たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2018年06月29日

なぜ英語を話せるようにならないか。


先日、Twitterを眺めていたら、こんな意味あいのツイートが流れてきました。

アメリカで5年暮らして帰国した生徒が準備なしで英検2級を受けたら、面接官の英語の発音が下手過ぎて何を言っているか聴きとれず、二次試験で落ちた。

私が見た段階でリツイートが3万以上、「いいね」が7万以上。
いわゆるバズっている状態でした。

何か心に嫌な引っかかり方をするツイートでした。
ツイートの最後が「英検2級の難しさを再認識させられた」という嫌味で終わっている点も不愉快だったのです。
しかし、それだけでなく、このツイートと、それをリツイートしている人たちの心情に違和感を覚えました。

このツイートをしたのは、予備校の英語講師のようです。
その人が見聞きした範囲のこととして、それは事実でしょう。
こんな嘘をついてもしょうがないです。
5年間アメリカで暮らし、昨年帰国した生徒がいる。
その子が準備をせず、英検2級を受けた。
そして、2次試験の面接で落ちた。
そこまでは、事実だろうと思います。

私が疑うのは、本当に聴き取れないほど、面接官の英語の発音は悪かったのか?
その子は聴き取れなかったのかもしれないが、むしろ本物のアメリカ人ならば、面接官の英語を聴きとれたのではないか?
まずは、この点です。
というのも、私も「英語が流暢な日本人の英語」は聴き取りに多少の苦痛を感じるからなんです。
ただ、私は、それは「英語が流暢な日本人」に責任があるのではなく、私に責任のあることだと思っています。

当たり前のことですが、私が最も聴き取りやすい英語は、リスニング問題の音声です。
あるいは、教材のCDなどのネイティブの範読の英語。
ニュース番組の英語。
英語圏の政治家の発する英語。
知らない単語が混ざっていれば聴き取れないですが、それでも、音としては聞き取れます。

少し難度が上がるのは、ドラマや映画の英語。
モゴモゴ喋られると聴き取りにくいです。
アメリカの田村正和みたいなものですね。
さらに聴き取りにくいのがアメリカの一般人の英語。
人によりますが、かなり聴き取りにくいことがあります。
音がグチャグチャベタベタしていて、簡単な英語が何でこんなに聴きとりにくいんだろうと感じます。
明らかに、本人の滑舌の悪さや発音の癖が影響しています。
「英語が流暢な日本人の英語」は、さらに聴き取りにくいです。
音の1つ1つが、私が予期しているネイティブの正確な英語の音とは違うのです。
「正しい英語の音」ではないのに、やたら流暢に喋るので、聴き取りにくい。
つまりは、正確な音の英語は聴き取りやすく、不正確な音の英語は聴き取りにくい。
繰り返しますが、「日本人の流暢な英語」を私は聴き取れません。
本物の英語とどこか違うからなんです。
NHKのラジオ講座の日本人講師の英語は、ちょっと違和感は覚えつつも聴き取ることができますが、それはかなりスピードを緩め、意味のまとまりごとに大きく区切っているからでしょう。

やはり私の側の聴き取り能力の問題と考えたほうがいい。
ネイティブは、「アメリカの田村正和」の英語を当然聴き取れるのですから。
なまりの強い不正確な音声の英語も聴き取れると思うのです。
ネイティブは、奇妙な発音の英語もある程度の許容範囲をもって聴き取れるでしょう。

これは日本語に置き換えてみるとわかりやすいことです。
外国人向けの「日本語講座」の音声は、明瞭で聴き取りやすいです。
発音・発声をきっちり訓練しているアナウンサーや役者さんが話している日本語ですから。
そうした日本語講座で勉強して日本にやってきた外国人は、現実の日本人の日本語にはかなり苦労すると思います。
滑舌が悪く発音が不明瞭な日本人は沢山います。
日常会話では、そんなに口をはっきり開いて正しく発音しないです。
外国人からすれば、何を言ってるか聴き取れないことも多いのではないか?
一方、我々日本人は、滑舌の悪い人の日本語も、小声過ぎる人のくぐもった日本語も、田村正和の日本語も、外国人のなまりの強い日本語も、聴き取ることができます。
ネイティブは、音の多少のズレや不明瞭な部分を補正して聴き取ることができるからでしょう。
ネイティブは、そういう聴き取り能力をもっています。

だから、日本人の英語は、少しは聞き返されることはあっても、英語のネイティブに通じます。
基本的には、通じます。
発音が悪いという英検2級の面接官の英語も、ネイティブの人には通じるのではないでしょうか。
その程度の有資格者ではあるでしょう。
それを「わからなかった」と生徒が言うのは、本人の聴き取り能力の問題か、でなければ、底意地悪くコミュニケーションを拒む本人の性格に起因することではないでしょうか。

5年アメリカで暮らした。
帰国したら、日本人の英語を聴き取ることができなかった。
それは、その生徒の聴き取り能力に限界があったということだと思うのです。
いえ。
「発音が悪過ぎて」と批判しているところから察するに、相手の発音の悪さをバカにし、聴き取ることを放棄した可能性のほうが高い。
その子は、英検2級合格よりも、面接官の発音の悪さをバカにすることのほうを優先したのかもしれません。
これは、面接官の発音よりも、その生徒の性格のほうが悪い。
コミュニケーションの本質を理解していない。


とはいえ、こういうツイートに説得されたり、そういうことを嬉しく感じてリツイートや「いいね」をしてしまう日本人は多いのだということでしょう。
リツーイトや「いいね」をした人たちは、その英検2級の面接官よりも正確な発音の英語を発することができる人たちなのでしょうか?
そもそも、その人たちは英語を話せるのでしょうか?
この先は、想像の域を出ないのですが、私の想像は、暗澹たる闇に向かっています。
英検2級の面接官の発音が悪いというツイートに留飲が下がる。
信憑性も不確かなそのツイートをリツイートしてしまう。
日本人の英語の発音の悪さを一番気にしているのは、他ならぬ日本人。
そういう構図が浮かびます。
少なくとも、日々英語学習に励み、今日よりも明日はもっと英語が話せるようにと努力している学生や社会人は、こんなツイートはリツイートしないと思うのです。


とはいえ、こんなツイートが共感を呼んでしまうほど、日本人は、英語の発音に対して劣等感が強く、それが英語を話すことへの大きな抵抗の1つになっていることは否定できません。
英語を話すのなら、きれいな発音で話さなければならないという強い思いこみのために、むしろ英語を発することができなくなっている人も多いのではないでしょうか。
日本人の英語を一番バカにしているのは、おそらく日本人自身です。
日本人の英語が日本語なまりの英語なのは、最終的にはどうにもならないことだと思うんですよ。
繰り返しますが、「日本人の流暢な英語」を私は聴き取れません。
やはり本物の英語とどこか違うからなんです。
でも、英語圏の人は聴き取れるのでしょう。
だったら、もうそれでいいですよね。

日本に何十年も暮らし、日本語でジョークを言うこともできるアメリカ人タレントの日本語は、それでもやはり、少しなまっています。
外国人が日本語の歌を歌うテレビ番組がたまにありますが、発音だけに注目すると、特にアメリカ人は日本語の発音が下手です。
英語なまりが抜けない。
英語と日本語は、根本的にソリの合わない言語なのかもしれません。
事実として、アメリカ人は、どれだけ学習しようとも、正しい日本語の発音ができない。
だから、逆に、日本人の英語が日本語なまりなのも、大なり小なりあることで、どうしようもないと思います。
とりあえずカタカナ英語を脱している日本人の発音も、ネイティブの発音とはやはり違うのです。

昔、テレビ番組で、「日本人歌手の中で、英語の発音が良いのは誰か」を在日外国人が答える企画がありました。
日本人から見れば英語が上手そうな日本人アーティストはたくさんいますが、そういう人たちは軒並みアウトでした。
留学経験があっても、帰国子女でも、やはりアウトなのは衝撃でした。
唯一、外国人から絶賛されたのが、宇多田ヒカル。
彼女は、子どもの頃からアメリカで暮らしていた、つまりはネイティブです。
結局、あそこまでいかないと、英語の発音が良いとは言われない。
努力は続けたほうがいいけれど、何だかもう戦意喪失します。
ちょっと留学したり外国暮らしをしたくらいでは、根本のところの発音は治らず、ただ、それを正面切って言われないだけのことなんでしょうか。
五十歩百歩ということですか。
いや、しかし、それでも、五十歩と百歩は異なると考えて、練習していくわけなのですが。

一昨年くらいに流行したピコ太郎の『PPAP』も、外国人が特に面白がったのは発音が変だったからだと、日本にいるアメリカ人が分析しているのを目にしました。
フランスのロケ先で、フランス人の司会者もそんなことを言っていました。
欧米人には、むしろ、あの発音は真似できないそうなのです。
あの発音って、どの発音でしょう。
「アポー」のあたりかな。
いや、もう全部変か。

タレントの草なぎ剛さんは、韓国語を流暢に話しますが、韓国人が聞くと、とても可愛らしい韓国語なのだそうです。
日本人の話す韓国語は、どの人も発音が凄く可愛いのだとか。
何が正しいのかわからないので、そう言われても、もう全くわかりません。
でも、バカにして言っているのではないのは伝わってくるのです。

発音が違うのは、事実としてある。
でも、それをあざ笑うわけではなく、面白い、好ましいと感じる感覚は、もう世界共通なのではないか?
だって、外国人が自国の言葉を頑張って覚えて話してくれたら、基本、もうそれだけで好ましいのですから。

ひるがえって、例えば、コンビニの店員がカタコトの日本語の外国人のとき。
そのカタコトの日本語をバカにする日本人はいない、とは私も思いません。
狭量で底意地の悪い人はどこにでもいるから、バカにしたり怒ったりする人もいると思います。
でも、同じ日本人の目から見て、そういうことをする人は、日本人の中でも劣っている人です。
本人が心に抱えている問題が現れているのだと思うのです。
だから、もしも日本人のカタカナ英語をバカにする外国人がいたら。
その人も、心に何か問題を抱えているのだと思います。
発音が悪いのは事実であっても。
欧米人の階級意識やら差別意識やら、難しいことは色々ありますが、そんなことは英語の発音が良くなったところで解消される問題ではありません。

あなたの英語はわかる。
聴き取れる。
十分に。
ネイティブは、そう思っている。
私たち日本人が、日本語を話す外国人に対してそう思っているように。
基本はそう信じれば良いのでしょう。


もう何年も前、NHKで『仕事ハッケン伝』という番組がありました。
タレントが、1週間、別の職業に就いてみて、そこで色々な経験をする様子をカメラが追っていく番組でした。
あるとき、5か国語に堪能な女性タレントが、長崎ハウステンボスの職員になった回がありました。
お客様を迎えいれ、さまざまな案内をする仕事です。
しかし、そのタレントさんは、お客様に話しかけることができないのでした。
内気で人見知りな性格で、お客様に積極的に声をかけていくことができず、そのことを職員の人に注意され、壁に向かって泣いていました。
どちらかと言えば、私もそういう気持ちはわかるほうなので、うーん、頑張れと思って見ていたのですが、スタジオでそのVTRを見ていた関西の芸人さんが一言。
「客に話しかけられんってどういうこと?何のために5か国語を勉強したん?」
がさつなその発言に、でも、見ていた私も心から笑いました。
本当にそうです。
たとえ5か国語に堪能でも、目の前の人に話しかけられないのなら、意味がない。

言語は何のために学ぶのか。
他人の発音の悪さを底意地悪く指摘するツイートなんかリツイートしていないで、まず声を出さないと。
日本人の発音の悪さをバカにするのは、いつも日本人。
その事実にまず気づくことで変わっていけると思います。

  


  • Posted by セギ at 14:19Comments(0)英語

    2018年06月26日

    反復試行の確率。



    今回も「確率」の学習。
    次は「反復試行の確率」。
    例えば、こんな問題です。

    例題
    袋の中に白玉2個、赤玉6個が入っている。この中から玉を1個取り出し色を調べてから袋に戻す。これを5回繰り返したとき、白玉がちょうど3回出る確率を求めよ。

    今までと同じようでいて、実はかなり違うタイプの問題です。
    赤玉白玉の出方の順番がわかりません。
    5回のうち、とにかく白玉が3回出る。
    言い換えると、どこで白玉が出るかは自分で考えて場合分けしなければならないということです。
    例えば、白白白赤赤という出方と、白白赤白赤という出方は、異なる玉の出方であり、それぞれに固有の確率があります。
    それぞれの場合ごとに確率を計算して、最終的にそれらを足せば答えとなるでしょう。

    「なぜ場合分けしなければならないのか、そこからわからない」
    という質問を受けることがあります。
    異なる出方があるなら、1つ1つ場合分けし、それぞれの確率を足すのだということをまず理解しましょう。
    白白白赤赤という出方と、白白赤白赤という出方は異なる出方です。
    そのそれぞれに確率があるのです。

    5回のうち3回白玉が出る。
    さて、場合分けしましょう。
    5回のうち3回白玉なら、残る2回は赤玉となります。
    その並べ方は、
    白白白赤赤
    白白赤白赤
    白白赤赤白
    白赤白白赤
    白赤白赤白
    白赤赤白白
    赤白白白赤
    赤白白赤白
    赤白赤白白
    赤赤白白白
    以上の10通りに場合分けされます。
    では次に、そのおのおのの確率を求める式を立ててみましょう。

    白白白赤赤 は、1/4・1/4・1/4・3/4・3/4
    白白赤白赤 は、1/4・1/4・3/4・1/4・3/4
    白白赤赤白 は、1/4・1/4・3/4・3/4・1/4
    白赤白白赤 は、1/4・3/4・1/4・1/4・3/4
    白赤白赤白 は、1/4・3/4・1/4・3/4・1/4
    白赤赤白白 は、1/4・3/4・3/4・1/4・1/4
    赤白白白赤 は、3/4・1/4・1/4・1/4・3/4
    赤白白赤白 は、3/4・1/4・1/4・3/4・1/4
    赤白赤白白 は、3/4・1/4・3/4・1/4・1/4
    赤赤白白白 は、3/4・3/4・1/4・1/4・1/4

    こうして一覧にしてみますと、同じような分数ばかり並んでいるのがわかります。
    要するに、どの場合も、1/4を3回、3/4を2回かけるのですね。
    各行は、(1/4)3(3/4)2
    とまとめることができます。
    ( )の後ろの半角の文字は指数として読んでください。
    で、これを全部足します。
    同じものを10個足すのですから、それは×10と同じこと。
    つまり、この問題は、10(1/4)3(3/4)2という式で求めることができます。

    この10という数字を計算で求めることはできないでしょうか?
    白3個、赤2個を並べる並べ方。
    これは、以前に学習した「同じものを含む順列」の公式で求めることかできます。
    全体でn個のうち、同じものがp個、また別の種類の同じものがr個あったときの順列は、
    n!/p!r!・・・
    という式で求めることができるのでした。
    また、n=p+rであるのなら、それは、nCpという組合せの式と同じものでした。
    ですから、白玉3個、赤玉2個の並べ方は、
    5C3=5・4・3/3・2・1=10 と計算できます。

    さあ、これで、反復試行の確率の公式が導かれました。
    Aという事象の確率をpとするとき、n回の試行のうちr回Aという事象の起こる確率は、
    nCr・pのr乗・(1-p)の(n-r)乗
    公式で書くと余計わからないと非難轟々の公式ですが、問題を解くことで練習を繰り返し、慣れてしまえば使えるようになります。

      


  • Posted by セギ at 16:03Comments(0)算数・数学

    2018年06月22日

    道順と確率。これは難問です。


    問題 上の図の地点Aを出発した人が最短の道順を通って地点Bへ向かう。このとき、途中で地点Pを通る確率を求めよ。

    なあんだ。ヽ(^。^)ノ
    道順の問題なんて、簡単、簡単。
    まず、全体の場合の数を求めましょう。
    Aから、縦方向の動きを3回、横方向の動きを4回行えば、Bに到達します。
    これは、縦・縦・縦・横・横・横・横の順列ということ。
    すなわち、同じものを含む順列なので、公式を利用して、
    7!/3!4!=35
    そのうち、P地点を通る場合の数は、AからPまで到達すれば、あとの道順は横横の1通りしかないから、AからPまで、縦・縦・縦・横・横の順列ということ。
    5!/3!2!=10
    よって、確率は、10/35=2/7
    できたー。ヽ(^。^)ノ

    しかし、これは、間違いなのです。
    ええっ?ですよね。
    (*_*)

    道順の場合の数の問題や、同じものを含む順列などをしっかり勉強している人ほど、この間違いに至る可能性があります。
    恐ろしい。

    この問題、道順によって確率が異なるのです。

    え?どういうこと?
    1つ1つの道順は、全て根元事象でしょう?
    それぞれ、1/35の確率でしょう?
    ・・・・まず、その固定観念を打破するために、これとは少し違う問題を考えてみましょう。
    上と同じ図で、別の問題を考えてみます。

    問題 コインを投げて、表が出たら縦に1区画、裏が出たら横に1区画進むとする。Aから出発し、7回コインを投げてBに到達する確率を求めよ。

    縦縦縦縦横横横なのだから、7回で全部Bに到達するのかな?
    ・・・・いや、違いますね。
    例えば、表・表・表と立て続けに縦縦縦と3回動いてしまったら、地点Cに到達してしまいます。
    すると、その後、もう一度表が出た場合に、動けないのです。
    4回目の表が出てしまったら、7回のコイントスではBに到達できなくなります。
    コインの表と裏の確率は1/2。
    そこは平等なのに、7回で到達できる道順と到達できない道順があります。
    ・・・・つまり、この道順は、確率的に平等ではないのです。
    確率的に平等とは、無機質に動いていくことが可能で、初めて平等です。
    この先はその進路しか進めない、この先は一択しかない道順があるのでは平等ではありません。
    Bに到達するために、実は判断し、調整しながら進むことになります。
    もう縦に進めない。だから横に進む。
    それは1つの判断です。
    それでは確率的に平等ではありません。
    そういうことだ。
    (''_'')

    それでもわかりにくければ、こんな説明はどうでしょう?
    上の図は実際の道で、P地点には毒ヘビがいるとします。
    P地点には行きたくない。
    P地点は避けたい。
    そういう気持ちでA地点を歩きだしたとき、C地点に行くでしょうか?
    C地点まで行けば、避けようもなくP地点を通らなければなりません。
    Cに行くということは、毒ヘビに遭遇する確率が上がります。
    毒ヘビに遭遇する確率が低くなるよう、まず横へ横へと移動しないでしょうか?
    毒ヘビに遭遇する確率とは、P地点を通る確率のことです。
    どの道を通れば、毒ヘビに遭遇する確率が高いかは、すなわち、どの道を通ればP地点を通るかということ。
    私たちは、実は実感として、どの道がP地点を通ることになるか、その確率をわかっているのではないでしょうか。
    とりあえず、確率は等しくないことだけでも。

    確率は等しくない。
    平等ではないことがわかったので、最初の問題に戻りましょう。
    どうすれば、平等ではない道順の確率を求めていくことができるのか。
    どこから進路が一択になるか、そこを場合分けし、それぞれの確率を求めていけば良いでしょう。




    上の図に新たに記号を加えたのがこの図です。
    C、Dに至った場合、もうその先は横一択です。
    だから、Cを通る場合、Dを通る場合、どちらも通らずにPに行く場合と、3つに分けることができます。
    ここで、さらによく考えると、Cを通る場合も必ずDを通ります。
    そこを二重に計算してしまわないよう、もっと厳密に定義しましょう。
    本当に言いたかったことは、どういうことでしょうか。
    Dを通る場合は、Cは通らないでDを通る場合という意味で3つに分けたはずです。
    そこを明確に表現するためには?
    縦方向に行き止まりになる1つ手前に、図のようにC',D',P'を記入してみると、明確になります。
    Cを通る場合とは、C'からCを通ってPに進む場合。
    Dを通る場合とは、D'からDを通ってPに進む場合。
    そして、P'からPに進む場合。
    これで厳密に場合分けできました。

    そして、問題を解く人は、スモールライトを浴びて、この図の中に入りましょう。
    自分が縦に進むか横に進むか、曲がり角の度に、その確率を考えます。
    縦に進む・横に進むの二択がある場合、それぞれの確率は、1/2ですが、横一択になったら、その確率は1/1=1です。
    その道しか選べないのですから、確率は1=100%です。
    曲がり角の度に、その確率で進みます。
    C'からCを通ってPに進み、さらにBに到達する道順は、縦縦縦横横横横の1通りです。
    確率は、1/2・1/2・1/2・1・1・1・1・1=1/8

    D'からDを通ってPに進み、さらにBに到達する道順はどのようになるでしょう?
    AからD'までは縦縦横の順列、すなわち3!/2!=3通りあります。
    3C1と組合せの式で表しても良いですね。
    3通りあるので、確率は3倍になります。
    D'からDへ進む確率は1/2。
    その先は横一択ですから、1。
    よって確率は、3・1/2・1/2・1/2・1/2・1・1・1=3/16。

    P'からPに進み、さらにBに到達する道順の確率はどうでしょう?
    AからP'まで、道順は、縦縦横横の4!/2!2!=6 通り。
    P'からPまでの確率は1/2。
    その先は横一択。
    よって求める確率は、
    6・1/2・1/2・1/2・1/2・1/2・1・1=6/32。

    よって、その総和は、
    1/8+3/16+6/32
    =2/16+3/16+3/16
    =8/16
    =1/2

    求める確率は、1/2 です。

    好みの問題もありますが、確率の問題の中でも、考え方を革命的に変えなければ正解に至らないという意味で、これが最高難度の確率の問題だと私は思うのですが、いかがでしょう。
    数学は、超クール!ヽ(^。^)ノ
      


  • Posted by セギ at 14:35Comments(1)算数・数学

    2018年06月18日

    授業中に地震が起きた場合





    セギ英数教室の授業中に震度5以上の地震が起きた場合について、お知らせいたします。
    緊急時、携帯電話がつながらないことを前提として、以下をご一読の上、さらにご要望がありましたらあらかじめご連絡ください。

    ◎周辺に被害はないが、電車・バスが不通の場合
    特に危険は感じない場合です。
    徒歩あるいは自転車で帰宅可能な場合は、そのまま帰宅していただきます。
    徒歩・自転車での帰宅が不可能な生徒さんについては、保護者の方と連絡が取れるまで教室で待機します。

    ◎避難は必要ないが、帰宅に危険や不安を感じる場合
    余震が続いている、周辺に外壁・道路などの倒壊が見られるなど、子どもが1人で帰宅するのは危険と判断される場合です。
    保護者の方が迎えにいらっしゃるまで、教室で待機します。
    「1人で帰る!」等の、緊急時の行動の妨げになる言動がないよう、ご家庭であらかじめお話しあいをお願いします。
    高校生の男子生徒に限り、本人が特にそれを強く望む場合には、1人で帰ることを認めます。
    しかし、教室にヘルメット等の用意はなく、帰宅時の被災に関して責任を負うことができません。
    そのことも含め、あらかじめご家庭でご相談ください。

    ◎避難が必要な場合
    避難場所は、三鷹市第四中学校もしくはその隣りの三鷹市第三小学校となります。
    火事や崩落等で西方向への避難が危険な場合、三鷹市第四小学校に避難いたします。
    以下の地図でご確認ください。

    http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_service/003/attached/attach_3310_3.pdf

    ◎連絡方法
    電話もメールも不通の場合。
    通信可能であれば、避難場所や現状をこのブログかTwitterで報告します。
    Twitterアカウント名は「セギ英数教室」です。
    普段は自動でブログ更新の報告をするのみのアカウントです。
    なお、普段上記のTwitterアカウントにご連絡いただいても、私がそのメッセージを読むことはありませんので、よろしくお願いいたします。


      


  • Posted by セギ at 14:46Comments(0)よくある質問

    2018年06月18日

    確率と余事象。




    さて、「確率」の学習の続きです。
    今回は「余事象」の確率。
    例えば、こんな問題です。 

    例題 
    袋の中に赤玉5個、白玉5個が入っている。この中から2個を同時に取り出すとき、少なくとも1個が白玉である確率を求めなさい。

    問題文の中に「少なくとも」という表現があったら、余事象の可能性をまず考えてみましょう。
    そのほうが楽に解けることが多いのです。
    余事象とは、Aという事象があるとき、「Aではない」という事象を指します。
    硬貨を1枚投げて表が出るという事象をAとするなら、「Aではない」は「表ではない」すなわち「裏が出る」。
    この「裏が出る」がAの余事象です。

    ある事象の確率とその余事象の確率との和は1となります。
    確率が1とは100%ということ。
    しかし、この説明をすると首を傾げる高校生もいます。
    「もっと他のことがある気がする」
    と言うのですね。
    「他のことって、どんなこと?AかBしか起こらない場合だよ。確率があわせて100%、つまり1であるのは当然じゃない?」
    と説明すると、
    「わからない、わからない」
    と言われてしまいます。

    これは1つにはものの考え方の好みというものかと思います。
    Aであるか、Aでないか、2つに1つしかないのだ。
    そういう白黒はっきりした考え方が嫌い。
    もっとグレーゾーンがある気がする。
    そうではない可能性がある気がする・・・・。

    気持ちはわかるけれど、そういう話をしているのではないのです。
    しかし、「そういう話をしているのではない」ということが、最も伝わらないことであるような気もします。

    もう1つ。
    AかBかの事象しか起こらないということを理解できていない可能性があります。
    「Aではない」=「Bである」。
    この言い換えが納得できないというのです。
    ここが完全なイコールではない気がする。
    騙されているような気がする。
    そのように言う生徒もいます。
    その子にしか見えない蜃気楼が見えているのだろうかと教える側は困惑してしまうところです。
    AかBかの事象しか起こらないという前提が視点から容易に外れてしまうのだろうと想像されます。

    説明は理解できるが、自分でその言い換えをできる気がしない。
    生徒からそのように訴えられることもあります。
    白か赤の玉しか出ない状況でも、「白玉ではない」を「赤玉である」に言い換えることに自信が持てないというのです。
    その発想の転換が、自力では出来そうにないと言います。
    やはりAかBかの事象しか起こらないということを理解しきれていないことが原因なのではないかと感じます。
    当該の事象にばかり目が向いてしまい、「わからない」「難しい」と感じるのは、外枠が曖昧だからではないかと思うのですが、「わからない」という状態にはまってしまっている子には、論理的な救済よりもまず精神的救済が必要な様子です。
    「わからない」という気持ちに寄り添うこと。
    まず落ち着いてもらうこと。
    演習問題を解くための勇気をもってもらうこと。
    数学にはあまり関係のないことが数学の問題を解くために必要になることもあります。


    話を戻して。
    この問題は「少なくとも1個は白玉である確率」を求めようとしています。
    この程度の問題であれば、場合分けしてもそんなに難しいわけではありません。
    「少なくとも1個は白玉」は、場合分けすると「1個が白玉で、もう1個が赤玉」である場合と、「2個とも白玉」である場合となります。
    それぞれの確率を求めて単純に足しても、求めたい確率は出ます。
    しかし、もっと複雑な問題になったときに、場合分けが3通り、4通り、5通りとなっていくこともあります。
    計算も煩雑になります。
    もっと簡単に求める方法はないか?
    余事象を利用すれば、もっと簡単に求められるのです。

    「少なくとも1個は白玉が出る」ことの余事象は、「1つも白玉が出ない」ということ。
    言い換えると「2個とも赤玉が出る」こととなります。
    「少なくとも1個は白玉が出る」ことの反対は、「2個とも赤玉が出る」です。
    この「2個とも赤玉が出る」確率を求めて、全体1からその確率を引けば、「少なくとも1個は白玉が出る」確率を求めることができます。
    これが余事象を利用した確率の求め方です。

    全部で10個の玉です。
    そのうち2個を同時に取り出します。
    全体の場合の数は、10C2。
    そのうち、5個が赤玉ですから、2個とも赤玉が出る場合の数は、5C2。
    よって、余事象の確率は、
    5C2/10C2=2/9
    求めたい確率は、1-2/9=7/9
    余事象を用いると、簡単に答えか出てきます。

    計算そのものは簡単なので、「少なくとも1つが白玉である」ことの余事象は「1つも白玉ではない」すなわち「2つとも赤玉である」ことなのだと自力で読み取る力をつけること。
    余事象の問題は、そのように事象を把握する力をつけることが鍵となります。
    他の可能性がある気がする、というところに拘泥せず、このような考え方に慣れること。
    この方向でものごとを分析するトレーニングをすること。
    怖がらないで、練習あるのみです。
    ヽ(^。^)ノ

      


  • Posted by セギ at 13:53Comments(0)算数・数学

    2018年06月15日

    リスニング力を鍛えるには。




    今日はリスニングの話です。
    リスニングが苦手とひと口に言っても、さまざまな場合が考えられます。

    まずは、そもそも英語を聴いた経験が不足している場合。
    日常の学習であまり英語を聴いていない子です。
    教科書本文を収録したCDを持っていても、封も切りません。
    NHKのラジオ講座が良いと勧められても、聴こうとしません。
    学校の英語の授業で、教科書本文のCDを皆で聴く時間さえ、それを聴いていず、ぼんやりしている子もいます。
    その子の知っている英語は、その子が自分で音読するカタカナ英語が全てになり、本当の英語とは乖離があります。

    そうした生徒は、少し英語を音読してもらうとわかります。
    全て自分の間合いで、知っている単語はハキハキと発音し、読みにくい単語は、その前に長い間を置いて、ためらいながら読みます。
    英語特有の強弱もイントネーションも無視です。
    自分のそうした英語を常に自分が耳にし、フィードバックしている。
    それがリスニング問題で本当の英語を聴き取るのに大きな障害となります。
    本人の頭の中にある英語と本当の英語とは全く違う音のつながりとして聞こえるのです。
    これは発音の悪さとはまた少し違う話です。
    正しい音を聞き分けられてはいるけれど、それを自分で正確に再生できないということは、英語のネイティブでない限り、大なり小なりあります。
    そうではなく、全体のイントネーションとして英語らしい音のつながりを理解しているか。
    英語のイントネーションがわかっているか。
    リスニングには、これが重要です。

    まずは本物の英語を聴くこと。
    教科書本文のCDでも、ラジオ講座でも。
    ところが、ただ聴くだけの学習は、本当に長期間の反復があって初めて効果が得られるものなので、効果を実感できる前に止めてしまう人が大半です。
    ひと月くらいで効果が出ると期待してしまうのでしょう。
    おそらく、ただ聴くだけですと、3年から5年後に、以前よりは英語が聴きとれるようになっていたという程度の効果だと思います。
    他の学習と併用しないと、結果につながりません。

    ただ聴いていると、途中でぼんやり考えごとをしてしまったり、果ては「英語も聴いているからいいでしょう」とスマホをいじりだしたりする子もいます。
    それでは、効果は得られません。
    集中して英語と接するにはどうすればいいか?

    英語の歌に接するのは効果的な方法の1つですが、どんなに効果的な方法も、効果をゼロにする特殊能力を持っているのが英語が苦手な子どもたちです。
    10代が持つ大人への反発心がそれを助長します。
    「うちの英語の先生、ビートルズが好きでさあ。授業中までビートルズをかけるの。バカじゃね?」
    「あー、うちの英語の先生は、カーペンターズ。うぜー(笑)」
    といった会話を幾度聞いたことか。
    私より若い学校の英語の先生たちが、自分が好きだから生徒に押し付けるほどビートルズやカーペンターズが好きだとは正直考えにくいのです。
    私ですらその世代ではありません。
    音楽史的な価値から敬意は抱いていますが、自分が本当に好きな音楽ではない。
    しかし、そんなことは子どもには通じないようです。
    文法や単語が比較的易しい歌詞の英語の歌だから生徒に聴かせているのだと、理解できないのでしょう。
    学校の先生は、少しでも英語に興味を持ってもらえるよう授業の工夫をしているのにまともに聴かず、効果ゼロにしてしまう残念な子は多いです。

    では、リスニングのためにはどんな練習が効果的か。
    「シャドウイング」や「オーバーラッピング」という方法があります。
    英語の模範音読にあわせて、自分も音読するのです。
    自分がネイティブの英語と違うところで変な間を空けたり、逆に間を空けるべきところで変に急いでいることが、やってみると実感できます。
    1語を読む長さの違いに気づき、いちいち母音+子音を強調する自分のカタカナ英語とネイティブの英語との根本の違いにも気づくでしょう。
    そもそもネイティブの音読が速くてついていけないということも、やってみて初めて実感できる人もいると思います。
    そうした場合、スピードをゆっくりに変えられる機能を持ったプレイヤーがあるとさらに便利です。
    徐々に慣らして、ネイティブのスピードで音読できるようにしていくことができます。

    リスニング対策に音読練習?
    そう不思議がられるのですが、英語を聴きとることを阻害していることの1つは、自分の癖の強い音読に凝り固まってしまった英語音声への誤解です。
    癖になって凝り固まっている自分の英語のリズムを矯正できます。
    読み方の癖がそのまま聴き取り方の癖になっているのを矯正します。

    「それだと、正しい英語の音が自分の声で聴きとれないから発音練習にならない。リピートがいい」
    と、反発し、行おうとしない人がいるのですが、発音練習が目的ではないのです。「自分の声が邪魔だ。英語の正しい音が聴きたい」と思ったら、それはまた別に聴けば良いと思います。
    そういう気持ちになり、英語の細部の音を聴こうとする意志が持てたことも効果の1つでしょう。
    リピートはリピートで別の効果もありますが、模範音読の真似をしているつもりで、イントネーションの全く異なる読み方をしていてもそのことに気づかないことがあります。
    リピート練習が惰性になってしまっているときは特に。
    シャドウイングとオーバーラッピングは、読み方の間合いが模範と異なることを如実に自覚できるという点で、自学自習に最適の学習方法です。
    誰に指摘されなくても、ズレていることは明らかなのですから。

    そうやって、とにかく英語の音とイントネーションに慣れた上で英語を聴くと、短期間で今までよりも英語を聴きとれるようになります。
    しかし、当たり前ですが、単語力がないと、リスニングは難しいです。
    どんなに英語耳を鍛えても、知らない単語は意味を取れません。
    学校の教科書の英文を読んだときに、新出単語以外でも意味のわからない単語がゴロゴロある状態では、該当学年のリスニング問題は、難しく感じると思います。

    また、文法、すなわち英文の構造が理解できていることも、リスニングには有利です。
    意味のまとまりごとに若干のポーズ(間)が置かれることを実感しながら聴きとることができます。
    ポーズを把握することは、文法学習にも役立ちます。
    相乗効果ですね。


      


  • Posted by セギ at 12:58Comments(0)英語

    2018年06月06日

    be動詞がわからない子は、案外多いのです。


    さて、今回も中学英語の話から。
    英語の学習の順番は、私自身が中学生だった頃と今とあまり変わっていません。
    まずはbe動詞の学習から始まります。
    教科書によって、This is ~. の文から始まるか、I am~.から始まるかは違いますが、正直大差ない。
    要するに、まずはbe動詞を学びます。
    たまに一般動詞から学習する教科書がありますが、やはり教えにくいと感じるのか、採択されないことが多いです。

    中1にいきなり「be動詞」という文法用語を使って教えることはほとんどありません。
    まずは、こういう形の文を覚えなさいという授業になります。
    「~」のところにいろいろな言葉を入れて、どんどん転換練習して、こういう形の文を使えるようにするのが初歩の学習となります。
    ここで誤解する子どもが現れます。

    am, is,areは、日本語の「は」の意味なんだなと思い込むのです。
    それは間違っているとも言い切れないのが微妙なところです。
    be動詞にはイコールの意味は確かに存在します。
    日本語にしたら助詞「は」に相当することにはなるでしょう。

    I  am a girl.
    私 は 女の子。

    This is  a book.
    これ は 本。

    そういう解釈です。
    そう解釈した子が、次に一般動詞を学習する際に何をやってしまうかというと。
    「私は、野球をする」を英語にすると、
    I am play baseball.
    私 は する 野球。
    という英文を作ってしまうんです。

    いやいや、違うよ、amは要らないよと説明しても、そういう子は首をひねっています。
    play baseball のように、語順が日本語と異なることは百歩譲って理解しても、「は」にあたる言葉がないなんてことは、理解を越えたことなのかもしれません。
    be動詞=日本語の「は」、ととらえたことの弊害の1つでしょう。

    英語と日本語は1対1の対応ではありません。
    文法が全く異なる言語ですから。
    でも、そのことを理解できない子どももいます。

    千年以上も日本と全く交流のなかった外国の言語は、日本語と少しも似ていなくて当然。
    全く異なる文法の言語であるのが当然です。
    しかし、そう説明しても理解しない子もいます。
    世界の全ての言語が日本語と同じ構造だと思いこんでいるようです。
    いや、日本語に構造すなわち文法があることすら意識できていないかもしれません。
    そうした子にとって、日本語は自明の理。
    それだけが正しく、それ以外の構造の言語があるということは想像しにくのでしょう。

    幼い子どもは、世界の中心に自分が存在すると思っています。
    世界の中心は自分ではないと理解し、相対化するには、精神的な成長が必要です。
    中学生になると、そろそろそういう成長は期待できるのですが、言語においてもそうなのだと発想できない子はいて、それが英語と日本語を1対1の対応で覚えようとすることにつながっているのかもしれません。
    言語は全て日本語と同じで、ただ使う単語が違うだけだと思ってしまう様子です。

    文法も異なりますが、1つの語句がカバーする意味合いも、言語によって異なり、日本語と1対1の対応にはなりません。
    例えば、playという動詞は、最初に勉強するときがplay baseball の形だったりしますと、play=「する」と覚えてしまう子がいます。
    だから、「あなたは何をしていますか」といった疑問文でもplayを使ってしまい、
    「playは『する』じゃないの?」
    と訊いてきます。
    「日本語の『する』に一番近いのはdoだね。でも、それも完全に一致するわけじゃないよ」
    と説明しても、首をひねっています。
    「『する』がdoなら、何でdo baseballじゃないの?」
    「日本語と英語の単語は1対1で対応しているわけじゃないから、そういうこともあるでしょう。1つの単語にいくつも意味があって、一部分はかぶるけれど、他はかぶらないということはよくあることだよ」
    「何でそうなるの?」
    「・・・そういうことを本当に心から疑問に思って勉強したいなら、大学の言語学科か英語学科に進みなさい。好きなだけそうした勉強ができるよ」
    「いや、別にいい。そんなに興味ない」
    「・・・・」
    純粋に英語への興味からそうして色々質問してくるのなら良いのですが、言外に、英語への非難がにじんでいることが多く、気になります。
    英語の勉強が嫌で、英語を否定したい、「英語は日本語と違ってこういうところがダメだ」と主張したいという気持ちの表れがそうした疑問となって口をついて出ているようなのです。
    英語を否定したいと思っている時点で、英語と敵対関係にあるのですから、勉強が進まないですね。
    (-_-)

    それはともかく。
    I am play baseball.ではなく、I play baseball.
    それが正しい英語だといったんは理解して、その後、三単現や人称代名詞などを学んだ後、現在進行形の学習に進みます。

    I am playing baseball now.
    私は今野球をしているところです。

    現在進行形のとき、動詞の形は、「be動詞+~ing」。
    am, is, areをまとめてbe動詞と呼ぶことはそろそろ教えても大丈夫な段階ですが、~ingは「現在分詞」と呼ぶということは、中1ではまだ早いので教えません。
    文法の専門用語ばかり出てきて、それを覚えられずにギブアップしてはいけませんから、~ingという形が動詞にはあるんだねとぼやかした形で説明します。
    しかし、なぜこのときbe動詞を使うのかは、初めて現在進行形を学ぶ子どもにとっては理解不能であり、相当な違和感があるのは事実です。
    とはいえ、ここで理屈をこねてもさらに理解不能でしょうから、その違和感を逆手にとり、ここでbe動詞を使うんだね、be動詞って不思議な働きがあるねと説明します。
    「be動詞を忘れると困るから、覚えるときは必ず『be動詞+~ing』とセットで覚えようね」
    と説明し、be動詞のところは節をつけて大声で強調したりもするのですが、そうした授業の工夫も徒労に終わり、be動詞を書き忘れる子は一定数存在します。

    I playing baseball.
    ( ;∀;)

    be動詞を必ず使えと言ったのになあ。
    be動詞+~ing の形で覚えなさいと強調したのになあ。
    何度も復唱したのになあ。
    何で間違えるかなあ・・・。( 一一)

    そういう子がよくする質問があります。
    「be動詞って何?」
    「be動詞とは、am,is,areのことです。色々な働きがありますが、難しいので、それは今は聞かないほうがいいと思う。後になったら嫌でもやるからね。それとも今、聞きたいですか?」
    「別にいい」
    「では、とにかくbe動詞とはam,is,areのことで、かなり特別な働きをする動詞なのだということだけ覚えましょう」

    とにかく、現在進行形は、be動詞+~ing。
    そうして現在進行形の学習がひと通り終わり、それまでの復習問題を解くと、またこんな英文を書く子が現れます。

    I am play baseball.
    ( ;∀;)

    「・・・be動詞と一般動詞原形は一緒には使わないんだよー」
    「be動詞を必ず書けって言った・・・」
    「それは現在進行形のとき。『今~している』の意味のとき。これは現在形」
    「何が違うの?」
    「一般動詞の現在形は、今、行っている動作じゃないんですよ。そういう習慣があると言っているだけで、今野球をしているわけじゃないのです」
    「ちょっと何言ってるかわからない」

    I play baseball every Sunday morning.
    この例文だとわかりやすいと思うのですが、現在形というのは、現在その動作を行っているときに使うものではありません。
    例えば毎週日曜日の朝に野球をする習慣がある、そういうことになっているということを伝えたいときに使うものです。

    現在形は、
    ①現在の習慣
    ②現在の状態
    ③不変の真理
    ④確定的未来
    ⑤時・条件を表す副詞節は未来のことを現在形で表す
    といった主な用法があるのですが、こういうことを体系的にまとめて学習するのは高校生になってからです。
    中1にこんなことをいきなり教えても半分も理解できないでしょう。

    しかし、中1の今はまだそんなことはわからなくてもいいから、というところで逐一壁に突き当たり、英語がわからなくなる子がいます。
    be動詞がわからない、現在形がわからない、と繰り返し言います。
    もやもやしていることがあると、そこから先に勉強が進まないようなのです。
    多くの子は、そんなことはあまり深く考えず、nowが文末についているときは「今~している」なんだからbe動詞+~ingの形にすればいいんでしょうと把握し、それで正解するのですが。

    be動詞が上手く呑み込めないまま、一般動詞の疑問文を作る問題では、
    Do you play baseball ?
    という英文を自力で作れず、
    Are you play baseball ?
    というミスを中2になっても繰り返しては注意されているうちに、be動詞の別の用法を学ぶことになります。
    存在を表す用法です。

    There is a book on the desk.
    机の上に一冊の本があります。

    be動詞には、存在を表す用法があります。
    「ある」「いる」の意味です。
    この文の主語はbookです。
    もともとの形は、
    A book is there.
    だったのが、強調のための倒置が起こり、それが固定化され、構文となったものです。

    be動詞の主な働きは2つ。
    ①A=B の意味を表す。
     すなわち、主語=補語の文を作る。
     補語は、名詞または形容詞。
    ②存在を表す。
     「ある」「いる」の意味。
     There is a book.という構文は、不特定のものが存在するときに用いる。
     特定のもの・人が存在するときは Mary is in the library. のように表す。

    中2になると、このようにbe動詞の2つの用法は整理され、かなりわかりやすくなってきます。
    そこで開眼してくれると良いのですが、be動詞がわからないという子が、こういうところはスルーすることがあります。
    長年の疑問がようやく整理されたというのに、なぜ、スルー?
    もう英語はわからないものと諦めているからなのでしょうか。
    ('_')

    そうこうするうちに、中2の終わりに「受け身の文」が登場します。
    今度は、be動詞+過去分詞 です。

    Baseball is played by nine people.

    「be動詞+過去分詞」とセットで覚えるんだよー。
    be動詞を絶対に忘れないでねー。
    そう強調するのですが、例によって必ず忘れる子がいます。

    Baseball played by nine people.

    「be動詞を入れようよ。これだと、ただの過去形の文ですよ」
    目立つ単語を拾う形でしか文意を取ることができない子も一定数いて、能動態と受動態の文の識別が難しい場合もありますが、そこにbe動詞の有無という例のミスが登場しますから、グチャグチャになってしまう子も多いのです。

    とにかくbe動詞。
    受け身の文はbe動詞。
    be動詞+過去分詞。
    そう強調して定期テストを乗り切った後、それまでの復習をすると、能動態の過去形の文も、

    I was played baseball yesterday.

    と、また不要なbe動詞を書いてしまうミスが復活する子がいます。
    ( ;∀;)

    全ては裏目裏目に出てしまい、be動詞を入れるべきときに入れず、入れてはいけないときに必ず入れる。
    英語が苦手な子のbe動詞の扱いは、完全に裏・裏・裏となっていて、壮絶です。


    なぜそこまでbe動詞がわからないのか?
    1つには最初に書いた通り、be動詞=「は」 という最初の誤解から解放されていないのではないかと想像されます。
    それは、英語の構造は日本語と同じであるはず、という誤解です。
    be動詞が日本語の何にあたるのか、結局、わからない。
    だから、使い方がわからない。
    そういうことなのでしょうか?
    「be動詞が日本語の何にあたるか」という見方がそもそもおかしいので、be動詞はbe動詞という英語固有のものととらえようよと話すのですが、そうしたことは生徒にとって抽象的で、頭に心になかなか届かないもどかしさがあります。

    もっと単純に、be動詞を使うか使わないかといった二択の知識を必ず間違えて覚えてしまうだけという場合も考えられます。
    こういうときは使う、こういうときは使わない。
    この形の知識を覚えることが苦手で、なぜか逆に逆に覚えてしまう子がいます。
    自分で誤用したことは記憶に残りやすく、それが「聞き覚え・見覚えのある英語」として本人の頭の中に蓄積されますから、誤用は強固になるばかりです。
    誤用を上回るインパクトのある覚え方が本人の頭の中に入らない限り、誤用は続くのかもしれません。


    中1・中2レベルの英語でこんなにもつまずくというのは悲観的な要素ですが、しかし、脳の発達時期には個人差があります。
    中1の頃には理解できなかったことも、その後、理解できるようになることがあります。
    数学と英語と両方教えていますと、数学を教えていて、
    「この子は、小学校の算数の解き方をしてしまうなあ」
    「数学の論理体系、数理の根本が形成されていないのかなあ」
    という感想を内心抱いていた子が、中3あたりから急成長することがあります。
    理屈で説明すればスルッと理解してくれるようになるのです。
    英語の場合、文法用語を駆使すればするほど、ダイレクトに理解してくれるようになります。
    文法用語は、抵抗感が強い硬質のものですが、その仕組みを一言で伝えることができるので便利なのです。
    ものごとには全て名前があります。
    名称を把握することで、世界は混沌を脱し、秩序立てられます。
    英語の場合、S・V・O・C・Mと、各品詞の名称と働きを理解すれば、大抵のことはどうにでもなります。
    知識の伝達がスムーズになるのです。


    中1の初めの頃はどうなることかというほどbe動詞の扱いに戸惑っていた子もやがて精神的に成長していきます。
    ある子が高1になったとき、以下のことを説明したことがあります。
    分詞の限定用法・叙述用法の解説をしたときです。
    分詞の限定用法は、名詞を修飾する用法。
    それは形容詞と同じ働きをするということ。
    分詞の叙述用法は、SVCやSVOCのCの用法。
    それは、形容詞と同じ働きをするということ。
    つまり、分詞は動詞が形容詞化したもの。
    分詞は、形容詞なんだね。
    形容詞の前にはbe動詞を置くよね。
    進行形の~ingの前にも、be動詞を置くね。
    受動態の過去分詞の前にも、be動詞を置くね。
    全部、同じだね。
    普通のSVCの分析とはまた違うことだけど、なぜbe動詞を置くのかだけは、納得がいく気がしない?
    「・・・・ああっ」
    悲鳴にも似た声が、その子から上がりました。
    進行形の文、受動態の文で、be動詞を使うこと。
    その構造に別の方向から光が当たって理解できたのでしょう。

    こういう感動を共有できることが英文法を教え学ぶ喜びだと感じます。
    勿論、be動詞の誤用など、その子の場合は2度と起こらなくなりました。
    覚醒したのです。

      


  • Posted by セギ at 13:04Comments(2)英語

    2018年06月04日

    場合の数と確率。確率の根元事象とは。


    今回は高校数学A「確率」の学習です。
    例えば、こんな問題です。

    問題 
    以下の真偽を答えよ。
    3枚の硬貨を投げた場合の事象は、「表が3枚出る」「表が2枚、裏が1枚出る」「表が1枚、裏が2枚出る」「裏が3枚出る」の4通りである。よってそれぞれの事象の起こる確率は全て1/4である。

    うっかり説得されそうになりますが、これは「偽」です。
    3枚の硬貨を投げた場合の事象は、4通りではありません。
    3枚の硬貨に、a、b、cと名前を与え、それぞれの表裏を(a・b・c)の順に書いていくと、
    (表・表・表),(表・表・裏),(表・裏・表),(表・裏・裏),(裏・表・表),(裏・表・裏),(裏・裏・表),(裏・裏・裏)
    と8通りとなります。
    この8通りの事象のように、これ以上は分解できない事象の1つ1つが根元事象です。
    「4通り」としたときは、いくつかの根元事象を合体させてしまっているのです。
    したがって、
    表が3枚出る確率は、1/8。
    表が2枚、裏が1枚出る確率は、3/8。
    表が2枚、裏が2枚出る確率は、3/8。
    裏が3枚出る確率は、1/8。
    となります。

    確率は、上のように硬貨の問題もカードを選ぶ問題も、玉を選ぶ問題も、根元事象を区別して明らかにしていくことで正確に求めることができます。

    最初から後者の解説をされれば理解できるのですが、最初に前者の話をされるとそれで納得してしまい、正しい説明を受けても混乱する高校生がいます。
    後者の考え方は、それはそれでわかる。
    でも、前者の何が間違いなのかわからない。
    いったんその状態になってしまった高校生を説得するのは、かなり難しいです。
    「前者の考え方だと、確率は全て分子が1になり、どんなことも確率は等しくなるけど?」
    という説明でハッと気がついてくれると良いのですが、そんなことでハッと気がつく子なら、最初からこういうことでは混乱しないのかもしれません。
    何を言われたのか呑み込めない様子で、怪訝そうな表情のままの子が多いです。
    間違った考え方にはまってしまった子に説明し続ける徒労感は、「場合の数と確率」に特有のものです。

    一対一の個別指導で、生徒の性格が強めですと、わかるように説明できない講師が悪いという雰囲気になることがあります。
    わからない生徒が勝者のようにその場に君臨し、授業が全く進まないということが起こります。
    一方、集団指導ですと、このようことをいつまでも言い張る子に対して、周囲から、
    「え?」
    「バカじゃね?」
    というつぶやきがもれ、生徒はすごすご引き下がるという事態になりやすいです。
    理解できないまま、ただ心が傷ついて終了し、数学なんて大嫌いで終わってしまうかもしれません。
    また、個別指導でもあまり自己主張しない子は、よく理解できていないのに理解したふりで済ませてしまうことがあります。
    本人はわかったというので、授業が先に進みますが、基本が理解しきれていないので、その先の応用問題は何をどう考えれば良いのかわからない事態に立ち至ります。
    それを考えれば、授業進度に支障はきたすものの、わかるまで話しあうほうが「確率」の理解に半歩でも近づけるでしょう。
    実際のところ、大変ではありますが。('_')

    正しい考え方を聞いてもなお、間違った考え方のどこが間違いなのかわからない。
    どこが間違いであるかわからない限りは、それは正しいのではないか?
    その姿勢は共感できなくはないのですが、上の例でいえば、
    「いくつかの根元事象を合体させている」
    という点が誤りであると指摘しても、それで納得はしないのですから、説明はかなり難しいです。
    全ての根元事象を具体的に明示しても、
    「それはそれでわかるけれど、それで、間違っているほうの考え方はどこが間違っているんですか?」
    と相対化させてしまうのですから、説明するほうは手詰まりとなります。
    それはそれでわかるって、どういうこと?
    それがわかるなら、根元事象を合体させたらダメだよね?
    「え?なぜですか?
    うーむ、手ごわい。( ;∀;)

    「確率」は、手順だけ覚えて済む単元ではなく、事象をどう分析するか、ものごとをどう見るかが深く関わってきます。
    そんなに簡単には霧は晴れませんが、簡単に諦める必要もありません。
    あまり思いつめずに、やっていくのが何より。
    明日にはぽこっと霧が晴れて、理解できているかもしれません。

      


  • Posted by セギ at 14:48Comments(0)算数・数学