たまりば

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2017年08月06日

戦争のことを少し。


今もそうですが、私は夏野菜が好きです。
高校生の頃、夏になるとよく路地物のキュウリを丸ごと1本、マヨネーズをつけてかじっていました。
そういう私を見て、必ず母は、
「戦争中みたいねえ」
と言っていました。
「戦争中はキュウリに味噌をつけて食べていたものよ」
「・・・・・」

キュウリと味噌のある「戦争中」は、随分とのんびりした印象でした。
少なくとも、私が本で読んだりドラマで見たり学校で習ったりしていた「戦争中」とは違うものでした。
母の口にする戦争中の話には「餓死」も「空襲」も「罹災」も「疫病」も「疎開」も出てきませんでした。
キュウリと味噌と、そしてもちろんお米のある「戦争中」は、果たして戦争中なのだろうか?
それはそれなりに豊かな生活であるような気がしたのです。
勿論、戦争を知らない私が安易にそんなことを言うわけにいかず、黙ってキュウリをぽりぽり食べているのが常でしたが。

太平洋戦争の頃、母は新潟市に住む旧制女学校の生徒でした。
近隣にはまだ農家が多く、祖父の友人の農家から野菜などを分けてもらっていたようです。
食糧を求めに来たよそ者には辛くあたったかもしれない農家の人も、以前からの知り合いには優しかったと思います。

母は、女学校の生徒でしたが、戦争末期には動員されて軍で働いていました。
乱数表から暗号を読み取っていたそうです。
ときどき、軍人さんからお菓子や肉の缶詰をもらえたと言います。
「戦争中でも、軍には何でもあったのよ」
と母は不満げに言っていましたが、ときどきでも分けてもらえる母の立場もかなり羨ましいものではなかったかと思うのです。
私が知識として知っている女学生の動員は、軍需工場で働かされた上にその工場が空襲されて友達は死に、自分の身体は一生残る傷を負うという、この世の地獄のようなことばかりでしたから。
そういう話と比べれば楽そうな職場にいた母は、それでも動員で働かされたことが不満だったようです。
「結婚前に働きたくなかったのに」
と言っていました。
望まない労働を強制されたというよりも、女学校を出たら仕事などせず、花嫁修業をして、良い縁談に恵まれて結婚するというあるべき人生に余計なものが挟まったことに対する不快感が先にきている様子でした。
そういう時代だから仕方ないのですが。

『火垂るの墓』を書いた野坂昭如氏は、神戸の戦災で幼い妹さんを亡くし、新潟に住む実父に引き取られました。
妹さんを亡くした経緯は小説とは随分違うものらしいのですが、妹さんは亡くなり野坂さんは生き残ったという事実は変わらないようです。
自分だけが生き延びたつらい記憶を抱えて暮らすことになった新潟での、戦争があったとは思えない豊かな暮らしへの複雑な思いが書かれた著作を読んで、母が語る断片的な思い出とそれがつながり、ああ、そういうことだと腑に落ちました。
まして、母は、私が読んでいる本の内容には頓着せず、
「ああ。野坂昭如さん?あの人の義理のお母さんと、私、お茶の教室が一緒だったのよ」
などと、さらにそれを裏付ける断片をぶっ込んでくるのでした。( ;∀;)
お茶の教室って・・・・。
いや、それはさすがに戦争中ではなく、戦後すぐの話だと思いますが。
戦後の混乱期、母はお茶だお花だと花嫁修業にいそしんでいたのでした。

『火垂るの墓』はひどく読みにくい文体でつづられています。
それは、野坂昭如さんがいかにあの主題を語りにくかったのか、その辛さがそのまま文体になったものだろうと思います。
学生時代の夏、うんうんうなりながらそれでも一応は読んだものの、以後、読み返すのはさすがにつらく、もっぱらアニメの記憶になってしまいます。
アニメで印象的だったのは、主人公が餓死に直面している同じときに、戦争が終わって疎開から帰ってきた女の子が晴れ晴れとクラシック音楽を聴いて平和を享受している場面でした。
たったそれだけのシーンで、その女の子は、戦争中ですら、それほどの苦難は味わわなかったのではないかと想像されるのです。

悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
戦争は平等に不幸をもたらすものではない。

そのことに、私は戦慄します。
みんな平等に不幸なら、まだましなような気がします。
そもそも、みんな平等に不幸になるなら、もう2度と戦争は起こらないのです。
誰もそんなことはやりたがらないのですから。

どれほど悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
だから、また戦争は起こる可能性がある。

戦争で苦しむかどうかは、財力だけの問題ではないのでしょう。
新潟は、軍事施設のある港でしたが、最後まで大きな空襲はありませんでした。
しかし、原子爆弾投下候補地のリストに載っていたそうです。
なぜ、新潟には原爆が落ちなかったのか。
そんなのは、紙一重の問題でしょう。

戦争末期、広島と長崎に「新型爆弾」が投下された後、8月11日だったのか12日だったのか、新潟市に3つ目の新型爆弾が投下されるという警報が出され、市民が一斉に避難した日があったそうです。
「あのときは、リヤカーを引いて皆で避難したのよ。関屋まで逃げたよ」
母はそう言うのですが、その「関屋」は、爆心地がどこになるかによるにせよ、被災から完全に逃れられたとは到底思えない距離にある地名なのです。
戦争中に食糧にそれほど不自由しなかった幸運など、そうなってしまったら、もう何にも関係がありません。
歴史的事実としては、新潟に原子爆弾は落ちなかった。
落とされる可能性も低かったことが今はわかっている。
それでも・・・・。

財力があれば戦争から逃れられるわけではありません。
戦争になったとき、どうすれば自分だけは苦しまないでいられるのか。
そんなのは、戦争を引き起こした当事者でもわからないかもしれません。
それでも、本人はわかっているつもりかもしれない。
それが、恐ろしい。

終戦の日、軍で玉音放送を聴いた母は、その直後、将校の1人が抜刀して女学生に切りかかり暴れだしたのを見たそうです。
そうでもしないと気持ちのやり場がなかったのか。
そうでもしないと面子が保てなかったのか。
女学生に切りかかって暴れる軍人の話は、母の話の中で最もリアリティのある話でした。

ああ、軍人ってそういうメンタルか。
乱心して切りかかるにしても、女学生相手なんですね。
結局、怪我人はいなかったそうで、全部ポーズですよね。
ああ、嫌だ、嫌だ。

その話は、私が二十歳を過ぎてからようやく母の口から語られたことでした。
もしかしたら、母は、子ども相手に語るべきではないもっと嫌なことも見聞したのかもしれません。

戦争がなかったら、東京の女子大で勉強できたのに。
母から、幾度かそう聞きました。
戦後の混乱期の東京に、娘を出すわけにはいかない。
そういう理由で、母の大学進学はかないませんでした。

何となく聞き流してきたけれど、私が当たり前のように大学に進学したのは、母のそういう気持ちも背景にあったろうと思います。
母の戦争体験をのんびりしたもののように思う私ですが、では、自分が戦争のせいで大学に行けないとなったとき、それを我慢できるのかと考えると、そんなの我慢できるわけがないのです。
本で読んだだけの悲惨な話に頭でっかちになり、小さな不幸に共感できないなんて。
薄っぺらいのはむしろ私でしょう。

戦争体験を語れる人が少なくなってきました。
私の知っている断片だけでもここに残しておこうと思います。


  


  • Posted by セギ at 15:39Comments(0)講師日記

    2017年07月23日

    1学期末テスト結果集計出ました。2017年。


    2017年度1学期期末テスト結果は以下の通りです。

    数学 90点台 1人 80点台 1人 70点台 2人 60点台 1人 40点台 2人
    英語 100点 1人 80点台 2人 60点台 1人 50点台 1人 

    数学は、上がった子もいる一方、下がった子もいて、全体の結果としては、あまり変わりませんでした。
    前回90点台に上がった子が、今回は勉強を半ば放棄した印象があり、ガクンと下がってしまいした。
    テスト前もあからさまに意欲が低く、テスト前日まで学校の課題が残っていました。
    中間テストで高得点を取り、それを以後も期待されることが、居心地が悪かったのかもしれません。

    ダイエットするとすぐにリバウンドしてしまう人の心理に近いものがあるのでしょうか。
    頑張ったけれど今回はダメだったというのではなく、高得点を取ると、次はなぜか頑張れなくなり、元に戻ってしまう子がいます。
    以前も、そういう子がいました。
    良い成績を取ると、バランスを取るように次はサボるのです。
    しかし、本人は自覚してバランスを取っているわけではなさそうです。
    無意識にそうしてしまう様子なのです。

    「やればできる子」は、頑張って高得点を取った成功体験が、以後、悪影響を及ぼす場合もあります。
    いつでも、やればできる。
    いつからでも巻き返せる。
    本人の中にそんな期待があるからなのか、ギリギリまで頑張らなくなります。
    やればまたできるようになると思うからか、むしろ以前よりも勉強しなくなる子がいます。

    いや、そんなに単純な話ではないのかもしれません。
    一度は努力できたはずなのに、同じ努力をできなくなるのはなぜなのか。
    努力をした時間が苦しかったので、同じ思いをするのはもう嫌なのか。
    努力をしても同じ結果が出るとは限らないことを、本人は気づいているのか。
    努力することが怖くなってしまうのか。

    多感な子の指導は難しいです。

    いつからでも巻き返せるのも事実だろうけれど、あまりにも低くなってからでは、到達点は、最初に期待したようなところにはいきません。
    誰より頭の良い子だったのに、本人の望むような受験はできなかった子もいました。

    今回は、それでも、結果が悪かったことへの反応がまっすぐで、また落ち着いて勉強し始めていますので、だんだん高めに安定してくると期待しています。


      


  • Posted by セギ at 14:06Comments(0)講師日記

    2017年06月22日

    授業の受け方、ノートの取り方。




    少し前になりますが、勉強が得意な芸人さんが勉強のやり方を紹介するテレビ番組があり、何かヒントになることがないかと思って見ていた私は、その中の1つのコーナーに衝撃を受けました。

    京都大学出身の芸人さんと、勉強が苦手な芸人さんの2人が、同じ世界史の授業を受けて、その後にその授業内容に関するペーパーテストを受け、その成績を比較するという実験が行われたのです。
    京都大学出身の芸人さんの使う筆記用具はシャーペン1本でした。
    板書されたことや先生の説明で気になったことなどメモしながら、基本、ずっと板書と講師の顔を見ています。
    一方、勉強ができない芸人さんは、先生が板書した通りの色でノートをとろうとカラフルなペンを出しては片付け、出しては片付け、板書をノートに書き写すのに精一杯で、話を聞いている様子がないのです。
    板書を書き取ることだけに必死なのでした。

    その後のペーパーテストの結果は、
    京都大学出身の芸人さんは1問ミスしたのみ。
    勉強が苦手な芸人さんは、0点。
    見ていて、背筋が寒くなる結果でした。

    色使いのことに関して言えば、先生の板書する通りの色でノートを取ること自体は私は悪いことではないと思っています。
    重要度がひと目でわかりますからね。
    ただ、勉強が苦手な芸人さんのやっていたことは、目を覆うようなことでした。
    黄色いチョークが使われているところは、黄色で書こうとするのです。
    ペンケースからガサガサと黄色を探し、結局、黄色のマーカーで字を書いていました。
    先生が黒板で黄色を使うのは強調したいところだからでしょうに、白いノートに黄色いマーカーで字を書いたら、読めないですよ・・・・。
    なぜ、黄色を他の色に転換にする知恵がないんだ?
    緑とかにすればいいのに・・・・。
    そもそも色探しに時間がかかりすぎていました。
    授業を受けるときは、よく使う色のペンをあらかじめ机の上に出しておけばいいのです。
    よく使う色を1本のペンに集めて自分用にカスタマイズした4色ボールペンを使用するのも良いですよね。
    ペンをいちいち探すという無駄なことに授業時間を割き、どの色にするかに必死で、肝心の授業を聞いていないのは、いくら何でもまずいです。

    字を書くこと自体にも時間がかかる人のようでした。
    きれい汚いということではなく、自分が後で読みやすい字を安定したスピードで書いていく。
    そういうことができない子は、勉強が苦手な子に確かに多いなあ・・・・。
    時間がかかるだけでなく、板書を書き写している間はそれに必死で、授業を聞いていないことも課題です。
    まとまった語句ごとに書き写すということができず、1文字見てはその1文字を書き、また1文字見てはその1文字を書く子は、板書を書き写すのが苦手な子に多いですね。
    でも、本人は、一所懸命授業を受けているつもりでいます。
    ああ、勉強が苦手って、こういうことだ・・・・。
    見ていて悲しくなってしまう映像でした。

    番組を見て、それに付随して考えたことは、授業の受け方で本人が損をしていることはまだまだあるなあということでした。
    個別指導でも、勉強が苦手な子は、私が期待しているような行動はとりません。
    「はい。次の例題を解説しますよ」
    と言っても、目がテキストの例題のところに動きません。
    仕方なく指さすと、一瞬そこに目が行きますが、またすぐ逸れていきます。
    問題の内容を理解してくれないことには解説ができません。
    そこで私が問題を音読すると、その間、ペンを出したりノートを閉じたり開いたりと余計なことをしています。
    数学の問題文を音読を聞いて理解できますか?
    そして、私が解説を始めると、今度は解説は聞かず、テキストの問題を読んでいます。
    ( 一一)
    つまりはマイペースなのですね。
    自分のやりたいことをやりたいときにやってしまい、授業のペースに合わせることができないのだと思います。
    相手の言動の目的が理解できないのでもあるでしょう。

    個別指導でこれですから、学校の授業をその子がどう受けているかを想像すると、気持ちが沈みます。
    「学校の授業がよくわからない」
    と本人は不満を漏らしたりするのですが、
    「でしょうねえ・・・・」
    以外の感想のもちようがないことも多いのです。
    学校の先生が、特に大切なことだから、
    「はい。黒板を見て」
    などと声をかけても、その通りに行動できていなのではないでしょうか。

    そうした子たちは、私が解説をしているときに、テキストの解説をじっと読んでいて顔をあげないことも多いです。
    わざわざ個別指導を受けにきて、テキストの解説を読んでいます。
    彼女たちは、学校の先生が説明しているときにも、独りで教科書を読んでいるのかもしれません。
    そうして、
    「わからない。わからない」
    と思い続けている・・・・。
    教科書を読むのは大切ですが、授業中に読むように指示されたとき以外は、予習か復習のときに読むほうが有効です。
    特に予習として1回教科書を読んで、理解できるかできないかだけでも確認しておけば、授業を受ける姿勢が違ってきます。
    でも、授業中に教科書を読めば時間が短縮できて能率的だと本人は思うのかもしれません。
    授業中に独りで自習しているようなものなのですが、本人はそれが合理的だと思っている可能性があります。
    先生の解説がよくわからないからテキストの解説を読むのだと本人は思っているかもしれせん。
    先生の長い解説を聞くよりテキストの解説を読んでささっと理解したいという気持ちも働いているでしょうか。
    結局、それで理解できないから個別指導を受けに来るのですが、そこでも同じことを繰り返してしまいます。
    成績不振の子は、自分の授業の受け方が下手だということに気づいていません。
    そこに課題があります。

    個別指導では、そういう本人の授業の受け方の課題にあわせて授業方法を変えています。
    しかし、自覚して治せるものなら本人の努力で治したほうが良いだろうなあとも思います。

    上の番組の話に戻れば、秀才の芸人さんの言葉が印象的でした。
    「小学生の頃から、僕は先生に『おまえとは授業中によく目が合う』と言われてきた」
    秀才は、授業を受けるときは顔を上げ、常に全力で先生の話を聞きます。
    その当たり前のことに気づくだけで変わっていくことがあると思います。
      


  • Posted by セギ at 12:38Comments(0)講師日記

    2017年06月15日

    中間テスト結果出ました。2017年1学期。




    1学期中間テストの集計が出ました。
    高校の数学は「数Ⅰ」「数A」などの2科目の平均、英語は「コミュニケーション英語」「英語表現」の2科目の平均点をその科目の得点としています。

    数学 
    90点台 1人 80点台 2人 70点台 1人 60点台 2人 50点台 1人 50点未満2人
    英語 
    90点台 1人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点未満1人


    英語はやればやっただけ、あっという間に結果が出る科目ですが、一方数学は、結果が出るまで時間がかかることを改めて感じます。

    数学が苦手というのは多重構造で、一番の根本には、数学的なものの考え方が理解できないことがあるのだと思います。
    何をどれだけ学習しても表面的な作業手順をなぞるだけで終わってしまい、根本的なことが理解できない様子の子はやはり存在します。
    関数の学習などでそれは顕著に表れてきます。

    そこが核なのですが、その外側に「公式が覚えられない」という状況があります。
    根本が理解できないまま、小学校・中学校の間は、それでも公式と作業手順を何とか覚えてやり過ごすのですが、高校数学になると、学習する公式の数が本人が覚えられる限界を越えていきます。
    しかも、習った公式はその後も使うので、テスト前だけ公式を無理に暗記してすぐに忘れていると、やがてツケがまわってきます。

    さらにその周囲に、ケアレスミスが多いという本人の傾向が加わってきます。
    数学に限らず他のどの科目でもミスをしやすい子もいれば、他の科目ではそんなにミスをしないのに数学だけ突出してミスを繰り返す子もいます。
    単なる練習不足から起こるミスは、練習量を増やすことで減っていきます。
    ミスをしやすいようなやり方で解いているから起こるミスは、やり方を変えればなくなります。
    数学に対する苦手意識やプレッシャーによる動揺から起こるミス。
    多分全てのことでうっかりしやすい性格的なものが要因のミス。
    後者の2つは、果たして治るものだろうかと、首をひねる場合もあります。
    本人が自分を深く見つめることで解決していくしかない課題です。

    上の三重構造だけでも大変なのですが、まだあります。
    その外側に、「数学の勉強にそんなに時間はかけられない」という本人の気持ちがコーテイングされていることが多いのです。
    本人は、それでも数学にはそれなりに時間をかけているつもりでいますし、保護者の方も「数学はやっているようですが」とおっしゃるのですが、学校の課題を提出するために、教科書準拠の問題集を教科書の例題や解答解説と首っぴきで解き方をなぞって解いているだけの時間が数学の学習時間の大半になっていないでしょうか。
    何も見ないで自分で考えて数学の問題を解いてはいません。
    模範解答をなぞっているだけです。
    テストは、解答解説を見ることができませんから、解くことができません。

    数学が苦手な高校生の多くは、この強固な四重構造を形成しています。
    さて、打開策はあるか。
    考え込む日々です。

      


  • Posted by セギ at 12:29Comments(0)講師日記

    2017年03月26日

    学年末テスト結果集計出ました。2017年3月。


    学年末テストの結果が出ました。
    以下の通りです。

    数学
    90点台 1人  80点台 2人 70点台 1人 50点台 1人 50点未満 2人
    英語 
    90点台 3人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 1人 50点未満1人


    中学・高校の数学のテスト勉強は、どこに力点を置くべきかが子どもの学力によって異なり、そこの対応が難しいところです。

    公立中学に通う子に多いのが、基本問題しか解かない子です。
    学校から配られている教科書準拠ワークの「基本問題」「A問題」などのページはそれなりにやりますが「B問題」のページは解けなくてもいいと思っている様子です
    「わからない」
    「難しい」
    と本人は言うのですが、公立中学のワークの「B問題」は、大抵の場合、最後の別枠の1問だけは本当に応用問題でも、他は「標準問題」です。
    わからないことはないし、難しいこともなく、解けないと後で困るものばかりです。
    一般都立の入試問題も、そのくらいのレベルですから。
    勿論、定期テストもそのレベルの問題が多く出ます。
    しかし、本人はそのことに対して無自覚です。

    小学校からその傾向は表れているのかもしれません。
    カラーテストの表の面さえ解ければ良い。
    裏の面は応用問題だから、自分は解けなくて良い。
    そう思い込んでいないでしょうか?

    勿論、現時点でそういう学力の子もいます。
    とにかく基本問題だけはきちんと解けるようになろう。
    当面そういう学習目標の子もいます。
    でも、「あなたは裏の面も解けなくちゃ」という学力の子が、裏は応用だから自分は関係ないと思い込んでいることがあります。
    応用と言ったって、受験算数のような問題が出ているわけではありません。
    少し難しいだけで、学校で学習する内容の枠内の問題です。

    何でこうなるのだろうと不思議に思います。
    自己評価が低いのでしょうか。
    あるいは、意識が低いのでしょうか。
    難しいことをやらずに済ますほうが楽だからでしょうか。
    素質があるのに勿体ない。
    そういう子は案外多いです。

    ただ、そういう子の成績は上げやすいのです。
    集団指導塾に通っている間は、面倒くさがって宿題をきちんと解かなかったり、
    「わからなかった」
    と言い訳して済ませていた子も、個別指導ではそうはいきません。
    その子の学力は手応えですぐにわかってしまいます。
    「わからなかった」
    と本人が主張しても、本当にわからない問題か、考えればわかるのにわからないと決めつけて解いてこなかったかは、講師は判断できます。
    本人がしぶるのを叱ったり励ましたりしながら、できるだけその子が自分の手を使って解くようにしていけば、だんだんと頭の中に道筋はできてきます。
    本人が勝手な判断で「自分には関係のないもの」と思い込んでいたレベルの問題を解くようになれば、当然学力が上がります。
    「難しい問題ばかり解かされて嫌だなあ」
    と最初は思っていたとしても、実際にテストの得点が上がれば、これで良いのだと本人も納得するようになります。


    一方、私立や都立の中高一貫校に通う子の中には、逆に「応用問題さえ解ければ」と思い込んでいる子がいます。
    しかし、本人に足りないのはむしろ基礎力です。
    こういう場合、成績を上げるのはそう簡単ではありません。

    数学の定期テストは前半が基本問題、後半が少し難しい問題というわかりやすい構成になっている場合がほとんどです。
    その中でも、本当の応用問題は最後の1問だけという構成のテストは多いです。
    本人は過度に応用問題にこだわるのですが、実際のテスト結果を見ると前半でぽろぽろ失点しています。
    計算ミスもありますが、それ以上に、基本的な公式や解法が身についていないのを感じる答案です。

    テスト対策をしている間、
    「定期テストというのは、そんなに難しいものではないよ。問題の難易度は普通だから、基本をしっかりやろう」
    と言っても納得せず、
    「うちの学校のテストは難しい。応用問題が出る」
    と主張します。
    「応用問題は最後の1問だけだよね。あれは、今は解けなくてもいいよ。あれを解こうとする時間があったら、見直しをしよう」
    そう助言しても、なかなか納得してくれません。
    応用問題さえ解けるようになれば自分の成績は上がると思い込み、諦めがつかない様子です。

    「80点台を取れるようになったら、応用問題をやろう。でも、今はまだ50点も取れないのに、最後の応用問題を気にすることに何の意味があるの?」
    「だって、テスト当日にノートを提出しなければならないから」
    学校の教科書準拠問題集からテスト範囲が指定されていて、テスト当日にノートを提出しなければならないことを気にしている様子です。
    「解けない応用問題は解答を赤ペンで書き写せばいいよ。そういうふうに学校で言われているでしょう」
    だって、テストに出るから」
    「問題集と同じ問題は出ていませんよ。テストの応用問題は本当に応用問題じゃないですか」
    「だって、最後の問題は、1問7点ですよ」
    「・・・・あなたは基本問題で何点失っているの?」
    「・・・・・・」
    こんな会話を続けていると、相手の生徒は傷つくし、私も気が滅入ります。
    ろくなことがないのですが、ここまで言わないと諦めてくれないほどに、「応用問題さえ解ければ」という幻想に取り付かれている子もいます。

    学校側としては、数人でも有名大学の理系に進学する子がいますので、その子たちを伸ばすためにかなり高度な課題も出すのだと思います。
    これは全員が取り組むべき課題かなあ?と思われる内容も含んでいます。
    一方、定期テストの問題は生徒全体の学力にあわせた標準的なレベルのもので、基礎をしっかり固めておけば80点は楽に取れる内容です。

    学校の先生も、生徒によっては発展問題・応用問題を解くのは無理だとわかっているので、ノートを点検する際に、応用問題を自力で解いていないからといって平常点を下げるようなことはしません。
    しかし、そういうことをわかっていない生徒が多いです。
    丸が多いノートのほうがいいのだと誤解して、解答を見ながら解いたのに全部赤丸をつけてしまう場合もあります。
    それは解答を丸写ししたノートと見た目が同じなのでむしろ印象が悪いよと助言しても、それすらなかなか納得しない子もいます。

    教わって解いた応用問題や、解答解説を見ながら解いた応用問題は、その類題を何題も解くことで定着します。
    しかし、そうしたことに時間をかけられるのは、基礎が身についている子に限っての話です。
    公式通りに当てはめれば解ける基本問題でも自力で解けるかどうかわからない学力の子は、テスト前に本当に公式を覚えているか確認しなければなりません。

    特に、家庭学習では教科書や問題集の解答解説を見ながら問題を解くことが常態化している子は危険です。
    本人はスラスラ解いているつもりでも、公式や解法を見ながら解いているだけなので、解答解説がないと基本問題も解けない可能性があります。
    そのことを自覚してもらい、何も見ないで基本問題を解けるように練習するのがその子に対するテスト対策です。

    一方、本人は「そういう勉強は自分でもできる」と思っています。
    その子の勉強方法では、教科書の例題や問題集の解答解説を見ながら単なる代入をしているだけで、学習が空洞化しているのですが。
    真面目に時間をかけて勉強しているはずなのに、学習した内容が頭にとどまっていないのです。

    しかし、わからないときに教科書の例題を参考にしたり、いっそ解答解説を見て確認したりというのは、勉強法として悪いわけではありません。
    勉強が得意な子も、それはやっています。
    勉強が得意な子の勉強法と表面上は似ているということが、この問題が解決しない原因なのかもしれません。

    勉強が得意な子は、自分が例題を参考にしたことや解答解説を見たことを自覚しています。
    それは「自力で解けなかった問題」です。
    当然、問題にチェックを入れます。
    解けなくて悔しかった記憶とともに、その問題の解法は鮮明に記憶に残ります。
    だから、次に類題を解くときに、
    「あ、これはあの問題だ」
    と気づいて、今度は自力で正答することができます。

    基本問題が解けない子は、解答解説を見ながら解いたことに無自覚です。
    「自力で解けなかった」
    と思っていません。
    だから、基本問題はチェックしません。
    チェックを入れるのは、難しい応用問題ばかり。
    解答解説を読んでもわからない問題だけが「自力で解けなかった問題」という判断をしている様子です。
    そして、テスト本番で、基本問題も解けないことに自分で驚き、動揺してしまいます。

    不本意な点数の答案が返ってきてからの反省も的外れです。
    わかっていたのに、度忘れしたー。
    うっかりしてたー。
    やっぱり、うちの学校のテストは難しい・・・。
    ・・・・と、分析もそんなふうに間違っていることが多いです。

    基本問題を自力で解けますか?
    解答解説を見て理解できることと、自力で解けることとは違うんですよ。

    このつらい現実を認めて、やり方を変えることができた子は、成績に変化が見えています。

      


  • Posted by セギ at 11:13Comments(0)講師日記

    2017年03月17日

    消しゴムやシャーペンの使い方。




    もうすぐ新年度。
    教科書もテキストも新しくなり、気分も一新されます。
    高等部に進学する子たちの高校数学の予習も始まりました。

    高校数学の最初の学習内容は、「式の計算」。
    まずは、「降べきの順」というルールについて。
    次数の高い項から順番に項を書いていくということで、中学生の頃から数学の教科書や問題集は降べきの順で書いてあります。
    例えば、 5x2+2x-3 といった形ですね。
    そうやって何年もかけて無意識に訴えかけていますので、大体は問題ありません。

    ところが、中学生の中に、なぜか降べきの順に逆らって書く子がいます。
    問題に 5x2+2x-3 と書いてあるのに、わざわざ -3+2x+5x2 と書き直すんです。
    なぜそのように書き直すのか尋ねても、明確な理由を語りません。

    「次数の高い項から書いていったほうがいいよ」
    「でも、これでも、いいんでしょう?」
    「中学生の間は、それでもいいけど」
    「・・・・・これでもいいんなら、いいでしょう?」
    「いいんだけど、なぜ、わざわざ順番を換えて、そう書くの?問題の通りに順番に書いていったら、そうはならないよね?」
    「・・・・・でも、これでも、いいんでしょう?」
    「・・・・・いいけどねえ・・・・・」
    と、歯切れの悪い会話を交わすことがあります。
    本人の中で、「昇べきの順」のほうが気持ちがいいというルールがあるのなら、それは仕方ないのですが、その「本人ルール」が私には読み取れないこともあります。
    いつもそのように書くわけではないからです。
    そのときどきで順番はバラバラです。

    ・・・・目についたものから書いているだけなのではないか?
    ルールをもって整理しながら書いていくということが、出来ないのではないか?
    「ルールをもって順番に」ということが、理解できていないのではないか?
    それは、分析力に関わっていくことなので、心配になります。

    あるいは。
    うっかり書き始めて、消すのが面倒くさいだけなのではないか?
    消しゴムを使うのが面倒くさいのではないか?
    そんなふうに思えてくることもあります。

    消しゴムの使い方1つとっても、個別指導をしていますと心配なことがあるんです。
    「この消しゴム、消えない」
    と文句を言う子どもがいます。
    消し方が汚く、元の文字が残っていて、その上に新しく書いても、何を書いたのかよくわかりません。
    玩具みたいな消しゴムを使っている場合は、それは消えないでしょうと思いますが、普通の消しゴムを使っていても、そんなことがあります。
    「貸して」
    と受け取って、試しに消してみますと、別に何の問題もない消しゴムです。
    本人の消し方が悪いんです。
    力の入れ方や、丁寧に消すやり方が身についていないのでしょう。

    「消しゴム」を使わない勉強方法というのは、あります。
    間違えた答案を消して直すのではなく、きちんとバツをつけて、横か下に赤で正答を書き込むという勉強方法です。
    間違えた答案をすぐ消して書き直し、赤で堂々と丸をつけて、正答したと自分でも思い込む不可解な子どももいますから、その勉強方法を小中学校の先生が生徒に義務づけるのは理解できます。
    でも、書き間違いには消しゴムを使います。
    そんなのをいちいち残していたら、答案が汚ならしくて、読み取れないですから。
    そんなときに、消しゴムをきれいに使えない子がいます。

    なぜ、消しゴムを正しく使えないか。
    それは、教わっていないからなんでしょう。
    手取り足取り教わらないと、消しゴムの正しい使い方が身につかない子はいます。
    大人がやっているのを観察して、見よう見真似で正しい方法を身につけていくということができないようです。
    あるいは、消し方を自分なりに少しずつ工夫し、改善していくということもできないのでしょう。
    教わらない限り、消しゴムを使ってきれいに消す方法が身につかないのです。

    学習能力の根本は、自分で観察し、考え、工夫していくところにあると思うのですが、教わらないと自分では改善できない子は一定数います。
    自分で改善しなければならないという発想そのものがないようにも感じます。
    そして、自分の技能の低さを無視し、消しゴムのせいにします。

    シャーペンもそうですね。
    芯を折りまくる生徒は多いです。
    バキバキボキボキ、90分間に5回や10回は芯を折っている子がいます。
    あげく、シャーペンを詰まらせて、その修理のために授業停止。
    (^_^;)

    「このシャーペン、芯がすぐ折れる」
    と生徒は言います。
    本当にそう思うのなら、シャーペンの先端をよく観察したほうが良いです。
    ペン先に微かな凹凸がある場合、それにひっかかって芯が折れやすいということはあると思います。

    芯が粗悪品ということも、ないわけではありません。
    以前は、100円ショップで購入した芯は、折れやすかったかもしれません。
    かなり当たり外れがある印象は、私も持っていました。
    でも、最近は、そうでもないような気がします。

    多くの場合、芯がすぐ折れるのは、ペンや芯のせいではなく、本人のせいです。
    芯を出し過ぎているんです。
    出し過ぎた芯で、シャーペンを斜めに持って、高い筆圧で書いたら、それは折れます。
    力学的に考えたらわかることです。

    自分が何をしているために、どういう結果になっているか。
    シャーペン1つのことでも、少し考えて、少し工夫したら、わかること。
    どうして何年も何年も、そのことに気づかず、芯を折り続けているのか。
    家電ですら学習能力を持つ昨今、そんなことでどうするのか?
    どうしてもどうしても芯を折ることを改善できないのなら、芯の折れないシャーペンも発売されていますよ。
    (*^_^*)

    消しゴムを使うと、よく消えない。
    シャーペンを使うと、すぐ折れる。
    勉強自体よくわからないのに、勉強の周辺にもストレスがいっぱい。
    これは、学習意欲に影響します。
    同時に、目の前の課題を解決できないという点において、学習能力が多少表れていると見ることもできます。

    シャーペンの芯くらいいいじゃないか、好きなだけ折らせておけば、というのも1つの見解かもしれませんが、何しろ個別指導をしていますで、折れた芯が私の顔に当たることがあります。
    さすがに ┐(´д`)┌ヤレヤレ という気持ちになります。
    私は眼鏡をかけているから良いですが、他人の目に芯が入る危険もあります。
    芯を折っている子は、そういうことに気づかないという点も、私は心配しています。

    そういうわけで、自衛の意味もあり、シャーペンの芯をよく折る子には、その指導も行っています。
    面白いもので、シャーペンの使い方に改善が見られ、芯を折らなくなる子は、成績も上がっていきます。
    細かいことではあるけれど、私が何のために何を言っているのか理解でき、改善できるということは、学習面の他のことも改善可能だからでしょうか。
    技術の伝達が可能だということかもしれません。

    一方、助言や注意がいちいち耳に逆らう様子の子もいます。
    ありのままの自分が最高に素晴らしいことを褒めてほしい。
    褒めて伸ばしてほしい。
    そういう願望の子どもや保護者の方は最近減ってきました。
    褒めるだけでは限界があることが広く知られるようになってきました。
    それでも、自分のやり方を直させられることに不満を感じる子も中にはいます。
    しかし、その子がスポーツをやっている場合、スポーツになぞらえて説明すると案外理解してくれます。
    フォームが悪ければ直すでしょう。
    我流の間違ったフォームでどれだけ練習したって、結果なんか出ないでしょう。
    逆に、ちょっと直すだけで大きく変わってくることはあるでしょう。
    こう言うと、反発せず、耳を澄まして聞いてくれたりします。
    腑に落ちる経験があるのだと思います。


    私が何か言うまでもなく、成績の良い子は、勉強するための正しい形が小学生でも身についています。
    どこをどう直せばさらに良い結果が出るようになるか。
    その助言が欲しくて個別指導塾に来ています。

    そうした内面だけでなく、見た目も勉強するにふさわしい良い形を身につけている子が多いです。
    「姿勢が良い」といっても、変に緊張した姿勢の良さではなく、何時間でも楽にそのままでいられる座り方をしています。
    勉強道具は使いやすい大きめのペンケースに必要なものが入っています。
    シャーペンの使い方も、消しゴムの使い方も、無駄な動きがなく、安定しています。
    使い終わった消しゴムを放り投げるように置いて、机から落として、身をかがめてそれを拾って、といったくだらないストレスとも無縁です。
    勉強をたくさんする毎日なので、文房具は友達。
    大切に使って失くしませんし、新しい文房具にも興味があり、新製品を私に見せてくれたりします。
    (*^_^*)

      


  • Posted by セギ at 14:26Comments(0)講師日記

    2017年01月06日

    感動と発見のある授業。




    そろそろ中学3年生は「三平方の定理」の学習をする時期です。
    「三平方の定理」とは、直角三角形に関する定理。
    直角三角形の斜辺の2乗は、残る2辺の2乗の和に等しい。
    そういう定理です。
    この定理は証明方法が100通り以上あることでも有名です。
    大抵2つくらいは教科書や参考書に載っています。

    以前も書きましたが、私が中学生のとき、教科書に載っているもの以外の三平方の定理の証明をレポートにまとめて提出という宿題が出て、それがもう本当に負担で嫌だったことを覚えています。
    今だったら、そんなのはネットで調べてチャチャッと書きあげてしまうのでしょうが、当時は、図書館で調べるか自分で考えるしか方法がありませんでした。
    学校の図書室の本は、早めに行動した子がもう借り出したのか、もともと蔵書にないのか、それらしい本は見当たりませんでした。
    学校から徒歩10分の県立図書館まで行っても、やはりなし。
    考えて考えて、途中まで教科書と同じでその後が少し違うだけ、という我ながら納得のいかないレポートを書いた記憶があります。
    友人の友人のそのまた友人から回ってきた、レポートの下書きも目にしましたっけ。
    家庭教師に書いてもらったというものでした。
    先生の意図はわかるんですが、定理の証明ってそこらへんの中学生が自力で出来るものではないと思うんですよね。
    (^_^;)

    私が通った中学は、国立大学の付属中学校でした。
    東京にも、その種の中学はいくつかあります。
    混同されがちですが、今とても人気のある都立中高一貫校とは少し性質の異なる学校です。
    都立中高一貫校は、保護者の経済力とは関係なく、学力優秀な子に高度な教育を与えるための学校です。
    私立中学に流れがちな優秀な生徒を都立でも育成するということでしょう。
    だから、1期生が東大に何人合格ということが話題になります。

    国立大学の付属中学は、少し存在目的が異なります。
    そこは、選抜された有能な先生たちの実験の場です。
    同時に、教育学部の大学生たちの教育実習の場でもあります。
    つまり、有能な先生たちの前衛的な授業と、教育実習生たちの下手くそな授業が行われる研修の場です。
    授業に協力的で均質な生徒たちが対象でなければ、そうした実験や研修は成立しません。
    実験が失敗し、生徒の学力に悪影響が出ても困ります。
    だから、そういう学校は、強引な展開の授業にも耐えられ、自学自習も可能な、ある程度の学力を持つことが入学の条件になります。

    私たちには、自分たちが「教育モルモット」であることの自覚は大なり小なりありました。
    そのことが、自虐の種でありながら、自慢でもありましたっけ。
    今思えば幼稚な自意識です。(^-^;

    年に2回ほど行われる大きな研究授業の日には、県内から先生たちが集まり、教室の後ろだけでは入りきれず、廊下の窓からも授業を見学していました。
    それは、保護者参観日や学校公開日とは異なる異様な空気の1日でした。
    授業が終わった後、後ろで見学していた知らない先生から話しかけられたことがあります。
    「今の授業、わかる?」
    「・・・・・・はい」
    「わかるの?」
    その先生は首を横に振りながら、「生徒が優秀だからねえ」とつぶやいて、ため息をついて去っていきました。

    自分自身も教える立場にたつようになり、自分が中学のときに受けていた授業が、通常の授業とは異なることがわかってきました。
    私が受けていた授業は、何でも根本から生徒に発見させる授業でした。

    単純な例を挙げれば、例えば数学の「単項式と多項式」。
    普通の授業は、単項式はこういうもので多項式はこういうものと最初に先生が説明します。
    そして、教科書の問題やプリントで単項式と多項式とを識別する練習問題を解きます。
    生徒1人1人が説明されたことを理解し、練習問題を解けるようになることが大切。
    それが授業の目的です。

    実験的な授業はそうではありません。
    いろいろな文字式が1つ1つ書かれたマジックシートを、まず先生が黒板に貼っていきます。
    「さあ、これを分類してみよう」
    先生の呼びかけに、多くの生徒から積極的な案が出されます。
    その間も先生の的確な誘導があり、生徒たちは先生の意図を汲み取りながら、何を発見すれば良いのか常に考えていきます。
    そして、結論に達します。

    文字式には、1つの積の形のものと、積のまとまりがいくつか集まった和の形のものとがある。
    生徒たちがその結論に達した上で、先生が生徒たちに告げます。
    「積の形の文字式を単項式と言い、和の形の文字式を多項式と言います」
    うーん、そうだったのかー。
    生徒たちは、感動し納得して、授業終了。
    そして、単項式と多項式との識別の練習問題は、家庭で学習。
    これが、1つの授業の流れです。

    感動と発見のある授業とは、こういうものなのでしょう。
    私は、その素晴らしさを自分が中学生のときに体感しています。
    ただ、これは、誰もができる授業ではないし、誰に対して行ってもよい授業でもないとも感じます。
    「生徒が優秀だからねえ」
    と嫌味のようなつぶやきとともに去った、かつての先生の気持ちが、今はわかります。

    単項式と多項式との違いを発見するためだけに、1時間。
    授業中に単項式と多項式との識別を練習する時間はとれないので、定着は家庭学習に頼りきり。
    感動と発見のある授業は、時間がかかります。
    あまり能率的ではありません。
    しかも、先生に相当な教育技術と自信がないと、出来ない授業です。
    生徒の間違った意見を上手く捨てていき、たどりつきたい結論を導く技術が必要になります。
    「この先生の言うことには従おう。皆で面白い授業を作っていこう」
    という共通の認識を生徒の多くが持っていることも必要です。
    たった1人の「わからんちん」に繰り返し妨害されたら、それで成立しなくなる授業形態です。
    自分のしゃべりたいことだけ自分のタイミングでしゃべりたい、他人の話を聞く気はない、というモンスターが存在する昨今の教育現場では、当時よりももっと難しいでしょう。

    また、前提として、生徒は決して予習をしてはいけないのもこうした授業のルールです。
    予習してきたら、発見も何もないですから。
    しかし、今日、それはかなり難しいです。
    先生たちがいくら予習するなと言っても、生徒たちは塾に行きます。
    勝手に予習をしてしまいます。
    そのため、現在のこうした実験的な授業は上に書いたようなシンプルなものではなく、普通の予習ではたちうちできない課題を生徒に解かせる方向に進んでいます。
    本当に学ぶ必要があることは何なのか、さらに見えにくくなっています。
    そうした学校に通っている生徒さんやその保護者の方から、
    「学校の授業でやっていることが何なのか全くわからない」
    と相談を受けることがあるのはそのためです。

    こうした授業は、積極的に参加する生徒にとっては楽しいのですが、何の勉強をしているのか理解できない生徒が現れる可能性も高いのです。
    結論が見えないまま進んでいく授業は、理解の遅い生徒には不安です。
    他人の議論をただ聞いているだけ。
    論点がよくわからず、皆が何を話しているのかわかりません。
    だんだん頭がぼんやりして、考えごとをしてしまいます。
    そして、気がついたらまとめが終わっていて、大事なことを聞き逃してしまいます。
    そのまま、何をやっているのか理解できずに授業が終わります。
    家で復習しようとしても、学校で何を勉強したのかわからないので、復習のしようがありません。
    だから、わからない子は本当に何もわからず、学習内容が定着しません。

    中学生の中には、
    「教科書の何ページをやっていますよ」
    と先生が明言しないと、黒板に書かれた問題が教科書の問題と同じであることすら気がつかない子がいます。
    自分たちで議論し、発見する授業よりも、
    「今、こういうことをやっているんですよ。これは、こうなんですよ。覚えなさいね」
    と言われたほうがわかりやすい、と感じる生徒も多いのです。

    高校生になっても、
    「うちの数学の先生は、教科書じゃなくてプリントで授業をするから、全然わかんない」
    と、毎回あせった顔で塾にやってくる子がいます。
    学校の授業の様子を私に説明すればするほど、声が震えてうろたえていきます。
    でも、プリントの実物を見せてもらうと、とてもわかりやすく、よく出来ているものであることが多いのです。
    このプリントのこの問題は、教科書のここのところの問題で、問題集のここのところの問題だから、あなたの学校の数学の先生は標準的な授業をしているんだよ、大丈夫だよと、毎回、まずその生徒を安心させるところから授業を始めています。

    わかりやすく面白い授業をしようと先生たちは工夫しているのですが、そんな工夫よりも教科書の内容を教科書の通りにやってくれるほうが余程わかりやすいという生徒は、案外多いのかもしれません。
    そんな授業はつまらないけれど、でも、何をやっているのかわからないよりはずっといいのでしょう。
    わからない授業に感動も発見もあるはすがないのです。
    自分がわかることのほうが、どれだけ嬉しいか。
    自分が自力で問題を解けることのほうがどれだけ感動的か。

    私が中学生だった頃から、40年が経ちました。
    生徒から、「学校の授業がわからない」と言われ、話を聞くと、私が体験した実験授業に近いものであることが今もあります。
    学校教育とは、教育の大衆化、一般化を目的に始められたもの。
    貴族やお金持ちだけでなく、全ての子どもに平等な教育をという理想から生まれたものが学校です。
    カリスマではなく普通の能力を持つ教師が、普通の生徒たちに行って効果のある授業が、もっと研究されても良いように思います。

    ただ、私が中学時代に受けた授業は、本当に面白かった。
    日々、感動と発見があった。
    それもまた事実なのです。



      


  • Posted by セギ at 21:56Comments(0)講師日記

    2016年12月22日

    2学期期末テスト結果出ました。2016年。


    期末テストの結果が出ました。
    数学 
    100点 1人 90点台 1人 70点台 2人 60点台 1人 50点未満 3人
    英語 
    90点台 1人 80点台 2人 70点台 2人 60点台 1人 50点台 1人 50点未満 1人 

    数学は前回初めて90点台に上がった人が、その勢いで今回は100点を達成。
    さらにもう1人90点台に突入しました
    弾みがついているのを感じます。
    一方50点未満の子たちですが、基礎を固め、ついに1人、60点台に押し上げたと思ったら、逆に、しばらくそんな点を取ったことがなかったのにがくっと下がってしまった子がいました。
    2学期は、テスト範囲が難しいにも関わらずあまり勉強に集中している様子の見られない生徒が出現する時期でもあります。
    毎年のことなので、ああ、またか、今度はこの子かと私は感じます。
    本人は肝が冷えて3学期は頑張ることと思います。

    英語は、文法にしろ読解にしろ、教科書の範囲だけがテスト範囲のほうが対策がしやすいのは事実です。
    テスト範囲だけにしぼって対策すれば良いのですから。
    何が出るかは、わかりきっています。
    うちの塾でも、そういうタイプのテストの学校に通う子で、1学期末の後に数学から英語に科目変更し、テストの度に15点ずつ得点アップしている人がいます。

    一方、教科書以外のテスト範囲がある学校の対策は難しくなります。
    例えば単語集や熟語集からも問題が出される場合。
    毎週の小テストの範囲だったものが定期テストでまとめてテスト範囲となるのですから、コツコツ勉強して忘れないように反復していく必要があります。
    しかし、小テストを一夜づけて何とかやり過ごすタイプの子は、定期テスト範囲の分量には耐えられず、定期テスト前は単語・熟語の勉強をほとんど放棄してしまいます。
    その配点が20点ともなると、本人だけ80点満点のテストを受けているに等しいので、得点はいつもパッとしません。

    NHKの英語講座がテスト範囲の学校も厄介です。
    およそ2か月分のテキストは、対策するには膨大な量です。
    しかも、本人は一度も放送を聴いていなかったりします。
    テキストすら購入していないという最悪の場合もあります。

    あるいは、教科書の文章ではない初見の長文問題が必ず出題される場合。
    長文を自力で読めない子は、この応用問題に対応できません。
    やはりそこで失点しがちです。

    こうしたテスト範囲がある学校の場合、対策は難しいのですが、その学校がそうしたテストを作っていることには、一定の安心感、信頼感もあります。
    教科書だけがテスト範囲の定期テストで高得点を取って、学力があるかのように誤解することのほうが恐ろしいからです。
    定期テストの点数が良いと、本人も保護者もそのつもりになってしまいます。
    そのつもりで全国模試を受け、惨敗します。

    定期テストにも応用問題が出ている。
    では、応用力をつける勉強をしていかなければね。
    返却されたテストを見ながら、そのような話がしやすい。
    だから、教科書以外のテスト範囲のあるテストを作ってくれる学校のほうが、私は嬉しいです。

    ところで、テストは受けた後が大切。
    返却されたばかりのテストを解き直したり、次回からの対策を話したりという時間を持ちたいです。
    定期テストを持ってくるのを忘れる子が複数いるのが頭痛の種です。
    1週目、「あ。忘れた。来週持ってきます」
    2週目、「あ。忘れた。持ってくるんだった」
    3週目、「・・・・探したけど、見つかりませんでした」
    残念です。
    本人は、どれほどの損失を招いているか、あまり自覚はないのかもしれませんが。

    さて、明日から3日間お休みをいただいた後、冬期講習に入ります。
    その間、パソコンを立ち上げる日は限られていますので、パソコンメールでのお問い合わせの返信は遅くなるかと思います。
    また、新規の冬期講習お申込みや体験授業は現在受け付けておりませんので、ご了承ください。


      


  • Posted by セギ at 13:21講師日記

    2016年10月27日

    中間テスト結果出ました。2016年度2学期。


    中間テストの結果が出ました。
    まだ1人、最も遅いテスト日程だった人からの報告がありませんが、成績の良い人なので大丈夫だと思います。
    いつも通り80点台ではないかと予想しています。
    後日結果に加えます。

    数学 90点台2人 80点台2人 70点台1人 60点台1人 50点未満3人
    英語 90点台2人 80点台3人 60点台1人 50点台2人 50点未満1人

    全体の傾向としては成績は順調に高得点を維持または上昇中です。
    しかし、数学があまり得意ではない女子生徒をどう指導していくかは、今回の、そして永遠の課題と感じます。
    彼女たちは真面目ですし、勉強に時間もかけています。
    国語などの科目は得意なので、入試に合格し、ハイレベルの中学・高校に通っています。
    しかし、数学は、その学校のレベルについていくのは少々苦しいのです。
    特に高校数学に入りますと、「体系数学」だの「赤チャート」だので学習するのは、本人にとって必ずしも良いことではありません。
    もっと易しい基本的なことに重点を置いて授業をしてくれる高校に通っていれば、数学に苦手意識を持たず、センター試験くらいは楽勝でこなせる学力になるかもしれないのに、これでは数学嫌いな子を増やすためのカリキュラムのようなものだ。
    そう思わずにいられません。

    ただ、本人たちの学習姿勢に問題がないかといったら、そうではありません。
    覚えなければならない公式は、覚えなければならないのに、なぜ覚えないのだろう?
    そう思うことは多いです。
    中学で学習する公式はそれでも定着するのです。
    しかし、高校数学の公式は不思議なほど定着しません。
    ほとんど頭に残らないようなのです。

    いや、そもそも頭の中に残そうという姿勢が感じられない子が多いです。
    問題を解いている間、常にテキストを開いて、公式や例題を見ながら代入して解いています。
    早く公式を暗記しよう、暗記してテキストを見ないで解いてみようという姿勢が見られません。
    そこを注意し、強制しないと、そのような学習ができません。
    数学の公式を頭の中に残すことを諦めているようにすら見えます。
    理解しきれない公式で頭の記憶容量を食いたくないと思っているのでしょうか。
    人間の頭の記憶容量は、安物のパソコンじゃないんですから、そんなに簡単に一杯にはなりませんよー。

    彼女たちは、テスト前にギリギリ公式を詰め込んで、テストが終わったらすぐ忘れる学習姿勢に陥っています。
    地歴・公民を学習するときの姿勢で数学も勉強しているのでしょう。
    いや、地歴・公民もそんな姿勢で学習しないほうが良いのですが、まあ何とかなるのも事実。
    しかし、数学は、一度学習した公式は他の単元でも繰り返し活用することになるので、テストが終わったら忘れてしまうような勉強をしていると、理解できることがどんどん少なくなっていきます。
    公式を意識して早めに覚え、生涯忘れないくらいの覚悟をするだけで随分変わる高校生は多いでしょう。

    なぜ数学の勉強がそんなに消極的なものになったのでしょうか。
    そうなる前にどこかでわからなくなっている可能性が高いです。
    どこからわからなくなったのかなあ?
    どこから興味がなくなったのかなあ?


    先日、成績の良い中学生の女子と「座標平面と図形」を学習していて、背中がスッと寒くなるような経験をしました。
    座標平面上の三角形の二等分線を求める問題でした。
    特に難しい問題ではありません。
    彼女の学力なら楽勝のはずなのです。
    しかし、ひと通り説明を終わっても、彼女に動きがありませんでした。
    「何か質問はある?」
    と尋ねても、反応がありません。
    「じゃあ、練習問題を問いてみようか」
    と声をかけても動きがありません。
    「どうしたの?どこがわからない?」
    と尋ねると、
    「全部わからない」
    という返事がありました。

    ど、どうして?
    計算過程は長いけれど、難しいことは何1つないのに。
    1つ1つの過程の意味も明瞭だから、何も難しくないのに。

    思い返せば、彼女は、2直線の交点の座標を求める練習のときに少し妙な表情をしていました。
    2直線の式を連立方程式として解くと交点の座標が出ることの意味が、よくわかっていなかったのではないか?
    直線上の点のx座標とy座標には、その直線の式と同じ関係があることが理解できていないのではないか?
    いや、そもそも、座標平面とは何なのかを呑み込めていないのではないか?
    グラフとは何であるかわかっていないのではないか?
    小学校のときによく描いた折れ線グラフのような感覚で関数のグラフを見ているのではないか?

    彼女に限らず、関数の基本練習をしている間はその通りに問題を解いていくことができるけれど、座標平面を用いた応用問題になると何をどう解くのかわからなくなる子がいます。
    座標平面とグラフに関するルールを直感的に理解できると全ては易しいのですが、理屈で理解しようとすると説明の言葉も難解で長くなり、理解するのが大変です。
    何かが詰まって、上手く理解できなくなっているのかもしれません。


    それでも、関数は、理解できればこんな得点源はないのです。
    図形はセンスが多少は影響しますが、関数はセンスなんか必要ないです。
    定石通りにやることをやるだけで答えが出てきますから。

    嘆いている暇はありません。
    ここで数学に苦手意識を持つことは阻止しなければ。

      


  • Posted by セギ at 13:23Comments(0)講師日記

    2016年09月02日

    ふなっしーの武道館ライブに行ってきました。2016年8月。


    2016年8月23日、ご当地キャラ好きの友人に誘われて、ふなっしーの武道館ライブに行ってきました。
    武道館と言えば、ビートルズが来日公演を行って以来、ロックの聖地。
    メタルロック好きなふなっしーの憧れの場所の1つです。
    CDデビューしたときに冗談で口にした「武道館公演」がついに実現したのです。

    午後3時、九段下の改札で友人と待ち合わせてエスカレーターに乗ると、前を行く人も、駅方向に戻ってくる人も、どこかしらにふなっしーのグッズを身に着けています。
    大きなライブが始まる前のこの雰囲気は、ふなっしーでもロックバンドでも同じですねー。
    ヽ(^。^)ノ

    まずはグッズ売り場の行列に並びました。
    売り場は武道館正面のテントなのですが、いったん階段を上がって、武道館の外回廊をずっとずっとまわり込んでいくと、ようやく行列最後尾に到着。
    30分ほどでグッズ販売のテントに到達しました。
    買い物をしている友人を後ろから覗き込むと、プラスチック製の何だか微妙な品物を買っています。
    「何それ?」
    「ヘドバン・ビームライト」
    「・・・・・何それ?」
    「ペンライトだよ。買うといいよー。ライブで楽しいよー」
    「・・・ほお?」
    ペンライトを振るようなライブに参加したことがないので何だかよくわかりませんでしたが、ともかく勧めに従い私も購入しました。
    他にマフラータオルとパンフレットも購入。

    グッズ購入の後は、行列をしている間に見えていた少し離れた位置のガチャガチャ・テントに移動しました。
    ここはほとんど行列せずに購入できました。
    1個500円のカプセルの中にグッズが1つ入っています。
    大当たりは、ライブ前にふなっしーに直接会えるミート&グリート券。
    わずか5個しか当たりがありません。
    無論外れて、私のカプセルにはミニタオル。
    友人のカプセルにはリストバンドが入っていました。
    カプセルもふなっしーなのが可愛い。

    少し歩いて北の丸公園へ。
    あずまやがあり、時間までそこに座ってのんびり過ごしました。
    緑が目に優しい。
    空が広く、良い風が吹いていました。
    ライブ前のこういう時間が好きです。
    グッズを買うために早めに来るのですが、それだけでなく、会場近くで時間を過ごすところから既にライブは始まっていると感じます。
    同じものが好きな人たちとこれからの楽しい時間を待つ連帯感と高揚感。
    友達が貸してくれたウォークマンで、ふなっしーのアルバムを予習。
    「梨空レインボー」がいいなあ。
    明るい曲です。
    ふなっしーは、シングル2枚、アルバム1枚をリリースしています。
    アルバム1枚で武道館に立つとは、いい度胸だ。
    ヽ(^。^)ノ

    開場の6時近くになったので、そろそろ移動。
    入場も長い行列ができていましたが、6時半には席に着くことができました。
    1階席です。
    中央に四角いステージ。
    それを囲むように全方位に席が設定されています。
    ステージ中央は赤いカーテンで覆われていました。
    2階席の上の2列は空席。
    少しだけ当日販売席があるということでしたが、あのあたりでしょうか。
    キャパ1万2千人がほぼ埋まる盛況です。

    ついに午後7時。
    4方向に設置された大スクリーンにふなっしーの姿が映し出され、ライブ開始のカウントダウンが始まりました。
    そして、中央のカーテンが取り払われ、本人登場。
    四角いステージの中央にさらに丸いステージが乗っていて、段差はなく、バリアフリー。
    ご当地キャラに優しいステージです。
    障害物が何もなく、これなら全方向から見やすい。
    あれ?
    ふなっしーの顔、いつもと違わない?
    友人いわく「5号機だ!新しい梨皮だよっ」

    暗くなった観客席からふなっしーに向けて振られた無数のペンライト。
    これがきれいでした。
    視界が狭く暗いふなっしーにも、この無数の光は見えたでしょう。
    「ヘドバン・ビームライト」、買って良かった。
    こぶしを振り上げたりタオルを振り回したりするライブしか参加したことがなかったので、これは異文化だなと思いましたが、なかなか良いものですね、ペンライト。

    まず、アルフィーの高見沢さんのギター演奏で、デビュー曲「ふなふなふなっしー」を披露。
    ふなっしーの歌声は、口パクじゃない!
    本気だな、ふなっしー。
    ライブは、口パクによるクオリティの維持よりは、下手な歌でも生の気迫が大切ですよね。

    そして、円形ステージが回転していることに気づきました。
    しかも、回転速度が物凄く遅い、ご当地キャラ仕様です。
    いろんなことが優しいなあ。(^^)

    高見沢さんがステージから去ると、替わって芸人の小島よしおさんが登場。
    「頂上リサーチ」というテレビ番組でふなっしーと一緒にハワイに行った人です。
    まだ、ふなっしーを転がしたり叩いたりすれば笑いが取れると誤解しているテレビマンが多かった時期で、ふなっしーも滅茶苦茶なオファーに応えていました。
    そんな中で、あの番組は、ふなっしーがスカイダイビングをしたり、マンタ鑑賞ナイトクルージングで海に潜ったりしました。
    ハワイの美しい風景と小島よしおさんのふなっしーへの気遣いや優しさがあったので楽しく見ることのできた番組だったと記憶しています。

    2曲終わって、客席から、
    「ふなっしー、休憩してー!」
    という絶叫。
    周囲もそうだそうだという空気になったのに、ふなっしーが、
    「次は」
    と言い出し、会場は「えーっ」とブーイング。
    ふなっしー、一瞬きょとんとしましたが、ステージ続行。

    ファンは、ふなっしーにそんなに無理をしてほしくないのでしょう。
    最近の動画を見た友人の話では、ふなっしーは「あまり危ないことはするな」とファンからお叱りを受けているとのことです。
    それは多くの人の願いだろうと思います。
    足1本骨折覚悟のロケなんか、やらなくていいよ。
    いつか取り返しのつかないことが起きて、今までのふなっしーの道のりが台無しになったら悲しいから。
    危ないことをしなければテレビに出られないのなら、テレビには出なくていい。
    そんなテレビは見たくない。

    SMAPの解散騒動もあり、テレビというメディアやマスコミ、芸能事務所への不信感が世の中に広がっているように思います。
    ふなっしーは、誘われてもタレント事務所への所属を断り、今も基本は1人で活動しています。
    それがテレビで活動しにくくなった原因の1つかどうかは私にはわからないけれど、ふなっしーがタレント事務所に所属しなかったのは良いことだと思います。
    大きな事務所に守られていないから、ときには心ない中傷記事を書かれることもあるかもしれないけれど。

    2015年春、公式ショップ「ふなっしーLAND」がオープン。
    期間限定店も含めて全国展開しています。
    ウェブショップもあり、随時新商品が発売されています。
    今年の夏は、片瀬江ノ島海岸に海の家もオープンしました。
    ふなっしーは、テレビの人気タレントというよりはグッズが人気のキャラクターに変貌しました。
    そうしたキャラクタービジネスへの転換を好ましいものと感じ、私もいくつか購入しています。

    特に、南三陸ミシン工房とふなっしーは人気者になる前からの付き合いで、「分身ふなっしー」というミシン縫いの人形は、他のグッズとは一線を画した存在です。
    供給数が少ないので入手困難でしたが、この春ようやく私も一体購入できました。
    その人形は、ふなっしー自身と見た目がそんなに似ているわけではありません。
    でも、心がふなっしーと最も近いところにある。
    「分身」という名称を冠するグッズは、この人形だけです。
    東日本大震災で被災したお母さんたちが、仮設住宅で、あるいは工房で、ミシン縫いをして作っている人形です。
    この人形でふなっしーが受け取る著作権料は全額寄付されています。
    他にも、ふなっしーは売り上げの一部を寄付することを定めた契約を交わしていることが多いのです。
    その多くは、みちのく未来基金へ。
    震災遺児のための返済不要の奨学金の基金です。

    東北の力になりたい。
    日本を元気にしたい。
    それがふなっしーの願い。

    今年の熊本地震で、他のご当地キャラクターたちも力になろうと積極的に街頭募金に立っています。
    でも、熊本を励ましに行くには、彼らには「予算」という壁があります。
    彼らの多くは地方公共団体や第3セクターのキャラクターで、活動費は自分の自由にはなりません。
    予算は限られています。
    交通費・宿泊費・人件費を考えたら、熊本に行くことは叶わないキャラクターは多いです。
    でも、ふなっしーは、スケジュールさえ合えば金銭的なことは気にせず熊本のイベントに参加できます。
    ふなっしーが参加するなら、そのイベントはかなりの集客を見込めます。
    ふなっしーが動けば、人が動く。

    ファンは可愛いグッズを手にでき、ふなっしーはその収益で自由に活動できる。
    この良い状態がいつまでも続きますように。

    武道館のステージで、ふなっしーは武道館と大阪城ホールの出演料とグッズの著作権料の全額を熊本に寄付すると発表しました。
    (追記 その後、ツイッター上の発表では、熊本義援金に630万830円、熊本城災害復旧支援金100万円の寄付がなされました。
    これをふなっしーは、
    「武道館と城ホールの皆さまからの支援金確かに届けてきました」
    と表現するのにも考えさせられました。
    皆さまからの支援金じゃないよ、ふなっしー。
    あなたがあなたの努力で稼いだ大切なお金でしょう。
    でも、ふなっしーは、そういう考え方はしないんだろうなあ)

    ステージには、これまでふなっしーがテレビで共演したタレントさんたちが1人また1人と登場し、思い出を語り、1曲歌い踊り、そして去っていきました。
    一緒に南極に行ったタレントさん。
    食べ歩きなどのロケで何度も共演し、ふなっしーのことが大好きな女の子。
    2枚目のシングルの作曲をしてくれたバンド。
    これは、ふなっしーがこの5年でたどってきた歴史。
    武道館単独公演を実現したふなっしーのこれまでの足跡。

    アンコールで再登場したふなっしーは「大きな玉ねぎの下で」を歌いました。
    あまりにも音痴なのと武道館の音響上の問題で、歌詞がよく聞き取れないにも関わらず、私はうっすら涙ぐんでしまいました。
    この歌はずるいだろー。

    そうやってしんみり終わるのかなあと思ったら、最後の最後にご当地キャラクターが何体も登場。
    キャラ界の中でもアウェイだった頃からふなっしーを支えてくれた仲間たちです。

    ふなっしーには、最初、立つことのできるステージすらありませんでした。
    キャラクターイベントに参加するには、市町村や商工会議所、農協などの推薦が必要。
    それをもらうことができなかったのです。
    そうした時期のふなっしーをのけ者にせず声をかけ助けてくれた昔からの仲間の登場。
    そして曲は再び「ふなふなふなっしー」。

    この曲はふなっしーがペットボトルでギターを叩きながら歌う動画をアップしたのが始まりでした。
    コード進行があるのかどうかもよくわからない、お経のような歌でした。
    ふなっしーのデビュー曲は、これをアルフィー高見沢さんが編曲したもので、今回のライブでも冒頭で歌われたのですが、その前にもう1つのバージョンがありました。
    明るくのほほんとしたそのバージョンのファンも多く、ふなっしーのDVDのテーマ曲になっていますし、アルバムにも収録されています。
    それは、テレビタレントとしてではなく、ご当地キャラクターたちとわちゃわちゃしているときのふなっしーに最もふさわしい曲。
    ここがふなっしーの本来の居場所。
    ふなっしーは、何1つ変わっていない。

    アンコールの最後の最後にこの曲を持ってくる演出に、泣かされました。
    いや、もう本当にずるいだろー。



    上の2枚はふなっしーがツイッターで公開した画像です。
    良くないことなら削除しますが、素敵な画像なので。

      


  • Posted by セギ at 14:01Comments(2)講師日記

    2016年08月15日

    情報を読む力。


    今日から夏期講習後期の授業が始まりました。
    今年は諸事情があり、予定していた山行ができず、あわただしく夏休みは過ぎていってしまいました。
    秋は何とか一泊で山に行きたいものです。

    そんな夏休みの最終日、久しぶりにゆっくりテレビを見ながら、いろいろと思うことがありました。

    もう何年も前になりますが、日光サル軍団が大変注目を集めていた頃、その様子を一定期間追うドキュメンタリー番組を見たことがあります。
    日光サル軍団というのは、その名の通り、芸をするサルを複数抱えてパフォーマンスをする団体でした。
    おサルの教室など、少しでも見た記憶のある方は多いと思います。
    番組は、サルの稽古風景など、大半は見ていて予想の範囲内の内容が続いていました。
    サルの調教は大変だろうし、そこには大変な忍耐と愛情とがあるだろうし。
    それらは素晴らしいけれど、しかし、目新しいものでもない。
    そんな目でぼんやり見ていた私がポカンとしてしまう映像が突然差し挟まれました。
    調教中のサルたちが、突然、訓練を中止し、サル山に放たれ、突進していったのです。
    「サル山でクーデターが起きた」
    といった、唐突なナレーションとともに。

    え?サル山?
    え?クーデター?

    そして、クーデターはたちまち鎮圧され、サルたちは戻ってきました。
    何だこの映像は?
    (*_*)

    日光サル軍団は、多数のサルを常に抱えています。
    次世代の有能なサルの確保・育成のためにも軍団はサル山を所有していたのでした。
    そして、芸をするサルたちは、そのサル山のボスザルとその幹部たちでした。
    ところが、彼らが芸の稽古をして不在中にサル山でクーデターが起きた。
    それに気づいた職員が稽古中のサルたちをサル山に放すと、サルたちは不在中のクーデターなど簡単に鎮圧したのでした。
    そしてまた、人間を相手に稽古をするサルたち・・・・・。

    私は、芸をするサルたちの可愛らしさや頭の良さは十分に認めていましたが、彼らがボスザルとその幹部たちであるという発想はありませんでした。
    でも、考えてみれば、その肉体の大きさと健康さ、毛づやの良さ、身体能力、頭の良さからいって、サル山でボスになるのが当然のサルたちなのでしょう。
    そうでなければ、あのように高度な芸はできない。
    頭が良いから、自分の置かれている環境で最善の道として人間を相手に芸をしている。
    ペットのような印象があるため、野生のサルと比べれば弱い生き物であるようなイメージを漠然と抱いていた私は、彼らこそがもし野に放たれてもトップに立つサルたちなのだと気づいて愕然としました。

    野生動物として人間にどう対応するかで優劣をつけるのは人間の発想です。
    野生として人間に牙をむく者が上位で、人間に調教されて芸をする者が下位。
    そんな価値観は野生動物にとっては意味がない。
    それに気づかされました。


    話は変わりますが、今度は、男性アイドル・グループの話。
    アイドルである彼らは、女の子たちの理想の王子様らしく歌い踊り、わちゃわちゃとふざけあって楽しげにふるまうことが仕事です。
    歌も踊りも衣装も基本的にダサいし恥ずかしい。
    軟弱な上に頭が悪そう。
    それなのに女の子たちにキャアキャア言われている。
    昔は、アイドルに対する印象はそんなものだったと思います。
    特に十代の頃は同世代の男の子たちにとっては「何だかなあ」という存在でしょう。
    普段は接触の機会がないので黙殺できますが、もし接触の機会があったら?
    テレビ番組の中のゲームコーナーで闘うことになったら?
    そりゃあ、この機会にボッコボコにしてやりたいと思う男の子たちが現れても不思議はないですよね。

    昔、そういうアイドルの番組がありました。
    ある日の番組では、その十代の男性アイドルたちは、素人の同世代の男の子たちと騎馬戦で一騎打ちをしていました。
    もみあってしばらくは何が起きたのかよくわかりませんでした。
    突然、騎馬の先頭にいたアイドルが相手の男の子に向けて鋭い回し蹴りを決めました。
    たちまち乱闘勃発。
    騎馬後方にいた別のアイドル少年が今度は驚くべき高さでキック。
    場内騒然とする中、そのアイドルグループの中で最年少の男の子がカメラの真ん前に立ち、笑顔で乱闘の様子を隠しました。

    ・・・・何だこの映像は?

    私は喧嘩も暴力も礼賛しません。
    客である素人の少年たちを相手に乱闘してしまうなど、プロとして最悪であると思います。
    あの後、彼らはめちゃめちゃ怒られたでしょうし、「怒られろっ」と思います。

    しかし、その一方、「アイドルなんか一発カマしてやろうぜ」という気持ちだっただろう素人少年たちの予想をはるかに越えたに違いない彼らの身体能力に驚愕しました。
    顔が可愛らしいからといって、軟弱とは限らない。
    ダンスが上手いということは、身体能力が高いということ。
    身体能力が高いということは、喧嘩をしたら強いということ。
    その当たり前のことに、喧嘩をふっかけた素人少年たちも、テレビを見ていた私も、実際の彼らのキックを見せられるまで気づきませんでした・・・・。
    同時に、身体能力だけでなく、そういう場面で決して引かないタイプの人たちであるということも。
    彼らは、同世代の男の子たちの作るサル山のボスになるタイプの少年なのでした。
    そのことが、アイドルらしい衣装の裾からチラっと見えた気がしました。


    どうせそうだと思い込んで、わかっていないことは、あとどれだけあるだろう。
    昨日一日、日本中をかけめぐったアイドルグループ解散の情報を読みながら、私はそう考えていました。

    私は特に彼らのファンではありません。
    彼らのテレビ番組もめったに見ません。
    ずっといわゆるゴールデンタイムに働いているので、オンタイムでテレビを見る習慣がありません。
    余程気になる番組以外は予約録画はしないです。

    しかし、たまたま休日のときに。
    あるいは、面白そうなスペシャル番組だから気が向いて録画したときに。
    彼らは上に書いた以外にも不可解な驚愕を私に与えてくれた人たちだったと感じます。
    何か、どこか、枠からはみ出している。
    その身体性と精神性は、ちょっと他では見られない種類のものがありました。
    過去のアイドルの概念を覆す、とても自由な人たち。
    彼らは、昔ながらのかっこ悪いアイドルのイメージを塗り替えた人たちだったと思います。

    1月のあの生謝罪があまりにも気持ち悪かった。
    彼らのことが必要以上に気になったのは、それも大きいです。
    あれ以来、なるべく彼らの番組を見ていました。

    ワイドショーでは彼らの所属事務所からのファックスで語られていることが全て事実であるように報道されています。
    しかし、彼らのコメント。
    あれは、本当に彼らが自分の意志で書いたものでしょうか。
    伝えられていることは、本当に事実でしょうか。
    私が今まで見知っている限りでも、彼らの身体性・精神性を全く感じません。

    テレビのワイドショーは、スポーツ新聞の記事をただ読み上げるだけです。
    一番彼らに近く、彼らと同じテレビ局が職場なのに、独自取材は一切しません。
    不可解な話です。
    これは、誰の意志でどこから出ている情報だろう?
    どうもそこから疑ったほうが良さそうです。

    また1つ自由が奪われたような閉塞感を感じているのは、私だけでしょうか。
      


  • Posted by セギ at 15:47Comments(0)講師日記

    2016年07月26日

    期末テスト結果出ました。2016年1学期。


    1学期期末テストの結果が出ました。
    2期制の学校については、前期期末は9月に行われますので、2学期中間テストの結果とあわせて発表します。
    以下が今回の結果です。

    数学 90点台 1人  80点台 2人  70点台 1人  60点台 1人 
        50点台 2人  50点未満 1人
    英語 90点台 1人  70点台 1人  60点台 1人  50点未満 1人

    今回、期末テスト前に体調を崩し、学校も欠席、テスト勉強も思うようにできなかった人が2人いたのは残念でした。
    大人になれば健康管理も実力のうちとみなされます。
    高校生のうちから自覚しておきたいですね。

    とはいえ、とうとう数学90点台到達の人が出ました!
    最初から90点を取るのが当たり前の人が入塾して、予定通り90点を取るのも良いものですが、こうしてじりじりと上がっていくのを見るのは本当に嬉しいです。

    それ以外は、前回とほぼ同じか得点微増の人が多い結果となりました。
    次回につながりそうです。

    一方で、上手くいかない状態の人がいないわけではありません。
    特に数学。
    高校生になると、数学が苦手な生徒は、あっという間に赤点を取るか取らないかの勝負になってしまうことがあります。
    あるいは、定期テストはまだそこまではいかないけれど、校外模試を受けてみると数学がほとんど0点に近い結果になってしまい、青ざめる場合もあります。

    数学を得意科目にしたいならば、塾では塾のテキストを用いて演習し、塾テキストから宿題も出し、学校の宿題や準拠問題集は自分でコツコツ演習するのがベストです。
    演習量としても、これで最低限の量を確保できたことになります。
    うちの塾に通う数学が得意な子の場合、学校でどんな問題集を使っているのかすら私は把握していません。
    「それはテスト前までに自分の判断で解いておいてね」
    そんな注意もしたりしなかったり。
    塾でのテスト直前対策でも学校の問題集は使いません。
    本人は最低2回は学校の問題集を解いている様子です。
    テスト前に慌てて解く必要はないのです。

    ところが、数学が苦手な子は、そうはいきません。
    もともと、数学の問題を1題解くのに時間がかかります。
    嫌いなので数学の勉強に気が向かないことも手伝い、日々の勉強は塾の宿題を解くので精一杯となります。
    気がつくと定期テスト前なのに学校の問題集に全く手をつけていないという事態に立ち至ります。

    いくら何でもそれは本人が困ることなのだから何とかするはず。
    大人はそう考えがちですが、そんな高校生ばかりではありません。
    テスト3日前なのにテスト当日に提出しなければならない問題集が真っ白でも「前の晩徹夜すれば何とかなる」と平気で考えていることがあります。
    そして、徹夜して仕上げることが出来たにしても出来なかったにしても、当日のテストはボロボロです。

    ここから、非常にまずいスパイラルが始まります。
    本人に任せていては学校の問題集に手をつけない。
    個別指導塾としては学校の問題集の面倒を見なければならなくなります。
    本人からの要望のこともあれば、保護者からの要望のこともあります。
    塾では塾のテキストで演習するけれど宿題は学校の問題集から出すというのが当初の約束です。
    学校の問題集は別冊の解答解説集も渡されている場合がほとんどです。
    自分で答え合わせをして、わからない問題だけ次回の授業で質問する形にします。

    宿題は一応やってきます。
    後で学校に提出するものなのですから、塾テキストを宿題にしていた頃よりもむしろ一所懸命解いてきます。
    わからないところはなかったか訊くと、質問は癖の強い応用問題や発展問題ばかりになります。
    基本問題は解説を読めば一応わかりますから、わざわざ塾で質問する必要はないのです。
    私は内心「こんな問題、テストに出るわけないなあ」と思いながら、そして、ときには声にも出しながら、質問された以上、解説しないわけにいきません。
    何しろ学校の問題集なので、全てを理解することが絶対に必要だと本人は思っています。
    「この問題は解く必要がないよ」という助言が上手く伝わらないのです。
    塾のテキストならば、「この問題は省略」と一言言えば済むのですが。

    このようにして、90分の授業が、その子のレベルに合っていない上にテストにも出ない応用問題の解説で埋まります。
    解説をし、その問題を解き直してもらうと、1題30分かかります。
    3題解説すれば授業は終わってしまいます。
    塾のテキストを使う時間がなくなります。
    そして、また宿題は学校の問題集から出すことになります。

    この授業で、その子が繰り返し演習すべき基本問題は自力で解けるようになっているのでしょうか?
    解答解説のついている問題集を解くとき、考えることの苦手な子は、30秒も耐えられず解答解説を見てしまいます。
    見ながら解いたにも関わらず自分で解いたような気になってしまうのは、悪気があってのことではありません。
    本人は理解したのだから次には自力で解けると思っています。
    わからないのは解説を読んでも意味のわからない応用問題だけ。
    それは塾で教わりたい。
    わからないことだけ塾で教わりたい。
    個別指導は、そういう活用の仕方があるのも事実なので、私も強く「ノー」と言えません。

    そしてテスト結果は、基本問題の大問1や2さえ正答の少ない惨憺たるありさまとなります。
    やはり基本問題を自力で解けるようになっていなかったのです。


    そこまでわかっているのなら、そうならないように予防すればよいのに・・・・。
    全くその通りなのですが、この件に関しては、こういうことをしているとこうなると説明してもなかなか伝わりません。
    本人に手痛い体験してもらわないと伝わらないことがあるのだと思います。
    ひと通り私の考えは伝えますが、その上で判断するのは生徒本人と保護者です。
    これではダメだと予見できる子なら、そもそもこんな勉強のやり方はしないのかもしれません。

    このやり方ではダメです。
    ふりかえってみれば、数学の勉強は、学校の問題集を解答解説を見ながら1回解いただけ。
    自力で解いた問題はほとんどなし。
    それが数学の勉強の全て。
    これでは、塾に通うようになっても学習量は変わっていません。
    それで成績が上がるわけがありません。
    中学の間は何とかもちこたえることができても、高校のどこかの時点でガクッと下がります。
    それはいつ来るかわかりませんが、必ずいつか来ます。

    でも、それはやり方を変えればまだ活路はあるということです。
    これではダメだと理解したときがチャンスです。

      


  • Posted by セギ at 14:57Comments(0)講師日記

    2016年06月16日

    1学期中間テスト結果出ました。


    2016年度1学期、中間テスト結果がそろいました。
    数学 80点台 3人 70点台 1人 60点台 2人 50点台 1人 50点未満 2人
    英語 90点台 1人 70点台 1人 50点台 1人 50点未満 1人

    得点は概ね上昇中。
    前回より10点以上得点の上がった生徒さん5人という好結果でした。

    以前は、テスト本番になると謎のケアレスミスや計算ミスをする子が課題でしたが、そういう課題を持つ子が減ってきているのが嬉しいです。
    中3から高1あたりで、子どもの数学能力は大きく伸びます。
    脳がガッと発達するというのか、グッと締まるというのか。
    擬音ばかりで申し訳ないのですが、そういう音でしか表現できない伸び方をする時期があります。
    計算ミスを連発していた子の計算精度が驚くほど上がります。
    計算過程に不合理な点があり、そんなやり方では精度は上がらないだろうという場合もあります。
    しかし、そこを改善することのできる子は、あとは時期を待っていれば一気に伸びます。

    計算速度も上がっていきます。
    数学は脳のスポーツ。
    若さが武器の学問なので、研究者であってもピークは20代です。
    現役高校生が私より計算が遅いというのは、本来どうかしています。

    とはいえ、そのどうかしている高校生が多かった昨今でしたが、このところ単純な計算問題ならば私より速く解き終わる子が1人2人と現れてきました。
    応用問題の場合は、考える時間なく解き始められる私のほうがまだどうしても速く終わりますが、頼もしい限りです。
    数学90点台は、もう目の前です。

      


  • Posted by セギ at 14:02Comments(0)講師日記

    2016年05月19日

    1学期中間テストの落とし穴。


    さて、中間テストシーズンとなりました。
    しかし、1学期の授業が始まってからの実質の授業数は少ないです。
    そうなると、当然、テスト範囲は前年の学年末テスト後に学習した範囲や、場合によっては前年度に学習した全体が含まれます。

    それは予測できることなので、春期講習では予習に加えて前学年の復習をたっぷりやっています。
    今回のテストも春期講習をしっかり受けた子は成果が出て、安堵しました。

    ただ、そういう話がなかなか実感できない子もいます。
    前年度の復習なんて必要ないんじゃないかと考えてしまうのでしょうか。
    あるいは、復習は自分で出来ると思ってしまうのでしょう。
    そういう生徒は春期講習をあまり取らないので、1学期中間テスト範囲をカバーしきれないうちにテスト日を迎えてしまうこともあります。
    それがそのままテストの得点に反映します。
    毎年残念に感じるのですが、ご家庭の方針もあるので仕方ありません。
    限られた条件の中でベストを尽くすのみです。

    ゴールデンウィークはあまり勉強しないで過ごしてしまう子も多いです。
    連休が終わればすぐ中間テストだということは一応わかっていても、学校が休みなので勉強する気になれない。
    遊びの計画を目一杯入れてしまいます。
    友達と遊び、家族で遊び、部活もある。
    勉強しないでゴールデンウィークの10日間ほどを過ごした子の学力の衰えは、背筋が寒くなるものです。

    え?
    何でこんな基本問題が解けなくなってしまったの?
    もう中間テスト直前なのに、連休前より学力が落ちてしまっていて、どうするの?
    そう思うことは多いです。
    せめて中間テストがあと1週間遅ければ復調も可能なのですが、公立中学の中には連休の翌週がもう中間テストのところもあります。

    学校によってはテスト問題はかなり難しいこともありますが、多くの公立中学のテストは、学校から配布されたワークや問題集を完璧に解けるようになっていれば9割は得点できます。
    しかし、貴重な教材なのに勉強の仕方の悪い子は多いです。
    テスト前日、もう時間がなくなって答えを書き写す。
    そういう学習姿勢が良くないことは、さすがに本人もわかっています。
    むしろ根深い問題なのは、本人はちゃんと勉強しているつもりなのに教材を活用できていない子。

    例えば、ちょっとわからないとすぐ答えを見てしまう子。
    答えを見て解いたのに、自分で解いた気になってしまうのです。
    解答を書いて赤丸をつけてしまうので、その問題は未定着だと本人は自覚していません。
    その問題がテストに出たら解けないことを本人はわかっていないのです。

    例題の解き方を参考にして解いたのに、自分で解いた気になってしまう子もいます。
    例題が横にないテストでは、どう解いたらよいのかわからなくなってしまいます。
    しかし、本人にはその自覚がありません。
    自力で解いたつもりになっています。
    テスト問題を見て初めて、自分がその問題を解けないことに気づく。
    そんな子は案外多いです。

    勉強はそれなりにしているのに結果の出ない子は、そういう結果の出ない勉強方法をとっていることが多いです。
    そして、勉強方法の改善を自力で行うことができません。

    毎年毎年、同じことの繰り返し。
    しかし、その子にとっては、これが初めての失敗。
    何とかして、一生ものの勉強方法を教えたい。
    そう思います。

      


  • Posted by セギ at 13:52Comments(0)講師日記

    2016年03月27日

    中学生の学ぶ「場合の数」と公式。



    「場合の数と確率」という単元は、小学校・中学校・高校と段階を踏んで学んでいく単元です。
    小学校では、「ならべ方と組合せ方」として。
    中学では、「場合の数と確率」として。
    中学では、まだ順列や組合せの公式は学びません。

    順列は、P(permutation)。
    組み合わせは、C(combination)。
    それぞれの公式は高校の学習内容です。

    例題 A、B、C、Dの4人でリレーをする。走る順番は何通りあるか。

    高校で学ぶPの公式を用いるならば、
    4!=4×3×2×1=24
    答えは24通り。
    簡単ですね。

    簡単なので、中学生の子どもの勉強を見る際にこれを教えてしまう保護者の方もいらっしゃると思うのですが、お子さんが完全に理解できるとは限りません。
    この公式は、公立中学では教えないのです。
    なぜ教えないのかといえば、教えても理解できない子が多いからだと思います。
    私の実感としても、そうです。

    4×3×2×1という式が「4」から始まるのが、どうも飲み込みにくいようです。
    それまで小中学校で学んできたかけ算とは発想が逆だからでしょうか。
    丸暗記してとにかく覚えても、問題に少しひねりが加わると公式をどう活用するかわからないことが多いです。

    それよりも、普通の小中学生が理解できる解き方があります。
    まずAから始まる樹形図を描いてみます。

    規則的なのが明らかな樹形図をわざわざ描く?そんなバカな。
    そう思われるかもしれません。
    しかし、規則的なのかどうかすら、彼らはまだ判断できないんです。
    Aから始まる樹形図を自力で描ける子はそれでもかなり数学の出来る子。
    たいてい、大人が見たらびっくりするような、小汚くて間違った樹形図を描きます。
    (^-^;
    どのように枝が広がるかを予想して大きく余白をとって描いていくことができないので、線が交わりそうでグチャグチャです。
    最後のほうは枝が上にも下にも広がって、タオル専用の洗濯ハンガーみたいになってしまう子もいます。
    縦列を揃えることができず、終わりの位置がバラバラで、何が何だかわからなくなる子もいます。
    描いた本人もその出来上がりの醜さにうんざりしてしまいます。

    何でそんなことになるのか?
    彼らは、出来上がりのイメージを持っていないのです。
    頭の中に完成された樹形図のイメージがありません。
    そして、頭の中に正しい樹形図のイメージがなかったら、Pの公式の意味は理解できません。
    だから、正しいイメージが持てるまで、自分で樹形図を描いたり、模範解答の樹形図を見たりを繰り返すほうが「場合の数」に対する理解が深まります。

    とにかく、Aで始まる樹形図をひとまとまり描いて、全部で6通りあることを数えて確かめる。
    これは、Bから始まっても、Cから始まっても、Dから始まっても、同じ樹形図になるだろうと予想する。
    だから、式は、6×4=24。
    答えは24通り。
    小中学校で学ぶ順列は、この解き方で良いのです。
    この解き方なら、ほとんどの生徒が理解できます。

    そして、この過程をきちんと踏んだ子は、高校数学に進んだとき、順列の公式の意味も理解できます。
    公式だからとにかく暗記しなければならないということではなく、意味を理解して使いこなすことができます。
    中2のときには理解できなかった4×3×2×1を、高校生になれば理解します。
    焦らなくても、それを学ぶにふさわしい年齢になれば、数学はそんなに難しくありません。

    中2の場合、かなり学力の高い子でも、6×4の式のほうが理解しやすいようです。
    数学の成績が「4」の子の大半はそうだという認識が私にはあります。
    意味のわからない公式を無理に使って、足場を失うより、年齢に相応しい学び方があると思います。

    その一方、4×3×2×1の式の意味が理解できる子は小学生にもいます。
    私立中学を受験するなら、理解できたほうが話が速いし解くのも速いので、受験生には教えます。
    また、公立中学の生徒で、大学付属の私立高校または都立自校作成校を受験する子には、教えます。
    実際に順列の問題が入試に出るかどうかというよりも、脳のキャパを拡張させたい。
    抽象思考が出来るようにしたい。
    そういう意味あいもあります。
    ただ、これも、理解できないのなら仕方ないので、深追いしなくて良いと思います。
    地道な解き方のほうが理解できるのなら、それで良いと思うんです。

    本人が理解できたのなら、発展的な公式や定理は、学校の数学の問題を解くときにも普通に使っていいのです。
    学校の先生は、生徒全員が理解するのは難しいから教えないだけで、先生本人がその解き方を知らないわけではありません。
    「自分が教えた解き方以外は認めない」なんて態度は、およそ数学的ではありません。
    教えた解き方以外をバツにする先生はまずいません。
    発展的な解き方をしてある答案を見たら、にやっと笑い、「勉強してるな」とつぶやいて丸をつけるのが普通です。

    しかし、私のこういう話を聞いて頷く子は、数学が得意な子に限られているようにも感じます。
    数学が得意なので、学校の数学の先生と良好な関係を保ち、信用することができるのでしょうか。
    数学が苦手な子は、数学の先生のことも信用しないのかもしれません。
    嫌な思いをしたことがあるのでしょう。
    「いや、うちの数学の先生はダメ」
    と言い、その先生の解き方以外はバツになると思い込んでいる子もいます。
    あなたの答案が以前に減点されたのは、学校の先生の教えた解き方と違っていたからではないでしょう。
    数学的にアウトな答案を書いたのに、どこがアウトでなぜ減点されたのかわかっていないのでは?
    そう説明するのですが、なかなかそういう観点からものを見るようにはなれないみたいです。
    まだ中学生ですもんね。

    ただ、私立の一貫校の場合、減点の基準が正直私にも理解できないということもたまにあります。
    卒業生の答案の書き方について、初等科の先生は中等部の先生から苦情を言われ、中等部の先生は高等部の先生から苦情を言われて、自粛し過ぎておかしなことになっているかな?
    そう思うこともないわけではありません。
    好きで通っている私立ですから、その辺は諦めるしかないかもしれません。


    ところで、私立・都立中学の生徒は「体系数学」で学んでいることが多いです。
    文科省認定外の特殊な教科書です。
    PやCの公式は、「体系数学代数2」でもう出てきます。
    中2または中3で学ぶことになります。
    学校で教わるので、どうしても理解してもらわなければなりません。
    私立・都立中学に通う子が数学が得意とは限らないので、これはなかなか大変です。
    数学を嫌いになるために勉強しているような地獄巡りの様相を呈することもあります。
    高等部からは「体系数学」ではなく普通の高校数学のカリキュラムに移行する学校だと心底ほっとします。
    高校生がその学年に相応しい高校数学の教科書で学んでいる限り、数学は難しくない。
    必ずわかるようになります。


      


  • Posted by セギ at 16:08Comments(0)講師日記

    2016年03月17日

    学年末テスト結果出ました。



    2015年度学年末テスト結果出ました。
    数学 80点台1人 70点台2人 60点台3人 50点台1人 50点未満2人
    英語 80点台2人 50点台1人 50点未満2人
    数学は前回の2学期末テストよりも30点増の生徒が2人。
    他の人たちも、概ね得点は増加しています。
    下がった子についても理由がはっきりしているので、これは来年度につながると感じられる頼もしい結果でした。

    さて、私立の中高は、もうテスト休みに入っているところも多いです。
    意外に長い春休み。
    1年の総復習に時間を使えると良いですね。
    薄い問題集でも良いですから、1年分の復習ができるものを仕上げましょう。
    厚い問題集で飛ばしてきた章末問題のページを最初からやるのも良いです。
    身につけたつもりで忘れていることの多さに愕然とすると思います。
    全て次の学年で使う知識です。

    前にも書きましたが、中学生は春休みだからといって前学年の教科書やワークを捨てるのはよく考えてからにしましょう。
    次の1学期中間テストは、学年末の後に学習したところが範囲になる可能性が高いのです。
    勢いで捨てるとテスト勉強が出来なくなります。
    中学生の片付けは、片付けと称してどこかにしまいこんで失くしてしまうものが多い場合もあります。
    私は生徒が「部屋を片付けた」と言うと嫌な予感がします。
    どうかそのまま、どこに何があるかわかるようにしておいてください。

    4月から、中学は教科書が一斉に変わります。
    私も教材を整理しないと新しい教材の置き場がありませんが、勢いで捨てて後悔する教材がないよう注意しなければ。
    (^-^;

      


  • Posted by セギ at 13:46Comments(0)講師日記

    2016年03月10日

    大学合格結果出ました。2016年。


    セギ英数教室、今年度の受験生は高3が1人。
    その受験結果が出そろいました。
    第一志望の国立大学に合格。
    第二志望の中央大学も合格しました。
    こちらは、センター利用と一般受験と両方合格。
    やったー。
    合格おめでとうございます。
    ヽ(^。^)ノ

    当塾では英語を受講していました。
    入塾当時、学校の定期テストはそんなに悪くないけれど、校外実力テストの偏差値は高くないという状態でした。
    真面目な子によくみられる傾向です。
    範囲のあるテストなら得点できる。
    初見の英文は読めない。

    塾では、学校の英語の予習復習はしなくて良いという条件だったのが、まず良かったです。
    とにかく入試対策に一本化できました。
    そして、最初は単語暗記に時間のほとんどを投入できました。
    単語暗記に余裕ができたら、残る時間で文法の総復習。
    それも目途が立った頃から長文読解演習を始めました。

    何の変哲もないカリキュラムです。
    ただ、量は普通ではなかったかもしれません。
    私の提示する課題の物量に多くの生徒はついてこられません。
    受験勉強としては普通の量で、英語の受験勉強は塾の宿題だけやれば十分。
    学校でも高3ともなれば何か演習的なことをやるだろうし、それで補強すれば鬼に金棒。
    そのように予定しています。
    でも、それをこなせる生徒ばかりではないのが現実です。

    単語の覚え方もそうです。
    例えば、10日で100個の単語を覚えなければならないとしたら。
    多くの生徒はこう言います。
    「1日に10個ずつ覚えます。そうしたら、10日で100個覚えられる」
    しかし、このような覚え方で11日目に100個の単語テストをして、果たしていくつ正答できるのでしょうか?

    10日で100個の単語を覚えなければならないのなら。
    1日で100個覚えます。
    2日目も、同じ100個を反復します。
    それを10日繰り返して初めて、高い精度で100個の単語の暗記に成功するでしょう。

    あるいは少し譲歩して。
    1日で50個覚えます。
    2日目に残りの50個を覚えます。
    3日目以降は同じ100個を反復します。

    さらに譲歩して。
    1日目は最初の10個を覚えます。
    2日目は、最初の10個を含む20個を覚えます。
    3日目は、30個。
    そうして、10日目、完璧に100個覚えるのはこのやり方では難しいとしても、50個以上の精度は確保できるでしょう。

    どのやり方でもいいのです。
    でも、「1日10個ずつ」はダメです。
    しかし、それがどうしてダメなのか、多くの高校生は理解していません。
    短期記憶は短期で消えます。
    長期記憶に変えるためには反復する必要があるのです。
    この当たり前のことを高校生は認めたがらないのです。

    実際の単語暗記は10日で100個がゴールではありません。
    1か月で数千個が目標となります。
    それを3か月反復すれば、まあまあ長期記憶になっていきます。
    長文を読み進めることが今までほど苦痛ではなくなります。
    辞書を使わずに読んでいけます。
    自力で読めるようになれば、今までよりも多くの英文を短時間で読めます。
    多読は、単語力をさらに増強させていきます。

    私の提示するカリキュラムはこのように何の変哲もないものです。
    楽ができる特別な方法なんてないのです。
    「魔法のような単語の覚え方」や「英文を読まずに正答する方法」がどこかにあると思っているうちに、入試の日は来てしまいます。
    そんなものはないと見切ってただ努力する人が栄冠を手にします。
    覚えやすい単語集を提示し、さらに覚えやすくするための工夫は指示しますし、そのための副教材も渡しますが、本人が努力しないことにはそんなのは無意味なんです。

    それにしても、本当に努力する人でした。
    演習教材は無尽蔵と自負していましたが、最後にもう1コマだけ増やしたいと言われたときは、私が音を上げました。
    もう演習する教材がないよ。
    まさか底をつくとは。
    誰も到達しなかった演習量に達しての合格でした。

    本当に良かった。
    希望通りの大学生活を謳歌し、望む未来を獲得してください。

    セギ英数教室、現在、授業コマは全て埋まり、キャンセル待ちをしていただいております。
    ありがとうございます。
    これからも生徒に負けず精進いたします。

      


  • Posted by セギ at 12:28Comments(0)講師日記

    2016年01月22日

    頭の良さと学力。


    少し前、このブログを訪問してくださった方の検索キーワードを見ていたら、
    「自分より頭が悪い 成績がいい」
    という検索ワードが1件入っていました。
    そういうことを疑問に感じている人がいる。
    そして、そのワードで私のブログがヒットする。
    両方に驚きました。
    それに関することは繰り返し書いてきたのですが、そんなに露骨な表現はしなかったように思うのです。

    もう何年も前のことですが、こんなエピソードをここに書いたことがあります。
    もう一度、以下に書いておきます。

    1960年にノーベル物理学賞を受賞したドン・グレイザーという人がいます。
    この人は、小学3年生のときに、学習障害児の施設に移るべきであると学校から助言されました。
    簡単な足し算すらできなかったからです。
    しかし、ドンの両親は断固として譲りませんでした。
    そして、普通学級のまま4年生に進級すると、ドンは、わり算の筆算において誰よりも優れた能力を示しました。
    ドンは、後に語りました。
    低学年のバカげた明白な問題のどれにも、自分はわざわざ答える気になれなかったのだと。
    わり算の筆算は、少し難しく、答えは明らかではなく、過程が魅力的だった。
    だから、ドンは、解き始めたのです。

    昔、私が個別指導した子にも、これに少し似たエピソードがありました。
    入会時に、その子は学習障害のグレイゾーンであると、講師である私にも知らされていました。
    しかし、実際に教えてみると、何がどう学習障害なのかわかりません。
    その子よりも学習において困難を抱えている子をたくさん教えてきたからです。
    その子は、秀才とは言わないけれど、普通の学力の子でした。
    説明を少しゆっくりしてあげる必要があるかな、という程度です。
    宿題等を真面目にこなしてきますので、成績は順調に上昇していきました。

    その子がある日、問題を解きながら、世間話のように話し始めました。
    「小学校4年生のとき、勉強って大切なんだと気がついて、泣いたんだ」
    「・・・・え?」
    「何か突然、ああ勉強ってしなくちゃいけないんだと気がついて、大泣きした。それまでは、勉強なんかどうでもいい、やらなくていいんだと思っていたんだけど」
    「・・・・・あの、あなたのことで、多分お母さんからの話として聞いたことがあるんだけど、低学年の頃、授業を座って受けることができず、すぐ立ち歩いたり、教室を脱走したりしていたというのは・・・・」
    「ああ、うん。だって勉強なんかどうでもいいんだから、座っている必要ないと思っていたんだ」
    「え・・・・?」

    私は医者でもないし、障害児教育の専門家でもないので、こういうことの判断は難しいのですが、あの子は本当にグレイゾーンだったのかなあと今でも懐疑的です。
    子どもは、大人がびっくりするような判断を勝手にしていることがあるのかもしれません。
    将来に関わることを、幼い頃に勝手に判断してしまうのです。

    勉強をする必要がないなんて、そんな思い込みをしてしまうところが、やはり「定型の子」とは違うんじゃないんですかと言われると、まあそうかもしれないのですが、でも、問題にされないだけで、そういう判断はどんな子でもしている可能性があります。

    比較的頭がいいと思われている子の判断も、大人から見ると恐ろしいものであることが多いです。
    小学校低学年の算数は、頭の回転の速い子にとっては、考える必要もないようなレベルです。
    今は足し算を勉強しているんだから、文章題は、出てくる数字を足した式を書けばいいだけ。
    今はわり算を勉強しているんだから、文章題は、大きい数を小さい数で割る式を書けばいいだけ。
    そういう判断をしている子は、多いです。
    別に文章が読めないわけでも理解できないわけでもなく、ただ面倒くさいし、どうせそうだから、そのように処理してしまう。
    そういうショートカットが常態になってしまいます。

    ところが、高学年になると、そうではない単元が出てきます。
    単位あたり量の問題がまずそうです。
    例えば、こんな問題。
    0.3Lで600円のペンキがあります。1.7Lでは値段はいくらになりますか。
    ぱっと見たときに、かけ算なのかわり算なのか、わからない。
    こういう問題から、文章題が全く解けなくなる子が現れます。
    「考えなさい。考えたらわかるから」
    と言っても、もう何年も考えることというのは「今は何の単元をやっているか」とか、「大きい数と小さい数を見つけて割る」とか、そんなことばかりでしたから、算数の問題を「考える」とは何をどうすることかわからないのです。
    なまじ「頭がいい」から誰にも教わらなくても自然と身につけてしまったショートカットが、以後、永遠に本人を苦しめる可能性があります。
    その後の「割合の問題」も「速さの問題」も、小数や分数が数値に含まれることもあって、見た目で判断できなくなります。
    かけるのか、割るのか?
    どれとどれをかけるのか、割るのか?
    今まで文章を読んで関係をつかんで式を立てるということをしてこなかったので、その判断ができせん。
    思考をショートカットすることに気づかなかった不器用なタイプの子に、学力で抜かれていきます。

    これは「頭のいい子」だけの話ではありません。
    「頭がいい」という形容からは無縁だったと想像される、勉強が苦手な子も、こういうショートカットを身につけていることがあります。
    例えば、三角形の合同の証明問題の宿題を、何か一応形のついた答案として解いてきます。
    理解しているのかなあと思うと、しかし、合同条件のどれを使うかで、かなりの確率で間違えてしまいます。
    ここまで証明を書けるのなら、最後のそんな判断は簡単なのに、と不思議に思っていたのですか、あるとき気がつきました。
    いつも、問題集の同じページの例題と同じ合同条件を使っているのです。
    では例題の丸写しなのかというと、記号は問題に合わせて変えています。
    うまく例題を利用する技術はむしろ高度です。
    しかし、内容を理解しているかというと、残念ですが全く理解していない可能性のほうが高い。
    そこまで面倒くさい模倣をするくらいなら、むしろ、真正面から理解したほうが楽だよ。
    そう呼びかけても、では、真正面から理解するとは何をどうすることなのか、よくわからないようなのです。
    何を説明しても、慌てて理解したふりをします。
    しかし、こんな緻密な模倣ができる人を「頭が悪い」とは呼べません。
    頭の使い方を間違えているだけなのです。
    これは根深い。

    でも、そこに光を感じてもいます。
    少なくとも、そういう頭の使い方ができる。
    ならば、違う頭の使い方もきっとできるようになる。

    考えるということは、目に見えません。
    教えることが極めて難しいことの1つです。
    「自分より頭の悪い」子に、成績で負けているのだとしたら。
    あなたは、考えることを学びそこねているのではないですか?
    勉強することの意味が理解できていないことも含め。
    努力ができないことも含め。
    あなたは、考えることの大切さや面白さがわかっていないのではないですか?
    もう一度同じ検索をかけてくれたなら、これが、私の1つの答えです。

      


  • Posted by セギ at 16:29Comments(0)講師日記

    2015年12月18日

    2学期末テスト結果集計。2015年。



    期末テスト結果集計出ました。
    数学 80点台 1人 70点台 1人 60点台2人 50点台 3人 50点未満 3人
    英語 80点台 2人 70点台 0人 60点台2人

    中間テストよりも得点が下がった人は2人だけで、後はじわじわと上がりました。
    ヽ(^o^)丿
    今年度の中で最高点だった人が5人。
    前回の中間テストで50点未満だった4人のうち2人が50点を越えたのも良かったです。
    数学も英語も、2学期のテストの得点は1学期よりも下がることのほうが多い中で確実な成果だと思います。
    新たに入会した生徒さんが1人、50点未満からスタートしましたが、これから頑張っていきましょう。

    どうすればテストの得点を上げていくことができるか?
    それには、本人が抱えている学習上の課題を1つ1つ解決していく以外にありません。
    そのため、何が課題であるのか、まずその現実を把握する必要があります。
    保護者の方が考えるよりもはるか手前に課題があり、それが学習に影響している場合もあります。

    かつてうちの塾の生徒で最も困難だったのが、学校で今何を勉強しているのかわからない、という場合でした。
    「うちの先生は教科書を使わない。いつもプリントだから、わからない」
    というのです。
    プリント学習といっても学校の教科書に載っていない特殊なことをやっている場合は少なく、教科書と同じ単元をプリントで演習している場合がほとんどですが、そのことを理解できていませんでした。
    本人の理解力不足ということもありますが、中学生くらいですと勉強しない理由を無意識に探す傾向もありますから、
    「学校の先生が悪いんだ。自分は悪くない」
    とするのに好都合で、本人もつきつめて考えてみなかったのかもしれません。
    じゃあ私がプリントを見るから塾に持ってきなさいと言っても毎回忘れてくるので、塾としても何をやっていいのかわかりませんでした。
    保護者に連絡をして、その点から改善していきました。

    先を見ることができない子も多いです。
    「テスト範囲がまだ出ていないから、テスト勉強はできない」
    と言います。
    「でもね、どうせこの前のテスト範囲の次からだから、始まりはわかるんだよ。そして、今やっているところか、その少し先くらいまででしょう?」
    と説明すると、初めてそのことに気がついたという顔をします。
    そういうことを考えたことがなく、テスト範囲が正式に発表されるテスト1週間前からしかテスト勉強はできない、それは学校が悪いので自分の責任ではないと思っている、あるいはそのように言い訳している場合もあります。

    定期テスト当日に提出するワークや準拠問題集などの課題に関してもそうです。
    学校はテストが近くなってから急に何十ページも宿題を出す、ひどい、と言う子もいます。
    しかし、テストの度にそうなのですから、学校で勉強したことは同じ週のうちに学校のワークを解いておくとちょうど良い家庭学習になります。
    まとめのページは残しておいてテスト前にやるとテスト対策になります。
    学校の先生は当然そのつもりでそういう課題を出しているでしょう。
    勉強のできる子の多くは、そのように学校の課題を活用しています。
    なかには塾のハイレベルな課題を解くのに忙しく、学校の課題をテスト直前に丸々残してしまう秀才というのもいますが、あの人たちは、学校のワークは1時間か2時間で解いてしまえるので、真似しているとひどい目にあいます。

    私立の中高一貫校は年間の進度とテスト範囲を書面にして配っていることも多いのですが、そうではない場合、次に何を学習するのか生徒は知らない、もちろん私もわからないということもあります。
    教科書の順番通りにやってくれれば良いけれど、そうとは限りません。
    代数と幾何を分けていない学校の場合、今までずっと代数をやっていたのに、突然幾何に入ったということもあります。
    そういう報告を受けて、
    「うん、わかった。じゃあ幾何の問題集を出して」
    と言うと、
    「あ。持ってきていない・・・・・」
    と生徒は応えます。
    「え?だって、学校は幾何の勉強に入ったんでしょう?」
    「・・・・・・」

    そうでなくても、宿題に出した問題集とノートしか塾に持ってこない子は多いです。
    「じゃあ冊子テキストを出して」
    と2~3週使っていなかったテキストを出してほしいと言うと、
    「あ、持ってきてない」
    ということはしばしばあります。
    「これからテスト範囲になる単元のテキストを置いてきてどうするの?あれは、終わっていないでしょう」
    「・・・・・・」
    「あのテキストのほうが難しいから、テスト前にやろうととっておいたんだよ」
    「・・・・・・」

    塾は宿題の答えあわせしかしないわけじゃない。
    学校は今何をやっているのか。
    それにあわせて塾の授業は何をやることになるのか。
    そのために必要なテキストは何なのか。
    それを考えて用意してきなさい。
    そういう話をすると耳を塞いでしまう子もいました。
    「そういうの、私は一番苦手だから。わからないから」
    「・・・・・だったら、全部持ってきなさい。勝手に判断して教材を置いてきたらダメだよ。置いてくるのは、一種の判断でしょう?判断が苦手なら、何も判断しないほうがいい。全部持ってきなさい」
    テスト範囲としては既に終わった教材に対して「あれを出して。何で持ってこないの?」と言いがかりをつけているわけではないのです。
    次のテストに向けて勉強するのに必要な教材を持ってきてと言っているのですが、そういう判断が難しい子は多いです。
    自立した学習者となるには必要なことなので、そうした能力は鍛えたいです。
    でも、現時点では毎回「あの冊子を置いてこないで。使うから」と言い続けないと無理なんだろうなあ。

    個別指導で、生徒の通う学校もバラバラですので、その生徒の情報収集力がそのままテスト対策のクオリティになってしまうのが歯がゆいところです。
    例えば、夏休みの課題だった問題集から十数ページがテスト範囲だと発表されます。
    10日前くらいに急にそんなことを言われても対策できません。
    しかし、それは本当に突然言われたことなのか?
    実は前からわかっていたことなのではないか?
    それを予測し準備していた子もいたのではないか?
    いや、むしろそういう子のほうが多いということもあり得るのではないか?
    次のテストも同じ問題集からまた出題されるのではないか?
    だとしたら、どこが出るのか本当はもうわかっているのではないか?
    そのように問いかけても、その子の表情はぼんやりしています。
    本当にわからない様子です。

    学校の宿題だけはいつもしっかり持ってくるのに、塾で渡した問題集やプリントは忘れてくる子というのもいます。
    他に教材がないので、塾で学校の宿題を解くしかなくなります。

    とにかく学校の宿題がわからない。
    自力で解けない。
    本人はそう言うのですが、そういうのは嘘とは言わないまでも大袈裟な表現である場合がほとんどで、大半は自力で解けるのです。
    わからない問題も中にはあるでしょう。
    そうした1問2問を質問したいというのはわかるのですが、塾で学校の宿題をやりたい、個別指導はそういうことをしてくれるはずという願望が本人にある場合、学校の宿題だけはしっかり持ってくる、塾のテキストや宿題は置いてくるということがしばらく続くこともあります。

    しかし、学校の宿題を塾でやったら、家では何をやるのでしょう。
    おそらく何もしないでしょう。
    私が教えながら解いたらスラスラと進むので、1週間の家庭学習は塾で学校の宿題を解いた90分だけ。
    そんなことになってしまいます。
    こういう形をとると、学校の宿題は今までになくスムーズにこなせるものですから、本人も、そして場合によっては保護者の方も、勘違いをしてしまうことがあります。
    ああ、塾に行くと何もかも上手くいく。
    これは、テストの点数も上がるはず。

    ・・・・・・上がるわけがないんです。
    こんな勉強をしていたら、むしろ、確実に下がります。
    そのように説明するのですが、それでも「学校の宿題がー」「宿題がー」と言い続ける場合は、実際にテストの結果が出るのを待つしかありません。
    テストで悪い結果が出て、何が問題であるか向き合う気持ちになってくれたら、それからが本当の始まりです。
    学校の宿題を自分で解けるように。
    それが目標であるなら、地力をつけなければなりません。
    そのためには、これまでの学習量の不足を改めなければなりません。
    以前に未消化だった内容のせいで今の勉強がわからないのなら、そこに戻って復習しなればなりません。
    しかし、本人にとっては塾の宿題も上手くこなせず、学校の宿題と塾の宿題と、結局宿題が2倍になって苦しいばかりとなります。
    塾の宿題の答え合わせをしても、最初のうちは不正解や解いていない問題があまりにも多く、90分かけても宿題の解き直しが終わりません。
    その間にも学校の授業は先に進み、わからないことはたまっていきます。
    毎回、塾の宿題が負担だ。
    しかも、学校の宿題を解くのに何の助けにもならない。
    苦しい時期が続きます。

    錆びた大型機械が動き出すには、まず動きだすために多くのエネルギーが必要です。
    錆びていた時期が長いほど、動きだすための時間も長く必要となります。
    とにかく、動くようにすること。
    自力で走行できるようにすること。
    自分で学習できるようにすること。
    そのための苦しさに耐えることができるかどうか。
    それが最初の課題です。

      


  • Posted by セギ at 14:46Comments(0)講師日記

    2015年11月19日

    ホットカーペットの季節です。


    ここ数日は暖かいですが、これが終わればまた一気に寒くなるのかもしれません。
    教室もそろそろ暖房の準備をする季節です。
    勉強する環境としては頭寒足熱のほうが良いので、教室の暖房はそんなに強めにはしません。
    その分、足元をホカホカに出来たら良いのですが、なかなかそうもいかないというのが今回の話題です。

    教室を開いて最初の冬、エアコンの暖房だけでは足元が冷えるので、ホットカーペットを購入しました。
    店には、座布団タイプの1人用と横長の2人用が隣りあって売られていました。
    値段も大差なく、かかる電気代は同じ表示でした。
    しばらく悩んで、結局、私は1人用を購入しました。
    生徒の足元にホットカーペットを置くことが生み出すだろう余計な面倒が購入前から予想されたからです。

    生徒は基本、嫌いな勉強をやりにきています。
    学年が高くなれば目的意識を持って勉強をするようになりますが、小学生や中学生は、本当は勉強したくないのに我慢している子が大半です。
    勉強をすること自体がストレスなのか、歯を食いしばり、肩に力の入っている子もいます。
    上半身にそういう緊張が出ないものの、足に出てしまう子も多いです。
    うちの教室の椅子はパイプ椅子なのですが、そのパイプに足をからめ、力を入れている子。
    そんなことをずっとやっていたら、いずれ疲労骨折しないかい?
    履いているスリッパの足裏部分と足を覆う部分の縫い目を引きちぎろうとしてるかのようにスリッパを「えびぞり」させてしまう子もいます。

    悪気があってやっているのではないのです。
    ほとんど無意識でしょう。
    「足の行儀が悪い」という言い方もできますが、そればかりでもなさそうです。
    足元のことなんて何も考えないで算数や数学の問題を解きながら、いつの間にか、足に力が入っているのでしょう。
    これをいちいち注意していたら、授業になりません。

    この「足元の緊張」がホットカーペットに向かうと何が起こるか?
    私だけがホットカーペットを敷いているのへ、
    「ずるい!」
    と主張する子もいましたので、一度はその子の足元に移動してあげました。
    しばらくして足元を見ると、1人の子は、座布団型のホットカーペットを足で4つ折りにして、ふんづけていました。
    もう1人の子は、暖かいからか足で器用に靴下を脱ぎいつの間にか裸足になっていて、片足の指にコードをひっかけ、もう片足の指でホットカーペットをはさみ、ねじって引きちぎる体勢に入っていました。
    ・・・・・・あなたたちは、いったい何がやりたいのですか?

    何がやりたいということはなく、つまりは足でホットカーペットとじゃれて遊んでしまうのです。
    そんなことは無意識にやっていることでしょうから、理由もないし悪気もないでしょう。

    やはり購入前に予想した通りのことが起きてしまいました。
    これに関わっていつもいつも足元に目を光らせているなんて、考えただけで気が滅入ります。
    生徒の足元に、ホットカーペットは置かないほうがいい。
    1人用のホットカーペットでも、机の下全体をほんのり温めますから、あとは、生徒はスリッパを履いて足元を温めてもらえば何とかなるでしょう。
    スリッパは「えびぞり」させて引きちぎってもいいように最初から安物しか購入していません。
    引きちぎられる度に買い替えています。
    しかし、ホットカーペットのコードを引きちぎられると、漏電の心配もあるし、壊れたときにゴミに出したり買い替えたりのわずらわしさがスリッパの比ではないので、さすがにそれは避けたい。

    しかし、これで仕方ないと思ってはいても、足元が冷たいだろうなあと思う場面は多いのです。
    スリッパを嫌い、履こうとしない子もいます。
    足元、冷たくないかい?
    この子は、ホットカーペットを足で4つ折りにするわけないなあ。
    そう予想できる子も多いのです。
    しかも、そういう子は、私だけがホットカーペットを敷いているからずるいなんて口にしません。
    勉強しに来ているのだから、そんなことはどうだっていいと思うのかなあ。
    少しは気になるけれど、行儀がいいから黙っているのかなあ。
    そういう子たちのためには、2人用のホットカーペットにすれば良かったなあと正直後悔もするのです。

    「センセイばっかり暖かくしてずるい!」
    と主張する子ほど、足の指でコードを引きちぎりかねない子なのは興味深いことです。
    そういうことを言う子が女子に限られるのもまた興味深いこと。
    先日も、まだ出してもいないホットカーペットのことで不平を言うので、
    「だって、足の指でコードを引きちぎろうとするでしょう」
    と説明すると、
    「・・・・センセイは、そんな机の下のことに気づいたの?」
    と、私が気づいたことを非難するので驚きました。
    しかも、その口ぶりでは、自分が足の指でコードをはさんでいた本人であることはきれいに忘れている様子でした。

    まあ、子どもというのは、そういうものだ。
    大人への不満をくどくどと口にし続けることが、その子のストレス解消になっているのなら、それでいいのかもしれません。
    どうでもいいことへの不満を口にしながらでも、苦手な数学に立ち向かっていってくれるなら、それでいいのです。

    不満を口に出せる子のことはそれで良いとして、普段行儀が悪いわけではないし不満を口にするわけでもないけれど、ホットカーペットを4つ折りにする可能性はゼロではない子というのもいて、一番心配なのはそういう子です。
    「90分間の苦闘」が終わってほっとするのか、授業の後、動きが鈍くなり、なかなか帰り支度を始めない子がいます。
    次の授業もあるので、さてどうしたものかと私が困惑している表情に気がつくと、慌てて荷物を鞄につめて、バタバタと帰ろうとして、玄関の下駄箱に鞄をバンとぶつけてしまったりします。
    あーあ、下駄箱にキズがついたな、こりゃあ。
    そんなことより、危ないから落ち着いて行動してね。
    その子から、雨の日、自転車に乗れないので徒歩で来たため遅刻しそうになり、走って転んだなどと聞くと、遅刻するなと叱ったことなど一度もないのに何で落ち着いて歩いてこないかなあと心配のあまり怒りの感情さえわいてきます。
    そういう子は、何かのストレスで足元のホットカーペットを4つ折りにする可能性はゼロではありません。
    そして、それを注意した後のその子の動揺を思うと、それは行儀の悪い子に注意するような気軽なことではないと思うのです。

    やはり、生徒の足元に余計なものはないほうがいい。
    でも、やっぱり、足元が冷たいかなあ?
    悩みが尽きない冬がきます。

      


  • Posted by セギ at 14:50Comments(0)講師日記