たまりば

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2021年01月28日

高校英語。仮定法未来。


今日は未来のことを表す仮定法です。

まずは、助動詞 should を用いる用法から。
例文を見てみましょう。

If his aunt should die, he would be the last person to bear that family name.
万が一彼のおばさんが亡くなったら、彼はその姓を名乗る最後の人間になるだろう。

未来のことなら、事実に反するも反しないもないんじゃないの?
そんな疑問もあるかと思います。
しかし、実現の可能性の低い未来のことを話す場合、この仮定法を用います。
これは微妙な話で、全く実現不可能なことでは、この用法は使いません。
実現の可能性の高いことでも、この用法は使いません。
「万が一の仮定」と呼ばれるのは、そのためです。

仮定法未来を苦手とする人が多いのは、1つには、こうした用法の微妙さにあるのでしょう。
実現の可能性が低いとは、実際どの程度なのかわからない。

そして、もう1つは、if 節に助動詞 should を用いることで、今まで学習したこととの混乱が起こることに原因があるようです。
助動詞の過去形は、仮定法のどこに使ったらいいんだっけ?
そのあたりがもともと曖昧になっている人ほど、混乱が起こりやすいようです。

とはいえ、実際の文法問題では、ごくわかりやすい用例しか問題として作られないので、そんなに心配することはありません。
この用法があることを忘れていなければ、大丈夫なのです。
解けないのは、この用法を忘れてしまうからです。
「何だかもう、脳がいっぱいいっぱい」
という間違った感覚にふりまわされて、仮定法未来についての知識を脳にとどめることをやめてしまうようです。
こんな大切な文法事項を捨ててしまっていいわけがない。
そういう意識で脳に押し込めば、まだまだ脳に入ります。
脳の記憶容量は無限です。

とにかく、「万が一の仮定」の場合は、if 節に助動詞 should を用いる。
助動詞の後ろは、動詞原形。
だから、if 節は、If+主語+should+動詞原形。
そして、主節は、普通の仮定法過去です。
主語+would +動詞原形。
そういう把握で大丈夫です。

ただし、仮定法未来の場合、主節の助動詞は、will も許容されています。
・・・ああ、また例外的なやつじゃん。もう本当に嫌だ。
そんなこと、言わないで。
どうせ、最も出題される形式は、空所補充問題か四択問題ですから。
( ) にshould を入れればいいだけの問題が多いのです。
あとは、長文読解をする際に、「この should は何だろう?」と悩まずに、「あ。万が一の仮定だ」と理解できれば良いのです。

If I should fail, I will try again.

こうした気持ちで、臨みましょう。


さて、この should とセットで覚えたいのが、were to の用法ですが、こちらのほうがさらに曖昧模糊としています。
まずは例文を見てみましょう。

If you were to win the lottery, what would you do?
もし仮に宝くじに当たるようなことがあったら、どうしますか。

この were to は、助動詞のようなものとしてみれば、とりあえず、構造はわかりやすいと思います。
助動詞ですから、were to の後ろは、動詞原形となります。
If+主語+were to+動詞原形。
形はこれでよいですが、では意味はどうなのでしょう。

文法テキストには、「未来の事柄についての仮定」「『仮に~すれば』という、実現の可能性のある仮定」と説明されています。
・・・わからない。
これでは、直説法の if 節とどう違うのか、あるいは仮定法の should とどう違うのか、わからない・・・。
実際の were to の用法は、上のような説明をする他はない、幅のある、曖昧なものです。
しかし、ここは、受験英語として、特に should との使い分けにしぼって考えましょう。

文法問題では、どういう扱われ方をするのか?
were to は、「議論のための仮定」ととらえると、わかりやすいです。

仮に~だとすれば、・・・だろう。

「仮定の話にはお答えを差し控える」
という紋切り型の答弁が予想できそうな、あれですよ。

If we were to lose the secret of making fire, what would happen?
仮に私たちが火を起こす秘訣を忘れたとしたら、どうなるだろうか。

If I were to fail again, my boss might fire me.
仮に私がもう一度失敗したら、上司は私をクビにするかもしれない。

何かを仮定して、それに対して推論を述べる。
何かを仮定して、それに対する意見を求める。
文法のテスト問題における were to は、ひたすらこの用法です。
だから、そういうものとして区別しておけばテストは大丈夫です。

実際の英語では、were to と should は、意味の重なる部分も多く、また、were to のほうが should よりも口語的で柔らかい、と評する意見もあります。
しかし、それでは識別できないので、意味の重なる部分の出題は、テストでは避けるのです。
「万が一」のときは、should。
「仮に~ならば」のときは、were to。
と、識別がわかりやすいようになっています。



大学入試の出題形式は、変わりつつあります。
国際学科や英語学科など、英語を学ぶ本流といえる学科の入試ほど、文法問題の出題は減り、読解が中心となっています。
先日行われた共通テストもそうでしたね。

そうした出題形式では、were to と should の使い分け問題など出るはずがありません。
本来の、意味の重なる部分も理解した上での把握で大丈夫な時代が始まっています。

しかし、それは、文法を学ばなくてよい時代の到来、ということではないと思います。
中学生に英語を教えていても、文法を無視して英文を読む子は、内容を理解できないのです。

My uncle in New York will take my brother and me to the zoo.

この英文はどういう意味なのかを問うと、
「私のおじと兄と私は、ニューヨークの動物園の写真を撮るでしょう」
といった、雑な解釈をする子がいます。

英文の構造を把握せず、目についた単語を拾って適当に意味を作りあげる「妄想和訳」は、英語学習の初期から始まります。
この英文の誤訳の最大の原因は、take+人+to+場所「誰々をどこそこに連れていく」という表現を知らないことにあるでしょう。
その構造が見えていないのです。
take の意味は「取る」。
それしか覚えない。
英語と日本語は1対1の対応。
意味は1つしか覚えない。
そういう頑なな子がいます。
ただ、take+人+to+場所 という用法を理解しても、どこの部分が「人」で、どこの部分が「場所」かよくわからない、長いとわからない、という子も多いです。
英語を意味のまとまり、すなわち「句」に分解してとらえることができないのです。
意味のまとまりというのは、「意味」という言葉を使っていても、実は文法的な把握だからです。

My uncle / in New York / will take / my brother and me / to the zoo.
主語・修飾語・動詞・目的語・修飾語。
こうした意味のまとまり、すなわち「句」は、意味からではなく、文法的に区切っているものだからです。
各品詞の種類と働き、そして文の成分と5文型を理解していないと、「意味のまとまりで区切る」ということ自体が曖昧でよくわからないものになってしまうのです。

英文解釈については、気の毒な誤解もあります。
英語を日本語に転換する際に、どうしても語順は変わります。
それは言語の構造が異なるから当然そうなるのですが、言語に対する意識の低い子は、何をどのように転換しているのか、その仕組みが理解できません。
だから、自分も適当に順番を変えていいと思うようなのです。
目立つ単語を適当に拾って読む自分の読み方が間違っているということが、うまく呑み込めません。
「正しい訳」と呼ばれるものも、適当に単語を拾って順番を変えているようにしか見えないのでしょう。
本人としては、正しい訳の真似をしているつもりなのです。

英文の1つの基本は、
主語・動詞・目的語・様態の修飾語・場所の修飾語・時の修飾語。
誰々が・何々する・何々を・どのように・どこで・いつ。

この語順であり、その部分ごとに意味を取るんだよ、と繰り返し説明しても、苦しくなると、文の別の位置から単語を拾ってきて、勝手に組み合わせます。

何が原因かといえば、文法の基礎が本人の中にないことに尽きるのです。
日本語の文法がわかっていない。
英語の文法もわからない。

時代は変わりつつありますが、文法の学習が不要と思うのは間違っています。
むしろ正確でスピーディーな読解のためにこそ、文法は必要です。
英文の構造がわかっていれば、あとは単語の意味さえわかれば、英文はサクサクと読み進めることができるのです。



  


  • Posted by セギ at 12:28Comments(0)英語

    2021年01月25日

    高校数Ⅱ「図形と方程式」。円の方程式。2円の交点を通る円。




    さて、数Ⅱ「図形と方程式」の学習の続きです。
    まずは、こんな問題から。

    問題 2つの円x2+y2=25・・・①、x2+y2-4x-4y+3=0・・・② について
    (1) 2円の交点の座標を求めよ。
    (2) 2円の交点を通る直線を求めよ。
    (3) 2円の交点と点(-1,0)を通る円の方程式を求めよ。

    (1)は、2つの式を連立すればよいですね。
    ①-②より、
    4x+4y-3=25
    4x+4y=28
    x+y=7
    これをyについて解きます。
    y=-x+7・・・③
    ③を①に代入して、
    x2+(-x+7)2=25
    x2+x2-14x+49=25
    2x2-14x+24=0
    x2-7x+12=0
    (x-3)(x-4)=0
    x=3,4
    これを③に代入して、
    x=3のとき、y=4
    x=4のとき、y=3
    よって、交点の座標は、(3,4),(4,3)

    (2)は、(1)の答を使えます。
    交点の座標が(3,4),(4,3)だから、
    交点を通る直線の方程式は、
    y-4=(3-4)/(4-3)・(x-3)
    y=-x+3+4
    y=-x+7

    この解き方は、高校数Ⅱで学習した2点を通る直線の公式を利用しています。
    久しぶりに直線の方程式を求めると、高校で学習した公式を忘れていて、中学生の解き方に戻ってしまう子がいます。
    中学生の解き方でも正解は出ますから構わないといえば構わないです。
    しかし、中学生の解き方の中でも、傾きをまずさっと求める方法ではなく、y=ax+bに代入して連立方程式を立てて解くという、手間のかかる方法しか身についていない子もいます。
    時間がかかります。
    解き終わった頃には、自分が何のために何をやっていたのかわからなくなっていたりします。
    あるいは、解き方がわからなくて問題集の解答解説集を読んだとき、突然立てられている式の意味がわからず、自学自習が難しい子もいます。

    高校生に数学の個別指導をする場合、本人に十分な基礎力があり、塾としてはその子の実力と志望校に合わせて教材を選ぶことが重要で、授業は解法のブラッシュアップが中心、という場合も多いです。
    その一方、中学生に高校数学を教えるような状態であることもまた多いです。
    数ⅠAの間は、中学生の知識の子に数ⅠAを教えるのは、普通のことです。
    数Ⅱや数Bに進んでも、本人の学力・知識が中学生のまま変わらない、ということがあるのです。
    数学に興味がない子は、定期テストが終わると、公式も解法も全て忘れてしまうのです。
    完全にリセットされていて、数Ⅱの勉強をするようになっても、知識も技能も中学生のままです。
    生徒はその状態であるのに、数Ⅱで新しく出てくる公式の数は、ちょっと異常なほど多い。
    定期テストが終わる度に知識を消去しリセットする自分を肯定しているようですらあった子が、数Ⅱになると、覚えようとしたところで覚えられず、数学の勉強をするだけで気持ちが暗くなり、自覚なく涙がこぼれる、ということも起こります。
    あまりにもわからなすぎて、身体が反応するのでしょう。
    そうなったら、助けが必要です。
    自学自習は、無理です。
    ネットの授業動画や記事を検索しても、自分の今の疑問に直接答えてくれるものはどこにもない。
    そんな状態になったら無理に自学自習をせず、直接質問できる方法を探してください。


    問題に戻ります。
    (3)も、(1)で求めた2点の座標プラス、問題で与えられた(-1,0)を通る円、すなわち3点を通る円の方程式の求め方を利用できます。
    (3,4),(4,3),(-1,0)の3点を、x2+y2+ax+by+c=0に代入します。
    点(3,4)を通るから、
    9+16+3a+4b+c=0
    すなわち、
    3a+4b+c=-25・・・④
    点(4,3)を通るから、
    16+9+4a+3b+c=0
    すなわち、
    4a+3b+c=-25・・・⑤
    点(-1,0)を通るから、
    1-a+c=0
    すなわち、
    -a+c=-1・・・⑥
    ④×3-③×4
      9a+12b+3c=-75
    -)16a+12b+4c=-100
     -7a    -c=25・・・⑦
    ⑥+⑦
    -8a=24
    a=-3・・・⑧
    ⑧を⑥に代入して、
    3+c=-1
    c=-4・・・⑨
    ⑧,⑨を④に代入して、
    -9+4b-4=-25
    4b=-25+13
    4b=-12
    b=-3

    よって、求める円の方程式は、
    x2+y2-3x-3y-4=0


    さて、ここまでは、自力でも思いつくことができる、基本の解き方です。
    これで構いませんが、やはり何だか作業が多かったですね。
    解くのに時間がかかります。
    もっとスマートな解き方はないでしょうか?

    あります。
    例のkを用いた恒等式を利用する方法です。

    例のk?

    少し前になりますが、このブログの、「高校数Ⅱ『図形と方程式』。直線の方程式の求め方。その6。恒等式の利用」というページで解説しました。
    https://seghi.tamaliver.jp/e476697.html

    これを活用すれば、もっと簡単に(2)、(3)を求めることができます。

    2円の交点を通る曲線は、
    k(x2+y2-25)+x2+y2-4x-4y+3=0
    と表すことができます。

    これは、kについての恒等式です。
    この式が、kの値が何であれ成立するためには、
    x2+y2-25=0、かつ、x2+y2-4x-4y+3=0
    が成り立つことが必要です。
    すなわち、この恒等式は、x2+y2-25=0、かつ、x2+y2-4x-4y+3=0 が成り立つ曲線上の点のxとyとの関係を示しています。
    それは、2円の交点を通る曲線の方程式だということです。

    この恒等式をじっと見てみると、気づきます。
    k=-1 のときは、計算するとx2とy2の項が消えます。
    xとyと定数項だけの式となります。
    それは、すなわち、直線の式だということです。

    つまり、
    k(x2+y2-25)+x2+y2-4x-4y+3=0
    は、
    k=-1のとき、
    2円の交点を通る直線の式。
    k‡-1のとき、
    2円の交点を通る曲線の式。

    これを利用すると、(2)は、以下のように解くことができます。 

    -(x2+y2-25)+x2+y2-4x-4y+3=0
    25-4x-4y+3=0
    -4x-4y+28=0
    x+y-7=0

    (3)は、以下のように解くことができます。

    2円の交点を通る曲線の式を、
    k(x2+y2-25)+x2+y2-4x-4y+3=0・・・④
    と表す。
    これが(-1,0)を通るから、
    k(1-25)+1+4+3=0
    -24k=-8
    k=1/3
    これを④に代入して、
    1/3(x2+y2-25)+x2+y2-4x-4y+3=0
    x2+y2-25+3x2+3y2-12x-12y+9=0
    4x2+4y2-12x-12y-16=0
    x2+y2-3x-3y-4=0

    これが答となります。

      


  • Posted by セギ at 11:53Comments(0)算数・数学

    2021年01月20日

    久しぶりに散歩してきました。2021年1月。


    2021年1月17日(日)、歩いてきました。
    三鷹駅南口から、まずは玉川上水沿いに、井の頭公園方向に進みました。
    冬枯れの道。
    人も少なく、静かです。
    紅葉に見とれることもなくなり、足元に目を落とすと、おや、三鷹市のマンホールには、ポキの絵が描いてあります。
    ポキは、着ぐるみがあるらしいけれど、三鷹市内の行事にしか出没しないので、三鷹市以外に住む人で知っている人はほとんどいないかもしれません。
    ご当地キャラクターのイベントに参加したという話を聞いたことがありません。
    では、ポキの存在意義とは何だろう?
    三鷹市のキャラクターといっても、三鷹市を宣伝する意図を感じない・・・。

    と考えていると、片耳イヤホンで聞いていたラジオは、「マンションポエム」という、マンションの広告に掲載されているポエムのような宣伝文の収集家がゲストでした。
    人気のある土地にあやかった宣伝文の例を話しています。
    「広尾をまとう西麻布」
    ・・・確かに、何だそれは?
    そんな例の1つ。
    「『吉祥寺の奥座敷』。下連雀でしょう、そこは」
    「三鷹ですね」

    ちょうど考えていたこととシンクロし、歩きながら独りで笑うという気持ちの悪い状態になってしまいました。
    いや、三鷹は、住みたい街ランキングで上位に入っているのです。
    吉祥寺にあやからなくても、大丈夫なんです。

    しかし、先日、中学生に、
    「学校以外で、あなたの家の近くの自慢できる場所を3つの英文で書きなさい」
    という課題を出したところ、久しぶりの白紙で驚きました。
    テーマによって全く書けなくなることのある子ですが、このテーマは書きやすいでしょうに。
    なぜ、何も浮かばないの?
    太宰治って、知ってます?
    野川は?
    井の頭公園は?

    そんなことを思い出しているうちに、万助橋。
    信号を渡り、玉川上水緑道に入りました。
    落ち葉が踏みしだかれ、細かくなって道に積もり、今、1年でもっとも道がフカフカの季節かもしれません。
    やわらかーい。
    やがて腐葉土となっていく柔らかい道を踏みしめて進みました。
    右手に見える広大な運動場に、人影はまばら。
    寒いからか、ランナーもほとんど通りません。
    静かです。

    ここから舗装道路になるというところでUターンし、対岸を歩きました。
    こちらも道はフカフカ。
    井の頭第二公園も、人の姿はありませんでした。
    ここは、いつ来ても、人より木の数のほうが多いです。
    静かな、林の公園。

    駐車場までいったん戻って、そこから、井の頭公園へと向かいました。
    木立の中を通り、舗装道路を渡ると、池が見えてきました。
    日曜ということもあり、そこそこ人がいましたが、2メートルの距離は保てました。
    池を半周。
    神田川の水源からは、神田川に沿って歩いていきました。
    ここも、しばらく川のほとりに土の道が続きます。
    川沿いは寒いかなあと思いましたが、どこも寒いので、特にここだけが寒いという印象はありませんでした。
    12月に歩いた頃よりは1枚多く着込んで、手袋もしての散歩です。

    ここも、この先は舗装道路になる、というところでUターン。
    対岸を歩いて戻り、再び井の頭公園内へ。
    カモが来ていて、それを撮影する人が群がっていました。

    しばらく進むと、スイセンが咲いていました。
    もうそんな季節ですね。
    冬枯れの中で、春を待たずに咲く花。
    撮影していて、気がつきました。
    花の向こうに、陸に上がって何かつついている鳥がいます。
    丸々太っています。
    これもカモかな?
    随分と余裕のある様子です。
    できるだけ近づいて、撮影してみました。
    上の画像がそれです。

    井の頭公園内も、土の道を選び、のんびり歩きました。
    山野草の植えられた斜面の石段。
    立札が立つのみで、まだどの草の姿もありません。

    再び万助橋。
    信号待ちをしていると、ウーバーイーツの配達員の自転車が通り過ぎていきました。
    今日見かけたのは、これで5人目。
    12月に歩いたときには、1人も見ませんでしたが。
    日曜のお昼どきで、特に利用者が多い時間帯なのでしょうが、本当に流行しているのですね。
    配達員が人員過剰となり競争が起きていると、何かで見ました。
    コロナ禍で、アルバイト先が限られているのも影響しているのでしょうか。
    何もかも、早く、元に戻るといいのですが。

    コロナ禍が去ったら、何をしよう。
    それはもう、山へ。
    まず、高尾山へ行こう。
    そんなことを思いながら、三鷹駅へと歩きだしました。


      


  • Posted by セギ at 12:45Comments(2)

    2021年01月18日

    高校英語。仮定法。as if の用法。


    as if+仮定法の表現は、印象的だからか、身についている人が多いです。
    「as if+仮定法」と「as though +仮定法」は同じ用法で、区別をしなくても大丈夫です。
    例文から見ていきましょう。

    She felt as if she were in a dream.
    彼女はまるで夢の中にいるように感じた。

    「as if +仮定法」は、このように、比喩表現です。
    事実としては、彼女は夢の中にいるわけではありません。
    しかし、夢の中にいるように感じた。
    そのように比喩を表現する際、それは事実に反するので、仮定法を用います。

    前にも書きましたが、仮定法は時制の一致の例外です。
    この文は、主節の動詞が過去だから、as if 節も過去形になっている、ということではないのです。
    as if 節が過去形なのは、仮定法だからです。
    また、主節が過去形なのだから、主節よるさらに1つ古い時制の過去完了形にしなればならない、ということもありません。
    主節が現在形だろうと過去形だろうと、その主節の時制での事実に反する比喩をするとき、仮定法過去を用います。

    He talks as though he knew everything.
    彼は、まるで全てを知っているかにように話す。

    事実としての彼は、全てを知っているはずがありません。
    しかし、そのように話す。
    これは比喩です。
    だから仮定法過去を用いています。


    比喩内容が、主節の動詞が示すときよりも前の事柄を示す場合は、as if の後ろは、仮定法過去完了となります。

    She looks as if she had seen a ghost.
    彼女はまるで幽霊を見たかのようだ。

    幽霊を「過去」に見てきたような顔を「今」している、のです。

    She looked as if she had seen a ghost.
    彼女は、まるで幽霊を見たかのようだった。

    これは、幽霊を「大過去」に見てきたような顔を「過去」にしていた、のです。

    これが、「今」幽霊が見えているような顔ならば、
    She looks as if she saw a ghost.
    彼女は幽霊を見ているかのようだ。
    となります。

    主節の時制のその「過去」のときに幽霊が見えているような顔をしていたのならば、
    She looked as if she saw a ghost.
    彼女は、幽霊を見ているかのようだった。
    となります。

    仮定法は、時制の一致の例外。
    そのようにとらえると、スッキリ理解できると思います。


    さて、ここからは、細かいところを。

    as if の後ろは、実は仮定法ではない場合もあります。
    事実に反しているわけではなく、普通に様子を説明するときです。

    It looks as if it's going to rain.
    雨が降りそうだ。

    雨が降るだろうことは、別に事実に反する仮定というわけではありません。
    その場合、as if の後ろは普通の時制で語ります。

    とはいえ、「雨が降りそうだ」なら、もっと短い表現がありましたよね。
    It looks like rain.
    これで、十分です。

    それとの混同があったのか、
    It looks like it's going to rain.
    も、口語英語として認められています。
    like は前置詞ですからその後ろは句がくるはずなのに、節がきています。
    明らかに、混ざってますね。
    言語とは、そのように変化していくものです。


    そして、もう1つ。
    as if の後ろは、仮定法の節ではなく、不定詞でも大丈夫です。

    She made as if to throw a ball at me.
    彼女は私にボールをぶつけるようなふりをした。

    不定詞ならば時制を気にしなくてよいので、これは便利。
    実際にはぶつけなかったでしょうから、仮定の話でしょう。
    She made as if she threw a ball at me.
    と書き換えることが可能です。


      


  • Posted by セギ at 11:01Comments(0)英語

    2021年01月13日

    問題文を正確に読む。


    主に中学生で、成績が何となくふるわない場合、そのことで悩んでいるのは、本人ではないことが多いです。
    いえ、悩んでいないわけでもないのでしょうが、見当違いのことで悩んでいる、といったほうが正確かもしれません。
    本人が自覚すれば直るレベルのことを直さないでいるからそうなっている、という場合が多いからです。
    こうすれば成績が上がる、という方法を教えられても、それに従うことができないのです。
    大人が教える「成績を上げる方法」は、地道な努力を強いるものが多いからでしょう。
    そんなのではなく、もっと自分らしく楽しいやり方で成績を上げたい。
    だから、大人に指摘されたことを、「的外れ」と感じてしまいます。
    聞き入れる必要がないと、本人は判断しています。
    そういう場合が多いです。

    それの筆頭が、「問題文を正確に読みなさい」という指摘。
    何度言われても、その通りにできない子は多いのです。

    問題文を正確に読む。
    例えば、こんな問題。

    問題「9で割ると3あまり、13で割ると11あまる数があります」

    この問題文を「9で割ると13あまる」と誤読し、問題を解いてしまうのです。
    9で割って13あまるわけがないのに、何を読んでいるのだろう・・・。
    問題文を流し読みし、途中を合体させてしまうのです。

    また、こんな問題。

    問題 半径10㎝で中心角60度のおうぎ形の面積は、同じ半径の円の面積の何倍か。

    ある生徒の答えは、「1/3倍」でした。
    なぜ?
    しかし、当の生徒は自信満々で、悠然と構えていました。
    こうした「自信満々」も、問題を正確に読めない子によくある傾向です。
    思い込みが強いのだろうと想像されます。
    「違いますね」と言われたときに、自分の答を再検証する習慣がなく、反射的に「相手が間違っている」と思ってしまうようです。
    独りで勉強しているときは「問題集の解答が間違っている」と思ってしまうのでしょう。
    私が「あ、違った。それで正解でした」と言うのを待っているからでしょう。話が通じにくい。
    普通なら、2往復くらいの会話で誤答の原因が判明しますが、10往復しても、解決の目途がたたないこともあります。

    それでも諦めないのが個別指導塾です。
    10往復してダメなら20往復して、ようやく誤答の原因がわかりました。
    問題文の「同じ半径の円の面積の何倍か」を、「同じ半円の面積の何倍か」と読み間違えていたのです。
    「同じ半径の円」を「同じ半円」と詰めて読んでいたのです。
    そんな誤読・・・。
    言葉も出ない私に対し、その子は、自分のそうした失敗は、一刻も早く忘れる、相手も忘れるべきだ、なかったことにしようとするように、すました顔をしていました。
    恥ずかしいからだとは思うのですが、実際にすぐ忘れてしまうので、同じことを繰り返します。


    あるいは、こんな問題。
    直方体の平行な辺や垂直な辺を指摘する基本問題でした。

    問題 右の直方体の辺ABと垂直な辺をすべてあげなさい。また、辺BCと辺GHはどのような関係にあるか、記号を用いて答えなさい。

    その子の答は、「AB⊥BC」でした。

    今度のミスの原因はすぐにわかりました。
    その子は問題文を、
    「右の直方体の辺ABと垂直な辺を記号を用いて答えなさい」
    と省略して読んでいたのです。

    一般に、問題文の途中に「また」という接続詞があることに気づかない子は多いです。
    「また」があるのだから、この問題文には、設問が2つある。
    そのことに気づかず、1つの答しか書かない子は、珍しくありません。
    解答用紙があり、解答欄がある場合は途中で何とか気づくのですが、テキストを読んでノートに解いている状態ではまず気づかない。
    問題文を斜め読み、拾い読みして、2つの問題を混同させて1つの答しか書かない。
    誤読の標本として記録に残したいほどの誤読です。

    こうした子たちは、なぜ、こんな読み方をしてしまうのでしょうか。
    幼い頃に、たちの悪い速読教室にでも通ったのでしょうか?
    それは冗談ですが、1文字1文字を文字の「粒」として丹念に読む習慣がなく、2行くらいのまとまりとして、ざっと斜めに読んでしまうのではないかと想像します。

    こうした子たちは、当然のことながら、潜在的な学力はかなり高いのに、国語の成績が悪いです。
    他の科目の成績も、パッとしません。


    小学校では、それで通用していたのかもしれません。
    問題文なんか、斜め読みでも大丈夫です。
    小学校で学習する問題文は定型化していて、ちゃんと読まなくても内容は大体わかります。
    だから、6年間で、斜め読みする癖がついてしまったのでしょう。

    そして、勉強するとき以外に、文字を読む習慣がなかったことが大きいのだと思います。
    読書は好きじゃない。
    進んで本を読むことがない。
    活字を読み進めることにそもそも精神的抵抗がある。
    それは1つの苦役である。
    そういう子が、学力の高い子にも案外多いのです。

    不思議なことに、誤読の多い子は、音読すると、文字を正確に読むことができる子が大半です。
    音読は上手なのです。
    速く、正確です。
    しかし、黙読すると、斜め読みをします。
    わずか1行の算数・数学の問題文すら斜め読み、拾い読みをする。
    それが習慣化しています。

    むしろ頭の回転が速いことがネックになっているのではないか・・・。
    小学校で手を抜くことを覚えてしまったのではないか?
    そのうえで、残念ですが、本人に知的好奇心が足りないのだと思うのです。
    小学校で秀才気分でいることで、満足だった。
    それ以上の知的な刺激を必要としなかったのです。

    頭の回転が速いというのは、ただ情報処理が速いというだけのことです。
    知的好奇心に乏しいが、情報処理能力だけは高いという場合もあります。
    知的な興味を広げていくことはないのです。

    こうした子が小学校の高学年から中学生になると、自我が発達しますので、勉強をサボるようになっていくことがあります。
    ちょっとくらいサボっても、頭はいいので、学校の授業についていくことは何でもありません。
    テストはまあ失敗するけれど、それはそのうち、何とかなるから大丈夫。
    今は、そんなことよりもっと楽しいことをやりたい。
    成績はパッとしませんが、どこかで「自分は大丈夫」と思っています。


    近年、発達障害またはそのグレーゾーンの生徒が増えている、という見方があります。
    本当に増えているのかどうか、私にはわかりません。
    医者ではないので、本当に発達障害なのかどうかの診断もできません。
    ただ、理解の遅い子、話の通じにくい子、忘れ物が多い子、物の管理をうまくできず教材を紛失することがある子ということなら、昔も今も存在する、とは感じています。
    そして、私の経験に限定しての話ですが、そうした子は、勉強をサボることは少ないのです。
    興味がないから勉強しないとか、自分はもっと楽しいことをやりたいとか、そういう判断をしている様子を感じたことがありません。
    勉強はするのが当たり前で、そのことに関しては、全くぶれないのです。

    理解の遅い子は、勉強に対して、倦まずたゆまず努力する子が多いです。
    「なぜ勉強しなければならないのか」といった疑問を抱くことがありません。
    苦手な科目だからやらないとか、楽しくないことはやりたくない、といった余計なことも考えません。
    そういうことで勉強を区別する気持ちも忌避する気持ちもなく、目の前のことを努力し続けます。

    そして、これは、非常に勉強に向いている姿勢なのです。
    学習内容を好きか嫌いかといった判断はしません。
    目の前の問題が簡単か難しいかといった判断もしません。
    淡々と解くだけです。
    簡単な問題だからなめてかかるということもないし、難しい問題だからといって嫌がったりもしません。
    そういうことに感情が入りません。
    感情がないわけではありません。
    勉強するときに感情的になることがないというだけです。

    不思議なことですが、突出して知能の高い子、理解力の高い子も、同じ反応であることが多いのです。
    目の前の問題を淡々と解きます。
    簡単な問題だからとなめてかかって失敗するということがありません。
    問題を斜め読みして誤読する、といった失敗もしません。
    易しい問題も正確に読み、正確に答えます。
    反応は無機質で、正確です。
    易しい問題と難しい問題を区別して態度を変えるということがありません。
    その子にとっては、全て、易しい問題だからかもしれません。
    易しいことを丁寧に処理していくのが、勉強。
    そのような学習習慣がついているのだろうと想像されます。


    その結果、学校の成績は、突出して知能の高い子がトップなのは間違いないとしても、理解の遅い子、話の通じにくい子が、その次に成績が良いということが起こり得ます。
    本人のモチベーションにブレがないのですから、あとは理解できるようにかみくだいて教えるだけ。
    どの子も、順調に伸びていきます。

    伸び悩むのは、やはり、本人の学習意欲に課題のある子です。
    そこそこ頭の回転は速いのに、その知能に見合った成績を取れない子です。

    そうした子は、本人が判断していることが多すぎるのかもしれません。
    しかも、それは幼く稚拙な判断であることが多いです。
    頭の回転が速くても、まだ子どもですから、視野は狭く、判断は甘い。
    本人が判断しないほうがいいことを判断しているので、「つまらない勉強はしない」といったことになりかねません。
    そして、子どもらしい楽天性で、「何とかなる」と思っています。
    受験は、それほど甘いものではないのですが、その厳しさに気づいたときには手遅れになっています。

    何年も前、そうした子を教えたことがあります。
    理解力はあり、何でも一度の説明ですんなり理解しました。
    しかし、宿題は適当でした。
    ちょっと難しい問題は、「わからなかったー」と言って解いてきませんでした。
    わからないのではなく、難しいから考えたくなかっただけだろう、と私は内心思っていました。
    問題の誤読もきわめて多い子でした。
    とはいえ、易しい基本問題なら解けるから、自分はそれで大丈夫。
    そんなふうに自信満々で、しかし、成績はパッとしませんでした。


    変化は、高校受験を意識した頃に起こりました。
    知的好奇心が低いということは、「世間」に疎いということでもありました。
    自分の成績で入れる高校がどのようなレベルのものであるかを、知らなかったのです。
    謎の自信を持っていましたから、都立自校作成校を受けるつもりでいたのでした。

    え?
    その成績で?

    子どもの頭の良さを感じていたからでしょうか、勿論、保護者の方もそのつもりのようでした。
    両親とも東京出身ではなく、その子が第一子であるため、東京の受験事情や、高校のランクということも知らなかったようでした。

    何とかしなければならない。
    力がつくのなら、その方向で。
    現実を知り、諦めることができるのなら、その方向で。
    私は、判断を留保し、とにかく、レベルを知ってもらうため、都立自校作成校の過去問を解かせました。
    古い過去問を。
    特に国語を。

    そのなかに、評論を読む問題がありました。
    長い歴史の中でスクラップ&ビルドを繰り返してきた日本人のアイデンティティがどうのこうのといった小難しい評論でした。
    しかも80字程度の記述問題が何問もありました。
    解けるわけがありませんでした。
    斜め読みでは、わかるわけがない。
    精読しても、わからないかもしれない。
    世の中には、そういう文章があります。
    しかし、同世代で、それを読める子も存在するのです。

    ・・・面白いことが起こりました。
    呆れるほど頓珍漢な内容でしたが、80字をとにかく埋めてきたのです。

    「アイデンティティって、何かわかりますか?」
    「・・・わからない」
    「うん。文章の後ろに注があるけれど、読んだ?」
    「読んでない」
    「うん・・・。読んでみようか?」
    とりあえず黙読しました。
    「わかった?」
    「わからない・・・」
    「そうだねえ。難しいねえ。アイデンティティというのは、ひらたく言えば、自分が自分であることの根拠」
    「・・・」
    「自分が自分であることを証明するための根底にあること」
    「・・・」

    無理だろうとは思いながら、その後、記述問題の書き方、特に推敲の仕方を教えました。
    いくら教えても、それを活用しない子が大半です。
    記述問題は、40字程度でも「長すぎる」と感じ、とにかくマス目を埋めるための水増し答案を書く子が多いのです。
    水増しですから、正答とされる要件を満たしていません。
    正答の要件として必要な要素が例えば3つあるとして、1つを水増しして40字にして、それで何か書いた気になる子のほうが多いです。
    いや、それすらできず、記述は空欄にしてしまう子のほうがもっと多いのでもありますが。

    その子は、推敲した答案を書き上げました。
    最初は下手でもいいのです。
    書く限り、確実に一歩ずつ伸びます。
    その子は、それをやりました。

    その上で、その子はつぶやきました。
    「この文章、面白い」
    「え?」
    「アイデンティティって、何か聞いたことがあったけど、初めて使い方がわかった」

    おそらく、評論というものを読んだ経験がほとんどない子だったのだと思います。
    読んだことがあるのは、教科書の文章のみ。
    自然を保護し、環境を守りましょう、とか。
    人と人とのつながりは大切ですよ、とか。
    それは確かにそうだろうけれど、当たり前すぎて、何の面白みもなく、何の刺激もない内容を我慢して読むのが国語の勉強。
    難しい文章とは、そういうもの。
    そんな意識だったのかもしれません。

    しかし、現代の評論は、そのようなレベルでとどまっているものではありません。
    高校入試問題ですら、エッジが効いています。
    効きすぎて、常識に反することが書いてあることもしばしばです。
    私たちの固定観念を破壊する力があるのが、現代の評論です。

    その面白さが、わかったのかもしれません。
    その後も、自ら進んで誰かの評論集を読むということはありませんでした。
    新聞も読んでいなかったと思います。
    しかし、国語問題を読むことを楽しむようになっていました。
    当たり前のことが書いてある平凡な文章のときは、つまらないと文句を言ったりもしました。
    文章を読んで、問われてもいないのに感想を口にするようになったのです。
    それにつれ、くだらない読み間違いは減っていきました。
    文字を丁寧に読んでいくようになったのだと思います。


    その子は、社会や理科の成績もパッとしませんでした。
    覚えるべきことを覚えないからそうなっていました。
    覚えようとして、努力して、努力して、それでも覚えられないのなら、仕方ありません。
    興味がないから、覚えない。
    そうした幼稚な考えで、ろくに勉強していなかった様子でした。

    覚えるべきことは覚える。
    そのうえで、理由も考える。
    中3は、そのような勉強ができるちょうどよい時期だったということもあったと思います。
    例えば、中1の理科では、物質の性質は、ただ実験をしてその結果を覚えるだけです。
    なぜ、この実験で酸素が発生するのか?
    なぜ、水素が発生するのか?
    その理由は明かされません。
    中3になると、その理由を学ぶことができます。
    ただ暗記するのではなく、根拠がある。
    それでも、まだ詳しい説明は中学の学習範囲ではないものもあります。
    「高校では、さらに詳しく学習できます。なぜ水素イオンが+で、銅イオンが2+なのかは、高校で学習できますよ」
    興味を持てば、高校で学習することを楽しみにするようにもなりました。

    高校入試という具体的な目標があったこと。
    知的な刺激に反応できるようになっていたこと。
    その2つが大きかったと思います。
    成績は順調に上がっていきました。


    高校に合格し、保護者の方からの挨拶のメールは嬉しいものでした。
    「授業中に先生と話すのが、面白かった」
    と、本人が言っていたというのです。

    私は、授業で冗談を言うことは少ないです。
    近年は特に、笑える授業などは目指していません。
    「面白かった」というのなら、それは学習した内容が知的に面白かったからでしょう。

    もともと知能は高かった。
    しかし、それは単に情報処理速度が速かっただけだった。
    そのための慢心から、むしろ、誤読や誤解が多く、成績が悪かった。
    その子が、知的に目覚めたのでした。

    驚異的な伸びで志望校に合格したということだけでなく、その子は、深く記憶に残る生徒です。

      


  • Posted by セギ at 13:02Comments(2)算数・数学

    2021年01月08日

    高校数Ⅱ「図形と方程式」。円の方程式。2円の位置関係。


    さて、今回は、2円の位置関係に関する問題です。

    問題 円x2+y2=9 ・・・①
        x2+y2-10x+k=0 ・・・②
       が、共有点を持つようなkの値の範囲を求めよ。

    さて、これも、ピンとこなかったら、自分で図を描いてみると良い問題です。
    円x2+y2=9 は、中心が原点、半径が3の円です。
    これは、確定していますので、描くことができます。
    確定しているものは、迷わず描くことです。
    「問題の解き方がわかってから、図を完成させる」
    と誤解している人がいるのですが、完成したイメージがあるのなら、図を描く必要はないのです。
    わからないから図を描く。
    自分の助けになる図を描く。
    前にも書きましたが、問題というのは1つのカタマリではないのです。
    分割し、分析して解いていきます。

    わかる部分だけでも解いてみる。
    そうやって、問題の核心に迫っていきます。

    しかし、そのようなアプローチをしたことがなく、「全てか0か」になってしまう人は、図を描くということも、「何も描かないか、完成した図を描くか」になってしまうようです。
    図は、自分が考えるために描きます。
    考える材料としての図なので、わかることだけ、まず図にしていきます。

    座標平面上に、x2+y2=9 の円をとりあえず描いてみましょう。
    そして、考えます。
    この円と共有点を持つ円というのは、どういうものだろう?
    そこで気づきます。
    もう1つの円の式も、どんな円なのかわかるように、整理しておかなければ。

    x2+y2-10x+k=0
    (x-5)2+y2=-k+25

    この円の中心は(5,0)だとわかりました。
    x軸上にあります。
    x2+y2=9 の中心は原点ですから、中心間の距離は5であることがわかります。

    また、②の円の半径は、√(-k+25)
    この半径が伸び縮みすることで、x2+y2=9 の円と共有点を持ったり持たなかったりするのだと気づきます。

    2円の位置関係については、覚えられるのなら覚えたら良いのです。

    定理としては、
    2円の半径をr1、r2、2円の中心間の距離をdとするとき、
    2円が外にあって共有点をもたないとき、
    d>r1+r2
    2円が外接するとき、
    d=r1+r2
    2円が交わるとき、
    |r1-r2|<d<r1+r2
    2円が内接するとき、
    d=|r1-r2|
    一方が他方に含まれ、共有点を持たないとき、
    d<|r1-r2|

    しかし、これをただ丸暗記するのは、大変です。

    上の問題で実際に考えてみましょう。
    円②の半径が一番小さくて、それでも①の円と共有点を持つ場合を考えてみます。
    円①の右に円②があり、2円が接している場合がそうですね。
    接しているので、2円の半径の和は、2円の中心間の距離です。
    すなわち、d=r1+r2 ということです。
    3+√(-k+25)=5 のときが最小です。

    また、円②の半径が一番大きくて、それでも①の円と共有点を持つ場合を考えてみます。
    円②が本当に大きくて、円①を含みこんで接している場合がそうでしょう。
    その場合、円②の半径から円①の半径を引いた値が2円の中心間の距離となります。
    え?
    と思う人は、実際に図を描いてみて、r1、r2を書き込んでみてください。
    それはそうだなと、気づきます。
    一般化するとき、r1、r2のどちらが大きいかわかりませんから、|r1-r2|とすれば、大きいほうから小さいほうを引いた差となります。
    すなわち、内接するとき、d=|r1-r2| です。
    √(-k+25)-3=5 のときが最大です。

    3+√(-k+25)=5 より
    √(-k+25)=2
    -k+25=4
    -k=-21
    k=21

    √(-k+25)-3=5 より
    √(-k+25)=8
    -k+25=64
    -k=39
    k=-39

    よって、
    -39≦k≦21
    これが、答です。

    このように分けて解くと案外シンプルなのですが、問題集はそのように解いていないことが多く、解答解説の意味がわからない、という質問を受けることがあります。
    最大・最小の場合を考えるところまでは自力でできたとしても、解答の、
    √(-k+25)-3≦5≦√(-k+25)+3
    という不等式の意味が、よくわからないというのです。

    大小の感覚がそこで歪む、ということがあるのかもしれません。
    √(-k+25)-3は、最大の値。
    √(-k+25)+3は、最小の値。
    だから、
    √(-k+25)+3≦5≦√(-k+25)-3
    なのではないか?
    というのです。

    それは感覚的な誤解なのですが、一度誤解するとなかなか解決しないことがあります。
    √(-k+25)-3は、最大の値ですから、最大で5です。
    だから、√(-k+25)-3≦5
    √(-k+25)+3は、最小の値ですから、最小で5です。
    だから、5≦√(-k+25)+3
    これを1つの不等式にすると、
    √(-k+25)-3≦5≦√(-k+25)+3
    です。

    また、不等式の意味はわかったけれど、その後の計算が上手くいかない、という人もいます。
    確かに、少し解きにくい。
    これは、いったん分けて解いてみましょう。
    √(-k+25)-3≦5より、
    √(-k+25)≦8
    また、
    5≦√(-k+25)+3より、
    2≦√(-k+25)
    よって、
    2≦√(-k+25)≦8
    となります。
    全体を2乗して、
    4≦-k+25≦64
    -21≦-k≦39
    -39≦k≦21
    これが答です。

    問題集の解答解説がそのようになっているからといって、無理して真似する必要はないと思います。
    自分がわかるように解くことが大切。
    どのように解いているか適宜解説を加えた答案を完成させるならば、最初のほうの解き方で何も問題ありません。

      


  • Posted by セギ at 12:37Comments(2)算数・数学

    2021年01月05日

    山の本を読みました。河野啓『デス・ゾーン』。



    2018年5月にエベレストで滑落死した栗城史多さんを描いた、ノンフィクションです。
    先月、Twitterで繰り返しプロモーションが流れてきたので、そういう本が出版されたことを知りました。
    開高健ノンフィクション賞を受賞。
    プロモーションの内容と書評から見て、栗城史多さんをただ称賛する内容ではないようです。
    読んでみようかな、と思いました。

    こんなにプロモーションをしているから、書店で平積みされていると思い込んでいた私は、どこを探してもそんな本はないことにまず軽く驚きました。
    先月、まだ発売して間もない頃だったのですが。
    書店の検索機で検索をかけて、書棚に1冊だけ入っていることを知り、ようやくその本を見つけました。
    たまたま、私が入った書店がそうだったというだけのことかもしれません。
    しかし、世間は栗城史多を忘れたのかもしれない、と感じました。
    生前、一番良かった時期の彼をもてはやした人たちは、今、彼の名前を憶えているのでしょうか。

    私が栗城史多という人の存在を知ったのは、おそらく2000年代の後半、日曜日の午後に見たドキュメンタリー番組でした。
    北海道在住の20代の若者が、七大陸最高峰の登頂を目指している、という内容でした。
    山岳会に所属していない。
    訓練を積んだわけでもない。
    若さと勢いで、七大陸最高峰に挑戦している。
    そして、その登山の様子を映像に撮って、配信している・・・。

    そのときで、もう三座か四座は登頂していたようでした。
    それは、北海道のテレビ局が制作したドキュメンタリーでした。
    この本の著者は、そうしたドキュメンタリーを制作したディレクターの1人だそうです。
    私が見たのは、この人の制作した番組だったのか、別の局の番組だったのか。
    今となっては、それを確かめようもありません。
    山の番組は、気に入ればDVDやブルーレイに録画保存しますが、その番組は保存しませんでした。
    保存する価値を感じなかった。
    番組にするほど価値のあることをやっている人かなあ、という印象でした。

    七大陸最高峰登頂ということが、登山としては特にどうという価値のないことでした。
    簡単か難しいかと言われれば、それは簡単なことではありません。
    しかし、登山として価値があるかないかと問われると、今どき、もうそんなことに価値はないのです。
    誰かがやってしまっていることの後追いは、「冒険」ではありません。
    「日本百名山全山登頂」の難関バージョンに過ぎません。
    それは、スタンプラリーです。

    しかし、栗城史多の名は、その後も、メディアでときどき目にするようになりました。
    登山のことを理解しているとは思えないメディアばかりでした。
    あまり興味がないので、斜め見するだけだったり、見なかったり。
    だから、彼が、「七大陸最高峰・無酸素単独」を強調していたことを、この本で初めて知りました。

    無酸素?
    ・・・バカなの?

    もともと、8000m以下では、酸素ボンベは使いません。
    エベレスト以外の六大陸最高峰に、酸素ボンベを使って登る人はいません。
    必要ないからです。
    そして彼は、七大陸最高峰の中で唯一8000mを超えるエベレストには登れていない。
    エベレストの標高は、8849m。
    彼は、一度も8000m地点を越えられず敗退しています。
    では、「七大陸最高峰無酸素」を標榜するって、何なんでしょう?
    素人をだまして凄いと思わせる、詭弁だったのでしょうか?

    「単独」に関しても、撮影クルーやシェルパやスタッフを多数雇い、他人が整備したハシゴやフィクスロープを使う彼の登山形態が「単独」であるとは到底思えないのです。

    しかし、興味がないので、彼が活躍していた当時、私は「既に六大陸最高峰は無酸素単独で登頂している」という彼の詭弁を知りませんでした。
    登山界が彼を黙殺しているのは、ひとえに、七大陸最高峰登頂には、もう今どき騒ぐ価値がないからだと認識していました。
    練習のためにそういう山に登るのもいい。
    その上で、どこに登るか?
    誰も登ったことのない、どこの壁に、どのようなスタイルで挑戦するか。
    先鋭的登山は、そういうものだと思います。

    登山を知らない人には、それが伝わりにくい。
    メディア、特にテレビは、六大陸最高峰に登った映像を持っている彼を持ち上げたのでしょう。
    映像的に魅力がありますから。
    「夢の共有」「冒険の共有」と銘打って、高所を登る映像を配信する。
    その映像を楽しむ人々もいる。
    登山としての価値はないけれど、その映像が人々に望まれるものであるなら、それはそれでいいんじゃないか。
    私はそう思っていました。
    そのようなことを何年も前にこのブログにも書いています。

    そのブログに対して知人からコメントがありました。
    栗城さんのやっている動画配信ということに対して好意的であることに、私は違和感を抱きました。
    彼の熱狂的ファンからのコメントというのではなかったのです。
    私の普通の知人が、普通に彼を称賛する方向に傾く。
    そういうものなのかもしれない、と感じました。

    深夜に何となく見ていたトーク番組のことも印象に残っています。
    雑誌「岳人」の編集者で、自分の食べるものを猟などで得ながら山を歩くという独自の山歩きスタイルを本にまとめた人がゲストでした。
    芸人さんが、質問していました。
    「栗城史多さんのことをどう思いますか?」
    それに対するゲストの答は、
    「彼は、マラソンで言えば市民ランナーみたいなレベルの人ですよ」
    「えー?ほんまですかあ?」
    まるで信じていない口調でした。
    その会話は、それで終わりました。
    登山を知る人と、登山を知らない人との断絶は深い。
    それは、説明しても、多分、伝わらない。
    そう感じた場面でした。

    山岳雑誌『山と渓谷』2018年7月号に、栗城史多さんがエベレストで亡くなったことが記事として載りました。
    それで、私は彼の死を知りました。
    あれほど黙殺していた山岳雑誌が、初めて彼の名を記したのは、彼の死亡記事でした。
    しかし、彼が亡くなってもなお、それは称賛記事ではありませんでした。

    NHKスペシャル『冒険の共有』が放映されたのが、2019年4月。
    栗城さんが亡くなって約1年後のことでした。
    栗城史多という人物を描くという意味では、あの番組が全てで構わなかったのかもしれません。
    彼の冒険を持ち上げるような内容ではありません。
    しかし、全否定する内容でもありませんでした。
    その番組は、録画保存し、今も見直すことがあります。

    そもそも私は、彼が何度エベレストに挑戦したのかさえ、この本を読むまで知りませんでした。
    六大陸の最高峰を登った後、2009年から始まったエベレスト登山。
    2009年チベット側ノーマルルート、7850m地点で敗退。
    2010年ネパール側ノーマルルート、7550m地点で敗退。
    2011年ネパール側ノーマルルート。カラスに荷物を荒らされたことを理由に敗退。
    2012年、西稜ルートで、右手の親指を除く9本の指を失う凍傷。敗退。

    そうするうちに、最初は称賛一色だったネットの反応は、強い批判を伴うものに変わっていったそうです。
    敗退を繰り返すうちに、ファンは徐々に離れていきました。
    会費を取って、会員のみが見られるコンテンツを配信する。
    クラウドファンディングで資金を集める。
    企業からの援助を受ける。
    そのような形で資金を集めて登っていた彼にとって、人の心が離れていくのは、死活問題だったと思います。

    2015年ネパール側ノーマルルート敗退。
    2016年西稜ルート7400m地点で敗退。
    2017年ネパール側7200m地点で敗退。
    2018年南西壁滑落死。

    ネパール側ノーマルルートでは、登山者が列をなす。
    無酸素では待ち時間が苦しいし、映像としても面白いものにならない。
    初年のそういう判断はわかります。
    2年目は、諦めて、ネパール側ノーマルルートからの登山を試みています。
    しかし、なぜ、その後、西稜ルートや南西壁などの難しいルートに挑んだのか?
    「素人登山者」「市民ランナー」という評価を覆したかったのか?
    彼が得たかったのは、登山を知らない一般人からの称賛とビジネスへの足がかりだったのか?
    それとも、玄人からの評価と名誉だったのか?
    「七大陸無酸素単独」などと口走っている限り、玄人からの評価はありえないことに、彼は気づいていなかったのか?
    それとも、自分を批判する玄人すら登れない壁を登ることで、批判をねじ伏せたかったのか?

    初年か2年目に、晴天と体調に恵まれて、ひょっこり登頂していたら、彼の人生はどうなっていたのでしょう。
    それで登山はやめてしまい、講演活動やテレビ出演などをこなし、そのうち、他人の夢に乗っかるビジネスを立ち上げて、それなりに成功していたのでしょうか。
    ネット内に有料のサロンを開き、何かあればクラウドファンディングを立ち上げて資金を募る。
    そうした形のビジネスを成功させている人たちの仲間入りをしたのかもしれません。
    しかし、エベレストは、それを許しませんでした。
    敗退を繰り返すうち、エベレストは、彼にとって登れるはずのない山に変わっていったように思います。
    敗退に失望し、離れていくファンたち。
    あざ笑うネットの人々。

    社会的承認。

    それを渇望し、それを利用し、それに振り回され、それによって死に追いやられた人。

    しかし、それを私は批判できるだろうか?

    『冒険の共有』というNHKのドキュメンタリーが、描きだしたのは、しかし、そこまででした。
    この本、『デス・ゾーン』は、さらにその深淵が描かれています。
    そこには、もはや共感することも難しい、彼の生の姿がありました。
    ・・・これは、ひどい。
    「七大陸無酸素単独」だけでも、かなりひどいと思ったけれど、さらにひどい。
    これは、ダメだろう・・・。
    読んでいて、そう思うことの連続でした。
    こういうことをOKだと思ってしまう精神性の人だったのか・・・。

    これでは、エベレストは彼を許さない。
    ときに、「市民ランナー」にも微笑みかけ、人生最大の「冒険」に勝利を与えてくれるエベレストも、彼のことは、許さなかった。

    いや、彼自身が、エベレストに登れる身体を作れなかった。
    自らそれを選んでいた。
    それだけのことだったのかもしれませんが。

    年始に読む本ではなかったかもしれません。
    既に亡くなっている人ということもあり、今さら彼の精神性を批判する気にはなれません。
    心の中に彼の墓標が立つような気持ちで読み終えました。
    私は彼の名前を覚えていよう。
    そんなふうにも思う本でした。


      


  • Posted by セギ at 19:44Comments(0)

    2021年01月01日

    高校英語。仮定法。I wish +仮定法。


    あけましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いいたします。

    さて、新年への願いをこめて、今回は、I wish ~の文を。
    といっても、仮定法の I wish なので、実現不可能な願望になってしまうのですが。

    I wish+仮定法。
    wish という動詞は、「願う」「強く望む」という意味です。

    まずは例文から。
    (1) I wish I knew her telephone number.
    (2) I wish I had known her telephone number.
    (3) I wished I knew her telephone number.
    (4) I wished I had known her telephone number.

    さて、この4つ、文法的には全て正しい英文です。
    意味はどう異なるのでしょうか?

    「I wish+仮定法」は実現不可能な願望を述べる文です。
    仮定法ですから、時制は実際よりも1つ古くなります。

    (1) I wish I knew her telephone number.
    これは、仮定法の部分が過去形であることから、現在の事実に反する願望だということがわかります。
    現在の事実に反することを現在願っているのです。
    だから、意味は、
    「彼女の電話番号を(今)知っていればなあ」
    となります。

    (2) I wish I had known her telephone number.
    これは、仮定法の部分が仮定法過去完了であることから、過去の事実に反する願望だということがわかります。
    過去の事実に反することを現在願っているのです。
    だから、意味は、
    「彼女の電話番号を(過去のあのとき)知っていたらなあ」
    となります。

    ここまでは比較的楽に理解できるのですが、ここから、少し混乱します。

    (3) I wished I knew her telephone number.
    これは、単なる時制の一致の文のようにも見えます。
    主節が過去形のとき、that 節も時制の一致で過去形にするのが時制の一致です。
    しかし、仮定法なら、主節の動詞よりさらに1つ古い時制にしなければならないのではないか?
    大過去にするのが、仮定法なのでは?
    ・・・いいえ、それをすると、その先に困ってしまうことがあるのです。

    仮定法は、もともと1つ古い時制をあえて用います。
    時制の一致も、主節の動詞にあわせてその時制になります。
    それが二重に重なると、「大過去」の「過去」、「大々過去」といった時制が必要になりますが、英語にはそのようなものは存在しません。
    だから、時制の一致と仮定法が重なったときは、表面上は時制の一致が起こっているように見えるが、実際には時制の一致は起こっていない。
    仮定法で時制を決定している、とするとわかりやすいです。

    (3) の従属節は、主節の動詞は過去。
    時制の一致が起こり、従属性も過去形。
    しかし、意味から考えれば、これは明らかに仮定法。
    主節の時制(過去)の事実に反する仮定です。

    したがって、意味は、
    「私は彼女の電話番号を知っていればなあと思った」
    となります。

    (3) が理解できると、(4) もわかりますね。

    (4) I wished I had known her telephone number.

    主節は過去形。
    従属節は大過去。
    これは仮定法として、主節の時制よりも1つ前の時の事実に反する仮定を表します。
    すなわち大過去の事実に反する願望となります。
    「私は彼女の電話番号を(大過去のあのときに)知っていたらなあと、(過去のそのとき)思った」
    という意味になります。


    「過去にああだったらなあ」という願望を抱きたくなる気持ちもわかりますが、できるなら、これからのことを願いたい。
    入試は、まだ未来。
    未来は変えられます。
    しかし、その未来も、あっという間に過去になります。
    悔いのないように、入試までの期間を過ごしてください。

      


  • Posted by セギ at 12:33Comments(0)英語