たまりば

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2023年08月12日

説明の伝わりにくさ。



例えば、私の解説が、生徒に伝わらない。
あるいは、学校の問題集のかなり丁寧な解答解説集が、その生徒には理解できない。
そうした方向の伝わりにくさは常に課題です。
それとともに、反対方向から、すなわち生徒からの質問が、私には意味がわからない、ということもあります。

例えば、こんな問題を解いていたときのことです。
高校数Ⅰ「2次関数」の問題でした。

問題 x^2+(2-a)x+4-2a=0 が、-1<x<1の範囲に2つの実数解を持つような定数aの範囲を求めよ。

この2次方程式の左辺を、関数として考えましょう。
すなわち、
f(x)=x^2+(2-a)x+4-2a
このグラフは、下に凸の放物線です。
この放物線が、x軸に、-1<x<1の範囲で2か所交わればよいのです。
よし、わかった。

満たすべき条件は、
(1)判別式D>0
(2)軸が、-1<x<1の範囲にある。
(3) f(-1)>0、f(1)>0

こう言われても何のことやらさっぱりわからない、という場合は、もっと基礎からゆっくりと解説することになります。
しかし、その子は、ここまでの解説はわかるようでした。
初めて学習するわけではなく、「2次関数」を復習している受験生でしたので、それも当然です。

しかし、(2) の、「軸が-1<x<1の範囲にある」に関して、その子は、奇妙な質問を口にしました。

「軸は0じゃないんですか?」

・・・軸は0・・・?
何のことだろう?

「どういうこと?」
「・・・え・・・」

さて、ここからが大変なのでした。
私には、解き方の正しい道筋が見えています。
逆に言えば、正しい道筋しか見えない状態なのかもしれません。
生徒がよくつまずくところならば把握していますが、数学が得意・不得意に関係なく、生徒はこちらの想像を絶する思い込みをすることがあります。
しかも、生徒の質問の多くはカタコトで、伝えたいことが不明瞭です。
何を尋ねているのか、本当にわからないときがあります。

「軸が0って、どういうこと?」
「・・・え・・・」

ここで、生徒もひるんでしまうのです。
もともと数学に関してはカタコトなのに、動揺してしまうと、言いたいことがさらに不明瞭になります。
私は責めているのではなく、「軸が0」という言葉の意味が、本当にわからないだけなのですが。

何往復ものやりとりが必要でした。
真摯に告げる必要もあります。
私は責めているのではない。
質問の意味が本当にわからないのだ。
私には正しい筋道が見えている分だけ、間違った考え方は見えにくい。
脇道や獣道は、目に入らない。
あなたに見えている、それは、何なのですか?

そうして、ようやく質問の意味を理解しました。
その子は、この放物線の軸の方程式は x=0 、すなわち y 軸しかないと思い込んだのです。

・・・何で?

それは、その子が自分で描いた x 軸と放物線の図のせいでした。
いや、私が描いても、多分同じ見た目のグラフになったとは思います。
-1<x<1の範囲で、x軸と2か所交わる、下に凸の放物線。
範囲が狭いこともあり、バランスよく、-1<x<1のちょうど真ん中を軸が通るような放物線を描いてしまうでしょう。
でも、それはたまたまのこと。
放物線はもう少し左に寄っても右に寄っても、構わないのです。

「放物線の軸の方程式は、x=0 ではないのですか」

このように質問してくれたら、質問の意味はもう少し早く理解できたと思います。
「軸は0じゃないんですか?」
と似ているようで、伝わり方が全く違うのです。

正しいことならば、カタコトでも伝わります。
でも、間違ったことは、カタコトになると、全く伝わらなくなります。
とはいえ、高校生でそこまで正確に数学用語を駆使できる子は、めったにいないのですが。


教える者の能力は、正しいことをわかりやすく解説する能力と同じくらいに、生徒の言うカタコトでしかも間違った内容のことをどれだけ理解できるか、その理解力によるところも大きいのだと思います。
理屈に合わない間違ったことを、なぜか生徒は思い込んでいて、しかもそれをカタコトで発信してきます。
それを受信し、何をどう誤解しているのかを理解し、解説する。
どのように間違っているのかを説明し、誤解を解く。
それをしないと、生徒は、自分の答は「別解」であると信じてしまうことすらあります。


また別のとき、別の生徒で。
今度はさらにレベルの高い問題を解いていました。

問題 関数 f(x)= | x^2-4x | -2x について、
曲線y=f(x) と、直線 y=a(x-6)-8が共有点を4個もつような定数 a の値を求めよ。

式の中に絶対値の部分のある2次関数に関する問題です。
まずは、グラフを描いてみましょう。
絶対値を含む関数は、絶対値の内側の部分が0以上であるか0未満であるかに場合分けして考えます。

x^2-4x≧0 のとき。
よって、x(x-4)≧0、すなわち、x≦0 , 4≦x のとき、
もとの2次関数は、そのまま絶対値記号を外すことができますから、
f(x)=x^2-4x-2x
  =x^2-6x
  =(x-3)^2-9
これは、頂点(3 , −9) の下に凸の放物線です。
ただし、x≦0 , 4≦xの範囲で。

また、
x^2-4x<0 のとき。
よって、x(x-4)<0、すなわち、0<x<4 のとき、
絶対値記号の内側は負の数なので、絶対値記号を外すときには符号を変えることによって正の数になりますから、
f(x)=-x^2+4x-2x
  =-x^2+2x
  =-(x^2-2x)
  =-(x-1)^2+1
これは、頂点(1 , 1) の、上に凸の放物線です。
ただし、0<x<4 の範囲で。

理解していれば簡単なのですが、実際には、これをスラスラ描ける高校生は、ある程度の学力のある子たちです。
その子は、自力でこのグラフを描いていました。
さすがです。
さて、問題を見直すと、これと、直線 y=a(x-6)-8 との共有点の個数を考えればよいわけです。
この直線は、a によって傾きが変わるものの、点(6 , −8) を必ず通ります。
その子は、そのことも理解していました。
グラフは、下のようになります。



赤い直線は、曲線 y=f(x) との共有点が3個の直線。
青い直線もまた、y=f(x)との共有点が3個の直線です。
この間の傾きのとき、y=f(x)とこの直線は、共有点を4個持ちます。

赤い直線は、曲線 y=f(x) の上に凸の部分と接する直線です。
では、接点の座標を求めれば、何とかなりそうです。
上に凸の曲線と直線の式を連立して y を消去し、x についての2次方程式を作って、それが重解を持つのだから、判別式D=0とすれば・・・。

しかし、そこで、その子は、奇妙なことを言い始めたのです。
「いちいちを通るんじゃないんですか?」
「・・・え?」

いちいち・・・。
意味がわかりませんでした。
・・・何の話だろう?

「え?」
「・・・」

主語がない。
「いちいち」とは何なのか、意味がわからない・・・。
さすがにちょっとわからな過ぎて、そのまま、正しい解き方の解説をひと通り終えました。

次の問題を解く生徒を眺めながら、私は、意味を考え始めました。
「いちいち」とは、何のことだろう?

思い出しました。
その子は、座標の読み方に癖があるのでした。
いちいちとは、(1 , 1) のことだったのです。
「1カンマ1」と読まず、「いちいち」と読む癖のある子でした。
その読み方は、例えば、「じゅういち」のとき、それは(10 , 1) なのか、単なる11なのか伝わらないので、あまり良くないのです。
でも、数学の答案の読み方は、中1の初めからつきっきりで指導した子でない限り、どの子も癖がありますし、ついてしまった癖はほとんど直りません。
数学の答案を音読する機会は、週に1度、私との授業のときのみなのですし。

「いちいち」とは、点(1 , 1) のこと。
点(1 , 1) を通るのではないかと、その子は言ったのでしょうか?
点(1 , 1) を通る?
何が点(1 , 1) を通るのでしょうか。
主語がないというのは、本当に不便です。
でも、おそらく、直線 y=a(x-6)-8 が、点(1 , 1) を通る、ということでしょう。

なぜ?
そんなところを通る直線に大した意味はありませんけど?
点(6 , -8) と、あとは、上に凸の放物線との接点を通る図中の赤い直線が、a に関する1つの境目になります。

点(1 , 1) って、何だろう?
グラフを眺めて、気づきました。
それは、上に凸の放物線の頂点の座標でした。

・・・何でそんなところを通る直線が境目になると思ったのだろう?

そして、気づきました。
グラフだ!
その子は、グラフをノートに小さく描き、しかも、上に凸の放物線を尖り気味に描いていたため、頂点のところで、直線 y=a(x-6)-8 はその放物線に接しているように見えていたのだと気づきました。

放物線の頂点で接する直線の傾きは、0です。
x軸と平行な直線になってしまいます。
そんな直線は、点(6 , -8) は通りません。

放物線の頂点を通る接線の傾きは0。
それは、微分を学習し、増減表から曲線のグラフを描くときに理解したはずの知識です。
微分の学習が終わっている受験生が、それに気づかないはずがない。
でも、それは、逆に私の思い込みでしょう。
手書きのグラフのせいでそのような誤解をしてしまうことも、日によってはあるかもしれない・・・。

「点(1 , 1) は関係ないですよ」
顔を上げたその子に、ホワイトボードに大きくグラフを描いて再度解説すると、その子は、あっと気づいた様子で、自分のノートの放物線を丸みをつけて直していました。

そもそもグラフを描くことができない人は、こうした問題には手も足も出ません。
解き方がわからず、答案を1行も書くことができません。
グラフを自分で描いて考えているだけで、さすがに数学を受験科目に使うつもりだけのことはあります。
一定のレベルは越えています。
しかし、自分の描いたグラフの見た目が、思わぬ誤解を生むこともある。
そして、それをカタコトで伝えても、私にはなかなか伝わらない・・・。
正確に入念にすべてを説明しなければ相手に伝わらないとは、まさか思っていないので、話し方が雑になるということもあるでしょう。

でも、数学ってそういうものです。
ちょっと言葉を省略しただけで、もう伝わらないのです。


それにしても、何年数学を教えていても、まだ発見があります。
生徒は新しい誤解を繰り出してきます。
そして、それを分析し、理解することは、私にはとても興味深いことです。
厄介だけれど、面白いです。

  


  • Posted by セギ at 16:12Comments(0)算数・数学

    2023年08月05日

    +、-を「たす」「ひく」と読む中学生・高校生。


    小学生が+、-を「たす」「ひく」と読むのは当然なのですが、中学生になっても、そして高校生になっても、+、-を「たす」「ひく」と読む癖の抜けない子たちがいます。
    例えば、
    -6-3
    を「マイナス6ひく3」と読みます。
    その子の頭の中では、先頭の符号だけは「マイナス」であり、式の中の「-」は「ひく」であるらしいのです。

    慣れ親しんだ記号の読み方について、本人なりの辻褄合わせが生んだ結果なのだと思うのですが、さて、これは放置しておいていいものなのかどうか。

    私の狭い見聞の中でのことでしかありませんが、中学生・高校生で+、-を「たす」「ひく」と読む子たちは、数学が全くできないわけではないけれど、数学が得意というわけでもない・・・。
    何となく伸び悩んでいく子たち、という印象があるのです。


    これは数学に限らない、学力の問題だからかもしれません。
    中学に進学した段階で、学校の数学の先生から、最低一度は、
    「今後、この記号は、たす、ひくではなく、プラス、マイナス、と読む」
    と教わっているはずです。
    さらに、学校の先生が、授業中に解説しながら数式を読むときは、常に、プラス、マイナス、のはずです。
    しかし、そうした授業を受けていても読み方を改められない子どもたちがいます。
    プラス、マイナス、と読むように自分を改革できないのです。
    小学校で6年間慣れ親しんだ「たす」「ひく」と読む習慣を改められない。
    知識の刷新ができない。
    脳がそのように刷新されない。
    これは、学ぶ力、すなわち学力と多少関係があるのではないか?


    これと似ている件に「>」「<」という不等号の読み方があります。
    「>」は「大なり」。
    「<」は「小なり」と読みます。
    不等式を音読する機会は、めったに訪れませんから、これの読み方を知っている生徒は、少ないです。
    それでも、パソコンで文字入力をするとき、「だいなり」と入力すれば、一発変換で「>」が出てきます。
    知る人は少ないけれど、これは現代も生きている正しい読み方です。

    うちの教室では、宿題の答え合わせなどでは、生徒は自分の答案を音読します。
    私は、自分の解いたものかテキストの模範解答を見ながら、その解答を聴き取り、正解かどうかの判断をしています。
    私が生徒の答案と自分の答をいちいち見比べて採点するよりも、音読してもらうほうが速いですし、私だけが採点していると、生徒は暇そうにしてしまいます。
    その間に他の問題を解いてもらっていると、わからなくて質問してくる子もいます。
    採点している暇がなくなります。
    答え合わせは、生徒参加型のほうが能率的であり、生徒もその時間を無駄な時間とは思わなくて済みます。
    というわけで、生徒に答案を音読してもらっています。

    +、-を「たす」「ひく」と音読する子については、私の頭の中でそれを「プラス」「マイナス」と変換しなければならないという手間はあるものの、答え合わせでの実害はありません。
    小学生に教えるときは「たす」「ひく」、中学生以上に教えるときには「プラス」「マイナス」と、私自身が長年使い分けていることもあり、頭の中での変換はスムーズです。

    しかし、不等号の読み方が逆になってしまう子の音読は実害しかありません。

    「a 大なり1」とその生徒は音読する。
    しかし、それは、本当に、
    a>1
    なのか、それとも、その子が読み間違えていて、その子の書いた答案は、
    a<1
    なのか、音読では判断がつかないのです。

    かといって、いちいちノートを受け取って見るというのも、このコロナの時代に、あまり好ましいことではありません。
    どうしても見なければならないときは見るけれど、音読で済ませられるときには、それで済ませたい。

    不等号の読み方くらい、覚えてほしい。
    それで万事解決するのだから。
    大したことではないし、邪魔になる知識でもないから。
    それでも、不等号の読み方をどうしても正しく覚えられない子たちがいます。
    そして、そうした子たちは、私が接してきた範囲では、例外なく、数学があまり得意ではありません。
    不等号を読み間違える子は、x についての不等式に他の文字 a などが入っている問題や、文章題など、応用問題になると歯が立たないのです。

    これは、数学センスがないということではなく、学力そのものに関係するのではないか?
    「>」を「大なり」と読む。
    「<」を「小なり」と読む。
    たったそれだけの読み方を、覚えられないのだから。

    a>1
    は、「a 大なり1」と読みます。
    それは、
    「a 大なり」で止めて考えれば、意味的にも明瞭です。
    「a 大なり」と断定したのですから、a は大きいのです。
    その言い方は、英語的です。
    a is larger than 1
    ということです。
    事実を最初に言い切ってしまう。
    主語がどのようであるのかを、まず断定する。
    補足事項は、その後につける。
    論理的な言語の特徴です。

    不等号の読み方と合わせて、そのように解説もするのですが、それでも、次の授業では、また読み間違える・・・。
    仕方ないので、ホワイトボードに、
    <  小なり
    と書いておくと、音読するときは、ボードをちらちら見ながら正しく音読します。
    しかし、毎回そうしてあげなければ、次の授業ではまた間違えます。
    定着する、ということがありません。


    もの覚えの悪い子には2通りあります。
    ①本当に記憶力が悪く、頑張っているが覚えられない子
    ②そんなことは覚える必要がないと、本人が判断している子

    そして、②の場合は、判断力がある分だけ頭が良さそうな感じがしますし、本人の自己肯定感も高いのですが、結果がついてきません。
    誤った判断が、その子の可能性を奪ってしまうのです。
    判断ミスの繰り返しですから。

    いえ。
    正直言って、不等号の読み方は覚えられなくても、教室での答えあわせ以外には何も影響しません。
    不等号の意味を理解していれば、大丈夫です。
    ただ、こういうことは氷山の一角です。
    本人の判断は随所に表れます。
    不等号の読み方を覚えられない子は、2次方程式の解の公式では、xの係数が偶数の場合の公式を、本人の判断で覚えないことがあります。
    判別式も、Dだけでなく、D/4も覚えたほうが計算する数字が小さくて済むのに、本人の判断で覚えない。
    乗法公式は意味がなさそうに思えても因数分解のときに使うのに、本人の判断で覚えない。
    組み立て除法は、微分などで3次方程式を解くときに使うのに、本人の判断で覚えない。
    等差数列の和の公式も、初項+末項のほうの公式しか覚えない。
    意味を考えて、自分で復元できるわけでもない。
    2種類公式がある場合、たいてい1種類しか覚えない。
    本人の判断で。

    それでは、本当に記憶力が悪く、頑張っているが覚えられない子と、表面的には同じことになってしまいます。
    教えられたことに、いちいち自分の判断を加えてしまい、そして判断ミスを繰り返す。
    そうしたほうが良い理由を説明されているのに、聞いていないのか、理解できないのか、自分の判断を優先する。
    性格なのか能力なのかは、微妙なところですが、客観的には、それが「能力」として評価されます。

    個別指導では、ここでいつも苦労しています。
    言われたことを言われた通りに覚えて活用してくれる子ならば、簡単に伸びる。
    でも、大抵の場合、それは期待できません。
    何にでも本人の判断が常に加わり、本人はそれを優先しようとします。
    それを論理で抑え、本人の失敗による経験で悟らせ、何とか合理的な方向に進んでもらう。
    数学指導は、煎じ詰めればそういうことです。

    さて、冒頭の、+、-を「たす」「ひく」と読み続ける中学生・高校生に戻ります。
    -6-3
    を、「マイナス6ひく3」と、謎の読み分けをする子たちです。
    たす、ひく、という読み方を直せない。
    これは、やはり、早い時期に直したほうがいいと思うのです。
    なぜなら、-6-3 を、引き算としか認識できていないかもしれないからです。
    -6-3
    =(-6)+(-3)
    という、負の数の和であるという見方ができていないから、そのように読んでいるのかもしれません。
    正負の数の計算をマスターしているようには見えるけれど、負の数の和と考えれば単純な計算を、その子は何か独特の理解の仕方で、複雑に把握しているのではないか?
    簡単なことがいちいち難しいことになっているのではないか。
    そのため、応用まで手が回らないのではないか。
    この場合、この先の数学の学習に影を落としかねません。

    すべての数には、プラスとマイナスの符号がある。
    それを理解していること。
    それは、移項の意味につながり、方程式を理解することにつながります。
    絶対値を含む式の理解につながり、絶対値を自ら活用できることにつながります。

      


  • Posted by セギ at 14:50Comments(0)算数・数学

    2023年07月15日

    数学。理解の深さと新傾向の問題。


    画像は、都立神代植物公園水生植物園のハンゲショウ。

    テスト前は普通に解いていて、わかっているようだったのに、定期テスト中に突然、
    「あれ、これ何だっけ?意味がわからない」
    となり、問題を解くことができなくなる人がいます。

    例えば、三角方程式。

    問題 0≦θ<2πのとき、
    sin 2θ=cos θ を解け。

    問題として、あまりにシンプルで、それ以外の情報がなさ過ぎるからでしょうか、これを「解く」とは何をどうすることなのか突然わからなくなるようです。

    これは、2倍角の公式を使います。
    sin 2θ=2sin θ cos θ ですから、
    2sin θ cos θ =cos θ
    2sin θ cos θ -cos θ=0
    cos θ(2sin θ-1)=0
    よって、cos θ=0 , sin θ=1/2

    と、ここまでは正しいのですが、答案が、ここで止まってしまう人もいます。
    これが最終解答だと思ってしまうようです。

    テストの答案がそこで止まっていた子に。
    「それは、まだ解いている途中ですよ。θ の大きさを求めるんですよ」
    「・・・」
    そのように言葉で説明しても、何を言われたのか理解しかねる様子でポカンとしてしまうのです。

    cos θ=0より、θ=π/2 , 3/2π
    sin θ=1/2より、θ=π/ 6 , 5/6π
    よって、解は、θ=π/ 6 , π/2 , 5/6π , 3/2π

    そのように解いたものを板書してみせても、ぼんやり見つめて、何だろうこれは、と考えこんでしまいます。
    初めてこの問題を解くわけではありません。
    しかし、テストが終わった後では、もう意味がわからなくなっている様子です。
    なぜ、これでなければならないのか。
    なぜ、cos θ=0 , sin θ=1/2 で終わらせてはいけないのか?
    その解決がつかず、しかし、それを質問する言葉も見つからず、呆然としている・・・。
    そんな様子です。


    あるいは、こんな問題。

    問題 関数 f(x)=x^2-x について、x=1における微分係数を求めよ。

    これも、テストでは、何を答えていいのかわからず、白紙・・・。
    「微分係数」という言葉の意味が、ふっとわからなくなってしまった様子です。

    これも、実はとても簡単な問題です。
    f(x)=x^2-x を微分すると、
    f'(x)=2x-1
    これにx=1を代入して、
    f'(1)=2-1=1
    よって、
    x=1における微分係数は、1。

    しかし、これも、模範解答を見たところで、意味がわからない・・・。
    微分係数とは何か、わからない。

    「微分係数って、何ですか?」
    「・・・では、テキストを見直しましょうか」

    しかし、こういう場合、最初に学習したときよりも、理解し直すのには時間がかかるのが普通です。
    微分係数の定義をテキストで読み返しても、意味がわからない・・・。
    本当に、こんなことを学習したのだろうか?
    記憶がないんだけど・・・。
    そんな様子です。


    テスト中、おかしな考えにとりつかれてしまう子もいます。
    突然、わかっていたことがわからなくなるようです。
    例えば、数A「図形」の三角形の五心がテスト範囲だったときのこと。
    定義の空欄を穴埋めするだけの易しい問題が出題されていました。
    「内心」「外心」といった用語を穴埋めするだけの問題です。
    しかし、その子は、突然、点のことを「心」というのは変じゃないかという考えにとりつかれ、「内点」「外点」と答案に書いてしまい、5つの小問すべて誤答となっていました。

    また、これは中3の英語の話ですが、教科書に出ていた重要表現の語句補充問題で。
    「今回のテスト範囲の文法事項は現在完了だ」
    という思いにとりつかれたようで、be interested in など、前日までしっかり覚えていた熟語をすべて have interested in といったように強引に現在完了形にして、ほとんど誤答となってしまった子もいました。

    テスト勉強をしなかったわけではない。
    それなのに、テスト中に、おかしな考えにとりつかれてしまう・・・。

    「通りいっぺんの勉強をしているから、そうなるんだ」
    「暗記に頼って、理解していないからそうなるんだ」
    ・・・そのような批判は、当たっている部分もあるとは思います。
    でも、これは、ゲシュタルト崩壊に近い部分もあるのではないかとも思うのです。
    ゲシュタルト崩壊とは、例えば、「粉」という漢字をずっと見ていると、本当に「コナ」はこんな漢字だったろうかと思えてくる、といったものです。
    「米」などという偏が、この世に存在しただろうか?
    これは、右と左が逆ではないのか?
    そんな違和感にとりつかれるのです。
    私は、「消耗品」の「耗」でたまにこれが起こります。
    これは誰でも起こりうることなので、本人の学習姿勢を責めても、それで改善されるようなものではありません。

    これの対策としては、そうなることを予測して、テスト中にそのようになってしまうことがあるから、心の準備をしておくこと。
    これに尽きます。
    例えば、三角方程式とは何のことか突然わからなくなることがあるので、そうなることを予期しておきましょう。
    そうすれば、それは起こらなくなります。

    いや。
    そんなことで混乱してしまうのは、本質が理解できていない証拠だ。
    暗記ばかりして、理解していないから、そういうことになるんだ。
    日本の数学教育が、暗記ばかりさせているからだ!

    そうした批判を声高に行う人もいます。
    大学の先生の中には、自分が教えれば、そういう大学生が初めて「速さ」や「割合」の本質を理解して、そのことに感動するんだと自慢話をする人もいます。
    誰でも、本当は数学の本質を理解したいと思っているんだ。
    暗記ばかりさせているから、数学がわからないのだ。
    日本の数学教育が良くない!

    ・・・しかし、私の知る限り、小学校でも中学校でも高校でも、生徒に暗記を強いる数学教育を行っている先生の話を聞いたことはありません。
    誰もが、数学の体系を理解してもらおうと努力しているように感じます。
    意味がわからない公式の丸暗記をしているだけでは、先は見えています。
    考える力を身につけてほしい。
    考えるための授業を提供したい。
    そのように、努力されています。
    ゆとり教育の頃も、その後も、そして現在も。

    しかし、多くの生徒が、やり方だけ暗記することでやり過ごそうとします。
    ある程度知力のある子も、やり方だけ覚えて済ますコツを自ら発見していきます。
    まして学力に不足のある子は、例題の解き方の丸暗記に必死です。
    なぜ、理解せず、暗記することで済まそうとするのか?

    授業に魅力がないからだ。
    数学で出される問題に魅力がないからだ!
    ・・・と声高な批判に応えて、魅力的な授業を展開しようとする先生もいますが、暗記で済まそうとしている子たちにとって、それは迷惑な場合も多いのです。

    深く理解するよりも、やり方だけ覚えたほうが、頭が楽なんです。
    やり方だけさっと覚えて、テストが終われば忘れれば、そのほうが脳のメモリの消費が少なくて楽なのです。
    そういう頭の使い方が習い性になっている子は多いです。
    そうした子たちにとって、「魅力的な授業」は必ずしも好ましいものではありません。

    魅力的な授業。
    すなわち、アクティブラーニング。
    しかし、アクティブラーニングの授業は、何を学ぶための何の授業なのかわからず、混乱する子もまた多いです。

    また、数学を現実生活に近づけた、新傾向の問題。
    それらの問題は、読み取るだけで大変で、生徒をワクワクさせるどころか、苦痛を強いるものである場合も多いです。

    100俵の俵を5段組みに積み上げるのに必要な地面の面積を、なぜ求めなければいけないのか?
    敷設面積が決定している階段の段差をどうすればいいかを、なぜ私が計算しなければならないのか?
    バスケットのシュートの角度など、私には関係ない。
    稲妻が光ってから雷の音がするまでの時間と距離の関係なんて、興味ない。
    そういう問題は、嫌い。
    普通の数学の問題のほうがまし。
    新しいことに頭を使いたくない。
    覚えたことだけで対処したい。
    自分の頭が上手く動かないことを思い知るだけの問題なんて、解きたくない。
    ・・・そういう子も、また多いのです。

    そもそも「新傾向」と言いますが、このような問題は20世紀の頃から「新傾向」であり、今も新傾向です。
    ちっとも定着しません。
    生徒が問題を解くのを楽しんでいる様子がなく、効果もないからか、なかなか定着しないのです。
    大学入試共通テストの数学にこのような文章題を出すから、純粋に数学が得意な子が正答できず損をしていると嘆く人もいます。
    都立高校の入試数学問題も、20世紀の頃は「新傾向」の文章題が出題されていましたが、いつ頃からか、なくなりました。

    数学が得意な生徒にとってさえ多少迷惑なこともある新傾向問題は、数学が苦手な子にとって多くは苦痛です。
    こういう問題を解いてワクワクし、表情が輝いている子は、ごく少数です。

    数学の楽しさは、そういうこととは限らないですし。
    現実生活と結びついているから数学が楽しい、とは限りません。
    現実と何も関係がなくても、数学は楽しいです。
    実用的でなければ面白くない、という考えは、貧しいです。

    どうすれば数学が好きになるか。
    これは、難しい問題です。

    どうすれば数学がわかるようになるか。
    このほうが、課題として解決しやすいと思います。
    これは、わからなくなったところまでさかのぼって、やり直す。
    何回でも、やり直す。
    それに尽きると思います。

    数学が苦手だった子が大学生になり、例えば小学校の先生になるために大学で数学を学び直す。
    そのときに、小学校の算数の「割合」や「速さ」や「分数の計算」を理解できたのなら、それは幸福なことだと思うのです。
    ただ、そういう時期だった、という点も見過ごせません。
    小学生のときには、その子の理解を越えた内容だった。
    でも、大学生になり、それを理解できる脳になっていたのかもしれません。
    人間の脳は、25歳まで発達を続けるそうです。
    あるいは、「自分には数学は必要ない」と思ってきた子が、本当に切実に数学を理解したい動機を持った。
    わかる時期がきて、幸運にもそのときに教わることができた。
    それは、幸福なことだと思うのです。

    「大学生が割合もわかっていない。小中高の数学教育はどうなっているんだ」
    ではなく、
    「割合や速さを理解することが本当に必要になった大学生が、ついに理解した。数学は、いつからでも学び直せる」
    というメッセージのほうが、はるかに有益です。


    また、そのときは理解したつもりでいても、時間が経つと忘れてしまい、またわからなくなってしまう人のほうが現実には多いです。
    生徒がわかった顔を見せたときに、
    「どうだ!私の教え方が上手いからだ!こう教えれば、誰でも理解できるんだ!」
    などという自惚れを私も若い頃には抱きましたが、そんなものを簡単に踏みつぶしていくのが現実の子どもです。
    継続的に子どもたちに数学を教えていくというのは、そういうことです。
    時間が経てば、またわからなくなってしまう。
    理解しても、また忘れてしまう。
    記憶がもたないのです。

    そして、いったんわからなくなってから再び理解することの難しさ。
    最初に学ぶときとはまた別の混乱がそこにはあります。
    「微分」の学習がひと通り終わって定期テストを受けたときに、「微分係数」という言葉の意味がわからない絶望と混乱。
    テキストで定義を読み直しても、意味がわからない・・・。

    「関数 f(x)の平均変化率において、x=a、x=bの値を定め、b を a に限りなく近づけ、平均変化率が限りなく一定の値 α に近づくとき、この値 α を、関数 f(x) の x=a における微分係数という」

    ・・・何、それ?

    実は、最初に学習したときも、「何、それ?」だったのかもしれません。
    わからないから、やり方だけ覚えた。
    ああ、つまり、f(x) を微分した式 f'(x) の x に代入すれば答が出るんだな。
    そのように、意味はわからないけれど、やり方だけ覚えたのでしょう。

    やり方だけ覚えて済ます子に、意味に戻った授業をしても、にこにこ笑っているが聞いていない、ということがあります。
    自分としてはやり方を覚えたので、もうそれはOK。
    いつまでもしつこく意味を説明している先生は、笑顔でやり過ごすだけ。
    もめごとは起こしたくないし、聞いているふりをするのは問題を解くよりも、むしろ楽。
    にこにこしていればいいんだから。
    子どものそうした処世術が悪い方向にものごとを引っ張っていきます。

    その覚え方では、忘れるのも速かった。
    しかし、本人は、やり方を覚えたことを「理解した」と誤解している傾向もあり、後になって自分がわかっていないことに動揺してしまうのでしょう。

    細い1本道を何とか歩き通したつもりでいたのに、振り返ったら、そこにもう道はなかった。
    歩いてきたはずの道は消えていた。
    もう戻れない。
    唐突に、そこのポイントに戻ろうとしたところで、もうわからない。
    単元の最初からすべてやり直すしか、理解する方法がないかもしれないのです。

    目の前の子は、高校生だけれど、「割合」や「速さ」が理解できていない可能性がある。
    けれど、今は、「微分」を学習しなければならない。
    そういう課題もあります。

    そして、そういうことは、小学校から高校までの算数・数学教育の課題とはまた別のものであるような気がします。
    従来通りの数学教育で数理の体系を把握している子も多いのです。
    日本の数学教育が一概に悪いとは言い切れません。
    むしろ、何歳になっても数学のやり直しができる環境整備のほうが考えられていい課題だと思いますし、それも、今は本人次第で可能だと思います。

    やり方だけ覚えても記憶がもたないことに、誰でもいつか気づきます。
    気づいたら、やり直しましょう。
    できるだけ、意味に戻って。
    やり方だけ覚えたいのもわかるけれど、意味に戻って。
    わからなくなったら、最初に戻って。
    新傾向問題が迷惑でしかなくても、意味に戻って、何とか乗り越えていきましょう。

      


  • Posted by セギ at 13:59Comments(0)算数・数学

    2023年07月11日

    学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか。


    今日は、真面目にテスト勉強はしている様子なのに、なかなか成績が上昇しない高校生について考えます。
    考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
    今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
    しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
    「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
    学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。


    10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
    AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
    学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
    学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
    そのように思ったのです。

    結局、その予想は外れました。
    1つには、私立大学の定員厳格化があります。
    極端な水増し合格が許されなくなったのです。
    どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
    合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
    しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
    それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
    その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。

    もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
    一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
    これは大きかったです。
    AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
    高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
    それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
    それが、思いの他、高かったのです。
    高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
    そういう数字です。
    苦手科目を捨てることがない。
    こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
    高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
    3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
    そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
    3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
    そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
    真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
    彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
    あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
    それもまた、才能でしょう。
    そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。


    勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
    自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
    私も今は推奨しています。

    ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
    学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
    受験勉強しないで合格できるんだから。
    学校の成績だけ良ければいいんだから。
    そのように考えてしまうのです。
    学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
    学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
    そのように、視野が狭くなっていきます。

    これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。

    英語の場合で考えてみましょう。
    毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
    でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
    そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
    受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
    何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
    結局、単語のテスト範囲は捨てます。

    さらに。
    英語の定期テストの出題形式というものがあります。
    英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
    論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
    英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
    学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
    それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
    あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
    英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
    それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
    結果として、英語の定期テストは良くて60点台。

    自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
    そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
    でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?

    高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
    英語力は、中学英語のまま。
    単語力も文法力もない。
    そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。


    数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
    学校の定期テストの点数だけが大事。
    だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
    一般受験するわけじゃないんだから。
    そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
    しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
    「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
    定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
    一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
    だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
    わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
    次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
    スケジュールは、どんどん遅れていきます。

    本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
    自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
    だから、学校の問題集が大切。
    そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
    しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
    週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
    本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
    ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
    「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
    という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。

    テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
    塾の授業はテストまで何回あるのか?
    そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
    とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
    そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。

    この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
    もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
    それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
    「学校の成績だけ良ければいい」
    という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。


    学校の勉強だけをやりたい。
    だって、重要なのは、学校の成績だから。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    他のことはやりたくない。
    そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
    しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
    当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
    学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
    いいえ。
    学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
    そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。

    勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
    英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
    だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
    テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
    それなら、普段からやるしかないでしょう?
    それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
    そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
    その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
    そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。

    学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?

    それは、使い方次第でしょう。
    使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
    しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
    まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。

    学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
    それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
    これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
    論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
    それは自分で解いたほうが勉強になります。
    そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
    学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
    学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
    単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。

    数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
    学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
    本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
    学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
    しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
    それでも、昔に比べれば、随分易しい。
    昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
    典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
    それで失敗する子には、
    「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
    そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。

    繰り返します。
    学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
      


  • Posted by セギ at 14:43Comments(0)算数・数学英語

    2023年06月28日

    高校数A「確率」。条件付き確率と乗法定理。安易な分析では、無理があります。


    たとえば、こんな問題。これは、数A「確率」の問題です。

    問題 袋Aには赤球が3個、白球が2個、袋Bには赤球が2個、白球が2個入っている。
    袋Aから球を2個取り出し、それを袋Bに入れた後、袋Bから球を2個取り出すとき、それが2個とも赤球である確率を求めよ。

    この問題を生徒と一緒に解いていて、
    「これは、条件付き確率の問題ですか?」
    と問われたことがありました。

    ・・・条件付き確率?

    私の不審げな表情に、その生徒は重ねて問いかけてきました。
    「違うんですか?問題文に『とき』と書いてあったら条件付き確率だって、先生に言われたんですけど」
    「先生?・・・学校の先生?」
    「はい・・・」
    「・・・」
    「違いますか?」
    「・・・この問題は、確率の乗法定理を利用します。乗法定理は、条件付き確率の公式を根拠とした定理ですから、関係あると言えば関係ありますが、条件付き確率の問題ではありませんよ」
    「そうなんですか?でも、『とき』とあったら条件付き確率だって・・・」
    「・・・そういう読み方をしないと、条件付き確率であるか、そうでないかの、判断がつかないですか?」
    「・・・」

    生徒たちがあまりにも読解力がないための苦肉の策が、
    「『とき』と書いてあったら条件付き確率」
    というアドバイスだったのでしょうか。
    しかし、高校数学を解いていて、その読解力は哀しい・・・。
    中高一貫校の生徒が数A「場合の数と確率」を学習するのは中3の頃なので、中学生にはそんな教え方をするしかなかったのかもしれませんが。

    「問題文に『とき』と書いてあるのは、必要条件であって、十分条件ではないのでは?」
    「え?あっ?」
    「そんな読み方は、やめましょう。問題文は正確に読んで分析しよう」
    「はあ・・・」

    この問題を、早く解きたい、早く解説を知りたいという人は、少し先に飛んでください。
    ここで条件付き確率について補足します。

    条件付き確率とは、例えば、

    問題 あるイベントで参加者全員にアンケートをとったところ、参加者の70%は高校生で、参加者の40%が女子高校生だった。今、イベントに参加した高校生を1人選んだときの、その高校生が女子である確率を求めよ。

    といったものです。
    条件付き確率は、分母を条件のついた事柄の確率、分子を求めたい事柄の確率とした場合の、その分数全体です。
    上の問題で言えば、40%/70%で、答えは、4/7。
    苦手意識を持つ人もいますが、理解してしまえば、特に難問ということはありません。

    具体的に人数で考えても、同じ結果が出ます。
    イベントの参加者を仮に100人としましょう。
    そのうち、高校生は、100人の70%で70人。
    女子高校生は、100人の40%で40人。
    では、高校生のうち、女子高校生である確率は、40/70で、4/7です。

    よくやってしまう誤った式が、7/10×4/10=28/100 というもの。
    これは、「女子高校生は、高校生のうちの40%」と誤解したためのものと思われます。
    参加者全体の40%が女子高校生だったのであり、高校生の40%が女子だったわけではありません。
    この、高校生と女子高校生の例は、条件付き確率の例としてよく用いられるにも関わらず、理解しにくいのはその点かもしれません。
    「参加者の70%は高校生で、女子はそのうちの40%だった」と誤解しがちなのです。

    そして、この誤った式を立ててしまう人は、逆に、式の中に条件付き確率を使っているのです。
    「高校生のうちの40%」と誤解したときの、その「40%」が、条件付き確率です。
    分母を限定したときの、その中での確率ですから。
    このように、条件付き確率は、特別難しいものではなく、珍しい考え方でもありません。
    ごく普通の考え方なのですが、何か難しく考え過ぎて、モヤモヤが残る人が多いようです。
    その結果、
    「『とき』と書いてあったら条件付き確率」
    というお手軽なアドバイスにすがりつく。
    しかし、そういう勉強をしていては、共通テストや国立大学二次試験のような、段階を踏んでいかねばならない大きな確率の問題は歯が立たなくなります。
    問題文をしっかり読んで、事象を正確に分析する習慣を持ちましょう。



    さて、問題の解答解説に移りましょう。
    もう一度、問題文を見ましょう。

    問題 袋Aには赤球が3個、白球が2個、袋Bには赤球が2個、白球が2個入っている。
    袋Aから球を2個取り出し、それを袋Bに入れた後、袋Bから球を2個取り出すとき、それが2個とも赤球である確率を求めよ。

    この確率を求めるには、袋Bに入っているそれぞれの色の球の数を確認する必要があります。
    しかし、それは、袋Aからどんな球を取り出して袋Bに入れたのかによって違ってきます。
    したがって、袋Aからどんな色の球を取り出したのか、それによって場合分けをする必要があります。

    どんな場合があるでしょうか?
    ①2個とも赤球だった場合。
    ②1個が赤球、1個が白球だった場合。
    ③2個とも白球だった場合。

    この3つに場合分けされ、そして、そのそれぞれの事象は互いに排反で、確率的にかぶっている部分がありません。
    では、それぞれの確率を求め、その和を求めればよいです。

    ①2個とも赤球だった場合。
    袋Aから赤球2個を取り出す確率は、組み合わせで考えて、
    3C2 / 5C2=3/10
    そのとき、袋Bは、赤球4個、白球2個となりますから、そこから赤球2個を取り出す確率は、
    4C2 / 6C2=6/15
    したがって、①の確率は、
    3/10・6/15

    ②1個が赤球、1個が白球だった場合。
    袋Aからそのように球を取り出す確率は、
    分子は、3個の赤球のうちの1個を選び、さらに2個の白球のうちの1個を選ぶのだから、
    3C1・2C1
    分母は5個の球のうち2個を選ぶのだから、
    5C2
    よって、3C1・2C1 / 5C2=6/10
    そのとき、袋Bは、赤球3個、白球3個となりますから、そこから赤球2個を取り出す確率は、
    3C2 / 6C2=3/15
    したがって、②の確率は、
    6/10・3/15

    ③2個とも白球だった場合。
    袋Aから白球2個を取り出す確率は、組み合わせで考えて、
    2C2 / 5C2=1/10
    そのとき、袋Bは、赤球2個、白球4個となりますから、そこから赤球2個を取り出す確率は、
    2C2 / 6C2=1/15
    したがって、③の確率は、
    1/10・1/15

    前にも書きましたが、これらの事象はそれぞれ排反ですので、
    求める確率は、
    3/10・6/15+6/10・3/15+1/10・1/15

    こういう式の場合、小学生時代からの癖で、事前にこまめに約分してしまい、最後に足すときになってまた通分し直して、その過程で計算ミスをしてしまう人がいます。
    無駄な作業です。
    分母が一致しているのですから、約分はせず、このまま足して、最後に約分できるようなら約分します。
    3/10・6/15+6/10・3/15+1/10・1/15
    =18+18+1 / 150
    =37 / 150

    約分はできませんでした。
    これが、答です。

    そして、この解き方全体は、確率の乗法定理を利用しているのですが、それぞれに場合分けした場合の後半、袋Bの確率は、条件付き確率なのです。
    例えば①ならば、袋Aから赤球2個を選んだときに、袋Bから赤球2個を選ぶ条件付き確率が 4C2 / 6C2=6/15 です。
    確率の乗法定理としてすんなり理解できることの中に、ひっそりと条件付き確率はひそんでいるのです。
      


  • Posted by セギ at 12:49Comments(0)算数・数学

    2023年06月14日

    高校数学の答案の書き方がわからない。数Ⅱ不等式の証明。


    画像は、タイマツバナ、かな。
    散歩した都立小金井公園で咲いていました。

    さて、今回は、数学の話。数Ⅱ「不等式の証明」から。

    問題 2次不等式 x^2-4x+5>0 を証明せよ。

    不等式の証明問題としては、基本中の基本です。
    しかし、以下のような答案を書いてしまう子もいます。

    x^2-4x+5>0
    =(x-1)(x-5)>0
    よって、
    x^2-4x+5>0


    証明問題の答案は何をどう書いていけばいいか、わからないのでしょう。
    この答案は、0点です。

    一番やってしまいがちなミスが、1行目です。
    x^2-4x+5>0
    という不等式は、これから証明すべきことなのに、1行目にするっと書いてしまうのです。
    そして、それを書いてはいけないということを、理解できない子は多いです。
    本人は、ただ問題文を書き写しているだけなので、それがダメだと言われる理由がわからないようです。
    「いつも与式を書け書け、書き写せ、とうるさいのに、何で、このときはダメなんだろう?」
    と思ってしまうのかもしれません。

    これから証明すべきことは、まだ証明できていないことです。
    いつもの、不等式を解く問題とは違います。
    x^2-4x+5>0 が本当に言えるかどうかはまだ不明であり、それをこれから証明します。
    それを事実であるようにするっと書いてしまうことはできません。

    どうしても、与式を書きたかったら、答案の1行目に、
    x^2-4x+5>0 を証明する。
    というふうに書くことならできます。
    それなら、意味が通じます。
    そう解説すると理解してくれる子もいるのですが、数学の答案に日本語をそんなに書くのは変だと、謎の誤解をしている子もいます。
    「えー、そんなのおかしい」
    と言います。
    数学は数学なのだから、日本語は無駄、不要、と思っているのでしょうか。
    いやいやいや。
    その考え方のほうが、おかしいんですよ。
    早く気づいてください。
    でも、反論してくれるだけましなのです。
    にこにこ笑っているから、理解しているかなと思っていたら、心の中で勝手に却下している子もいます。
    個別指導を受けても、それでは伸びないですよ。
    せめて、議論しましょう。

    次にまずいのが、2行目です。
    x^2-4x+5>0
    =(x-1)(x-5)>0
    という、このイコールは、どういう意図で書いているんでしょうか?

    その子は、以前、テストでこんな答案を書いたこともありました。

    問題 方程式 2x^2+3x-15=x^2+2x-9 を解け。

    2x^2+3x-15=x^2+2x-9
    =x^2+x-6=0
    =(x-2)(x+3)=0
    =x=2 , -3

    日頃、計算過程をしっかり書いていくことがなく、ノートは計算メモばかりの子でした。
    イコールをまともに書いたことがないので、いざ答案を書けと言われると、どう書いていいのかわからなかったのでしょう。
    学校の定期テストだけは頑張って答案を書こうとし、訳のわからないところにイコールを書きまくっていました。
    こういう答案を書いてしまうと、
    「解き方の手順だけは覚えているが、意味はわかっていないんだな」
    と数学の先生に解釈されかねません。

    そういうことが続くと、理系に進学したいと希望を伝えても、高校の先生にブロックされることがあるのです。
    具体的には、数Ⅲを選択することを禁じられます。
    それより手前、数Bを選択することを禁じられた子もいました。

    本人の進路なのに、何でそんな勝手なことをするんだ!
    という怒りもわかりますが、上のような答案を書いている子を理系に進ませないのは、高校の先生の温情かもしれません。
    数学が全くわかっていない。
    しかも、答案を読む者にそれが伝わっているということすら、本人には理解できていない・・・。
    自分のどこがどの程度ダメであるか自覚できる子ならば、伸びる可能性があるのです。
    しかし、これでは、おそらく、話が通じない・・・。
    少なくとも、上の答案では、そう思われてしまいます。

    例えば、テストでついうっかり 2+3=6 という計算ミスをしても、それで、
    「数学センスがない」
    「数学が全くわかっていない」
    と言われることはないのです。
    でも、上のような答案を書いてしまうと、ああ、この子は数学が全くわかっていないのだ・・・と思われてしまう可能性があります。

    しかし、数学ができない子は、それを逆にとらえてしまう傾向があります。
    2+3=6 としてしまうのはダメ。
    一方、上のような、
    2x^2+3x-15=x^2+2x-9
    =x^2+x-6=0
    =(x-2)(x+3)=0
    =x=2 , -3
    という答案は、答が合っているのになぜダメだと言われるのか、理解できない。

    つまりは、答さえ合っていればいいという、小学校時代の感覚から一歩も前に進んでいないのだろうと思います。

    いえ、小学校時代の算数だって、本当は、答さえ合っていれば良かったわけではないのです。
    ただ、そういう形式のテストが多かったので、それで、本人はそのように勘違いしてしまったのでしょう。
    その勘違いをいつまでもひきずって、数学にバージョンアップできず、気がつくと、もう数Ⅱを学習する段階にきてしまった・・・。
    そして、突然、高校の数学の先生から、
    「数学がわかっていない」
    と断定される。
    本人には、寝耳に水のことかもしれません。

    上のような答案を書く子は数学センスがないとも、数学がわかっていないとも、私は思いませんが、しかし、課題があるのは事実です。
    そして、それは、数学上の課題というよりも、もっと別の課題のように思います。

    まずは観察力の問題。
    塾に行かずに自学しているのだとしても、教科書の解答や学校の先生の板書を見れば、自分の答案と違うということに気づいてもいいはずです。
    学校の先生が授業中に、「こういうふうに書きなさい」と注意している場合も多いでしょう。
    そういうものを全部無視し、素通りしてしまうのです。
    観察の目が粗いのでしょうか。
    大体同じだから、大丈夫、と思ってしまうようです。
    それは、やはり、能力の問題も多少あるかもしれません。
    緻密さがないのです。
    そこまで緻密さを要求されるはずがないと、本人が勝手にゆるい基準を設けてしまうので、世間の基準とのズレが大きい。
    そのために、能力を疑われる結果になってしまいます。
    やればできるのかもしれないのですが。

    そして、改善する力の問題。
    教科書の解答や学校の先生の板書と、自分の答案とに違いがあることには、気づいている場合もあります。
    個別指導塾に通っていれば、「それは違うよ。こう書くんだよ」と指導が入るでしょう。
    それでも、直さない。
    いや、そんなの大差ない。
    自分のやり方でいいはずだ。
    と、なぜかそのように考える傾向のある子はいます。
    自分は勉強ができるのに、何か、あれを直せ、これを直せと言ってくる。
    もっと自分を認めてほしいのに。
    何でこのセンセイは自分を認めないんだー。
    ・・・と思っているのだろうか?
    と講師として首を傾げてしまうほど、何を助言しても直さない子は、いつの時代もいます。
    そして、学校の先生に全否定され、数学のテストの点数がひどく低くなってから、現実に気づきますが、その頃には、何をどう直せばいいのか、本人の理解が追い付かなくなっていることがあります。

    何を助言しても直さない。
    それにも、実は理由があるのかもしれません。
    日本語を多用した数学答案や、思考の過程を丁寧に書いていく答案の価値を、本人が認めていない可能性があります。
    そこまでする必要はないと、本人が判断しているのだと思うのです。
    その根本にあるのは何なのか?
    それは単に、字を書くのが好きではない、ということだったりするのかもしれません。
    子どもの頃、鉛筆を上手く持てず、字を書くのがつらくて不快だったのかもしれません。
    高校数学を学習する年齢になっても、それをひきずってしまっている可能性はないでしょうか。

    もう1つは固定観念でしょうか。
    数学は、数学なんだから、数式だけ書いていくものだ、という固定観念。
    とにかく左端にイコールをつけておけばいいんだ、という固定観念。
    答案の中に日本語が入っているほうがおかしいんだ、という固定観念。
    複雑な問題になればなるほど、答案の中に日本語が多く含まれていく、という事実を知らないのか。
    あるいは認めたくないのか。
    それも繰り返し説明しているのですが、固定観念が強過ぎて、自分の考えに反する内容は聞こえないようです。
    あるいは、
    「学校の数学のテストは、どうせ大半は答だけ書けばいい形式だし」
    と思って聞き流している可能性もあります。
    前半の計算問題は答だけ記入する形式ということもありますが、後半、記述形式の問題は必ずあります。
    学校の数学の先生は、そこを見ています。
    そして、ある日突然宣告されます。
    「君は、理系には進めない」
    その前に、立ち止まって、気づいてほしいのです。
    自分で文系を選択するのは別に構わないですが、理系に進めないと宣告されるのは、嫌じゃないですか。


    実は、正しい書き方がわからない、ということもあるでしょう。
    正しい書き方の何がどう正しくて、自分の書き方の何がどうダメなのか、解説されても、理解が追い付かない。
    どうでもいい、と思っていることが、理解の妨げになる面もありますが、理解しようとしても、理解できない。
    イコールの意味や、証明ということの意味がそもそもわかっていないのです。
    そういうことも、あると思います。


    上の不等式の証明の誤答に戻ります。

    x^2-4x+5>0
    =(x-1)(x-5)>0

    このイコールの使い方では、イコールの意味が理解できていないことが露呈しています。
    これでは、何と何が等しくて、何が>なのか、意味不明です。
    そのことが、自分で書いていてわからないのです。

    x^2-4x+5
    =(x-1)(x-5)>0

    これならば、答案としては誤答ですが、イコールの使い方は間違っていません。
    でも、上の書き方とこの書き方の何がどう違うのかよくわからない、という人がいます。
    イコールの意味のような根本の概念になると、小学生の頃に脳の奥までしみ込んでよく理解しているのでない限り、後になって学習して使いこなすのは難しいのかもしれません。
    絶対に不可能だとは思いませんが。


    ところで、この答案は、答案の書き方がおかしいだけでなく、解き方そのものも間違っています。
    因数分解としても、間違っていますし。
    x^2-4x+5 は、実数の範囲では因数分解できません。
    因数分解できたところで、左辺>0 など証明できませんし。
    x-1、x-5のそれぞれが正の数か負の数かわからないのですから、その積が正の数か負の数かなど、判断がつきません。

    では、どうすればいいのか?
    どうすれば、左辺が正の数であることを示せるのか?

    「因数分解ではありませんよ。平方完成をするんだったでしょう?」
    「・・・」
    「私の言っていることが、わかりますか?頭の中で漢字変換できますか?因数分解ではなく、平方完成」
    「・・・」
    平方完成と板書して、指さします。
    「言ってみて。リピート・アフター・ミー。平方完成」
    「ヘーホーカンセー・・・。あっ・・・!」
    「わかった?やりましょう、平方完成」

    やりましょう、平方完成。

    x^2-4x+5
    =(x-2)2-4+5
    =(x-2)2+1>0
    すなわち、
    x^2-4x+5>0

    これが正解です。

    x-2という( )の中の値は、正か負かわかりません。
    しかし、2乗すれば、どちらにしても正の数になります。
    だから、(x-2)2は、正の数です。
    +1は勿論正の数です。
    正の数と正の数の和は、必ず正の数です。
    だから、左辺>0です。
    もっとも平易なタイプの2次不等式は、このように証明されます。

    なぜ、この問題が解けないのか?
    課題としては、
    「実数を2乗した数は必ず正の数」
    「正の数と正の数の和は、正の数」
    を、発想できないことです。
    解説されれば理解できる。
    しかし、解説されないと理解できないのです。
    本人の中に、そういう知識がないのだと思います。
    問題の解き方のストックとして、頭の中に入れておきましょう。

    また、本人としては解説されてやっと理解できるそんなことを、証明の答案の中ではほとんど書いていないことが納得できない、ということもあるようです。
    わかりきったことを書かないでいると色々注意されるのに、そういうことは、書かなくてもいいという。
    そのバランスがわからない・・・。

    いや、「実数を2乗した数は正の数だから」「正の数と正の数の和は、正の数だから」と答案の中に書いてもいいんですよ。
    それを書いたら減点される、ということはありません。
    でも、そんな数学的常識は書かなくていいことになっているのです。

    つまり、数学的常識が身についていないため、本人のバランス感覚が数学の世界の常識と違うのです。
    これは、数学的常識を身につけていくことでしか解決のつかないことです。
    練習を重ねることで、自分の中の常識を変えていきましょう。
    数学的に非常識なのは、練習不足が一番の原因です。
    問題を解く度に模範解答を読んで、それによって数学答案の書き方と数学的常識を身につけていきましょう。

      


  • Posted by セギ at 13:46Comments(0)算数・数学

    2023年05月21日

    数学のケアレスミスは集中力と関係あります。


    今年も都立野川公園に桑の実がなりました。


    さて。
    本人なりに頑張っているのに、なぜ、成績が伸びないか。
    今回は、数学に限って、なぜなのかを考えてみたいと思います。

    テストでの大きな失点原因は、やはり、計算ミスやケアレスミスです。
    解ける問題も途中でミスをして、得点に結びつきません。
    テスト前半の単純な計算問題は、通常の感覚では得点源ですが、ここでの正答率が5割以下という子もいます。
    何でそんなにミスをするのか。
    ミスの多い子の様子を見ていますと、集中力不足に原因の1つがあると感じます。

    生徒が問題を解いている間、私も同じ問題を解いていることがあるのですが、そんなときに、
    「遠くで目覚ましの音がする」
    と、言い出す子がかつていました。
    えっと思って耳を澄ますと確かに聞こえてくるのですが、それは思考の邪魔になるような音量ではありませんでした。
    問題に集中していた間は、私には聞こえなかった音です。
    しかし、その子は、問題を解いていて、そんな音が聞こえたり気になったりするのでした。

    問題のことを考えながら別のことも考えているから、そんな音が聞こえてくるのではないか?
    2つ以上のことを同時に考えている。
    それが出来るのなら止めないですが、それでは精度が下がるのが現実です。
    私自身は、音楽をかけながら、ラジオを聴きながら、あるいはテレビをつけたままで、数学の問題を解くことがあります。
    とはいえ、実質、数学の問題を解いている間は何も聞いていないので、無意味です。
    一方、生徒に解いてもらう予定の英語長文の下調べをしているときなどは、音が邪魔になるので、消します。
    つまりは、英文を読むときの私の集中度は、数学のときほど高くない。
    英文を読みながらでも、ラジオの音が聴こえてしまい、邪魔だなと感じます。
    音が邪魔になる程度に気が散りやすいのだと思います。

    あくまで私自身の話ですが、数学の問題を解いているときは、何も聞こえないのです。
    他のことを考えることができません。
    他のことを考えながら数学の問題を解いたら、私はミスをしてしまうでしょう。
    いや、考えがまとまらず、まず解くことそのものに困難を感じます。

    ミスの多い生徒たちは、常にその状態で問題を解いているのかもしれません。
    他のことを常に同時に考えているので、深い思考に至らず、考えがまとまらず、数学の問題を自力で解くことができないのかもしれないのです。

    問題を解いている途中で、ふっと顔をあげて窓の外を見る子もいました。
    うちの塾の窓の外は、向いのマンションの外壁しか見えません。
    鳥や猫が横切るということもありません。
    それなのに、度々顔を上げ、外を見ます。
    「どうしたの?」
    「いや、暗くなったなあと思って」
    「・・・え?」
    その子も、やはり、問題の写し間違いや書き間違い、計算ミスの多い子でした。
    1つのことに集中できず、散漫なのだと思うのです。

    そういう子が、隙間時間に数学の宿題を解いていると言ったことがありました。
    学校の休み時間や、見ているテレビや動画の飛ばせないCMの間に、ちょろちょろっと解くというのです。
    それは2~3分の隙間時間の有効活用だと本人は考えているようでした。
    応用問題の解き方を自力で考えつくこともできるのに、単なる計算問題の宿題でほぼ全滅することがあるので不思議だったのですが、そんなことをしていたとは。

    短い時間にぐっと集中できる人が隙間時間を有効活用するためにそうするのなら良いのですが、注意力散漫な子がそんなことをやったらミスだらけになってしまいます。
    ミスの多い子は、集中できる静かな環境で、まとまった時間に数学を解いたほうがいいです。
    集中するとはどういうことか実感できるようになり、どこででも集中できるようになるまでは。


    テストのときになると終了時間を異様に気にするのもミスの多い子の特徴の1つです。
    時間までに問題を全部解けるかどうか気になって気になって、始終時計を見ているようです。
    そんなことでは深い思考はできません。
    時計を見る度にいちいち思考が途切れ、そのせいで余計にミスが増えているのではないでしょうか。
    そして、普段は「たくさん問題を解かされたら損だ」と思っているのではないかと疑ってしまうほど、のろのろと字を書いているのに、テストのときだけ速く解こうとするので、さらに焦りが生じます。
    普段は丁寧に途中式を書いているのに、テストのときだけ暗算しようとし、それで余計に時間がかかってしまう子もいます。

    時間を気にするのには、いろいろな要因があると思われますが、基本は自信のなさでしょう。
    学年が上がるにつれてどんどん数学の得点が低くなっているので、もう自信がない。
    普段から計算が遅かったり、ミスしてやり直すことが多いので、時間内に終わるかどうか気になる。

    対策としては、試験時間と同じ時間で普段の勉強もやるのが効果的です。
    定期テストが50分なら、家庭学習も50分単位で行う。
    50分勉強して、10分休憩。
    そうやって、「50分」という時間の長さを体感として自らに叩き込む。
    時計なんか見なくても、勉強していて大体何分くらい経っているか実感できるまで何年でもそれを続けます。

    私は子どもの頃からそうしていましたし、周囲の子もそういう子が大半でしたので、それが普通の勉強法だと思っていました。
    しかし、今の時代、1科目集中して50分勉強する子は一部の秀才に限られるようです。
    集団指導塾に勤めていた頃、テスト前の土日にはテスト対策として塾を開放していました。
    その監督として、テスト勉強する様子を見ていると、1科目10分ともたない子がたくさんいました。
    学校の数学のワークを解いているなあと思って見ていると、10分と経たずに英語のワークに変えています。
    別に数学のワークが終わったわけではないのです。
    飽きてしまった。
    あるいは、数学のワークを解いていると、英語のワークが終わっていないことが気になって、そっちを先にやることにした。
    そして、見ている間に、また科目を変えてしまいます。
    1つの科目を勉強していると、他の科目のことが気になって、集中できないのかもしれません。
    腰をすえて50分1科目を勉強する、ということができないようです。
    「いや、ゲームだったら、50分集中できる」
    と、へらず口は叩くんですけど。

    ゲームのように強い刺激が絶え間なくあるものならば、50分集中できる。
    勉強のように自ら集中していかなければならないものは、集中できない。
    やはり、集中力のなさを感じました。

    こうしたことの改善には、多くの努力と時間が必要となります。
    一朝一夕では、変わらないかもしれません。
    何より、本人が変わりたいと望み、変える方向で努力しないことには、なかなか変わっていけないのです。


      


  • Posted by セギ at 16:45Comments(0)算数・数学

    2023年05月15日

    数学。ノートが悪いために、答案を正確に書けないこともあります。


    都立神代植物公園水生植物園のアヤメと奥にキショウブ。

    さて、今日は数学の話です。
    例えば、こんな問題。
    数Ⅱ「式と証明」という単元の中の、分数式の計算の問題です。

    問題 次の計算をせよ。


     x+4   -    x-8
    x^2-4     x^2-8x+12


    数Ⅱの問題としては簡単なものです。
    数Ⅱ最後の憩い、と呼んでいいかもしれません。
    考え方も意味もよくわかる問題だと思います。
    ですが、こういう問題で誤答を繰り返してしまう子もいます。

    もっと易しい、中学1年生が学習する分数の文字式でも、分数の前に-の符号があると、毎回必ず間違えてしまう子は、います。
    あまりにも誤答が多いので、そういうことだろうかと推測しながら、その子のノートを見て、私は衝撃を受けました。
    以下のような答案になっていたのです。


     x+4      -   x-8
    (x+2)(x-2)     (x-2)(x-6)


    x-^2-2x-24-x^2-6x-16


     -8x-40
    (x+2)(x-2)(x-6)

    ・・・何だろう、これは・・・。
    こんなのは、数学の答案ではありません。
    計算メモです・・・。

    こういう答案を書く子を見るのは、しかし、初めてではありませんでした。
    高校の数Ⅱを学習するような段階に至っても、このような「計算メモ」を答案だと思っている子は、ときどきいます。
    私の知る限りでは、中高一貫校の、しかも、男子生徒ばかりでした。
    個別指導をしている私が知る限りで今までに、4人・・・。
    世間には、もっとたくさん存在するかもしれません。

    このような「計算メモ」の内容自体、大きな課題ですが、もう1つ気になったのは、これが、ミミズがのたくるように波打って書かれていることでした。
    そして、そのノートは、小学生向けの「学習帳」でした。
    1センチ四方の水色のマス目が描かれた学習帳で、高校数学を解いています。
    そして、そのマス目を無視して、数式が波打っているのでした。

    「小学生向けの学習帳を使っているのは、中学受験の勉強をしていたときにまとめ買いしたノートが、まだ余っているということですか?」
    「そうです」
    「それで、そのノートの広いマス目が使いにくいわけですか?」
    「そうです」
    「マス目の縦の線は確かに邪魔ですが、横だけを罫線として使用すれば、そんなに使いにくいことはないと思いますが・・・」
    「・・・」

    縦線は無視して横線だけを罫線として使用することが、頭の中で上手くできず、結果、横線も無視して、全体に波打ってぐちゃぐちゃになってしまうようでした。
    マス目のノートは、中学・高校の数学では、確かに使いにくいです。
    上手く使える子もいますが、その子は使えないのでした。
    でも、学習帳が家に余っている。
    さすがに学校では使えないけれど、塾のノートなんか何でもいいから、塾で使うことにしているのでしょう。

    思い返すと、中高生なのに学習帳を使っていた子は、記憶の中で何人かいて、いずれも中学受験をした子でした。
    学校では使えないから、家庭学習に使う。
    そういうことで、学習帳を個別指導塾に持ってくるのだと思います。
    それが、中2になっても中3になっても、高1になってもなくならない・・・。
    どれだけ大量買いをしたのだろう・・・。
    ノート大量買いは、中学受験のトレンドなのでしょうか・・・。

    余った学習帳の使用が、必ず学力に影響するというわけではありません。
    学習帳の縦線を無視して横線だけを罫線として使用できる子のほうが多いです。
    それで特に問題なく数学の答案を書いていけるのなら、中学進学後も家庭学習には学習帳を使って構わないと思います。
    しかし、縦線がどうしても脳に影響して、上手く答案を書けない子もいます。
    視覚的なことに少しだけ得意不得意のある子なのだと思います。

    思い返せば、その子は、三角錐の見取り図を描けない子でした。
    描き方がわからず、三角錐の見取り図を描くことができなかったのです。
    三角形は、底辺を水平に描くもの。
    そういう思い込みが強いため、三角錐の側面の三角形を上手く描くことができず、結果、歪んだ不気味な図しか描けませんでした。
    それは、練習することにより、克服できました。

    そうした、縦・横・斜めの直線の感覚に対して多少の偏りのある子に、中学入学後もマス目の学習帳を数学で使用させるのは、苦痛が大きいのかもしれません。
    常に、何かを我慢しながら数学の勉強をしていることになります。
    ストレスが強いです。
    そうでなくてもあまり得意ではない数学で、さらにストレスの強い学習を常に行っている。
    やめたほうがいいでしょう。

    数学の学習で推奨するのは、中学生の間は、やはり大学ノートです。
    分数の計算をすることも多いので、罫線の幅は広い「A」のほうがいいですが、分数のときには2本分使うことに決めているのなら、いっそ罫線の狭い「B」のノートでもいいでしょう。
    数式を横にまっすぐに書けるようになったら、白ノートもいいと思います。
    高校数学になると、式は分数だらけなので、横罫も邪魔になっていきます。
    数列のシグマ、積分のインテグラルや、極限のリミットを記入していくのに、横罫は基本的に邪魔です。
    ただし、横にまっすぐに書いていかないと、数式は波打ち、ミスの原因となります。
    また、字のサイズをコントロールできず、だんだん字が大きくなってしまう子もいます。
    粒の揃った字を横にまっすぐに書いていけること。
    数学の答案を書くための基本技術の1つです。

    ルーズリーフに憧れる中学生は多いですし、管理できるのならば別に止めませんが、通しナンバーを打っていくか、あるいは、紙が変わるごとに、何のテキストの何ページの何番を解いているのかを確実に書いていけるようでないと、あとでグチャグチャになります。
    ルーズリーフに宿題を解いてきた子が、答え合わせをしようとすると、どこに解いたのかわからず、ルーズリーフの整理に何分もかかる、というのはよくある話です。
    大人ならば当たり前にできることでも、中学生・高校生にはまだ無理なことが沢山あります。
    身体的には成長し、家庭内のルーティンばかりの生活の中では言動がしっかりしているように見えるので、家族は「この子はもう大人だ」と誤解しがちですが、事務的なことはほとんどできない子も多いのです。
    それも経験、ということでやらせているのなら構わないのですが。


    しかし、上の答案は、そうした「ノートが悪い」というだけではない課題も感じるものでした。
    もう一度、見てみましょう。


     x+4      -   x-8
    (x+2)(x-2)     (x-2)(x-6)


    x-^2-2x-24-x^2-6x-16

     -8x-40
    (x+2)(x-2)(x-6)

    まず、与式の分母を因数分解することは理解しているのです。
    この分数式は、そのまま互いの分母をかけて通分するのでは、次数が高くなり、計算が煩雑になります。
    因数分解することにより、共通因数を見つければ、次数はできるだけ低くして通分することが可能です。
    そうして、1番目の分数式の分母は(x+2)(x-2)、2番目の分数式の分母は、(x-2)(x-6)と因数分解した。
    そこまではわかります。
    与式を書き写していないこと、イコールをつけていないことは気になりますが・・・。

    問題は、次の行です。
    これは、何をしているのでしょう?
    ここで計算ミスをしているので、何をしているのか他人にはよくわからないですし、本人に解説を求めても、こういう答案を書く子は、自分で書いた答案を後になって自分で説明することもほぼできないのですが、おそらく、これは、分子だけを書いているのだと想像されます。
    そして、通分した結果の分子を、しかも( )をつけた形ではなく、展開しながら書いているのだと思います。
    そんなことをすれば、計算ミスをする可能性は極めて高いのですが。

    分母を(x+2)(x-2)(x-6)という形に通分したのであれば、1番目の分数式の分子には、(x-6)を、2番目の分数式の分子には、(x+2)をかけることになります。
    同じ分母を何回も書くのはうんざりだというのであれば、
    ここで、(分子)=・・・
    という書き方も可能です。
    すなわち、
    ここで、(分子)=(x+4)(x-6)-(x-8)(x+2)
    =x^2-2x-24-x^2+6x+16
    =4x-8
    =4(x-2)

    と、最低限これくらいのことは書いたほうが自分も見やすく、さっさと書いていけば頭の中でうんうんうなりながら暗算するよりもむしろ速いのです。

    よって、
    (与式)=4(x-2) /  (x+2)(x-2)(x-6)
    =4 / (x+2)(x-6)

    という正解に至るまで、3分とかからないはずですが、暗算する子は、下手をすると10分くらいかかりますし、そのうえで、計算ミスをしてしまう可能性が高いです。
    書いたほうが速いのです。

    ところが、この「書いたほうが速い」を実感できない子は多いです。
    本人の実感とは違うので、どれだけ助言されても、受け入れない。
    心の奥に深く染み入って、その助言に従おうということには、ならない。
    次のときは、また暗算してしまいます。
    反抗心でやっているのではなく、単純に、忘れてしまうようです。

    繰り返しますが、上のような答案を書いてしまう子は、私の知る限り、中高一貫校の男子生徒ばかりでした。
    公立中学出身の生徒で、そういう子を見たことはありません。
    勿論、私の知る範囲のことなので、存在するのかもしれません。
    低学力で、しかもそれが貧困や教育放棄に由来するものである場合は、塾に通うこともなく、だから私が見ることもない、ということはあり得ることです。
    しかし、少なくとも大人の言っていることが理解できる子で、高校入試を多少は意識している公立中学の生徒の場合は、中学の数学の先生が教えることには絶対服従の子が今は多いのです。
    過剰なほどに。
    「先生に目をつけられたら、内申が低くなり、高校入試に影響する」
    と過度に恐れているのです。
    学校の先生が、
    「このように答案は書いていきなさい。このように書いていない答案は0点です」
    と授業中に一言言うだけで、成績を多少は意識している子たちは、全員、途中式を丁寧に書いていくようになります。

    公立中学のそういうところが嫌で、中高一貫校を受けた。
    そのように言う保護者の方は多いでしょう。
    中学の3年間、内申だけを気にして、学校の先生にこびへつらっていかなければならないような生活はさせたくない。
    だから、中高一貫校を受けたのだ。

    それも1つの考えだと思いますが、内申を恐れての絶対服従が、逆に、正しい数学の答案を書いていくことにつながっているのだとすれば、皮肉な話です。
    中堅私立の中高一貫校に通う生徒が、のびのびと、
    「うちの数学の先生、おかしいんですよ。答案はこう書けとか、いちいちうるさくて」
    などと、陽気に不満を言うので、何ごとかと思えば、それは、ごく普通に数学答案として要求されていることだというのはよくある話です。
    「数学の答案として、それは普通のことですよ」
    と私が説明しても、えー、とさらに不満顔だったりします。
    私立の子は確かにのびのびしています。
    のびのびと、頓珍漢な「答案」を書き続けてしまうことがあるのです。
    基礎を学んでいる段階では、正しい形式、スポーツでいうフォームを学ぶことが大切であるのに、その段階で自我が優先され、型を学び損ねてしまうことがあります。

    不満はあっても、学校の先生の指示通りの答案を書いていける子は、数学のできる子です。
    高校数学に進めば、そのような答案を作成していかなければならない理由も徐々に理解していきます。
    自分の書いた省略だらけの答案が、1週間も経てば、自分でもどうやって解いたのか、意味がわからない。
    それでは、採点する先生に意味が通じるわけがない・・・。
    意味の通じない答案では部分点すらもらえないのは、当たり前です。

    しかし、要求されていることの意味がよくわからず、一方、内申に対するプレッシャーもないので、のびのびと暗算ミスばかりの計算メモを答案のつもりで書き続けていく子もいます。
    この子は、公立中学に通えば、少なくともこうはならなかったろうなあと思うことがあります。


    なぜ男子生徒ばかりで女子生徒でこうした子に出会うことがないのか?

    それも、たまたまなのかもしれませんが、文字を書いていくことについて、女子は男子ほどには抵抗感がないのが1つの原因かもしれません。
    暗算するより、丁寧に書いていきたい。
    そのような志向の子が女子には多いように思うのです。
    今は、女子も字の汚い子が多いですが、それでも、書くことそのものが嫌いという子は、男子ほどは多くないように思います。

    男子生徒の中には、「暗算するより書いたほうが速い」が通じない子がいるのです。
    文字を書くことに、余程の抵抗があるのでしょうか。
    不器用で、字を書くことそのものが上手くできないし、苦手だ。
    上のように、学習帳に縦線が入っているだけで混乱して、横線と平行に文字を書いていくことにも困難があるようですと、文字を書くことにはさらに苦痛があるかもしれません。
    できるだけ、書く文字数は少なくしたい。
    そのために暗算している。
    自分の暗算力を過信しているわけではなく、文字を書くのがただ嫌なだけということもあるのかと思います。

    手書き入力した文字が画面上でたちまちきれいな数式に変わるデバイスを、生徒全員が持つような時代になれば、また状況は変わるのでしょうか?
    しかし、タブレット画面は画角に限界があり、数学答案の始まりから終わりまでを俯瞰するのが難しいので、数学答案は手書きのほうが利点が多いように思います。
    やはり、手で文字を書いていくことに苦痛のないように育つことが、学力を高める1つの条件のように思うのです。


      


  • Posted by セギ at 16:08Comments(0)算数・数学

    2023年05月04日

    高校生の学習上の課題。


    長年、小学生から高校生までを教えていますが、高校生を教えるのは、小学生や中学生を教えるのとはまた別の難しさを感じます。

    高校入試と比較すると、大学入試は多岐に渡っていて、指導する側が焦点を絞りにくいのが、1つの原因です。
    どのような大学受験を考えているのか。
    高校の成績を高く維持して、学校推薦か総合型選抜で大学を受けるのか。
    それとも、国立大学を一般受験するのか。
    あるいは、私立大学を一般受験するのか。
    早めに志望を確定してくれれば、早めにそれに合わせて対策をしていけるのですが、高校2年生の秋頃になってようやく確かな答えをもらえることも多いです。

    結局、本人も、わからないのかもしれません。
    だから、
    「とりあえず学校に進度を合わせて、定期テストの勉強をきちんとやっていきたいです」
    といった返事しかもらえないことがありますが、これは少々危険です。

    定期テストは、範囲のある勉強。
    しかし、テスト範囲の内容しか覚えず、テストが終われば、すぐ忘れる子がいます。
    驚くべき短期記憶。

    しかも、本当にテスト範囲の勉強をしっかりやってくれるのならまだいいのですが、あまり余計な勉強をしたくない言い訳に「学校に進度を合わせて定期テストの勉強をしたい」を使っている子の場合、結局、テスト範囲の勉強も甘いことがあります。

    例えば、英語。
    多くの高校は、英語コミュニケーションという教科で、教科書とは別に単語集が配布され、週に1度、授業時間内に単語の小テストが行われます。
    そして、その小テスト範囲全部が、定期テストの範囲になる学校が多いのです。
    週に1度の単語テストでもやっつけ仕事的に、ギリギリでどうにか覚えている子は、定期テストの単語の範囲を実にあっさりと捨てます。
    何百という単語のテスト範囲の広さに、諦めてしまうんです。
    あるいは、「小テストのときに1度覚えたから大丈夫」という謎の自信を持つ子もいます。
    子どもの中には、そういう意味で本当に幼く、記憶ということの実態を理解していない子もいるのです。
    1度覚えたら、もう忘れないと思っているんでしょうか。
    あるいは、覚えても忘れることは知っている。
    覚えてもどうせ忘れるので、単語なんか覚えても無駄だ、と愚かなことを考える子もいます。
    要するに、単語を覚えるのが苦しくて嫌だから、そういうふうになってしまうのでしょう。

    もっと簡単に単語を覚えられる方法があるはずなのに、学校の先生も、塾の先生も、後れていて、そういうことがわかっていない。
    どうにかして、単語を簡単に覚える方法を見つけたいのに、出会えない。
    自分は不運だ。
    単語を簡単に覚える方法は、この世に絶対にあるはずなのに・・・。

    ・・・そんな夢を見ている限りは、単語は覚えられないです。
    ネットにあふれている、金もうけ目的の甘い言葉に騙されて、課金して、単語力はつかずに終わっていくばかりです。
    努力しなければダメなことに対し、努力せずに済ます方法をただ探している。
    そうしているうちに時間だけが過ぎていきます。

    英語コミュニケーションのテストの中での、単語テストの配点は、10点~20点。
    ここを捨てたら、高い得点を取ることはもう不可能です。
    テストの他の出題は、まず、教科書の本文に関する問題。
    そして、初見の長文問題を出題する高校も多いです。
    これは実力が露骨に得点に反映されます。
    単語力がついていないと、そもそも本文を読めません。
    毎日頑張って英語を勉強している子以外は、パッとしない得点になります。

    「入試は厳しそうだから」
    「受験勉強は大変そうだから」
    という理由で学校推薦を望んでも、そんな怠け者は、普段の定期テストも、結局パッとしない・・・。
    憧れの大学の学校推薦はもらえない。
    総合型選抜を受けるにも、評定平均が足りない。
    評定平均は、3年間の高校での全教科を5段階評価したものの平均であることが多いです。
    憧れの大学・学部は高い数字を要求します。

    でも、一般入試は厳しそうだから、やはり嫌だ。
    となると、どうなるか?
    自分の評定平均で合格できる大学に学校推薦または総合型選抜で受験する、という形に落ち着きます。

    それは悪いことではありません。
    現実的な良い判断だと思います。
    賢い選択です。

    しかし、ここで悪夢のような現実が立ちふさがります。
    自分の成績では、総合型選抜で合格できる大学がない・・・。
    少なくとも、行きたい大学・学部で、自分の成績で総合型選抜で合格できる大学はない・・・。
    一般入試しか道がないのです。

    その現実に、気づいてほしいのです。
    遅くとも、高校1年生のうちに。
    高校の成績の大半が「5」の子が、学校推薦や総合型選抜を目標としていることに対しては、私は全力で応援しています。
    英語だけが4だ、数学だけが4だ、何とかしたいという要望には全力で応えています。

    学校選抜や総合型選抜で大学進学をすることを考えているのであれば、定期テストその他、成績に関係のあることには、本当に本気で3年間必死に取り組んでほしいです。
    それができないのであれば、一般入試で合格できるような勉強を早い時期から始めてほしい。
    勉強を怠けたいがためのどっちつかずの立ち位置が、一番危ないのです。


    単語の話に戻ります。
    中学生の頃に覚えた単語は、教科書に何回も出てきますし、高校入試のために反復もしたので、そこそこ覚えている子は多いです。
    しかし、高1の教科書に出てくる単語は、次にもう1度出てくるのは3か月後ということも多いので、覚えていない高2は多いです。
    高3になっても同じこと。
    高校側は、それではまずいと、高1の頃から単語集を生徒に与え、それを小テストしたり、定期テストの範囲に加えたりしています。
    そうした先生たちの配慮を有効活用できない。
    小テスト対策はやっつけ仕事。
    定期テストでは単語の範囲は捨てる。
    結果、高校生になっても単語力は中3レベルのままという子も多いです。
    本人が、学校の進度に合わせて学校の教科書の勉強をしていきたいというから、それにつきあって個別指導していると、こういう英語力になってしまうことがあります。
    そして、模試を受けて、低い偏差値に衝撃を受けて、大騒ぎになってしまいます。
    本人の落ち込み方も激しいですが、親が、子どもの学力がそこまで低いことに気がついていなかったための衝撃も大きいです。
    でも、そんな学力になってしまう勉強をしているのですから、当然、そうなります。


    数学も同じことです。
    定期テストの範囲は勉強し、そこそこの点数を取っているかもしれません。
    近年、特に私立高校の定期テストの問題は易しいですし。
    でも、テストが終われば、公式も何もかも、忘れてしまいます。
    1つ覚えれば、1つ忘れる。
    何も積み上がっていきません。
    そして、模試を受けます。
    何の単元の、何の公式を使う問題なのかさえ、わからない。
    全く解けません。

    「学校の定期テスト」だけが目標になっているので、間口の狭い勉強になり、実力がついていない。
    復習もしないので、そのままです。

    こういう子に、
    「教科書以外の英文も読めるように練習しよう」
    「夏休みは、数学で、今までの総復習をしよう」
    と呼びかけても、生返事のことが多いのです。
    宿題に出しても、結局、やってきません。
    何のためにそんなことをしなくてはならないのか、わからないからでしょうか。
    大学の一般入試は受けたくないので、受験勉強的なことはしたくない。
    しかし、学校推薦や総合型選抜がどの程度の成績を要求するのか、現実が見えていない。
    目先のテスト勉強をそこそこすることで、大学受験の準備をしているような勘違いを本人はしている・・・。

    高校生になると、それぞれ、やりたいことが出てきます。
    無限に時間を喰うような趣味にはまってしまうこともあります。
    ネットでの友達づきあいに、毎日数時間を割いてしまう子もいます。
    教わることの質も量も、中学の頃とは桁違いなのに、勉強に向かう姿勢が、むしろ後退していきます。
    でも、もう頭ごなしに叱れる年齢ではないと感じるからか、親も、「本人の意志を尊重し」と言いがちです。
    実際、説得は難しい。


    高校時代は、一番勉強しなければならない時期です。
    どうか、愚直に、ひたむきに、勉強してください。
    学校の勉強も、塾の勉強も、自分で買った問題集も。
    間口の狭い勉強を「能率的」と勘違いした瞬間に、敗北への道を歩み始めてしまいます。
      


  • Posted by セギ at 13:37Comments(0)算数・数学英語

    2023年04月27日

    高校数Ⅱ外心の座標の求め方。


    今週の公園は、ギンランが見ごろでした。
    小さなバッタが花に乗り、かわいい。
    上の画像がそれです。

    さて、本日は高校数学。
    外心の座標の求め方です。

    例えば、こんな問題です。

    問題 点A(1, 5)、B(-2 , -1)、C(6 , 0)がある。
    △ABCの外心の座標を求めよ。

    数Ⅱ「図形と方程式」は、その単元名の通り、図形問題を方程式で解いていくものです。
    数Ⅱの学習内容の中では、易しい単元だと思います。
    でも、図形が苦手な子には、苦しいところかもしれません。

    図形が苦手な子は、必要なことが頭に入っていないんです。
    定理を覚えていません。
    言われれば、ああ、そんなのがあった、と思い出せるのですが、自力で思い出すことができません。
    必要なことを覚えていないので、問題を解けないのです。
    「図形センスがない」と言う前に、端的に、勉強不足、演習不足の子が多いです。
    小学生の頃から、嫌いだ苦手だと言って、演習不足なのだろうと思います。

    だから、上の問題でも、「外心」ということがぼんやりとしかイメージできません。

    「外心って何でしたっけね?」
    こういう質問を嫌い、眉をひそめるのも、図形嫌いな子の特徴かもしれません。
    でも、この問題は、根本がわかっていれば、実はとても簡単に解けるのです。

    「外心って何でしたっけ?」
    「・・・二等分・・・」
    数学となると、何を話すのもカタコトで、語尾が不明瞭な子もいます。
    自信がないのだろうと思います。
    「二等分線ですか?何の?」
    「・・・角・・・」
    「三角形の3つの内角の二等分線の交点ですか?それは内心です」
    「・・・!」

    しかし、これは「何の?」という私の誘導が悪いのです。
    何の?と問われれば、「角の」と答えたくなるのでしょう。

    外心は、三角形の3辺の垂直二等分線の交点です。

    ただ、そういう覚え方をしようとするから混乱しやすく、覚え間違えるのだろうと思います。
    もっと本質的なことを理解していたほうがいいと思うのです。

    外心は、三角形の外接円の中心です。
    まず、ここをゆるぎなく理解しておくことが重要です。

    実際に、三角形を描き、外接円を描き、その外接円の中心をOとし、三角形の3つの頂点と点Oとを結んで眺めてみると、わかりやすいのです。
    円の半径はどこでも等しいですから、OA=OB=OCです。
    △OAB、△OBC、△OCAは、どれも二等辺三角形です。
    ここで、重要な定理。
    二等辺三角形の頂角の二等分線は、底辺を垂直に二等分する。
    中学2年で「三角形」を学習したときに出てきた定理ですが、図形が苦手な子は恐ろしいくらいに覚えていない定理です。
    この定理を覚えているかどうかで、図形が得意か苦手か識別できるほどです。
    ともあれ、二等辺三角形の頂角の二等分線は、底辺を垂直に二等分します。
    頂角Oの二等分線が底辺を垂直に二等分する?
    その二等分線は、つまり、△ABCの3辺の垂直二等分線です。
    だから、外心は、三角形の3辺の垂直二等分線の交点なのです。

    もやもやしたら、実際に図を描いて考えてみてください。
    図形が苦手な子は、自分で図を描きません。
    普段から描かないから、ここぞというときに手が動きません。
    描き方がよくわからないと言います。
    そこを変えていけば、図形問題を克服できる手掛かりになります。

    問題に戻ります。
    上の、「三角形の外心は3辺の垂直二等分線の交点」ということを利用して、外心を求めてみましょう。
    まわりくどい解き方ですが、これも練習。
    やってみましょう。

    三角形の3辺の垂直二等分線は1点で交わります。
    それが外心です。
    垂直二等分線は2本あれば十分。
    その交点を求めればいいでしょう。
    3本目もそこを通りますから。
    さて、では、辺ABの垂直二等分線から求めましょう。

    直線の式はどうすれば求めることができますか?
    傾きと、その直線を通る1点の座標がわかれば求められます。

    辺ABの垂直二等分線は、どの点を通るか?
    辺ABの中点を通るでしょう。
    では、まず、中点を求めましょう。

    中点の座標の求め方も、他の何かと混ざって、勘違いしている人がいます。
    あるいは、考え方が小学生に戻ってしまうようです。

    点A(1, 5)、B(-2 , -1)、の中点。
    まずは、x座標から。
    1と-2の真ん中の値は?

    これを考えるのに、まず、1と-2との差を求めて、それを半分に割って、それを小さいほうに足して、といった、小学生みたいな考え方をひきずっている子がいます。
    その考え方と、以前に暗記したはずの中点の求め方とが混線し、2点の座標を引いて2で割ってしまう子もいますが、誤りです。
    中点は、真ん中なのですから、1と-2の平均です。
    たして、2で割ればいいのです。
    真ん中の値は、それで出てきます。

    そのようにすれば、いちいち式を立てなくても、中点の座標は暗算でさっと出てきます。
    たして2で割るだけですから。
    ABの中点は(-1/2 , 2)です。

    あとは、求める垂直二等分線の傾きがわかればいいですね。
    それには、まず、直線ABの傾きを求めましょう。
    直線の傾きは、2点の座標からすぐに求められます。
    直線の傾きは、変化の割合と等しい。
    これも、中学2年「1次関数」で学習した内容です。
    変化の割合は、yの増加量 / xの増加量で求めることができます。

    ところで、この増加量も、公式としてやり方を覚えているだけで、式を立てないと計算できない人がいますが、2点の座標を見るだけですぐに読み取れます。
    点A(1, 5)、B(-2 , -1)、ですから、
    xの増加量は、-3、yの増加量は-6。
    よって、変化の割合は、2。
    これは、読み取れるはずなのです。
    -2-1とか、-1-5といった式を立てなくても。
    あげく、そこで符号ミスをしてしまう子が数学が苦手な子には多くて、悲しくなってしまうのです。

    「x座標は、1が-2になっているんだから、増加量は-3だよね?わかる?」
    「・・・」
    「y座標は、5が-1になったんだから、増加量は-6です」
    「・・・そういうの、わからない・・・」
    「・・・」

    この子は、いったいいつ頃から、作業手順を丸暗記するだけになり、意味を理解しなくなったのだろう・・・。
    おそらく、中1の始め、「正負の数」の数直線を読み取る段階で、もう理解できなくなっている・・・。
    それは、それより以前の小学校の算数の段階で、もう意味を理解しなくなっていたからだろう・・・。
    どうしても無理だという子には、では、変化した後の座標から、変化する前の座標を「引く」のだということ、決して符号を省略しないことを強調して、先に進みます。

    ともかく、直線ABの傾きは2。
    これでうっかり、垂直二等分線の傾きを2としてしまうミスもあります。
    直線ABの傾きが2なのです。
    では、それと垂直に交わる直線の傾きは、-1/2 です。
    垂直に交わる2直線の傾きの積は、-1だからです。

    しかし、学校で学習済みのことなのに、こうしたことに戸惑い、固まってしまう子もいます。
    作業手順を丸暗記する学習の仕方を小学生の頃から続けてきたわりに、突然、こういうことを言われると、なぜそうなのかわからず、その抵抗感で凝固してしまうようなのです。

    垂直に交わる2直線の傾きの積は、なぜ-1なのか?

    しかし、こうしたことの証明は、数学が苦手でその抵抗感で凝固してしまう子が、
    「わあ、そういうことなんだ!よくわかった!」
    と瞳を輝かせるような種類の証明ではありません。
    文字ばかりの式が続き、証明されたのか、されなかったのか、本人にはよくわからず、感動も何もないことのほうが多いです。
    高校数学で使用する定理の大半がそうである、と言えるかもしれません。
    定理の証明は、時間ばかりかかって、感動はなく、モヤモヤが残るだけなので、週1回90分の授業時間内であまり扱いたくないのが本音です。

    意味を無視して丸暗記を繰り返してきた子が、なぜ、こういうところで突然意味を求めるのか・・・。
    定理の理解は、学校でやってきてくれると正直ありがたい・・・。
    そうした定理をどう使うのか、どうやって問題を分析して解くのか、塾では、そこに力を入れたい・・・。

    それでも、ここで説明しないと、先に進めないのだろうなあ・・・。
    授業進度を気にしながらも、説明することになります。

    垂直な2直線の傾きの積は、なぜ-1なのか?

    説明しましょう。
    直線y=ax+bと、直線y=cx+dが、垂直に交わっているとします。
    それぞれを、原点を通るように平行移動させましょう。
    直線y=axと、直線y=cxも垂直です。
    直線y=axは、点D(1 , a)を通ります。
    直線y=cxは、点E(1 , c)を通ります。
    そしてこの2直線は、原点で交わります。
    今、原点O、点D(1 , a)、E(1 , c)の3点を結んで三角形ODEを作ります。
    2直線は垂直に交わっているのですから、この三角形は直角三角形で、三平方の定理が成り立ちます。
    よって、OD^2+OE^2=DE^2
    ここで、2点間の距離を求める公式を用いましょう。
    1^2+a^2+1^2+c^2=(1-1)2+(c-a)2
    a^2+c^2+2=c^2-2ac+a^2
    よって、-2ac=2
    ac=-1

    こんな証明を面白いと感じるのは、もともと数学が好きな人だけです。
    説明しても、案の定、生徒は微妙な表情を浮かべてしまうのが普通です。
    証明するために用いる考え方や別の定理がわからない、ということも多いです。
    例えば、平行移動しても2直線は垂直のままであるということがわからない。
    あるいは、2点間の距離の求め方がわからない・・・。

    「何かわからないところはありますか?」
    「・・・ありません」
    「では、垂直な2直線の傾きの積は-1ということで、いいですか」
    「いいです・・・」

    ・・・今、諦めましたね?
    そう思うことは多いです。
    数学は積み上げ科目。
    掘り下げれば掘り下げるほど、わからないことは増えていきます。
    それを解決するには、数学的な基礎力が必要です。
    でも、定期テストのために解き方を丸暗記し、翌日には忘れてしまっているような勉強を何年も続けてきた子の場合、その基礎力がないのです。

    でも、疑問を持つことは大切です。
    自分は疑問の答を理解するための基礎知識もないのだと自覚することも、次のステップだと思います。
    疑問は捨てない。
    でも、あまり突き詰めない。
    あまり必死になりすぎると、逆に、
    「自分はもうダメだ。数学なんてわからないんだ」
    と思って、全部捨ててしまうことになってしまいかねません。
    わからなかったら、ここは、
    「何かよくわからなかったけど、証明できるらしいので、垂直な2直線の傾きの積は-1ということで今はいいや」
    と思うのも、1つの知恵だと思います。
    数学の問題を自力で解けるようになってくれば、こうした式ばかりの証明も少し面白く感じるようになりますから。


    問題に戻ります。
    2直線が垂直に交わっているとき、傾きの積は-1。
    今、直線ABの傾きが2ですから、求める垂直二等分線の傾きは、-1/2 です。
    つまり、求めたかった垂直二等分線は、(-1/2 , 2)を通り、傾きが-1/2 の直線。
    y-2=-1/2(x+1/2)

    ・・・これがわからない、という場合は、直線の式の求め方の復習をしてください。
    その後、上の式を整理すると、
    y=-1/2x+7/4 ・・・①

    さて、垂直二等分線は、もう1本求める必要があります。
    次に、直線BCの垂直二等分線を求めましょう。
    BCの中点の座標は(2 ,-1/2)、
    直線BCの傾きは1/8だから、
    求める垂直二等分線の傾きは、-8。
    よって、求める直線の式は、
    y+1/2=-8(x-2)
    これを整理すると、
    y=-8x+31/2 ・・・②

    直線①と②の交点が、求める外心です。
    ①、②を連立して、
    -1/2x+7/4=-8x+31/2
    これを解いて、
    x=11/6

    これを①に代入して、
    y=5/6

    よって求める外心の座標は(11/6 , 5/6) です。


    あー、大変だった・・・。
    こんな面倒くさい解き方しかないものですかね?

    数Ⅱ「図形と方程式」という単元は、直線の学習が終わると、円の方程式の学習に進みます。
    そのとき、再びこうした問題を解くことになります。
    上の問題は、円の方程式を利用して解くことも可能です。

    もう一度問題を見てみましょう。
    問題 点A(1, 5)、B(-2 , -1)、C(6 , 0)がある。
    △ABCの外心の座標を求めよ。

    前にも書きましたが、外心というのは三角形の外接円の中心です。
    では、その外接円の方程式を求めれば、その円の中心の座標も求めることができます。

    円の方程式がわからないという人は、まず基本を復習してから以下を読んでください。

    3点の座標から円の方程式を求めるには、円の方程式を展開した形を用います。
    △ABCの外接円の方程式を、x^2+y^2+ax+by+c=0 とおくと、
    点A(1, 5)を通ることから、
    1+25+a+5b+c=0
    整理すると、a+5b+c=-26 ・・・①
    同様に、点B(-2 , -1)を通ることより、
    -2a-b+c=-5 ・・・②
    点C(6 , 0)を通ることより、
    6a+c=-36 ・・・③

    この3本の式を連立して解くと、
    a=-11/3
    b=-5/3
    c=-14

    まだ答ではありません。
    よって、外接円の方程式は、
    x^2+y^2-11/3x-5/3y-14=0

    円の中心の座標がわかるように、この式を平方完成して整理します。
    (x-11/6)2+(y-5/6)2=14+121/36+25/36
    よって、外心の座標は、(11/6 , 5/6)


    計算過程は省略しました。
    しかし、この計算過程が厄介で、途中で計算ミスをする子が続出します。
    そもそも、3元1次方程式で正答を出したことなど一度もないという強者もいます。
    あれこれと本人なりに工夫して計算しやすくしようとして考え込み、ためらい、結局符号ミスをしてしまう人もいます。


    それにしても、外心の座標というのは、こんな面倒な計算をしなければ求められないものでしょうか。
    垂直二等分線を求める練習、円の方程式を求める練習として解く場合は、それは計算練習だからそれでいいのですが、そういう課題がなく、ポンとこの問題が出されたのであれば、もっと簡単な解き方があります。


    外心というのは、その三角形の外接円の中心。
    前のほうでも書きましたが、円の半径は等しいので、OA=OB=OCです。
    OA、OB、OCは、どれも0より大きい値ですから、各辺を2乗して、
    OA^2=OB^2=OC^2
    これは、2点間の距離の求め方で求めることが可能です。

    上の垂直な2直線の傾きの積が-1であることの証明でも用いましたが、2点間の距離の求め方は、中3の「三平方の定理」で学習している内容です。
    座標平面上で2点を結び、その線分を斜辺とし、底辺と対辺はそれぞれx軸、y軸と平行な線分をひいて、直角三角形を作ることから斜辺の長さを求める方法です。
    底辺の長さは、2点のx座標の差、対辺は、2点のy座標の差となります。
    それを三平方の定理にあてはめます。
    2点(x1,y1) , (x2,y2)間の距離の2乗は、
    (x1-x2)2+(y1-y2)2 です。

    ということは、上の問題では、OA^2=OB^2=OC^2
    外心の座標を(x,y)とおくと、
    (x-1)2+(y-5)2=(x+2)2+(y+1)2=(x-6)2+y^2

    これを解いて、
    x=11/6
    y=5/6

    よって求める外心の座標は(11/6 , 5/6) です。

    うん。
    この解き方が一番簡単ですね。
    この先の「軌跡と方程式」でもこの考え方を使う問題は多いです。
    外心ということの意味を理解していれば、このように簡単に求めることが可能です。

      


  • Posted by セギ at 12:18Comments(0)算数・数学

    2023年04月19日

    勉強しやすい時代になりました。


    公園に、ギンランが咲き始めました。
    上の画像がそれです。

    さて、今回は、高校が新課程になって、非常に勉強しやすくなったという話です。

    この春から、高校2年生も新課程。
    そこで、英語コミュニケーションの教科書ガイドを探しに書店に行ってきました。
    教科書ガイドは、教科書本文が全文掲載されているものなら購入することにしています。
    そうではない場合やそもそも教科書ガイドが発売されていない場合は、生徒から教科書を1週間借りてコピーさせてもらう、ということはさすがにできないので、スマホで教科書本文を撮影して使用します。
    そうして、私が全訳し、重要文に下線を引き、暗唱してもらいます。

    書店で、教科書ガイドを見て驚きました。
    新課程の英語コミュニケーションの教科書ガイドは、教科書全文を意味のまとまりごとにスラッシュで区切り、その下に全訳がついていました。
    昔の「読んで訳して、読んで訳して」のリーダーの授業だったら、これで予習の必要がなくなります。
    ありえないほど親切な教科書ガイドになっていました。
    中学生向けの教科書ガイドは全訳がついているのが当たり前でしたが、高校生向けの教科書ガイドで全訳がついているものを今まで見たことがありませんでした。

    これは、新課程になり、学校の英語学習の方向が変わったからなのです。
    読んで訳すことが学習の第一義ではありません。
    ですから、高校の先生が教科書の全訳プリントを渡してくれる学校も今は多いのです。
    教科書ガイドが全訳を載せていることは、学校の授業妨害でもなければ、生徒の学習の機会の損失でもないのです。
    これでこそ、英語学習がはかどるというもの。

    ただし、です。
    これは以前も書きましたが、新しい英語学習の本質をつかめていない子も多いのです。
    全訳を学校でもらえることに安心しきってしまうのです。
    日本語を見て意味がわかったから、自分はその英文を理解した、と誤解してしまうようです。
    学校で学習済みの教科書本文を、
    「では、教科書の英文を日本語に直してみて。英語の順番のままで。意味のまとまりごとでいいですよ」
    そのように指示して、生徒に訳してもらおうとすると、絶句し、何も訳せない子が、新課程の子の中にいます。
    新出単語の意味も、重要表現の意味も、理解していない・・・。
    表面をふわっとなでているだけなのにわかったつもりでいる学習をしているのです。
    無論、重要文を日本語から英文に戻す暗唱もしっかり宿題にしないとやってきません。
    テスト前にやればいいと思っているようですが、テスト前になれば、テスト範囲の広さに投げだしてしまう可能性のほうが高いのです。
    全訳を眺めて、内容は理解したから大丈夫と言い訳してしまうのが関の山かもしれません。

    そもそも、英語を英語のまま理解するというのは崇高な理想ですが、私たちは日本人です。
    日本語に直せない英文は、本当に理解していることになるのでしょうか?
    私は英文を読むとき、いちいち日本語に直しませんが、直せと言われたら、すぐに日本語に直せます。
    それが、英語が理解できているということだと思うのです。

    全訳の載っている教科書ガイド。
    あるいは、学校の先生がくれた、全訳プリント。
    そんな最高の教材があるからこそ、教科書本文を自力で日本語に直したり、逆に、全訳から英文を復元する練習をすることが可能です。
    昔は、そういう練習をするために、まず自分でノートを作らねばなりませんでした。
    そのノート作りに、英語学習の時間の大半を奪われる結果にもなっていました。
    今は、そこを省略して次の段階にすぐ進めるのです。

    さらに言えば、新課程は、高校の教科書もQRコードで本文の音声を聴くことができます。
    高校教科書の音声副教材というものは、以前は存在しませんでした。
    それが聴き放題です。
    しかし、なぜか、活用している子は少ないように感じます。
    いや、それは私の目の前にいる生徒たちが活用していないだけで、日本中を見渡せば、活用している子たちが沢山いるのでしょう。
    これまで、家庭の事情で英語学習の機会が少なかった子たちにとって、無料で、あるいは極めて小さな費用で、豊かな英語学習が可能なのです。
    私なら使い倒します。
    教科書音声にあわせて音読。
    それから、シャドーイング。
    何度も何度もやります。
    どれほど英語力が上がることか。
    そこから這い上がってくる子は、きっと多い。
    目の前に最高の教材があるのに、使おうともせずぼんやりしている子たちもいる一方で。


    さらに、高校の数学教材のコーナーに移動し、棚を見ました。
    高校2年生が新課程に突入したので、青チャート数ⅡBも、新課程版が発売されているかな?

    ・・・ありました、ありました!
    そして、数ⅠAと同様、例題全問の解説動画を無料で見られるようになっています。

    旧課程でも、例題の解説動画は存在したのですが、無料で見られるのはそのうちの数問で、あとは有料でした。
    青チャート本体よりも高い価格で解説動画を販売していたのです。
    高い・・・。
    とはいえ、無料版を見る限りですが、この解説動画、とてもいいものでした。
    素人ユーチューバーがアクセス稼ぎ目当てにやっている数学動画は、早口で聞きづらかったり、間違っていたりして、あぶなっかしい。
    扱う問題も簡単すぎます。
    青チャートの動画は、青チャート学習者のレベルにあっていて、明瞭簡潔です。
    テストによく出る応用問題の典型題も解説されています。
    これなら、基礎力のある子なら、数学の自学自習が可能です。

    自学が可能だなんて、塾経営の危機ではないのか?

    いや、そうでもありません。
    高校生に数学を指導していて困難を感じるのは、宿題を出しても、全問不正解か白紙である場合があることです。
    そもそも学校の授業が理解できない。
    学校の問題集は、解答解説がついていても自力では理解できない。
    そういう課題を抱えている子は多いです。
    それでいて、
    「個別指導だから、わからないことは全部教えてもらえる」
    と生徒は思っているようです。
    1週間に90分の授業で、宿題がほぼ白紙では、次に進めません。
    宿題解説だけで授業は終わり、学校でもう学習しているのだからと次のページを宿題に出しても、やはり、全問不正解・・・。
    その状態が続いても、
    「個別指導だから、わからないことは全部教えてもらえる」
    「わからないことは、塾で勉強すればいい」
    という信念はなぜか揺らぐことなく、むしろ、独りで学習していたときよりも家庭学習の時間が減ってしまう高校生がいます。
    そのほうが、楽だからなのかもしれません。
    そういう子は、授業動画は見ないのです。
    見てもわからないと言います。
    やはり、個別指導が必要なのです。
    数学への取り組み方や意識を変えることも含めての個別指導が。

    数学がわからないのは、授業動画で全面解決。
    というわけにいかないのは、英語の教科書ガイドと同じです。
    結局、使い方なのです。
    授業動画は、青チャートこそ有料だったものの、旧課程の子でも、学校全体で加入していたり、個人で加入していたりして、実は、別の有料の授業動画を視聴可能な環境にいる高校生は多かったのです。
    そのわりに、活用していませんでした。
    学校の問題集も、塾の宿題も、わからなかったら類題の解説動画を探して自分で解決したらいいのに、そういうことをしない。
    学習姿勢が受け身で、活用しないのです。
    あるいは、類題の解説を上手く見つけられないのかもしれません。
    類題のどういうところが類題なのか。
    その分析ができるのは、ある程度数学がわかっている子たちです。
    個別指導しなければならない子は、変わらず多いです。
    むしろ、そうした子たちに、動画や音声の使い方を指導することで、授業をより効率的なものに変えていくことがこれからの個別指導の課題かもしれません。

    さらに、一点。
    大人の人で、高校数学をもう1度勉強したいと考えている人には、テキストと授業動画がセットになっている教材は使いやすいと思います。
    これは、朗報です。

    教科書ガイドと青チャートを購入し、ほくほくして私は教室に向かいました。


      


  • Posted by セギ at 13:48Comments(0)算数・数学英語

    2023年03月26日

    高校数学がわからない理由の1つには。


    計算力は算数・数学の基盤。
    そのように考えてお子さんを計算力強化に良いと言われている子ども向けの教室に通わせたり、珠算教室に通わせたりする保護者の方は多いと思います。
    その努力が無駄だとは思わないのです。
    確かに、そのおかげで、小学校の算数は得意だったし、受験算数も乗り越えた。
    中学数学も何とかなった。
    しかし、高校数学に入った頃から、数学の成績が下がり始め、何だかよくわからなくなってきた・・・。
    そういう人は多いです。

    小学生の頃の計算力の強化は、単純なたし算・ひき算・かけ算・わり算の計算力の強化であることが多いです。
    そして、それだけではどうにもならない壁が、数学になると立ちふさがります。

    例えば、こんな問題です。

    問題 △ABCにおいて、a=√6、b=2、c=1+√3のとき、∠Bの大きさを求めよ。

    前回のブログでも類題を解説しましたが、これは高校数Ⅰ「三角比」の基本問題です。
    しかし、基本問題なのに正解を出せない子が続出する問題です。

    まず、模範解答から見てみましょう。

    余弦定理により
    cosB
    =(1+√3)^2+(√6)^2-2^2 / (1+√3)・2√6
    =6+2√3 / 2√6(1+√3)
    =2√3(1+√3) / 2√6(1+√3)
    =1 / √2
    よって、∠B=45°

    問題集の解答解説に載っている、この模範解答の意味がわからない・・・。
    自分で地道に解いた答と最終解答が同じならばまだましですが、計算ミスをしているのか、違う答が出ている・・・。
    でも、模範解答の解き方は、わからない・・・。

    高校数学になると、問題集の解答と自分の計算力のレベルが合わず、勉強が先に進まないということが起こります。
    そして、それは、子どもの頃に沢山計算練習をしたから大丈夫、ということでもない気がするのです。

    上の模範解答の意味がわからない件について。
    それは、前回のブログで解説しましたが、まず、余弦定理というと、
    b^2=c^2+a^2-2ca・cos B
    という、基本の公式しか覚えていないために、上のようにコサインの値をいきなり求める式の意味がわからない場合があります。
    第一関門で既に停滞するパターンです。
    よく使う公式は、全部覚えておかないと、そういうことになります。

    次に第二関門。
    コサインの値を直接求める公式は、覚えていたとして。
    あるいは、覚えてはいなかったけれど、そういう式があることは何となく知っていたので、その式なのだろうと解説を読めば理解できる。
    ところが、途中の計算がわからない・・・という場合があります。
    上の式で詳しく見ていきましょう。

    cosB
    =(1+√3)^2+(√6)^2-2^2 / 2√6(1+√3)
    =1+2√3+3+6-4 / 2√6(1+√3)
    =6+2√3 / 2√6(1+√3)

    ここまではわかるのです。
    その先です。

    =2√3(1+√3) / 2√6(1+√3)

    分子がいきなり、このようにくくられている意味がわからない・・・。
    この計算方法は、とてもスマートなんですね。
    まず、約分できる可能性を期待して、分母を展開していないのが賢い。
    そして、約分できるように分子を分母にあわせているのです。

    詳しく書くのならば、
    =6+2√3 / 2√6(1+√3)
    の分子の順番をまずは変えて、
    =2√3+6 / 2√6(1+√3)
    そこで、分母の1+√3で約分できないか、考えているのです。
    わかりやすいようにまずは分子を2でくくってみます。
    =2(√3+3) / 2√6(1+√3)
    次に、√3でくくります。
    =2√3(1+√3) / 2√6(1+√3)
    分子と分母の( )の中が同じになりました。
    ここで、分母分子を1+√3で約分して、
    =2√3 / 2√6
    さらに、分母分子を2√3で約分して、
    =1 / √2
    よって、∠B=45°
    と答を出しています。

    つまり、この解き方を理解するためには、分数は、平方根で約分できることなど、中学以降の数学がしっかり定着していて活用できることが重要です。
    小学校の頃にいくら計算練習をしても、中学数学の理解が不十分だと、この解き方はできないのです。

    具体的にどういうことかというと。
    平方根の理解が表面的で、あまり意味がわかっていない人がいます。
    √3×√3=√9=3
    という過程を踏まないと答が出ない子に特徴的です。
    平方根の定義から考えれば、
    √3×√3=3
    と、直接答が出るのですが、√9 という過程を踏んでから、それを整数に直すということしかできないのです。
    意味がわかっていないから、こういうことになります。
    手順しか追っていないのです。

    √3×√3=3
    がすんなり理解できていないと、3を√3で約分する、ということができません。
    すなわち、
    3=√3×√3
    です。
    3を√3で割れば、√3になる。
    そうしたことが、スムーズに頭の中で行えれば、整数3を√3で約分した結果が√3になることの理解もスムーズです。
    そうであれば、上の模範解答の、

    =6+2√3 / 2√6(1+√3)
    =2√3(1+√3) / 2√6(1+√3)
    =1 / √2
    よって、∠B=45°

    も理解できます。


    とはいえ、何もこんなにスマートに解かなければならないということはありません。
    計算ミスさえしなければ、地道に解いても構いません。
    上の問題を地道に解いてみましょう。

    cosB
    =(√6)^2+(1+√3)^2-2^2 / 2√6(1+√3)
    =6+1+2√3+3-4 / 2√6+6√2
    =6+2√3 / 2√6+6√2
    まず、分母分子を2で約分して、
    =3+√3 / √6+3√2
    分母に平方根があるので、分母の有理化を行いましょう。
    (a+b)(a-b)=a^2-b^2 
    という因数分解の公式を利用して、分母を有理化します。
    分母分子に√6-3√2をかけて、
    =(3+√3)(√6-3√2) / (√6+3√2)(√6-3√2)
    =3√6-9√2+3√2-3√6 / 6-18
    =-6√2 / -12
    分母分子を-6で約分して、
    =√2 / 2

    ところが、ここまで正しく計算できても、その後詰まってしまう子もいます。
    ・・・この先どうしたらいいんだろう・・・。
    ここから、どうやって∠Bの大きさを出すんだろう・・・。
    ここまで頑張って正しい計算をしたのに、そう悩んでしまう子もいます。
    1/√2 と、√2/2 が、同じ値であることに気づかないので、
    ∠B=45°
    だとわからない子もいるのです。
    これも、平方根に対する理解が不十分であることからくるものです。

    平方根を学習するのは、公立中学ならば中3、私立中学ならば中2です。
    小学生の頃に、計算に特化した塾に通ったり珠算教室に通ったりして、計算は得意だったはずの子が、高校数学の計算が何だかたどたどしくて時間がかかりミスも多い原因の1つは、この平方根の計算に習熟していないことにあります。

    だからといって、小学生の計算トレーニングが無駄だというわけではありません。
    ただ、全部手順で済ませてしまっているのではなく、意味を理解して計算しているかどうか、です。
    5×5=25
    を覚えているかどうかだけでなく、
    25=5×5
    を把握しているかどうか。

    あるいは、例えば、
    75=3×5×5
    を瞬時に発想できるのか、素因数分解の筆算を地道にやらないとできないのか。
    こうしたことが、平方根の計算には重要になってきます。


    無謀な暗算をしてミスするために数学のテストの得点がいつもパッとしない・・・。
    そういう生徒のことは頭の痛い課題ですが、地道にもたもたと時間のかかる解き方しかできず、工夫は一切受けつけない、覚えられない、覚えないという子にも課題があります。
    地道なやり方で正解が出せればいいのですが、数学においては、地道に解こうとしてミスする、ということもあるのです。

    例えば、上の問題を、コサインを直接求める式ではなく、基本のほうの余弦定理の公式を用いた場合にやってしまいがちなミスがあるのです。
    余弦定理により、
    b^2=a^2+c^2-2ac・cosBに代入して、
    2^2=(1+√3)^2+(√6)^2-2(1+√3)√6・cosB
    4=1+2√3+3+6-2-2√3・√6cosB
    4=8+2√3-6√2・cosB

    うーん・・・。
    この段階で計算ミスをしています。
    この計算を続けた結果が、問題集の解答と一致せず、しかも問題集にはこの解き方は解説されていないので、自力ではこの先どうしようもなくなる・・・。
    数学が苦手な子の自学が困難な一例です。

    計算ミスの箇所は、
    -2(1+√3)√6・cosB
    の展開です。
    ここは、
    =-2√6(1+√3)・cosB
    といったん順番を変えて整理すれば、ミスしにくくなるのですが、上のまま強引に展開して、失敗してしまうのです。
    ( )の展開は最後にやりましょうと、中1で学習しているのですが、そんな遠い昔の文字式のルールなど、覚えていない子が大半です。
    前から順番に開くならば、
    =(-2-2√3)√6cosB
    =(-2√6-6√2)cosB
    となるのがルール通りの展開ですが、( )を開くのにまた( )を書くという発想は抱きにくい・・・。
    いきおい、上のように、
    =-2√6-2√6×√3・cosB
    =-2√6-6√2・cosB
    と間違った展開をしてしまうのです。

    こういうミスは高校数学になって突然表れるわけではなく、中学数学でもやってしまう子は多いです。
    例えば、1次関数の文章題で、
    y=6(x-2)×3
    といった正しい式を立てることはできても、その後、
    y=6x-2×3
    =6x-6
    としてしまうようなミスです。

    かけ算は、どこからかけても答は同じ。
    乗法の交換法則と呼ばれるものです。
    それを利用して、
    y=6(x-2)×3
    =18(x-2)
    =18x-36
    とすればよいのですが、数学が苦手な子は、交換法則を使って工夫するということはあまり行いません。
    とにかく、前から順番に。
    他の解き方の発想がないようです。
    数学において、やっていいことと悪いこととの基準が本人の中にないので、前から順番にやっていくしかないのかもしれません。
    とにかく前から開いて、その後の処理が上手くできないのです。
    そして、それは、小学生の計算練習ではどうにもならない面があります。

    ただ、乗法の交換法則は、小学校でも学んでいるのです。
    このような基本的で大切なことは、小学校で最初に学習しています。
    交換法則も、分配法則も。
    十進法の位取りの原則も。
    全部学習しているのですが、小学生の多くは、その重要性に気づかず、そこを無視していく傾向があります。
    彼らにとって大切なのは、個々のたし算・ひき算・かけ算・わり算の演算を正確に行うことであり、また、「速さ」や「割合」の問題の解き方の手順を覚えることのようです。
    その奥にある、もっと根幹の数学的基盤のことになればなるほど、無視する傾向があります。
    そして、中学数学や高校数学になって、自分が軽視してきたことに足をすくわれ、先に進めなくなっていきます。

    でも、先に進めなくなったときが、チャンスなのです。
    今までのやり方では通用しない。
    それを理解したときが、チャンスです。
    すべては、ここからです。

      


  • Posted by セギ at 16:39Comments(0)算数・数学

    2023年03月18日

    数Ⅰ「三角比」余弦定理で起こりやすいミス。


    高校数学は、解説を聞けば理解できる子のほうが多いです。
    特に数Ⅰにおいては、もう全く意味がわからない、もう無理・・・という子は全体の半数以下でしょう。
    しかし、理解していても、実際に問題を解くと、正解できないのです。
    途中でミスしてしまいます。
    例えば「三角比」。
    典型題におけるミスには一定の原因があります。
    今回は、その分析をしてみたいと思います。

    こんな問題。

    問 △ABCにおいて、AB=8、AC=5、BC=7 とする。 cos Aの値を求めよ。

    これは数Ⅰ「三角比」の基本問題です。

    しかし、問題を見つめたまま、なかなかペンを動かさない子がいます。

    「・・・わかりますか?」
    と問いかけると、
    「はい」
    という返事が返ってきます。
    わかるのならすぐに解けばいいのに、何をしているのだろう?
    本人は何か考えていて、あっという間に時間が過ぎているのでしょうが、はたで見ている者からすると、不可解なほど長い時間が経っています。

    ・・・何をしているの?
    なぜ、わかるのなら、答案を書き始めないの?
    数学を教える者と、数学が苦手な生徒との、暗くて深い断絶を感じるひとときです。

    彼らは、何をしているのか?
    まさか、頭の中で解き方を最後までシュミレーションしているのでは?
    小学生の頃と同様に、答が出るところまで確認してから問題を解こうとしているのではないか?

    いや、この「まさか」、実は可能性があります。
    特に、中学受験をして私立の中高一貫校に入学し、その後の勉強をサボってしまった様子の子に、こういう状態の子がいます。
    数学の問題の解き方を学ぶ大切な時期に、あまり勉強しなかったので、解き方がいつまでも「受験算数」なのでしょうか。

    受験算数が悪いわけではないのです。
    受験算数と数学は、むしろ親和性が高い。
    ただ、受験算数の本質を理解せず、解き方だけ丸暗記し、あとは反復に反復を重ねて、表面上はマスターしただけの子は、課題が多いのです。
    彼らが覚えているのは「手順」なので、なぜそれで正解が出るのか、意味を理解しているとは限りません。
    論理を重視していません。
    答さえ出ればいいと誤解しています。

    途中式や考え方を記述する問題を出題する中学もありますが、解答用紙に答だけ書く入試形式の中学のほうがまだ多いです。
    私立中学入試の合否は即日発表が基本ですから、記述答案を丹念に見ている時間はありません。
    解答欄に答だけ書く形式のテストが多いのも無理はありません。

    また、受験生たちの学力にもよりますが、記述問題を出してもほぼ全員×で差がつかないので、記述力が合否に反映されないことも一因でしょう。
    都立の中高一貫校の適性検査のように、算数はほぼすべて記述問題となると、受験生の大半が算数の得点が低いので、国語や社会や作文の得点差が合否を決めてしまうことがあります。
    算数が得意な子も苦手な子も、算数の点数が低い。
    国語や作文が得意な子のほうが有利。
    結局、合格した生徒の大半は理数系が苦手で、国立大学の進学実績がパッとしない・・・。
    算数の記述問題を入試に出すとそんなことになる、という本末転倒な結果もあり得ます。

    そんなわけで、中学受験生だったからといって、数学答案の記述力が高いわけではありません。
    それは、受験しなかった子たちとあまり変わりません。
    中学の数学の授業で、数学の答案はどう書いていくのか、平等に基礎から学ぶことになります。
    その中で、数学へのバージョンアップができない子が、中学受験生の中に現れます。

    もう一度、問題を見ましょう。

    問 △ABCにおいて、AB=8、AC=5、BC=7 とする。 cos Aの値を求めよ。


    やっとペンが動き始めたと思って様子を見ていると、答案の1行目に、

    49=64+25-56・cos A

    と間違った式を書いてしまっています。

    しかも、その後が、

    cos A=49-64-25+56
    =16

    答16°

    となっていて、あまりのことに息を飲む、ということもあります。
    この答案は、0点です。

    何がまずいのか?
    解説します。

    三角形の3辺の長さがわかっていて、コサインの値を求める際に使うのは、余弦定理です。
    数学の答案は、まず何に着目し、どのように解いているのかを明示するのがルールです。

    この問題では、△ABCしか存在しませんから、「△ABCにおいて」を割愛しても許容されるとは思いますが、
    「余弦定理により」
    を1行目に書くことが必要です。
    しかし、これが恐ろしいほど定着しない子たちがいます。
    延々と考えたあげく、1行目に、いきなり暗算した結果の式を書いてしまうのです。
    何の定理を使っているのかの明示もなく、暗算ミスして間違った式を1行目に書いてしまったら、それはもう0点です。

    「いや、今は練習しているだけなので、本番では書きますから」
    と、変な言い訳をする子もいます。
    しかし、コロナ禍以降、私は生徒に答案を音読してもらっています。
    本当は必要なことなのだとわかっていたら、アドリブで「余弦定理により」を付け加えたらいいでしょう。
    それをしない。
    結局、「余弦定理により」と書くことの重要性がわかっていないのではないか?
    本番だけはそれができると子どもじみたことを考えていても、返却されたテスト答案は、やはり書き忘れているのです。
    そして、それを、本人は「ケアレスミス」として処理しがちです。
    それは、ケアレスミスなのでしょうか?

    「余弦定理により」を書かないことの他にもう1つ気になるのは、問題にある数値そのままを使わず、いきなり暗算した式を立ててしまうことです。
    なぜ、1行目から暗算した式を書きたがるのでしょうか?

    彼らは、答案というものを自分のための計算メモと誤解しているのでしょうか。
    自分がわかれば、それでいい。
    答が合っていればそれでいい。
    そのような誤解をしているのでしょうか。
    客観性が本人の中で育っていないのでしょうか。
    くどくどした1行目を書くよりも、いきなり暗算した式を書くほうが、1行手間が省ける。
    そのほうがスマート。
    そのように誤解しているのでしょうか。

    いや、そうではないのかもしれません。
    式の1行目は問題文にある数を使って式を書きましょうと、繰り返し助言しても、一向に改善されないのです。
    彼らは、そのようにしか書けないのではないか?
    幼い時期に本人の能力を超えた過度な詰め込み勉強をやりすぎて、もう脳が疲弊して上書きできない状態になっているのではないか?
    幼い頃に習得したやり方をいつまでも繰り出してくるのは、それ以外のやりかたを身につけることがもうできないからではないのか?


    数学の記述答案は、何の定理を使って、どのように解いているのかを書くものです。
    答案は、計算メモではないのです。
    自分のためのものではありません。
    答案は採点する先生に見せるためのものです。
    先生が読んでわかるように書くものです。
    1行目には使用した定理を書く。
    2行目は一切暗算しない式。
    それさえしっかり書いてあれば、その次の行はむしろ暗算した結果だけ書いてあっても、OKです。
    勿論、適宜計算過程を書いて構いませんが、採点する先生はどうせそこは読みません。
    計算結果が間違っているときだけ、前に戻って、どこから計算ミスをしているのか確認し、そこまでの点数をつけます。
    それが数学答案の採点のルールです。
    そのルールが理解できていないので、加点される行を省略し、採点されない行ばかり書いてしまう・・・。
    裏・裏・裏ばかりで、無意味な答案になっています。


    上の答案は、それだけではない課題を抱えています。
    余弦定理を用いてコサインの値を求めるときは、余弦定理をあらかじめ変形した式を利用したほうが簡単に答が出るのです。

    余弦定理の基本の式は、
    a^2=b^2+c^2-2bc・cos A
    ですが、それを変形した、
    cos A=b^2+c^2-a^2 / 2bc
    という式は、コサインを求める際に使い勝手が良く、覚えるべき式です。

    ところが、数学が苦手な子は、この公式を覚えません。
    これは、2次方程式の判別式Dの公式だけを覚えて、D/4の公式を覚えない子と重なります。
    1つで済むものは1種類しか覚えないのです。
    1つ覚えるだけで限界ならば仕方ない。
    しかし、覚えようと思えば覚えられるけれど、無駄だと思って省略している子も多いように思います。
    それは、無駄ではないのですが。
    問題集の解答解説を読んでも意味がわからない原因の第一は、そうした公式を覚えていないことにあります。
    数学がわからなくなっていく原因を、本人が作っているのです。

    無駄な公式は存在しません。
    使い勝手が良く、使う機会が多いから、公式になっています。
    その「合理性」を理解していないから、「これは覚えなくてもいいかな・・・」と判断してしまうのでしょう。
    本人の「これは覚えなくてもいいかな・・・」という判断が、合理的ではなくズレているのです。
    数学センスがないというのは、そういうことの積み重ねです。

    普通の余弦定理を使用しても、まわりくどいけれど、正解にはなります。
    その場合は、

    △ABCにおいて余弦定理より、
    7^2=8^2+5^2-2・8・5・cos A
    80cos A=64+25-49
    80cos A=40
    cos A=1/ 2
    となります。

    しかし、上の答案では、
    49=64+25-56・cos A
    と間違った暗算をした式を書いてしまっています。
    -2bc・cos A
    のところを暗算して混乱したようです。
    そんな暗算をせず、目に見える形にすればミスをしないのに、そこを暗算してしまう子は一定数います。
    そのように脳に負担をかけたせいか、その後の計算でも混乱が起こっています。

    cos A=49-64-25+56
    =16

    答16°

    1次方程式が解けなくなっている・・・。
    これは、cos Aのところをxと置き換えればわかりやすいと思いますが、簡単な1次方程式なのです。
    そして、「三角比」の問題を解いているときに、1次方程式が解けなくなってしまう子は1人ではありません。

    もっとも簡単な例で示せば、
    6=-3x
    を解くのに、
    x=6+3
    とやってしまうようなミスです。

    文字が右辺にあるとこのようなミスをしてしまう子が中1にいますが、そうした混乱が、高校数学を学習しているのに復活してしまう様子です。
    難しいと感じたら、左辺と右辺を一度ひっくり返して、自分が見やすい形にしたらよいのに、それをしない。
    うんうんと頭をひねって暗算し、間違えてしまうのです。

    そうやって、
    cos A=16
    という奇妙な値が出てしまっても、何か間違えたなと気づけば、やり直せる可能性があります。
    -1≦cos A≦1
    というコサインの値の範囲を知っていれば、です。

    cos A=16
    は、ちょっと変だなと思ったのか、思わなかったのか。
    結局、最終解答を16°とすることで処理しているのを見て、頭を抱えました。
    「コサインは角度のこと」という混乱も三角比が苦手な子にありがちで、何度否定しても、それが頭の中に舞い戻ってきてしまいます。
    無駄な暗算に頭を使うから、混乱しなくていいところで混乱するのではないでしょうか。
    頭を使うところが違うのです。

    そうしたしくじりの原因は、答案を記述するルールに従って丁寧に書いていないことにあると思います。
    書くことは考えること。
    書きながら論理を構築していくのですが、それができない。
    最後まで見通してから解こうとしているようで、自ら迷宮に迷い込む。
    ナビを書いていかないから、迷ってしまうのです。

    さらに、覚えるべき公式を覚えていない。
    「手順」重視のわりに手持ちの「手順」が少ない。
    計算ミスをしやすくなる、手間のかかる解き方しかできません。
    2つの公式を覚えない。
    1つでいいやと、幼い判断をしてしまいます。
    小学生が高校数学を学んでいるかのようです。

    彼らは、数学に対する意識が幼い。
    特に中高一貫校の生徒で、記述答案が全く書けない子を見ると、考えてしまいます。
    図形の証明問題なども、公立中学で数学「3」を取っている学力ならば当たり前に正解できる定型の証明問題を解けず、意味不明の箇条書きしか書けない子が、中高一貫校の子にはいます。
    証明とは何をどう書いていくことであるか、根本を理解していない様子です。

    幼い時期に本人の能力を超えた過度な詰め込み勉強をやりすぎて、もう脳が疲弊して上書きできない状態になっているのだろうか?
    幼い頃に習得したやり方をいつまでも繰り出してくるのは、それ以外のやりかたを身につけることがもうできないからなのか?

    いいえ。
    人間の脳はそれほど弱くはありません。
    上書きは、いつでも可能です。
    それができないのは、本人の意志のはずです。

    おそらく、彼らは、間違った価値観で、間違った判断をしています。
    自分のスタイルのほうが正しい。
    何か言われても、関係ない。
    考えるに値しない。

    自尊心が高い子が多いこともあって、幼い頃に身につけたスタイルを改善できない。
    その愚かさに気づかない。
    そうした特性があるのだと思うのです。

    能力が低いわけではありません。
    能力は、その子の中に眠っています。
    間違った価値観を捨てられれば、再生します。

    時間はかかります。
    しかし、今は、どうしても大学受験に数学が必要になり、その外圧も手伝って、本当にギリギリの時期に覚醒する子が増えてきました。
    絶望ばかりではありません。
    そう思います。

      


  • Posted by セギ at 14:24Comments(0)算数・数学

    2023年03月06日

    場合の数。立方体の色塗り分け問題の難問。


    さて、今回は、「場合の数」。
    立方体の6つの面を塗り分ける問題です。

    問題 立方体の6つの面に赤・青・黄・緑・白・黒の6色の絵具を用いて色を塗っていく。
    (1)6色すべてを用いる塗り方は何通りあるか。
    (2)6面のうち2面を赤、残り4面を青・黄・緑・白の4色を用いる塗り方は何通りあるか。

    相変わらず、解説の前に色々語りますので、そういうのは不要という人は、ずっと後ろに跳んでください。

    こういう問題はイメージ力と論理的思考力が問われます。
    動画で実際に立方体を示し、それをCG的に回転させて見せながら解説したらわかりやすいだろうかと思うのですが、そういう授業動画は、私の探した範囲ではまだ存在しませんでした。
    AIにそういう動画を作ってと指示するだけで無料で簡単に出来上がる、という時代がもうすぐやってくるかもしれませんが、まだちょっと時期が早いですね。

    ただ、そういう動画を見て理解することで数学力が伸びるだろうかと考えた場合、それはどうだろうと思います。
    自分でイメージできないのであれば、結局、試験でこの問題は解けない。
    練習の段階から、自力でイメージする力を養ったほうがいいのではないか?
    そう思うのです。

    以前も書きましたが、三角錐の見取り図を描けない高校生がいました。
    テキストには三角錐の見取り図が描いてあるのです。
    それを真似て描けばよいだけなのですが、それでも、その子は描けませんでした。
    見ながら描いていいですよ、と助言しても、描けない。
    外側に既に存在しているイメージを内面化して再生産していくことができないようなのです。
    テキストを真似ていいと言っているのに、不気味な歪んだ絵をいくつか描いた後、最終的に、三角錐を真上から見た図を描いていました。
    それは投影図であって、見取り図ではありません。
    三角錐の体積を求める問題では役に立ちません。

    模範の絵を見ながらでも、模倣できない。
    イメージを自分の頭の中に取り込めないのです。

    でも、今、その子は三角錐の見取り図を描くことができます。
    個別指導したからです。

    側面の三角形を描きましょう。
    三角形だからといって、底辺が水平とは限らない。
    三角形を斜めに描くことがコツだよと、段階を踏んで解説したら、描けるようになりました。
    知識の獲得には、言語が介在します。
    「三角形を斜めに描くことがコツだよ」
    という言葉を添えながら描いて見せることによって、お手本の見取り図を眺めているだけでは獲得できなかった技能を獲得したのです。

    回転する立方体の動画を見れば、上の問題は理解しやすいかもしれない。
    しかし、テストでは、回転する動画を見ながら解くことはできません。
    頭の中で回転する立方体をイメージできる子のみが、ペーパーテストを解いていくことができます。
    そして、動画を見慣れていれば、自分でも頭の中で立方体を回転させられる、とは限りません。
    動画の見方を言葉で解説することが重要であり、そこからさらに、動画なしで言葉のみの解説で理解できることが理想です。
    動画にどっぷり浸かっている現代の子どもたちが、昔の子どもよりも、立方体を頭の中で容易に回転させられる、とは思えないのです。
    むしろ、そうした能力は衰えつつあるように感じることすらあります。

    映像に頼りがちな子は、受け身になりがちです。
    自らイメージしていく能力が伸びていない。
    音声情報や文字情報をイメージ化できず、音声だけの説明や文字だけの解説が苦手です。
    これは、もともと音声や文字による情報を咀嚼できない子が映像に頼るからでもあるでしょうが、映像に頼るから、音声情報や文字情報を咀嚼する能力が伸びないのでもあります。
    音声情報も文字情報もその子に届かなくなっていきます。
    映像は、理解の補助として有効だけれど、万能ではないのです。

    というわけで、この問題、挿絵もなしで解いてみましょう。
    自在に回転する立方体をイメージしてください。
    それは、逆にいえば、自在に回転する立方体をある瞬間でピン留めして、クリアにイメージできるということでもあります。


    もう一度問題を見ましょう。

    問題 立方体の6つの面に赤・青・黄・緑・白・黒の6色の絵具を用いて色を塗っていく。
    (1)6色すべてを用いる塗り方は何通りあるか。
    (2)6面のうち2面を赤、残り4面を青・黄・緑・白の4色を用いる塗り方は何通りあるか。

    まずは(1)から。

    場合の数に関する問題は、最初はできるだけ具体的に考えるのがコツです。
    最初から一般論にしようとすると、変な誤解をしたり、盲点が生まれることがあります。

    立方体をまずは固定して、色を塗っていきましょう。
    上の底面を赤で塗りましょう。
    その対面、下の底面を青で塗ります。
    4つの側面を残る4色で塗っていきます。
    側面の塗り方は何通りあるでしょうか?

    側面は4つ。
    では、4つのものの並べ方、すなわち、
    4×3×2×1 で大丈夫でしょうか?
    いいえ。
    側面は、「円順列」と呼ばれるものです。
    すなわち、上の底面と下の底面を固定しても、側面はぐるぐると回転させることが可能です。
    そして、回転させただけの色の塗り方は、回転する前と同じ塗り方なのです。
    例えば、一番背後の側面を黄とし、そこから時計回りに緑・白・黒と塗った場合と、一番背後の側面を黒とし、そこから時計回りに黄・緑・白と塗った場合とは、同じ塗り方です。
    回転させたらぴったり一致するものは、同じ塗り方です。

    ですから、円順列で解きましょう。
    円順列の考え方は2通りあります。
    1か所の色を確定して、そこからの順番で考える考え方。
    4つものの並べ方ではなく、残り3つのものの並べ方と考えます。
    すなわち、3!=3×2×1
    あるいは、4つのものの並べ方で普通に並べたけれど、実際は回転し、先頭のものは4か所に移動できるので、後で4で割るという考え方。
    すなわち、4!/4=3×2×1
    どちらも、式は同じですね。
    わかりやすいほうの考え方で大丈夫です。
    そこから、公式として、n個のものを並べる円順列は、(n-1)!となっています。

    さて、今、赤を上底面、青を下底面と固定した場合、側面の塗り方は6通りであることがわかりました。
    ここから、全体のことを考えます。
    実際には、上底面を塗れる色は、赤を含めて6通り。
    そのそれぞれに対して、対面である下底面を塗れる色は、6-1で、5通り。
    さらにそのそれぞれに対して、側面の塗り方は、3!=3×2×1(通り)。
    では、求める塗り方は、全部で、
    6×5×3×2×1
    これでいいでしょうか?

    いいえ、今求めた塗り方は、例えば、上底面である赤を他の5つの面の位置に倒したときに、まったく同じ塗り方が1通りずつ現れます。
    すなわち、同じ色の塗り方を、6回ダブって数えているのです。

    ここがポイント。
    これを正確にイメージできることがポイントです。
    ここで頭が混乱し、
    「いや、赤を側面に倒したときには、そのそれぞれで、3×2×1(通り)だけ、同じ塗り方が現れる!」
    といったことを思う人がいますが、そんなことはありません。
    それは、幻が見えているのです。
    その可能性は、側面の塗り方を考えた際に、既に排除されています。
    回転して同じ色の塗り方になるものは、既にさきほど排除しました。
    上底面の色が確定しているときの他の面の塗り方は、既に1通りに確定しているのです。
    だから、求める塗り方は、
    6×5×3×2×1÷6=30
    30通りです。

    これは、イメージ力が豊かならば、もっとざっくり求められます。
    まず単純に、6つの面を6色で塗り分けるから、6個のものの順列。
    6×5×4×3×2×1
    しかし、これは、塗る位置を順番に、上底面、下底面、そして奥の側面から時計回りに、側面奥、側面右、側面手前、側面左というように固定して考えています。
    実際には上底面は6か所に回転して移動できるので、
    ÷6
    上底面の対面は、先ほどの普通の順列で確定しています。
    あとは、側面が回転する分の処理。
    側面4つは、上底面と下底面が確定した後も回転できるので、円順列だから、
    ÷4
    したがって、求める式は、
    6!/6・4=30
    とスマートに求めることも可能です。


    (2)6面のうち2面を赤、残り4面を青・黄・緑・白の4色で塗り分ける塗り方は何通りあるか。

    これも、具体的にイメージすることが有効です。
    これは、赤の面の配置によって場合分けします。
    すなわち、赤の面が向かい合っている場合と、そうではない場合です。

    (ア)赤の面が向かいあっている場合。
    これは簡単です。
    上の底面と下の底面を赤で固定しましょう。
    側面4つを4色で塗ります。
    (1)と同様の円順列ですから、
    3×2×1=6(通り)
    いいえ。
    これは、上底面と下底面をひっくり返したときに同じ色の塗り方になるものをダブって数えています。
    裏返しにできるものの並べ方です。
    これをじゅず順列といいます。
    円順列をさらに2で割ります。
    したがって、6÷2=3。
    3通りです。

    (イ)赤の面が向かい合っていない場合。
    上底面を赤に固定しましょう。
    下底面は残る4色から選びます。
    すなわち、下底面の色の塗り方は4通り。
    そして、側面は1か所、赤です。
    一番奥の側面を赤で固定しましょう。
    残る3面の色の塗り方は、
    3×2×1=6(通り)
    これは、÷3をする必要はありません。
    奥の側面を赤で確定しましたので、そこから時計回りに色を塗っていくのは、普通の順列となります。
    回転させたとき、赤の面も回転していきますので、さきほど数えたものとダブってしまう色の塗り方は存在しません。
    したがって、
    4×6=24
    ・・・これでいいでしょうか?

    いいえ。
    上底面に固定した赤の面を側面に倒してみてください。
    倒して、回転させると、側面だった赤の面が上底面に現れる置き方があります!
    24通りの中に、同じ塗り方が現れます。
    何回ダブって計算したことになるのか?
    3・2・1=6(通り)?

    いいえ、いいえ。
    そんなことはありません。
    上底面を側面に倒したまま、側面だった赤が上底面に移動してくるのは1回だけです。
    上底面をどこに倒しても、側面の赤が上底面に現れるのは1通りの置き方だけです。
    上底面の赤と側面の赤が位置を交換するだけの位置関係は一度きり。
    だから、
    ÷2
    です。

    4×6÷2=12

    (ア)、(イ)より、
    3+12=15

    答は、15通り です。


      


  • Posted by セギ at 19:01Comments(0)算数・数学

    2023年02月26日

    細かいところが上手くできない。


    アズマイチゲでしょうか。
    一輪見ても嬉しい花の群落でした。

    それはともかく、本日は、算数・数学で、細かいところを丁寧に正確に処理していくことができない子の話。
    顕著なのは、「データ」に関連した単元です。
    例えば、小学校で学習する「平均」。
    この単元をデータの学習と結びつける発想は、学習している小学生にはあまりないかもしれませんが、平均値は、そのデータを代表する値。
    データの学習には必須の内容です。
    そして、平均値の考え方は理解できるけれど、正解はほとんど出せない小学生がいるのです。

    問題 以下の値の平均を求めなさい。
    57、86、75、62、71、68、63、84、39、39、47、54

    電卓を使わせてください。
    そう思わないわけでもないですが、学校では、この程度の計算は人力で行うことを要求されます。
    この12個のデータを全部たして、合計を12で割ればいい。
    こうした平均の考え方は、大体の生徒は理解しています。
    しかし、正解が出せるかどうかはまた別の問題です。

    こういう計算の場合、一の位の数だけをまず全部たす。
    その中でも、たして10になる組み合わせを見つけて、そのペアをできるだけ先に作っておく。
    そうしたやり方の利便性を理解している子は多いです。
    ただ、そのペアを作る段階でミスしてしまうのです。
    どれとどれをペアにしたのか、途中でわからなくなってしまう・・・。
    ペアになった数どうしを「ひげ」で結んでみたりしていますが、「ひげ」がこんがらがって、ますますわからなくなってしまうこともあります。
    使った数を斜線で消すやり方をしても、途中で斜線を入れる数字を間違えて、斜線を入れたのか入れなかったのかわからなくなったりもします。
    いくつのペアが見つかって、十の位にいくつ上がるのか、それを数え間違えてしまうことも多いです。
    間違えてしまう子の多くは、作業の様子を見ていてもひどく雑で、よく確認もせずにやっています。
    もう少し丁寧によく見て処理すればいいのに・・・と思うことが多いです。

    こういうことは、人間よりも機械のほうが圧倒的に正確なのだから、何回やっても正解に至らないことを、そんな気にしなくてもいいかな・・・。
    そうも思います。
    一方で、こんな計算すら正確にできなくて、この先の数学の計算にどの程度耐えられるのだろう、とも思うのです。


    多くの子は、学年が上がるにつれて精度も上がっていきますが、高校生になっても、精度が低いままのこともあります。
    数Ⅰ「データの分析」で、データ処理の精度が低いと、学習がなかなか進みません。
    例えば、こんな問題です。

    問題 生徒20人の身長x(cm)と、体重y(㎏)を調べた結果、以下の表のようになった。
    x、yの相関表を作れ。
    ただし、xについては階級の幅を6とし、階級は150から区切り始めるものとする。
    yについては、階級の幅を4とし、階級は50から区切り始めるとする。



    相関表とは何か?
    一番簡単なのは、小学校で学習する「衛生検査」の表です。
    「ハンカチを持っている・持っていない」
    「爪を切っている・切っていない」
    という2つの検査をクラスの全員に行い、2×2の4マスの表に、その人数を書き込みます。
    「ハンカチを持っていて、爪も切っている人」
    「ハンカチを持っていて、爪は切っていない人」
    「ハンカチは持っていないが、爪は切っている人」
    「ハンカチは持っていないし、爪も切っていない人」
    誰もが一度は解いた記憶のある問題だと思います。

    高校数Ⅰで学習する相関表は、マスが2×2ではなく、5×5などになっているだけで、基本の構造は同じです。
    x と y の階級を縦と横にとって、表にし、それぞれの度数を数字で記入すれば表は完成です。
    下が、正解の相関表です。



    この相関表を完成させるために、それぞれの度数をどう数えましょうか。
    1つでもミスしたら、全部やり直しになりますから、ミスしたくありません。
    私なら、与えられたデータの最初のものから順番に、指で押さえながら、相関表の各マスの左上の隅に「正」の字を書きこんでいきます。
    こんな作業は何度もやりたくないですから、一度で終わるよう、慎重に作業を進めます。

    生徒にもそのように助言しました。
    そのようにすれば、相関表の外枠を完成した後の作業は5分程度で終わるはず。
    これは相関表の構造を把握するための基本問題です。
    こんな作業よりも、この先の、相関係数の意味と計算方法を学ぶことのほうが学習の主眼です。

    しかし、30分経っても、作業は終わりませんでした。
    その高校生は何をやっていたのか?
    相関表のそれぞれのマスに入るデータの個数を、元の表からいちいち数えていたのです。
    例えば、xが150㎝以上156㎝未満で、yが50㎏以上54㎏未満のデータが表にないか、ずっと目で追っていき、1人見つければ「1」と記入するというように。
    結果、物凄く時間がかかったうえに、相関表は間違いだらけ、となりました。
    5か所にミスが見られました。

    精度を上げるやり方を前もって解説したのですが、実際に本人がやったのは、ミスしやすいやり方でした。
    おそらく、小学校で普通の度数分布表を作っていた頃から、本人はずっとそういうやり方をしてきて、ミスも多かっただろうと思います。
    それでも、改めない。
    自分のやり方の危うさが理解できないのか?
    そんなやり方で正確に相関表を埋められると、本気で思っているのか?

    さすがにこれはまずいと思い、私はもう一度、精度の高いデータ処理のやり方を解説しました。
    指で押さえて、あるいは、処理したデータを1つずつ斜線で消しながら、最初から順番に1つ1つ、「正」の字を描いて処理していく方法を。
    ところが、やり直したその子は、最初の3つくらいはそのようにしていたのですが、途中から、また本人の無駄とムラの多いやり方に戻ってしまったのです。
    ・・・え?
    何でだろう?

    30分後、再度作られた相関表は、ミスが6か所に増えていました。

    その子は、小学生の頃から、データ処理ではそのようなミスを繰り返してきたのだと思うのです。
    データ処理を小学生に自由にやらせると、多くの場合、その子のようなやり方をしてしまいます。

    一度それで失敗し、自分で工夫してやり方を改めることができる子もいます。
    あるいは、先生や周囲の人から正確にできるやり方を教わって、改善できる子も多いでしょう。
    そのような子もいる中で、ミスの多いやり方を改められない子もいます。

    高校生になるまで、一度も助言されなかったとは考えにくいのです。
    小学生の頃から、注意されていたはずです。
    そういうやり方ではミスが多くなると注意されても、しかし、直せない・・・。
    小学校でも、中学校でも、高校でも、繰り返し注意されても、直せなかったのではないか?

    データ処理ばかりではありません。
    計算問題などでもケアレスミスの多い子の中には、ミスが多くなるようなやり方で問題を解く子たちがいます。
    もう少し堅実に途中を書いていけばそんなミスはしないのに、暗算に暗算を重ねるので、式は合っていても、正解が出せない。
    はたから見ると非常にリスキーなやり方を選んでしまうのです。
    そして、多くの場合、注意しても、なかなか直りません。



    しばらく前、テレビ番組で興味深いやりとりを見ました。
    ゲストの芸人さんは、少し前、脱税が摘発された人でした。
    それが問題視され、一時期、テレビに出られなくなったけれど、何とか復帰した人です。
    そのゲストに対し、司会者が尋ねたのは、
    「子どもの頃、学校の机の中が、ぐちゃぐちゃじゃなかったですか?授業参観のプリントを家に持って帰らなくて、親が知らなくて授業参観に来なかったこと、ありませんでしたか?」
    といった質問でした。
    ゲストは、それらの問いのすべてに「あるある」とうなずいていました。
    そして、司会者である芸人さんもまた、自分もそういう子どもだった、と言うのでした。

    悪意があっての意図的脱税ではなく、そういう特性のため正しく確定申告できなかったのだろうと、ニュースを見たときから私も想像していましたが、その番組のホストもそういう傾向の人だというのは、初耳でした。
    中堅の私立中高一貫校を出て、その後芸人になった人です。
    それ以上の情報を私は持っていなかったけれど、内省的な人という印象がありました。
    その人のファンは、その人の書いた本やその人のラジオの語りから、その人がそういう自分とずっと向き合ってきた人なのだと以前から知っていたのかもしれません。
    自分はなぜそうなのだろう?
    それは、どういうことなのだろう?と。

    ゲストとホストが2人で同意していたのは、
    「プリントを家に持って帰って親に見せるとか、そういうことが重要だと思っていなかった」
    というのです。

    それは、目が開かれる言葉でした。
    ああ、そうなのか。
    やろうと思っているけれど、ついそうなってしまうというのではないのか。
    覚えていられなくてちゃんと行動できないというのではないのか。
    彼らは、優先順位を判断しているのか。
    判断して、その判断が世間とはズレているのか・・・。
    それは、治らないぞ・・・。

    ときどき、そのタイプの子と接することがあります。
    彼らは、注意されても黙ってしまうだけで、そのことについて自身の考えを述べるということはありません。
    だから、理解できていないのだろうと思い、さらに注意をすることになります。
    同じ失敗を繰り返すときには、特にそうです。
    何でこんなことを正確にできないのだろう?
    そんなに高度なことは要求していないのに。
    丁寧に正確にやればいいだけだし、丁寧で正確なやり方を教えているのに。
    いわば、マニュアル通りにやれば正確にできることなのに。

    模試の会場責任者の仕事をしていたときも感じました。
    マニュアル通りにやれば正確にこなせる仕事を、マニュアル通りにやれずにミスを繰り返すアルバイト学生が一定数いたのです。
    なぜ、マニュアル通りに仕事をこなすことができないのだろう?
    マニュアル以上の仕事をするには、まずマニュアル通りのことが正確にできることが前提ですよ?
    その日だけのアルバイト仕事を誰でも失敗せずにこなせるように、何時何分に何をするかまで、全部マニュアルに書いてあるのに。
    マニュアルを読んでいないのだろうか?
    理解できないのだろうか?
    そこを省略すると、ミスが出るよ?
    なぜ、それに気づかないの?
    本人にそのように強く言うことはできないものの、内心、何でだろうと思うことはありました。

    なぜ、助言されても、直せないのか?
    表情から見ても、本人に反抗心があってのことではないようなのです。
    ただ、脳が、助言を聞き入れてやり方を改善する方向に動かないようなのです。
    注意されたことの趣旨を理解できないわけではないのでしょう。
    知的に劣っているわけではない。
    ただ、注意されたことを内面化して、改善することができない・・・。

    注意されたことを、本人の価値観で判断してしまう。
    それが世間の価値観とは一致しないのではないか?
    授業参観のお知らせを家に持ち帰らないことを、大したことではないと思ってしまうように。

    しかし、その芸人さんがテレビに出られなくなったように、社会的にまずいことがいずれ起こるかもしれません。
    そのように決定的なことが起こる前から、本人が生きづらさを感じる場面もあるかもしれません。
    学習面においても、本人の能力に見合う結果が出ない場合があるでしょう。
    精度の高いやり方を教わっても、その通りに実行せず、本人の判断でミスの出やすいやり方を繰り返すのですから。

    そのあげく、数学を学ぶこと自体に価値がないと本人が勝手に判断してしまったら?
    それは本人の進路に大きく影響します。

    助言されたことをなかなか直せない子を見る度に、考えます。
    わかっていても能力的に直せないのだろうか?
    簡単なことができない場合が多いので、表面的には能力が低く見えてしまうのは事実です。
    でも、そうではないのかもしれません。
    何かを独自に判断しているだけなのかもしれないのです。


    その世間とはズレた価値観に「刺さる」語りかけがあるのではないか?


    私自身、それを理論化できてはいません。
    万能ではありません。
    でも、突出して結果が表れる子を見ることがあります。
    何かが刺さったようなのです。
    特に数学において、それは顕著です。


      


  • Posted by セギ at 17:38Comments(0)算数・数学

    2023年01月15日

    三角錐の体積。三平方の定理、三角比、あるいはベクトルを利用して。


    問題 OA=OB=OC=8、AB=BC=CA=6である三角錐OABCの体積を求めよ。

    これは、空間図形の計量に関する問題です。
    例によって、この問題にまつわるエピソードをここから延々と書きますので、そういうことには興味ない、解き方だけ知りたいという方はずっと後ろに飛んでください。

    生徒に、この問題を解いてもらったときのことです。
    何段階かの過程を踏まないと体積が求められないという点では難しいですが、例題を参考に解いていける基本問題です。
    大丈夫だろうと思って様子を見ていると、生徒のペンが全く動かないので不審に感じました。

    「・・・どうしました?わからないですか?」
    生徒はうなずきました。
    「では、まず図を描いてみましょう」
    「・・・」
    「どうしました?」
    「図が描けない」
    「・・・え?」

    図が描けない?
    三角錐の見取り図を描けない?
    どういうこと?


    そんなバカなと思った瞬間、別の生徒のことを思い出しました。
    その別の生徒は中1でしたが、以下のような問題を見つめて呆然としていました。
    やはり、文が1行書いてあるだけの問題でした。

    問題 半径6㎝、中心角135°のおうぎ形の周りの長さを求めなさい。

    おうぎ形の孤の長さを求める公式を解説し、その利用の練習をした直後でした。
    テキストの上部には例題解説があり、太字で公式が書いてあります。
    困る要素は何1つないと思ったのに、その子は呆然としていたのです。

    「・・・どうしました?公式を忘れたのなら、上の例題を見ていいですよ」
    「意味がわからない」
    「何の?」
    「問題の意味がわからない・・・」
    「え?」

    こんなシンプルな基本問題のどこでつまずいているのだろう・・・。
    こういうとき、言葉がとっさに出てこなくて長く黙り込む子もいますが、その子はカタコトでも何か発するタイプの子でした。
    これは、教える者として非常に助かります。
    「図が・・・」
    「うん?」
    「図・・・」
    「うん・・・?」

    ・・・どういうことだろう?

    「問題に、図がないということ?」
    「はい」
    「ああ。なるほど。なければ、自分で図を描きましょう」
    「えっ。・・・ああ、そういうことかっ!」

    その子は驚愕し、そして、私はむしろそのことに驚愕していました。

    その子は、図がない問題など存在しないと思い込んでいたのです。
    そう思って見直せば、その直前の問題には、確かにおうぎ形の図が添えられていました。
    また、小学生向けのテキストは、図形問題ならば図が添えられていることが多いのです。
    そういうものを見慣れていたその子は、問題に図が添えられていないということ自体が理解できず、混乱していたのでした。

    その子の抱えていた課題もあったと思います。
    文章を読むことが極端に苦手な子でした。
    文字を1文字ずつ丹念に読むということが物理的にできないのだろうかと感じるほど、斜め読みや飛ばし読みをしていました。
    助詞・助動詞の働きを理解できず、目立つ単語を拾って意味を想像しているだけのようでした。
    中学生になっても、図やグラフが添えられている問題を解くときには、問題文など無視していました。
    問題文の中に重要な情報があることに気づかず、図やグラフだけを見て、首をひねってしまうことの多い子でした。

    しかし、そういう傾向は、大なり小なり多くの子に見られます。
    図があるなら、そっちを見てしまう。
    本を読むのが嫌いな子、文字を読むことにちょっとした苦痛のある子は、そうなりがちです。

    そして、そんな傾向があるといっても、多くの子は、図が添えられていない問題ならば、諦めて問題文を読みます。
    頭の中で図をイメージして考えます。

    まさか、図がないことに呆然としてしまう子がいるとは。
    図がない問題があることを理解していない子がいるとは。


    そうした中1の子のことを思い出しながら、目の前の生徒に、私は言いました。
    「まず、三角錐の図を描きましょう」
    「描けない・・・」
    「描けない?」

    ・・・どういうことだろう?

    空間把握能力が低く、立体的な絵を描くことができないのだろうか?
    例えば小学生に直方体の見取り図を描いてもらうと、空間の歪みを感じる不気味な図を描いてしまう子がいますが、そこから成長していないということなのでしょうか。
    それを克服する練習をしてこなかった。
    だから、三角錐を描けない・・・。
    ただ、そのテキストには上に例題があり、三角錐の図が描いてあるのでした。

    「テキストの同じページに例題の図があるじゃないですか。例題は正四面体で、全ての辺の長さが等しいですが、図は描いた者勝ちな面がありますから、そっくりな図をノートに描いて、辺の長さだけ、8とか6とか違う数字を書き込んでも、問題を解くのに影響はありませんよ」
    「ああ・・・」

    しかし、様子を見ていると、その子は、ノートに自分で三角錐を描くことはせず、テキストの例題の正四面体の図に、8や6といった長さを、書き込んでいました。
    自分では描かず、テキストの図をそのまま利用することにしたのです。

    その合理性がわからないわけではない・・・。
    でも、そういうことをやっているから、いつまで経っても、三角錐を自力で描くことができないのではないのか?
    できないことは練習したらいいのに、自覚があっても、なお、練習もしない。
    しなくて済む方法を見つけてしまう・・・。

    これまで、何度か書いてきましたが、勉強ができない子は、地頭の悪い子とは限らないのです。
    むしろ、抜け道を見つけるのが上手いタイプの子に、学年が上がるにつれて成績が下がっていく子がいます。
    「わり算は、問題文の中の大きい数字を小さい数字で割ればいい」
    小学校低学年の頃に、誰に教わったわけではないのにそんなルールを自力で発見し、問題文を読まずに式を立てるようになります。
    勉強がすべてそんなふうに抜け道の発見と作業手順の丸暗記になっていくので、気がつくと、数理の原則、数学的基盤がその子の中に存在しないのです。
    数学において、何をしてよくて、何をしたらダメなのか、本人の中に判断基準がないのです。
    子どもには自分の進む道の先が見えないので、その道が行き止まりであることに気づかないのです。

    「・・・三角錐は自力で描けたほうがいいですよ」
    「・・・」
    「練習すれば、三角錐は描けるようになります。練習すればいいだけです。できないことは、できるようにすればいいだけです」
    「・・・」

    高校数学は、自分で図を描かなければならない問題も多いです。
    例えば、以下のようなベクトルの問題です。

    問題 四面体ABCDにおいて、線分BDを3:1に内分する点をE、線分CEを2:3に内分する点をF、線分AFを1:2に内分する点をG、直線DGが3点A、B、Cを含む平面と交わる点をHとする。DG : GHを求めよ。

    これは、「ベクトル」の典型題です。
    勿論、図など添えられていません。
    自分で図を描くところから、空間ベクトルの問題を解く過程が始まります。
    だから、図を自力で描けなければ、「空間ベクトル」の問題を解くことのできる可能性は、ほぼなくなります。
    三角錐を自力で描けないということは、そういうことです。

    図を描けないということは、絵画に関する才能がないということではないと思います。
    別に下手でもいいので、とにかく描けばいいだけですから。
    私も絵の才能はありませんが、数学の図は描けます。
    空間把握能力が影響しているとは思いますが、それだけでもなさそうです。
    その2人の生徒に共通していたのは、文字で描かれている情報と視覚的イメージが頭の中で結びついていないことだったかもしれません。
    もともと、問題文を読むことが苦手で、図に頼る傾向があるのでした。
    図がないと問題を解けないのです。
    それは、文章だけでは映像をイメージできないということでもあるのかもしれません。
    文字の読み取りが苦手なので、文字で書かれている内容を映像的に頭の中でイメージできない。
    頭の中に映像のイメージがないので、それを描きおこすこともできない。
    それは、やはり、読解力の問題であるような気がします。

    これは、特別に低学力な子の話、というのではありません。
    むしろ、本人は自分は日本中の同学年の中では学力上位層と思っているかもしれません。
    その誤解を現実に変えていくのが私の仕事です。

    そうなると、できることは、三角錐の見取り図を描く練習です。
    「はい、まず左側に三角形を描きましょう。三角形というと正三角形か二等辺三角形か直角三角形と思い込んだらダメですよー。底辺を水平に描いてもダメですよ。こういうふうに。わかる?こういうふうに斜めに描くんですよ」
    本当は、そんな練習は自力でできるのです。
    しかし、自分でお手本の図を真似て三角錐を描くという過程のどこかに欠落があり、自力では練習できないとなれば、それをやるのが個別指導です。


    さて、お待たせしました。
    ここからは、問題の解答編です。

    もう一度、上の問題を見てみましょう。

    問題 OA=OB=OC=8、AB=BC=CA=6である三角錐OABCの体積を求めよ。

    この問題は、三平方の定理を学習した中3ならば、高校数学の知識がなくても解くことができます。
    まずは、その解き方から。

    まず、図を描きましょう。
    △ABCが底面で、点Oがその真上に置かれた頂点であるようなイメージで描くのが、一番描きやすく、解きやすいと思います。
    底面である△ABCは、1辺が6の正三角形。
    他の辺はすべて8。
    これは、正三角錐です。
    実際に描くか、頭の中でイメージしてください。

    三角錐の体積を出すには、底面積と高さの値が必要です。
    まずは高さを求めましょう。
    頂点Oから△ABCに垂線OHを下ろします。
    そのOHの長さが、この立体の高さです。
    どうやって、OHの長さを求めましょうか?
    この線分OHを1辺にもつ直角三角形があればいいのです。
    △OHCが、直角三角形です。
    OC=8と問題にありますから、あとは、CHの長さがわかれば、三平方の定理を利用できます。
    ここで、底面が正三角形であることは、とてもありがたいですね。
    正三角形ならば、外心・内心・重心が一致します。
    点Hは、この三角形の重心です。
    それを利用しましょう。
    辺ABの中点をMとします。
    線分CMは、この三角形の中線となります。
    点Hは重心ですから、この中線CM上にあります。
    重心ですから、CHは、CMの2/3の長さです。
    では、中線CMの長さは?
    これも、△ABCが正三角形であることで楽に求めることができます。
    中線CMで区切ったことで表れた△CAMは、直角三角形です。
    しかも、30°、60°、90°の特別な比の直角三角形です。
    CA=6ですから、AM=3、CM=3√3。
    CHはその2/3ですから、CH=2√3。

    これで、△OHCで三平方の定理を利用できます。
    OH=√(8^2-2√3^2)=2√13
    これで、三角錐の高さを求めることができました。
    あとは、底面積です。
    これも、CMを求めてありますので、簡単です。
    △ABC=1/2・6・3√3=9√3

    よって、OABCの体積は、
    1/3・9√3・2√13=6√39
    これが答です。


    以上が中3レベルの解答です。
    続いて、数Ⅰ的な解答に進みます。
    数Ⅰを学習していても、上の解答でも十分ですし、手順もそれほど変わりません。
    数Ⅰならば三角比の公式を多少使ってみましょうか、というだけです。

    頂点Oから△ABCに垂線OHを下ろすところまでは同じです。
    上では、点Hを△ABCの重心として解きましたが、今回は、点Hを外心として解いてみましょう。
    外心ならば、正弦定理が使えます。
    あとは、上の答案では、点Hが△ABCの重心であるのは自明の理のようにして解いていましたが、高校数学ですので、外心である根拠も少し示してから解いてみます。

    頂点Oから△ABCに垂線OHを下ろす。
    したがって、△OAHは直角三角形である。
    直角三角形で斜辺と他の1辺がそれぞれ等しいので、
    △OAH≡△OBH≡△OCH
    合同な図形の対応する辺は等しいので、
    AH=BH=CH
    よって、点Hは△ABCの外接円の中心である。

    △ABCにおいて正弦定理より、
    2AH=6/sin60°=4√3
    よって、AH=2√3

    △OAHにおいて三平方の定理より、
    OH=√(8^2-2√3^2)=2√13

    底面積も、数Ⅰの公式を利用して求めましょう。
    △ABC=1/2・6・6・sin60°=9√3

    よって、求める体積は、
    1/3・9√3・2√13=6√39

    はい。同じ答となりました。


    ついでに、ベクトルでこの問題を解いてみましょう。
    ベクトルを使っても、計算はそんなに簡単にはなりませんので、今回はベクトルの無駄遣いかもしれません。

    もう1つ問題があり、ベクトルには→がつくのですが、このブログ上で、文字の上に→をつける方法が見つかりません。
    そこで、ベクトルなのに→がついていないという、気持ち悪いことになります。
    どうか、以下の線分らしき表記の全てには上に→があり、ベクトルなのだと思ってお読みください。
    また、上で解説したように、点Oから△ABCに垂線OHを下ろします。

    OA=a、OB=b、OC=c とおく。
    点Hは△ABCの重心であるから、
    OH=1/3a+1/3b+1/3c
    よって、
    |OH|^2
    =|1/3a+1/3b+1/3c|^2
    =1/9|a|^2+1/9|b|^2+1/9|c|^2+2/9a・b+2/9b・c+2/9c・a

    と、ここまで解いて、内積の値が必要だとわかります。
    ここで、△OAB≡△OBC≡△OCAより、
    a・b=b・c=c・a
    では、内積を求めるために、コサインの値を求めましょう。
    △OABにおいて余弦定理より、
    cos∠AOB=(64+64-36)/2・8・8=23/32
    よって、a・b=|a||b|cos∠AOB=8・8・23/32=46
    すなわち、a・b=b・c=c・a=46

    よって、
    |OH|^2
    =1/9・64+1/9・64+1/9・64+2/9・46+2/9・46+2/9・46=52
    ゆえに、
    |OH|=√52=2√13

    さて、底面積も、ベクトル的に求めましょうか。
    こちらは、ベクトルの旨味がたっぷりありそうです。
    △ABCは1辺が6の正三角形ですから、
    点A(0 , 0)、点B(6 , 0)、点C(3 , 3√3)とおくことができます。
    よって、
    △ABC=1/2|6・3√3-0・3|=9√3

    したがって、求める体積は、
    1/3・9√3・2√13=6√39

    同じ答となりました。

      


  • Posted by セギ at 16:59Comments(0)算数・数学

    2023年01月01日

    お正月なので難問に挑戦。


    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願い申しあげます。
    さて、いきなり問題です。

    問題 上の図の四角形ABCDは長方形で、AB=15、BC=12、CE=9です。DFの長さを求めなさい。

    さて、お正月ですから、じっくり考えるパズル系の難問を。

    じっくり考えたい人は、ここで上の図をメモにとってください。
    少し後ろのほうに解決編を書きます。

    この問題、もしヒントを聞けば、
    「あ、わかる!待って待って!」
    と言う人も多いと思います。
    最初の発想さえわかれば、後は案外簡単なのです。
    しかし、その最初の一歩が踏めない。

    そうです。
    算数・数学は、最初の発想が一番難しい。
    その一歩さえ踏めれば、後は解けることが多いのです。
    最初の一歩をどう発想するか。
    それが課題です。

    1つには場数を踏むこと。
    このような問題を前に解いたことがあり、「ああ、あれだ」と思い出すことができること。
    だから、記憶力は、数学にも必要な力です。
    学んだことがすべて頭の中に入っていて、いつでも使うことができること。

    簡単なことのようで、これが結局一番難しいのだと思います。
    学習したことが、頭の中に残らない。
    新しいことを学ぶと、1つ前に学んだことは忘れてしまう。
    脳が、記憶を消去していく。
    本人が覚えていたいと思っていても、脳が、とにかく消去していく。
    ものを覚えておくことができない・・・。

    あるいは。
    言われれば「あー、知ってる」と思うのだけれど、自力で使うことができない。
    使える知識として脳に入っていない。
    以前から繰り返し書いてきていますが、それは言葉の「理解語彙」と「使用語彙」に似ています。
    私たちは母語である日本語においても、聞けば、あるいは読めば理解できる理解語彙は膨大ですが、自分で実際に使える「使用語彙」はそれよりはずっと少ないのです。
    使える言葉が少ない。
    意味は知っているけれど自分では使えない言葉がたくさんあります。
    数学においても同様で、定理を聞けば、
    「あー、そんなのあった」
    と思い出すことができるけれど、自発的に使用できない定理が多いのです。
    それを増やすこと。
    知っている定理を使えるようにすること。
    それには、問題を多く解き、どの定理をどのように使うのかを把握しておくことが必要になります。
    常に出し入れしていると、さすがに少しは使えるようになってきます。
    言葉もそうですね。

    そして、数学の「応用問題」は、それです。
    定理を応用する問題を「応用問題」と呼びます。
    全く新しいことを自力で発想することは要求されていません。
    そんなのは数学者のやることです。


    さて、解決編です。
    これは、学校では、中3「相似」の単元で学習する問題です。
    相似を利用するのだとわかれば、案外簡単です。
    図の中に、相似な三角形がありますね。
    △DEF∽△CEB
    相似比は?
    DE=15−9=6 だから、
    相似比は、
    6:9=2:3
    ということは、
    DF:CB=2:3
    すなわち、
    DF:12=2:3
    DF=8
    これが答です。
    気がつけば、簡単です。


    別の解き方もあります。
    等積変形を利用するというヒントで、これも、
    「あ、わかる!待って待って!」
    と言う人もいらっしゃるかもしれません。

    等積変形。
    「底辺と高さがそれぞれ等しい2つの三角形の面積は等しい」
    それを利用して、三角形を面積が等しいまま変形することです。
    底辺が一致しているとき、底辺の対角にある頂点が底辺と平行に移動するならば、移動後の三角形の面積は等しい。
    底辺と高さは等しいままですから、当然、面積も等しいままです。
    それを等積変形と呼びます。

    上の問題では、DFの長さを求めよと言われているので、DFを底辺に持つ三角形を考えてみます。
    四角形ABCDは長方形だから、
    AD∥BC
    すなわちDF∥BC
    よって、
    △DFB=△DFC

    ちなみに、合同ではなく、面積が等しい三角形を上のようにイコールで結びます。

    △DFCの面積がわかれば、高さはDC=15ですから、底辺を求めることができます。
    ということは、△DFBの面積がわかればいいということです。

    うん?
    でも、△DFBの面積もわからないぞ?

    ここで、等積変形を学習した際に解いたことのある練習問題を思い出せると楽です。
    面積が等しい2つの三角形が、重なっている部分、すなわち共通部分を持っているとき、残りの面積どうしも等しくなります。
    △DFBと△DFCは、△DEFの部分が重なっています。
    したがって、重なった部分を引いた残りも等しい。
    つまり、
    △BDE=△CEF
    です。
    そして、△BDEのほうは、面積を求めることができます。

    図より、DE=15-9=6
    よって、
    △BDE=6×12×1/2=36
    すなわち、
    △CEF=36

    わかりました!
    △CEFの底辺をCE=9と見たときの、高さは、求めたかったDFです!
    よって、
    9×DF×1/2=36
    9DF=72
    DF=8


    いかがでしょうか。
    大人は、「なあんだ、そうかあ」と楽しんでくださればいいのですが、小学生・中学生の皆さんは、こうした解き方を頭の中に入れておきましょう。
    問題の解き方の作業手順ではなく、発想を覚えてください。

      


  • Posted by セギ at 11:31Comments(0)算数・数学

    2022年12月13日

    中3数学。「相似」か「三平方の定理」か。


    問題 上の図は、長方形ABCDの紙を、頂点Dが辺BC上にくるように折り返したものである。辺BC上の点Fは、頂点Dが移った点、AEは折り返し目の線である。AD=15、DE=5のとき、ABの長さを求めよ。

    この問題は、難問の部類に入ると思います。
    中学生は、三平方の定理を学ぶと、直角三角形を見ればすぐに三平方の定理というように、発想が固定化されがちです。
    頭が固い。
    発想の幅が狭い。
    そのあげく、角度の指定などは一切ないのに、見た目が少し似ているというだけで、30°、60°、90°の特別な比の直角三角形を使って解いてしまうことさえあります。
    そうであってほしいという願望が見せる夢なのでしょうか?

    しかし、この問題は、三平方の定理だけで解くことはできない問題です。
    これは、「相似」の問題なのです。

    しかも、これは段階を踏んで解いていかなければならない問題です。
    そして、多くの中学生は、段階を踏んで解いていく問題が苦手です。
    論理を追えないのです。

    複雑な問題を解く方法は大きく分けて2通り。
    ①今、わかることは何かを考えて、とりあえずそれを求めていくうちに問題がほぐれてくる、という解き方。
    ②答を出すためには、何の値が必要であるかを考えて、そこから、逆に逆にさかのぼっていく解き方。

    数学が苦手な子は、①ができません。
    「今、わかることは何かな?」
    と問いかけても、
    「わかることはない」
    と答えてしまいます。
    小学生の頃のように、問題を読んだら、ぱっと解答への筋道が見えるのが問題を解くということだという意識が強いせいなのか、答とは関係ないけど、とりあえず求められるものを求めるということが、そもそもよくわからない。
    「これを求められるでしょう?」
    と言われたときに、反応は2つ。
    「何だ、そんなのでいいのか」という反応。
    「え、そんなのが求められるなんて思わなかった」という反応。

    この場合、「何だ、そんなのでいいのか」という感想の子のほうが、正解に近いような印象がありますが、実際には、まだまだはるかに遠いのです。
    「そんなのでいいのか」と思うということは、本人の判断基準に誤りがあるということ。
    正解への道をわざわざ除外するような発想しかできないということ。
    こういう考え方の癖は、なかなか治らないです。

    そして、数学が苦手な子は、②もできません。
    論理的思考ということがそもそも苦手で、解説を聞いても、何の話をされているのか、理解できない。
    AならばBで、BならばCである。
    だから、AならばCである。
    こうした単純な論法すら、なかなか理解できないようです。
    間にBを挟むということが、理解できないのです。
    なぜBを挟まなければならないのか、わからない。
    だから、直接答に至る解き方以外は理解できない。


    今回は②の解き方で上の問題を解いてみましょう。

    求めるものは、ABの長さです。
    では、ABを1辺としてもつ三角形と、それと相似なもう1つの三角形があるのではないか?
    そうした発想で図を見てみると、ありますね。

    △ABF∽△FCE
    相似比は?
    対応する辺で長さがわかっているのは、
    AF:FE=15:5=3:1
    です。

    問題を解く際に証明は必要ありませんが、なぜ相似なのかわからない人のために、証明を以下に書きます。

    △ABFと△FCEにおいて
    ∠B=∠C=90° ・・・①
    また、
    三角形の内角の和は180°なので、
    ∠BAF=180°-∠B-∠BFA=180°-90°-∠BFA=90°-∠BFA
    1直線は180°なので、
    ∠CFE=180°-∠C-∠BFA=180°-90°-∠BFA=90°-∠BFA
    よって、
    ∠BAF=∠CFE ・・・②
    ①、②より、
    2組の角がそれぞれ等しいので、
    △ABF∽△FCE

    この、角度の引き算から等しいことを示すパターンは、多くの証明問題で使います。
    証明問題は「仮定」と「共通」しか使えない子。
    「対頂角は等しい」「平行線の錯角は等しい」などのよく使う定理だけはどうにか使える子。
    そうした子たちと差をつける出題で、これだけで、1段階、問題のレベルが上がります。

    ともあれ、証明はできなくても、多分相似だろうという感覚だけでも、この問題を解くことは可能です。
    問題に戻りましょう。
    △ABF∽△FCE
    相似比は?
    対応する辺で長さがわかっているのは、
    AF:FE=15:5=3:1

    ここで、AF=15、FE=5に気がついていない場合もあります。
    これは、中学受験の算数の問題でもそうですが、図形の折り返し問題では、折り返す前と折り返した後は、辺の長さも角度も変わらないということを理解していない子が一定数います。
    気がついていないだけで、言われればわかる子もいますが、言われてもわからない子もいます。
    「折り返したら長さが変わるのだったら、折り紙なんかできないでしょう?」
    と話すと、ああそうかと思う子もいますが、それも何のことかわからない様子でぼんやりしてしまう子もいます。

    当然そうなるだろうことが、あまり理解できないようなのです。
    こういうことは、子どもの頃に知育玩具を与えればどうにかなるというレベルのことではないと思います。
    ものを考える子は、折り紙1枚でも、何かを考えながら折ります。
    ものを考えない子は、知育玩具を与えられても、力任せに遊ぶだけで、知的な発達はありません。
    そして、ものを考えるか考えないかは、生まれつきの場合か、そうでなければ周囲の大人がものを考える方向に仕向けなければならないのだと思うのです。
    与えときゃ大丈夫、というわけにはいかないのです。

    ものを考えないというよりも、発想の幅が狭いのかもしれません。
    あるいは、予見性が低い。
    こうするとどうなる、と論理的に考えない。
    そういうことでもあるのかもしれません。

    それは大人でもそうで、例えば、エレベーターを待っているとき。
    ドアの開いたエレベーターに誰も乗っていない様子なので入ろうとすると、ドアの影からふいに人が出てきて驚くことがあります。
    エレベーターのドアは、横に順に開いていきます。
    そして、ドアが吸い込まれていく方向に、大抵、開閉ボタンがあります。
    そこの開閉ボタンを押したまま、その位置でずっと乗っている痩せた女性などは、かなりドアが開かないと存在が見えない。
    ドアが完全に開くまで私は一歩下がって待ち、中の様子を見てから入るのですが、それでも、「大丈夫そう」と思った瞬間に出てくる痩せた女に恐怖の叫びを上げそうになるときがあります。
    心臓に悪いから、本当にやめてほしい。
    エレベーター内では、ドアが開いてすぐ見える位置に立って待つということが、なぜできないのか?
    本人も、エレベーターから出ようとしたら、自分が出るより先に入ろうとする人がいて、不快な思いをすることが多いのではないか?
    それは、相手が失礼なのではなく、自分の立ち位置がおかしいのだという発想を1度でも抱いたことはあるのでしょうか。
    このタイプの痩せた女に、私はいくつものエレベーターで出会ってきました。
    特定の誰かというのではなく、そういう人がかなりいるということなのだと思うのです。

    一方、エレベーターを待っている側も、スマホを見ながら待っていて、ドアさえ開けばスマホに目を落としたまま入ってくるという暴挙に出る人もいます。
    中に人が乗っているという発想がないのでしょう。
    一度でも、中から出てくる人とぶつかりかけて、あ、まずいと感じたことはないのか?
    感じたら、以後はやめないか?

    こうしたことを見る度に、世の中の大人にも予見性の低い人、論理的にものを考えない人はいると感じるのです。
    交通事故も、避けられなかった種類のものもあるでしょうか、こうした予見性の低い人がやらかしてしまう事故も多いと思うのです。
    子どもだけを責められるわけではないのです。


    問題に戻りましょう。
    △ABF∽△FCE
    ならば、相似比は?
    対応する辺で長さがわかっているのは、
    AF:FE=15:5=3:1

    よし、これでいけますね。
    AB=x とおく。
    相似な三角形の対応する辺だから、
    FC=1/3x
    四角形ABCDは長方形だから、
    AB=CD=x
    よって、CE=x-5
    相似な三角形の対応する辺だから、
    BF=3(x-5)

    よし、これで求められます。
    x についての方程式を立てることができますね。
    BC=AD=15 です。
    また、
    BC=BF+FC です。
    よって、
    3(x-5)+1/3x=15
    3x-15+1/3x=15
    3x+1/3x=30
    9x+x=90
    10x=90
    x=9
    よって、AB=9 です。

    これは、最後の方程式を求める部分で、三平方の定理を使うこともできます。
    △ABFにおいて、三平方の定理より、
    x^2+3(x-5)^2=15^2
    という式を立てれば求められます。
    2次方程式になる分だけ計算が面倒なので勧めませんが、それしか発想できなかったのならそれでいいと思います。

      


  • Posted by セギ at 14:45Comments(0)算数・数学

    2022年12月09日

    伸びる学習、伸びない学習。


    少し前から、勉強が苦手な子たちの中に、会話が成立しない子が増えていると感じてきました。
    根本の学力が低いというのではないのです。
    ただ、言語能力は低い。
    人の話を聞くのが苦手で、まだらにしか話を聞いていない様子で、解説を理解できないのです。
    それでいて「わからない」と言うこともできない様子です。
    さあ問題を解いてみましょう、と声をかけると、慌ててテキストの例題解説を読んでいたりします。
    「今、解説しましたよね」
    と言いたいのを我慢して様子を見ていると、例題解説を読むのにも苦労している様子です。
    文字を読むのも苦手で、テキストの解説や例題も、斜め読みや飛ばし読みしかできない。
    学習にアクセスする手段を本人が持たないのです。
    問いかけても、こちらが期待するような返事はなかなか返ってきません。

    だから、1度は普通に解説をし、さて問題を解くという段になって、本人がテキストの例題解説を読んでも理解できずに首を傾げるようになってから、ゆっくり問いかけます。
    「もう1度解説しましょうか?」
    それに対しても、反応があるまで時間がかかります。
    本人なりに悩んでいるのでしょう。
    例題解説を読めば理解できるのか、理解できないのか。
    その判断も上手くできない。
    もう1度解説を聞いたら理解できるのか、理解できないのか。
    それも判断できない。
    しばらく待ってから、返事はないままもう1度解説します。
    それでも、理解できないこともあります。
    さらにもう1度解説します。
    2度手間、3度手間は、今は普通のことです。
    それでも、理解してくれれば上出来なのです。

    例えば、中3数学の「三平方の定理」をなかなか理解できない子がいました。
    説明しても理解できない。
    本人がテキストの解説を読んでも、理解できない。
    普段から言葉が通じにくいとは感じていましたが、三平方の定理を理解できないというのはかなり珍しいので、どうしたものかと思案していると、本人が突然叫びました。
    「あ、直角三角形?」

    いやいやいや。
    最初に強調して説明しましたよ?
    途中でも、何度もそう言いましたよ?
    何で聞いていないの?

    最初に聞き逃して、勘違いしてしまうと、後は音声情報も文字情報も本人に届かず、なかなか訂正できないようなのです。
    まだらにしか聞いていないので、常に誤解しやすい。
    これは大変だ。

    言語的アプローチが難しい。
    そういう子たちのために、マンガや動画を多用した教育ツールや、ゲーム感覚で勉強できるアプリなどが作られるのは結構なことだと思いますが、さて、その先、その子たちはどうするのだろうと考えると気持ちが暗くなります。
    就職した先で、上司は、マンガや動画で面白おかしく仕事を説明してくれるのだろうか?
    アルバイトならば、そういう研修もありそうだけれど・・・。
    ・・・所詮、アルバイトしかできない人材だということ?
    人の話を聞けないし、文書も読めないのだから、それは仕方ないことなのか・・・。

    しかし、人の話を聞けないし、文書も読めないのは事実ですが、辛抱強くアクセスし、本人が理解できれば、どの科目の問題も解くことができるのです。
    頭が悪いわけではないのです。
    これは、勿体ない・・・。
    そういう生徒を目にするにつけ、やはり根本の、人の話を聞くことができて文書を読めるようにすることが必要だと思うのです。
    その補助として他のツールを活用するのは、それは良いことですが。


    言葉が通じにくいということは、授業態度の貪欲さにも影響するようです。
    「これはテストに出ますよ」
    そのように言えば、秀才たちは食いついてきます。
    しかし、言葉の通じにくい子たちは、興味なさそうなのです。
    相手の言葉が理解できないという面の他に、相手の言うことを理解できても重視しないという面もあるのかもしれません。
    言葉が通じにくいからなおさらそうなるのかもしれませんが、本人の中で何か完結しているような気配があります。

    「テストに出る」というのは、その学校の定期テストの過去問を集めて分析して、といったちまちました対策ではありません。
    大事なことがテストに出る。
    絶対に身につけるべきことがテストに出る。
    そういう観点で話しています。
    その上で、出題傾向というものもありますから、短問形式はこういう内容が出ることが多いからそれは沢山練習して、後半の大きい問題はこの典型題か、もしくはこれだろうから重点演習して、というやり方をしています。
    それでも、興味なさそうなのです。

    私の言うことを信用していないからなのか?
    これは半分はそうで、半分はそうではないのではないかと思います。

    私が「テストに出るよ」といった問題が実際に出て、
    「ほら、この問題がやっぱりテストに出たでしょう」
    と言っても、愛想笑いはしますが、その次のテストでは、また同じことの繰り返し。
    証拠を示したところで、信用するわけではないのです。

    言葉が通じにくい子、勉強ができない子にも、テスト対策に対して、それなりの持論はあります。
    言葉で上手く説明することはできないでしょうけれど、漠然と思っていることはあるはずです。
    その「持論」が頓珍漢だからテストの点数が低いのですが、本人はその「持論」を変えるつもりがない。
    だから、その「持論」とは相容れない私の「テストに出るよ」は受け入れない・・・。
    そういうことではないかと思うのです。

    例えば、本人にとって非常に難しいと感じる問題は、
    「難しいから、こういうのはテストに出ない」
    という持論。

    前にも話しましたが、例えば高校数学で、x 以外の文字が多用されているような問題は、
    「こんなのは自分の思う数学ではないから、テストには出ない」
    という持論。

    もっとも恐ろしい「持論」は、本人は、自分のことをそれほど勉強ができないとは思っていない・・・。
    だから、改善する必要はない。
    自分の考えていることが正しいのだという「持論」。

    伸びない子は、
    「自分はどうせ勉強はできない」
    と諦めている子ばかりではありません。
    現実を直視せず、
    「自分はそれなりに勉強はできる」
    と思っている子のほうが今は多いように感じます。
    だから、「持論」を捨てられないのではないか?
    言語によるアプローチの難しい子たちも、自分の能力を低いとは思っていないようです。
    むしろ、日本中の同学年全体の中では上の下くらいには位置していると思っているのかもしれません。
    言語能力の低さは自己評価の低さにはつながりません。

    ただ、現在の本人の、
    「自分はそれなりに勉強ができる」
    は誤解ですが、将来その子が伸びる可能性があるのは事実です。
    妄想を現実に変えていくには、では、どうしたらよいのか?

    変な癖はある。
    だが、理解力もある。

    言語能力の低さを改善したいという要求すら本人にはない。
    しかし、これは何とかしなければまずい。
    頭の働き自体はむしろ良いほうかもしれず、それだけは事実なのですから。
    手さぐりしながら、その子が取るべき本来の得点を取ってもらう。
    そのように努力している途中です。

    そう簡単なことではありません。

    伸びる子の指導は楽なんです。
    例えば、今、うちの塾で圧倒的に数学のできる子は、入会当初は、判別式のD/4を使えませんでした。
    「全部 Dでやればいいかと思って」
    「・・・うん。でも、D/4で計算したほうが数字が小さくて済むので計算が楽ですし速いですよ」
    そのような会話を1度交わしました。
    その次の授業からは、その子は、D/4を完全にマスターしていました。

    1度の助言で完全マスター。
    これほど楽なことはありません。
    一方、言語能力が低く、成績がなかなか伸びない子たちは、一様に、D/4を覚えません。
    助言をしても覚えないし使わないのです。

    Dで計算しても、いいんです。
    それが間違いなわけではないんです。
    でも、D/4で計算したほうが楽だし速い、という助言を聴き流す子たちは、一様に数学が苦手です。
    D/4の公式を覚えることがつらくて、覚えられないのか?
    Dでも済むものを、D/4までいちいち覚えるのは無駄だと独自の判断をしてしまうのか?
    そんなのどうでもいいやと聴き流してしまうのか?
    使ったほうがいいとは理解しているが、問題を解くときになると忘れてしまってDを使ってしまうのか?
    D/4で計算したほうが楽だし速い、という解説を、そもそも聴いていないか理解していないのか?

    ことはD/4の話に限りません。
    これは氷山の一角です。

    言葉が通じにくい。
    そもそも理解するのに時間がかかる。
    そして、理解しても、受け入れない。
    助言を聞き入れない。

    助言が結局すべて言語による伝達であることを思うと、言語能力に課題のある子の指導の難しさを改めて思います。
    私がアニメキャラクターになって、
    「D/4を使える子は、数学の成績が上がるよ」
    とアニメ声で伝えれば、彼らの心に届くのでしょうか。
    いやいやいや・・・。


      


  • Posted by セギ at 14:10Comments(0)算数・数学

    2022年12月01日

    算数・数学。比例配分のちょっとした難問。


    今回は、比例配分に関するちょっとした難問を解いてみます。
    こんな問題です。

    問題
    80枚の色紙を姉と妹で分けました。姉が10枚を友達にあげたので、姉と妹の色紙の枚数の比は3:2になりました。姉と妹は、はじめどのような比で色紙を分けましたか。

    まずは小学生としての解き方から。
    受験算数的に解くと。
    これは、線分図を描くことを苦にしない子なら、何でもない問題です。
    比例配分の場合、線分図は1本でも、2本描いても、間違いではありません。
    「分配算」という定形の問題としてとらえれば、線分図は2本描きます。
    今回は1本の線分図で考えてみましょう。
    まず、全体が80枚であることを端から端までで示します。
    姉が10枚を友達にあげたので、右でも左でも、どちらでもいいですから、10枚をとりのぞきます。
    今回、姉が左側と考えるほうが自然なので、左から10枚取ると見やすいでしょう。
    その残りを3:2に分けます。
    ③+②のあわせて⑤が、80-10=70(枚)であることが、見てとれます。
    ①にあたる量は、70÷5=14
    ③は、14×3=42
    ②は、14×2=28
    ただし、③である姉は、本当は友達にあげた10枚分多く持っていたのですから、
    姉は、42+10=52(枚)
    妹は、28枚。
    よって、はじめの比は、
    52:28=13:7
    答は、13:7 です。

    このように解くならば、
    「え?この問題の何が難しいの?」
    と感じる人も多いと思うのですが、描けそうで描けないのが、線分図です。
    どれだけ教えこんでも、何だか頭の奥まで沁みていっている気配がなく、型通りの問題を型通りに解くことにしか線分図を使えない子は受験生でも多いです。
    線分の長さが何かの数量を表しているという根本を理解できていないのかもしれません。
    あるいは、算数の問題を解くということは解き方の手順を覚えることだと思っているので、今までと少し見た目の違う問題は、手順がわからず、だから解けないということになってしまう子も多いです。
    和差算などの定型の問題を定型の線分図を描いて解くことしかできないのです。
    「線分図を描いて考えてみたら?」
    と声をかけても、
    「描き方がわからない」
    という答が返ってきます。

    そうした子たちは、線分図を描いたからこそ解けた、という体験がないのだと思うのです。
    問題を解くだけでも難しいのに、線分図を描くという苦役まで加わっている・・・。
    そのような感覚しかないのだと思います。

    算数の問題は、自分で解き方を考えるもの。
    その補助をしてくれるのか線分図です。
    しかし、そうした発想のない子は多いです。
    算数は、とにかく解き方を覚えるもの。
    線分図も描き方を覚えるもの。
    だから、見たことのない問題なんか解けるわけがない。
    暗記、暗記、暗記。
    作業手順の暗記。
    そういうことになってしまっている受験生が実際には多いのです。
    昔は中学受験を考えなかっただろう学力層の子が今は受験することが増えていますから、そういう実態になっています。

    といっても、諦める必要はありません。
    そのように努力している受験生を受け入れるための入試問題を作っている中学もあるので、それで合格できます。
    見事に定型の基本問題が並んでいる入試問題。
    これができないのは、努力不足。
    暗記し反復練習した子なら、解ける。
    そういう入試問題です。

    そんな中学に入っても・・・と思う必要もないと思います。
    同じ学力の子がそろっている中学でのびのび学習する中で、何かの拍子に数学が理解できるようになるという可能性もゼロではないからです。
    そのような学校は、中学でも高校でも、学校が沢山の課題を出して、勉強の面倒を見てくれます。
    それにそってこつこつ真面目に勉強していれば、それなりに何とかなる。
    そういう私立は多いです。


    ところで、中学受験をしない小学生でも、6年生になれば「比」は学習します。
    上のような比例配分の問題も、公立小学校でも学習しますが、単元の最後の応用問題という扱いで、理解できないまま終わる子も多いところです。
    これが理解できないと、中学で比を活用できないのに・・・。
    そう思うのですが、小学校の算数で学びそこねてしまうのです。
    今、上の問題を簡略化してみましょう。
    「70枚の色紙を姉と妹に3:2に分けました。姉は何枚もらったでしょう」
    という問題に変えてみます。
    それでも解けない子はいます。
    教科書に載っている例題の解き方、そして、勿論、中学・高校で活用するために私も推奨する解き方は、
    70×3/5=42(枚)
    です。
    でも、この解き方ができないのです。
    70÷3
    といった、よくわからない式を立ててしまうことが多いです。
    70×2/3
    という式もよく見ます。

    公立小学校でも、5年生で「割合」は学習していますから、
    もとにする量×割合
    という式は使えるはずなのですが、「割合」を理解できないまま忌避し、2度と使うつもりがない気でいる6年生は多いです。
    「割合」は、一生使うんですよー。
    中学でも高校でも、多くの単元で使うんですよー。
    そういう私の声が、呪いに聞こえることもあるかと思います。

    「3:2のうちの3ということは、5個に分けたうちの3個分。それは、全体の3/5ということですよね」
    という説明がすっと頭に入る子と、よくわからないまま迎合してうなずく子と。
    「全体の3/5ということは、全体×3/5ということです」
    という説明がすっと頭に入る子と、全く理解できないまま、わかったふりをしてうなずく子と。

    わからないときに、
    「わからない!」
    と声を上げることができれば、形勢は逆転するのに、それができない。
    諦めて、丸暗記しようとする子がいます。
    学校の授業では、ある意味仕方ないかもしれません。
    理解できる子たちの邪魔になりますから。
    冷たい視線を浴びるでしょう。
    わかったふりをしているほうが安全。
    それが習い性になり、個別指導でも、わかったふりをするのでしょうか。

    「3:2のうちの3ということは、5個に分けたうちの3個分。それは、全体の3/5ということですよね」
    という説明が理解できないとなると、これはもしかしたら分数の意味が理解できていないのではないかという疑いがあり、もし生徒に「わからない」と言われれば、ここからは私の闘いです。
    本当に根本的なことほど、全く理解できていない子は存在します。
    ほおっておけば、そのまま、中学生になり、高校生になります。
    どういう説明をすれば、その子は理解できるのだろう?

    一方、
    「全体の3/5ということは、全体×3/5ということです」
    この説明が理解できない子は、「割合」が理解できていない子です。
    そして、それは仕方ない面もあります。
    もとにする量×割合
    という公式に、実は、意味はありません。
    比べられる量÷もとにする量=割合
    という公式を変形しただけだからです。
    だから、子どもがそれを実感できないのは当然のことです。
    何でかけ算なの?
    そう思う子がいても当然です。

    「速さ」の公式を、「速さの3公式」と呼ぶのに対し、「割合」の公式は「割合の3用法」と呼びます。
    速さの3本の公式は、それぞれ意味を伴っていますが、「割合」の公式で意味があるのは、1本目だけです。
    あとは、その1本を変形しただけの式。
    運用上の式です。
    だから、「割合の3用法」と呼びます。

    もとにする量×割合=比べられる量
    この式は、実感をともなうものではないので、理解できないことはそんなにおかしいことではありません。
    大人は、それが実感だと誤解するほどにこの式を長年使い倒してきただけのことです。
    本当に本当のところで、実感はありません。

    70の2個分を求めるなら、70×2。
    だから、
    70の3/5を求めるときも、70×3/5。

    この説明ですっと納得する子は、数学センスのある子です。
    整数で言えることは、分数でも言えるんだー。
    そういう仕組みになっているんだー。
    システム、すげー。
    算数・数学すげー、と感動できる子です。

    「分数はまた話が別なんじゃないの?」
    と思う子がいても仕方ありません。

    70の3/5ということは、70を5つに分けた、その3個分。
    70÷5×3
    =70×1/5×3
    =70×3/5

    こういう説明が理解できる子は、さらに数学センスのある子です。
    分数に関する式の操作は意味がわからない子のほうが多いです。

    もう諦めて暗記して、実感がもてるようになるのを待つしかないのか?
    理解できなくても、正しい解き方を暗記して、それを利用し続け、いつか実感になるのなら、それでもいいのかもしれません。
    でも、理解できないまま、間違った解き方を繰り返し、それが頭に残って、永久に間違い続ける子もまた多いのです。


    問題に戻りましょう。

    問題
    80枚の色紙を姉と妹で分けました。姉が10枚を友達にあげたので、姉と妹の色紙の枚数の比は3:2になりました。姉と妹は、はじめどのような比で色紙を分けましたか。

    受験をしない小学生にとっては、これは、「比」の学習の中での最高難度の問題です。
    線分図の描き方など、習ったことがありません。
    さて、どう解くか?

    それでも、問題の意味を深く理解できる子なら、解けるのです。
    姉が友達にあげた10枚を除外して考えるという発想さえもてるならば。
    姉と妹の色紙の枚数の比が3:2になっているとき、全体は、
    80-10=70(枚)
    あとは、比例配分で、姉は、
    70×3/5=42
    でも、姉は本当はもう10枚持っていたのだから、
    42+10=52
    一方、妹の枚数は、
    70×2/5=28
    でもいいし、
    80-52=28
    でも求められる。
    よって、その比は、
    52:28=13:7



    最後に、これを中学生の1次方程式として解きましょう。
    はじめの姉の枚数をx枚としましょう。
    すると、妹は、(80-x)枚。
    しかし、姉は友達に10枚あげましたから、今持っているのは、(x-10)枚。
    これで比例式を立てます。
    (x-10):(80-x)=3:2
    内項の積=外項の積 であることを利用して、方程式に直します。
    2(x-10)=3(80-x)
    2x-20=240-3x
    5x=260
    x=52
    よって、妹の枚数は、80-52=28(枚)
    はじめの比は、
    52:28=13:7

    となります。
    同じ答になりました。
    中学1年生の1次方程式の文章題としても、これはある程度の難度の問題です。

      


  • Posted by セギ at 14:45Comments(0)算数・数学