2019年12月11日
勉強が苦手な子の1つの傾向。
高校生と「分詞」の学習をしていたときのことです。
まずは、中学の復習でもある、分詞の限定用法の学習をしました。
名詞を修飾する用法です。
現在分詞と過去分詞のどちらを用いるか、その使い分けが重要です。
そこから先が高校の「分詞」の学習。
分詞の叙述用法に進みました。
SVCやSVOCのCに分詞を用いる用法です。
ここでも現在分詞と過去分詞の使い分けが課題です。
SVCの場合は、Sが動作主ならばCは現在分詞。
Sが動作される側ならばCは過去分詞。
SVOCの場合は、Oが動作主ならばCは現在分詞。
Oが動作される側ならばCは過去分詞。
「動作主」という言葉は厳密には古文で使用する用語ですが、便利なので私は英語の授業で使っています。
文法が得意な子にとっては、明瞭でわかりやすいルールです。
英語はこういう大きいルールが広く適用されるので学びやすいのです。
しかし、その子は文法が苦手でした。
説明を聞くだけで理解するのは難しいので、何度もルールを復唱してもらい、その後、練習問題を解きました。
次の( )内の語を適切な形に直しなさい。
He kept (knock) on the door until I opened it.
その子の答えは knocked でした。
「・・・・え?何で?」
文法を正確に復唱できるまで何度も練習したのに、何で?
「door はノックされるから・・・・」
「・・・・え?」
限定用法の話はさっき終わり、叙述用法だよと言ったのに、何でその話に戻るんだろう?
door は、直前・直後の名詞ではないから、分詞に修飾される名詞ではありません。
「・・・・knock の直前の単語は kept だし、knock の直後の単語は on だよ。door は随分離れている。関係ないよ」
「あ・・・」
文法が苦手な子に英文法の授業をしていると、上のようなことが起こります。
教えたことが上手く伝わっていきません。
上の例は、相手が何をどう誤解したのか明確だったので改善の可能性がありましたが、普段はもっと不可解なミスも多いです。
ミスの原因を生徒が言語化できない場合が多く、なぜそこを間違えるのか、教える側として理解しにくい場合がしばしばあります。
こちらから一方的に解説するだけの授業では、途中で気が逸れて、聞いている顔で実は聞いていないということはあると思います。
まだらにしか聞いていないので、関係のないことが本人の頭の中でつながってしまうのです。
だから、今学んでいることは何であるか、本人に復唱してもらい、確認をしています。
その上で、やはり、間違える・・・。
どうしてそんなことが起こるのだろう・・・?
もう一度その子の学校の教科書に戻り、文法を確認してから教科書の練習問題を解くと、それは全部正解できました。
限定用法だけでなく、叙述用法も全て正解です。
「教科書の問題は正解できるね」
「これは、答を覚えているから・・・・」
「え・・・・?答を覚えている?」
「復習したっていう意味ですよ」
「・・・・私は何回解いても、問題の答なんか覚えないけど?」
「・・・・・?」
「何でそんな意味のないことを覚えるの?」
文法は覚えないのに、何で答を覚えるの?(''Д'')
愕然として、私は悟りました。
文法が苦手な子は、そういう勉強をしてしまうのか・・・・。
なぜ英語が得意にならないのか、その一端が垣間見えた気がしたのです。
いや、英語に限らず、なぜ勉強が得意にならないか。
努力をしているのは伝わってくるのに、なぜ結果が出ないのか。
その一端が見えた気がしました。
理屈をどれだけ教わっても、それを復唱しても、問題を解く際にその理屈を活用できないのです。
それはそれ、これはこれ。
問題を解くときは、本人の中で別の解き方で解いてしまいます。
多くは勘で解いたり、昔学習した別の文法を使ってしまったり。
だから、最初に解くときは大半の問題を間違えてしまいます。
それから正しい答を覚えます。
目の前の1問1問の答を覚えること。
それが、勉強。
つまり、根幹のルールなどの抽象化したものを理解し活用することが苦手で、全て、個々の具体にしか対応できないのではないかと感じます。
それは、小学生に受験算数を教えていても感じることです。
集団指導塾に通い、受験算数だけうちの教室で補習をしている子には、その集団指導塾のテキストで復習することから学習を始めます。
復習する様子を見ていると、受験算数が苦手な子も、テキストの基本問題は自力で解くことができるのです。
しかし、テキストの基本問題とほとんど同じ構造の月例テストの問題は正解できません。
ほとんど同じ構造で、難度も同じで、同じ考え方で解く問題なのに、なぜ解けないのだろう?
月例テストなんて、8割は基本問題なのに。
理由は明らかです。
個々の問題の式と答を暗記しているだけで、理解していないのです。
「式と答を覚えること」=「勉強」になっていて、それ以外の勉強ができないのです。
受験算数の場合、自力で解き方を発見できるセンスのある子や、思考力のある子もいます。
発達段階の個人差の大きい時期ですから。
算数の問題を考えることが好きな子、自力で図を描いたり整理したりすることができる子たちです。
そうした子たちには、補習というよりもっと自由に力を伸ばす授業をします。
「〇〇算の解き方」を1つ1つ暗記する必要は、本当はないのです。
線分図の描き方と面積図の描き方、そしてその活用の仕方を学べば、受験算数の解き方はそんなに幾通りもありません。
相当算も食塩水も売買損益も差集め算もニュートン算も、根底にあるものは、全て同じです。
思考力のある子は、そうした統合や抽象化が可能です。
しかし、小学生の段階では、解き方の抽象化はできない子も多いです。
その場合、「〇〇算の解き方」を1つ1つ覚えていくことから始めます。
それでも、「解き方・考え方」を覚えるのなら、そのことで思考力を養っていくことができます。
最終的には統合も可能です。
しかし、子どもの中には、
テキストの問題1の式は、4×5÷2=10
問題2の式は、5×10÷2=25
と、式と答を覚えているだけの子もいます。
・・・何の意味があるの?(''_'')
そう思うのですが、本人にしてみると、覚えてしまうのだから仕方ない、ということのようです。
小学生の柔らかい脳は、見たものをすぐに覚えてしまうことができますから。
解き方を理解することと、問題の式と答を覚えてしまうこととの違いがわからないのかもしれません。
では、式の暗記などできないくらいに基本問題を大量に解けば、その中から本人がエッセンスを抽出し、解き方を脳内に取り込むことができるのではないか?
そうした発想から、宿題を大量に出す塾もあるのですが、算数が苦手な子たちは、問題を解くのが遅いです。
問題文を読むのも、立式するのも、計算するのも時間がかかります。
本当はもっと速く解けるけれど、沢山問題を解くと疲れるので、自らスピードを調節し、だらだら解くことが習慣化している子もいるかもしれません。
スピードを上げたら、沢山問題を解かねばならない。
沢山勉強させられて、損だ。
そのような損得計算をしている子もいるように思います。
そうして、メインテキストの基本問題だけをねっとりと時間をかけて解き、式と答を覚えてしまいます。
私の教室で、英語が得意な子たちは、90分の授業時間の中で、問題のぎっしり詰まった40ページほどの文法テキストを1冊仕上げて帰っていきます。
書きません。
問題を見て、即答しています。
さすがに40ページを全て解くわけではなく、その子の理解度を見ながら、とびとびに解きます。
それでも、20ページほどは演習するでしょう。
四択問題も。
空所補充問題も。
乱文整序問題も。
一方、英語が苦手な子たちの演習スピードは、そういうわけにはいきません。
書かずに即答という授業形態がまず無理で、解いた問題の答が手元に残らないと復習できないから不安だと言いますので、書いて解かねばなりません。
最初にいろいろ説明しなければなりませんし、間違えているとさらに説明する時間も長くなります。
その上で演習スピード自体も遅いので、90分の中で結局1ページしか解けないこともあります。
そしてその1ページの問題の答えを覚えることが、その子にとっての復習なのだとしたら・・・・。
20ページと1ページ。
教室で20ページ解く子が、問題の答えを覚えているかといったら、覚えているはずがありません。
いちいち答えを覚えていられるような量ではありません。
余程印象的な問題が含まれていたら別でしょうが、翌週同じ問題を解いても、同じだと気づかず解き終わるかもしれません。
学習した文法にしたがってサクサク解いているだけだからです。
何度解いても正解ですが、それは答を覚えているからではないのです。
受験算数が得意な子たちは、個々の問題の解き方をカチッと暗記しているわけではないので、図の描き方に無駄な要素もあります。
例えば、水そうに直方体の重りを沈めていく問題。
水面には波が立っているはずだからと、さざ波を立てた水槽の断面図を描いたりします。
水面は、水槽のふちよりも薄く描き、濃淡のある図を描くこともあります。
そのせいで、せっかく描いた図が役に立たないこともあります。
私がさざ波を濃い直線に描き直すこともときに必要です。
しかし、「これは一種の面積図なんですよ」と言うだけで、その子の脳が動き出します。
それ以上の解き方を手取り足取り教える必要がないのです。
算数・数学の問題を解く上では必要のないこだわりは、いつか本人が捨てるでしょう。
思考力は本物で、これは誰にも奪えないし、本人も捨てようがない。
個々の問題の答だけを故意に覚えようとしているわけではない。
復習すると自然に答を覚えてしまうだけだ。
苦手な勉強をそれでも一所懸命やっている子たちは、そのように言うかもしれません。
それでも、「その勉強のやり方は変えなさい」と言わざるをえません。
その勉強では、類題で正答できないのですから。
個々の問題の答は覚えても、もっと重要なことを覚えていないのです。
その問題を解く中で抽出し理解するべきことを把握できていません。
答を覚えてしまうくらいに数少ない問題をねっとり見つめ続けることが本当に理解すべきことの把握につながっていないのです。
有効なやり方は正反対のものでしょう。
教科書の問題の答なんかいちいち覚えていないけれど、文法は覚えた。
式も答も覚えていないけれど、解き方は理解した。
だから、その問題は何度解いても正答できる。
類題も正答できる。
テストの問題も正答できる。
入試問題も正答できる。
勉強はそういうふうにやっていってほしいです。
生徒たちに最も教えたいのは、そういう勉強のやり方です。
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