2011年12月25日
遅刻の言い訳
セギ英数教室は、明日から冬期講習です。
朝から夜までびっしり授業が入りました。
ありがとうございます。
頑張ります。
そういうわけで、数日、パソコンを立ち上げないと思いますので、お急ぎのご用件は、携帯電話または携帯メールでいただけますと幸いです。
さて、本日は、遅刻の話。
塾に遅れてくる子は、いつの時代にもいます。
何だかよくわからない遅刻を毎回5分、10分する子は、本人の気持ちが塾に向かっていないと感じられるので、講師としては、大変心配します。
もしかしたら塾に来るのが嫌なのか、だから足が重くなるのか、何が嫌なんだー、と胸が痛みます。
そんなこともありますので、遅刻に関しては神経質になりますし、毎回、理由を確認するのですが、遅刻の理由の説明、多くの子は下手です。
不思議なくらい、似たような反応を見せます。
「どうして遅れたの?」
「いえ、ちょっと」
「ちょっと、じゃなくて、どうして遅れたの?」
「・・・・ちょっと」
「ちょっと、じゃなくてさ。理由は、何?」
「・・・・ちょっと」
「・・・・・・理由が確認できないうちは、授業が始められないよ。時間の無駄だよね」
これくらい険悪な空気になって、ようやく、理由を語ります。
この押し問答の末にやっと確認すると、部活が伸びたのだったりして、連絡帳にはお母様の走り書きもあったりします。
本人にはどうしようもない理由があったのなら、自分で、すぐ、それを説明しろー。
(^_^;)
遅刻をしたら、理由を説明しなくてはならないということがわかっていなくて、「ちょっと」で済ますことができると思っている子、多いです。
怒られると思って、無意識に自分をかばってしまうのかもしれません。
それは、かえって、相手を怒らせるだけなのに。
「ちょっと」で済まされて納得する大人が、どこにいるんだー。
遅刻しても、さっさと理由を説明して、ぱっぱと謝れば、大丈夫なのに。
去年のこと。
ある中3の男子が、10分ほど遅刻してきました。
いつもは、遅刻などしない子です。
「お?どうしたの?」
その子は、私に一礼すると言いました。
「すいません。米を研いでました」
「米・・・・?」
その子の友達の男子たちが、まず笑い出しました。
その子は、友達に言い返しました。
「仕方ないだろ、親が帰って来る前に、米を炊いておかないと、怒られるんだよ」
教室中、女子もふくめて、皆、笑ってしまいましたが、むろん、それは、彼への好意に満ちた笑いでした。
そう。
米を研いでいて、塾に遅れた。
これくらいに意表をつき、かつ説得力のある言い訳を、ハキハキされたら、怒る大人は、いませんよね。
(*^_^*)
2011年12月23日
部活と勉強の両立 その2
3日連続で、冬期講習のための体験授業をしておりました、セギ英数教室 角木です。
教材準備等に忙殺され、いつものペースで更新できませんでした。
今日・明日は、さすがに授業も少なく、早く帰ってパソコンに向かっています。
前回、部活と勉強の両立について書きましたが、こちらでもfacebookでも、コメントをいただき、また身近に感想も言っていただきました。
男性は部活賛成で、部活と勉強の両立は当然可能と考えているのに対し、女性は、今、目の前にいる、部活ばっかりやって勉強しない我が子に、本当に困っているので、両立が可能かどうかということには、実はあまり興味がないという、おおまかな傾向があるように感じました。
部活と勉強の両立は可能か。
可能です、それは当然。
仕事と家庭の両立は可能か。
可能です。
仕事と趣味の両立は可能か。
可能です。
可能です。
だけど、ライフ・ワーク・バランスということを改めて言わざるを得ないほど、実はバランスが崩れてしまうことが多い。
大人でさえ、そうです。
どちらかに重心が傾いてしまう。
可能か不可能かの問題ではなく、現実にバランスが崩れてしまうのだということ。
お母様たちの心配は、そこなのかもしれません。
多くの場合、子どもは、部活に重心が傾きます。
部活は、学校がやっている教育活動で、遊びとは違うのだから、自分は、とても重要なことをやっているんだ。
そんな気持ちがあるのかもしれません。
人は、1つのことを自分なりに頑張っているとき、他のことがおろそかでも許されると思ってしまう。
そういうことも、あるのかもしれません。
だからと言って、お母様たちも、お子さんに、楽しそうにやっている部活を辞めろと言う気はない。
日曜だというのに、試合があるから朝5時に起こして、という要望にも応じ、弁当も作り、泥だらけのユニフォームも洗っているのがお母様たちでしょう。
それはいいけど、頼むから、勉強もしてよね。
そういうことなんだと思います。
典型的なイメージが浮かんできます。
中学に入学し、厳しい部活に入ったお子さんに、お母様が心配され、お父様に相談します。
お父様は、中学でも、高校でも、運動部で活躍され、もちろん勉強も頑張り、立派な大学に進学し、仕事をバリバリこなされている方。
当然、運動部と勉強の両立は可能、と考え、そのように答えます。
心配するな、大丈夫だよ。
そのうち、自覚するよ。
ところが、子どもは、待っても待っても自覚が芽生えない。
中2になっても、中3になっても、部活ばかり。
成績表を見て、お父様、がく然。
おまえ、何やってんだ、と激怒。
今年は、そういうタイプの生徒さんはいないのですが、去年までは、そんな話を、毎年のように耳にしていました。
オヤジが突然怒り出した。
なんで、あんなに突然怒り出すんだ?
うーん。
ともあれ、それがきっかけで、君が勉強する気になったのなら、私は嬉しいです。
立派な親に守られている子どもは、本当に幸せだから、幸せ過ぎて、ちょっとだけ甘っちょろい。
お父様がやったようには、できないかもしれない。
そういうことも、少しあるのかなあ。
もちろん、部活と勉強を立派に両立させているガッツのある子どもたちは、現在もたくさんいるのですけれど。
2011年12月19日
部活動と勉強
中学の部活動、特に運動部は、勉強するには、1つの障害となることは否定できません。
毎日毎日、日没まで練習。
土日は、練習試合と公式戦。
定期テスト前は、本来部活動は休止のはずなのに、公式戦が近いからと、やっぱり毎日練習。
勉強する暇がないし、塾に行く暇もないし、第一、本人が、お風呂に入った後は、夕食を食べながら寝てしまいかねない。
とんでもない部活に入っちゃったなあ。
お母様が心配するのは無理もありません。
多少の例外はあるものの、東京都の場合、都心に行くほどこのようなことは少なく、部活は一律5時とか5時半で終了します。
延長したり、部活中心の生活をさせることを、保護者が喜ばないようです。
都心から遠くなるほど、部活に熱心な顧問の先生をたたえ、信頼し、もっともっと頑張ってくれ、保護者としても全面協力する、といった感じになると聞きます。
中学の部活の顧問で、あまり生徒を拘束するのは、感心しない面もあります。
たとえば、もうかなり以前の話ですが、学校で放課後に行う英検を受けることを、部員に禁止した顧問。
英検であれ、漢検であれ、練習を休む者は、レギュラーにはしない、というのです。
塾側としては、冗談じゃないよー、と思います。
(^_^;)
その部活に入っていた子は、都立上位校に入れる学力のある子でした。
後顧の憂いなく都立上位校に挑戦するには、入って悔いのない私立併願校を確保させたい。
もちろん、それなりに名前の通った私立の特進クラス。
そこへ塾推薦するには、学校の内申だけでなく、英検準2級程度の資格はあったほうがいい。
しかし、英検は、定期テストと時期がかぶるので、中3になってからは、できればやらせたくないんです。
中2の冬に準2級をとるのが理想です。
そのために、こちらは中1から段階を追って準備しているのに、英検受ける奴は部活のレギュラーにしないって、どういうこと?
(^_^;)
そこまで生徒を拘束して、生徒の将来に責任がもてるんでしょうか。
たとえば、高校の運動部で、合宿生活をするような厳しいところは、そのように高校生活をスポーツ漬けにさせた責任を、監督や顧問がきちんと背負うそうです。
部活動が終わった後は、進学や就職の世話に奔走すると聞きます。
公立中学の部活の顧問の先生に、その覚悟や力があるとは、ちょっと思えないんです。
もちろん、公立中学の部活の顧問の先生の中には、生徒の勉強にも目配りが効いている人もいます。
定期テスト前は、放課後、部員を教室に集めて勉強させます。
ただ部活を休みにするだけでは、部活がないから遊ぼうと考える子もいますから。
テスト当日でも遊んでしまう中学生男子が、テスト期間、ファストフードにたむろしているのは、さして珍しくない眺めです。
部活でエネルギーを発散させ、目的をもたせなかったら、街をぶらついて、ろくなことにならない。
そういう子たちに、スポーツの楽しさや、仲間の大切さを教えながら、見守る。
部活動には、そういう意義は確かにあるんです。
だから、塾として、勉強の邪魔だなと思っても、基本、文句は言いません。
厳しい部活に入ってしまった子は、もうそれを前提として学習計画を立てます。
だけど、あんまり無茶なことは、言わないでほしい。
ただ、時代は確実に流れています。
部員の保護者代表数人が学校に行き、校長と話し合い、その部活動の顧問に対し、検定試験受検はもとより、塾に行く日は部活早退を許可するよう求め、了承させたという話が、その数年後にもたらされました。
これはこれで、ちょっと怖いのですが、反動でそうなるのも仕方ないかな。
結局、保護者の信頼を得られないのに、暴君のようにふるまった、ツケがまわったのかもしれません。
2011年12月17日
計算の工夫
筆算が嫌いで、できないのに暗算しようとする子どもたちの話は以前も書きましたが、計算に慣れていない子が、もう1つ苦手としているのが、計算の工夫です。
例えば、こんな計算。
25×36×4
かけ算は、どこからかけても答は同じですから、これは、25×4=100を先に計算すれば、筆算の必要がありません。
100×36=3600 となります。
子どもは、筆算が嫌い。
ならばこういう工夫を喜ぶのかというと、ここで2つに分かれます。
すっと理解し、受け入れて、自分でも工夫して計算するようになる子と、全く受け入れない子と。
全く受け入れない子は、そんな難しい工夫をするくらいなら、25×36の筆算をやったほうがまし、と思うらしいのです。
こんなに楽でしょう?とやってみせても、それでも喜ばないのですから、何か納得できないことがあるのでしょう。
しかも、何が納得できないのか、言葉で説明することもできないのが子どもです。
どこからかけても答は同じ、というルールを信じていないのかもしれません。
言われればそうなのかもしれないけれど、何か信用できないから、使う気になれない、ということなのでしょうか。
頭の中が合理的になっていない、ということかな。
25×36の計算だって、実は筆算の必要はなく、これは、25×4×9と分解できますから、答は900です。
楽でいいですよね。
36×18のような計算も、工夫できます。
これは、72×9と同じなので、答は、648。
片方を2倍したら、片方を2分の1にしたらいい。
×1ケタだと、暗算で解けるので、楽です。
700×0.28のような計算は、28×7として計算したほうが、ケタについてのわずらわしさがありません。
片方を100倍したら、片方は100分の1にしたらいい。
52×48のような計算になると、中3になって乗法公式を勉強すれば、楽勝です。
52×48
=(50+2)(50-2)
=2500-4
=2496
しかし、ここまでいくと、思いつくのに時間がかかります。
こんなのは普通に筆算してもいいんじゃないの、と私も思います。
でも、ある程度は、計算の工夫をしたほうがいい。
計算の工夫は、楽に計算するためであり、楽であるということはミスが減り、正確に計算できるということですから。
私立中学を受験する子には、分配法則の逆だけは、どうしても理解してほしいです。
小学生は、円周率を3.14で計算しますから、複雑な図形の面積や体積を求める問題の場合、×3.14の計算がたくさん出てきます。
5×5×3.14-2×2×3.14+9×9×3.14
こんな計算を、順番に1つ1つやる子、小学生に多いです。
もともと計算力不足。
×3.14の計算を3回やってから、さらに小数のたし算・ひき算なんていったら、ほぼ100%、途中で間違えてしまう。
でも、そういう子ほど、教えても、工夫が身につきません。
=(5×5-2×2+9×9)×3.14
=(25-4+81)×3.14
大人にとっては簡単な分配法則の逆。
中学の数学を既に勉強している大人にとっては、かけ算の塊は、1つの塊(すなわち項)、その前についているのは、ブラス・マイナスの符号、という意識がありますので、( )でくくったり、順番を変えたり、ということに違和感がありません。
上の式なら、3.14の同類項をまとめる意識で、簡単にくくれます。
中学受験をしないのなら、まだいいのです。
中学生になれば、上のように、計算に対する意識を根底からくつがえしていく中学数学を順番に学びます。
円周率は、パイになりますし。
しかし、私立中学を受ける子は、この計算の工夫ができないことは、ネックの1つ。
ご家庭で、お子さんの受験算数を見る場合、問題の難しさに目がいってしまい、お子さんに教えるのではなく、お父様・お母様が夢中で式を立ててしまうことがあるのですが、それよりも、お子さんが計算している様子をご覧になってください。
簡単な計算の工夫をしているでしょうか。
筆算するにしても、きちんと筆算しているでしょうか。
見ているほうがヒヤヒヤするような、これは間違うだろう、という筆算をしていませんか。
無駄な暗算に何分もかけたあげくに間違った答を書いたりしていないでしょうか。
算数の成績が伸びない理由は、問題を解く様子を見ていれば、ある程度わかります。
先日のこと。
指数関数の勉強をしている高校生が、243を、一瞬で、3の5乗と書き換えたので、
「うおっ、凄いね」と感心しましたら、
「いや、勘なんですけど、こんなんでいいんでしょうか」
「勘・・・・?」
しかし、様子を見ていると、125は5の3乗、64は2の6乗、とまさに秒殺。
本人が「勘」と呼ぶものの中に、累乗の機能が確かにあるようなのです。
さすがに、高校生の頭はキレがいい。
人の頭は、このように機能する。
頑張れ小学生。
写真は、奥多摩川苔山。まき道の登山道。
2011年12月15日
田中角栄からのお歳暮
このシーズンになると思い出すのは、高校生の頃のこと。
学校から帰ると、台所のテーブルの上に、直径1メートルほどもある薄い円盤状のプラスチック容器が置いてありました。
中身は、各種の味噌漬けがぎっしり。
脇には、ビニールの風呂敷が畳まれてあり、その上に、名刺が1枚。
「衆議院議員 田中角栄」と書いてありました。
私の実家は、新潟1区。
田中角栄は、新潟3区の議員。
なんで田中角栄からお歳暮が舞い込んだかというと、うちの父が越山会の会員の息子の就職の世話をしたかららしいです。
それにしても、このお歳暮、今思い返しても、なるほどなあ、と感じるものでした。
父へのお歳暮ですから、酒でも良いでしょう。
しかし、洋酒など贈ると、「あーあ、気取っちゃって。田中角栄はもう、わしらのセンセイではないんだなあ。東京行って、変わっちゃった」と思う人もいるかもしれない。
では、日本酒ならば良いのかというと、そもそも酒は、危険です。
男衆ばかりが楽しみ、女性は楽しめない。
今とは、少し時代が違いますから。
しかも、それだけではありません。
万が一、酒癖の悪い男に酒など贈ったら、その妻に、どれほど恨まれるか。
有権者は、半分は女性。
酒は、ダメです。
かといって、女性受けだけ狙った甘い物もダメでしょう。
こじゃれたものは、ダメ。
単なる消耗品・生活必需品では、印象が薄い。
そこで、絶妙な選択として浮上するのが、味噌漬けなのかもしれません。
味噌漬けは、新潟が特産というわけではなく、これがなくては新潟の食卓が成立しないというものでもありません。
しかし、味噌漬けを、特に嫌う理由はない。
むしろ、年齢を重ねるほどに好きになっていくもののように感じます。
田中角栄が狙っていたのは、これでしょうか。
大人は、味噌漬けが好きです。
肉厚でジューシーな味噌漬け。
しかも、味噌漬けならば、もらっても、心の負担は少ない。
その一方、あれだけ大きい容器だと、実は値段がかなり張ることも想像がつきます。
田舎くさくて、庶民的で、でも、もらうと嬉しい、皆が満足するお歳暮。
田中角栄への好意を誘導する品物。
純粋な好意や善意を感じる普通のお歳暮とは違う、何か異様なもの。
もっとも、うちへのお歳暮なんて、田中角栄本人の耳に入っているレベルのことではなく、地元の秘書か書生が片づけていた仕事と思います。
そういう末端まで、仕事は徹底していたということでしょう。
人心掌握の技術。
それは技術で、田中角栄が本当に大衆を愛していた根拠にはなりません。
もう1つ印象深かったのが、その名刺。
衆議院議員 田中角栄
総理大臣だったのは、その数年前。
一度は逮捕されながらも、なお議員に当選し、しぶとく生き延びて、政界のドンと呼ばれていた時代の田中角栄です。
名刺は、何種類もあったのかもしれません。
けれど、このシンプルな1枚は、ドスが効いていました。
遊びの名刺なら、肩書きはたくさん並んでいていい。
渡した人と、それで会話を楽しむツールになりますし。
だけど、仕事で使う名刺は、これが、最強でしょう。
たった1つの肩書きに、この人を語る全てがある。
高校生の私は、その迫力に、正直、ぞっとしました。
近年、田中角栄を再評価する動きがあります。
良くも悪くも、今、あのような政治家がいない、ということなのでしょう。
いなくて結構、と私は思います。
田中角栄の周囲では、人が死んでいます。
自殺という形ですが。
その利権を守り、口を閉ざすために。
皆、そのことを忘れてしまったのでしょうか。
周囲で人が死ぬような権力。
そのようなものは復活しないほうがいいのです。
政治家がダメだ。官僚が悪い。情けない。
そう言えるほどに情報が公開されている現代。
それは、口封じできるほどの権力が存在しなくなった証拠かもしれません。
圧倒的な権力など、誰も持たないほうがいい。
皆で考えて、1つ1つ解決する。
だから、田中角栄的なるものは、二度と復活しませんように。
その一方で、なぜ、あのような政治家が出現したのか、その土壌を知っておきたいと思います。
新潟三区がもっと豊かだったなら、あのような政治家は、必要なかったはずなのですから。
東京で便利に暮らして、わかったようなことを言っても、何も通じないことがあるでしょう。
表面的な評価でなく、何がどう良くないのか知っておきたくて、田中角栄関係の面白そうな本を見つけると、今でも買って読みます。
最近読んでいるのが、これ。
面白いです。
本を読む時間がめっきり減り、毎晩、3分で眠くなるため、なかなか読み終わりませんが。
しかも、何冊も同時進行で読む習慣があり、ますます読み終わりません。
でも、面白いです。
まるで説得力がないですかね。
(*^_^*)
2011年12月11日
奥多摩川苔山に行ってきました
本日、日曜日、奥多摩の川苔山を歩いてきました。
川苔山は、鳩ノ巣駅からすぐに歩ける気軽な山。
好きな山です。
日陰の斜面に雪は残っていたものの、歩きにくいというほどではなく、普段通りの山歩きでした。
でも、いつもと1つ違っていたこと。
下ってくる人が、私の姿を見ると、なぜか、とても嬉しそうでした。
もう、ニッコニコで「こんにちは」と挨拶してくれます。
なんだろう?
「こっち、下れますよね?」と訊かれることも、2度。
「はい。雪は、ないですよ」
そうか。
私が登ってくるから、この道は、安心だ、という意味の笑顔かな。
そんなこんなで、山頂の少し手前、船井戸に到着。
大ダワ経由のコースとの合流点です。
ふきだまって、雪が少し増えてきたので、私は立ち止まり、ストックを準備していました。
すると、背後の雪の斜面から、必死の様子で下りてくる人たちが現れました。
普通の大ダワコースの登山道からは少しそれている斜面を降りてくるので、何だろうと見ていると、その人たちは、私に訴えかけてきました。
「まき道から、来たんですか」
「そうですよ」
「まき道、通行禁止じゃ、ないんですか」
「・・・・歩けますよ」
「えー?こっちの道、大変だったんですよ。もう死ぬかと思いましたよ」
大ダワコースは、去年の秋に私も歩きました。
尾根道を行くコースもありますが、そのときは、もう1つの、尾根通しではないほうのコースに何となく誘いこまれました。
その道は、崖っぷちの細い道を歩く時間が長く、桟道に落ち葉が積もっていて、滑りそうだな、嫌だな、という道でした。
あの道を、雪の残る日に歩くのは、私も嫌です。
まき道は通行禁止という情報は、どこから出たものなのだろう。
私は、そのような掲示は見ていませんし、実際、通行禁止ではありませんでした。
ただ、少し、想像できることはあって、私が、去年、大ダワ崖っぷちコースを歩いたのも、まき道が歩けないと思ったからなのでした。
山ノ神のところを新しい林道が通り、そのせいで、登山道が林道でいったん断ち切られ、まき道への入口が見つかりにくくなったのです。
鳩ノ巣駅から山ノ神までは、どのコースも同じなのですが、そこから、道は分岐します。
どの道も、川苔山に通じる道です。
以前は、山ノ神からまき道への入口は、一番わかりやすく、道なりに歩くとそこへ行くという印象でした。
けれど、今は、山ノ神から見える道しるべは、大ダワへ行くコースのもの。
しかも、去年は、林道工事中だったので、まき道への入口は、はっきり「通行止め」になっていました。
実は、まき道に通じる迂回路はあったのですが、見つけにくく、誘いこまれて崖っぷちの道を歩きました。
あの道を、今日歩くのは、嫌だ。
その思いが強かったので、今日は、山ノ神で地図を見直し、まき道への入口のありそうな方向の見当をつけて、新しい林道を右へ下り、まき道への入口を見つけることができました。
去年私も見た「通行禁止」の情報がまだ生きていて、それに惑わされている人がいるのかもしれません。
登山口で、「あの道は通行禁止」という情報を誰かから聞いたのかもしれません。
下りてきたニッコニコの人たちも、山頂でその情報を耳にし、半信半疑で下る途中に私と出会い、私が登ってくるのだから、通行禁止ではないのだとわかって笑顔になったのかもしれません。
間違った情報。
古い情報。
山を歩いているときに、もたらされる情報。
安全に山を歩くのにも、やっぱり正確な情報が必要ですね。
今日、私が気楽に山を歩けたのも、昨日、facebookの友達が、同じ奥多摩の鷹ノ巣山を歩き、正確な情報をくれたからです。
鷹ノ巣でひざ下までの積雪なら、川苔山はどの程度か予測できて、革の登山靴、スパッツ、ストック、念のため軽アイゼンなどの準備をして山を歩きました。
山頂付近は、上の写真のような雪景色。
軽アイゼンを使うような道ではありませんでしたが、使わないことが幸せな荷物というのは、山を歩く場合あります。
下の写真は、まき道への入り口。
鳩ノ巣駅から、まき道で川苔山に行きたい方は、山ノ神から林道を右へ少し下ってください。
1分と歩かないうちに、この入口が見えてきます。
ここが、まき道への入り口です。
2011年12月10日
アルバイトの女の子
さて、セギ英数教室。
ビルの1室でエアコンで暖房していますと、やはり空気が乾燥します。
濡れタオルを干したりしていたのですが、見た目も悪いし、あまり効果がないし。
しゃべり続けていると咳が出るし。
なので、本日、加湿器を購入しました。
そんな空気が乾燥する冬。
高校生がアルバイトをする季節です。
学校は、アルバイトは禁止というところが多いですが、高校生ともなりますと、学校には内緒でアルバイトをしますね。
私も、高校生の頃は、郵便局でアルバイトをしました。
むろん、学校には内緒で。
もらったお給料で、本棚を買いました。
思い返すと、何だか意味がわかりません。
本棚は、家具ですから、親に買ってもらえば良かったのでは?
ねだれば、買ってくれたと思います。
(*^_^*)
去年まで働いていた塾でも、塾の卒業生に来てもらっていました。
バイトは何人か代わりましたが、記憶に残るのは、高校3年生の女の子。
ある日、塾に備えつけの、手を洗うための石鹸がなくなりかけていたので、お使いを頼みました。
その子は、塾に通っていた頃から、多少理解力が心許ない子ではありましたので、メモを渡し、かんで含めるように説明しました。
「『除菌』とか『殺菌』と書いてある薬用石鹸を買ってきてね。赤い箱のミューズか、白い箱のキレイキレイか、どちらかだよ。どちらでもいいからね」
ここまで説明すれば、大丈夫。
そう思っていたのですが、彼女が買って帰ってきたのは、『除菌』と大きく書いてある、洗濯石鹸でした。
なぜ・・・・?(@_@;)
アルバイトですから、掃除は主な仕事の1つです。
しかし、掃除を頼むと、とりあえず、嫌な顔。
「もっと、何か他の仕事、ないですか?」
はあ・・・?(@_@;)
私がやっていた、講師用テキストの答入れの作業を手伝いたいと申し出てきたこともありました。
働くのが嫌なわけではないのです。
ただ、掃除のような下働きは、嫌なのでしょう。
「・・・・私のテキストは、解答集はないよ。自分で解くんだよ」
「英語は、得意です。夏に、ホームステイしてきたんです」
「ほお」
「今、英会話教室にも、通っています」
無理だと決めつける根拠もないので、やらせてみたのですが、1分とたたずに、彼女から質問がありました。
「ブレックファストって、どう書くんですか?」
「あ・・・・?」
「あと、これ、わからないんですけど」
覗き込むと、不定詞の識別。中2の文法事項。
「解答集があれば、できるのに」
・・・・・・そうだね。(-_-;)
ある日、彼女は、英検準2級の問題集を持ってきました。
「今度、英検、受けるんです。することなくて、暇だから、勉強してもいいでしょう?」
・・・・・・仕事中にですか?
「センセイ、わからないところ、教えてくれませんか?」
・・・・・・塾が、あなたに時給を払っているのに、私が、あなたに教えるんですか?
私は、無言で彼女を睨みつけました。
さすがに意味がわかったのでしょう。
彼女は、問題集をカバンにしまい、珍しく、自分から掃除を始めました。
でも、彼女だけが悪かったわけではないのです。
そういうことを許してしまっていた会社が悪かった。
私も、私1人が悪者になるのが嫌で、面倒くさくて、結局、見て見ぬふりをすることのほうが多かったのです。
卒業生をアルバイトとして雇うのなら、それは、家庭からあずかって、社会勉強をさせるという意味あいが強い。
働くことの意味。
働く上での常識。
きちんと責任を果たし、対価を得ることの喜び。
そういうものを教えるために、厳しく接しなければならないのに、全てがなあなあで、生徒気分が抜けない子を、そのままにしてしまっていました。
彼女も、もう社会人。
苦労しているのじゃないかと思います。
2011年12月08日
証明のすすめ方
さて、今回は、三角形の合同と、それを利用した証明の進め方の話です。
証明問題は、中学生が最も苦手とするところです。
中学生が、数学の体験授業を受けにくる場合、苦手なところはどこですかと質問すると、ほぼ間違いなく、「証明」か「方程式の文章題」と答えます。
学力と関係なくその答えなので、ちょっと困るところでもあります。
証明や文章題を勉強する前に、もっと基本を身につけなければならない子も、「証明が苦手」と言います。
うまく誘導して、基礎的なことで出来ないことがたくさんあると、気づいてもらうのが理想です。
とはいえ、自分が苦手だと申告したことをやってくれなかった、という不満を生徒さんが抱いて帰った場合、その体験授業は失敗なので、「証明が苦手」という話を聞いた場合、定着はしないだろうと覚悟の上で、証明の進め方について授業をする場合もあります。
とにかく入会していただいて、そこからじっくり、何もかも進めていくとして、まずは、相手の満足感だけを重視しよう。
でも、上手くやらないと、「わからなかった」という感想を抱いて帰ってしまわれる場合もあります。
証明は、数学講師にとっても、鬼門。(-_-;)
証明がわからない原因の1つは、教わったスタイルの悪さかもしれません。
最近は減りましたが、生徒のためを思ってなのか、ものすごく簡略化した証明の書き方を教える数学の先生が昔はいました。
簡単な証明問題なら、そのスタイルは楽なのですが、少し複雑になると、対応できません。
どんなスタイルか。
たとえば、こんな書き方です。
△ABCと△EFGにおいて
AB=EF (仮定)
BC=FG (仮定)
∠B=∠F (対頂角)
よって
△ABC≡△EFG (2辺夾角相当)
何がいけないのかというと、このスタイルは、( )の中に根拠を書いていくのですが、根拠が常にこれほどシンプルとは限らない。
何段階にも分けて説明していかなければならない場合も多いです。
長々と書かなければならないときに、( )の中にどのように書いていいのか、生徒はわからなくなるんです。
これで書けないときは、別の書き方で書くんだぞ、という話が授業中にされていると思うのですが、そういう話は、たいていの場合、生徒は聞いていないです。
2種類のスタイルを学ぶのも、大変です。
やはり、いつも同じスタイルで書くほうが、学びやすい。
△ABCと△EFGにおいて
仮定より
AB=EF
BC=FG
対頂角は等しいので
∠B=∠F
2辺とその間の角がそれぞれ等しいので
△ABC≡△EFG
根拠を文の形で説明していくこのスタイルならば、どれだけ長文で説明することになっても、論理的で、正確であれば良いのですから、書きようがあります。
証明問題を学びにくい、もう1つの原因。
自分の答案のどこがどのように間違っているのか、問題集の模範解答を見ても、わからないことです。
自分に甘い子は、何でもマルをつけてしまいます。
自分に自信がない子は、少し言葉遣いが違うだけで、バツをつけてしまいます。
採点基準がよくわからない。
証明問題は、特にそうです。
数学の基礎は身についていて、数学センスもあり、ただ証明問題だけが苦手なのだという生徒を教える場合、1題、本人に解いてもらって様子をみれば、大体わかります。
何が抜けているから減点されるのか。
証明を書くためのルールの何を誤解しているのか。
書き方のちょっとしたコツの中の何を理解できていないのか。
そこを調整していけば、証明は、たちまち得点源になります。
以前、生徒から質問されて面白かったこと。
「センセイ、『ゆえに』と『したがって』って、どう違うの?」
「・・・・同じです。順接の接続語だよ」
「何、それ?」
証明問題が得意になるには、多少の国語力も、必要かもしれません。
2011年12月07日
ほめ言葉の功罪
来年から教科書が変わりますが、現在の中学英語の教科書も、ストーリーはなかなか面白いものがあります。
私が特に好きな話は、「サンシャイン」中2の中の1つのLesson。
日本人の女の子が、アメリカ人の男の子に、「そのセーター、よく似合うね」などと、会う度にほめられる話。
彼は私のことが好きなのかしらと彼女は悩み、日本人の男の子に相談し、「違うだろ」と言われる、ナイスなストーリー展開。
文法事項としては、「〜に見える」のlookなどの用法ですが、そんな文法事項はぶっ飛びます。
挨拶がわりに相手をほめる異文化について認識させる、という目的もあるのでしょう。
あれは、新しい教科書でも残してほしい。
面白いです。
それはともかく。
「褒めて育てる」という教育が大ブームになって何年も経ち、相変わらずそういうことを言う人もいますが、実際のところ、褒めるだけでは、人は育ちません。
凄く努力もし、結果も出し、なのに誰も褒めない。
そんな状況に陥ったら、さすがにモチベーションが維持できないですから、それは、機会を逃さず、褒めなければいけません。
一方、特に努力したわけでもなく、さほど結果も出ていない子に対し、「褒めれば伸びる」という間違った信念のもと、やみくもに褒めるのは、あまり意味のあることではありません。
「褒めて伸ばそうってコンタンだろ、知っているんだよ」と、たかをくくられることのほうが多いです。
あるいは、「こんなので褒められるのか」と、その子の中での基準が低くなり、自己肯定感ばかりが強くなります。
ダメなときは、今回はダメだったね、ここがダメだね、と正確に指摘したほうがいいと思います。
このほうが、実は難しいんです。
褒めるのは、さほど努力は要りません。
とにかく、何でも、褒めておけばいいのですから。
正確に褒め、正確に批判する。
真剣に見ていないと、それはできないことです。
しかも、真剣に見ていて、批判が正当なものであるにも関わらず、批判された子どもは感情的に反発するかもしれない。
しかし、それも覚悟し、リスクを背負って、でも、批判すべきときは批判しないと、子どもを本当に伸ばすことはできません。
褒めて伸ばす、というのは、それをしない怠慢な教育という側面もあり、人間関係は円満ですが、今ひとつ壁を打ち破れない。
少なくとも、「褒めて伸ばす」教育の限界や欠点には、そろそろ気がついてもいい頃。
私は、そう思っています。
日常会話で、「そのセーター、似合ってるね」は、罪がないですから、連発しても構わないですけれどね。
(*^_^*)
写真は、日曜日、奥高尾から眺めた、夕方の大室山と富士山。
2011年12月05日
奥高尾よく晴れて
朝からよく晴れた日曜日、みたか身の丈起業塾三期生で奥高尾をハイキングしました。
私、一応、ハイキング・リーダーをかって出ているのですが、今回は、つくづく、これは難しい仕事だと痛感しました。
メールで、
「JR高尾駅北口の改札を出て、横断歩道を渡って左の陣馬高原行バス停集合。8:50のバスに乗り遅れた人は置いていきます」
と伝えてあったので、何も問題はないと思っていたのですが、何と、その8:50のバスに全員が乗り遅れました。
こんなことがあるのかと、天をふり仰いだ朝。
今回は、陣馬山から高尾山への縦走をしました。
予定通りのバスに乗れたとして、下山予定が4時。
今は、冬なので、四時半になれば、日没で、登山道は歩けないほどに暗くなります。
正直、全員がヘッドランプを持ってきてくれているとは期待できない状態で日没がくるかもしれない。
いろいろと最悪な状況が頭をよぎる中での山行でした。
自分の器の小ささを自覚した、休日でした。
とはいえ、よく晴れて、雨上がりで空気が澄み、終日富士山が見える、素晴らしい1日でした。
かげ信小屋の、なめこうどんと山菜の天ぷら、おいしかったです。
何とか、日没ぎりぎりに、高尾山口に下山できました。
三鷹に移動し、「春の湯」で汗を流し、忘年会を兼ねて、祝杯を上げました。
おいしいお酒でした。
次回は、2月、中央線沿線の高川山に行きます。
2011年12月02日
山のリスク
「三つ星」の指定を受け、ちょっとした高尾山ブームが起きた頃から、高尾山についてのガイドマガジンがたくさん発売されるようになりました。
今も発売され続けています。
そんな中で、ひと味違うのが、上の写真のガイドマガジン。
発行が山岳雑誌「山と渓谷」を出している山と渓谷社なんです。
旅行雑誌系の会社の出しているガイドマガジンと、どこが違うのか?
説教くさくならないように、でも、随所に、安全面への言及がなされているんです。
高尾山は、事故が増えています。
私も、複数の事故を目撃しています。
たとえば、小仏峠近くの滑りやすい道で転び、骨折した人。
私が通りかかったときは、怪我人は毛布でくるまれ、ソリのようなものに乗せられ、ロープで固定され、搬送されていくところでした。
周囲の人の話では、怪我をしたのは、ハイキング姿の女性だったとのことでした。
周りには、救急隊員や山岳救助隊員が10人以上。
ものものしい雰囲気でした。
また別のとき。
あれは、2008年11月23日。
三ツ星ブームと紅葉と祝日が重なり、高尾山の入山者は1日で7万人に達しました。
いまだに破られていない異常な記録です。
陣馬山から呑気に縦走してきた私は、高尾山の異様な混雑に気づいたときには、もう巻き込まれ、逃げ場を失っていました。
ケーブルカーやリフトは、3時間待ち。
歩きやすい1号路からも観光客があふれだし、装備不良な状態で、登山道である稲荷山コースを下り、不慣れなために上手く歩けず、さらに渋滞を悪化させたようでした。
登山道は人であふれ、身動きできなくなっていました。
そのまま日没を迎え、登山道は闇に包まれ、ヘッドランプを持たない人たちは、足元が暗くて歩けなくなり、転んで怪我をしてしまいました。
救急要請は、たしか、あの日だけで9件、だったかな。
その後も、休日の高尾山の上空を防災ヘリが飛んだり、救急車が日影沢林道を上がってくるのは、そう珍しい光景ではありません。
山は、どれほど気をつけても、事故が起こります。
けれど、高尾山は、入口が観光地であるため、そこが山であることを自覚せずに来てしまう人がたくさんいます。
小学生はスニーカーで遠足に来ますが、子どもは、身体が柔らかい。
転んでも、かすり傷で帰ってきます。
でも、大人が同じ感覚でいるのは危険です。
1号路とケーブルとリフトだけ使って帰るのなら、それでも大丈夫です。
しかし、1本道を変えれば、そこは、低くても山。
捻挫・骨折のリスクは、常にあります。
上の写真のガイドマガジンは、2009年5月、あの高尾山の最悪の日から半年後に発売されました。
随所に、やわらかい言葉でアドバイスがなされています。
山には、食べ物・飲み物を持って行こう。
あったかい服を持って行こう。
山の天気は変わりやすいよ。
街灯がないから、日が暮れると真っ暗になるよ。
そして、見開き2ページで、靴底の写真が載っています。
どんな靴底なら、どこを歩くことが可能か。
「軽登山靴」「トレッキング・シューズ」と言われてもわからない初心者のために。
高尾山のおいしいお店。
売れているお土産。
きれいな景色はどこで見られるか。
それも大切だけど、でも、初心者に、どうしても伝えたいことがある。
山岳雑誌ならではの信念に貫かれた、でも、表面はとてもやわらかいガイドマガジン。
地図やコース案内も読みやすいし、写真がきれいだし、読み物記事も充実しているので、今でも、ときどき取り出して読み返します。
明後日の日曜日は、みたか身の丈起業塾3期生で奥高尾を歩きます。
今回も、無事に下山できますように。