たまりば

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2024年02月25日

質問しても、しなくても、大丈夫。


勉強が上手いか下手かというのは、ほんのちょっとした差です。

相変わらず、私は、NHKラジオ講座「ラジオ英会話」を聴き続けています。

番組の中で、例えば、look という動詞についての解説があります。
look という動詞の意味は「見る」。
何を見るのか、見る対象を点としてとらえているから、look at。
だから、at という前置詞をつける。

また、見ながら後をついていくというイメージだから、look after は、「世話する」「面倒をみる」。
まさに、幼児がよちよち歩いていくのを後ろからずっと見ているようなイメージです。
熟語の語感や成り立ちを大切にすることで、簡単に暗記ができます。

うん。
わかりやすい。
面白い。

でも、こういう授業を個別指導でやると、失敗することもあります。
ラジオ講座は、一方向のもの。
言いっぱなしで済みます。
聴いた側が、「面白い。理解した」と思えばそれでいい。
それで聴き手がその熟語を1つでも覚えられたら、それで良いのです。

しかし、個別指導は、双方向性のものです。
質問が返ってくる可能性があります。

「じゃあ、同じ世話をするという熟語でも、take care of は、何で of なんですか?」
「look for という熟語はなんで for なんですか?」
「look to という熟語はありますか?」
「look on は?」
「look in は?」
怒涛のように質問してくる子が、個別指導の場合は、存在します。
何かが頭の中に浮かぶと、すぐに何でも質問してしまうのです。

生徒が知的好奇心旺盛なのは良いことです。
だから、個別指導において、生徒の質問にはできるだけ答えます。
しかし、あれこれ何でも質問した翌週、その子は、覚えてほしかった重要熟語 look after の意味を覚えているかというと。
残念ながら、その可能性は低いのです。
余計な質問を沢山する子は、大事なことを覚えていないことがあります。
余計な質問をし過ぎたために、印象が薄れてしまうのでしょうか。
沢山質問したのに、大切なことを覚えていない。
質問をいっぱいできて楽しかった記憶はある。
でも、質問の回答は何1つ覚えていない。
そんな、5歳児みたいな子も、います。
思いつきの質問をとにかく沢山することが「良い学習態度」だと、おそらく就学前か小学生の頃に間違って「学習」してしまったのかもしれません。


これは私の説明の癖ですが、順番に根拠を示し、理由から話し始めることがあります。
AだからBで、BだからCで、CだからDになるんですよ。
そのように解説するとき。
私が結論を話し終わるのを待っていたかのようなタイミングで、
「なぜですか?」
と尋ねてくる子がかつていました。
皆で一斉にそう発声することがお約束であるような、独特の抑揚でした。

「・・・今、説明しましたよね?」
「え・・・」
積極的に質問したから当然褒められるはずなのに、変な顔をされた・・・。
その子は、明らかに、驚いていました。
「では、もう一度説明しますね」
「・・・」
入塾して半年ほどの間は、そうしたことが繰り返され、その子の成績は上がりませんでした。

そういう観点で振り返ると、小学生が国語の授業で読む説明文には、「なぜかというと」という語句が使われているものが結構あります。
いかにも幼稚な文章ですが、それを書かないと、以降は理由の説明部分であるということが、わからない子が多いからでしょう。
小学生は、まだ読解力が低いですから。
「なぜかというと」が合図で、その後に理由が説明されている・・・。
しかし、そのように学習すると、中学に進学して以降、そのような構造ではない、大人の読む評論をほとんど読解できない子が現れます。
大人の評論は、理由を説明していても、「から」や「ため」という語すら使っていないこともあります。
それでも、理由は説明しています。
文脈を読めば、どこが理由の説明かは、わかるのですが、そういう読解を要求されても、できない子たちがいます。
小学生の読解テクニックで大人の文章を読もうとしても無理があるのですが、小学生の頃に成功した受験テクニックを捨てられないのかもしれません。

いずれにせよ、文章でも、口頭でも、結論が先に述べられて、その後に理由を説明されることに、慣れている。
理由から話し始めても、何の話をされているのか把握できない子たちがいます。
理由を言うときには、「なぜかというと」というふうに、「今から理由を説明しますよー」と合図を送らないと、理解できない・・・。

私も話し方に気をつけるようになり、一方、その子も、説明し終わった後で「なぜですか?」と訊いてくるような頓珍漢なところは減っていきました。
それは、
「なぜですか?」
と抑揚をつけて質問することに一所懸命になる必要がなくなったことも一因のような気がします。
何か質問しなければならない、という妙な思い込みがなくなり、黙って聞いていていいんだ、聴くことだけに集中していいんだと理解した頃から、説明を一度で理解できるようになっていったように思います。
以後、その子から質問を受けることはほとんどありませんでしたが、対話は可能でした。
私からの問いかけには答えられたので、理解していることが把握できました。
成績は徐々に上がっていきました。


しかし、わからないことは、質問するのが最善です。
それができない子もいました。
わからないのに、わかったふりをします。
わからないままなので、宿題を解こうとしても、わからない。
だから、宿題は、親に訊いて解いている様子でした。
宿題は、ほとんど正解。
「宿題について、質問はありますか」
と尋ねても、
「ありません」
という返事。

これは、保護者の方が、宿題の面倒を見ることをもう止めたいと思わないでいてくださったので、何とか上手くいきました。
無論、本当はわかっていないことを、教える側も知っていることが前提です。
本当は、わかっていない。
でも、それを言えないらしい。
では、もっと丁寧にやっていこう。
前回の授業の復習から、ゆっくりやっていこう。
質問できない子は、質問しなさいと叱っても、質問はできないままのことが多いです。
「質問できない子」は「質問する必要のない子」に変わっていけるように、教える側が注意を払っていくことが必要になります。


質問は一切しないけれど、頭の中は疑問でいっぱい、という子もいます。
最近は、そういう子のほうが多いかもしれません。
私が、上のように look after の説明をしたとします。
しかし、本人は、そこで、look for のことを連想し、それについて考えています。
なぜ、for なのだろう?
それをずっと考えているのですが、質問はしません。
個別指導を受けている途中でも、独りで考えています。
当然、その後の授業は聞いていません。
あるいは、その後の授業に集中できません。
ならば、質問すればいいのに、それもしません。

「何か質問がありますか?」
とこちらから尋ねれば解決するのか?
多くの場合、そうではありません。
そういうときも、首を横に振り、質問はしないのです。
でも、本人は、look for のことが気になって、その後の学習に集中できないのです。

「look for のことを考えていますか?」
と、ここまで具体的にこちらが気がついて質問すれば、表情が輝きます。
以後は、質問をしてくれるようになるかもしれません。
講師は、人の心が読めるわけではないので、なかなかそこまで気づかないですが・・・。

まだ十代なので、人間関係への過剰の期待もあるのでしょう。
心で思っているだけでは、相手には伝わらない。
言葉にしないと、無理なんですよ。
そんなことも、十代のうちは、それでも、言葉にしなくても伝わる関係に憧れる、ということもあるのかもしれません。

ともあれ、その翌週。
look after の意味を、その子は、覚えていない・・・。
その後の授業に集中できないほど考えていたのだから、覚えていてもいいはずなのに、覚えていない・・・。
不器用というのは、そういうことなのかもしれません。



質問に良い質問も悪い質問もない。
回答に良い回答とくだらない回答があるだけだ。

これは、私の座右の銘です。

勿論、質問することは、良いこと。
ただ、
「沢山質問しなさい」
と教えられているのみで、質問して得た回答をどう活用するかを教わっていないと、質問も回答も無駄に終わってしまうことがあります。
むしろ、質問することを探すのに必死で相手の話をよく聞いていないという本末転倒なことすら起こります。
「積極的に質問する」とは、何をどうすることなのか。
それを理解していなければ、助言を誤解し、間違ったことをやり続けてしまいます。
学習するということの本質を体得していない限りは、そうなります。
思いつきの質問をいくらしても、それで学力が伸びることはないのです。

思いつきではなく、本心からの根本の問いとして、例えば、
「なぜ、三単現のときは、動詞にsをつけるんですか」
という問いかけを、もしも生徒がしてきたなら。
その問いこそが、その子にとって英語がよくわからない根本だったなら。
私がそれに応えることができたら、何かが変わる。
それをきっかけに、爆発的に英語力が伸びる可能性があります。





  


  • Posted by セギ at 14:59Comments(0)講師日記英語

    2024年02月18日

    図形問題の攻略。


    来年度からは、大学入試共通テストも新課程となり、数ⅠAに関しては、選択問題はなくなります。
    全問必答です。
    これまでは、数Aの3つの単現「場合の数と確率」「図形」「整数の性質」のそれぞれから出題される3問から2問を選択して答える形でした。
    この3問からどの2問を選択するか?
    結局、どの単元も苦手な人が多いのですが、一番苦手なのは図形だからと、図形を真っ先に除外する人が多かったように思います。
    高校側も、特に私立中高一貫校は、中3内容の数学を学習している時期に、「チェバの定理」「メネラウスの定理」「方べきの定理」などを学習してしまうということもあって、数Aでは、「図形」の単元はやらない、あるいは、夏休みに自習することにして終わり、というところもありました。
    だから、図形はそもそも嫌いだし、高校でもあまり学習しなかった、という人が多かったかもしれません。
    しかし、新課程では、「整数の性質」は、「数学と人間の活動」という、漠然とした単元名に変わり、内容も薄くなり、共通テストの大問からは消えます。
    一方、図形は、共通テスト数ⅠAで必須単元に格上げです。
    これは、攻略しないとまずいです。

    そうはいっても、図形が苦手な子が多いです。
    なぜ多いのか?
    小学生の頃から苦手な子も勿論いますが、やはり本格的には、中学数学で挫折する子が多いように思います。
    それも、まずは、学習の入り口の段階で。

    1つには、小学校で学習してきた図形と、中学で学習する図形が、かなり印象の異なるものであること。
    だから、何を学習しているのか理解できない子が一定数現れます。
    中学で学習する図形は、まず、基礎の基礎から学習が始まります。
    つまり、用語と記号の定義から学習が始まるのですが、それへの違和感が強くて、混乱するようです。

    「算数・数学は、何か式を立てて、計算して、答を出すもの」
    という思い込みの強い子にとっては、図形問題というのは、三角形の面積を求めたり、角度を求めたりするものだという固定観念があります。
    そういう固定観念の強い子にとって、中学の幾何の冒頭は、確かにわかりづらいでしょう。

    直線とは何か。
    線分とは何か。

    2点A、Bを通る直線を、直線ABと呼ぶ。
    直線は、どちらの方向にも無限に伸びる。
    特定の点を使わずに、直線 ℓ と表すこともある。

    そんなところから学習が始まるので、何の話なのかわからない・・・。
    そこに、本人の多少ののみ込みの悪さが加わると、さらに大変です。

    例えば、角の表し方。
    △ABCの頂点Aのところの内角を、どう表すか?
    ∠A と表すことも可能ですが、3点を用いて表すならば、
    ∠BAC です。
    ∠CAB でも構いません。
    これがなかなか身につかない子が、います。

    Aのところの角なのだからでしょうが、どうしても、Aから始めてしまうのです。
    ∠ABC
    と言ってしまいます。
    「うーん、違います。角の表し方は、折れ線みたいなイメージで、まず、全然関係ないところの点を言って、そして、曲がり角の、つまり言いたいところの点を言って、それから、また全然関係ないところの点を言うと、その角を表せるんですよ」
    「・・・?」
    「わかります?」
    「・・・」

    これは、一度間違った思い込みをしますと、かなり尾を引くミスです。
    角を正しく指摘できないのですから、その後の図形学習の遅れが大きくなります。
    問題で指定している角がどこの角なのかわからない、という課題も生じます。


    そもそも、問題が何を要求しているのかよくわからない、という場合もあります。
    例えば、図が与えられていて、図中の角をどう表すかに関する問題。

    問題 右図のア~ウの角を、図中のA~Hの記号を用いて表しなさい。

    アの角は∠BAC、イの角は、∠EBA などと答えれば正解の問題です。
    そこで、

    ∠ア 、∠イ

    といった誤答をしてしまう子もいて、混乱に拍車をかけます。
    「いや。違います。そういうことじゃないんです。そういう問題じゃないんですよ」

    とはいえ、角を表す記号「∠」を使えているから、その点は、一歩前進しているのか?
    角アを∠アと表して、何がいけないのか?
    いやいやいや、でも、この問題の趣旨はそういうことではないんだけど。
    問題文を読む習慣がないのかな?
    うーん。
    そもそも、数学なのにやたらとアルファベットが出てくることだけでも、実はストレスで、それで無意識に避けて誤答してしまうのだろうか?
    教える側も、そんなふうにいろいろ考えて過ぎてナーバスになってしまったりもします。

    △という記号も、慣れるまでは時間のかかる子もいます。
    △ABCを、
    「さんかくABC」
    と読む子もいます。
    「うっ。いや、それは、三角形ABCです。『形』をつけてください。そこは省略しないです」
    そういえば、この子は、「×」の記号も「かけ」と省略して読むけど、何でなのかなあと、そんなことも思ったりします。
    「±」も、おそらく、「ぷらまい」と読むようになるんだろうなあ。
    何でちゃんと読まないのかなあ。
    いや、伝わるからいいんだけど。
    でも、さすがに「さんかく」はちょっとなあ・・・。

    ・・・と、学習の本質とは関係ないところで教える者も考え込んでしまったりもします。

    正しい用語、正しい定義、正しい記号。
    中1の最初の幾何は、土台を作っている段階なのです。
    今後、語ることになる様ざまな定理。
    そこで使うことになる用語に誤解があってはならない。
    用語に対して共通認識がなければ、話が通じない。
    しかし、教わる者にとっては、まだ入口にたったばかりで、先のことなどわかりません。
    用語の定義などされても意味不明で、何のために何をしているのか全くわからないのでしょう。

    前にも書きましたが、この土台を学校の独自テキストで学習すると、さらに違和感が強く、何を学習しているのか全くわからなくなる子が増えます。
    生徒にしてみれば、感覚はまだ小学生。
    面積や体積の計算をするのが図形問題、という感覚です。
    それなのに、直線がどうの角がどうの、平行がどうの、垂直がどうのと延々やっているので、意味がわからない・・・。
    だから、入口でつまずいてしまう子が多く現れます。

    そうして、初めて学習する者にとっては意味のわからない定義と用語の確認の後、何が始まるのかというと、学習はいきなり飛躍します。
    平行移動、対称移動、回転移動。
    半分以上は小学校の復習なのですが、小学校で学習したことなど全部忘れている強者も多いので、どの線分とどの線分の長さが等しいとか、ここの角の大きさはどうなるかとか言われても、ついていけない・・・。
    そして、そもそも、何で図形を移動させるのか、その根本がわからない・・・。
    図形を移動させるって、どういうこと?
    この学習は、何のために、何をやっているの?

    このあたりで、もう図形は「意味のわからないもの」になってしまいます。

    初めて学習することは、違和感が強いものです。
    主観でものをとらえやすい子ほど、抵抗感が強くなります。
    算数から数学への壁は厚く、高い。
    結局、中1の図形内容は、何をやっているのか全くわからなかった・・・。
    そんなこともあります。

    でも、大丈夫です。
    繰り返し学習していくなかで、違和感は徐々に薄らいでいきます。
    最初はどうなることかと思った子も、中2の図形内容である「三角形」「四角形」を学習する頃には、角の呼び方がおかしいというような基本ミスはほぼなくなります。
    焦らないこと。
    そして、諦めないことです。

    そして、本当の困難は、ここから始まるのです。
    中2の図形内容は、定理が次々と登場します。
    これを使えないと問題を解けないのですが、定理を覚えられないし活用できない子が多く現れます。

    それは、高校まで尾を引きます。
    例えば、
    「二等辺三角形の頂角の二等分線は、底辺を垂直に二等分する」
    という定理は、中2の数学内容ですが、図形が苦手な高校生でこの定理を使える子は少ないです。
    高校レベルの図形問題の中で用いる定理のうち、中学で学習するものとしては、これと三平方の定理がツートップではないかと思うほど使用頻度が高いのですが、不可解なほど忘れている子が多いです。
    使うべき定理を使えないから、図形問題が解けないのです。
    「二等辺三角形の定理で、覚えているものを言ってみてください」
    「2辺が等しい」
    「それは、定義です。2辺が等しい三角形を二等辺三角形というんです。定理は、何か覚えていないですか?」
    「あれだ。角で、何かあった」
    「・・・なるほど」
    要するに、嫌いだから勉強しない。
    勉強しないから、覚えていない。
    覚えていないから、問題が解けない。
    問題が解けないから、嫌い。
    そのスパイラルが起こっています。

    センター試験の時代から今年の共通テストにおいても、図形問題は、他の単元に比べれば問題文を読解すべき要素が少なく、使う定理も想像がつくので、図形が得意な子にとっては得点源です。
    共通テストの図形問題で使う定理は、多く見積もっても20程度。
    どうせ、大半は、内心・外心・重心・垂心・傍心か、相似か、チェバかメネラウスか、方べき。
    それに三角比の知識と、あとは、中学の図形の知識を使うだけ。
    練習次第で習得できます。

    とはいえ、もう1つ課題があります。
    問題文に書いてある通りの図を描けない人が多いのです。
    描く図が小さすぎて、問題が進むにしたがって、書き加えた線分が重なって、訳がわからなくなる。
    平行線ではないものが、平行に見えてしまう。

    そうした課題の解決法としては。
    当たり前のことですが、もう少し大きい図を描きましょう。
    最小でも5センチ四方の図を描くようにすれば、かなり見やすくなります。
    大きい図を描く習慣を持つだけで変えていけることがあります。
    あるいは、線がごちゃごちゃしてきたら、新たに図を描き直しましょう。
    気軽に図を描くことができず、頭の中で処理しようとすると、図形問題は難しいです。
    また、本当は鈍角三角形なのに鋭角三角形を描いているから、その先の辻褄が合わなくなる、ということもあります。
    「それ、△ABCは鈍角三角形ですよ」
    「・・・どうして、鈍角三角形だとわかるんですか?」
    「問題に、cos∠BAC<0 と書いてあるからです」
    「・・・!」

    使うべき知識を使えないので、問題が見えないのです。
    すべての知識を使えるようになればいいだけです。
    身につけるべき知識の総量は明確です。
    どこまでいっても、さらに限界を超えたような応用問題が出てくる他の単元と比べると、図形問題は穏当です。
    苦手意識を持たないこと。
    苦手意識を捨てること。
    コツをつかめば学習しやすいのが、図形問題です。

    諦めずに、挑戦し続けましょう。


      


  • Posted by セギ at 17:25Comments(0)算数・数学

    2024年02月13日

    勉強を自分でどう進めていくか。


    生徒から家庭学習のやり方について質問されたことがあります。
    今は何をやっているのか尋ね返すと、学校から配布された問題集をこつこつ解いているということでした。
    間違えた問題はチェックして、翌日、3日後、10日後に解き直していると言います。
    そう聞く限り、何も問題はないので、
    「それでいいと思いますよ」
    と応えると、
    「・・・こなしているだけじゃないかという気がして」
    というのです。

    ・・・いや、それをこなせるのは、それだけで凄いですが・・・。

    本人がやると決めたテキストなのに、まるでこなせない。
    宿題も、まるでこなせない。
    そういう子たちと七転八倒してきた経験のほうが多いものですから、つい、夢物語を聞いているような気分になってしまい、その子が本当に問いたいことは何だったのか、上手く把握できませんでした。

    では、自分のこととしてはどうか?
    何かを学ぶ際に、私はそれを学ぶのに最適な教材をこなしていけば、それで学力が上がった経験を重ねています。
    教える側の人間は、大体そうなのかもしれません。
    しかし、誰もがそうとは限らないのも知っています。
    同じ学習をしていても、ただこなしているだけになり、身につかない人もいます。
    一方、上のような丁寧な解き直しなどしなくても、問題を1回解くだけで深い学習が可能な人もいます。

    間違えた問題を、解き直す。
    その際に、何回解き直しても、同じことを同じように間違えてしまったり、解き方を忘れてしまって、やっぱり解けなかったり。
    そういうことが表層に出てしまう場合はむしろ、課題が明瞭です。
    その問題は、身についていません。
    反復しましょう。
    理解を深めましょう。
    身につけましょう。

    困るのは、解き直したら正解できる場合。
    正解できるのだから大丈夫なのかというと、類題は解けないのです。
    どれが何の類題であるか気づかないほどに、理解が浅い。
    でも、解き直しはやっている。
    同じ問題の解き直しなら、正解できる。
    これを指して「こなしているだけ」というのなら、確かにそれはそうなのです。

    1つの問題を解く中で、吸収できる事柄の質は、人によって異なります。
    本当に表層的に、その問題の解き方しか吸収できない人。
    その問題を解いた、あるいは解けなかったことを通して、言語化できないほどに深い本質まで吸収できる人。
    それが学習能力というものなのでしょう。
    そして、学習能力を鍛えるというのは、最も行わなければならないことでありながら、最も難しいことです。


    例えば、こんな問題。

    問題 4sinθ+3cosθ=5 のとき、sinθの値を求めよ。

    簡単に解ける人もいる一方で、これはハマると全く解けない種類の問題です。
    数Ⅱ「三角関数」まで学習すると、とにかく公式が多い。
    そのどれを使うのか、判断できないことがあります。

    何をどうしていいか、全くわからない・・・。
    そういう人もいると思います。
    こんな問題は解いたことがない。
    学校の教科書や問題集をパラパラとめくってみても、ありそうでない問題です。
    例題にはない。
    典型題ではない・・・。
    シンプルな1行だけの問題なのに、厄介です。

    問題を分析できる人もいます。
    sinθ を求めよというのだから、サインだけの式を作ればいいんだ。
    コサインをサインに変えればいいんだ。
    そういう発想は持てる人。
    それだけ、学習能力は高い人です。

    さて、そこで、何を使うか?
    ここで、思いつくのが、三角関数の合成。
    サインとコサインの式をサインだけにまとめるものです。
    数Ⅱの内容です。

    やってみましょう。
    4sinθ+3cosθ
    =√(16+9)sin(θ+α)
    =5sin(θ+α)
    ただし、sinα=3/5 , cosα=4/5

    あれ・・・。
    αが、暗記している角度ではない・・・。
    3辺の比が3:4:5の、見慣れた直角三角形の角ではあるけれど、角の大きさは知らない・・・。

    じゃあ、加法定理?

    5sin(θ+α)=5 より
    sin(θ+α)=1
    加法定理を用いて、
    sinθcosα+cosθsinα=1
    sinα=3/5 , cosα=4/5 を代入して、
    sinθ×4/5+cosθ3/5=1
    4sinθ+3cosθ=5

    ・・・え?
    元に戻った・・・。

    ここで行き詰まってしまいます。

    三角関数の合成や加法定理を身につけているのですから、それなりに勉強しているのですが。
    例題通りの基本問題ならば、解けるのですが。
    でも、この問題は、解けない・・・。


    コサインをサインに変える方法・・・。

    これを自力で発想するのは、実際のところ難しいと思います。
    しかし、この類題を解いたことがあり、そこから吸収したものが頭の中に残っている人ならば、解くことができます。

    やってみましょう。
    4sinθ+3cosθ=5
    まず、これをcosθについて解きます。
    3cosθ=-4sinθ+5
    cosθ=-4/3sinθ+5/3 ・・・①

    これをどうするのか?
    これを公式に代入するのです。
    sin^2 θ+cos^2 θ=1 ・・・②
    という、たいていの人は覚えている、数Ⅰで学習した基本公式に。

    ①を②に代入して、
    sin^2 θ+(-4/3sinθ+5/3)^2=1
    sin^2 θ+16/9sin^2 θ-40/9sinθ+25/9=1
    25/9sin^2 θ-40/9sinθ+16/9=0
    25sin^2 θ-40sinθ+16=0
    (5sinθ-4)^2=0
    sinθ=4/5

    解き方を知ってしまえば、とても簡単。
    でも、自力では発想できないことが多い問題です。


    私たちは数学者ではないので、無から有を生み出すことは、できない場合が多いです。
    数学において、ゼロから1を発想することは、多分、できない。
    知っている公式と知っている解法との組み合わせで、入試問題を解けばいい。
    受験勉強は、そのための準備をすればいい。
    つまり、上の解法パターンが頭の中にあればいいのです。
    sin^2 θ+cos^2 θ=1
    という基本公式の使い方を知っていればいい。
    新しい問題を見たときに、この解法パターンが使えるのではないかと、発想できればいいのです。

    この問題を解くことで、それを吸収し、全く関係のない別の場面でそれを思い出して使えるのが、学習能力。
    学習能力の高い人は、問題の解き直しをしなくても、この問題をまずは自分なりに解こうとして苦しみ、解けずに解説を読んで愕然とし、でも、以後、それを忘れずに頭の中に入れておいて適宜使います。
    1回では無理ならば、何回でも解き直すことで身につける場合もあるでしょう。
    それが、翌日に解き直し、3日後に解き直し、10日後に解き直す、というやり方なのだと思います。

    ただ、それが、その問題の解き方を覚えるだけで終わるのか、他の場面で応用が効くのかは、未知数です。
    できるのかもしれない。
    できないのかもしれない・・・。
    本人の学習能力次第です。

    さらに言えば、一人で勉強していると、この解法パターンを把握できない可能性があります。
    この問題の焦点は、sin^2 θ+cos^2 θ=1 という基本公式の使い方です。
    しかし、そのことを把握できず、全体に何だか混乱したまま、何がどうなのか分析もよくできないのに解き方だけ丸暗記する、という学習の仕方をしてしまう人もいます。
    そうした人は、一度解いたことのある個々の問題は解けるけれど、応用が効かないのです。

    個別指導は、そこを補助できます。
    この問題で吸収すべき要点は何なのか。
    どういう発想のものなのか。
    それを幾度も強調し、何をどう理解し頭に入れておけばいいのかを明瞭にします。
    どういうときに、どういう発想をすればいいのか。
    そこをシステム化すると、数学が苦手だった子も、数学で得点できるようになります。
    学習とは、何をどうすることであるかの、言語化、システム化。
    とても難しいことではあるのですが。

    だから、家庭学習で何をどのようにやればいいのかという質問に、私は上手く答えられないのかもしれません。
    何をどんな量で、どんなやり方でやれば必ず学力が上がる、ということはないからです。
    勿論、ある程度の量はこなす必要があります。
    そして、宿題は解いてくること。
    その宿題で授業をするから。
    そうとしか言えないのです。

    上の問題で、sin^2 θ+cos^2 θ=1 を用いる発想を、どの類題で、どのように思いつくのか。

    これは、感覚的には、空中から突然現れるようなものです。
    問題を正面から考え、行き詰まったら後ろから考えていると、わからないところの距離が縮まる。
    距離が縮まった瞬間に放電する。
    その電気は、空中から突然現れます。
    通電し、すべてがつながります。
    そんな言い方しかできないうちは、私もまだ、言語化できていないのかもしれませんが。

      


  • Posted by セギ at 21:51Comments(0)講師日記算数・数学

    2024年02月12日

    春期講習のお知らせ。2024年。


    2024年度春期講習のお知らせです。
    詳細は、書面にしてお渡しいたします。
    メール・LINEまたは申込書でお申込みください。
    なお、この期間、通常授業はありませんので、いつもの時間帯の授業を希望される方も改めてお申込みください。
    外部生の募集もいたします。

    引き続き、教室ではマスク着用をお願いいたします。
    感染対策を万全に行い、安心して学習できる環境を整えております。

    以下は、春期講習募集要項です。

    ◎期日
    3月25日(月) ~4月6日(土)
    ただし日曜日は休校といたします。

    ◎時間帯
    10:00~11:30 , 11:40~13:10 , 13:20~14:50 , 15:00~16:30 , 16:40~18:10 , 18:20~19:50 , 20:00~21:30

    ◎形式 
    完全1対1の個別指導となります。

    ◎費用
    1コマ90分4,000円×受講回数

    ◎指導科目
    小学生 一般算数・受験算数・英語
    中学生 数学・英語
    高校生 数学・英語



      


  • 2024年02月03日

    アクティブラーニングはどうなったのか。


    セツブンソウが、都立野川公園で咲き始めました。
    上の画像がそれです。
    今週はまだぽつぽつと咲き始めたところでした。

    さて、共通テストは、今年も難しかったですが、全体の平均点はむしろ年々上がっていると聞きます。
    ということは、生徒の学力が上がっているということなのか?
    どうも、そうではなさそうです。
    学力がおもわしくない層は、もうそもそも共通テストを受けなくなった可能性が高いのです。
    学校推薦や総合型選抜という形で、自分の成績で入れる大学に進学する子が過半数。
    それもありますが、それだけでもなさそうです。

    本来、共通テストは、国公立大学を受ける子にとって必須なだけでなく、私立志望の子も、受けることがあります。
    私立大学が、共通テスト利用枠を用意しているからです。
    個々の大学入試を受けなくても、共通テストの得点で、合否を判断される枠です。

    ただ、勿論、一般受験と比べて合格人数が少なく、倍率は高い。
    共通テストは、昔のセンター試験とは違って癖が強いので、そのための準備をしなければなりません。
    準備せずに受けても、いい点は取れないので、合格しないから、意味がない。
    国公立大学が第一志望の人たちは、共通テスト対策も十分なので、「別の勉強」をする必要がなく、私立大学の滑り止めを確保する。
    そういう人たちで、共通テスト枠の合格者は上から埋まっていきます。
    ならば、私立志望の人は、受けても意味のない共通テストのために中途半端に勉強するよりも、志望校の出題傾向に合わせた勉強をしたほうがいい。
    そのように考える受験生が増えているのかもしれません。

    共通テストはセンター試験とどう違うのか?
    もう、十分わかっている人が多いと思いますが、あえて簡単に説明すれば、問題文が長いのです。
    数学ですら、読解力が必要となります。
    一方、国語や英語でも、分析力や思考力が必要となります。
    しかも、問題量が多い。
    時間内に全問解くには戦略が必要です。
    厄介です。

    すべては教育改革の一環。
    センター試験が共通テストに変わったのと同じ頃、盛んに言われるようになったのが、アクティブラーニングでした。
    しかし、今、学校では、アクティブラーニングは以前ほどは言われなくなったような気がします。
    やっても、そんなに効果があるわけではないからでしょうか。
    最初の頃は、文科省の意向を汲んで、形だけやってみた。
    効果がないのを確認して、なし崩しに、以前の授業の形式に戻った。
    そんなこともあるような気がします。
    プリントによるグループ学習の形では残っているようですが、討論の形は、すたれつつあるように思います。

    共通テストと、アクティブラーニングは、同じものを目指しています。
    思考力を問う。
    ただの暗記ではない学力を養う。
    あるいは、そういう学力を試す。

    では、そうした「新しい学習」の恩恵を生徒全員が受けたのかというと、実際はそうではなく、むしろ格差が開いた、と感じることのほうが多いのです。
    共通テストに歯が立つ子は、限られています。
    そして、そうした子たちならば、アクティブラーニングで学習を深めることもできるのだと思うのです。


    アクティブラーニングが盛んに言われた当時、それを推奨する学者がツイッターで、こういうのがアクティブ・ラーニングだと説明しているのを目にしたことがあります。

    「黒板に先生が文を書く。
    『正方形の右に正三角形が2つ並んでいる』
    これを表す図を描いてみましょう、はアクティブ。
    『隣りの人と絵を交換して、合っているかどうか確認してみよう』
    もアクティブ。
    『合っているかどうかわからなかったのはある?』
    黒板にその図を貼って、みんなで議論。十分アクティブ」

    ・・・・うわあ・・・。

    何というか、過去に引きずり込まれるような嫌悪感がありました。
    確かに、これが、アクティブ・ラーニング。
    私が中学生の頃、毎日毎日、学校で受けていた授業です。
    私は、国立大学教育学部の附属中学に通っていました。
    新しい形の授業を、有能な先生たちが実験的に行う。
    私たちは、その実験台でした。

    ツイートはさらに続きました。
    「先ほどの問題。
    □△▽や◇▽▽について
    『間違っている』
    『よくわからない』
    に手を揚げる子は当然予想されて、
    『合っていると思います』
    という子と議論になる。
    それで『正方形とは何か』『正三角形とは何か』というまさに『定義とは何か』を学ぶことになる」

    ・・・うわあ。
    いやだいやだ。

    上のツイートを見て、
    「わあ、面白そう。そういう授業を私も受けたかったなあ」
    そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
    でも、それは、今、大人として、上のように平易な課題を見るからだと思うのです。
    正しい結論がすぐにわかりますから、議論に参加できそうで「面白そう」と感じるという側面はないでしょうか。
    知識も判断力も小学生に戻って、学校でその課題を与えられる幼い自分を想像してみてください。
    そのストレスの大きさ。
    正解がわからない議論に常に参加していくプレッシャー。
    何が最終目的なのかわからない課題を積極的に解決していかなければならないのです。
    子どもには、先生の意図や、この学習の真の目的は、見えないのです。
    謎解きの喜びと同じだけ、困惑と負荷の伴う学習です。


    そもそも、子どもというのは案外保守的で、固定観念が強いものです。
    上の課題が与えられて、◇▽△という、先生が歓喜するような非凡な図を描く子は、ほぼいないと考えたほうが良いのです。
    賢い子は、「□△△」という平凡な正答の図を描くと思います。
    一方、「△□□」などの明らかに間違った図を描いてしまう子も多いでしょう。
    凡庸な正解と、ただの不正解。
    それしか現れない可能性があります。

    間違った図を描いた子の中で、自分の間違いにすぐに気がついた子は、間違ってしまった恥ずかしさから立ち直るのに時間が必要です。
    その精神状態で、後の議論に参加するのは難しいかもしれません。
    もっとまずいのは、間違った図を描いて、隣りの子にバツをつけられても、なぜ間違っているのか理解できない子が一定数いると予想されることです。
    間違いを具体的に指摘されても、なぜ間違いなのか理解できない学力層の子が存在します。
    「△□□」の図が間違っていることに本来議論の余地はないのですが、間違っている子が多ければ、それも議論しないわけにはいきません。
    しかし、それは、その授業で予定していた学びとは違うでしょう。

    先生はそれを手短に終わらせるよう、議論をコントロールしなければなりません。
    予定していた学びとは異なる、つまらないミスによる間違いに関する議論は、深い学びにはつながらないからです。

    間違った図を描いたのに、それのどこが間違っているのか理解できない子は、そこで授業に取り残されます。
    その先の議論には参加できないと思います。
    その後の議論など耳に入らず、自分の間違った図をぼんやり見つめるだけでしょう。
    そして、その子のノートには、△□□という謎の図だけが残されます。

    家庭で、保護者の方が、
    「今日は学校で何を勉強してきたの?」
    と尋ねても、
    「わからない」
    以外の応えは返ってこないかもしれません。
    ノートを見ても、謎の図しか残っていません。
    アクティブ・ラーニングには、そうなる危険性があります。

    興味深く議論の題材になるような非凡な図を生徒が描く可能性は低いです。
    賢い子たちは、□△△という、わかりやすい正解の図を描きます。
    それでは、議論になりません。
    ですから、先生は、あらかじめ用意していた図を黒板に貼ることになるでしょう。
    ◇▽△ といった図です。
    さて、これは正しい図でしょうか?

    「正方形の右に正三角形が2つ並んでいる」
    この図は、それを正しく示しているでしょうか?
    正しいと思う人と思わない人に分かれて、議論を始めるための図です。

    この図を「間違っている」と考え、しかも積極的に議論に参加してくれる生徒は、この授業にとって貴重な存在です。
    この図を間違っていると思う生徒の学力評価がそれで下がることはありません。
    むしろ、議論の中で思考が深まり、劇的に考えが変わっていくなら、先生は特にその子を高く評価する可能性があります。

    しかし、秀才たるもの、最初からこんなことはわかっていることを周囲に示したい。
    最初から、正しい答えを選びたい。
    間違った判断は最初からしたくない。
    そんなこと、本当は誰も気にしていないのに、それを気にして立ち回り、疲れ果ててしまう子もいるでしょう。
    こうした学習が、秀才にとってもストレスであるのは、そうした点です。

    繰り返しますが、大人にとっては、□も◇も正方形、△も▽も正三角形であることは自明の理です。
    正解がわかり、何のための授業であるのか、その道筋もわかるから、この議論に参加するのは楽しいことに思えます。
    □も◇も正方形であることを理解することから、正方形の定義というものに考えが至り、さらには定義とは何かまで学習を深めていくのだ。
    凄いなあ。
    楽しい授業だろうなあ。
    アクティブだなあ。
    アクティブ・ラーニングっていいなあ。
    そんな授業、私も受けたかったなあ。
    そう思うかもしれません。

    しかし、好きでも得意でもない高等数学で、課題を与えられ、多様な解き方を示されて、どれが正しい解き方かを議論することを要求される自分を想像してみてください。
    恐怖しませんか?
    どれが正しい解き方か、どの解き方が一番合理的かなど、見てもわからないのだとしたら。
    議論に参加できる可能性がゼロなのだとしたら。
    そんなのはいいから、正しくて簡単な解き方を1つ教えてくれ、それを覚えるから、となりませんか?
    小学生にとっては、上の課題はそういう課題です。
    「定義とは何か」にまで学習を深めることができる子は、少数です。
    一握りの秀才の学力は飛躍的に伸びますが、大多数の子を置き去りにする可能性があります。

    新しい学習のように言うけれど、私が中学生の頃と何も変わりません。
    結局、日本の教育はこの40年、ここから一歩も先に進んでいないのかもしれません。
    私は、そのような授業でよく発言していました。
    あれは、面白い授業でした。
    当時の深い学びが、今の自分につながっていると、言えば言えるのかもしれません。
    それでも、ある種ぞっとする感じがつきまとうのです。
    深い霧の中で目的も定まらず、ただ生き残るために全神経を張り詰めるサバイバルゲームを常に続けていたような。
    自分は闘いたくはないのに、常に闘いを強いられていたような。
    そして、その授業でほとんど意見を言うことはなく、
    「勉強がわからない」
    「学校がつまらない」
    と言っていたクラスメートたちの顔が浮かぶのです。

    この仕事をするようになって、国立大学の附属中学に通う生徒の個別指導を受け持つ機会が幾度かありました。
    私の頃と同様に、そうした学校では実験授業が行われていました。
    アクティブ・ラーニングです。
    「学校の授業は、何をやっているのかわからない」
    「学校の授業は、勉強のできる何人かと先生が話しあっているだけ」
    同じような感想を異口同音に聞きました。

    そういう学校は、授業は難解でも、定期テストは、特別難しい問題が出題されるわけではありません
    前半は易しい基本問題、後半にいくにしたがって、難度を増していく、良問ぞろい。
    実験授業を行っている先生たちは有能ですから、テストもほれぼれするような構成になっていることが多かったのです。
    しかし、私が個別指導をすることになった子たちは、そのテストの基本問題さえ正解できていませんでした。
    単なる1次方程式や連立方程式の計算問題が解けないのでした。
    普通の公立中学に通っている数学が「2」の子だって、それくらいは正解するのに。

    国立の附属中学校は、私立の中高一貫校のように進度を速めた授業をしているわけでもありません。
    学年相当の普通のことを学んでいました。
    ただし、実験的な手法で。
    アクティブ・ラーニングで。
    学校の授業で何をやっているのかわからないので、家でも何を学習して良いのかわからず、テストに何が出題されるのか、わからないというのです。

    その子たちにも原因はあります。
    せめて、家に帰ったら、コツコツと基礎的学習をしたら良かったのです。
    そうした学校は、普通の教科書に沿った普通の教科書準拠ワークを生徒に配布していました。
    それをコツコツ解いたら良かったのです。
    学校で何をやっているかわからないから勉強しない、というのは言い訳です。
    学校の授業を口実に勉強しないでいるだけです。

    私が個別指導を担当した、学校の授業内容がわからず成績不振に悩んでいる子たちは、学習習慣が身についていない子ばかりでした。
    塾で基本を丁寧に教え、それについて復習するだけの宿題を出しても、解いてきませんでした。
    1週間後、塾に来る直前になって慌てて手をつけ、上手く解けず、もう忘れた、わからなくなったと言い訳することが多かったのです。
    宿題を解いてくるようになるまでが、まず第一関門。
    錆びついた巨大な機械に油を差し、動きだすようにするまでには、大変な時間と労力が必要でした。

    でも、その子たちだけを責めて、切り捨てるのは、いかがなものか。
    学習目標を明確に提示し、何を覚え何ができるようになれば良いかを示された授業で懇切丁寧に教えてもらえていれば、彼らはそれほどの学業不振にはならなかったでしょう。
    アクティブ・ラーニングは、両刃の剣です。

    もう一つ言うならば。
    ◇が正方形に見えない子、▽を正三角形と認識できない子は、いつの時代にもいます。
    学校でのクラス全体の議論や、グループ・ディスカッションには参加できず、学校でどのよう結論が出されようとも、◇は正方形ではない、これはひし形だ、と心の中で思っている子はいます。

    そうした子が何をどのように誤解しているのか、それを明らかにしていくことでしか解決のつかないことがあります。
    時間はかかるかもしれませんが。

      


  • Posted by セギ at 18:11Comments(0)算数・数学