たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2012年01月18日

雪山の遭難


元旦と2日、北八ヶ岳で雪山歩きを楽しみ、帰りの電車でメールチェックをすると、友人から、また今年もお正月に雪山遭難があったよ、というメールが入っていました。
しかし、個々の小さなニュースは、その日にテレビや新聞を見ていないと案外捕捉しにくいもので、私が見ることができたのは、スノーボーダーの遭難のニュースだけでした。
遭難と言っても、スコップや食糧を持って山に入り、雪洞を掘って一夜を明かし、翌日に自力下山した人たちのことでしたが。

「今回は、たまたまスコップや食糧を持っていたから良かったですが、コースを外れるのは、大変危険です」
とか何とか、キャスターがコメントして、そのニュースはそれでおしまいでした。
スコップや食糧というのは、たまたま持っているような種類のものではありませんよね。
ゲレンデで遊ぶスノーボーダーは、財布と携帯とリフト券しか持ちません。
スコップと、それを使って雪洞を掘る技術と、食糧を持って、コース以外のところに入ったスノーボーダー。
それは、バックカントリーでしょう。
あえてやっている人たちで、コースを外れるなという問題ではないように思います。

あれは、本当に遭難だったんでしょうか。
誰が救助要請したのでしょう。
本人たちが救助要請したのなら、それは遭難ですが、家族や知人が心配して救助要請したのだとしたら、要請が早過ぎたんじゃないのかなあ。
そこらへんの意志の疎通ができていなかったのは、問題なんでしょうけれど。
どうもよくわからない、変な話でした。

「無謀登山はやめましょう」と、遭難が起こる度に報道されますが、無謀かどうかの判断は、本人と専門家がすることで、傍目には無謀極まりなくても、実は勝ち目のあることだったりします。
そこらへんの判断は、難しいです。

救助要請ということで思い出すのは、もう10年も前、やはりお正月に起きた、槍ヶ岳の遭難。
低気圧が停滞し、槍岳山荘冬期小屋に避難していたパーティが、携帯電話で救助要請し、全員ヘリコプターでピックアップされたことがありました。
しかし、助かって良かったね、で済むわけはなく、その後、その行動に非難が集中しました。
外が吹雪であれ何であれ、冬期小屋にいたのならば、安全は確保されていた。
持っている食料と燃料で持ちこたえ、晴れ間を待って、自力下山する。
雪山をやる以上、それが当然の態度ではないのか。
安全な小屋の中にいて、携帯電話で救助要請とは、いったいどういうつもりなのか。
そのパーティが未組織の個人登山者ではなく、山岳会だったことで、怒り心頭の方もいたようなのです。
実際、同じ日、同じ槍ヶ岳の同じ状況で、自力下山した大学山岳部も存在したので、そのだらしさなさが際立った形になりました。

集中砲火を受けて気の毒だなあ、と私は感じていたのですが、そうした中でのある発言に、私は、もっと衝撃を受けました。
山に詳しく、発言力のある方の言葉でした。

「仕方ないだろう。安全な山小屋の中で、彼らは、遭難していたのだから」

それは、許しの言葉です。
けれど、その言葉は、攻撃よりももっと深く、救助要請した人たちを打ちのめしたと思います。
仕方ない、と言われてしまったら、もう二度と、対等な立場で接してもらえない。
安全な山小屋の中でうろたえたメンタルの弱さを、攻撃するのではなく許されたら、もう本当に終わりです。
きつい言われ方をされている間は、まだ救いがあります。
優しくされたら、もう、本当に、終わりなのだ。
非難の言葉よりも、その許しの言葉に、私も、心まで凍るようでした。
雪山より怖いのは、諦められてしまうこと。
許されてしまうことなのかもしれません。

写真は、お正月に北八ヶ岳の天狗岳山頂で撮影したもの。
硫黄岳のほうから縦走してきた登山者が見えました。
写真だと、何だか結構凄いことになってますが、まだまだ、雪山としては、呑気なレベルなんです。
  


  • Posted by セギ at 15:21Comments(0)

    2012年01月10日

    誰のための受験か



    いよいよ入試が近づいてくると、思い出すのは、自分自身のことです。
    私自身も、中学受験をしました。

    なぜ、受験することになったのか、理由はよくわかりません。
    私が受けたいと言ったからだ、と母は言うのですが、記憶がありません。
    私が覚えていないだけで、実際にはそう言ったのだとしても、それが本当に私の意志だったとは思えないんです。
    既に、小学5年の春にはそういう話になっていました。
    ということは、それより以前の話でしょう。
    おそらく、私は、母親の顔色を見て、そのようなことを言ったのだと思います。
    母は、私にそう言ってほしがっている。
    そのように察して、「中学を受験したい」と言ったのでしょう。

    小学受験は完全に親の意志で、そのことに異を唱える人はいませんが、中学受験も、8割は親の意志だと思います。
    本人が決めたような形になっていても、親が望まないことを、子どもは口にしませんから。
    親の無意識のレベルのことさえ、子どもは察知します。
    人生の全ての時間を親とともにいるのですから。
    親の怒りのツボも、何をすれば親が喜ぶかも、子どもは知っています。

    子どもを地元の公立に行かせたかったら、誘導することは、易しい。
    そのようなことを、子どもの前で、1度か2度、口にするだけでいいのです。

    中学を受験して、地元の公立ではなく、私立か国公立の中学に通うことが、自分の人生にどういう意味をもつのか、理解している小学生は、ほとんどいないと思います。
    それは、志望校に合格して、実際に通い始めても、まだわからないことです。
    地元の公立に通ったことがないのですから、差がわかりません。

    むしろ、中学受験のメリットをとうとうと語る子どもがいたら、気持ち悪いです。
    質の高い授業。
    広がる進路の可能性。
    優れた同級生たち。
    将来に及ぶ人脈。
    そんなことを口にする子ども、嫌ですよね。
    こいつ、勉強はできるだろうけれど、人間として、何かどこか間違っていないか?
    そんな心配をしてしまいます。

    そんなこと、受験勉強をしている小学生には理解できることではありません。
    合格した先に何があるのか、それは、わからない。
    でも、何となく、親が自分の中学受験を望んでいるのを感じる。
    受験をすると、お母さんが喜ぶ。
    合格したら、お母さんが、もっと喜ぶから。
    子どもの本心は、その程度のものではないでしょうか。

    中学受験をして良かったと、本当に思うのは、大人になってからです。
    それは、間違ってはいない選択。
    でも、子ども自身が行う選択ではありえません。

    それなのに、親は、自分の意志で子どもを受験させているという意識はないことが多いようです。
    私の母も、そうでした。
    私が受けたいと言うから、受けさせるのだ。
    そのように思い込んでいました。
    この意識のズレは、子どもには永遠の謎です。

    入試が近づいて。
    1月になると、親の気持ちも子どもの気持ちも張りつめてくるので、親子喧嘩が起こることは、そう珍しいことではありません。
    それまでの1年間、あるいは2年間。
    人によっては、3年、4年、遊びたいのを我慢して勉強してきた結果が出る。
    その緊張とストレスは、並みのものではありません。
    毎年、1月になると、
    「言い合いになってしまって、娘が興奮して大泣きして、ちょっと塾に行ける状態ではないので、今日は休ませていただきます」
    という電話をお母様からいただきます。

    私もやりました。
    私が勉強を始めず、ちょっとグズグズしていたというレベルのことから、あっという間に、もう受験をやめるのやめないのという大喧嘩。
    「あんたが受けたいって言ったんでしょう」
    という母の言葉。
    一番ショックを受けたのは、その言葉でした。
    今、それを言うのか。
    私だけに、責任を押しつけるのか。
    言質をとった気で、自分の責任は回避するのか。
    まあ、子どもは、そのような言葉づかいはしませんが、ギリギリで母親に突き放されたような気持ちでした。

    もっとも、そういう喧嘩は、親子喧嘩の常として、翌日には何もなかったこととして、受験手続は着々と進められました。
    そして合格発表の日。
    苔むした古い石段を上がったところにある中学に、母と合格発表を見に行きました。
    ワルツのリズムでないと上がれない、幅の広い歩きにくい石段でしたが、それにしてもというほどに、母の歩みは止まりがちでした。
    駆け上がって発表を身に行きたかった私は、お母さん、何をやっているんだろう、とイライラしました。

    そして、発表を見て。

    母は、帰り道に、私を連れて、いきなりカバン屋により、やけに高級な学生カバンを買い、その荷物を持って、実家に寄り、祖父母を相手に、一人でベラベラしゃべっていました。
    あんなに浮かれていた母を、私は、その後も、見たことがありません。

    だから、私は、「あなたが受験したいと言ったんでしょう」という母の言葉を許しました。
    やっぱり、母が、一番喜んでいたから。


    写真は、日曜日の蓼科山。
    山頂からの眺望。


      


  • Posted by セギ at 13:45Comments(0)講師日記

    2012年01月08日

    蓼科山に行ってきました


    1月8日、今日は、蓼科山に登ってきました。 
    すっきりとした姿が、諏訪富士の別名を持つ山。
    今日は、ありえないほどの無風快晴で、春山のようでした。
    防寒というより日焼け防止のために、目出帽とゴーグル。
    そのままの姿でコンビニや銀行に入ったら周囲がびっくりすること間違いない恰好で、サクサクと雪道を登りました。
    お正月よりも少し雪が増えて、歩き易い快適な雪道でした。

    雪道を歩きながら、終わったばかりの冬期講習のことを考えました。
    山道は、いつもそうですが、特に雪道は、歩くほど、心が静まるのを感じます。
    自分の登山靴が踏みしめる雪の音と、ストックのきしむ音だけが聞こえます。
    静寂は内省を促すというのは、本当なのでしょう。

    蓼科山は、大きな岩がゴロゴロと並ぶ広大な山頂。
    子どもが描く富士山のような、平らな山頂です。
    快晴の下、今日は、360度の大展望が開けていました。
    八ヶ岳は、赤岳・横岳・硫黄岳・天狗岳の稜線がくっきり。
    南アルプスの峰々。
    中央アルプスの雄姿。
    そして、北アルプスは、槍ヶ岳と穂高岳を結ぶ大キレットがくっきりと見えました。

    写真は、蓼科山の広大な山頂と、北アルプスです。
    肉眼では、もっとくっきり見えたのですが。
    でも、ぼんやりとわかるでしょうか。
    写真で、稜線が1度途切れているように見えるところが、大キレットです。

    早朝に登り始めたので、昼前に下山。
    天気が良いので、次々と人が登ってきます。
    雪山は、夏山以上に、ひと目で、その人の技量がわかります。
    アイゼンが曲がっている。
    アイゼンの紐が緩んでいる。
    というより、そもそも、今日の雪道は、アイゼンは必要ない。
    アイゼンの刃は、雪が凍っていないと効かないから。
    でも、アイゼンさえ着けていれば安心、という心のお守りとして、着けたければ着けたらいいのですが。
    アイゼンの刃を効かせながら歩くというのは、実はかなり難しくて、12本爪アイゼンを着けていたって、効いている歯は、2、3本だったりします。
    私も、ガイドさんとマンツーマンで雪山を歩いたときには、随分叱られました。

    雪山は、教本を読んだり、講習会に参加したりして、きちんと勉強したほうがいいと思います。
    知り合いに連れていってもらって何となく始めてしまうと、基礎が身につかないことが多いように感じます。
    うん。
    勉強もそうだな。
    と、遠回しな宣伝で終わる、山行記録でした。
    (*^_^*)
      


  • Posted by セギ at 21:04Comments(0)

    2012年01月03日

    北八ヶ岳の元旦


    皆様、明けましておめでとうございます。
    旧年中は、大変お世話になりました。
    本年も、よろしくお願いいたします。

    元旦から一泊で、北八ヶ岳に行ってきました。
    奥蓼科温泉渋の湯が、バスの終点。
    そこから、雪の山道を静かに歩く予定でしたが、今年は、雪が少なく、賽の河原は、一面の岩がごろごろとむき出しで、そこに中途半端に雪がついている状態でした。
    ルートを示す赤い旗は、まだとても高い位置にひるがえっていました。
    その旗が、ギリギリ雪面の上に出ている年だってあるのですが。
    大きな岩を、どっこいしょと1つ1つ乗り越えて、長い長い賽の河原を越すと、ようやく雪が深くなってきました。
    北八ヶ岳の森は、シラビソの森。
    天然のクリスマスツリーの中を、ときどき立ち止まって眺めながら歩いて、高見石小屋へ。

    高見石小屋は、古い木造の小屋です。
    二階のあかり取りの天窓の下、豆炭炬燵にあたり、暗くなるまで、小屋に置いてある古い山岳雑誌を読んだり、持ってきた文庫本を読んだり、他の泊まり客と少し話したりしました。
    元旦の高見石小屋は、本当に静かでした。
    大晦日の山小屋は、どこも、年越しを小屋で迎えるのが決まりの常連さんや、初日の出が見たい登山客で混雑することが多いのですが。
    高見石小屋も、大晦日は、40人ほど宿泊したそうです。
    元旦の泊まり客は10人ほど。
    どこからも少し遠いこの小屋は、縦走してきた人がほとんど。
    赤岳から稜線を越えて来た人もいて、夏の山小屋なら、大自慢大会が始まってもおかしくないのですが、皆さん、訊かれたら答えるだけで、謙虚で物静かでした。
    山は、上手くなればなるほど、自分に足りないところがわかって、他人に自慢するよりも、自分のことを考えることで一所懸命になるのかもしれません。
    60代の人も、20代の人も。
    男の人も、女の人も。
    概して無口な人が多いですが、質問すれば、言葉を選んで、静かに正確に教えてくれます。
    記憶にとどめる気もないことを質問して、コミュニケーションをとった気になっても仕方ない。
    冬の山小屋に来ると、そんなふうに感じます。
    私も、明日下山する人に、賽の河原の様子を訊かれて、あの状況をできるだけ正確に伝えなければならないと、考え考え話しました。
    雪山は、1日で状況が変わってしまうものだけれど、それでも。

    翌朝は、中山を越えて、中山峠から天狗岳へ。
    雲に覆われ、中山からは天狗岳が見えませんでしたが、中山峠まで行ってみると、風はそれほどでもなく、やはり雪が少なく、大きな岩が見えていて、ルートが明瞭でしたので、例年よりもむしろ楽な天狗岳登頂でした。
    雪の多い年は、雪庇を踏み抜く心配も少しありますが、岩が見えると、ほぼ夏道の通りに歩いていくだけです。
    山頂からの展望はゼロ。


    写真を撮っているうちに吹雪いてきて、自分の足跡も消えてしまいました。
    なので、早々に退散。
    黒百合ヒュッテまで下りてきて、やれやれと小屋前の寒暖計を見たら、マイナス10℃でした。
    それでも、稜線と比べると、ここはあったかいなあ、と休憩。
    稜線を2時間ほど歩いたので、ザックの中のスポーツドリンクが少し凍って、口の中でシャリシャリ音をたてました。
    ピッケル・アイゼンを片付けて、そこからは、また楽しく雪道を下り、渋の湯へ。
    入浴料800円。
    誰も入っていなかったので、浴室を撮影。
    たちまちレンズが曇って、ピンボケ気味ですが。
    誰も入っていない浴室は、雪山同様に冷えていましたが、木の蓋をとれば、熱い熱い温泉。
    生き返りました。

    さて、4日から、冬期講習後半が始まります。
    朝寝坊しないようにしなければ。


      


  • Posted by セギ at 14:25Comments(0)