たまりば

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2017年01月18日

1月28日(土)、大人のための数学教室を開きます。


高尾山のシモバシラの氷花です。
まだ小さいですね。

さて、1月14日(土)、大人のための数学教室を開きました。
今回も「不定方程式」。
こんな問題を解きました。

問題 方程式 x+3y+5z=23 を満たす自然数の組(x,y,z)をすべて求めよ。

方程式は1本。文字は3つ。
こんな問題、解は無数にあるのでは?
でも、全部たし算ですし、「自然数」という条件があるので、解は限定されます。
「自然数」というのは、1,2,3,4,・・・・という、正の整数です。
どの文字も負の数になってはいけないということです。
合計23の中で、1つの文字の取り分が増えていけば、他の文字の取り分が減るので、これは限りがあるなあとわかります。

さて、こういう問題は、係数の大きい文字の範囲をまず決めてしまいます。
この問題では、zの係数が5と一番大きいので、zの範囲を決めます。
23からの取り分が大きくなる文字から決定したほうが、その後の計算が楽だからです。
x+3y+5z=23
移項して、
5z=23-x-3y
ここで、x、yは自然数なので、x≧1、y≧1。
x=1、y=1を代入すると、
5z≦23-1-3・1
5z≦19
z≦19/5
zは自然数だから、
z=1,2,3

ここで一番難しいのは、5z≦23-1-3・1 でしょうか。
予想していた向きとは不等号の向きが逆で、「え?え?」となってしまう方もいらっしゃるかもしれません。
合計は常に23です。
その中で、xとyの最小値1を代入しました。
その場合、5zの取り分は最大となります。
だから、実際の5zはその最大値以下となります。

さて、ここから場合分けして考えていきます。
[1] z=1のとき
x+3y+5z=23 に代入して、
x+3y+5・1=23
x+3y=18
よって、
(x,y)=(3,5),(6,4),(9,3),(12,2),(15,1)

[2] z=2のとき
x+3y+5・2=23
x+3y=13
よって、
(x,y)=(1,4),(4,3),(7,2),(10,1)

[3]z=3のとき
x+3y+5・3=23
x+3y=8
よって、
(x,y)=(2,2),(5,1)

これらは、x=1の場合から1つ1つ代入して計算しても勿論求められるのですが、時間がかかります。
もう少し早く合理的に求めたいです。
例えば、x+3y=18 の場合、
x=0ならば、3y=18なので、y=6です。
しかし、xは自然数なので、x=0は解ではありません。
そこからyが1減って、y=5になると、3y=15です。
全体の18から3減ることになります。
それがxの取り分となりますから、x=3、y=5が最初の解の組だとわかります。
あとは同じように変化していきます。
つまり、全体としては常に3だけyからxへとやりとりがあります。
だから、xは3ずつ増え、yは1ずつ減ります。
(3,5)が見つかった後は、xは3ずつ増やし、yは1ずつ減らして、yが0や負の数になる前に止めれば良いのです。

こういうやりとりの問題は、中学受験の受験算数でも出題されます。
しかし、小学生でも、勿論高校生でも、このやりとりがよくわからないという場合があります。
今回の大人のための数学教室でも、ここのところが大変不評で、
「今日はとにかく、1から全部代入して求めます」
と参加者の方はおっしゃっていました。
今日はとりあえず解き方の理解に集中したい。
やりとりの話は全体が見えてからゆっくり考えますから、ということだと思います。
家でじっくり考えれば何も難しいことではないので、大人の方はまず大丈夫でしょうが、小学生や高校生でこれがわからないとなると、テストでこの問題を解くのに時間がかかり、時間切れの恐れが出てきます。
これは理解してほしいところです。
回りくどい計算をしている暇はありません。
瞬殺しましょう。
ヽ(^。^)ノ

例えば、 2x+3y=24 (x、yは自然数) を解くときに、
xが0ならば、yは8です。
これは暗算ですぐ出てきます。
ここからxを増やしていきますが、3yからもらえるものは必ず3の倍数です。
しかし、2xは2の倍数です。
だから、余りが出ないようにするには、2と3の最小公倍数の6ずつやりとりをすることになります。
すなわち、xは3ずつ増え、yは2ずつ減ります。
だから、
(x,y)=(3,6),(6,4),(9,2)

どうでしょうか?
このことは、理解できる子には何でもないことなのですが、「わかりにくい」と感じる子にとっては、いくら説明を聞いてもわからない、何を言っているのかさっぱりわからない、日本語で説明されているとは思えないくらいわからない、ということのようなのです。
表現が難しいですが、「数字と友達になっていない」ということかなあと思います。
サッカー選手にとって「ボールは友達」で自在に操れるものであるように、数字を自在に操れると、色々なことが楽になります。

こういうことだけに限りません。
例えば、「関数」の学習をしているとき。
座標平面上の点の移動を上手く読み取れない子がいます。
A(1,-5)からB(-3,-2)への移動は、
x軸方向に-4、y軸方向に3だけ平行移動したもの。
こういうのは、それこそ瞬殺で、見ただけでわかることですが、中学生・高校生の中に、この移動が読み取れない子がいます。
「どういう式ですか?」
と質問されたりします。
・・・・・・式?
あえて言えば、「移動後の座標-移動前の座標」で、
-3-1=-4
-2-(-5)=3
ということですが、そんなややこしい式をいちいち立てていたら、かえって符号ミスをしそうです。

1から-3への移動が-4の移動であることを、見ただけで読み取るというのは、ではどのような判断しているかというと。
頭の中で、まず符号を決定しています。
小さい数のほうに移動しているので、これはマイナスの移動です。
移動の絶対値は、まず、1から0までで1。
0から-3までで3。
だから合計4。
したがって、-4の移動です。

-5から-2への移動。
これは、大きい数に移動していますので、ブラスの移動です。
移動の絶対値は5-2で3。
だから、+3の移動。

見ただけで判断するというのは、分析すれば、こういうことをほぼ直感的にやっているのだと思います。

「なぜたし算だったりひき算だったりするの?」
そう訊かれれば、
「だって、正負の数って、そういうものです」
と答えるしかありません。
「わかんない、わかんない、わかんないー!」
「・・・・・」
これは私が悪かった。
わからないなら、式を立てて計算すればいいんだよ。
こういう会話の後で、そう反省したこともあります。

中1で最初に学ぶ「正負の数」の計算でつまずいてしまう子がたまにいます。
そういう子は、結局、数直線上の数値の移動が飲み込めていません。
だから、久しぶりに「正負の数」を復習すると、誤答が目立ちます。
「あれ?負の数+負の数って、正の数になるんじゃね?」
「・・・・・なぜ、そう思うの?」
「あれ?違った?」
「・・・・負の数×負の数と混ざっていない?」
「あ、そうかそうか」
本人は気楽そうですが、負の数+負の数は、実感として負の数になるわけがないのに、なぜそこに違和感を抱かないのかと思うとき、暗い深淵がそこにあると感じます。
そういう子にとって、数字は友達ではない。
数字なんて、扱いにくくて厄介な存在なんだろうなあ。
どうすれば、数字が友達になるかなあ。

かなり話がそれました。
まだ最終解答をまとめていませんでした。
答えは、(x,y,z)の値の組で答えますから、
(x,y,z)=(3,5,1),(6,4,1),(9,3,1),(12,2,1),(15,1,1),(1,4,2),(4,3,2),(7,2,2),(10,1,2),(2,2,3),(5,1,3)
これが最終解答です。


さて、次回の大人のための数学教室のお知らせです。
次回は1月28日(土)。
なお、その次は祝日を挟みますので、2月18日(土)となります。

◎日時  1月28日(土)10:00~11:30
◎内容  数A「整数の性質」の学習を続けます。p108の問題20、21、22が宿題です。
◎場所  セギ英数教室
       三鷹市下連雀3-33-13
         三鷹第二ビル 305
       春の湯さんの斜め前のビルです。
◎用具   ノート・筆記用具
◎参加費 2,000円
       当日集めさせていただきます。
◎予約  私の携帯メールかラインあてに、ご予約をお願いいたします。



  


  • Posted by セギ at 12:35Comments(0)大人のための講座

    2017年01月16日

    嵐山から小仏城山、高尾山を歩いてきました。2017年1月。


    2017年1月15日(日)、今年初めての山歩きは、初詣を兼ねて、高尾山を歩いてきました。
    ついでに、去年の残暑の中で道に迷った相模湖駅からの道の検証をすることにしました。
    いつもの中央特快から中央線に乗り換えて、相模湖駅。8:53。
    駅の外のベンチで支度をして出発。
    まずは甲州街道に出て、交差点を左に曲がります。
    前回は既にここから道を間違えて、相模湖のほとりまで出てしまいましたが、今回はしっかりと左折。
    歩道橋を通り過ぎたところで、道は二股に別れ、右の細いほうの道を行きます。
    道なりにしばらく行くと左側に道しるべがあり、そこからV字に曲がって階段を下りていきました。
    眼下にダムと橋が見えています。
    おお、あれは、残暑の頃にも渡った相模大橋。
    こんなに簡単に来れるんだ。
    前回はここまでで既にかなり遠回りをしていました。

    相模大橋を渡って、左折。
    また道なりに行くと、左手に休憩所がありました。
    げんこつを突き上げたような妙なオブジェのある休憩所でした。
    その向かい側に灯篭があり、そこが嵐山の登山口です。9:15。

    嵐山は標高406mの低山。
    京都の嵐山の風情があるのでその名がつけられたとのことです。
    急な石段を数段登ると、あとは登山道。
    急な箇所も少しありますが、よく踏まれ、整備された道でした。
    東海自然歩道にも指定されています。
    山頂。9:45。
    上の画像は山頂から相模湖を見下したものです。
    対岸には、奥高尾の尾根。
    その奥に扇山。
    さらに奥に権現山。
    そして大菩薩の山々。
    低い山なのに眺望良好でした。
    山頂から先、石老山へと縦走する道もあるそうです。
    ガイドブックによれば、風情のある竹林を通り過ぎ、丸太の木橋とか、ちょっと切れ落ちた細い道などがあるらしいです。
    春になったら、そっちに縦走してみようかな。
    今日はとりあえず来た道を戻ります。

    灯篭のある登山口まで戻ってきて、さて、ここから前回は大変な遠回りをしてしまいました。
    弁天橋への分岐がわからず、延々と舗装道路を歩いて桂橋まで行ってしまい、橋を渡ってまた延々とバス道路を歩いて、登山口にたどりついた頃にはもう半分熱中症でした。
    今回は、とにかく左手の分岐に意識を集中します。
    津久井養護学校のところで左折するんだぞー。
    歩道が進行方向の右側にしかないので、あのときはぼんやり歩いて見落としたんだろうなあ。
    今回は、常に左側ばかり見て歩きました。
    遠くに津久井養護学校を発見。
    その手前に分岐があるのかなあと曲がりたくてうずうずしましたが、学校の横に道しるべがあり、舗装された道がありました。
    なだらかに下って、そこでも道しるべを確認して右折すると、すべり止めがごつごつした坂道へ。
    その先は、もう登山道でした。
    踏み跡をたどっていくと、そのまま弁天橋につながります。
    弁天橋は、歩行者専用の橋。
    しっかりした造りの案外長い橋でした。
    さらにもう一つ小さい橋を渡って、登山道は登り道に。
    正しい道も、それなりに長いですね。
    弁天橋を見下ろせる見晴らしの良い場所がありました。
    ああ、山歩きを始めたばかりの頃、ここで写真を撮った。
    このアングルだ。
    まだ、デジタルカメラではなかった頃です。
    急に記憶がよみがえりました。

    ぽんと住宅街の中の舗装道路に出て、道しるべの通りに歩いていくと、記憶の明瞭な甲州街道の交差点に出ました。
    お蕎麦屋さんの角。
    千良木バス停の近くです。
    そこからは、歩行者用信号を渡って、そのまま直進。
    道が登り坂になったところで、次の分岐を左に行くと、登山口です。10:50。
    登山口の茶店で、今日もヨモギ餅を勧められました。

    テレビ放映されたヨモギ餅、いかがですか。
    ヨモギの香りがしっかりしますよー。
    そういえば、テレビ東京の「関東ふれあい旅」、去年は春も秋も結局放送されませんでした。
    「関東ふれあいの道」を3泊4日で歩く山旅番組です。
    年に一度の楽しみだったのになあ。
    もう安全に歩けるところは全て歩いてしまったからかなあ。

    ここから小仏城山までは1本道。
    特に難しいところはありません。
    木段の箇所も多く、歩きやすく整備された登山道でした。
    のんびり歩いて、小仏城山。11:55。
    山頂はドロドロでした。
    積雪があったのか、霜柱が融けたのか。
    これからのシーズン、小仏城山より先の奥高尾はこの泥道との格闘ですね。
    今季最強の大寒波が来ていますが、それでも山頂はベンチがほぼ埋まる盛況でした。
    歩いているときは良いのですが、ベンチで食事していると、しんしんと冷えてきます。
    たちまち指先の感覚がなくなり、早々に出発。

    小仏城山から高尾山まではデッキや木段が整備されて、泥道とは無縁でした。
    やっぱり歩きたりないなあと感じつつ、でも、今日の主な目的は初詣なので、おとなしく高尾山へ向かいます。
    一丁平の展望台からは、雪化粧の丹沢がくっきり見えました。
    東京はずっと晴れていたので雪不足のイメージのままでしたが、丹沢は積雪があったのですね。
    丹沢に行けば良かったかなあ。
    丹沢大山の左手に薄く見えているのは、相模湾でしょうか。
    ここから海が見えることに初めて気づきました。

    木段を登って紅陽台へ。
    富士山は麓だけ見えていました。
    そこからさらに階段を登って、高尾山頂へ。
    寒いと熱がこもらないので、身体が軽いです。
    山頂はいつも通りの賑わいでした。
    大見晴台の眺望も楽しんで、さて再び出発。
    トイレの角のところを曲がって、3号路に寄り道しました。
    こんなに寒いと、シモバシラの氷花が出ているんじゃないかな。
    もう午後だから消えたかなあ。
    しかし、目立ったものはなく、がっかりしたのですが、よくよく見ると小さいものならありました。
    マクロで撮影。

    さて、あとは薬王院でお詣り。
    おみくじも引いて、のんびりと1号路を降りました。


      


  • Posted by セギ at 12:01Comments(2)

    2017年01月13日

    三平方の定理と暗記


    中学3年生が今の時期に学習する「三平方の定理」。
    定理そのものは、それほど難しいものではありません。
    「相似」で悪戦苦闘した後ですと、むしろ易しく感じるのではないでしょうか。

    そんな中で、少し厄介なのが特別な比の三角形でしょう。
    三角定規になっている、2種類の三角形です。
    その角度は、小学校で覚えます。
    そして中3になると、辺の比を覚えることになります。

    この「覚える」という作業が、算数・数学とはなじまないと感じる子がいて、
    「数学って、考えるものでしょう?何で覚えるの?」
    と、一応もっともなことを言ったりします。
    意味のわからないことを覚えろと言っているのではないので、最低限、理解したことは覚えないと、その先の問題は何1つ解けなくなってしまうのですが、覚えるのが本当に嫌いな子はいます。

    特別な比の直角三角形は、3:4:5や、5:12:13のような、覚えておけば便利という程度のものもありますが、三角定規の三角形の辺の比は、覚えないとどうにもなりません。
    1辺の長さから他の2辺の長さを求める問題が当たり前に出題されます。
    これは、比を覚えていないと解けません。
    内角が45°、45°、90°の直角三角形の辺の比は、1:1:√2。
    内角が30°、60°、90°の直角三角形の辺の比は、1:2:√3。
    絶対に覚えなければならないのが、この2つです。
    (*^_^*)

    1:1:√2 のほうはまだわかりやすいのですが、1:2:√3 は、2にあたる辺と√3にあたる辺を取り違える子が多く、ミスの出やすいところです。
    あの直角三角形は、背中合わせに並べると、1つの正三角形になります。
    そのイメージさえもっていれば、2にあたる辺がどちらであるかを間違えることはないのですが、機械的に暗記しているだけだと、しばしば間違えます。
    また、この三角形の学習に慣れてしまった後、角度が明示されていない普通の直角三角形にこの辺の比を誤用してしまう子も現れます。
    「何か似ているから、使っていいと思った」
    と言うのです。
    見た目が少し似ていても、30°とか60°とか、角度が明示されていない直角三角形にこの辺の比を利用してはいけないんだよ、違う三角形なのだからと説明しても、へえ、そんなものなのかあ、何でかなあという顔をしています。


    高校の「三角比」も「三角関数」も、この比をガンガン使います。
    というよりも、ほとんどこればかりです。
    この比は非常に重要です。
    しかし、以前、中3の生徒にその話をしたとき、どうにも話が通じなかったことがあります。
    「まあ、そのうち覚えます」
    という返事で、なかなか覚えないんです。
    覚えるか覚えないかを判断するのは自分であると言いたげな妙な「ゆとり」が口調から感じられ、あまりにも話が通じなくて困惑しました。
    (^_^;)
    長くつきあってみると、その子は、ものを覚えるのが本当に苦手で、でも、そのことを悟られまいとして、人をくったような偉そうな物言いになってしまい、損をしている子だったのでした。


    数学は暗記科目ではないというけれど、覚えなければならないことはあります。
    そもそも、「暗記科目」というくくりが本当は妙なので、歴史でも地理でも、興味を持って勉強している子は、「暗記しなければ」という自覚は特になく、重要なことは自然に覚えてしまいます。
    そういう子にとっては、歴史も地理も「暗記科目」ではありません。
    単なる知識が重要なのではなく、1つのことが他のことに波及していくその関係、その大きな流れが読みとれるから歴史や地理は面白いと、そういう子は知っています。

    興味があることに関しては、覚えることは苦になりません。
    勉強以外のことを例にするもっとわかりやすいと思います。
    私より下の世代の人たちは、子どもの頃にポケモンのゲームで遊んだり、アニメが好きだったりしたので、出てくるモンスターの名前をほぼ全部覚えている人が多いです。
    去年の夏にスマホゲームになって、その衰えない人気が証明されましたね。
    ポケモンが好きな人にとっては、モンスターの名前を覚えることは苦行でも何でもなく、当たり前に覚えられることです。
    暗記しようと努力したわけではないでしょう。
    そしてその記憶は、今後もずっと維持されて、彼らは老人になってもポケモンの名前は忘れないでしょう。

    でも、ゲームに興味のない私がポケモンの名前を覚えなければならないとしたら、これは苦行です。
    (^_^;)
    全く興味がないので、かなり努力しないと覚えられないでしょう。

    ファッションもそうですね。
    ブランド名などは、私はほとんど覚えられません。
    興味がないものは頭に残らないのです。
    必要ないから記憶に残さないようにしている傾向もあります。
    どんなことでもとにかく努力して覚えたら、その先に面白いことが待っているんだろうなあとも感じるのですが、他に覚えなければならないことが沢山あるからなあといつも後回しにしてしまいます。

    数学が暗記科目ではないというのも、同じ意味だと思います。
    数学に興味がある人は、公式や定理は意味を理解すれば自然に覚えてしまいます。
    だから「数学は暗記科目ではない」と言います。
    でも、実際には、興味がなかったら覚えられません。
    そういう意味では、数学も、歴史や地理と同じです。
    興味がないので無理をしなければ公式を暗記できない子は、とにかく意味を理解したら無理に暗記して、使えるようになりましょう。
    使えるようになって、正解を出せるようになって、苦手意識がなくなっていけば、「大きな流れ」とか、他のこととの関係とか、興味がわいてくると思います。
    「公式だから」とあきらめて使っていたことの本当の意味に、ある日気がついて、衝撃的な開眼をする日も来るかもれしません。


    「ゆとり教育」の影響はそろそろ薄れてきていますが、それでも「暗記」を軽視する子は減りません。
    覚えることが苦手で、新しい公式や定理をなかなか暗記せず、教科書を開いて単に代入して問題を解き、それで勉強は完了したような勘違いをしてしまう子は多いです。
    理解することが勉強の全てになっていて、公式を覚えていないのです。
    テスト本番で、自力では全く解けないことに気づき、呆然とテスト用紙と向き合うことになってしまっています。


    数年前、小学4年生に確認テストを解いてもらっている間、その子の算数の教科書をパラパラめくっていたら、面白いことが載っていました。
    「大きな数」のページでした。
    大きな数の単位としては、小学校で理解しなければならないのは、千兆の位までです。
    子どもの中には、数の単位を唱えさせると、
    「一、十、百、千、万、十万、百万、一億、一兆」
    と、謎の跳び方をする子がいます。
    千兆の位までの数を算用数字でも漢数字でも正しく書けて読めて、位取りの関係が理解できることがこの単元の学習目標です。

    ゆとり教育の頃は、「大きな数」について学校で学んできた子が、なぜか自慢げに、兆より大きい数について私に教えてくれることが何度かありました。
    「センセー、千兆の次の位を知ってる?」
    「京だねえ」
    「その次は?」
    「垓」
    「その次は?」
    「何だっけ。聞いたことあるんだけど、覚えていないなあ」
    「知らないのー?無量大数って言うんだよー」
    「・・・・・・え?早くない?」
    「無量大数って言うんだよ。学校で覚えさせられたもん」
    「・・・・・・へえ」
    こうした会話を、ゆとり教育の時代に複数の生徒と交わしています。
    現実問題としては、京より大きな桁の数は、10の累乗を用いて表すのが普通なので、あまり使い道のない知識ですが、しかし、「垓」の次がすぐ「無量大数」というのは、あっけないですね。
    大きな数の桁の名称は、もっとあるでしょう。

    新課程の教科書には、大きな数の桁の一覧が載っています。

    京 けい 
    垓 がい 
    禾予 じょ 
    穣 じょう  
    溝 こう 
    澗 かん  
    正 せい  
    載 さい  
    極 ごく   
    恒河沙 ごうがしゃ
    阿僧祇 あそうぎ
    那由他 なゆた
    不可思議 ふかしぎ
    無量大数 むりょうたいすう

    全ての新課程教科書がそうなのかどうかはわかりません。
    これは発展的内容で、絶対に覚えるべきことではありません。
    でも、何だか見ているだけでワクワクしました。
    高校で学ぶ指数や対数は、言わばデジタル表記なので、自分の扱っている数字がどれほどの大きさなのか、計算しているのに実感できないことがほとんどです。
    この大げさな桁の名称は、大きな数の大きさを実感させます。
    そして、私自身、実はそんなに知らなかったこの大きな数の知識が、この一覧表を見ているだけでスルスル頭に入ってきました。
    覚える覚えないは好き好きですが、これは私にとっては魅力的な知識なんだなあと改めて感じた経験でした。

      


  • Posted by セギ at 12:09Comments(0)算数・数学

    2017年01月10日

    図形が苦手な子の特徴。





    算数・数学について、計算分野はそんなに嫌いではないけれど、図形は嫌いだという子は多いです。

    そういう子が問題を解く様子を見ていると、問題をわかりやすくするための書き込みの下手な子が多いなあと感じます。
    「等しい角や線分に、等しい印を入れてみようよ」
    と声をかけると、一応手は動くのですが、図の大切な部分が隠れてしまうような雑な書き込みをしてしまうのです。
    丁寧で緻密な作業をすることが習慣になっていず、勉強が基本的に「やっつけ仕事」になっている子は、図の書き込みは下手ですし、図形問題を時間をかけて考える集中力も養われていない場合が多いように感じます。

    性格的に全てにおいて雑な子というのではなく、数学の図形分野になると突然雑になる子もいます。
    問題を解くための大切な書き込みをしている意識がなく、命じられたから仕方なくやっているからなのかもしれません。
    その書き込みがあるから自力で解けたという経験を幾度がすれば、もっと自分で見やすい書き込みをするようになるのでしょう。
    汚い書き込みは助けにならず、むしろ図を見る邪魔になるのですから。

    私の子ども時代を思い出すと、算数・数学の図なら丁寧に書き込んでいましたが、図工・美術は、今思うと作業がかなり雑でした。
    例えば人物画を描くとき、顔は丁寧に描くけれど、着ている服や背景は一色でささっと塗っておしまいにしていました。
    雑です。
    でも、当時は、それではダメだということがわかっていませんでした。
    そこを丁寧にやる必然が私の中になかったからでしょう。
    それと同じで、数学において図に丁寧に書き込みをする理由が本人の中にない限りは、いくら注意しても根本的には解決しないのかもしれません。

    図の本当の線が見えなくなるほど、ぐりぐり何度も鉛筆でなぞってしまう子もいます。
    私は、いつも生徒と向き合って教えていますので、逆さからその図を見て、一緒に問題を解くことがあります。
    汚いなぞり書きをされると逆さからでは本当にわからなくなるので、うめき声を上げてしまいます。
    私がわからないだけでなく、汚いなぞり書きは、本人もわからなくなる原因です。
    「ぐりぐり塗らないと、わからない」
    と言う子もいますが、図中の線を鉛筆でぐりぐりなぞる子で図形問題の得意な子は少ないです。
    塗らないとわからない、というのは悪い習慣です。
    一回丁寧になぞって線を少し太くするくらいならばいいのですが、ぐりぐり何度もなぞって角を丸くしてしまうようなのはやめたほうがいいです。
    どうしてもわからないという子には、私はマーカーの使用を薦めています。
    マーカーは下の実線が透けて見えるので便利です。
    薄い色のマーカーで重要な部分をなぞって見た目をわかりやすくするだけで、問題が易しく思えてきます。
    「だって、テストのときには出来ない」
    と不満を言う子もいますが、やりたかったらテスト用紙もマーカーでぬったらいいんです。
    テストは、マーカーで図をなぞることは禁止していないと思います。
    それに、マーカーでぬって自力で正答できるようになれば、そのうちマーカーは必要なくなってきます。

    図形問題が苦手な子のもう一つの特徴は、考える時間がひどく短いこと。
    「わからなかったー。教えてくださーい」
    と本人は陽気に宿題を空欄にして持ってきますが、教わって解いた図形問題はすぐに忘れてしまうことが多いです。
    なかなか身につきません。
    テレビのクイズ番組を見ていて、答えがわからない間は気になるけれど、正解を聞けばもう興味がなくなり、番組が終わった頃には何1つ覚えていないのと似ています。
    最終的には解けなかったのであっても、もう少し問題と格闘しなければ記憶に残りません。

    図形問題は、自力で解いた問題の数が多いほど力がついていきます。
    自力で解くには、基本的な知識が頭に入っていていつも使える状態になっている必要があります。

    三角形の内角の和は180°である。
    1直線は180°である。
    正三角形の1つの内角は60°である。
    二等辺三角形の2つの底角は等しい。
    三角形の外角は、隣り合わない内角の和に等しい。
    対頂角は等しい。
    平行線の同位角は等しい。
    平行線の錯角は等しい。
    等しい弧の円周角は等しい。
    円周角は中心角の2分の1である。
    半円の弧の円周角は90°である。
    平行四辺形の対角は等しい。
    平行四辺形の対辺は等しい。
    平行四辺形の隣りあう角の和は180°である。
    円に内接する四角形の対角の和は180°である。

    説明されれば、「知ってるよ、そんなこと」ということばかりですが、図形が苦手な子は問題を解くときにこれらを自分で思い出して使うことができません。
    言われればわかるけれど、本当の知識になっていないのです。

    それは、「理解語彙」と「使用語彙」の違いに似ているのかもしれません。
    言われれば意味のわかる言葉。
    でも、自分では使えない言葉。
    私たちのボキャブラリーは、自分で使える「使用語彙」の周囲に、意味はわかるけれど自発的には使用できない膨大な「理解語彙」があります。

    それと同じで、自分で使える「使用定理」の外側に、言われればわかる「理解定理」があるのかもしれません。
    解答・解説を読めばわかるけれど、自力で図形の問題を解くことができない。
    そういう子の多くは、使用できる定理が少ないのだと思います。

    自分で解いていないから、使用できる定理が少ない。
    使用できる定理が少ないから、自分で解けない。
    負のスパイラルです。
    まずは補助を受けながら、できるだけ自分で解いていくことで、苦手な図形を克服していきましょう。



      


  • Posted by セギ at 22:30Comments(0)算数・数学

    2017年01月06日

    感動と発見のある授業。




    そろそろ中学3年生は「三平方の定理」の学習をする時期です。
    「三平方の定理」とは、直角三角形に関する定理。
    直角三角形の斜辺の2乗は、残る2辺の2乗の和に等しい。
    そういう定理です。
    この定理は証明方法が100通り以上あることでも有名です。
    大抵2つくらいは教科書や参考書に載っています。

    以前も書きましたが、私が中学生のとき、教科書に載っているもの以外の三平方の定理の証明をレポートにまとめて提出という宿題が出て、それがもう本当に負担で嫌だったことを覚えています。
    今だったら、そんなのはネットで調べてチャチャッと書きあげてしまうのでしょうが、当時は、図書館で調べるか自分で考えるしか方法がありませんでした。
    学校の図書室の本は、早めに行動した子がもう借り出したのか、もともと蔵書にないのか、それらしい本は見当たりませんでした。
    学校から徒歩10分の県立図書館まで行っても、やはりなし。
    考えて考えて、途中まで教科書と同じでその後が少し違うだけ、という我ながら納得のいかないレポートを書いた記憶があります。
    友人の友人のそのまた友人から回ってきた、レポートの下書きも目にしましたっけ。
    家庭教師に書いてもらったというものでした。
    先生の意図はわかるんですが、定理の証明ってそこらへんの中学生が自力で出来るものではないと思うんですよね。
    (^_^;)

    私が通った中学は、国立大学の付属中学校でした。
    東京にも、その種の中学はいくつかあります。
    混同されがちですが、今とても人気のある都立中高一貫校とは少し性質の異なる学校です。
    都立中高一貫校は、保護者の経済力とは関係なく、学力優秀な子に高度な教育を与えるための学校です。
    私立中学に流れがちな優秀な生徒を都立でも育成するということでしょう。
    だから、1期生が東大に何人合格ということが話題になります。

    国立大学の付属中学は、少し存在目的が異なります。
    そこは、選抜された有能な先生たちの実験の場です。
    同時に、教育学部の大学生たちの教育実習の場でもあります。
    つまり、有能な先生たちの前衛的な授業と、教育実習生たちの下手くそな授業が行われる研修の場です。
    授業に協力的で均質な生徒たちが対象でなければ、そうした実験や研修は成立しません。
    実験が失敗し、生徒の学力に悪影響が出ても困ります。
    だから、そういう学校は、強引な展開の授業にも耐えられ、自学自習も可能な、ある程度の学力を持つことが入学の条件になります。

    私たちには、自分たちが「教育モルモット」であることの自覚は大なり小なりありました。
    そのことが、自虐の種でありながら、自慢でもありましたっけ。
    今思えば幼稚な自意識です。(^-^;

    年に2回ほど行われる大きな研究授業の日には、県内から先生たちが集まり、教室の後ろだけでは入りきれず、廊下の窓からも授業を見学していました。
    それは、保護者参観日や学校公開日とは異なる異様な空気の1日でした。
    授業が終わった後、後ろで見学していた知らない先生から話しかけられたことがあります。
    「今の授業、わかる?」
    「・・・・・・はい」
    「わかるの?」
    その先生は首を横に振りながら、「生徒が優秀だからねえ」とつぶやいて、ため息をついて去っていきました。

    自分自身も教える立場にたつようになり、自分が中学のときに受けていた授業が、通常の授業とは異なることがわかってきました。
    私が受けていた授業は、何でも根本から生徒に発見させる授業でした。

    単純な例を挙げれば、例えば数学の「単項式と多項式」。
    普通の授業は、単項式はこういうもので多項式はこういうものと最初に先生が説明します。
    そして、教科書の問題やプリントで単項式と多項式とを識別する練習問題を解きます。
    生徒1人1人が説明されたことを理解し、練習問題を解けるようになることが大切。
    それが授業の目的です。

    実験的な授業はそうではありません。
    いろいろな文字式が1つ1つ書かれたマジックシートを、まず先生が黒板に貼っていきます。
    「さあ、これを分類してみよう」
    先生の呼びかけに、多くの生徒から積極的な案が出されます。
    その間も先生の的確な誘導があり、生徒たちは先生の意図を汲み取りながら、何を発見すれば良いのか常に考えていきます。
    そして、結論に達します。

    文字式には、1つの積の形のものと、積のまとまりがいくつか集まった和の形のものとがある。
    生徒たちがその結論に達した上で、先生が生徒たちに告げます。
    「積の形の文字式を単項式と言い、和の形の文字式を多項式と言います」
    うーん、そうだったのかー。
    生徒たちは、感動し納得して、授業終了。
    そして、単項式と多項式との識別の練習問題は、家庭で学習。
    これが、1つの授業の流れです。

    感動と発見のある授業とは、こういうものなのでしょう。
    私は、その素晴らしさを自分が中学生のときに体感しています。
    ただ、これは、誰もができる授業ではないし、誰に対して行ってもよい授業でもないとも感じます。
    「生徒が優秀だからねえ」
    と嫌味のようなつぶやきとともに去った、かつての先生の気持ちが、今はわかります。

    単項式と多項式との違いを発見するためだけに、1時間。
    授業中に単項式と多項式との識別を練習する時間はとれないので、定着は家庭学習に頼りきり。
    感動と発見のある授業は、時間がかかります。
    あまり能率的ではありません。
    しかも、先生に相当な教育技術と自信がないと、出来ない授業です。
    生徒の間違った意見を上手く捨てていき、たどりつきたい結論を導く技術が必要になります。
    「この先生の言うことには従おう。皆で面白い授業を作っていこう」
    という共通の認識を生徒の多くが持っていることも必要です。
    たった1人の「わからんちん」に繰り返し妨害されたら、それで成立しなくなる授業形態です。
    自分のしゃべりたいことだけ自分のタイミングでしゃべりたい、他人の話を聞く気はない、というモンスターが存在する昨今の教育現場では、当時よりももっと難しいでしょう。

    また、前提として、生徒は決して予習をしてはいけないのもこうした授業のルールです。
    予習してきたら、発見も何もないですから。
    しかし、今日、それはかなり難しいです。
    先生たちがいくら予習するなと言っても、生徒たちは塾に行きます。
    勝手に予習をしてしまいます。
    そのため、現在のこうした実験的な授業は上に書いたようなシンプルなものではなく、普通の予習ではたちうちできない課題を生徒に解かせる方向に進んでいます。
    本当に学ぶ必要があることは何なのか、さらに見えにくくなっています。
    そうした学校に通っている生徒さんやその保護者の方から、
    「学校の授業でやっていることが何なのか全くわからない」
    と相談を受けることがあるのはそのためです。

    こうした授業は、積極的に参加する生徒にとっては楽しいのですが、何の勉強をしているのか理解できない生徒が現れる可能性も高いのです。
    結論が見えないまま進んでいく授業は、理解の遅い生徒には不安です。
    他人の議論をただ聞いているだけ。
    論点がよくわからず、皆が何を話しているのかわかりません。
    だんだん頭がぼんやりして、考えごとをしてしまいます。
    そして、気がついたらまとめが終わっていて、大事なことを聞き逃してしまいます。
    そのまま、何をやっているのか理解できずに授業が終わります。
    家で復習しようとしても、学校で何を勉強したのかわからないので、復習のしようがありません。
    だから、わからない子は本当に何もわからず、学習内容が定着しません。

    中学生の中には、
    「教科書の何ページをやっていますよ」
    と先生が明言しないと、黒板に書かれた問題が教科書の問題と同じであることすら気がつかない子がいます。
    自分たちで議論し、発見する授業よりも、
    「今、こういうことをやっているんですよ。これは、こうなんですよ。覚えなさいね」
    と言われたほうがわかりやすい、と感じる生徒も多いのです。

    高校生になっても、
    「うちの数学の先生は、教科書じゃなくてプリントで授業をするから、全然わかんない」
    と、毎回あせった顔で塾にやってくる子がいます。
    学校の授業の様子を私に説明すればするほど、声が震えてうろたえていきます。
    でも、プリントの実物を見せてもらうと、とてもわかりやすく、よく出来ているものであることが多いのです。
    このプリントのこの問題は、教科書のここのところの問題で、問題集のここのところの問題だから、あなたの学校の数学の先生は標準的な授業をしているんだよ、大丈夫だよと、毎回、まずその生徒を安心させるところから授業を始めています。

    わかりやすく面白い授業をしようと先生たちは工夫しているのですが、そんな工夫よりも教科書の内容を教科書の通りにやってくれるほうが余程わかりやすいという生徒は、案外多いのかもしれません。
    そんな授業はつまらないけれど、でも、何をやっているのかわからないよりはずっといいのでしょう。
    わからない授業に感動も発見もあるはすがないのです。
    自分がわかることのほうが、どれだけ嬉しいか。
    自分が自力で問題を解けることのほうがどれだけ感動的か。

    私が中学生だった頃から、40年が経ちました。
    生徒から、「学校の授業がわからない」と言われ、話を聞くと、私が体験した実験授業に近いものであることが今もあります。
    学校教育とは、教育の大衆化、一般化を目的に始められたもの。
    貴族やお金持ちだけでなく、全ての子どもに平等な教育をという理想から生まれたものが学校です。
    カリスマではなく普通の能力を持つ教師が、普通の生徒たちに行って効果のある授業が、もっと研究されても良いように思います。

    ただ、私が中学時代に受けた授業は、本当に面白かった。
    日々、感動と発見があった。
    それもまた事実なのです。



      


  • Posted by セギ at 21:56Comments(0)講師日記