たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾三鷹市 三鷹市

2012年09月01日

「この空の花」


さて、本日、夏期講習も無事終了いたしました。
この夏期講習の成果は、2学期の成績に結実します。
歩みを止めることなく、中間テストに向かってまい進しましょう。

そんなこんなで終わった今年の夏。
お盆休みは、大気が不安定で、様子を見ているうちに山に行かずに終わってしまいました。
休みらしい行動といえば、珍しく、映画を見に行きました。

大林宣彦監督『この空の花 長岡花火物語』。

この映画は、新潟県長岡市が企画し、大林宣彦氏に監督を依頼した映画。
宣伝費はゼロだそうです。
しかし、ネットで少しずつ評判が広がり、名画座などで単館上映が続いています。
私は、ポレポレ東中野で見てきました。

あの大林監督が、何かとんでもない怪作を撮ったらしい。
昔の自作の良さをなぞるような作風で安定してもおかしくない年齢なのに、とにかく斬新で妙な映画を撮ったらしい。
何もかもが、ぶっ飛んでいる。
そう聞くと、それは見に行かねば。

しかし、私がそんなに忠実な大林映画のファンかというと、そうではありません。
『転校生』『時をかける少女』までは、ちゃんと見ていたのですが、『さびしんぼう』で、なんだこりゃ?と思い、『廃市』で、寝てしまいそうになり、『異人たちとの夏』は、もう映画館には行かなかった私は、何十年かぶりでの大林映画との邂逅でした。
でも、若い頃に大林映画に触れているというのは、この場合、有利に働いたと思います。
大林映画の「文法」に慣れているので、違和感は最小限で済みました。

『この空の花』で、大林映画に初めて触れる人にとっては、この映画は、大変な映画ではないでしょうか。
頭がオーバーヒートしますよ。

恐ろしい早口と説明口調で、登場人物が次々と語る詳細で膨大な情報。
「模擬原子爆弾」という耳慣れない言葉に、「え?」と思う間もなく、収束焼夷弾の詳細な仕組みが図解で語られ、長岡空襲の被害の具体的なデータが洪水のように押し寄せてくるかと思うと、話は時空を軽々と飛び越え、戊辰戦争の米百俵の話から、山本五十六、第五福竜丸、堀口大學と次々と飛び、うかうかしていると、日露戦争の話になったかと思ったら、やっぱり太平洋戦争の話で、ソ連に抑留されて、アムール川に花火が上がる。

ちょっと、待って。

無差別じゅうたん爆撃攻撃目標順位表?

もっとよく見せて。

堀口大學の詩?

もっとよく読ませて。

で、この稚拙な劇中劇は、どう解釈したらいいのかわからないけど、しかし、これをリアルな映像でやられると、ありがちな戦争映画になるので、これでいいのかなあ???

私が混乱している間も、映画は一瞬もとどまらず、爆発的な情報を与え続けてきます。

ニュース解説の番組ではないので、全て、映画のストーリーの中で登場人物たちによって早口で語られますし、そんな固い会話を早口でしている中でも、登場人物たちは、それぞれ何か妙なことをしでかしていますし、その後ろを謎の一輪車集団が旗を立てて通り過ぎていったりもします。
映画を楽しむというよりも、映画からあふれ出す情報と、自分の情報解析能力との闘いです。
長岡の歴史と、登場人物それぞれの個人史が、ごちゃごちゃに語られますので、時系列がめちゃくちゃですし。
しかし、見る者が「頭の中で整理したい」「理解したい」と思う時点で、これは明らかに監督の勝ちですね。
(*^_^*)


「飛行機からは、人間が見えなかったんでしょう。見えていたら、あんなことはできなかったでしょう」
かつての敵の非人間的な行動を責めても、それは未来につながらない。
かつての敵の心に届く言葉は、どんな言葉か。
高度に政治的であり、優れて知的であるということは、結局は、相手の人間性を信じ、相手の気持ちを想像することではないかと、映画を見て考えました。

平和運動を、正義で行うことはできない。
正義は、必ず別の正義とぶつかる。
平和運動は、「正気」で行う。
正気で考えたら、戦争なんかする気にならない。

大林宣彦監督は、先日出演したラジオ番組で、そのように語っていました。

そうですよね。
相手が間違っているとか、自分のほうが絶対に正しいとか、そういうことではない。
大切なことは、それではない。
そう思います。

  


  • Posted by セギ at 20:49Comments(0)講師日記