たまりば

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2021年01月05日

山の本を読みました。河野啓『デス・ゾーン』。

山の本を読みました。河野啓『デス・ゾーン』。


2018年5月にエベレストで滑落死した栗城史多さんを描いた、ノンフィクションです。
先月、Twitterで繰り返しプロモーションが流れてきたので、そういう本が出版されたことを知りました。
開高健ノンフィクション賞を受賞。
プロモーションの内容と書評から見て、栗城史多さんをただ称賛する内容ではないようです。
読んでみようかな、と思いました。

こんなにプロモーションをしているから、書店で平積みされていると思い込んでいた私は、どこを探してもそんな本はないことにまず軽く驚きました。
先月、まだ発売して間もない頃だったのですが。
書店の検索機で検索をかけて、書棚に1冊だけ入っていることを知り、ようやくその本を見つけました。
たまたま、私が入った書店がそうだったというだけのことかもしれません。
しかし、世間は栗城史多を忘れたのかもしれない、と感じました。
生前、一番良かった時期の彼をもてはやした人たちは、今、彼の名前を憶えているのでしょうか。

私が栗城史多という人の存在を知ったのは、おそらく2000年代の後半、日曜日の午後に見たドキュメンタリー番組でした。
北海道在住の20代の若者が、七大陸最高峰の登頂を目指している、という内容でした。
山岳会に所属していない。
訓練を積んだわけでもない。
若さと勢いで、七大陸最高峰に挑戦している。
そして、その登山の様子を映像に撮って、配信している・・・。

そのときで、もう三座か四座は登頂していたようでした。
それは、北海道のテレビ局が制作したドキュメンタリーでした。
この本の著者は、そうしたドキュメンタリーを制作したディレクターの1人だそうです。
私が見たのは、この人の制作した番組だったのか、別の局の番組だったのか。
今となっては、それを確かめようもありません。
山の番組は、気に入ればDVDやブルーレイに録画保存しますが、その番組は保存しませんでした。
保存する価値を感じなかった。
番組にするほど価値のあることをやっている人かなあ、という印象でした。

七大陸最高峰登頂ということが、登山としては特にどうという価値のないことでした。
簡単か難しいかと言われれば、それは簡単なことではありません。
しかし、登山として価値があるかないかと問われると、今どき、もうそんなことに価値はないのです。
誰かがやってしまっていることの後追いは、「冒険」ではありません。
「日本百名山全山登頂」の難関バージョンに過ぎません。
それは、スタンプラリーです。

しかし、栗城史多の名は、その後も、メディアでときどき目にするようになりました。
登山のことを理解しているとは思えないメディアばかりでした。
あまり興味がないので、斜め見するだけだったり、見なかったり。
だから、彼が、「七大陸最高峰・無酸素単独」を強調していたことを、この本で初めて知りました。

無酸素?
・・・バカなの?

もともと、8000m以下では、酸素ボンベは使いません。
エベレスト以外の六大陸最高峰に、酸素ボンベを使って登る人はいません。
必要ないからです。
そして彼は、七大陸最高峰の中で唯一8000mを超えるエベレストには登れていない。
エベレストの標高は、8849m。
彼は、一度も8000m地点を越えられず敗退しています。
では、「七大陸最高峰無酸素」を標榜するって、何なんでしょう?
素人をだまして凄いと思わせる、詭弁だったのでしょうか?

「単独」に関しても、撮影クルーやシェルパやスタッフを多数雇い、他人が整備したハシゴやフィクスロープを使う彼の登山形態が「単独」であるとは到底思えないのです。

しかし、興味がないので、彼が活躍していた当時、私は「既に六大陸最高峰は無酸素単独で登頂している」という彼の詭弁を知りませんでした。
登山界が彼を黙殺しているのは、ひとえに、七大陸最高峰登頂には、もう今どき騒ぐ価値がないからだと認識していました。
練習のためにそういう山に登るのもいい。
その上で、どこに登るか?
誰も登ったことのない、どこの壁に、どのようなスタイルで挑戦するか。
先鋭的登山は、そういうものだと思います。

登山を知らない人には、それが伝わりにくい。
メディア、特にテレビは、六大陸最高峰に登った映像を持っている彼を持ち上げたのでしょう。
映像的に魅力がありますから。
「夢の共有」「冒険の共有」と銘打って、高所を登る映像を配信する。
その映像を楽しむ人々もいる。
登山としての価値はないけれど、その映像が人々に望まれるものであるなら、それはそれでいいんじゃないか。
私はそう思っていました。
そのようなことを何年も前にこのブログにも書いています。

そのブログに対して知人からコメントがありました。
栗城さんのやっている動画配信ということに対して好意的であることに、私は違和感を抱きました。
彼の熱狂的ファンからのコメントというのではなかったのです。
私の普通の知人が、普通に彼を称賛する方向に傾く。
そういうものなのかもしれない、と感じました。

深夜に何となく見ていたトーク番組のことも印象に残っています。
雑誌「岳人」の編集者で、自分の食べるものを猟などで得ながら山を歩くという独自の山歩きスタイルを本にまとめた人がゲストでした。
芸人さんが、質問していました。
「栗城史多さんのことをどう思いますか?」
それに対するゲストの答は、
「彼は、マラソンで言えば市民ランナーみたいなレベルの人ですよ」
「えー?ほんまですかあ?」
まるで信じていない口調でした。
その会話は、それで終わりました。
登山を知る人と、登山を知らない人との断絶は深い。
それは、説明しても、多分、伝わらない。
そう感じた場面でした。

山岳雑誌『山と渓谷』2018年7月号に、栗城史多さんがエベレストで亡くなったことが記事として載りました。
それで、私は彼の死を知りました。
あれほど黙殺していた山岳雑誌が、初めて彼の名を記したのは、彼の死亡記事でした。
しかし、彼が亡くなってもなお、それは称賛記事ではありませんでした。

NHKスペシャル『冒険の共有』が放映されたのが、2019年4月。
栗城さんが亡くなって約1年後のことでした。
栗城史多という人物を描くという意味では、あの番組が全てで構わなかったのかもしれません。
彼の冒険を持ち上げるような内容ではありません。
しかし、全否定する内容でもありませんでした。
その番組は、録画保存し、今も見直すことがあります。

そもそも私は、彼が何度エベレストに挑戦したのかさえ、この本を読むまで知りませんでした。
六大陸の最高峰を登った後、2009年から始まったエベレスト登山。
2009年チベット側ノーマルルート、7850m地点で敗退。
2010年ネパール側ノーマルルート、7550m地点で敗退。
2011年ネパール側ノーマルルート。カラスに荷物を荒らされたことを理由に敗退。
2012年、西稜ルートで、右手の親指を除く9本の指を失う凍傷。敗退。

そうするうちに、最初は称賛一色だったネットの反応は、強い批判を伴うものに変わっていったそうです。
敗退を繰り返すうちに、ファンは徐々に離れていきました。
会費を取って、会員のみが見られるコンテンツを配信する。
クラウドファンディングで資金を集める。
企業からの援助を受ける。
そのような形で資金を集めて登っていた彼にとって、人の心が離れていくのは、死活問題だったと思います。

2015年ネパール側ノーマルルート敗退。
2016年西稜ルート7400m地点で敗退。
2017年ネパール側7200m地点で敗退。
2018年南西壁滑落死。

ネパール側ノーマルルートでは、登山者が列をなす。
無酸素では待ち時間が苦しいし、映像としても面白いものにならない。
初年のそういう判断はわかります。
2年目は、諦めて、ネパール側ノーマルルートからの登山を試みています。
しかし、なぜ、その後、西稜ルートや南西壁などの難しいルートに挑んだのか?
「素人登山者」「市民ランナー」という評価を覆したかったのか?
彼が得たかったのは、登山を知らない一般人からの称賛とビジネスへの足がかりだったのか?
それとも、玄人からの評価と名誉だったのか?
「七大陸無酸素単独」などと口走っている限り、玄人からの評価はありえないことに、彼は気づいていなかったのか?
それとも、自分を批判する玄人すら登れない壁を登ることで、批判をねじ伏せたかったのか?

初年か2年目に、晴天と体調に恵まれて、ひょっこり登頂していたら、彼の人生はどうなっていたのでしょう。
それで登山はやめてしまい、講演活動やテレビ出演などをこなし、そのうち、他人の夢に乗っかるビジネスを立ち上げて、それなりに成功していたのでしょうか。
ネット内に有料のサロンを開き、何かあればクラウドファンディングを立ち上げて資金を募る。
そうした形のビジネスを成功させている人たちの仲間入りをしたのかもしれません。
しかし、エベレストは、それを許しませんでした。
敗退を繰り返すうち、エベレストは、彼にとって登れるはずのない山に変わっていったように思います。
敗退に失望し、離れていくファンたち。
あざ笑うネットの人々。

社会的承認。

それを渇望し、それを利用し、それに振り回され、それによって死に追いやられた人。

しかし、それを私は批判できるだろうか?

『冒険の共有』というNHKのドキュメンタリーが、描きだしたのは、しかし、そこまででした。
この本、『デス・ゾーン』は、さらにその深淵が描かれています。
そこには、もはや共感することも難しい、彼の生の姿がありました。
・・・これは、ひどい。
「七大陸無酸素単独」だけでも、かなりひどいと思ったけれど、さらにひどい。
これは、ダメだろう・・・。
読んでいて、そう思うことの連続でした。
こういうことをOKだと思ってしまう精神性の人だったのか・・・。

これでは、エベレストは彼を許さない。
ときに、「市民ランナー」にも微笑みかけ、人生最大の「冒険」に勝利を与えてくれるエベレストも、彼のことは、許さなかった。

いや、彼自身が、エベレストに登れる身体を作れなかった。
自らそれを選んでいた。
それだけのことだったのかもしれませんが。

年始に読む本ではなかったかもしれません。
既に亡くなっている人ということもあり、今さら彼の精神性を批判する気にはなれません。
心の中に彼の墓標が立つような気持ちで読み終えました。
私は彼の名前を覚えていよう。
そんなふうにも思う本でした。




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