たまりば

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2021年01月13日

問題文を正確に読む。

問題文を正確に読む。

主に中学生で、成績が何となくふるわない場合、そのことで悩んでいるのは、本人ではないことが多いです。
いえ、悩んでいないわけでもないのでしょうが、見当違いのことで悩んでいる、といったほうが正確かもしれません。
本人が自覚すれば直るレベルのことを直さないでいるからそうなっている、という場合が多いからです。
こうすれば成績が上がる、という方法を教えられても、それに従うことができないのです。
大人が教える「成績を上げる方法」は、地道な努力を強いるものが多いからでしょう。
そんなのではなく、もっと自分らしく楽しいやり方で成績を上げたい。
だから、大人に指摘されたことを、「的外れ」と感じてしまいます。
聞き入れる必要がないと、本人は判断しています。
そういう場合が多いです。

それの筆頭が、「問題文を正確に読みなさい」という指摘。
何度言われても、その通りにできない子は多いのです。

問題文を正確に読む。
例えば、こんな問題。

問題「9で割ると3あまり、13で割ると11あまる数があります」

この問題文を「9で割ると13あまる」と誤読し、問題を解いてしまうのです。
9で割って13あまるわけがないのに、何を読んでいるのだろう・・・。
問題文を流し読みし、途中を合体させてしまうのです。

また、こんな問題。

問題 半径10㎝で中心角60度のおうぎ形の面積は、同じ半径の円の面積の何倍か。

ある生徒の答えは、「1/3倍」でした。
なぜ?
しかし、当の生徒は自信満々で、悠然と構えていました。
こうした「自信満々」も、問題を正確に読めない子によくある傾向です。
思い込みが強いのだろうと想像されます。
「違いますね」と言われたときに、自分の答を再検証する習慣がなく、反射的に「相手が間違っている」と思ってしまうようです。
独りで勉強しているときは「問題集の解答が間違っている」と思ってしまうのでしょう。
私が「あ、違った。それで正解でした」と言うのを待っているからでしょう。話が通じにくい。
普通なら、2往復くらいの会話で誤答の原因が判明しますが、10往復しても、解決の目途がたたないこともあります。

それでも諦めないのが個別指導塾です。
10往復してダメなら20往復して、ようやく誤答の原因がわかりました。
問題文の「同じ半径の円の面積の何倍か」を、「同じ半円の面積の何倍か」と読み間違えていたのです。
「同じ半径の円」を「同じ半円」と詰めて読んでいたのです。
そんな誤読・・・。
言葉も出ない私に対し、その子は、自分のそうした失敗は、一刻も早く忘れる、相手も忘れるべきだ、なかったことにしようとするように、すました顔をしていました。
恥ずかしいからだとは思うのですが、実際にすぐ忘れてしまうので、同じことを繰り返します。


あるいは、こんな問題。
直方体の平行な辺や垂直な辺を指摘する基本問題でした。

問題 右の直方体の辺ABと垂直な辺をすべてあげなさい。また、辺BCと辺GHはどのような関係にあるか、記号を用いて答えなさい。

その子の答は、「AB⊥BC」でした。

今度のミスの原因はすぐにわかりました。
その子は問題文を、
「右の直方体の辺ABと垂直な辺を記号を用いて答えなさい」
と省略して読んでいたのです。

一般に、問題文の途中に「また」という接続詞があることに気づかない子は多いです。
「また」があるのだから、この問題文には、設問が2つある。
そのことに気づかず、1つの答しか書かない子は、珍しくありません。
解答用紙があり、解答欄がある場合は途中で何とか気づくのですが、テキストを読んでノートに解いている状態ではまず気づかない。
問題文を斜め読み、拾い読みして、2つの問題を混同させて1つの答しか書かない。
誤読の標本として記録に残したいほどの誤読です。

こうした子たちは、なぜ、こんな読み方をしてしまうのでしょうか。
幼い頃に、たちの悪い速読教室にでも通ったのでしょうか?
それは冗談ですが、1文字1文字を文字の「粒」として丹念に読む習慣がなく、2行くらいのまとまりとして、ざっと斜めに読んでしまうのではないかと想像します。

こうした子たちは、当然のことながら、潜在的な学力はかなり高いのに、国語の成績が悪いです。
他の科目の成績も、パッとしません。


小学校では、それで通用していたのかもしれません。
問題文なんか、斜め読みでも大丈夫です。
小学校で学習する問題文は定型化していて、ちゃんと読まなくても内容は大体わかります。
だから、6年間で、斜め読みする癖がついてしまったのでしょう。

そして、勉強するとき以外に、文字を読む習慣がなかったことが大きいのだと思います。
読書は好きじゃない。
進んで本を読むことがない。
活字を読み進めることにそもそも精神的抵抗がある。
それは1つの苦役である。
そういう子が、学力の高い子にも案外多いのです。

不思議なことに、誤読の多い子は、音読すると、文字を正確に読むことができる子が大半です。
音読は上手なのです。
速く、正確です。
しかし、黙読すると、斜め読みをします。
わずか1行の算数・数学の問題文すら斜め読み、拾い読みをする。
それが習慣化しています。

むしろ頭の回転が速いことがネックになっているのではないか・・・。
小学校で手を抜くことを覚えてしまったのではないか?
そのうえで、残念ですが、本人に知的好奇心が足りないのだと思うのです。
小学校で秀才気分でいることで、満足だった。
それ以上の知的な刺激を必要としなかったのです。

頭の回転が速いというのは、ただ情報処理が速いというだけのことです。
知的好奇心に乏しいが、情報処理能力だけは高いという場合もあります。
知的な興味を広げていくことはないのです。

こうした子が小学校の高学年から中学生になると、自我が発達しますので、勉強をサボるようになっていくことがあります。
ちょっとくらいサボっても、頭はいいので、学校の授業についていくことは何でもありません。
テストはまあ失敗するけれど、それはそのうち、何とかなるから大丈夫。
今は、そんなことよりもっと楽しいことをやりたい。
成績はパッとしませんが、どこかで「自分は大丈夫」と思っています。


近年、発達障害またはそのグレーゾーンの生徒が増えている、という見方があります。
本当に増えているのかどうか、私にはわかりません。
医者ではないので、本当に発達障害なのかどうかの診断もできません。
ただ、理解の遅い子、話の通じにくい子、忘れ物が多い子、物の管理をうまくできず教材を紛失することがある子ということなら、昔も今も存在する、とは感じています。
そして、私の経験に限定しての話ですが、そうした子は、勉強をサボることは少ないのです。
興味がないから勉強しないとか、自分はもっと楽しいことをやりたいとか、そういう判断をしている様子を感じたことがありません。
勉強はするのが当たり前で、そのことに関しては、全くぶれないのです。

理解の遅い子は、勉強に対して、倦まずたゆまず努力する子が多いです。
「なぜ勉強しなければならないのか」といった疑問を抱くことがありません。
苦手な科目だからやらないとか、楽しくないことはやりたくない、といった余計なことも考えません。
そういうことで勉強を区別する気持ちも忌避する気持ちもなく、目の前のことを努力し続けます。

そして、これは、非常に勉強に向いている姿勢なのです。
学習内容を好きか嫌いかといった判断はしません。
目の前の問題が簡単か難しいかといった判断もしません。
淡々と解くだけです。
簡単な問題だからなめてかかるということもないし、難しい問題だからといって嫌がったりもしません。
そういうことに感情が入りません。
感情がないわけではありません。
勉強するときに感情的になることがないというだけです。

不思議なことですが、突出して知能の高い子、理解力の高い子も、同じ反応であることが多いのです。
目の前の問題を淡々と解きます。
簡単な問題だからとなめてかかって失敗するということがありません。
問題を斜め読みして誤読する、といった失敗もしません。
易しい問題も正確に読み、正確に答えます。
反応は無機質で、正確です。
易しい問題と難しい問題を区別して態度を変えるということがありません。
その子にとっては、全て、易しい問題だからかもしれません。
易しいことを丁寧に処理していくのが、勉強。
そのような学習習慣がついているのだろうと想像されます。


その結果、学校の成績は、突出して知能の高い子がトップなのは間違いないとしても、理解の遅い子、話の通じにくい子が、その次に成績が良いということが起こり得ます。
本人のモチベーションにブレがないのですから、あとは理解できるようにかみくだいて教えるだけ。
どの子も、順調に伸びていきます。

伸び悩むのは、やはり、本人の学習意欲に課題のある子です。
そこそこ頭の回転は速いのに、その知能に見合った成績を取れない子です。

そうした子は、本人が判断していることが多すぎるのかもしれません。
しかも、それは幼く稚拙な判断であることが多いです。
頭の回転が速くても、まだ子どもですから、視野は狭く、判断は甘い。
本人が判断しないほうがいいことを判断しているので、「つまらない勉強はしない」といったことになりかねません。
そして、子どもらしい楽天性で、「何とかなる」と思っています。
受験は、それほど甘いものではないのですが、その厳しさに気づいたときには手遅れになっています。

何年も前、そうした子を教えたことがあります。
理解力はあり、何でも一度の説明ですんなり理解しました。
しかし、宿題は適当でした。
ちょっと難しい問題は、「わからなかったー」と言って解いてきませんでした。
わからないのではなく、難しいから考えたくなかっただけだろう、と私は内心思っていました。
問題の誤読もきわめて多い子でした。
とはいえ、易しい基本問題なら解けるから、自分はそれで大丈夫。
そんなふうに自信満々で、しかし、成績はパッとしませんでした。


変化は、高校受験を意識した頃に起こりました。
知的好奇心が低いということは、「世間」に疎いということでもありました。
自分の成績で入れる高校がどのようなレベルのものであるかを、知らなかったのです。
謎の自信を持っていましたから、都立自校作成校を受けるつもりでいたのでした。

え?
その成績で?

子どもの頭の良さを感じていたからでしょうか、勿論、保護者の方もそのつもりのようでした。
両親とも東京出身ではなく、その子が第一子であるため、東京の受験事情や、高校のランクということも知らなかったようでした。

何とかしなければならない。
力がつくのなら、その方向で。
現実を知り、諦めることができるのなら、その方向で。
私は、判断を留保し、とにかく、レベルを知ってもらうため、都立自校作成校の過去問を解かせました。
古い過去問を。
特に国語を。

そのなかに、評論を読む問題がありました。
長い歴史の中でスクラップ&ビルドを繰り返してきた日本人のアイデンティティがどうのこうのといった小難しい評論でした。
しかも80字程度の記述問題が何問もありました。
解けるわけがありませんでした。
斜め読みでは、わかるわけがない。
精読しても、わからないかもしれない。
世の中には、そういう文章があります。
しかし、同世代で、それを読める子も存在するのです。

・・・面白いことが起こりました。
呆れるほど頓珍漢な内容でしたが、80字をとにかく埋めてきたのです。

「アイデンティティって、何かわかりますか?」
「・・・わからない」
「うん。文章の後ろに注があるけれど、読んだ?」
「読んでない」
「うん・・・。読んでみようか?」
とりあえず黙読しました。
「わかった?」
「わからない・・・」
「そうだねえ。難しいねえ。アイデンティティというのは、ひらたく言えば、自分が自分であることの根拠」
「・・・」
「自分が自分であることを証明するための根底にあること」
「・・・」

無理だろうとは思いながら、その後、記述問題の書き方、特に推敲の仕方を教えました。
いくら教えても、それを活用しない子が大半です。
記述問題は、40字程度でも「長すぎる」と感じ、とにかくマス目を埋めるための水増し答案を書く子が多いのです。
水増しですから、正答とされる要件を満たしていません。
正答の要件として必要な要素が例えば3つあるとして、1つを水増しして40字にして、それで何か書いた気になる子のほうが多いです。
いや、それすらできず、記述は空欄にしてしまう子のほうがもっと多いのでもありますが。

その子は、推敲した答案を書き上げました。
最初は下手でもいいのです。
書く限り、確実に一歩ずつ伸びます。
その子は、それをやりました。

その上で、その子はつぶやきました。
「この文章、面白い」
「え?」
「アイデンティティって、何か聞いたことがあったけど、初めて使い方がわかった」

おそらく、評論というものを読んだ経験がほとんどない子だったのだと思います。
読んだことがあるのは、教科書の文章のみ。
自然を保護し、環境を守りましょう、とか。
人と人とのつながりは大切ですよ、とか。
それは確かにそうだろうけれど、当たり前すぎて、何の面白みもなく、何の刺激もない内容を我慢して読むのが国語の勉強。
難しい文章とは、そういうもの。
そんな意識だったのかもしれません。

しかし、現代の評論は、そのようなレベルでとどまっているものではありません。
高校入試問題ですら、エッジが効いています。
効きすぎて、常識に反することが書いてあることもしばしばです。
私たちの固定観念を破壊する力があるのが、現代の評論です。

その面白さが、わかったのかもしれません。
その後も、自ら進んで誰かの評論集を読むということはありませんでした。
新聞も読んでいなかったと思います。
しかし、国語問題を読むことを楽しむようになっていました。
当たり前のことが書いてある平凡な文章のときは、つまらないと文句を言ったりもしました。
文章を読んで、問われてもいないのに感想を口にするようになったのです。
それにつれ、くだらない読み間違いは減っていきました。
文字を丁寧に読んでいくようになったのだと思います。


その子は、社会や理科の成績もパッとしませんでした。
覚えるべきことを覚えないからそうなっていました。
覚えようとして、努力して、努力して、それでも覚えられないのなら、仕方ありません。
興味がないから、覚えない。
そうした幼稚な考えで、ろくに勉強していなかった様子でした。

覚えるべきことは覚える。
そのうえで、理由も考える。
中3は、そのような勉強ができるちょうどよい時期だったということもあったと思います。
例えば、中1の理科では、物質の性質は、ただ実験をしてその結果を覚えるだけです。
なぜ、この実験で酸素が発生するのか?
なぜ、水素が発生するのか?
その理由は明かされません。
中3になると、その理由を学ぶことができます。
ただ暗記するのではなく、根拠がある。
それでも、まだ詳しい説明は中学の学習範囲ではないものもあります。
「高校では、さらに詳しく学習できます。なぜ水素イオンが+で、銅イオンが2+なのかは、高校で学習できますよ」
興味を持てば、高校で学習することを楽しみにするようにもなりました。

高校入試という具体的な目標があったこと。
知的な刺激に反応できるようになっていたこと。
その2つが大きかったと思います。
成績は順調に上がっていきました。


高校に合格し、保護者の方からの挨拶のメールは嬉しいものでした。
「授業中に先生と話すのが、面白かった」
と、本人が言っていたというのです。

私は、授業で冗談を言うことは少ないです。
近年は特に、笑える授業などは目指していません。
「面白かった」というのなら、それは学習した内容が知的に面白かったからでしょう。

もともと知能は高かった。
しかし、それは単に情報処理速度が速かっただけだった。
そのための慢心から、むしろ、誤読や誤解が多く、成績が悪かった。
その子が、知的に目覚めたのでした。

驚異的な伸びで志望校に合格したということだけでなく、その子は、深く記憶に残る生徒です。




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    Posted by セギ at 13:02│Comments(2)算数・数学
    この記事へのコメント
    二つ目の問題での誤答はてっきり一周の角度が360度でなく180度に勘違いしているのだろうと思いましたが、

    > 「同じ半径の円」を「同じ半円」と詰めて読んでいた

    こんな間違いでしたか。ここまでの誤読が多いとなると、私がこれまで見てきた答案で「意味不明」だった解答の一部は、この種の「詰めて読んだ」誤読の結果だったかもしれません。
    これは数学だけでなく、どんな科目でも同様で、妙な誤読(いわゆる空目)はそれなりにあるのですが、そこで何だかおかしいと気が付くかそれともその誤読をそのまま信じてしまうかの差が、「知力の基礎体力」とでもいうべき部分のようです。
    ここ数日の日本のtwitterでのみ氾濫した「ペロシ逮捕」ネタも、英語サイトの「連邦議事堂に乱入してペロシ議長の部屋を占拠した男が逮捕された」記事のPelosiとarrestだけを拾い読みして勝手に誤読した結果という説が、結構説得力がありました。
    Posted by saitou at 2021年01月14日 10:27
    コメントありがとうございます。
    誤読の癖は、大人になっても残る。
    大人になると、さらに自信満々に誤読し、間違いを認めない。
    そんなことが多いと感じる昨今です。
    Posted by セギセギ at 2021年01月14日 12:54
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