たまりば

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2015年02月26日

比例式の計算


「比と比の式」は、小学校6年生の算数で勉強する内容です。
例えば、こんな問題がそうです。

次の□に当てはまる数字を答えなさい。
2:3=10:□

小学校では、これの解き方は、2から見て10は5倍になっているので、3も5倍して、□は15である、というふうに考えます。
式に書くのなら、
10÷2=5
3×5=15
となります。

少し難しくなって。
24:16=90:□

これを上の問題と同じように解こうとすると、
90÷24
あれ?割り切れない。

「センセイ、割り切れない!」
こう言い出す小学生は、案外多いんです。
この問題を宿題に出した場合、割り切れなかったから解かなかったという子も多いです。
「・・・・・割り切れなかったら、答えは、分数でしょう」
「えーっ」
小学生の分数嫌いは深刻です。
「分数の計算」という単元なら諦めるけれど、それ以外の単元で分数を使うのは断固拒否。
あるいは、分数に関する単元以外では、分数は使わなくて良いものだと誤解しているのかもしれません。
「・・・・分数は便利ですよ。わり算なら何でも分数で表すことができますから」
「全然便利じゃないっ!大嫌い!」
「・・・・中学の数学になったら、分数の有難さがわかりますよ」
「絶対わからないっ!」

まあ、それはともかく。
次の問題。

288:540=8:□

これのよくある誤答。
288÷8=36
540×36=19440

え? 288:540=8:19440 ?

「・・・・おかしいと思わない?」
と生徒に声をかけても、ピンとこない子がいます。
自分の答を見て、これは何かおかしいぞと自分で思える子ならば、自力で訂正できるのですが、一度答えが出たら、もう間違いでもいいや、直すの面倒くさい、と思ってしまう子は、訂正がききません。
あるいは、比の根本が理解できていない場合、手順を暗記して作業しているだけなので、自分の答えのおかしさに気づくことができません。

正解は、
288÷8=36
540÷36=15

「なんで、わり算なのー?」
「うん。そうだねえ」
「なんで、かけ算だったり、わり算だったりするのー?」
「何でだと思う?」
この説明、簡単そうでなかなか複雑で、理解してもらうのに時間も手間もかかります。

小学校で教えているこの解き方、面倒くさいですね。
問題ごとに、いちいち解き方を考えなくてはなりません。
中学生になったら、もっと簡単に、常にただ1つの方法で解けます。

288:540=8:□

内項の積と外項の積は等しいので、
288x□=540×8
288x□=4320
    □=4320÷288
    □=15
   
しかし、数学が得意のお父さんが、子どもに訊かれて、この解き方を教えると、
「ぜんっぜん、わかんない!」
と反発されることがあります。
小学校では、この解き方は、教えないんです。

あるいは、その解き方で宿題を解いていったら、小学校の先生に全否定されたという話も聞いたことがあります。
「それは、方程式でしょう。方程式で解いたらいけません」

・・・・・・えー?
なんでー?

方程式だからダメだなんて、数学的思考とは真逆のワカランチンぶりです。
反抗期真っ盛りの小学6年生にそんな無駄に高圧的なことを言うと軽蔑されかねません。
もっとも、そんな先生ばかりではなく、内項の積と外項の積が等しくなることをわかりやすく補足説明し、その解き方もOKとした先生の話も聞いたことがあります。


小学生の間は、どんなときにかけ算かわり算か、わからなくて右往左往。
ところが中学生になると、「1次方程式」の学習の際に一度、簡単な説明がされるのみで、以後はもう、内項の積と外項の積が等しいことを利用するのが当たり前となります。
これでまた、数学が苦手な子は右往左往します。

比例式なんかたまにしか出てきません。
忘れた頃に出てくるので、小学生の頃の記憶しか残っていません。
そのため、小学生の頃の幼稚な式を書いてしまい、しかもかけ算とわり算を間違えてしまう中学生は多いです。
「待って待って。何だいその解き方は?小学生かい」
「えー?こう解くんでしょう?」
「いやいや、説明したよ。内項の積イコール外項の積。学校でも教わっていたじゃない」
「そうだっけ?」

でも、しばらく経つと、また小学生の解き方に戻ってしまいます。
そんなこんなで、結局苦手意識が強くなり、比例式を立てれば簡単に解ける問題もそれを迂回するようになります。
理科第一分野の、「酸化と還元」の計算問題なども、比例式を立てれば簡単なのに、それを迂回して訳のわからないことになってしまう子がいます。
厄介です。
小学校から、内項の積と外項の積は等しいことを利用した解き方で統一してくれたら楽です。

でも、その解き方を実感をもって理解できる小学生は、全体の半分もいないかもしれません。
なぜその解き方が正しいのかという理屈と実際の解き方との間に距離があるものは、小学生にはまだ難しいんです。
発達段階として、小学生には小学生らしい解き方があるのも、事実なのです。


  


  • Posted by セギ at 13:00Comments(0)算数・数学

    2015年02月19日

    中1の成績と高3の成績はリンクする?


    先日、小学校6年生の子に授業をしていたときのこと。
    「中学生になったら、勉強、頑張るんだー」
    と言うので、
    「それは良いことですね」
    と頷きますと、その子は、続けて奇妙なことを言いだしました。
    「センセイ、知ってる?中学1年のときの成績と高校3年のときの成績って、大体同じなんだよ」
    「・・・・・は?」

    何でも、その子が通っている別の塾の校長先生が、保護者と生徒を集めてそういう話をしたというのです。
    「中学1年のときに頑張ればいいんだよ。中学1年と2年と3年で、5:2:3の割合で勉強するといいんだって」
    「・・・・・・・・・」

    小学6年生の子が、中学1年になったら勉強を頑張ろうと思うのは結構なことです。
    中学1年生は、中学の学習の基礎となる学年ですから、勉強は頑張ってほしいです。

    けれど、当たり前ですが、中1よりも中2のほうが勉強は難しくなります。
    中1は、小学校時代のおつりで、何となく良い成績を維持できる子も多いのです。
    そういう子が、中2の2学期あたりでガクンと成績が下がるのは、よくある話。
    中2で、中1の40%の出力で勉強したら、確実に成績が下がります。
    5:2:3なんて話を鵜呑みにしていたら、そうなるでしょう。

    でも、そんな話がなくても、中だるみの時期はいずれきます。
    学習意欲が下がるときが来るでしょう。
    それは、そのときに支えましょう。
    今考えることではありません。
    だから、その子については、この件に関して現在のところ問題はありません。

    ただ、この話、胡散臭いなあ。
    しかも、今回だけでなく、以前にどこかで聞いたか読んだかしたことがあるのです。
    情報源は何だったかなあ。

    記憶の奥を探り続け、数日してようやく思い出しました。
    私立中学に通っている生徒が学校で実力テストを受ける前だったか、それとも後だったか。
    学校から配られたという実力テスト関係の冊子に、そのようなことが書いてあったと思います。
    通信添削会社が主催している実力テストでした。
    その子が問題を解いている間、その冊子を拾い読みした記事の1つがそういう内容でした。
    「中学1年生のときの成績と高校3年生のときの成績は、9割の子が同じ」
    ポンとその情報が書いてあるだけで、データもなければ、根拠も書いてありませんでした。

    どこ調べなの、それ?
    どうやって調べたの?
    誰を対象に調べたの?
    目的は何なの?

    30年以上、小学生から高校生まで教えてきた実感からいって、それは嘘です。
    中学1年のときの成績と高校3年のときの成績が大体同じ子もいます。
    しかし、全く異なる子もたくさんいます。
    9割も同じであるわけがありません。

    ただ、これは、いくらでも言い逃れができる表現です。
    「成績」とは、何を指すのでしょう。
    学校の評定でしょうか。
    学校内の定期テストの順位でしょうか。
    模試や実力テストの偏差値でしょうか。
    そこは明記されていないのです。
    ただ、漠然と「成績」という。

    例えば、それは、とある私立中高一貫校の1つだけに限った、校内順位のデータなのかもしれません。
    だったら、そんなこともあるかもしれません。
    6年間、新しい風の吹きこまない私立中高一貫校。
    9割は同じ順位というのは、あり得ることだと思います。

    上に大学があり、そこへの内部進学を希望している場合や、指定校推薦を希望している場合を除き、しかし、校内の成績や校内順位は、進学データとしては、わりとどうでもよいものです。
    大学の一般入試に、高校の内申は意味を持ちません。
    国立大学や有名私立大学への一般入試による進学を希望している場合、気になるデータは全国模試の偏差値と順位です。
    しかし、これは、中学1年と高校3年を比較できるデータが存在しません。

    中学生の間は、中高一貫校の子は、通信添削会社の作る実力テストを学校で受けることが多いです。
    私が見た冊子もそういう会社の冊子でした。
    しかし、高校受験を控えている公立中学の生徒は、そんなものは受けません。
    受けるなら、高校受験のための模試を受けます。
    だから、中学生の間は、データは大きく2つに割れていて、比較は不可能です。

    中高一貫校のカリキュラムは、中学1年の一年間で、中1・中2の学習内容を済ませ、その後は、1年ずつ先取りする形をとっていることが多いです。
    公立中学の子たちが普通に中3の勉強をしているときに、一貫校の子は、高1の学習内容を履修します。
    学力の差というよりも、学習している内容が1年ズレていますから、比較のしようがありません。
    高校入試のための模試に、高校を受けない一貫校の子たちが参戦するのは、合否データに影響しますので、これはマナーとしてやってはいけないことですし。

    せいぜい、都立自校作成校や有名私立高校の過去問を試しに解いてみて、合格点が取れずにへこむ、という程度のことしかできないのが、中高一貫校の中3の立ち位置です。
    習っていることは高校1年ですが、受験勉強をやっていませんので、学力的には中だるみの時期の子が多く、公立中学の秀才にここで抜かれてしまう子が多数現れます。

    そして、高1。
    全国模試は、まだ複線状態です。
    大学受験模試の老舗の主催するテストもあれば、通信添削会社系の実力テストもまだあります。
    模試などまだ受けない呑気な子たちもたくさんいます。
    まだ、わからない。

    高2。
    そろそろ、大学受験模試を受ける子が増えてきます。

    高3。
    ついに模試は一本化されます。
    主催する会社は複数あっても、多くの子が、複数の模試を受けます。
    分母も大きくなり、データとしての価値が高まってきます。

    このデータと、中1のときの何を比較できるのでしょう?

    「中1の成績と高3の成績は、9割の子が同じ」

    この言葉に、意味はありません。

    では、なぜ、このような発言がまかり通るのか?
    中1の生徒を集客するためでしょうか。
    残念なことですが。

    「中1の成績は大切ですよ。
    高校3年の成績と同じなんですよ。
    だから、中1から塾に通いましょう。
    通信添削を受けましょう」

    そういうことでしょうか。
    少子化が進んだ今、生徒を増やすには、生徒を低年齢から獲得していくしか術がありません。
    中学受験の準備の低年齢化も同じ理屈で、現実的には小5からで間に合いますし、本人の頭が良ければ小6からでも可能ですが、それが小4からが当たり前となり、今は、小2からが当然みたいに言われています。
    しかし、小2で何を学習するかと言ったら、小2・小3の内容を先取りするだけの場合が大半です。
    小4までは、次の学年の先取りが中心。
    本格的な受験勉強は、やはり小5からなんです。


    確かに、低年齢から塾に通うほうが、中3から塾に通うより、いいのです。
    つまずいてから通うより、最初からつまずかないほうがいいに決まってます。
    だったら、そのことを主張したらいい。
    高3の成績が云々とか、つまらないことを言わないほうがいい。

    「塾の言うこと=営業トーク」という図式を、世の中に広めないでほしい。
    変なデータを持ち出さなくても、塾は、必要です。
    中1から本気で勉強することは、大切なことです。
    そう思います。

      


  • Posted by セギ at 13:36Comments(0)講師日記

    2015年02月16日

    石老山と石砂山を歩いてきました。2015年2月。


    2015年2月15日(日)、石老山と石砂山を歩きました。
    高尾駅8:44発の中央線に乗り、相模湖駅下車。8:53。
    駅前からすぐバスに乗車しました。
    「プレジャー・フォレスト経由、三ケ木行き」。

    プレジャー・フォレストって何?
    ともかく、登山客で満員のバスですし、石老山登山口に停車すると書いてあるので、これに乗るので間違いなさそうです。

    バスは、9:00出発。
    すぐに巨大なゲートの前で停車。
    あー、プレジャー・フォレストって、相模湖ピクニックランドのことなんだ。

    後で調べたところ、相模湖ピクニックランドは、2008年に「さがみ湖リゾート プレジャー・フォレスト」と名称が変更されたのだそうです。
    私は、7年間、知りませんでした。
    というのも、前回、石老山に行ったのは、2004年3月。
    実に11年ぶりです。

    石老山登山口バス停。9:15。
    バス停から少し戻るようにして、信号を渡り、そのまま直進。
    少し行くと左手にトイレがあり、道しるべも確認できました。
    道なりに車道を歩いていき、「石老山表登山道」という大きな標識に従って右の道に入ります。
    さらにどんどん歩いていくと、登山口を示す小さな道しるべのある石段が右手にありました。9:45。

    石段を登ると、登山道です。
    日当たりの悪い道なので、ところどころ凍結。
    しまったなあ。
    低山と侮って、今日は、ストックを持ってきませんでした。
    この1週間、たくさん雨が降った記憶もなかったので、軽アイゼンも。
    結局使わないことが多いとはいえ、軽アイゼンは心のお守り。
    冬場の山歩きでは、やはり必携です。

    まずは古い石段を登っていきます。
    両脇に大きな岩。
    巨岩をぬうように登山道は続きます。
    大きな岩の下に説明版がついていて、岩には1つ1ついわれがあるようなのですが、何となく全体的にぼんやりした印象です。
    奇岩という見た目のものはなく、ただ大きい岩ばかりだからかもしれません。
    でも、4月に歩いたら、春の花がたくさん咲いていそうです。

    混雑しているというほどではありませんが、歩いていくと、前方に人が見えてきます。
    邪魔には感じないが、寂しくもない。
    ほどよい距離感で歩いていけました。

    「ハイキングコース」と「八方岩」との分岐があり、「八方岩」コースを選択。
    尾根歩きになると、道は乾いていました。
    八方岩で少し休憩し、眺めを堪能。
    しかし、その先、ついに雪が現れました。
    日当たりの良いところは雪なんか1ミリも残っちゃいないのですが、ちょっと日陰になると、積雪&凍結。
    凍結箇所はツルツルです。
    滑らないように、ザラメ状の雪の上を選んで通過。
    ある程度登ってしまった以上、ここを下るのは登るより難しい。
    もう戻れません。
    登りが北面なのは、むしろ幸運。
    下りに選んだコースは南面。
    雪はないはず。
    そう思って頑張り、ようやく登り切って、石老山山頂。10:45。
    山頂からの富士山は、丹沢に半分隠されているとはいえ、予想外に大きく見えました。


    道しるべを確認し、篠原に下山を開始しました。
    予想通り、こちら側は雪はありませんでした。
    しばらく平坦な道ですが、やがて急な下りが始まります。
    この道は、関東ふれあいの道ですが、道はフカフカで、最近歩いた人が少ないのを感じました。
    道は荒れ気味ですが明瞭で、道しるべもきちんとしています。
    むしろそれが関東ふれあいの道の特徴かもしれません。
    人があまり歩いていないし、道は荒れ気味だが、道しるべはきちんとしている。
    でも、積雪・凍結がないので、何の不満もありません。
    と思ったら、民家が見えてきたところで、深い雪。
    地形的に1日陽が当たらないのでしょう。
    ジグザグの積雪道をそろそろと下り、凍結した里道をしばらく行くと、陽当たりのよい車道に出て、左折。
    そこからは今までの雪景色が嘘のようなぽかぽかした早春の道でした。

    篠原バス停。12:00。
    しかし、日曜日は、バスは来ません。
    乗り合いタクシーのバス停が隣りにあり、到着時刻も決まっています。
    到着の1時間くらい前に電話予約が必要と、バス停に説明が載っていました。
    ちょっと心惹かれましたが、まだ昼食さえ食べていませんから、もうひと頑張りしましょう。

    関東ふれあいの道の道しるべの通りに、車道を歩いていきます。
    道路の右側を歩いていましたが、「石砂山」への分岐の道しるべは道路の左側にあり、見落とす可能性がありました。
    ガイドブックにそう書いてあったので、用心しておいて良かった。
    道しるべの通り、右の細い道へ。
    そこも舗装道路です。
    住宅の前をどんどん歩いて行くと、左手に石砂山登山口の道しるべがありました。
    小さな橋を渡るようになっています。
    登山口には、ヒルに注意との掲示。

    石砂山は「いしざれやま」と読みます。
    石老山のすぐ隣りの山ですが、人の少ない静かな山です。
    11年前に歩いたときも、山の中で、結局誰にも会いませんでした。
    登山口は急登ですが、道はすぐに平坦になり、のどかな気持ちのよい道が続きます。
    痩せ尾根もありますが、登山道はある程度の幅が確保されていて、歩きにくい印象はありません。
    山頂が近づくと、木段の急坂が始まりました。
    そして再び積雪・凍結。
    ザラメ雪を踏んでいく分には滑りません。
    注意深く足を置く場所を選んで登っていきます。

    雪には、誰かが踏んだ跡がありました。
    今日の足跡ではない。
    でも、この山を誰かが歩いている。
    そのことに励まされ、一歩一歩進みました。
    木段が終わると、その先は嘘のような乾いた快適な道。
    そして、石砂山山頂。12:55。
    誰もいない山頂でした。
    丹沢山塊が壁のようにそびえています。
    早春の日差しが暖かい。
    ベンチを1人占めして、のんびりお昼を食べました。

    さて、下山。
    まずは木段の下り。
    南面なので、雪はありません。
    と思ったら、ほんの数段ですが、凍結箇所が。
    両手をついて、慎重に下りました。

    急な下りの後は、斜面のトラバース道。
    この道は細く、登山道が斜めで、しかも砂がもろい。
    この道の印象は11年前のことなのに明瞭に覚えていました。
    山側の足はまっすぐ、斜面側の足はつま先をやや斜面に向けて。
    雪山をトラバースする足の向きを作って通過しました。

    また道は広くなり、薄暗い林の中でも積雪はないので、もうここまで下りてくれば安心かと思いました。
    しかし、伏馬田と菅井との分岐で、右の「菅井」を選ぶと、下山のはずなのに、道は登っていきます。
    何か嫌だなあ。
    そういう不安は的中するもので、その先は崖っぷちの細い道が積雪していました。
    うわあ。
    (^-^;

    しかし、軽アイゼンを持っていたとして、じゃあ着けるか?といったら、まず着けないのです。
    積雪はしている。
    でも、凍結はしていない。
    この道は、歩ける。
    あとは、慌てないことです。
    努めてゆっくりゆっくり歩いていきました。

    道は、雪が消えたり崖っぷちの雪道になったりの繰り返しでした。
    そうしながらも少しずつ高度を下げ、伏馬田城跡分岐。
    そこに立つ杭状の道しるべには、小さな屋根がついていました。
    いや、道しるべではないのかも。
    何か奇妙な印象です。
    書かれてある文字を見て、さらに驚愕。
    「人潰し」。
    え?
    (@_@)

    こ、怖い、怖い、怖い。
    慌ててその場を離れました。
    何かの見間違いだったかもしれません。
    山中に人はいないし崖っぷちの雪道は続くし、何か怖いものを見てしまったかな?
    それとも、何か意味があるのかなあ。

    道は平坦になり、落ち葉に埋もれてトレースを見失ないそうになりながらも先に進むと、さらに驚愕。
    山道が湾曲しているところの沢にかかる鉄製の桟道が、V字にポッキリ折れていました。
    えー?
    ( ;∀;)

    しかし、沢はほぼ枯れていましたし、桟道から沢底までそれほど深くありません。
    桟道の脇を慎重に沢へと下りていき、また登り返して通過。
    そこが最後の難所で、あとは、しばらく歩くとポンと舗装道路に出ました。14:10。

    道なりにどんどん進み、地図の通りに小学校があるのを確認。
    その先の三叉路。14:30。
    予定では、左に行き、また登山道に入って峰山を歩くつもりでいましたが、さすがに、先ほどの「人潰し」とV字桟道で、私の心は折れました。
    峰山を歩けば、下りが北斜面になりますし。
    右の道を選択。
    こちらは、このまま車道を歩いて行けば良いだけです。

    急カーブの多い車道を車に注意しながら歩いて、「やまなみ温泉入口」バス停。
    15:05。
    次のバスは、15:44。
    このまま40分待つより、お風呂、お風呂。

    バス停前からの急坂を上がっていき、藤野やまなみ温泉に入りました。
    ここは町営で、3時間600円。
    脱衣所も浴場も広いです。
    冬場の露天風呂は、いくらでも入っていられそうでした。
    でも、バスが来るし。

    15:44。バスに乗車。
    15:58。藤野駅到着。
    ああ、無事に下山できて良かったー。

      


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    2015年02月05日

    図形が苦手な子。



    今日はいきなり数学の問題から。

    上の図で、AB=AC、AD=AEです。
    (1) 合同な三角形を答えなさい。
    (2) 上で示した三角形の合同を証明しなさい。

    中学2年で学ぶ「三角形」の基本問題です。
    しかし、これが解けない子がいます。
    図をじっと見たまま、不思議なことを言い始めます。
    「センセイ、記号のついていない点に、記号をつけていいですか?」
    「え?・・・・・・BEとCDの交点のこと?」
    「そうです。そうそう」
    「それ、(1)を答えるだけならいいけれど、証明できる?本当は証明できるんだけど、かなりレベルが上がるよ。難しくなるよ」
    「え?そうなんですか?」
    「うん。他に合同な三角形はあるよ。しかも、2組あるよ。そのどちらでも、証明は難しくないよ」
    「え?そんなのないですよ」
    「・・・・あるよ」
    「ないですよ!」

    ふざけているわけではなく、その子には、本当に見えないのです。
    △ACD≡△ABE
    △BCD≡△CBE
    この2組の三角形が、見えない。

    その子に見えていたのは、BEとCDの交点をFとするなら、
    △BDF≡△CEF
    その三角形だけなのでした。

    つまり、線分で区切られてしまうと、その区切られた図形しか見えなくなってしまうのです。

    小学生にこういう子が案外多いのは、私がこの仕事を始めた頃からそうでした。
    もしかしたら私が子どもの頃からそうだったのかもしれません。
    特に学力が低いというのではなく、計算問題や文章題にはそれなりに対応できるのに、図形を把握する力が弱い。
    ものの見え方、認識の仕方の問題なのだと思います。
    最近は、中学生でも上の三角形が見えない子が増えてきたような気がします。

    教えればわかるようになる子もいます。
    上の「ないですよ!」と意地を張った子に、色違いのマーカーで2つの三角形をなぞってあげたら、ようやく見えてきて、感動していました。
    「本当だ!すげーっ」
    以後、少しずつ、線分で区切られた三角形も認識できるようになりました。


    △ACDと△ABE
    ∠Aは共通です。
    このような、重なりあっている三角形がなかなか認識できない子もいます。
    部分的に共有するということが難しいのかもしれません。


    小学生の場合、一番単純な例で言えば、正方形を斜めに描いてある図形を、正方形と認識できず、
    「これは、ひし形だ」
    と言い張る子がいます。
    正方形はひし形の一種ですから、あながち間違いではないのですが、正方形ならば、正方形であると答えることを要求されます。
    テキストを斜めにし、正方形に見えやすい位置に直して、三角定規をあて、
    「ほら、全部、直角でしょう」
    と証明してみせても、まだ不審そうにしている場合もあります。

    二等辺三角形が、図形の向きによって、二等辺三角形に見えない子もいます。
    「これは、直角三角形だよ」
    と言い張ります。
    いや、この角は、直角じゃないよと、三角定規をあててみせないと納得しません。


    中学受験生でも、多くの子が混乱するのが立方体の切断の問題です。
    切り口の形がどうしてもイメージできず、
    「切断面は六角形なんだけど、見えるかな?」
    と問いかけても、不思議そうな顔をしています。


    中学3年生で学習する「相似」も深刻です。
    1つの図の中に2組の相似が存在し、その両方を利用しなければ解けない問題。
    でも、見えてくるのは、1組だけ。
    見えたその1組にイメージをしばられ、もう1組が、どうしても見えてこない子がいます。

    そんなときに私が思い出すのは、有名なイラスト。
    若い女性の横顔にも見えるし、老婆の顔にも見えるイラスト。
    その片方しか見えない人が、たまにいるらしいのですが、そういうことに似ているのかもしれません。

    どうしたら、図形をイメージできるようになるのか。
    根本的には、10歳までが勝負なのでしょう。
    生まれつきイメージ力があるか、図形的なイメージ力が伸びる生活環境にいるのがベストだと思います。
    けれど、現実には、そんな年齢はとうに過ぎてしまって、図形が苦手だと気がついた、さあどうするという場合が大半です。

    では、どうするか。
    取り返しはつかないのか。

    図形がわかる、わからないは、以下の3段階に分かれると思います。

    自分でイメージできる。
    教われば、イメージできる。
    教わっても、イメージできない。

    図形が苦手だという人も、大半は、「教われば、イメージできる」人です。
    ならば、まずは、たくさん教わることです。
    イメージできた経験を増やすこと。

    その記憶が、自分自身がイメージした記憶にすりかわる頃、本当に自分でイメージできるようになっています。
    ある程度、イメージが蓄積されたら、自力で解く経験を増やしましょう。

    わからないと、すぐ解答を見る。
    すぐ教わって、「ああ、わかった」、「わかったからいいや」、で済ます。
    それでは、図形に限らず、数学は出来るようにならないと思います。
    わからなくて何時間も考え込む、その時間が、もっとも貴重な、学力が伸びている時間ですから。

      


  • Posted by セギ at 12:35Comments(0)算数・数学

    2015年02月03日

    新しい発見は、苦手なことのなかに。


    教科の中で社会科、すなわち地歴・公民が嫌いな中学生・高校生は多いです。
    なかでも、歴史が嫌い。

    単に暗記ものが苦手ということは勿論あるのでしょう。
    覚える勉強を小学生の頃からしたことがなく、覚えなければいけないとも思っていない子はいます。
    しかし、歴史嫌いを口にする子の中には、そればかりではなく、歴史に価値を認めないような発言をする子がいます。
    同じように暗記が多く、結局覚えなければどうにもならない生物や化学に対しては、あまり文句を言わないのです。
    テストの結果は、社会よりも理科のほうが悪いのに、歴史は嫌い、意味がない、と繰り返します。

    過去のことなんか学んでも意味がない。
    どうしてそんなふうに思うのでしょう。
    それは、彼らが若いからなのでしょうか。

    若いということは、新しいということ。
    彼らの強みは新しさです。
    知識も経験も思考力も乏しいかもしれない。
    でも、新しい。
    自分のその強みを何より本人が過大評価するためにも、古いものの価値は認めてはならない。
    本能がそう命ずるのでしょうか。
    古いものは全て貶めたい。
    歴史に価値など認めない。
    そこまで明確には意識はしていないでしょうが、そういう感覚なのかなと思ったりします。
    結局、そういう子は、勉強全体があまり得意ではない場合が多いのですが。
    (..)

    大人と話していて、自分の生まれる前の話題になったときに、
    「えー、知らなーい」
    と、何だか嬉しそうに言う子も、そういう例かもしれません。
    そんなことを知らないほどに私は若いの。
    私の若さの価値を見て。
    素晴らしいでしょう。
    そう言いたいのかもしれません。

    しかし、嫌いが高じて、地歴・公民の受験勉強はやりたくないから理系を選択する、と言われると、ちょっと待てと思うんです。
    地歴が嫌いと言っても、あなたの数学と理科の成績は、地歴より悪いぞ。
    それで理系選択って、大丈夫なの?
    出来なくても数学や理科のほうが好きで、将来やりたいことがあるのならわかるけれど、動機が「地歴が嫌いだから」とか、「古文・漢文が嫌いだから」というので、本当に大丈夫なの?



    ある夜、私は、ラジオを聴いていました。
    その昔、「芳賀ゆい」という架空アイドルをプロデュースし、少し前には、「中2病」という新語を作った人がパーソナリティーをしている番組です。
    こう書くと、とりあえずエッジが効いていて、何かの教祖みたいな印象ですし、実際そうなのかもしれませんが、テレビには素知らぬ顔で普通のタレントとして出演している人です。
    「中2病」に関しては、その後、ネットを中心に使われ方が変化したことを受け、その言葉にはもう自分は興味がないと公言していますし、実際、以後、全く言及しないのもカッコいい。

    ラジオの中で、私が聴いて意味がわからないと感じる言葉は使いません。
    そういう感覚はわからないと感じる話もしません。

    全くゲームをしない私が、その人が語るゲームの話に退屈を感じません。
    自分が十代の頃に、大人たちに、
    「ゲームなんて時間の無駄だ、やめろ」
    と言われたことを今も覚えていて、
    「うるせえよ。そんなことはわかってんだよ!」
    と、四十代で言う姿勢には、むしろ頭が下がります。

    その人の書いた本の中に、昔のゲームの「ふっかつのじゅもん」が、どれほど人の気持ちをつなぐかを語ったエッセイがあります。
    ゲームに対して強い嫌悪感や抵抗感のある人も、あれを読めば涙するかもしれません。
    私は、試しに立ち読みして、うっかりそこを読んで泣きそうになってしまい、慌てて本を閉じてレジに並びました。


    しかし、その人が、ある夜ラジオで語りました。

    ゲームは、面白い。
    マリオカートは、面白い。
    どれくらい面白いかと言うと、マリオカートは、マリオカートくらい面白い。
    この歳になると、新しい発見は、苦手なことの中にしかない。
    だから、今は、自転車とか、ジョギングとか、苦手なことをあえてやっている。


    新しい発見は、苦手なことの中にある。

    しかし、そのような気持ちになるには、ある程度の年齢が必要なのかもしれません。
    それは、歴史や古文が嫌いなあの子たちだけでなく、私にも言えることだと思います。
    考えたいことだと思います。


      


  • Posted by セギ at 15:03Comments(0)講師日記