たまりば

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2013年12月26日

魯迅『故郷』の希望。

魯迅『故郷』の希望。

魯迅の『故郷』という小説を読んだことのない日本人は少ないのかもしれません。
この小説は、現在、文科省認定の中学3年国語教科書の全てに採択されています。
日本の中学3年生は、一部の私立をのぞけば、ほぼ必ず、『故郷』を読みます。
現在だけでなく、過去数十年、たいていの教科書には、この小説が載っていました。
無論、私が中学生だった頃も、『故郷』は、教科書にありました。

中学生だった頃に読んだ印象は、しかし、とにかく「暗い」というものでした。
内容が陰気で、読んでいて、気持ちが暗くなりました。
子どもの頃、輝いていた幼なじみは、みじめで卑屈な印象の、つまらない大人になってしまっている。
清が滅び、新しい時代が来たのに、故郷は因習にとらわれ、何も変わらない。

うわー、この小説、苦手だー。
受験勉強で好きな本もなかなか読めない中、国語教科書の小説は、わりと楽しみにしているのに、こんなにつまらないと、テンション下がるわー。
中学生の頃の私の気持ちは、思い出す限りでは、大体そんなものでした。

自分が中学生だった頃、特にわからなかったのは、陰気な話が延々と続くのに、最後、急に希望が語られることでした。

「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」

うわ、何だろ、この唐突な前向きさ。
何の根拠もない、この楽天的な希望。
しかも、この文でこの小説は終わり?
ええっ?

魯迅は、五・四運動の思想的指導者です。
結局、革命思想家というのは、根拠なく楽天的なのかもしれないなあ。
革命を可能にするには、この楽天性が必要なのだろう。
何かポンと論理を飛躍させ、行動を飛躍させないと、革命は実行に移せないんだろうなあ。

そんなうがった見方をした中学時代でした。

それから、長い長い年月がたちました。
その間、ずっと塾講師として、中学生と接してはいても、魯迅『故郷』を読む機会は、なかなかありませんでした。
中学生に国語を教えることはあるのですが、塾は、入試向け問題集で指導しますので、学校の教科書の小説は読みません。
教科書に載っている文章は、入試には絶対に出ませんから。

あるとき、中学3年生の期末テスト対策をすることになり、十数年ぶりに、魯迅『故郷』を読みました。
びっくりしました。
中学3年生のときに読んだきりの文章なのに、細部まで鮮明な記憶があるんです。
うわっと鳥肌が立つ思いでした。
大人になって読んだ小説を数年後に読み返しても、こんな感覚はありません。

十代の頃に、1つの小説を、勉強するために何度も何度も読むということは、これほどのことなのか。
その小説の表現の全てが、自分の血肉となっているのです。
一生忘れない、自分の中の表現になる。
好きではなかった小説でさえ。

読解力の衰えている現代の子どもに迎合して、「ゆとり時代」には、今どきの易しい文章が随分多く教科書に載りました。
本を読む習慣のない子どもに、読む楽しさを伝えたい。
そんな切実な願いがこめられていたのを感じます。
でも、それはやっぱり迎合です。
そこまで迎合したところで、国語嫌いの子どもは、
「国語なんかつまらない」
「教科書に載っている小説なんてつまらない」
と言っていました。

どうせ何を載せてもつまらないと言うのなら、難しくて構わないでしょう。
読む価値のある文章を読むほうがいい。


大人になって読み返す『故郷』は、難しくありませんでした。

小説の最後に、主人公は、故郷を出発し、自分の子どもたちの生き方について考えます。

「私のように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。またルントーのように、打ちひしがれて心が麻痺する生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こして野放図に走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を。」

無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活。
打ちひしがれて心が麻痺する生活。

こんな表現は、中学生の私にはわかりませんでした。
頭では、わかっていたかもしれませんが。

ああ、『故郷』には、こんなことが書いてあったのか。
数年おきに、必要があって読み返す度に、この表現に目が留まります。

あっ、と思う表現は、さらに続きます。

「希望という考えが浮かんだので、私はどきっとした。たしかルントーが香炉と燭台を所望したとき、私は相変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今私のいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ。」

「希望」という考えに「どきっとする」感覚も、中学生の私にはわかりませんでした。
テレビをつければ、歌手が、あっけらかんと希望や夢を歌っていました。
希望という言葉を使うことに、ためらいがありませんでした。
希望を「手製の偶像」と感じる感覚など、わかるはずがありません。
中学生は、「希望」という言葉を単純に明るい良い言葉だと感じてしまう。
「希望」という言葉が使われているだけで、最後は唐突に明るいなあ、と思ってしまう。

「希望」という言葉を使うことへのためらい。
その感覚がわかれば、この小説の終わりは唐突には感じないのでしょう。

「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは、地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それは道になるのだ。」

このラストは、読み直してみるとそれほど明るくありません。
希望について、簡単に肯定はしない。
でも、否定もしない。
これは、楽天的なのではありません。


「地上の道」という比喩には、誤解しやすい要素があるのかもしれません。

青春を旅する若者よ
君が歩けばそこに必ず道はできる

昔の歌に、こんな歌詞もありました。

僕の前に道はない
僕の後に道はできる

そんな有名な詩もあります。

そこで語られる道は、明らかな希望です。
そういうものも嫌いではありませんが、魯迅の語る「地上の道」は、それほど肯定的なものではありません。

歩く人が多くなれば道になる。
しかし、多くの人が歩かなければ道にはならない。

自分の希望が、手製の偶像かもしれないと自覚する。
それでも、希望を否定はしない。

簡単に楽天的なのでもなく、悲観的なのでもなく。
簡単に肯定するのでもなく、否定するのでもなく。
ニュートラルなこの感覚と、その知性。

何で、十代の私は、これに気がつかなかったのだろう。
十代の頃の自分がどのような感じたかも大切にしたいけれど、それを過信しないことも必要なのかもしれません。
昔の自分は今の自分と地続きなので、なんとなく今と同じように判断していたような感覚をもちがちです。
あの頃、自分が感じていたこと。
もしかしたら、全てに対して、稚拙な判断ミスをしていたのかもしれません。

魯迅の『故郷』は、そうした昔の自分に再会できる小説のように思います。



さて、セギ英数教室は、12月24日から冬期講習が始まっています。
年内は、12月30日まで。
年明けは、1月4日から授業開始です。
12月指導レポートの発送は、1月10日頃になります。
皆様、良いお年を。



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    Posted by セギ at 19:00│Comments(2)講師日記
    この記事へのコメント
    堀池喜一郎@一歩塾です
    あけまして、おめでとうございます。
    新年もよろしくお付き合いの程お願い致します。
    Posted by 一歩塾&ブログ村一歩塾&ブログ村 at 2014年01月04日 18:24
    コメント管理機能に気づくのが遅くて、返信遅くなりました。
    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いいたします。
    ヾ(@゜▽゜@)ノ
    Posted by セギ at 2014年02月26日 21:22
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    魯迅『故郷』の希望。
      コメント(2)