たまりば

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2023年02月26日

細かいところが上手くできない。


アズマイチゲでしょうか。
一輪見ても嬉しい花の群落でした。

それはともかく、本日は、算数・数学で、細かいところを丁寧に正確に処理していくことができない子の話。
顕著なのは、「データ」に関連した単元です。
例えば、小学校で学習する「平均」。
この単元をデータの学習と結びつける発想は、学習している小学生にはあまりないかもしれませんが、平均値は、そのデータを代表する値。
データの学習には必須の内容です。
そして、平均値の考え方は理解できるけれど、正解はほとんど出せない小学生がいるのです。

問題 以下の値の平均を求めなさい。
57、86、75、62、71、68、63、84、39、39、47、54

電卓を使わせてください。
そう思わないわけでもないですが、学校では、この程度の計算は人力で行うことを要求されます。
この12個のデータを全部たして、合計を12で割ればいい。
こうした平均の考え方は、大体の生徒は理解しています。
しかし、正解が出せるかどうかはまた別の問題です。

こういう計算の場合、一の位の数だけをまず全部たす。
その中でも、たして10になる組み合わせを見つけて、そのペアをできるだけ先に作っておく。
そうしたやり方の利便性を理解している子は多いです。
ただ、そのペアを作る段階でミスしてしまうのです。
どれとどれをペアにしたのか、途中でわからなくなってしまう・・・。
ペアになった数どうしを「ひげ」で結んでみたりしていますが、「ひげ」がこんがらがって、ますますわからなくなってしまうこともあります。
使った数を斜線で消すやり方をしても、途中で斜線を入れる数字を間違えて、斜線を入れたのか入れなかったのかわからなくなったりもします。
いくつのペアが見つかって、十の位にいくつ上がるのか、それを数え間違えてしまうことも多いです。
間違えてしまう子の多くは、作業の様子を見ていてもひどく雑で、よく確認もせずにやっています。
もう少し丁寧によく見て処理すればいいのに・・・と思うことが多いです。

こういうことは、人間よりも機械のほうが圧倒的に正確なのだから、何回やっても正解に至らないことを、そんな気にしなくてもいいかな・・・。
そうも思います。
一方で、こんな計算すら正確にできなくて、この先の数学の計算にどの程度耐えられるのだろう、とも思うのです。


多くの子は、学年が上がるにつれて精度も上がっていきますが、高校生になっても、精度が低いままのこともあります。
数Ⅰ「データの分析」で、データ処理の精度が低いと、学習がなかなか進みません。
例えば、こんな問題です。

問題 生徒20人の身長x(cm)と、体重y(㎏)を調べた結果、以下の表のようになった。
x、yの相関表を作れ。
ただし、xについては階級の幅を6とし、階級は150から区切り始めるものとする。
yについては、階級の幅を4とし、階級は50から区切り始めるとする。



相関表とは何か?
一番簡単なのは、小学校で学習する「衛生検査」の表です。
「ハンカチを持っている・持っていない」
「爪を切っている・切っていない」
という2つの検査をクラスの全員に行い、2×2の4マスの表に、その人数を書き込みます。
「ハンカチを持っていて、爪も切っている人」
「ハンカチを持っていて、爪は切っていない人」
「ハンカチは持っていないが、爪は切っている人」
「ハンカチは持っていないし、爪も切っていない人」
誰もが一度は解いた記憶のある問題だと思います。

高校数Ⅰで学習する相関表は、マスが2×2ではなく、5×5などになっているだけで、基本の構造は同じです。
x と y の階級を縦と横にとって、表にし、それぞれの度数を数字で記入すれば表は完成です。
下が、正解の相関表です。



この相関表を完成させるために、それぞれの度数をどう数えましょうか。
1つでもミスしたら、全部やり直しになりますから、ミスしたくありません。
私なら、与えられたデータの最初のものから順番に、指で押さえながら、相関表の各マスの左上の隅に「正」の字を書きこんでいきます。
こんな作業は何度もやりたくないですから、一度で終わるよう、慎重に作業を進めます。

生徒にもそのように助言しました。
そのようにすれば、相関表の外枠を完成した後の作業は5分程度で終わるはず。
これは相関表の構造を把握するための基本問題です。
こんな作業よりも、この先の、相関係数の意味と計算方法を学ぶことのほうが学習の主眼です。

しかし、30分経っても、作業は終わりませんでした。
その高校生は何をやっていたのか?
相関表のそれぞれのマスに入るデータの個数を、元の表からいちいち数えていたのです。
例えば、xが150㎝以上156㎝未満で、yが50㎏以上54㎏未満のデータが表にないか、ずっと目で追っていき、1人見つければ「1」と記入するというように。
結果、物凄く時間がかかったうえに、相関表は間違いだらけ、となりました。
5か所にミスが見られました。

精度を上げるやり方を前もって解説したのですが、実際に本人がやったのは、ミスしやすいやり方でした。
おそらく、小学校で普通の度数分布表を作っていた頃から、本人はずっとそういうやり方をしてきて、ミスも多かっただろうと思います。
それでも、改めない。
自分のやり方の危うさが理解できないのか?
そんなやり方で正確に相関表を埋められると、本気で思っているのか?

さすがにこれはまずいと思い、私はもう一度、精度の高いデータ処理のやり方を解説しました。
指で押さえて、あるいは、処理したデータを1つずつ斜線で消しながら、最初から順番に1つ1つ、「正」の字を描いて処理していく方法を。
ところが、やり直したその子は、最初の3つくらいはそのようにしていたのですが、途中から、また本人の無駄とムラの多いやり方に戻ってしまったのです。
・・・え?
何でだろう?

30分後、再度作られた相関表は、ミスが6か所に増えていました。

その子は、小学生の頃から、データ処理ではそのようなミスを繰り返してきたのだと思うのです。
データ処理を小学生に自由にやらせると、多くの場合、その子のようなやり方をしてしまいます。

一度それで失敗し、自分で工夫してやり方を改めることができる子もいます。
あるいは、先生や周囲の人から正確にできるやり方を教わって、改善できる子も多いでしょう。
そのような子もいる中で、ミスの多いやり方を改められない子もいます。

高校生になるまで、一度も助言されなかったとは考えにくいのです。
小学生の頃から、注意されていたはずです。
そういうやり方ではミスが多くなると注意されても、しかし、直せない・・・。
小学校でも、中学校でも、高校でも、繰り返し注意されても、直せなかったのではないか?

データ処理ばかりではありません。
計算問題などでもケアレスミスの多い子の中には、ミスが多くなるようなやり方で問題を解く子たちがいます。
もう少し堅実に途中を書いていけばそんなミスはしないのに、暗算に暗算を重ねるので、式は合っていても、正解が出せない。
はたから見ると非常にリスキーなやり方を選んでしまうのです。
そして、多くの場合、注意しても、なかなか直りません。



しばらく前、テレビ番組で興味深いやりとりを見ました。
ゲストの芸人さんは、少し前、脱税が摘発された人でした。
それが問題視され、一時期、テレビに出られなくなったけれど、何とか復帰した人です。
そのゲストに対し、司会者が尋ねたのは、
「子どもの頃、学校の机の中が、ぐちゃぐちゃじゃなかったですか?授業参観のプリントを家に持って帰らなくて、親が知らなくて授業参観に来なかったこと、ありませんでしたか?」
といった質問でした。
ゲストは、それらの問いのすべてに「あるある」とうなずいていました。
そして、司会者である芸人さんもまた、自分もそういう子どもだった、と言うのでした。

悪意があっての意図的脱税ではなく、そういう特性のため正しく確定申告できなかったのだろうと、ニュースを見たときから私も想像していましたが、その番組のホストもそういう傾向の人だというのは、初耳でした。
中堅の私立中高一貫校を出て、その後芸人になった人です。
それ以上の情報を私は持っていなかったけれど、内省的な人という印象がありました。
その人のファンは、その人の書いた本やその人のラジオの語りから、その人がそういう自分とずっと向き合ってきた人なのだと以前から知っていたのかもしれません。
自分はなぜそうなのだろう?
それは、どういうことなのだろう?と。

ゲストとホストが2人で同意していたのは、
「プリントを家に持って帰って親に見せるとか、そういうことが重要だと思っていなかった」
というのです。

それは、目が開かれる言葉でした。
ああ、そうなのか。
やろうと思っているけれど、ついそうなってしまうというのではないのか。
覚えていられなくてちゃんと行動できないというのではないのか。
彼らは、優先順位を判断しているのか。
判断して、その判断が世間とはズレているのか・・・。
それは、治らないぞ・・・。

ときどき、そのタイプの子と接することがあります。
彼らは、注意されても黙ってしまうだけで、そのことについて自身の考えを述べるということはありません。
だから、理解できていないのだろうと思い、さらに注意をすることになります。
同じ失敗を繰り返すときには、特にそうです。
何でこんなことを正確にできないのだろう?
そんなに高度なことは要求していないのに。
丁寧に正確にやればいいだけだし、丁寧で正確なやり方を教えているのに。
いわば、マニュアル通りにやれば正確にできることなのに。

模試の会場責任者の仕事をしていたときも感じました。
マニュアル通りにやれば正確にこなせる仕事を、マニュアル通りにやれずにミスを繰り返すアルバイト学生が一定数いたのです。
なぜ、マニュアル通りに仕事をこなすことができないのだろう?
マニュアル以上の仕事をするには、まずマニュアル通りのことが正確にできることが前提ですよ?
その日だけのアルバイト仕事を誰でも失敗せずにこなせるように、何時何分に何をするかまで、全部マニュアルに書いてあるのに。
マニュアルを読んでいないのだろうか?
理解できないのだろうか?
そこを省略すると、ミスが出るよ?
なぜ、それに気づかないの?
本人にそのように強く言うことはできないものの、内心、何でだろうと思うことはありました。

なぜ、助言されても、直せないのか?
表情から見ても、本人に反抗心があってのことではないようなのです。
ただ、脳が、助言を聞き入れてやり方を改善する方向に動かないようなのです。
注意されたことの趣旨を理解できないわけではないのでしょう。
知的に劣っているわけではない。
ただ、注意されたことを内面化して、改善することができない・・・。

注意されたことを、本人の価値観で判断してしまう。
それが世間の価値観とは一致しないのではないか?
授業参観のお知らせを家に持ち帰らないことを、大したことではないと思ってしまうように。

しかし、その芸人さんがテレビに出られなくなったように、社会的にまずいことがいずれ起こるかもしれません。
そのように決定的なことが起こる前から、本人が生きづらさを感じる場面もあるかもしれません。
学習面においても、本人の能力に見合う結果が出ない場合があるでしょう。
精度の高いやり方を教わっても、その通りに実行せず、本人の判断でミスの出やすいやり方を繰り返すのですから。

そのあげく、数学を学ぶこと自体に価値がないと本人が勝手に判断してしまったら?
それは本人の進路に大きく影響します。

助言されたことをなかなか直せない子を見る度に、考えます。
わかっていても能力的に直せないのだろうか?
簡単なことができない場合が多いので、表面的には能力が低く見えてしまうのは事実です。
でも、そうではないのかもしれません。
何かを独自に判断しているだけなのかもしれないのです。


その世間とはズレた価値観に「刺さる」語りかけがあるのではないか?


私自身、それを理論化できてはいません。
万能ではありません。
でも、突出して結果が表れる子を見ることがあります。
何かが刺さったようなのです。
特に数学において、それは顕著です。


  


  • Posted by セギ at 17:38Comments(0)算数・数学

    2023年02月21日

    英文を読む力。


    画像は福寿草。
    都立神代植物公園植物多様性センターで、当たり前に地べたに沢山咲いていました。

    それはともかく、今日は英語の長文読解の話。
    例えば、外国語学習の重要性を述べている文中に、こんな英文があるとします。

    Learning another language makes us realize the relativity of our value.

    問題 文中の、 the relativity of our value に最も近い意味を表すのは、以下のどれか。
    (1) that our value are perfect in a sence
    (2) that our value are related to those in foreign countries
    (3) that we pride ourselves on our relatives
    (4) that there are no universal or perfect values

    高校レベルの英語長文問題ですが、決して難しいものではありません。
    でも、この問題の正答率は低いです。

    英語が苦手な子が選んでしまうのは、(3)です。
    真っ先に選んでしまいます。
    ほぼ即答の子すらいます。
    無論、これは、誤答です。

    解説します。
    まずは本文の内容を確認しましょう。
    Learning another language makes us realize the relativity of our value.
    は、直訳すれば、「別の言語を学ぶことは、私たちに、私たちの価値観の相対性を理解させる」という意味です。
    Learning another language 「別の言語を学ぶこと」が主語。
    make は使役動詞。「~させる」という意味です。
    使役動詞は、SVOCの形をとります。
    us「私たちに」というO(目的語)の後、C(補語)に原形不定詞(動詞の原形が不定詞の役割を果たすもの)がきます。
    realize は「了解する・理解する」という意味の動詞。
    これがここでは、原形不定詞です。
    主語である「別の言語を学ぶこと」が「私たちに」「理解させる」のです。
    何を?
    the relativity of our value 「私たちの価値観の相対性を」です。
    relativity は、「相対性」という意味です。

    国語も苦手という生徒の場合、「相対性」の意味がわからないことがありますが、「相対」の対義語は「絶対」です。
    そこから、何となく意味は把握できると思います。
    相対的であるということは、絶対的ではないということ。
    外国語を学ぶことによって、私たちは、自分の価値観が絶対ではないことを理解する、ということです。

    では、4つの選択肢を見ていきましょう。

    (1) that our value are perfect in a sence
     私たちの価値観は、ある意味完璧だということ。
    (2) that our value are related to those in foreign countries
     私たちの価値観は、外国の価値観と関係があるということ。
    (3) that we pride ourselves on our relatives
     私たちは、私たちの親戚を誇りにしているということ。
    (4) that there are no universal or perfect values
     普遍的あるいは完璧な価値観はないということ。

    わかりました。
    正解は、(4)です。

    でも、似ている単語の多い選択肢を選ぶ癖のある子は、(4)は、選ばないのです。
    本文と同じ単語が少ないので、一番関係がなさそうな選択肢に見えてしまうのでしょう。
    まず(3)を選ぶ。
    それが間違いだと言われたら、(2)を選ぶ。
    そのような間違いを繰り返します。
    relativity と見た目の似ている単語にこだわります。

    relate 「関係がある」, relatives 「親戚」, relativity「相対性」。
    relativity「相対性」だけが意味が異なるということではありません。
    他者との関係を考慮するからこその「相対性」です。
    他者と無関係で全く比較しないのが「絶対」です。
    語源が同じである単語に注目することで、語彙は増え、深まります。

    とはいえ、そうした似ている単語さえ使ってあれば正しい選択肢、というわけではありません。
    全く違う言葉遣いで同じ内容を表しているものが正解になっていることは多いのです。
    そういう問題は、良問だと思います。

    大学受験をするならば、このレベルの英文は知らない単語は1語もないところまで語彙力を上げてほしいとは思いますが、これは、多少わからない単語があっても、文脈を読めば正答に至ることのできる問題でもあります。
    大切なのは、1語の見た目にだまされて飛びついてしまうのではなく、文脈を把握することです。

    もう一度本文を見てみましょう。
    Learning another language makes us realize the relativity of our value.
    この文の中で、relativity の意味がわからなかったとして。
    「別の言語を学ぶことは、私たちに、私たちの価値観のナントカを理解させる」
    のナントカは、何となく想像できます。
    外国語を学ぶことの意義。
    それについて、ぼんやりとでもポジティブなイメージがあれが、それにそって選択肢を検討していきましょう。

    (1) that our value are perfect in a sence
     私たちの価値観は、イン・ア・センスで完璧だということ。
    (2) that our value are related to those in foreign countries
     私たちの価値観は、外国の価値観とナントカだということ。
    (3) that we pride ourselves on our relatives
     私たちは、私たちのナントカを誇りにしているということ。
    (4) that there are no universal or perfect values
     ナントカあるいは完璧な価値観はないということ。

    と、それぞれの選択肢も、一番難しい語句はわからないとして。
    それでも、(1)や(3) は、ないなあと判断できます。
    外国語を学ぶことで、むしろ日本が完璧だと感じたり、誇りに思うようになる?
    視野が狭くなっているだけでしょう、それでは。
    それは、ありえない。
    (2)か、(4)か。
    外国語を学ぶことでわかることは、何か?
    日本と外国と、それぞれの価値観があるということ。
    どの価値観が正しいとは言えないということ。
    そうであるならば、
    「完璧な価値観はない」
    文脈上、これが適切。
    だから、正解は(4)です。

    多くの文章を読んでいて、
    「こういう文章は大体こういう内容」
    ということを理解していると、この程度の単語力でも正解に至ることができます。

    とはいえ、単語力がもっと低い高校生も珍しくありません。
    そもそも value が何なのかわからない。
    「ほら、バリューセットってあるじゃない?」
    とヒントを出しても、
    「あ。安売り?」
    と、奇妙な連想が働いてしまい、正しい意味からさらに遠ざかってしまう子もいます。
    値段以上の価値があるからバリューセットというんだろうと思うけど?
    そう説明すると、驚いています。

    本文も選択肢も虫食いだらけで、意味がわからない・・・。
    だから、見た目の似ている語句に頼って正解らしきものを選ぶしかない。
    それが正解ではない可能性があることもわかっているけれど・・・。

    文法力・単語力に乏しく、英文を読み通すことができないので、下線部分とその前後だけ読み、それと同じような語句のある選択肢を選ぶしかない。
    中学生の頃から、英語長文に関しては、そのような解き方しかできない子は多いです。
    昔は、都立高校の入試問題は、そんな解き方でも正答できる問題が多かったのですが、今は、そんな読み方をする子を誤答させるための選択肢を故意に作ってある問題が多くなりました。
    高校入試ですら、そうなのです。
    英検の問題も、級が上がればそういう問題が大半です。
    大学入試共通テストの問題も、各大学の入試問題もそうです。

    単語を覚え、文法を理解し、本文を正確に読めるようにしておくことが、遠回りのようで、確実に正答を増やしていく道です。
    そのうえで、英文でも日本文でも、多くの文章に触れて、論説文の文脈を理解しておくと、読むのはさらに楽になります。
    「外国語を学ぶことの意義」
    という語句を見ただけで、大体どんな内容が書いてあるか、想像がつく。
    そうであれば、それが英語で書いてあっても、わからない単語が多少含まれていても、読み通すのはさほど苦痛ではありません。
    選択肢も、常識的にあり得ない選択肢は除外できます。

      


  • Posted by セギ at 14:12Comments(0)英語

    2023年02月13日

    学習したことを、覚えていない。定着しない。


    今年も都立野川公園にセツブンソウが咲きました。
    春が来ますね。
    上の画像がセツブンソウです。

    さて、生徒に授業をする際には、学校の進度を必ず訊きます。
    中学・高校ならば、テスト範囲を把握するには、まず普段の進度から。
    予習が必要な子には、学校の進度を確認しつつ予習を。
    復習中心の学習のほうが良い子にはなおさら、学校の進度の把握が必要です。

    学力の高い子は、何のために学校の進度を問われているのか、当たり前に理解しています。
    「学校は、今、何をやっていますか?」
    そう尋ねれば、要領よくスパンと返答が返ってきます。

    しかし、そうした子ばかりではありません。
    「学校は、今、何をやっていますか?」
    「今日は、数学の授業はありませんでした」
    「・・・」
    そんな応答のこともあります。

    小学生ならばまだわかるのですが、高校生でもそういう返答の子はいます。
    「・・・今日、数学の授業がなくても、昨日とか一昨日には、ありましたよね。学校の最新の授業で何を学習しましたか」
    そのように質問し直すと、ひるんだ顔をします。
    即答できず、考えこんでしまう子は多いです。

    しばらく考えたすえの返答が、
    「三角比」
    「・・・はい。三角比の、何をやっていますか」
    「・・・」
    そんな大単元の名称を答えられても、情報価値は低いのです。
    新しい単元に進んだのならわかりますが、三角比を学習していることは、先週の授業でもわかっているのです。

    「・・・テキストを開いてみましょう。どこまで進んでいますか」
    本当は学校の教科書を開けば思い出しやすいのだと思いますが、そういう子が教科書を持ってきていることは期待できません。
    学校の進度を説明するために教科書を持ってくる。
    そのように備えの良い子なら、そもそも口頭で進度を説明できるように準備してきます。
    学校の進度を即答できない子は、総じて、「塾の授業の初めに学校の進度を訊かれる」ということを覚えていないのです。
    通い始めたばかりならともかく、半年以上通っても、学校の進度を訊かれると、「そんなことを訊かれるのか!」と驚いたようなひるんだ顔になり、必死に思い出そうとし、思い出せないのです。
    そして、当然ですが、学校の進度を即答できない子は、成績自体があまりよくありません。


    なぜ、学校の進度を即答できないのか?

    まず、単純に記憶力の問題があるのでしょう。
    その日に数学の授業があった場合は、まだ思い出しやすい。
    しかし、前日の学校で、数学の授業は何をやったのかは、思い出せない・・・。
    興味がないから覚えていない。
    こうした子は、学校の授業の復習もしていないのは明白です。
    こまめに振り返らないから忘れるのも早く、定期テスト前には全て最初からやり直しとなり、テストに間に合わず、得点はふるわないのです。

    過去のことだけではなく、未来のこともあまり把握していません。
    定期テストがいつから始まるのか覚えていないのは言うまでもありません。
    祝日を把握していない子も、今は珍しくなくなりました。
    今週の土曜日に学校があるのかないのか、把握していない子もいます。
    最近では、私立入試日を間違えていた中3がいて、心底驚きました。
    いくらすべり止めでも、それくらい覚えておきましょうよ・・・。

    過去も未来もない。
    ただ一切が目の前を過ぎていきます・・・。

    いやいやいや・・・。
    まだ10代で、そのような世捨て人の境地になられても困るのです。


    記憶力以上に考えられる課題は、学校で何を学習しているのか、本人が把握できていないことだと思います。
    こちらのほうが深刻です。
    それも、さらにいくつかの場合が考えられます。

    授業内容は漠然と覚えているのだが、その授業内容を他人に伝える用語を覚えていないので、説明できない場合。
    「三角比」は覚えているけれど、「正弦定理」という名称を覚えていない。
    だから、正弦定理を学習したことを伝える方法がなく、困惑して、黙り込んでしまう・・・。
    そうした場合は、塾のテキストをパラパラとめくれば、ああこれだと思い出して説明することができます。

    さらに深刻になると、学校の授業で何をやったのか本当に覚えていないため、塾のテキストを見ても、学習したのかしないのか、わからない場合もあります。
    例題解説を聞いても、まだ思い出せない。
    自分で演習し始めて、ようやく、
    「あ。これ、学校でやりました」
    と思い出す子もいます。

    怖いのは、塾のテキストは応用問題もそれなりに含んでいますが、学校は基本問題しか解いていない場合。
    応用問題の解説ページを見て、こんなことは学習していない、と言うのです。
    しかし、さらにページをめくったその先の基本問題を実は学校ではもう学習済みかもしれません。
    何で先週と同じところで授業が停滞しているのだろう?
    行事のある時期でもないのに・・・?
    私が違和感を抱き、あれこれ問い直し、ようやく進度を確認するということもあります。


    とはいえ、学校の進度を上手く説明できない子の場合、そうしたことは保護者の方も把握しています。
    自分の子には具体的にそうした課題がある。
    一歩一歩解決していこう。
    そのように保護者の方が理解してくださっている場合は、すぐに成績が上がらないことに対しても理解していただけることが多いです。
    そして、繰り返し繰り返し授業していく中で、学校の進度は言えるようになっていく子は多いのです。


    一方、課題が表面的には見えない子がいます。
    学校の進度は説明できる。
    本人は、自分はそれなりに勉強ができると思っている。
    保護者の方もそう思っている。
    確かに、今は大丈夫。
    しかし、将来的には・・・。
    そのような懸念を感じることがあります。

    小学生の秀才にとって、小学校の学習内容は総じて平易であり、学校の授業を聞いているだけで理解できます。
    場合によっては、授業を聞いていなくても、教科書を斜め読みすれば理解できます。
    そのまま中学に進学しても、いきなり成績が低下するということもないでしょう。
    中学の学習内容も、そんなに飛びぬけて難しいわけではありませんから。
    しかし、その子は、将来、どのような進路を選ぶつもりなのか?
    基本だけ理解していればいい進路を進むのか?
    学力がある子は、その学力に応じた高い壁に挑戦することになります。
    その壁を登れるのか?

    岐路はいくつもあります。
    もっとも早い場合は、中学受験の勉強を始める小4になる春に。
    学校の勉強は、簡単に理解できます。
    しかし、中学受験の塾に通うと、これまでとは桁外れの内容を学習することになります。
    受験算数で言えば、最初の「植木算」から、そもそも難しい・・・。
    こんなレベルのことは、学校で学習しない・・・。

    ここで子どもの反応は大きく分かれます。
    面白い、と感じる子。
    こういう難しい勉強は面白い。
    脳がワクワク踊っているのを感じる。
    こういうことがやりたかった。
    本当に楽しい、という子。
    これは、問題ないですね。

    わからないから、解き方だけ暗記しようとする子。
    植木算の場合で言えば、「たす1」「ひく1」だけ、何とか覚えようとします。
    なぜそうなるのか、意味はわかっていません。
    ただ、解き方だけ覚えようとします。
    先行き不安です。
    中学受験当日まで、学習姿勢は結局そのままだった・・・という場合もあります。

    そして、わからないから、その学習内容を否定する子。
    脳が、拒否する子です。
    植木算は、よくない問題。
    自分が理解できないようなレベルの問題は、よくない問題。
    こんなことを理解する必要はない。
    当然、復習する必要もない。
    はっきり自覚しているのではなく、無意識なのだろうと思いますが、わからないことは、わからないまま、復習しないのです。
    難しい内容は、スルーしていきます。

    ただ、中学受験生の場合は、そういうわけにもいきません。
    テストが繰り返され、偏差値や順位が出ます。
    自分が否定した問題を解けなければ、はっきりと悪い結果が出ます。
    わからない問題を否定している自分が、逆に否定されます。

    しかし、私立小学校に通っている子や、公立中学の秀才に、こういう傾向が温存されることがあります。
    私立小学校の子たちは、中学に進学すれば、中学から入学してきた子たちと学力を競うことになります。
    受験生たちは、中学数学を学習してきたわけではありませんが、たとえば方程式の文章題などは見慣れた問題ばかりです。
    見慣れた問題を新しい解き方で解くようになるだけなので、問題内容を分析する能力は既に鍛えられています。
    幾何になるともっと露骨で、中学受験生は、中学の幾何の多くを既に学習しています。
    特に、「相似」の学習で大差がつきます。
    受験秀才は、相似や比の利用は、やり込んでマスターしています。

    そうしたことを恐れ、小学校ではそんなに難しいことは学習しないのではあるけれど、中学の準備のために、学校よりも少し難しいことを学習しようとすると・・・。
    大抵、脳が拒否しているような反応になります。
    学校よりも少し難しい内容は、塾の授業で解説し、宿題に出しても、解けないままなのです。
    授業中に解いた問題の類題なのに、解けないままです。

    これには、もう1つ理由があって、本人の中に「復習」という概念がないことが考えられます。
    小学校で学習する内容は簡単なので、すぐに理解しますし、忘れません。
    だから、「復習」をしたことがなく、自分に必要なことだという意識がないのです。
    塾で解いた問題で、自力では解けなかった問題を家に帰って解き直す。
    せめて、見直してから宿題を解く。
    そういうことを知らない。
    自分がそんなことをしなければならないと、理解していないのではないかと思います。

    公立の中学生もそうです。
    本人の学力は高い。
    この学力ならば、高校は自校作成校か大学付属の私立を受験することになる。
    それならば、今から難しい問題に挑戦しておく必要がある。
    そう思って、発展的テキストを渡し、発展問題を解説し、宿題に出しても、解けないまま次の授業に持ってくる子がいます。
    学校の定期テストは、そのような難問は出ない。
    今、そのレベルの問題を理解する必要はない。
    そのように無意識に判断してしまうのか、まるで脳が拒否しているかのように未定着ということがあります。
    復習する気配もありません。
    完全スルーです。
    学校で学習した内容は理解しているのですが。

    私立高校の生徒にもそういう子はいます。
    数学でも英語でも、大学入試のレベルは決まっています。
    そのレベルに到達する必要があります。
    学力の高い子ならば、基本問題だけ解いているわけにはいきません。
    しかし、学校の授業では扱わない難度の問題は、脳が拒否しているかのように未定着になってしまう子がいます。
    そもそも、塾の宿題の扱いが雑で、真剣に解いたとは思えない。
    しっかり復習している気配もない。
    学校の問題集、学校のプリントへの執着は強く、それは理解しようとしているのですが。

    とにかく学校の成績だけ良くして、学校推薦か総合型選抜で大学に行くつもりなのか?
    そういう戦略ならばそれでもいいのですが、話してみると、そうと決めているわけではないのです。
    苦手科目を放置している様子からしても、総合型選抜への意識は低い。
    自分の通っている高校から推薦で行ける大学、あるいは自分の内申で受けることの可能な総合型選抜の大学の情報を集めていない。
    あるいは、推薦や総合型選抜ではあまり高いところを望めないことは知っていることもあります。
    本人の希望はもっと高いのです。
    だから、一般受験になりそうな気配の濃い子であるのに、学校の定期テスト対策だけに執着しています。
    定期テスト対策だけの間口の狭い勉強しかしないのです。

    都立高校は、それでも、定期テストの問題も難しいことが多いのですが、中堅クラスの私立高校の定期テスト問題は、近年、変に易しいです。
    総合型選抜で大学に入りやすいよう、内申が低くならないように配慮しているのだろうかと憶測してしまうほどに。
    そうなると、難しい問題を解く必然性を本人は感じません。
    それでいて、本人の志望大学はかなり高い。
    一般受験で、国立大学、あるいは有名私立大学に進学することを考えています。
    それなのに、難問を脳が拒否し、定着しない・・・。
    能力的に絶対に無理なのであれば私も諦めるのですが、どうもそのように思えないのです。
    努力すれば理解できるのだろうに、努力している様子が見られない・・・。
    復習し、マスターしようとしている気配を感じません。

    では、どうするか?
    本人が意識的に判断しているわけではなく、無意識のレベルのことであり、「脳が拒否する」ような反応である場合は、刺激を与える必要があります。
    集団指導塾ならば、秀才を競わせます。
    成績別にクラス分けし、このクラスならこのレベルの問題を解くのは当然だ、理解できない者は下位クラスに去れと無言で要求します。
    敗北していく子も多く出ますが、勝ち抜いていく子の学力は天井知らずです。
    本人だけの判断ならば、「こんな難しい問題はマスターする必要はない」となっても、周囲の秀才が当然のように解くのならば、意識が変わります。

    しかし、集団指導塾で、トップクラスに入れない場合。
    そもそも本人がそれをわかっているので、行く気はない。
    ぬるま湯クラスでのんびりすることが目に見えているので、保護者も行かせる気がない。
    個別指導がいい。

    他の生徒と競わせることができない個別指導では、では、どうするか?
    私が説得します。
    このレベルの問題を解く必要がある。
    あなたは、それを理解していない。
    あなたに能力がないのなら、もとよりそんな要求はしない。

    言葉による説得だけではありません。
    言外の目の動き。
    口調。
    その全てで、理解すべき課題を示し続けます。
    そうすることで危機を脱し、到達すべきレベルを理解し、努力していく秀才を、全力で支援しています。

      


  • Posted by セギ at 14:06Comments(0)講師日記

    2023年02月05日

    ノートに残らない勉強。



    国語や算数・数学は、とにかく問題を解いていれば、一応勉強している形にはなりますし、それである程度までは成果が出るのも事実です。
    ノートがいっぱい埋まって、目に見える形で勉強した結果が残るので、生徒もやりがいがあるようです。

    しかし、英語や理科や社会は、問題を解くだけでは結果が出ない科目です。
    ノートに残らない勉強に時間をかける必要があります。
    しかし、そのことがわかっていない子は、なかなか成績が上がりません。

    知識が頭に入っていないのに、問題だけ解き散らかして、「わからない」「わからない」と言います。
    解説を聞いて、「あ、わかった」と言っても、類題を1人で解いたら、また間違えます。

    一時期、そういうことは減っていたのですが、基本的な知識のなさに愕然とすることが近年増えてきました。
    「ゆとり教育」の再来を感じます。

    ゆとり教育は、インプットよりもアウトプットに重点の置かれた時代でした。
    しっかりとした考えや意見ではなく、浅い思いつきや感想しか口に出せない子が、それでも授業態度は評価された時代でした。
    アウトプットさえできればいい。
    そのため、知識が身についていない子が、大量に現れてしまいました。
    「これは、大切だから、覚えて」と言うと、
    「ええっ!覚えるんですかああああ?」
    と、論外のことを言われた、みたいな顔をする子がいた時代でした。

    実際、彼らは、暗記の仕方というものを、びっくりするほど知りませんでした。
    覚えるべきことを口の中で唱えて、見ないで言ってみる。
    時間をおいて、また自分にテストを繰り返す。
    そうしたことができず、漫然とテキストを眺めているだけなのに、暗記しているつもりでいる子の多かった時代でした。
    今、再びその時代が始まっているような気がします。

    いや、正確にはそうではないのでしょう。
    もの覚えがよく、しかもアウトプット能力の高い子たちも多いのです。
    一方、学校の授業についていけない子も多い。
    格差が広がっているのを感じます。

    理科や社会を中学三年生に教えていると特に感じることですが、データの読み方を知らない子がいます。
    特に、グラフの読み方がわからないようです。

    私自身が通った中学校は、「元祖アクティブラーニング」といった授業を行う中学校でしたから、例えば地理の授業は、その地域、あるいはその国の主な生産物のデータを読んで、気づいたことを発表するのが授業の基本的な仕組みでした。
    そして、なぜその産業が盛んなのか、地理的・歴史的背景を考察しました。
    そうした授業で得た地理の知識は、生きた知識でした。

    ただ、その授業が万能ではないことも、私は知っていました。
    そうした授業に積極的に参加し、生きた知識を得ることができるのは、一定以上の学力のある子だけでした。
    小学校からの内部進学の子の多くは、そうした授業についていけず、何のために何をやっているのか理解していないようでした。
    アクティブラーニングは、その授業を行う先生の教材研究や資料の準備も大変であるうえ、授業の実際の展開も大変です。
    なおかつ、知力の高い子にしか効果がないことがあります。
    授業に参加できない生徒を多数出してしまうのです。

    現在の公立中学校で行われているアクティブラーニングは、そういうものではなく、「アクティブラーニングもどき」のこともあります。
    例えば、プリントの穴埋めをグループに分かれてやっているだけなのです。
    教科書から答を探して埋めるだけです。
    勉強のできる子がさっさと見つけた正解を、勉強のできない子が教わって埋めるだけのグループ学習をアクティブラーニングと称しているだけ。
    教えている先生が、アクティブラーニングを体験したことがないから、そんなふうになってしまうのか?
    いえ。
    公立の学校の先生は、じっくり教材研究をする時間を与えられていないので、そうなってしまうのだろうと思います。

    とはいえ、そのプリントは貴重です。
    そのプリントを暗記すれば、定期テストは何とかなるでしょう。
    教科書の要点をまとめてくれていますから。
    本当のアクティブラーニングをやった場合、テストに何が出るのかわからない子が多数出てしまう可能性があります。
    アクティブラーニングもどきのほうが、それよりはましであるのかもしれません。

    そもそも勉強のできる子は、どんな授業を受けていても、家で問題を解くことで、グラフや資料の読み取り方を自力で学びます。
    しかし、勉強が苦手な子は、同じ問題を解いてもそうしたことを習得できません。
    グラフをどう読んでどう活用するのか、驚くほど知りません。
    データの変化を読む、あるいは他のデータとの違いを読むという基本に気づいていません。
    それを問題を解くことに活かすということも知りません。
    教えても、教えても、次の問題を解くときにはそれを忘れてあてずっぽうで解いてしまいます。

    「この帯グラフの輸送用機械の生産高の割合は他の帯グラフと比べて高いですね。
    それはこの帯グラフが中京工業地帯のものである証拠です」
    と解説しても、ポカンとしています。
    まず、輸送用機械というのが何であるか、わからない。
    それが他のグラフと比べて高いとか低いとか、そういう観点でグラフを見る習慣がないので、わからない。
    中京工業地帯の産業の特徴も知らない。
    覚えていない。
    だから、あてずっぽうで問題を解くしかないのです。

    理科のほうが、まだ、知識をダイレクトに使うだけだから、解き方も覚えられるし、得点が上がる。
    社会は、まじでわからない・・・。
    そんな子もいます。

    勉強に関するセンスが悪いということもあるかもしれません。
    歴史なら、知識をダイレクトに使うだけだから、得点源にできるのではないか?
    そう思うのですが、選択肢を時代順に並べるだけの問題も正解できません。

    「アの選択肢の時代がわかるキーワードは何でしょう?」
    そう問いかけると、
    「京都」
    と答えたりします。
    「京都・・・。京都は平安時代から今までずっと存在していますから、それで時代は特定できないと思いますよ?」
    と言うと、ひるんだ顔をし、そして実際、時代を間違えています。
    「人物名はどうですか。地名以外の固有名詞がいいですよ。イの選択肢の時代がわかるキーワードは何でしょうか?」
    「公家諸法度」
    「ほお。それは何時代ですか?」
    「平安時代」
    「・・・公家だからですか?もっとわかりやすいキーワードがいくつも入っていますよ?」
    「・・・」
    知識がないので、キーワードがキーワードに見えないのでしょう。
    キーワードを問われて何か答えるのも、あてずっぽうなのかもしれません。


    言語化されない部分、ノートに残らない部分に学習の神髄があります。
    しかし、そこにアクセスできない子たちがいます。
    それでも、受験という大きな課題の中で学力が変容する子を多く見てきました。
    本当にギリギリの土壇場で、問題を解くというのは何をどうすることであるか理解し、覚醒した子たちもいます。



      


  • Posted by セギ at 20:05Comments(0)講師日記