たまりば

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2023年05月29日

ヤゴ沢から景信山、明王峠から与瀬神社に下りました。2023年5月。


2023年5月28日(日)、奥高尾を歩いてきました。
高尾駅北口から小仏行きのバスに乗りました。8:33。
バスは、立っている人が数人くらいの人数でどんどん発車。
終点、小仏下車。
すぐに歩き始めました。8:55。
まずは、バスの進行方向のまま、その先の舗装道路を歩いていきます。
左手に沢。
今の時期は緑が深くて、沢はあまり見えません。
徐々に上り坂になり、大きくカーブを描いて沢と離れていくと、景信山東尾根の登山口。
そこを通り過ぎ、舗装が途切れると、ヤゴ沢が見えてきます。
そこがヤゴ沢コースの登山口です。

2019年の台風で、ヤゴ沢から景信山への道は崩壊し、通行禁止となりました。
直後にそこを歩いた人の記事をネットで読んだことがありますが、木橋が流出し、踏み跡も消え、ルートファインディングのできる人でないと歩けない状態になってしまったようです。
あれから3年半。
いまだに進入禁止となっていますが、歩いている人の記事も見かけます。
私も行けるかな?
進入禁止のところに入っていく場合、すべてが自己責任です。
あそこは谷底なので、携帯電話の電波が届かない可能性もあります。
用心して行こう。

さて、バスを降りた人の多くは、東尾根登山口から景信山に登るようですが、直進して、小仏峠に行くコースもあります。
だから、ヤゴ沢付近も人通りはゼロではありませんでした。
警察官が取り締まっているわけではないけれど、私みたいなのが入って行こうとすると、通りすがりのおじさんに注意される可能性があります。

山の危険を何にもわかっていないおばさんが、独りでひょこひょこ登山道ではない道に入っていこうとしている。
「進入禁止」の札も立っているのに。
これは、注意してやろう。

そういう人の気持ちもわかります。
朝から面倒なことに巻き込まれたくないので、周囲をうかがって、人がいない隙にするっと右折し、ヤゴ沢コースに入りました。
たったか足を速め、登山口から見えないところまできて、ほっとひと息。9:15。

まずは沢の右岸、上っていく立場としては、沢の左側を歩きます。
道幅は十分で、よく踏まれている良い道でした。
流失したという木橋も、太い丸太のものに作り替えられ、セメントで補強もされていました。
木橋を渡って、沢の左岸へ。
道は路肩が少し崩れかけているところもありました。

明瞭な踏み跡に導かれるまま、沢から離れ、上り坂が始まりました。
いまだに倒木は整理されず、荒れた様子が続きます。
丸木橋を整備作業中のため進入禁止といった内容の看板が立っている付近で、踏み跡は大きく2つに分かれました。
これも、事前にネットで読んでいたので、ああ、ここが分かれ道かとわかりました。
右に曲がってしまうと、山肌をずっとまいていく細い道が続き、その先は、景信山東尾根登山道に合流するらしいです。
ヤゴ沢コースは、左です。
台風の前に2~3度歩いているので、地形の印象からも、これは左だなとわかる道でした。
あとは、谷底の道を尾根へと上っていくだけです。
沢筋の道なので、シダ類が青々と繁茂しています。
濡れた道。
湿った冷たい空気。
夏の山歩きは、こういう道がいいですね。

水場。9:35。
昔は、大きな丸太がベンチ代わりにありましたが、そんなものはどこかに流されてしまったようです。
水場のパイプと、水を飲む人のためのコップは変わらず。
でも、これも、一度完全に流失したものを、掘り起こして復元してくれたものなのかもしれません。
上の画像の右下が水場のパイプです。

道は徐々に傾斜が急になり、やがて、山肌をジグザグに上っていくようになりました。
見上げると、林の向こうに空が透けて見えるので、あそこまで登ればよいのだとわかります。
上から、二人連れが下りてきました。
ここで出会ったのは、この人たちだけでした。

ジグザグ道を上りきり、景信山直下の四つ辻に到着。
高尾山から歩いてくると、ここから景信山への最後の急登が始まる、というところです。
ヤゴ沢コースからの道と、景信山をまく道と、4本の道が交差する、四つ辻です。

こちらのほうは、進入禁止の立て札はありませんでした。
登るのはダメでも、降りるのは特に禁止されていない。
登山口から、別れ道の看板の立っているところまでが進入禁止なのでしょうか。
もう木橋の修復は終わっているように思います。
崩れかけている路肩の修復をこれからやる予定があるのかな?
平日に歩くと、作業している方の邪魔になるのかもしれません。

ヤゴ沢コースはもともと正規の登山道ではないので、道しるべはありません。
土地勘があるか地形が読める人でないと、道に迷う可能性はあると思います。
そういう意味で、責任はとれない。
あんなところで遭難したら、誰も探しに来ない。
行くときは、家族・知人に行先を「ヤゴ沢から景信山」としっかり告げて行くことをお勧めします。
そして、万が一遭難し、救助隊のお世話になることになったら、そりゃあ物凄く怒られると思います。
当然だな。

景信山への急登は、団体さんが登っていて渋滞気味でした。
疲れていたので、ちょうどいいスピードでのんびり登っていくことができました。
山頂。10:15。
まずは下の小屋のベンチから、富士山が見えました。
高曇りの空の下、思いがけずくっきりとした富士山でした。

上の小屋へ。
三角点かげ信小屋は、今、『鬼滅の刃』を激推し中です。
「聖地巡礼」記念のグッズも売っていますし、スタンプもあります。
霞柱の出身地が景信山だそうです。
春恒例の京王のスタンプラリーのスタンプ台も出されていました。


北側の見晴らしの良いベンチに座って、早めのお昼にしました。
今回もカレーヌードルです。
夏の山歩きは、正直、カレーヌードルしか喉を通りません。

さて、出発。10:40。
明王峠に向かいます。
奥高尾縦走路は、人通りが多いので、マスクを着用しました。
前を行くのは、20人ほどの若い男女。
何だろう?
合同ハイキング?
そんな風習、私が学生の頃にもうほぼ消えかけていたけれど?

いつも逆方向を歩いているので、あまり感じなかったけれど、景信山から明王峠に向かうと、案外上り坂が多いです。
気温が高いので、マスクをしていると、上りが苦痛でした。
まき道、まき道と選んで、ようやく明王峠。12:00。
お昼どきなので、ベンチは満員でした。

少し下って、木段が広くなっている場所に座って、休憩。
ここなら、やってくる人の邪魔にならないでしょう。
凍らせてきたゼリー飲料を飲んで、ほっとひと息。
まだ登ってくる人たちもいました。
最後の木段の上りが大変なんですよね、この道は。

さて、下山。
与瀬神社までは3㎞、100分。
でも、そんな時間では下れないのです。
いや、私が下りが下手だからかなあ。
一所懸命歩かないと、そんな時間では下山できないのです。

まずは木段が延々と続き、そこから石がごろごろしている道へ。
一度林道を横切って、そこからは平たんな道も多くなります。
下っていくと、大平の茶店跡。12:45。
もう上ってくる人もほとんどいないようなので、マスクを外しました。
ベンチに座って、また休憩。

この道は、もう少し前ならばイチゴの白い花が咲き乱れ、夏の終わりになれば、ツリフネソウが咲き乱れる、花の道。
今は、フタリシズカがひっそりと咲いていました。
ヘビイチゴの赤い実もときどき。

歩きやすい道をどんどん行くと、2019年に登山道が崩落した箇所に。
前に来たときからまた崩落したのか、さらに道が細くなったような気がします。
気のせいかな?
前にはなかった補助ロープが張られてありました。

どんどん降りていくと、急な段差が増えてきます。
でも、秋に来たときに壊れかけて歩きにくくなっていた木段は整備されていました。
ありがたい。
そして、相模湖を見下ろせるベンチに。
ここでまた休憩。
この先、九十九折の歩きにくい道になるので、ひと息いれて、気持ちを整えました。
この前歩いたときは晩秋で、落ち葉が積もって滑りそうで本当に嫌だったのです。
でも、今の時期は土がよく見えているので、思ったほどの歩きにくさはなく、助かりました。
道が広くなり、短い木のハシゴを降りると、あともう1回、右に曲がって左に曲がれば、与瀬神社。

与瀬神社。13:50。
トレッキングポールやクマ鈴を片付け、マスクをつけて、さて、駅へ向かいます。
与瀬神社の石段を下るのはちょっと怖いので、まき道を選びました。
そこから、高速道路の上にかけられた歩道橋の階段をさらに下っていき、舗装道路へ。
左折し、線路沿いの道をどんどん歩きます。
相模湖駅。14:07。
見ると、高尾行は、14:08発。
ただし、遅延。
わあ、助かりました。
階段を上って向こう側がホームなので、定刻だったら間に合いません。
ホームについて、6両編成の6両目の位置についたところで、遅延電車が到着。
この時間だと、座ってのんびり帰ることができました。
周囲の乗客は、山帰りだけど、ザックが大きい。
奥秩父や八ヶ岳の山に一泊で行ってきた人たちでしょうか。

高尾駅では、ホームの向かい側に東京行き快速が遅延電車を待っていてくれて、待ち時間0分で出発。
ロスタイムがなさ過ぎて、汗がひかず、こんな状態で電車に乗っていて申し訳ない。
身を縮めて乗っている間に、電車は三鷹に到着しました。

  


  • Posted by セギ at 16:39Comments(0)

    2023年05月27日

    英語の成績の上がりやすい子、上がりにくい子。


    都立小金井公園のヒナゲシ。
    今年もきれいに咲いていました。

    さて、今回は、英語の成績の上がりやすい子は、どういう子かという話。
    それはもう指示したことをその通りに実行してくれる子が一番成績が上がりやすいです。
    これをやりなさい、と私が言ったことをその通りにやる子です。

    しかし、これがなかなか難しいのが現実です。
    本人の判断で、助言されたことを実行しない子もいます。
    反抗しようと思っているわけではなく、指示通りにやろうとしても、できない子もいます。

    英語で多いのが、授業を受けるのに、学校の教科書を持ってこない子です。
    単純に忘れてしまうようです。
    学校に置きっぱなしなのでしょう。
    今は、公立中学ではむしろ「置き勉」を推奨する動きもあります。
    しかし、それは、普段は家庭では使わないだろう重い紙の辞書や社会や理科の教科書、資料集などの話だと思うのです。
    英語の教科書なんて薄いし、家庭学習に必要なのに、学校に置きっぱなし。
    高校生にもいます。

    塾の英語の授業では、高校の英語コミュニケーションの教科書本文を1文ずつ読んで訳してもらっています。
    今どき古くさいやり方のようですが、結局、英文を英文のままざっくり読んで、学校の先生から全訳プリントをもらって意味を理解しているだけの子の中には、実は自力では全く英文を読めない子たちがいます。
    そうした子たちの指導には、やはり1文ずつ丁寧に読んで訳す過程が必要です。
    昔のように、日本語の順番に直すことはしません。
    英文の意味のまとまりごとに、日本語に直していくだけです。
    直訳で構いません。
    英文の意味を本当に理解しているかどうかの確認をしているのです。
    そして、訳してもらった後は、重要文にアンダーラインを引いた全訳プリントを渡しています。
    重要文とは、文法重要事項が含まれている文と、重要表現を含む文です。
    その暗唱が宿題です。
    暗唱といっても、お経のような丸暗記ではなく、全訳を見ながら、意味のまとまりごとに復元していく練習です。
    英文の構造把握の練習でもあります。
    これをやっておけば、空所補充問題も乱文整序問題も、和文英訳問題も大丈夫。
    一度自力で訳した英文は内容の理解も深まり、内容に関する問題の精度も上がります。
    基本的に、この繰り返しで、英語コミュニケーションの教科書範囲の問題は確実に得点が上がっていきます。

    ところが、この授業の流れをなし崩しに破壊していく生徒もいます。
    教科書を忘れてくるんです。
    例えば、
    「プリントなら持っています」
    という子。
    高校の英語の先生も、今は本当に親切なので、教科書本文を行間をかなり空けて印刷しているプリントを配ってくれることが多いです。
    そこに、生徒は、和訳や重要文法事項を書き込めばいいようになっています。
    それは、教科書にカタカナで読み方を書き込んだり意味を書き込んだりするのを止める意味があると思います。
    教科書にそんなものを書き込んだら、その助けを常に借りて英文を読むことになります。
    結果として、そうした補助のない定期テストでは、まるで初めて読む英文のように意味がわからない・・・ということになります。
    教科書は、常にまっさらに。
    それを読んで意味がわかるようにしておく。
    英語学習の基本です。

    「プリントなら持っています」
    という子。
    そのプリントには、当然、文法上の注意事項や全訳が書き込まれていました。
    「・・・私はこれからあなたに、いつものように、教科書本文を読んで訳してもらおうと思うのですが、あなたは、それを、訳が全部書き込んであるそのプリントでやるのですか?」
    「・・・」
    「その時間に何の意味があるんですか?」
    「・・・」
    「意味のある学習をしましょうよ」
    「・・・」

    それは、教科書を単純に忘れただけなのか。
    それとも、本当に、そのプリントで大丈夫だと思い込んで、故意に教科書を持ってこなかったのか。
    後者の可能性もあるところが、子どもの判断力の怖いところです。


    また別のとき。
    その子は、やはり教科書を持ってこなかったのですが、
    「スマホに全文入っていますから、大丈夫です」
    と言いました。
    スマホで、教科書本文を撮影したのでしょうか?
    なぜ、わざわざそんなことを・・・?
    意味はわからないですが、それで学習できないわけではないですから様子を見ていますと、なかなか画面が出てこないのでした。
    「・・・どうしました?」
    「何か、画面にぐるぐる回る円が出てきて、それから白いままで・・・」
    「・・・あなたのスマホで撮影した画像ではないのですか?」
    「サイトからダウンロードするんです」
    「・・・」
    どこのサイト?
    教科書会社のサイト?
    学校のサイト?
    今の高校生は、学習する際に、デジタル面で色々な特典を享受していますが、そのすべてが常に万全に機能するとは限りません。
    ついに、その時間内に、サイトにアクセスすることができませんでした。
    デジタルなんて、そんなものです。
    便利なようで、いざというときに使えないことも覚悟しておかなければならないのがデジタルです。

    紙の教科書を毎回持ってきなさいよー。
    なぜ、そんな簡単なことが実行できないのー?
    そうやって、1週また1週と学習が遅れているのに、定期テストのときだけ、
    「何で塾に通っているのに、成績が上がらないんだろう?」
    と変な顔をされても困るんですよ。
    障壁は、あなたなのよー。
    私は、あなたの成績を上げたいのだよー。


    英語の「論理・表現」も、学校のテキストを持ってこない子がいます。
    もしも、私が、学校のテキストで文法を解説し、学校のテキストの練習問題を授業中に解くのならば、嬉々として持ってくるのだと思いますが、そういうことは、自分でやるように話しています。
    それを面倒見ていると、むしろ、成績が下がっていく可能性のほうが高いのです。

    昔、大手の個別指導塾で働いていた頃は、そういうことを生徒に要望されることが多く、対応に苦慮しました。
    数学でも英語でも、学校から配布されるテキストや問題集だけをやりたがるのです。

    それすら自力ではできない子の場合はまた話が違ってきますが、普通の理解力のある子ならば、学校のテキストや問題集は自分で解けます。
    塾では、同じ進度で別の問題を解くことで理解を深め、演習量を増やすのが学習上の効果が高いです。
    しかし、個別指導塾に中学生・高校生が期待することは、学校の問題集や宿題を一緒に解いてほしい、わからないところを教えてほしい、ということだったりします。

    それをやっていると、多くの場合、だんだんと本人が考えなくなってしまうのです。
    ちょっと解けないと、すぐ諦める。
    私が解くのを待っている。
    私の解説を聞いて理解できれば、それでOKだと思ってしまう。
    「解説を聞いて理解できる」ことと「自力で類題が解ける」こととは、次元の違うこと。
    そういうことがわかっているのか、いないのか。
    わかっていても、楽なほうに流れてしまうのかもしれません。

    塾に通うということは、学習量が増えるということでなければおかしいです。
    市販では手に入らない良い教材で、多くの演習ができるということ。
    わからないことを解決するのはもちろん重要なのですが、「わかった」だけではダメなのです。
    「わかった」ことを「自力で解ける」に変えていくには多くの演習が必要です。
    それを保証するのが塾という場です。
    ところが、学校のテキストで教えていると、学校のテキストすら自力で解かなくなる子が現れます。
    もちろん、それ以外の勉強なんかやりません。

    真面目で、人一倍成績のことを気にしている子が、そうなってしまうことがあります。
    学校のテキストをやりたいのは、学校の先生に優等生と見られたいから。
    学校推薦か総合型選抜で大学に行くつもりなので、学校の成績がとにかく大事。
    それはわかります。
    「では、学校の定期テストは、学校の問題集と全く同じ問題しか出題されないのですか?」
    と尋ねると、ぐっと答に詰まってしまう子もいます。
    そこまで定期テストの点数を気にしているのなら、受けた後のテストを正確に分析しましょう。
    学校の問題集と1字1句たがわぬそっくり問題しか出ないのならば、私も、学校の問題集で教えます。
    でも、類題が出題されるのであるなら、学校の問題集だけ解いていてもダメじゃないの?
    そのように説明すると、さすがにその損得は理解できるようで、学校のテキストの問題を塾で解くことは諦めてくれます。

    大手の個別指導塾で働いた頃は、この問題の解決がつかないことがありました。
    生徒本人と、講師と、保護者と、教務(塾の正社員)。
    この四者の思惑が絡まってしまうのです。
    私が生徒を説得しても、生徒が家に帰って保護者に何か違う伝え方をして、保護者から教務にクレームがくる可能性は常にありました。
    その場合に、教務が私をかばってくれることはありません。
    クレームがきたら、講師を変えるだけです。
    それが特に間違っているとも思えません。
    組織としては、そういう判断になるでしょう。
    そうなると、講師側は、保身のため、生徒の望む通りの授業をすることになります。
    波風立てないことが一番大切。
    成績は上がらなくても、生徒本人の希望通りの授業をしている限り、講師を変えるとか塾をやめるということにはならないから・・・。
    これは、構造的な問題で、誰が悪いということではないのです。
    大きな組織は、そうなってしまいます。
    生徒の成績を上げたいという目標は1つのはずなのですが。

    自分の学習のやり方では成績が伸びないから塾に来るのに、結局、自分のスタイルを通したい子は多いのです。
    大人の言うことにいちいち懐疑的になる年齢なので、単純に強要もできません。
    説得を繰り返していかなければならない中で、早めに了解して助言通りにやってくれる子は、成績が上がっていきます。

    一方、本人の望んでいることと私の要求することがなかなか一致しない場合、その間は成績は上がらないことが多いです。
    特に、本人が「わからないところを教えてもらいたい」という認識だけで個別指導塾に入ってくると、なかなか成績が上がらないことがあります。
    これは、一見優等生で真面目な印象の子に多いのです。


    さて、そんなわけで、論理・表現の学校のテキストを塾に持ってこない・・・。
    「動名詞の慣用表現は、学校のテキストには何が載っていますか?テキストを出して」
    「・・・持ってきていません」
    「・・・では、学校のテキストにどれが載っていたか、この塾のテキストで見て、思い出せるものはありますか?」
    「・・・」
    「慣用表現は、学校のテキストに小さい字でまとめて書いてあるので、あまり大事じゃないと思うでしょう?でも、テストに出るのは、それですよ」
    「・・・」

    英文法が苦手な子には、さまざまな理由があります。
    根本は、そもそも英文法の意義を認めていない。
    そんなものを学習しなくても、大丈夫だと誤解しています。
    そんなのじゃない英語の勉強をしたいと、本人は願っています。
    これも、結局、自分の考え、自分の学習スタイルを通したいことの現れでしょう。
    その認識を改めない限り、成績は上がりません。

    しかし、英文法の意義は認めていても、学習が下手な子もいます。
    英文法のテキストの各単元の冒頭は、中学の復習です。
    例えば、「動名詞」ならば、まずは、普通に動名詞を用いた例文が並んでいます。
    動名詞が主語の文。
    動名詞が目的語の文。
    動名詞が補語の文。
    そんなもの、生徒にとっては大差ありません。
    どうでもいい。
    全部中学の復習だ。
    これならわかる、と思うと、それでもう大丈夫だと誤解してしまう子がいます。
    希望的観測が優先されてしまうようです。

    しかし、高校で学習する動名詞は、その先の内容です。
    動名詞の意味上の主語。
    動名詞の否定形。
    動名詞の完了形。
    動名詞の受動態。
    さらに、慣用表現。
    こちらが高校で新出の内容で、定期テストに出るのは、当然そちらのほうなのですが、学習のポイントが理解できず、ズレてしまうのです。

    学校の英文法テキストは、左側が解説ページ、右側が練習問題ページの構成のものが普通です。
    右側の練習問題を解くことで、自分の理解のズレに気がついて修正できる子もいます。
    しかし、できない子もいるのです。
    自分が何で誤答しているのか、よくわからない。
    何を問われている問題なのか、把握していない。

    さて、定期テスト直前。
    「では、学校のテキストの問題を解き直しましょうか。テキストを開いて」
    と私が言うと、さすがに定期テスト直前は、学校のテキストを持ってきていますが、見ると、問題の答を全部テキストに直接書き込んでいる子がいます。
    「・・・テキストに答を直接書き込むなと、言いましたよね。解き直せなくなるから。ノートに解きなさいと言いましたよね?」
    「・・・」

    高校生になっても、「書き込み式ドリル」が大好きで、ノートに解くのはあまり好きではない・・・。
    その癖が強く、注意されたことも忘れ、つい書き込んでしまう・・・。
    気持ちはわかるのです。
    でも、そこを改めないと、成績は上がりません。

    やってはいけない、と言われていても直せない。
    その繰り返しです。

    このように、幾度か失敗を繰り返して、ようやく、生徒の成績は少しずつ上がっていきます。


      


  • Posted by セギ at 13:48Comments(0)英語

    2023年05月21日

    数学のケアレスミスは集中力と関係あります。


    今年も都立野川公園に桑の実がなりました。


    さて。
    本人なりに頑張っているのに、なぜ、成績が伸びないか。
    今回は、数学に限って、なぜなのかを考えてみたいと思います。

    テストでの大きな失点原因は、やはり、計算ミスやケアレスミスです。
    解ける問題も途中でミスをして、得点に結びつきません。
    テスト前半の単純な計算問題は、通常の感覚では得点源ですが、ここでの正答率が5割以下という子もいます。
    何でそんなにミスをするのか。
    ミスの多い子の様子を見ていますと、集中力不足に原因の1つがあると感じます。

    生徒が問題を解いている間、私も同じ問題を解いていることがあるのですが、そんなときに、
    「遠くで目覚ましの音がする」
    と、言い出す子がかつていました。
    えっと思って耳を澄ますと確かに聞こえてくるのですが、それは思考の邪魔になるような音量ではありませんでした。
    問題に集中していた間は、私には聞こえなかった音です。
    しかし、その子は、問題を解いていて、そんな音が聞こえたり気になったりするのでした。

    問題のことを考えながら別のことも考えているから、そんな音が聞こえてくるのではないか?
    2つ以上のことを同時に考えている。
    それが出来るのなら止めないですが、それでは精度が下がるのが現実です。
    私自身は、音楽をかけながら、ラジオを聴きながら、あるいはテレビをつけたままで、数学の問題を解くことがあります。
    とはいえ、実質、数学の問題を解いている間は何も聞いていないので、無意味です。
    一方、生徒に解いてもらう予定の英語長文の下調べをしているときなどは、音が邪魔になるので、消します。
    つまりは、英文を読むときの私の集中度は、数学のときほど高くない。
    英文を読みながらでも、ラジオの音が聴こえてしまい、邪魔だなと感じます。
    音が邪魔になる程度に気が散りやすいのだと思います。

    あくまで私自身の話ですが、数学の問題を解いているときは、何も聞こえないのです。
    他のことを考えることができません。
    他のことを考えながら数学の問題を解いたら、私はミスをしてしまうでしょう。
    いや、考えがまとまらず、まず解くことそのものに困難を感じます。

    ミスの多い生徒たちは、常にその状態で問題を解いているのかもしれません。
    他のことを常に同時に考えているので、深い思考に至らず、考えがまとまらず、数学の問題を自力で解くことができないのかもしれないのです。

    問題を解いている途中で、ふっと顔をあげて窓の外を見る子もいました。
    うちの塾の窓の外は、向いのマンションの外壁しか見えません。
    鳥や猫が横切るということもありません。
    それなのに、度々顔を上げ、外を見ます。
    「どうしたの?」
    「いや、暗くなったなあと思って」
    「・・・え?」
    その子も、やはり、問題の写し間違いや書き間違い、計算ミスの多い子でした。
    1つのことに集中できず、散漫なのだと思うのです。

    そういう子が、隙間時間に数学の宿題を解いていると言ったことがありました。
    学校の休み時間や、見ているテレビや動画の飛ばせないCMの間に、ちょろちょろっと解くというのです。
    それは2~3分の隙間時間の有効活用だと本人は考えているようでした。
    応用問題の解き方を自力で考えつくこともできるのに、単なる計算問題の宿題でほぼ全滅することがあるので不思議だったのですが、そんなことをしていたとは。

    短い時間にぐっと集中できる人が隙間時間を有効活用するためにそうするのなら良いのですが、注意力散漫な子がそんなことをやったらミスだらけになってしまいます。
    ミスの多い子は、集中できる静かな環境で、まとまった時間に数学を解いたほうがいいです。
    集中するとはどういうことか実感できるようになり、どこででも集中できるようになるまでは。


    テストのときになると終了時間を異様に気にするのもミスの多い子の特徴の1つです。
    時間までに問題を全部解けるかどうか気になって気になって、始終時計を見ているようです。
    そんなことでは深い思考はできません。
    時計を見る度にいちいち思考が途切れ、そのせいで余計にミスが増えているのではないでしょうか。
    そして、普段は「たくさん問題を解かされたら損だ」と思っているのではないかと疑ってしまうほど、のろのろと字を書いているのに、テストのときだけ速く解こうとするので、さらに焦りが生じます。
    普段は丁寧に途中式を書いているのに、テストのときだけ暗算しようとし、それで余計に時間がかかってしまう子もいます。

    時間を気にするのには、いろいろな要因があると思われますが、基本は自信のなさでしょう。
    学年が上がるにつれてどんどん数学の得点が低くなっているので、もう自信がない。
    普段から計算が遅かったり、ミスしてやり直すことが多いので、時間内に終わるかどうか気になる。

    対策としては、試験時間と同じ時間で普段の勉強もやるのが効果的です。
    定期テストが50分なら、家庭学習も50分単位で行う。
    50分勉強して、10分休憩。
    そうやって、「50分」という時間の長さを体感として自らに叩き込む。
    時計なんか見なくても、勉強していて大体何分くらい経っているか実感できるまで何年でもそれを続けます。

    私は子どもの頃からそうしていましたし、周囲の子もそういう子が大半でしたので、それが普通の勉強法だと思っていました。
    しかし、今の時代、1科目集中して50分勉強する子は一部の秀才に限られるようです。
    集団指導塾に勤めていた頃、テスト前の土日にはテスト対策として塾を開放していました。
    その監督として、テスト勉強する様子を見ていると、1科目10分ともたない子がたくさんいました。
    学校の数学のワークを解いているなあと思って見ていると、10分と経たずに英語のワークに変えています。
    別に数学のワークが終わったわけではないのです。
    飽きてしまった。
    あるいは、数学のワークを解いていると、英語のワークが終わっていないことが気になって、そっちを先にやることにした。
    そして、見ている間に、また科目を変えてしまいます。
    1つの科目を勉強していると、他の科目のことが気になって、集中できないのかもしれません。
    腰をすえて50分1科目を勉強する、ということができないようです。
    「いや、ゲームだったら、50分集中できる」
    と、へらず口は叩くんですけど。

    ゲームのように強い刺激が絶え間なくあるものならば、50分集中できる。
    勉強のように自ら集中していかなければならないものは、集中できない。
    やはり、集中力のなさを感じました。

    こうしたことの改善には、多くの努力と時間が必要となります。
    一朝一夕では、変わらないかもしれません。
    何より、本人が変わりたいと望み、変える方向で努力しないことには、なかなか変わっていけないのです。


      


  • Posted by セギ at 16:45Comments(0)算数・数学

    2023年05月15日

    数学。ノートが悪いために、答案を正確に書けないこともあります。


    都立神代植物公園水生植物園のアヤメと奥にキショウブ。

    さて、今日は数学の話です。
    例えば、こんな問題。
    数Ⅱ「式と証明」という単元の中の、分数式の計算の問題です。

    問題 次の計算をせよ。


     x+4   -    x-8
    x^2-4     x^2-8x+12


    数Ⅱの問題としては簡単なものです。
    数Ⅱ最後の憩い、と呼んでいいかもしれません。
    考え方も意味もよくわかる問題だと思います。
    ですが、こういう問題で誤答を繰り返してしまう子もいます。

    もっと易しい、中学1年生が学習する分数の文字式でも、分数の前に-の符号があると、毎回必ず間違えてしまう子は、います。
    あまりにも誤答が多いので、そういうことだろうかと推測しながら、その子のノートを見て、私は衝撃を受けました。
    以下のような答案になっていたのです。


     x+4      -   x-8
    (x+2)(x-2)     (x-2)(x-6)


    x-^2-2x-24-x^2-6x-16


     -8x-40
    (x+2)(x-2)(x-6)

    ・・・何だろう、これは・・・。
    こんなのは、数学の答案ではありません。
    計算メモです・・・。

    こういう答案を書く子を見るのは、しかし、初めてではありませんでした。
    高校の数Ⅱを学習するような段階に至っても、このような「計算メモ」を答案だと思っている子は、ときどきいます。
    私の知る限りでは、中高一貫校の、しかも、男子生徒ばかりでした。
    個別指導をしている私が知る限りで今までに、4人・・・。
    世間には、もっとたくさん存在するかもしれません。

    このような「計算メモ」の内容自体、大きな課題ですが、もう1つ気になったのは、これが、ミミズがのたくるように波打って書かれていることでした。
    そして、そのノートは、小学生向けの「学習帳」でした。
    1センチ四方の水色のマス目が描かれた学習帳で、高校数学を解いています。
    そして、そのマス目を無視して、数式が波打っているのでした。

    「小学生向けの学習帳を使っているのは、中学受験の勉強をしていたときにまとめ買いしたノートが、まだ余っているということですか?」
    「そうです」
    「それで、そのノートの広いマス目が使いにくいわけですか?」
    「そうです」
    「マス目の縦の線は確かに邪魔ですが、横だけを罫線として使用すれば、そんなに使いにくいことはないと思いますが・・・」
    「・・・」

    縦線は無視して横線だけを罫線として使用することが、頭の中で上手くできず、結果、横線も無視して、全体に波打ってぐちゃぐちゃになってしまうようでした。
    マス目のノートは、中学・高校の数学では、確かに使いにくいです。
    上手く使える子もいますが、その子は使えないのでした。
    でも、学習帳が家に余っている。
    さすがに学校では使えないけれど、塾のノートなんか何でもいいから、塾で使うことにしているのでしょう。

    思い返すと、中高生なのに学習帳を使っていた子は、記憶の中で何人かいて、いずれも中学受験をした子でした。
    学校では使えないから、家庭学習に使う。
    そういうことで、学習帳を個別指導塾に持ってくるのだと思います。
    それが、中2になっても中3になっても、高1になってもなくならない・・・。
    どれだけ大量買いをしたのだろう・・・。
    ノート大量買いは、中学受験のトレンドなのでしょうか・・・。

    余った学習帳の使用が、必ず学力に影響するというわけではありません。
    学習帳の縦線を無視して横線だけを罫線として使用できる子のほうが多いです。
    それで特に問題なく数学の答案を書いていけるのなら、中学進学後も家庭学習には学習帳を使って構わないと思います。
    しかし、縦線がどうしても脳に影響して、上手く答案を書けない子もいます。
    視覚的なことに少しだけ得意不得意のある子なのだと思います。

    思い返せば、その子は、三角錐の見取り図を描けない子でした。
    描き方がわからず、三角錐の見取り図を描くことができなかったのです。
    三角形は、底辺を水平に描くもの。
    そういう思い込みが強いため、三角錐の側面の三角形を上手く描くことができず、結果、歪んだ不気味な図しか描けませんでした。
    それは、練習することにより、克服できました。

    そうした、縦・横・斜めの直線の感覚に対して多少の偏りのある子に、中学入学後もマス目の学習帳を数学で使用させるのは、苦痛が大きいのかもしれません。
    常に、何かを我慢しながら数学の勉強をしていることになります。
    ストレスが強いです。
    そうでなくてもあまり得意ではない数学で、さらにストレスの強い学習を常に行っている。
    やめたほうがいいでしょう。

    数学の学習で推奨するのは、中学生の間は、やはり大学ノートです。
    分数の計算をすることも多いので、罫線の幅は広い「A」のほうがいいですが、分数のときには2本分使うことに決めているのなら、いっそ罫線の狭い「B」のノートでもいいでしょう。
    数式を横にまっすぐに書けるようになったら、白ノートもいいと思います。
    高校数学になると、式は分数だらけなので、横罫も邪魔になっていきます。
    数列のシグマ、積分のインテグラルや、極限のリミットを記入していくのに、横罫は基本的に邪魔です。
    ただし、横にまっすぐに書いていかないと、数式は波打ち、ミスの原因となります。
    また、字のサイズをコントロールできず、だんだん字が大きくなってしまう子もいます。
    粒の揃った字を横にまっすぐに書いていけること。
    数学の答案を書くための基本技術の1つです。

    ルーズリーフに憧れる中学生は多いですし、管理できるのならば別に止めませんが、通しナンバーを打っていくか、あるいは、紙が変わるごとに、何のテキストの何ページの何番を解いているのかを確実に書いていけるようでないと、あとでグチャグチャになります。
    ルーズリーフに宿題を解いてきた子が、答え合わせをしようとすると、どこに解いたのかわからず、ルーズリーフの整理に何分もかかる、というのはよくある話です。
    大人ならば当たり前にできることでも、中学生・高校生にはまだ無理なことが沢山あります。
    身体的には成長し、家庭内のルーティンばかりの生活の中では言動がしっかりしているように見えるので、家族は「この子はもう大人だ」と誤解しがちですが、事務的なことはほとんどできない子も多いのです。
    それも経験、ということでやらせているのなら構わないのですが。


    しかし、上の答案は、そうした「ノートが悪い」というだけではない課題も感じるものでした。
    もう一度、見てみましょう。


     x+4      -   x-8
    (x+2)(x-2)     (x-2)(x-6)


    x-^2-2x-24-x^2-6x-16

     -8x-40
    (x+2)(x-2)(x-6)

    まず、与式の分母を因数分解することは理解しているのです。
    この分数式は、そのまま互いの分母をかけて通分するのでは、次数が高くなり、計算が煩雑になります。
    因数分解することにより、共通因数を見つければ、次数はできるだけ低くして通分することが可能です。
    そうして、1番目の分数式の分母は(x+2)(x-2)、2番目の分数式の分母は、(x-2)(x-6)と因数分解した。
    そこまではわかります。
    与式を書き写していないこと、イコールをつけていないことは気になりますが・・・。

    問題は、次の行です。
    これは、何をしているのでしょう?
    ここで計算ミスをしているので、何をしているのか他人にはよくわからないですし、本人に解説を求めても、こういう答案を書く子は、自分で書いた答案を後になって自分で説明することもほぼできないのですが、おそらく、これは、分子だけを書いているのだと想像されます。
    そして、通分した結果の分子を、しかも( )をつけた形ではなく、展開しながら書いているのだと思います。
    そんなことをすれば、計算ミスをする可能性は極めて高いのですが。

    分母を(x+2)(x-2)(x-6)という形に通分したのであれば、1番目の分数式の分子には、(x-6)を、2番目の分数式の分子には、(x+2)をかけることになります。
    同じ分母を何回も書くのはうんざりだというのであれば、
    ここで、(分子)=・・・
    という書き方も可能です。
    すなわち、
    ここで、(分子)=(x+4)(x-6)-(x-8)(x+2)
    =x^2-2x-24-x^2+6x+16
    =4x-8
    =4(x-2)

    と、最低限これくらいのことは書いたほうが自分も見やすく、さっさと書いていけば頭の中でうんうんうなりながら暗算するよりもむしろ速いのです。

    よって、
    (与式)=4(x-2) /  (x+2)(x-2)(x-6)
    =4 / (x+2)(x-6)

    という正解に至るまで、3分とかからないはずですが、暗算する子は、下手をすると10分くらいかかりますし、そのうえで、計算ミスをしてしまう可能性が高いです。
    書いたほうが速いのです。

    ところが、この「書いたほうが速い」を実感できない子は多いです。
    本人の実感とは違うので、どれだけ助言されても、受け入れない。
    心の奥に深く染み入って、その助言に従おうということには、ならない。
    次のときは、また暗算してしまいます。
    反抗心でやっているのではなく、単純に、忘れてしまうようです。

    繰り返しますが、上のような答案を書いてしまう子は、私の知る限り、中高一貫校の男子生徒ばかりでした。
    公立中学出身の生徒で、そういう子を見たことはありません。
    勿論、私の知る範囲のことなので、存在するのかもしれません。
    低学力で、しかもそれが貧困や教育放棄に由来するものである場合は、塾に通うこともなく、だから私が見ることもない、ということはあり得ることです。
    しかし、少なくとも大人の言っていることが理解できる子で、高校入試を多少は意識している公立中学の生徒の場合は、中学の数学の先生が教えることには絶対服従の子が今は多いのです。
    過剰なほどに。
    「先生に目をつけられたら、内申が低くなり、高校入試に影響する」
    と過度に恐れているのです。
    学校の先生が、
    「このように答案は書いていきなさい。このように書いていない答案は0点です」
    と授業中に一言言うだけで、成績を多少は意識している子たちは、全員、途中式を丁寧に書いていくようになります。

    公立中学のそういうところが嫌で、中高一貫校を受けた。
    そのように言う保護者の方は多いでしょう。
    中学の3年間、内申だけを気にして、学校の先生にこびへつらっていかなければならないような生活はさせたくない。
    だから、中高一貫校を受けたのだ。

    それも1つの考えだと思いますが、内申を恐れての絶対服従が、逆に、正しい数学の答案を書いていくことにつながっているのだとすれば、皮肉な話です。
    中堅私立の中高一貫校に通う生徒が、のびのびと、
    「うちの数学の先生、おかしいんですよ。答案はこう書けとか、いちいちうるさくて」
    などと、陽気に不満を言うので、何ごとかと思えば、それは、ごく普通に数学答案として要求されていることだというのはよくある話です。
    「数学の答案として、それは普通のことですよ」
    と私が説明しても、えー、とさらに不満顔だったりします。
    私立の子は確かにのびのびしています。
    のびのびと、頓珍漢な「答案」を書き続けてしまうことがあるのです。
    基礎を学んでいる段階では、正しい形式、スポーツでいうフォームを学ぶことが大切であるのに、その段階で自我が優先され、型を学び損ねてしまうことがあります。

    不満はあっても、学校の先生の指示通りの答案を書いていける子は、数学のできる子です。
    高校数学に進めば、そのような答案を作成していかなければならない理由も徐々に理解していきます。
    自分の書いた省略だらけの答案が、1週間も経てば、自分でもどうやって解いたのか、意味がわからない。
    それでは、採点する先生に意味が通じるわけがない・・・。
    意味の通じない答案では部分点すらもらえないのは、当たり前です。

    しかし、要求されていることの意味がよくわからず、一方、内申に対するプレッシャーもないので、のびのびと暗算ミスばかりの計算メモを答案のつもりで書き続けていく子もいます。
    この子は、公立中学に通えば、少なくともこうはならなかったろうなあと思うことがあります。


    なぜ男子生徒ばかりで女子生徒でこうした子に出会うことがないのか?

    それも、たまたまなのかもしれませんが、文字を書いていくことについて、女子は男子ほどには抵抗感がないのが1つの原因かもしれません。
    暗算するより、丁寧に書いていきたい。
    そのような志向の子が女子には多いように思うのです。
    今は、女子も字の汚い子が多いですが、それでも、書くことそのものが嫌いという子は、男子ほどは多くないように思います。

    男子生徒の中には、「暗算するより書いたほうが速い」が通じない子がいるのです。
    文字を書くことに、余程の抵抗があるのでしょうか。
    不器用で、字を書くことそのものが上手くできないし、苦手だ。
    上のように、学習帳に縦線が入っているだけで混乱して、横線と平行に文字を書いていくことにも困難があるようですと、文字を書くことにはさらに苦痛があるかもしれません。
    できるだけ、書く文字数は少なくしたい。
    そのために暗算している。
    自分の暗算力を過信しているわけではなく、文字を書くのがただ嫌なだけということもあるのかと思います。

    手書き入力した文字が画面上でたちまちきれいな数式に変わるデバイスを、生徒全員が持つような時代になれば、また状況は変わるのでしょうか?
    しかし、タブレット画面は画角に限界があり、数学答案の始まりから終わりまでを俯瞰するのが難しいので、数学答案は手書きのほうが利点が多いように思います。
    やはり、手で文字を書いていくことに苦痛のないように育つことが、学力を高める1つの条件のように思うのです。


      


  • Posted by セギ at 16:08Comments(0)算数・数学

    2023年05月10日

    日本語でわからないものは英語でもわからない。


    今年はニオイバンマツリの花が咲くのも早かったですね。

    さて、本日は英語長文読解の話です。
    そもそも単語力・文法力が足りず、ぼんやりとしか英文を理解できないのに加えて、内容的に理解できないとなると、正答できる可能性はきわめて低くなります。

    例えば、労働と余暇、あるいはライフワークバランスに関する長文問題。
    高校生にはピンとこない内容なのですが、ピンとこないからわからなくても平気、というわけにはいきません。
    入試問題ですから。

    その長文問題での、筆者の主張は、
    「過度にきつい労働ではない限り、何もすることがないことに比べれば、労働は喜びなのである」
    というものでした。
    さて、その中の英文と、それに関する問題。

    Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.

    問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
    ア. Most people are very careful in choosing.
    イ. The number of choices is limited.
    ウ. Few people want to act on their own initiative.
    エ. Quite a few people want to act on their own initiative.


    大学受験に向けて、多少は本腰を入れて英語の受験勉強を始めてはいるけれど、これまで英語の勉強がいい加減だったことは否定しようがなく、また、おそらく、国語もかなり苦手であるだろう生徒と、この問題を解いたときのこと。
    本文の下線部の意味を取ることができず、その理由を選ぶことなど不可能であり、4択は勘で選ぶしかない状態でした。

    「Moreover の意味は?」
    「さらに」
    「うん、いいねえ」
    ある程度の勉強は、しているのです。
    「じゃあ、exercise の意味は?」
    「運動」
    「うーん、そういう意味もあるけれど、他には?」
    「・・・」
    「では、choice の意味は?」
    「選ぶ!」
    「うんうん。でも、選ぶは choose 。choice は名詞形です」
    「・・・選ぶこと?」
    「そうね。では、the exercise of choice の意味は?」
    「運動を選ぶ!」
    「・・・どういうこと?」

    of は前置詞で、前置詞というのは前置詞というくらいですから、その意味のまとまりの先頭にきています。
    of choice で「選択の」という意味のまとまりになります。
    the exercise of choice で、直訳すれば「選択の練習」という意味になります。
    ここでは、「選択の実践」といった程度の意味でしょう。

    「では、次の in itself は?これは、再帰代名詞を学習したときにやりましたね。重要表現です。熟語として覚えておくよう言いました。何でしょう?」
    「・・・」
    文法を学習する際、高校生にありがちなことですが、中学で学習済みの基本が理解できていればそれでいいような気になって、高校レベルの学習内容は頭を素通りしていく子は多いです。
    中学で学習したことすら忘れているとその先に何も積み上げられないので、文法テキストの各単元の冒頭は中学の復習ですが、それが学習のメインではありません。
    高校で新しく学習する、細かいところが重要です。
    さらに、その文法事項にからむ慣用表現も、覚えるべき重要ポイントです。
    学校の定期テストに必ず出題されるだけでなく、入試問題でも予期せぬところにすっと出てきます。

    「 in itself は、それ自体、という意味です」
    「・・・」
    「では、最後の tiresome の意味は?」
    「・・・」

    この単語は、単独で意味を覚えている高校生は少ないと思います。
    文脈がわかっていて、あとは単語を構成する一部分の意味がわかるので、そこから推測して意味を把握すれば何とかなる、という種類の単語です。
    実際に長文を読むときは、どれだけ単語を覚えても、長文中に知らない単語が出てくるのは仕方のないことです。
    その意味を推測する力があると有利です。
    「では、最後の単語を音読してみて」
    直前に私が一度音読しているのですが、そういうのはちゃんと聞いていない子がほとんどです。
    「・・・ティレソー?」
    「・・・前半の4文字だけ、読んでみて」
    「ティレ・・・」
    「タイヤー」
    「・・・!」
    「tire 。何か聞いたことのある単語じゃないかな?最後に d のついている形のことが多いかな?」
    「・・・わからない」
    「tired。 I'm tired. は、どんな意味?」
    「私は疲れています」
    「そうそう。その tire 。疲れさせるという意味です。疲れるーって、日本語でも言うでしょう?本当に体が疲労しているのではないときでも、疲れるなあって。どんなとき?」
    「疲れているとき」
    「いや・・・」

    早口で言っているわけではないのだけれど、音声言語の咀嚼に時間のかかる子もいます。
    口で説明しても、あまり伝わらないことがあります。

    「うんざりする、わずらわしい、というときに、『疲れる』ということが、日本語でもあります。英語もまあ、そんな感じです。わからない単語も、そのように、一部分を把握することで、大体の意味を推測することができることがあります」
    「・・・」

    しかし、それは、部分を正確に見分ける力が必要です。
    tiresome をティレソムと読んでいるのでは、その単語の構成要素を把握できないのです。
    その子は、以前に uninteresting という単語を見たときも、「ユニンターレー」と読んでしまい、意味を取ることができませんでした。
    un-interesting であることを見抜けたら、簡単に意味のわかる単語なのですが。

    これは、1つの原因としては、音声としての英語を無視し、スペルを覚えるためにローマ字読みする習慣から来ているものと想像されます。
    スペルを覚えるには、ローマ字読みで覚えるほうが合理的だと、本人は考えているのです。
    それなりに学力があると世間は思っている中高一貫校の子の中にもそういう子がいます。
    ローマ字読みとはまた別に正しい読み方も覚えているのならそれもいいでしょうが、ローマ字読みは長く続けていると脳の奥まで浸食していくようで、その読み方しかできなくなっていくようです。
    正しく読むことに本人があまり意味を感じていないならば、特に。
    音声英語に興味がないようなのです。
    音声英語にしか興味がない、浮わついたタイプの子も心配ですが、この現代に、音声英語を無視するというのも課題が大きいです。
    リスニングやスピーキングができなくても、大丈夫だと思っているの?
    君は、昭和からやってきたの?

    もう1つの原因は、そもそも、識字能力に課題があるかもしれないということ。
    音読してもらうとわかるのですが、似ている別の単語として識字し、音読してしまうことが多い子がいます。
    あるいは、動詞や名詞の s,es 形、特に、y を i に変えて es をつけている形は、その単語の原形を把握できません。
    また、もう外来語として日本語に定着している単語も、正しく読むことができないので、意味を取れません。

    英語の音読は、そういう弱点を補強することができる練習です。
    英語学習に、必ず音読練習を組み入れてください。

    さて、問題に戻ります。

    Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome.
    は、「さらに、選択することは、それ自体わずらわしい」という意味だとわかりました。
    しかし、これだけでは抽象的で、どういうことなのかピンとこないです。
    そういうとき、次の文を読めば、どういうことなのかわかるかもしれません。
    それが文章の「呼吸」、すなわち文脈です。
    基本的に、1つの段落には、1つの内容しか書かれていません。
    1つの文が抽象的でわからなければ、前後の文がヒントになります。
    もっとわかりやすく言い換えてくれていたり、具体例を挙げてくれていたりします。

    Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.
    「普通でない主導権を持っている人々を除けば、積極的に心地よいものだ。1日のそれぞれの時間に何をすれば良いかを言われるのは。その命令が、あまりにも好ましくないものでなければ」

    直訳しました。
    でも、この直訳で意味は理解できると思います。
    よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいか命令されている状態は快適だというのですね。
    それで、「選択することは、それ自体がわずらわしい」の意味も、明瞭になりました。

    問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
    ア. Most people are very careful in choosing.
    「ほとんどの人々は、選択するときにとても注意深い」
    イ. The number of choices is limited.
    「選択の数は限られている」
    ウ. Few people want to act on their own initiative.
    「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
    エ. Quite a few people want to act on their own initiative.
    「かなり多くの人々が、自分の主導で行動したがる」

    この4択は比較的親切です。
    本文と同じような表現は、どの選択肢も同じくらいの量です。
    とにかく本文と同じ表現の分量の多い選択肢を選んでしまう人をだますようなひっかけの選択肢はありません。
    ただ、逆に言えば、どの選択肢もかなり本文を言い換えているので、本文の内容を理解できないことには、どれも選べません。
    でも、ウとエが非常に似ていますね。
    裏をかかれることもありますが、これは、ウかエが正解なのではないでしょうか。

    「選択することは、それ自体がわずらわしい」
    それは、なぜか?
    「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だから」
    つまり、正解は、ウです。

    ここで、ウとエとの違いがわからない、という問題が生じます。
    few と quite a few の違いがわからない・・・。
    これは、文法問題です。
    few は、名詞の前に置き、その名詞がほとんどないことを示す、準否定表現です。
    一方、quite a few は、「かなり多くの」という意味です。
    え?few なのに?
    そうです。
    a few というのは、少数ながら存在する、という意味合いになります。
    肯定的なのです。
    それに quite がついています。これは強めている表現。
    その結果、「かなり多くの人が」という意味になります。
    これは、「否定」を学習したときに、まとめて理解しておくべき内容。
    こういう些末なところを些末だからと忘れてしまうから、問題が解けなくなる、という一例です。


    結局文法問題だったねー。
    とニコニコしている私に、その生徒は首をひねったままでした。
    「どうしました?わからない?」
    「・・・」
    わかるのか、わからないのか、意思表示もなく、ただ黙り込んでしまうのは、わからないからでしょう。
    「何がわからないですか?」
    「・・・」
    何がわからないかを説明してくれず、黙って考えこんでしまう子でした。
    カタコトでも何か言ってくれれば解説できるのですが、独りで考え込んでしまうのです。
    何がわからないかを説明するのもその子にとってはかなり難しいことなのだろうと思います。
    つまりは、言語表現に課題が多い。
    自分の考えを日本語にすることにも時間がかかるのです。

    時間をかけて聴き取りをすると、その子は、英語的にわからないわけではなく、この文章が述べている内容がそもそも理解できなかったのでした。

    「選択することは、それ自体がわずらわしい」
    「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だ」

    こういう考え方が、理解できなかったのでした。
    いつ何をすればいいかを命令されている状態。
    その日にやることがきまっていることの快適さ。
    高校生の実感としては、そんなのはわからないかもしれません。
    自分の好きなようにしていたいですものね。
    というか、何もしたくないですよね。
    1日、ごろごろと寝ころんで、スマホをいじっていたい。
    命令されるのには、飽き飽きですよね。

    でも、その子自身は、選択に時間がかかり、選択を常に要求されると苦痛を感じる子のはずなのです。
    「定期テスト前は、授業は休みにしますか。それとも、テスト対策をしますか」
    そのように2択を提示しても、瞬時に選ぶことはできないのでした。
    選べない。
    わからない。
    ぐっと言葉に詰まってしまうのです。

    その子に限りません。
    選ぶのは、大変なんです。
    エネルギーが必要です。
    どちらかよいのか、いちいち自分で判断しなければなりません。
    選択することは、それ自体がわずらわしい。
    誰かが決めてくれて、それに沿って行動しているほうが楽だ。
    それは、一面真理なのです。
    でも、そういうことが、わからない・・・。
    選ぶことができるほうがいいことだと、表面的に考えてしまうので、理解できない・・・。
    本人は選ぶことに苦労しているタイプであるにも関わらず。

    まして、やることが何もないことの苦痛など、理解できるはずもないのでした。

    この文章は、次の段落で、何もすることがないよりは、苦痛ではない労働をしているほうがずっと楽なのだという話に進んでいきます。
    仕事を引退した高齢者ならばすぐに理解できることでしょうが、高校生にはわかりにくいのでしょう。
    朝起きて、何もすることがない。
    何をするかを、自分で決めなければならない。
    必死で色々と選び、何とか時間を埋めている人も、世の中には存在するでしょう。

    自分とは関係がなくても、そのようなこともあるのだろうと想像する力がたりないので、文章の意味がわからないのです。
    日本語で書かれていてもわからないことを、英語で書かれているので、なおさらわからない・・・。
    英語の長文読解には、そうした課題もあります。

    英文は、その言葉で語られている字面を追うだけでは理解できません。
    語られていることの概念、考え方を理解できなければ、設問に答えることができない場合もあります。
    それには、日本語でも英語でも、多くの文章に触れることが必要になります。
    それが全く足りない子が、今は多いと感じます。
    自分の体験や感想だけで判断するので、自分とは真逆の意見を理解できないのです。
    まして、英語で書かれているので、自分の考えに沿うように誤読してしまうことも多いです。
    英語はわかったとしても、
    「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
    という選択肢が正解だとはどうしても思えない。
    だから、選べない。

    「どちらにするか選びなさい、と言うと、あなたも随分迷って、上手く決められないことが多いように見えますよ。決めるのって、大変ですよね」
    そう呼びかけても、自分のことはよくわからない様子で、あまり共感してはいない表情のままでした。
    「これは筆者の意見ですから、あなたには正しいことに見えなくても、それは構わないのですよ」
    そう説明しても、なお首をひねっていました。
    文章というのは、自分が納得するような「正しい」ことしか書かれていないと誤解しているのかもしれません。
    英語を理解することと、英語で書かれている内容に納得することを混同し、混乱している様子でした。
    こういう読解力だと、共通テストで出題される「事実」と「意見」を分けて考えることも、何をどう分けるのか意味がわからない、という事態も起こります。

    知識が足りないから、混乱してしまうのです。
    知識とは、自分とは別の立場、別の考えもあるのだと、あらかじめインプットしておくことも含めて知識です。
    そして、自分自身は選択を迫られるとぐっと詰まって決められないと自覚しておくことも知識です。

    それでも、「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」という表現には反発を感じる・・・。
    それもわかります。
    自分自身の主導で行動したい人はほとんどいないとは、何ごとですか。

    ですが、この英文の筆者は、こうも語っているのです。
    「知的に余暇を埋めることは、高度に文化的なことであるが、そのレベルに達している人は、まだほとんどいないのだ」と。
    知的に余暇を過ごせ。
    それが文化だ。
    何をしたいかは、自分で選択しろ。
    言われた通りに働いているほうが楽だとか、そんなところに安住するな。

    筆者の本音はそこにあり、その文章の主題はそこにあるのでした。
    そこを読むことが、本当に英文を読むということだと思うのです。
      


  • Posted by セギ at 15:16Comments(0)英語

    2023年05月04日

    高校生の学習上の課題。


    長年、小学生から高校生までを教えていますが、高校生を教えるのは、小学生や中学生を教えるのとはまた別の難しさを感じます。

    高校入試と比較すると、大学入試は多岐に渡っていて、指導する側が焦点を絞りにくいのが、1つの原因です。
    どのような大学受験を考えているのか。
    高校の成績を高く維持して、学校推薦か総合型選抜で大学を受けるのか。
    それとも、国立大学を一般受験するのか。
    あるいは、私立大学を一般受験するのか。
    早めに志望を確定してくれれば、早めにそれに合わせて対策をしていけるのですが、高校2年生の秋頃になってようやく確かな答えをもらえることも多いです。

    結局、本人も、わからないのかもしれません。
    だから、
    「とりあえず学校に進度を合わせて、定期テストの勉強をきちんとやっていきたいです」
    といった返事しかもらえないことがありますが、これは少々危険です。

    定期テストは、範囲のある勉強。
    しかし、テスト範囲の内容しか覚えず、テストが終われば、すぐ忘れる子がいます。
    驚くべき短期記憶。

    しかも、本当にテスト範囲の勉強をしっかりやってくれるのならまだいいのですが、あまり余計な勉強をしたくない言い訳に「学校に進度を合わせて定期テストの勉強をしたい」を使っている子の場合、結局、テスト範囲の勉強も甘いことがあります。

    例えば、英語。
    多くの高校は、英語コミュニケーションという教科で、教科書とは別に単語集が配布され、週に1度、授業時間内に単語の小テストが行われます。
    そして、その小テスト範囲全部が、定期テストの範囲になる学校が多いのです。
    週に1度の単語テストでもやっつけ仕事的に、ギリギリでどうにか覚えている子は、定期テストの単語の範囲を実にあっさりと捨てます。
    何百という単語のテスト範囲の広さに、諦めてしまうんです。
    あるいは、「小テストのときに1度覚えたから大丈夫」という謎の自信を持つ子もいます。
    子どもの中には、そういう意味で本当に幼く、記憶ということの実態を理解していない子もいるのです。
    1度覚えたら、もう忘れないと思っているんでしょうか。
    あるいは、覚えても忘れることは知っている。
    覚えてもどうせ忘れるので、単語なんか覚えても無駄だ、と愚かなことを考える子もいます。
    要するに、単語を覚えるのが苦しくて嫌だから、そういうふうになってしまうのでしょう。

    もっと簡単に単語を覚えられる方法があるはずなのに、学校の先生も、塾の先生も、後れていて、そういうことがわかっていない。
    どうにかして、単語を簡単に覚える方法を見つけたいのに、出会えない。
    自分は不運だ。
    単語を簡単に覚える方法は、この世に絶対にあるはずなのに・・・。

    ・・・そんな夢を見ている限りは、単語は覚えられないです。
    ネットにあふれている、金もうけ目的の甘い言葉に騙されて、課金して、単語力はつかずに終わっていくばかりです。
    努力しなければダメなことに対し、努力せずに済ます方法をただ探している。
    そうしているうちに時間だけが過ぎていきます。

    英語コミュニケーションのテストの中での、単語テストの配点は、10点~20点。
    ここを捨てたら、高い得点を取ることはもう不可能です。
    テストの他の出題は、まず、教科書の本文に関する問題。
    そして、初見の長文問題を出題する高校も多いです。
    これは実力が露骨に得点に反映されます。
    単語力がついていないと、そもそも本文を読めません。
    毎日頑張って英語を勉強している子以外は、パッとしない得点になります。

    「入試は厳しそうだから」
    「受験勉強は大変そうだから」
    という理由で学校推薦を望んでも、そんな怠け者は、普段の定期テストも、結局パッとしない・・・。
    憧れの大学の学校推薦はもらえない。
    総合型選抜を受けるにも、評定平均が足りない。
    評定平均は、3年間の高校での全教科を5段階評価したものの平均であることが多いです。
    憧れの大学・学部は高い数字を要求します。

    でも、一般入試は厳しそうだから、やはり嫌だ。
    となると、どうなるか?
    自分の評定平均で合格できる大学に学校推薦または総合型選抜で受験する、という形に落ち着きます。

    それは悪いことではありません。
    現実的な良い判断だと思います。
    賢い選択です。

    しかし、ここで悪夢のような現実が立ちふさがります。
    自分の成績では、総合型選抜で合格できる大学がない・・・。
    少なくとも、行きたい大学・学部で、自分の成績で総合型選抜で合格できる大学はない・・・。
    一般入試しか道がないのです。

    その現実に、気づいてほしいのです。
    遅くとも、高校1年生のうちに。
    高校の成績の大半が「5」の子が、学校推薦や総合型選抜を目標としていることに対しては、私は全力で応援しています。
    英語だけが4だ、数学だけが4だ、何とかしたいという要望には全力で応えています。

    学校選抜や総合型選抜で大学進学をすることを考えているのであれば、定期テストその他、成績に関係のあることには、本当に本気で3年間必死に取り組んでほしいです。
    それができないのであれば、一般入試で合格できるような勉強を早い時期から始めてほしい。
    勉強を怠けたいがためのどっちつかずの立ち位置が、一番危ないのです。


    単語の話に戻ります。
    中学生の頃に覚えた単語は、教科書に何回も出てきますし、高校入試のために反復もしたので、そこそこ覚えている子は多いです。
    しかし、高1の教科書に出てくる単語は、次にもう1度出てくるのは3か月後ということも多いので、覚えていない高2は多いです。
    高3になっても同じこと。
    高校側は、それではまずいと、高1の頃から単語集を生徒に与え、それを小テストしたり、定期テストの範囲に加えたりしています。
    そうした先生たちの配慮を有効活用できない。
    小テスト対策はやっつけ仕事。
    定期テストでは単語の範囲は捨てる。
    結果、高校生になっても単語力は中3レベルのままという子も多いです。
    本人が、学校の進度に合わせて学校の教科書の勉強をしていきたいというから、それにつきあって個別指導していると、こういう英語力になってしまうことがあります。
    そして、模試を受けて、低い偏差値に衝撃を受けて、大騒ぎになってしまいます。
    本人の落ち込み方も激しいですが、親が、子どもの学力がそこまで低いことに気がついていなかったための衝撃も大きいです。
    でも、そんな学力になってしまう勉強をしているのですから、当然、そうなります。


    数学も同じことです。
    定期テストの範囲は勉強し、そこそこの点数を取っているかもしれません。
    近年、特に私立高校の定期テストの問題は易しいですし。
    でも、テストが終われば、公式も何もかも、忘れてしまいます。
    1つ覚えれば、1つ忘れる。
    何も積み上がっていきません。
    そして、模試を受けます。
    何の単元の、何の公式を使う問題なのかさえ、わからない。
    全く解けません。

    「学校の定期テスト」だけが目標になっているので、間口の狭い勉強になり、実力がついていない。
    復習もしないので、そのままです。

    こういう子に、
    「教科書以外の英文も読めるように練習しよう」
    「夏休みは、数学で、今までの総復習をしよう」
    と呼びかけても、生返事のことが多いのです。
    宿題に出しても、結局、やってきません。
    何のためにそんなことをしなくてはならないのか、わからないからでしょうか。
    大学の一般入試は受けたくないので、受験勉強的なことはしたくない。
    しかし、学校推薦や総合型選抜がどの程度の成績を要求するのか、現実が見えていない。
    目先のテスト勉強をそこそこすることで、大学受験の準備をしているような勘違いを本人はしている・・・。

    高校生になると、それぞれ、やりたいことが出てきます。
    無限に時間を喰うような趣味にはまってしまうこともあります。
    ネットでの友達づきあいに、毎日数時間を割いてしまう子もいます。
    教わることの質も量も、中学の頃とは桁違いなのに、勉強に向かう姿勢が、むしろ後退していきます。
    でも、もう頭ごなしに叱れる年齢ではないと感じるからか、親も、「本人の意志を尊重し」と言いがちです。
    実際、説得は難しい。


    高校時代は、一番勉強しなければならない時期です。
    どうか、愚直に、ひたむきに、勉強してください。
    学校の勉強も、塾の勉強も、自分で買った問題集も。
    間口の狭い勉強を「能率的」と勘違いした瞬間に、敗北への道を歩み始めてしまいます。
      


  • Posted by セギ at 13:37Comments(0)講師日記算数・数学英語