たまりば

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2017年08月06日

戦争のことを少し。


今もそうですが、私は夏野菜が好きです。
高校生の頃、夏になるとよく路地物のキュウリを丸ごと1本、マヨネーズをつけてかじっていました。
そういう私を見て、必ず母は、
「戦争中みたいねえ」
と言っていました。
「戦争中はキュウリに味噌をつけて食べていたものよ」
「・・・・・」

キュウリと味噌のある「戦争中」は、随分とのんびりした印象でした。
少なくとも、私が本で読んだりドラマで見たり学校で習ったりしていた「戦争中」とは違うものでした。
母の口にする戦争中の話には「餓死」も「空襲」も「罹災」も「疫病」も「疎開」も出てきませんでした。
キュウリと味噌と、そしてもちろんお米のある「戦争中」は、果たして戦争中なのだろうか?
それはそれなりに豊かな生活であるような気がしたのです。
勿論、戦争を知らない私が安易にそんなことを言うわけにいかず、黙ってキュウリをぽりぽり食べているのが常でしたが。

太平洋戦争の頃、母は新潟市に住む旧制女学校の生徒でした。
近隣にはまだ農家が多く、祖父の友人の農家から野菜などを分けてもらっていたようです。
食糧を求めに来たよそ者には辛くあたったかもしれない農家の人も、以前からの知り合いには優しかったと思います。

母は、女学校の生徒でしたが、戦争末期には動員されて軍で働いていました。
乱数表から暗号を読み取っていたそうです。
ときどき、軍人さんからお菓子や肉の缶詰をもらえたと言います。
「戦争中でも、軍には何でもあったのよ」
と母は不満げに言っていましたが、ときどきでも分けてもらえる母の立場もかなり羨ましいものではなかったかと思うのです。
私が知識として知っている女学生の動員は、軍需工場で働かされた上にその工場が空襲されて友達は死に、自分の身体は一生残る傷を負うという、この世の地獄のようなことばかりでしたから。
そういう話と比べれば楽そうな職場にいた母は、それでも動員で働かされたことが不満だったようです。
「結婚前に働きたくなかったのに」
と言っていました。
望まない労働を強制されたというよりも、女学校を出たら仕事などせず、花嫁修業をして、良い縁談に恵まれて結婚するというあるべき人生に余計なものが挟まったことに対する不快感が先にきている様子でした。
そういう時代だから仕方ないのですが。

『火垂るの墓』を書いた野坂昭如氏は、神戸の戦災で幼い妹さんを亡くし、新潟に住む実父に引き取られました。
妹さんを亡くした経緯は小説とは随分違うものらしいのですが、妹さんは亡くなり野坂さんは生き残ったという事実は変わらないようです。
自分だけが生き延びたつらい記憶を抱えて暮らすことになった新潟での、戦争があったとは思えない豊かな暮らしへの複雑な思いが書かれた著作を読んで、母が語る断片的な思い出とそれがつながり、ああ、そういうことだと腑に落ちました。
まして、母は、私が読んでいる本の内容には頓着せず、
「ああ。野坂昭如さん?あの人の義理のお母さんと、私、お茶の教室が一緒だったのよ」
などと、さらにそれを裏付ける断片をぶっ込んでくるのでした。( ;∀;)
お茶の教室って・・・・。
いや、それはさすがに戦争中ではなく、戦後すぐの話だと思いますが。
戦後の混乱期、母はお茶だお花だと花嫁修業にいそしんでいたのでした。

『火垂るの墓』はひどく読みにくい文体でつづられています。
それは、野坂昭如さんがいかにあの主題を語りにくかったのか、その辛さがそのまま文体になったものだろうと思います。
学生時代の夏、うんうんうなりながらそれでも一応は読んだものの、以後、読み返すのはさすがにつらく、もっぱらアニメの記憶になってしまいます。
アニメで印象的だったのは、主人公が餓死に直面している同じときに、戦争が終わって疎開から帰ってきた女の子が晴れ晴れとクラシック音楽を聴いて平和を享受している場面でした。
たったそれだけのシーンで、その女の子は、戦争中ですら、それほどの苦難は味わわなかったのではないかと想像されるのです。

悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
戦争は平等に不幸をもたらすものではない。

そのことに、私は戦慄します。
みんな平等に不幸なら、まだましなような気がします。
そもそも、みんな平等に不幸になるなら、もう2度と戦争は起こらないのです。
誰もそんなことはやりたがらないのですから。

どれほど悲惨な戦争があっても、そんなに苦しい思いをしなかった人もいる。
だから、また戦争は起こる可能性がある。

戦争で苦しむかどうかは、財力だけの問題ではないのでしょう。
新潟は、軍事施設のある港でしたが、最後まで大きな空襲はありませんでした。
しかし、原子爆弾投下候補地のリストに載っていたそうです。
なぜ、新潟には原爆が落ちなかったのか。
そんなのは、紙一重の問題でしょう。

戦争末期、広島と長崎に「新型爆弾」が投下された後、8月11日だったのか12日だったのか、新潟市に3つ目の新型爆弾が投下されるという警報が出され、市民が一斉に避難した日があったそうです。
「あのときは、リヤカーを引いて皆で避難したのよ。関屋まで逃げたよ」
母はそう言うのですが、その「関屋」は、爆心地がどこになるかによるにせよ、被災から完全に逃れられたとは到底思えない距離にある地名なのです。
戦争中に食糧にそれほど不自由しなかった幸運など、そうなってしまったら、もう何にも関係がありません。
歴史的事実としては、新潟に原子爆弾は落ちなかった。
落とされる可能性も低かったことが今はわかっている。
それでも・・・・。

財力があれば戦争から逃れられるわけではありません。
戦争になったとき、どうすれば自分だけは苦しまないでいられるのか。
そんなのは、戦争を引き起こした当事者でもわからないかもしれません。
それでも、本人はわかっているつもりかもしれない。
それが、恐ろしい。

終戦の日、軍で玉音放送を聴いた母は、その直後、将校の1人が抜刀して女学生に切りかかり暴れだしたのを見たそうです。
そうでもしないと気持ちのやり場がなかったのか。
そうでもしないと面子が保てなかったのか。
女学生に切りかかって暴れる軍人の話は、母の話の中で最もリアリティのある話でした。

ああ、軍人ってそういうメンタルか。
乱心して切りかかるにしても、女学生相手なんですね。
結局、怪我人はいなかったそうで、全部ポーズですよね。
ああ、嫌だ、嫌だ。

その話は、私が二十歳を過ぎてからようやく母の口から語られたことでした。
もしかしたら、母は、子ども相手に語るべきではないもっと嫌なことも見聞したのかもしれません。

戦争がなかったら、東京の女子大で勉強できたのに。
母から、幾度かそう聞きました。
戦後の混乱期の東京に、娘を出すわけにはいかない。
そういう理由で、母の大学進学はかないませんでした。

何となく聞き流してきたけれど、私が当たり前のように大学に進学したのは、母のそういう気持ちも背景にあったろうと思います。
母の戦争体験をのんびりしたもののように思う私ですが、では、自分が戦争のせいで大学に行けないとなったとき、それを我慢できるのかと考えると、そんなの我慢できるわけがないのです。
本で読んだだけの悲惨な話に頭でっかちになり、小さな不幸に共感できないなんて。
薄っぺらいのはむしろ私でしょう。

戦争体験を語れる人が少なくなってきました。
私の知っている断片だけでもここに残しておこうと思います。





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