たまりば

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2018年10月14日

数学の文章題が理解できない理由は何なのか。

数学の文章題が理解できない理由は何なのか。


近年、読解力のない子どもが多数存在することがクローズアップされるようになりました。
国語ができない子は、数学ができない。
国語ができない子は、そもそも全ての教科の伸びが限定的。
そのように言われます。

国語といっても、文学作品の鑑賞力というような話ではありません。
古文・漢文の素養でもありません。
本当にシンプルに読解力です。
実用的な文章に書いてあることをそのまま理解する力。
それが絶望的に足りない子どもが、近年、多数存在するようになりました。
確かに、それでは、数学は理解できません。
単純な計算だけはできるでしょうが、理論は、言葉で説明され、言葉で理解されます。
言葉を理解できない子は、理論を理解できないと思います。

問題 ある数の2乗をするところを、誤って2倍してしまったため、計算の結果は19小さくなった。ある数を求めよ。

これは、2次方程式の文章題です。
この問題に書いてあることの意味がわからない。
あるとき生徒にそう言われて、ギョッとしました。
方程式の文章題は苦手とする子が多いですが、その中では、こうした「数に関する問題」は立式しやすいほうです。
「速さの問題」「食塩水の問題」「売買の問題」「動点の問題」など、難しい問題は他にもっと存在します。
この問題が全くわからないというのは、どういうことなのだろう?

ある数をxとするところまでは、誰でも発想できます。
ある数の2乗は、x2。
ある数の2倍は、2x。
それを表すことはできる。
でも、19をどうしたらいいのかわからない。
どちらにたすのか、どちらから引くのか、わからない。
文が伝えていることの意味が、よくわからない。
そう言うのです。

「x2と2xと、どちらが大きいと思う?」
私は尋ねました。
「わからない。2乗のほうが普通大きくなるだろうから、大きいんだろうけれど、文章からは読み取れない」
その子は答えました。
2乗のほうが普通大きくなる。
数に対する感覚はむしろ数学センスを感じます。
私は説明を試みました。
「計算の結果は19小さい、と言っているから、計算の結果のほうが小さいんでしょう?それなら、2xのほうが小さいよね?」
「2xのほうが計算の結果?」
「そう」
「どうしたら、それがわかるの?」
「・・・・・」
いやいやいや、書いてある。
書いてあるよ?
何で書いてあるのに、読み取れないの?


これは想像の域を出ないのですが、このような読解力の子は、文を読むとき、目立つ単語の拾い読みをしているだけなのではないか?
自立語以外の語句の機能を理解していないのではないか?
特に助詞の働きを理解しないまま成長しているのではないか?

つまり、彼らが読んでいる文章は、このようなものなのではないかと思うのです。

問題 ある数の2乗・・・・2倍・・・・・計算・・結果・・・19小さく・・・・。

これでは、関係が読み取れません。
単語と単語とのつながりが理解できない限り、本人に問題文を音読させても、私が読んであげても、上のようにしか読み取れないという点で、絶望的な要素をはらんでいます。
「よく読みなさい」
「細部まで読みなさい」
と言っても、変化はないのです。

助詞を理解しない子どもは、実は、相当数いるのかもしれません。
子どもの発する言葉を聴き取ると、助詞を使用しない子どもは多いです。
それは日常会話だから、で済まされるレベルのことなのでしょうか。
作文を書けば、助詞を使用できるのでしょうか。
読解力のない子の大半が作文も苦手なのは、そもそも助詞を使えないので、文を書くことに困難があるのではないでしょうか。

助詞といっても、「が」「は」くらいは使えると思います。
問題は、「の」「を」「に」「へ」「と」などを多用する文を使うことができるか、です。
つまりは、それだけ1文の長い、語句の関係が複雑な文を話したり書いたりすることができるでしょうか?
日常生活の子どもの言葉に耳を傾けたとき、幼児の頃と同じように助詞を省略した2語文で生活している、ということはないでしょうか?

努力すれば助詞の働きを理解できなくもないし、使用できなくもないが、普段の読み取りでそこが抜け落ちるということもあるかもしれません。
単語の拾い読みが習慣化しているため、文を精読し、単語と単語との関係をつかむのが文を読むことだということが、実感としてつかめない。
単語と単語の関係を把握しながら読解することができない。
そういう子も多いのかもしれません。

小学生では、例えば、「倍数と約数」の問題で端的なのは、このような問題です。
☐に「倍数」または「約数」を入れなさい。
(1)8は2の☐です。
(2)2は8の☐です。

これが、どちらがどちらなのか、わからないことがあるようです。
その子の目に、
(1)8・・・2・・・・☐。
(2)2・・・8・・・・☐。
としか見えていないのであれば、それは答えられないと思います。

目立つ自立語しか読み取らず、その他の部分を読み飛ばす。
あるいは、目には入っていても、その機能を意識できない。
それは、おそらく、文字を覚えた頃からの読み癖で、小学校の低学年までは、それで事足りたのだろうと思います。
それでも文章の意味はわかるので、そういう読み方が本人の中で固定したのかもしれません。
それが無意識のレベルまで本人の中に浸透し、文章が複雑になったときにも、他の読み方ができなくなっているとしたら?

もう一度、最初の問題に戻ります。
問題 ある数の2乗をするところを、誤って2倍してしまったため、計算の結果は19小さくなった。ある数を求めよ。

この問題がわからないという子は特異な素質を持っていました。
読解力のない子は、普通、わからないことを伝えるのも諦めてしまいます。
何がわからないかを伝えるのにも言葉を使わねばなりません。
読解力のない子の多くは、そうした表現力を持っていません。
わからないまま、黙る。
わからないまま、諦める。
わからないまま、ごまかす方法を獲得する。
そうして重症化していく子は多いです。
しかし、その子は諦めませんでした。

「計算の結果って、どっちの結果?2乗?2倍?」
「実際に計算したのはどっちなの?誤って2倍したんだから、2倍のほうが実際に計算した結果でしょう?」
「どこでそれがわかるの?」
「『ある数を2乗するところを誤って2倍したため計算の結果は』と書いてあるから、2倍したんでしょう?」
「えー?書いてあるかな?」
「『誤って2倍した』と書いてあるでしょう?」
「えー?」
「書いてあるよ?」

このやりとりにどこまで効果があったのかは、実際のところは不明です。
とりあえず類題は正しく立式できるようになりましたが、それはパータン化して覚えただけかもしれせん。
ただ、思うのは、この子は、現時点では読解力に欠ける面もあるのかもしれませんが、表現力があるということ。
数学の文章題が解けない他の子とは、そこが少し違うのです。
その子が何かを伝えようとする限り、靴の上から足の裏を掻くようなもどかしさはあるものの、確実にその子の疑問が伝わってくるのでした。


もう随分昔の話なので、私が誤解したまま間違った解釈をしているのかもしれませんが、遠い昔、『機動戦士ガンダム』というテレビアニメが初めて放送された頃のこと。
私は他の同級生と同様に、普通にアニメが好きでした。
私は「アニメ第1世代」と呼ばれる世代です。
『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開が成功したのは、その数年前。
今から考えれば隔世の感がありますが、テレビアニメの総集編を映画館で上映して、それが興行的に成功するなど、当時の普通の大人は予想しなかったのです。
まして、その続編をオール新作の映画として公開して、初日の映画館前に徹夜で行列を作る若者たちが存在するほどに成功することなど。
『宇宙戦艦ヤマト』の作品としての価値に、現在の私は何の感想も抱いていませんが、アニメーションの興行的成功としての歴史的意味は大きいと思います。
そんなわけで、話題のアニメは何歳になっても普通に見る最初の世代に属する私ですが、『起動戦士ガンダム』は、アニメから遠ざかるきっかけになりました。
むしろ『ガンダム』からアニメに没入していった後の世代とは対照的に。

あそこに出てくるニュータイプというのが、気持ち悪かったんです。
機械との親和性が高く、反応が速い。
そういうことだけなら良いのですが、どうも彼らはニュータイプ同士で瞬時に互いのことを全面的に理解しあうらしい。
そのことがとてつもなく肯定的に描かれていました。
主人公がコミュニケーション不全なタイプの少年で、周囲と和解できないまま、否応なく戦争に巻き込まれてロボットで闘っているという状況ですから、ありのままの自分を丸ごと誤解なく受け入れてもらえることは究極の理想だったのかもしれませんが。

最終回を見て、私ははっきりと声に出してつぶやきました。
「言いたいことは、言葉にして言いなよ」
私自身がそんなにコミュニケーションが得意なわけではなかったにも関わらず、あるいは、むしろそれだからこそだったかもしれませんが、声に出してつぶやいてしまうほど、強くそう思ったのです。
ニュータイプなんかに進化しなくても、人間には言葉があるよ。
使えよ、言葉を。
何の努力もせず、丸ごと完璧に自分を好意的に理解してもらおうなんて、甘えているんじゃないよ。
ああ、こんなアニメを見ている場合じゃない。
私は、現実と関わろう。

以後、アニメを全く見なかったというわけではありませんが、心理的距離はかなり開きました。

わかってほしいことがあるなら、言葉にして伝えないと。
何かを伝えるにも、何かを理解するにも、言葉を使えば可能なのだから。
私たちは今もニュータイプには進化していないですが、言葉によって感情を伝え、意思を伝え、情報を伝えることはできるのです。

しかし、あれから40年、言葉を使えない子は増える一方です。
頭が悪いわけではないのに国語力の低い子が目立つようになりました。
国語力の低い子の学力は限定的になってしまうと、私も思います。
国語ができれば必ず数学ができるとは限りません。
数学ができるようになるには、数学的な才能も必要です。
ただ、数学的才能がその子の中に眠っている様子なのに、国語力のせいで開花しないのは、本当に勿体ない。
意識して文章の読み方を変えたり、自分で文章を書く練習をすることで、単語と単語とのつながりや、そこから意味が生まれる言葉の機能を理解できるはず。
何歳からでも、遅すぎるということはないはずです。




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