2017年08月26日
文章を読解できない理由。
夏期講習に入り、高校3年生の英語の授業は過去問を使って実践的な演習を始めています。
最近の5~6年の過去問はもう少し入試が近づいてから解きたいので、それ以前のものや受験する可能性のない学校の過去問を、この時期の演習には使用します。
その中で、英語力にそんなに課題があるわけではないのに、共通して解けない問題があるのを発見することがあります。
例えば、ある論説文。
大体、こんな内容です。
若者がイヤホンを使用し電車の中で音楽を聴いている光景も当たり前になった。
他人に迷惑をかけずに電車内で音楽を楽しめるのは良い点ではあるが、彼らは、電車の中という公共の場でも他人と接触することがなく、それぞれに孤立している。
このような文章に関しての、第1問。
「筆者は、電車でイヤホンを使用することの利点は何であると述べているか」
これは四択問題で、正解は、
「他人に迷惑をかけずに音楽を楽しめること」
という選択肢なのですが、この夏、この問題を解いた3人が3人とも間違えて次の選択肢を選んでしまいました。
「電車の中でも他人と接触せずに済む」
( 一一)
筆者はそれをむしろ否定的に書いています。
しかし、生徒たちはそれを利点と感じるせいなのか、そのひっかけに見事に騙されていました。
また別の英文。
それは、仕事と余暇に関する文章でした。
以下のような内容です。
週休2日制が普及し、以前と比べて余暇の時間が増えている。
しかし、余暇の時間を持て余している人も多い。
従来、余暇は仕事をより良いものとするための休息の意味合いが大きかった。
生活において仕事が第一であり、余暇は仕事を能率的にこなすための休息であった。
しかし、近年、生活の中心は家庭であったり趣味であったりとする考え方が生まれている。
そうした考え方においては、余暇は仕事のための休息ではない。
だが、従来の仕事中心の考え方に影響されている人もまだ多い。
そうした人たちは、余暇の時間に遊ぶことに罪悪感を覚えることがある。
だから、余暇を仕事に使ってしまったり、余暇の時間に別の仕事を探してしまったりする。
仕事と余暇とのバランスをもっと考えていくことが必要である。
この文章に対する最後の設問。
「筆者がこの文章で最も述べたかったことは何か」
正解は、
「仕事と余暇とのバランスをもっと考えていくことが必要である」
という選択肢です。
しかし、生徒たちが選んだのは、
「近年、ますます余暇が増えている」
という選択肢でした。
・・・いやいや、それは単なる事実で、筆者が最も言いたかったことではないです。
( 一一)
なぜ、ここを間違えてしまうのでしょうか。
1人正解できない人がいたというだけなら、その子の読解力の問題ですが、さまざまな英語力の3人が3人とも、同じところで間違えるとなると、何か他に理由があるのかもしれません。
これは、国語においても言えることだと思うのですが、彼らは、文脈を正確に追わず、主観で文章を読んでしまったのではないかと思うのです。
イヤホンの件で言えば、筆者が否定的に述べていることが、自分にとっては魅力的なことだったので、否定的にとらえることができなかったのではないでしょうか。
仕事と余暇のバランスに関する文章は、自分の生活や考えとかけ離れていて、筆者の言っていることが理解不能だったので、そこを避け、自分が理解できる選択肢しか選べなかったのかもしれません。
それで思い出したのは、この夏、中3の夏期講習で国語の読解をしていたときに、本文中のいくつかの傍線部を「事実」と「意見」に分けるという比較的単純な問題を正答できない生徒もいたということです。
学力的には問題のない子です。
申し分ない学力の子が「事実」と「意見」を区別できないことに私は内心驚いたのですが、そもそも、そのような観点で文章を読んだことがないのかもしれません。
筆者の意見と自分の意見、あるいは意見と事実とを区別できないまま、曖昧な状態で文章を読んでいるのでしょうか。
もっとテクニック的に、文章中のA内容(世間の常識的な概念)とB内容(筆者の考え)とをサクサク対比して、選択肢をザクザク消してさっさと正解を出していく国語読解法を指導しようと思っていたのですが、ああ、この子たちはもっと手前だと感じました。
文章を読んだ経験がとにかく足りない様子です。
しかし、そういう話になると、「本をもっと読みましょう」という結論になりがちです。
それは勿論悪いことではないのですが、そういうときの「本」は、たいてい物語や小説で、文章の構造そのものが違いますから、上にあげたような論説文は読み慣れないままとなる可能性が高いのです。
小説も読めない子なら、まず小説から読めばいいでしょう。
しかし、学力が高い子は、小説ならまあまあ読解できる子が大半です。
問題は、論説文が読めないこと。
そんな文章、どこで読めばいいのでしょうか?
学校の図書室を探しましょうか。
あれ?
学校の図書室に論説文なんてありましたっけ?
誰が書いたどんなタイトルの本が論説文なんでしょう?
模試や入試に出題される論説文は、新聞や雑誌に掲載されたものが大半です。
評論集としてまとめられているものもあるでしょう。
しかし、生徒はそういうものに触れる機会がほとんどありません。
読もうと思っても、どこに載っているのかわからないのです。
ですから、論説文を読むには、論説文の問題を解くのが一番手軽で確実です。
日常的に国語の論説文問題を読み、解いていくことで、論説文の読解力がついていきます。
普段読んだこともなく、解いたこともないから、たまに模試や入試で解こうとしても、どう読んでいいかわからないのですね。
ところで、国語の場合は物語文は得意だが論説文は苦手という子が多いですが、英語になるとそれが逆転しがちなのも面白い傾向です。
英語の場合、論説文なら読み取れるのに、小説やエッセイになると、何が書いてあるのかわからなくなる子は多いです。
近年、大学入試の英語問題に小説が用いられることは少なく、実用的な英文を読み取れることが第一とされてはいますが、たまに英語で物語文を読むと、ある程度の英語力のある子でも、内容をほとんど読み取れないことがあります。
英語の場合、論説文なら読み取れるのに、小説やエッセイになると、何が書いてあるのかわからなくなる子は多いです。
近年、大学入試の英語問題に小説が用いられることは少なく、実用的な英文を読み取れることが第一とされてはいますが、たまに英語で物語文を読むと、ある程度の英語力のある子でも、内容をほとんど読み取れないことがあります。
ユーモラスな文章、ジョークを交えた文章は特に読み取れない様子です。
例えば、こんな文章。
オーストラリア出身の若者が、ロンドンで生活しています。
ガーデニングで庭に穴を掘っていると、近隣の人に声をかけられます。
「プールでも作っているのかい?」
「いや、故郷に帰ろうと思ってね」
問題 この若者の返答の意味を面白さがわかるように説明しなさい。
この問題に正答できた生徒は、今のところ1人も存在しません。
正解を説明してあげても、それの何が面白いんだという顔をしています。
その他にも、英語で書かれた小説やエッセイは、例えばヨットでサルが暴れていたり、日本人なのにネイティブ・アメリカンと間違われ続けたり、屋根裏部屋に幽霊が出たり、頭の中に空洞があることに気づいたりと、生真面目に英文を読んでいる高校生ほど書いてあることが理解不能であるらしく、なかなか正答できない様子です。
英語で書いてあることは真面目なことだと思いこんでいるのかもしれません。
英語で読むだけでもハードルが高いのに、書かれてあることが予想外に突飛な内容だと、自分が正しく読み取れている自信が持てない。
英語はもっとありがちな、環境問題とか、異文化コミュニケーションの大切さとか、そういう教科書に載っているような内容が書いてあるほうが読みやすい。
・・・わかりますけれど、少し頭の硬い考え方だなあとも思います。
結局、それも、英文を読んだ経験が不足していることが最大の原因なのでしょう。
Posted by セギ at 17:55│Comments(0)
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