2024年08月24日
1次方程式の文章題。代金・個数に関する問題。
中学生になって、数学を勉強するようになっても、意識の上で算数からの脱皮ができていない子は多いです。
「正負の数」や「文字式」は、それまでの小学校の算数と重なる部分が少なかったので、新しい単元として何とか受け入れたとします。
「方程式」もまたそうで、計算問題としては、新しい計算として、受け入れます。
それは、小学校の算数で新しい単元を学習したときと同じで、新しいことは、普通に受けいれられるのです。
ところが、「方程式の利用」、すなわち文章題に入ると、それは一見小学校で学習した内容と似ているように見えるせいか、一瞬で小学生に戻ってしまう子がいます。
それまで、方程式の計算をさんざん練習してきて、しかもテキストには「方程式の利用」とタイトルが書いてあるにもかかわらず、文章題を見ると心と頭が小学生に戻り、方程式を使って解くということが全く理解できず、フリーズしてしまうのです。
小学生の中には、
「文章題は応用問題だから、自分は解けなくてもいい。基本問題だけ解けるようになればいい」
と、自分で決めてしまっている子もいます。
小学校のカラーテストの最後のほうの文章題は解けなくても、そんなにひどい点数にはならないので、それで大丈夫なような気がしてしまうのかもしれません。
しかし、中学の数学のテストで、テスト範囲が「1次方程式」すべてで、文章題が解けないとなると、平均点以上を取ることは難しいです。
また、小学生の中には、「計算=算数」という、変な思い込みの強い子もいます。
計算さえできれば、それで自分は算数は得意だと思ってしまう様子です。
文章題なんて、国語っぽいから、算数とは関係ない、と思うのでしょうか。
あるいは、自分が得意なことは重要なこと、自分が苦手なことは重要ではないこと、というバイアスがかかってしまうのかもしれません。
小学生は、幼いですから、こうした変な勘違いをしてしまうのは、よくあることです。
計算はできなければならないが、計算だけできても仕方ない。
冷たいようですが、それが前提です。
数学は、数学的思考力を問う科目です。
文章題は、それを問うのに適していますから、重要視されます。
そうはいっても、そんなに極端な難問ばかりが出題されるわけではありません。
数学の基礎を学び始めた中1に向けてのテストですから、文章題も基本的なものが多く出題されます。
例えば、こんな問題。
1本80円の鉛筆と1本130円のボールペンをあわせて12本買ったら、代金の合計は1210円になった。鉛筆とボールペンは、それぞれ何本買ったか。
中学受験をした子なら、これを「つるかめ算」として解くことはできますが、普通の小学生に解ける問題ではありません。
答を求める式を立てようとしても、どうしても式が立ちません。
そういう種類の問題です。
でも、方程式なら、普通の中学生が解くことができます。
それなのに、小学生のように式を立てようとしてしまう子もいます。
学んだ知識を全部、それはそれとして脇に置いてしまい、小学生に戻って式を立てようとし、立てられず、諦めてしまうのです。
方程式をさんざん学習した後なのに。
例題解説もしたのに。
何で、頭の中でそれが結びつかないのだろう?
頭の中ですぐに結びつく子も多いのです。
特に、こうした「代金・個数に関する問題」は、方程式の文章題の中でも、一番理解しやすい問題です。
この先の、速さに関する問題や、割合に関する問題に比べれば、実感しやすく、理解も容易です。
一方、この問題を理解しない学力層の子が増えてきた、とも感じます。
一つには、国語力の問題があるのでしょう。
問題に書いてある事柄の関係を理解できないのだと思います。
「1本80円の鉛筆と1本130円のボールペンをあわせて12本買った」ということが、どういうことなのか、おそらく理解できていない。
文字を読む習慣がないので、この1行を読み飛ばさずに読むことができず、だから関係がつかめない。
「・・・80・・・鉛筆・・・130・・・ボールペン・・・12・・・」
くらいの情報しか脳に届いていないのではないかと思います。
この状態で立式するのは、確かに難しい。
しかも、
「文章題は自分は解かなくてもいい」
という感情がそれに上乗せされているのですから、立式への道は遠いのです。
式を教えてくれたら、その先は計算するから、それでいい、くらいの気持ちでいる可能性があります。
自分で考えろと言われても、考え方もわからないので、数学以外の関係ないことを考えていたり、ノートにいたずら書きをしたり。
相手が式を立ててくれるのを待っていれば、いずれその状況は終わりますから。
彼らが望んでいるのは、パターン化でもあります。
上のような問題のときに、出てくる数字の順番に、
80x+130(12-x)=1210
という式を立てればいいんだ、と教えてもらえば、おそらく目を輝かせます。
必ずこの順番に、この形で式を立てればいいんだ、と言われれば言われるほど、目を輝かせ、それを教える人を尊敬するかもしれません。
そうしたパターン把握を自力で行ってしまう子もいます。
例題解説を見て、そういう順番に、そういう式を立てればいいんだと勝手に判断するのです。
意味はわかっていません。
パターンのみを把握します。
そうすると、どうなるかというと、もう予想はつくと思いますが、
問題
100円の箱に、1個80円のプリンと1個130円のゼリーをあわせて12個詰めてもらい、代金を1310円払った。プリンは何個買ったか。
という問題には、もう対応できません。
「100円の箱」を処理できないのです。
意味がわかっていないと、問題が少し変わっただけで、もう対応できません。
「何を x としましょうか」
式を考える前に、最初に確認します。
しかし、方程式の文章題を学習しているにもかかわらず、そうしたことを問われることを全く予期していなかったかのように、問われたことに驚き、絶句してしまう子もいます。
まず、それを決めるんですよ。
幾度その説明を繰り返しても、問題を解くそうした道筋を理解しない子たちがいます。
彼らの好むやり方とは、真逆のことだからなのでしょうか。
いえ、そもそも、何かを x として式を立てるということそのものを、理解していないのかもしれません。
好む好まないの問題ではなく、理解できていないのだろう、と思うのです。
式は、答を求めるために立てるもの。
それなのに、「関係を表す式」などと言われても、意味がわからない。
問題文の中にある、何かの数量を、文字や数字で2通りに表して、それをイコールで結ぶ。
そうしたことの意味が、全くわからない・・・。
何の話をしているのか、そもそもわからない・・・。
そういうことも、あるのだと思います。
まだ、心がとても幼く、学年としては中学生になっていても、小学生のままなのだと思います。
小学生には、確かに、理解しづらい内容です。
式は答を求めるために立てるもの。
そうではない式など、式ではない。
不定の文字を使って関係を表すなど、あまりにも抽象的で、発達段階から考えれば理解できなくて当然なのです。
だから、小学生には方程式は教えません。
受験算数で方程式を使わないのは、年齢的にまだ理解できない内容であることを、教える側が把握しているからです。
子どもは、具体的・具象的なことしか、理解できないのです。
文字さえ使わなければいいのだろうと、□を使って式を立てて教える保護者がいますが、あまり上手くいかないと思います。
立った式を見て理解することはかろうじてできるでしょう。
しかし、子どもは、□を使った式を、自力ではほぼ立てられません。
脳が、そのように具体性のないものの使用を本人に許しません。
勿論、すべては個人差の問題なので、小学生でも方程式を理解できる子も存在しますが。
方程式を学ぶには、この子には、まだ時期が早い・・・。
発達段階には個人差がありますから、こういうことはありえます。
だからといって、すべて諦めてしまうことはありません。
いずれ、その段階に至るからです。
そのときに、理解すればいいのです。
中学生の頃に数学でかなり苦労していた子を、高校生になって再び教えることがたまにありますが、意外なほどに脳が発達していて、高校数学の解説が通じることに驚くことがあります。
いずれ理解できる時期は来るのです。
とはいえ、中学の定期テストをクリアしなければならないので、「いずれ」など、待ってはいられないのが現実ですが。
先ほどの問題に戻ります。
問題 1本80円の鉛筆と1本130円のボールペンをあわせて12本買ったら、代金の合計は1210円になった。鉛筆とボールペンは、それぞれ何本買ったか。
「何を x としましょうか」
類題を何問か解き続けると、それでも少しなじんできて、その問いに答えられるようになる子が多いです。
ただ、こういうときに、ちょっとだけ可哀相な子もいます。
「・・・ボールペン」
「・・・うん。それは、別に間違っていないですし、それで解くことはできますが、自分で学校のワークを解いたときに、模範解答と違っていて、苦労することになると思います」
「・・・」
ボールペンを x 本として自力で式を立てた場合。
その式が正しく、その後の計算も正しいのなら、最終解答は一致しますから、問題ありません。
「あ、模範解答とちょっと式が違うけど、まあいいや」
と判断できる子なら、それでワークに赤丸をつけ、それで十分です。
何も間違っていません。
では、何がいけないのか?
何も間違っていません。
ただ、「1本80円の鉛筆と1本130円のボールペン」と問題文に書いてある場合、鉛筆を x 本として解いているのが、どのワークでも問題集でも、普通の模範解答です。
最初に出てきたほうが x で、通常何も問題ないので、そうなっています。
模範解答と同じであるほうが、自分で家庭学習がしやすいです。
模範解答と異なるほうを x として、立式ミスや計算ミスをしてしまい、どこを間違えたのか自力では判断できない。
そういう学力の子が、異なるほうを x としてしまう傾向もまた強い、というだけです。
そもそも、何で、ボールペンのほうを x としてしまうのか?
代金が大きいほうを x にしたほうが計算が楽ではないか、などと、余計なことを考えているのではないか?
あるいは、その前にある「1本80円の鉛筆」という記述が目に入っていないのではないか?
そういう心配を、教える側はしてしまうのです。
何か余計なことを考えているのであるのなら、早めにその経路はふさぎたいのです。
方程式を立てるときに、「計算のしやすさ」などの余計なことを先に考えているのだとしたら、それは、邪魔にしかなりません。
計算の工夫は、式が立ってから考えればいいこと。
そこを分離できないから、混乱して、立式が歪んでしまう可能性が高まるのです。
方程式は、どんなヘンテコな形になっていても、すぐに整理できます。
そこへの自信のなさもあるのかもしれませんが、立式のときに計算しやすさなどの余計なことを考えていては、脳のキャパをそこに奪われます。
計算のしやすさを考えなくていいのが方程式だということを理解して、安心して複雑な式を立ててほしいのです。
「正負の数」や「文字式」は、それまでの小学校の算数と重なる部分が少なかったので、新しい単元として何とか受け入れたとします。
「方程式」もまたそうで、計算問題としては、新しい計算として、受け入れます。
それは、小学校の算数で新しい単元を学習したときと同じで、新しいことは、普通に受けいれられるのです。
ところが、「方程式の利用」、すなわち文章題に入ると、それは一見小学校で学習した内容と似ているように見えるせいか、一瞬で小学生に戻ってしまう子がいます。
それまで、方程式の計算をさんざん練習してきて、しかもテキストには「方程式の利用」とタイトルが書いてあるにもかかわらず、文章題を見ると心と頭が小学生に戻り、方程式を使って解くということが全く理解できず、フリーズしてしまうのです。
小学生の中には、
「文章題は応用問題だから、自分は解けなくてもいい。基本問題だけ解けるようになればいい」
と、自分で決めてしまっている子もいます。
小学校のカラーテストの最後のほうの文章題は解けなくても、そんなにひどい点数にはならないので、それで大丈夫なような気がしてしまうのかもしれません。
しかし、中学の数学のテストで、テスト範囲が「1次方程式」すべてで、文章題が解けないとなると、平均点以上を取ることは難しいです。
また、小学生の中には、「計算=算数」という、変な思い込みの強い子もいます。
計算さえできれば、それで自分は算数は得意だと思ってしまう様子です。
文章題なんて、国語っぽいから、算数とは関係ない、と思うのでしょうか。
あるいは、自分が得意なことは重要なこと、自分が苦手なことは重要ではないこと、というバイアスがかかってしまうのかもしれません。
小学生は、幼いですから、こうした変な勘違いをしてしまうのは、よくあることです。
計算はできなければならないが、計算だけできても仕方ない。
冷たいようですが、それが前提です。
数学は、数学的思考力を問う科目です。
文章題は、それを問うのに適していますから、重要視されます。
そうはいっても、そんなに極端な難問ばかりが出題されるわけではありません。
数学の基礎を学び始めた中1に向けてのテストですから、文章題も基本的なものが多く出題されます。
例えば、こんな問題。
1本80円の鉛筆と1本130円のボールペンをあわせて12本買ったら、代金の合計は1210円になった。鉛筆とボールペンは、それぞれ何本買ったか。
中学受験をした子なら、これを「つるかめ算」として解くことはできますが、普通の小学生に解ける問題ではありません。
答を求める式を立てようとしても、どうしても式が立ちません。
そういう種類の問題です。
でも、方程式なら、普通の中学生が解くことができます。
それなのに、小学生のように式を立てようとしてしまう子もいます。
学んだ知識を全部、それはそれとして脇に置いてしまい、小学生に戻って式を立てようとし、立てられず、諦めてしまうのです。
方程式をさんざん学習した後なのに。
例題解説もしたのに。
何で、頭の中でそれが結びつかないのだろう?
頭の中ですぐに結びつく子も多いのです。
特に、こうした「代金・個数に関する問題」は、方程式の文章題の中でも、一番理解しやすい問題です。
この先の、速さに関する問題や、割合に関する問題に比べれば、実感しやすく、理解も容易です。
一方、この問題を理解しない学力層の子が増えてきた、とも感じます。
一つには、国語力の問題があるのでしょう。
問題に書いてある事柄の関係を理解できないのだと思います。
「1本80円の鉛筆と1本130円のボールペンをあわせて12本買った」ということが、どういうことなのか、おそらく理解できていない。
文字を読む習慣がないので、この1行を読み飛ばさずに読むことができず、だから関係がつかめない。
「・・・80・・・鉛筆・・・130・・・ボールペン・・・12・・・」
くらいの情報しか脳に届いていないのではないかと思います。
この状態で立式するのは、確かに難しい。
しかも、
「文章題は自分は解かなくてもいい」
という感情がそれに上乗せされているのですから、立式への道は遠いのです。
式を教えてくれたら、その先は計算するから、それでいい、くらいの気持ちでいる可能性があります。
自分で考えろと言われても、考え方もわからないので、数学以外の関係ないことを考えていたり、ノートにいたずら書きをしたり。
相手が式を立ててくれるのを待っていれば、いずれその状況は終わりますから。
彼らが望んでいるのは、パターン化でもあります。
上のような問題のときに、出てくる数字の順番に、
80x+130(12-x)=1210
という式を立てればいいんだ、と教えてもらえば、おそらく目を輝かせます。
必ずこの順番に、この形で式を立てればいいんだ、と言われれば言われるほど、目を輝かせ、それを教える人を尊敬するかもしれません。
そうしたパターン把握を自力で行ってしまう子もいます。
例題解説を見て、そういう順番に、そういう式を立てればいいんだと勝手に判断するのです。
意味はわかっていません。
パターンのみを把握します。
そうすると、どうなるかというと、もう予想はつくと思いますが、
問題
100円の箱に、1個80円のプリンと1個130円のゼリーをあわせて12個詰めてもらい、代金を1310円払った。プリンは何個買ったか。
という問題には、もう対応できません。
「100円の箱」を処理できないのです。
意味がわかっていないと、問題が少し変わっただけで、もう対応できません。
「何を x としましょうか」
式を考える前に、最初に確認します。
しかし、方程式の文章題を学習しているにもかかわらず、そうしたことを問われることを全く予期していなかったかのように、問われたことに驚き、絶句してしまう子もいます。
まず、それを決めるんですよ。
幾度その説明を繰り返しても、問題を解くそうした道筋を理解しない子たちがいます。
彼らの好むやり方とは、真逆のことだからなのでしょうか。
いえ、そもそも、何かを x として式を立てるということそのものを、理解していないのかもしれません。
好む好まないの問題ではなく、理解できていないのだろう、と思うのです。
式は、答を求めるために立てるもの。
それなのに、「関係を表す式」などと言われても、意味がわからない。
問題文の中にある、何かの数量を、文字や数字で2通りに表して、それをイコールで結ぶ。
そうしたことの意味が、全くわからない・・・。
何の話をしているのか、そもそもわからない・・・。
そういうことも、あるのだと思います。
まだ、心がとても幼く、学年としては中学生になっていても、小学生のままなのだと思います。
小学生には、確かに、理解しづらい内容です。
式は答を求めるために立てるもの。
そうではない式など、式ではない。
不定の文字を使って関係を表すなど、あまりにも抽象的で、発達段階から考えれば理解できなくて当然なのです。
だから、小学生には方程式は教えません。
受験算数で方程式を使わないのは、年齢的にまだ理解できない内容であることを、教える側が把握しているからです。
子どもは、具体的・具象的なことしか、理解できないのです。
文字さえ使わなければいいのだろうと、□を使って式を立てて教える保護者がいますが、あまり上手くいかないと思います。
立った式を見て理解することはかろうじてできるでしょう。
しかし、子どもは、□を使った式を、自力ではほぼ立てられません。
脳が、そのように具体性のないものの使用を本人に許しません。
勿論、すべては個人差の問題なので、小学生でも方程式を理解できる子も存在しますが。
方程式を学ぶには、この子には、まだ時期が早い・・・。
発達段階には個人差がありますから、こういうことはありえます。
だからといって、すべて諦めてしまうことはありません。
いずれ、その段階に至るからです。
そのときに、理解すればいいのです。
中学生の頃に数学でかなり苦労していた子を、高校生になって再び教えることがたまにありますが、意外なほどに脳が発達していて、高校数学の解説が通じることに驚くことがあります。
いずれ理解できる時期は来るのです。
とはいえ、中学の定期テストをクリアしなければならないので、「いずれ」など、待ってはいられないのが現実ですが。
先ほどの問題に戻ります。
問題 1本80円の鉛筆と1本130円のボールペンをあわせて12本買ったら、代金の合計は1210円になった。鉛筆とボールペンは、それぞれ何本買ったか。
「何を x としましょうか」
類題を何問か解き続けると、それでも少しなじんできて、その問いに答えられるようになる子が多いです。
ただ、こういうときに、ちょっとだけ可哀相な子もいます。
「・・・ボールペン」
「・・・うん。それは、別に間違っていないですし、それで解くことはできますが、自分で学校のワークを解いたときに、模範解答と違っていて、苦労することになると思います」
「・・・」
ボールペンを x 本として自力で式を立てた場合。
その式が正しく、その後の計算も正しいのなら、最終解答は一致しますから、問題ありません。
「あ、模範解答とちょっと式が違うけど、まあいいや」
と判断できる子なら、それでワークに赤丸をつけ、それで十分です。
何も間違っていません。
では、何がいけないのか?
何も間違っていません。
ただ、「1本80円の鉛筆と1本130円のボールペン」と問題文に書いてある場合、鉛筆を x 本として解いているのが、どのワークでも問題集でも、普通の模範解答です。
最初に出てきたほうが x で、通常何も問題ないので、そうなっています。
模範解答と同じであるほうが、自分で家庭学習がしやすいです。
模範解答と異なるほうを x として、立式ミスや計算ミスをしてしまい、どこを間違えたのか自力では判断できない。
そういう学力の子が、異なるほうを x としてしまう傾向もまた強い、というだけです。
そもそも、何で、ボールペンのほうを x としてしまうのか?
代金が大きいほうを x にしたほうが計算が楽ではないか、などと、余計なことを考えているのではないか?
あるいは、その前にある「1本80円の鉛筆」という記述が目に入っていないのではないか?
そういう心配を、教える側はしてしまうのです。
何か余計なことを考えているのであるのなら、早めにその経路はふさぎたいのです。
方程式を立てるときに、「計算のしやすさ」などの余計なことを先に考えているのだとしたら、それは、邪魔にしかなりません。
計算の工夫は、式が立ってから考えればいいこと。
そこを分離できないから、混乱して、立式が歪んでしまう可能性が高まるのです。
方程式は、どんなヘンテコな形になっていても、すぐに整理できます。
そこへの自信のなさもあるのかもしれませんが、立式のときに計算しやすさなどの余計なことを考えていては、脳のキャパをそこに奪われます。
計算のしやすさを考えなくていいのが方程式だということを理解して、安心して複雑な式を立ててほしいのです。
2024年08月16日
考え方の土台が異なると、わからなくなる。
もう10年ほど前になるかと思います。
授業料のことがよくわからない、という保護者の方が、面談にいらっしゃったことがありました。
その2か月ほど前に入会された方でしたが、度々、授業料について確認のメールが来ていました。
その都度、定額の月額の授業料をお納めくださいと連絡していたのですが、どうもそれが腑に落ちないようなのでした。
お金に関することでモヤモヤがあるのは、お互いによくないですから、入会時からの全授業を書き出して、それで説明したのですが、その方のモヤモヤは晴れる様子がなく、モヤモヤしたままお帰りになりました。
うーん。
どういうことだろう・・・。
生徒さんのほうで、あの日の分の授業をこの日に振り替えたいと希望されるのは構わないのですし、それが翌月でも翌々月になってもいいのですが、私のほうでは、そういう計算はしていないのです。
授業は、月4回分の授業料をいただいている場合は、正確に月4回保証です。
授業が実際に行われた順に、それが何月の第何週分に相当するのか記録しています。
月に1回メールで送信している学習指導レポートに、それを記載しています。
例えば、
①6月2日(月) 6月第1週分
②6月9日(月) 6月第2週分
③6月16日(月) 6月第3週分
④6月23日(月) 6月第4週分
⑤6月30日(月) 7月第1週分
というようにです。
上の例の場合は、6月は、5回授業があったので、7月第1週分の授業を早めに行った、という形になります。
続いて、7月の指導レポートでは、
①7月7日(月) 7月第2週分
②7月14日(月) 7月第3週分
③7月24日(木) 7月第4週分
④7月26日(土) 夏期講習1
というように、授業が行われた順番に記録していきます。
複数の生徒を並行して授業している私から見ると、この授業はいつのどの分の振り替え、という数え方は、むしろ煩雑でよくわからなくなります。
ときどきある第5週の処理も大変です。
実際に行われた授業から順番に番号を振ったほうが正確です。
月4回の授業は保証され、それ以上の金額を請求することはありません。
その月に5回の授業があるからといって請求額は増えない代わりに、3回しか授業がなかったからといって、月額が減ることもありません。
夏期講習、冬期講習、春期講習をお申込みの際に精算し、未消化の授業があれば、それは講習会に充当して、未消化分を差し引いた金額を講習会費として請求しています。
未消化の授業は、欠席が続いたというのでない限り、1学期で1コマ程度。
未消化なし、ということもあります。
勿論、前日までに連絡欠席した授業の振り替えはどんどん行ってくださって構わないのです。
こちらの把握の仕方が違う、というだけです。
ところが、授業を連絡欠席し、その振り替えをした覚えがないのに、授業が消えているのが腑に落ちないと、その方は思われたのかもしれません。
カレンダーによって、その月に5週目の授業があったのだということが念頭から消えていたのだろうと思います。
連絡欠席して、振り替えを保留しておいたはずなのに、いつの間にか、第5週の授業として消費されていた。
納得がいかない・・・。
全授業の実施日とそれが何月第何週分の授業であるかの記録にミスはないから、文句はつけにくい。
でも、納得がいかない・・・。
心理的なモヤモヤは晴れることはなかったようです。
それだけが理由ではなかったのだと思いますが、後日、その方は退会されました。
お金の問題は難しいです。
1年は52週間と1日。
そのうち、5週間は夏期講習、2週間は冬期講習、1週間は春期講習。
8週分が通常授業から除外されます。
52-8=44(週)
夏期講習の8月は通常授業がありませんので、通常授業は11か月。
44÷11=4
月4回の授業を、欠席なしに受けると、授業はちょうど消化されます。
連絡欠席による保留分があれば、講習会の際に精算します。
だから、1年間で考えれば、授業は消えないのですが、短期で考えると、振替できるはずの授業が、第5週分に穴埋めされた、と感じることもあるのだと思います。
「早く振替しないと、忘れられてしまう。ごまかされてしまう」
ということはなく、そもそも私は、忘れる以前に、覚えていない。
私が覚えておく必要のないシステムにしています。
「取っておいたはずの授業がなくなった」
という保護者の方の感覚のどこかに誤解があったはずなのですが、それは何だったのか?
どういう説明や説得なら、ご理解いただけたのか。
今も心残りです。
人の感覚というものは、最も説得が難しいものなのかもしれません。
数学の学習でも、感覚が優先されて、奇妙な誤解をすることがあります。
ある年、高校生と数Ⅰ「三角比」を学習していたときのこと。
その子は、直角三角形で、底辺の右側が直角、左側が θ の角となっている問題の三角比は正しく把握していましたが、直角三角形が回転された位置にあったり、裏返っていたりすると、必ず不正解になってしまいました。
sin30°=√3 / 2
cos30°=1/2
としてしまうミスを繰り返していたのです。
解説しても、腑に落ちない表情のままでした。
サインとコサインを取り違えて覚えてしまったのか?
でも、きちんと整地されている直角三角形ならば正解できるのです。
なぜなのか?
あるとき、本人が叫びました。
「ああ!θ の角って移動させたらダメなんだ!」
・・・何ですと?
その子は、直角三角形を見やすい位置に向け直す際に、図形を回転させたのだから、θ の角も別の位置に回転させるべきだという謎の誤解をしていたのでした。
三角形を回転させたときは、角の位置も移さなければならない、と思い込んでいたようです。
だから、θ ではなく、90°-θ のサインやコサインを求めてしまっていたのでした。
こういう誤解は、他人には理解できなくても、本人の中では整合性が取れているらしいのです。
本人が気づいて、心から納得するのでない限り、晴れ晴れとはしないのでしょう。
その子は、途中で気がついて、しかも、それを言語化できました。
それ以降は、もう大丈夫でした。
またあるとき、数A「場合の数と確率」の問題で、こんな混乱がありました。
2個のサイコロを振るとき、目の和が4になる確率を求める問題で、答を1/9 としていた子がいたのです。
全体の場合の数は、36通り。
目の和が4になるのは、1と3の目のときと、2と2の目のとき。
さいころは2個あるので、互いの目を取り換えるため、それぞれ2倍して、4通り。
だから、4/36=1/9。
いやいやいや。
それは、和が4になる目を全て書き出したとき、
(1,3),(3,1),(2,2),(2,2)
としていることになります。
目が両方とも2である場合は、1通りしかないのに、2回数えています。
和が4になる目の出方は、合計3通り。
確率は、3/36=1/12 です。
しかし、一度誤解してしまった子は、正解を解説しても、なかなか理解できませんでした。
もう1つの幻の(2 , 2)を心の中で消せないのです。
「サイコロにA、Bと名前をつけたとき、Aのサイコロの目が2でBのサイコロの目が2なのは、1通りですよ」
と説明しても、
「Aが2でBが2のときと、Bが2でAが2のときは違う。学校でそう習った」
というのでした。
この誤解を解くのは、本当に大変でした。
そもそも、互いの目を取り換えるために2倍するという考え方を学校で教えているとは思えないのです。
A、Bの目の順に、Aが小さいほうから、
(1,3),(2,2),(3,1)
と数え上げるのが標準的な解き方です。
Aのサイコロの目に注目して、1、2、3まで、と考えれば、書き出さなくてもすぐに数えられます。
2倍するのは、本人が独自の工夫として行ってしまったことだと思います。
学校の授業中にその工夫を思いついてしまったために、学校でそう習ったというように記憶の塗り替えが行われたのかもしれません。
土台の考え方が誤解しやすいものであるのに、そこから離れられない。
より合理的な考え方を示されて、それはそれとして理解はしても、
「でも、自分の考え方では、それはどうなるんだ?」
という疑問から解放されない。
説明を聞いても理解しづらい。
そして存在しない幻を見てしまう・・・。
場合の数や確率の問題で誤答の多い人は、このタイプの誤解が多いように感じます。
土台の考え方を合理的にすれば、ものごとは、もっとシンプルになります。
数学は、そのために学ぶものでもあるのかもしれません。
2024年08月10日
算数・数学で問題の意味を理解しない。

画像は友達からもらいました。
ラピュタの雲みたいですね。
さて、講習期間はまた別ですが、普段は、塾を1回休むと、2週間空いてしまうことになります。
そのたった2週間の間に、学力が大きく後退してしまう子も、いないわけではありません。
何でこんな基本問題が解けなくなってしまったの?
もうテストが近いのに、こんなに学力が落ちてしまって、どうするの?
そう思うこともあります。
一度ついた学力はもう永遠に身についているという誤解が、本人にも保護者の方にもあるのかもしれません。
現実には、学力は常に流動的で、勉強しなければ後退します。
特に、「覚える勉強」に終始している子の学力は、あっという間に下がります。
根本的に理解をしていれば、2週間くらいでは学力は下がらない。
それはそうだと思うのですが、根本的に理解しているように見えていた子が表面的な理解しかしていない、ということがあるのです。
例えば中学1年生で、数学の「正負の数」も「文字式」も、大きなつまずきはなく順調に学習が進んでいた子がいました。
等式の性質の意味も理解できたようでした。
何の心配もないと思って「方程式」の予習をしていたのですが、宿題のノートを見て、愕然としたことがあります。
3x+2=2x-1
=3x-2x=-1-2
=x=-3
・・・うわあ・・・。
以前も、こういう方程式の答案を見たことはありました。
しかし、それは、中学でびっくりするくらい勉強を怠けてしまったために、気がつくとこういう事態に至っていたという私立高校生でした。
かなり特殊な例でした。
そんなに度々目にするものではないのです。
「方程式」の予習を始めたばかりで、つきっきりで個別指導したのに、何でこういうことになるの?
本人にとっては、ちょっとした書き間違いなのかもしれませんが、意味が理解できていたら、こんな書き間違いはありえないのです。
実は何も理解していないのではないか?
やり方を覚えるのが器用で上手いだけなのではないか?
奈落は、すぐ足元に広がっています。
早めにわかって良かったのでした。
足元に奈落の広がっている子であると理解して指導するのと、秀才と思い込んで指導するのとでは、結果が違ってきます。
以前も、成績の良い中学2年生と「座標平面と図形」を学習していて、背中がスッと寒くなるような経験をしたことがありました。
座標平面上の三角形の二等分線を求める問題でした。
特に難しい問題ではありません。
その子の学力なら楽勝のはずでした。
しかし、ひと通り説明を終わっても、反応がありませんでした。
「何か質問はある?」
と尋ねても、ポカンとしていました。
「じゃあ、練習問題を解いてみようか」
と声をかけても動きがありません
「どうしたの?どこがわからない?」
と尋ねると、
「全部わからない」
という返事がありました。
・・・ど、どうして?
計算過程は多少長いけれど、難しいことは何1つないのに。
1つ1つの過程の意味も明瞭だから、何も難しくないのに。
しかし、思い返してみれば、その子は、2直線の交点の座標を求める練習のときにも、少し妙な表情をしていたのです。
黙って、例題解説の通りに作業はしていましたが。
2直線の式を連立方程式として解くと交点の座標が出ることの意味が、実はよくわかっていなかったのではないか?
直線上の点の x 座標と y 座標には、その直線の式と同じ関係があることが理解できていないのではないか?
いや、そもそも、座標平面とは何なのかを呑み込めていないのではないか?
グラフとは何であるかわかっていないのではないか?
小学校のときに描いた折れ線グラフのような感覚で関数のグラフを見ているのではないか?
その子に限らず、直線の式を求める問題などの基本練習をしている間はその通りに問題を解いていくことができるけれど、座標平面を用いた応用問題になると何をどう解くのかわからなくなる子は多いです。
座標平面とグラフの意味を理解できていればそんなに難しくない問題も、作業手順で理解しようとすると、手順は長く、やり方を覚えるのは大変になります。
問題によって何をどうするか、自分で分析していく必要が生じるのに、手順を覚えているだけなのでそれができないことも多いです。
数学的な挫折が、このあたりから目に見えてきますが、実は、その前から足元に奈落は広がっているのだと思います。
教え方が悪いから、そうなるのか?
そもそも、日本の算数・数学教育が良くないのではないか?
常にそのような問題提起はあり、それは考えるべきことではありますが、出会ったときには既にそうだった場合が大半です。
おそらく小学校の低学年の時期に、算数は手順を覚えて解くことを本人が選択しています。
子ども自身が、算数・数学は「やり方を覚えてやり過ごす」ことを非常に早い時期に自ら選択しているのです。
そのほうが、楽だからでしょう。
頭の回転がある意味速いため、問題の意味を理解してしっかり脳に通すよりも、解き方だけ覚えてちゃちゃっと解いたほうが楽だと本人が判断してしまう場合。
全く意味がわからなかったため、やり方を丸暗記することに活路を見出してしまった場合。
どちらもあり得ます。
そして、同じ授業を受けながらも、数理の本質に向かっていける子もまた多いのだということも、忘れてはならないと思います。
中学受験生の中にも、数理の根本を理解していない子が多く存在します。
「食塩水の問題、苦手。食塩を加える問題が特に苦手」
そのように言う子がかつていました。
そこまで細かく分析できているのなら、むしろ大丈夫なのではないか?
いいえ。
問題をパターンごとにそこまで細かく分けているのは、その子の通っていた集団指導塾のテキストがそのような構成だったからです。
本人が分析できているわけではありませんでした。
食塩水なんて、全部同じ解き方で解けるのに、何を言っているのだろう?
私は、そのとき、内心そう思いました。
でも、「食塩水なんて全部同じ解き方」と私が思うのは、全体を統合できているからです。
根本を理解し、問題ごとに対応を変えることができるからです。
大元の解き方は、ただ1つ。
食塩水の問題は、「割合」の問題です。
割合の3つの要素の2つが分かれば、残る1つは計算で出せます。
そうやって、求められるものをスルスル求めていくうちに、ほとんど自動的に答にたどりつきます。
しかし、根本の理解がない子は、各パターンごとに解き方を覚えるしかないのです。
こういうときは、足し算。
こういうときは、ひき算。
と、細かい手順をパターンごとに全部暗記します。
それらを統合し、本質を把握する、ということがないのです。
だから、「食塩を加える問題が苦手」といった発言になるのでしょう。
根本が理解できていれば、濃さの違う食塩水を足すのも、食塩だけを足すのも、水を足すのも、水を蒸発させるのも、全部同じです。
しかし、それを理解できない子が大量にいるので、集団指導塾のテキストは、パターンごとに細分化されたものになっています。
勿論、それを頭の中で統合できる子もいます。
練習問題を解く過程で「結局、全部同じ問題だな」と本人が理解していきます。
そうではない子は、パターンごとに解き方を丸暗記します。
どちらにも対応できるから、パターンごとに細分化されたテキストは重宝されます。
例えば、売買の問題で、私が線分図を描けば、目を輝かせてその先を解く子は多いです。
線分図からの解き方は、作業手順として覚えているのです。
しかし、自力で線分図を描くことはできません。
それには、問題を分析する力が必要だからです。
また、同じ子が、食塩水の問題文を読んで、7%の食塩水140gと、10%の食塩水200gを合わせたとき、全体の食塩水が340gになることがわからないことがあります。
・・・何でわからないんだろう?
言葉を変えて説明しても、ポカンとしてしまうのでした。
算数の問題に対して、何の実感もなく、何一つ現実と結びついていないのではないか?
足し算の意味すら、本質的にはわかっていないのではないか。
どういうときに足すのか、どういうときに引くのか、その理解が曖昧で表面的なままなのではないか?
では、その子にとって、算数とは、何なのだろう?
よくわからない操作を丸暗記して、その通りに再現してみせること、でしかないのだろうか?
その子の足元の奈落の深さに気づいたときから、本当の指導が始まります。
受験勉強を経てすら、数理の根本が形成されない。
数学上でやっていいことと悪いことの区別がつかない。
そのままやがて高校数学に進むと、何のために何をやっているのか理解できないまま、作業手順だけを暗記しようとし、暗記しきれずに挫折することになります。
何をやっているのかわからないまま、複雑な作業だけがそこにある。
それでは、数学は苦しいだけです。
やり方を覚えるだけの勉強。
その勉強のやり方は、まずいです。
それが合理的だと思っているのでしょうし、気持ちはわかるけれど、その勉強のやり方に先はないのです。
足元に奈落が広がり、いつか足を踏み外します。
そうした助言をしても、目先の簡単さにつられて、覚える勉強に終始してしまうのは、人間の業なのか。
いいえ。
人間には、「理解したい」という知的欲求があるはずです。
理解しましょう。
あきらめずに、理解する努力をしましょう。
あきらめない限り、いつか、何かが見えてきます。
振り返って復習したときに、「何だこういう意味か」と理解できるときが来ます。
理解したうえで、公式は、覚えて使う。
そういうやり方をすれば、数学の学習は、とてもシンプルです。
2024年08月03日
夏休みなので難問を。色を塗られている立方体を数える問題。

図が雑ですみません。
さて、問題
1辺1㎝の立方体を縦・横・高さそれぞれに10個ずつ並べて、上の図のように1辺10㎝の立方体を作りました。
この立方体の表面全てに色を塗ったのち、バラバラに崩しました。
1辺1㎝の立方体のうち、どこかの面に色が塗られているものは何個ありますか。
受験算数の典型題ですね。
先日、NHK「3か月でマスターする数学」でも、取り上げられていました。
自分で考えてみたいという方は、ここで一旦閉じて、お楽しみください。
さて、ここからは、解説。
まずは、一番地道な方法から解説しましょう。
色が塗られている立方体を地道に数えます。
1辺10㎝の立方体の1つの面にある、1辺1㎝の立方体の数は、
10×10=100(個)
面は6つあるので、
100×6=600(個)
しかし、これはダブって数えていますね。
どの位置の立方体をダブって数えているでしょうか。
まず、3つの面に同時に存在している立方体があります。
大きな立方体の頂点の位置にあるものです。
頂点の数は、8個。
この8個の小さな立方体を3回数えてしまっています。
だから、2回分、引きましょう。
すなわち、
8×2=16
また、2面に同時に存在している立方体もあります。
大きな立方体の辺のところに存在して、頂点の位置にはないもの。
1つの辺に小さな立方体は10個存在しますが、そのうち、上下の2個は頂点の位置のものですから、
10-2=8(個)
立方体に辺は12本ありますので、
8×12=96(個)
これは、2回数えてしまった分ですので、1回分を引けばいいでしょう。
すなわち、求める立方体の数は、
600-16-96=488(個)
答は、488個 です。
これはこれで、別に間違ってはいないですが、面倒くさかったですね。
頂点の位置の立方体を3回数えてしまっているところが、面倒でした。
それを2回分引かなければならない、というあたりで誤解をしたり計算ミスをしたりする人が出そうです。
もう少し簡単に求める方法はないでしょうか。
では、大きな立方体の側面にある色を塗られたものの数だけを優先して数えて、あとで上の底面と下の底面で数えていなかったものを足すのはどうでしょうか。
少しわかりやすいような気がします。
側面の1つの面にある小さな立方体の数は、
10×10=100(個)
側面は4つあるから、
100×4=400(個)
このうち、辺の位置に存在するものは、ダブって数えています。
辺の位置に存在する立方体は10個。
辺は4つありますから、
10×4=40(個)
これを引きますので、
400-40=360(個)
これで側面の分は計算しました。
あとは、上の底面の分。
既に側面で計算済みのものは最初から除外しましょう。
上の底面の外側1周分のものは、側面に存在する立方体でもありますから、最初から除外すると、
まだ数えていない上の底面にある立方体は、
8×8=64(個)
下の底面にも同じ数だけあるので、
64×2=128(個)
これを、先ほどの側面の個数とあわせて、
360+128=488(個)
先ほどと同じ答になりました。
少しスッキリしたけれど、まだ面倒くさかったですね。
もっと簡単に求める方法はないのでしょうか?
先ほど、上の底面の立方体を数える際に、外側1周を最初から除外しましたよね。
この考え方は、使えないでしょうか?
そうだ!
色が塗られている立方体の数を数えるのではなく、それは除外して、色が塗られていない立方体の数を数えて、最後に全体から引くのはどうでしょうか。
頭の中で、外側一面の小さな立方体をはぎとりましょう。
1個ずつ、すべての面から取り除くと?
残った、色が塗られていないかたまりも、これもまた立方体です。
この立方体は、小さな立方体が何個ずつ並んだものでしょうか。
上下左右に1個ずつとりのぞいたのですから、縦・横・高さに8個ずつ並べたものです。
つまり、その個数は、
8×8×8=512(個)
全体の立方体の個数は、
10×10×10=1000(個)
したがって、色が塗られている立方体の個数は、
1000-512=488(個)
簡単に答が出ました!
こうした「裏側を考える」「そうではないものを数える」考え方は、高校数A「確率」では余事象の確率の利用という形できわめて多く使用される考え方です。
ちょっと考え方を変えるだけで、とても簡単に問題を解けますね。
さて、問題
1辺1㎝の立方体を縦・横・高さそれぞれに10個ずつ並べて、上の図のように1辺10㎝の立方体を作りました。
この立方体の表面全てに色を塗ったのち、バラバラに崩しました。
1辺1㎝の立方体のうち、どこかの面に色が塗られているものは何個ありますか。
受験算数の典型題ですね。
先日、NHK「3か月でマスターする数学」でも、取り上げられていました。
自分で考えてみたいという方は、ここで一旦閉じて、お楽しみください。
さて、ここからは、解説。
まずは、一番地道な方法から解説しましょう。
色が塗られている立方体を地道に数えます。
1辺10㎝の立方体の1つの面にある、1辺1㎝の立方体の数は、
10×10=100(個)
面は6つあるので、
100×6=600(個)
しかし、これはダブって数えていますね。
どの位置の立方体をダブって数えているでしょうか。
まず、3つの面に同時に存在している立方体があります。
大きな立方体の頂点の位置にあるものです。
頂点の数は、8個。
この8個の小さな立方体を3回数えてしまっています。
だから、2回分、引きましょう。
すなわち、
8×2=16
また、2面に同時に存在している立方体もあります。
大きな立方体の辺のところに存在して、頂点の位置にはないもの。
1つの辺に小さな立方体は10個存在しますが、そのうち、上下の2個は頂点の位置のものですから、
10-2=8(個)
立方体に辺は12本ありますので、
8×12=96(個)
これは、2回数えてしまった分ですので、1回分を引けばいいでしょう。
すなわち、求める立方体の数は、
600-16-96=488(個)
答は、488個 です。
これはこれで、別に間違ってはいないですが、面倒くさかったですね。
頂点の位置の立方体を3回数えてしまっているところが、面倒でした。
それを2回分引かなければならない、というあたりで誤解をしたり計算ミスをしたりする人が出そうです。
もう少し簡単に求める方法はないでしょうか。
では、大きな立方体の側面にある色を塗られたものの数だけを優先して数えて、あとで上の底面と下の底面で数えていなかったものを足すのはどうでしょうか。
少しわかりやすいような気がします。
側面の1つの面にある小さな立方体の数は、
10×10=100(個)
側面は4つあるから、
100×4=400(個)
このうち、辺の位置に存在するものは、ダブって数えています。
辺の位置に存在する立方体は10個。
辺は4つありますから、
10×4=40(個)
これを引きますので、
400-40=360(個)
これで側面の分は計算しました。
あとは、上の底面の分。
既に側面で計算済みのものは最初から除外しましょう。
上の底面の外側1周分のものは、側面に存在する立方体でもありますから、最初から除外すると、
まだ数えていない上の底面にある立方体は、
8×8=64(個)
下の底面にも同じ数だけあるので、
64×2=128(個)
これを、先ほどの側面の個数とあわせて、
360+128=488(個)
先ほどと同じ答になりました。
少しスッキリしたけれど、まだ面倒くさかったですね。
もっと簡単に求める方法はないのでしょうか?
先ほど、上の底面の立方体を数える際に、外側1周を最初から除外しましたよね。
この考え方は、使えないでしょうか?
そうだ!
色が塗られている立方体の数を数えるのではなく、それは除外して、色が塗られていない立方体の数を数えて、最後に全体から引くのはどうでしょうか。
頭の中で、外側一面の小さな立方体をはぎとりましょう。
1個ずつ、すべての面から取り除くと?
残った、色が塗られていないかたまりも、これもまた立方体です。
この立方体は、小さな立方体が何個ずつ並んだものでしょうか。
上下左右に1個ずつとりのぞいたのですから、縦・横・高さに8個ずつ並べたものです。
つまり、その個数は、
8×8×8=512(個)
全体の立方体の個数は、
10×10×10=1000(個)
したがって、色が塗られている立方体の個数は、
1000-512=488(個)
簡単に答が出ました!
こうした「裏側を考える」「そうではないものを数える」考え方は、高校数A「確率」では余事象の確率の利用という形できわめて多く使用される考え方です。
ちょっと考え方を変えるだけで、とても簡単に問題を解けますね。