよい場所になっています。
売店を過ぎると、ツリフネソウが増えてきました。
花盛りの緩やかな道を辿りながら、中学校で習った短歌を思い出しました。
葛の花 踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり
山道を歩くことにとんと興味がなく、しかも葛の花というのも具体的なイメージがなかったですが、何だか不思議と覚えている短歌です。
この山道を行きし人あり。
そういう気持ちになることがあります。
そんな人の少ない山道を歩くのが好きです。
今日この山道を行きし人が沢山いることは朝のうちにわかっていますし、その後もときどき道を譲っていますが。
舗装された林道といったん交差して、また登山道を少し登っていくと、石投げ地蔵。
石が沢山積まれた塚があり、説明の看板が立っていました。
「明王峠・石投げ地蔵
景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に堂所山という小峰がある。その昔、武田信玄が北条と合戦のとき、鐘によって敵の情報を知らせるための鐘つき堂のあった跡でその名が付けらた。
また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願したと伝えられる。
この峠の山頂に上り詰める一歩手前の道筋に小石を積み重ねた小塚があるのが目につく。伝説に塚の由来を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の国佐竹家に嫁したが、不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ母に思慕の念がつのるようになった。やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ乳母とともに母の消息を尋ねたいと父に懇願し、許しを得て従士三人乳母ら五人で甲州に旅立つことになった。何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった。あるときは木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆ど不眠不休の旅であった」
看板の説明は、そこで終わっていました。
・・・・・え?
その話とこの小塚との関係は?
むしろ、この説明板が面白いので一見の価値ありです。
昔はもう1枚あったのかなあ?
その先、しばらく行くと、長い木段。
木々の隙間から空が見えます。
きっとあそこが明王峠。
それを励みに一歩一歩木段を登っていきました。
明王峠。11:20。
本日は売店も営業中。
周りの沢山のベンチがほぼ埋まる盛況でした。
ひと休みして、あとはいつもの奥高尾主脈を行きます。
雨上がりの泥んこ道が続きました。
まき道、まき道と選び、景信山。12:40。
木陰のベンチは風がよく通ります。
カエデの緑の葉が風に揺れています。
誰かの食べているカップラーメンのカレーの匂いが鼻腔をくすぐります。
夏の山で食べるカップラーメンは、カレー味の占有率がやはり高い。
景信山、小仏峠を通って、小仏城山。13:45。
今日も暑いので、かき氷がよく売れています。
私は、本日はコーラを1本購入。
さて、高尾山へ。
木段を降りていくと、前を行くお母さんが、女の子を叱っていました。
「ほら、急いでっ。あんたの足じゃ高尾山までに夕方になっちゃうじゃないの!」
お母さんは、繰り返し子どもを急かしています。
私自身が母親に叱られるとかなり凹む子どもだったので、山で子どもが叱られているのを見ると、この子、山が嫌いにならないかなあと心配になります。
休日、観光地に遊びに行って、結局、親に叱られてしまうのは切ない。
観光地では、危険なことをしたときや他人に迷惑をかけそうなとき以外は叱らないであげて・・・。
どうせ登山道は渋滞気味で、急いだところでそんなに変わらないのだから。
女の子は、渋滞の中、前の人を追い越そうとしました。
お母さんが引き留めます。
「ダメ。渋滞のときは追い越したらダメ」
いや、お母さんが急かすからそういう行動をとったんだと思うけど、でも、ルールを教えるのは良いことです。
しばらく行くと、木段の狭い部分で、登る人が立ち止まって道を譲ってくれていました。
礼を言って通り過ぎた後、お母さんは、
「本当は、登り優先といって、下る人のほうが道を譲るの。下る人は石を蹴ってしまったりする危険もあるから、立ち止まって、登る人を優先させるの」
山のルールを女の子に説いていました。
かなり山好きなお母さんのようです。
「え?日本のきまり?」
女の子のこの質問に、聞いていた私は虚をつかれました。
お母さんもそうだったと思います。
「・・・・・え?日本っていうか・・・」
世界共通のルールなのかどうか、そんなの私も知りません。
すると女の子が一言。
「アメリカのきまりだね」
・・・・何で?
ぷっと笑った声が聞こえてしまったのでしょうか、女の子は振り向き、私をじっと見ました。
「ラジオ、何聞いてるの?」
人見知りしない子だなあ。
ともあれ、凹んでいなくて良かった。
「登り優先」のルールは、そんなに厳密なものではなく、確かに落石の危険のあるような場所では下る人のほうが待つのが良いと思いますが、あとは適宜、待つ場所があるほうの人が立ち止まったら良いと私は思います。
3メートルも手前で下りの人に立ち止まられると、こちらは急いで登らなくてはならず、苦しいので勘弁してくれと思わないでもないですから。
むしろ「立ち止まるのは1メートル以内」ルールを私は広めたい。
余程その先の道が細く、手前で立ち止まったほうが良い場合を除いて、あまり手前で立ち止まらないでほしい。
昔、山岳ガイドに聞いたのですが、大学の山岳部同士など、相手の力量を信頼できる者がすれ違うときは、互いに立ち止まらなかったそうです。
細い道で横幅の広いキスリングを互いに担いでいても、スルスルとすれ違いあう。
そうしてすれ違った後、「あいつら、なかなかやるな」と健闘をたたえたとのこと。
さて、今日も紅葉台は巻いて、高尾山下。14:45。
高尾山も巻いて、トイレのところの分岐から、今日は琵琶滝コースを下りました。
ここはいつも湿っていますから、雨上がりで観光客が避けたのでしょう、むしろいつもより空いていて、楽に下っていけました。
下山。15:50。
今日も1日、楽しかった。ヽ(^。^)ノ
2018年09月19日
不定詞の学習。中学3年レベルその2。疑問詞+to不定詞。
不定詞の学習は中2から始まりますが、中3になるとさらに新たな用法を学ぶことになります。
その1つが「疑問詞+to不定詞」の用法。
中学生ですと、この表現そのものに疑問を抱き、
「不定詞ってtoがつくものなのに、to不定詞っておかしくね?」
と言う子もいるのですが、不定詞にはもう1つ原形不定詞があります。
それと区別するために、「to+動詞の原形」の形のものをto不定詞と呼びます。
中学生の間は、こんな呼び名はどうでもいいので、ただto不定詞という言い方も間違っていないんだよということをわかってくれれば、OKです。
さて、その「疑問詞+to不定詞」。
基本はそんなに難しくありません。
疑問詞というのは、疑問を表す単語。
具体的には、when,where,who,whose,which,what,how。
これと不定詞をセットで用います。
I don't know how to use this computer.
私は、このコンピュータの使い方がわからない。
how +to不定詞 で、「どのように~したらよいか」。
ちょっと訳が固いので、「何々のやり方」という訳でOKです。
when +to不定詞で、「いつ~したらよいか」。
where+to不定詞で、「どこで~したらよいか。
what+to不定詞で、「何を~したらよいか」。
which+to不定詞で、「どれを~したらよいか」。
特に難しくありません。
基本問題を解いている限りは、誰でも正解できます。
間違いやすいのは、以下のような問題でしょう。
間接疑問文も学習した後の、私立型の入試問題です。
問題 ほぼ同じ意味となるように以下の空所を埋めよ。
Please tell me where to get on the bus.
Please tell me ( )( )( )get on the bus.
間接疑問文に直すのだ、というところまでは発想できたとして。
3つの( )に何を入れて良いか、わからない子は多いです。
( )が1つ余る感じがするのです。
Pleas tell me where I get on the bus.
で、良い気がするのに、もう1つ( )があります。
あれこれ悩んだあげく、
Please tell me where do I get on the bus.
としてしまい、不正解、というのはよくあることです。
間接疑問文としてそれはおかしいと、基本的にはわかっていたのに、もう1つの( )を埋められず、結局、やってはいけないとわかっていたことをやってしまうミスです。
正解は、
Please tell me where I should get on the bus.
「どこでバスに乗ったらよいか」という意味なのですから、助動詞shouldが必要となります。
疑問詞+to不定詞の文から間接疑問文への書き換えは、間接疑問文を学習してからでないと行えません。
そのため、練習不足のまま入試を迎えてしまうことがあります。
このように2つの単元にまたがる問題は未定着な子が多くなりがちで、そこをしっかり勉強しているかどうかをこうした問題は問うことができます。
だから、入試はこのような問題が好まれます。
関係代名詞と最上級との融合問題などもそうですね。
上の問題は私立入試レベルですが、学校の定期テストにも出る可能性があるのになかなか定着しない事柄もあります。
問題 次の語句を並べ替えて英文を完成せよ。
don't , I , what , read , know , book , to.
これの最も多い誤答は、
I don't know what to read book.
です。
「疑問詞+to不定詞」という基本は理解したものの、whatやwhichはすぐ後ろに名詞を伴うこともある、ということがどうしても定着しないのです。
正解は、
I don't know what book to read.
です。
「私はどんな本を読んだらよいかわからない」。
「どんな本」の部分はwhat book で、ここは意味のまとまりです。
whatとwhichは、疑問詞ですが名詞を修飾することがあるのですね。
これを疑問形容詞と呼びます。
こういう呼び名でむしろ頭の中が整理されて定着する子もいます。
そうではないタイプの子は、名称はどうでもいいですから、book のような可算名詞(数えられる名詞)を read book と、冠詞もつけず複数形にもせずにむきだしのまま使うことはないという知識だけはしっかり身につけるとよいと思います。
「動詞の後に名詞をおく」という中1レベルの英語の語順へのこだわりを捨て、英語の語順の新しい可能性に対して頭を柔軟にしたいところです。
体感で何となく思いこんでいる間違ったルールを優先させてしまう癖を改め、本当の英語のルールを理解していくことが大切です。
かなり類題を練習しないと間違えます。
定着したかなと思っても、ひと月も経つとまた間違えてしまう子もいます。
間違える子の多いこうした問題をマスターすること。
秀才とそうでない子との境目は、そこだと思います。
基本問題は解ける。
難しい問題は間違えたけど、そういうのは関係ない。
そこで満足し、「理解したから大丈夫」と思ってしまう、いわば「加点法」で自己評価するタイプの子は、テストの点もそれで満足するのならば何の問題もないのです。
でも、同じ子が、テストは8~9割の得点を求めることがあります。
いやいや、そういう得点の取れる勉強をしていないですよね?
より高い得点を求めるなら、「減点法」で自分を見つめましょう。
「この問題が解けない」
「このタイプの問題はまだ未定着」
「これは類題をまた間違えた」
これをマイナスを見つめる作業と感じ、気持ちが滅入る人もいるようですが、それをやるから精度が上がります。
自分は何が出来、何が出来ないのか。
そこから目を逸らさないことが実力アップのコツです。
間違えた問題が実力アップの糧となります。
目を逸らして無かったことにするのは、勿体ないです。
テストで実際に8~9割の得点が取れるようになると、評価は外側に実在するものになります。
そうなると、自分が今何ができないかを見つめる作業は、むしろプライドをもって行えるようになります。
テストで良い点が取れない。
評価が自分の外側に実在しない。
自分で自分を褒め、認めるしかない。
自己評価だけが高い。
できないことから目を逸らす。
こういう悪循環は避けたいです。
その1つが「疑問詞+to不定詞」の用法。
中学生ですと、この表現そのものに疑問を抱き、
「不定詞ってtoがつくものなのに、to不定詞っておかしくね?」
と言う子もいるのですが、不定詞にはもう1つ原形不定詞があります。
それと区別するために、「to+動詞の原形」の形のものをto不定詞と呼びます。
中学生の間は、こんな呼び名はどうでもいいので、ただto不定詞という言い方も間違っていないんだよということをわかってくれれば、OKです。
さて、その「疑問詞+to不定詞」。
基本はそんなに難しくありません。
疑問詞というのは、疑問を表す単語。
具体的には、when,where,who,whose,which,what,how。
これと不定詞をセットで用います。
I don't know how to use this computer.
私は、このコンピュータの使い方がわからない。
how +to不定詞 で、「どのように~したらよいか」。
ちょっと訳が固いので、「何々のやり方」という訳でOKです。
when +to不定詞で、「いつ~したらよいか」。
where+to不定詞で、「どこで~したらよいか。
what+to不定詞で、「何を~したらよいか」。
which+to不定詞で、「どれを~したらよいか」。
特に難しくありません。
基本問題を解いている限りは、誰でも正解できます。
間違いやすいのは、以下のような問題でしょう。
間接疑問文も学習した後の、私立型の入試問題です。
問題 ほぼ同じ意味となるように以下の空所を埋めよ。
Please tell me where to get on the bus.
Please tell me ( )( )( )get on the bus.
間接疑問文に直すのだ、というところまでは発想できたとして。
3つの( )に何を入れて良いか、わからない子は多いです。
( )が1つ余る感じがするのです。
Pleas tell me where I get on the bus.
で、良い気がするのに、もう1つ( )があります。
あれこれ悩んだあげく、
Please tell me where do I get on the bus.
としてしまい、不正解、というのはよくあることです。
間接疑問文としてそれはおかしいと、基本的にはわかっていたのに、もう1つの( )を埋められず、結局、やってはいけないとわかっていたことをやってしまうミスです。
正解は、
Please tell me where I should get on the bus.
「どこでバスに乗ったらよいか」という意味なのですから、助動詞shouldが必要となります。
疑問詞+to不定詞の文から間接疑問文への書き換えは、間接疑問文を学習してからでないと行えません。
そのため、練習不足のまま入試を迎えてしまうことがあります。
このように2つの単元にまたがる問題は未定着な子が多くなりがちで、そこをしっかり勉強しているかどうかをこうした問題は問うことができます。
だから、入試はこのような問題が好まれます。
関係代名詞と最上級との融合問題などもそうですね。
上の問題は私立入試レベルですが、学校の定期テストにも出る可能性があるのになかなか定着しない事柄もあります。
問題 次の語句を並べ替えて英文を完成せよ。
don't , I , what , read , know , book , to.
これの最も多い誤答は、
I don't know what to read book.
です。
「疑問詞+to不定詞」という基本は理解したものの、whatやwhichはすぐ後ろに名詞を伴うこともある、ということがどうしても定着しないのです。
正解は、
I don't know what book to read.
です。
「私はどんな本を読んだらよいかわからない」。
「どんな本」の部分はwhat book で、ここは意味のまとまりです。
whatとwhichは、疑問詞ですが名詞を修飾することがあるのですね。
これを疑問形容詞と呼びます。
こういう呼び名でむしろ頭の中が整理されて定着する子もいます。
そうではないタイプの子は、名称はどうでもいいですから、book のような可算名詞(数えられる名詞)を read book と、冠詞もつけず複数形にもせずにむきだしのまま使うことはないという知識だけはしっかり身につけるとよいと思います。
「動詞の後に名詞をおく」という中1レベルの英語の語順へのこだわりを捨て、英語の語順の新しい可能性に対して頭を柔軟にしたいところです。
体感で何となく思いこんでいる間違ったルールを優先させてしまう癖を改め、本当の英語のルールを理解していくことが大切です。
かなり類題を練習しないと間違えます。
定着したかなと思っても、ひと月も経つとまた間違えてしまう子もいます。
間違える子の多いこうした問題をマスターすること。
秀才とそうでない子との境目は、そこだと思います。
基本問題は解ける。
難しい問題は間違えたけど、そういうのは関係ない。
そこで満足し、「理解したから大丈夫」と思ってしまう、いわば「加点法」で自己評価するタイプの子は、テストの点もそれで満足するのならば何の問題もないのです。
でも、同じ子が、テストは8~9割の得点を求めることがあります。
いやいや、そういう得点の取れる勉強をしていないですよね?
より高い得点を求めるなら、「減点法」で自分を見つめましょう。
「この問題が解けない」
「このタイプの問題はまだ未定着」
「これは類題をまた間違えた」
これをマイナスを見つめる作業と感じ、気持ちが滅入る人もいるようですが、それをやるから精度が上がります。
自分は何が出来、何が出来ないのか。
そこから目を逸らさないことが実力アップのコツです。
間違えた問題が実力アップの糧となります。
目を逸らして無かったことにするのは、勿体ないです。
テストで実際に8~9割の得点が取れるようになると、評価は外側に実在するものになります。
そうなると、自分が今何ができないかを見つめる作業は、むしろプライドをもって行えるようになります。
テストで良い点が取れない。
評価が自分の外側に実在しない。
自分で自分を褒め、認めるしかない。
自己評価だけが高い。
できないことから目を逸らす。
こういう悪循環は避けたいです。
2018年09月17日
久しぶりに奥高尾を歩きました。2018年9月。
2018年9月16日(日)、2か月ぶりに山を歩いてきました。
最後に歩いた7月初めでも、もう身の危険を感じるほどの暑さでした。
この夏は、本当に暑かったですね。
高山に逃れる機会もなく、気がつくと2か月ぶりの山歩きです。
天気予報は曇りだけれど、そのほうが暑くならずに済むし、山も空いているだろう。
そう思っていつものようにJR高尾駅北口に降り立つと、小仏行きのバス停は、行列が途中で折れ曲がってUターンしている盛況でした。
皆、低山を歩ける気温になる日を待ち構えていたのかもしれません。
日影下車。8:50。
山支度をして、さて出発。
日影林道は入り口から濡れていました。
土曜日の雨の名残でしょう。
日影沢もいつもより水量は多いです。
前回歩いた、城山北東尾根の徒渉点は、乗用車が駐車されていて邪魔でしたが、すり抜けて覗き込むと、一応歩けることは歩ける様子でした。
でも、今日は、秋の花を楽しむ山歩き。
尾根道よりも、日影沢林道のほうが花が多いと思います。
赤く鮮やかなミズヒキ。
淡いピンク色のミゾソバ。
きれいだけれど、この写真はもう沢山撮っているからなあ。
などと思いながらのんびり登っていくと、キツリフネを発見。(''_'')
去年は、林道工事の影響でキツリフネの株がなくなっていて、ああ、伐採されてしまったんだとがっかりしたのですが、その跡に、また株が育っていたのです。
しかも、増えていました。
強いなあ。
上の写真がそれです。
赤いツリフネソウは日影林道には沢山咲いているのですが、キツリフネはここだけなのです。
もともと高尾にあるものではなく、過去に持ち込まれた可能性が高いそうですが、他の植物を侵略する気配はないので、末永くここで可憐に咲いていてほしいなあ。
さらに登っていくと、赤いツリフネソウがちらほら咲いていました。
むしろ今年は、赤いツリフネソウが減っている印象です。
去年、あまりにわさわさ生えて、雑草感が強かったので、草刈りされてしまったのかな?
赤いツリフネソウが減ると、目立ってきたのがヤマホトトギスでした。
1回の山歩きで1株見つけると、わあ咲いている、嬉しいと感じる花です。
でも、歩いていくと、2株、また3株。
随分咲いているなあ。
その度、立ち止まって撮影。
撮影を終えて立ち上がると、左手、伐採されて、随分見通しが良くなっていました。
わあ、山が丸裸だ。
こんなところから空が見えるなんて。
また次の植樹が行われるのでしょうか。
奥高尾は、半分は植林帯なので、人がコントロールして木を植え、育て、伐採していくことで良い林が保たれます。
柵を越えると、舗装道路が始まります。
ここからは、また別の種類の花が楽しみです。
山頂に近くなり、見晴らしが良くなってくると・・・。
あ、咲いていた。ツリガネニンジン。
ススキ、アザミに混じって、風に揺れていました。
城山山頂。10:25。
タオルがしぼれるほどに汗をかいていたので、かき氷の大を注文。
しかし、やはり大き過ぎて、食べ終わる頃には身体が冷えて何か1枚羽織りたいほどになっていました。
歩きだせばまた暑くなるという保証がなかったら、危険なほど。
やはり、身体は内側から冷やすのが一番効きます。
出発。11:00。
高尾に向かってのんびりと降りていきます。
赤いヒガンバナ。白いヒガンバナ。
もう盛りは過ぎた様子で、色は褪めていました。
今日は眺望もないので、一丁平の展望台は避けて、まき道を。
花に期待してのことでもあります。
今年も咲いていました、キバナアキギリ。
これももう終わりかけの様子。
一丁平で少し休憩。
つやのある葉がわさわさ生えている木から、赤い実が鈴なりに垂れ下がっています。
赤い実が割れて、黒い種子が姿を現しています。
何だろう?
ポケット植物図鑑で確認。
・・・ゴンズイ?
何度も歩いているのに、気づかなかったです。
来年からは、また、この木が実をつけているかどうかも気にして歩くようになると思います。
紅葉台も通らず、まき道を行きます。
シモバシラの花が咲き始めていました。
少し減っていないかな?
秋にシモバシラがちゃんと咲いているところに、冬の氷花が見られます。
やはりここも、ヤマホトトギスが多く見られました。
こんなにあちらこちらに見られる花ではないはずなのに、不思議だなあ。
今年の気候に合っているのでしょうか。
紅葉台との合流点、高尾山の直下から、高尾山5号路へ。
ここも、ヤマホトトギスが沢山咲いていました。
そのまま、稲荷山コースを下ります。
ここを歩くのは、1年ぶり。
また少し整備が進んだ印象です。
デッキや木段が整備されて随分歩きやすくなりました。
私が歩いてたたらを踏んだりちょっと立ち止まって確認したりする箇所が全くないというのは、山道としてありえないほどの整備です。
とはいえ、雨上がりの泥んこ箇所がないわけではなく、膝から下やお尻が真っ黒な人も。
こんな日は、観光客の人は無理せず、1号路かケーブル・リフトで下山したほうが安全だろうと思います。
たんなる下山でもやはり大量の汗をかき、2本目のタオルも絞れるほどになる頃、下山。13:10。
ちょっと物足りないけれど、2か月ぶりの足慣らしなので、これくらいで。
最後に歩いた7月初めでも、もう身の危険を感じるほどの暑さでした。
この夏は、本当に暑かったですね。
高山に逃れる機会もなく、気がつくと2か月ぶりの山歩きです。
天気予報は曇りだけれど、そのほうが暑くならずに済むし、山も空いているだろう。
そう思っていつものようにJR高尾駅北口に降り立つと、小仏行きのバス停は、行列が途中で折れ曲がってUターンしている盛況でした。
皆、低山を歩ける気温になる日を待ち構えていたのかもしれません。
日影下車。8:50。
山支度をして、さて出発。
日影林道は入り口から濡れていました。
土曜日の雨の名残でしょう。
日影沢もいつもより水量は多いです。
前回歩いた、城山北東尾根の徒渉点は、乗用車が駐車されていて邪魔でしたが、すり抜けて覗き込むと、一応歩けることは歩ける様子でした。
でも、今日は、秋の花を楽しむ山歩き。
尾根道よりも、日影沢林道のほうが花が多いと思います。
赤く鮮やかなミズヒキ。
淡いピンク色のミゾソバ。
きれいだけれど、この写真はもう沢山撮っているからなあ。
などと思いながらのんびり登っていくと、キツリフネを発見。(''_'')
去年は、林道工事の影響でキツリフネの株がなくなっていて、ああ、伐採されてしまったんだとがっかりしたのですが、その跡に、また株が育っていたのです。
しかも、増えていました。
強いなあ。
上の写真がそれです。
赤いツリフネソウは日影林道には沢山咲いているのですが、キツリフネはここだけなのです。
もともと高尾にあるものではなく、過去に持ち込まれた可能性が高いそうですが、他の植物を侵略する気配はないので、末永くここで可憐に咲いていてほしいなあ。
さらに登っていくと、赤いツリフネソウがちらほら咲いていました。
むしろ今年は、赤いツリフネソウが減っている印象です。
去年、あまりにわさわさ生えて、雑草感が強かったので、草刈りされてしまったのかな?
赤いツリフネソウが減ると、目立ってきたのがヤマホトトギスでした。
1回の山歩きで1株見つけると、わあ咲いている、嬉しいと感じる花です。
でも、歩いていくと、2株、また3株。
随分咲いているなあ。
その度、立ち止まって撮影。
撮影を終えて立ち上がると、左手、伐採されて、随分見通しが良くなっていました。
わあ、山が丸裸だ。
こんなところから空が見えるなんて。
また次の植樹が行われるのでしょうか。
奥高尾は、半分は植林帯なので、人がコントロールして木を植え、育て、伐採していくことで良い林が保たれます。
柵を越えると、舗装道路が始まります。
ここからは、また別の種類の花が楽しみです。
山頂に近くなり、見晴らしが良くなってくると・・・。
あ、咲いていた。ツリガネニンジン。
ススキ、アザミに混じって、風に揺れていました。
城山山頂。10:25。
タオルがしぼれるほどに汗をかいていたので、かき氷の大を注文。
しかし、やはり大き過ぎて、食べ終わる頃には身体が冷えて何か1枚羽織りたいほどになっていました。
歩きだせばまた暑くなるという保証がなかったら、危険なほど。
やはり、身体は内側から冷やすのが一番効きます。
出発。11:00。
高尾に向かってのんびりと降りていきます。
赤いヒガンバナ。白いヒガンバナ。
もう盛りは過ぎた様子で、色は褪めていました。
今日は眺望もないので、一丁平の展望台は避けて、まき道を。
花に期待してのことでもあります。
今年も咲いていました、キバナアキギリ。
これももう終わりかけの様子。
一丁平で少し休憩。
つやのある葉がわさわさ生えている木から、赤い実が鈴なりに垂れ下がっています。
赤い実が割れて、黒い種子が姿を現しています。
何だろう?
ポケット植物図鑑で確認。
・・・ゴンズイ?
何度も歩いているのに、気づかなかったです。
来年からは、また、この木が実をつけているかどうかも気にして歩くようになると思います。
紅葉台も通らず、まき道を行きます。
シモバシラの花が咲き始めていました。
少し減っていないかな?
秋にシモバシラがちゃんと咲いているところに、冬の氷花が見られます。
やはりここも、ヤマホトトギスが多く見られました。
こんなにあちらこちらに見られる花ではないはずなのに、不思議だなあ。
今年の気候に合っているのでしょうか。
紅葉台との合流点、高尾山の直下から、高尾山5号路へ。
ここも、ヤマホトトギスが沢山咲いていました。
そのまま、稲荷山コースを下ります。
ここを歩くのは、1年ぶり。
また少し整備が進んだ印象です。
デッキや木段が整備されて随分歩きやすくなりました。
私が歩いてたたらを踏んだりちょっと立ち止まって確認したりする箇所が全くないというのは、山道としてありえないほどの整備です。
とはいえ、雨上がりの泥んこ箇所がないわけではなく、膝から下やお尻が真っ黒な人も。
こんな日は、観光客の人は無理せず、1号路かケーブル・リフトで下山したほうが安全だろうと思います。
たんなる下山でもやはり大量の汗をかき、2本目のタオルも絞れるほどになる頃、下山。13:10。
ちょっと物足りないけれど、2か月ぶりの足慣らしなので、これくらいで。
2018年09月13日
聴き取る力・読み取る力。
今朝、ラジオを聴いていたら、季節に関するひと口情報的なコーナーでこんな会話がなされました。
1人はアナウンサーで、用意された原稿を読んでいます。
アナウンサー「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません。本来はそのまま『あきざくら』と読み、これがコスモスの和名とされています。この漢字2文字でもコスモスという読み方が広まったのは、1977年の山口百恵さんのヒット曲『秋桜』がきっかけだと言われているんですね」
パーソナリティー「これね、いつも諸説ありをぶつぶついうのが好きなんですけど、そうじゃない説を今思っていて」
アナ「さだまさしさんが作詞作曲されたこの『秋桜』・・・」
パーソ「コスモスは昔からあるよ。私たちが小学生のときから、コスモスはコスモス。そう言ってたよ。さだまさしさんが逆にコスモスを秋桜と書くのを最初にやったみたいな説ありましたよね。それで聞いているから。これとはちょっと食い違う」
放送を聴いたときも、録音をこうして文字に起こして何回も読み直しても、このパーソナリティーが何にケチをつけて「逆に」と言っているのか、よくわからないのです。
この情報を整理すると、コスモスの和名は「あきざくら」。
「秋桜」と書いてコスモスと読ませた最初の人は、さだまさし。
アナウンサーが読んでいる原稿も、パーソナリティーが「諸説ありだ」と言っていることも、同じ内容に思えるのです。
このパーソナリティーは、何を言いたかったのでしょう?
何かを誤解したのでしょうか?
このパーソナリティーが?
それとも私が?
ラジオを長年、というより話芸を長年やっている人が、何かを聴き取り間違えたのではないか?
「コスモス」という花の名前を広めたのがさだまさしだという説をアナウンサーが読んだと誤解したのでしょうか?
その前までは人々はあの花を「あきざくら」と呼んでいたと聴き取り間違えて、いや、そんなことはない、と感じたのでしょうか。
あるいは、「コスモス」という西洋の名称にさだまさしが「秋桜」という漢字を選んで充てたのであって、「あきざくら」という和名など存在しない、と言っているのか?
そう悩みながらアナウンサーの原稿を読み直すと、そういう様ざまな解釈を招く隙がこの原稿にはあるのだと気づきます。
誤解の分岐点は、
「漢字で秋の桜と書いて、コスモス。そう読まれる方が多いかもしれません」
「この漢字2文字でも『コスモス』という読み方が広まったのは」
というところだと思います。
ここに違和感を抱く人が多い。
「コスモスと読まれる方が多いかもしれません」という言い方は、それは間違っていますよ、というニュアンスがあり、反論されやすい物言いなのでしょう。
「コスモスと呼ばれる方が多いかもしれません」
「『コスモス』という呼び名が広まったのは」
と聞き間違える可能性も高く、そうなると意味が全く変わってしまうのです。
自分が以前から思っていたことを否定されたように感じると、いや、それは諸説ありだ、自分の知っていることはこうだ、と主張したい気持ちにもなります。
アナウンサーは、パーソナリティーよりもずっと若いので、いや、それは同じことなんじゃないですかと反論はしませんでした。
1977年なんて生まれてもいないでしょうから、それ以前にあの花を「コスモス」と呼んだかどうか、「あきざくら」という和名が存在したかどうかなんて本人は知らないのですし。
ああ、そうかもしれませんね、と受け流して先に進んでいきました。
聞いている私は、取り残されて、朝からモヤモヤしてしまいました。
ラジオだから?
音声だから、情報が正確に伝わらないのだろうか?
文字情報のほうが、確実なのか?
しかし、そうとばかりも言えません。
先日、北海道で大きな地震があり、それに伴って大規模な停電が起こりました。
電力的には今も綱渡りの状態が続き、北海道では計画停電を実施する可能性もあるそうです。
そうなると、「原子力発電所を動かしていればこんなことにならなかったのだ」という意見を口にする人もいます。
北海道の泊原発は安全基準を満たしていないから、そもそも稼働できないそうですが、それはともかく。
気になるのは、「泊原発」を「柏原発」とネットで書いている人がいること。
「泊」と「柏」は文字としては似ています。
肉筆の場合は、たまたま書き間違える可能性はあります。
しかし、ネットで「柏原発」と打ち込むには、「かしわげんぱつ」と入力しないと無理です。
つまり、最初から読み間違えていないと、この書き間違いは起こらない。
そういう人たちにとって、北海道の原発は、その存在すら実は予備知識になく、むしろ原発といえば、新潟県の柏崎の原発のほうがまだしも名前の見覚えがあったのかもしれません。
その連想もあって「かしわ原発」になってしまっているのでしょうか。
そうした読み間違いや勘違いがなぜ訂正もされずその人の中でそのままになってしまうのか?
ネットで「柏原発」と書いている人は、テレビやラジオでニュースを確認したことが一度もないからでしょうか?
ネットでしか情報を得ていないのではないか?
音声を伴う情報に触れないので、読み間違いが永遠に訂正されないのです。
このように、文字情報だけの場合も、ある種の危うさがあります。
昔、ネットにアクセスできない人を「情報弱者」と呼びました。
今は、ネットでしか情報を得ない、新しい種類の情報弱者が生まれているのかもしれません。
社会問題としてこれを論じているのではなく、私が気になるのは、やはり身近な話です。
生徒は私の音声による解説をどこまで正確に聴き取ることができているのだろうか?
私はどこまで正確に情報を伝達できているだろうか?
また、生徒は、テキストに書いてある文字情報をどこまで正しく読めているのだろうか?
相変わらず、
「問題を読みましょう」
「問題文に全部書いてあるよ」
「設問を読みとばしたでしょう?大事な条件がここに書いてあるよ」
と生徒に繰り返す日々ですが、問題文を読み取れないだけでなく、私のそうした音声による助言も情報として正確に聴き取れない子がもしいるとしたら、一体どうしたらよいのだろう?
音声による情報も、文字による情報も、思っているよりも脆弱で、相手が誤解する可能性を常にはらんでいます。
自分が何か誤解していないか。
相手が何か誤解していないか。
常にその可能性を探りながら、さらに細心の注意をもって情報の伝達をしていかなければ。
改めてそう感じた秋の初めの朝でした。
北海道だけでなく、大雨や台風の被災地もまだ苦しい毎日と思います。
被害の様子を知る度、2011年を思い出します。
心よりお見舞い申し上げます。
2018年09月06日
チェバの定理。
数A「図形の性質」の学習、今回は、チェバの定理です。
まずは、左の図が基本です。
△ABCの内部に点Oをとります。
各頂点から対辺に向けて、点Oを通る直線を引き、対辺との交点をE、F、Dとします。
左図の線分AE、BF、CDがそれです。
すなわち、点D、E、Fは、それぞれ辺AB、BC、CAを内分する点です。
このとき、
AD/DB ・ BE/EC ・ CF/FA = 1
これがチェバの定理です。
証明は簡単で、三角形の面積の比と線分の比を利用します。
興味のある方は、ネットで検索するとすぐに証明が出てきます。
高校レベルの定理にありがちですが、証明を理解して納得したところで、定理は覚えられないことが多いです。
三角形の面積の公式など、公式が表しているものが求め方の意味そのものだった頃と比べ、公式と証明との間に乖離が生じるのが高校数学です。
証明は証明として納得した後は、定理は定理で暗記すると良いでしょう。
いえ、数学センス、図形センスが高度に発達した人の場合、このレベルでもなお、証明が理解できれば、公式は証明そのもの、意味そのものじゃん、暗記とかそういうことじゃないという感覚を抱きます。
そういう人は「数学は暗記じゃない」と言います。
一応、その人の言うことも聞いて、証明を理解した後、何も見ないで定理を復元できるか自分で試してみても良いですが、あ、ちょっと無理だなと感じたら、丸暗記したほうが良いと思います。
「チェバの定理」の場合、暗記は簡単。
まず、土台は△ABCであることを強く意識します。
点A、B、Cが頂点です。
それ以外の点は、交点とします。
「分点」と呼ぶ人もいますが、同じことです。
唱える呪文は、
「頂点・交点・頂点・交点・頂点・交点・頂点」。
始まりは必ず頂点です。
そこから直接いける交点までが最初の分数の分子。
その交点から次の頂点までが、その分母。
その頂点から次の交点までが、次の分子。
その交点から次の頂点までが、その分母。
そうやって、頂点から交点へ、交点から頂点へと一周していくのが、チェバの定理です。
上の左図では、頂点Aから始めていますが、これは頂点Bから始めても頂点Cから始めても同じことです。
「AD、DB、・・・」と文字で暗記するのは混乱のもと。
ざっくりと把握し、自由に活用できるようにしておきましょう。
次に上の右の図。
点Oが△ABCの外側にある場合です。
同じように、各頂点から点Oを通る直線を引き、対辺あるいは対辺の延長との交点をE、F、Dとします。
上の図のように、2つの交点は、外分点、1つは内分点となります。
この場合も、チェバの定理は成り立ちます。
上の右図にオレンジ色で書き込んである通り、
「頂点・交点・頂点・交点・頂点・交点・頂点」
の順番でひと筆書きでなぞり、最初の頂点に戻れば終了です。
あくまで△ABCが土台。
A、B、Cが頂点。
外分点は交点です。
それを強く意識すれば、間違えずに最初の頂点に戻ってこられます。
これも、出発は点Aとは限らず、どの頂点から開始してもその頂点に戻ってこられるよう練習しておくと良いと思います。
あとは代入とその後の計算の問題です。
例えば、図のAD:DBの値を求める問題で、他の線分の比は既にわかっているとして。
AD/DB ・ 1/2 ・ 4/5=1
という式が立ったその後。
2AD/5DB=1
というところまで整理できて、その先で迷ってしまう人がいます。
このとき、AD:DB=5:2 です。
これもまた、なかなか納得できない人もいるようで、つまずきポイントです。
小学校の頃から分数や比が苦手だったことが高校まで尾を引いている子は特に。
本当に、小学校の算数は諦めずに理解しておいてください。
まずは、左の図が基本です。
△ABCの内部に点Oをとります。
各頂点から対辺に向けて、点Oを通る直線を引き、対辺との交点をE、F、Dとします。
左図の線分AE、BF、CDがそれです。
すなわち、点D、E、Fは、それぞれ辺AB、BC、CAを内分する点です。
このとき、
AD/DB ・ BE/EC ・ CF/FA = 1
これがチェバの定理です。
証明は簡単で、三角形の面積の比と線分の比を利用します。
興味のある方は、ネットで検索するとすぐに証明が出てきます。
高校レベルの定理にありがちですが、証明を理解して納得したところで、定理は覚えられないことが多いです。
三角形の面積の公式など、公式が表しているものが求め方の意味そのものだった頃と比べ、公式と証明との間に乖離が生じるのが高校数学です。
証明は証明として納得した後は、定理は定理で暗記すると良いでしょう。
いえ、数学センス、図形センスが高度に発達した人の場合、このレベルでもなお、証明が理解できれば、公式は証明そのもの、意味そのものじゃん、暗記とかそういうことじゃないという感覚を抱きます。
そういう人は「数学は暗記じゃない」と言います。
一応、その人の言うことも聞いて、証明を理解した後、何も見ないで定理を復元できるか自分で試してみても良いですが、あ、ちょっと無理だなと感じたら、丸暗記したほうが良いと思います。
「チェバの定理」の場合、暗記は簡単。
まず、土台は△ABCであることを強く意識します。
点A、B、Cが頂点です。
それ以外の点は、交点とします。
「分点」と呼ぶ人もいますが、同じことです。
唱える呪文は、
「頂点・交点・頂点・交点・頂点・交点・頂点」。
始まりは必ず頂点です。
そこから直接いける交点までが最初の分数の分子。
その交点から次の頂点までが、その分母。
その頂点から次の交点までが、次の分子。
その交点から次の頂点までが、その分母。
そうやって、頂点から交点へ、交点から頂点へと一周していくのが、チェバの定理です。
上の左図では、頂点Aから始めていますが、これは頂点Bから始めても頂点Cから始めても同じことです。
「AD、DB、・・・」と文字で暗記するのは混乱のもと。
ざっくりと把握し、自由に活用できるようにしておきましょう。
次に上の右の図。
点Oが△ABCの外側にある場合です。
同じように、各頂点から点Oを通る直線を引き、対辺あるいは対辺の延長との交点をE、F、Dとします。
上の図のように、2つの交点は、外分点、1つは内分点となります。
この場合も、チェバの定理は成り立ちます。
上の右図にオレンジ色で書き込んである通り、
「頂点・交点・頂点・交点・頂点・交点・頂点」
の順番でひと筆書きでなぞり、最初の頂点に戻れば終了です。
あくまで△ABCが土台。
A、B、Cが頂点。
外分点は交点です。
それを強く意識すれば、間違えずに最初の頂点に戻ってこられます。
これも、出発は点Aとは限らず、どの頂点から開始してもその頂点に戻ってこられるよう練習しておくと良いと思います。
あとは代入とその後の計算の問題です。
例えば、図のAD:DBの値を求める問題で、他の線分の比は既にわかっているとして。
AD/DB ・ 1/2 ・ 4/5=1
という式が立ったその後。
2AD/5DB=1
というところまで整理できて、その先で迷ってしまう人がいます。
このとき、AD:DB=5:2 です。
これもまた、なかなか納得できない人もいるようで、つまずきポイントです。
小学校の頃から分数や比が苦手だったことが高校まで尾を引いている子は特に。
本当に、小学校の算数は諦めずに理解しておいてください。
2018年09月03日
勉強に向いている性格。

先日、ネット記事を眺めておりましたら、「性格の悪い子は成績も悪い」というタイトルの記事を見つけました。
こういう記事は閲覧数を稼ぐためにキャッチーで過激なタイトルをつけるもので、記事の内容はそんなにひどいものではないのだろうと一応読んだら、内容もそのままだったので驚きました。
大手の塾の経営者の発言をまとめた記事でした。
いわく、大人の指導に素直に従う子は伸びる。
大人の言うことを素直に聞けない子は、指導を無視して勝手なことをするので、間違った勉強をして、成績が上がらない。
すなわち、性格の悪い子は、成績が悪いのだ。
言っていることは、部分的にわからないこともないのです。
しかし、この言い方・・・。
「俺の言うことさえ聞いていればいいんだ。そうすれば、成績は上がる。成績が上がらないのは、俺の言うことを聞かないからだ」
そうした呪いの言葉に思えます。
これほど言葉はひどくないけれど、結局、自分も同じようなことを言ってしまっていないか、考え込んでしまいました。
私が以前に勤めていた集団指導塾は、私が勤務した頃には地域密着型の穏やかで小さな学習塾でした。
しかし、スパルタ式の教育で近隣に名を馳せ、教室をいくつも広げるほどに躍進していた時代があったと、昔から勤めている講師に聞いたことがあります。
宿題をやってこない子に対しては、男女関係なく、皆の前でビンタをしたそうです。
その恐怖と恥ずかしさを思えば、誰もが必死に宿題をやってくるようになります。
必死に宿題をやれば、成績が上がる。
成績が上がれば、保護者は満足。
塾にクレームをつけません。
「やり方が気に入らないなら、どうぞ退会してください。
うちの塾に通っていれば、しかし、成績は上がるんですよ」
そういう形で実績を上げた塾だったというのです。
大人の言うことを聞かない子どもは多いですが、そういう子ほど、恐怖と暴力で支配すれば簡単に従うのも事実です。
いえ、大人も、恐怖と暴力の支配から逃れられる人は少ないでしょう。
歴史がそれを証明しています。
だからこそ、私たちは、用心に用心を重ね、そうしたことが起こらないようにアンテナを張っていなければなりません。
「性格の悪い子は、成績が悪い」
この発言は、そうした暴力的支配が許されなくなった時代に、それでも子どもを従わせたい人の苦しまぎれの物言いに思えます。
ここでいう「性格が悪い」は、指導者にとって都合の悪い性格という意味に過ぎません。
「性格の良い子」というのは、指導者にとって都合の良い性格の子ということです。
言うことを聞かない子をどのように説得し、効果的な学習方法を伝えるか。
そこで勝負しないで、子どもの性格のせいにしてどうするんだろう・・・。
この夏、教室の入っているビルは大規模な外壁工事が行われました。
通路も教室のドアも塗り替えられてピカピカです。
4年前、今回ほどの規模ではないですが、ある土曜日、通路の床に防水加工の工事が行われたことがありました。
しかし、うちの塾は土曜日も営業しています。
業者の人と相談の結果、エレベーターからうちの教室の前まで養生をしてくれて、そこを通って教室に入れるようになりました。
私は保護者にメールで連絡しました。
「本日、うちの教室前の通路は塗装工事が行われております。エレベーターから教室の入口まで、養生してあるところを歩いてきてください」
これで大丈夫でしょう。
ところが、ここで不測の事態が発生しました。
そのメールの内容をお母様から伝えられた生徒は、外階段からやってきてしまったのです。
('_')
「エレベーターから教室入口まで、かなり歩きにくい状態になっているようだ」
というふうに情報を読んで、
「じゃあ、階段からなら、歩けるんじゃないか」
という発想になったのでしょう。
いやいやいや。
「エレベーターから教室入口までなら、歩ける。他に歩ける道はない」
というのが、私の伝えたかったことだったのですが。
というよりも、そのとき、私の中に階段という発想はなかったのです。
これは私の思考の癖なのかもしれません。
業者さんに、
「エレベーターから、この部屋の入口まで、通れるようにしますから」
と言われれば、
「なるほど、エレベーターからここまで、通れるのだな」
と、そのまま受け止めます。
「エレベーター」という言葉が思考のフックとなり、もうそれ以外の選択肢は念頭から消えます。
相手が通れるようにしてくれている、その通りにやっていれば、間違いはない。
はみ出す必要はない。
そして、勉強をする上で、この考え方は楽だし、合理的なんです。
解説を聞いて、あるいは解説を読んで、まずはその通りに再現する。
その再現の正確さが、理解力。
勉強する内容は、数千年の人類の叡智です。
私の単なる思いつきが簡単に凌駕するわけがありません。
現代科学の最善で最高の内容を教わっているのです。
言われた通りに再現できることが、まず必要。
とはいえ、
「だから学校の秀才の考えることはつまらないんだ」
と言われれば、それもその通りなのです。
言われたことを言われた通りにやるのではなく、思ってもいなかった方向から発想できる人は、かっこいいですよね。
少数のそういう人が文明を牽引し、そして、それを多くの秀才が再生して、世の中は進んでいくのだと思います。
ただ、階段を使うという発想は、そういうユニークで魅力的なものなのかというと、そうではないように思います。
それは、たとえ思いついても、総合的に判断して、自分で却下したほうがいいのです。
階段を使えるのなら、最初からそういう誘導をします。
階段の先は塗装直後で、一歩も先に進めなかったのです。
相手が口にしないことを自分が思いつくと、思いついた途端に「それこそが最善」という思考の飛躍を起こす子がいるのではないか。
また別の子の話ですが、英語の「受動態」をなかなか理解できない中学2年生がかつていました。
最初の授業では、正確に理解したのです。
基本的に頭の回転の速い子で、その場では器用に身につけることができました。
しかし、家で復習する習慣がなく、宿題は、次の塾の日の直前に慌ててやってくる子でした。
1週間経ってからでは、たいていのことは頭から抜け落ちています。
宿題は間違いが多く、そうなると混乱し、わかったはずのことがわからなくなっていくようでした。
1週間、また1週間、むしろ、どんどん「受動態」がわからなくなっていくのです。
とうとう、簡単な穴埋め問題も解けなくなってしまいました。
問題 次の空所に適切な語を補いなさい。
(1) その歌は若い人たちに愛されている。
The song ( )( )among young people.
(2) この本は10年前に書かれた。
This book ( )( )ten years ago.
こういった、ごく簡単な穴埋め問題です。
(1)の答えは、is loved
(2)の答えは、was written
be動詞と過去分詞を空所に埋めるだけの、受動態のテストとしては何のひねりもない基本問題でしたが、全問不正解でした。
そこに全て過去分詞とbyを入れていたのです。
(1)は、loved by
(2)は、written by と。
「・・・・・・何で、by?」
「だって、受動態は、必ずbyを使うし」
と、その子は言いました。
「・・・・・・そんなふうに教わった?」
「自分で気がついたよ。頭いいー」
「受動態かどうかは、動詞の形で決まるんだよ」
「だって、byを使うでしょう?」
「使わない受動態は、たくさんあるよ」
「えー?なんでー?」
・・・・・教わったことを教わった通りに再生していれば、早いのになあ。
なんで、別のルールを自分で見つけてしまうのかなあ。
しかし、それは思考の癖のようなもので、
「なぜ?」
と問われても自分で説明できないし、
「そのような考え方はやめなさい」
と言われても、やめられるものでもないのでしょう。
何か1つの情報を与えられたときに、いくつもの選択肢を発想すること自体は、むしろ良いことです。
問題は、その選択肢のうち、妥当ではないものを消去する判断力をもつこと。
「自分の思いついたことだから、正しい」
というバイアスがかからない総合的な視野を持つこと。
でも、子どもに総合的な視野を求めても難しい。
総合的な視野に乏しいから、それを身につけるために勉強しているんです。
結局、「A」と言われたときに「B」の発想をし、それに沿って問題を解決しようとしてしまうのは思考の癖です。
性格が良いとか悪いとか、そういうことでなく、思考の癖。行動の癖。
良い勉強法を教わっても、聞き流して、実行しない。
これだけは覚えなさいと言われても、覚えない。
「A」の提案に対して、常に「B」という案を本人は思いつき、大人の言う通りにすることに意味を感じない。
ピントがズレている間は成績向上の邪魔になりますが、ピントが合えば大きな潜在能力かもしれません。
この子の性格にあった勉強のやり方は、どういうものだろう?
どう説明すれば「A」と教えたときに「B」と発想せず、「A」のまま伝えることができるのだろう?
そのように考えていくのが建設的だと思うんです。
「性格が悪い」と子どもをなじって自分の責任を回避するよりも。