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お知らせ

2023年08月19日

夏休みなので難問を。数Ⅰ三角比と三角形の面積の最大値。


夏休みなので、難問を。

問題 △ABCにおいて、BC=6、tan A=4/3 である。△ABCの面積の最大値を求めよ。

さて、まずは自分で解いてみたいという方は、問題を書き写し、ここでブログを閉じてください。
こういう、情報の少ない問題は、簡単そうに見えて、意外に難しいですね。


さて、ここからは、解答・解説です。

底辺だけわかっていても、高さが無限に伸びるのだから、この三角形の面積に最大値なんてないんじゃないの?

と、一瞬思ってしまいそうですが、この三角形は、∠Aの大きさは決定しているのです。
tan A=4/3 ですから。

三角比は、それぞれの角の大きさに固有のものです。
「直角三角形の辺の比」という感覚から意識が拡張されていないと気づきにくいことですが、サイン・コサイン・タンジェントの値は、角の大きさによって決まっています。
三角比の表を見てもわかります。
角度ごとに、サイン・コサイン・タンジェントの値は定まっていて、それが一覧表になっています。
今回の問題でも、タンジェントの値が定まっていますので、∠Aの大きさも決定しています。

それならば、△ABCの形は、1つに定まるのか?

いや、そうではないですよね。
∠Aの大きさと、その対辺であるBCの長さが決まっているだけでは、△ABCは、色々な形をとることができます。
でも、共通な性質というのはあるはずです。

どんな性質?

ここで発想の飛躍ができると、もうこの問題は解けたも同然。
辺BCの長さは決定している。
∠Aの大きさも決定している。

・・・あれ?
この三角形は、色々な形をとるけれど、どれも、1つの円に内接する三角形なのでは?
なぜなら、辺BCを弦ととらえ、その弧BCの円周角が∠Aだと考えるならば、等しい弧の円周角は等しいですから、頂点Aが、その円周上のどこにあっても、∠Aは一定です。

では、円を描き、辺BCを底辺として見やすい位置に描きこんでみましょう。
頂点Aは、円周上のどこでもいい。
だとすれば、△ABCの面積が最大になるのは、頂点Aがどこにあるときでしょうか?



雑に描いたので、本当に下手な絵ですみません。
△ABCは、上の図の黒い三角形でも、他に描いた赤い三角形でも、BC=6、tan A=4/3を満たします。
では、この中で、もっとも面積の大きい三角形は?
頂点Aと底辺BCとの距離が大きいほど、三角形の面積は大きくなります。
ここで、辺BCを水平に描いたことが功を奏すると思います。
どこに頂点Aを描けば、辺BCからもっとも遠いか?
それは、てっぺんの位置。
円を1つの時計と見立てるならば、12時の位置。

そして、頂点Aがてっぺんの位置にあるのだとすれば、この△ABCは、AB=ACの二等辺三角形です。
点Aが、てっぺんから少しでも下がれば、AB=ACではなくなりますよね。

よし、わかった!

二等辺三角形の頂角の二等分線は、底辺を垂直に二等分します。
底辺BCの中点をMとし、線分AMを描きましょう。
このAMが、△ABCの高さです。

さて、△ABMは、直角三角形です。
三平方の定理を使えば、AMを求めることができます。
それには、他の2辺の長さが必要。
BMは、BCの半分ですから、6×1/2=3
それでは、ABは?

ここで、tang A=4/3 が生きてきます。
三角比は、サイン・コサイン・タンジェントのどれかの値がわかれば、残る2つの値を計算で求めることができます。
タンジェントから、公式を使ってコサインの値を求められます。

三角比の相互関係の公式を用います。
1/cos^2 A=1+tang^2 A
=1+(4/3)^2
=1+16/9
=25/9
よって、
cos^2 A=9/25

ここで、0°<A<180° 
tan A>0、sin A>0 より、
cos A>0
よって、
cos A=3/5

よし、これで、辺ABの長さを求めることができます。
AB=AC=x とおくと、
△ABCにおいて、余弦定理より、
6^2=x^2+x^2-2x・x・cos A
36=2x^2-2x^2・3/5
2x^2-6/5x^2=36
4/5x^2=36
x^2=36×5/4
x^2=45
x>0より、
x=3√5

よって、AB=3√5。
そして、先ほど求めた通り、BM=3 ですから、
△ABMにおいて三平方の定理より、
AM^2=(3√5)^2-3^2
=45-9
=36
AM>0より
AM=6

これで△ABCの高さの最大値は6とわかりました。

よって、△ABCの面積の最大値は、
1/2・6・6=18

面積の最大値は、18です。
  


  • Posted by セギ at 14:21Comments(2)算数・数学

    2023年08月12日

    説明の伝わりにくさ。



    例えば、私の解説が、生徒に伝わらない。
    あるいは、学校の問題集のかなり丁寧な解答解説集が、その生徒には理解できない。
    そうした方向の伝わりにくさは常に課題です。
    それとともに、反対方向から、すなわち生徒からの質問が、私には意味がわからない、ということもあります。

    例えば、こんな問題を解いていたときのことです。
    高校数Ⅰ「2次関数」の問題でした。

    問題 x^2+(2-a)x+4-2a=0 が、-1<x<1の範囲に2つの実数解を持つような定数aの範囲を求めよ。

    この2次方程式の左辺を、関数として考えましょう。
    すなわち、
    f(x)=x^2+(2-a)x+4-2a
    このグラフは、下に凸の放物線です。
    この放物線が、x軸に、-1<x<1の範囲で2か所交わればよいのです。
    よし、わかった。

    満たすべき条件は、
    (1)判別式D>0
    (2)軸が、-1<x<1の範囲にある。
    (3) f(-1)>0、f(1)>0

    こう言われても何のことやらさっぱりわからない、という場合は、もっと基礎からゆっくりと解説することになります。
    しかし、その子は、ここまでの解説はわかるようでした。
    初めて学習するわけではなく、「2次関数」を復習している受験生でしたので、それも当然です。

    しかし、(2) の、「軸が-1<x<1の範囲にある」に関して、その子は、奇妙な質問を口にしました。

    「軸は0じゃないんですか?」

    ・・・軸は0・・・?
    何のことだろう?

    「どういうこと?」
    「・・・え・・・」

    さて、ここからが大変なのでした。
    私には、解き方の正しい道筋が見えています。
    逆に言えば、正しい道筋しか見えない状態なのかもしれません。
    生徒がよくつまずくところならば把握していますが、数学が得意・不得意に関係なく、生徒はこちらの想像を絶する思い込みをすることがあります。
    しかも、生徒の質問の多くはカタコトで、伝えたいことが不明瞭です。
    何を尋ねているのか、本当にわからないときがあります。

    「軸が0って、どういうこと?」
    「・・・え・・・」

    ここで、生徒もひるんでしまうのです。
    もともと数学に関してはカタコトなのに、動揺してしまうと、言いたいことがさらに不明瞭になります。
    私は責めているのではなく、「軸が0」という言葉の意味が、本当にわからないだけなのですが。

    何往復ものやりとりが必要でした。
    真摯に告げる必要もあります。
    私は責めているのではない。
    質問の意味が本当にわからないのだ。
    私には正しい筋道が見えている分だけ、間違った考え方は見えにくい。
    脇道や獣道は、目に入らない。
    あなたに見えている、それは、何なのですか?

    そうして、ようやく質問の意味を理解しました。
    その子は、この放物線の軸の方程式は x=0 、すなわち y 軸しかないと思い込んだのです。

    ・・・何で?

    それは、その子が自分で描いた x 軸と放物線の図のせいでした。
    いや、私が描いても、多分同じ見た目のグラフになったとは思います。
    -1<x<1の範囲で、x軸と2か所交わる、下に凸の放物線。
    範囲が狭いこともあり、バランスよく、-1<x<1のちょうど真ん中を軸が通るような放物線を描いてしまうでしょう。
    でも、それはたまたまのこと。
    放物線はもう少し左に寄っても右に寄っても、構わないのです。

    「放物線の軸の方程式は、x=0 ではないのですか」

    このように質問してくれたら、質問の意味はもう少し早く理解できたと思います。
    「軸は0じゃないんですか?」
    と似ているようで、伝わり方が全く違うのです。

    正しいことならば、カタコトでも伝わります。
    でも、間違ったことは、カタコトになると、全く伝わらなくなります。
    とはいえ、高校生でそこまで正確に数学用語を駆使できる子は、めったにいないのですが。


    教える者の能力は、正しいことをわかりやすく解説する能力と同じくらいに、生徒の言うカタコトでしかも間違った内容のことをどれだけ理解できるか、その理解力によるところも大きいのだと思います。
    理屈に合わない間違ったことを、なぜか生徒は思い込んでいて、しかもそれをカタコトで発信してきます。
    それを受信し、何をどう誤解しているのかを理解し、解説する。
    どのように間違っているのかを説明し、誤解を解く。
    それをしないと、生徒は、自分の答は「別解」であると信じてしまうことすらあります。


    また別のとき、別の生徒で。
    今度はさらにレベルの高い問題を解いていました。

    問題 関数 f(x)= | x^2-4x | -2x について、
    曲線y=f(x) と、直線 y=a(x-6)-8が共有点を4個もつような定数 a の値を求めよ。

    式の中に絶対値の部分のある2次関数に関する問題です。
    まずは、グラフを描いてみましょう。
    絶対値を含む関数は、絶対値の内側の部分が0以上であるか0未満であるかに場合分けして考えます。

    x^2-4x≧0 のとき。
    よって、x(x-4)≧0、すなわち、x≦0 , 4≦x のとき、
    もとの2次関数は、そのまま絶対値記号を外すことができますから、
    f(x)=x^2-4x-2x
      =x^2-6x
      =(x-3)^2-9
    これは、頂点(3 , −9) の下に凸の放物線です。
    ただし、x≦0 , 4≦xの範囲で。

    また、
    x^2-4x<0 のとき。
    よって、x(x-4)<0、すなわち、0<x<4 のとき、
    絶対値記号の内側は負の数なので、絶対値記号を外すときには符号を変えることによって正の数になりますから、
    f(x)=-x^2+4x-2x
      =-x^2+2x
      =-(x^2-2x)
      =-(x-1)^2+1
    これは、頂点(1 , 1) の、上に凸の放物線です。
    ただし、0<x<4 の範囲で。

    理解していれば簡単なのですが、実際には、これをスラスラ描ける高校生は、ある程度の学力のある子たちです。
    その子は、自力でこのグラフを描いていました。
    さすがです。
    さて、問題を見直すと、これと、直線 y=a(x-6)-8 との共有点の個数を考えればよいわけです。
    この直線は、a によって傾きが変わるものの、点(6 , −8) を必ず通ります。
    その子は、そのことも理解していました。
    グラフは、下のようになります。



    赤い直線は、曲線 y=f(x) との共有点が3個の直線。
    青い直線もまた、y=f(x)との共有点が3個の直線です。
    この間の傾きのとき、y=f(x)とこの直線は、共有点を4個持ちます。

    赤い直線は、曲線 y=f(x) の上に凸の部分と接する直線です。
    では、接点の座標を求めれば、何とかなりそうです。
    上に凸の曲線と直線の式を連立して y を消去し、x についての2次方程式を作って、それが重解を持つのだから、判別式D=0とすれば・・・。

    しかし、そこで、その子は、奇妙なことを言い始めたのです。
    「いちいちを通るんじゃないんですか?」
    「・・・え?」

    いちいち・・・。
    意味がわかりませんでした。
    ・・・何の話だろう?

    「え?」
    「・・・」

    主語がない。
    「いちいち」とは何なのか、意味がわからない・・・。
    さすがにちょっとわからな過ぎて、そのまま、正しい解き方の解説をひと通り終えました。

    次の問題を解く生徒を眺めながら、私は、意味を考え始めました。
    「いちいち」とは、何のことだろう?

    思い出しました。
    その子は、座標の読み方に癖があるのでした。
    いちいちとは、(1 , 1) のことだったのです。
    「1カンマ1」と読まず、「いちいち」と読む癖のある子でした。
    その読み方は、例えば、「じゅういち」のとき、それは(10 , 1) なのか、単なる11なのか伝わらないので、あまり良くないのです。
    でも、数学の答案の読み方は、中1の初めからつきっきりで指導した子でない限り、どの子も癖がありますし、ついてしまった癖はほとんど直りません。
    数学の答案を音読する機会は、週に1度、私との授業のときのみなのですし。

    「いちいち」とは、点(1 , 1) のこと。
    点(1 , 1) を通るのではないかと、その子は言ったのでしょうか?
    点(1 , 1) を通る?
    何が点(1 , 1) を通るのでしょうか。
    主語がないというのは、本当に不便です。
    でも、おそらく、直線 y=a(x-6)-8 が、点(1 , 1) を通る、ということでしょう。

    なぜ?
    そんなところを通る直線に大した意味はありませんけど?
    点(6 , -8) と、あとは、上に凸の放物線との接点を通る図中の赤い直線が、a に関する1つの境目になります。

    点(1 , 1) って、何だろう?
    グラフを眺めて、気づきました。
    それは、上に凸の放物線の頂点の座標でした。

    ・・・何でそんなところを通る直線が境目になると思ったのだろう?

    そして、気づきました。
    グラフだ!
    その子は、グラフをノートに小さく描き、しかも、上に凸の放物線を尖り気味に描いていたため、頂点のところで、直線 y=a(x-6)-8 はその放物線に接しているように見えていたのだと気づきました。

    放物線の頂点で接する直線の傾きは、0です。
    x軸と平行な直線になってしまいます。
    そんな直線は、点(6 , -8) は通りません。

    放物線の頂点を通る接線の傾きは0。
    それは、微分を学習し、増減表から曲線のグラフを描くときに理解したはずの知識です。
    微分の学習が終わっている受験生が、それに気づかないはずがない。
    でも、それは、逆に私の思い込みでしょう。
    手書きのグラフのせいでそのような誤解をしてしまうことも、日によってはあるかもしれない・・・。

    「点(1 , 1) は関係ないですよ」
    顔を上げたその子に、ホワイトボードに大きくグラフを描いて再度解説すると、その子は、あっと気づいた様子で、自分のノートの放物線を丸みをつけて直していました。

    そもそもグラフを描くことができない人は、こうした問題には手も足も出ません。
    解き方がわからず、答案を1行も書くことができません。
    グラフを自分で描いて考えているだけで、さすがに数学を受験科目に使うつもりだけのことはあります。
    一定のレベルは越えています。
    しかし、自分の描いたグラフの見た目が、思わぬ誤解を生むこともある。
    そして、それをカタコトで伝えても、私にはなかなか伝わらない・・・。
    正確に入念にすべてを説明しなければ相手に伝わらないとは、まさか思っていないので、話し方が雑になるということもあるでしょう。

    でも、数学ってそういうものです。
    ちょっと言葉を省略しただけで、もう伝わらないのです。


    それにしても、何年数学を教えていても、まだ発見があります。
    生徒は新しい誤解を繰り出してきます。
    そして、それを分析し、理解することは、私にはとても興味深いことです。
    厄介だけれど、面白いです。

      


  • Posted by セギ at 16:12Comments(0)算数・数学

    2023年08月05日

    +、-を「たす」「ひく」と読む中学生・高校生。


    小学生が+、-を「たす」「ひく」と読むのは当然なのですが、中学生になっても、そして高校生になっても、+、-を「たす」「ひく」と読む癖の抜けない子たちがいます。
    例えば、
    -6-3
    を「マイナス6ひく3」と読みます。
    その子の頭の中では、先頭の符号だけは「マイナス」であり、式の中の「-」は「ひく」であるらしいのです。

    慣れ親しんだ記号の読み方について、本人なりの辻褄合わせが生んだ結果なのだと思うのですが、さて、これは放置しておいていいものなのかどうか。

    私の狭い見聞の中でのことでしかありませんが、中学生・高校生で+、-を「たす」「ひく」と読む子たちは、数学が全くできないわけではないけれど、数学が得意というわけでもない・・・。
    何となく伸び悩んでいく子たち、という印象があるのです。


    これは数学に限らない、学力の問題だからかもしれません。
    中学に進学した段階で、学校の数学の先生から、最低一度は、
    「今後、この記号は、たす、ひくではなく、プラス、マイナス、と読む」
    と教わっているはずです。
    さらに、学校の先生が、授業中に解説しながら数式を読むときは、常に、プラス、マイナス、のはずです。
    しかし、そうした授業を受けていても読み方を改められない子どもたちがいます。
    プラス、マイナス、と読むように自分を改革できないのです。
    小学校で6年間慣れ親しんだ「たす」「ひく」と読む習慣を改められない。
    知識の刷新ができない。
    脳がそのように刷新されない。
    これは、学ぶ力、すなわち学力と多少関係があるのではないか?


    これと似ている件に「>」「<」という不等号の読み方があります。
    「>」は「大なり」。
    「<」は「小なり」と読みます。
    不等式を音読する機会は、めったに訪れませんから、これの読み方を知っている生徒は、少ないです。
    それでも、パソコンで文字入力をするとき、「だいなり」と入力すれば、一発変換で「>」が出てきます。
    知る人は少ないけれど、これは現代も生きている正しい読み方です。

    うちの教室では、宿題の答え合わせなどでは、生徒は自分の答案を音読します。
    私は、自分の解いたものかテキストの模範解答を見ながら、その解答を聴き取り、正解かどうかの判断をしています。
    私が生徒の答案と自分の答をいちいち見比べて採点するよりも、音読してもらうほうが速いですし、私だけが採点していると、生徒は暇そうにしてしまいます。
    その間に他の問題を解いてもらっていると、わからなくて質問してくる子もいます。
    採点している暇がなくなります。
    答え合わせは、生徒参加型のほうが能率的であり、生徒もその時間を無駄な時間とは思わなくて済みます。
    というわけで、生徒に答案を音読してもらっています。

    +、-を「たす」「ひく」と音読する子については、私の頭の中でそれを「プラス」「マイナス」と変換しなければならないという手間はあるものの、答え合わせでの実害はありません。
    小学生に教えるときは「たす」「ひく」、中学生以上に教えるときには「プラス」「マイナス」と、私自身が長年使い分けていることもあり、頭の中での変換はスムーズです。

    しかし、不等号の読み方が逆になってしまう子の音読は実害しかありません。

    「a 大なり1」とその生徒は音読する。
    しかし、それは、本当に、
    a>1
    なのか、それとも、その子が読み間違えていて、その子の書いた答案は、
    a<1
    なのか、音読では判断がつかないのです。

    かといって、いちいちノートを受け取って見るというのも、このコロナの時代に、あまり好ましいことではありません。
    どうしても見なければならないときは見るけれど、音読で済ませられるときには、それで済ませたい。

    不等号の読み方くらい、覚えてほしい。
    それで万事解決するのだから。
    大したことではないし、邪魔になる知識でもないから。
    それでも、不等号の読み方をどうしても正しく覚えられない子たちがいます。
    そして、そうした子たちは、私が接してきた範囲では、例外なく、数学があまり得意ではありません。
    不等号を読み間違える子は、x についての不等式に他の文字 a などが入っている問題や、文章題など、応用問題になると歯が立たないのです。

    これは、数学センスがないということではなく、学力そのものに関係するのではないか?
    「>」を「大なり」と読む。
    「<」を「小なり」と読む。
    たったそれだけの読み方を、覚えられないのだから。

    a>1
    は、「a 大なり1」と読みます。
    それは、
    「a 大なり」で止めて考えれば、意味的にも明瞭です。
    「a 大なり」と断定したのですから、a は大きいのです。
    その言い方は、英語的です。
    a is larger than 1
    ということです。
    事実を最初に言い切ってしまう。
    主語がどのようであるのかを、まず断定する。
    補足事項は、その後につける。
    論理的な言語の特徴です。

    不等号の読み方と合わせて、そのように解説もするのですが、それでも、次の授業では、また読み間違える・・・。
    仕方ないので、ホワイトボードに、
    <  小なり
    と書いておくと、音読するときは、ボードをちらちら見ながら正しく音読します。
    しかし、毎回そうしてあげなければ、次の授業ではまた間違えます。
    定着する、ということがありません。


    もの覚えの悪い子には2通りあります。
    ①本当に記憶力が悪く、頑張っているが覚えられない子
    ②そんなことは覚える必要がないと、本人が判断している子

    そして、②の場合は、判断力がある分だけ頭が良さそうな感じがしますし、本人の自己肯定感も高いのですが、結果がついてきません。
    誤った判断が、その子の可能性を奪ってしまうのです。
    判断ミスの繰り返しですから。

    いえ。
    正直言って、不等号の読み方は覚えられなくても、教室での答えあわせ以外には何も影響しません。
    不等号の意味を理解していれば、大丈夫です。
    ただ、こういうことは氷山の一角です。
    本人の判断は随所に表れます。
    不等号の読み方を覚えられない子は、2次方程式の解の公式では、xの係数が偶数の場合の公式を、本人の判断で覚えないことがあります。
    判別式も、Dだけでなく、D/4も覚えたほうが計算する数字が小さくて済むのに、本人の判断で覚えない。
    乗法公式は意味がなさそうに思えても因数分解のときに使うのに、本人の判断で覚えない。
    組み立て除法は、微分などで3次方程式を解くときに使うのに、本人の判断で覚えない。
    等差数列の和の公式も、初項+末項のほうの公式しか覚えない。
    意味を考えて、自分で復元できるわけでもない。
    2種類公式がある場合、たいてい1種類しか覚えない。
    本人の判断で。

    それでは、本当に記憶力が悪く、頑張っているが覚えられない子と、表面的には同じことになってしまいます。
    教えられたことに、いちいち自分の判断を加えてしまい、そして判断ミスを繰り返す。
    そうしたほうが良い理由を説明されているのに、聞いていないのか、理解できないのか、自分の判断を優先する。
    性格なのか能力なのかは、微妙なところですが、客観的には、それが「能力」として評価されます。

    個別指導では、ここでいつも苦労しています。
    言われたことを言われた通りに覚えて活用してくれる子ならば、簡単に伸びる。
    でも、大抵の場合、それは期待できません。
    何にでも本人の判断が常に加わり、本人はそれを優先しようとします。
    それを論理で抑え、本人の失敗による経験で悟らせ、何とか合理的な方向に進んでもらう。
    数学指導は、煎じ詰めればそういうことです。

    さて、冒頭の、+、-を「たす」「ひく」と読み続ける中学生・高校生に戻ります。
    -6-3
    を、「マイナス6ひく3」と、謎の読み分けをする子たちです。
    たす、ひく、という読み方を直せない。
    これは、やはり、早い時期に直したほうがいいと思うのです。
    なぜなら、-6-3 を、引き算としか認識できていないかもしれないからです。
    -6-3
    =(-6)+(-3)
    という、負の数の和であるという見方ができていないから、そのように読んでいるのかもしれません。
    正負の数の計算をマスターしているようには見えるけれど、負の数の和と考えれば単純な計算を、その子は何か独特の理解の仕方で、複雑に把握しているのではないか?
    簡単なことがいちいち難しいことになっているのではないか。
    そのため、応用まで手が回らないのではないか。
    この場合、この先の数学の学習に影を落としかねません。

    すべての数には、プラスとマイナスの符号がある。
    それを理解していること。
    それは、移項の意味につながり、方程式を理解することにつながります。
    絶対値を含む式の理解につながり、絶対値を自ら活用できることにつながります。

      


  • Posted by セギ at 14:50Comments(0)算数・数学

    2023年07月30日

    読み取りにくい英語長文を読むとき。


    大学入試過去問の英語長文読解問題を生徒に宿題とし、そのため自分も読むことが多いですが、
    「これは読みにくいな」
    と感じる長文もあります。

    例えば、こんな一節。

    Another interesting idea Sue discusses is Damasio's hypothesis that we have body reactions or "body-centered markers" that link certain thoughts with emotional states, making them unpleasant, and focusing us on thoughts that are more acceptable.

    1文の中に関係代名詞節が多用されています。
    主語にも補語にも。
    そして、補語を説明するthat節の中に、さらに関係代名詞節による修飾がされています。
    これは読みにくい・・・。

    しかも、こういう文章を書く人は、語る内容も抽象的でわかりにくいことが多いのです。
    訳してみましょう。

    「スーが論じているもう1つの興味深い考えは、私たちは身体的反応や肉体を中心とするマーカーを持っており、それらがある種の思考を心の状態と結びつけ、思考を不快なものにしたり、より受け入れやすい思考に私たちの意識を集中させる、というダマシオの仮説である」

    ・・・どういうこと?

    先日、生徒とこの長文の宿題の答えあわせをしました。
    その生徒は、問題8問中、7問正解していました。
    誤答の1問を解説して次に進もうとしたところ、その生徒がこうつぶやきました。
    「正解しているけれど、文章の意味がわからない」
    「・・・」

    これは、その子が実際に受験するわけではない大学・学部の入試問題の過去問でした。
    そういう演習をできるレベルに達している生徒です。
    そのレベルの生徒になりますと、私の授業も実践的になります。
    とにかく、どうやって正解したらいいのか。
    訳のわからない英文を読まされて、それでも設問に正解するには、どうするのか。
    どうやってその英文の要旨をつかみ、同時に些末なところは訳がわからなくても無視して、正解を出していくか。
    そういう、入試に向けての演習となります。

    大学入試問題は、問題文の英文がわかりにくい場合、それに反して設問は平易なことが多いです。
    細部はよくわからなくても、各段落のわかりやすい文をしっかり読み、文脈を把握すれば、正答できます。
    くどくどと何か言っているけれど、実際どういうことなのかよくわからないし、文脈全体にも実はさほど影響しないところは、ざっくりと読み捨てることが可能です。
    そうした英語長文問題を読む技術もよく身についている生徒です。
    この英文にタイトルをつけるとしたら、という四択問題も正答していました。
    だから、それでいいといえばいいのですが、何だかモヤモヤが残る・・・。
    読んだ気がしない。

    「・・・大丈夫ですよ。この文章は、日本語で書いてあっても、何が言いたいのかよくわからないですから」
    生徒は、少しほっとした顔になりました。
    実際、上の文はキーセンテンスという訳ではなく、放り投げるように述べられるのみで、それをかみくだいた解説はされないのです。
    例えば、「肉体を中心とするマーカー」というのは何であるのか、前後を読んでも、何も説明されていませんでした。
    すぐに次の話に移っていきます。
    こういう、放り投げるように訳のわからないことを書く人はいるので、無視していいと、私は思います。
    どういうことなのか、読者にわからせる意図があまりないように感じます。
    上の文の後に続く英文を日本語にすると、
    「このことがきっかけで、好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制について彼女は考えるようになった」
    となり、上の文の意味はわからなくても話は先に進んでいくのです。
    そして、その先、「好ましくない思考を避けることが作家にもたらしうる抑制」ということの意味も語られることなく論理は進んでいきます。
    ひと言書いたからもういいだろうとでもいうように、話はどんどん先に進んでいくのです。

    何でこんな英文を入試に出題するのか。
    それは、こういう英文にそれでも爪を立てることができる学生を欲しているということなのだと思います。
    読みやすい文章しか読めない学生は要らない。
    それは、わからないでもありません。

    今や、日本語で書いてあるものですら、読みやすい文章しか読めない子もいます。
    読みやすいことが何よりも大切であるとする価値観も存在します。
    それもまた愚かなことです。

    しかし、わかりやすく語れることを、わざわざ難解に語るのも、くだらない。
    難解なだけの文章など、受験テクニックで読み流してやればいいと、私は思っています。
    著者の張る無駄な煙幕は無視する。
    些末なところは、そもそも、読まない。


    とはいえ、私は個人的には読書が好きなので、読むのなら読む価値のあるものを読みたいという気持ちがあります。
    せっかく英語力のついた生徒と英文を読んでいるのだから、受験テクニック中心の解説授業の後でも、この文章は面白かったね、と感想を語りあえるような英文を読めるのなら、そのほうがいい。

    そんなことを思っていたとき、これは日本語で書かれた随筆を最近読みました。
    大江健三郎『定義集』。
    2012年に出版された本で、そのときに購入したのですが、積んでおくだけの本も多い私は、11年経って、ようやく読み始めました。
    その中の一節に、英語学習の仕方についての文章がありました。
    翻訳の文章は頭に入りにくいものがある。スッキリ理解するために良い方法はありますか、と著者は若い人に質問されたというのです。

    以下、上の『定義集』から引用します。

     ある、と私は答えました。きみは英語が読めるはず。英語の原書からの翻訳で考えよう。私の自己流のやり方が役に立つと思います。翻訳を読んで面白く思うところは赤鉛筆で囲む。わかりにくいと感じれば、青鉛筆で。
     これを習慣にする。なかでとくにしっかり読みたい本の原書を、大きい書店かアマゾンで手に入れる。それからまずやることは、もう一度翻訳を読んで、囲ったところを原文で写す作業。それをやるうち、自分の語学力で読みとれる本であるかどうかはわかる。初めは易しく感じられる本がいい。それをやる段階で、きみは面白く、大切だとも感じた箇所を、原語で読み直す喜びをすでにあじわっている。
     さてこれからきみは、本腰を入れていくことになる。翻訳の青線部分を何度もゆっくり読む。続いて写した原書のその部分を、ていねいに辞書を引きながら読みとってゆく。頭に入らないと感じながらでも、くりかえし読んだ翻訳が記憶にあって、原文を読むのをたすけてくれる。そして、ここがわかりにくいと感じるところを自分で解釈して、なんとか自分でわかる訳をつけてみる。(写したノートに、幾通りもやってみるのがいい)。
    そのうちわかりにくかった翻訳の一節に自分のつけた訳文が添え木の役割をはたして、こういう意味なんだ、とつかめてくる。そこで、わかったとおりに、自分としての定訳を書き込むことができれば、難所は通過できたのだ。むしろ私にとっては、そういう自分の訳をつけてみる必要がないだけに、すでに原文のその箇所がなっとくできている、という場合が多かった。
     それから、次つぎの青線部分へと同じことをやってゆくと、原書を通して読むのと変わらない。やがてこの方法から翻訳のない本を読む道がひらけてくる・・・それでも、私がよく思い出すのは、翻訳と辞書を左右に、真ん中に原書を置いて一冊読み終わっての、頭だけじゃなく全身運動をやりとげた爽快感!

    引用、終わります。
    さすが、大江健三郎。
    この部分を読んで、自分が静謐な書斎か大学図書館にでもいるような気持ちになりました。

    私は「受験屋」ですから、入試で合格するための英語指導をします。
    その一方で、自分自身の英語学習を思い返すとき、大江健三郎さんの書いていることは、腑に落ちるものがあるのです。
    私自身の英語力が「あのとき飛躍した」と感じたやり方は、これと同じではないけれど、それに通じるものがあった気がします。
    読む能力よりも、聴きとる能力のほうでの体験ですが。

    例えば、エミネムが一時期好きで、何百回と繰り返し聴いていたとき、ふと耳にした英語ニュースが今までと比較にならないほどクリアに聴きとれる経験をしました。
    また、『ノッティングヒルの恋人』という映画が好きで、英語・日本語対訳の脚本集を片手に何十回と見ると、映画の中のぼそぼそとつぶやくような早口のセリフが聴き取れるようになりました。
    目的が明確ではなく、ただ好きなものを深追いしていたときに、目的としていなかった効果が表れたのです。

    勿論、私は、もっと目的が明確で能率的な英語学習もしていました。
    単語集付属のCDをウォークマンに落とし、通勤電車の中で、あるいは山を歩きながら、何百回と聴きました。

    しかし、それだけでは、もしかしたら途中でうんざりしていたのかもしれません。
    実用的な英語学習は、心の栄養にはなりません。
    むしろ、能率とか実用とかとは無縁に、好きなものに打ち込んだときに、思いがけない飛躍が訪れました。

    私が上にあげた例が、あまりに俗っぽいので、何だかなあと思われる方もいらっしゃると思いますが、英語で書かれた原書を読むということでも、最初からそんなに背伸びする必要はないと思います。

    大江健三郎さんが、その文章に続いて若い人にと勧めている本がありました。
    以下、再び引用です。

     こう話した上で私は若者に、すばらしい訳が岩波少年文庫に入っているフィリパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』と"Tom's Midnight Gaden" PUFFIN BOOKS を推しました。それは私がもう大人になってから、子供のための小説を子供たちと読む企画で、この小説を翻訳と原作あわせて読み、深く印象を受けたからです。

    引用終わります。

    『トムは真夜中の庭で』は、私は大人になってから読みました。
    もっと心が柔らかくみずみずしかった頃に読んだなら、誰にも教えたくない特別な1冊になっていたのかもしれないと感じた小説でした。
    そのような小説は、読書が好きな人には誰にもあると思います。
    十代の時期に出会った、大切な1冊。
    大江健三郎さんは、それを、大人になってから読んでも、同じくらいみずみずしく感動したのでしょうか。

    この冬に受験するという人には勧めませんが、まだ時間的に余裕があり、そして、英語が多少は好きで、英語をもっと好きになりたい人は、大江健三郎さんの学習法を、夏休みのように時間に余裕のあるときにやってみるのは意味のあることだと思います。
    本物の学問。
    本物の教養。
    そうしたものの空気だけでも触れることができるような気がします。

    そして、そのような姿勢で読むのなら、一番上の英文の意味も、腑に落ちるものなのかもしれません。
    入試の英語長文は、長いエッセイや評論の一部分を切り取ったものである場合も多く、著者の姿勢を否定するには、あまりにも短い。
    「肉体を中心とするマーカー」も、実は、入試問題として切り抜かれた以外のどこかで説明されているのかもしれません。

      


  • Posted by セギ at 13:08Comments(0)英語

    2023年07月21日

    テストは上がったら、次は下がります。


    さて、中高一貫校も都立高校も、期末テストの結果が出そろった頃です。
    定期テストの得点は、学習が上手くいっている子でも、ジグザグに上昇していくことが多いです。
    上がった後は、少し下がる。
    その後、また上がる。
    どうせなら、ずっと上がり続ければいいのですが、どうしても上がった後は下がってしまう傾向があります。

    1つには、学習量を確保せずにテストを受けてしまうことにあるのでしょう。
    塾に通い、最初のテストで結果も出たことで安心するのか、家庭学習が減る子がいるのです。
    塾の宿題は、やっつけ仕事。
    以前は、学校のワークや問題集は、自力でそれなりに頑張っていたのに、
    「塾で勉強しているんだから、大丈夫」
    「塾の宿題をやるから、学校の課題はやる時間がない」
    と自分に言い訳して、学校の課題も取り組みが雑になってしまいます。
    結果、通塾する前よりも家庭学習が減ってしまいます。

    今まで通りの学校の課題に加えて塾の課題を演習し、わからないところは解説を聞くことができるから、塾に通うと成績が上がるのです。
    けれど、子どもは不思議な辻褄合わせが好きで、塾で勉強すると、その分、家庭学習を減らしてバランスを取ることがあります。
    それでは、成績も以前の通りにバランスが取れてしまいます。
    そのため、次のテストは得点が下がります。
    このようなテストの失敗の原因が理解できると、本当に成績を上げたい子は変わり始めます。

    もう1つはテスト範囲の問題。
    1学期の中間テストまでの間は、学校の行事が多くバタバタしがちで、授業はそれほど順調には進みません。
    その進度に生徒は慣れてしまいます。
    ところが、その後は行事のない時期になり、授業のスピードが上がります。
    中間テストから期末テストまでは、正味ひと月しかないのですが、テスト範囲は中間テストと同じくらの分量になることが多いです。
    この量を、気がゆるんでいて消化できない子がいます。
    そうした中で塾の授業は都合で休んでいたりしますと、期末テストの範囲は、塾でもカバーできていない場合があります。
    その分は、本人が意識して学習すればいいのですが、前述のとおり、
    「塾でやるから、大丈夫」
    「中間テストが上手くいったから、大丈夫」
    と、根拠なき自信で家庭学習の時間も少ない。
    結果、中間テストより下がってしまいます。

    そういう話を事前にしたところで、子どもがそういう教訓を活用できるかといったら、まあ大多数はできないです。
    何を言われても、自分で実際に転んでみなければ、わからない。


    テストからは少し離れますが、宿題のやり方にしても、最初から助言通りにできる子は少ないです。
    本人から、
    「この夏はこの数学の問題集をやりたい」
    と提案のあった子がいます。
    問題総数500題ほど。
    1日に10題ずつやれば、9月中には何とか終わるでしょう。
    週に3回授業を取っている子でしたので、
    「では、次の授業までに、30題、解いてきてください。1日10題ずつやりましょう。まとめてやったらダメですよ。あなたは、授業の直前の2時間前くらいに宿題にとりかかる癖があるけれど、今回は、それでは終わりませんよ」
    そのように注意したのですが、次の授業は案の定、16題までしか解いてありませんでした。
    「今日の昼からやったのに・・・」
    と本人は哀しそうですが、なぜそういう発想になるのかと思うと、私のほうが哀しいのです。

    授業の直前2時間前では終わらないだろうから、昼からとりかかったようです。
    なぜ、その方向で頑張るのだろう?
    数学を1日30題なんて、私でもやりたくない・・・。
    途中で、嫌になってしまいます。
    能率が落ちるのは目に見えています。

    私自身は与えられた課題を、言われなくても分割するのが好きで、夏休みの宿題なども、出されたらすぐ「1日何ページやれば、何日で終わる」と計算し、その通りに実行していました。
    もっとやりたくても我慢して、やらない。
    やりたいからといって、1度に沢山やってしまうと、飽きてしまって、後半嫌になるだろうから。

    今も、生徒に出す宿題のうち、大学入試過去問などの下調べが必要なものは、1日1ページずつ、負担なく解くことにしています。
    生徒もそのペースで解けるような分量で宿題を出しているのですが、実際に生徒がそのペースで解いているのかはわかりません。
    まとめてやっているかもしれません。
    塾の宿題は1日でまとめて解き、他の日には他の課題を1日でまとめて解き、とにかく毎日何かしら勉強しているのなら、それでも構わないのです。
    宿題をしっかりやってあるのなら、それでいいのです。
    ただ、1日でこなせる分量の宿題ではないので、おそらく生徒も分割してやっていると思います。

    「数学の問題30題は、1日では解けませんよ。1日に10題ずつ解くんです。では、明後日の授業までに、20題」
    そう言うと、その次の授業は、20題、しっかり解いてありました。
    ところが、その子は、普段は週に3回授業を取っているのですが、夏期講習は週に1回ペースという取り方をした子です。
    1回の宿題が、問題70題。
    1日10題ずつやればこなせますが、さて、できるものかどうか。
    失敗するのも、また勉強。
    自分で転ばないとわからないことは多い。
    でも、2度と立ち上がれないような転び方はさせてはならない。


    定期テストの得点もそうで、上がったら次は下がるのが普通、と言っている間にも、それは確実に、高校3年間の評定平均にカウントされています。
    学校推薦や総合型選抜を目指す子にとっては、1回1回の定期テストが失敗できないものです。
    そうであるのに、失敗してしまう。
    心が幼いので、「大丈夫」という気持ちに負けてしまう。
    今回は少し下がった。
    次は、前回よりも上げていこう。
    そのために、この夏は何をしようか?

    来週から、夏期講習が始まります。
    良い夏になりますように。


      


  • Posted by セギ at 12:37Comments(0)講師日記

    2023年07月15日

    数学。理解の深さと新傾向の問題。


    画像は、都立神代植物公園水生植物園のハンゲショウ。

    テスト前は普通に解いていて、わかっているようだったのに、定期テスト中に突然、
    「あれ、これ何だっけ?意味がわからない」
    となり、問題を解くことができなくなる人がいます。

    例えば、三角方程式。

    問題 0≦θ<2πのとき、
    sin 2θ=cos θ を解け。

    問題として、あまりにシンプルで、それ以外の情報がなさ過ぎるからでしょうか、これを「解く」とは何をどうすることなのか突然わからなくなるようです。

    これは、2倍角の公式を使います。
    sin 2θ=2sin θ cos θ ですから、
    2sin θ cos θ =cos θ
    2sin θ cos θ -cos θ=0
    cos θ(2sin θ-1)=0
    よって、cos θ=0 , sin θ=1/2

    と、ここまでは正しいのですが、答案が、ここで止まってしまう人もいます。
    これが最終解答だと思ってしまうようです。

    テストの答案がそこで止まっていた子に。
    「それは、まだ解いている途中ですよ。θ の大きさを求めるんですよ」
    「・・・」
    そのように言葉で説明しても、何を言われたのか理解しかねる様子でポカンとしてしまうのです。

    cos θ=0より、θ=π/2 , 3/2π
    sin θ=1/2より、θ=π/ 6 , 5/6π
    よって、解は、θ=π/ 6 , π/2 , 5/6π , 3/2π

    そのように解いたものを板書してみせても、ぼんやり見つめて、何だろうこれは、と考えこんでしまいます。
    初めてこの問題を解くわけではありません。
    しかし、テストが終わった後では、もう意味がわからなくなっている様子です。
    なぜ、これでなければならないのか。
    なぜ、cos θ=0 , sin θ=1/2 で終わらせてはいけないのか?
    その解決がつかず、しかし、それを質問する言葉も見つからず、呆然としている・・・。
    そんな様子です。


    あるいは、こんな問題。

    問題 関数 f(x)=x^2-x について、x=1における微分係数を求めよ。

    これも、テストでは、何を答えていいのかわからず、白紙・・・。
    「微分係数」という言葉の意味が、ふっとわからなくなってしまった様子です。

    これも、実はとても簡単な問題です。
    f(x)=x^2-x を微分すると、
    f'(x)=2x-1
    これにx=1を代入して、
    f'(1)=2-1=1
    よって、
    x=1における微分係数は、1。

    しかし、これも、模範解答を見たところで、意味がわからない・・・。
    微分係数とは何か、わからない。

    「微分係数って、何ですか?」
    「・・・では、テキストを見直しましょうか」

    しかし、こういう場合、最初に学習したときよりも、理解し直すのには時間がかかるのが普通です。
    微分係数の定義をテキストで読み返しても、意味がわからない・・・。
    本当に、こんなことを学習したのだろうか?
    記憶がないんだけど・・・。
    そんな様子です。


    テスト中、おかしな考えにとりつかれてしまう子もいます。
    突然、わかっていたことがわからなくなるようです。
    例えば、数A「図形」の三角形の五心がテスト範囲だったときのこと。
    定義の空欄を穴埋めするだけの易しい問題が出題されていました。
    「内心」「外心」といった用語を穴埋めするだけの問題です。
    しかし、その子は、突然、点のことを「心」というのは変じゃないかという考えにとりつかれ、「内点」「外点」と答案に書いてしまい、5つの小問すべて誤答となっていました。

    また、これは中3の英語の話ですが、教科書に出ていた重要表現の語句補充問題で。
    「今回のテスト範囲の文法事項は現在完了だ」
    という思いにとりつかれたようで、be interested in など、前日までしっかり覚えていた熟語をすべて have interested in といったように強引に現在完了形にして、ほとんど誤答となってしまった子もいました。

    テスト勉強をしなかったわけではない。
    それなのに、テスト中に、おかしな考えにとりつかれてしまう・・・。

    「通りいっぺんの勉強をしているから、そうなるんだ」
    「暗記に頼って、理解していないからそうなるんだ」
    ・・・そのような批判は、当たっている部分もあるとは思います。
    でも、これは、ゲシュタルト崩壊に近い部分もあるのではないかとも思うのです。
    ゲシュタルト崩壊とは、例えば、「粉」という漢字をずっと見ていると、本当に「コナ」はこんな漢字だったろうかと思えてくる、といったものです。
    「米」などという偏が、この世に存在しただろうか?
    これは、右と左が逆ではないのか?
    そんな違和感にとりつかれるのです。
    私は、「消耗品」の「耗」でたまにこれが起こります。
    これは誰でも起こりうることなので、本人の学習姿勢を責めても、それで改善されるようなものではありません。

    これの対策としては、そうなることを予測して、テスト中にそのようになってしまうことがあるから、心の準備をしておくこと。
    これに尽きます。
    例えば、三角方程式とは何のことか突然わからなくなることがあるので、そうなることを予期しておきましょう。
    そうすれば、それは起こらなくなります。

    いや。
    そんなことで混乱してしまうのは、本質が理解できていない証拠だ。
    暗記ばかりして、理解していないから、そういうことになるんだ。
    日本の数学教育が、暗記ばかりさせているからだ!

    そうした批判を声高に行う人もいます。
    大学の先生の中には、自分が教えれば、そういう大学生が初めて「速さ」や「割合」の本質を理解して、そのことに感動するんだと自慢話をする人もいます。
    誰でも、本当は数学の本質を理解したいと思っているんだ。
    暗記ばかりさせているから、数学がわからないのだ。
    日本の数学教育が良くない!

    ・・・しかし、私の知る限り、小学校でも中学校でも高校でも、生徒に暗記を強いる数学教育を行っている先生の話を聞いたことはありません。
    誰もが、数学の体系を理解してもらおうと努力しているように感じます。
    意味がわからない公式の丸暗記をしているだけでは、先は見えています。
    考える力を身につけてほしい。
    考えるための授業を提供したい。
    そのように、努力されています。
    ゆとり教育の頃も、その後も、そして現在も。

    しかし、多くの生徒が、やり方だけ暗記することでやり過ごそうとします。
    ある程度知力のある子も、やり方だけ覚えて済ますコツを自ら発見していきます。
    まして学力に不足のある子は、例題の解き方の丸暗記に必死です。
    なぜ、理解せず、暗記することで済まそうとするのか?

    授業に魅力がないからだ。
    数学で出される問題に魅力がないからだ!
    ・・・と声高な批判に応えて、魅力的な授業を展開しようとする先生もいますが、暗記で済まそうとしている子たちにとって、それは迷惑な場合も多いのです。

    深く理解するよりも、やり方だけ覚えたほうが、頭が楽なんです。
    やり方だけさっと覚えて、テストが終われば忘れれば、そのほうが脳のメモリの消費が少なくて楽なのです。
    そういう頭の使い方が習い性になっている子は多いです。
    そうした子たちにとって、「魅力的な授業」は必ずしも好ましいものではありません。

    魅力的な授業。
    すなわち、アクティブラーニング。
    しかし、アクティブラーニングの授業は、何を学ぶための何の授業なのかわからず、混乱する子もまた多いです。

    また、数学を現実生活に近づけた、新傾向の問題。
    それらの問題は、読み取るだけで大変で、生徒をワクワクさせるどころか、苦痛を強いるものである場合も多いです。

    100俵の俵を5段組みに積み上げるのに必要な地面の面積を、なぜ求めなければいけないのか?
    敷設面積が決定している階段の段差をどうすればいいかを、なぜ私が計算しなければならないのか?
    バスケットのシュートの角度など、私には関係ない。
    稲妻が光ってから雷の音がするまでの時間と距離の関係なんて、興味ない。
    そういう問題は、嫌い。
    普通の数学の問題のほうがまし。
    新しいことに頭を使いたくない。
    覚えたことだけで対処したい。
    自分の頭が上手く動かないことを思い知るだけの問題なんて、解きたくない。
    ・・・そういう子も、また多いのです。

    そもそも「新傾向」と言いますが、このような問題は20世紀の頃から「新傾向」であり、今も新傾向です。
    ちっとも定着しません。
    生徒が問題を解くのを楽しんでいる様子がなく、効果もないからか、なかなか定着しないのです。
    大学入試共通テストの数学にこのような文章題を出すから、純粋に数学が得意な子が正答できず損をしていると嘆く人もいます。
    都立高校の入試数学問題も、20世紀の頃は「新傾向」の文章題が出題されていましたが、いつ頃からか、なくなりました。

    数学が得意な生徒にとってさえ多少迷惑なこともある新傾向問題は、数学が苦手な子にとって多くは苦痛です。
    こういう問題を解いてワクワクし、表情が輝いている子は、ごく少数です。

    数学の楽しさは、そういうこととは限らないですし。
    現実生活と結びついているから数学が楽しい、とは限りません。
    現実と何も関係がなくても、数学は楽しいです。
    実用的でなければ面白くない、という考えは、貧しいです。

    どうすれば数学が好きになるか。
    これは、難しい問題です。

    どうすれば数学がわかるようになるか。
    このほうが、課題として解決しやすいと思います。
    これは、わからなくなったところまでさかのぼって、やり直す。
    何回でも、やり直す。
    それに尽きると思います。

    数学が苦手だった子が大学生になり、例えば小学校の先生になるために大学で数学を学び直す。
    そのときに、小学校の算数の「割合」や「速さ」や「分数の計算」を理解できたのなら、それは幸福なことだと思うのです。
    ただ、そういう時期だった、という点も見過ごせません。
    小学生のときには、その子の理解を越えた内容だった。
    でも、大学生になり、それを理解できる脳になっていたのかもしれません。
    人間の脳は、25歳まで発達を続けるそうです。
    あるいは、「自分には数学は必要ない」と思ってきた子が、本当に切実に数学を理解したい動機を持った。
    わかる時期がきて、幸運にもそのときに教わることができた。
    それは、幸福なことだと思うのです。

    「大学生が割合もわかっていない。小中高の数学教育はどうなっているんだ」
    ではなく、
    「割合や速さを理解することが本当に必要になった大学生が、ついに理解した。数学は、いつからでも学び直せる」
    というメッセージのほうが、はるかに有益です。


    また、そのときは理解したつもりでいても、時間が経つと忘れてしまい、またわからなくなってしまう人のほうが現実には多いです。
    生徒がわかった顔を見せたときに、
    「どうだ!私の教え方が上手いからだ!こう教えれば、誰でも理解できるんだ!」
    などという自惚れを私も若い頃には抱きましたが、そんなものを簡単に踏みつぶしていくのが現実の子どもです。
    継続的に子どもたちに数学を教えていくというのは、そういうことです。
    時間が経てば、またわからなくなってしまう。
    理解しても、また忘れてしまう。
    記憶がもたないのです。

    そして、いったんわからなくなってから再び理解することの難しさ。
    最初に学ぶときとはまた別の混乱がそこにはあります。
    「微分」の学習がひと通り終わって定期テストを受けたときに、「微分係数」という言葉の意味がわからない絶望と混乱。
    テキストで定義を読み直しても、意味がわからない・・・。

    「関数 f(x)の平均変化率において、x=a、x=bの値を定め、b を a に限りなく近づけ、平均変化率が限りなく一定の値 α に近づくとき、この値 α を、関数 f(x) の x=a における微分係数という」

    ・・・何、それ?

    実は、最初に学習したときも、「何、それ?」だったのかもしれません。
    わからないから、やり方だけ覚えた。
    ああ、つまり、f(x) を微分した式 f'(x) の x に代入すれば答が出るんだな。
    そのように、意味はわからないけれど、やり方だけ覚えたのでしょう。

    やり方だけ覚えて済ます子に、意味に戻った授業をしても、にこにこ笑っているが聞いていない、ということがあります。
    自分としてはやり方を覚えたので、もうそれはOK。
    いつまでもしつこく意味を説明している先生は、笑顔でやり過ごすだけ。
    もめごとは起こしたくないし、聞いているふりをするのは問題を解くよりも、むしろ楽。
    にこにこしていればいいんだから。
    子どものそうした処世術が悪い方向にものごとを引っ張っていきます。

    その覚え方では、忘れるのも速かった。
    しかし、本人は、やり方を覚えたことを「理解した」と誤解している傾向もあり、後になって自分がわかっていないことに動揺してしまうのでしょう。

    細い1本道を何とか歩き通したつもりでいたのに、振り返ったら、そこにもう道はなかった。
    歩いてきたはずの道は消えていた。
    もう戻れない。
    唐突に、そこのポイントに戻ろうとしたところで、もうわからない。
    単元の最初からすべてやり直すしか、理解する方法がないかもしれないのです。

    目の前の子は、高校生だけれど、「割合」や「速さ」が理解できていない可能性がある。
    けれど、今は、「微分」を学習しなければならない。
    そういう課題もあります。

    そして、そういうことは、小学校から高校までの算数・数学教育の課題とはまた別のものであるような気がします。
    従来通りの数学教育で数理の体系を把握している子も多いのです。
    日本の数学教育が一概に悪いとは言い切れません。
    むしろ、何歳になっても数学のやり直しができる環境整備のほうが考えられていい課題だと思いますし、それも、今は本人次第で可能だと思います。

    やり方だけ覚えても記憶がもたないことに、誰でもいつか気づきます。
    気づいたら、やり直しましょう。
    できるだけ、意味に戻って。
    やり方だけ覚えたいのもわかるけれど、意味に戻って。
    わからなくなったら、最初に戻って。
    新傾向問題が迷惑でしかなくても、意味に戻って、何とか乗り越えていきましょう。

      


  • Posted by セギ at 13:59Comments(0)算数・数学

    2023年07月11日

    学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか。


    今日は、真面目にテスト勉強はしている様子なのに、なかなか成績が上昇しない高校生について考えます。
    考えられる原因の1つは、本人が学校の教材に拘泥していることです。
    今は、学校推薦や総合型選抜での大学受験を考えている生徒も多いので、さらにその傾向は強まってきているように感じます。
    しかし、それは、かなり視野の狭い考え方です。
    「余計な勉強はしたくない」という気持ちが根底にあるための判断ミスがそこにあるように思います。
    学校推薦や総合型選抜を考えるからこそ、それではまずいのです。


    10年前、AO入試がクローズアップされ始めた頃、しかし、私は、そのようなものはやがて衰退していくのではないかと思っていました。
    AO入試で合格した生徒は、一般入試で合格した生徒よりも学力が低く、やがて大学の足手まといになっていくだろう。
    学生のレベル低下は、大学のブランド力を下げる。
    学生の定員割れが経営を圧迫している大学はともかく、学生不足に悩むことのない有名大学ならば、学生の学力レベルを保つことのほうが重要だろう。
    そのように思ったのです。

    結局、その予想は外れました。
    1つには、私立大学の定員厳格化があります。
    極端な水増し合格が許されなくなったのです。
    どんな有名大学でも、私立である限り、国立大学に多くの生徒を奪われます。
    合格した生徒が、実際にどれだけ入学してくれるかは、私立最難関の大学であっても数字を読みにくい。
    しかし、AO入試で合格させた生徒は、他の大学に行くことはない。
    それだけ、実際の入学者数が読みやすいのです。
    その結果、大学は、AO入試の枠を広げました。

    もう1つは、AO入試の合格者の学力が思ったほど低くなかったこと。
    一般入試による合格者とは学力に大差がつくかと思いきや、そうでもなかった。
    これは大きかったです。
    AO入試(今は、総合型選抜)は、小論文と面接だけで合格できる入試ではありません。
    高校の3年間の成績、すなわち評定平均も重要です。
    それは、それぞれの大学で一定以上のものを要求します。
    それが、思いの他、高かったのです。
    高校の3年間、それほどの成績を維持できる生徒ならば、それは優秀だろう。
    そういう数字です。
    苦手科目を捨てることがない。
    こつこつと苦手なことにも努力する子たちです。
    高校に入ったらしばらく、あるいは中だるみの高2のときに、羽を伸ばして勉強をサボってしまい、大きく成績を落とした、ということもない。
    3年間の評定平均ということになると、そんなことをしてしまうと、高い数字は維持できません。
    そのうえで、ボランティアだ、部活動だ、生徒会活動だ、ショートステイだ、社会活動だと、高校生活の中で勉強以外に頑張ったアピールポイントまで持っている。
    3年間、全てのことを真面目に頑張った子たちです。
    そのまま、大学入学後も真面目に授業に出て、真面目に実験や調査を行い、真面目にレポートを書き、真面目にテストを受ける。
    真面目に就職活動し、真面目に就職し、真面目に働く。
    彼らの多くは、社会の求める人材だったのでした。
    あるいは、極端に要領がよく、ポイントをつかんで、AO入試に合格できるように仕上げてくる子たちもいたかもしれません。
    それもまた、才能でしょう。
    そして、それもまた、社会の求める人材なのだと思います。


    勿論、大学のランクにしたがって、要求される評定平均は異なります。
    自分の成績と大学とを見比べて、よく考えて大学を選び、学校選抜や総合型選抜で受験するのは良い選択肢だと思います。
    私も今は推奨しています。

    ところが、高校生の中には、考えの浅い子もいます。
    学校推薦や総合型選抜のほうが、一般入試より楽そうだ。
    受験勉強しないで合格できるんだから。
    学校の成績だけ良ければいいんだから。
    そのように考えてしまうのです。
    学校の成績だけ良ければいいんだから、学校の教材の勉強だけやればいい。
    学校のテスト範囲の勉強だけやればいい。
    そのように、視野が狭くなっていきます。

    これは、英語・数学では、あまり上手くないのです。

    英語の場合で考えてみましょう。
    毎週行われる学校の単語の小テストに備えて一応は勉強する。
    でも、小テストが終われば、すぐに忘れてしまいます。
    そして、定期テストに、それまでの小テストの単語が全部テスト範囲に含まれることを知って、愕然とする・・・。
    受験勉強がつらくて嫌だから総合型選抜、と考えている子にとって、これは過重な負担です。
    何百という単語など、1度には覚えられない・・・。
    結局、単語のテスト範囲は捨てます。

    さらに。
    英語の定期テストの出題形式というものがあります。
    英語コミュニケーションならば、初見の英語長文問題が含まれている学校が大半です。
    論理・表現の科目ならば、初見の課題英作文問題が出題される可能性も高いです。
    英語力が高くないと対応できない問題が、英語の定期テストには含まれています。
    学校の先生も鬼ではありませんから、テスト問題のレベルは昔よりも易しいことが多いです。
    それでも、「受験勉強はつらくて嫌だから総合型選抜」と考えている子の英語力は、中学英語のままであることも多いので、そうした子たちにとっては、高校のテストは、難しくて、つらいのです。
    あまり勉強したくないから総合型選抜、と考えている子は、当然、あまり勉強しないので、そうなってしまうのです。
    英語コミュニケーションの教科書の本文の「お話」を覚えたり、重要熟語を覚えたりはします。
    それが要領の良い勉強だと、本人は誤解しているのです。
    結果として、英語の定期テストは良くて60点台。

    自分の成績と大学とを見比べて、合格できる大学に総合型選抜で合格してくれるのなら、それでいいんです。
    そういう現実を見てくれるのならば、それでいい。
    でも、結局、高校3年生になってから、そんな大学に行くくらいなら一般受験します、ということにならないのでしょうか?

    高校3年生になってからの、一般入試への方向転換。
    英語力は、中学英語のまま。
    単語力も文法力もない。
    そんなことになるくらいなら、高1の初めから、一般受験するつもりで英語を勉強してほしいのです。


    数学の場合は、もっと早い段階で挫折を迎えます。
    学校の定期テストの点数だけが大事。
    だって、自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くんだから。
    一般受験するわけじゃないんだから。
    そういう視野の狭さが影響し、学校の問題集しか解かない、という子が現れます。
    塾の学習も全て学校の教材で勉強したがるのです。
    学校に進度を合わせて他の教材で演習するのではなく、学校の問題集や学校のプリントだけをやりたがります。
    しかも、その学校の問題集すら解いてこない子も現れます。
    「解こうと思ったけれど、わからなかった」というのです。
    定期テストの勉強だけして、終わればすべて忘れてしまうので、過去に学んだ公式や定理が使えないのです。
    一般受験するわけではなく、総合型選抜で大学に行くのだから、それでいいと思ってしまうのでしょう。
    だから、学校の問題集の解答解説を見ても、意味がわかりません。
    わからないのならば、それを次の授業中に解説し、解かなければならなくなります。
    次の授業で演習できるはずだった内容は後回しになります。
    スケジュールは、どんどん遅れていきます。

    本人は、「わからないから、塾で教わろう。塾で解こう」と軽く考えています。
    自分は、学校推薦か総合型選抜で大学に行くのだから、学校の成績が大切。
    だから、学校の問題集が大切。
    そのように考えていることと、塾でしか学校の問題集に取り組まず、家庭学習をしないことが、本人の中で全く矛盾せず共存します。
    しかし、高校数学の問題集は、塾の授業90分をまるまる使っても問題集の2ページ分ほどしか消化できません。
    週1回の塾だけで学校の課題を終わらせるのは無理なのですが、「塾でやればいい。独りではわからないから」と言い訳して、現実から目を背けてしまう子もいるのです。
    本当にわからないのなら仕方ありませんが、1問わからない問題があると、そこでやめてしまい、その先は解いてこないこともあります。
    ページが変われば、また基本問題もあるのに、解いてこない。
    「受験勉強はつらくて嫌だから、総合型選抜」
    という考え方の甘さが、こういうところに表れてしまうのです。

    テスト範囲の問題集は何ページあるのか?
    塾の授業はテストまで何回あるのか?
    そういうことを考えれば、塾だけで学校の問題集を終えることなどできないと気づくはずなのですが、そこから目を逸らします。
    とにかく、塾で学校の問題集を解くことができるんだから。
    そうした希望的観測で、家で数学の勉強をする時間がむしろどんどん減っていくのです。

    この先は、数学の場合は単純で、理系は無理なので文系にしましょう、ということになります。
    もとから文系志望ならばいいのですが、本当は理系に行きたかった場合は哀しいです。
    それならば、なぜ、もっとしっかり数学の勉強をしなかったのか?
    「学校の成績だけ良ければいい」
    という考えが、学習のスリム化、つまりは勉強不足を招いたのではないのでしょうか。


    学校の勉強だけをやりたい。
    だって、重要なのは、学校の成績だから。
    学校の教科書や問題集の答えを教えてほしい。
    他のことはやりたくない。
    そういう要望につきあっていると、英語も数学も、学習の中身がどんどん痩せていきます。
    学校の問題集の答えを覚えるだけの勉強は、問題の形式が少し変わると、もう対応できなくなります。
    しかし、視野が狭くなっているので、本人はそのことに気づかないのです。
    当然、学校の成績はそれほど良いものではなくなります。
    学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりが、学校の成績がそれほど良くない・・・。
    いいえ。
    学校推薦や総合型選抜で大学に行くつもりでいるから、学校の成績がそんなことになってしまうのでは?
    そして、そういう子は、学校推薦や総合型選抜で大学に行くことは、結局できなくなる可能性があるのです。

    勿論、もっと賢明な子は世の中に沢山います。
    英語ならば、英語力そのものを高めることに力を尽くします。
    だって、毎週の単語テストの範囲が定期テスト範囲になることなど目に見えているのです。
    テスト直前にそんなに沢山覚えることはできません。
    それなら、普段からやるしかないでしょう?
    それに、定期テストには初見の長文問題や英作文問題が出題されるのだから、学校の教科書やワークだけ解いている場合じゃないでしょう?
    そういうことに自分で気づく人は、こつこつと勉強し、高い成績を維持します。
    その人たちだけが、学校推薦や総合型選抜に合格していくのです。
    そりゃあ、大学だって、そういう学生なら欲しいですよ。

    学校の教材だけやっていて、学校の成績は上がるのか?

    それは、使い方次第でしょう。
    使い倒す、使い尽くすということでなら、学校の教材だけでも、学校の成績は上がると思います。
    しかし、他のことまで手を広げたくないことの言い訳で学校の教材に拘泥するのなら、学校の成績は上がらないと思います。
    まして、その根底に、「学校推薦や総合型選抜で大学に行くんだから」という言い訳があるのなら、本当にそれで大丈夫なのか、自分でよく振り返り、点検したほうがいいと思います。

    学校推薦や総合型選抜で大学に行こうとしている子から垣間見える、甘さ。
    それが見えるので、私は、英語は、英語コミュニケーションの教科書の学習は行いますが、ワークは自分で解くように言います。
    これがテストに出るのに・・・と本人は思っているかもしれませんが、だからこそ、自分で解いたほうがいいのです。
    論理・表現のテキストの問題も、塾では扱いません。
    それは自分で解いたほうが勉強になります。
    そして塾では、学校に進度をあわせて別の問題を解きます。
    学校の教材ではない問題なので、やる気なさそうにのろのろ解く子もいますが、繰り返し説得しています。
    学校の教材と関係のない、長文問題も解きます。
    単語力がないことが、どれほどの損失になっているか、自覚を促しています。

    数学は、もうずっと以前から、学校の問題集は塾では扱っていません。
    学校に進度をあわせて、別のテキストで演習しています。
    本人は、結局、学校の問題集に拘泥しがちです。
    学校の教科書や問題集が変に易しいので、このレベルの問題が解ければ大丈夫と誤解してしまう子もいます。
    しかし、学校のテストは、学校の教科書や問題集には載っていないけれど、テストに出るのが当たり前の典型題が出題されています。
    それでも、昔に比べれば、随分易しい。
    昔のように、こんな問題をこんな問題数で定期テストに出題する意図がわからない、と首をひねるような応用問題は出題されなくなりました。
    典型題が適切な問題数で出題されている高校が大半です。
    それで失敗する子には、
    「この問題が出ると、私は言いましたよね?学校の問題集にないから、出ないと思ったの?」
    そんなことも数回繰り返せば、私の言うことも多少は信用してくれるようになりました。

    繰り返します。
    学校推薦や総合型選抜で大学進学するつもりだからこそ、一般入試でも合格できるような学力が、結局、必要なのです。
      


  • Posted by セギ at 14:43Comments(0)講師日記算数・数学英語

    2023年07月05日

    英単語の覚え方。


    単語力がないせいで、初見の長文を読み通せない。
    単語さえ覚えられれば英語は何とかなるはずなのに、単語が覚えられない。
    そういう悩みをもつ高校生は多いです。

    教室で英語を教えていても、単語力のない生徒は悩みの種です。
    単語暗記を宿題にしたところで、前日か当日にちゃちゃっと覚えてくるだけで、すぐに忘れます。
    それすら息切れして、覚えてもこなくなる子もいます。
    あまり練習してこないので思い出すのに時間がかかり、テスト時間が長くなります。
    週に90分しかない塾での英語の時間を、単語テストに30分以上も浪費する結果になってしまいます。
    だからといって、時間を切れば、テストは白紙です。
    そうしたことも1度慣れてしまえば、恥ずかしさもなくなるようです。

    何年か前、単語暗記の時間を独立させようとして、無料の単語暗記授業を開講したことがありました。
    結果は、失敗に終わりました。
    無料というのがむしろよくなかったようです。
    「用事があるので休みます」
    と気軽に欠席する。
    出席しても、暗記をちゃんとしてこない。
    徒労感に耐え切れず、1年で廃止しました。

    そもそも、週に1度では効果は薄いのです。
    単語を覚えられない子に単語を覚えさせるためには、毎日つきっきりで教える時間が必要になります。
    毎日、この時間は英単語を覚えるという時間の設定があれば、誰でも、ある程度は覚えられます。
    塾でそのような授業設定は、しかし、不可能です。
    あとは、本人が自分でその時間を設定できるかどうか、です。
    結局、単語暗記は、本人の自覚に任せることになります。
    その結果は、露骨です。
    努力して英単語を覚えている子の英語力は、簡単に偏差値60を越えます。
    英検準1級に合格します。
    単語を覚える時間を作れない子は、学年が上がっても中学英語の力のまま大学受験を迎えます。
    明暗はくっきりと別れます。
    その中間という子は、むしろ珍しいのではないかと思います。

    単語が覚えられない。

    しかし、「覚えられない」とギブアップするほどの努力をしているかというと、大抵の場合、それほどの努力はしていません。
    学校で週に1度行われる単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
    その後、その範囲を繰り返し復習するかというと、そんなことはしない。
    翌週、また単語テストに備えて、前日または当日に単語集を見て覚える。
    単語暗記というと、それしかやっていないという人が大半ではないでしょうか。

    そのことを称して、
    「覚えようとしても、単語を覚えられない」
    と思っているのだとしたら、それは誤解です。
    それは、ほとんど何もしていないのと同義です。

    単語が覚えられない・・・。
    しかし、「覚えられない」と嘆くばかりで、実際は何もしていない場合のほうが多いのです。
    英語が苦手な子は、英語にかけている時間が少ないです。
    上記の単語テストのための勉強。
    あとは、学校の宿題。
    定期テストのための勉強。
    英語が苦手な子は、それ以外のことはやっていないと思います。
    英語の勉強に使っている時間は、せいぜいで週2~3時間ではないでしょうか?
    もっと短い場合もあると思います。
    それでいて、「英語が苦手」「単語が覚えられない」と嘆いているのが現実です。
    とりあえず、毎日1時間英語を勉強し、しかもその半分にあたる30分は単語暗記にあてる。
    それだけで、覚え方が多少効率の悪いものであっても、今よりは確実に前進するでしょう。

    しかし、それがわかっていても、実行に移せない人は多いのです。
    英語だけに毎日1時間なんて、そんな時間はない。
    他の科目の勉強もあるのに、そんなバランスの悪いことを言われても・・・。
    本人は本気でそう思っています。

    スマホをいじる時間を英語の勉強をする時間にスライドするだけで、毎日1時間くらいは作れます。
    よく考えたら大して面白くない動画を見ている時間、単なる暇潰しでゲームをしている時間など、無駄に使っている時間はすぐに見つけられるはずです。
    他の科目の勉強を圧迫せず、新しい時間を1時間作り出し、それを英語の勉強にあてることができます。

    しかし、「時間を作る」という話を聞くと、それだけで疲労感を覚える子もいると思います。
    そういう、計画的なきちんとしたことが基本的に嫌いで、圧迫感を受けてしまう・・・。
    それは、大人も同じかもしれません。
    今、これを読んでいらっしゃるのが、お子さんが英語が苦手で困っている保護者の方であるとして。
    お子さんの英語力を伸ばすために、まず自分の英語力を伸ばす。
    自分が英語を勉強する時間を毎日1時間作るという話を、今日から実行に移せるでしょうか?

    多種多様な理由づけとともに、その案は「却下」ではないでしょうか?
    いや、忙しい。
    他にやることがある。

    子どもだって同じことです。
    やらない理由はいくらでも見つかります。

    なぜやろうとしないのか?
    自分がやらない理由を冷静に分析することで、子どもがやろうとしない理由も分析できるかもしれません。
    それが解決に役立つかもしれません。


    英語が苦手な子は、まず単語力がありません。
    単語を覚えられない子は、上に書いたように、その時間を作っていない場合がほとんどです。
    入り口にも立っていないのです。
    週に1度、学校の単語テストのために100語くらいを急いで覚えたところで、そんなのは、翌日には忘れます。
    反復しない限り、定着しません。

    1度で覚えて2度と忘れない方法。
    何の努力もせずに気がついたら覚えている方法。
    そうしたものを夢見ているうちに、中学英語の実力のまま高校を卒業してしまう子が、日本の高校生の大多数です。
    高校3年生の過半数が、英検準2級の実力を持たない、という事実にそれが表れています。

    単語の覚え方に「正解」はありません。
    本人が覚えやすいと思った覚え方で構いません。
    ただ、反復することです。
    多少は能率的な覚え方もありますが、結局はどれも反復が必要です。


    中には、暗記することが本当に苦手な子もいます。
    小学生の頃から、ものを覚えてこなかった子たちです。
    算数の九九も、覚えるのが本当につらかった記憶になっている様子です。

    暗記が苦手な子は、暗記するときに頭にかかる負荷を嫌う傾向があります。
    頭に負荷がかかって苦しい、つらい、と言います。
    「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
    「頭を使うと、脳細胞が潰れてしまう」
    暗記が苦手な子がこのように発言するのを私は授業中に幾度か聞いています。
    小学生もいましたが、高校生の中にもこの発言をする子がいました。
    少し奇異に聞こえる発言です。

    そういう子に対して、
    「何て愚かな発言だろう」
    「そんなことだからダメなんだ」
    と全否定することもできます。
    ですが、頭を使うことに対しての発言だから奇異に感じるだけかもしれません。
    例えば、これが息切れの場合、わりとよくある感覚なのではないかと思うのです。

    ランニングや山歩きなど。
    好きな人は大好きなのですが、忌み嫌う人も多いです。
    その根本は「息切れ」することへの嫌悪ではないでしょうか。
    息切れするのは苦しい。
    苦しいことは嫌い。
    息が切れると心臓が止まるような気がする。
    息切れするようなことをする人の気が知れない。

    スポーツが嫌いな人のこういう感覚をそのまま勉強にスライドすると、それは、
    「頭を使うと、頭が重くなって苦しい」
    「頭を使うと脳細胞が潰れる」
    という発言と同質のものではないかと思います。

    息切れすることが嫌いな人にスポーツを習慣的に行わせることの難しさを思うとき、頭を使うと脳細胞が潰れる気がして頭をフルに使えない子に暗記をさせることの絶望的な難しさを感じます。
    相手は、頭を使うことそのものを恐れています。
    しかも、これは幼い小学生の発言ではありません。
    高校生がこれを言っているのです。
    ものを考えたり暗記したりすると脳細胞が潰れると、高校生が本気で思っています。
    勉強すると自分の脳はダメージを受けると感じているのです。
    だから、ものを考えたり、脳に負荷をかけることを回避しようとします。
    使えば使うほど頭はよくなると言葉で説明しても信用しません。
    ちょっと運動するとゼイゼイ息切れして苦しそうな人が、短距離走でもマラソン大会でも本気を出せないのと同じです。
    全力を出すことを恐れます。
    やっていけば慣れるとか、続けることで心肺能力は鍛えられるとか言っても心に響かないのでしょう。
    これは難しい・・・。

    身体を動かすことが好きな人は、「息切れするから運動は嫌い」と言う人の気持ちはわからないと思います。
    なぜそんなにも息切れにこだわるのか、まずそこが理解できないと思うのです。
    息切れがなぜそんなに嫌なのだろう?
    そんなことより、スポーツには楽しいことが多いから、息なんか切れても別にいいだろうに。
    気にしていることのポイントがズレてない?
    そう感じると思います。

    それと同じで、頭を使うことが好きな人は、「考えたり暗記したりすると脳に負荷がかかるから嫌い」という人が、なぜそんなにも頭への負荷にこだわるのか、そこが理解できないのです。
    頭を使うことは楽しいことだから、脳への負荷なんか別にいいじゃない?
    そんなことより、何かが理解できたときや、問題が解けたときの楽しさのほうが大きいじゃない?
    脳が重くなるとか、なぜ、そんなくだらないことにこだわるの?
    そう思うでしょう。
    スポーツと勉強と、結局のところ構造は同じで、それを苦痛に感じている人は、気にしているポイントがズレているのです。
    でも、本人にとっては実感を伴う、切実なことだとも思うのです。

    そこが永遠にわかりあえない壁で終わるのか。
    それとも、楽しさ、良さを伝えることができるのか。
    いつか、本人が楽しさに気づくことができるのか。

    振り返ると、私も息切れするのが大嫌いな子どもでしたが、今は、楽しく山を歩いています。
    遠足の山歩きなんて、本当に嫌いだったのですが。
    人の意識は何かの拍子に変わります。

    私の場合、大人になって、ある日ふと山を歩いてみたくなり、ジーパンにスニーカー、ショルダーバッグという恰好で高尾山をゆっくり歩いてみたら、これが想像を越えて楽しかったのが始まりでした。
    子どもの頃の遠足といえば、他人のペースで歩かなければならず、息が切れても休めず、休憩は人が決めた時間に取らねばならず、水分も十分に取れない。
    そういう苦痛に満ちた学校遠足とは違う世界がそこにはありました。

    英語学習にも、きっとそれがあるはずです。
    ある日ふっと、英語を勉強してみようと思う瞬間はあるのだと思うのです。
    そのときを逃さないこと。
    ふっと飛び越えてみること。

    単語集を使って、自分へのテストを繰り返すというやり方が有効なのは言うまでもありません。
    たいていの単語集は赤シートをかけてテストしやすいように作られています。
    100の単語を覚えたいのなら、1日15単語ずつを7日で覚えるのではなく、1日100単語を7日繰り返す。
    このほうが有効です。
    そして、学校の単語テストが終わったらそれっきりではなく、反復することです。
    単語集は、何周もして初めて意味があります。
    5周もすれば、さすがに、その単語集の70%程度の単語は見れば意味がぼんやりとではあるがわかるようになっているでしょう。
    その単語力で初見の長文を読んだときに、英文の大意が取れることに自分で驚くと思います。
    知らない間に、英文が読めるようになっているのです。

    ただし、無理はしないこと。
    どうしても嫌な日は休みましょう。
    ただ、1日休んだら、もう何もかも終わり、と思うのではなく、また次の日から続けましょう。 
    ひと月サボってしまっても、また次の日から続けましょう。

    少しでも結果が出ることが、楽しさの発見につながるはずです。
    結果が出るまで、続けること。
    たとえ、ときどき休んでも。
    そして、結果が出るまで、諦めないこと。

    結果が出ないのは、結果が出る前に途中でやめてしまうからなんです。
      


  • Posted by セギ at 12:50Comments(0)英語

    2023年06月28日

    高校数A「確率」。条件付き確率と乗法定理。安易な分析では、無理があります。


    たとえば、こんな問題。これは、数A「確率」の問題です。

    問題 袋Aには赤球が3個、白球が2個、袋Bには赤球が2個、白球が2個入っている。
    袋Aから球を2個取り出し、それを袋Bに入れた後、袋Bから球を2個取り出すとき、それが2個とも赤球である確率を求めよ。

    この問題を生徒と一緒に解いていて、
    「これは、条件付き確率の問題ですか?」
    と問われたことがありました。

    ・・・条件付き確率?

    私の不審げな表情に、その生徒は重ねて問いかけてきました。
    「違うんですか?問題文に『とき』と書いてあったら条件付き確率だって、先生に言われたんですけど」
    「先生?・・・学校の先生?」
    「はい・・・」
    「・・・」
    「違いますか?」
    「・・・この問題は、確率の乗法定理を利用します。乗法定理は、条件付き確率の公式を根拠とした定理ですから、関係あると言えば関係ありますが、条件付き確率の問題ではありませんよ」
    「そうなんですか?でも、『とき』とあったら条件付き確率だって・・・」
    「・・・そういう読み方をしないと、条件付き確率であるか、そうでないかの、判断がつかないですか?」
    「・・・」

    生徒たちがあまりにも読解力がないための苦肉の策が、
    「『とき』と書いてあったら条件付き確率」
    というアドバイスだったのでしょうか。
    しかし、高校数学を解いていて、その読解力は哀しい・・・。
    中高一貫校の生徒が数A「場合の数と確率」を学習するのは中3の頃なので、中学生にはそんな教え方をするしかなかったのかもしれませんが。

    「問題文に『とき』と書いてあるのは、必要条件であって、十分条件ではないのでは?」
    「え?あっ?」
    「そんな読み方は、やめましょう。問題文は正確に読んで分析しよう」
    「はあ・・・」

    この問題を、早く解きたい、早く解説を知りたいという人は、少し先に飛んでください。
    ここで条件付き確率について補足します。

    条件付き確率とは、例えば、

    問題 あるイベントで参加者全員にアンケートをとったところ、参加者の70%は高校生で、参加者の40%が女子高校生だった。今、イベントに参加した高校生を1人選んだときの、その高校生が女子である確率を求めよ。

    といったものです。
    条件付き確率は、分母を条件のついた事柄の確率、分子を求めたい事柄の確率とした場合の、その分数全体です。
    上の問題で言えば、40%/70%で、答えは、4/7。
    苦手意識を持つ人もいますが、理解してしまえば、特に難問ということはありません。

    具体的に人数で考えても、同じ結果が出ます。
    イベントの参加者を仮に100人としましょう。
    そのうち、高校生は、100人の70%で70人。
    女子高校生は、100人の40%で40人。
    では、高校生のうち、女子高校生である確率は、40/70で、4/7です。

    よくやってしまう誤った式が、7/10×4/10=28/100 というもの。
    これは、「女子高校生は、高校生のうちの40%」と誤解したためのものと思われます。
    参加者全体の40%が女子高校生だったのであり、高校生の40%が女子だったわけではありません。
    この、高校生と女子高校生の例は、条件付き確率の例としてよく用いられるにも関わらず、理解しにくいのはその点かもしれません。
    「参加者の70%は高校生で、女子はそのうちの40%だった」と誤解しがちなのです。

    そして、この誤った式を立ててしまう人は、逆に、式の中に条件付き確率を使っているのです。
    「高校生のうちの40%」と誤解したときの、その「40%」が、条件付き確率です。
    分母を限定したときの、その中での確率ですから。
    このように、条件付き確率は、特別難しいものではなく、珍しい考え方でもありません。
    ごく普通の考え方なのですが、何か難しく考え過ぎて、モヤモヤが残る人が多いようです。
    その結果、
    「『とき』と書いてあったら条件付き確率」
    というお手軽なアドバイスにすがりつく。
    しかし、そういう勉強をしていては、共通テストや国立大学二次試験のような、段階を踏んでいかねばならない大きな確率の問題は歯が立たなくなります。
    問題文をしっかり読んで、事象を正確に分析する習慣を持ちましょう。



    さて、問題の解答解説に移りましょう。
    もう一度、問題文を見ましょう。

    問題 袋Aには赤球が3個、白球が2個、袋Bには赤球が2個、白球が2個入っている。
    袋Aから球を2個取り出し、それを袋Bに入れた後、袋Bから球を2個取り出すとき、それが2個とも赤球である確率を求めよ。

    この確率を求めるには、袋Bに入っているそれぞれの色の球の数を確認する必要があります。
    しかし、それは、袋Aからどんな球を取り出して袋Bに入れたのかによって違ってきます。
    したがって、袋Aからどんな色の球を取り出したのか、それによって場合分けをする必要があります。

    どんな場合があるでしょうか?
    ①2個とも赤球だった場合。
    ②1個が赤球、1個が白球だった場合。
    ③2個とも白球だった場合。

    この3つに場合分けされ、そして、そのそれぞれの事象は互いに排反で、確率的にかぶっている部分がありません。
    では、それぞれの確率を求め、その和を求めればよいです。

    ①2個とも赤球だった場合。
    袋Aから赤球2個を取り出す確率は、組み合わせで考えて、
    3C2 / 5C2=3/10
    そのとき、袋Bは、赤球4個、白球2個となりますから、そこから赤球2個を取り出す確率は、
    4C2 / 6C2=6/15
    したがって、①の確率は、
    3/10・6/15

    ②1個が赤球、1個が白球だった場合。
    袋Aからそのように球を取り出す確率は、
    分子は、3個の赤球のうちの1個を選び、さらに2個の白球のうちの1個を選ぶのだから、
    3C1・2C1
    分母は5個の球のうち2個を選ぶのだから、
    5C2
    よって、3C1・2C1 / 5C2=6/10
    そのとき、袋Bは、赤球3個、白球3個となりますから、そこから赤球2個を取り出す確率は、
    3C2 / 6C2=3/15
    したがって、②の確率は、
    6/10・3/15

    ③2個とも白球だった場合。
    袋Aから白球2個を取り出す確率は、組み合わせで考えて、
    2C2 / 5C2=1/10
    そのとき、袋Bは、赤球2個、白球4個となりますから、そこから赤球2個を取り出す確率は、
    2C2 / 6C2=1/15
    したがって、③の確率は、
    1/10・1/15

    前にも書きましたが、これらの事象はそれぞれ排反ですので、
    求める確率は、
    3/10・6/15+6/10・3/15+1/10・1/15

    こういう式の場合、小学生時代からの癖で、事前にこまめに約分してしまい、最後に足すときになってまた通分し直して、その過程で計算ミスをしてしまう人がいます。
    無駄な作業です。
    分母が一致しているのですから、約分はせず、このまま足して、最後に約分できるようなら約分します。
    3/10・6/15+6/10・3/15+1/10・1/15
    =18+18+1 / 150
    =37 / 150

    約分はできませんでした。
    これが、答です。

    そして、この解き方全体は、確率の乗法定理を利用しているのですが、それぞれに場合分けした場合の後半、袋Bの確率は、条件付き確率なのです。
    例えば①ならば、袋Aから赤球2個を選んだときに、袋Bから赤球2個を選ぶ条件付き確率が 4C2 / 6C2=6/15 です。
    確率の乗法定理としてすんなり理解できることの中に、ひっそりと条件付き確率はひそんでいるのです。
      


  • Posted by セギ at 12:49Comments(0)算数・数学

    2023年06月27日

    夏期講習、空きコマ状況。2023年。


    夏期講習空きコマ状況のお知らせです。

    8月28日(月)より、通常授業です。


      


  • 2023年06月22日

    英語の誤読。書いてないことを読み取ってしまう。

     


    画像はクサタチバナ。何年か前のこの時期に、三つ峠山で撮影したものです。

    さて、今回は英語の話。
    誤読のメカニズムについて。

    英語の問題を解く場合、誤読の最大の原因は単語力不足です。
    前にも書きましたが、例えば、英検過去問の、メールを読み取る問題で。
    乳幼児を持つ親が、保健所に予防接種をどこで受けることができるか問い合わせるメールの読み取りだったのですが、その子は、高校生であるにも関わらず、単語力は中学英語から一歩も先に進めなかった子でした。
    英文を読もうとしても基本的に虫食い状態の文章を読んでいるようなものでした。
    結局、本文中に出てきた department というただ1語にすがるようにして、その英文を、デパートに対してクレームを入れているメール、と誤読していました。
    たった1語で、そんな妄想を展開できることにむしろ驚きましたが、英文が読めないということは、そういうことなのだと改めて感じました。
    department は、部署といった意味です。
    日本語の百貨店、デパートは、department store です。

    こういうことの解決は、もっとも単純で、もっとも難しいです。
    単語力をつければいいだけなのですが、その単語力をつけられず、日々を空費してしまう生徒が多いのが実情です。
    「単語を覚えられない。どうすれば覚えられるんですか?」
    という子は、実際のところ、それほど覚える努力をしていないのです。
    単語を覚えることに時間も労力も使っていません。
    もっと楽に単語を覚える方法があるはずなのに、自分はそれを知らないから覚えられないのだ、と誤解しているのかもしれません。
    そんな方法はないと見切って、今日からでも地道に努力すれば、一歩でも先に進めます。
    でも、その一歩が踏み出せない。
    単語を覚える時間を、1日の中に設定できない。
    単語力がないから英文が読めないということは理解していても、何もしないで1日1日が過ぎていきます。

    単語を覚えるには、反復しかありません。
    人によって続けられる方法、好む方法は異なると思いますが、要するに、どれだけ反復するか、です。
    単語集に赤シートをかけて、テスト形式で、反復する。
    音声を併用して、反復する。
    例文を暗唱して、反復する。
    とにかく、毎日何百語と目を通すことで、反復する。
    どのやり方でも、効果があります。

    覚えて忘れて覚えて忘れて、の繰り返し。
    要するに、反復です。
    それができる子は、新しいステージに上がることができ、それのできない子は、中学英語のまま、うろうろし続けることになります。

    英単語を覚えるかどうかが差し迫った課題でない人は、それを後回しにしてしまいがちです。
    学校で週1回の単語テストは、前日や当日にちゃちゃっと覚えて、やり過ごす。
    当然、すぐ忘れます。
    それを称して「単語を覚えられない」と本人は思っているようです。
    そのやり方では覚えられなくて当然なのですが。

    せめて、学校の英語コミュニケーションの教科書本文に出てきた単語だけでもしっかり覚えていくかというと、そういうこともありません。
    英語力が伸びない子にありがちなのですが、本文の個々の単語の意味を覚えることはなく、本文のストーリーを覚えて、それで英語の勉強をした気になってしまうのです。

    例えば、生徒に英語コミュニケーションの本文を訳してもらったときのことです。
    それは、災害非常食用のパンの缶詰を開発した人についての話でした。

    One day, a farmer in the neighborhood was canning bamboo shoots.

    この文を、その子は、
    「ある日、農家が、サバ缶を作っていた」
    と訳しました。

    「・・・え?サバ缶?どの単語がサバの缶詰なの?」
    「・・・」
    「私の質問の意味がわかりますか?この英文の、どの単語が、サバの缶詰なのですか?」
    「・・・canning bamboo shoots.」
    「bamboo shoots が、サバなんですか?」
    「・・・」
    「bamboo は竹、shoot は芽という意味ですよ。竹の芽。つまりタケノコのことですよ」
    「・・・」

    しかし、その子の表情は、むしろ、この先生は何を勘違いしているのだろうと言いたげな表情なのでした。

    続く、次の文。

    Canning is a time-honored way to preserve food.

    その子は、この文を、
    「サバ缶は、いい食べ方だ」
    と訳しました。

    「・・・はい?だから、サバ缶じゃないですよ。何でサバ缶?」
    「・・・」
    「この文章にサバ缶は出てこないですよ。考えてください。farmer ですよ。農家の人ですよ。農家の人が何でサバ缶を作るの?タケノコを缶詰にしていたんですよ」
    「・・・」
    「あなたは、もしかしたら、『缶詰』と『サバ缶』は同じ意味だと思っている?サバ缶というのは、サバの缶詰のことですよ。サバの水煮缶詰とかサバの味噌煮缶詰とか。缶詰とサバ缶は、別の言葉ですよ?サバという魚があるんですよ。知ってる?」
    「・・・」
    「それとも、学校の授業の余談で、缶詰に関連して、サバ缶の話が出て、それで混線したの?」
    「・・・」

    こうなると、私の問いかけが矢継ぎ早過ぎて、その子の思考が追い付いていっていなかったと思います。
    それだけ、私も、驚いていたのですが。
    上手く言葉が出てこないタイプの子に、こんなに多方向の角度から矢継ぎ早に問いかけると、ブラックアウトの可能性があります。
    1つの情報だけ繰り返したほうがいいのです。

    「bamboo shoots はタケノコです。リピート・アフター・ミー。bamboo shoots はタケノコ」
    「・・・bamboo shoots はタケノコ」
    「もう1度」
    「bamboo shoots はタケノコ」
    「タケノコは、わかりますか?」
    その子は黙ってうなずきました。

    サバ缶問題があまりにも衝撃だったのですが、本題はそれではなく、2番目の文の訳し方でした。

    Canning is a time-honored way to preserve food.
    「サバ缶はいい食べ方だ」

    この文の個々の単語を理解していないのが明らかでした。
    Canning , way , food
    単語としては、この3つしか理解していないのでしょう。
    それを組み合わせて、「サバ缶は、いい食べ方だ」としていました。
    学校でもう学習済みの教科書本文であるにも関わらず、でした。
    パンの缶詰がどのように開発されたか、その大体のストーリーを把握しているだけで、個々の文、個々の単語の意味は、中学英語のレベルから進化していない・・・。

    そういう学習が、しかし、その子に限らず、多くの高校生の英語学習になっている可能性があります。
    学校の定期テストだけ何とかなればいいので、学校の教科書本文の意味がわかればそれでいいと思ってしまうのかもしれません。
    その場合、テストに初見の長文読解問題も出ることは、無視するようです。
    応用問題はテスト対策はできないから、実力で勝負する、と思うのでしょうか。
    こうした学習を続ける人は、中学英語のまま一歩も先に進めずに高校3年生になる可能性が高いのです。

    教科書本文の「お話」を覚えても仕方ないのです。
    もっと視野を広くして、英語力そのものをつけることを考えましょう。
    単語力と文法力をつけましょう。


    さて、そういうことはクリアし、高校生にふさわしい語彙力のある子の場合。
    しかし、何だかときどき奇妙な誤読をする、という子もいます。

    例えば、こんな問題。
    これは文法問題です。

    問題 次の文の空所に入れるのに最も適当な語句を下から選び、番号で答えよ。

    He (  ) be ill, for he runs about like that.
    ① must ② should ③ would ④ cannot

    助動詞に関する高校英語の文法問題です。
    本文を日本語にすると、

    彼は具合が悪い(  )、というのは、彼はあんなふうに走りまわっているのだから。

    となります。
    したがって、正解は、④ cannot の「はずがない」となります。

    しかし、その子は、① must 「違いない」を選びました。

    「あんなふうに走っているのだから、具合が悪いに違いない、という意味じゃないんですか」
    「・・・うん?」
    「あんなふうに、何かよろよろと、具合が悪そうに走っているんじゃないんですか」
    「・・・そんなこと、書いてないけど?」
    「書いてないけど、そういうふうにも読めませんか?」
    「・・・」
    「迷ったんですよ。走っているんだから、具合が悪いはずがないという意味かなと最初は思ったんですけど、でも、よろよろ走っているから、具合が悪いに違いないとも、読めませんか?」
    「・・・よろよろと具合が悪そうに走っているという情報はありません。書いていないことを読み取るのは、やめましょう」
    「えー・・・」

    そんな誤読があり得るのか、と驚いてしまいました。
    「あんなふうに」をよたよたと具合が悪そうにと誤読する。
    何で、そんな妄想をするのだろう・・・。

    国語でも英語でもそうですが、私は常に「行間を読むな」と言います。
    書いていないことを勝手に読み取って解釈する癖のある人が、誤読をします。
    誤読する人は、必ずそれをやってしまいます。
    変な妄想はやめて、書いてあることだけを読み取れば、そのような誤読は起こりません。

    でも、よたよた走っているという解釈は、もしかしたら、可能なのだろうか・・・?

    私は、もう一度、その問題を見直しました。

    He (  ) be ill, for he runs about like that.
    ① must ② should ③ would ④ cannot

    「・・・run about って、どういう意味ですかね?」
    「・・・」
    「走りまわる、という意味です。この彼は、具合が悪そうによろよろ走っているのではありません。走りまわっています。だから、具合が悪いはずがありません」
    「・・・あっ。そうか!」

    実は、別の観点から言っても、正解は④です。
    この四択の①から③は、どれも肯定的内容の強弱でしかありません。
    ①「違いない」 ②「はずだ」 ③「だろう」
    彼が具合が悪いということを肯定する場合、この3つからどれかを選ぶということは、こんな短い1文だけからでは不可能です。
    そういう観点からも、意味が真逆の④だけが、正解となります。


    入試問題は、相当緻密に作られているもので、「そういう解釈もありうるじゃないか」と言われないように布石を打ってあります。
    こんな短い文でも、run ではなく、 run about とすることで、別の解釈の可能性がないようにしてあるのでした。
    誤読する人は、書いていないことを妄想する一方で、書いてあることを正確に読んでいないのです。
    それは、次の問題でも明らかでした。

    同じく、適語を補充する問題でした。

    "Could you join us for dinner tonight?"
    "If you don't mind, (  ). I've got a toothache."
    ① I'd like not ② I'd like to ③ I'd rather do ④ I'd rather not

    その子は、②を選びました。
    正解は④です。

    「え?では、この人は、夕食の誘いに同意しているのですか?歯が痛いのに?」
    「あ。そうか」

    と、今度は、するっと自分の誤答を認めました。
    今回は単なるちょっとしたケアレスミスであるかのように。
    しかし、上の問題とこれは、誤読という意味において、本質は同じなのではないかと思います。

    この問題を解いたときも、おそらく、 I've got a toothache. という部分を読まないで解いたと思うのです。
    読んでも意味がわからないような英語力の子ではありませんでした。
    でも、読まなかった。
    目がそこに届かなかった。
    そういう「読み癖」のようなものが、あるのだと思うのです。
    1語だったり、部分だったり、何かふっと読み飛ばし、その瞬間に誤読が起こるのでしょう。
    前半だけ読んだら、誘いに応じるか応じないかは、どちらもあり得るのです。
    そこで、本人の好みを優先し、誘いに応じる選択肢を選んだのだろうと思います。
    断る方向の会話より、応じる会話のほうが想像しやすかったのでしょうか。

    誤読というのは、勝手に行間を読んでしまうから起こる。
    基本的にはそう思っていたのですが、語彙力があるのに奇妙な誤読を繰り返す生徒を指導するようになって、私は理解しました。
    結局、正確に読んでいないのです。
    細部まで緻密に読むという作業をしていない。
    ふっと、読み飛ばしてしまうようです。
    誤読の原因は、それだと思います。

    誤読をする人の誤読っぷりに触れると、「えっ。そんな読み方があるの?」と私も衝撃を受けてしまいます。
    あまりの衝撃に、そういう可能性もあるのだろうか、と説得されそうになります。
    でも、体勢を立て直し、よくよく読み直すと、その誤読をつぶす布石が、本文中に必ずあるのです。

    普通に読んでいれば、そんな誤読はしないのに・・・。
    そういう感想を抱くのですが、しかし、それでは、誤読の癖は直せないでしょう。
    「普通に」とは何がどう「普通に」なのか、わかりません。
    誤読する子と文章を読むときは、普通よりももっと正確に読むことが必要です。
    誤読癖のある子と文章を読むと、私も1語1語に本当にこだわった精読が必要になり、面白いです。

    書いていない行間は読まない。
    書いてあることは、1語もおろそかにせず、精読する。

    誤読を避けるために行うことは、上の2つです。
    本人に奇妙な想像力があるから、誤読癖は直らない、と諦めてしまう必要はありません。
    正確に読んでいないから誤読する。
    これに尽きるのですし、それなら、必ず直せると思います。
      


  • Posted by セギ at 13:57Comments(0)英語

    2023年06月21日

    夏期講習のお知らせ。2023年度。


    2023年度夏期講習のお知らせです。

    今年度も例年通り夏期講習を実施いたします。
    詳細は書面にて、来週配布いたします。
    お申込みは7月1日(土)からとなります。
    日付が変わりました深夜からお申込みを受け付けます。
    確定の返信は7月1日の午後となります。
    メール・LINEまたは申込書でお申込みください。
    なお、この期間、通常授業はありませんので、いつもの時間帯の授業を希望される方も改めてお申込みください。

    外部生の受講も承ります。
    外部生のお申込み開始は、7月8日(土)となります。
    このブログの「お問い合わせ」ボタンから、お問い合わせください。
    以下は、夏期講習実施要項です。

    ◎期日
    7月24日(月)~8月25日(金)
    なお、期間中の土曜日・日曜日は、休校とさせていただきます。

    ◎時間帯
    10:00~11:30 , 11:40~13:10 , 13:20~14:50 , 15:00~16:30 , 16:40~18:10 , 18:20~19:50 , 20:00~21:30

    ◎費用
    1コマ90分4,000円×受講回数+諸経費5,000円

    ◎指導科目
    小学生 一般算数・受験算数・一般国語・受験国語・英語
    中学生 数学・英語・国語・社会・理科(社会・理科は中3都立高校受験生のみ)
    高校生 数学・英語

    ◎中3夏期講習
    本年度は中3公立中学生が塾に在籍していないため、中3都立入試向け夏期講習は計画しておりませんが、外部生で都立入試5教科対策をご希望の方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。
    後日、夏期講習の予定を組むことも可能です。
    費用は、5教科1コマ50分で各10コマ、合計50コマで7万円を予定します。
    都立高校合格のみを目標とした実践的な講習内容となります。
    なお、それよりさらに基礎的な内容をご希望の場合も承ります。
    お気軽にご相談ください。



      


  • 2023年06月14日

    高校数学の答案の書き方がわからない。数Ⅱ不等式の証明。


    画像は、タイマツバナ、かな。
    散歩した都立小金井公園で咲いていました。

    さて、今回は、数学の話。数Ⅱ「不等式の証明」から。

    問題 2次不等式 x^2-4x+5>0 を証明せよ。

    不等式の証明問題としては、基本中の基本です。
    しかし、以下のような答案を書いてしまう子もいます。

    x^2-4x+5>0
    =(x-1)(x-5)>0
    よって、
    x^2-4x+5>0


    証明問題の答案は何をどう書いていけばいいか、わからないのでしょう。
    この答案は、0点です。

    一番やってしまいがちなミスが、1行目です。
    x^2-4x+5>0
    という不等式は、これから証明すべきことなのに、1行目にするっと書いてしまうのです。
    そして、それを書いてはいけないということを、理解できない子は多いです。
    本人は、ただ問題文を書き写しているだけなので、それがダメだと言われる理由がわからないようです。
    「いつも与式を書け書け、書き写せ、とうるさいのに、何で、このときはダメなんだろう?」
    と思ってしまうのかもしれません。

    これから証明すべきことは、まだ証明できていないことです。
    いつもの、不等式を解く問題とは違います。
    x^2-4x+5>0 が本当に言えるかどうかはまだ不明であり、それをこれから証明します。
    それを事実であるようにするっと書いてしまうことはできません。

    どうしても、与式を書きたかったら、答案の1行目に、
    x^2-4x+5>0 を証明する。
    というふうに書くことならできます。
    それなら、意味が通じます。
    そう解説すると理解してくれる子もいるのですが、数学の答案に日本語をそんなに書くのは変だと、謎の誤解をしている子もいます。
    「えー、そんなのおかしい」
    と言います。
    数学は数学なのだから、日本語は無駄、不要、と思っているのでしょうか。
    いやいやいや。
    その考え方のほうが、おかしいんですよ。
    早く気づいてください。
    でも、反論してくれるだけましなのです。
    にこにこ笑っているから、理解しているかなと思っていたら、心の中で勝手に却下している子もいます。
    個別指導を受けても、それでは伸びないですよ。
    せめて、議論しましょう。

    次にまずいのが、2行目です。
    x^2-4x+5>0
    =(x-1)(x-5)>0
    という、このイコールは、どういう意図で書いているんでしょうか?

    その子は、以前、テストでこんな答案を書いたこともありました。

    問題 方程式 2x^2+3x-15=x^2+2x-9 を解け。

    2x^2+3x-15=x^2+2x-9
    =x^2+x-6=0
    =(x-2)(x+3)=0
    =x=2 , -3

    日頃、計算過程をしっかり書いていくことがなく、ノートは計算メモばかりの子でした。
    イコールをまともに書いたことがないので、いざ答案を書けと言われると、どう書いていいのかわからなかったのでしょう。
    学校の定期テストだけは頑張って答案を書こうとし、訳のわからないところにイコールを書きまくっていました。
    こういう答案を書いてしまうと、
    「解き方の手順だけは覚えているが、意味はわかっていないんだな」
    と数学の先生に解釈されかねません。

    そういうことが続くと、理系に進学したいと希望を伝えても、高校の先生にブロックされることがあるのです。
    具体的には、数Ⅲを選択することを禁じられます。
    それより手前、数Bを選択することを禁じられた子もいました。

    本人の進路なのに、何でそんな勝手なことをするんだ!
    という怒りもわかりますが、上のような答案を書いている子を理系に進ませないのは、高校の先生の温情かもしれません。
    数学が全くわかっていない。
    しかも、答案を読む者にそれが伝わっているということすら、本人には理解できていない・・・。
    自分のどこがどの程度ダメであるか自覚できる子ならば、伸びる可能性があるのです。
    しかし、これでは、おそらく、話が通じない・・・。
    少なくとも、上の答案では、そう思われてしまいます。

    例えば、テストでついうっかり 2+3=6 という計算ミスをしても、それで、
    「数学センスがない」
    「数学が全くわかっていない」
    と言われることはないのです。
    でも、上のような答案を書いてしまうと、ああ、この子は数学が全くわかっていないのだ・・・と思われてしまう可能性があります。

    しかし、数学ができない子は、それを逆にとらえてしまう傾向があります。
    2+3=6 としてしまうのはダメ。
    一方、上のような、
    2x^2+3x-15=x^2+2x-9
    =x^2+x-6=0
    =(x-2)(x+3)=0
    =x=2 , -3
    という答案は、答が合っているのになぜダメだと言われるのか、理解できない。

    つまりは、答さえ合っていればいいという、小学校時代の感覚から一歩も前に進んでいないのだろうと思います。

    いえ、小学校時代の算数だって、本当は、答さえ合っていれば良かったわけではないのです。
    ただ、そういう形式のテストが多かったので、それで、本人はそのように勘違いしてしまったのでしょう。
    その勘違いをいつまでもひきずって、数学にバージョンアップできず、気がつくと、もう数Ⅱを学習する段階にきてしまった・・・。
    そして、突然、高校の数学の先生から、
    「数学がわかっていない」
    と断定される。
    本人には、寝耳に水のことかもしれません。

    上のような答案を書く子は数学センスがないとも、数学がわかっていないとも、私は思いませんが、しかし、課題があるのは事実です。
    そして、それは、数学上の課題というよりも、もっと別の課題のように思います。

    まずは観察力の問題。
    塾に行かずに自学しているのだとしても、教科書の解答や学校の先生の板書を見れば、自分の答案と違うということに気づいてもいいはずです。
    学校の先生が授業中に、「こういうふうに書きなさい」と注意している場合も多いでしょう。
    そういうものを全部無視し、素通りしてしまうのです。
    観察の目が粗いのでしょうか。
    大体同じだから、大丈夫、と思ってしまうようです。
    それは、やはり、能力の問題も多少あるかもしれません。
    緻密さがないのです。
    そこまで緻密さを要求されるはずがないと、本人が勝手にゆるい基準を設けてしまうので、世間の基準とのズレが大きい。
    そのために、能力を疑われる結果になってしまいます。
    やればできるのかもしれないのですが。

    そして、改善する力の問題。
    教科書の解答や学校の先生の板書と、自分の答案とに違いがあることには、気づいている場合もあります。
    個別指導塾に通っていれば、「それは違うよ。こう書くんだよ」と指導が入るでしょう。
    それでも、直さない。
    いや、そんなの大差ない。
    自分のやり方でいいはずだ。
    と、なぜかそのように考える傾向のある子はいます。
    自分は勉強ができるのに、何か、あれを直せ、これを直せと言ってくる。
    もっと自分を認めてほしいのに。
    何でこのセンセイは自分を認めないんだー。
    ・・・と思っているのだろうか?
    と講師として首を傾げてしまうほど、何を助言しても直さない子は、いつの時代もいます。
    そして、学校の先生に全否定され、数学のテストの点数がひどく低くなってから、現実に気づきますが、その頃には、何をどう直せばいいのか、本人の理解が追い付かなくなっていることがあります。

    何を助言しても直さない。
    それにも、実は理由があるのかもしれません。
    日本語を多用した数学答案や、思考の過程を丁寧に書いていく答案の価値を、本人が認めていない可能性があります。
    そこまでする必要はないと、本人が判断しているのだと思うのです。
    その根本にあるのは何なのか?
    それは単に、字を書くのが好きではない、ということだったりするのかもしれません。
    子どもの頃、鉛筆を上手く持てず、字を書くのがつらくて不快だったのかもしれません。
    高校数学を学習する年齢になっても、それをひきずってしまっている可能性はないでしょうか。

    もう1つは固定観念でしょうか。
    数学は、数学なんだから、数式だけ書いていくものだ、という固定観念。
    とにかく左端にイコールをつけておけばいいんだ、という固定観念。
    答案の中に日本語が入っているほうがおかしいんだ、という固定観念。
    複雑な問題になればなるほど、答案の中に日本語が多く含まれていく、という事実を知らないのか。
    あるいは認めたくないのか。
    それも繰り返し説明しているのですが、固定観念が強過ぎて、自分の考えに反する内容は聞こえないようです。
    あるいは、
    「学校の数学のテストは、どうせ大半は答だけ書けばいい形式だし」
    と思って聞き流している可能性もあります。
    前半の計算問題は答だけ記入する形式ということもありますが、後半、記述形式の問題は必ずあります。
    学校の数学の先生は、そこを見ています。
    そして、ある日突然宣告されます。
    「君は、理系には進めない」
    その前に、立ち止まって、気づいてほしいのです。
    自分で文系を選択するのは別に構わないですが、理系に進めないと宣告されるのは、嫌じゃないですか。


    実は、正しい書き方がわからない、ということもあるでしょう。
    正しい書き方の何がどう正しくて、自分の書き方の何がどうダメなのか、解説されても、理解が追い付かない。
    どうでもいい、と思っていることが、理解の妨げになる面もありますが、理解しようとしても、理解できない。
    イコールの意味や、証明ということの意味がそもそもわかっていないのです。
    そういうことも、あると思います。


    上の不等式の証明の誤答に戻ります。

    x^2-4x+5>0
    =(x-1)(x-5)>0

    このイコールの使い方では、イコールの意味が理解できていないことが露呈しています。
    これでは、何と何が等しくて、何が>なのか、意味不明です。
    そのことが、自分で書いていてわからないのです。

    x^2-4x+5
    =(x-1)(x-5)>0

    これならば、答案としては誤答ですが、イコールの使い方は間違っていません。
    でも、上の書き方とこの書き方の何がどう違うのかよくわからない、という人がいます。
    イコールの意味のような根本の概念になると、小学生の頃に脳の奥までしみ込んでよく理解しているのでない限り、後になって学習して使いこなすのは難しいのかもしれません。
    絶対に不可能だとは思いませんが。


    ところで、この答案は、答案の書き方がおかしいだけでなく、解き方そのものも間違っています。
    因数分解としても、間違っていますし。
    x^2-4x+5 は、実数の範囲では因数分解できません。
    因数分解できたところで、左辺>0 など証明できませんし。
    x-1、x-5のそれぞれが正の数か負の数かわからないのですから、その積が正の数か負の数かなど、判断がつきません。

    では、どうすればいいのか?
    どうすれば、左辺が正の数であることを示せるのか?

    「因数分解ではありませんよ。平方完成をするんだったでしょう?」
    「・・・」
    「私の言っていることが、わかりますか?頭の中で漢字変換できますか?因数分解ではなく、平方完成」
    「・・・」
    平方完成と板書して、指さします。
    「言ってみて。リピート・アフター・ミー。平方完成」
    「ヘーホーカンセー・・・。あっ・・・!」
    「わかった?やりましょう、平方完成」

    やりましょう、平方完成。

    x^2-4x+5
    =(x-2)2-4+5
    =(x-2)2+1>0
    すなわち、
    x^2-4x+5>0

    これが正解です。

    x-2という( )の中の値は、正か負かわかりません。
    しかし、2乗すれば、どちらにしても正の数になります。
    だから、(x-2)2は、正の数です。
    +1は勿論正の数です。
    正の数と正の数の和は、必ず正の数です。
    だから、左辺>0です。
    もっとも平易なタイプの2次不等式は、このように証明されます。

    なぜ、この問題が解けないのか?
    課題としては、
    「実数を2乗した数は必ず正の数」
    「正の数と正の数の和は、正の数」
    を、発想できないことです。
    解説されれば理解できる。
    しかし、解説されないと理解できないのです。
    本人の中に、そういう知識がないのだと思います。
    問題の解き方のストックとして、頭の中に入れておきましょう。

    また、本人としては解説されてやっと理解できるそんなことを、証明の答案の中ではほとんど書いていないことが納得できない、ということもあるようです。
    わかりきったことを書かないでいると色々注意されるのに、そういうことは、書かなくてもいいという。
    そのバランスがわからない・・・。

    いや、「実数を2乗した数は正の数だから」「正の数と正の数の和は、正の数だから」と答案の中に書いてもいいんですよ。
    それを書いたら減点される、ということはありません。
    でも、そんな数学的常識は書かなくていいことになっているのです。

    つまり、数学的常識が身についていないため、本人のバランス感覚が数学の世界の常識と違うのです。
    これは、数学的常識を身につけていくことでしか解決のつかないことです。
    練習を重ねることで、自分の中の常識を変えていきましょう。
    数学的に非常識なのは、練習不足が一番の原因です。
    問題を解く度に模範解答を読んで、それによって数学答案の書き方と数学的常識を身につけていきましょう。

      


  • Posted by セギ at 13:46Comments(0)算数・数学

    2023年06月09日

    中間テストの反省と分析。


    画像は、フタリシズカ。林床にひっそりと静かに咲いていました。

    さて、私立中学や、都立・私立高校の中間テストの返却が終わり、得点が出揃いました。
    この春から、うちの教室で英語を学習し始めた高校2年生が2人います。
    前回のテスト、すなわち、1年の学年末テストと比べて、1人は10点アップ、もう1人は20点アップしました。
    英語だけで2科目の試験がありますが、それぞれ、20点ずつ上がっていました。
    最初のテストとして、まずまずの結果となりました。
    まだ伸びしろはあります。
    楽しみです。


    興味深かったのは、春から入会した子たちの前回までのデータを私は知りませんので、テストの答案を眺めて、
    「これは、1年のときの学年末テストと比べて上がったんですか?下がったんですか?」
    と素朴な疑問をぶつけてみたところ、1人は、学年末の英コミュは何点で、論理表現は何点だったと正確に情報を提供してくれたのですが、もう1人は、
    「1年生のときは、1学期中間が何点で、その後は、何点くらいになって、大体平均すると、1年の平均点は、今回の得点と同じくらいです」
    と答えたことでした。
    要するに、高1の1学期中間だけが非常に高い得点なのでした。
    学校推薦か総合型選抜での大学受験を考えているので、とにかく、3年間の平均について考える癖がある。
    前回の得点より何点上がったかではなく、1年の最初からのトータルの平均点が上昇しているのか下降しているのかが重要・・・。

    ここで気になるのが、高過ぎる高1の1学期の中間の得点でした。
    高1の1学期中間テストの得点だけが桁外れに高く、以後は、似たような低い得点の繰り返しなのでした。

    高1の1学期中間がどれだけ良くても、それ以後、2度と回復しなかったのであれば、その1学期中間テストの得点は、私から見れば「外れ値」であり、入試上のデータはともかく、自分の本当の実力としての平均点を出すときには除外すべき得点ではないかと思います。
    1年の1学期中間だけは良い得点だった、ということは、誰にでもあることです。
    中学生ならば、もっと起こりやすいことです。
    英語だけでなく数学でも、中学1年の1学期だけは、良い得点だった。
    1学期の成績も、5段階で「5」を取った。
    しかし、それは、振り返れば、英語・数学において、生涯で唯一の「5」だった・・・。
    そんな人は、多いと思います。

    でも、1回高得点を取ると、それがセルフイメージになってしまうのも、無理からぬところがあります。
    本人以上に、保護者の方は、「本当はこの成績のはず」という思いが強くなるかもしれません。
    だって、1度はとれたんだから。
    また、必ずそこに戻れるでしょう?
    そういう見方をすると、今回のテストも、上がったわけではなく、ようやく平均値に戻っただけ、となるようです。

    理想が高いのは嫌いではありません。
    今回の得点は、本人の中では、ようやく昨年度の平均点。
    了解。
    それ以上を目指しましょう。
    学年が上がり、学習内容が難化していく中で、流れに逆らって得点を上げていくのは大変なことですが、大変だからこそやらなければなりません。


    さて、テストで得点を上げていくには、そのテストに対する分析が必要です。
    それができるかどうかが、次回のテストの鍵となります。
    しかし、一般論として、これができない子が多いです。

    まずは、単純にテストの解き直しすらしない子がいます。
    テストが返却される頃には、問題用紙を紛失している子もいます。
    繰り返し繰り返し説諭し、何年もかけて治していくしかない課題です。
    学校から解き直しが宿題として出ていて、「テスト直しノート」を提出しなければならない場合でも、その作業が大嫌いという子は多いです。
    新しい問題を解き散らかすのは好きだけれど、自分が間違えた問題を解き直すのは嫌いなのです。
    塾の宿題の解き直しでも、傍目でそれとわかるほどテンションが下がる子がいます。
    自分のマイナスを見つめさせられているようで嫌なのでしょうか。
    あるいは、単純に、過ぎたことをいつまでもぐちゃぐちゃやっている感じが不愉快で、スッキリと新しい問題を解きたいのかもしれません。
    そういう、小学生みたいな子は、高校生になってもいます。



    というわけで、本人に任せていたら絶対に解き直しをしそうにない子は、塾の授業時に解き直しをします。
    英語のテストの解き直しの場合に、私が訊くことがあります。
    たとえば、英語コミュニケーションのテストで。まずは大問1。空所補充の4択問題。
    「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
    「・・・」
    学校の教科書のテスト範囲の対策はしていますので、教科書から出ているのではないことは、見てわかるのです。
    「単語集ですか?」
    「・・・多分、そうだと思います」
    「大問1の10問、各1点で合計10点。これが全部単語集からの出題なんですね?」
    「・・・はい」
    「ほお。学校の先生は、優しいですね。単語集からの出題の問題が、該当単語を書かせる問題ではなく、文中の空所補充の4択問題なんですね。これならスペルミスする可能性はないので、単語の意味さえ覚えておけば、満点が取れますね」
    「・・・」
    「嫌味で言っているんじゃないんですよ。テスト範囲の単語集をやっておきなさいと言ったのに、結局捨てたんだと思うんですが、こういう出題形式ならば、少し頑張れば得点できますから、次回は頑張りましょうよ」
    「・・・はい」

    さらに、大問2。乱文整序問題。
    「この問題は、テスト範囲のどこから出ているんですか?」
    「・・・単語集だと思います」
    「これも単語集から出ているんですか?単語集の例文を乱文整序する問題ということですか?」
    「・・・そうだと思います」
    「大問2の5問、各1点で合計5点。大問1と合わせると、合計15点。これが全部単語集からの出題ですか。それで、こんなに失点しているんですね」
    「・・・はい」
    「これは、他の人と比べて、あなただけが、85点満点のテストで奮闘したということですよ」
    「・・・」
    「それにしては、良い点ですよね。次回はここで得点しましょうね。あっという間に英語の得点は上がりますね。このテスト、楽勝ですわ」
    「・・・」

    本当に、近年は、英語も数学も高校の定期テストは易化しています。
    学校推薦や総合型選抜を目指す生徒が過半数の昨今、難し過ぎるテストでは評定平均が低くなるとの配慮からでしょうか。
    それでも、昔のテストを知らない高校生は、これで難しいと思っています。
    いやいやいや。
    ひと昔前の高校の英語のテストなんて、こんなものじゃなかったんですよ。
    例えば、コミュニケーション英語のテストは、単語や熟語は、スペルを書かせるのが当たり前でした。
    その後は、何のテスト範囲なのかよくわからない4択問題が大量に出題されていて、別紙のマークシート解答用紙が用意されている。
    その後、普通の解答用紙に戻ると、和訳問題が10~15問は出ていて、頑張って解いたところで△ばかり。
    解いても解いてもまだ問題があり、後半は初見の長文問題が2~3題。
    そこまで到達できる生徒はほとんどいない・・・。
    そして、英語表現は、文法4択問題や乱文整序問題が大量出題されているのは当然としても、なぜか初見の長文問題も出題されている。
    どちらが何の科目のテストなのか、ちょっと見ただけではよくわからない。
    さらに、和文英訳。
    そして、100語あるいは200語の課題英作文問題。
    この悪夢のようなテストで、高校生の英語の成績をどう上げていけば良いのだろう?
    平均点が40点というテストを作って、高校の先生は、何も感じていないのか?
    そう思うことも多くありました。
    それに比べれば、今どきの高校の定期テストなんて、本当に親切の塊、先生の「親心」の塊みたいなものです。

    さて、大問3以降は、教科書本文に関する問題でした。
    「よくできています。素晴らしいですね」
    「はい」
    「これを、もう少し厳密に分析するのならば、学校の教科書準拠ワークの問題とそっくり問題なのか、教科書の章末の演習問題なのか、学校の先生がくれたプリントとそっくり問題なのか、それとも、少し変えてあるのか、それも1問1問分析するといいですよ」
    「はあ・・・」
    「データ分析を徹底するなら、そうなります。その一方、とにかく、英語力をつければ、どんな出題がされても正解できるので、英語力をつける、本文の暗唱を今まで以上に頑張るという方向でも、勿論いいんですよ」
    「・・・」
    「英語力をつけることが究極の目標ですからね。データ分析ばかりやっていると、先生が出題傾向を変えた瞬間に敗北する、ということもありますから」
    「・・・」
    とりあえず、教科書範囲からの出題の正答率は高く、喜ばしいことです。
    「あとは、応用問題ですね。初見の長文問題を解くには、普段から、初見の長文問題を解いていくのが、遠回りのようで近道です。単語力増強にもなりますし。頑張りましょうね」
    「・・・はい」

    こんなふうに、手取り足取り、テストの反省の仕方と同時に、出題傾向の分析の仕方を教えます。
    その一方で、ほおっておけば生徒が自力では行わない、リスニング、教科書本文暗唱、初見の長文読解、文法事項のまとまった解説と演習、ライティングの添削などを繰り返していきます。
    何かもっと21世紀的な、AIを使った機能的などうのこうのを求めている生徒には、地味に映るかもしれません。
    努力しなくても楽勝で英語が得意になれる方法を探している人がきょろきょろしている間に、地道に当たり前の努力をして、サクサク得点を上げています。

    新規生徒、募集中です。

      


  • Posted by セギ at 13:51Comments(0)講師日記英語

    2023年06月01日

    英語長文読解。木を見て森を見ずな読み方をする子もいます。


    単語力はある。
    文法も理解している。
    だから、難問でも正解できる。
    その一方で、簡単な問題で間違える・・・。
    共通テスト模試などで、最後まで解ききるスピードも読解力も持ち合わせていながら、前半の簡単なところで誤答する子がいます。

    例えば、ある共通テスト模試の、大問1のポスターの内容を読み取る問題。
    「ローカル・フード・フェスティバル」に参加するシェフを募集するポスターを読む問題でした。
    郷土料理フェスの中で料理コンテストを開催するので、その参加者を募集中。
    優勝は、当日来た人たちの投票で決める。
    あわせて、フェスの設営ボランティアも募集。
    そういう内容の英文でした。

    設問1 The purpose of this notice is to find people from the local town to (   ).
    ① donate food to a school
    ② take cooking lesson
    ③ take part in an event
    ④ volunteer for a charity

    日本語に直すと、
    設問1 この告知の目的は、(  )地元の町の人々を見つけること 。
    ①食べ物を学校に寄付してくれる
    ②料理のレッスンを受けてくれる
    ③イベントに参加してくれる
    ④チャリティーのためにボランティアをしてくれる

    大問1の問1ですから、正直、ポスターの1行目、太く大きい文字で書かれたところを読んだだけで正解できるレベルの問題でした。
    正解は、③です。
    しかし、その子は、④を選びました。

    前にも書きましたが、英文が実際のところほとんど読めないので、本文と同じ単語を使っている選択肢を選んでしまう子の場合は、③は選べないかもしれません。
    ③は本文の内容を別の言葉で言い換えています。
    take part in という熟語の意味がわからないので、正解できない、ということもあるでしょう。
    本文中にある volunteer という単語を使ってある④の選択肢をとりあえず選んでしまう、という誤答パターンに陥りがちです。

    しかし、その子は、そんな英語力ではありませんでした。
    必要ないから英検準1級は受けないけれど、受ければ合格するでしょう。
    そういう英語力で、こういうすっぽ抜けがときどきあるのでした。
    共通テストの英語なんて、満点に限りなく近い点を取っておきたいのに。

    その子は、③と④で迷ったけれど、④をどうしても消せなかった、と言うのでした。
    「・・・でも、このポスターは、料理コンテストに参加する人を募集するのが主な目的だというのは、わかりますよね?」
    「それはわかりますけど」
    「それがわかるのならば、③にすればいいんじゃないですか?」
    「でも、ボランティア募集って書いてあるから」

    どうすれば、この子の誤解を解けるのだろう。
    私は考えこみました。
    どうすれば、説得できる?
    「・・・このフェスは、チャリティーですか?」
    「でも、ボランティアは、お金は取らないからチャリティーです」
    「お金を取らないと、チャリティーなの?チャリティーは、慈善事業という意味です。このフェスは、慈善事業なんでしょうか。これは、郷土料理の振興とか拡散とか、そういうのが目的で、チャリティーではないと思いますが?」
    「・・・」
    「ボランティアとチャリティーは、意味が違うんですが、もしかして、そこの混同がある?」
    「あ。そうかもしれない」

    どこか知らない架空の町の、自治体か地元団体主催の郷土料理振興イベントはチャリテイーであるのかないのかを真剣に考えることになる。
    奇妙な誤読をする子との会話は、面白いです。
    私の指導力が問われ、わくわくします。


    また、別の問題。
    これも、共通テスト形式の模試の中ではまだまだ易しい大問3。
    外国人の女性が、日本の銭湯に行く話でした。
    他人の前で服を脱ぐなんて、恥ずかしいんじゃないかしら。
    自分にはわからない慣習やルールがあるんじゃないかしら。
    何より心配なのは、自分は肩にタトゥーがあるんだけど、それでは銭湯に入れないんじゃないかしら。
    そのように心配している外国人女性に、日本人の友人がアドバイスをくれます。
    タトゥーのところにばんそうこうを貼っていけば、大丈夫。
    必死の思いで打ち明けたタトゥーの件を、日本人の友人が意に介さない様子に、外国人女性は驚きます。

    そんなこんなで、第3段落。

    In the baths a few days later, indeed I had forgotten all about my worries. I was allowed to enter the baths because I covered my tattoo with an adhesive bandage.
    数日後の銭湯の中で、本当に、私は心配ごとをすべて忘れてしまった。私は、銭湯に入ることを許された。なぜなら、私はタトゥーをばんそうこうで覆ったからだ。

    しかし、その後、銭湯の中で日本人のおばあさんに、
    「その肩はどうしたの?」
    と訊かれます。
    外国人女性は当惑するのですが、正直に、
    「実はタトゥーがあって、それを隠しているんです」
    と説明します。
    すると、おばあさんは、
    「そうなの。怪我をしているのかと心配しただけ。怪我でなくてよかった」
    と応えます。
    外国人の女性、それを聞いて、ハッピーになり、物語終了。


    この種の問題の典型題として、語り手の心情を正しい順番で述べている選択肢を選ぶ問題というものがあります。
    正答は、
    「不安→驚き→安堵→当惑→ハッピー」
    という流れです。

    これを誤答した子がいました。
    「不安→安堵→驚き→当惑→ハッピー」
    という選択肢を選んだのです。

    なぜ、その選択肢を選んだのかについて、その子は、この外国人女性は、銭湯に行く前にもう安堵していたと主張するのでした。
    だから、安堵は前のほうに来ているはず。
    その根拠が、上の一文、
    In the baths a few days later, indeed I had forgotten all about my worries.
    でした。
    ここが、過去完了なので、銭湯に行く前に、もうすでに、すべての心配事は忘れてしまっていたのだというのです。
    だから、「安堵」は早めに来ていないとおかしい、というのでした。

    うん?
    ちょっと待って。
    どういうこと?

    なぜ、その1文だけで、文脈を無視して、感情の流れを誤読してしまうのだろう?
    その1文に、なぜ、そんなにこだわるのだろう?
    同じ文章なのに、私とは見えているものが違うことに、正直、驚くのです。
    何か特定の1文、あるいは1部分だけが、太字ゴシックで見えているのだろうかと思うほど、些末な1部にこだわって、前後の流れを無視します。
    そういう誤読は、どういうメカニズムで起こるのだろう・・・。

    「・・・文脈を読みましょう」
    「でも、書いてあるから」
    「この外国人女性は、銭湯に入る前に不安が消えたと思いますか?」
    「でも、書いてあるから」
    「確かに、書いていないことは、読まなくていいです。行間は読まなくていいです。でも、文脈は読んでください」
    「でも、書いてある」
    「その文は、『数日後の銭湯の中で、本当に、私はすべての心配を忘れてしまった』という意味です。湯舟につかって、ようやく安堵したんでしょう?」
    「あ・・・。そうか!そういう意味なのか!書いてある!」
    「うん」

    そのたった1文の過去完了形のために、前後を無視して、別の意味を読み取ってしまう・・・。
    こういう誤読をするから、秀才なのに案外国語が苦手。
    英語も、簡単な問題で誤答してしまうのです。

    木を見て、森を見ず。

    1文にこだわり、そこに引き付けられ、それだけを重視した読み方をしてしまうようなのです。
    なぜ、特定の1文にこだわるのか。
    他の文から得られる情報との矛盾を無視するのか。
    文脈が破壊されるのも構わず、その1文を誤読し、幻覚を見てしまうのか。

    それで思い出したのは、国語を教えていた別の生徒のことでした。
    以前に書きましたが、小説の主人公と、その父親と祖父との人間関係の読み取りができない子がいました。
    写真館の一家の話で、父親と祖父が写真を撮りに行った夜のこと。
    少年が父親に、
    「お父さんのフィルムは現像したの?」
    と尋ね、それに対して父親が、
    「お父さんのフィルムは抜いておいた。お父さんのだけが撮影されていて、おじいちゃんのが撮影されていなかったら・・・」
    「お父さんは、優しいね」
    そういう会話部分の読み取りでした。
    その会話の意味を読み取れなかったのです。

    主人公は、お父さんのどういう行動を優しいと考えていますか。
    そういう設問に、その子は答えられませんでした。
    答は、「自分のカメラのフィルムを抜いておいた行為」です。
    特に難しい設問ではありませんでした。
    しかし、その子の答案は白紙で、解説しても呆然としていました。
    このときも、色々と対話を重ねて、ようやくわかったことがありました。
    その子は、父親のセリフの中の「お父さん」は、お父さんのお父さんなのだから、おじいちゃんのことを指すのだと思い込み、父親が祖父のカメラのフィルムを故意に抜き取ったと誤読したのです。
    それは、確かに「優しい行動」とは思えない。
    設問の意味も、文章の意味も、これではわからない・・・。

    文字が読めないわけではない。
    読み飛ばしているのでもなさそうです。
    でも、読み方が奇妙なのです。
    何か偏っています。
    「お父さんのお父さんは、お祖父ちゃん」ということ自体は間違っていません。
    でも、ここで用いることではありません。
    そういうことを、なぜか唐突に用いてくるのです。
    前後とつながらなくても、そのことを優先します。

    根本的には、文章の流れを読まず、1文1文で意味が区切れてしまうことが影響しているのだろうと思います。
    独りで読んでいては、これは解決しない。
    どういう読み方をしているのか、丹念に分析する個別指導が必要になります。

    会話が可能な子であれば、修正は早いのです。
    自説にこだわる分だけ言葉数が多い子なら、変化も速いです。
    対話が可能であり、説得が可能なのです。
    対話する中で、読み方の奇妙な癖が明らかになります。
    自分の読み方の癖を理解できれば、それにより、修正が可能です。

    四択問題で誤答したときに、なぜ、その誤答を選んだのか?
    私のその問いかけに、何か説明できる子です。
    話す内容は、たどたどしくてもいいのです。
    単語だけでも、何か伝えようとしてくれれば、その言葉を私が拾っていけます。
    対話が可能であれば、私が分析でき、それを本人に説明することができます。
    本人が、自分の「読み癖」のようなものを意識すれば、変化が起こります。

    一方、黙り込んでしまう子は、伸ばすのが難しく、苦労が多いです。
    なぜ黙り込んでしまうのか。
    誤答したことを責められているように感じるのでしょうか。
    責めているのではない。
    ここで原因をはっきりさせておけば、次は正解できるでしょう?
    そのように言っても、反応は薄いです。
    音声言語を理解する力も、不足しているのだろうか・・・。
    いや、言われたことは理解しても、なお自分の思いを優先したいのかもしれません。

    大人との距離の取り方が防衛的な子もいます。
    何だかよくわからない小さな嘘をつくことがあるので、そういうことなのかなと想像します。
    最近は、教室に入ってきて、洗面所で手を洗うふりをする、という小さい嘘を見て、何だろうなあこれは、と思ったことがありました。
    ハンドタオルを忘れたことを知られたくなかったようです。
    タオル忘れたから、ティッシュ貸してください。
    たったそれだけのことが言えない。
    手を洗うふりだけする、という方向に逃げてしまう。
    そのとっさの判断ミスは、テストでの間違い方に似ている気がするのです。

    黙り込んでしまう子は、あるいは、選択肢を選ぶときの根拠を言語化できないだけかもしれません。
    何となく選んでいるだけだから。
    何となく、これが正解のような気がしたから。
    その「何となく」を言語化できない。
    それができると、自分が陥りやすい過ちが分析できるようになります。
    何となく、その選択肢を選んでしまう理由は何なのか。
    私も必死に考えます。
    私が正確に言い当てることができれば、その子の信頼を獲得できるかもしれないのです。



    以前も書きましたが、算数の割合に関する文章題で、
    「色紙でつるを600羽折りました。赤い色紙のつるは全体の30%にあたります。赤いつるは何羽でしょう」
    という問題にある「全体の30%」の「全体」が600羽であることが読み取れない小学生がいました。

    あるいは、
    「めぐみさんの学校では、今日は18人休みました。これは学校全体の4%にあたるそうです。今日出席しているのは何人でしょう」
    という問題の「これ」が18人を指すことも読み取れませんでした。

    また、空所補充問題では、
    「2は8の(  )です」
    「8は2の(  )です」
    のどちらに約数を、どちらに倍数を入れたらいいのかわからず、正解を教えても首をひねっていました。

    文章を読んでいて、句点、最悪の場合は読点ごとに意味が区切れてしまうようなのです。
    その都度意味がリセットされてしまって、つながりが理解できないようでした。
    また、特に、助詞の機能を理解していない傾向を感じました。
    助詞を読み飛ばし、目立つ単語しか目で拾っていないので、文意を取れないのです。

    それでも、読解力不足は、諦めてしまわなければならない課題ではありませんでした。
    解決の道はあります。
    読み方の癖を分析し、修正していくことは可能です。
    ただし、それはかなり時間のかかることです。
    10何年もかけて育ってしまった誤った読解の癖を修正していくのは、ひと月やふた月では不可能です。
    年単位での地道な対話が必要となります。

    本人の中に、文章を読むことへのモチベーションが生まれると、それはさらに効果的です。
    割合の文章題の読解ができなかった小学生は、その後、高校受験でついに覚醒し、最終的に、都立高校入試本番、国語の四択問題は満点を取りました。


      


  • Posted by セギ at 12:39Comments(0)英語

    2023年05月29日

    ヤゴ沢から景信山、明王峠から与瀬神社に下りました。2023年5月。


    2023年5月28日(日)、奥高尾を歩いてきました。
    高尾駅北口から小仏行きのバスに乗りました。8:33。
    バスは、立っている人が数人くらいの人数でどんどん発車。
    終点、小仏下車。
    すぐに歩き始めました。8:55。
    まずは、バスの進行方向のまま、その先の舗装道路を歩いていきます。
    左手に沢。
    今の時期は緑が深くて、沢はあまり見えません。
    徐々に上り坂になり、大きくカーブを描いて沢と離れていくと、景信山東尾根の登山口。
    そこを通り過ぎ、舗装が途切れると、ヤゴ沢が見えてきます。
    そこがヤゴ沢コースの登山口です。

    2019年の台風で、ヤゴ沢から景信山への道は崩壊し、通行禁止となりました。
    直後にそこを歩いた人の記事をネットで読んだことがありますが、木橋が流出し、踏み跡も消え、ルートファインディングのできる人でないと歩けない状態になってしまったようです。
    あれから3年半。
    いまだに進入禁止となっていますが、歩いている人の記事も見かけます。
    私も行けるかな?
    進入禁止のところに入っていく場合、すべてが自己責任です。
    あそこは谷底なので、携帯電話の電波が届かない可能性もあります。
    用心して行こう。

    さて、バスを降りた人の多くは、東尾根登山口から景信山に登るようですが、直進して、小仏峠に行くコースもあります。
    だから、ヤゴ沢付近も人通りはゼロではありませんでした。
    警察官が取り締まっているわけではないけれど、私みたいなのが入って行こうとすると、通りすがりのおじさんに注意される可能性があります。

    山の危険を何にもわかっていないおばさんが、独りでひょこひょこ登山道ではない道に入っていこうとしている。
    「進入禁止」の札も立っているのに。
    これは、注意してやろう。

    そういう人の気持ちもわかります。
    朝から面倒なことに巻き込まれたくないので、周囲をうかがって、人がいない隙にするっと右折し、ヤゴ沢コースに入りました。
    たったか足を速め、登山口から見えないところまできて、ほっとひと息。9:15。

    まずは沢の右岸、上っていく立場としては、沢の左側を歩きます。
    道幅は十分で、よく踏まれている良い道でした。
    流失したという木橋も、太い丸太のものに作り替えられ、セメントで補強もされていました。
    木橋を渡って、沢の左岸へ。
    道は路肩が少し崩れかけているところもありました。

    明瞭な踏み跡に導かれるまま、沢から離れ、上り坂が始まりました。
    いまだに倒木は整理されず、荒れた様子が続きます。
    丸木橋を整備作業中のため進入禁止といった内容の看板が立っている付近で、踏み跡は大きく2つに分かれました。
    これも、事前にネットで読んでいたので、ああ、ここが分かれ道かとわかりました。
    右に曲がってしまうと、山肌をずっとまいていく細い道が続き、その先は、景信山東尾根登山道に合流するらしいです。
    ヤゴ沢コースは、左です。
    台風の前に2~3度歩いているので、地形の印象からも、これは左だなとわかる道でした。
    あとは、谷底の道を尾根へと上っていくだけです。
    沢筋の道なので、シダ類が青々と繁茂しています。
    濡れた道。
    湿った冷たい空気。
    夏の山歩きは、こういう道がいいですね。

    水場。9:35。
    昔は、大きな丸太がベンチ代わりにありましたが、そんなものはどこかに流されてしまったようです。
    水場のパイプと、水を飲む人のためのコップは変わらず。
    でも、これも、一度完全に流失したものを、掘り起こして復元してくれたものなのかもしれません。
    上の画像の右下が水場のパイプです。

    道は徐々に傾斜が急になり、やがて、山肌をジグザグに上っていくようになりました。
    見上げると、林の向こうに空が透けて見えるので、あそこまで登ればよいのだとわかります。
    上から、二人連れが下りてきました。
    ここで出会ったのは、この人たちだけでした。

    ジグザグ道を上りきり、景信山直下の四つ辻に到着。
    高尾山から歩いてくると、ここから景信山への最後の急登が始まる、というところです。
    ヤゴ沢コースからの道と、景信山をまく道と、4本の道が交差する、四つ辻です。

    こちらのほうは、進入禁止の立て札はありませんでした。
    登るのはダメでも、降りるのは特に禁止されていない。
    登山口から、別れ道の看板の立っているところまでが進入禁止なのでしょうか。
    もう木橋の修復は終わっているように思います。
    崩れかけている路肩の修復をこれからやる予定があるのかな?
    平日に歩くと、作業している方の邪魔になるのかもしれません。

    ヤゴ沢コースはもともと正規の登山道ではないので、道しるべはありません。
    土地勘があるか地形が読める人でないと、道に迷う可能性はあると思います。
    そういう意味で、責任はとれない。
    あんなところで遭難したら、誰も探しに来ない。
    行くときは、家族・知人に行先を「ヤゴ沢から景信山」としっかり告げて行くことをお勧めします。
    そして、万が一遭難し、救助隊のお世話になることになったら、そりゃあ物凄く怒られると思います。
    当然だな。

    景信山への急登は、団体さんが登っていて渋滞気味でした。
    疲れていたので、ちょうどいいスピードでのんびり登っていくことができました。
    山頂。10:15。
    まずは下の小屋のベンチから、富士山が見えました。
    高曇りの空の下、思いがけずくっきりとした富士山でした。

    上の小屋へ。
    三角点かげ信小屋は、今、『鬼滅の刃』を激推し中です。
    「聖地巡礼」記念のグッズも売っていますし、スタンプもあります。
    霞柱の出身地が景信山だそうです。
    春恒例の京王のスタンプラリーのスタンプ台も出されていました。


    北側の見晴らしの良いベンチに座って、早めのお昼にしました。
    今回もカレーヌードルです。
    夏の山歩きは、正直、カレーヌードルしか喉を通りません。

    さて、出発。10:40。
    明王峠に向かいます。
    奥高尾縦走路は、人通りが多いので、マスクを着用しました。
    前を行くのは、20人ほどの若い男女。
    何だろう?
    合同ハイキング?
    そんな風習、私が学生の頃にもうほぼ消えかけていたけれど?

    いつも逆方向を歩いているので、あまり感じなかったけれど、景信山から明王峠に向かうと、案外上り坂が多いです。
    気温が高いので、マスクをしていると、上りが苦痛でした。
    まき道、まき道と選んで、ようやく明王峠。12:00。
    お昼どきなので、ベンチは満員でした。

    少し下って、木段が広くなっている場所に座って、休憩。
    ここなら、やってくる人の邪魔にならないでしょう。
    凍らせてきたゼリー飲料を飲んで、ほっとひと息。
    まだ登ってくる人たちもいました。
    最後の木段の上りが大変なんですよね、この道は。

    さて、下山。
    与瀬神社までは3㎞、100分。
    でも、そんな時間では下れないのです。
    いや、私が下りが下手だからかなあ。
    一所懸命歩かないと、そんな時間では下山できないのです。

    まずは木段が延々と続き、そこから石がごろごろしている道へ。
    一度林道を横切って、そこからは平たんな道も多くなります。
    下っていくと、大平の茶店跡。12:45。
    もう上ってくる人もほとんどいないようなので、マスクを外しました。
    ベンチに座って、また休憩。

    この道は、もう少し前ならばイチゴの白い花が咲き乱れ、夏の終わりになれば、ツリフネソウが咲き乱れる、花の道。
    今は、フタリシズカがひっそりと咲いていました。
    ヘビイチゴの赤い実もときどき。

    歩きやすい道をどんどん行くと、2019年に登山道が崩落した箇所に。
    前に来たときからまた崩落したのか、さらに道が細くなったような気がします。
    気のせいかな?
    前にはなかった補助ロープが張られてありました。

    どんどん降りていくと、急な段差が増えてきます。
    でも、秋に来たときに壊れかけて歩きにくくなっていた木段は整備されていました。
    ありがたい。
    そして、相模湖を見下ろせるベンチに。
    ここでまた休憩。
    この先、九十九折の歩きにくい道になるので、ひと息いれて、気持ちを整えました。
    この前歩いたときは晩秋で、落ち葉が積もって滑りそうで本当に嫌だったのです。
    でも、今の時期は土がよく見えているので、思ったほどの歩きにくさはなく、助かりました。
    道が広くなり、短い木のハシゴを降りると、あともう1回、右に曲がって左に曲がれば、与瀬神社。

    与瀬神社。13:50。
    トレッキングポールやクマ鈴を片付け、マスクをつけて、さて、駅へ向かいます。
    与瀬神社の石段を下るのはちょっと怖いので、まき道を選びました。
    そこから、高速道路の上にかけられた歩道橋の階段をさらに下っていき、舗装道路へ。
    左折し、線路沿いの道をどんどん歩きます。
    相模湖駅。14:07。
    見ると、高尾行は、14:08発。
    ただし、遅延。
    わあ、助かりました。
    階段を上って向こう側がホームなので、定刻だったら間に合いません。
    ホームについて、6両編成の6両目の位置についたところで、遅延電車が到着。
    この時間だと、座ってのんびり帰ることができました。
    周囲の乗客は、山帰りだけど、ザックが大きい。
    奥秩父や八ヶ岳の山に一泊で行ってきた人たちでしょうか。

    高尾駅では、ホームの向かい側に東京行き快速が遅延電車を待っていてくれて、待ち時間0分で出発。
    ロスタイムがなさ過ぎて、汗がひかず、こんな状態で電車に乗っていて申し訳ない。
    身を縮めて乗っている間に、電車は三鷹に到着しました。

      


  • Posted by セギ at 16:39Comments(0)

    2023年05月27日

    英語の成績の上がりやすい子、上がりにくい子。


    都立小金井公園のヒナゲシ。
    今年もきれいに咲いていました。

    さて、今回は、英語の成績の上がりやすい子は、どういう子かという話。
    それはもう指示したことをその通りに実行してくれる子が一番成績が上がりやすいです。
    これをやりなさい、と私が言ったことをその通りにやる子です。

    しかし、これがなかなか難しいのが現実です。
    本人の判断で、助言されたことを実行しない子もいます。
    反抗しようと思っているわけではなく、指示通りにやろうとしても、できない子もいます。

    英語で多いのが、授業を受けるのに、学校の教科書を持ってこない子です。
    単純に忘れてしまうようです。
    学校に置きっぱなしなのでしょう。
    今は、公立中学ではむしろ「置き勉」を推奨する動きもあります。
    しかし、それは、普段は家庭では使わないだろう重い紙の辞書や社会や理科の教科書、資料集などの話だと思うのです。
    英語の教科書なんて薄いし、家庭学習に必要なのに、学校に置きっぱなし。
    高校生にもいます。

    塾の英語の授業では、高校の英語コミュニケーションの教科書本文を1文ずつ読んで訳してもらっています。
    今どき古くさいやり方のようですが、結局、英文を英文のままざっくり読んで、学校の先生から全訳プリントをもらって意味を理解しているだけの子の中には、実は自力では全く英文を読めない子たちがいます。
    そうした子たちの指導には、やはり1文ずつ丁寧に読んで訳す過程が必要です。
    昔のように、日本語の順番に直すことはしません。
    英文の意味のまとまりごとに、日本語に直していくだけです。
    直訳で構いません。
    英文の意味を本当に理解しているかどうかの確認をしているのです。
    そして、訳してもらった後は、重要文にアンダーラインを引いた全訳プリントを渡しています。
    重要文とは、文法重要事項が含まれている文と、重要表現を含む文です。
    その暗唱が宿題です。
    暗唱といっても、お経のような丸暗記ではなく、全訳を見ながら、意味のまとまりごとに復元していく練習です。
    英文の構造把握の練習でもあります。
    これをやっておけば、空所補充問題も乱文整序問題も、和文英訳問題も大丈夫。
    一度自力で訳した英文は内容の理解も深まり、内容に関する問題の精度も上がります。
    基本的に、この繰り返しで、英語コミュニケーションの教科書範囲の問題は確実に得点が上がっていきます。

    ところが、この授業の流れをなし崩しに破壊していく生徒もいます。
    教科書を忘れてくるんです。
    例えば、
    「プリントなら持っています」
    という子。
    高校の英語の先生も、今は本当に親切なので、教科書本文を行間をかなり空けて印刷しているプリントを配ってくれることが多いです。
    そこに、生徒は、和訳や重要文法事項を書き込めばいいようになっています。
    それは、教科書にカタカナで読み方を書き込んだり意味を書き込んだりするのを止める意味があると思います。
    教科書にそんなものを書き込んだら、その助けを常に借りて英文を読むことになります。
    結果として、そうした補助のない定期テストでは、まるで初めて読む英文のように意味がわからない・・・ということになります。
    教科書は、常にまっさらに。
    それを読んで意味がわかるようにしておく。
    英語学習の基本です。

    「プリントなら持っています」
    という子。
    そのプリントには、当然、文法上の注意事項や全訳が書き込まれていました。
    「・・・私はこれからあなたに、いつものように、教科書本文を読んで訳してもらおうと思うのですが、あなたは、それを、訳が全部書き込んであるそのプリントでやるのですか?」
    「・・・」
    「その時間に何の意味があるんですか?」
    「・・・」
    「意味のある学習をしましょうよ」
    「・・・」

    それは、教科書を単純に忘れただけなのか。
    それとも、本当に、そのプリントで大丈夫だと思い込んで、故意に教科書を持ってこなかったのか。
    後者の可能性もあるところが、子どもの判断力の怖いところです。


    また別のとき。
    その子は、やはり教科書を持ってこなかったのですが、
    「スマホに全文入っていますから、大丈夫です」
    と言いました。
    スマホで、教科書本文を撮影したのでしょうか?
    なぜ、わざわざそんなことを・・・?
    意味はわからないですが、それで学習できないわけではないですから様子を見ていますと、なかなか画面が出てこないのでした。
    「・・・どうしました?」
    「何か、画面にぐるぐる回る円が出てきて、それから白いままで・・・」
    「・・・あなたのスマホで撮影した画像ではないのですか?」
    「サイトからダウンロードするんです」
    「・・・」
    どこのサイト?
    教科書会社のサイト?
    学校のサイト?
    今の高校生は、学習する際に、デジタル面で色々な特典を享受していますが、そのすべてが常に万全に機能するとは限りません。
    ついに、その時間内に、サイトにアクセスすることができませんでした。
    デジタルなんて、そんなものです。
    便利なようで、いざというときに使えないことも覚悟しておかなければならないのがデジタルです。

    紙の教科書を毎回持ってきなさいよー。
    なぜ、そんな簡単なことが実行できないのー?
    そうやって、1週また1週と学習が遅れているのに、定期テストのときだけ、
    「何で塾に通っているのに、成績が上がらないんだろう?」
    と変な顔をされても困るんですよ。
    障壁は、あなたなのよー。
    私は、あなたの成績を上げたいのだよー。


    英語の「論理・表現」も、学校のテキストを持ってこない子がいます。
    もしも、私が、学校のテキストで文法を解説し、学校のテキストの練習問題を授業中に解くのならば、嬉々として持ってくるのだと思いますが、そういうことは、自分でやるように話しています。
    それを面倒見ていると、むしろ、成績が下がっていく可能性のほうが高いのです。

    昔、大手の個別指導塾で働いていた頃は、そういうことを生徒に要望されることが多く、対応に苦慮しました。
    数学でも英語でも、学校から配布されるテキストや問題集だけをやりたがるのです。

    それすら自力ではできない子の場合はまた話が違ってきますが、普通の理解力のある子ならば、学校のテキストや問題集は自分で解けます。
    塾では、同じ進度で別の問題を解くことで理解を深め、演習量を増やすのが学習上の効果が高いです。
    しかし、個別指導塾に中学生・高校生が期待することは、学校の問題集や宿題を一緒に解いてほしい、わからないところを教えてほしい、ということだったりします。

    それをやっていると、多くの場合、だんだんと本人が考えなくなってしまうのです。
    ちょっと解けないと、すぐ諦める。
    私が解くのを待っている。
    私の解説を聞いて理解できれば、それでOKだと思ってしまう。
    「解説を聞いて理解できる」ことと「自力で類題が解ける」こととは、次元の違うこと。
    そういうことがわかっているのか、いないのか。
    わかっていても、楽なほうに流れてしまうのかもしれません。

    塾に通うということは、学習量が増えるということでなければおかしいです。
    市販では手に入らない良い教材で、多くの演習ができるということ。
    わからないことを解決するのはもちろん重要なのですが、「わかった」だけではダメなのです。
    「わかった」ことを「自力で解ける」に変えていくには多くの演習が必要です。
    それを保証するのが塾という場です。
    ところが、学校のテキストで教えていると、学校のテキストすら自力で解かなくなる子が現れます。
    もちろん、それ以外の勉強なんかやりません。

    真面目で、人一倍成績のことを気にしている子が、そうなってしまうことがあります。
    学校のテキストをやりたいのは、学校の先生に優等生と見られたいから。
    学校推薦か総合型選抜で大学に行くつもりなので、学校の成績がとにかく大事。
    それはわかります。
    「では、学校の定期テストは、学校の問題集と全く同じ問題しか出題されないのですか?」
    と尋ねると、ぐっと答に詰まってしまう子もいます。
    そこまで定期テストの点数を気にしているのなら、受けた後のテストを正確に分析しましょう。
    学校の問題集と1字1句たがわぬそっくり問題しか出ないのならば、私も、学校の問題集で教えます。
    でも、類題が出題されるのであるなら、学校の問題集だけ解いていてもダメじゃないの?
    そのように説明すると、さすがにその損得は理解できるようで、学校のテキストの問題を塾で解くことは諦めてくれます。

    大手の個別指導塾で働いた頃は、この問題の解決がつかないことがありました。
    生徒本人と、講師と、保護者と、教務(塾の正社員)。
    この四者の思惑が絡まってしまうのです。
    私が生徒を説得しても、生徒が家に帰って保護者に何か違う伝え方をして、保護者から教務にクレームがくる可能性は常にありました。
    その場合に、教務が私をかばってくれることはありません。
    クレームがきたら、講師を変えるだけです。
    それが特に間違っているとも思えません。
    組織としては、そういう判断になるでしょう。
    そうなると、講師側は、保身のため、生徒の望む通りの授業をすることになります。
    波風立てないことが一番大切。
    成績は上がらなくても、生徒本人の希望通りの授業をしている限り、講師を変えるとか塾をやめるということにはならないから・・・。
    これは、構造的な問題で、誰が悪いということではないのです。
    大きな組織は、そうなってしまいます。
    生徒の成績を上げたいという目標は1つのはずなのですが。

    自分の学習のやり方では成績が伸びないから塾に来るのに、結局、自分のスタイルを通したい子は多いのです。
    大人の言うことにいちいち懐疑的になる年齢なので、単純に強要もできません。
    説得を繰り返していかなければならない中で、早めに了解して助言通りにやってくれる子は、成績が上がっていきます。

    一方、本人の望んでいることと私の要求することがなかなか一致しない場合、その間は成績は上がらないことが多いです。
    特に、本人が「わからないところを教えてもらいたい」という認識だけで個別指導塾に入ってくると、なかなか成績が上がらないことがあります。
    これは、一見優等生で真面目な印象の子に多いのです。


    さて、そんなわけで、論理・表現の学校のテキストを塾に持ってこない・・・。
    「動名詞の慣用表現は、学校のテキストには何が載っていますか?テキストを出して」
    「・・・持ってきていません」
    「・・・では、学校のテキストにどれが載っていたか、この塾のテキストで見て、思い出せるものはありますか?」
    「・・・」
    「慣用表現は、学校のテキストに小さい字でまとめて書いてあるので、あまり大事じゃないと思うでしょう?でも、テストに出るのは、それですよ」
    「・・・」

    英文法が苦手な子には、さまざまな理由があります。
    根本は、そもそも英文法の意義を認めていない。
    そんなものを学習しなくても、大丈夫だと誤解しています。
    そんなのじゃない英語の勉強をしたいと、本人は願っています。
    これも、結局、自分の考え、自分の学習スタイルを通したいことの現れでしょう。
    その認識を改めない限り、成績は上がりません。

    しかし、英文法の意義は認めていても、学習が下手な子もいます。
    英文法のテキストの各単元の冒頭は、中学の復習です。
    例えば、「動名詞」ならば、まずは、普通に動名詞を用いた例文が並んでいます。
    動名詞が主語の文。
    動名詞が目的語の文。
    動名詞が補語の文。
    そんなもの、生徒にとっては大差ありません。
    どうでもいい。
    全部中学の復習だ。
    これならわかる、と思うと、それでもう大丈夫だと誤解してしまう子がいます。
    希望的観測が優先されてしまうようです。

    しかし、高校で学習する動名詞は、その先の内容です。
    動名詞の意味上の主語。
    動名詞の否定形。
    動名詞の完了形。
    動名詞の受動態。
    さらに、慣用表現。
    こちらが高校で新出の内容で、定期テストに出るのは、当然そちらのほうなのですが、学習のポイントが理解できず、ズレてしまうのです。

    学校の英文法テキストは、左側が解説ページ、右側が練習問題ページの構成のものが普通です。
    右側の練習問題を解くことで、自分の理解のズレに気がついて修正できる子もいます。
    しかし、できない子もいるのです。
    自分が何で誤答しているのか、よくわからない。
    何を問われている問題なのか、把握していない。

    さて、定期テスト直前。
    「では、学校のテキストの問題を解き直しましょうか。テキストを開いて」
    と私が言うと、さすがに定期テスト直前は、学校のテキストを持ってきていますが、見ると、問題の答を全部テキストに直接書き込んでいる子がいます。
    「・・・テキストに答を直接書き込むなと、言いましたよね。解き直せなくなるから。ノートに解きなさいと言いましたよね?」
    「・・・」

    高校生になっても、「書き込み式ドリル」が大好きで、ノートに解くのはあまり好きではない・・・。
    その癖が強く、注意されたことも忘れ、つい書き込んでしまう・・・。
    気持ちはわかるのです。
    でも、そこを改めないと、成績は上がりません。

    やってはいけない、と言われていても直せない。
    その繰り返しです。

    このように、幾度か失敗を繰り返して、ようやく、生徒の成績は少しずつ上がっていきます。


      


  • Posted by セギ at 13:48Comments(0)英語

    2023年05月21日

    数学のケアレスミスは集中力と関係あります。


    今年も都立野川公園に桑の実がなりました。


    さて。
    本人なりに頑張っているのに、なぜ、成績が伸びないか。
    今回は、数学に限って、なぜなのかを考えてみたいと思います。

    テストでの大きな失点原因は、やはり、計算ミスやケアレスミスです。
    解ける問題も途中でミスをして、得点に結びつきません。
    テスト前半の単純な計算問題は、通常の感覚では得点源ですが、ここでの正答率が5割以下という子もいます。
    何でそんなにミスをするのか。
    ミスの多い子の様子を見ていますと、集中力不足に原因の1つがあると感じます。

    生徒が問題を解いている間、私も同じ問題を解いていることがあるのですが、そんなときに、
    「遠くで目覚ましの音がする」
    と、言い出す子がかつていました。
    えっと思って耳を澄ますと確かに聞こえてくるのですが、それは思考の邪魔になるような音量ではありませんでした。
    問題に集中していた間は、私には聞こえなかった音です。
    しかし、その子は、問題を解いていて、そんな音が聞こえたり気になったりするのでした。

    問題のことを考えながら別のことも考えているから、そんな音が聞こえてくるのではないか?
    2つ以上のことを同時に考えている。
    それが出来るのなら止めないですが、それでは精度が下がるのが現実です。
    私自身は、音楽をかけながら、ラジオを聴きながら、あるいはテレビをつけたままで、数学の問題を解くことがあります。
    とはいえ、実質、数学の問題を解いている間は何も聞いていないので、無意味です。
    一方、生徒に解いてもらう予定の英語長文の下調べをしているときなどは、音が邪魔になるので、消します。
    つまりは、英文を読むときの私の集中度は、数学のときほど高くない。
    英文を読みながらでも、ラジオの音が聴こえてしまい、邪魔だなと感じます。
    音が邪魔になる程度に気が散りやすいのだと思います。

    あくまで私自身の話ですが、数学の問題を解いているときは、何も聞こえないのです。
    他のことを考えることができません。
    他のことを考えながら数学の問題を解いたら、私はミスをしてしまうでしょう。
    いや、考えがまとまらず、まず解くことそのものに困難を感じます。

    ミスの多い生徒たちは、常にその状態で問題を解いているのかもしれません。
    他のことを常に同時に考えているので、深い思考に至らず、考えがまとまらず、数学の問題を自力で解くことができないのかもしれないのです。

    問題を解いている途中で、ふっと顔をあげて窓の外を見る子もいました。
    うちの塾の窓の外は、向いのマンションの外壁しか見えません。
    鳥や猫が横切るということもありません。
    それなのに、度々顔を上げ、外を見ます。
    「どうしたの?」
    「いや、暗くなったなあと思って」
    「・・・え?」
    その子も、やはり、問題の写し間違いや書き間違い、計算ミスの多い子でした。
    1つのことに集中できず、散漫なのだと思うのです。

    そういう子が、隙間時間に数学の宿題を解いていると言ったことがありました。
    学校の休み時間や、見ているテレビや動画の飛ばせないCMの間に、ちょろちょろっと解くというのです。
    それは2~3分の隙間時間の有効活用だと本人は考えているようでした。
    応用問題の解き方を自力で考えつくこともできるのに、単なる計算問題の宿題でほぼ全滅することがあるので不思議だったのですが、そんなことをしていたとは。

    短い時間にぐっと集中できる人が隙間時間を有効活用するためにそうするのなら良いのですが、注意力散漫な子がそんなことをやったらミスだらけになってしまいます。
    ミスの多い子は、集中できる静かな環境で、まとまった時間に数学を解いたほうがいいです。
    集中するとはどういうことか実感できるようになり、どこででも集中できるようになるまでは。


    テストのときになると終了時間を異様に気にするのもミスの多い子の特徴の1つです。
    時間までに問題を全部解けるかどうか気になって気になって、始終時計を見ているようです。
    そんなことでは深い思考はできません。
    時計を見る度にいちいち思考が途切れ、そのせいで余計にミスが増えているのではないでしょうか。
    そして、普段は「たくさん問題を解かされたら損だ」と思っているのではないかと疑ってしまうほど、のろのろと字を書いているのに、テストのときだけ速く解こうとするので、さらに焦りが生じます。
    普段は丁寧に途中式を書いているのに、テストのときだけ暗算しようとし、それで余計に時間がかかってしまう子もいます。

    時間を気にするのには、いろいろな要因があると思われますが、基本は自信のなさでしょう。
    学年が上がるにつれてどんどん数学の得点が低くなっているので、もう自信がない。
    普段から計算が遅かったり、ミスしてやり直すことが多いので、時間内に終わるかどうか気になる。

    対策としては、試験時間と同じ時間で普段の勉強もやるのが効果的です。
    定期テストが50分なら、家庭学習も50分単位で行う。
    50分勉強して、10分休憩。
    そうやって、「50分」という時間の長さを体感として自らに叩き込む。
    時計なんか見なくても、勉強していて大体何分くらい経っているか実感できるまで何年でもそれを続けます。

    私は子どもの頃からそうしていましたし、周囲の子もそういう子が大半でしたので、それが普通の勉強法だと思っていました。
    しかし、今の時代、1科目集中して50分勉強する子は一部の秀才に限られるようです。
    集団指導塾に勤めていた頃、テスト前の土日にはテスト対策として塾を開放していました。
    その監督として、テスト勉強する様子を見ていると、1科目10分ともたない子がたくさんいました。
    学校の数学のワークを解いているなあと思って見ていると、10分と経たずに英語のワークに変えています。
    別に数学のワークが終わったわけではないのです。
    飽きてしまった。
    あるいは、数学のワークを解いていると、英語のワークが終わっていないことが気になって、そっちを先にやることにした。
    そして、見ている間に、また科目を変えてしまいます。
    1つの科目を勉強していると、他の科目のことが気になって、集中できないのかもしれません。
    腰をすえて50分1科目を勉強する、ということができないようです。
    「いや、ゲームだったら、50分集中できる」
    と、へらず口は叩くんですけど。

    ゲームのように強い刺激が絶え間なくあるものならば、50分集中できる。
    勉強のように自ら集中していかなければならないものは、集中できない。
    やはり、集中力のなさを感じました。

    こうしたことの改善には、多くの努力と時間が必要となります。
    一朝一夕では、変わらないかもしれません。
    何より、本人が変わりたいと望み、変える方向で努力しないことには、なかなか変わっていけないのです。


      


  • Posted by セギ at 16:45Comments(0)算数・数学

    2023年05月15日

    数学。ノートが悪いために、答案を正確に書けないこともあります。


    都立神代植物公園水生植物園のアヤメと奥にキショウブ。

    さて、今日は数学の話です。
    例えば、こんな問題。
    数Ⅱ「式と証明」という単元の中の、分数式の計算の問題です。

    問題 次の計算をせよ。


     x+4   -    x-8
    x^2-4     x^2-8x+12


    数Ⅱの問題としては簡単なものです。
    数Ⅱ最後の憩い、と呼んでいいかもしれません。
    考え方も意味もよくわかる問題だと思います。
    ですが、こういう問題で誤答を繰り返してしまう子もいます。

    もっと易しい、中学1年生が学習する分数の文字式でも、分数の前に-の符号があると、毎回必ず間違えてしまう子は、います。
    あまりにも誤答が多いので、そういうことだろうかと推測しながら、その子のノートを見て、私は衝撃を受けました。
    以下のような答案になっていたのです。


     x+4      -   x-8
    (x+2)(x-2)     (x-2)(x-6)


    x-^2-2x-24-x^2-6x-16


     -8x-40
    (x+2)(x-2)(x-6)

    ・・・何だろう、これは・・・。
    こんなのは、数学の答案ではありません。
    計算メモです・・・。

    こういう答案を書く子を見るのは、しかし、初めてではありませんでした。
    高校の数Ⅱを学習するような段階に至っても、このような「計算メモ」を答案だと思っている子は、ときどきいます。
    私の知る限りでは、中高一貫校の、しかも、男子生徒ばかりでした。
    個別指導をしている私が知る限りで今までに、4人・・・。
    世間には、もっとたくさん存在するかもしれません。

    このような「計算メモ」の内容自体、大きな課題ですが、もう1つ気になったのは、これが、ミミズがのたくるように波打って書かれていることでした。
    そして、そのノートは、小学生向けの「学習帳」でした。
    1センチ四方の水色のマス目が描かれた学習帳で、高校数学を解いています。
    そして、そのマス目を無視して、数式が波打っているのでした。

    「小学生向けの学習帳を使っているのは、中学受験の勉強をしていたときにまとめ買いしたノートが、まだ余っているということですか?」
    「そうです」
    「それで、そのノートの広いマス目が使いにくいわけですか?」
    「そうです」
    「マス目の縦の線は確かに邪魔ですが、横だけを罫線として使用すれば、そんなに使いにくいことはないと思いますが・・・」
    「・・・」

    縦線は無視して横線だけを罫線として使用することが、頭の中で上手くできず、結果、横線も無視して、全体に波打ってぐちゃぐちゃになってしまうようでした。
    マス目のノートは、中学・高校の数学では、確かに使いにくいです。
    上手く使える子もいますが、その子は使えないのでした。
    でも、学習帳が家に余っている。
    さすがに学校では使えないけれど、塾のノートなんか何でもいいから、塾で使うことにしているのでしょう。

    思い返すと、中高生なのに学習帳を使っていた子は、記憶の中で何人かいて、いずれも中学受験をした子でした。
    学校では使えないから、家庭学習に使う。
    そういうことで、学習帳を個別指導塾に持ってくるのだと思います。
    それが、中2になっても中3になっても、高1になってもなくならない・・・。
    どれだけ大量買いをしたのだろう・・・。
    ノート大量買いは、中学受験のトレンドなのでしょうか・・・。

    余った学習帳の使用が、必ず学力に影響するというわけではありません。
    学習帳の縦線を無視して横線だけを罫線として使用できる子のほうが多いです。
    それで特に問題なく数学の答案を書いていけるのなら、中学進学後も家庭学習には学習帳を使って構わないと思います。
    しかし、縦線がどうしても脳に影響して、上手く答案を書けない子もいます。
    視覚的なことに少しだけ得意不得意のある子なのだと思います。

    思い返せば、その子は、三角錐の見取り図を描けない子でした。
    描き方がわからず、三角錐の見取り図を描くことができなかったのです。
    三角形は、底辺を水平に描くもの。
    そういう思い込みが強いため、三角錐の側面の三角形を上手く描くことができず、結果、歪んだ不気味な図しか描けませんでした。
    それは、練習することにより、克服できました。

    そうした、縦・横・斜めの直線の感覚に対して多少の偏りのある子に、中学入学後もマス目の学習帳を数学で使用させるのは、苦痛が大きいのかもしれません。
    常に、何かを我慢しながら数学の勉強をしていることになります。
    ストレスが強いです。
    そうでなくてもあまり得意ではない数学で、さらにストレスの強い学習を常に行っている。
    やめたほうがいいでしょう。

    数学の学習で推奨するのは、中学生の間は、やはり大学ノートです。
    分数の計算をすることも多いので、罫線の幅は広い「A」のほうがいいですが、分数のときには2本分使うことに決めているのなら、いっそ罫線の狭い「B」のノートでもいいでしょう。
    数式を横にまっすぐに書けるようになったら、白ノートもいいと思います。
    高校数学になると、式は分数だらけなので、横罫も邪魔になっていきます。
    数列のシグマ、積分のインテグラルや、極限のリミットを記入していくのに、横罫は基本的に邪魔です。
    ただし、横にまっすぐに書いていかないと、数式は波打ち、ミスの原因となります。
    また、字のサイズをコントロールできず、だんだん字が大きくなってしまう子もいます。
    粒の揃った字を横にまっすぐに書いていけること。
    数学の答案を書くための基本技術の1つです。

    ルーズリーフに憧れる中学生は多いですし、管理できるのならば別に止めませんが、通しナンバーを打っていくか、あるいは、紙が変わるごとに、何のテキストの何ページの何番を解いているのかを確実に書いていけるようでないと、あとでグチャグチャになります。
    ルーズリーフに宿題を解いてきた子が、答え合わせをしようとすると、どこに解いたのかわからず、ルーズリーフの整理に何分もかかる、というのはよくある話です。
    大人ならば当たり前にできることでも、中学生・高校生にはまだ無理なことが沢山あります。
    身体的には成長し、家庭内のルーティンばかりの生活の中では言動がしっかりしているように見えるので、家族は「この子はもう大人だ」と誤解しがちですが、事務的なことはほとんどできない子も多いのです。
    それも経験、ということでやらせているのなら構わないのですが。


    しかし、上の答案は、そうした「ノートが悪い」というだけではない課題も感じるものでした。
    もう一度、見てみましょう。


     x+4      -   x-8
    (x+2)(x-2)     (x-2)(x-6)


    x-^2-2x-24-x^2-6x-16

     -8x-40
    (x+2)(x-2)(x-6)

    まず、与式の分母を因数分解することは理解しているのです。
    この分数式は、そのまま互いの分母をかけて通分するのでは、次数が高くなり、計算が煩雑になります。
    因数分解することにより、共通因数を見つければ、次数はできるだけ低くして通分することが可能です。
    そうして、1番目の分数式の分母は(x+2)(x-2)、2番目の分数式の分母は、(x-2)(x-6)と因数分解した。
    そこまではわかります。
    与式を書き写していないこと、イコールをつけていないことは気になりますが・・・。

    問題は、次の行です。
    これは、何をしているのでしょう?
    ここで計算ミスをしているので、何をしているのか他人にはよくわからないですし、本人に解説を求めても、こういう答案を書く子は、自分で書いた答案を後になって自分で説明することもほぼできないのですが、おそらく、これは、分子だけを書いているのだと想像されます。
    そして、通分した結果の分子を、しかも( )をつけた形ではなく、展開しながら書いているのだと思います。
    そんなことをすれば、計算ミスをする可能性は極めて高いのですが。

    分母を(x+2)(x-2)(x-6)という形に通分したのであれば、1番目の分数式の分子には、(x-6)を、2番目の分数式の分子には、(x+2)をかけることになります。
    同じ分母を何回も書くのはうんざりだというのであれば、
    ここで、(分子)=・・・
    という書き方も可能です。
    すなわち、
    ここで、(分子)=(x+4)(x-6)-(x-8)(x+2)
    =x^2-2x-24-x^2+6x+16
    =4x-8
    =4(x-2)

    と、最低限これくらいのことは書いたほうが自分も見やすく、さっさと書いていけば頭の中でうんうんうなりながら暗算するよりもむしろ速いのです。

    よって、
    (与式)=4(x-2) /  (x+2)(x-2)(x-6)
    =4 / (x+2)(x-6)

    という正解に至るまで、3分とかからないはずですが、暗算する子は、下手をすると10分くらいかかりますし、そのうえで、計算ミスをしてしまう可能性が高いです。
    書いたほうが速いのです。

    ところが、この「書いたほうが速い」を実感できない子は多いです。
    本人の実感とは違うので、どれだけ助言されても、受け入れない。
    心の奥に深く染み入って、その助言に従おうということには、ならない。
    次のときは、また暗算してしまいます。
    反抗心でやっているのではなく、単純に、忘れてしまうようです。

    繰り返しますが、上のような答案を書いてしまう子は、私の知る限り、中高一貫校の男子生徒ばかりでした。
    公立中学出身の生徒で、そういう子を見たことはありません。
    勿論、私の知る範囲のことなので、存在するのかもしれません。
    低学力で、しかもそれが貧困や教育放棄に由来するものである場合は、塾に通うこともなく、だから私が見ることもない、ということはあり得ることです。
    しかし、少なくとも大人の言っていることが理解できる子で、高校入試を多少は意識している公立中学の生徒の場合は、中学の数学の先生が教えることには絶対服従の子が今は多いのです。
    過剰なほどに。
    「先生に目をつけられたら、内申が低くなり、高校入試に影響する」
    と過度に恐れているのです。
    学校の先生が、
    「このように答案は書いていきなさい。このように書いていない答案は0点です」
    と授業中に一言言うだけで、成績を多少は意識している子たちは、全員、途中式を丁寧に書いていくようになります。

    公立中学のそういうところが嫌で、中高一貫校を受けた。
    そのように言う保護者の方は多いでしょう。
    中学の3年間、内申だけを気にして、学校の先生にこびへつらっていかなければならないような生活はさせたくない。
    だから、中高一貫校を受けたのだ。

    それも1つの考えだと思いますが、内申を恐れての絶対服従が、逆に、正しい数学の答案を書いていくことにつながっているのだとすれば、皮肉な話です。
    中堅私立の中高一貫校に通う生徒が、のびのびと、
    「うちの数学の先生、おかしいんですよ。答案はこう書けとか、いちいちうるさくて」
    などと、陽気に不満を言うので、何ごとかと思えば、それは、ごく普通に数学答案として要求されていることだというのはよくある話です。
    「数学の答案として、それは普通のことですよ」
    と私が説明しても、えー、とさらに不満顔だったりします。
    私立の子は確かにのびのびしています。
    のびのびと、頓珍漢な「答案」を書き続けてしまうことがあるのです。
    基礎を学んでいる段階では、正しい形式、スポーツでいうフォームを学ぶことが大切であるのに、その段階で自我が優先され、型を学び損ねてしまうことがあります。

    不満はあっても、学校の先生の指示通りの答案を書いていける子は、数学のできる子です。
    高校数学に進めば、そのような答案を作成していかなければならない理由も徐々に理解していきます。
    自分の書いた省略だらけの答案が、1週間も経てば、自分でもどうやって解いたのか、意味がわからない。
    それでは、採点する先生に意味が通じるわけがない・・・。
    意味の通じない答案では部分点すらもらえないのは、当たり前です。

    しかし、要求されていることの意味がよくわからず、一方、内申に対するプレッシャーもないので、のびのびと暗算ミスばかりの計算メモを答案のつもりで書き続けていく子もいます。
    この子は、公立中学に通えば、少なくともこうはならなかったろうなあと思うことがあります。


    なぜ男子生徒ばかりで女子生徒でこうした子に出会うことがないのか?

    それも、たまたまなのかもしれませんが、文字を書いていくことについて、女子は男子ほどには抵抗感がないのが1つの原因かもしれません。
    暗算するより、丁寧に書いていきたい。
    そのような志向の子が女子には多いように思うのです。
    今は、女子も字の汚い子が多いですが、それでも、書くことそのものが嫌いという子は、男子ほどは多くないように思います。

    男子生徒の中には、「暗算するより書いたほうが速い」が通じない子がいるのです。
    文字を書くことに、余程の抵抗があるのでしょうか。
    不器用で、字を書くことそのものが上手くできないし、苦手だ。
    上のように、学習帳に縦線が入っているだけで混乱して、横線と平行に文字を書いていくことにも困難があるようですと、文字を書くことにはさらに苦痛があるかもしれません。
    できるだけ、書く文字数は少なくしたい。
    そのために暗算している。
    自分の暗算力を過信しているわけではなく、文字を書くのがただ嫌なだけということもあるのかと思います。

    手書き入力した文字が画面上でたちまちきれいな数式に変わるデバイスを、生徒全員が持つような時代になれば、また状況は変わるのでしょうか?
    しかし、タブレット画面は画角に限界があり、数学答案の始まりから終わりまでを俯瞰するのが難しいので、数学答案は手書きのほうが利点が多いように思います。
    やはり、手で文字を書いていくことに苦痛のないように育つことが、学力を高める1つの条件のように思うのです。


      


  • Posted by セギ at 16:08Comments(0)算数・数学

    2023年05月10日

    日本語でわからないものは英語でもわからない。


    今年はニオイバンマツリの花が咲くのも早かったですね。

    さて、本日は英語長文読解の話です。
    そもそも単語力・文法力が足りず、ぼんやりとしか英文を理解できないのに加えて、内容的に理解できないとなると、正答できる可能性はきわめて低くなります。

    例えば、労働と余暇、あるいはライフワークバランスに関する長文問題。
    高校生にはピンとこない内容なのですが、ピンとこないからわからなくても平気、というわけにはいきません。
    入試問題ですから。

    その長文問題での、筆者の主張は、
    「過度にきつい労働ではない限り、何もすることがないことに比べれば、労働は喜びなのである」
    というものでした。
    さて、その中の英文と、それに関する問題。

    Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.

    問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
    ア. Most people are very careful in choosing.
    イ. The number of choices is limited.
    ウ. Few people want to act on their own initiative.
    エ. Quite a few people want to act on their own initiative.


    大学受験に向けて、多少は本腰を入れて英語の受験勉強を始めてはいるけれど、これまで英語の勉強がいい加減だったことは否定しようがなく、また、おそらく、国語もかなり苦手であるだろう生徒と、この問題を解いたときのこと。
    本文の下線部の意味を取ることができず、その理由を選ぶことなど不可能であり、4択は勘で選ぶしかない状態でした。

    「Moreover の意味は?」
    「さらに」
    「うん、いいねえ」
    ある程度の勉強は、しているのです。
    「じゃあ、exercise の意味は?」
    「運動」
    「うーん、そういう意味もあるけれど、他には?」
    「・・・」
    「では、choice の意味は?」
    「選ぶ!」
    「うんうん。でも、選ぶは choose 。choice は名詞形です」
    「・・・選ぶこと?」
    「そうね。では、the exercise of choice の意味は?」
    「運動を選ぶ!」
    「・・・どういうこと?」

    of は前置詞で、前置詞というのは前置詞というくらいですから、その意味のまとまりの先頭にきています。
    of choice で「選択の」という意味のまとまりになります。
    the exercise of choice で、直訳すれば「選択の練習」という意味になります。
    ここでは、「選択の実践」といった程度の意味でしょう。

    「では、次の in itself は?これは、再帰代名詞を学習したときにやりましたね。重要表現です。熟語として覚えておくよう言いました。何でしょう?」
    「・・・」
    文法を学習する際、高校生にありがちなことですが、中学で学習済みの基本が理解できていればそれでいいような気になって、高校レベルの学習内容は頭を素通りしていく子は多いです。
    中学で学習したことすら忘れているとその先に何も積み上げられないので、文法テキストの各単元の冒頭は中学の復習ですが、それが学習のメインではありません。
    高校で新しく学習する、細かいところが重要です。
    さらに、その文法事項にからむ慣用表現も、覚えるべき重要ポイントです。
    学校の定期テストに必ず出題されるだけでなく、入試問題でも予期せぬところにすっと出てきます。

    「 in itself は、それ自体、という意味です」
    「・・・」
    「では、最後の tiresome の意味は?」
    「・・・」

    この単語は、単独で意味を覚えている高校生は少ないと思います。
    文脈がわかっていて、あとは単語を構成する一部分の意味がわかるので、そこから推測して意味を把握すれば何とかなる、という種類の単語です。
    実際に長文を読むときは、どれだけ単語を覚えても、長文中に知らない単語が出てくるのは仕方のないことです。
    その意味を推測する力があると有利です。
    「では、最後の単語を音読してみて」
    直前に私が一度音読しているのですが、そういうのはちゃんと聞いていない子がほとんどです。
    「・・・ティレソー?」
    「・・・前半の4文字だけ、読んでみて」
    「ティレ・・・」
    「タイヤー」
    「・・・!」
    「tire 。何か聞いたことのある単語じゃないかな?最後に d のついている形のことが多いかな?」
    「・・・わからない」
    「tired。 I'm tired. は、どんな意味?」
    「私は疲れています」
    「そうそう。その tire 。疲れさせるという意味です。疲れるーって、日本語でも言うでしょう?本当に体が疲労しているのではないときでも、疲れるなあって。どんなとき?」
    「疲れているとき」
    「いや・・・」

    早口で言っているわけではないのだけれど、音声言語の咀嚼に時間のかかる子もいます。
    口で説明しても、あまり伝わらないことがあります。

    「うんざりする、わずらわしい、というときに、『疲れる』ということが、日本語でもあります。英語もまあ、そんな感じです。わからない単語も、そのように、一部分を把握することで、大体の意味を推測することができることがあります」
    「・・・」

    しかし、それは、部分を正確に見分ける力が必要です。
    tiresome をティレソムと読んでいるのでは、その単語の構成要素を把握できないのです。
    その子は、以前に uninteresting という単語を見たときも、「ユニンターレー」と読んでしまい、意味を取ることができませんでした。
    un-interesting であることを見抜けたら、簡単に意味のわかる単語なのですが。

    これは、1つの原因としては、音声としての英語を無視し、スペルを覚えるためにローマ字読みする習慣から来ているものと想像されます。
    スペルを覚えるには、ローマ字読みで覚えるほうが合理的だと、本人は考えているのです。
    それなりに学力があると世間は思っている中高一貫校の子の中にもそういう子がいます。
    ローマ字読みとはまた別に正しい読み方も覚えているのならそれもいいでしょうが、ローマ字読みは長く続けていると脳の奥まで浸食していくようで、その読み方しかできなくなっていくようです。
    正しく読むことに本人があまり意味を感じていないならば、特に。
    音声英語に興味がないようなのです。
    音声英語にしか興味がない、浮わついたタイプの子も心配ですが、この現代に、音声英語を無視するというのも課題が大きいです。
    リスニングやスピーキングができなくても、大丈夫だと思っているの?
    君は、昭和からやってきたの?

    もう1つの原因は、そもそも、識字能力に課題があるかもしれないということ。
    音読してもらうとわかるのですが、似ている別の単語として識字し、音読してしまうことが多い子がいます。
    あるいは、動詞や名詞の s,es 形、特に、y を i に変えて es をつけている形は、その単語の原形を把握できません。
    また、もう外来語として日本語に定着している単語も、正しく読むことができないので、意味を取れません。

    英語の音読は、そういう弱点を補強することができる練習です。
    英語学習に、必ず音読練習を組み入れてください。

    さて、問題に戻ります。

    Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome.
    は、「さらに、選択することは、それ自体わずらわしい」という意味だとわかりました。
    しかし、これだけでは抽象的で、どういうことなのかピンとこないです。
    そういうとき、次の文を読めば、どういうことなのかわかるかもしれません。
    それが文章の「呼吸」、すなわち文脈です。
    基本的に、1つの段落には、1つの内容しか書かれていません。
    1つの文が抽象的でわからなければ、前後の文がヒントになります。
    もっとわかりやすく言い換えてくれていたり、具体例を挙げてくれていたりします。

    Except to people with unusual initiative it is positively agreeable to be told what to do at each hour of the day, provided the orders are not too unpleasant.
    「普通でない主導権を持っている人々を除けば、積極的に心地よいものだ。1日のそれぞれの時間に何をすれば良いかを言われるのは。その命令が、あまりにも好ましくないものでなければ」

    直訳しました。
    でも、この直訳で意味は理解できると思います。
    よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいか命令されている状態は快適だというのですね。
    それで、「選択することは、それ自体がわずらわしい」の意味も、明瞭になりました。

    問 下線部 Moreover, the exercise of choice is in itself tiresome. のように言える理由として、次のどれがもっとも適切か。
    ア. Most people are very careful in choosing.
    「ほとんどの人々は、選択するときにとても注意深い」
    イ. The number of choices is limited.
    「選択の数は限られている」
    ウ. Few people want to act on their own initiative.
    「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
    エ. Quite a few people want to act on their own initiative.
    「かなり多くの人々が、自分の主導で行動したがる」

    この4択は比較的親切です。
    本文と同じような表現は、どの選択肢も同じくらいの量です。
    とにかく本文と同じ表現の分量の多い選択肢を選んでしまう人をだますようなひっかけの選択肢はありません。
    ただ、逆に言えば、どの選択肢もかなり本文を言い換えているので、本文の内容を理解できないことには、どれも選べません。
    でも、ウとエが非常に似ていますね。
    裏をかかれることもありますが、これは、ウかエが正解なのではないでしょうか。

    「選択することは、それ自体がわずらわしい」
    それは、なぜか?
    「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だから」
    つまり、正解は、ウです。

    ここで、ウとエとの違いがわからない、という問題が生じます。
    few と quite a few の違いがわからない・・・。
    これは、文法問題です。
    few は、名詞の前に置き、その名詞がほとんどないことを示す、準否定表現です。
    一方、quite a few は、「かなり多くの」という意味です。
    え?few なのに?
    そうです。
    a few というのは、少数ながら存在する、という意味合いになります。
    肯定的なのです。
    それに quite がついています。これは強めている表現。
    その結果、「かなり多くの人が」という意味になります。
    これは、「否定」を学習したときに、まとめて理解しておくべき内容。
    こういう些末なところを些末だからと忘れてしまうから、問題が解けなくなる、という一例です。


    結局文法問題だったねー。
    とニコニコしている私に、その生徒は首をひねったままでした。
    「どうしました?わからない?」
    「・・・」
    わかるのか、わからないのか、意思表示もなく、ただ黙り込んでしまうのは、わからないからでしょう。
    「何がわからないですか?」
    「・・・」
    何がわからないかを説明してくれず、黙って考えこんでしまう子でした。
    カタコトでも何か言ってくれれば解説できるのですが、独りで考え込んでしまうのです。
    何がわからないかを説明するのもその子にとってはかなり難しいことなのだろうと思います。
    つまりは、言語表現に課題が多い。
    自分の考えを日本語にすることにも時間がかかるのです。

    時間をかけて聴き取りをすると、その子は、英語的にわからないわけではなく、この文章が述べている内容がそもそも理解できなかったのでした。

    「選択することは、それ自体がわずらわしい」
    「よほど主体性のある人でない限り、いつ何をすればいいかを命令されている状態は快適だ」

    こういう考え方が、理解できなかったのでした。
    いつ何をすればいいかを命令されている状態。
    その日にやることがきまっていることの快適さ。
    高校生の実感としては、そんなのはわからないかもしれません。
    自分の好きなようにしていたいですものね。
    というか、何もしたくないですよね。
    1日、ごろごろと寝ころんで、スマホをいじっていたい。
    命令されるのには、飽き飽きですよね。

    でも、その子自身は、選択に時間がかかり、選択を常に要求されると苦痛を感じる子のはずなのです。
    「定期テスト前は、授業は休みにしますか。それとも、テスト対策をしますか」
    そのように2択を提示しても、瞬時に選ぶことはできないのでした。
    選べない。
    わからない。
    ぐっと言葉に詰まってしまうのです。

    その子に限りません。
    選ぶのは、大変なんです。
    エネルギーが必要です。
    どちらかよいのか、いちいち自分で判断しなければなりません。
    選択することは、それ自体がわずらわしい。
    誰かが決めてくれて、それに沿って行動しているほうが楽だ。
    それは、一面真理なのです。
    でも、そういうことが、わからない・・・。
    選ぶことができるほうがいいことだと、表面的に考えてしまうので、理解できない・・・。
    本人は選ぶことに苦労しているタイプであるにも関わらず。

    まして、やることが何もないことの苦痛など、理解できるはずもないのでした。

    この文章は、次の段落で、何もすることがないよりは、苦痛ではない労働をしているほうがずっと楽なのだという話に進んでいきます。
    仕事を引退した高齢者ならばすぐに理解できることでしょうが、高校生にはわかりにくいのでしょう。
    朝起きて、何もすることがない。
    何をするかを、自分で決めなければならない。
    必死で色々と選び、何とか時間を埋めている人も、世の中には存在するでしょう。

    自分とは関係がなくても、そのようなこともあるのだろうと想像する力がたりないので、文章の意味がわからないのです。
    日本語で書かれていてもわからないことを、英語で書かれているので、なおさらわからない・・・。
    英語の長文読解には、そうした課題もあります。

    英文は、その言葉で語られている字面を追うだけでは理解できません。
    語られていることの概念、考え方を理解できなければ、設問に答えることができない場合もあります。
    それには、日本語でも英語でも、多くの文章に触れることが必要になります。
    それが全く足りない子が、今は多いと感じます。
    自分の体験や感想だけで判断するので、自分とは真逆の意見を理解できないのです。
    まして、英語で書かれているので、自分の考えに沿うように誤読してしまうことも多いです。
    英語はわかったとしても、
    「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」
    という選択肢が正解だとはどうしても思えない。
    だから、選べない。

    「どちらにするか選びなさい、と言うと、あなたも随分迷って、上手く決められないことが多いように見えますよ。決めるのって、大変ですよね」
    そう呼びかけても、自分のことはよくわからない様子で、あまり共感してはいない表情のままでした。
    「これは筆者の意見ですから、あなたには正しいことに見えなくても、それは構わないのですよ」
    そう説明しても、なお首をひねっていました。
    文章というのは、自分が納得するような「正しい」ことしか書かれていないと誤解しているのかもしれません。
    英語を理解することと、英語で書かれている内容に納得することを混同し、混乱している様子でした。
    こういう読解力だと、共通テストで出題される「事実」と「意見」を分けて考えることも、何をどう分けるのか意味がわからない、という事態も起こります。

    知識が足りないから、混乱してしまうのです。
    知識とは、自分とは別の立場、別の考えもあるのだと、あらかじめインプットしておくことも含めて知識です。
    そして、自分自身は選択を迫られるとぐっと詰まって決められないと自覚しておくことも知識です。

    それでも、「自分自身の主導で行動したい人はほとんどいない」という表現には反発を感じる・・・。
    それもわかります。
    自分自身の主導で行動したい人はほとんどいないとは、何ごとですか。

    ですが、この英文の筆者は、こうも語っているのです。
    「知的に余暇を埋めることは、高度に文化的なことであるが、そのレベルに達している人は、まだほとんどいないのだ」と。
    知的に余暇を過ごせ。
    それが文化だ。
    何をしたいかは、自分で選択しろ。
    言われた通りに働いているほうが楽だとか、そんなところに安住するな。

    筆者の本音はそこにあり、その文章の主題はそこにあるのでした。
    そこを読むことが、本当に英文を読むということだと思うのです。
      


  • Posted by セギ at 15:16Comments(0)英語