2014年10月27日
頑張れない子
もう何年も前、日曜日の夜、のんびり見ていたテレビの中の話です。
その番組の司会者が、高校生の頃、甲子園大会予選の応援に行ったときのこと。
帰り道、自分の学校が負けた腹いせに、偶然見かけた相手チームの野球部員の1人の頭を軽くこづいてからかったと、思い出話を語りました。
今になってみると、あれは本当に悪かった。
野球部員は決して殴り返してくるはずがないのを見越した上での最低の行為だった。
30年も経ってそれを急に思い出し、申し訳なかったと思い、今年、その学校が甲子園大会の予選で勝ち進んでいるのを新聞で見て、応援に行った。
もう何回か応援に行くつもりだ。
申し訳ないが、それで許してもらえないかと勝手に思っている。
そんな話でした。
その数週間後、その番組は、その相手チームの野球部OBをスタジオに招きました。
さあ、直接謝ってもらいましょう、という企画でした。
殴られた本人が現れて、司会者の謝罪を受けて、いや、そんな昔のこと、もういいでしょう、あのときはお互い若かったしね、という話になったのなら、それはちょっと感動的ではあるものの、テレビの中ではよくある話という印象で終わったのかもしれません。
しかし、現れたのは、その野球部のユニフォームを着た3~4人の男性たちでした。
その中で、当日そのような理不尽な目にあった人はいないというのです。
スタジオにやってきたのは、その試合でレギュラーだった人たちでした。
殴られたのは、レギュラーではなかったのではないか。
試合の後に、球場の近くを1人で歩いていたことから考えても、下級生だったのではないか。
そういう意味で、そのときの野球部のレギュラーとはいえ、むしろ当事者ではない人たちが、この日のために新調したのだろう母校野球部のユニフォームを着てテレビに出てきたのは、少し違和感のある光景でした。
この人たちに謝るのは、少し違うのではないか。
何だか変な空気の中、しかし、新しい局面が見えてきました。
そこで、数週間前の番組では語られなかったことが、語られ始めたのです。
その勝った野球部は、その地域では大変な進学校なのでした。
試合中も、
「おまえらは、野球なんかやってないで勉強してろ」
というヤジがひっきりなしに飛んでいたというのです。
一方、司会者の卒業した高校というのは、ちょっとヤンチャな人たちの行く私立高校。
野球の強豪校でした。
進学校の弱小チームが、強豪私立に勝った。
むしろ、そのドラマのほうが、レギュラーたちにとって重いものだったのです。
「あの試合は、私たちにとって、人生の指針でしたから」
野球部OBは、真摯に語りました。
不祥事を起こすわけにはいかず黙って耐えた野球部員と、相手校の不良。
そうした構図だったものが、まるで様子の異なる話になりました。
秀才高校生が、設備や練習時間から考えて勝てるはずのない強豪私立に勝った。
それは、彼らの人生の指針になった。
あの夏の日の自分が、いつも隣りで自分を励ましてくれる。
若かった日の自分の頑張りを信じられる。
そういう人は、強いです。
その人たちは、そういう人生をおくってきたのを感じさせる、説得力のある印象の人たちでした。
私もまた、ごく普通に、頑張ることの価値を信じるほうです。
上手くいかないこともあるけれど、でも、頑張りたい。
その大筋を当たり前に信じています。
しかし、子どもたちと接していると、そのことを信じていない子もいるのを感じます。
本気で頑張ったことなど一度もなく、頑張ってみようともしない。
頑張れば、結果が出るよ。
そのように大人から言われることは多いと思うのですが、彼らには伝わっていかないようです。
そういうことは、本人が体験しないと伝わらないことかもしれません。
「はいはい、そうなんでしょうね」
と、やり過ごしてしまうだけの、一番つまらない説教。
それが、「頑張れば結果が出る」。
1つの理由は、彼らが幼稚で、過大な結果を期待するからでしょうか。
頑張って勉強したって、学年トップになれるわけじゃない。
〇〇高校に入れるわけじゃない。
頑張って勉強して△△高校に入りました、なんてカッコ悪い。
だったら勉強しないほうが、恰好がつく。
勉強しないから△△高校に入りました、という形にしたい。
勉強しないから、勉強ができないだけ。
そういう言い訳を、自分にも他人にもしたい。
大人が聞くと、もう本当にうんざりしてしまう、この理屈。
でも、そういう子は、こうした考え方にとらわれて身動きがとれないのでしょう。
表面から窺えるよりも深い劣等感がその子を縛っているのかもしれません。
本人の頭の中にある序列の感情が、自分自身を見下すことにつながっています。
若さゆえの愚かさに、自縄自縛になっています。
他人が聞いてうんざりするよりももっと、自分で自分にうんざりしているのかもしれないのです。
上のような考え方を態度に表し、口にも出す子もいますが、多くは、本当は頑張らなければならないとは思っているようです。
勉強しなければならないのは、わかっています。
でも、頑張れない。
塾の宿題をやってはきますが、雑で、適当にやったのが見えてしまいます。
この子が本気でやったらこうではないだろう、という出来です。
全力を出すことを無意識に避けているのではないかというような、ぱっとしない仕上がりになっています。
なぜ頑張れないのか。
中3の夏、運動部をようやく引退した男子生徒は、そのままの勢いで受験勉強を始めますから、中3の2学期で内申が上がることが多いのですが、上のようなタイプの子は、最後の最後で内申が下がってしまったりします。
他の子たちが頑張りだす秋に、特に明確な理由もなく、足が止まってしまうのです。
何となく頑張れず、定期テストの得点が下がってしまいます。
それまで、そこそこ勉強して維持してきた内申が最後の最後で下がり、何とか合格できるはずだった志望校合格がかなり厳しくなってしまいます。
定期テストがそんなに難しいわけではありません。
今まで通り勉強していたら、最低限、今まで通りの内申は維持できるのです。
どういうつもりで、何をやっているのか、大人には理解できないのですが、そういう結果になっても本人の表情はぼんやりしていて、勉強を頑張れなかった理由を自覚できないようなのです。
これは1つの推論ですが、彼らは、頑張ることが怖いのかもしれません。
本気を出して、それでもダメだった場合が怖い。
本当に全力を出して、それでも結果が出ないことが怖い。
そんなことになったら、どれだけ心が傷つくか。
だから、悪い結果が出たときに自分のプライドを守れるよう、本気を出さないでおくのかもしれません。
頑張らなかったから、この結果は仕方がない。
自分の能力の問題ではない。
本気を出したら、違う結果になったんだ。
そういう言い訳ができるようにしておきます。
本人が意識していないレベルでそのようなことが起こっているのかもしれません。
何か勉強に関して、本人なりに頑張ったのに悪い結果が出た記憶がそのように作用している場合もあるかもしれません。
そのときの心の傷から、まだ立ち直れていないのでしょうか。
あるいは、むしろ、1度も頑張った経験がなく、本気を出した結果がダメだった場合の自分の心の傷つき方が予想できずにただ怖い場合もあるかもしれません。
必要以上にプライドだけが高いと、そうなってしまう場合もあると思います。
「頑張った」ので、「成功した」。
子どもには、そういう成功体験を与えたい。
そんなふうに考えることもできるのですが、子どもは学んでほしくないことをどこからでも学びますから、「頑張っても成功しなかった経験」や「適当にやったけど成功した経験」と混ざり合い、そちらの印象のほうが強く残ることも多いです。
「頑張ったから、成功した」という図式は崩れやすいです。
それに、あのテレビの中で印象的だったユニフォーム姿の男性たちの人生の指針がゆるぎないのは、「成功した」からではないように思うのです。
私が、頑張ることの価値を単純に信じているのも、そういうことではないのです。
むしろ、結果なんか関係ない。
報われないかもしれないのに、頑張れた。
若く幼い自分が、とにかく頑張れた。
苦しい中で、頑張れた。
報われないことにも頑張れた。
それが、今の自分を支えてくれる。
功利的なことだけでは、人生の支えにはなりません。
自縄自縛に陥っている子たちは、結果ばかりを気にしています。
そうして、先回りして傷ついています。
それをどう教えるか、どう気づかせるか。
それが課題だと感じます。
2014年10月12日
講師との相性
台風前の夕焼けは、赤いですね。
さて、今日は、曇り空の日曜日です。
台風はまだ今日は来ないようですが、こんな空だと山を歩いてもあまり楽しくないので、本日は、休養日です。
今回は、体験授業を通して感じることを書いてみたいと思います。
体験授業は、講師との相性、その塾との相性をみるもの。
セギ英数教室も、空いているコマでの無料体験授業を通年承っております。
現在は、火曜日の16:40~18:10のコマが空いております。
お気軽にお問い合わせください。
中学や高校の学校見学でも同じなのですが、子どもは、ソフトよりもハードに目が行きがちです。
校舎がきれいで制服が可愛い学校ならば、行きたくなったり。
校舎が古くて汚いと、がっかりして、
「あの学校、雰囲気悪いから行きたくない」
などと言いだしたり。
塾選びもそうで、きれいな塾への憧れをもつ子は多いです。
一方、塾の中には、何か古いなあ、汚いなあ、という所も結構あります。
それだけで生徒の足が遠のきます。
私が独立する前に勤めていた集団指導塾は、かなり古くて汚い塾でした。
創立以来リフォームも移転もしていないので、とにかく見た目が古い。
町のさびれた補習塾という印象の塾でした。
しかし、あの塾は、良い塾でした。
講師は、全員ベテラン。
高校受験では、都立自校作成校や、私立大学付属校にガンガン合格していました。
中学受験は、ほぼ全員、初日で合格を決め、その後、国公立中も受けて、結局そちらに進学する子が多かったのです。
大手の学習塾とは異なり、合格率と合格実績の両方を公表できる塾でした。
しかも、月謝が安かったです。
でも、塾はイメージが大切です。
何しろ、ボロボロな塾でした。
一歩間違えると廃屋でした。
実績をどれだけ出しても、口コミで広がるということはなく、生徒は年々減っていきました。
「あの子の通う塾には通わせたくない」
と保護者の間で噂になってしまう生徒が2年に1人くらいの割合で通っていたことも、原因かもしれません。
地域密着型の集団指導塾が常に抱えているリスクです。
でも、その話はまた別の機会に。
その前に勤めていた大手の個別指導塾は、ガラス張りの大きなビルの中にありました。
絨毯はフカフカ。
入口には大きな観葉植物と熱帯魚の水槽。
刺さるように明るい照明。
真っ白な机、デザインの良い椅子。
受付のきれいなお姉さん。
若く、容姿も好ましい講師たち。
営業トークの上手い教務。
言い換えれば、教育のプロはほとんど存在しなかったのですが、とにかく見た目はきれいで豪華で、子どもが「わあ、いいなあ」と思う雰囲気を持っていました。
その分、月謝は高かったです。
高い月謝の多くの部分が、本社ビルの維持費や、ビルのワンフロアの賃貸料や、フカフカの絨毯や、リースの熱帯魚や観葉植物や、受付のお姉さんの笑顔に消えていました。
しかし、それで生徒がやる気になるのなら、それで良いのです。
こんなにきれいで立派な塾に通っているのだから、勉強しよう。
生徒がそういう気持ちになって勉強すれば、成績は上がる可能性があります。
塾として、それは、1つのやり方です。
難しいのは、塾に何を求めているかが親子で異なる場合なのかもしれません。
子どもは、塾に「華やかな箱」を求めている。
若くて気さくなお兄さんや、きれいなお姉さんに教わることを求めている。
しかし、保護者は、そうではないものを求めている。
それは、コスパだったり、講師の経験値だったりと、子どもよりは実際的な要求が多いのかもしれません。
たまに、そういう親子がうちの教室に体験授業を受けにいらっしゃることがあります。
そんなときの子どもの顔からうかがえる、がっかり感が半端ない。
( ;∀;)
うちの教室は、普通のビルのワンルームマンションですから。
清潔であるよう努力しておりますが、華やかさはないです。
しかも、教えるのは、若くない私1人です。
子どもがイメージしている「塾」とは、ちょっと違うかもしれません。
しかし、そういうことも含めて相性というものです。
体験授業を通して、塾に何を求めているのか、親子で改めて話しあってくだされば、意味のある授業です。
ついでに、では、私自身は体験授業で何を見ようとしているかというと、「違和感」なんです。
この子が、なんでこの成績なんだろう?
この子が、なんでこんな学力でとどまっているんだろう?
なんだ?
何が原因だ?
私がそう感じた子は、ほぼ入会してくださり、そして、成績が上がっています。
私にとっての「相性」とは、そういう初対面での違和感のことのように思います。