たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2017年08月26日

文章を読解できない理由。



夏期講習に入り、高校3年生の英語の授業は過去問を使って実践的な演習を始めています。
最近の5~6年の過去問はもう少し入試が近づいてから解きたいので、それ以前のものや受験する可能性のない学校の過去問を、この時期の演習には使用します。
その中で、英語力にそんなに課題があるわけではないのに、共通して解けない問題があるのを発見することがあります。

例えば、ある論説文。
大体、こんな内容です。
若者がイヤホンを使用し電車の中で音楽を聴いている光景も当たり前になった。
他人に迷惑をかけずに電車内で音楽を楽しめるのは良い点ではあるが、彼らは、電車の中という公共の場でも他人と接触することがなく、それぞれに孤立している。

このような文章に関しての、第1問。
「筆者は、電車でイヤホンを使用することの利点は何であると述べているか」
これは四択問題で、正解は、
「他人に迷惑をかけずに音楽を楽しめること」
という選択肢なのですが、この夏、この問題を解いた3人が3人とも間違えて次の選択肢を選んでしまいました。
「電車の中でも他人と接触せずに済む」

( 一一)
筆者はそれをむしろ否定的に書いています。
しかし、生徒たちはそれを利点と感じるせいなのか、そのひっかけに見事に騙されていました。

また別の英文。
それは、仕事と余暇に関する文章でした。
以下のような内容です。
週休2日制が普及し、以前と比べて余暇の時間が増えている。
しかし、余暇の時間を持て余している人も多い。
従来、余暇は仕事をより良いものとするための休息の意味合いが大きかった。
生活において仕事が第一であり、余暇は仕事を能率的にこなすための休息であった。
しかし、近年、生活の中心は家庭であったり趣味であったりとする考え方が生まれている。
そうした考え方においては、余暇は仕事のための休息ではない。
だが、従来の仕事中心の考え方に影響されている人もまだ多い。
そうした人たちは、余暇の時間に遊ぶことに罪悪感を覚えることがある。
だから、余暇を仕事に使ってしまったり、余暇の時間に別の仕事を探してしまったりする。
仕事と余暇とのバランスをもっと考えていくことが必要である。

この文章に対する最後の設問。
「筆者がこの文章で最も述べたかったことは何か」

正解は、
「仕事と余暇とのバランスをもっと考えていくことが必要である」
という選択肢です。
しかし、生徒たちが選んだのは、
「近年、ますます余暇が増えている」
という選択肢でした。

・・・いやいや、それは単なる事実で、筆者が最も言いたかったことではないです。
( 一一)



なぜ、ここを間違えてしまうのでしょうか。
1人正解できない人がいたというだけなら、その子の読解力の問題ですが、さまざまな英語力の3人が3人とも、同じところで間違えるとなると、何か他に理由があるのかもしれません。

これは、国語においても言えることだと思うのですが、彼らは、文脈を正確に追わず、主観で文章を読んでしまったのではないかと思うのです。
イヤホンの件で言えば、筆者が否定的に述べていることが、自分にとっては魅力的なことだったので、否定的にとらえることができなかったのではないでしょうか。
仕事と余暇のバランスに関する文章は、自分の生活や考えとかけ離れていて、筆者の言っていることが理解不能だったので、そこを避け、自分が理解できる選択肢しか選べなかったのかもしれません。


それで思い出したのは、この夏、中3の夏期講習で国語の読解をしていたときに、本文中のいくつかの傍線部を「事実」と「意見」に分けるという比較的単純な問題を正答できない生徒もいたということです。
学力的には問題のない子です。
申し分ない学力の子が「事実」と「意見」を区別できないことに私は内心驚いたのですが、そもそも、そのような観点で文章を読んだことがないのかもしれません。
筆者の意見と自分の意見、あるいは意見と事実とを区別できないまま、曖昧な状態で文章を読んでいるのでしょうか。

もっとテクニック的に、文章中のA内容(世間の常識的な概念)とB内容(筆者の考え)とをサクサク対比して、選択肢をザクザク消してさっさと正解を出していく国語読解法を指導しようと思っていたのですが、ああ、この子たちはもっと手前だと感じました。
文章を読んだ経験がとにかく足りない様子です。

しかし、そういう話になると、「本をもっと読みましょう」という結論になりがちです。
それは勿論悪いことではないのですが、そういうときの「本」は、たいてい物語や小説で、文章の構造そのものが違いますから、上にあげたような論説文は読み慣れないままとなる可能性が高いのです。
小説も読めない子なら、まず小説から読めばいいでしょう。
しかし、学力が高い子は、小説ならまあまあ読解できる子が大半です。
問題は、論説文が読めないこと。
そんな文章、どこで読めばいいのでしょうか?
学校の図書室を探しましょうか。
あれ?
学校の図書室に論説文なんてありましたっけ?
誰が書いたどんなタイトルの本が論説文なんでしょう?

模試や入試に出題される論説文は、新聞や雑誌に掲載されたものが大半です。
評論集としてまとめられているものもあるでしょう。
しかし、生徒はそういうものに触れる機会がほとんどありません。
読もうと思っても、どこに載っているのかわからないのです。
ですから、論説文を読むには、論説文の問題を解くのが一番手軽で確実です。
日常的に国語の論説文問題を読み、解いていくことで、論説文の読解力がついていきます。
普段読んだこともなく、解いたこともないから、たまに模試や入試で解こうとしても、どう読んでいいかわからないのですね。


ところで、国語の場合は物語文は得意だが論説文は苦手という子が多いですが、英語になるとそれが逆転しがちなのも面白い傾向です。
英語の場合、論説文なら読み取れるのに、小説やエッセイになると、何が書いてあるのかわからなくなる子は多いです。
近年、大学入試の英語問題に小説が用いられることは少なく、実用的な英文を読み取れることが第一とされてはいますが、たまに英語で物語文を読むと、ある程度の英語力のある子でも、内容をほとんど読み取れないことがあります。
ユーモラスな文章、ジョークを交えた文章は特に読み取れない様子です。

例えば、こんな文章。
オーストラリア出身の若者が、ロンドンで生活しています。
ガーデニングで庭に穴を掘っていると、近隣の人に声をかけられます。
「プールでも作っているのかい?」
「いや、故郷に帰ろうと思ってね」

問題 この若者の返答の意味を面白さがわかるように説明しなさい。

この問題に正答できた生徒は、今のところ1人も存在しません。
正解を説明してあげても、それの何が面白いんだという顔をしています。

その他にも、英語で書かれた小説やエッセイは、例えばヨットでサルが暴れていたり、日本人なのにネイティブ・アメリカンと間違われ続けたり、屋根裏部屋に幽霊が出たり、頭の中に空洞があることに気づいたりと、生真面目に英文を読んでいる高校生ほど書いてあることが理解不能であるらしく、なかなか正答できない様子です。
英語で書いてあることは真面目なことだと思いこんでいるのかもしれません。
英語で読むだけでもハードルが高いのに、書かれてあることが予想外に突飛な内容だと、自分が正しく読み取れている自信が持てない。
英語はもっとありがちな、環境問題とか、異文化コミュニケーションの大切さとか、そういう教科書に載っているような内容が書いてあるほうが読みやすい。
・・・わかりますけれど、少し頭の硬い考え方だなあとも思います。
結局、それも、英文を読んだ経験が不足していることが最大の原因なのでしょう。

  


  • Posted by セギ at 17:55Comments(0)英語

    2017年08月18日

    2次方程式と判別式。




    2次方程式の基本は中学3年生で学習します。
    平方完成による解き方。
    因数分解による解き方。
    そして解の公式。
    「ゆとり教育」の時代に除外されていた解の公式も、今では中学3年生できちんと学習します。
    高校で新出の内容というと、2本目の解の公式。
    ax2+bx+c=0
    のbが偶数の場合に使用される公式です。
    ax2+2b'x+c=0のとき、
    x=-b'+√b'2-ac
    という式です。
    普通の解の公式でも同じ解になるのですが、途中のルート内の計算が2桁×2桁などになりがちで煩雑な上、最終的には約分もしなければなりません。
    2本目の公式を覚えて利用できたほうが圧倒的に有利です。

    しかし、ここで、
    「覚えなくてもいいんでしょう?」
    と言い出す生徒が必ずいます。
    数学が苦手な子ほど、そういうことを言う傾向があります。
    公式を覚えるのが本当に苦手で苦痛で、1本目の公式でも解けるのなら、それしか覚えたくないのでしょう。
    そうして煩雑な計算をし、時間もかかり、計算ミスをして間違えます。
    ( 一一)

    一方、2本目の公式を使えば計算が楽だし速いと実感できる子は、私が強制しなくても、嬉々として覚え、使うのです。
    それを使わずに問題を解くことなど考えられないのでしょう。
    だって、とても便利なんですから。
    こうした1つ1つのことが積み重なって、計算力に差がついていきます。

    2本目の公式を覚えなさいと言われれば覚えるけれど、テストが終われば普通の解の公式も忘れてしまう子もいます。
    公式が頭の中に残らないようなのです。
    サラサラと流れる水のように入っては忘れていきます。
    数学の勉強をしていても、何も積み上がっていきません。
    そういう手応えのなさを講師が感じ始める最初も、2次方程式の解の公式であるような気がします。

    忘れたくて忘れているわけではないのはわかるのです。
    しかし、努力して覚えようとしている気配も感じません。
    覚えなくても、その場その場で必要ならばまた覚え直していけば何とかなると思っているのでしょうか。
    しかし、高校の数Ⅱで、覚えにくい公式がどれほど大量に出てくるか、教える側は知っていますので、2次関数の解の公式くらいで「覚えられない」と弱音を吐かれると困ってしまうのです。
    そんなふうでは、この先には絶望しかないのに。
    数学が本当に好きで、公式なんか一度見れば覚えられる人や、数学に対して特別な才能があり、テスト中でも公式を自力で再生できる人ならともかく、そうでないのなら石にかじりついても公式を覚えるという強い意志が必要です。
    そうでない限り、先には闇しか待っていないのです。
    足許を照らす光を自ら手放しているのですから。

    解の公式とあわせて理解したいのが、「判別式」です。
    判別式は、要するに解の公式の√ 内の部分です。
    ここが、正の数か、0か、負の数かで、2次方程式の実数解の個数を判別できます。
    「2次方程式」の単元だけでなく2次不等式でも、それ以降の単元でも、判別式はよく使うものです。
    数Ⅱの「軌跡と方程式」などでも使いますね。
    「判別式を使う」というテクニックが頭の中に知識として存在していないと、判別式を使う問題は自力では一切解けないという事態に立ち至ります。
    ですから、忘れるとまずいものの筆頭なのですが、これもなかなか定着しません。
    判別式が大切だという感覚すら定着しないことがあり、苦慮するところです。

    判別式はDで表します。
    Dは、discriminantのDです。
    意味は、そのまんま「判別式」です。

    discrimination 区別・差別
    discriminate 区別する・差別する
    といった単語が連想されますね。
    英語も一緒に覚えられて、お得です。
    ヽ(^。^)ノ

    数学のこういう文字使いに目覚めた中学生が、
    「センセイ、点PのPって、ポイントですか?」
    「あー、はい。そうですね」
    「おお、すげえっ。じゃあ、Lって、ラインですか?」
    「うん、そうですよ」
    「あー、やっぱりそうか。すげえっ」
    と、1つ1つに感動することがあり、微笑ましいものです。
    何でもいいから、何かをフックに数学に興味をもって勉強してください。
    (*^-^*)

      


  • Posted by セギ at 12:24Comments(0)算数・数学

    2017年08月06日

    戦争のことを少し。


    今もそうですが、私は夏野菜が好きです。
    高校生の頃、夏になるとよく路地物のキュウリを丸ごと1本、マヨネーズをつけてかじっていました。
    そういう私を見て、必ず母は、
    「戦争中みたいねえ」
    と言っていました。
    「戦争中はキュウリに味噌をつけて食べていたものよ」
    「・・・・・」

    キュウリと味噌のある「戦争中」は、随分とのんびりした印象でした。
    少なくとも、私が本で読んだりドラマで見たり学校で習ったりしていた「戦争中」とは違うものでした。
    母の口にする戦争中の話には「餓死」も「空襲」も「罹災」も「疫病」も「疎開」も出てきませんでした。
    キュウリと味噌と、そしてもちろんお米のある「戦争中」は、果たして戦争中なのだろうか?
    それはそれなりに豊かな生活であるような気がしたのです。
    勿論、戦争を知らない私が安易にそんなことを言うわけにいかず、黙ってキュウリをぽりぽり食べているのが常でしたが。

    太平洋戦争の頃、母は新潟市に住む旧制女学校の生徒でした。
    近隣にはまだ農家が多く、祖父の友人の農家から野菜などを分けてもらっていたようです。
    食糧を求めに来たよそ者には辛くあたったかもしれない農家の人も、以前からの知り合いには優しかったと思います。

    母は、女学校の生徒でしたが、戦争末期には動員されて軍で働いていました。
    乱数表から暗号を読み取っていたそうです。
    ときどき、軍人さんからお菓子や肉の缶詰をもらえたと言います。
    「戦争中でも、軍には何でもあったのよ」
    と母は不満げに言っていましたが、ときどきでも分けてもらえる母の立場もかなり羨ましいものではなかったかと思うのです。
    私が知識として知っている女学生の動員は、軍需工場で働かされた上にその工場が空襲されて友達は死に、自分の身体は一生残る傷を負うという、この世の地獄のようなことばかりでしたから。
    そういう話と比べれば楽そうな職場にいた母は、それでも動員で働かされたことが不満だったようです。
    「結婚前に働きたくなかったのに」
    と言っていました。
    望まない労働を強制されたというよりも、女学校を出たら仕事などせず、花嫁修業をして、良い縁談に恵まれて結婚するというあるべき人生に余計なものが挟まったことに対する不快感が先にきている様子でした。
    そういう時代だから仕方ないのですが。

    『火垂るの墓』を書いた野坂昭如氏は、神戸の戦災で幼い妹さんを亡くし、新潟に住む実父に引き取られました。
    妹さんを亡くした経緯は小説とは随分違うものらしいのですが、妹さんは亡くなり野坂さんは生き残ったという事実は変わらないようです。
    自分だけが生き延びたつらい記憶を抱えて暮らすことになった新潟での、戦争があったとは思えない豊かな暮らしへの複雑な思いが書かれた著作を読んで、母が語る断片的な思い出とそれがつながり、ああ、そういうことだと腑に落ちました。
    まして、母は、私が読んでいる本の内容には頓着せず、
    「ああ。野坂昭如さん?あの人の義理のお母さんと、私、お茶の教室が一緒だったのよ」
    などと、さらにそれを裏付ける断片をぶっ込んでくるのでした。( ;∀;)
    お茶の教室って・・・・。
    いや、それはさすがに戦争中ではなく、戦後すぐの話だと思いますが。
    戦後の混乱期、母はお茶だお花だと花嫁修業にいそしんでいたのでした。

    『火垂るの墓』はひどく読みにくい文体でつづられています。
    それは、野坂昭如さんがいかにあの主題を語りにくかったのか、その辛さがそのまま文体になったものだろうと思います。
    学生時代の夏、うんうんうなりながらそれでも一応は読んだものの、以後、読み返すのはさすがにつらく、もっぱらアニメの記憶になってしまいます。
    アニメで印象的だったのは、主人公が餓死に直面している同じときに、戦争が終わって疎開から帰ってきた女の子が晴れ晴れとクラシック音楽を聴いて平和を享受している場面でした。
    たったそれだけのシーンで、その女の子は、戦争中ですら、それほどの苦難は味わわなかったのではないかと想像されるのです。

    悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
    戦争は平等に不幸をもたらすものではない。

    そのことに、私は戦慄します。
    みんな平等に不幸なら、まだましなような気がします。
    そもそも、みんな平等に不幸になるなら、もう2度と戦争は起こらないのです。
    誰もそんなことはやりたがらないのですから。

    どれほど悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
    だから、また戦争は起こる可能性がある。

    戦争で苦しむかどうかは、財力だけの問題ではないのでしょう。
    新潟は、軍事施設のある港でしたが、最後まで大きな空襲はありませんでした。
    しかし、原子爆弾投下候補地のリストに載っていたそうです。
    なぜ、新潟には原爆が落ちなかったのか。
    そんなのは、紙一重の問題でしょう。

    戦争末期、広島と長崎に「新型爆弾」が投下された後、8月11日だったのか12日だったのか、新潟市に3つ目の新型爆弾が投下されるという警報が出され、市民が一斉に避難した日があったそうです。
    「あのときは、リヤカーを引いて皆で避難したのよ。関屋まで逃げたよ」
    母はそう言うのですが、その「関屋」は、爆心地がどこになるかによるにせよ、被災から完全に逃れられたとは到底思えない距離にある地名なのです。
    戦争中に食糧にそれほど不自由しなかった幸運など、そうなってしまったら、もう何にも関係がありません。
    歴史的事実としては、新潟に原子爆弾は落ちなかった。
    落とされる可能性も低かったことが今はわかっている。
    それでも・・・・。

    財力があれば戦争から逃れられるわけではありません。
    戦争になったとき、どうすれば自分だけは苦しまないでいられるのか。
    そんなのは、戦争を引き起こした当事者でもわからないかもしれません。
    それでも、本人はわかっているつもりかもしれない。
    それが、恐ろしい。

    終戦の日、軍で玉音放送を聴いた母は、その直後、将校の1人が抜刀して女学生に切りかかり暴れだしたのを見たそうです。
    そうでもしないと気持ちのやり場がなかったのか。
    そうでもしないと面子が保てなかったのか。
    女学生に切りかかって暴れる軍人の話は、母の話の中で最もリアリティのある話でした。

    ああ、軍人ってそういうメンタルか。
    乱心して切りかかるにしても、女学生相手なんですね。
    結局、怪我人はいなかったそうで、全部ポーズですよね。
    ああ、嫌だ、嫌だ。

    その話は、私が二十歳を過ぎてからようやく母の口から語られたことでした。
    もしかしたら、母は、子ども相手に語るべきではないもっと嫌なことも見聞したのかもしれません。

    戦争がなかったら、東京の女子大で勉強できたのに。
    母から、幾度かそう聞きました。
    戦後の混乱期の東京に、娘を出すわけにはいかない。
    そういう理由で、母の大学進学はかないませんでした。

    何となく聞き流してきたけれど、私が当たり前のように大学に進学したのは、母のそういう気持ちも背景にあったろうと思います。
    母の戦争体験をのんびりしたもののように思う私ですが、では、自分が戦争のせいで大学に行けないとなったとき、それを我慢できるのかと考えると、そんなの我慢できるわけがないのです。
    本で読んだだけの悲惨な話に頭でっかちになり、小さな不幸に共感できないなんて。
    薄っぺらいのはむしろ私でしょう。

    戦争体験を語れる人が少なくなってきました。
    私の知っている断片だけでもここに残しておこうと思います。


      


  • Posted by セギ at 15:39Comments(0)講師日記

    2017年08月02日

    2次関数の最大・最小。




    今回は、「2次関数」の佳境、係数に文字を含む2次関数の最大値・最小値についての学習です。
    しかし、これの解説には放物線を示しながらの解説が不可欠です。
    ブログではちょっと説明しきれないのを感じます。
    ここはぜひとも授業を受けて理解してほしい部分なのですが、できる限り説明してみます。

    問題 y=x2-2ax+a (0≦x≦2) の最大値・最小値を求めよ。

    解き方を全て書いていくのは難しいのですが、とにかく、与えられた式を平方完成します。
    y=(x-a)2-a2+a
    よって、頂点は(a,-a2+a)、軸はx=a。

    定義域は、0≦x≦2です。
    この定義域の間で、yの値の最大値はいくつで、最小値はいくつなのかというのが問題の意味です。

    え?そんなのx=0のときが最小値でx=2のときが最大値じゃないの?

    1次関数の感覚でそんなことをうっかり考えてしまいそうですが、これは2次関数。
    x2の係数が1ですから、下に凸の放物線です。
    0≦x≦2 という定義域が、放物線のどのあたりに位置しているかによって、どれが最小値でどれが最大値かが違ってきます。

    まず考えられるのが、0≦x≦2 が、放物線の頂点より右側の部分である場合。
    このときは、x=0で最小値、x=2で最大値となるでしょう。
    ところで、aがどんな値のときに、放物線の頂点より右側が定義域になるでしょうか?
    この放物線は、頂点が(a,-a2+a)、軸がx=a の放物線です。
    aの値によって、軸の位置も変わり、定義域との関係も変わってくるということです。
    ですから、aの値によって場合分けが必要だとわかります。

    放物線の頂点より右側に定義域があるときというのは、x=0が、x=aより右側にあるということです。
    すなわち、a<0のとき。
    このとき、x=2で最大値、x=0で最小値です。
    このx=2やx=0を2次関数の式に代入するとyの値が出ます。
    関数の値とは、yの値ということです。
    与式に代入しても、平方完成した式に代入しても同じ値が出ますので、代入しやすいほうを選びましょう。
    与式にx=2を代入して、
    y=4-4a+a=-3a+4
    与式にx=0を代入して、
    y=0-0+a=a
    よって、a<0のとき、
    x=2で最大値-3a+4
    x=0で最小値a

    さて、次は放物線のどんな位置に定義域が存在する場合を考えましょうか。
    頂点を含んで定義域が存在する場合を考えてみましょう。
    頂点のところが最小値になることはすぐ判断できます。
    しかし、最大値は?
    定義域の範囲が、放物線の軸を挟んで右側のほうが高く上がっている場合は、右側が最大値となりますが、左側のほうが高く上がっていたら、左側が最大値となりますね。
    そして、頂点を挟んで、左右がつりあっている場合は、その両方が最大値となるでしょう。
    だから、頂点を含んでいるというだけでなく、もっと細かく場合分けが必要となります、

    軸を挟んで、右側のほうが高く上がっている定義域というのは、軸x=aとの関係はどうなるのでしょうか?
    え?0<a<2 でいいんじゃないの?
    そう思うでしょうか?
    しかし、それでは上に挙げた3通りの場合は全部そうじゃないでしょうか?
    もっと細かい場合分けが必要となります。

    どうしたら良いのでしょうか?
    ここで、重要なのは、定義域0≦x≦2 の中央の値、1です。
    定義域の中央の値と軸との関係によって、右に傾いたり左に傾いたりします。
    すなわち、0≦a<1のときに、放物線は、軸の右側が高く上がっていきます。

    ここらへんで、「え?」「え?」となる人が多いところですので、実際に放物線を描いて確認することをお薦めします。
    この問題は、必ず放物線を描いて解くものです。
    描く放物線は、x軸もy軸も必要ありません。
    どこにx軸やy軸があるのかわからないのですし、問題を解くのに関係ないからでもあります。
    下に凸の放物線を点線で描き、そこに軸を描き、定義域の部分を実線で描き、x=0、a、1、2の位置を書き込んでいくだけで十分です。

    さて、a=1のとき、そこは放物線の軸と重なります。
    定義域は左右対称となり、最大値は両端の2か所となります。
    1<a≦2のときには、定義域の放物線は左側が高くなるでしょう。
    すなわち、
    0≦a<1のとき、x=2で最大値-3a+4、x=aで最小値-a2+a 
    a=1のとき、  x=0、2で最大値1、   x=aで最小値0
    1<a≦2のとき、x=0で最大値a、     x=aで最小値-a2+a

    a=1のときは、aが明確になった分、最大値・最小値も文字の残らない数字になることにも注意が必要です。

    最後に、定義域が軸よりも左側にある場合は、2<a ということですから、
    2<aのとき、x=0で最大値a、x=2で最小値-3a+4

    以上をまとめると、
    a<0のとき    x=2で最大値-3a+4  x=0で最小値a
    0≦a<1のとき x=2で最大値-3a+4   x=aで最小値-a2+a
    a=1のとき    x=0、2で最大値1     x=aで最小値0
    1<a≦2のとき x=0で最大値a        x=aで最小値-a2+a
    2<aのとき    x=0で最大値a       x=2で最小値-3a+4

    この問題の解き方は、
    ①まず放物線を5通り描く。
    ②その放物線ごとのaの値の範囲を決定する。
    ③それぞれの場合の最大値・最小値を計算する。

    最近の親切な問題は、その5通りに場合分けをしてくれているのですが、むしろそれで混乱する子もいます。
    自力で5通りに場合分けして、問題の場合分けと一致していることを確認したほうがしっかり理解しながら解けると思います。
    なお、「最大値のみ」「最小値のみ」の場合は、放物線は3通りになります。
    定義域の中央の値である「1」が関係するかどうかは、放物線が上に凸か下に凸か、と最大値か最小値かでそれぞれ異なってきますので、実際に放物線を描いて判断します。

    これだけの説明を丁寧に行って、もう大丈夫、さて演習しましょうとなったとき。
    ところが、私が説明したのとは違う解き方を始めてしまう生徒がいるのです。
    ( ;∀;)
    やはり、テキストの問題が親切すぎるので、結局、問題にあるaの値の範囲の場合分けを優先して解こうとして、xの定義域とaの変域とで混乱が起こり、どう放物線を描いていいかわからなくなってしまいます。
    まず自分で場合分けしましょう、と強調したつもりでも、伝わっていないことは多いです。

    「まず、放物線を5つ、最初に描いて場合分けしましょう。問題に書いてある場合分けは、その後で、確認のために使ってください」
    私がそう言うと、不審そうな顔をする子もいます。
    「だって、先生が、さっき、こういう順番で解いていたじゃないですか?」
    「え・・・・?いえ、私は先に放物線を描いて、それで自分で場合分けするように言ったんですよ」
    「え?さっきはそうじゃなかったですよ」
    「え・・・?」
    これには動揺します。
    どうして全く逆のことが記憶されてしまうのだろう?
    おそらく、私が説明している間、その子は、テキストに書いてある場合分けを見ているのでしょう。
    そうして、私がテキストの場合分けに沿って説明しているのだと思いこんでいるのだと思います。
    私が、
    「テキストの場合分けは見ないで、自分で場合分けするんですよ」
    と説明しているのを聞いていないか、あるいは、自分の思いこみに反するそうした情報は聞き流してしまうのかもしれません。

    何かを正確に伝えることは、本当に難しいです。


    例えば、中学生の場合でも、こんなことがあります。
    中学1年生にとって、1学期は、小学校時代の「算数」から中学の「数学」に移行する大切な時期です。
    しかし、本人たちには、その違いがよくわかりません。
    だから、小学校時代の意識のまま、数学の問題を解いてしまいます。
    これは小学生の答案だなと感じる最たるものは、問題を解くのに式を書いていないこと。
    解き方を思いつくと、式を書くのを忘れてしまうらしいのです。
    くしゃくしゃ筆算して、答えだけ書いています。
    式を書く解答欄がなければ式を書かなくていいと思っている子は多いです。
    どういう公式や定理を使って、どういう流れで解いたのか、それでは何も読み取れない。
    そんなのは、数学の答案ではありません。

    それを直すために、特に私立中学の数学の先生は、中学1年生に高圧的な答案指導をすることがあります。
    かなり強く言わないと、子どもは直さないですから。
    「こう書かないと、テストは全部バツ」
    「これを書いていなければ、0点」
    そういう指導になりがちです。
    「うちの学校の先生、すごくうるさい」
    と口を尖らせて言う子のノートを見ると、ごく当たり前の答案が書かれていて、
    「何もうるさくない。これが普通です。良い答案を指導してくれる先生ですね」
    と説明することはよくあることです。

    しかし、ときどき奇妙な答案の書かれたノートに出会います。
    例えば、式の値を求める問題。
    「x=5、y=-2であるとき、3x-4yの値を求めよ」
    この問題の答案の1行目で目が止まってしまいました。
    「xを5、yを-2に代入して」
    ・・・・・・え?('_')
    わかると言えばわかるのですが、何かモヤッとする日本語です。
    これ、「を」と「に」が逆ですよね。
    「xに5、yに-2を代入して」
    このほうが良いでしょう。

    これは、その数学の先生に国語力がないために起きていることなのか、この子が勘違いしているのか、どちらなのだろうと困惑してしまいます。
    普通に考えれば、その子のミスなのですが。
    いずれにしろ、
    「x=5、y=-2を代入して」
    と書けば、そういう混乱は回避できます。
    しかし、その子にそう助言しても、
    「学校の先生がこうでなければダメだと言った!」
    と強く主張し、直しません。

    また別の問題。
    それは、式による証明の問題でした。
    「連続する3つの偶数の和は6の倍数になることを説明しなさい」
    この問題の答案の書き出し。

    「整数をnとすると、2n-2、2n、2n+2とかける」
    ・・・・・え?
    「整数をnとすると」
    この書き出しに、まず「え?」と思ってしまいました。
    「整数をnとすると」ではなく、「nを整数とすると」のほうが適切です。
    そして、最後の「かける」にも違和感がありました。
    「かける」とは「書ける」ということなのだと思うのですが、なぜ、書くこと限定なんだ?
    何だか、微妙に気持ち悪いです。
    間違っているとは言えないのですが、違和感があるなあ。
    間違っているわけではないから、まあいいのですが。

    これの標準的な書き方は、
    「nを整数とすると、連続する3つの偶数は、2n-2、2n、2n+2と表される」
    となります。
    「学校の先生が、こう書いているの?」
    と尋ねると、その子は黙ってうなずきました。
    しかし、学校の先生が本当にそう書いているのか、疑問の余地があるのです。
    板書の見間違いや写し間違いを、していないでしょうか。
    あるいは、本人の国語力が、学校の先生の模範解答を歪めていないでしょうか。
    学校の先生は「表される」と板書したのに、その子の語彙の中にそのような表現がない。
    本人としては「表される」という言い回しに、むしろ違和感がある。
    そのため、本人の中での「正しい日本語」に勝手に変換し、「かける」と直してしまった。
    しかも、自分がそのように書き換えたことが記憶の中から消え、先生がそのように板書したという記憶として残っている。
    そういうことなのではないかという推測もできるのです。

    しかし、確証はありません。
    私立中学に入学したお子さんの数学の勉強を見ようとして、こういうことで困っている保護者の方もいらっしゃるのではないかと思います。
    学校の授業の細部を、保護者は確かめることができません。
    子どもの記憶とノートが、情報の全てであることは多いです。
    そうした中で、多くの子どもは、
    「絶対に、こうだった」
    と言い張ります。
    学校の先生から、
    「こう書かないと0点」
    というプレッシャーを受けていますので、これは違うんじゃないのと言われても、認めません。
    「その書き方じゃなくても大丈夫だよ」
    と教えても、いや、あの先生は、絶対そういうのは許さないんだと決めつけたりもします。
    子どもの勉強を見ようとして、こういう反発にあい、教えることができなくなってしまう。
    そんなことが、起きていないでしょうか。

    数学の答案の筋道というものを理解させようとして、学校の先生たちは、ある程度生徒たちに強要します。
    しかし、それが、場合によっては、微妙に奇妙な答案を定着させてしまう。
    学校の先生が生徒たちに伝えようとしていることの核心は、そういうことではないのです。
    表現方法は何通りもあります。
    ただ、どうしても答案に書かねばならないことがある。
    どういう公式や定理を使って、どのように解いているか。
    それがわかる答案であることが、数学の答案には必要です。
    細部の表現に右往左往し、かえって日本語として誤った書き方をしてしまっている中学1年生に、1日も早く本質を伝えたいのですが、これがなかなか難しいです。

    経験から言えば、とにかく、その子の数学的能力を高めなければなりません。
    本質が見えていないのは、数学というものがよくわかっていないからだと思うのです。
    数学の能力が高まれば、自然に、こういう課題からは解放されていきます。
    ついでに言えば、もうちょっと国語力がつくといいかなあ。
    ヽ(^。^)ノ

      


  • Posted by セギ at 22:34Comments(0)算数・数学