たまりば

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2019年06月24日

ピグマリオン効果と、その否定と。



ピグマリオン効果とは、教師がその生徒は高い能力を持っていると信じ、期待し、そのように接すると、実際に生徒の成績は上がっていくという効果のことです。
この説には異論も多く、学術的に立証された説というのではありません。
教師の期待が、実際に生徒にどのように伝わっていくものなのか、具体的に立証する術もないですし。

「褒めて育てる」という考え方と混同されがちなのも批判される一因だと思います。
確かに、褒めることがテクニックになってしまい、しかも「褒めて育てる教育」という教育論を子ども自身が見聞きしていては、褒めることも逆効果になってしまいかねません。
当然注意されるべきことを注意されただけでも、
「褒めなければ人は伸びないのに、叱るなんておかしい」
と子ども本人が考えるようでは、褒めても叱っても、伸びる可能性は低いでしょう。
大した結果も出していない子を褒め続ければ、こんな程度でいいのかと子どもの中での基準が低くなり、それ以上を目指さなくなることもあります。

私の思うピグマリオン効果は、そういうものとは少し異なります。
褒めるのではなく、ただ秀才として信じ、遇する。
現在の成績は悪くても、目の前の問題を今は解けなくても、この子の中には才能が眠っていると確信して接しているとき、実際秀才になった例は多いというのが私の手ごたえです。

それは、ピグマリオン効果ではなく、実際にその子に素質があって、それが開花しただけではないのか?
そう言われたらそうかもしれないのですが。

そしてその逆もあります。

もう随分前のこと。
私が大手の個別指導塾に勤めていた頃のことです。
小学生の男の子の算数を担当したことがありました。
受験算数ではなく、普通の算数でした。
算数は苦手とのことでしたが、基本をしっかり学習していくことで、学校の算数の授業やテストに対応していくことができるようになりました。
カラーテストも満点を取ることが多くなりました。

数か月して、その子の態度が変わっていきました。
必ず持ってきて見せてくれた学校のテストを、持ってこなくなったのです。
「テスト・・・?ああ、100点、100点」
と、結果は言うのですが、持ってこないのです。
「テストは昨日あった。まだ返ってこないけど、どうせ100点」
そう言うこともありました。

計算問題を解くのを嫌がるようにもなりました。
以前は、上手くできる自信がなくて嫌がるのを励ますと何とか出来るようになり、少しずつ自信を得ていったのですが、
「こんなの簡単だし」
と口にするようになりました。
なめてかかれば失敗します。
すると、
「俺様としたことが」
と言ったりもしました。
そんなキャラクターの子ではなかったのに、どうしたのだろう?

塾では、学校よりも少し先を予習します。
初めて学ぶ内容を学習するときの態度も少しずつ変わっていきました。
私の説明をよく聞かず、やたらと話を遮りました。
「わかった。こういうことでしょう?」
と自分の考えを口にしますが、まだ若かった私にとってはちょっと対処に困るほど見当外れなのでした。
「いやいや、そういうことじゃない。とりあえず、この説明だけは聞いてから、その先を考えよう」
そう制して、基本の説明を聞いてもらおうとしましたが、それもすぐにさえぎられました。
「わかった。こういうことだ」
「いや、違うよ」
「えー・・・」
露骨にがっかりした顔をします。
そんなとき、その子は、
「学校の授業はわかりやすくて面白いのになあ」
とつぶやくこともありました。
「・・・うーん。それは、塾で予習して問題も完璧に解けるようになってから学校の授業を受けているからでしょう」
塾で既に学習済みのことを、学校では初めて自分で気づいたように発言したり問題を解いたりしているんだから、それはわかりやすくて楽しいでしょう?
その子は、私の指摘が理解できたのかできなかったのか、黙ってしまい、その話はそれきりになりました。

学校のテスト問題を楽に解けるよう、塾ではそれより少し難しい問題も解きます。
そうした問題を解く際のその子の姿勢は、しかし、筋道立てて考えるというものではありませんでした。
「これ、かけ算?」
「・・・え?」
「わり算?」
「・・・いや、そういうことを言い出したら、ただの四択問題になって、いつかは当たるでしょう。そうじゃなくて、かけ算ならかけ算で、どうしてなのかを説明して」
「じゃあ、わり算だ」
「・・・今の話、聞いてた?」
その子には、沈黙し、思考する時間が、5秒もありませんでした。
かけ算?わり算?
とすぐに言い出し、私の顔色を見てどれが正しいか判断する。
筋道立てて考えるのではなく、相手の反応を見て正解を探る。
そういう学習姿勢が表に出るようになっていました。

その子は、私に褒めてほしかったのかもしれません。
学校で「よくできる子」と遇されるようになったから、私にもそのように接してほしかったのだろうかと、今になって思います。
パッと正解を出して、「わあ、よくできたね」と褒めてほしくて、即答にこだわった。
その即答を疑問視され、よく考えなさいと押し戻される・・・。
褒めてほしくてやっていることのいちいちを疑問視される・・・。

それでも、学校で褒められるために予習を一所懸命やろうというモチベーションは高いようだったので、それでも良いと思っていたのですが、少しずつ色々なことが軋み始めていました。

ある日、教務からとんでもない指示がきました。
「あの子、中学受験をすることになったから、次の授業から内容を受験算数に変えて」
「・・・え?」
文章題の内容を汲み取って考えることをせず、「これ、かけ算?わり算?」と訊いてくる子にとって、受験算数は難しいです。
しかし、無理だと言って通る話ではないのが当時の大手の個別指導塾でした。
私が嫌だと言えば、私はその授業を下ろされ、他の講師がその授業に入るだけでした。

1回目の「植木算」から、授業は困難を極めました。
実際に絵を描いて考えよう。
慣れるまではそうしよう?
そのように呼びかけても、その子はただ呆然としていました。
私が実際に植木を4本描き、間の数は3個だねと数えてみせても、何のことかわからない様子でした。
問題文の意味が読み取れないのかと、本人に音読してもらい、私からも範読し、噛み砕いて説明しても、何も理解していないのが見てとれました。
何のために何をやっているのか、まるでわからないようなのです。
見たことのない問題が並んでいる。
見たことのない問題への違和感に、ただ恐怖しているように見えました。
こんなのは、自分の知っている算数じゃない。
こんな問題は許せない。
こんな問題は不当だ。
受験算数に初めて接したときの多くの小学生が感じることを、その子も感じていたのかもしれません。
簡単に解くことのできる問題が1題もないのです。
中学受験生向けの月列テストは、惨憺たる結果となりました。
塾で予習できないので、やがて学校の算数の授業にも上手くついていけなくなっていったようです。
学年が上がり、学校の算数も単元によっては難しくなっていったのも一因でしょう。
数か月後、その子は塾を辞めていきました。


何がいけなかったのだろう?

分岐点は沢山あったと思いますし、色々と弁明したいこともありますが、それでも、根本の原因の1つに、私がその子の素質を信じていなかったことは大きいのではないかと思います。
学校のカラーテストで満点を取れるようにすることはできる。
しかし、それ以上のことは、できないと感じていました。
小学校の頃はそれで済んでも、中学に進学すれば、成績は「2」に近い「3」。
それを維持するのも大変だろうと予測していました。
伸びることを期待していませんでした。

なぜ、私はその子の素質を信じなかったのか?
素質の無さが垣間見える言動が多かったから・・・。
特に、思考力。
文章題への姿勢に、疑問を感じたから。

しかし、そこに言い訳はなかったろうかと考えます。
その子の素質のせいにすれば、自分の責任から逃れられると無意識に考えてはいなかったろうか?

私が思う「素質」は、そのときの計算力や理解力ではありませんでした。
算数や数学の問題を考えないでやり過ごそうとする姿勢が垣間見えると、その子の素質を疑う気持ちが生じていました。

例えば、かけ算でなけりゃわり算だ、という姿勢が見えたときです。
あるいは、文章題で、文章に出てきた数字を順番にかけ算しているだけなのが見てとれたとき。
それは間違っていると言われると、今度は、文章に出てきた大きい数を小さい数で割る式を立てるのを見たとき。
その子は、段階を踏んで考えていかなければならない文章題は解けませんでした。
式をまず1つ立て、その結果を使って次の式を立てる問題は解けないのです。
「考えなさい」と促しても、考えている様子がなく、無制限に喋り続けました。
「えー?かけ算?わり算?ヒントは?ヒントを出して」
というように。
黙って考えなさいと注意しても、考えている気配がありませんでした。
考えるということが何をどうすることかわからないのか、困惑した様子でした。
時間が過ぎるのを待っているのか、時計をチラチラ見たりします。
思索するとき特有の目の表情になりませんでした。
自分で何か式を立てない限り、この無言の時間は終わらないのだと悟ると、何か式を立てましたが、自分が立てた式の意味を説明できません。
「この式はどういう意味?」
と、私が訊くと、慌てて消していました。
式について話し合いにならず、算数の問題についての対話ができませんでした。
私が問題について解説を始めると、私の言葉の端々をヒントに一刻も早く正しい式を自分が先に言おうと、それにばかり必死になりますが、深い理解をしていないことは明白でした。

つまり、考えるということは何をどうすることなのか、そのことを学びそこねているのでした。
そういう子を見ると、これは無理だ、と判断してきました。
この子は、伸びない。

これを学校の算数教育のせいにするのも家庭教育のせいにするのも可能だとは思いますが、それだけではない気がしていたのです。
ほおっておいても、人というものは、何かを考えるものではないのか?
なぜ、こんなにも考えることを学びそこねているのだろう?
まるで空洞のように、そこが欠落している。
一方で、考えずに算数の点数を取る方法を、なぜこんなに身につけているのだろう?
それのせいで、まともに考えることから日々遠ざかっていたのです。
表面上、学校の算数はそこそこできるように見えるので、抜本的な改革の必要を本人も保護者も感じていませんでした。
算数・数学への理解は、こんなにも空洞化しているのに。
これでは、中学の数学は理解できない・・・。


しかし、考えることを知らないことは、素質ではないのではないかと、この頃は思います。
それは、ただ知らないだけです。
考えないことが習い性になっている子に、考えることを教えるのは難しい。
困難を極めます。
でも、可能なことなのではないか?

来年度から、小学校の学習指導要領は新しくなり、対話的な深い学びが要求されます。
考えることが今までよりも重視されます。
今の小学校で、算数の問題を考えて解くことができない子は、大人が想像する以上に多いのに、です。
考えることを知らない子は、実は算数をほとんどわかっていません。
かけ算・わり算の意味すら本当にはわかっていない。
だから、どんなときにどちらをやるのか、判断できない。
それを露呈させ、明らかにする力が、その新しい授業にあるのかどうか、今のところはわかりません。
ただ、考えることを体感的に理解していない子にとって、その授業は空洞化したものにはなると思います。
これまでも学習を空洞化してきたように。
その空洞化をごまかすテクニックを、生きる知恵として彼らはまた発見するのか?
それとも、算数の根本が理解できていないことが、今度こそ露呈されるのか?
そこから、考えることを学び直すことは可能なのか?

考えることを知らない子は、今も多いです。
しかし、少なくとも、考えることを体感として理解していない子を「素質がない」と断じるのをやめてから、伸びない子はいなくなりました。
人間にとって、思考することは、快楽の1つです。
考えることは、誰にでもできるのです。
それは、才能ではない。
そう信じます。

  


  • Posted by セギ at 15:33Comments(0)講師日記