2021年08月21日
国語の選択肢を読むことから、誰かのために生きることへ。
さて、今日は、国語の問題を読んでみたいと思います。
といっても、四択のみです。
選択肢だけ読んで問題に答えるというのは、邪道の極みで、うちの塾では行わない指導です。
国語という教科の目的は、文章を読む力を養うことです。
本文を読まず、選択肢だけ読んで正答するテクニックを教えていたら、その子は、一生文章が読めません。
愚直に本文を読み、正確に選択肢を選んでも、国語のテストは十分に時間が余ります。
愚かなテクニックに走ると、文章を読む力は養えず、大人になっても必要な情報を文字から得ることができず、また、文章を読む楽しみとは無縁な一生を送ることになります。
だから、今回の話は、そうした四択テクニックを伝授する話ではないのです。
ただ、いくら何でもその選択肢はないだろうという選択肢に、簡単に騙される子が案外多いのです。
それは選んだらダメだ、という選択肢は確実に存在します。
以下の選択肢を読んでみてください。
正答は、どれだと思いますか?
問5 この文章について述べたものとして最も適当なものは、つぎのうちではどれか。
ア、父の願いを知りつつ死んだ母を慕い続ける敬一の心情と、敬一への思いと今の妻への思いとの間で揺れる父の心情との交錯を、会話文を多用して描いている。
イ、母を亡くした敬一が父との対話によって心を開き、父の心情を理解して新しい母を受け入れようと決心するまでの心の変化を自然の情景描写と対応させながら描いている。
ウ、敬一、父、ハルさんの家族の三人のそれぞれの立場における複雑な心情のぶつかり合いを、会話のやり取りや短い文を重ねていくことで緊迫感を出しながら描いている。
エ、いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されてきたかを、回想場面を間にはさみながら、父の視点に立って描いている。
・・・いや、本文を読んでみないと、どれが正しい選択肢なのかわからないから、本文を見せてくれ。
そう感じる方は、きわめてまっとうな方です。
では、どの選択肢が好きですか?
正しいかどうかではなく、どの選択肢が好みですか?
どういうことが書いてある文章であってほしいですか?
実は、生徒の多くは、本文を読んだうえでも、そういう観点で選択肢を選んでしまうのです。
つまり、道徳的に正しい選択肢が正解だと思うようなのです。
「国語の正答はこういうものだろう」という誤解が本人の中にあるのかもしれません。
国語の時間は道徳の時間ではないですよと繰り返し説明しても、その忠告の本質が本人にはなかなか伝わっていきません。
そういう子は、「イ」を選びます。
本文の内容がどうであるかは関係ないのです。
父との対話で心を開くのが、道徳的に正しい態度。
父の心情を理解して新しい母を受け入れるのが正しい態度。
正しいことが書かれているから、正答は「イ」。
そう思うようなのです。
「イ」ではないよ、と言われると、そうした子は、次に何を選ぶか?
「エ」です。
「いつまでも新しい母に心を許さない敬一」。
敬一を非難しているようなこの描写が気にいる様子です。
新しい母に心を許さないなんて、そういう態度は良くない。
良くない態度は、非難するのが正しい。
だから、正答は「エ」。
そういう選択肢の選び方をしてしまうのです。
ここで、本文の内容をかいつまんで説明します。
主人公敬一は、新しい母を「お母さん」とは呼べずにいる少年です。
ある日、父親は、新しい母親の気持ちもわかってやれと言いつつも、病気で亡くなった母の生前の日記を敬一に見せてくれます。
一晩だけ持っていていいと言われ、敬一はその日記を書き写します。
自分への愛情がつづられたその日記を泣きながら書き写し、敬一は、自分の母はこの母だけだと強く思います。
これでおわかりだと思います。
正解は「ア」です。
しかし、そういった内容の本文を読んだうえで、「イ」を選ぶ生徒が案外多いのです。
さすがに驚きます。
え?
本文、読んだ?
文字を目で追うことはできても、内容を理解できていないのだろうか・・・?
国語が苦手な子、文章を読めない子には、さまざまな事情が考えられます。
文字を読むことに他人よりも困難を伴う子は存在しますし、それはそんなに特別なことではないと思います。
逆上がりができないとか、泳げないとか、自転車に乗れないとか、そのレベルのことである場合も多いと思うのです。
ずっとできないままかもしれないけれど、トレーニング次第でできるようになる場合もあります。
単語や文節の区切りを認識するのが難しい。
文字の順序を目がしばしば逆にとらえてしまい、そのために意味を読み取れず混乱する。
漢字の読みをあまり覚えていないので、文章が虫食い状態である。
文字そのものは読めるが、それが現実の事象と結びつかず、永久に文字という記号のままであり、意味を形成しない。
程度の差はあれ、そのような傾向がある子は、文字を読むのが基本的に苦痛です。
そうであるなら、選択肢を選ぶ基準がどうのこうのといっても仕方ありません。
まず、文字から正確な情報を得られるようにトレーニングをする必要が生じます。
・・・この子は、どのような状況なのだろう?
もしかしたら、目で文字を追っているだけで、内容は読み取れていないのではないか?
あらゆる可能性を考えながら模索を続けるのが国語の個別指導となりますが、上のような「イ」の選択肢を選んでしまう子の場合、文章は読めているが、それでも「イ」を選んでいる可能性も高いのです。
上に書いたように、とにかく「道徳的な選択肢が正答」という思い込みが強く、無意識にそれを基準にして選択肢を選んでしまうようなのです。
学校では良い子でいなければいけない。
先生に目をつけられてはいけない。
内申に響く。
今どきの子のなかには、必要以上にそう考える子もいるので、そうした影響なのだろうかと思うことがあります。
しかし、そういう子もいるでしょうが、それだけではないようです。
何より、本人が、道徳的なことが好きなのでしょう。
道徳的なことに感動しやすく、道徳的なエピソードが大好き。
別に悪いことでもないので、注意できないのが難しい・・・。
もう一度選択肢を読んでみましょう。
ア、父の願いを知りつつ死んだ母を慕い続ける敬一の心情と、敬一への思いと今の妻への思いとの間で揺れる父の心情との交錯を、会話文を多用して描いている。
イ、母を亡くした敬一が父との対話によって心を開き、父の心情を理解して新しい母を受け入れようと決心するまでの心の変化を自然の情景描写と対応させながら描いている。
ウ、敬一、父、ハルさんの家族の三人のそれぞれの立場における複雑な心情のぶつかり合いを、会話のやり取りや短い文を重ねていくことで緊迫感を出しながら描いている。
エ、いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されてきたかを、回想場面を間にはさみながら、父の視点に立って描いている。
本文を読めば簡単にわかることです。
むしろ本文を読んで判断したほうが時間がかからない。
しかし、もしも選択肢だけで判断するのだとしたら、私はまず「エ」を除外します。
いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されたかは、父の視点で描写することではないからです。
これは、あり得ない。
次に「イ」を除外します。
この選択肢は優等生すぎる。
これは、ひっかけ。
入試問題に掲載されているのは、小説のごく一部分です。
一部分だけで、こんなに劇的な心の変化は描けません。
そして、「ア」と「ウ」の2つから選ぶのなら。
「ウ」もあり得るけれど、まあ無難なのは「ア」だから、正解は「ア」なんでしょう。
つまり、私も「無難さ」で「ア」を選ぶのですが、その「無難さ」の基準が違うのだと思います。
国語問題的な無難さ。
道徳的には生きられない人間の複雑な心情が描いてあるほうが、国語問題として普通です。
「ア」の選択肢はきわめて無難であり、これが正解です。
とはいえ、そんなテクニックは、生徒には話しません。
ちゃんと本文を読みなさい。
本文に何もかも書いてあります。
本文に書いてないことを勝手に想像するのはやめなさい。
そうした指導を続け、その子は、道徳的な選択肢を選ばなくなりました。
同時に、200字作文にも変化が見られました。
例えば、テーマは「『利他』について」。
都立型の論説文の読解は、最後に200字作文があります。
問題文を読んで、考えたことを、具体的な体験や見聞を加えて200字で書きます。
利他についてのその問題文は、東日本大震災の後に書かれたものでした。
「自分のために生きろ」と言われても、何が自分のためであるのかは、わからない。
未来は見えないからだ。
目標を定めることができず、結局、そのときの時代の雰囲気に流されてしまうことも多い。
一方、「他人のために生きる」ことは、目標が明確だ。
何が他人のためになることなのかは、何が自分のためになることなのかよりは、はるかにわかりやすい。
今、人々は、利他的な生き方に喜びを発見し始めている。
道徳的な選択肢が大好きな子であるのだから、この文章に猛烈に感動し、ボランティア体験などで嬉しい楽しいと感じたことを語るのだろうと私は予想していました。
しかし、その予想は、大きく外れました。
他人のために何かしてやることは他人のためにはならないと、その作文には書いてありました。
本人が努力するべきだ。
助けてやると、本人は甘えて、ますます努力しなくなる。
努力している人の邪魔になる。
内容もひどいが文章もつたなく、目もあてられないものになっていました。
作文は、語られている内容が過激で非道徳的だから点数が下がるというものではありません。
しかし、明らかに間違っている論理を説得力のない文章でたった200字で書いて、どんな得点が入るというのでしょう。
否定するのは簡単なことですが、私は困惑していました。
・・・この作文を書かせたのは、私なのではないか?
道徳的な選択肢を選ぶなと言い続けたことで、私が道徳的なことを好んでいないと受け取られたのではないか?
これは、「私が好むだろう作文」として提出されたものなのではないか?
その子の思い描く私の姿に、私はぞっとしました。
その子が道徳的な選択肢を正解だと思っていたのは、その子の中に、確固たるものが何もなかったからかもしれません。
中学生ですから、それは当然です。
まだ心はとても柔らかく、あたたかい考え方からひどく残酷な考え方へと、日々簡単に移り変わります。
その不安定な心を守る壁が、道徳的な選択肢を選ぶことではなかったのだろうか?
それを選び、それで正解となることで、本人も安心だったのではないか?
でも、違うのです。
本当は、心がとても柔らかいからこそ、届く文章があります。
そういうものを自力で読めるようになってほしい。
文字を読む技術、言葉を読む技術が足りないと、そういうものと出会うことすらできない。
国語の学習は、いつか、そうした文章に自分で出会うための準備です。
道徳的なことだけで、人の気持ちが救われるわけがない。
だからといって、功利的なことばかり言っていたら、心はもっとすさんでいきます。
その子が「努力」至上主義的なことを書いたのは、私がその子に努力を強いたからだったのでしょうか。
努力・努力・努力。
私は、そんなに努力・努力とその子に言ってきたのだろうか?
努力をすれば報われる。
努力をしないやつはダメなやつだ。
・・・そんなことは、言わなかったはずなのですが。
今年もまた中学三年生に都立受験対策として国語を教えています。
道徳的な選択肢を選びがちなのも、例年の中三と同じです。
「利他について」の200字作文では、利他を好むのは独特な考え方だと思うという感想が書かれてあり、これは本当にそういう意味で書いているのか、言葉が足りないだけなのかと悩んでしまったのも、私にとっては、例年の夏です。
そんな日々に。
唐突かもしれませんが、上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞を思い出しました。
有名な祝辞ですので、ご存じの方が多いと思います。
一部、私が特に好きな部分をここに引用します。
以下が、引用です。
あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、頑張ってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そして頑張ったら報われるとあなたたちが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたたちが今日「頑張ったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持って引き上げ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、頑張っても報われないひと、頑張ろうにも頑張れないひと、頑張りすぎて心と体をこわしたひと・・・たちがいます。頑張る前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」と頑張る意欲をくじかれたひとたちもいます。
あなたたちの頑張りを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして、強がらず、自分の弱さを認め、支えあって生きてください。
といっても、四択のみです。
選択肢だけ読んで問題に答えるというのは、邪道の極みで、うちの塾では行わない指導です。
国語という教科の目的は、文章を読む力を養うことです。
本文を読まず、選択肢だけ読んで正答するテクニックを教えていたら、その子は、一生文章が読めません。
愚直に本文を読み、正確に選択肢を選んでも、国語のテストは十分に時間が余ります。
愚かなテクニックに走ると、文章を読む力は養えず、大人になっても必要な情報を文字から得ることができず、また、文章を読む楽しみとは無縁な一生を送ることになります。
だから、今回の話は、そうした四択テクニックを伝授する話ではないのです。
ただ、いくら何でもその選択肢はないだろうという選択肢に、簡単に騙される子が案外多いのです。
それは選んだらダメだ、という選択肢は確実に存在します。
以下の選択肢を読んでみてください。
正答は、どれだと思いますか?
問5 この文章について述べたものとして最も適当なものは、つぎのうちではどれか。
ア、父の願いを知りつつ死んだ母を慕い続ける敬一の心情と、敬一への思いと今の妻への思いとの間で揺れる父の心情との交錯を、会話文を多用して描いている。
イ、母を亡くした敬一が父との対話によって心を開き、父の心情を理解して新しい母を受け入れようと決心するまでの心の変化を自然の情景描写と対応させながら描いている。
ウ、敬一、父、ハルさんの家族の三人のそれぞれの立場における複雑な心情のぶつかり合いを、会話のやり取りや短い文を重ねていくことで緊迫感を出しながら描いている。
エ、いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されてきたかを、回想場面を間にはさみながら、父の視点に立って描いている。
・・・いや、本文を読んでみないと、どれが正しい選択肢なのかわからないから、本文を見せてくれ。
そう感じる方は、きわめてまっとうな方です。
では、どの選択肢が好きですか?
正しいかどうかではなく、どの選択肢が好みですか?
どういうことが書いてある文章であってほしいですか?
実は、生徒の多くは、本文を読んだうえでも、そういう観点で選択肢を選んでしまうのです。
つまり、道徳的に正しい選択肢が正解だと思うようなのです。
「国語の正答はこういうものだろう」という誤解が本人の中にあるのかもしれません。
国語の時間は道徳の時間ではないですよと繰り返し説明しても、その忠告の本質が本人にはなかなか伝わっていきません。
そういう子は、「イ」を選びます。
本文の内容がどうであるかは関係ないのです。
父との対話で心を開くのが、道徳的に正しい態度。
父の心情を理解して新しい母を受け入れるのが正しい態度。
正しいことが書かれているから、正答は「イ」。
そう思うようなのです。
「イ」ではないよ、と言われると、そうした子は、次に何を選ぶか?
「エ」です。
「いつまでも新しい母に心を許さない敬一」。
敬一を非難しているようなこの描写が気にいる様子です。
新しい母に心を許さないなんて、そういう態度は良くない。
良くない態度は、非難するのが正しい。
だから、正答は「エ」。
そういう選択肢の選び方をしてしまうのです。
ここで、本文の内容をかいつまんで説明します。
主人公敬一は、新しい母を「お母さん」とは呼べずにいる少年です。
ある日、父親は、新しい母親の気持ちもわかってやれと言いつつも、病気で亡くなった母の生前の日記を敬一に見せてくれます。
一晩だけ持っていていいと言われ、敬一はその日記を書き写します。
自分への愛情がつづられたその日記を泣きながら書き写し、敬一は、自分の母はこの母だけだと強く思います。
これでおわかりだと思います。
正解は「ア」です。
しかし、そういった内容の本文を読んだうえで、「イ」を選ぶ生徒が案外多いのです。
さすがに驚きます。
え?
本文、読んだ?
文字を目で追うことはできても、内容を理解できていないのだろうか・・・?
国語が苦手な子、文章を読めない子には、さまざまな事情が考えられます。
文字を読むことに他人よりも困難を伴う子は存在しますし、それはそんなに特別なことではないと思います。
逆上がりができないとか、泳げないとか、自転車に乗れないとか、そのレベルのことである場合も多いと思うのです。
ずっとできないままかもしれないけれど、トレーニング次第でできるようになる場合もあります。
単語や文節の区切りを認識するのが難しい。
文字の順序を目がしばしば逆にとらえてしまい、そのために意味を読み取れず混乱する。
漢字の読みをあまり覚えていないので、文章が虫食い状態である。
文字そのものは読めるが、それが現実の事象と結びつかず、永久に文字という記号のままであり、意味を形成しない。
程度の差はあれ、そのような傾向がある子は、文字を読むのが基本的に苦痛です。
そうであるなら、選択肢を選ぶ基準がどうのこうのといっても仕方ありません。
まず、文字から正確な情報を得られるようにトレーニングをする必要が生じます。
・・・この子は、どのような状況なのだろう?
もしかしたら、目で文字を追っているだけで、内容は読み取れていないのではないか?
あらゆる可能性を考えながら模索を続けるのが国語の個別指導となりますが、上のような「イ」の選択肢を選んでしまう子の場合、文章は読めているが、それでも「イ」を選んでいる可能性も高いのです。
上に書いたように、とにかく「道徳的な選択肢が正答」という思い込みが強く、無意識にそれを基準にして選択肢を選んでしまうようなのです。
学校では良い子でいなければいけない。
先生に目をつけられてはいけない。
内申に響く。
今どきの子のなかには、必要以上にそう考える子もいるので、そうした影響なのだろうかと思うことがあります。
しかし、そういう子もいるでしょうが、それだけではないようです。
何より、本人が、道徳的なことが好きなのでしょう。
道徳的なことに感動しやすく、道徳的なエピソードが大好き。
別に悪いことでもないので、注意できないのが難しい・・・。
もう一度選択肢を読んでみましょう。
ア、父の願いを知りつつ死んだ母を慕い続ける敬一の心情と、敬一への思いと今の妻への思いとの間で揺れる父の心情との交錯を、会話文を多用して描いている。
イ、母を亡くした敬一が父との対話によって心を開き、父の心情を理解して新しい母を受け入れようと決心するまでの心の変化を自然の情景描写と対応させながら描いている。
ウ、敬一、父、ハルさんの家族の三人のそれぞれの立場における複雑な心情のぶつかり合いを、会話のやり取りや短い文を重ねていくことで緊迫感を出しながら描いている。
エ、いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されてきたかを、回想場面を間にはさみながら、父の視点に立って描いている。
本文を読めば簡単にわかることです。
むしろ本文を読んで判断したほうが時間がかからない。
しかし、もしも選択肢だけで判断するのだとしたら、私はまず「エ」を除外します。
いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されたかは、父の視点で描写することではないからです。
これは、あり得ない。
次に「イ」を除外します。
この選択肢は優等生すぎる。
これは、ひっかけ。
入試問題に掲載されているのは、小説のごく一部分です。
一部分だけで、こんなに劇的な心の変化は描けません。
そして、「ア」と「ウ」の2つから選ぶのなら。
「ウ」もあり得るけれど、まあ無難なのは「ア」だから、正解は「ア」なんでしょう。
つまり、私も「無難さ」で「ア」を選ぶのですが、その「無難さ」の基準が違うのだと思います。
国語問題的な無難さ。
道徳的には生きられない人間の複雑な心情が描いてあるほうが、国語問題として普通です。
「ア」の選択肢はきわめて無難であり、これが正解です。
とはいえ、そんなテクニックは、生徒には話しません。
ちゃんと本文を読みなさい。
本文に何もかも書いてあります。
本文に書いてないことを勝手に想像するのはやめなさい。
そうした指導を続け、その子は、道徳的な選択肢を選ばなくなりました。
同時に、200字作文にも変化が見られました。
例えば、テーマは「『利他』について」。
都立型の論説文の読解は、最後に200字作文があります。
問題文を読んで、考えたことを、具体的な体験や見聞を加えて200字で書きます。
利他についてのその問題文は、東日本大震災の後に書かれたものでした。
「自分のために生きろ」と言われても、何が自分のためであるのかは、わからない。
未来は見えないからだ。
目標を定めることができず、結局、そのときの時代の雰囲気に流されてしまうことも多い。
一方、「他人のために生きる」ことは、目標が明確だ。
何が他人のためになることなのかは、何が自分のためになることなのかよりは、はるかにわかりやすい。
今、人々は、利他的な生き方に喜びを発見し始めている。
道徳的な選択肢が大好きな子であるのだから、この文章に猛烈に感動し、ボランティア体験などで嬉しい楽しいと感じたことを語るのだろうと私は予想していました。
しかし、その予想は、大きく外れました。
他人のために何かしてやることは他人のためにはならないと、その作文には書いてありました。
本人が努力するべきだ。
助けてやると、本人は甘えて、ますます努力しなくなる。
努力している人の邪魔になる。
内容もひどいが文章もつたなく、目もあてられないものになっていました。
作文は、語られている内容が過激で非道徳的だから点数が下がるというものではありません。
しかし、明らかに間違っている論理を説得力のない文章でたった200字で書いて、どんな得点が入るというのでしょう。
否定するのは簡単なことですが、私は困惑していました。
・・・この作文を書かせたのは、私なのではないか?
道徳的な選択肢を選ぶなと言い続けたことで、私が道徳的なことを好んでいないと受け取られたのではないか?
これは、「私が好むだろう作文」として提出されたものなのではないか?
その子の思い描く私の姿に、私はぞっとしました。
その子が道徳的な選択肢を正解だと思っていたのは、その子の中に、確固たるものが何もなかったからかもしれません。
中学生ですから、それは当然です。
まだ心はとても柔らかく、あたたかい考え方からひどく残酷な考え方へと、日々簡単に移り変わります。
その不安定な心を守る壁が、道徳的な選択肢を選ぶことではなかったのだろうか?
それを選び、それで正解となることで、本人も安心だったのではないか?
でも、違うのです。
本当は、心がとても柔らかいからこそ、届く文章があります。
そういうものを自力で読めるようになってほしい。
文字を読む技術、言葉を読む技術が足りないと、そういうものと出会うことすらできない。
国語の学習は、いつか、そうした文章に自分で出会うための準備です。
道徳的なことだけで、人の気持ちが救われるわけがない。
だからといって、功利的なことばかり言っていたら、心はもっとすさんでいきます。
その子が「努力」至上主義的なことを書いたのは、私がその子に努力を強いたからだったのでしょうか。
努力・努力・努力。
私は、そんなに努力・努力とその子に言ってきたのだろうか?
努力をすれば報われる。
努力をしないやつはダメなやつだ。
・・・そんなことは、言わなかったはずなのですが。
今年もまた中学三年生に都立受験対策として国語を教えています。
道徳的な選択肢を選びがちなのも、例年の中三と同じです。
「利他について」の200字作文では、利他を好むのは独特な考え方だと思うという感想が書かれてあり、これは本当にそういう意味で書いているのか、言葉が足りないだけなのかと悩んでしまったのも、私にとっては、例年の夏です。
そんな日々に。
唐突かもしれませんが、上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞を思い出しました。
有名な祝辞ですので、ご存じの方が多いと思います。
一部、私が特に好きな部分をここに引用します。
以下が、引用です。
あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、頑張ってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そして頑張ったら報われるとあなたたちが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたたちが今日「頑張ったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持って引き上げ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、頑張っても報われないひと、頑張ろうにも頑張れないひと、頑張りすぎて心と体をこわしたひと・・・たちがいます。頑張る前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」と頑張る意欲をくじかれたひとたちもいます。
あなたたちの頑張りを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして、強がらず、自分の弱さを認め、支えあって生きてください。
Posted by セギ at 13:53│Comments(0)
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