2024年09月06日
図形の回転移動。正三角形の回転。
問題 1辺の長さが8㎝の正三角形を上の図の線分に沿ってすべらないように、アの位置まで回転させる。頂点Aが回転した跡の曲線の長さを求めよ。
「うちの子は、この問題を全く理解していません!」
という悲鳴にも似たご連絡をいただいて、授業をしたことがあります。
類題を含め何を解いても誤答なのは事実だったのですが、全く理解していないのかというと、そうではありませんでした。
こういう問題を解く場合、頂点Aの軌跡を実際に描いていきます。
そのために、まずは、回転後の正三角形をあるだけ描きこんでいく必要が生じます。
小学生の場合、そうした図は、げんなりするほど雑です。
下手なのは仕方ないのですが、雑なのは回避したいのです。
正三角形の大きさが極端に不揃い。
曲がり角のところに頂点が来ない。
隣りあう三角形の頂点が一致しない。
そして、自分の描いた雑な図が、自分の足を引っ張っていることに無自覚です。
授業中退屈で描いているいたずら書きは緻密なのに、なぜ、算数の図はこんなに雑なのか?
以前も書きましたが、私が子どもだった頃は、逆に、算数・数学の図は緻密でしたが、図画工作や美術の授業で描く絵は、雑でした。
例えば人物画を描くと、顔はまあまあ丁寧に描くのですが、着ている服は、単色をぬりたくって、終わりでした。
服のしわとか、光の加減とか、全く考えていませんでした。
そういうことを考えなければならないという発想がなかったのです。
だから、算数・数学の図を雑に描いている子たちは、私とは感覚が逆で、算数・数学の図は丁寧に描かなければならないという発想がないのだと思うのです。
人物画は服や背景まで丁寧に描く、という発想がなかった私には、絵の才能がありませんでした。
それと同様に考えれば、算数・数学の図を丁寧に描くという発想がない子たちは、算数・数学の才能がないのでしょうか。
それは、ある意味そうだと思いますが、それで切り捨てていいものでもありません。
子どもだった私に「服まで丁寧に描きなさい」と助言してくれる人が誰もいなかったから、私は、高校生になってもそのままだったけれど、もしその助言があったら、違っていたかもしれないのです。
本当にエアポケットのように、私の絵について誰も何も言いませんでした。
言うほどの価値のある絵ではなかったからでしょう。
誰も私にそういうことは期待していなかった。
でも、助言があれば、多少はましな絵が描けるようになっていたかもしれません。
同じように、もし助言して直るものであるなら、算数・数学の図を丁寧に描くことで、そこそこ算数・数学が得意になる可能性はあるのです。
算数・数学が他の教科の足を引っ張らないように、そこそこできるようになりたい、というのが切実な願いである生徒と保護者の方は多いと思います。
絵の才能がないので、下の私の手書きの図も、下手です。
でも、算数・数学の問題を解く上で必要な緻密さは、クリアしています。
端々は、押さえてあるのです。
問題を解く上で不都合になるようなことはない。
目標はそれであり、それは、誰にでも可能なことだと思います。
さて、必要な図を描きこんでみました。
正三角形はこの図のように回転していき、頂点Aの軌跡は、上の水色の曲線になります。
自力ではこの図を描けない、という子は多いです。
例えば、点の軌跡が、直線になってしまう子。
回転移動ということがイメージできないのです。
曲線を描くということはかろうじて理解できるが、その弧が隣りに描いた三角形の頂点を通っていくということがイメージできない子も多いです。
ひらがなの「つ」みたいな、潰れた奇妙な曲線を描きます。
「へ」に少し丸みがついたような曲線の子も多いです。
これは、昔の子どもも今の子どももそうです。
現代の子は動画世代と言われても、動画的なイメージ力が高いわけではありません。
受動的であるだけ、むしろイメージする力は貧困である可能性すらあります。
それでも、イメージする力がなければ、知識で補正すれはいいのです。
知識で補えばいいのですが、正しい図が正しく見えないという課題を抱えている子もいます。
頂点Aがそのように美しいおうぎ形の弧を描くことがイメージできない。
「へ」みたいな動きしかイメージできない。
そして、その間違ったイメージに、固執してしまう・・・。
本当に理解できない場合は、正三角形をボール紙などで作り、それをホワイトボードの上で実際に回転させてみるなどの授業の工夫が必要になります。
「うちの子は、この問題を全く理解していません!」
というご連絡をいただいた当のお子さんは、そこまでしなくても、理解できました。
図の描き方がおそろしく雑で、点の軌跡が「へ」みたい、という課題はありましたが、正しい弧を描いてみせると、納得していました。
おうぎ形の弧を描いて回転することを、解説しても理解できない子は大勢います。
解説を聞いて理解できるのなら、大したものです。
図形は、もっと壊滅的に理解できない子たちがいるのです。
理解できないのだから、もう仕方ないのだろうか、と思うほどに理解できないのです。
図形が回転するということが、そもそも理解できない。
三角形が動くはずがないので、理解できない。
角ばった図形が曲線を描いて回転することが、理解できない。
空間図形になると、理解不足はもっと深刻になります。
平面的なテキストから空間をイメージすることが難しいからでしょうか。
高校生で、正四面体の見取り図を描くことができず、真上から見たような平面的な図しか描けなかった子。
「円」と「球」の違いが、どうしても理解できなかった子。
面積と体積は同じものだと思い、1㎡=10000㎠だったり1㎥=1000000㎤だったりするのは、先生が勘違いしているからだと思い込んでいた子。
底知れない深淵が、そこには存在します。
その子は、説明されれば理解できる子でした。
では、その子の課題は何だったのか?
図を描くのと同様に、解き方も雑だったのです。
上の図の水色のおうぎ形はどれも、半径8㎝のおうぎ形です。
中心角の合計は、図から、
120°+210°+120°=350°
です。
では、どのような式を立てればいいか?
その子の立てた式は、
350×16
というものでした。
・・・何それ?
確かに、これは「何も理解していない」と見ることもできます。
ただ、これには理由があるのでした。
正しい式は、
16×3.14×350/360
です。
その式を説明すると、それも理解できたのです。
この式が理解できるというのは、かなり高度なことです。
中学生でも、この式を理解できない子は普通にいます。
割合の考え方や分配法則を理解していなければ、この式は理解できないのです。
ただ、その子は、類題を解くと、
270/360×16×3.14
という式を立てました。
使っている数値に間違いはありませんでした。
これは、計算しやすさを優先した式です。
約分するものを先に書いて、最後に計算する×3.14は後に書いていたのです。
かけ算は、どこから計算しても同じですから。
かけ算の交換法則を理解している子に、こういう式を書く子がいます。
例えば、円の面積を求める式でも、
3.14×36
といった式を立てます。
正しい式は、
6×6×3.14
です。
結果が同じなんだから、別にいいじゃないか。
それは、算数・数学の解き方が緻密な子にだけ通用することです。
円の面積を求める際に、
3.14×36
という式を立てる子の中には、「円」の単元が終わると、もう公式を忘れてしまう子がざらにいます。
そうなると、この式の意味は後退し、自分でノートを見返しても、何をしたのかわからなくなります。
他の単元で円の面積を求めることが必要になったときに、公式が出てこないのです。
練習の際にしっかりと公式通りに式を書いていないことが、それに影響していないはずがありません。
立式と計算は別のものです。
立式は、
6×6×3.14
実際の筆算は、
3.14×36
このメリハリがなく、ぐちゃっと潰れて一緒になってしまっている子は、時間が経つと、正しい立式をできなくなる可能性があるのです。
「割合」の単元などでも、それが顕著です。
例えば、「比べる量÷割合」という公式通りに正しい立式をするならば、
200÷4/3
という式を立てるべきところを、計算の工夫を優先させ過ぎたあげくに間違えて、
1/200×4/3
という式を立ててしまう子は少なくありません。
「かけ算は順番は関係ない」という知識と、「分数のわり算は、逆数のかけ算」という知識が歪んだ形で合体すると、こういう間違った式になります。
200÷4/3
=200×3/4
としていけば間違えないところで、くだらない誤答を繰り返すのです。
それは、算数が苦手だからでも、理解していないからでもなく、雑なだけです。
君は、算数が理解できないのではなく、雑なんだよ。
理解はしているんだよ。
交換法則や分配法則が理解できているだけで、立派なものだよ。
それがわからない子も大勢いるんだよ。
私は、分配法則が理解できない子たちと長年格闘してきたんだよ。
雑に間違わないでくれよ、頼むから。
そう思うことは多いです。
350×16
という間違った式は、
16×3.14×350/360
という正しい式の、なれの果ての式、なのだと思います。
順番はどうでもいいという知識が雑に入り込み、結局、記憶の中に、正しい式の片りんしか残らなかったのです。
常に正しい順番で公式通りに式を書いていくことには、意味があります。
どういう公式を使用して、どのように解いているか、答案を読む人に伝える、という意味でも、それは重要なことです。
計算の結果が同じだからいいだろう、ではないのです。
ただ、こうも思うのです。
これだけ計算の工夫を考えて式を立てられるのだから、理解していないということはない。
ただ、すべてが雑なので、正答に至ることはない。
実に勿体ないのです。
内側に、原石の光が見える。
ただ、本人すら、その光に気づいていない。
そんなことも、あります。
「うちの子は、この問題を全く理解していません!」
という悲鳴にも似たご連絡をいただいて、授業をしたことがあります。
類題を含め何を解いても誤答なのは事実だったのですが、全く理解していないのかというと、そうではありませんでした。
こういう問題を解く場合、頂点Aの軌跡を実際に描いていきます。
そのために、まずは、回転後の正三角形をあるだけ描きこんでいく必要が生じます。
小学生の場合、そうした図は、げんなりするほど雑です。
下手なのは仕方ないのですが、雑なのは回避したいのです。
正三角形の大きさが極端に不揃い。
曲がり角のところに頂点が来ない。
隣りあう三角形の頂点が一致しない。
そして、自分の描いた雑な図が、自分の足を引っ張っていることに無自覚です。
授業中退屈で描いているいたずら書きは緻密なのに、なぜ、算数の図はこんなに雑なのか?
以前も書きましたが、私が子どもだった頃は、逆に、算数・数学の図は緻密でしたが、図画工作や美術の授業で描く絵は、雑でした。
例えば人物画を描くと、顔はまあまあ丁寧に描くのですが、着ている服は、単色をぬりたくって、終わりでした。
服のしわとか、光の加減とか、全く考えていませんでした。
そういうことを考えなければならないという発想がなかったのです。
だから、算数・数学の図を雑に描いている子たちは、私とは感覚が逆で、算数・数学の図は丁寧に描かなければならないという発想がないのだと思うのです。
人物画は服や背景まで丁寧に描く、という発想がなかった私には、絵の才能がありませんでした。
それと同様に考えれば、算数・数学の図を丁寧に描くという発想がない子たちは、算数・数学の才能がないのでしょうか。
それは、ある意味そうだと思いますが、それで切り捨てていいものでもありません。
子どもだった私に「服まで丁寧に描きなさい」と助言してくれる人が誰もいなかったから、私は、高校生になってもそのままだったけれど、もしその助言があったら、違っていたかもしれないのです。
本当にエアポケットのように、私の絵について誰も何も言いませんでした。
言うほどの価値のある絵ではなかったからでしょう。
誰も私にそういうことは期待していなかった。
でも、助言があれば、多少はましな絵が描けるようになっていたかもしれません。
同じように、もし助言して直るものであるなら、算数・数学の図を丁寧に描くことで、そこそこ算数・数学が得意になる可能性はあるのです。
算数・数学が他の教科の足を引っ張らないように、そこそこできるようになりたい、というのが切実な願いである生徒と保護者の方は多いと思います。
絵の才能がないので、下の私の手書きの図も、下手です。
でも、算数・数学の問題を解く上で必要な緻密さは、クリアしています。
端々は、押さえてあるのです。
問題を解く上で不都合になるようなことはない。
目標はそれであり、それは、誰にでも可能なことだと思います。
さて、必要な図を描きこんでみました。
正三角形はこの図のように回転していき、頂点Aの軌跡は、上の水色の曲線になります。
自力ではこの図を描けない、という子は多いです。
例えば、点の軌跡が、直線になってしまう子。
回転移動ということがイメージできないのです。
曲線を描くということはかろうじて理解できるが、その弧が隣りに描いた三角形の頂点を通っていくということがイメージできない子も多いです。
ひらがなの「つ」みたいな、潰れた奇妙な曲線を描きます。
「へ」に少し丸みがついたような曲線の子も多いです。
これは、昔の子どもも今の子どももそうです。
現代の子は動画世代と言われても、動画的なイメージ力が高いわけではありません。
受動的であるだけ、むしろイメージする力は貧困である可能性すらあります。
それでも、イメージする力がなければ、知識で補正すれはいいのです。
知識で補えばいいのですが、正しい図が正しく見えないという課題を抱えている子もいます。
頂点Aがそのように美しいおうぎ形の弧を描くことがイメージできない。
「へ」みたいな動きしかイメージできない。
そして、その間違ったイメージに、固執してしまう・・・。
本当に理解できない場合は、正三角形をボール紙などで作り、それをホワイトボードの上で実際に回転させてみるなどの授業の工夫が必要になります。
「うちの子は、この問題を全く理解していません!」
というご連絡をいただいた当のお子さんは、そこまでしなくても、理解できました。
図の描き方がおそろしく雑で、点の軌跡が「へ」みたい、という課題はありましたが、正しい弧を描いてみせると、納得していました。
おうぎ形の弧を描いて回転することを、解説しても理解できない子は大勢います。
解説を聞いて理解できるのなら、大したものです。
図形は、もっと壊滅的に理解できない子たちがいるのです。
理解できないのだから、もう仕方ないのだろうか、と思うほどに理解できないのです。
図形が回転するということが、そもそも理解できない。
三角形が動くはずがないので、理解できない。
角ばった図形が曲線を描いて回転することが、理解できない。
空間図形になると、理解不足はもっと深刻になります。
平面的なテキストから空間をイメージすることが難しいからでしょうか。
高校生で、正四面体の見取り図を描くことができず、真上から見たような平面的な図しか描けなかった子。
「円」と「球」の違いが、どうしても理解できなかった子。
面積と体積は同じものだと思い、1㎡=10000㎠だったり1㎥=1000000㎤だったりするのは、先生が勘違いしているからだと思い込んでいた子。
底知れない深淵が、そこには存在します。
その子は、説明されれば理解できる子でした。
では、その子の課題は何だったのか?
図を描くのと同様に、解き方も雑だったのです。
上の図の水色のおうぎ形はどれも、半径8㎝のおうぎ形です。
中心角の合計は、図から、
120°+210°+120°=350°
です。
では、どのような式を立てればいいか?
その子の立てた式は、
350×16
というものでした。
・・・何それ?
確かに、これは「何も理解していない」と見ることもできます。
ただ、これには理由があるのでした。
正しい式は、
16×3.14×350/360
です。
その式を説明すると、それも理解できたのです。
この式が理解できるというのは、かなり高度なことです。
中学生でも、この式を理解できない子は普通にいます。
割合の考え方や分配法則を理解していなければ、この式は理解できないのです。
ただ、その子は、類題を解くと、
270/360×16×3.14
という式を立てました。
使っている数値に間違いはありませんでした。
これは、計算しやすさを優先した式です。
約分するものを先に書いて、最後に計算する×3.14は後に書いていたのです。
かけ算は、どこから計算しても同じですから。
かけ算の交換法則を理解している子に、こういう式を書く子がいます。
例えば、円の面積を求める式でも、
3.14×36
といった式を立てます。
正しい式は、
6×6×3.14
です。
結果が同じなんだから、別にいいじゃないか。
それは、算数・数学の解き方が緻密な子にだけ通用することです。
円の面積を求める際に、
3.14×36
という式を立てる子の中には、「円」の単元が終わると、もう公式を忘れてしまう子がざらにいます。
そうなると、この式の意味は後退し、自分でノートを見返しても、何をしたのかわからなくなります。
他の単元で円の面積を求めることが必要になったときに、公式が出てこないのです。
練習の際にしっかりと公式通りに式を書いていないことが、それに影響していないはずがありません。
立式と計算は別のものです。
立式は、
6×6×3.14
実際の筆算は、
3.14×36
このメリハリがなく、ぐちゃっと潰れて一緒になってしまっている子は、時間が経つと、正しい立式をできなくなる可能性があるのです。
「割合」の単元などでも、それが顕著です。
例えば、「比べる量÷割合」という公式通りに正しい立式をするならば、
200÷4/3
という式を立てるべきところを、計算の工夫を優先させ過ぎたあげくに間違えて、
1/200×4/3
という式を立ててしまう子は少なくありません。
「かけ算は順番は関係ない」という知識と、「分数のわり算は、逆数のかけ算」という知識が歪んだ形で合体すると、こういう間違った式になります。
200÷4/3
=200×3/4
としていけば間違えないところで、くだらない誤答を繰り返すのです。
それは、算数が苦手だからでも、理解していないからでもなく、雑なだけです。
君は、算数が理解できないのではなく、雑なんだよ。
理解はしているんだよ。
交換法則や分配法則が理解できているだけで、立派なものだよ。
それがわからない子も大勢いるんだよ。
私は、分配法則が理解できない子たちと長年格闘してきたんだよ。
雑に間違わないでくれよ、頼むから。
そう思うことは多いです。
350×16
という間違った式は、
16×3.14×350/360
という正しい式の、なれの果ての式、なのだと思います。
順番はどうでもいいという知識が雑に入り込み、結局、記憶の中に、正しい式の片りんしか残らなかったのです。
常に正しい順番で公式通りに式を書いていくことには、意味があります。
どういう公式を使用して、どのように解いているか、答案を読む人に伝える、という意味でも、それは重要なことです。
計算の結果が同じだからいいだろう、ではないのです。
ただ、こうも思うのです。
これだけ計算の工夫を考えて式を立てられるのだから、理解していないということはない。
ただ、すべてが雑なので、正答に至ることはない。
実に勿体ないのです。
内側に、原石の光が見える。
ただ、本人すら、その光に気づいていない。
そんなことも、あります。
Posted by セギ at 13:18│Comments(0)
│算数・数学
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。