たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2021年03月02日

都立高校の合格発表がありました。2021年3月。



本日、2021年3月2日は、都立高校入試合格発表の日。
私も、早朝から目が覚め、そわそわしておりました。
今年度の中3受験生は1名。
結果は、見事合格。
おめでとうございます。
やった。
本当に良かった。
よく頑張りました。
夏以降、絞り込んだ3つの志望校の中の、一番上のランクの高校に無事に合格しました。

これまでの都立高校入試結果は以下の通りです。

◎2021年度
都立神代高校 合格

◎2020年度
都立調布北高校 合格

◎2019年度
都立新宿高校 合格

◎2018年度
都立西高校 合格  
都立南平高校 合格 

◎2017年度・2016年度
受験生在籍者なし

◎2015年度
都立神代高校 (推薦入試) 合格
都立調布南高校 合格

◎2014年度
都立青山高校 合格
都立豊多摩高校 (推薦入試) 合格
都立杉並高校 合格


こうした合格一覧を見ても、
「どうせ、これの倍くらい、不合格の生徒がいるよ」
と思う方もいらっしゃるでしょうか。

いいえ。
うちの塾は、創設当初の1名だけ残念ながら不合格となりましたが、2014年度以降、都立高校合格率100%を維持しています。
安全策を講じて志望校のランクを下げさせたこともありません。
合格率にこだわっているわけではないのです。
それでも、全員合格します。
他塾に通う生徒たちの多くは、12月や1月に受験校のランクを下げます。
その情報に動揺する生徒もがっちり支えて、毎年合格をサポートしています。


しかし、上記の疑いも、理解できないわけではありません。
実際、大手の塾の場合、合格率は発表できない場合が多いのです。
「都立自校作成校〇〇名合格!」
と宣伝している影で、不合格だった生徒の人数とその割合は、伏せられています。

合格率100%を維持する秘訣は?

これは別に魔法でも何でもなく、1つは、教材の良さにあります。
私は、都立高校入試指導30年を超えるベテラン講師です。
豊富な過去問のストックと指導知識から判断した教材を、必要な時期に必要な量だけ提示しています。

そんなの普通のことでは?

いいえ。
これは、都立入試に関しては、普通のことではないのです。
集団指導塾にしろ、大手個別指導塾にしろ、都立高校入試は、プロが指導にあたるとは限らないのです。
都立自校作成校を受験する生徒は、実力のある講師に任せます。
しかし、普通の都立志望で、生徒本人の成績も普通ということになってくると、講師は、学生アルバイトの場合が多くなります。
しかも、下手をすると、その年、初めて講師の仕事をする初心者だったりします。
つまり、塾側が、都立高校入試指導を「初心者でもできる簡単な仕事」だと判断してしまう場合があるのです。
そして、教材は、塾側が用意した、普通の中学3年間の総まとめテキストになります。
本人の必要・不必要と関係なく、べったりと1章から順番にテキストを解くだけになりがちです。

ほおっておいても勝手に勉強して、勝手に成績が上がる優秀な生徒たちに、より高度なことをどんどん教えるのも、確かに大切な仕事。
そこに人材を投入し、「〇〇高校〇〇名合格!」という宣伝文句を掲げるのも、理解はできます。

でも、それでは、普通の成績で、友達が通っているのと同じ塾に何となく通い、成績が上がらないまま志望校を下げさせられたり不合格になったりする生徒たちの気持ちは?
不合格になっても、そのことを伏せられ、いなかったことにされてしまう彼らの存在は?
ただ、月謝を納めるだけの存在なんですか?
良い講師にも良い教材にも出会えずに?


生徒側にも責任の一端はあるのです。
「〇〇高校〇〇名合格!」の中に自分の子も入れると、何となく思ってしまっていないでしょうか。
人は、強い者に共感し、強い立場の者と自分を同一視しがちです。
自分が、存在を伏せられる側になるとは、思っていないのです。

学生アルバイト講師が若く魅力的だということも大きな要因でしょう。
教えることのピントが多少ズレていたって、若い先生に教わるほうがモチベーションが上がる。
何より重要なのは、本人がやる気になって勉強することですから。
そういう生徒が、やる気になって実際に成績が上がるのなら、それも1つの教育効果です。
そういう幸福な例も確かにあります。

ただ、やる気だけでピントのズレた勉強をして何とかなるほど、都立高校入試は甘くはないです。
倍率は低くはない。
毎年、多数の生徒が不合格になります。
特に、中堅の都立高校は、合格の見極めが難しいのです。
最終的に受験校をランクダウンした生徒が「上から降ってくる」ので、どんどん押し出されてしまうのです。

そして、生徒自身の学習姿勢。
生徒に任せておくと、問題集を解いてもすぐに解答を見てしまったり、過去問の解答を暗記することで勉強した気になったりします。
本当に暗記が必要なことを覚えようとせず、やたらと問題を解き散らかしたり。
それで間違えても、解き直すという習慣はなかったり。
勉強のやり方について根本的な改善が必要な生徒は多いです。
学生アルバイト講師は、生徒のそのような学習の課題に気づかないことがあります。
学生アルバイト講師は、真面目に勉強して高校生になり大学生になった、素直な性格の子が多いので、勉強が苦手な生徒が、どういうダメな勉強をしているために成績が上がらないのか、よくわからないのです。
こうしなさいと言ったことを生徒がその通りにしない理由が、よくわからない。
自分が一所懸命教えても成績が伸びない子については、もうそれで仕方ないと思ってしまいます。
この子が伸びないのは、この子のせい。
素質の問題。
自分のせいではない。
そのように考えてしまいます。

生徒や保護者は、「〇〇高校〇〇名合格」に自分も加われると思って塾に通っている。
塾側は、そんなことは考えていない。
それなりの学力の生徒には、それなりの講師を担当させる傾向があります。
ベテラン講師には、時給に見合う仕事を任せたいのです。

私自身も、大手の個別指導塾の講師をしていた頃は、2月や3月、受験生が卒業して一時的に生徒が減る時期には、都立高校を受験する普通の中学生の授業に入っていました。
しかし、5月以降、大学生のアルバイトが新規採用される頃になると、そうした生徒の担当から外れるのが常でした。
中学受験生や大学受験生の新規の生徒が入る度に、そちらの授業に担当が変わることになりました。

たまたま指導を続けることになった中学生は志望校に合格していましたが、そのことを教務が高く評価してくれたかというと、そうでもなかった気がします。
中学受験生や大学受験生が志望校に合格した際のねぎらい方とは何だか違って、教務の笑顔、喜び方がたりない。
私が生徒を中堅都立高校に合格させるのは、当たり前。
むしろ、コストパフォーマンスが低い。
そう思われているのだろうかと首をひねることもありました。

中学生の指導を5月以降変えられることが多かった。
それは、都立高校を受験する普通の中学生からの強い指名がなかった、という見方もできますし、それも事実かと思います。
ベテランのおばさん講師よりも、大学生の、若くて可愛い、あるいはカッコいい講師に教わるほうが楽しかったのでしょう。
私に教わるほうが、志望校に合格する可能性が高かったのですが。
しかし、そんなことは、中学生にわかるはずもないこと。
そして、若く未熟な講師に教わって、結果が残念なものでも、「先生、大好き」と言って平和に卒業していくのだから、塾側としても、何も問題はなかったのです。

それでいいなら、それでいい。
けれど。

中堅都立に絶対に合格したい人。
今の学力より、あと2ランク上の都立高校に合格したい人。
全力でサポートします。
勿論、上記のように、自校作成校受験に関しても、合格のノウハウを持っています。

中学3年生の都立受験指導は、英語・数学だけでなく、入試5教科すべての指導を承っております。
毎年、5教科完全サポートで、合格に導いています。
お問い合わせください。


  


  • 2020年12月21日

    期末テストの結果が出ました。2020年2学期。


    2020年度2学期期末テストの結果が出ました。
    数学 80点台 1人 70点台 1人 60点台 2人 50点台 1人
    英語 80点台 1人 70点台 2人 60点台 1人 40点台 1人

    中間テストで上がった人は期末テストは少し下がる傾向がそのまま表れましたが、下がり度合いが小さいのは良い傾向です。
    全体にじわじわと上昇傾向にあり、安堵しています。
    特筆すべきは、中高一貫校に通う女子生徒の数学が、中学数学から高校数学に進んでから、上がってきていること。
    中学数学の間は、あまりにもハイスピードで授業が進むので、あれよあれよという間に1つの単元が終わり、理解する暇も練習を重ねる時間もなかったのです。
    高校数学に入り、さすがに授業スピードが弱まり、じっくり腰をすえて学習できるようになったことが大きいと思います。

    これは、今年に限っては、公立中学でも言えることです。
    7月から、本格的な授業が始まると、スピードが速い速い速い。
    ちょっと速すぎます。
    学年内にその学年の学習を終了できる目途が立ってからも、スピードが弱まらないのです。
    3学期に再び休校になることを恐れてのことなのかもしれません。

    特に中1は、中学の数学に慣れることが必要です。
    もう少しじっくり丁寧にやらなければ理解できない子が沢山います。

    正負の数は、まあまあ理解できました。

    文字式は、計算だけなら何とか。
    でも、数量を文字で表すことができるようになった子が、どれほどいるか。

    1次方程式も、計算だけなら何とか。
    しかし、文章題は、壊滅状態です。

    「比例・反比例」という単元は、学習したのかしないのか、わからないくらいのスピードで駆け抜けました。
    比例のグラフすら正しく描けない子がいます。

    そうこうするうちに、図形分野に突入。
    作図の何たるかをわかっていないため、円の接線を目分量で引こうとします。
    もっとじっくりやりたいと思っているうちに、学校の授業はおうぎ形の計量に進んでいました。
    π(パイ)を使うことを忘れ、3.14で解いている宿題に頭を抱えているうちに、学校は空間図形に突入しました。
    「何か、三角柱とかやってる」
    「・・・多面体のことですか?」
    「わからない・・・」
    と、学習の目的すら周知されていない様子の中、翌週には、
    「何か、わからないのがある」
    「何?」
    「わからない・・・」
    「何がわからないのかも、わからない?」
    よくよく聞くと、ねじれの位置がわからないのでした。
    ねじれの位置という言葉の意味がわからない中1に、私は初めて出会いました。
    問題に正答できる・できないはまた別ですが、ねじれの位置という概念は、学校の授業で簡単に理解できるもののはず・・・。


    上のような状態が、数学は常に「2」になるか「3」になるかギリギリ、という学力の子であるなら、それは納得できる側面もあります。
    しかし、そうではありません。
    もっとずっと高い学力層の子で、それが起こっています。
    学校の授業が理解できないので、塾でようやく理解するということが増えているのです。

    学校の先生と生徒との間に、距離があるのではないか?

    今の中学に「不良」は存在しません。
    みんな「良い子」です。
    授業中は皆で積極的に手を上げ、熱心に授業に参加し、先生の言うことをよく聞く子ばかりだそうです。

    そうした上っ面の背後で何が起こっているのか?
    わかってもいないことを、わかったふりをしている子が増えてはいないか?
    皆がわかったふりをするので、授業スピードはどんどん上がり、それで大丈夫ということになってはいないのでしょうか?

    うちの塾でも、どう見てもわかっていないのに、
    「わかりましたか?」
    と訊くと、うなずく子が増えています。
    「いやいやいや。わかっていないでしょう?」
    生徒の表情を見て、こちらで判断して、さらに解説をしています。
    生徒の表情を読んで、わかっていないことを汲み取らないといけません。

    わからないことを「わからない」と言ったからといって、成績は下がらないのに。
    わからないことをわからないままにしておくから、テストで得点がふるわず、それは、成績にダイレクトに響くのに。
    「わからない」と相手に告げる際に生じる人間関係の緊張に耐えられないということもあるのでしょうか。

    とにかく、波風を立ててはいけない。
    反対意見を言ってはいけない。
    先生は頑張っているのだから、批判してはいけない。
    いや、「わからない」と言うことは、先生を批判することではないのですが。

    高校数学に入って数学の成績がじわじわと上がっている子は、わからないことは、わからないと言う子です。
    言葉は足りない。
    上手く伝えられない。
    論理的にものごとを語るのは難しい。
    それは、そういう練習をしている年齢なのだから当然です。
    でも、「わからない」という意思表示をします。
    それは学校でも。
    だから、基本的な疑問は学校で解決し、具体的な問題への対応の仕方を中心に塾で演習できます。

    中高一貫校の生徒なので、休校中もリモート授業が行われ、学校の先生が進度の心配をしなくて済み、じっくりと学習できているのも大きいでしょう。
    そうはいっても・・・。
    そんなことを思う日々です。

      


  • Posted by セギ at 10:59Comments(0)講師日記

    2020年11月02日

    間違えた問題から学ぶ。



    中学1年生の場合、2学期は下降傾向が続くことがあります。
    1学期の定期テストは80点台だったのに、2学期中間は60点台、期末はさらに下がってしまう、というように。
    これは、1学期の成績が良すぎたからであり、2学期以降の成績が本人の実力ということが多いのです。
    英語も数学も、中学1年の1学期は、まだ内容も易しく、誰でも高得点を取ることが可能です。
    中1の1学期の成績は幻なのです。

    ところが、小学校のカラーテストの得点と、中1の1学期の定期テストの得点がよく似た点数のため、そこが地続きであるような印象を本人も保護者の方も抱いてしまうことがあります。
    だから、2学期での急落に驚きます。

    小学校のカラーテストがほとんど80点台、90点台だったとしても、中学のテストが60点台なのは、よくあることです。
    中学生になって急に学力が下がったわけではありません。
    テストのレベルや目的が違うのです。

    小学校のカラーテストは、基本が身についていることを確認するためのものです。
    誰でも100点を取ることが可能なように設計されています。
    小学校で得点分布データが示されることはないでしょうが、最頻値は80点台から90点台だったはずです。
    一方、中学の定期テストは、学力を測るためのものです。
    平均点が65点前後で、中央値と平均値と最頻値がほぼ一致する、美しいヒストグラムが作られるのが理想です。
    実際には、なかなかそうはならないのですが。

    「うちの子、小学校のテストはいつも80点台か90点台だったし、中1の1学期も80点台だったけれど、2学期の中間テストは60点台、期末テストはさらに下がった・・・」
    そのように嘆くのは、ちょっと違います。
    むしろ、中学のテストで60点台以下になるだろう学力の子が、小学校のカラーテストで80点、90点を取っていたのだと考えたほうがいいのです。
    学力は下がっていません。
    変わっていないのです。


    では、その得点は、運命なのか?

    いいえ。
    テストの得点が下がるだけ下がり、実力がわかったところで、そこからが勝負です。
    小学生のような気分で勉強していたらダメなことは、もうわかったと思います。
    ザルで水をすくうような勉強をしていると、今後も下がります。
    中1の3学期は少し持ち直す子が多いですが、中2になると、さらに、中1でも取ったことのないような低い点を取る子もいます。
    中2の2学期、悪夢のような「底」の「底」が待っています。

    小学生のような勉強。
    ザルで水をすくうような勉強。

    成績の上がらない子は、勉強のやり方が悪いのです。
    彼らの勉強のやり方は、それをやったらダメだというNG集のようです。

    例えば、定期テストの範囲である、学校のワークや問題集。
    間違えた問題は赤ペンで直して提出。
    それは学校から指示されています。
    しかし、その指示の本質を理解していないのです。
    最初から解答解説を横に開いて、それを見ながら解き、全部丸をつけて提出する子がいます。
    自分で解いて間違えてしまった場合も、自分の答は消しゴムで消して書き直し、丸をつけて提出する子もいます。

    全部正答したことにして提出するという謎の行動は、真面目に勉強しているように見えるのに成績の上がらない子に多い傾向です。
    誤答の多いワークを提出すると、学校の先生に「この子は勉強ができない」と思われてしまうから?
    いや、学力は知られていますから、そんなことは気にしなくていいのです。
    学校の先生が成績をつける際の、提出物に対する加点は、本人に解答を渡してある場合は、やってあれば全員同じ加点です。
    丸が多い子に多くの点を与えるということはないのです。
    ワークはバツだらけだが、テストは頑張って得点している。
    この子は、努力して勉強している。
    そういう子のほうが、むしろ印象が良いのです。
    しかし、まだ子どもなので、それを理解できないのでしょう。
    うわっ面にこだわってしまいます。

    もっとも、さらに勉強が苦手な子になると、学校のワークの解答解説を管理することができず紛失してしまう子もいます。
    解答を持っていても、「赤ペンで直して提出」という先生の指示に従うことが上手くできない子もいます。
    解いていないところが多かったり。
    丸つけをしていないワークを提出したり。
    あるいは提出しなかったり。
    そうやって、さらに成績を下げてしまうこともあります。
    ただ、むしろ、そうした子は、学習上の課題が外からも見えやすいのです。
    こうした課題が簡単に解決するとは限らないものの、何が原因であるかは明瞭です。

    ワークは全部正答の形で提出し、テストの点数は60点台あるいはそれ以下、という子のほうが、問題の根が深いように思います。
    課題が表面化しづらく、保護者の方の目からは、真面目に勉強しているように見えてしまうからです。
    真面目に頑張っているのに、何で成績が上がらないのかしら?

    ・・・いや、上がるわけがないです。

    テスト勉強というと、解答解説を見ながらワークを解くこと。
    そうして、それに全部丸をつけて、正答したかのような形にしてしまう。
    あとは、教科書や学校の授業ノートをきれいに書き写しただけのノート作り。
    市販の問題集があれば、それも解答解説を見ながら解く。
    それが、テスト勉強の全て。
    それ以外に、何をしたらよいか、わからない・・・。
    そんな勉強で、成績が上がるわけがありません。

    仕方ないのです。
    小学校のカラーテストのための勉強も、何をしたらよいかよくわからなかったはずです。
    教科書準拠の市販のワークを持っている子は、漫然とそれを解いたり。
    通信添削をやっている子は、漫然とそれを解いたり。
    それだけで、でも、結構良い点が取れたと思います。
    小学校の学習内容は易しいので、ザルですくうような学習でも、ザルに結構引っかかるのです。
    家庭学習のやり方を自分で考えて実行しなくても、大丈夫だったのです。
    中学に入って、急に学習方法を考えろと言われても、何をどうしていいかわかるわけがありません。

    彼らは「学習する」ということの本質を理解していないのです。
    そして、それはあまりにも本質であるため、言語化しにくく、それがわからない子には、なかなか伝わらないことなのです。

    勉強が得意な人に勉強法を尋ねたら、標準的な答は、
    「テスト勉強?まず、教科書や参考書や授業ノートを読んで、公式や重要事項を覚えて、それから問題を解く。間違えた問題は、赤ペンで答を直して、印をつけて、後で解き直すといいんじゃないかな」
    といったものではないでしょうか?
    その返答は、何も間違っていない。
    しかし、勉強のやり方を知らない子にとっては、それは表面的な「作業」の伝達でしかなく、本質は伝わっていかないのです。

    勉強が得意な子は、間違えた問題、解けなかった問題から多くのことを学び取ります。
    自分がミスをしやすい箇所に気づく。
    解き方のパターンや法則を把握する。
    公式や定理の活用の仕方を把握する。
    発想法を学ぶ。
    無言で解答解説を読んたり書き写したりしているだけに見える作業の中に「学習」の本質があります。

    学校の先生が、ワーク・問題集は丸つけをして赤ペンで直しなさいと要求していることの本質は、そういうことです。
    間違えた問題は解き直しなさい、と要求していることの本質も、そういうことです。

    しかし、それを理解していない子どもたちがいます。
    わからないとすぐ解答を見ているようでは、「考える」とか「発想する」ということが何をどうすることなのかを学ぶことができません。
    数学では、立式するまでが最重要であるのに、そこまでは解答を写し、その先の計算だけ自分でやって、勉強した気になってしまうのです。
    理解したからいいだろう、これは自分で解いた問題だと、丸をつけてしまいます。
    そして、テスト当日、自分が何も解けないことに愕然とする・・・。
    公式だけは丸暗記しても、使い方を知らないことに、テスト当日になって気づくのです。

    「赤ペンで直しなさい」という作業の意味を理解していない子は多いです。
    そうした子にとって、正答を書き写すことは、本当にただ書き写すことなのです。
    正答の内容を理解しようとか、自分が間違えた原因は何かとか、何が大事なことなのか、といったことは考えていません。
    そんなふうだから、自分の誤答を書き直して丸をつけ、間違えたという事実を消してしまうという暴挙に出るのでしょう。
    間違えた問題の価値をわかっていないからそうするのです。
    間違えたことを、自分の記憶の中ですら消してしまいます。
    そうして、大切な学習の機会を自ら失っていきます。

    塾の授業でも同じです。
    「あなたは、前回も、こういう問題のここのところを間違えていましたよ」
    と私が指摘すると、何て嫌なことを言う人だろうと驚いた顔をするか、ごまかし笑いをするか、全く身に覚えがないのできょとんとした顔をするか、です。
    そして、同じような問題の同じようなところを同じように間違い続けます。
    自らの学習能力を封印しているかのように。

    自分は何が出来、何が出来ないのか。
    自分の課題は何か。
    この問題から学ぶべきことは何か。

    勉強が得意な子は、それを自力で分析し、改善します。
    そうすることが学習の本質だとわかっているのです。
    しかし、勉強が苦手な子は、間違えた問題から何かを学ぶということが上手くできません。
    間違えた問題を解き直す習慣も持っていません。
    自分の答を書き直し、丸をつけるだけです。

    なぜそのような行動をとってしまうのかといえば、結局、理由は「勉強が苦手だから」なのでしょう。
    勉強が苦手なことを隠したい。
    認めたくない。
    そうした気持ちが強いので、間違えた問題にバツをつけたり印をつけることさえできないのだと思います。
    印をつけなさいと言われると、恥をかかされた、罰を受けた、と感じるのか、表情の歪む子もいます。
    「間違えた問題は印をつけて、後で解き直すと力がつきますよ」
    そのように、なぜ印をつけるのかを説明しますが、私が言わないと印をつけることが習慣にならない子が、勉強が苦手な子には多いです。
    そして、言われたとおりに印をつけたとしても、助言通りに家に帰って解き直しをしているのかどうか・・・。
    あるいは、言われた通りに解き直しているのだとしても、それは意味のある解き直しになっているのかどうか・・・。
    同じことをまた同じように間違えているだけなのではないか?


    先日、遅ればせながら『鬼滅の刃』を見ました。
    味わい深いと思ったのは、主人公が同期の仲間に「全集中の呼吸・常中」という技を教える場面でした。
    「肺をこう。こうやって大きくするんだ。血が驚いたら、骨と筋肉がブオンブオンて言ってくるから、留めるんだ」

    ・・・何を言っているのか、さっぱりわからない・・・。
    奥義というものは、言葉にしても、本質が伝わりません。

    学習能力も、それを会得していない子にとっては、同じようなものなのかもしれません。
    勉強が得意な子は、数学の問題を1題間違えた際、解答解説を読み取る中で、そこで使われている公式もテクニックも発想法も習得します。
    英語の問題を1題間違えた際、そこで扱われている文法事項や重要表現の何をどう自分が間違えたのか、習得します。
    だから、類題を解くときには、習得した内容を活用して、今度は正答します。

    しかし、勉強が苦手な子は、類題を解いても、同じことを同じように間違えてしまいます。
    「同じことを同じように間違えている」と指摘されても、何がどう同じなのかわからないのかもしれません。
    自ら学べないだけでなく、何をどう間違っているかを解説されても、習得できないことすらあります。
    その後に類題を解いても、また同じことを同じように間違えてしまうのです。

    間違えた問題から学ぶ。
    それが学習の奥義です。
    「間違えた問題があったら、解答解説を読むんだ。そうすると、大事なところがパッとわかるから、それを脳に入れると、他のこととブワンブワンとつながって、次に同じような問題を見たら解けるんだ」
    ・・・勉強が苦手な子にとっては、こんな説明を聞いても、訳がわからないと思います。
    何をどうすることなのか、わからない・・・。
    解答解説を読んでも、大事なところなどわからない。
    次に同じような問題を見ても同じだとわからないし、解けない。
    奥義にアクセスすることができないのです。

    そうするうちに、学習した当初は自力で解いていた基本問題も解き方がわからなくなって解けなくなっていく子も多いです。
    勉強が苦手な子は、間違えた問題だけを解き直していても、学習は完成しません。
    もう一度、その単元の最初から解き直してみると、解けなくなっている問題が多いのです。
    学習した当初は例題をなぞって正解した問題も、記憶にとどめていないので、時間が経過すれば解けなくなっています。
    重要なことを識別し長く脳に留めておくという技術を身につけていないのでしょう。
    勉強した内容はすぐに忘れてしまいます。

    脳の空き容量を常に大きくしておくことが最優先であるかのように。

    脳の使い方が違う。

    脳の出来が違うのではないと思います。
    脳の使い方が違うのです。

    それを教えるのが個別指導です。
    入会当初は自分の誤答を書き直して丸をつけるような暴挙に出ていた子に、不毛に感じるほどに繰り返し繰り返し間違えた問題には印をつけさせ、解き直すように指示します。
    あわせて、類題を宿題に出します。
    同じような問題が同じように解けないときも繰り返し繰り返し説明し、なぜ正答が増えないか、本人が開眼するのを辛抱強く待ちます。
    生徒が把握できないことは私が把握し、学習を設計し、テスト直前まで、解ける問題と解けない問題を区別し続け、何が出来、何が出来ないか、何が課題かを説明し続けます。
    何が重要で、何をどう考えて問題を解くのかを教え続けています。
    自立して学習できるようになるまで。

    中1の2学期、あるいは中2の2学期、「底」を見た生徒が、これまでも多く入会してくれました。
    入会時は40点台。
    いったん底を見たところから、今は80点台に上がった人もいます。
    次のテストではまた下がるかもしれません。
    しかし、40点台になることは、もうないでしょう。
    ザルで水をすくうような勉強は、もうしていないですから。
    他の子も、それぞれに回復を図り、今回のテストでは40点台はなくなりました。

      


  • Posted by セギ at 11:08Comments(0)講師日記

    2020年08月04日

    1学期期末テストの結果が出ました。2020年。


    1学期期末テストの結果が出ました。
    前年の学年末テストのなかった学校も多く、1学期中間テストもなかったので、本当に久しぶりの定期テストでした。

    数学 70点台 3人  60点台 3人  50点台 1人
    英語 80点台 3人  70点台 1人  60点台 1人 40点台 1人

    塾内での数学最高点は、学年平均点が40点台のテストでの70点台でした。
    価値ある得点と感じます。
    今年も、まずはここからです。

    得点にもう一歩の伸び悩みのある子の多くは、応用問題は正答できるのに、基本問題で取りこぼすという共通の特徴があります。
    これは得点できるだろうという単なる計算問題で失点してしまいます。
    つまらない失点が多いのに、テスト後半の応用問題や記述問題で正答しています。
    そんな結果を見ても、まだ、解けなかったほうの応用問題が気になってしまう様子です。
    失点した基本問題のほうを気にしてほしい・・・。
    そんなところを間違ったりしなければ、数学で80点台も90点台も実現可能です。

    基本問題で失点する子の中には、もう何がどうなろうとケアレスミスはするので、そこをあまりつついても悪化するばかりだから何も言わないほうがいい子もいます。
    「2」と書くつもりで「3」と書いてしまい、自分では気がつかなかったりしますから、これはもう仕方ないのです。
    頭の中で「ときそば」が起こるのでしょう。
    頭はいい場合が多いです。
    英語は突出して出来たりします。
    でも、数学は、書き間違いや計算ミスがとにかく多いのです。

    数学の問題を解いているときの精神状態がかなり悪い場合も考えられます。
    小学校の高学年の頃から、ケアレスミスが増えていきます。
    何でそんなミスをするのか、本人にもわからないミスが多いです。
    原因も特になく、傾向もはっきりしない。
    あ、わかった、と思った瞬間に、例えば、3:2を、2:3と逆に書いてしまう。
    45だ、と思った瞬間に、47と書いてしまう。
    かけ算だとわかっていたのに、なぜかたし算してしまう。
    客観的に眺めていると、意味がわからない・・・。
    とにかく常にふわふわした精神状態の子と、緊張と動揺が表情に出ている子と、両方の場合がありますが、ミスが多いのは同じです。

    どうすれば、ケアレスミスがなくなるんでしょうか?

    うーん・・・。
    ・・・なくならないかもしれません。
    減らすことはある程度できると思いますが、完全になくなることはないのではないかと思います。
    「ふわふわ」系の子は、意識の5割程度しか目の前の問題に割いていないように見えます。
    常に何か他のことを同時に考えているように見えるのです。
    いつも気が散っています。
    そんな状態で数学の問題を解いています。
    なぜなのかは、おそらく本人もわからないのではないかと思います。
    目の前の1つのことに集中することが、できないようなのです。

    「緊張・動揺」系の子は、数学の問題を解いているときの表情に、悪い精神状態が表れています。
    数学の問題を解きながら、明らかに動揺しています。
    疲れがたまっていて、ダメだ今日は計算が合わないという日が私にもありますが、あのモヤッとした頭の状態なのではないかと思うのです。
    だとしたら、なす術がありません。
    精度を維持できないのです。

    そうなることを踏まえて、そういうことと折り合いをつけながら、できうる限りの得点を目指していく。
    精神状態を自分でコントロールできるようになると、少し変わってくると思います。


    それとは別に、基本問題を軽視しているため、テストで失敗する子もいます。
    テスト前は、応用問題ばかり練習しているようです。
    単なる計算問題は、テスト前1週間は全く解いていなかったりします。
    そして、テスト当日、解こうとすると、何だか手が上手く動かない。
    やり方がわからないわけではないけれど、何だかたどたどしい。
    そして、計算ミスをします。
    そんな場合もあります。

    これは、解決可能です。
    今回は、そんな子が多かったです。
    テスト勉強のバランスが悪いのです。
    応用問題が解けるようになると、もう数学は大丈夫と思い、他の科目の勉強に時間をかけたのではないでしょうか。
    数学はまあ普段やっているから大丈夫と思って、テスト前日はろくに勉強しなかったのでは?
    テスト前にやっておかなかったら、計算は手も頭も上手く動きません。
    このたどたどしさは、単なる練習不足のたどたどしさでは?
    そんな印象の答案もありました。


    何はともあれ、まずはここから。
    ここから伸びていこう。
    そう思います。

      


  • Posted by セギ at 01:10Comments(0)講師日記

    2020年06月11日

    オンライン授業を始めています。



    2020年6月8日(月)、教室にようやく光回線が通りました。
    これで、全授業をオンライン化することが可能となりました。

    咳・くしゃみ・微熱などの症状がある場合は、オンライン授業をお申込みください。
    オンライン授業への変更は当日で可能です。
    コロナ対策だけでなく、普通の風邪やインフルエンザ対策としても、お願いいたします。
    せっかく通塾いただいても、そのまま帰宅していただく場合があります。
    ご了承ください。
    なお、今まで通り、前日までのご連絡ならば振替が可能です。

    また、台風や大雪の場合は、こちらからオンライン授業への変更を提案いたしますが、休講も承ります。
    今までと同様、台風当日・大雪初日の場合は、当日のご連絡でも欠席扱いはせず振替が可能です。
    台風の翌日や大雪の2日目以降の当日欠席は、振替授業はできませんので、ご了承ください。
    ゲリラ豪雨による欠席は振替授業の対象ではありませんが、オンライン授業への変更のご希望は承ります。
    よろしくお願いいたします。

    オンライン授業初回は、さまざまな連絡が必要となります。
    遅くとも授業の当日2時間前にはオンラインへの変更をご連絡いただけると助かります。
    また、その際にはオンタイムで会話できるよう、LINEで「友だち」になりましょう。

    これまで、初回の授業はトラブルが起こることが多く、授業開始が10分ほど遅れています。
    原因の第一は、音声が通じないことです。
    私のパソコンやスマートフォンでそのような事態が発生したことがないので、原因はよくわかりません。
    「パソコンのオーディオを使用する」にチェックが入っていないことが主な原因と考えられます。
    ソフトをあらかじめ使用し、操作に慣れておかれることをお勧めします。


    近年、LINE利用が普通になっていることもあり、教室にご登録いただいているメールアドレスは、すぐには御覧にならないアドレスが多くなってきています。
    台風や大雪で休校の連絡をこちらからする場合に、なかなか返信がなく心配なことがあります。
    オンライン授業では、即レスできるツールでの連絡が必要となります。
    よろしくお願いいたします。
    なお、私のパソコンアドレスは、数日に一度チェックするアドレスです。
    急を要するご連絡は、携帯アドレスまたはLINEにお願いいたします。

    オンライン2回目以降は、授業開始15分前までにご連絡いただければ何とかなります。
    授業時間帯は、通常の授業時間帯と同じです。



    さて、ここからは雑感です。
    4月、コロナ禍で通塾を断念された方から、試験的にオンライン授業を始めていました。
    自転車で通うことが不可能な遠距離からの電車通学の方。
    小学生で、通塾に本人や保護者の方が不安を抱いた方。
    ウィルスの流行が収束するまで塾を休みたいという連絡があった方に、オンライン授業のご提案をしておりました。

    オンライン授業は午後の早い時間に私の自宅で行い、夜は教室で授業をするという形をとっていました。
    基本はそのようにしていたのですが、私立は普段よりむしろ遅い時間まで学校のオンライン授業があったり。
    公立も、5月後半になると、登校日が増えていきました。
    時間割は日々複雑化し、迷走しました。
    私のための教材は1部しかありませんので、自宅と教室と教材の行き来も必要で、神経を遣いました。

    教室でオンライン授業をできれば、こんな苦労はないのだが。
    しかし、その決断が遅かったのに加え、光回線の申し込みから開設までも1か月かかりましたので、完全オンライン化が遅くなりました。

    もう必要ないのでは?

    いいえ。
    これまでは、学校が休校し、さまざまな店も自粛していたので、生徒の感染の可能性は低かったのです。
    怖いのはこれからです。
    ワクチンが開発されたわけでも、治療法が確立されたわけでもないのに、なぜか気が緩み始めている人が多数。
    学校でクラスターが発生し休校という事態は、これから十分に起こり得ること。
    少しでも異変を感じたら、オンライン授業をお申し込みください。


    オンライン授業で、現時点の欠点は。
    英語の授業時にリスニングを行うことができません。
    英文科受験の高校3年生など、リスニングに重点をおいている授業では、オンライン化は現状難しいです。
    たまの1コマなら、その日だけリスニングは行わないということで大丈夫でしょう。
    音声ファイルを送り、授業時間外にリスニングを行うことは可能かと思いますが、受験学年以外は、そこまでしなくても、NHKラジオ講座などを活用して、授業とは別にリスニング力を鍛えていただければと思います。

    オンライン授業の欠点、2つ目。
    機動性。
    宿題の結果や授業中の演習の様子から判断してプリント教材をすぐに追加、ということは難しくなります。
    あらかじめ郵送したテキストやプリントでの授業となります。

    オンライン授業で「タイムラグ」を欠点に挙げる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はあまり気になりません。
    Wi-Fi環境によりますが、0.5秒ほどタイミングがズレることがあるのは事実です。
    しかし、対面授業でも、「タイムラグ」は起こるのです。
    例えば、こんな問題の答を生徒に音読してもらうとき。

    問題 次の空所を埋めなさい。
    I (  ) play tennis tomorrow.

    正解は、
    I (will) play tennis tomorrow.
    です。

    しかし、こういう問題の答えあわせは、通常大変な「タイムラグ」があり、私はそれを待つのが日常です。
    I ・・・・・・・・・・・・ will・・・・・・・play tennis・・・・・・・・tomorrow.

    宿題で解いたときにはそれでいいと思っていても、答を音読するときにまた不安になって、もう一度答を考えて確かめているのか、will を言うまでに約5秒。
    言い終わった後、本当にそれで良かったのかと、また考えているのか、次の単語を読み始めるまでに約3秒。
    そこまでは、まだ気持ちを理解できます。
    なぜか、解答とは直接関係のない最後の単語を読む前に2秒ほどのためらいがある子もいます。
    tomorrow が読めないために、ためらってしまうのでしょうか?
    しかし、他の単語のときも、最後の単語を読む前に長い間が空くことが多いのです。
    本当にこれで良かったのか、頭の中で最後の確認をしているのかもしれません。

    できれば、タイミングよく「正解!」と言ってあげたい。
    しかし、生徒がこの1文を言い終わるまでに呼吸をしないで待っていると、私は窒息します。
    生徒が、絶妙な間の悪さで tomorrow を言い終わったとき、私は、息を吐いた直後かもしれず、その後、息を吸ってからでなければ「正解」とは言えないのです。
    しかし、生徒は、自分の不可解なタイムラグには自覚がなく、一方、私が「正解」と言うタイミングが遅いと、「えっ?」と顔を上げます。

    いやいやいや、そんな顔をするのなら、もっとスラスラ読んでください。
    いつ読み終わるかわからないので、呼吸のタイミングを計れないのです。

    10代はまだ主観で生きていますから、自分のタイムラグには無自覚。
    一方、他人のタイムラグは気になるかもしれません。
    私の感想としては、普段からそうなので、オンラインのタイムラグには、特に問題を感じません。
    打てば響くような反応が必要とも思いません。
    私が指示する前に答を読み、私が「正解」と言う前に丸をつけるような子には、むしろ注意をします。
    ゆっくりでいいから、正確に。
    それで大丈夫です。


    オンライン授業の長所。その1。
    生徒の忘れ物がありません。
    これは重要なことで、例えば英語の授業で学校の教科書を忘れてきたら、その日、予習は進みません。
    数学の授業で、塾テキストを忘れてきたら、授業が先に進みません。
    学校は長い休校に入っていたので、今のところ予習ストックはありますが、学校が始まった途端、例年の倍速で進み始めています。
    学校と苛烈なデッドヒートとなったときに、生徒が教科書・テキストを忘れてきたら、そこで完全に追い抜かれます。
    コロナ禍以前ならば、私のテキストを一緒にのぞき込みながらの授業が可能でした。
    現在、生徒と私との間には、2メートルの距離があり、テキストを共有することができません。

    オンライン授業の長所。その2。
    学校の数学の進度を明瞭に把握でき、また、生徒からの質問が具体的です。
    学校の数学の教科書は、塾の授業では使わないので、持ってこない子が大半です。
    私もそのことを特に注意しません。
    進度さえわかればよいのです。
    しかし、進度を正確に説明できない子もいます。
    「『式の計算』をやっている・・・」
    うん。知っていますよ、それは。
    「式の計算」のどこをやっているの?
    しかし、その問いかけに正確に答えられない子もいます。
    学校がどこまで進んだかを覚えていない子もいれば、覚えてはいるのだがそれを正確に説明できない子もいます。
    言葉に詰まると、適当な説明でお茶を濁す子もいます。
    また、せっかくテスト範囲表が学校から配られても、それを忘れてきたら、次の授業は1週間後。
    情報の共有が何より大切と、どれだけ説明しても、子どもにはなかなかピンとこない話なのです。
    オンタイムで私が情報を得るには、生徒が家にいるのが一番です。
    そこには、すべての情報があります。
    また、教科書のこの問題がわからない、学校の問題集のこの問題がわからない、と事前に画像を送ってくれると、今までよりも質問対応がやりやすいです。

    オンライン授業の長所。その3。
    マスクなしで授業が可能です。
    室温・湿度なども本人の好みの状態の家庭内で、感染に怯えることなく、快適に授業を受けられます。
    通塾時間が不要なので、今までは無理だった早い時間の授業、または遅い時間の授業も可能と思います。

    オンライン個別指導。
    結構長所も多いのです。

      


  • Posted by セギ at 14:21Comments(0)講師日記コース案内

    2020年05月15日

    確証バイアスと計算ミス。



    ソーシャルディスタンスは2m。
    スーパーでもドラッグストアでも、レジの行列は一定の間隔で並ぶための線が床に貼られています。
    しかし、そのことに気づかず、すぐ後ろに並ぶ人がたまにいて、困惑することがあります。
    そんなとき、ちょっと後ろを振り返り、そのまま、さらに床に目を落とすと、床に貼られたテープに気づき、下がってくれる人もいます。
    知らない人との会話そのものにリスクがあるので、声を出す気にはなれません。
    こうした視線の動きで気づいてほしい。
    そう思うのですが、なかには全く気づいてくれない人もいます。

    先日、駅前の書店で買い物したときも、行列でやはりテープを無視して私のすぐ後ろに立った人がいました。
    その後、それぞれ別のレジで支払いを済ませたので、書店を出るのもほぼ同時になりました。
    ビルの3階にあるその書店から降りるエスカレーターで、その人は、わざわざ歩いてきて私のすぐ後ろに立ちました。
    私がちょっと歩いて距離を保とうとしても、またその人も数歩歩いて距離を詰めてくるのです。
    私の前には、別の人が立っていました。
    これ以上私が進んだら、今度は私が前の人に近づき過ぎてしまう・・・。
    普段なら特に何ということもない行動ですが、こういう時期にそれをやられると・・・。

    こうした人は、自分が間違った行動をとっていることに気づいていない可能性が高いのです。
    まさか、わざとやっているわけではないでしょうから。
    本人にもリスクのある行動です。
    私がもしも感染者だったら、どうするつもりなんだろう?

    むしろ、その人は、自分は正しいことをしていると思っていたかもしれません。
    行列は詰めて並ぶものだし、エスカレーターは後ろの人に迷惑をかけないようにどんどん歩くものだ。
    そう信じ込み、今の時期はそれが必ずしも正しいわけではないと気づいていなかったのだと思います。


    他人の振り見て我が振り直せ。
    「自分は間違っていない」と思い込んでいることはないか?
    自分のほうが間違っていることを示す情報が目の前にあるのに、気づいていないということはないだろうか?
    そんなふうに考えてみました。

    「確証バイアス」という言葉があります。
    自分が正しいことを証明する情報は目に入ってきやすいが、それを反証する情報は目に入りにくい。
    意識してのことではなく、本当に目に入らず、無視するそうなのです。

    だから、自分が間違っていても、間違っていると気づくのは難しい。
    確証バイアスは、学習面でも大きな課題です。


    数学の授業中、計算ミスをしているので、
    「そこ、間違っているんじゃない?」
    と柔らかく問いかけても、
    「間違ってません!」
    と即答する子が、かつていました。
    その子に、間違っていることを納得させるのには、他の子よりも時間がかかりました。
    計算ミスの箇所を指さしても、なかなかピンとこない様子でした。
    正しい答えを私が言ってもまだ「え?」と疑い深い顔をし、そこでようやく考え始め、1分ほども考えて、ようやく気づくのでした。

    滅多にミスをしない子なら、そのように自信家なのもわからなくはないのです。
    しかし、その子は、むしろ普通よりもミスの多い子でした。
    計算ミスの他にも、毎週のように何かしら忘れ物をしてくるので、授業がスケジュール通りにいかないこともありました。
    計算ミスが多いこと。
    忘れ物が多いこと。
    そうしたことを自覚していてもおかしくないのですが、本人は全く認めず、それを指摘するときょとんとした顔をしました。
    ありもしないことを指摘された、といった表情です。
    単にすっとぼけているだけなのか?
    うすうす気づいているのだが、認めたくなくて、知らない顔をしているのか?

    これがどうも、本当に気づいていないようなのでした。
    計算ミスが多いことも。
    忘れ物が多いことも。
    そして、自覚がないので対策も立てませんから、ミスが減ることもないのでした。

    これも確証バイアスの一種だったのかもしれません。
    自分がミスした事実は意識しないのです。
    ミスをしたことをすぐに忘れます。
    一方、他人のミスはよく目につき、記憶するようでした。
    他人はミスが多いなあと感じる。
    自分が10回ミスをしてもすぐに忘れるが、他人が1回ミスをしたことは、非常に印象深く記憶する。
    他人はよくミスをする、と感じる。
    他人と比べれば自分はそんなにミスをするほうではない。
    ミスをしやすい人ほど、案外本当にそう思ってしまうようなのです。

    しかし、それは事実とは異なります。
    学校で、家庭で、それを指摘されることはあったでしょう。
    あなたは、よくミスをするよ。
    あなたは、ミスが多いよ。
    自分の思う真実と、複数の他人が指摘する事実とが明らかに異なるのです。
    信念が脅かされます。
    「間違ってません!」
    という叩き返すような断定は、そういうところから発していたのかもしれません。

    計算ミスを防ぐには、計算ミスをしやすい事実を認め、どこで計算ミスをしやすいかを自覚し、対策しなければなりません。
    符号ミスをする。
    0と6をいい加減に書いて見間違う。
    かけ算やわり算の筆算をまっすぐに書いていくことができず、桁がズレる。
    7の段など、特定の九九を間違える。
    数字や文字を書き間違う。
    無理な暗算をする。
    そうした、自分がミスをする傾向と原因を把握し、意識し、そこに差し掛かったらスピードを落として慎重に事を運び、また、そこを重点的に見直すことが必要となります。
    1度はミスをしても、2度と同じミスをしないよう努力する。
    自分が何をミスしたかを記憶していることが、それを助けます。
    そうやって慎重にやっていても、睡眠不足だったり、疲れがたまっていたり、他に気になることがあって精神的に安定していなかったりすると、ミスは出ます。

    人はミスをするものです。
    それすらも認められない間は、ミスは減りません。

    「間違ってません!」
    と即答する子は、もう高校生になっていました。

    ある日、その子の定期テストの答案を見た後、改めて、私は問いかけました。
    「あなたは普通よりも計算ミスが多いし忘れ物が多いと私は思う。あなたはどう思う?」
    その子は、顔を歪めて否定しようとしましたが、その後、黙ってしまいました。
    「計算ミスが多いことを自覚しないと、その対策もできないですよ」
    「そんなことを認めたら・・・・」
    「うん?認めたらどうなるの・・・・?」
    「・・・・」
    返事はありませんでした。

    でも、私の指摘は、そのときその子に届いたのだと思います。
    認めることはできないけれど、その事実が自分の外側に存在することは自覚したのだと思います。
    それ以降、計算ミスを指摘すると、静かに見直すようになりました。
    計算ミスは、そう簡単には減りませんでした。
    しかし、忘れ物は目に見えて減りました。



      


  • Posted by セギ at 12:26Comments(0)講師日記算数・数学

    2020年04月17日

    伝わる人には伝わり過ぎて。


    もう15年も前のことになります。
    その頃、私は大手の個別指導塾で働いていました。
    当時の私立は、高校から生徒を入学させるところもまだ多く、その塾は、私立高校が第一志望の子も沢山在籍していました。
    今と同じく、私立高校は2月中旬には入試が終わります。
    しかし、中3の学年末テストは、都立の入試が終わった、さらにその後です。

    すると、どういうことが起こったか?
    私立高校に合格した子たちが、
    「学年末テストのテスト対策をしてください」
    と個別指導塾にやってくるのでした。

    中3の学年末テストのテスト対策・・・?
    テスト範囲が、2学期の期末テスト後の学習内容から今学習しているところまでと狭いならば対策もありますが、中学3年間の総復習、という広すぎる範囲のことが多いのです。
    受験勉強の成果そのままに、実力で受けたらよいテストでした。
    「いや・・・。それ、必要かなあ?」
    そのように言うと、対策をしてほしい子たちは、異口同音に言いました。
    「学校の先生が、3学期の成績を高校に送ることになっていると言っている。だから、対策をしてください」
    「・・・・・」

    そんなのは、嘘なのでした。
    高校の先生の立場に立ってみたらわかります。
    入試で、もう合格・不合格を決めたのです。
    その後、中3の3学期の成績を中学校から送りつけられても、迷惑なだけです。
    そんなデータに何の意味があるの?
    その成績を見て、どうしろと?
    成績が悪かった生徒を不合格にしろとでも?
    そんなこと、できるわけがありません。
    クラス分けなどの資料にする?
    内申と入試得点という良いデータがもう揃っているのに?

    また、中学にしても、生徒の進学先別に振り分けて3学期の成績を送るなどという煩瑣な事務作業を、卒業式の準備などで忙しい時期に、誰がやるんでしょう?
    できるわけがないのです。
    そのデータに意味があるなら、どんなに忙しくてもやるでしょうが、どこからどう考えても無意味なのです。

    例えば、高校合格後、警察に補導された。
    そのような事実が高校に知られたら、合格取り消しもあり得るかもしれません。
    しかし、3学期の成績が悪いくらいのことで、合格取り消しなどありません。
    高校側にそんな無意味なデータを送ることもあり得ません。

    では、なぜ、その当時、多くの中学の先生たちが異口同音に中3の生徒たちにそのような脅しをかけたのか?
    「3学期の成績を高校に送ることになっている」
    と、ありもしないことを口にしたのか?
    それは、高校に合格すればこっちのものと学年末テストを真面目に受けず白紙答案を出したり、学校を欠席してどこかに遊びに行ったり、ふざけて授業妨害をする生徒が存在したからでしょう。
    先生たちにとっては、80年代の荒れた中学校の記憶がまだ生々しく残っていた時期だったのかもしれません。
    そこまで表立った反抗はしなくても、高校に合格して以後は、それまで内申を気にして小さくなっていた分を取り返すかのように態度の悪くなる生徒がいたとも推測できます。
    そういう子たちの手綱を何とか放さず、無事に卒業させなくてはなりません。
    嘘の脅しでも何でもして、とにかく中学を卒業するまで、穏当に勉強し、穏当に生活していってほしい。
    そういう意味で、私は、中学の先生たちの嘘を責める気持ちにはなりませんでした。

    「学年末テストの対策をしてほしい」と塾にやってくる子は、毎年存在しました。
    そのような子たちには、共通点がありました。
    とにかく生真面目です。
    良い子なのです。
    学年末テストの範囲が「中学の総復習」の場合、範囲が広すぎてポイントをしぼった勉強はできません。
    結果、今までの定期テストよりも20点ほど得点が下がってしまったりすると、私にそのテストを見せて涙目になっていました。

    私は、その子に語りかけました。
    大丈夫。
    3学期の成績なんて高校に送られませんよ。
    それは、先生たちが、行動が心配な子たちを牽制するために言ったのです。
    あなたは、そんな脅しを受けなくても、学年末テストで手を抜いたりしないのにね。
    中学の良い思い出をかみしめて、先生方に感謝して卒業していくのにね・・・。

    一方、中学の先生たちが嘘をついてでも言動を抑え込みたかった子たちは、脅しが効くどころか、そもそも先生の話なんか聞いてもいなかった子も多かったのではないでしょうか。
    とりあえず、入試が終わった直後の学年末テストの勉強なんか、絶対にしなかったでしょう。
    いや、それはしなくても良かったのですが。

    脅しをかけたい相手は、脅しの言葉など真に受けない。
    一方、脅しをかける必要などない生真面目な子たちが、脅しの言葉を過剰に受け止め、必要以上に怯えてしまう・・・。


    この頃の世情をかいま見るとき、こんな15年前のことを思い出しています。


    行動変容、という言葉を考えています。

    このブログの過去ページにもそのまま載せてありますが、3月上旬の私は、衛生面への配慮は今見ても大丈夫なものだったと思うものの、「4月になったら山に行ってみようか」と、やはりどこか気楽なことを書いています。
    これほどのことになると予想していなかったのは、私も同じです。
    山なんて、もう当分行けないでしょう。
    高尾山の登山口には、登山自粛を呼びかける掲示がかかっているそうです。


    うちは個人でやっている完全1対1の個別指導で、いわば「会いに行ける家庭教師」ですから、「3密」の1密もありません。
    規模が小さ過ぎて、休業要請の対象でもありません。
    逆に言えば、勝手に自粛しても、支援金はもらえません。
    自力で何とかやっていかなければ。
    一方、万が一これで感染者が出たら塾は終わります。
    全ての意味で。
    決して失敗できない闘いの中にいると感じています。
    リスクは極めて低いと判断してのことであり、無謀な闘いではありません。
    繰り返す除菌と手洗いと換気。
    それが生徒を守り、塾を守り、私を守ります。

    営業する以上、最大限の注意を払っています。
    そんな中、大きめの長机の対角線上に私と生徒が位置して授業をしている際、私が端によけて距離を取ろうとすればするほど、生徒は、空いた机のスペースの真ん中をのびのび使うという事態が発生しました。

    以前は、私が生徒のノートを覗き込もうと近づけば近づくほど、生徒のほうがどんどん端に逃げていき、最終的に2人で机の端っこで向かい合い、
    「これ、バカバカしいと思いませんか?なぜ、2人でこんな隅っこに寄っているの?」
    と諭す、ということも起こりがちだったのです。

    ところが、距離を保とうと私が端に引っ込むと、生徒はのびのびと机の真ん中にノートやテキストを開き始めたのです。
    あんなに端に寄りたがっていた子が。
    ノートを机の隅に押しやって書いていた子が。
    しかも、ノートがその子の左手、テキストが右手って、それ、位置が逆でしょう?
    その分だけ、身体が机の中央にきていますよ?
    なぜにそれほど机の真ん中を使いたいの?
    押さば引け、引かば押せ?
    ・・・柔道?
    柔道なの?

    これでは、ソーシャル・ディスタンスを保てない。
    そんなわけで、私と生徒との間に机を2つ置くことにしました。
    つまり、私と生徒との間を長机2つで隔て、さらに、生徒側には「それ以上は中央に寄ってはいけない」という印の椅子をもう1つおいてブロックしています。
    ブロックのための椅子をどけて、机の真ん中に移動しようとする子には、
    「ダメです。自分の椅子を端にさらに10cm移動してください。ソーシャル・ディスタンスを保ちましょう」
    と、さらに端に寄ることを要求すると、ようやく事の次第を理解してくれる子もいます。

    ソーシャル・ディスタンスは2m。
    しかし、子どものパーソナル・スペースは、半径30cmから50cm程度なのでしょう。
    私がそれ以上近づくと遠ざかっていた子も、50cmの距離が保たれるなら、机の中央によってくる。
    勉強に夢中になると、距離なんかその程度で良くなってしまうのが子どもです。
    「おしゃべりに夢中」や「遊びに夢中」のときは、もっと寄ってしまうでしょう。
    これでは、学校再開は当分無理だと感じます。


    私個人の話に戻れば、もう20年も続けていたスポーツジムも、先日退会しました。
    3月からエアロビクスクラスがなくなっていたので、休会手続きをとっていました。
    4月第1週に、1クラス限定30名で再開していましたが、たとえ30名でも、その呼気と汗と密室であることなどを考えると、行く気にはなれませんでした。
    そして、1週間後、そのジムは休業に入りました。
    3月分も4月分も、使用料は5月分・6月分に先送りにするという話はそれで良いけれど、では、いつ再開できるのか?
    再開したとして、私は30名参加のエアロビクスに参加するのか?
    そんな無責任なことが、できるのか?
    私が感染したら、どこまで広がるかわからないのに。
    これは、退会以外の選択肢がありませんでした。
    20年通い続けたジムでしたが。
    コロナが収束したら、また通う?
    その頃、もうジムはなくなっているかもしれません。
    好きなインストラクターは、仕事を続けられず辞めてしまっているかもしれません。
    それくらいのことだよ?
    それでもいいの?
    そう自問し、でも仕方ないと決断しました。
    その決断は、全て我が身に跳ね返ることでもあると自覚しながら。


    遊びに出かけられないからと、スーパーや商店街に家族で出かけ、人口密度を高めてしまう人たち。
    買い物は1人で行くのが、お互いのためです。
    ドライブならば大丈夫だろうと、観光地に車で出かけ、途中でトイレに行きたくなって、無防備にトイレの行列に並んでしまう人たち。
    混雑している観光地で飲食してしまう人たち。
    コロナのないところに行きたいと、ウィルスをその地に持ち込んでしまう人たち。
    それをやったら何が起こるか、一歩先を考えたら、変えられる行動があると思います。

    その一方で、家から一歩も出られなくなってしまう人もいます。

    行動変容が必要な人たちには届かず、もう必要のない人がさらに生真面目に怯えてしまう・・・。
    生真面目な人たちは、テレビやネットから少し距離をとったほうがいいかもしれません。
    根拠の不確かな話に怯えてしまうだけです。
    「3学期の成績を高校に送ることになっている」みたいな話は、いい加減なことをやっている人たちに向けてのもので、生真面目な人たちに向けてのものではないのです。


    さらには、そもそも、これ以上の行動変容などできるはずもなく、全てわかったうえで、生活のために今まで通りの行動を続けている人たちも大勢います。
    大げさに言えば命がけの注意を払って、日々を生きている人も多いはずです。
    電車がどんなに怖くても、電車に乗って出勤しないわけにはいかない人のほうが、まだ大多数です。

    わかっていることは、これはゴールデンウイークで終わるような種類のものではないということ。
    5月も6月も、この状態はおそらく続くのだということ。

      


  • Posted by セギ at 13:32Comments(0)講師日記

    2020年04月05日

    「これだけで大丈夫」という勉強法は危ない。


    以前勤めていた塾が、英語講師のアルバイトを新たに募集したことがありました。
    私は人事に口をはさむ立場ではなかったのですが、筆記試験の採点はしましたし、意見をきかれることもありました。

    その日、面接を終えて戻ってきた副学院長が、少し困った顔で私に言いました。
    「はりきっている人でねえ、古いノートを机の上に広げて、自分が教わった塾の英語の先生がすばらしい人で、大学受験なんて中学の文法だけで十分なんだ、と独特の授業をしたと言うんだよね。そういう授業を自分もしたい、と言うんだけど」
    私は、面接の前に行われた英語の筆記試験の採点をしていました。
    筆記試験は、高校1年生対象の学力テスト問題でした。
    その応募者の得点は、60点台。
    この人を採用するか、どうか。

    「どう思う?」
    と訊かれて、私は、採点した答案を副学院長に渡しました。
    「中学の文法だけで十分、というより、中学の英語しか理解していないです。高校レベルの問題は、すべて間違えています」

    その人は、不採用になりました。
    大学入試は、確かに、文法問題の出題割合は低いです。
    中学の英文法だけで、あとは色々な受験テクニックを駆使して、長文の大意を何とか読み取れば、大学入試でギリギリ合格点を取ることは可能かもしれません。
    しかし、中学の文法だけで大学に入っても、それは、高校生の学力がないまま大学生になるという意味でしかありません。
    私は、その子と一度も顔をあわせませんでしたが、不採用という事実から、何かを理解してくれていたら良いと思います。


    これだけやれば大丈夫、といった勉強法は、ときに魅力的に映ります。
    国語や英語の読解問題で、本文を読まないで解く方法を教える講師さえいます。
    でも、それは、文章を読む能力がないまま大人になるということです。
    そんなことをすばらしいことと信じて、それ以上の勉強をすることをやめてしまったら、そこで行き止まりです。

    洪水のように押し寄せてくる、甘い情報。
    自分だけが楽な方法を知らず、損をしているような気がしてくる。
    それを、はっきりと、否定できること。
    そんなのは、嘘だ、と見切れること。

    「効率の良い効果的な勉強」と、「楽な勉強」は違います。
    楽なほうに流れたら、目先の合格だけは手に入ることがあるとしても、その先がありません。
    生徒に身につけてほしいのは、本物の学力であり、無限に伸びていける勉強法です。


    英語だけの話ではありません。
    数学にも、そういうことは起こります。

    文系の高校3年生で、センター試験対策として数ⅠAの授業を受けている生徒がいました。
    数Ⅰ「2次関数」のなかの、2次方程式の解の正負に関する問題を解いていたときのことです。
    「f(x)=ax2+2ax+10 がx軸と正の位置で2か所交わっているとき、aの値の範囲を求めよ」といった問題でした。
    数Ⅰならば、判別式・軸の方程式・f(0)の値の正負、の3つの要素で解きます。
    しかし、数Ⅱでは、同じ問題を、判別式・解と係数との関係、で解くことも可能です。
    センター試験の数ⅠAとは言うけれど、数Ⅱの解き方で解いてもいいんですよと話すと、その子は不可解な反応をしました。
    「数Ⅱは勉強していない」
    というのです。
    学習したけれどわからなかった、というのではないのです。
    そもそも、高校の授業で、数ⅡBは学習しなかった。
    文系選択の子は、高校2年の数学でも、数ⅡBの内容を教わらず、数ⅠAの復習をしていたというのです。

    ・・・え?
    それは、許されているの?
    数ⅡBの単位は、高校卒業に必須の単位じゃありませんでしたか? 
    彼女は首を横に振りました。
    そういうことは、よくわからない。
    でも、数ⅡBはやっていない。
    去年は、数ⅠAの復習をしていた、というのです。

    ・・・数ⅡBという名称の授業は書類上は存在し、単位を取得しているが、そこで学んだ内容は、数ⅠAの復習だった。
    どうも、そういうことのようなのでした。

    私立のカリキュラムは、数Ⅱや数Bではなく、「幾何」「代数」、あるいは、中学の頃から「数学α」「数学β」などと称していて、そもそも、文科省の正規の科目名と対応していないことが多いです。
    しかし、書類上は、文科省の指定する教科名になっているでしょう。
    私立は、中学3年の段階で高校1年の数学内容に入っているのは普通のこと。
    その一方で、高校2年になっても、高校2年の数学を教えない学校がある・・・。

    文系選択の子に、数ⅡBを教えない。
    その代わり、英語など、その子の大学受験に必要な技能を伸ばせるだけ伸ばすというカリキュラムで、進学実績を上げる。
    そういうカリキュラムの組み方は、合理的なのかもしれません。
    生徒側も、大歓迎でしょう。
    しかし、結局、数ⅡBの、とにかく計算・計算・公式・公式・計算・計算という経験を経ていず、数ⅠAがマックスに難しいという体感でしたから、その子は学力の天井が低い、という印象は否定しがたかったのです。


    そもそも、数ⅡBの内容は文系の子にも本当は必要です。
    大学まで視線を伸ばすと、それを感じます。
    文系の多くの学科で、統計学は必修です。
    現在、多くの高校で数B「確率分布」を選択しないため、標準正規分布の読み取り方を大学で初めて教わる子が多いと思いますが、それでも、数ⅡBで「数列」や「積分法」を学習していれば、理解しやすいはずです。

    数B「確率分布」が必修ではなく選択単元になっていることも、世の中の流れから考えれば少しおかしなことです。
    今年度からの小学校の新課程では、「データの分析」は以前よりも学習量の多い単元になっています。
    以前は教えなった「度数分布表」という用語も、「代表値」としての「中央値」「最頻値」という用語も、中学から小6の学習内容に下りてきました。
    分布を数直線上に点で表すことも、以前はそのやり方に名前はなかったのに、「ドットプロット」という用語が教科書に登場しています。
    覚えることが多くて大変・・・。
    さらに言えば「データの活用」として、「PPDACサイクル」なんてことも小6で教えるようになりました。

    PPDACサイクル。

    Problem(問題の発見)
    Plan(計画の立案)
    Data(データの収集)
    Analysis(データの分析)
    Conclusion(結論)

    ・・・こんなことを小6に教えようとしているのです。
    結局、子どもが相手ですから、扱われているのは「忘れものを減らす方法を考える」といった課題で、一番多い忘れものは何なのか、何曜日に忘れものが多いのか、などの分析をさせた後、結論としては「前日に準備をする」が模範解答という、大人が見ると何だそれという学習ではありますが。
    それは、データを分析しないと得られない結論なの?
    コントの台本みたいだけど、大丈夫なの?
    そう言いたい気持ちも少しあります。


    内容はともかく、データの分析と活用に関して、昔よりも学習のボリュームが増え、より大事な単元として扱われるようになってきているのです。
    これから、中学・高校の新課程でも、同じ方向の修正がされ、確率偏差や標準正規分布が必修になる日も近いでしょう。
    データが読めないと国際競争で勝てない。
    数学教育は、国家的重要事です。

    そのように言われている一方、現場は、真逆の反応をしつつあるようにも感じます。
    文系の子は、数ⅡBを高校で教わっても消化不良で終わっている子が多いのが実情です。
    だから、文系の子に数ⅡBを教えない高校を一方的に責めるわけにもいきません。
    数学があまり得意ではない生徒は、高校生になると、数学に関して「店じまい」を始めてしまいます。
    数学はもう全くわからないし、大学入試にも使わないから、定期テストは赤点を取らなければいい、単位が取れればいいと本人は判断しているようです。
    いえ、それほど明確に思い定めているわけではないにしろ、学習姿勢はそのようです。
    そうした子の多い文系クラスで、大半が理解できないような内容の授業を行えば、定期テストの結果も悪く、数学のせいでその子の内申が低くなります。
    大学の推薦入試もAO入試も、内申が重視されます。
    数学の成績がその子の足を引っ張ってはいけない・・・。
    数学が苦手な子には、できるだけ数学の授業を学校では受けさせないほうが、内申が上がります。
    高校3年の文系クラスでも、センター試験対策を目的とした「数学演習」といった授業を選択できる高校が以前は多かったのですが、そういうもののない高校が増えてきました。
    文系の子に学校の正規科目として数学を選択させると、それでその子の内申が下がるから選択させない、勉強させない、という考え方もあるのでしょうか。
    それは、うがった見方に過ぎるかもしれませんが。

    しかし、今後、ますます大学入試を内申重視にすると、当然、そういう弊害が起こってきます。
    内申を高くするための科目選択、という視点が生まれてきます。
    苦手なことだから補強するのではなく、苦手なことは、徹底して避ける。
    そういうやり方が肯定される可能性があります。

    数年前に評判になったビリギャルで有名な塾も、生徒に数学は選択させず、文系でしかも入試科目数の少ない私立大学を狙わせる、という戦略をとっていたと聞きます。
    有名大学でも、学科によっては、英語と小論文だけで合格できるところもあります。
    戦略としては理解できますが、それでいいのか?とも感じます。

    大学、あるいは実社会は、昔よりも数学的能力を重視し、数学のできる人材を求めています。
    文科省の定める教育課程もその方向です。
    しかし、高校の実態は、数学が苦手な生徒には数学を学ばせない傾向が生まれつつある・・・。
    このひずみ、このままにしておいて大丈夫なんでしょうか?

    得意なことでの一点突破が利口なやり方。
    これだけで大丈夫。
    英語は中学英語で大丈夫。
    数学は、必要ない。

    それは、本当に合理的なことなんでしょうか。
    近視眼的で不合理なことをやらかしているだけのようにも感じるのです。

    英語も数学も、本当に得意になれたら、それが一番です。
    本当に得意になれたら、受験も、その先も、可能性が広がります。
    目先の「これだけで大丈夫」に飛びつく前に、その先に何があるか、考えてほしい。
    その選択の先に何が待っているか、考えてほしい。
    そう思うのです。

      


  • Posted by セギ at 14:36Comments(0)講師日記算数・数学英語

    2020年03月15日

    少しでも良かったことをあげるなら。



    今日も空は晴れているけれど、電車に乗るのはリスクが高いので、部屋でこのブログを書いています。

    教室では、1コマの授業が終わるごとに、窓とドアを開けて換気をしています。
    机や椅子などを台所用の塩素系漂白剤の薄め液で除菌。
    その後、水拭き。
    アルコール除菌ティッシュで、教室内部・外部のドアノブ・インターホン・灯りのスイッチなどを除菌。
    その後、入念な手洗い。
    このルーティンで対処しています。

    普段の授業の合間と異なり、上の一連の作業がありますので、時間がかかるようになりました。
    上の作業の途中で生徒が教室にやってくることも多いです。
    入れ替え時間の際は教室ドアの鍵は開けてありますので、チャイムを鳴らしたらすぐドアを開けて入ってきてくださいとお願いしていますが、2度3度お願いしても、チャイムを鳴らしたままドアを開けずに待っている子もいます。
    ・・・なぜ、この話が通じないのだろう?
    インターホンで応答するには、やっている作業を中断して、いったん手を洗い、手を拭かねばなりません。
    しかし、チャイムを押してから長い時間がかかることに不審な表情の子は多いです。
    いや、私が何をしているか、想像してください。
    「チャイムを鳴らしたら、すぐドアを開けて入ってきてね?」
    毎回、私が以上のことを説明し念を押すと、ちょろっと目が迷う様子が見えます。
    普通の訪問のマナーでは、チャイムを押したら、応答を待つのが当然。
    それとの心の折り合いがつかないのかもしれません。
    私が遠慮して言っていると思い、判断に窮しているのだろうか?
    なぜそうしてほしいか説明もしているのに、どうしてわかってくれないの?

    ・・・いや、私は何をいらいらしているのだろう?
    こんなの、どうだっていいことでしょう。


    また、ある日。
    換気中は、ドアにストッパーをかけて少し開けてあります。
    定刻よりも数分早く来る子は、ドアが開いていることに混乱し、逆に、チャイムも鳴らさず、いきなり入ってくることもあります。
    「あー。まだ除菌していないから、ドアノブに触ったらダメだよ」
    「え?」
    「入ってきてもいいけど、ドアノブに触らないようにね」
    「え?」
    肩や腕で何とかドアを開けて中に入ってくるのですが、今度はドアが閉まらないことに困惑するようです。
    「ドアが閉まらない」
    「あ。ストッパーかけてあるからね。そのままでいいよ」
    「え?」
    普段と異なる状況に咄嗟に対応できない子は多いのです。
    ドアがちょっと開いているというだけで、そんなに混乱しなくても・・・。
    「あ、まだ机に鞄を置かないで。これから水ぶきするから」
    「え?」
    「まだ漂白剤で拭いただけだから。目にしみるから近づかないほうがいいよ」
    「え?」
    だから、そんなに混乱するなら、定刻に来なさい。
    何でこんなに早く来るの?


    ・・・いや、私は何をいらいらしているのだろう?
    そんなことは、大したことではないでしょう。

    小さなことが気になるのは、「コロナ疲れ」なのかもしれません。


    もともと、多くの子どもと接する仕事は、感染症のリスクの高い仕事です。
    私も、大手の個別指導塾や集団指導塾で講師をしていた頃は、どんなに気をつけていても、インフルエンザ、肺炎、ものもらいなどにかかってきました。
    ヘイヘイドクターという歌ネタの現役医師でもある芸人さんのネタに、
    「ベテラン小児科医のかかる風邪、たち悪い」
    というのがあって、それは凄くわかる気がする、と感じ入ったものです。
    免疫力の弱い子どもの体内で小躍りしているウイルスの威力は強い。
    大人がひいている風邪なんかうつらないけれど、子どもの風邪は一撃でうつるというのが私の体感です。
    独身時代は風邪などひいたことがなかったのに、子どもを持つと、毎年どえらい風邪をうつされるようになった、という方も多いのではないかと思います。


    しかし、自分で個別指導塾を開いてからは、この9年、肺炎・インフルエンザはおろか、軽い風邪もひかなくなりました。
    衛生面のコントロールを自分でできることが大きいのだと思います。

    例えば、やたら咳をしているのにマスクをしていない子を注意できるようになりました。
    大手の個別指導塾や集団指導塾で働いていた頃は、それができなかったのです。
    子どもは、マスクが嫌いです。
    「暑い」「息苦しい」などと言い、マスクをつけるのを嫌がります。
    喉にからんだ嫌な咳をする子と狭いブースの中で対峙し、ただ自分の免疫力と体力に期待するのみ、ということもしばしばありました。

    集団指導塾のときは、生徒が複数なので、全ての子の行動に目が届かないこともありました。
    一人の子が解いた問題の採点を教室の椅子に座ってしているときのこと。
    私の横にたまたまゴミ箱があり、座っている私の背後で立ったまま鼻をかんだ子がいました。
    翌日からその子はインフルエンザで休み、数日後に私も発熱しました。

    今も、教室で、私の方を向いて鼻をかむ子はいますが、注意できます。
    鼻をかんだティッシュは、教室のゴミ箱に捨てずに持ち帰りなさい、とも言えます。
    マスクをしているとはいえ、私の方向を向いて咳をする子もいますが、それも注意できます。
    子どもは、普段、「相手の目を見て話せ」等の注意を受けることが多いからなのか、鼻をかむときも、咳をするときも、こちらを向いてする癖がある子が多いのです。
    本当に幼かった頃に、上手に鼻をかむと褒められた記憶があるからだろうか、と想像したりもします。
    大人の顔を見ながら鼻をかむのが習慣になっているようなのです。

    他人に向かって鼻をかまない。
    他人に向かって咳をしない。

    そうしたことを注意すると、
    「そんなんでうつるわけがない」
    などと一蹴した子もかつてはいましたが、このご時世、一言で話が通じます。
    実際にそれで長年感染してきた私が言っているのだ。
    私が感染したら、全ての生徒に広がる。
    頼むからやめて。
    その話が、今は、通じます。

    悪いことばかりではない。
    そう思うようにしましょう。
    この状態はしばらく続くのですから。


    私の住む家のあたりは、小学校の通学路で、毎朝8時過ぎになると集団登校の子どもたちが通り過ぎていきます。
    仕事柄、朝が遅いのですが、引っ越してきた当初は、毎朝その声で目が覚めました。
    しかし、10日も経つと、全く気にならず、目が覚めないようになりました。
    子どものはしゃぐ声ほど平和で安全なものは、この世にないからでしょう。
    子どもが窓の外でどんなに騒いでいても、それは私の眠りを脅かすものではありません。
    だから、子どもが公園で騒いでいる声がうるさい、家にいろ、という人の気持ちが私にはよくわかりません。
    一部の女の子が興奮すると発する独特の金切り声だけは、あれは怪音波の類なので、保護者が注意したほうがよいですが、普通にはしゃいでいる声は、気に障るものではありません。
    あの声が消えることのほうが、恐ろしい。
    子どものはしゃぐ声が聞こえてこない世の中は、良い状態ではない。
    子どもに要求して良いことと悪いことをはき違えてはいけない。
    そのように思います。

    身体的な衛生ばかりでなく、精神衛生も考えたほうがいいのでしょう。
    リスクばかり恐れて、部屋に閉じこもっていては疲弊します。

    山に行きたいなあ。
    山に行けば、小さなことは、どうでも良くなります。
    マスク・手袋とアルコール除菌ティッシュで電車の中は何とか防御し、4月になったら山にも行ってみようか、と考え始めています。
      


  • Posted by セギ at 16:47Comments(0)講師日記

    2020年02月16日

    中学の英語のことを少し。



    中学入学をひかえた小学6年生はワクワクの季節が近づいてきました。
    一方、保護者の方は心配な季節。
    上手く中学生の生活にシフトできるかしら。
    勉強についていけるかしら。
    うちの教室でも、早めに中学の予習をという要請の入る時期です。

    ところで、今の小6は、果たして中学のことをどれくらい理解しているのでしょう?
    敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。

    口は達者だし、かなり反抗期も入ってるし、まあしっかりしているから大丈夫、と思っていると、この情報社会で、意外にカヤの外にいるのが、最近の子どもの特徴です。
    自分の知りたい情報しか得ようとしないので、勉強の情報があまり入ってこないのですね。
    勉強のことを話せる友達がいないという子が、案外多いのです。
    くだらないことは、話せるのですが。

    お兄さんお姉さんがいれば、その動きを見ていて、中学生活というものが大体わかっているのですが、ひとりっ子ですと、上からの情報も皆無。
    親は、そんなことは当然知っているだろうと思って説明しません。

    中学に定期テストというものが存在することを知らない子に会ったことがあります。
    「小学校だってテストはあるよ」
    センセイは、小学校にテストがあることも知らないの?みたいな顔で言い返してくる子でした。
    小学校のテストと同列で扱われても・・・。
    テストの紙質にまずびっくりする、というようなことがないと良いのですが。

    定期テストという名称は知っていても、その重要性をわかっていない子もいました。
    定期テストで成績の大半が決まるということを、知らなかったのです。
    科目ごとに5段階の数字でかっちり評価されるということを知りませんでした。
    「授業態度が良ければ、大丈夫でしょ?」
    と、どこかで聞き齧ったことを過大評価して言ったりします。
    「提出物が20点分あるって、学校の先生は言ってたよ」
    と、得意げに情報提供してくれる子もいました。
    しかし、近年、授業態度の悪い子などほとんど存在しません。
    提出物は、よほど意欲のない子や、物の管理が上手くできず教材やノートを紛失し、出したくても出せない子以外は全員が出します。
    出すのが前提なのです。
    しかし、学校のワークをテスト前に全部解いて提出するだけで物凄く努力している感覚のある子は、それで成績が上がる気がするようです。
    冷静に考えましょう。
    今の時代、授業態度の悪い子も、提出物を出さない子も、本当に少ないのです。

    では、結局、何で評価が分かれるのか?
    国・社・数・理・英の5教科は、定期テストの得点です。
    提出物を出し、授業態度で特に悪いところがないのを前提として。
    定期テストで90点以上取れば、大抵の場合「5」になります。
    定期テストで80点以上取れば、大抵の場合「4」になります。
    逆に、それより低くて「4」や「5」を望むのは、なかなか難しいのです。

    なお、音楽・美術・保健体育・技術家庭の4教科については、ペーパーテストよりも、実技と授業態度が評価を大きく左右します。
    こちらはむしろ、期末テストで満点を取ったところで「5」になる保証はありません。

    さらに、そうやって決定した成績を高校受験で使用するということを知らない子は多いです。
    「内申」というのは、各教科の「1」から「5」の評価から計算される数字です。
    そのことを知らず、内申とは担任の先生がその子についての評価を文章で書くものだけだと思っているのです。
    内申は、数値で出されるものがメインであることを知っておきましょう。
    都立高校の多くは、入試得点1000点満点のうち、300点が内申点です。
    国・社・数・理・英はそのまま、残る4教科は得点を2倍して、その合計65点満点を300点満点に換算したものが内申点です。

    極端な例ですと、中学に英語の定期テストがあることを知らない子もいました。
    小学校の外国語の授業では、簡単な英会話やゲームや歌ばかりやっていたので、「英語は遊びの時間なんだ」と思い込み、勉強だということがわかっていなかったのです。
    それは、英語との幸福な出会いですが、その思い込みが強すぎると、中学の英語の授業の雰囲気についていくことができません。
    中1の1学期の定期テストだけは易しいので何とか乗り切れても、その後、テストの度に得点が半減していきました。

    今後、小学校で英語が教科となりテストも行われることで多少は改善されると思いますが、小学校の英語のテストは書くことがメインではないので、そのことで新たな誤解が生まれる可能性もあります。
    本当は、小学生の頃から、アルファベットや簡単な単語をどしどしテストするようにしたほうがいいと思います。
    中学1年生の教科書では、小学校で習っている単語は、もう知っているものとしてどんどん進むので、スペルを覚えなければならない単語の数が多いのです。
    また、そこをスルーするので、中2になっても中3になっても、数字や曜日・月名を英語で正しく書けない子も多いです。
    中学に入ってから何もかも一気に書くようになるので、そこで落ちこぼれてしまうのです。

    英単語のスペル練習など、地道な作業をすると、
    「こんなのは英語の勉強じゃない。思っていたのと違う」
    と感じ、つらくなってしまう子は今も多いです。
    国語の漢字練習や数学の計算練習に対しては、それなりに諦めの気持ちをもって取り組んでいても、英単語の練習は「つらい」「つまらない」という気持ちが先に立ってしまうようです。
    本人の中で、「英語は楽しいもの」という意識が強すぎるのでしょう。
    使用することが多い単語のスペルを正しく書けないことは、学年が上がるにつれて決定的な学力差となっていきます。
    中学・高校の英語において、ペーパーテストの比重は相変わらず高いです。
    書くことができないと、どうにもなりません。

    確かに、今は、読んだり書いたりするだけの英語で済む時代ではありません。
    リスニングもスピーキングも重要です。
    しかし、それは、書くことを軽視して良いということではないのです。
    テーマと語数を指定された英作文が、定期テストや入試に導入されています。
    書く力も、昔よりもずっと高いレベルで問われているのです。

    英語学習の準備としては、ローマ字の読み書きも、できないよりはできるほうが良いでしょう。
    何となくでいいですので、文字と音との対応がわかっているほうが、読むように書くことが身についていきます。
    そうではない場合、読み方がわからないまま、文字だけ覚えるような状態になることがあります。
    読み方が全くわからないのに、スペルだけ何とか覚えようとする子に、かつて出会ったことがあります。
    英語の成績は「1」に近い「2」でした。
    それは、乱数表を覚えるようなもの。
    そんなのは、さすがに無理でした。

    とはいえ、正式にフォニックスを学習するのも敷居が高いです。
    フォニックスというのは、英語の文字と発音との関係を学習する方法です。
    アメリカの小学校などでは広く行われていますが、それは、そもそもその英単語を知っているネイティブの小学生だから可能な教育なのではないかと感じます。
    日本の学校でも、中1にフォニックスを教えるところがあるのですが、生徒の多くは消化不良で終わるようです。
    a という文字はどんなときに「ア」と読み、どんなときに「エイ」と読むか?
    そういう細かいルールを列挙してあるのがフォニックスです。
    フォニックスが難しすぎて、自分は英語のルールがわからない、英語は無理だと思ってしまうようなのです。
    そうした悩みを抱えて、うちの教室に入ってきた子もいました。

    最初のうちは、そんなの大体でいいんです。
    大体この文字はこんな読み方をするみたい。
    でも、そうじゃないときもある。
    同じ文字に何通りか読み方があるようだ。
    それでいいと思います。

    漢字だって、色々な読み方があるじゃない?
    単語ごとに、読み方とスペルを覚えていこう。
    最初はそれでいいと思いますよ。
    そう励まし、フォニックスよりも文法や読解・リスニングに力を入れたら、その子の英語への苦手意識は薄らいでいきました。
    日本人は、最初はローマ字の読み方を知っておくくらいでちょうどいいんじゃないかと思います。

    大体の読み方がわかるようになって、高校生になったら、もう一度フォニックスのテキストを読み返してみると、驚くと思います。
    当たり前に感じることが書いてある。
    でも、発音問題によく出てくることなのにルールがわからずずっとモヤモヤしてきたことも書いてある。
    あれ?このテキスト、役に立つ?
    そう思えるようになります。

    発音記号も同様で、易しい英単語の読み方やスペルもおぼつかないうちから発音記号を覚えようとしても無理があります。
    しかし、発音記号がわかれば、文字を見ただけでその単語の音がわかるのも事実。
    高校生になっても発音記号が全く読めない子には、大体でいいから覚えたほうがいいよと促しています。



    中学に入学すると直面することに、「カタカナ英語で発音しないと周囲から浮く」という問題があります。
    周囲がカタカナ英語なので、自分もそれを真似し、同調しようとする、と言い換えても良いかもしれません。
    そんな、20世紀の片田舎でも起こらなかったことが、この21世紀の東京で起こることなのか?
    ・・・起こっています。
    公立中学の生徒の英語は、絶望的に発音が悪いことが多いのです。
    英語の成績は「4」または「5」ですが、not は「ノット」、got は「ゴット」、didn't は「デドント」、written は「リトン」と、私が中学の頃だってそんな発音をする子はいなかったが?と驚くようなカタカナ英語の子が多いのです。

    勿論、国語の教科書を音読するのにもかなりの努力が必要な学力の子が3分の1はいるだろうと想像されますから、まして英文となると、とにかく読むだけで精一杯で、発音など構っていられない、ということはあると思います。
    しかし、やろうと思えばもっと良い発音が出来る子も、カタカナ英語に同調する空気があるのではないか?
    そうでなければ、本来、私の世代よりもずっと耳が良く身体的な感覚の鋭敏な子たちが、あの発音で平気でいられるわけがありません。
    しかも、リスニングはよくできるのです。
    リスニングで聴く本物の英語と自分の発音との乖離に、気が付かないはずがないのです。
    ・・・考えられるのは、英語らしい発音をして周囲から浮き上がりたくない、という気持ちが強いのではないか、ということです。

    ただ、勿論、公立中学に通う子は、ネイティブの英語に触れる機会が少ないことは否定できません。
    学校にALTの先生が来たときに耳にする英語。
    普段の授業で、授業中に流されるCDの英語。
    それだけが、耳にする英語の全てである可能性はあります。
    個人的に努力しなければ、模範となるきれいな英語を耳にする機会が少ないのです。
    一方、私立の学校は、ネイティブの先生の英会話の授業があり、会話のテストのある学校も多いです。
    またはインターネットでの個別指導を全員が学校で受講するなど、英会話については充実している学校が多いのです。

    本物の英語に触れる機会が少ない。
    それを打破する方法の1つが、NHKのラジオ講座ですが、公立中学の子は、ラジオ講座の存在すら知らない子が多いです。
    私立に通う子は、ラジオ講座「基礎英語」もテスト範囲とする学校も多く、真面目な子は、毎日毎日、ネイティブの英語に触れています。
    ラジオ講座を聴く習慣を確立できず、ラジオ講座のテスト範囲の分だけごっそり得点を失う私立の子も多いですが、それは自業自得の面があります。
    公立の子たちが、ラジオ講座の存在を知らないために学習の機会を失っているのは、悲しい。
    公立の秀才の発音が、私立に通う普通の学力の子と比べてひどく悪いのは、胸が痛いです。

    光明もあります。
    都立高校入試に、数年後、英語のスピーキングが導入される予定です。
    入試に出るなら、正しい発音に向けて努力するのは当然のこと。
    全員カタカナ英語で足並みを揃える空気は一掃される可能性はあると思います。

    なお、公立中学出身の子も、それで終わりということはなく、高校進学後、秀才であればあるほど、発音は良くなっていきます。
    うちの教室でも、高校生に対しては、単語暗記を目的としてCDによる例文暗唱を繰り返します。
    それで発音やイントネーションが矯正され、劇的に発音が良くなる子は多いです。
    あまりにもあっさりと変わるので、あのカタカナ英語は、仕方なくやっていたことだったんだろうなあと想像したりもします。

      


  • Posted by セギ at 17:04Comments(0)講師日記英語

    2020年01月27日

    絵に描いたような失敗。


    授業中に小学生の宿題を見ていたときのことです。
    その子は、長期の休み中の講習に参加しませんでした。
    随分長い間授業をしないことになりますから、学力が下がるのは想定していました。
    その分、沢山の宿題を出したとしても、休み明けの授業でその大量の宿題の答えあわせをするのは難しいのです。
    ほとんどが正解であるならば、20ページくらいの宿題を出すことも可能ですが、半分は誤答であるなら、その宿題の答えあわせと解き直しをするのに、3~4回の授業が必要になります。
    休み中の宿題の解き直しをしている間に、学校の授業はひと月も先に進んでしまいます。

    それでも、特に計算力が心配な子でもありましたので、分数の加減乗除の問題がぎっしり詰まっている計算プリントを休み前に2ページ渡しました。

    休み明け、その子は、その宿題の半分を解いてきませんでした。
    言い訳は、
    「昨日、頭が痛かったから」

    ・・・はあ?(''Д'')
    休みはたっぷりありましたよね?
    何で、長い休み中の宿題を、塾の前日に解くの?
    塾の前日、たまたま頭が痛かったから、宿題はできなかった。
    そういう言い訳が通用すると、何で思っているの?

    しかし、そんなことも想定内のことでした。
    勉強が苦手な子が長い休みの間に塾に来ないということは、そういうことです。
    うちは、大手の塾のような積極的な電話勧誘や、休み前に個別面談の時間を作って講習参加への営業を行う、ということはありませんので、休み中の講習に参加しようとしない子は、そのままになってしまいます。
    ただ、休み中に全く講習に参加しない例は珍しく、最低でも週1回の通塾ペースは保ってくださる方がほとんどですが。
    さすがに、受験生なのに講習に参加しないという異常事態が起こった場合は理由を尋ね、解決に向けて努力しますし。


    さて、宿題の残り半分は翌週までの宿題ということにして、とにかく演習を始めると、その子は、2桁のたし算・ひき算が上手く出来ないのでした。
    式は正しいのですが、計算が合わないのです。
    特にひき算。
    繰り下がりのあるひき算ができなくなっていました。
    筆算の上の数から下の数を引けない場合、下から上を引いていました。
    例えば、93-47=54 としてしまうのです。

    ・・・これは想定外でした。
    何でここまで計算力が落ちるんだろう?
    計算スピードが遅くなるとか、ミスが増えるとか、その程度のことは予想していましたが、ひき算ができなくなるまで退化するとは、さすがに想像していませんでした。
    「・・・計算力が落ちていますね」
    そう指摘すると、その子は、答えました。
    「そんなわけない。休み中はずっと〇〇タッチで勉強していた」
    「・・・」

    ああ、そうか・・・。
    休み中、個別指導を受けない代わりに、通信端末とタッチペンで勉強する通信教育のほうに行っちゃったかー。

    休み前に予習した内容に関しては、もう忘れていても仕方ないと思っていたら忘れていなかったので、それは、通信教育の効果なのかもしれません。
    でも、たし算・ひき算ができないと、解き方がわかっていても、正解は出せません。

    学習する際の用具というのは意外に学習に影響します。
    日本の子どもが、国際的な読解能力テストで順位が低かったのも、コンピュータを使用する解答形式に慣れていないことも一因ではなかったか、と分析されています。
    逆に、コンピュータを使った学習ばかりしていると、紙と鉛筆で問題を解くことに違和感があり、手が上手く動かずスムーズに計算出来ないということも起こるでしょう。
    タッチペンによる学習も同様で、そればかりやっていると、紙と鉛筆を使って行う筆算の感覚がにぶる。
    ふっと、やり方がわからなくなってしまう。
    それは、学力的に心配な面のある子ほど影響が大きい。
    そういうことがあるかもしれません。

    通信端末のようなガジェットは子どもに受けがいいので、与えておけば学習意欲が高まるということはあると思います。
    ただ、今のところ、日本の教育現場において、テストは紙と鉛筆で解くものです。
    入試も同様です。
    紙と鉛筆を持つとテンションが下がったり違和感があったりするようでは、テストの結果に影響します。

    これはまた別の話になりますが、以前、ある英語塾が通信端末を導入して、生徒が家庭でも英文を読んだり聴いたりできるようにしたことがありました。
    英語塾に週2回通うだけでは、効果は限定的。
    毎日英語に触れるほうが学習効果が高い。
    だから、それは英断だったはずなのですが、生徒たちは、その端末に他のアプリを入れられること、通信型の対戦ゲームができることを発見しました。
    以後、その端末はゲーム機と化し、子どもたちは、英語の勉強をしているふりでゲームをやり放題となりました。
    また、生徒同士のコミュニケーションも一気に深まり、塾の授業が終わっても塾の前にたむろし、いつまでも喋っていて帰らないという事態も発生しました。
    ガジェット、おそるべし。

    何でも使い方次第なので、全否定するのはおかしいのです。
    ただ、端末を子どもに持たせるときは、大人が目を配る。
    それは、ガラケーの時代から大人が学んでいることです。
    新しいことを導入すれば、保護者は楽になるのではなく、むしろ目を配ることが増える。
    そのように思ったほうがいいように思います。


    話を、たし算・ひき算が上手くできなくなっていた子に戻します。
    翌週、その子は、残りの宿題を解いてきました。
    分数のわり算の宿題でした。
    その宿題の結果は、全問不正解でした。
    分数のわり算のやり方がわからなくなっていたのです。
    わられる数とわる数の両方を逆数にして、計算していました。

    その子は、全問不正解が納得できなかったのか、最初は私の採点ミスを疑ったようでした。
    「そんなはずない。ネットで調べたのに」
    と言うのです。

    ・・・分数のわり算のやり方を、ネットで調べた?

    ネットで調べ、分数のわり算は逆数のかけ算に直せば良いことを知り、そうして、わられる数とわる数の両方を逆数にして計算したのでした。
    それでは、全問不正解になります。

    私は、その子に渡してある塾テキストの該当ページを開き、指さしました。
    「分数のわり算のやり方は、ここに載っています。このテキストでも、学校の教科書でも、見やすく、わかりやすく載っています。なぜそのやり方で解けるのか、意味も書いてあります。やり方を忘れたのなら、なぜ、まず教科書やテキストを見ないの?」
    「ああっ!」
    その子は、幽霊を見たほどの衝撃を受けた顔をしていました。

    いえ、ネットではダメで、教科書なら良いという話でもないのです。
    肝心なのは、ネットでも何でも、本人の注意力や読解力が不足していれば、「分数のわり算は、逆数にしてかけ算する」という情報は、わられる数もわる数も逆数にするという方向へ行きやすいということなのです。
    実際に学校で勉強していても、塾で演習していても、途中からそんなふうになってしまい、違う違う違う、わられる数はそのままだよと幾度も制して、意味を確認し、それでも、翌週もまた間違えているのでもう一度解説して、練習して、そんなふうにしてやっと分数のわり算が身につく子は多いのです。

    情報を自ら得て活用する学力を育てる。
    21世紀型の人材を育成する。
    良い目標だと思います。
    しかし、つまりそれは、子どもの地力では、その力が欠けている子が多いから、そういう力を育てる必要があるということです。
    子どもが勉強のためにネットを利用しているときにも、大人は目を配る必要があります。
    間違ったサイトを見ていないか。
    正しく情報を読み取っているか。
    家庭の役割は増えこそすれ、減ってはいないのです。

    機械を用いて自学自習できるのは、ある程度の学力と判断力がついてからです。
    それまでは、どのように機械を利用しているか、それを丁寧に見守る大人が必要です。

      


  • Posted by セギ at 13:10Comments(0)講師日記算数・数学

    2020年01月18日

    新指導要領に思う。



    このブログの本当に初期のものを読み返し、以下の内容のものを発見しました。
    中学でようやく「ゆとり教育」が終わり、新しい学習指導要領になるときのものでした。
    新しい学習指導要領とは、現行の指導要領です。
    小学校では、来年度からさらに新しい学習指導要領となります。
    その変わり目の今、昔のブログを読むと、当時との違いに感慨を新たにしました。
    以下、当時のブログを採録します。


    来年から、中学は新指導要領になり、教科書は大改訂されます。
    「ゆとり教育」で、3割削減されていた指導内容の多くが、戻ってきます。
    数学の教科書は、例題解説や練習問題のページが増え、発展的内容も盛り込まれ、教科書の「参考書化」「問題集化」が言われています。
    私としては、今度の改訂は歓迎です。
    今まで公立中学生に数学を教えていてダメだなあと感じてきたことの1つに、応用問題への拒絶反応ということがあります。
    基礎学力がある。
    数学センスもいい。
    これなら、都立自校作成校や私立有名校に入れるかもしれない。
    そう思って、そのために必要な難度の高い問題を教えるのですが、どうにも身につかない子がいます。
    「学校で習っていない」と言うんです。
    習っていなくても、入試には、出るのですが。

    ただ、気持ちはわかります。
    そんなに難しいことを勉強しても、学校の定期テストには出ない。
    「入試のときに必要だ」と塾のセンセイが言っても、そんなに先のことは実感がわかない。
    すぐに必要ではないことは後回しになるのは、子どもも大人も同じです。

    そして、中3の晩秋。
    いざ志望校の過去問を解いてみると、30点しか取れません。
    数学が30点では、合格は難しい。
    だから、自校作成校はあきらめ、一般都立に。
    私立志望の場合も、一般受験は無理だから、単願推薦だけ。
    そんなふうに、ランクダウンせざるを得ない子もいました。
    もちろん、中1の最初から、私の言葉を信じて、不当なほどに難しい問題にもくいついてきてくれる公立中学生の子たちもいました。
    集団指導の上位クラスで、高度な公式も、定理も、応用問題の解法パターンも、競って身につけるムードになれば、あとは楽勝でした。
    私としても、その信頼は絶対に裏切れません。
    そういう子たちには、都立自校作成校でも、私立でも、行きたい高校に合格してもらいました。

    だけど、「信じてついてきてくれた子たちにだけ、信頼に応える。私の言葉を信じなかった子は、志望校に行けないのは仕方ない」では、少しおかしいですよね。
    中学生の稚拙な判断が、将来を左右してしまうなんて。
    素質のある子には、その素質を順当に開花してもらいたい。

    私立入試に出題されるレベルの問題が、最初から教科書に載っていれば。
    数学が得意な子だけにでも、学校で教えてくれれば。
    定期テストに1問だけでも、そのレベルの応用問題が出題されるようになれば。
    子どもの意識が変わる。
    学校では完全に理解できなくてもいいんです。
    学校で少しでも教わり、必要なことなんだと子どもが理解すれば、塾で完全に身につけます。
    新しい教科書なら、それがあり得るかもしれない。
    私は、そこに期待しています。


    ・・・さて、引用はここまで。
    現在の私に戻ってまいりました。
    ほんの9年前のことなのに、隔世の感があります。
    今、公立中学校の生徒で、応用問題を解かせてこのような抵抗を示す子は存在しません。

    本人の学力によっては、問題を解きたがらないということは、今もあります。
    教わるのは好きだが問題演習は苦手で、宿題を出しても解いてこない子はいます。
    1問わからないと、そこから先は全部解いてこないのです。
    「わからなかった」といって、全て授業で教わろうとします。
    そういう子は、現代も存在しますし、伸ばすのが難しいタイプの子です。
    昔ならば、集団指導の授業で受験テクニック的なことを教わると満足し、良い授業を聞いたことで自分の学力は伸びたと誤解する子です。
    今ならば、ネットの授業動画を見るだけで満足する子も、このタイプに入るでしょう。
    しかし、聴いただけ、見ただけでは、学力は伸びません。
    それで得た知識をもとに、さて、自力で問題を解くことができるのか?
    テストは、演習力がものを言います。

    最初は誤答ばかりでも、本人なりに何かを考えて根拠をもって解いてきてくれるなら、それに対し指導も補助もしていくことが可能です。
    必ず伸びます。
    しかし、全く解いてこない、あるいは「勘」で解いてくるだけで考えて問題を解くということがない場合、いつまで経っても演習力は養えません。
    本人にとっては、わからないから解けない。
    わからないから「勘」で解いている。
    そこを直せと言われるのは不当だという気持ちがあるかもしれません。
    受験が近づいても、志望校の過去問をまともに解けない。
    「勘」で解くしかない。
    そういう学力の子は、今も存在します。

    しかし、基礎力は十分あるのに、定期テストには出ないからと応用問題の演習を拒むような子は、今は公立中学の生徒でもほとんど見なくなりました。
    理由は単純。
    定期テストに応用問題が出るからです。
    しかも、移行措置で、テストに新傾向の問題もちらほら見られるようになってきています。
    授業で扱われたわけではなく、既存の問題集にも存在しないタイプの問題が、するっと定期テストに出題されています。
    今は配点が低いので影響は少ないですが、これの配点が高くなると、本人の思考力が得点を左右するようになっていきます。

    新傾向というのは、まさに新傾向なので、その新傾向を分析するのは最初のうちは極めて難しいのです。
    AIが分析しますよ、などというのは胡散臭い。
    AIは、過去のビッグデータをもとに分析しますので、新傾向には弱いのです。
    次のテストで何が出題されるかの特定は不可能でしょう。
    そして、「新傾向」と称する問題に、出題頻度の高い形式が生まれてきたとき、それは新傾向でも何でもない「典型題」となっていきます。
    AIが統計的にこういう問題の出題度数が高いと判断する頃には、既に人間の講師が典型題の判断をしているはずです。
    問題として質が高い良問であるという判断基準が人間にはありますから。

    しかし、こんなふうに書くのも、当時と比べると隔世の感があります。
    個別指導塾を開いたばかりの当時の私のライバルは、集団指導塾であり、学生アルバイトを多数抱える大手個別指導塾でした。
    現在の私のライバルは、授業を動画で提供する有料サイトであり、AIを活用した個別指導プログラムです。

    学力向上の根本は基礎力。
    基礎力を鍛えるカリキュラムの選定は、AIにも可能でしょう。
    ただ、誤答する子の理由は様々です。
    知識不足にしろ何にしろ、根拠をもって本気で解いて誤答したのなら、その能力をAIは正確に判定できるかもしれません。
    しかし、「勘」で解いている子に次に解くべき適切な問題を指示できるのでしょうか。
    また、理解はしているけれど多種多様なケアレスミスを繰り返す子に、正しい次の指示ができるでしょうか。
    そうしたことは分析できず、誤答すれば少し易しい類題を指示するだけ、ということはないのでしょうか。
    毎回、解けば解くほど「易しい類題の森」に迷い込み、それでもケアレスミスを繰り返すので、学力がついたと見なされない、という可哀想な子が現れないと良いのですが。

    3.5-1=4.5 といった計算ミスをする子は、小数の計算の仕組みが理解できていないとは限りません。
    答案を書くときのほんの一瞬、脳に何かが起こるのでしょう。
    そうしたミスを見たとき、私は、その子に小数の計算の復習は命じません。
    そうした子は、小数の計算だけを間違うわけではなく、次の問題では、56÷2=26 と暗算ミスをしてしまったり、さらに次の問題では、2x2と書くべきところを2x3と書き誤ってしまうのです。
    ミスの原因は小数の理解不足ではありません。
    しかし、AIは、小数の復習を命じるかもしれません。
    それを命じられた恥ずかしさで、細心の注意を払うようになり、ケアレスミスが減る子もいると思います。
    しかし、どこまでレベルを下げても、それでもケアレスミスをする子もいると思います。
    小数の計算なんかできるよと思いながら、しぶしぶ解くと、それもまた、ケアレスミス・・・。
    気がつくと、小学校の算数の復習コースに迷い込んでいた・・・。
    そんな学力ではないのに。
    その都度チューターに相談してレベルを操作し直してもらう繰り返し。
    そんなことにならないと良いのですが。

    教材会社から送られてくるAI導入のパンフレットなど見ながらも、初期費用の高さ以上にまだ心配な点が多くあり、導入する気にはなれません。
    うちの教室に通ってくれる生徒の成績が順調に上がっている現在、私が判断したほうが適切だという気持ちがあります。
    当面情勢を観察します。


      


  • Posted by セギ at 13:32Comments(0)講師日記算数・数学

    2019年12月19日

    期末テストの結果が出ました。2019年2学期。


    2学期末テストの結果が出ました。

    数学
    90点台 1人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 2人
    英語
    90点台 1人 60点台 1人 40点台 1人

    この秋から入会した生徒が、今回のテストで、入会前の中間テストから+37点のジャンプアップをしました。
    大成功です。
    とはいえ、いつもそうなるとは限りません。
    場合によっては、入会後も停滞したり、入会前より一時的に下がってしまうこともあります。

    +37点の生徒には、最初から私が教材の選定をすることが可能でした。
    学校の問題集からの質問も受けますが、基本的にはどの問題を授業で扱うのかは、私が決めています。
    当然、定期テストに照準を定め、テストに出る問題を重点的に取り扱います。
    「テストに出る」というのは、その学校の過去問を集めて予想問題を用意してといった、ちまちました対策ではありません。
    大事なことがテストに出る。
    絶対に身につけるべきことがテストに出る。
    そういう観点で問題を選んでいます。
    その上で、出題傾向というものもありますから、短問形式はこういう内容が出ることが多いからそれは沢山練習して、後半の大きい問題はこの典型題か、もしくはこれだろうから重点演習して、というやり方をします。

    こんなに理解力のある子が、こんな得点のはずがない。
    絶対何かが起きている。
    何だろう?
    そのように手さぐりしながら、その子が取るべき本来の得点を取ってもらう。
    それが理想の授業の形です。

    しかし、それが上手くいかないこともあります。
    その教科を独りで勉強していくことに行き詰まりを感じて塾に通うことにしたにも関わらず、自分の学習スタイルがもう確固としてあり、それを崩すことができない子の場合です。

    これまで、なかなか成績が上昇しなかった子の一番の要因は、本人が学校の教材に拘泥していたことでした。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがるのでした。
    数学も英語も、学校の教材だけでかなりボリュームがあるのは事実です。
    学校は毎日の家庭学習が十分にできるような分量の教材を用意しています。

    高校生に対しては、塾の授業は塾用テキストで解説・演習し、塾から出す宿題は学校の問題集からにしています。
    テスト1週間前までに最低1回はテスト範囲の学校の教材が終わるようにスケジュールを組みます。
    そうすると、その中での応用問題・発展問題の質問を次の授業で受けざるを得ないこともあります。
    学校から解答解説は渡されていますので、基本問題はそれを見ればわかるのでしょう。
    解説を読んでも意味のわからない応用問題・発展問題のことを訊きたい。
    そのために個別指導に通っている。
    そういう思いがあるのもわかります。

    しかし、解答解説を読んでも意味がわからないような応用問題・発展問題は、定期テストには出ないのです。
    学校が生徒に渡す問題集には、無意味なほどの難問が多少は含まれています。
    学校の先生は、基本問題や典型題の質を評価して、その問題集を採択しています。
    応用問題・発展問題の質が高いからその教材を選んでいるわけではありません。
    しかし、応用問題にばかり目のいってしまう生徒もいます。
    応用問題さえ解けるようになれば・・・、と思ってしまうようなのです。

    その科目が苦手な生徒の傾向は、大きく2つに分かれます。
    1つは、自分は基本問題だけ解ければいい、B問題や練習問題は解けないと決めつけて、やろうとしないタイプ。
    もう1つは、とにかく応用がわからない、応用をやりたい、応用を教わりたい、というタイプ。
    レベルに合わない勉強をしてしまうという点で、どちらも伸び悩んでしまいます。

    前者は、本当に基本問題しか解けず、その中での失点もあるので、点数が伸びません。
    後者は、応用問題の解説を聞いて意味を理解することに勉強時間の大半を使ってしまうので、テストの結果は、基本問題で多くの取りこぼしを生んでしまいます。
    もっと、本人のレベルにあった学習をしましょう。
    本人がそのレベルの判断を誤っていると、成績が伸びません。
    その場合、その判断は塾講師がやったほうが良いのです。


    あるいは、学校の問題集を真面目に演習してはいるのですが、常に解答解説を見ながら解いてしまう子も、なかなか成績が伸びません。
    解答解説を見ながらスラスラ解いていると、自力で基本問題を解くことはできなくても、そのことに気づかないのです。
    その結果、解答解説を読んでも意味のわからない発展問題や章末問題ばかりを気にすることになりがちです。
    意味のわからない難問だけを塾で教えてほしい。
    真面目な子ほど、そう思ってしまうのです。
    質問されれば教えますが、発展問題は癖の強い難問であることが多いです。
    「こんな問題、定期テストに出るわけがない」
    と私は思いますし、その話をするのですが、真面目な子ほど、なぜか私のそうした言葉をあまり信用してくれません。
    学校の問題集に載っているんだから、テストに出るかもしれない。
    そういう思いが強いのかもしれません。
    その科目のテストの得点がふるわないということは、何が重要か、何がテストに出るかの判断がブレているということ。
    どこをどう勉強するべきかの判断を誤っているのですが、そこを指摘されてもなかなか認められない子は、真面目に勉強してきた子に多いです。

    返却されたテストを見れば、予想通り、質問を受けた問題はテストには出ていません。
    ああ良いテストだなあと納得する、基本問題・重要問題・典型題が並んでいます。
    そして、そうした問題でポロポロと点数を取りこぼしてしまうのが、真面目な子たちです。


    学校の教材にこだわる子は多いです。
    数学もそうですが、学校の英語の予習が負担になっている子たちも多いのです。
    学校の英語だけでも大変なので、他のことはやりたくない。
    学校の英語の予習を手伝ってほしい。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    学校の英語の授業に関係のあることだけをやりたい。
    他のことはやりたくない。
    しかし、そういう要望につきあっていると、英語学習の中身が痩せていきます。
    予習といっても、結局、私が代わりに解いてあげて、答を教えてあげることになりがちです。
    自力で英文を読んでいく力、問題を解いていく力が失われていくばかりです。
    だから、定期テストに初見の長文からの出題があると、それは解けなくなっていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強になり、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなっていくのです。

    もっと間口の広い英語学習をしましょう。
    定期テスト直前には学校の進度に合わせてテスト対策をするけれど、それ以外の時間はもっと間口を広くとり、英語力を根本的に鍛えましょう。
    そう話すと理解した顔はするのですが、実際にはコミュニケーション英語の教科書本文の予習をしたい。
    リーディングのサブテキストを全訳してほしい。
    英語表現の教科書の問題を予習したい。
    文法・語法の問題集を一緒に解いてほしい。
    というより、答えを教えてほしい。
    そういう痩せた勉強を望む子もいます。

    単語暗記の宿題を出しても、やってきません。
    長文読解の宿題を出しても、本気で解いてきません。
    本気でやらないから実力がつかず、学年相応の英語力になっていきません。
    学校の定期テストの成績は何とかキープしていても、校外実力テストや模試の英語の偏差値はいずれガクンと下がります。
    あるいは、そんな勉強では英検2級に受かるわけがないので、そのことは事前に伝え、今回は落ちるけれど、まずそのことを実感しなさいと送り出すと、予想通り落ちて、ショックを受けて、塾を辞めると言い出すこともあります。
    だから、今回は無理だって言ったのに・・・。
    許可しなければ良かったのかなあ。

    学力を鍛えるためには、学校の教材を私が代わりに解いてあげる授業ではダメなのです。
    それは当たり前のことなのですが、個別指導や家庭教師ならそういうことができるととらえている子は後を絶ちません。
    わからない問題を質問したい。
    わからないことを訊きたいから個別指導に通うのだ。
    気持ちはわかりますが、学習のピントのズレた内容に対応するだけでは成績は上がりません。

    個別指導を受ける強みは、学校の教材で授業してくれるかどうかの次元の話ではないのです。
    学習の本質をつかめば、学校の教科書も問題集も今までよりも効率的に自力で学習していけるようになります。
    自力で解けるのならば、家庭学習もあまり負担に感じなくなります。

    学習に対して視野が狭くなっていると、いずれその結果が表れてきます。
    学校の問題集を自力で解ける実力を鍛えること。
    テストにどんな問題が出るか、重要なところはどこか、自分で判断できる学力を鍛えること。
    そこに向かってさらに精進してまいります。

    今回、英語90点台の子は、学年トップの得点でした。
    普段、教科書の予習と本文の反訳トレーニングはしていますし、テスト前はテスト範囲の対策をしますが、授業時間の大半は、教科書の内容からは離れた学習をしています。
    近年、学校も英語で英語の学習をするスタイルが増え、リスニング力は強化されている一方、文法が曖昧な子が増えてきていると感じます。
    体系的な文法を、学校ですら学べないことがあります。
    にも拘わらず、定期テストには文法・語法の問題が大量に出題されています。
    英文法は、日本語で学んだほうがいい。
    結果、そのほうが英文も読めるようになっている。
    その子の答案を眺めながら、つくづくとそう感じました。


      


  • Posted by セギ at 11:49Comments(0)講師日記

    2019年10月31日

    近所の都立高校。


    昔、集団指導塾に勤め、中2のクラス担任をしていたある夏のこと。
    保護者面談を行っていたときのことです。
    集団指導塾といっても1クラス10人ほどで、その子の授業態度や宿題をやってきているかなどを正確に伝えることは問題ありませんでした。
    月例テストの成績の推移を示すことで、学力の伸びなども伝えることができました。
    しかし、保護者の中には、
    「〇〇高校に入れそうですか?」
    と、直球の問いを投げかけてくる方もいらっしゃいました。
    無理もありません。
    知りたいですよね、そういうこと。
    その子の成績は、3が大半でたまに4。
    授業中の私語が多く、宿題もやってきません。
    それなのに、志望校は、都立自校作成校でした。
    うーん・・・。

    月例テストは、目安として志望校の合格判定も出ました。
    中3の模試とは違いますので、そんなに正確な数値が出るわけではないですが、目安にはなります。
    本人の記入した志望校の合格判定は、無論、泣き顔の顔文字。
    とはいえ、どの高校を志望するのが妥当かを例示してくれるのが参考になりました。
    その子の場合、月例テストがお薦めする妥当な志望校として、その子の家の近くの都立高校の名前が上がっていました。
    これから頑張れば、そこを受験できるだろうと予想できました。
    しかし、その学校の名前を出すと、お母様は顔をゆがめました。
    「あんな高校」

    第一子のお子さんの高校受験の場合、進路指導でこういうことが起こりがちです。
    さすがに、中3の秋になってそうしたことをおっしゃる方は少ないのですが、まだ中2ですと、入試情報をほとんど得ていない中でイメージが先行し、志望校が高くなる傾向があります。
    近所の都立高校の実力を理解しづらいのも一因かもしれません。

    「あんな高校というのは、近所ですと、やはり、〇〇高校の生徒さんの登下校で迷惑を感じることがあるのでしょうか?」
    と質問してみると、そのお母様は具体的に不快な点を列挙されました。
    制服を着くずしたり、オーバーサイズのセーターやカーディガンをだらだら着ていたりするので、服装の印象がだらしない。
    道いっぱいに広がって大声で話しながら登校していく。
    自転車の子が徒歩の子と並んでだらだら下校するので、交通の邪魔。
    お菓子を食べながら歩き、道にゴミを散らかしていく子もいる。

    うーん・・・。
    大したことではないという見方もできるし、それが毎日のことであれば不愉快極まりないと見ることもできる・・・。
    そのイメージですと「あんな高校」と思ってしまうのも仕方ないのです。
    しかし、その「あんな高校」は、内申が3の中にたまに4があるという状態ですと、これから努力して何とか合格できる高校なのでした。
    中3までにもう少し4を増やして、その上で、入試できちんと得点できるように受験勉強を頑張れば合格できる。
    目標としてほしい、良い高校でした。


    非常にざっくりした話で、例外はいくらでもあり、正確にはきちんと数字を計算すべきことですが、一般に、内申に「2」があると、都立高校に入るのは難しいと言われています。
    言い換えれば、内申がオール3で、ようやく都立高校の学力的に一番下の高校に入れそうだということ。
    一方で、内申オール3は学力的には「普通」なのではないかと感じている保護者の方も多いです。
    普通なんだから、都立高校の「真ん中」くらいのランクのところに入れるのではないか?
    3の中に4もあるなら、中の上くらいの高校に入れるのではないか?
    そして、これから頑張れば、自校作成校に入れるのではないか?

    このような、中学校の内申と都立高校のランクとの感覚のズレは、中3の秋まで是正されないことがあります。
    それは生徒本人もそうで、中2から中3の夏休みくらいまでは、1000点満点で本人の実力よりも200点も上の高校を見学してしまいます。
    昔は、入試情報を一般には得にくく、それで誤解している場合も多かったと思います。
    しかし、今は、そうした情報は得ようと思えばすぐに手に入れることができます。
    模試を開催する会社が、都立高校の60%合格基準点を1000点満点で明示し、全ての都立高校を得点の高い順に並べています。
    それは、学校の先生や塾だけの資料ではなく、誰でも見ることができます。
    1000点満点の得点の出し方も調べればすぐにわかります。

    具体的に計算してみましょう。
    まずは内申点。
    5教科はそのまま、実技4教科は2倍にして得点を出します。
    オール5の場合、5×5+5×2×4=65
    オール3の場合、3×5+3×2×4=39
    これを300点満点に換算します。
    65点満点を300点満点に変えるのですから、300/65倍すれば良いです。
    39×300/65=180
    一方、入試は5教科500点満点。
    これを700点満点に換算します。
    すなわち、500×700/500=500×1.4
    例えば、入試で平均60点取れたら、
    60×5×1.4=420
    先程の内申との和が、その子の得点です。
    180+420=600

    内申と入試が4 : 6の高校もありますが、大多数の高校は上の計算で得点を出すことができます。

    600点で入れる高校はどこであるか、一覧表を見てがっかりされる方は、都立高校の見方にズレがある方です。
    実際には、学校の成績が「3」で、入試当日に60点を取るというのは、相当な受験指導がされて、その結果が出ている場合です。

    都立入試は、難しいのです。

    国語は、大問1、2の漢字の読み書き、大問3の小説の読み取りまでは自力で何とかなります。
    しかし、大問4の論説文は、文字を目で追うことはできても、意味を理解することができない子もいます。
    大問5の古典の鑑賞文となると、内容に興味が持てないことも手伝って、読み通せない子が続出します。
    古典の原文だけでなく、その口語訳も載っているので、落ち着いて読めば大丈夫なのですが、「古文はわからない」と言い出し、大問ごと捨てる子もいます。

    社会は、資料や表・グラフを読み取れない子は悪戦苦闘します。
    自校作成校を受験する子ですら、得点は70点台ということがあります。
    社会が得意な子にとっては得点源なのですが、そうではない子にとっては、地理分野の問題と「現代の日本と世界」に関する問題で得点を固めるのが難しい科目です。

    数学は、大問1の小問集だけは何とかなるはずです。
    しかし、せめてそこだけはとりこぼしのないようにと努めても、そこで計算ミスをし、ポロポロととりこぼす子はあとをたちません。
    あとは、残る大問のそれぞれ問1しか解けない子が多いですし、その問1を解けることに気づかせることも大きな課題となりがちです。

    理科は、大問1と2の短問集は知識が定着していないためのとりこぼしが多くなります。
    その上、大問3から6は、実験や観察の記述が膨大であるため読み通せない子が続出します。
    入試で理科が最低点となるのは常態です。

    英語は、初見の長文を読めない子が多いのです。
    1~2行で本文を読むのを諦めてしまいます。
    大問1のリスニングと大問2の短文を読む問題以外は、苦戦が必至です。

    内申が「3」の子が独りで受験勉強をしていると、この学力で入試当日を迎えることになってしまいかねないのです。
    50点を取るのも難しい場合もあります。

    入試得点は、平均が50点ならば、
    50×5×1.4=350
    内申との和は、
    180+350=530
    都立高校一覧表と見比べてみると、この数字で合格できる都立高校が極めて少ないことがわかると思います。

    内申が「3」でも、入試本番で頑張れば・・・と、つい思ってしまうのですが、入試本番で高い得点が取れるなら、それ以前に内申はもっと高いはずなのです。
    内申には様々な観点が加味されているといっても、ざっくりいって、定期テストで80点台を取っていれば大抵は「4」になりますし、90点台を取っていれば大抵は「5」になります。
    定期テストで70点台の、「4」に近い「3」の子なら入試問題への対応力もそれなりにありますが、定期テストで50点台をいったりきたりの「2」に近い「3」となりますと、入試問題への対応力はかなり弱まります。

    さらに、入試直前になると、志望校を下げる子が現れます。
    特に、自校作成校を志望していた子の多くが、普通の都立に志望を変えます。
    「上から受験生が降ってくる」という状況が起こります。
    どんどん押し出されて、一応合格しそうだった高校も、決して安心できない状況になっていきます。
    都立高校は、中位から下位になるほど合否の見極めが難しいのは、こうした事情もあるからです。

    そうした中で、入試得点を何とか固めていくこと。
    上のように、子どもに任せていたら全く歯が立たない問題を解けるようにしていくこと。
    塾の腕の見せどころであり、上のような学力の子が、ひと通りまともに入試問題を解いていけるようになった結果が、入試平均60点。
    そうであることは、塾講師と生徒本人はわかっています。
    受験をともに乗り越えれば、保護者の方も理解してくださることです。

    自校作成校に合格させることだけが難しいわけではありません。
    素質があり、自発的にどんどん勉強する子なら、むしろ指導は簡単なのです。

    入試問題の難しさに跳ね返され、眺めた瞬間に「無理」と諦めて解こうとせず、独りで勉強させると考える前に解答を見てしまう・・・。
    そういう子が、どうにか都立入試問題を6割解けるようになる。
    そこに詰まっている受験技術と指導技術。
    こちらのほうが仕事としては大変です。

    入試問題を解けない子は、学力の問題以前に、「応用問題は自分は解けない」という思い込みが強いのです。
    そして、解き方を知りません。
    問題への切り込み方がわかっていない。
    問題の亀裂にぐいぐい食い込んでいく方法を知らない。
    問題を眺めて、ぱっとわかれば「解ける問題」。
    ぱっと見てわからなければ「解けない問題」。
    入試問題は、ぱっと見てわかる問題ではありません。
    だから、入試問題は、永久に解けない問題。
    それで終わってしまいかねないのです。

    国語の評論も英語の長文も、ちょっと読みづらいとすぐに諦める。
    自分には無理だと思ってしまう。
    読み方がわかっていない以前に、勉強に対する耐性がない。
    秀才は、あれは異人種。
    自分はそういうのではないから。
    と自己評価の低い子は多いです。
    小学校の頃は、誰でも解ける基本問題以外は解く必要がありませんでした。
    中学になってそれが通用しなくなっても、その現実と向き合えない。
    勉強に対して心傷ついたまま、まともに向き合えない。
    難しい問題と正対できない子は多いです。
    自分の潜在能力をギリギリまで発揮しようとしない。
    すぐに逃げてしまう・・・。
    「2」に近い「3」の子の受験勉強は、そうした「逃げ」との闘いから始まります。

    自校作成校に〇〇人合格とうたいながら、その他の都立高校には大量の不合格ということもあるのが塾です。
    実際、私が昔勤めていたその集団指導塾も、上のクラスの半分以上の生徒が自校作成校を志望し、私の在籍した5年間では、もともと無謀な受験だった1人を除いて全員合格しましたが、下のクラスの都立の合格率は50%に満たない年もありました。

    1つには、進路指導上の困難があったこと。
    過去問の得点を生徒に自己申告してもらうシステムを取っていたのです。
    模試の判定も参考にしていましたが、模試の問題は本物の入試問題と比較するとやはりちょっとあっさりしています。
    「都立そっくり」といっても、国語や英語ほどの再現度にはなっていない科目もあります。
    難度は一致しているのですが、読み取らなければならない文字数がやたら多いのが都立入試です。
    くどくどと長い説明と設問を読み通す力が必要です。
    だから、模試も大切ですが、最終的には過去問で何点取れるかが合否の判断で重要となります。
    しかし、その塾の下のクラスでは、解答解説を見ながら解いた過去問の得点を申告してくる子が多く、進路指導の誤差が大きかったのです。
    中3のそのクラスは塾長が担任をするのが毎年の慣例で、塾長は、生徒のことを無条件に信じる人でした。
    私なりに進言しましたが、私の言うことよりも生徒の申告を信じてしまう人でした。
    生徒たちが解答を持っていない古い過去問を授業中に解いてその結果を塾長に渡したり、生徒本人に嘘の申告がどのような結果を招くか説明したりしましたが、解答解説を見て解いていながらも自力で解いているような錯覚に陥っている子も多く、なかなか改善しませんでした。
    水増しの過去問得点を申告した子たちは残念な結果に終わっていきました。
    志望校をあと1つ下げるべきだった子が多かったのです。

    勿論、それだけではなく、下のクラスの子は演習量を確保しづらいという課題もありました。
    宿題を出しても「難しかった」と言って解いてこない子が多いのです。
    易しいドリル形式の問題しか自力で解いてきません。
    しかし、入試問題はそんなレベルではありません。
    常に傍らにいて、
    「この問題は解けるよ」
    「この問題は、この前も解いたばかりだよ」
    と声をかけて励ますと解けるのですが、独りでは、すぐに諦めてしまうのです。
    自力で課題をぐんぐんこなす子たちとは学力差がさらに開いていってしまいます。

    過去問を買って、自分で解こうとしても、数問眺め、歯が立たないと諦めて、答えを見てしまう。
    解き方と答えをノートに書き写すことで勉強した気になってしまう。
    そして、難しい問題は解けないからと、易しい1問1答形式の薄い問題集などを自分で買って、それで受験勉強をした気になってしまう。
    自力で入試問題を解いた経験が一度もないまま、入試を迎える。
    そして、残念な結果に終わってしまうのですが、なぜ合格できなかったのか、保護者の方は真の理由を知りません。
    生徒本人が上のような分析を自力ではできないですから、知りようもないことです。
    内申は他の子と同じで、何とか合格できるのではないかという高校を受けても結局合格しなかった子の中には、受験勉強らしい受験勉強をできずに終わってしまう子も多かったのです。

    私の塾は、今年で8年目になりますが、都立高校に不合格だったのは、開校した最初の1人だけです。
    あとは、全員合格しています。
    5教科全てのその子の実力を把握し、私が直接保護者に連絡できるシステムがあること。
    常に傍らにいて、その子が解ける問題は絶対に解かせることが可能であること。
    受験事情を知らない人にとっては「何でもない都立高校」に合格させることが、私の大切な仕事です。


    都立高校に合格した子たちは、勉強のやり方を知っている子たちです。
    だらだらした服装でだらだら歩いている子も、勉強は標準以上にできるんです。
    そうした見た目と勉強ができるかどうかは、観点が異なります。
    道路にゴミを捨てていくのは・・・、それは絶対やめてほしい。


    近所の高校に対する不快な感情というのは、しかし、消え難いものなのかもしれません。
    お母様が「あんな高校」と言ったその生徒は、中3になって4をいくつか増やし、受験勉強を頑張って、都立高校に合格しました。
    ただし、1000点満点の数字がほぼ同じ、隣りの旧学区の高校に。
    その高校は、その地域の近所の人には「あんな高校」と言われていたかもしれません。
    近所の高校と何が違うというのだろう?
    そうも思いましたが、本人も保護者も納得しているのなら、それで良いのでしょう。
    自分が納得できる高校生活をおくれることが何よりも大切なこと。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 13:13Comments(0)講師日記

    2019年10月07日

    叱るよりも、支えること。


    もう何年も前のことになりますが、高校生に学校の英語のサイドリーダーの読解を授業でやってほしいと頼まれたことがありました。
    授業をするには、そのサイドリーダーの本文が必要です。
    しかし、サイドリーダーは、学校販売のみで、個人が書店やネットで入手するのは難しい場合がほとんどです。
    本文が私の手元にないのでは授業がしづらい。
    授業前に下調べをすることもできません。
    重要表現をまとめたり、重要文の暗唱のためのプリントを作ることもできません。

    「サイドリーダーをコピーして持ってきてください。1度に全部コピーしてきてくれると嬉しいけれど、まずは第1章だけでもいいよ」
    そのように、その高校生に話しました。
    しかし、翌週、その子はコピーするのを忘れてきていました。

    その翌週も、その子はコピーを持ってきませんでした。
    それだけでなく、
    「コピーがなくても良くないですか?」
    と言い出しました。
    なぜコピーが必要なのか、最初に説明したのですが、一度では理解できなかったようです。
    もう一度、
    「1冊しかサイドリーダーがないんだから、私が逆さに英文を読まないといけないでしょう。中学の教科書のような、字が大きくて簡単な内容なら平気だけれど、この字の小ささで、この内容を逆さに読むのは無理ですよ」
    と私が説明すると、その子はがっかりした顔をしました。
    このセンセイはそんなこともできないのかと、少し笑っているようにも見える表情でした。
    そこで、サイドリーダーを私が読みやすい向き、つまり生徒には逆さに向けて、
    「ずっとこれで授業しますが、これで大丈夫ですか?」
    と尋ねると、
    「大丈夫」
    と言うのです。
    私が逆さで読めない英文を、その子が逆さで読めるわけがなかったのですが。
    それでは自分の勉強にはならないということに気づかないのでした。
    「私の手元にコピーがなかったら、重要表現をまとめたプリントや予想問題を作ることもできないですよ」
    と説明しても、
    「どこがテストに出るのか、口で説明してくれればいい」
    と言い出すので、頭を抱えました。
    教材研究の時間を私に1秒もくれる気がない。
    その必要性を想像できないようでした。
    結局、私のほうにサイドリーダーを向けたまま全訳し、ここの表現は重要だねと次々指摘しました。
    5分ほどで、その子はギブアップしました。

    コピーがなければサイドリーダーの授業は無理です、来週はコピーを持ってきてねと頼んだ、その翌週。
    ようやく、その子は、コピーを持ってきました。
    「すっごく大変だった」
    と愚痴をこぼしながら手渡してくれたコピーは、1ページ目は曲がって左端が大きく欠け、2ページ目はぼやけて文字が見えませんでした。

    生徒が持ってくるコピーは、多少曲がっていようが、汚れていようが、必要な部分が読み取れれば良いのです。
    しかし、英文の左端が大きく欠けているコピーとか、ぼやけて文字が判読できないコピーは、さすがに使用に耐えるものではありませんでした。

    なぜそのようなことが起きたのか?
    その子は、家庭用プリンタでコピーしてきたのでした。
    家庭用プリンタは、コピー機としての性能は低いです。
    業務用のものと比べると解像度が低いので、文字がぼけやすいのです。
    1枚の書類をコピーするのはまだ楽ですが、本をコピーする場合には、手でしっかり本を押さえ、光が通り過ぎる間、その状態をキープする必要があります。
    しかし、その子は、本をガラス面に置くと手を離し、プリンターの蓋をしてコピーボタンを押したのでしょう。
    手を離した瞬間に本は位置がズレ、浮き上がって文字はぼけ、使い物にならないコピーになったようです。

    初めてコピーをとるときは、高校生でもそんなふうなことがあります。
    「コピーもろくに取れないのかっ」
    などと叱る必要はなく、やり方を知らないだけです。
    ただ、出来上がった失敗コピーを見て、これは取り直しだとなぜ判断できなかったのか?
    コピーするという作業が目的にすり替わってしまい、文字を読み取れるコピーでなければ意味がないということが理解できなかったようでした。

    「これ、家のプリンタでコピーしたの?これじゃ読めないですよ。家のプリンタは上手くコピーできないでしょう?」
    「すごく難しかった」
    「コンビニのコピー機でコピーしたほうがいいですよ。来週までに取り直してきてください」
    そう頼むと、しかし、その子の顔は曇りました。
    「・・・お金が勿体ない」
    「家のプリンタも紙代とインク代がかかるんですよ。特にインクは高い。1枚あたりにすれば、コンビニのコピーと大差ない金額になります」
    「え?そうなんですか」
    「お母さんに話して、コピー代を、お小遣いと別にもらいなさい。何なら、私からお母さんにメールするよ」
    「いや、それはいい。お金が勿体ないと言ったのがわかったら、怒られる」
    しかし、顔は曇ったままです。
    「うん?あとは何が問題?」
    「コンビニのコピーのやり方がわからない」
    「・・・じゃあ、お母さんに頼んで、一緒にコンビニに行ってコピーの取り方を教えてもらうといいよ」
    「・・・」
    もはや、それは嫌だという反応もなくなったのは、失敗しているという実感が自分でもあったからでしょうか。

    その翌週。
    B4版の美しいコピーの束を、その子は持ってきました。
    ただ、1枚目を見た瞬間に、異常に気づきました。
    文字が原本よりも大きく、その一方、上下左右に余白がなく、ページいっぱいに文字が広がっていたのです。
    本文のみを最大限に大きくする拡大コピーがされていたのでした。
    「お母さんが、凄く難しかったと言っていた」
    「・・・」
    余白がないように拡大コピーしたので、ページを示す数字はカットされていました。
    ページ数の記載がないコピーが40枚ほど。
    うっかり落として、紙をバラまいてしまったら終わりです。
    恐ろしいものを受け取ってしまいました。


    それにしても、なぜお母様は、拡大コピーをしたのでしょうか。
    余白なく、しかし本文は確実に入るよう拡大コピーするには、拡大率をあれこれ考え、数枚は試して、ようやく出来たと思うのです。
    拡大コピーなど頼んでいないのに、何でそんなことになったのでしょう?

    推測するに、
    「こんなに小さな字のサイドリーダーを逆さに読むことはできない」
    「このコピーは、字がぼやけていて読めない」
    と私が言ったという情報が、少し曲がった形でお母様に伝えられたのではないかと思うのです。
    そう言えば、塾のブログも何だか字が大きかったような気がする。
    もう1つ。
    お母さんに頼んで、一緒にコンビニに行ってコピーしなさいと私が言ったことが、お母様には理解しかねることだったのではないかと思うのです。
    何で私がやらなければならないのだろう?
    なぜ、子どもがやるのではダメなのだろう?
    何かとても難しいことを要求されて、だから私の助けが必要なのかしら?
    切れ切れの情報を統合した結果、お母様の判断は、
    「字が小さくて読めないからセンセイが困っていて、だから拡大コピーが必要なのだろう」
    というものになったのでしょうか。

    字が小さ過ぎて読めないっ。

    いやいや、本当にそんなことなら例のルーペを買います。
    逆さに読むのでなければ、小さい字でも読めるのです。
    そんなことよりも、ページ数の情報のほうが、コピーには重要です。

    そのお母様は、自分がコンビニでコピーを取らねばならない理由を、自分の子どもに原因があることと考えれられず、外部に理由を求めた。
    高校生である自分の子どもがコピーを取れないことなど想像もしなかったので、私の老眼を疑うほうに発想がいってしまったのだと思うのです。


    こんなのは笑い話ですが、このような「伝言ゲームの失敗」は、塾ではときどきあります。
    大きな理由の1つは、保護者が見ているお子さんと、私が見ているその子とは、見え方がかなり違うということ。
    家庭内ではしっかりしていても、外の世界で起こることには上手く対応できない子もいます。
    「もう中学生だから、もう高校生だから、大丈夫」
    と保護者の方は思っていても、新しいことへの対応力に乏しい子もいます。
    そこに、子どもの口から語られるあやふやな情報が加わると、こうした「伝言ゲーム」が起こります。

    家庭内では、子どもは生まれ育った安全な空間の中でルーティンで生活していますので、それなりにしっかりしているように見えるのかもしれません。
    親に対して一人前の口をきくこともあるでしょう。
    しかし、未経験のこと・新しいことに上手く対応できない。
    それだけでなく、当然その年齢ならばできるだろうと期待されていることを上手くできない傾向がある。
    そういう子が今は多いです。
    そのことに親は気づかない、ということがあるのかもしれません。
    その子が不器用であることよりも、その子の不器用さを保護者が気づいていないことのほうが根深い課題であると感じることがあります。
    必要なサポートがされないからです。

    忘れ物が多い。
    何が宿題に出されたのか忘れてしまう。
    メモをしても、そのメモを後で見ることを忘れてしまう。
    メモを失くしてしまう。
    学校の定期テスト日程を把握していない。
    テスト範囲を把握していない。

    失くし物も多い。
    塾で渡したプリントを、翌週には失くしてしまう。
    しばらく使っていなかった冊子テキストは、ほぼ100%失くしてしまっている。
    学校のワークや問題集の解答集を失くしてしまうこともあり、学校の宿題を提出したい気持ちはあっても、解答がないので丸つけして提出することができない。
    解答集だけでなく、ワークや問題集本体も、失くしてしまうことがある。
    学校の机の中かロッカーか、散らかった自分の部屋のどこかにはある。
    でも、どこにあるかはわからない・・・。

    定期テストが終われば、問題用紙を学校の机かカバンの中に突っ込んでしまい、そのまま失くしてしまう。
    「テストを持ってきてね」
    と頼んでも、答案用紙が返却された頃には問題用紙を失くしているので、セットで塾に持ってくることができない。


    コピー取りが上手くできなかったその子も、そういう傾向がありました。
    塾に持ってくる物の把握を上手くできませんでした。
    持ってくるものリストを作ってあげても、それを見てチェックすることも忘れてしまうので、結局リストも役に立ちません。
    教材不足の中で授業を成立させるのに苦慮しなければならない日も多くありました。
    宿題を解いたノートと、宿題に使ったテキストだけを持ってきて、あとは全部忘れてくるのです。
    宿題をやったときは、宿題のことだけで頭がいっぱいになってしまうようでした。
    他の教材を全部忘れてきているので、宿題の答えあわせが終わると、では授業は何をするの?という状態になってしまうのでした。
    あるいは、その日、自分が勉強したい学校の教材だけを持ってくることもありました。
    宿題はやってきたの?と尋ねると、そう言えばそんなものがあった、と驚いた顔をしていました。

    また、定期テスト前はテスト対策を2週ほどします。
    そうすると記憶がリセットされてしまうのか、テストの翌週は、筆記用具しか持ってこなかったこともありました。
    塾に何を持ってくればいいのか、わからなくなってしまったようでした。
    そうしたことが繰り返されていました。
    高校生です。

    コミュニケーションがとりづらい。
    私の要求していることが上手く伝わらない。
    スケジュールの管理・物の管理が上手くできない。
    不器用で、色々なことにつまずき、それが学習に影響している・・・。


    もう1つ驚いたことがありました。
    私は、ひと月ごとにまとめて授業の内容をメールで報告しています。
    その指導レポートの送り先として登録されていたメールアドレスは2つあり、お母様のアドレスと、もう1つはその子本人のアドレスだったことが、レポートを送り始めて数か月後にわかったのです。
    勉強のことで参考にするのは本人なので、本人が読むのが良いと思ったというのでした。

    お母様が、その子のことをそんなにも信用し、大人のように扱っていることに、私は心底驚きました。
    小学生ができることをできないでいる高校生を、大人と同じように扱っている・・・。
    テスト範囲を把握できないことも、持ち物を管理できないことも、その子の自覚に任され、家庭内で補助されていないのではないか?
    その一方、学校の成績が良くないことだけは問題視されているとしたら・・・。

    ちょっとだらしない性格傾向はあるけれど、能力の問題ではないと思われているのではないか?
    テスト範囲がわからなくても、教材の管理ができなくても、それは大きな問題ではないとされているのではないか?
    ただ、その性格は直したほうが良いので、ときどき、両親が叱る。
    部屋が散らかっていること。
    テストの点数が低いこと。
    叱って直させたいと思っているが、根本の解決には至らない・・・。
    そうなのだとしたら・・・。

    テスト日程やテスト範囲が把握できない。
    教材の管理が上手くできない。
    この2点は成績に大きく影響します。
    過保護になってはいけないと、物や情報の管理を子どもに任せ、失くすに任せていては、そのままです。
    そのように信頼しているのなら、子どもの成績についても子どもの自覚に任せたほうがいいです。
    それはできず、口を出す。
    口を出すが、助けない。
    ときどき、わっと叱る。
    叱るわりに、その子の課題が見えていない・・・。
    むしろ、課題があることなど認めたくないから、その子を一人前の大人のように扱っているということはないのだろうか。


    他人ごととして読むと「その子は発達障害なのかしら?」という疑問が浮かぶかもしれません。
    しかし、実際に発達障害と診断されていたり、グレーゾーンとされている子の指導もしてきましたが、彼らは、情報や持ち物の管理はしっかりしていました。
    この子のどこがグレーゾーンなのだろう?と、むしろ疑問に思うことのほうが多かったのです。
    高知能であることも多く、望む大学に進学していきました。
    ご両親が専門家と連絡をとり、勉強し工夫して子育てをされてきたからだと思います。

    むしろ、そのような診断をされていない子に、上のような状態の子が多いと感じます。
    物や情報の管理ができないのは、本人がだらしないから。
    勉強ができないのは、努力が足りないから。
    性格的にだらしないだけで、やればできるはずだ。
    叱れば直るはずだ。
    とされてしまうこともあると思います。

    グレーゾーンの一歩定型側は、グレーゾーンとどこが違うのでしょう?
    全てはグラデーションで、線引きなど本当はできないのではないでしょうか。

    ただ、他人ごととしては「発達障害の傾向があるのかしら?」で済むことも、保護者にとっては決して認められない場合もあると思います。
    実際、そのような診断は受けていないのだから認められるわけがない。
    事実として違う。
    それだけでなく、わが子のことと考えると、そのような「レッテル」は受け入れられない。
    その一言で勉強ができない理由を説明されてはたまらない。
    他人のこととしてなら偏見なく受け入れられるけれど、わが子のこととしては、受け入れられない。
    うちの子は、グレーゾーンではない。
    ただ、だらしないところがあるだけ。
    幼いところがあるだけ。
    努力が足りないだけ。
    それは直さなければならない。
    本人にもっと自覚してもらわなければ。
    ・・・そういう考えになってしまう親を誰が責められるでしょうか。

    そもそも必要なのは診断ではありませんでした。
    グレーゾーンかそうでないかなど、その方面の専門家ではない私にとっては、何の意味もないのです。
    ただ、課題は確実に存在し、それは、本人だけで解決できることではないように感じました。
    叱ればきちんとできるようになるわけではないと思いました。
    どうすれば教材を失くさないようになるのか。
    どうすればテスト範囲などの情報を正確に得て、私に正確に伝えられるようになるのか。
    どうすれば、必要なコピーを取って私に渡し、塾の授業をスムーズに受けられるようになるのか。

    しかし、私もまたその子にとっては、ただ注意ばかりするだけの嫌な大人の1人なのかもしれませんでした。
    その子が学校や家庭内で教材を失くしてくるのを、私は傍観することしかできません。
    サイドリーダーのコピーを渡してくれるまでにひと月かかり、定期テストはおそらく目前。
    詳しい日程はよくわからないし、テスト範囲もわからない。
    学校の問題集はまたも解答集を失くしている。
    テスト当日におそらく提出しなければならないだろう宿題のページもどこかわからない・・・。
    それがテスト範囲そのものであるのは、他の高校の例から考えて確実なのですが、それがわからない・・・。
    「とにかく解答集を探しなさい。それから、友達に、宿題のページを教えてもらいなさい。見つかったら、解答集は必ず問題集に挟み込んでおくんだよ。使ったら挟む、使ったら挟む。離しておいたら絶対なくなるから」
    そのように助言しても、実際にその子がどこまで実行できるのか、傍にいて気にしてあげることはできませんでした。
    1週間後、まだ解答集が見つからないこと、テスト範囲もわからないこと、テストはどうやら来週であることを確認し、注意するだけでした。
    お父さんかお母さんが、その子と一緒にその子の部屋を片付けて、必要な教材を見つけてくれないかなあ・・・。
    その子が友達に電話してテスト範囲やテスト日程を確認するのを傍にいてサポートしてくれないかなあ・・・。
    そうした作業が確実に終了するまで、傍にいて面倒をみてくれないかなあ・・・。
    たまにわっと叱るより、必要なのはそれだと思うなあ・・・。

    そう思うなら、それを伝えればいい。
    より具体的に解決策を提案してはどうだろう?

    私は指導レポートに、上の件の他、物の管理の仕方の具体例をいくつか提示し、メールで送信しました。

    その後、大きな変化が表れました。
    ただし、私が提案したことは一切実行されませんでした。
    しかし、教材を失くしてくること、忘れてくることは、ほとんどなくなりました。
    また、テスト日程とテスト範囲だけは、変な例えですが「歯を食いしばるようにして」正確に私に連絡してくれるようになったのです。
    そこが雑な間は、成績が上がるわけがない。
    逆に言えば、そこが正確になったとき、それでも成績が上がらない理由は、後は、何があるのか?
    そう反問されている、と感じるほどでした。
    そう。
    そこから先は、私の仕事でした。

    なぜかはわかりません。
    けれど、あのメールを境に、確実な支援がその子に入ったと感じました。
    その子の意識も変わりました。
    そして、成績は少しずつ上昇していきました。

    想像するに、その指導レポートの提案のあまりの具体性に、お母様は違和感を抱いたのではないか?
    そして、今度は、私の老眼を疑う方向には向かわなかったのではないか?
    高校生の子どもに対し、まるで小学生にするようにあれをしてくれ、これをしてくれと、親にやけに具体的に要求するメールの意図は何なのか?
    何か起きているのではないか?
    ようやく、その違和感が伝わったのではないかと思います。

    このセンセイ、目だけでなく、言うこともピントがズレてない?
    そんなふうに思われる危険性もあったかもしれません。
    良い感情はもたれなかったようにも思います。
    けれど、成績は少しずつ上昇していきました。

      


  • Posted by セギ at 14:29Comments(0)講師日記

    2019年07月20日

    期末テスト結果出ました。2019年1学期末。


    2019年1学期末テストの結果が出ました。
    高校生は、コミュニケーション英語と英語表現の平均を英語として、数学2科目の平均を数学として記してあります。

    数学 80点台 2人  60点台 1人  40点台 2人
    英語 80点台 1人  50点台 2人  40点台 1人 30点台 1人

    定期テスト得点は、上がったら下がる、下がったら上がるを繰り返す子が大半です。
    上がると気が緩んで次は下がる、下がると危機感を抱いて次は上がる。
    そうした中で、数回の推移が上昇基調であるか下降基調であるかを見通すと、その子が伸びているのか下っているのかを判断できます。
    上がったときの最高点が、上昇し続けているか。
    下がったときの最低点が、下降し続けているか。

    前回の中間テストで大幅に上昇した子が、予期した通りに下がりました。
    次は、頑張りましょう。

    特に高校生の場合、英語も数学もそれぞれ2科目ありますので、週1回90分の個別指導では全てをカバーしきれない場合もあります。
    英語で言えば、文法がわからない、独りでは勉強できないという場合、英語表現の学習に当面集中し、コミュニケーション英語は自力で学習してもらうこともあります。
    全訳プリントも、穴埋め式の重要表現をまとめたプリントも、教科書準拠ワークも解答付きで学校からもらっている場合は、あとは本人がそれで勉強するだけです。
    勉強のやり方は説明してありますし、入塾した頃には、それらを使ってどのように勉強するのか、手取り足取り練習してもいます。
    あとは、それを自分で継続するだけ。
    塾では独りではできない勉強をしたほうが合理的と思いますし、本人も「大丈夫」と安請け合いします。
    しかし、蓋を開けてみるとほとんど勉強していないことがあり、私は天を仰ぐことになります。
    「今回は、同じ日に世界史があったから」
    ( 一一)
    何で一夜漬けすることが前提なんでしょう。

    「塾に行くことにしたから大丈夫」
    と本人が思っている場合、塾の宿題しかしなくなる、果ては塾の宿題もしなくなる、塾でしか勉強しなくなるという、勉強嫌いな小学生みたいな学習姿勢になることがあります。
    塾に行かないほうがまだ危機感を維持できて、自分でそれなりに勉強するのでは?
    塾講師である私がそれを言うのは矛盾ですが、そう言わざるを得ない子もいないわけではありません。

    学習意欲が低く、学習習慣がほとんどない子の多くは、基礎学力や思考力が低い子ではありません。
    小学生の頃は、家で勉強しなくても学校の勉強は楽にこなしていただろうと思われる子たちです。
    勉強ができないわけではないのに、何でそんなに勉強しないのだろう・・・。

    特に中高一貫校の子の中には、公立・私立を問わず、勉強ができないわけではないのに勉強しない子がいます。
    中学受験が終わった後、伸び切ったゴムみたいになり、もう勉強しなくなる子たちです。
    保護者の方も、まあ受験勉強は頑張っていたし、多少無理もさせたから、少し休むのも良いだろうと思ってしまいます。
    すると、そのまま休む休む。
    頭は悪くないので、テスト前だけちょこちょこっと勉強するのでも、良い成績とは言いませんが、それなりの点数はとります。
    中高一貫校は進度も速くレベルも高いから、こんな成績でも仕方ないのかなと、本人も保護者も思ってしまうこともあります。
    全力を出してもいないのに、まあこのくらいで・・・と思ってしまいます。

    ただ、まあこのくらいで・・・のレベルは、年々下がっていきます。
    勉強していませんし、しても一夜漬けですから、積み上げ科目である英語や数学はジリジリ下がっていきます。
    中1の頃は、70点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    中2の頃は、60点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    中3の頃は、50点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    高1の頃は、40点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    高2の頃は、30点くらいで、まあこのくらいで・・・。
    もっとこれよりも一気に下がっていく子もいますが、遅かれ早かれ30点台が見えてきます。

    なぜ、こんなに学習意欲が低いのだろう?
    なぜ、モチベーションが低いのだろう?
    どうしたら、モチベーションは高まるのだろう?
    どうしたら、やる気になってくれるのだろう?

    日々、そうしたことを考えていたところ、先日、興味深いネット記事を読みました。
    教育関係のネット記事ではなく、ビジネス関連の記事でした。
    「いちいちモチベーションという概念にふりまわされている人は生産性が低い」という内容でした。
    目からウロコが落ちました。

    生産性が低く、仕事のできない人の特徴は、
    ①自発的に動かない。
    ②当事者意識に欠けている。
    ③危機感がない。
    の3つなのだそうです。

    うわあ・・・。
    それは、成績不振の生徒に対して丸ごとあてはまることです。
    自発的に勉強しない。
    自分の人生だし自分の成績だという当事者意識に欠けている。
    このままいくとどうなるという危機感がない。

    では、そうした人のモチベーションをどう上げるか?
    あるいは、そういう本人がどうやって自分のモチベーションを上げるのか?
    答えは明快。
    そもそも、モチベーションという概念をいちいちもちだしてくる人は行動できない。
    モチベーションがむしろ言い訳になり、そこでワンクッションある人は、行動できない。

    朝ごはんを食べることは、モチベーションの問題ではないから、誰にでもできます。
    朝起きて顔を洗って身支度を整えることも。
    定刻に家を出ることも。
    昼ごはんを食べることも。
    家に帰ってとりあえずテレビをつけることも。
    着替えてベッドに寝転んでスマホをいじることも。
    モチベーションの問題ではないから、毎日行うことができる。
    それは、「習慣」。
    モチベーションがなくても、習慣になっていれば、それはできる、というのです。

    一方、そうしたことをモチベーションの問題にしてしまったら、そのいちいちでやるかやらないかを判断することになり、多大な精神力が必要となる。
    いちいちやるかやらないかを判断していたら、できない。
    やりたいかやりたくないかを考えていたら、できない。
    だから、やるべきことをモチベーションの問題にしないこと。
    生活習慣とすること。

    勉強することを生活習慣とすること。
    勉強したくないなあとか、モチベーションが上がらないなあとか考えないこと。
    考えそうになったら、
    「はいはい。それはモチベーションの問題じゃない。習慣習慣。考えない。考えない」
    と自分に言い聞かせ、とにかくいつもの時間になったらいつも通りに勉強する。
    半年も経てば、それは習慣になり、今日は勉強したいとかしたくないとか、そんなことは関係なくなる。
    勉強する時間が毎日の生活習慣の中にある。
    それが大事。

    そう考えますと、中学受験というのは罪深い側面もあります。
    受験勉強をしている3年間だけ、小学生としてはありえないほどの時間を使って勉強します。
    学校から帰ったら、毎日5時間、6時間。
    その反動で、中学入学後は全く勉強しなくなるという事態が起こり得ます。
    それに対して、親が強く言えない。
    受験期に無理をさせ過ぎたという後ろめたさがあると、特に言いづらいかもしれません。
    受験をしていなかったら、「もう中学生なんだから、しっかり勉強しないと」という当たり前の忠告ができます。
    「高校入試があるんだから」と言えます。
    それが言えないのです。
    学習習慣が消え去っていくのを手をこまねいて見ていることになります。

    勿論、保護者の方は危機感を抱いているのですが、中学受験のときほどには、子どもは親の言う通りには動かなくなります。
    「受験勉強のときだけだと思っていたのに、中学に入ったら入ったで、また勉強しろと言っている」
    口にはしなくても、そんな目で見返されると、ついひるむということもあると思います。
    あるいは、ひるまず「勉強しなさい」と言っても、もう言うことを聞いてくれない・・・。
    6年先の大学入試について何を言っても、子どもに当事者意識を持たせるのは難しいこともあります。

    中学受験をしていなかったら・・・。
    公立中学に通い高校受験をしたのであれば、少なくとも学習習慣は身についたのではないか?
    中高一貫校の中で成績が悪くても「みんな勉強ができるから」と言い訳できるけれど、地元の公立中学で自分が劣等生というのはあり得ない。
    勉強は普通にするでしょう。
    5教科「5」はマストだよね。
    そういう気持ちになっていたかもしれません。

    しかし、中学受験をしたのだし、その結果中高一貫校に通っているのですから、そのことについて今更どうこう言っても意味がありません。

    中高一貫校には良い面も多いのです。
    大学受験について学校側が強く意識していますから、全体の流れに乗っていればそれなりに何とかなります。
    中1の最初から大学受験に向けたカリキュラムが組まれ、どの程度頑張ればどの大学に入れるのか、そうした数値的なデータもそろっています。
    土曜日も授業。
    7限もあり。
    繰り返される小テスト。
    単元テスト。
    追試。
    放課後の補講。
    学校の夏期講習。
    山のような宿題。
    それをこなしていれば何とかなるのは、将来の目標を持って学習できていない子にはありがたいシステムです。
    高2までで高校の学習内容が終わるので、高3は受験勉強に集中できるのも強みです。

    全く学習習慣のない子も、高2になって周囲がざわつけば、意識もちょっと変わります。
    ずっと先だと思っていた大学入試はすぐそこ。
    中学受験のときには、もっと早くから準備していましたよね?
    そんな話が案外心に響くことがあります。

    さあ、ここから。
    そう思います。
      


  • Posted by セギ at 12:47Comments(0)講師日記

    2019年06月24日

    ピグマリオン効果と、その否定と。



    ピグマリオン効果とは、教師がその生徒は高い能力を持っていると信じ、期待し、そのように接すると、実際に生徒の成績は上がっていくという効果のことです。
    この説には異論も多く、学術的に立証された説というのではありません。
    教師の期待が、実際に生徒にどのように伝わっていくものなのか、具体的に立証する術もないですし。

    「褒めて育てる」という考え方と混同されがちなのも批判される一因だと思います。
    確かに、褒めることがテクニックになってしまい、しかも「褒めて育てる教育」という教育論を子ども自身が見聞きしていては、褒めることも逆効果になってしまいかねません。
    当然注意されるべきことを注意されただけでも、
    「褒めなければ人は伸びないのに、叱るなんておかしい」
    と子ども本人が考えるようでは、褒めても叱っても、伸びる可能性は低いでしょう。
    大した結果も出していない子を褒め続ければ、こんな程度でいいのかと子どもの中での基準が低くなり、それ以上を目指さなくなることもあります。

    私の思うピグマリオン効果は、そういうものとは少し異なります。
    褒めるのではなく、ただ秀才として信じ、遇する。
    現在の成績は悪くても、目の前の問題を今は解けなくても、この子の中には才能が眠っていると確信して接しているとき、実際秀才になった例は多いというのが私の手ごたえです。

    それは、ピグマリオン効果ではなく、実際にその子に素質があって、それが開花しただけではないのか?
    そう言われたらそうかもしれないのですが。

    そしてその逆もあります。

    もう随分前のこと。
    私が大手の個別指導塾に勤めていた頃のことです。
    小学生の男の子の算数を担当したことがありました。
    受験算数ではなく、普通の算数でした。
    算数は苦手とのことでしたが、基本をしっかり学習していくことで、学校の算数の授業やテストに対応していくことができるようになりました。
    カラーテストも満点を取ることが多くなりました。

    数か月して、その子の態度が変わっていきました。
    必ず持ってきて見せてくれた学校のテストを、持ってこなくなったのです。
    「テスト・・・?ああ、100点、100点」
    と、結果は言うのですが、持ってこないのです。
    「テストは昨日あった。まだ返ってこないけど、どうせ100点」
    そう言うこともありました。

    計算問題を解くのを嫌がるようにもなりました。
    以前は、上手くできる自信がなくて嫌がるのを励ますと何とか出来るようになり、少しずつ自信を得ていったのですが、
    「こんなの簡単だし」
    と口にするようになりました。
    なめてかかれば失敗します。
    すると、
    「俺様としたことが」
    と言ったりもしました。
    そんなキャラクターの子ではなかったのに、どうしたのだろう?

    塾では、学校よりも少し先を予習します。
    初めて学ぶ内容を学習するときの態度も少しずつ変わっていきました。
    私の説明をよく聞かず、やたらと話を遮りました。
    「わかった。こういうことでしょう?」
    と自分の考えを口にしますが、まだ若かった私にとってはちょっと対処に困るほど見当外れなのでした。
    「いやいや、そういうことじゃない。とりあえず、この説明だけは聞いてから、その先を考えよう」
    そう制して、基本の説明を聞いてもらおうとしましたが、それもすぐにさえぎられました。
    「わかった。こういうことだ」
    「いや、違うよ」
    「えー・・・」
    露骨にがっかりした顔をします。
    そんなとき、その子は、
    「学校の授業はわかりやすくて面白いのになあ」
    とつぶやくこともありました。
    「・・・うーん。それは、塾で予習して問題も完璧に解けるようになってから学校の授業を受けているからでしょう」
    塾で既に学習済みのことを、学校では初めて自分で気づいたように発言したり問題を解いたりしているんだから、それはわかりやすくて楽しいでしょう?
    その子は、私の指摘が理解できたのかできなかったのか、黙ってしまい、その話はそれきりになりました。

    学校のテスト問題を楽に解けるよう、塾ではそれより少し難しい問題も解きます。
    そうした問題を解く際のその子の姿勢は、しかし、筋道立てて考えるというものではありませんでした。
    「これ、かけ算?」
    「・・・え?」
    「わり算?」
    「・・・いや、そういうことを言い出したら、ただの四択問題になって、いつかは当たるでしょう。そうじゃなくて、かけ算ならかけ算で、どうしてなのかを説明して」
    「じゃあ、わり算だ」
    「・・・今の話、聞いてた?」
    その子には、沈黙し、思考する時間が、5秒もありませんでした。
    かけ算?わり算?
    とすぐに言い出し、私の顔色を見てどれが正しいか判断する。
    筋道立てて考えるのではなく、相手の反応を見て正解を探る。
    そういう学習姿勢が表に出るようになっていました。

    その子は、私に褒めてほしかったのかもしれません。
    学校で「よくできる子」と遇されるようになったから、私にもそのように接してほしかったのだろうかと、今になって思います。
    パッと正解を出して、「わあ、よくできたね」と褒めてほしくて、即答にこだわった。
    その即答を疑問視され、よく考えなさいと押し戻される・・・。
    褒めてほしくてやっていることのいちいちを疑問視される・・・。

    それでも、学校で褒められるために予習を一所懸命やろうというモチベーションは高いようだったので、それでも良いと思っていたのですが、少しずつ色々なことが軋み始めていました。

    ある日、教務からとんでもない指示がきました。
    「あの子、中学受験をすることになったから、次の授業から内容を受験算数に変えて」
    「・・・え?」
    文章題の内容を汲み取って考えることをせず、「これ、かけ算?わり算?」と訊いてくる子にとって、受験算数は難しいです。
    しかし、無理だと言って通る話ではないのが当時の大手の個別指導塾でした。
    私が嫌だと言えば、私はその授業を下ろされ、他の講師がその授業に入るだけでした。

    1回目の「植木算」から、授業は困難を極めました。
    実際に絵を描いて考えよう。
    慣れるまではそうしよう?
    そのように呼びかけても、その子はただ呆然としていました。
    私が実際に植木を4本描き、間の数は3個だねと数えてみせても、何のことかわからない様子でした。
    問題文の意味が読み取れないのかと、本人に音読してもらい、私からも範読し、噛み砕いて説明しても、何も理解していないのが見てとれました。
    何のために何をやっているのか、まるでわからないようなのです。
    見たことのない問題が並んでいる。
    見たことのない問題への違和感に、ただ恐怖しているように見えました。
    こんなのは、自分の知っている算数じゃない。
    こんな問題は許せない。
    こんな問題は不当だ。
    受験算数に初めて接したときの多くの小学生が感じることを、その子も感じていたのかもしれません。
    簡単に解くことのできる問題が1題もないのです。
    中学受験生向けの月列テストは、惨憺たる結果となりました。
    塾で予習できないので、やがて学校の算数の授業にも上手くついていけなくなっていったようです。
    学年が上がり、学校の算数も単元によっては難しくなっていったのも一因でしょう。
    数か月後、その子は塾を辞めていきました。


    何がいけなかったのだろう?

    分岐点は沢山あったと思いますし、色々と弁明したいこともありますが、それでも、根本の原因の1つに、私がその子の素質を信じていなかったことは大きいのではないかと思います。
    学校のカラーテストで満点を取れるようにすることはできる。
    しかし、それ以上のことは、できないと感じていました。
    小学校の頃はそれで済んでも、中学に進学すれば、成績は「2」に近い「3」。
    それを維持するのも大変だろうと予測していました。
    伸びることを期待していませんでした。

    なぜ、私はその子の素質を信じなかったのか?
    素質の無さが垣間見える言動が多かったから・・・。
    特に、思考力。
    文章題への姿勢に、疑問を感じたから。

    しかし、そこに言い訳はなかったろうかと考えます。
    その子の素質のせいにすれば、自分の責任から逃れられると無意識に考えてはいなかったろうか?

    私が思う「素質」は、そのときの計算力や理解力ではありませんでした。
    算数や数学の問題を考えないでやり過ごそうとする姿勢が垣間見えると、その子の素質を疑う気持ちが生じていました。

    例えば、かけ算でなけりゃわり算だ、という姿勢が見えたときです。
    あるいは、文章題で、文章に出てきた数字を順番にかけ算しているだけなのが見てとれたとき。
    それは間違っていると言われると、今度は、文章に出てきた大きい数を小さい数で割る式を立てるのを見たとき。
    その子は、段階を踏んで考えていかなければならない文章題は解けませんでした。
    式をまず1つ立て、その結果を使って次の式を立てる問題は解けないのです。
    「考えなさい」と促しても、考えている様子がなく、無制限に喋り続けました。
    「えー?かけ算?わり算?ヒントは?ヒントを出して」
    というように。
    黙って考えなさいと注意しても、考えている気配がありませんでした。
    考えるということが何をどうすることかわからないのか、困惑した様子でした。
    時間が過ぎるのを待っているのか、時計をチラチラ見たりします。
    思索するとき特有の目の表情になりませんでした。
    自分で何か式を立てない限り、この無言の時間は終わらないのだと悟ると、何か式を立てましたが、自分が立てた式の意味を説明できません。
    「この式はどういう意味?」
    と、私が訊くと、慌てて消していました。
    式について話し合いにならず、算数の問題についての対話ができませんでした。
    私が問題について解説を始めると、私の言葉の端々をヒントに一刻も早く正しい式を自分が先に言おうと、それにばかり必死になりますが、深い理解をしていないことは明白でした。

    つまり、考えるということは何をどうすることなのか、そのことを学びそこねているのでした。
    そういう子を見ると、これは無理だ、と判断してきました。
    この子は、伸びない。

    これを学校の算数教育のせいにするのも家庭教育のせいにするのも可能だとは思いますが、それだけではない気がしていたのです。
    ほおっておいても、人というものは、何かを考えるものではないのか?
    なぜ、こんなにも考えることを学びそこねているのだろう?
    まるで空洞のように、そこが欠落している。
    一方で、考えずに算数の点数を取る方法を、なぜこんなに身につけているのだろう?
    それのせいで、まともに考えることから日々遠ざかっていたのです。
    表面上、学校の算数はそこそこできるように見えるので、抜本的な改革の必要を本人も保護者も感じていませんでした。
    算数・数学への理解は、こんなにも空洞化しているのに。
    これでは、中学の数学は理解できない・・・。


    しかし、考えることを知らないことは、素質ではないのではないかと、この頃は思います。
    それは、ただ知らないだけです。
    考えないことが習い性になっている子に、考えることを教えるのは難しい。
    困難を極めます。
    でも、可能なことなのではないか?

    来年度から、小学校の学習指導要領は新しくなり、対話的な深い学びが要求されます。
    考えることが今までよりも重視されます。
    今の小学校で、算数の問題を考えて解くことができない子は、大人が想像する以上に多いのに、です。
    考えることを知らない子は、実は算数をほとんどわかっていません。
    かけ算・わり算の意味すら本当にはわかっていない。
    だから、どんなときにどちらをやるのか、判断できない。
    それを露呈させ、明らかにする力が、その新しい授業にあるのかどうか、今のところはわかりません。
    ただ、考えることを体感的に理解していない子にとって、その授業は空洞化したものにはなると思います。
    これまでも学習を空洞化してきたように。
    その空洞化をごまかすテクニックを、生きる知恵として彼らはまた発見するのか?
    それとも、算数の根本が理解できていないことが、今度こそ露呈されるのか?
    そこから、考えることを学び直すことは可能なのか?

    考えることを知らない子は、今も多いです。
    しかし、少なくとも、考えることを体感として理解していない子を「素質がない」と断じるのをやめてから、伸びない子はいなくなりました。
    人間にとって、思考することは、快楽の1つです。
    考えることは、誰にでもできるのです。
    それは、才能ではない。
    そう信じます。

      


  • Posted by セギ at 15:33Comments(0)講師日記

    2019年06月17日

    1学期中間テストの結果が出ました。2019年。


    1学期中間テストの結果が出ました。

    数学 70点台 1人 60点台 1人 50点台 2人
    英語 80点台 1人 50点台 1人 40点台 2人

    受験が終わり、新学期になり、塾生の顔ぶれもかなり変わりました。
    さあ、まずはここから。
    前回、数学が40点台、英語が30点台だった人は、順調に上昇しました。


    数学の成績が思うように伸びない高校生の保護者の方からこんなふうな相談をされることがあります。
    「数学はこつこつ勉強しているようなんですが」

    数学をこつこつ・・・。
    それは、数学を勉強している時間は長いのだろうけれど、質や量の面はどうなのかなあ・・・。
    つい、そう考えてしまいます。

    大半の高校は、問題集を生徒に配っています。
    定期テスト範囲としてその問題集からページ指定があり、テスト当日の朝にそのページの問題を解いたノートを提出することになっている高校が多いです。
    数Ⅰと数A、数Ⅱと数Bのように、高校数学は2科目あります。
    1回のテスト範囲でそれぞれ15ページから20ページのテスト範囲が指定されます。

    数学が苦手な子は、高校数学の問題集を1ページ解くのに、2時間から3時間かかります。
    数学2科目で合計30ページの問題集を1回解くのに最低で60時間かかる計算になります。
    確かに数学をこつこつ勉強しているでしょう。
    けれど、それでもテスト範囲の問題集を1回解いただけなのです。

    その1回の中身も、質的にかなり怪しいのが実状です。
    公式を覚えていないので、教科書や問題集の解答解説と首っぴきで解いているのではないでしょうか。
    公式を代入するだけの基本問題ですら、教科書でその公式を見ながら代入しています。
    定期テスト必出の典型題も、解答解説を見ながら解いているだけです。

    そのように解答解説を見ながら解いても、時間はかかります。
    式を書き写した後は、自分で計算しようとする子が大半だからです。
    答えを書き写しているという意識が本人にはなく、わからないところだけ参考にしているつもりですから、そうなります。
    そうやって計算し終わって解答を見ると、間違っている・・・。
    どこかで計算ミスをしているのです。
    どこで計算ミスをしたのか?
    その発見と直しに、また時間がかかります。
    問題集を1回解き終わる頃には定期テスト前日になっています。

    その状態で定期テストを受けると結果はどうなるか?
    公式だけは、直前に暗記して、テスト用紙の上のほうに急いでメモしたとしても。
    どの問題でその公式を使うのか、よくわからない。
    その公式の代入の練習をしたのは随分前なので、どう代入するのかよくわからない。
    他の科目と比べて随分勉強時間を使ったのに、どうしてこんなに解けないんだろう・・・。
    そういうことになりがちです。

    少しの解決策としては。
    最初に公式を覚え、重要事項を復習し、その後、教科書や解答解説を見ないで問題を解くことです。
    せっかくこつこつ勉強している時間は、有効に使いましょう。
    「あとで覚えよう」
    と思っていたら、高校の公式は覚えきれません。
    忘れるのも早いです。

    抜本的な解決策としては。
    学校の問題集で少しでも解答解説を見て解いた問題は、必ずチェックを入れ、時間をおいて解き直しましょう。
    別の問題集でも復習するとなお良いでしょう。

    しかし、それには、それだけの勉強をする時間の確保が必要です。
    問題集1ページに2時間も3時間もかかっているのを何とかしないといけません。

    何で1ページに2時間も3時間もかかるのか?
    解き方を考えているから時間がかかっているわけではありません。
    それならむしろ良いのですが、大抵は、1分と考えずに解答解説を見ているはずです。
    それでも、2時間から3時間かかるのは、計算が遅いからです。
    遅い上に計算ミスもするので、その直しにさらに時間がかかり、結果、1ページに2~3時間かかってしまうのです。

    数学は頭脳のスポーツと言われるくらいですから、若いほうが有利です。
    理系に進む子は、高校生の段階で、私よりも計算は速くなります。
    文系でも、最低限、私と同程度のスピードでなければ、センター試験を時間内に最後まで解くことができません。

    しかし、現実には、何にそれほど時間がかかっているのだろうと疑問なほどに計算の遅い子が多いのです。
    しかも、ノートを覗き込んでも、何をしているのかよくわからないのです。
    計算過程が数学が得意な子とは違うため、何をしているのか見てもわからない・・・。
    なぜ、( )をそこで開くの?
    なぜ、そことそこを約分するの?
    なぜ、そんな順番で計算するの?
    なぜ、そこで同類項の整理をしないの?

    それは、やり方が間違っていることもありますし、間違ってはいないけれど遠回りになっていることもあります。
    そういうことの積み重なりが計算ミスをしやすい原因の1つであり、解くのにも直すのにも時間がかかる原因となっています。
    数学が頭脳のスポーツであるならば、計算には正しいフォームが必要です。
    合理的な正しいフォームで計算すれば、案外ゆっくり解いていても、答えは速く出ます。

    しかし、計算フォームというのは癖になっていて、きわめて直しにくいことの1つです。
    本人が強く自覚した上でも、矯正に時間がかかります。
    最初から正しいフォームを身につけていれば、こんなことにならないのに、と思います。

    また、そもそもかけ算・わり算の暗算が上手くできない人は、速く計算できません。
    そんなに凄い暗算をしろといっているわけではありません。
    ×1桁、÷1桁を暗算する力を持っていてほしいのです。
    もっと言えば、数字を頭の中で因数分解する力が欲しいのです。
    例えば、75=25×3 であることが筆算しなくてもパっとみてわかる力。
    48=16×3 であることを見てとれる力。
    あるいは、どんな数が7で割りきれ、どんな数が9で割りきれるかを見る力。

    これができないと、小学校5年以降の分数の通分・約分にもたつきます。
    小6以降、分数のかけ算・わり算にもたつきます。
    中1以降、小数の計算がほぼ姿を消し、分数計算ばかりになるため、数学そのものに苦手意識を持ちます。
    中3以降、因数分解が上手くできません。
    中3以降、平方根の整理にもたつきます。
    中3以降、2次方程式の計算にもたつきます。
    中3以降、三平方の定理の活用にもたつきます。
    高1以降、2次関数の整理にもたつきます。
    高1以降、三角比の計算にもたつきます。
    高1以降、確率の計算にもたつきます。
    高1以降、データの計算にもたつきます。
    高1以降、不定方程式の計算にもたつきます。
    高2以降、・・・もうやめましょう。

    整数を見たときに、その整数が何かの積の形に見えること。
    それができない数は素数であることを認識していること。

    数学が得意な人にとって当たり前のそのことに、数学が苦手な人は気づいていないことがあります。

    小学校5年になって約分・通分を学習してから急に「かけ算・わり算は暗算しろ」と命令されるわけではありません。
    そうとは言われない形で練習を繰り返しているのが、わり算の筆算です。
    わり算の筆算をスムーズに行う子は、×1桁、÷1桁の暗算がスムーズにできる子です。
    さらに言えば、わり算の筆算はそれにひき算も加わりますから、総合格闘技のようなものです。

    わり算の筆算自体は、中学以降は使う機会が減っていきます。
    全て分数で処理していきますから、筆算で割るのではなく、約分していきます。
    しかし、その約分は、わり算の筆算で鍛えてきたからこそ楽にできるようになるものです。
    約分は、わり算を暗算で行うものだからです。
    約分しなければならない段階になって急に「暗算しなさい」と言われても、練習していない子には難しいのです。
    一方、わり算の筆算が得意だった子は、最初から大きな数でバッサバサと約分できます。
    ちまちまと2や3で約分することを繰り返して途中で計算ミスをしたり、答案が汚くなって自分で見誤るといった事態を避けることができます。

    将来の約分のためにも、わり算の筆算は有効。
    ところが、全く暗算しないでわり算の筆算をする小学生もいます。
    商にまず「5」を立てて、実際に筆算し、違ったら消してやり直すのです。
    何でも「5」から始めて、1ずつ数字を上げていったり、下げていったりするのです。

    ・・・誰が教えたのだろう、こんな頭を使わない方法を。

    人間はコンピュータじゃないんですから、無駄なことを機械的に全部試すようなことは、させたらダメです。
    コンピュータはそういうことを猛スピードでできるので計算の結果は速く出ますが、人間がそれをやったら単なるわり算の筆算1問に5分もかかることがあります。
    人間を性能の悪い電卓にしてはいけない。
    わり算の筆算は、わり算をするためだけに練習しているのではありません。
    その先の学習の準備も兼ねています。
    全ての学習は、上へ上へと積み上がっていくのです。

    ただ、同じようにそれを教わっても、商に何でも「5」を立てることの無駄に早い時期で気づく子もいるでしょう。
    もっと予測を立てて、一度で正しい商を立てたら良くないか?
    わる数と予測した商との積を頭の中で暗算して、その商が正しいことを確認することは可能ではないか?
    繰り上がってくる数があるのが少しややこしいけれど、やろうと思えばできる。
    そう思う子は、商をスパスパ立て、わり算の計算問題をこなしながら、暗算力も鍛えていくのです。

    何でもまず「5」を立てて順番にやれば頭を使わなくていい。
    そんなところに安住していたら、将来、数学は相当苦しいものになると思います。

    ・・・結局、そういうことの繰り返しだったのではないか?
    例えば、中学3年になったとき、平方根の整理は、頭の中で数字を分解せず、何でも素因数分解の筆算をしてきたのではないか。
    平方根のかけ算は、平方根どうしをまずかけ算して、たとえ3桁の数になったとしても、それから素因数分解してきたのではないか。

    もっとも不器用で回り道なやり方を、それが一番頭を使わない方法だから、常に選択してきた。
    その結果が、今、高校数学の、遠回りで計算ミスだらけの答案になっているのではないか?
    工夫したやり方、頭を使うやり方を避けて、地道でも必ず答えの出るやり方を選んできたつもりが、地道過ぎて時間ばかりかかり、途中で計算ミスするため正答の出ないやり方にいつの間にかなっていた・・・。

    高校生の数学の答案に、そのような痕跡を見ることがあります。
    計算のフォームを変えましょう。
    遠回りで無駄な計算を長年やってきた分だけ、直すのに時間はかかると思います。
    それでも、改革が必要なことはあります。

      


  • Posted by セギ at 14:55Comments(0)講師日記算数・数学

    2019年04月15日

    地図を修正しました。



    先日、三鷹市の外から体験授業にいらした方が、
    「道に迷ってしまって」
    とおっしゃったのが気になり、教室地図を見直しました。

    電車利用で三鷹駅からうちの教室に来ていただく場合、赤鳥居通りに入るのが一番近道ですが、言葉では説明しにくいのが難点です。
    三鷹駅南口デッキからどこの階段を下りるかを、絶対に迷わないように誘導するには、駅前付近図の他に、南口デッキの拡大図が必要となります。
    しかし、南口デッキの正確な形状をそのまま表さないと、見る人を逆に混乱させる可能性があります。
    デッキの形、伸びている歩道橋、エスカレーター、階段を全て正確に描かないと、人は、目の前の現実と一致しない略図には混乱することが多いのです。

    では、言葉による説明はどうでしょうか?
    「三鷹コラルの裏側と、新しく出来た何とかいうタワービルとの間の道に降りていく階段」
    この説明は、三鷹に土地勘のある人でなければ通じないでしょう。

    「新しく出来た何とかいうタワービル」の名前は何でしたっけ?
    とネット調べると、「グレーシアタワー三鷹」と出てきました。
    え、本当にそんな名前ですか?
    それは、タワーマンションの名称では?
    下のほうの店舗部分は、別の名前がついていると思うのですが、何でしたっけ?
    名称がわかったとして、南口デッキから、そのビルの名称がはっきり見えているでしょうか?
    という調子で、正確に誘導できる自信がありません。

    道案内は、そもそも相手に正確に情報が伝わる可能性は極めて低いことをこちらが認識していないと、思いもかけない行き違いが生じます。
    もう8年ほど前になりますが、
    「南口デッキからまっすぐエスカレーターを降りてください」
    と、三鷹中央通りに降りていく方法を文章で説明したことがありました。
    間違えるはずがないと思っていたのに、その説明を読んで独りで体験授業を受けにきた中学生は、東に向かうエスカレーターを下りて、桜並木を井の頭公園の方向にどこまでも歩いていってしまいました。
    それはまっすぐじゃなくて、左に曲がっている!

    土地勘がある人がこの話を聞けば、左に曲がるなんてありえない、まっすぐと言われて左に曲がるというのがそもそもおかしいでしょう、と感じるかもしれません。
    しかし、初めて三鷹駅から南口デッキに出た場合、まっすぐ三鷹中央通りへと降りていくエスカレーターは、あまり目立たないのです。
    横向きになっている分だけ、左に曲がるエスカレーターのほうが存在感があります。
    まさかもう1つエスカレーターがあるとは思っていない場合、最初に目に入った左に曲がるエスカレーターのほうに引き寄せられていくようです。
    方向の情報よりも、目に入ったエスカレーターのほうを優先させてしまうのです。
    土地勘がないというのはそういうこと。
    全体を見通すことができないので、正しい判断ができません。
    緊張していると視野が狭くなりますから、全ての情報は目に入らなくなってしまいます。
    降りるべきエスカレーターが目に入らないなら、間違ったエスカレーターに乗る以外の選択肢がありません。

    エスカレーターすら正しく誘導できないことを悟った私は、もっと数のある階段の降り口を正しく誘導することは諦めています。
    「デッキを渡って一番右の降り口です」
    といった説明は、説明した側としては完璧なつもりでも、その人がその降り口に気がつかなかったら、何の意味もありません。
    全体を把握していなかったら、一番右がどれかはわからないでしょう。
    もう1つ不安な点は、「デッキを渡って」の「渡って」を読み飛ばす可能性が高いこと。
    デッキを渡らず、すぐに右に曲がる人もいると思います。

    誤解されないよう全ての可能性を潰すべく長々と説明すると、今度はくどいと思われて正確に読んでもらえず、それもまた誤解を生む可能性もあります。


    これを解決する最善の方法は、逆説的ですが、説明しないことでした。
    不親切な地図だと思われてもいいから、間違った方向に誘導しないことが大事です。

    私の描いた教室地図は、南口デッキを省略し、描いてありません。
    デッキの細部の描写を読み違えて、間違った方向に歩みだすことがないよう、とにかく南へ行くことだけを地図は伝えています。
    南へ行くという意思のもと、南口デッキに降り立てば、左にも右にも曲がらないと思います。
    とにかくまっすぐ南に行きたい。
    そういう意思を持つ人は、階段を下りても、自力で方向を修正できます。
    まっすぐ南に降りるエスカレーターを自力で発見することも可能でしょう。

    南へ伸びている三鷹中央通りの道の両側を2つの銀行でしっかり示せば、デッキからどう降りるかは問題ではなく、どの道に降りるかが問題となります。
    そうすると、地図の見方が違ってきます。
    次に右折するスクランブル交差点は、角に「東急ストア」を示してあるから大丈夫。


    ・・・しかし、これが問題でした。
    東急ストアの文字、よく見ればまだ壁に残っていますが、店はもう存在しません。
    ここを曲がりそこねると、次の交差点は、うちの教室よりもずっと南です。
    大事な曲がり角の指示が不明瞭になっている!
    これは、地図を直さなければ。

    もう1つは、駅前郵便局の位置です。
    駅前郵便局は前述したタワービルの1階に入っています。
    そのビルは元の郵便局の敷地も含んでいますが、元の交差点の位置から郵便局が見えるかというと、見えないのです。
    交差点の名称はまだ「郵便局前」ですが。
    郵便局は、うちの教室に案内するために直接必要なものではないのですが、万が一、道に迷ってそちらのほうに逸れてしまった人に、「そこは違います」と示すための抑えとして重要な存在でした。
    それが間違った位置に残ったままの地図は、迷った人をさらに迷わせます。
    正しい位置に直さないと。


    早速、Wordに保存してあった地図を修正しました。
    修正は、感覚で触ってみたら簡単に修正できました。

    さて、問題は保存です。
    Wordのままでは、ブログに貼れません。
    ブログにはWordからの直接のコピーはできませんでした。
    画像として保存しないと。

    この地図の最初のバージョンを作った何年も前も、Wordで地図を作って画像として保存する作業を行いました。
    しかし、何年も前に1度やったきりの作業のやり方はもう覚えていませんでした。
    ネットで調べても、トップに出てくる解説は2010年のもので、今のWordとはバージョンが違うようです。

    ここで一気に、私は、説明する立場から、今度は説明を理解する立場に変わりました。
    ネット記事はスクリーンショットを用いて説明されていましたが、その画像が今のWordとはバージョンが異なるので、やってみてもその通りに画面は現れません。
    「図として保存」という選択肢が今はないのです。
    Wordの「ヘルプ」はいつもながら何のヘルプもしてくれません。

    最終的には、どうやったらそうできたのか何だかよくわからないけれど、偶然に「図」として保存できました。
    選択してコピーして、新規作成して添付するのを幾度か試みるうちに、偶然、コピーしたものが「図」になり、画像として保存できたのです。
    あー、良かったー。
    でも、腑に落ちないー。

    そんなわけで、ようやく修正できた地図が上の図です。

    説明すること。
    説明されること。
    教えること。
    教わること。
    やはり容易なことではない。
    こんなこと一つでも感じます。

    最初の教室地図は、教室開校時の2011年、Wordで作成しました。
    あの頃、生徒はまだ少なく、時間だけは沢山ありました。
    Wordの教本を買って、それと首っ引きで作りました。
    その地図が古びて問題を生じるほどに時間が経ちました。
    それは、それだけ長い時間、教室が続いてきたということ。
    ありがたいことだと噛みしめ、今年度も頑張ります。

      


  • Posted by セギ at 12:38Comments(0)講師日記

    2019年04月03日

    学年末テスト結果集計出ました。2019年3月。


    学年末テスト結果が出ました。
    数学 80点台 1人  60点台 1人  40点台 1人
    英語 100点  1人  90点台 1人  30点台 1人

    受験生が卒業したので、中学生・高校生の人数が随分少なくなりました。
    そんな中、今回から英語を受講することになった人が、いきなり90点台となりました。
    「これを覚えて」
    「ここがテストに出ます」
    と指示するだけでスルッと得点が上がりました。
    以前から、自分で勉強はしていたが、何が大事で、何がテストに出るかの焦点があまり定まっていなかった。
    自分で勉強するには、市販の教材では量が不足していた。
    そういう人は、簡単に成績が上がります。

    中学生、特に公立中学生にはそういう人が多いのです。
    何を勉強したら良いのか、わからない。
    基本はわかっているので、もっと応用力をつけたいと思うのに、定期テストに出そうな問題が沢山載っている問題集が手に入らない。
    書店で問題集を探しても、簡単過ぎたり難し過ぎたりで、何だかちょっと違う。
    学校で渡されるワークは簡単な問題が多く、でも、定期テストはそれよりずっと難しい。
    勉強を頑張ろうと思うのに、いつも何かピントがズレてしまうのを自分で感じる。

    そういう人が、早くうちの教室を見つけて、授業を受けにきてくれないかなあと思います。
    定期テストに関する正確な情報さえ提供してくれれば、高い精度で学習すべき内容を提示できます。


      


  • Posted by セギ at 14:33Comments(0)講師日記