たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2020年07月14日

山の本を読みました。『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』。



さて、山に行けない日々、山の本を読んでいます。
『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』は、発売当時に買って、興味深く読みました。
遭難が起きたのが、2009年7月16日。
この本が出版されたのは、その1年後でした。
10年経って読み直すと、当時とは印象が異なることに、自分で驚きました。

この遭難事故を記憶されている方は多いと思います。
北海道の旭岳からトムラウシ山へと縦走し、トムラウシ温泉に下山する、4泊5日のツアー。
参加者は15名、スタッフは3名。
初日は移動日で温泉泊まり。
2泊目・3泊目は、山中の避難小屋泊まり。
そして、ツアー4日目、悪天候をついて出発したツアーは、客7名・スタッフ1名の合計8名が死亡する惨事を引き起こします。

この本は、ツアー客生存者8名のうち6名に取材した内容をもとに、ツアーの全ての日に起こった出来事を順に追った、非常に生々しい記録となっています。
登場人物が多く、事実が錯綜するので、今回、私は人物名とその言動をメモしながら読みました。

小説なら、登場人物は、かなりわかりやすく設定されると思います。
登山経験が浅い人が終始困った行動をとり続け、遭難の引き金を引きます。
史実をもとにした『八甲田山』ですらそうで、誰が遭難の原因なのか、わかりやすい。
史実を曲げた『孤高の人』になると、さらにわかりやすい。
しかし、当たり前ですが、現実は、そういうことではないのですね。

この遭難で最初に行動不能に陥った人は、前々日から体調不良の兆候のあった人だという誤報が当初ありました。
登山初日から吐いてしまい、パーティからかなり遅れたその人は、確かに遭難当日も具合が悪くなっていますが、第2ビバーク地点でガイドとともにテントの中で過ごし、生還しています。

では、誰が遭難の引き金を引いたのか?
遭難当日、ツアーは、風雨の中を出発しました。
避難小屋を出て比較的すぐ、最初の難所、長さ150mの雪渓の上りがありました。
ここで全員が軽アイゼンを装着。
軽アイゼンを付けるのが初めての人もいたということで、風雨の中の装着に時間がかかったようです。
4本爪アイゼンが何度も外れて、パーティから遅れた女性。(後に登山道で死亡)
雪渓が終わってすぐの岩場で足がもつれ始めた男性。(後に登山道で死亡)
最も遅れ、最後尾を歩いた女性。(最初に行動不能となり、第1ビバーク地点で死亡)

出発後すぐ、既に3人に異変が起きていたことが、生還者によって証言されています。

誰が原因かと考えることに、この場合、意味があるとは思えません。
出発後すぐに3人も様子のおかしい人がいたら、戻らなくてはダメです。
誰がどうとかは、もう関係ない。
戻る決断をしなかったリーダーの責任です。

では、なぜ強いリーダーシップを発揮して戻る決断ができなかったのか?
1つには、このツアーは出発地点が広島・名古屋・仙台の3か所に別れていた寄せ集めツアーであったことが挙げられています。
1日停滞したら、帰りの飛行機の手配は面倒なことになります。
そうでなくても、ツアーを1日伸ばすということは、添乗員としてかなり難しい判断が必要なことだったのでしょう。
登山としてはその日が最終日。
悪天候だから山頂は踏めないとしても、何とか温泉まで下山してしまえば・・・。
そういう判断の甘さがあったのかもしれません。
低気圧は午前中に通過し、午後から晴れてくるという気象情報もそれを後押しした様子ですが、それは古い予報で、当日の朝に得た情報ではなかったことがわかっています。
実際に晴れたのは、その日の夜でした。

このツアーのスタッフは3人。
皆、初対面だったそうです。
ツアーを仕切る添乗員(61歳)は、登山ガイドの資格も有していましたが、第1ビバーク地点で行動不能となった客とともに残り、死亡。
風雨を避ける方策を講じた形跡がなく、この人自身が早い段階で低体温症にかかっていたのではないかと推測されています。
決断権をもっていた人が、決断する能力をその場で有していなかったのかもしれません。

では、コースを熟知していた現地ガイド(32歳)はどう行動したのか?

雪渓の先は、大きな岩がゴロゴロとした登りがあり、そこから主稜線に出ます。
岩の登りから既に瞬間的には立っていられないほどの強い風が吹くようになり、パーティは耐風姿勢をとりながら稜線上を歩いていきます。
先頭を行く現地ガイドは、後続の遅れを気にし、強風の中、ゆっくりと進んでいったようです。
吹きっさらしの木道や岩場を越えて、北沼にたどり着くまで、出発から5時間。
コースタイムでは2時間半だそうですから、いかに遅かったかがわかります。

風雨の中たどり着いた北沼は氾濫し、登山道を塞ぐ川ができていました。
その徒渉が運命を分けました。
川幅は2メートルほど。
深さは膝くらい。
15人の客が徒渉を終えるのに、1時間半から2時間かかったようです。
早く渡っても、遅く渡っても、そこは吹きさらし。
待機している間に、客の過半数は低体温症に陥っていきました。

ここでも、少しは風の弱い場所まで進んで、そこで待機する方法があったのではという疑問が浮かびます。
しかし、添乗員(61)は、最後尾の客にかかりきりでした。
現地ガイド(32)も、徒渉の補助にかかりきりでした。
もう1人のサブガイド(38)は、徒渉の補助をしている間に誤って転び、全身が濡れてしまいました。
以後、本人が自覚せぬまま低体温症が進行していきます。

では、客の誰かが自主的に判断して、風のない場所に移動すれば良かったのか?
しかし、どこまで進めば風のない場所があったのか?
すぐ目の前に岩陰が見えたのなら、誰かが判断したでしょう。
歩いていけば、風の弱い岩陰がその先にあったらしいのですが、そこまで歩く判断を誰もできなかったようです。
初めて歩く、北海道の広大な山の中。
誰も先に進めず、スタッフ側からの指示もなく、吹きっさらしの中で待機していたのです。

徒渉を最後に行った客がそのまま動けなくなり、添乗員(61)は、その場に残ります。
パーティはいったん出発しますが、歩き始めると、動けないことが発覚した客が他に3名。
待機中に低体温症が進行していたのです。
その3人に現地ガイド(32)と客の男性1人が付き添うことになりました。
北沼を越えてすぐの場所。
そこが、第2ビバーク地点でした。

そして、ずぶ濡れのサブガイド(38)と、まだ歩くことのできた客10人とが下山することになりました。

この下山の過程は、読んでいてしばしば本を置き、息をついてからでないと読み進められないほどの悲惨さです。
次から次へとまともに歩けなくなっていく人が現れ、パーティは散り散りになっていきます。
サブガイドは、低体温症による判断低下によるものなのか、後ろがついてきているかを顧慮せず先を急ぎ、しかし、力尽きて、ハイマツの中に倒れます。
次々と行動不能に陥っていく仲間を支えようにも、まともに歩いてくれず、ときに奇声を発する相手では、どうにもなりません。
しばらくは行動をともにしても、最終的には見捨てていくしかないのです。
あれから何年経っても、生還した人は、罪の意識にさいなまれていると思います。
これは、きつい・・・。

北沼で、「これは遭難だ」と叫び、スタッフに強く要望をしたという男性客。
その後も、マスコミなどに向けて精力的に発信を続けた人という印象があります。
しかし、この人は、女性が1人で、2人の低体温症の人を支えたり補助したりしながら歩いているところに通りかかったとき、しばらくは補助を手伝いましたが、
「俺は生きて帰りたい。こんなことをしていても意味がない」
と先に行ってしまったという証言が記されています。
その男性は、弁解はしていますが、その言葉を発した事実については否定していません。
その後、独りで下山しようとしたその男性は、道に迷い、下っているはずが登ってしまうという誤りを犯しますが、その途中でパーティのメンバーと出会い、何とか下山しています。
他の生還者が、この男性の生還後の行動にあまり賛同しない理由が、こうしたことからも推測されますが、しかし、この人を積極的に責めている人がいるわけではありません。
仕方なかった。
誰が彼を責められるでしょう?
少なくとも、「これは遭難だ」と最初に定義し、スタッフにそれを最初に呼び掛けたのは、その男性です。
それがなければ、そのままさらに長時間待機した可能性すらあります。
それほど、スタッフは判断力を失っていた様子です。

「俺は生きて帰りたい。こんなことをしていても意味がない」
そんなことを言わずにいられなくなる状況が恐ろしい。
この男性が、その後、ツアー会社を強く非難し続けた理由の1つにこういうことがあるのかもしれないと思うのです。
罪の意識がないわけではない。
むしろ、罪の意識があるから強く発信せずにいられないのかもしれません。
その後の言動は様々に分かれるにしても、皆、罪の意識に変わりはないと思うのです。

別の男性は、ツアー客の中では登山技術が高い1人で、レインウェアや靴の整備も良かったので濡れが少なく、自ら最後尾に戻って様子を見に行き、行動不能者を積極的に補助しました。
低体温症に陥った人たち全員と接触することになったその人も、だからといって、結局、誰1人救えたわけではなかったのです。
悪天候の山で行動不能に陥った人を救うことなど、誰にもできない。
ともに死ぬか、独りで生きのびるしかない。
死にゆく人と最も多く接触することになっただけ、心に重いものを余計に背負うことになってしまっています。

この本を最初に読んだとき、今より10歳若かった私は、もしこの現場にいたら、私は何ができただろうと考えることがありました。
今、自分のそうした感想を「若気の至り」と感じます。
私も、何もできそうにない。
独りで生きのびることができるかできないか、というだけだと思うのです。

参加者として、何かできることはあったのでしょうか?
北沼での待機中に、とにかく風の弱いところまで進もうと提案することができたでしょうか。
自分独りで行動していたのなら進んだと思います。
そんなところで立ち止まる理由がそもそもないのです。
でも、ツアーで、それを提案することができたでしょうか。
「ここで待っているように言われたでしょう?とにかく指示を待ちましょう」
と反対する人がいたら、それで終わりだったのではないかと思うのです。

待機中、進んでツェルトを出し、1枚余計に着て、周りの人にも、ツェルトの中に入って1枚余計に着るよう勧めることができたでしょうか?
自分が寒かったら1枚余計に着ることはできたかもしれません。
しかし、強い風雨の中でツェルトを出すのは、扱いが厄介です。
多分出さなかったでしょう。
いや、寒さには結構強いので、1枚着る決断すらできなかった可能性すらあります。
歩きだせば、また暖かくなりますから。

待機中、行動食を出し、他の人にも食べるよう勧めることができたでしょうか。
・・・これもどうでしょう?
吹きっさらしの風雨の中で何かを食べる気になるものかどうか?
とにかく、風のないところに行かないと、何も始まらないのです。
ところが、生還者の証言によれば、「口を開けて」と言われ、食べ物を放り込まれたという事実が存在します。
ガタガタ震えていたら、そうしてくれた人がいた。
それをしてくれた人は、出発当初の雪渓でアイゼンがすぐに外れて難渋した人であり、本人は後に登山道で死亡しています。
現実は、複雑です。

最初のほうでも書きましたが、登山者としてちょっと困った行動をとった人が、そのまま直線的に悪者になったり亡くなったりするのかというと、そういうわけではないのです。
他にも、避難小屋で朝の3時に目が覚めて、眠れないからと荷物をガサガサさせた女性。
翌日も、「遅くとも1時間前には起きなさい支度できません」と訴え、全体の起床時刻を早めさせた人です。
ツアーにしろ、山小屋泊りにしろ、こういう人は少し迷惑ですし、初心者っぽい印象があります。
しかし、この人は、行動不能となった人に付き添ってビバークし、生還しています。
ツアー客による唯一の自主的ビバーク、第3ビバークを行ったのがこの人でした。
しかも、付き添った相手は、一緒にツアーに参加した友達というわけでもなかったのです。
行動不能となった人のほうは、そのまま亡くなってしまいましたが。
登山道からちょっと外れた風のよけられる場所で、マットを敷き、シュラフを出して1か所を低木に結びつけ、横になる前に行動食を食べ、登山靴も雨具もつけたままシュラフの中に入った。
自分の身を守る最善の行動をしていると感じます。
この人は、一時的に頭がぼおっとし、もうダメだと思い、そこで行動を停止したのですが、休んでいる間に体力が回復し、翌朝は、自力下山を試みています。
実際、自力下山も可能だったろうと思いますが、ヘリから降りてきた救助の人に乗ってくれと言われ、救助されたそうです。
遭難者の中では罪悪感が少なく今を生きることができている1人ではないかと感じます。

最初からずっと好印象の人もいます。
最初の行動不能者と添乗員に自分のツェルトを貸した人。
この人は、第2ビバークで現地ガイドとともに残りました。
改めて読むと、こういう行動ができるとよいなあと思います。
第2ビバークを決断したとき、あるのは現地ガイドのツェルトのみでした。
そして行動不能の女性3人。
そこに残るのは、勇気が必要だったと思うのです。
ガイドと協力してツェルトを張り、様子を見てくると出ていったガイドに託されて、行動不能の3人とともに残るのは怖いことだったと思います。
しばらく先の南沼キャンプ場で、ガイドは、たまたま登山道整備者がデポしていたテント・毛布・コンロなどを見つけ、それを持ち帰りました。
それで比較的安全なビバークが可能となり、行動不能者のうち1人は生還しています。
その生還者が、初日に体調を崩して吐いた女性でした。

生死を分ける分岐点は何だったのか?
メモを取りながら読めば読むほど、訳がわからなくなっていきます。
おそらく、現実とは、そういうものなのでしょう。

低体温症で亡くなった人たちが装備不良だったわけではないことが明記されているのは、故人の名誉のために大切なことだと思います。
全員が、ゴアテックスの雨具の上下を身につけていました。
ただ、元は同じ性能の雨具でも、日頃の手入れによって、雨をはじく機能が違ってきます。
また、フリースや薄手のダウンなどを持っていても、風雨の中、一度雨具を脱いで防寒着を身に着けるという行為は、かなり思い切らないとできないことです。
低体温症が進行しつつあると判断力が低下し、何もかも億劫になることもあって、ザックの中に防寒着を持ったまま遭難してしまうことはあり得ることです。

そもそも、あの当時、夏山でいわゆる「凍死」することを現実感をもって把握し、備えていた人がどれだけいたでしょうか。
どんなに風雨が強くても、所詮夏山。
何とかなる、と思っていた人のほうが多かったのではないかと思います。
現実には、『聖職の碑』の史実を見るまでもなく、風と雨で、人はあっけなく行動不能となり、倒れたのですが。
雨に濡れて風に吹かれるのは、風のない雪の道を歩くよりも数段恐ろしいこと。
低体温症は、今では広く知られるようになりました。

さらに、避難小屋泊りなど、食事が提供されない登山で、その日の行動分のカロリーを補給することの難しさ。
生還した人も、摂取カロリーは少なかったそうです。
朝晩は、アルファ米1つ。
行動中は行動食。
そうした食生活が続いた3日目に風雨をついての長時間行動は、熱量的に無理だったろうと分析されています。
もっと食べたほうが良いのはわかっていても、食べ物を持つと、それだけザックは重くなります。
長い縦走で重いザックは担げない。
そのため、食糧をぎりぎり絞ることになり、カロリー不足に陥っていた人が多かったことが指摘されています。


ずっと以前にこのブログに書いたことがありますが、このツアー会社のツアーに私も参加していた時期がありました。
「登山教室」的なツアーを多く催行している会社でした。
若い添乗員やガイドが多く、面倒見のよいツアーでした。
他の会社のツアーにも参加しましたが、途中、パーティが分断しても気にせず、全員集まっているのかどうかも確認せずに重要なことを伝達するツアーも珍しくありませんでした。
そういうのに比べれば、目が行き届いている会社という印象があり、その分だけ費用は他のツアー会社より少し高いのでもありました。

「面倒見がよい」
「あの会社のツアーなら、体力に自信のない私でも登れた」
しかし、それは危険なことでもありました。
面倒を見てもらえなければ登れない人たちが集まってきてしまうのです。
しかも、ツアーの参加回数だけは増え、それが本人の自信になっていきます。
もっと難しいツアー、もっと長いツアーに参加しようとしてしまいます。
それをまた面倒見てくれるので、登れてしまう。
その果てにあったのが、この遭難だったのではないでしょうか。
必要な食糧を担げない体力で、避難小屋に2泊する山行に参加するべきではない。
軽アイゼンをつけた経験すらないのに、北海道の山に行くべきではない。
遭難後になってみれば、当然そのような判断になるのですが、遭難前は、誰もそう思わなかったのです。

それ以前にも、その会社のツアーは、滑落などの事故を起こしていたという外部証言もあります。
それもまた、参加するべきではない客が参加して引き起こした事故だったのかもしれません。
会社が悪いのか。
弱い参加者が集まってしまうことが原因か。
それは、1つのことの表と裏で、一概に言えることではないような気がします。
私自身も、他の会社のツアーに参加するときは、最悪自力下山することを考え、十分にコースや交通手段などを確認してから臨みましたが、その会社のツアーでは、自力下山の可能性を考えたことはありませんでした。
至れり尽くせりで、安全に歩けるツアー。
私が気をつけなければならないのは、出発時刻までに集合場所に行くこと。
それくらい安全な気持ちでいました。

トムラウシの遭難事故後も、この会社のツアーに参加したことがあります。
新宿駅南口集合。
集合場所から貸し切りバスが停車していた場所まで少し離れていたので、添乗員やガイドがそこまで案内してくれました。
駅前の信号を渡る際は、横断歩道の中央に立ち、最大限の配慮で補助してくれていました。
私の横を歩いていた参加者が、
「新宿の交差点も渡れない人が山を歩けるわけないのに、何をやっているのかしらね」
と苦笑していたのを覚えています。
それくらい、参加者に優しかったのです。
会社の内部の体質などは私は知りませんが、現場はそうでした。
それがまた弱い登山客を集めてしまったのかもしれません。


2012年11月、中国。
万里の長城ツアーで再び死者を出す遭難事故が起こりました。
突然の雪への備えが十分でなかったことが原因の遭難でした。

この事故の後に、この会社は廃業しました。

2017年12月。
トムラウシ遭難事故について、北海道警察はツアー会社社長とガイド3人を業務上過失致死傷で書類送検。
長い捜査の末の立件でした。

2018年3月。
嫌疑不十分で不起訴処分。


この遭難事故は、今も多くの示唆を含んでいます。
時をおいて、また何度でも読み返したいと思います。

2009年7月16日。
もうすぐ11年目のその日がやってきます。


  


  • Posted by セギ at 14:14Comments(0)