たまりば

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2022年08月30日

学校の教材をどう使うか。


さて、夏休みが終わりました。
夏休みが終わると、公立中学はじきに中間テストシーズンが始まります。

テスト直前は、セギ英数教室では、宿題は「テスト勉強」という漠然とした課題を出すことが多いです。
というのも、テスト前は学校のワークの課題がたくさん出ているので、その上で塾の宿題まで出すと、学校のワークを解ききれない可能性があるからです。
「塾の宿題をやっていて、ワークができなかったから、提出しなかった」
と、真顔で言われてしまったら困ります。

以前に勤めていた大手の個別指導塾では、そのタイプの子が多かったのです。
優先順位を間違えてしまうんでしょうか。
あるいは、学校のワーク課題の、場合によっては30ページを越えるボリュームに気圧され、とにかく塾の宿題だけやって辻褄を合わせよう、あるいは言い訳しようと思ってしまったのかしれません。
塾の宿題ならば、2~3ページですから。

以前に勤めていた集団指導塾では、定期テストの直前は、何か講義をするのではなく、テスト勉強の時間に充てていました。
さらに、土曜日や日曜日にはテスト勉強のために塾を開放していました。
たいていの子は、その時間に学校の課題のワークを仕上げていました。

後に都立自校作成校に合格した子が、学校の数学のワークがまるまる残っている、ということもありました。
「あー、うざい。こんな問題、解く意味があるのかー」
と言いながら、基本的な計算問題を猛スピードで解いていました。

問題には解くべき時期があります。
もう発展問題が解けるようになってから、テスト前に基本問題ばかりそんなに大量に解いても仕方ない。
その問題で練習することが効果的であるよう、日常の予習復習に学校のワークを活用することを望みます。

でも、うざいと言いながらも自分で解くのが秀才です。
中には悪だくみをする子もいました。

テスト前に、何か数学の課題を出してくれと言うので、
「え?学校のワークは終わったの?」
と訊くと、終わったと言う子がいました。
まだ基本的なことも定着していない様子なのに、なぜ学校のワークが終わっているんだろう、何か変だなあと困惑していると、
「友達とワークを交換した。自分は理科を2冊解いて、友達は数学を2冊」
「同じワークを2回解いたということ?」
「うん。だから、理科は、今回ばっちりだよ」
「・・・」

そんなふうに、昔は、学校のワークを仕上げるのにも四苦八苦、あるいは七転八倒な子どもたちがいましたが、近年は、学校の授業中に教科書準拠ワークをかなり解いてしまっている場合もあります。
新課程になって以降、生徒に学校の進度をきくと、
「何もやっていない」
という謎の発言をすることがときどきあるようになりました。
「自習」
という言い方をする子もいます。
何もやっていないわけはなく、まして自習でもなく、先生は教室にいるのですが、ワークの問題を解いていたり、タブレットを使って問題を解いていたりする時間を、「何もやっていない」または「自習」と本人たちは呼ぶようです。
そのことだけでも、その時間の意味や目的が生徒に理解されていないのを感じます。

それでも、一斉授業だけでなく、各自で演習する時間がそのように確保されているのは、良いことです。
特に数学においては、解説を聞いて理解できればその問題を理解したと誤解するのは、かなりまずい事態ですから。
理解することと自力で解くこととの間には、大変な距離があります。

私が解説している間は、にこにことうなずきながら聞いている子。
「わかりましたか?」と尋ねると、こっくりうなずきます。
しかし、それではと演習に入ると、ペンが全く動かない。
自分が解くという場面になって初めて、自分が何も理解していないことに、本人が気づく。
何をどうしたらいいのか、わからない。

それは、勉強に限らないことだろうと思います。
例えば、ダンススクールで、講師が解説を加えながら模範演技をするのを見て、それをすぐ真似できる子は、余程の才能のある子か、訓練を積んでいる子。
自分がやるとしたらどうだろうかという頭の働かせ方をして解説を聞き、講師の振りを見ている子たちだけです。
普通は、さあやってみましょうという段になってから、え、最初の動きはまずどうするんですかと質問する子が大半でしょう。
最初の一歩から、もうわからないのです。

一度に全部解説するからいけないので、部分で区切って解説すれば良いのかというと、これもかなり厄介です。
「ここまでのところで、何か質問がありますか」
と、途中で質問を受けると、生徒の多くはポカンとしています。
まだ答案的には最初の一歩を踏み出したばかりの段階で、いったん区切って、
「ここまでのところで、ですよ」
と念を押しても、ここまでのところと、この先のところの区別があまりつかない様子で、混乱してしまう生徒は多いです。
黙って困った顔をしている子が大半ですが、質問してくる子は、大抵その先のことについて質問してきます。
「ここまでのところですよ。この先がまだまだありますが、ここまでのところで質問はありますか」
そのように「ここまでのところ」を強めに発音して強調しても、何かしっくりこない様子で、自分の質問に答えてもらえないことに動揺した顔をしたりします。
仕方ないので、長い解説になる問題も、ひと通り全部解説し、さて質問はありますかと問うと、今度は、
「全部わからない」
という、凄い返事が返ってくることもあります。
そうなるのが嫌だから、早めに区切って質問を受けたのに・・・。
そうして、結局、最初の一歩がわかっていなかったということは、よくあることです。
なぜその最初の一歩を踏むのか、そのときに念を押して2度3度解説しているのですが、それでも、その最初の一歩を理解せず、質問もしない。
そのときは、それからどうするのか、ばかり気にしている。
そうして、全ての解説が終わったときに、全部わからない、となる。
話の聞き方が下手といってしまえばそれまでですが。
学校の授業がよくわからないというのも、それはそうだろうなあと思います。

自分が問題を実際に解くことになって初めて真剣に考え始め、テキストの例題解説を必死に読み始める子も多いです。
解説を聞いているだけでは、理解できません。
だから、演習する時間は、本当に必要な時間です。
学校で、ワークその他の演習をする時間をとり、本人が自力で解くところまで学校でやってくれているのはありがたいです。

とはいえ、現代の子の中には、一度は理解したこともすぐに忘れてしまう子たちがいます。
1度解いた問題で、本人もマスターしたつもりでいるのに、テスト勉強を始めると、全く覚えていないのです。
学校のワークは仕上がっているのに、理解していない。
昔とは種類の違う状況が起こりやすくなってきています。

昔は、学習する教材と学習する時間を確保すれば、多くの生徒が伸びました。
今は、それだけでは伸びない生徒がいます。
手取り足取りの指導と、反復が必要です。
学校のワークも、仕上がっていても、答を隠して、何度でも解き直すと勉強になります。
  


  • Posted by セギ at 19:33Comments(0)講師日記

    2022年08月20日

    文章を読めない子。


    今日は、生徒と小説の読解問題を解いていて、そんな誤読をするのか、と驚いた話を。

    それは、浅田次郎『霞町物語』の一部を読んで、問に答える問題でした。
    私は、この小説を読んだことがないので、問題文の範囲のことしかわかりませんが、その場面での主な登場人物は、語り手の「僕」と父と祖父です。
    父と祖父は町のカメラマンのようで、その日、特別に装飾された都電を並んで撮影しました。
    シャッターチャンスは、都電が通過する一瞬だけ。
    祖父は、自分の腕に相当な自信のある、昔かたぎの人のようです。
    「僕」が撮れたの?と尋ねると、
    「焼いてみりゃわかる。まちがったって暗室のドアを開けたりすんじゃねえぞ」
    と言います。

    ここからは、小説の本文を引用します。
    以下が引用文です。

    その夜、僕と父は夕飯もそっちのけで暗室にこもった。
    赤ランプの下の父の顔はいつになく緊張していた。
    「おとうさんのフィルムは?」
    父は少し迷ってから言った。
    「おとうさんのフィルムは抜いておいた」
    「え、どうして?」
    「おとうさんのが撮れていて、おじいちゃんのが真黒だったら、おじいちゃんガッカリするだろう。おとうさんの方は失敗したことにしとけ」
    「おとうさん、やさしいね」
    「おじいちゃんは、もっとやさしいよ。較べものにならないくらい」
    話しながら、僕と父はあっと声を上げた。現像液の中に、素晴らしい花電車の姿が浮かび上がったのだった。
    「すごい、絵葉書みたい」
    父は濡れた写真を目の前にかざすと、唇をふるわせ、胸のつぶれるほど溜息をついた。
    「信じられねえ・・・すげえや、こりゃあ」
    暗室から転げ出て居間に行くと、祖父と母は勝手にケーキを食っていた。
    父と僕のあわてふためくさまをちらりと見て、祖父はひとこと、「メリークリスマス」と言った。家族が大騒ぎしている最中にも、まるで当然の結果だと言わんばかりに、焼き上がった写真を見ようともしなかった。


    問題文はもう少し続きますが、設問にかかわる部分はここまでです。
    「父」がなぜ「祖父」の写真の腕を信用せず、自分のフィルムをわざと抜き、祖父の面目をつぶさないようにしたのだろうという謎はありますが、それはここを読んだだけではわかりませんから、設問にはなっていません。
    なぜなのだろう?
    小説全体を読んでみたくなります。

    さて、それはともかく。
    この問題文を読んで設問を解いたある子は、全問不正解になってしまいました。

    問1 「おとうさん、やさしいね」とあるが、これは「父」のどのような行為に対して言ったものか。

    その子は、これが、わからなかったのです。
    正解は「自分のフィルムを事前に抜いておく行為」です。

    これがわからない。
    解答を見ても、意味がわからない様子で首をひねっていました。

    そういう子と会話を重ねて、聞き取った事実に、私は驚愕しました。
    小説中の人間関係と、起こった出来事が理解できていなかったのです。
    もう一度引用します。

    「おとうさんのフィルムは?」
    父は少し迷ってから言った。
    「おとうさんのフィルムは抜いておいた」

    ここの部分です。
    最初のセリフは、「僕」のセリフです。
    ここで呼びかけている「おとうさん」は勿論、「僕」のおとうさん。
    父のことです。
    そして、2番目のセリフは父のセリフ。
    ここで言う「おとうさん」は、父自身のこと。
    父が、自分のことを息子の前で「おとうさん」と自称しているのです。

    この小説が読み取れなかった子は、それが理解できなかったのでした。
    父が言う「おとうさん」は祖父のことだと思って読んでいたのです。
    おとうさんのおとうさんは、おじいちゃんだから。

    嘘でしょう・・・?

    そのように読んでしまうと、この父親は、祖父のカメラのフィルムをわざと抜いた、底意地の悪い父になってしまいます。
    どこがどうやさしいのか、見当もつかない・・・。
    そりゃあ、意味がわからない。

    父親が子どもの前で自分のことを「おとうさん」と自称することがあるのを、一般常識として知らない。
    自分の父親は、そんな自称をしないから。

    それはわからないでもありませんが、しかし、文章には文脈というものがあります。
    もう一度引用します。

    「おとうさんのフィルムは?」
    父は少し迷ってから言った。
    「おとうさんのフィルムは抜いておいた」

    問われて答えているのですから、この2つの「おとうさんのフィルム」は同一のものです。
    したがって、どちらも、「父」のフィルムです。
    これは、飛び抜けた推理力や読解力がなくても読み取れるはずのことです。
    自分の父親が「おとうさんが」「パパが」と自称する人ではなくても、理解できるはずのこと。
    普通に読めることです。

    さらに、
    「おとうさんのが撮れていて、おじいちゃんのが真黒だったら、おじいちゃんガッカリするだろう。おとうさんの方は失敗したことにしとけ」
    というセリフもあります。
    1つのセリフの中で、「おとうさん」と「おじいちゃん」が出てくることから、それぞれが誰を指しているのか、理解できるはずです。


    しかし、現代には、それを読み取れない子がいます。
    その子だけの話ではありません。
    そうした子に私は何人も出会ってきました。

    1文ずつで文意がリセットされてしまい、文と文とのつながりが理解できないのです。
    つながりがつかめず、流れがわからないので、その1文だけで判断します。
    おとうさんが言う「おとうさん」は、おじいちゃんのこと。
    自分の狭い範囲の「常識」を杓子定規に当てはめて、奇妙な誤読をします。


    算数・数学の文章題を読んでいても、それは影響します。
    以前も書きましたが、例えば、
    「ある数を2乗するところを間違えて2倍したため、計算の結果は19小さくなった。ある数を求めよ」
    という問題文が理解できない子がいました。
    計算の結果とは、ある数を2乗したほうなのか、間違えて2倍したほうなのか、問題文を読んでもわからないというのでした。

    また、割合に関する文章題では、
    「色紙でつるを600羽折りました。赤い色紙のつるは全体の30%にあたります。赤いつるは何羽でしょう」
    という問題にある「全体の30%」の「全体」が600羽であることが読み取れない子がいました。

    さらに、
    「定員55人のバスに、140%の人が乗っています。このバスに乗っているのは何人でしょう」
    という問題で、140%とは、定員55人の140%であることが読み取れない子がいました。

    あるいは、
    「めぐみさんの学校では、今日は18人休みました。これは学校全体の4%にあたるそうです。今日出席しているのは何人でしょう」
    という問題の「これ」が何を指すのか読み取れない子がいました。


    文章が、句点、最悪の場合は読点ごとに意味が区切れてしまい、その都度意味がリセットされてしまって、つながりが理解できない。
    そうした子たちは、国語の成績が常に悪いか、ひどくムラがあります。
    しかし、何が原因であるのか、あまり理解できていないように感じます。
    「出題者とセンスが合わない」と言ったりします。

    国語問題は、センスの問題ではありません。
    行間を読んだりするものでもありません。
    書いてあることを書いてある通りに読めば、正解に至ります。
    国語の成績が悪いのは、書いてあることを書いてある通りに読めないから。
    それに尽きるのです。

    1文ずつで意味をリセットしてしまう読み方の癖のある子は、読み飛ばしも多いです。
    結局、意味がよくわからないから丁寧に読まず、丁寧に読まないから、さらに意味がわからない。
    その悪循環なのでしょう。


    1つの解決策としては。
    これは都立高校を受験する子たちの話ですが、都立高校の国語入試問題は、200字の作文が出題されます。
    作文なんか小学校の頃から大嫌い。
    20字程度の記述問題でも全部空欄にしてしまうくらいなのに、200字の作文なんて書けるわけがない。
    何を書いていいか、わからない。
    そんな子が、大多数です。

    しかし、都立入試の200字作文の配点は10点です。
    ここは白紙にはできません。
    満点は取れなくても、せめて5点は取らないと、勝負になりません。

    だから、とにかく200字を埋めるシステムを私は教えます。
    満点は狙いません。
    1文字も書けない子が、とにかく200字埋めるための指導です。

    不思議なことですが、200字をとにかく埋められるようになった頃から、その子の読解力が上がり始めます。
    まずは小説の読解で、次いで説明文の読解問題で、正答が増えていきます。
    最後に、一番意味のわからない古典の鑑賞文に関する問題でも。
    勿論それは、教科書以外の文章をろくに読んだことがなかった子たちが、定期的に問題文を読むようになったことが大きいのでしょう。
    しかし、それだけでなく、「自分が書く」ようになったことで、文と文とはつながりがあることを少しずつ体得しているのではないかと思うのです。

    そうするうちに、あるとき、何も書けなかった子が、私が「こういうことをこのように書きなさい」と指示したものとは違うものを書いてくることがあります。
    自分には、別の考えがある。
    それを、このようなことを根拠に、このように伝える。
    そうした200字を書いてくるのです。

    ほぼ生まれて初めて文章を書くようになった子。
    入試答案という観点からまずいときには、否定します。
    しかし、そうでない限り、それを読む私は笑顔です。
    書きたいことがあるから書く。
    それを経験した子は、文章を読む力もまた一段階上がるのです。
    問題文を書いた筆者も、何か書きたいことがあって書いている。
    何かを伝えようとしている。
    それを体感して文章を読むようになると、読解力は上がります。

      


  • Posted by セギ at 12:04Comments(0)講師日記

    2022年08月13日

    教材にまつわる小さなストレス。


    中学受験をする小学生に対しては、保護者がぴったりついて学習をサポートしている場合が以前よりもずっと増えてきたように感じます。
    子どもが勉強しているのを監督するというレベルではなく、保護者の方が学習内容や教材の準備に深く関わっているのです。
    志望校の過去問をコピーして1問ずつに切り分け、一度解いて間違えた問題をノートの1ページの上部に1問ずつ貼ってある「解き直しノート」を生徒が持っていたりします。
    スキャンして、パソコンで再編集してスペースを広く取ってプリントアウトしている人もいました。
    そうした「解き直しノート」は、お母様の労作なのです。
    フルタイムで働いているお母様でも、そんなに手間のかかることをしていました。
    それなのに、子どもは、そのお母様の労作の「解き直しノート」に雑な答案を書きちらし、同じことを同じように間違えている・・・。
    その様子を見ているだけで、私は徒労感に軽い吐き気を覚えました。
    自分の徒労にはわりと鈍感な体質ですが、他人の徒労は、見ているだけできつい・・・。
    しかし、子育てということは、そういうことの繰り返しなのかもしれません。

    いや、徒労と決めつけてはいけません。
    間違えた問題の解き直しは、小学生にとっては、想像以上に負担のかかる作業です。
    一度解いた問題をもう一度解くことの意味が、子どもにはわからないのかもしれません。
    当然、やる気が起きません。
    そもそも、「問題集を見て、解答はノートに書く」という作業が難しい子が今は多いです。
    書き込み式のほうが、目が1か所に集中し、学習が進むのです。
    だから、子どもの学習ストレスを少しでも軽減すべく、保護者の方たちは頑張ってコピーを取りまくり、切って切って貼りまくっています。


    私自身の話でいえば、生徒の学校の問題集からの質問を受けるときには、その問題をスマホで撮影し、その画像を見て問題を解き、解説します。
    リモート授業のときには、生徒にその問題を撮影して送ってもらいます。
    その画像を私がどう使っているか、あまり理解できていない生徒の場合は、端が切れていたり、ブレていたりなど、画像の質がかなり悪いこともあります。
    厚い問題集を撮影するときには、片手で押さえていないとページが閉じてしまうので、片手で押さえ、片手で撮影。
    そうなると画像はピンボケ。
    生徒ばかりを責められません。
    悪い画像を拡大してそれを見ながら私は問題を解きます。
    ところが、先日、塾との連携を進めている私立の学校から、生徒の夏休みの宿題を全部コピーしたものをいただきました。
    それを解いていて、あまりにもストレスフリーであることに驚きました。
    コピーを直接見て、直接書き込めるというのは、こんなに楽なものだったか・・・。

    とはいえ、コロナ禍までは、私は生徒と向き合い、生徒の問題集を逆さからのぞき込んで問題を解いていました。
    数学の関数の問題も、高校入試レベルなら英語の長文問題も。
    逆さに文字を読むことができ、生徒に向けて、逆さに文字を書くこともできる。
    個別指導講師の特殊技能を発揮していました。
    あれに比べたら、画像とはいえまともな向きで問題を読める今のほうがどれほど楽かしれません。


    子どもの場合も、本来は、間違えた問題は自分で問題集に印をつけて、ノートに解き直したらいいのです。
    しかし、そうしたことができない子どもは多いです。
    勉強にまつわるストレスを少しでも減らすべく、教材準備などの事務作業は保護者の方が一手に引き受け、勉強しやすい環境を作る。
    中学受験までは、そのように全面協力するのも仕方のないことなのだと思います。

    問題は、中学に入学後です。
    広いスペースをとった「書き込み形式」のプリントやテキストでないと問題を上手く解けない子どもは、中学生になっても多いです。
    しかし、多くの場合、学校の問題集は、それほどのスペースがありません。

    自校に入学した生徒がどんな受験勉強をしてきたかを把握している私立の先生たちは、そこのところを細かく丁寧に指導しています。
    例えば、数学では、問題集の問題文を、ノートに青ペンで全文書き写してから、解く。
    そのようなノートを作っていない場合は、再提出。
    それは、問題を読まずに解く癖のある子に少しでも問題文を読む時間を作らせる狙いもあるのでしょう。

    あるいは、学校に教材を卸す教材会社も、書き込み式でないと上手く解けない生徒が多いことを把握しているので、問題集に完全準拠の完成ノートを用意しています。
    問題集の問題文が印刷され、解答スペースが空けてあるノートです。
    それはまた、先生が生徒の宿題をチェックしやすいノートでもあります。

    先生の手作り感あふれる冊子テキストを生徒に配っている中学もあります。
    印刷したものをホチキスで中綴じしてある冊子です。
    スペースが広くとってある書き込み式で、易しい基本問題を繰り返し繰り返し練習できるようになっています。
    1つの単元で10冊ほどの冊子テキストが渡される学校もあります。
    これほどの反復をすれば、基本は身につきますね。

    しかし、学校によっては、うちの生徒はそこまで過保護な扱いをしなければならない学力ではないと判断しているのかもしれません。
    スペースのあまりないプリントをポンと渡し、しかもそれに書き込んで提出、という学校もあります。
    これは本来、ノートに解くタイプの問題集なのではないか?
    そう思われるプリントに、生徒が雑な字で強引に書き込んでいます。
    「これ、本当に書き込むことになっているの?ノートに解いて提出という指示はなかったの?」
    「書き込めと言われました」
    そんな場合もあります。

    計算問題のスペースも全体に狭いけれど、さらにその下の文章題は、解答スペースが縦3㎝程度。
    粒の小さい字を整然と書いていく訓練を積んでいるのでない限り、このスペースで方程式の文章題の答案として必要なことを全部盛り込むことは、不可能に思えます。
    何をxとしたのかという文字の定義がされていない。
    いきなり暗算した結果を使った意味不明な方程式を立てて計算し、出た解が「適」かどうかの判断も勿論しないで解答欄に答を書いている。
    そういうダメな答案を書くように、学校側がむしろ誘導しているようにすら感じます。

    でも、スペースがないからといって、必要なことを省略するようではダメなのです。
    その判断ができるかどうか、それを含めての夏の修行。
    そういう意味の宿題なのかなあと夏休み宿題プリントを眺めながら考えてみたりします。

    書き込み式教材の欠点は、解き直しがしにくいことです。
    小学生の保護者の方たちはそれを見越して、テキスト本体には何も書き込ませず、すべてコピーして与えています。
    繰り返し、解き直しができるように。

    塾としては、コピー代が経営を圧迫してしまうので、さすがにそれはできません。
    でも、解き直しは必要。
    そうなると、結論としては、ノートに解いてもらうことになります。
    高校入試のための受験勉強をしている生徒たちにとっては、問題をノートに解く練習は、高校入学後に本人が自分で勉強していくためのトレーニングでもあります。
    しかし、不安もあります。
    「間違えた問題は、後で解き直しましょう。
    受験勉強で何をしたらいいかわからないときは、テキストの解説部分を繰り返し読んで内容を理解し覚えるか、問題を解き直すかをしましょう。
    それが受験勉強です」
    そう助言していますが、答を書いたノートを生徒が捨ててしまう可能性は否定できません。
    「解き直したけど、答がわからない」
    と、すっとこどっこいなことを言い出すかもしれません。
    ノートが、この問題集の解答集。
    だから、ノートには、解いた問題のテキスト番号とページを必ず入れておきましょう。
    繰り返しそう話しているのですが、何しろ生徒というのは忘れっぽいところがあるので、そんな話は話として、実際には、使い終わったノートは、ああ終わったと、即廃棄してしまうかもしれません。
    だから、ノート管理は無理だろうと思われる生徒には、テキストに答を書き込ませることもあります。
    高校受験生は、もともと、類題が繰り返し繰り返し出てくる問題集を解いているので、何とかなるのでもあります。
    新しい問題を解いているけれど、実質は解き直し。
    そのようにして学習を積み重ねています。

    昔とは違い、今の子どもたちは、幼い子が多いです。
    勿論、昔通りの子もいますが、精神年齢は、「実年齢-5歳」と見積もっておいたほうがいい場合もあります。

    中学受験をする12歳は、精神年齢は7歳。
    高校受験をする15歳は、精神年齢は10歳。
    大学受験をする18歳は、精神年齢は13歳。

    その精神年齢にしては、よく頑張っている。
    つらい勉強を投げ出さずに取り組んでいる。
    それだけで、大丈夫だよ、と思います。
    昨日よりは今日のほうが、今日よりは明日のほうが、学力はついている。
    それだけで、大丈夫です。

      


  • Posted by セギ at 14:04Comments(0)講師日記

    2022年08月10日

    本当の自分はもっと学力が高い。


    間違えた問題には印をつけて解き直す。
    長く通塾している生徒たちは、それが定着しています。
    しかし、まだ通塾期間が短い間は、指示しても、なかなかそれを実行できないこともありました。
    間違えた問題でも、印をつけるときと、つけないときがあるのでした。
    なかなか思うように結果の出ない子ほどそのような傾向があるように感じました。

    見ていると、何か本人なりの判断をしている様子でした。
    「今のはケアレスミスで、本当は自分はこの問題は解けるから、印はつけない」
    「こんなくだらない問題は、本当は解けるから、印はつけない」
    ということなのかもしれません。
    そうして印をつけるのは、本人が気に入ったのらしい、難しい問題だけ。
    これは重要問題だ、と本人が感じた問題だけに印をつけているようでした。

    これは、その子の現実の学力と、本人が思っている学力とが乖離している子にときどき見られる傾向でした。
    学力テストの偏差値や学校の定期テストの得点で、自分が伸び悩んでいるのは多少理解しているはずなのですが、何かどこかで自分の能力を過信しているようなのでした。
    公立の子よりも、中高一貫校に通う子に多く見られる傾向です。
    公立の子は、良くも悪くも学習のやり方を知らず、その分「まっさら」ですから、
    「間違えた問題には印をつけて、後で解き直しなさい」
    といったアドバイスが、そのまましみ込んでいきます。
    一方、中高一貫校の子は、それなりに「自分の学習のやり方」というものがあります。
    それが上手くいっているのなら、私がとやかく言う必要はないのですが、学習に行き詰まりを迎えていても、自分のやり方を変えられないのです。

    「なぜ間違えた問題の全てに印をつけないの?」
    と尋ねても良かったのですが、こちらとしては単なる疑問でそう言っていても、
    「叱られた!」
    と、ビクッとなってしまう子もいますので、最初は様子を見ていました。
    ただし、そういう子の間違えた問題は、私が番号をすべてメモしていました。
    そして、時間をおいた授業時にもう一度解いてもらいました。
    たいていの場合、もう一度解いても、同じところを同じように間違えます。
    「くだらないケアレスミス」をした問題も。
    本人が印をつけた「重要問題」も。
    重要問題に印をつけただけで満足し、家で解き直すことをしないので、当然そうなります。

    簡単な問題は、簡単だと思って気を抜くから、ケアレスミスを繰り返す。
    あるいは、それはケアレアミスではなく、繰り返し同じミスをしてしまうその子の「穴」「欠落」がその問題に含まれている。
    そして、本人が重視する「重要問題」は、難しいから、解けない。
    そうした現実が見えていない間は、同じ問題を間違えます。

    まだ十代ですから。
    まだ子どもですから。
    自分のことは、見えないです。
    データが何を示していても、それはそれとして、
    「本当は、自分の能力はもっと高い」
    と思っていたいのは、それは当然のことです。
    テキストを汚してまで印をつけるのは、ケアレスミスしたどうでもいい問題ではなく、自分が「これは大切だ」と思った重要問題だけ。
    その気持ちはわからないでもありませんでした。

    本当は、その子の能力はもっと高い。
    確かに、それはそうなのでした。
    でも、その能力を形にすることができていませんでした。
    簡単な問題には気を抜き、難しい問題は無理だと諦める。
    問題を解いているときにそんなふうに感情が揺れていては、正答は増えません。

    秀才は、自分が間違えた問題に優劣はつけません。
    間違えた問題は、間違えた問題。
    実際に、間違えたんだから、仕方ない。
    それがすべて。
    そんなことにプライドが傷ついたりはしないのです。
    間違えたら、それを正答できるようにすればいいだけです。
    それが「学習」ということだから。
    自分は「学習」をしているので、今の段階で、全問正解にこだわる必要はない。
    全問正解を目指し、そこにプライドをかけるのは、自分の学力を試す場でのこと。
    普段の家庭学習や、塾での学習は、その場ではない。
    そういう割り切り方ができているものです。
    だから、私に対し、底抜けに「アホな」質問も平気でします。
    わからないときは、「わからない」と普通に言います。

    自分が間違えた問題に印すらつけられない。
    むしろ、それは自信のなさの表れなのかもしれません。
    あまりにも傷つきやすい。
    自分の学力に対して、内心で不安が強いのだろうと私は感じていました。

    現実を認め、現実を変えて、テストの得点を、テストの偏差値を、上げていくこと。
    中高一貫校の場合、本人の成長よりも学校の学習進度のほうが速く、学習内容が急カーブで難度を上げていくため、ある程度の努力をしてもむしろ得点は下がっていく時期もあります。
    そのまま退会した子もいましたが、そうしたなかで、余計なプライドや不安がそぎ落とされ、静かに学習に立ち向かえるようになった子もいました。

    本当の自分はもっと能力が高い。

    ・・・それは、どんなふうに?
    「本当の自分」と「現実の自分」とのギャップは、では、どこから生まれるのでしょうか?

    「本当の自分」を本当にするために、では、何が必要なのでしょう。
    「現実の自分」から目を背けていて、それは可能なことでしょうか。

    人よりミスが多いことを認められない自分。
    一度解いた問題は、二度目はもう正解できると、信じている自分。
    努力しなくても結果を出せるのがかっこいいと思ってしまう自分。
    そもそも自分はそんなに低いレベルではないと、何の根拠もないのに思っている自分。

    人はどうしても自分は特別だと思いたいので、そうした幻想は消えるものではありません。
    心の中は、どうにもなりません。

    それでも、まずは、間違えた問題に印をつけましょう。
    そして、解き直してください。
    そこに小さな現実があります。
    一度目に間違えた問題を、本当に二度目は全て正解できるでしょうか。
    小さな現実の積み重ねから、「現実の自分」が見えてきます。
    「現実の自分」を把握することから、「本当の自分」への道が始まると私は思います。

      


  • Posted by セギ at 12:28Comments(0)講師日記算数・数学

    2022年07月31日

    市販の問題集の劣化。



    しばらく前、書店に市販の問題集を探しに行ったことがありました。
    中3の生徒の歴史の定期テスト問題が、長い問題文の中の空所を補充する形式の問題が多いので、何か良いものはないかと探しに行ったのです。
    私自身が中学生の頃といえば、学校からは「A級問題集」を渡されて、それが宿題でもありましたが、それだけでは足りないので、普段の学習には、受験研究社の参考書と問題集を使っていました。
    「馬のマークの参考書」というCMソングを覚えている方もいらっしゃるかと思います。
    あの頃は、参考書がテレビCMを打っていたんですね。
    そういえば、春先には、学生服とか鉛筆のCMもよく見ました。

    そんな昔話はともかく。
    長い問題文が書いてあって、それに下線が引いてあったり、空所が空いていて語句補充をしたりする。
    そういう形式の問題が、昔は、市販の問題集に普通にたくさん載っていました。
    テストに出るのだから、生徒にもその形式の問題を解いてもらいたい。
    そう思って書店で探したのですが、そんなものが書棚には一切なく、驚きました。
    あれ?
    A級問題集は、もう世の中から消えたのでしょうか。
    5年くらい前まではあったと思うのですが。
    受験研究社の問題集も、以前は沢山並んでいました。
    しかし、そういったものは、1つもありませんでした。
    書棚は、市販の教科書準拠ワークがとにかく幅をきかせていました。
    教科書準拠ワークならば、塾用のほうがぶ厚くて内容も濃いのです。
    それ以外にあったのは、「5分で完成」などと銘打った、短問短答形式の薄い問題集ばかりでした。
    そういうのが欲しいわけじゃない・・・。

    中学生向けの歴史の市販の問題集が、薄手でお手軽タイプのものに変質してしまっているということ?

    でも、実際の定期テスト問題は、そんなお手軽なものではなく、昔ながらの、まとまった文章の中に下線が引かれ、空所がある、そういうタイプの問題なのです。
    昔と変わりません。
    定期テストがそうなのだから、それにあわせた形式の問題集を作らなくちゃダメなんじゃないの?
    そう考えてさらに気づきました。

    そのほうがいいとわかっていても、そういう問題集は売れないから、売っていないのか・・・。

    たまたまその書店にそんな問題集しかなかったのかもしれません。
    昔ながらのまとまった文章の問題集も、都心のもっと大きな書店に行けばあるのかもしれません。
    だから、簡単に言い切れることではないのですが、ちょっとぞっとする事態でした。

    短問短答形式の問題も、基礎知識の確認には便利ですから、それはそれでいいのです。
    でも、それしかやっていない状態でテストに臨み、いきなり定期テストで文章を読んで問いに答えなくてはならない場合、その違和感から上手く解けないということもあるでしょう。
    1行問題で知識を確認したら、その後は、テストと同じ形式の問題も解いておくほうがいいのです。
    でも、中学生は、そのことに気づかないのでしょうか。
    書店に問題集を買いに行っても、安手のものしか買わない。
    長い問題文を社会科の問題集で読む気がしない。
    だから、1問1答形式の「5分で完成」と銘打った安手のものしか買わない。

    市販されていない塾用の問題集は、文章形式の問題も載っています。
    中3から社会もうちの塾で学習するようになった子が、必要なことは1行問題のページで暗記し、その後しっかりした文章の載っている問題を解くようになり、テストの得点は爆発的に上がりました。
    そうなると私も欲が出て、その子のためにと久しぶりに市販の問題集を見に行ったら、まるで浦島太郎でした。
    日頃、高校生用の参考書は物色することが多いけれど、中学生用の棚に目を向けることがなかったのです。
    今までは塾用の問題集ですべて用は足りていたのです。
    もっともっと問題がほしいと思って書店に行ったら、塾用の問題集と同レベルのものがありませんでした。
    市販の問題集が、塾用の問題集に比べると、非常に劣る。
    塾としてはありがたいことですが、教育の平等という点で、どうなのだろうとも思います。

    そうは言っても、中学生が買わないのだから、仕方ない。
    中学生自身に選ばせると、お手軽で役に立たなそうなものしか、買わない。
    そして、いくら良い教材でも、売れないものは、棚には置けない・・・。

    高校生向けのものは、昔と変わらず、良い問題集もそれなりに書店に揃っています。
    中学生向けの参考書や問題集は、どうしてこんな「痩せた」状態になってしまったのだろう・・・。

    この時代、自力で勉強するのは大変な時代なのかもしれません。
    良い教材が、そもそも自力では手に入らない。
    本人に良い教材を見る目がないから、勉強しても成績が上がらない。
    学力の劣化。
    それが、こんなふうに目に見える形になっているとは。

    私は、歴史は得意科目でした。
    重要事項を暗記するだけで、欲しいだけ得点できる、楽な科目でした。
    しかし、問題文を繰り返し読み、出来事の流れを理解していたという背景が私にはあったのではないか?
    何気なく問題文を読み、問題を解いていただけ。
    本当にそれだけで、実は勉強になっていたのかもしれません。

      


  • Posted by セギ at 17:51Comments(0)講師日記

    2022年07月15日

    良い質問・悪い質問。


    日曜日の参議院議員選挙の報道番組を見ていて、思い出したことがありました。

    1つには、「ドント方式」にまつわる思い出。
    公立中学の社会科の授業で、比例選挙の「ドント方式」について、やけに具体的に学習し、それがテスト範囲だったことがあったのです。
    A党、B党、C党、D党・・・が、どのような得票数のときに何人当選するか、計算するのです。
    その計算問題が実際にテストに出ました。

    中学の公民で学習すべき内容とは思えませんでした。
    比例選挙はドント方式というもので当選の判断を行っている、という程度の知識でよいはずなのです。
    計算式の意味が理解できず苦悶の表情を浮かべる生徒を見ていると、こんなことを中学生に教える先生に正直腹が立ちました。

    中学の社会科は、こういうことがときどき起こります。
    歴史をやけに詳しく教えてしまう先生もいます。
    教科書に載っていないような歴代の総理大臣の名前まで詳しく詳しく教えてしまい、しかも、それがテストに出るのです。
    詳しいことで生徒が興味をもって楽しく学べるのなら良いのですが、負担が増えて歴史が嫌いになっているだけだったら、つらいです。
    詳しいことは高校で学べば良いので、中学の歴史は、もっとざっくりと出来事の流れや因果関係が理解できれば良いと思うのですが。
    もっとも、私の立場としては、都立入試に出ないことをそんなに詳しく教えていないで、早く公民の授業に入ってほしいという気持ちが強いせいもあるかもしれません。
    中三の2学期になっても歴史の授業が終わらない。
    そうして慌てて終わるから、直近30年の現代史が手薄。
    それは都立入試に出るのに。
    何かバランス悪いなあ。
    つい、そんなふうに考えてしまいます。


    そして、もう1つ、思い出したことがありました。

    神奈川選挙区は、本来は定員4。
    しかし、今回は補選があるので、定員が5になりました。
    ただし、第5位で当選した人は、補選の分として、任期は3年。
    なるほど。
    よくできた仕組みです。

    参議院議員は、任期が6年。
    3年ごとに定員の半分ずつ改選する。

    大手個別指導塾で教えていたあるとき、6年生の女の子が、私のその説明を聞いて固まってしまいました。
    「固まる」という描写を大げさに感じる方もいらっしゃると思いますが、子どもの中には、説明が理解できないと文字通り固まってしまう子がいます。
    本人の中で何か納得できないことがあると、表情も手の動きもすべて停止し、凝固します。
    だから、固まっていることは見ればすぐにわかるのですが、問題は、なぜ固まってしまったのか、です。

    参議院議員は、任期が6年。
    3年ごとに定員の半分ずつを改選する。

    この説明のどこに固まってしまう理由があるのだろう?
    半分ずつ改選する仕組みがわからないのだろうか?
    確かに、その子は算数も苦手でした。
    そこで、3年ごとに互い違いに改選する仕組みを図に描いて説明したのですが、その子は凝固したままでした。

    何か間違って覚えていて、自分の覚えたことと違うので混乱しているのだろうか?
    そのように考え、
    「どこか疑問な点がある?」
    と声をかけても、その子は固まったまま何も言わないのでした。

    自分の疑問や自分の考えを言葉にするのに時間がかかる。
    あるいは、言葉で説明することがうまくできず、諦める。
    そういう子は、自分の疑問を説明するのは諦めても、疑問について考えることは諦めないことが多いです。
    疑問を口にせず自力で解決しようとするので、凝固を解くのに長い時間かかります。
    「どこがわからない?」
    と声をかけても、黙り込んで、独りで考えてしまうのです。
    学習スケジュールが押しているときなどは、私もつい内心で、
    「わからないことは、さっさと口にしてくれないかなあ。さくさく解決しようよ」
    と思ってしまうのですが、まあ、大人の思うようには動かないです。

    疑問をなかなか口にしない子は、前述のように、自分の疑問をうまく説明できないことが何より大きいと思いますが、疑問を口にして大人に褒められた経験があまりないのだろうとも想像されます。
    質問するまでに時間がかかるので、それまでに大人がかなりイライラしている状態のなかで、ためにためて発する問いの内容が、ピント外れであることが多いからです。
    何を言っているの、この子は?と感じさせる。
    そういうことが、多いんですね。
    その成り行きを経験として知っているから、子どもはますます質問できない。
    だから自力で解決しようとするが、解決するわけもない。
    全身で固まってしまい、先に進めない。


    良い質問、悪い質問、というものは存在しない。
    良い説明と悪い説明があるだけだ。

    教える者として、常に心に刻む言葉ではありますが、そうした信条を横から張り倒すほどに予想外の質問もあります。
    長時間黙り込んだその子からようやく聞き取った疑問の内容は、
    「3年ごとに改選するのなら、最初のときはどうだったの?」
    というものでした。

    ・・・え?

    それ、こんなに時間をかけて固まってしまうほどのこと?
    何でそんなことに疑問を抱くの?
    そんなこと、どうでもよくない?
    重要なことは、そういうことではないよ。

    そうは思いましたが、そういうことの連続でその子が傷つき、なかなか質問できないようになっていたのだろうと想像されました。

    私自身、小学校の頃から繰り返し参議院議員選挙の仕組みについて学び、そして繰り返し教えてもきましたが、そんなことに疑問を抱いたことはありませんでした。
    そんな疑問を口にした生徒もそれまでいませんでした。
    まさに、あさっての方向からの突風でした。

    「・・・それは、最初の参議院選挙のときは、半分の人は3年の任期だったんだろうね」
    「3年の人と6年の人がいたの?」
    「そうだろうね」
    「そうなんだ」
    「詳しく知りたいなら、大きな図書館に行って調べてみるといいよ」

    正直、これ以上は突っ込まれたくない。
    私はそう思いました。
    その子は、それで3年ずつ互い違いの図が頭の中で動きだした様子で、すっきりした表情を見せました。
    「わかった」

    ・・・え?
    そんなことでいいの?

    まだ、世の中にスマートフォンというもののなかった時代の話です。
    今は、こんなことも検索すれば一度で解決します。

    「第1回参議院議員選挙」で検索すると、すぐに出てきました。

    1947年4月20日に行われた。
    定員 
    地方区制150
    全国区制100
    改選数250(うち125は任期3年)
    当選者を当選順位に基づいて上位当選者と下位当選者の125人ずつに分け、上位当選者の任期は6年、下位当選者の任期は3年とした。

    なるほどー。
    苦し紛れの私の説明は間違っていなかったようで、良かったです。

    あれ以来、同じ質問をする子は一度も現れていません。
    こんな質問をしない子のほうが、社会科の成績は良かったりします。
    勉強は、何が重要で何が些末なことかをさっと判断できて、重要なことをさくさく覚える子のほうが、良い成績が取れるのも事実です。

    でも、今になって思うと、あれは面白い質問だったと思います。
    テストには出ませんけれども。

    質問に、良い質問、悪い質問というものは存在しません。
    良い説明と悪い説明があるだけ。
    やはり、そうだなと思うのです。

      


  • Posted by セギ at 11:28Comments(0)講師日記

    2022年07月12日

    三者面談と誤解と夏期講習。


    大手の個別指導塾に勤めていた頃の話です。
    夏期講習で、小6の女の子を新しく担当することになりました。
    私立の小学校に通っている子で、中学は内部進学が決定していました。
    その子に、中1レベルの数学を教える仕事でした。

    小6女子に、中1数学を教える?
    なんで?

    何だかよくわからないまま、教務から指定されたテキストで、「正負の数」を教えました。
    ブラスとマイナスの符号がつくだけで、計算自体は、ひとケタ、あるいはふたケタの整数の計算が主ですから、小6で勉強していることよりむしろ易しいくらいの単元で、本人は楽しんで勉強していました。
    でも、なぜこの子が、小6の夏休みに中1の数学を勉強しなければならないのか、私には理由がわかりませんでした。
    特に算数が得意な子ではない。
    特に算数が好きな子でもない。
    中1数学の予習は、2月か3月、小学校の卒業が近づいてからやればいいことです。
    それより前にやっても、継続しなければ忘れてしまいます。

    夏期講習というのは、生徒も講師も普段より人数が多く、ゴタゴタしています。
    一方、教務は正社員ですので、交替で夏休みをとりますから、なかなか落ち着いて教務と話をすることができない期間です。
    それでもようやく、彼女の担当教務と話をする機会があり、なぜ、小6の夏休みに中1の数学の予習をするのかを訊いてみました。
    「それは、お母さんからの要望だよ。学校の先生が、夏前の個人面談で、夏休みは、中学入学の準備のための勉強をしましょう、と言ったんだって」

    中学入学の準備のための勉強・・・?

    受験をしない小6の子が、夏休みに行う、中学入学の準備のための勉強というのは、中1の「正負の数」の予習ではないのではないか?
    もっと根本的に、中学に入って困らないように、分数の四則計算を自在にこなせるようにしておくこととか、方程式の文章題でよく使う、割合や速さの単元を復習しておくこととか、中学の図形分野の知識がすんなり頭に入るように、面積・体積の公式をしっかり身につけておくくこととか、そういうことではないのかなあ。
    学校の先生は、そのつもりで言ったと思うけどなあ。

    それを私が説明しますと、教務は、そんなことはわかっていてしらばっくれたのか、それとも、そのとき初めて気がついて、あっ、と思ったからなのか、急に不機嫌になり、もう返事をしてくれなくなりました。

    指導内容の変更の指示も出ないので、その先も、私は、その小6の女の子に、中1数学の「正負の数」を教え続けました。
    保護者からの依頼内容が中1の予習だったのなら仕方ないのかもしれません。
    保護者が、学校の先生の言葉をそのように受け取り、そのように依頼してきたとき、それは違うんじゃないですかとは、塾として、なかなか言いにくいことですし。
    だけど、やっぱり、何かおかしい。
    本人も保護者も納得しているのだから、どこからも文句は出ませんでしたが。
    仕事とは、そういう面もあるものですが。

    これは、学校の先生の言い方が悪いとばかりも言えないことです。
    学校の先生だって、そんなに意味のあることばかりしゃべり続けることはできませんから、ときどき、ものすごく適当なアドバイスをして、言った本人も覚えていなかったりするのですが、保護者によっては、それを、大切に受け止めてしまいます。

    昨今、学校の先生の言うことはオブラートでくるまれ、ますます遠回しになっていますし。

    また別の年の夏。
    中3の受験生を担当することになりましたが、授業内容は学校の夏休みの宿題に限定、と教務からの指示がありました。
    9月初めの夏休み課題テストの範囲なので、とにかく宿題を徹底的に教えてほしいというのです。
    しかし、中3受験生ですから、夏休み課題テストよりももっと重要なテストが秋にいくつも控えています。
    2学期の中間テストと期末テストで何とか得点アップできるよう、2学期の予習をすることも重要ですし、9月から本格的に始まる校外模試の対策として、より実践的な演習もしなければならない時期です。
    学校の宿題だけの限られた勉強をしている場合ではありません。

    これも、本人から話をきくと、三者面談での学校の担任の先生の言葉を誤解しているのではないか、と思われるふしがありました。
    その子は、1学期の成績から考えれば、志望校が高すぎるのでした。
    しかし、学校の担任の先生は、「そこは無理だから、諦めろ」とは言えなかったのだと思います。
    1学期の内申で換算すると、5科の入試で平均90点以上取れれば合格するね、という言い方をしたようです。
    内申の素点を1学期より10上げた場合は、入試で平均80点以上取ると合格するね、とも言ったそうです。
    その子の学力では、入試当日で平均90点を取ることも、内申を10上げることも、正直言って現実的ではありませんでした。

    担任の先生は、要するに、言外に「無理だ」と言ったのです。
    データで、それを示した。
    また聞きですが、私には、そう聞こえました。
    けれど、本人と保護者は、そうは思わなかったのです。
    「合格するには、どうしたらいいでしょう」と先生に尋ねたといいます。
    担任の先生は、困ったと思います。
    2学期は、学習内容も難しくなるから、定期テストで得点を上げるのは難しいですね。
    そう答えたそうです。

    これは、もう相当はっきりと無理だと言っている、と私には聞こえました。
    ところが、それでも、本人と保護者の耳には届きませんでした。
    「では、どうしたら、いいのでしょう?」
    担任の先生は、本当に困ったと思います。
    とりあえず、夏休みの宿題を頑張って、課題テストで良い点を取ることを目標としてみましょう。
    そう言ったそうです。

    それを受けての、個別指導塾通い。
    内容は、学校の宿題限定。
    とにかく、これだけを徹底的にやってほしい。

    これも、教務に相談したのですが、解決はつきませんでした。
    講師である私は、保護者と直接連絡を取ることはできません。
    生徒本人は、その夏初めて会ったばかりで、私の言うことを理解してくれる様子はあまり感じられませんでした。
    学校の宿題を見てほしいから個別指導を申し込んだのに、
    「そんなのじゃ受験勉強にならないよ」
    とゴリゴリ押してくる講師なんて、怖いですよね。
    その講師の言うことに耳を傾けるよりも、
    「講師を変えてください」
    と言いたくなりますよね。
    それが予想できたので、私も強い主張はできませんでした。
    学校の夏休みの宿題は、一応、受験勉強らしい内容でしたから、全く無駄ということはなかったのですが、他の受験生は、学校の宿題だけでなく、2学期の予習も、入試問題の対策もやっていました。
    秋には、さらに学力差が開く可能性のほうが高かったのです。

    誰が悪いのか。
    何が悪いのか。
    今も後悔が残ります。

    今は個人塾ですので、私の考えていることを直接保護者の方に伝えることができます。
    夏期講習で、何をするべきか。
    何をすれば、効果が上がるのか。
    一人一人にその計画を練っています。


      


  • Posted by セギ at 14:36Comments(0)講師日記

    2022年07月08日

    子どもの覚え違い。



    以前に勤めていた塾で、中3に社会を教えていたとき、1人、とても頑固な女の子に出会ったことがあります。
    もともと社会が苦手な子で、記憶違いが多かったのですが、間違いをなかなか認めないのでした。

    たとえば、「バブルって、高度経済成長のことだよ」と主張していました。
    21世紀を生きる中学生には、これは案外多い誤解ですが、訂正すれば納得するのが普通です。
    しかし、彼女は、頑固にそう思い込んでいて、譲歩しませんでした。
    むしろ、それを違うものだと説明する私のほうが間違っていると思い込んでいるような表情でした。
    高度経済成長は1960年代で、バブル経済は1980年代後半、と時代の違いを説明しても、私が説明する間、彼女からは表情が消え、全く理解する様子を示しません。
    理解を拒む目の色でした。
    年表を見せても、首を傾げ、納得できない表情のまま一応黙る、という様子でした。
    どこかで記憶違いをしたのでしょうが、自分が覚え間違えたことを認めないのは、どういう心理によるものなのか、私にはよく理解できず、彼女の社会の成績も、なかなか向上しませんでした。

    それでも、彼女は、学力別の下位クラスの中では成績はトップで、上のクラスに上がることができました。
    上のクラスでの社会の授業で、彼女は、また妙なことを言い始めました。
    「台湾って朝鮮のことでしょう」
    上のクラスでは、そんな勘違いをしているのは、さすがに彼女1人です。
    一瞬おいて、上のクラスの生徒たちは失笑し、その笑い声を聞くと、彼女は、すぐに認めたのです。
    「違うの?」
    教室の壁に貼ってある世界地図で、私は、朝鮮半島と台湾の位置を彼女に説明しました。
    彼女の目は、表情を失わず、地図を見ていました。
    「あ。そうなんだ。知らなかった」

    ・・・え?

    同じ中学生が違うと言えば、すぐに認めたのです。
    そういう年頃なのでしょう。
    大人の言うことはなかなか信用しない。
    でも、同じ年の子の言うことはすぐに信じるのです。

    そのクラスで、数学を教えたときのこと。
    彼女は、また不思議なことを言い始めました。
    「1立方メートルって、1万立法センチメートルだよね?」
    「・・・いや。それは、面積のときです。1平方メートルなら、1万平方センチメートル。1立方メートルは、100万立法センチメートル」
    「でも、面積って、体積だから」
    「・・・・え?」
    教室は、大爆笑となりました。

    私の説明を聞いた後、彼女は言いました。
    「面積と体積は、同じものだと思ってた。1立方メートルが、1万立法センチメートルだったり、100万立法センチメートルだったりするのは、先生が、間違えているんだと思ってた」
    「そうか・・・・・。小学生の頃から、ずっと?」
    「うん」

    彼女が聞いたら怒るかもしれませんが、私は、彼女の発言から、「勉強ができない」ということは、どういうことなのか、また理解を深めた気がしました。

    1つには、似ていることを混同しやすいこと。
    もう1つ。
    1度思いこむと、間違いを修正できないこと。
    そして、悲しいことに、大人を信用していないこと。

    でも、彼女のように主張する子は、問題のありかをとらえやすく、いつかは解決します。
    黙ったまま、誤解を続け、勉強ができないままの子が、案外多い気がするのです。


    自分の思いを口にしない子。
    語彙が不足し、自分の考えを言葉にして言ったり書いたりすることが自由にできないので黙っている子もいるかもしれません。
    相手の説明も、少し複雑で論理的なものになると、うまく理解できない。
    音声による説明は耳がついていかないし、教科書などの文字で書いてある説明は、文字を正確に読む習慣がないので、理解できない。
    理解できないまま、誤解している・・・。

    あるいは、大人を根本的に信用していない子もいるでしょう。
    反抗期がなくなったといいますが、それは、反抗するほど大人を信用していないだけかもしれません。
    逆らえば、大人はすぐに見切りをつけ、自分を見捨てるだろう。
    逆らってくる相手をそれでも愛するほど大人の懐が深いとは思えない。
    だから、逆らわない。
    逆らわないが、信用していない。

    あるいは、反対意見を言ったり相手の言うことを訂正して相手とギスギスするのが心理的に耐えられず、とにかく穏やかに過ごしたい子も今は多いと思います。
    何ごとにおいても、もめたくない。
    とにかくメンタルが弱い。
    それを自覚しているので、メンタルに打撃を受けたくない。
    そういう子もいるのかもしれません。

    そのように、理由は色々と推測できますが、いずれにしろ、恐ろしいのは、誤解しているのに、それを口にせず、自分の誤解が正しいと信じ込んでいる場合があることです。
    何か矛盾を感じても、先生が間違っているんだがそれを指摘してはいけない、と本人が勝手に判断し、誤解している。

    そうして、間違った知識を使って問題を解くので、いつになっても正答できないのです。


    最近も、「国際連盟」を「国際同盟」と覚えてしまっていた子がいました。
    学校は、アクティブラーニング。
    グループ学習で、同じ班の子が「国際同盟」と言っていたというのです。
    この場合、その同じ班の子が間違っていた可能性もあれば、本人が聞き間違えたり覚え間違えた可能性もあります。
    いずれにせよ、私が訂正しても、その子は、「国際同盟」のほうが正解なのではないかと、首を傾げていました。

    そういえば、アクティブラーニングの良い点の1つは、先生から教わるよりも同級生から教わるほうが理解が深く、定着しやすいということがあるのだそうです。
    確かに、間違ったことが、こんなにしっかりはっきり定着する。
    アクティブラーニング、恐るべし・・・。

    本人は自信ありげなので、ネットで検索しましたが、「国際連盟」を「国際同盟」と言い換える動きは世の中に起こっていませんでした。
    国際連盟は、英語で the League of Nations
    「同盟」と訳すことは不可能ではないですが、日本では、ずっと「国際連盟」と訳してきました。
    今更それを変更する理由がありません。
    理科で学ぶ遺伝の「優性・劣性」を「顕性・潜性」と訂正したような妥当性がありません。

    日本語の「同盟」は、alliance と変換されることのほうが多いと思います。
    日独伊三国同盟なら、Patto tripartito
    イタリア語が、固有名詞化しています。
    英語で説明するのなら、the alliance of Japan , Germany and Italy

    塾に通っていなかったら、その子は「国際同盟」のまま覚えていたかもしれません。

    いろいろと多難な時代。
    もの言わぬ子たちが何を誤解しているか、よりいっそう、耳を澄ましていかなければならないと感じます。


      


  • Posted by セギ at 14:27Comments(0)講師日記

    2022年06月10日

    古文の冒頭、言えるかな?


    さて、中間テストの結果もすべて出ました。
    学年トップを維持する堅調の子、初めて80点台を取った子、テストを通して課題が明らかになった子と、さまざまなです。
    そうした中で、ある学校の国語の問題に興味をひかれました。
    有名な古典の冒頭を書く問題が出題されたのです。
    例えば、「竹取物語」と指定されている欄に、「竹取物語」の冒頭を書くのです。

    「・・・これをテストに出しますという予告はあったんですか」
    「ないです」

    うーん。
    予告はあったのに、そのとき他のことを考えていて授業を聞いていなかったという可能性もゼロではないですが、予告なしに出題された可能性が高いです。
    予告さえあれば、覚えたでしょうに。

    この問題の正答率はどの程度だったのでしょう?
    予告されなかった場合、何も見ないで古典の冒頭を書くことはできるものなのか?
    それは、日本人としての教養なのかもしれませんが、ものごとを覚えて脳にとどめておくことは無駄と感じている子や、また、ものごとを記憶することがひどく苦手な子が多くなった昨今、この問題は厳しいなあと感じました。


    私は、暗唱できるかな?
    やってみることにします。
    これを読んだ方も、興味があれば、ぜひやってみてください。
    まず、何も見ないで書いた私の答を記し、その後、原文を調べて正答を書き写します。

    出題は、
    「竹取物語」「枕草子」「平家物語」「徒然草」「奥の細道」「方丈記」「源氏物語」です。
    自分でもやってみたい方は、まずこの段階で、自分の答を紙に書いてから、以下の文を読んでください。


    まずは、「竹取物語」。
    私の答。
    今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山に入りて竹を取り、よろづのことにつかひけり。名をばさぬきのみやつことなむいひける。

    おお。
    我ながら、そこそこ覚えている気がする。

    正解は、
    「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむ言ひける」

    うーん。
    ちょっと違いますね。
    記憶の曖昧さに、我ながら驚きました。
    これくらいは完璧にこなせると思っていたのに。


    次は、「枕草子」。
    枕草子の冒頭って、「春はあけぼの」のことかな?
    では、それでいってみよー。

    私の答。
    春はあけぼの。やうやう白くなりゆく。山際少しあかりて、紫立ちたる雲のたなびくさま、あやしうこそものぐるほしけれ。

    正解は、
    「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくなたびきたる」

    うわあ、後半が全然違う!
    何だろう、私が最後に書いた「あやしうこそものぐるほしけれ」は?
    何かと混線したか?


    次は、「平家物語」。
    私の答。
    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる者は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば・・・。

    駄目だ、ここからは固有名詞の連打で、覚えていません・・・。

    正解は、
    「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人もひさしからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、・・・」

    うーん、やはりミスがありますね。


    次は、「徒然草」。
    私の答。
    「つれづれなるままに日ぐらし、硯に向かひて、心に思ふことかきつくれば、あやしふこそものぐるおしけれ」
    あ、これだ!「あやしふこそものぐるおしけれ」は、徒然草だ!

    正解は、
    「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

    おお・・・。
    これはかなり違いました。
    そうか。
    心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書かないといけないのか。
    ただ心に思うことを書くだけでは駄目なのですね。


    次は「奥の細道」。
    私の答。
    「月日は百代の過客にして、ゆきかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて旅をする者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり」

    正解は、
    「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり」
    うーん、また部分的に違いました。


    次は、「方丈記」。
    私の答。
    「ゆく川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」

    これしか思い出せません。
    記憶量が少ない。

    正解は、
    「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」

    ああ、そうだ。
    そう言われれば、そうでした。


    次は、「源氏物語」。
    私の答。
    「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなききわにはあらねど、すぐれてときめきたるありけり」

    正解。
    「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」

    ああ・・・・。
    これも間違えた・・・。
    そうでした。
    源氏物語は、敬語がとにかく多用されているのでした。
    源氏の君の母である桐壷の更衣は、元の身分はそんな高くなくても、しっかりと尊敬語をつけないといけなかったのです。
    そりゃあそうだ。


    ここまでやってみて、悲しくなってきました。
    そこそこ正解できると思っていたのに、こんなに違うとは・・・。
    何だか悔しくて、顔も見たことのない国語の先生に、
    「じゃあさ、じゃあ、ベクトルの内積の公式、何も見ないで言えますか?」
    などと、言いたくなってしまったり。
    いやいや、それはあまりにも大人げない。

    1つ言い訳をさせてもらうならば、覚え間違いは多いものの、歴史的仮名遣いのミスと文法ミスはなかったことに、少しだけ満足しています。
    歴史的仮名遣い・文語文法・古文単語の知識。
    それがあれば、初見の原文を読み通して意味を取ることはできます。


    古文の冒頭の暗唱。
    完璧に暗唱できたら、そのほうがいいのは勿論です。
    でも、それがどの時期に書かれ、どういう内容で、どのように価値がある作品であるかを知っていることのほうが大切なのではないかという気もします。
    そして、口語訳でもいいから本文をすべて読んでみることのほうが、冒頭だけ暗唱しているよりも意味のあることだと思うのです。
    でも、冒頭を正確に暗唱できなかった私には、それを言う資格はないかなあ・・・。

    同時に、数学の公式や英単語を覚えられない生徒たちに、
    「覚えなさいっ。これは覚えなさいよっ」
    とイライラしてはいけないなと思いました。
    興味のないことに対しては、私自身もこんなに曖昧です。

    たまにへこむのも、意味のあることですね。

      


  • Posted by セギ at 12:14Comments(1)講師日記

    2022年02月16日

    説明を聞き取れない子、読み取れない子。


    学力の高い子と、そうではない子で、最も表面的ですぐわかる違いは、言葉が通じやすいかどうかです。
    話が通じるかどうか。
    その生徒に他人の話を理解する力があるかどうかは、学力に大きく影響します。

    ある日、自校作成校に通う高校生が、体験授業を受けにきたことがありました。
    数学の「微分法」が、よくわからない、というのです。
    微分のやり方そのものはわかっている子でした。
    手順は、知っているのです。
    でも、何のために何をやっているのか、わからない・・・。
    だから、ただ微分するだけの計算問題は解けるけれど、応用問題になると、解説を読んでも、何で唐突に微分を始めるのか、わからない・・・。

    「微分法」を学習していて、陥りがちな状態でした。
    「微分法」がテスト範囲の場合、多くの定期テストは、
    「次の式を定義にしたがって微分せよ」
    とか、
    「定義に従い、次の式の導関数を求めよ」
    といった問題が最低1題は出されます。
    これが解けない子が多いのです。
    作業手順だけの微分をしてしまい、0点となってしまいます。
    微分の作業手順を覚えた瞬間に、その前に学習した、訳のわからないリミットだの平均変化率だのは、忘れてしまうのです。
    しかし、そこを忘れてしまうと、微分の意味がわからなくなってしまいます。

    微分はその曲線の接線の傾きを表します。

    なぜ微分することで、接線の傾きを表すことができるのか?
    その解説を定義に戻って5分ほどすると、その子は目を輝かせ、全ての謎が解けたという顔をしました。
    微分をすることで、接線の傾きがわかれば、その曲線の概形を知ることができる。
    増減表は、傾きがゼロになる箇所、すなわち極値を調べている。
    そういうことが、全てつながったのでした。

    「わかった!じゃあ、これはこういうことですか?」
    持参の学校の問題集の印をつけた問題を自分で解き始めました。
    「そうそう。そういうことです」
    「じゃあ、次のこの問題は、こういうことですか?」
    「そうですね。曲線上の点(t , f(t))における接線の方程式を求めよという問題ですから、まさにそういうことですね」
    「接線の公式って、そういう意味かあ」
    「そうです。微分で傾きを求めて、あとは、1点を通る直線の方程式の求め方で求めているだけですね」
    「何だ、そうか」

    わずか90分で、謎は解決しました。
    その後入会したその子は、前の定期テストよりも30点ほど一気に上昇しました。
    むしろ、その子がなぜ数学が苦手だったのか、私にとっては、そのほうが謎でした。


    しかし、同じように、微分の作業手順は知っているけれど応用問題が解けないというある子に解説したときのこと。
    私は、全く同じように、適当な曲線の一部を描き、x=aの点と、x=a+hの点を記入し、その2点間の平均変化率を考えるところから解説を始めました。
    勿論、図を示しながらの解説です。
    しかし、話が通じませんでした。
    「x=a の点と、x=a+h の点とを結んだ直線の傾きは・・・」
    「え?x=a とx=h の点?」
    「違います。x=a と、x=a+h の点です」
    「x=a と、x=a?」
    「・・・違います。よく見てね。x=a と、x=a+h です」
    ボードを指さしながら、解説を続けると、一応、それは理解したようでした。
    「・・・ああ」
    「この2点間の『平均変化率』、中学の数学で言えば『変化の割合』は、この2点を結んだ直線の傾きになりますよね?」
    「平均の割合?」
    「違います。高校数学では、『平均変化率』。でも、中学の頃に習った言葉は、『変化の割合』」
    「変化のはぶあい?」
    「変化の割合、です」
    ボードに文字を書き、指さしました。
    「・・・ああ、変化の割合」
    「変化の割合は、直線の式では傾きと等しいですね?」
    「変化の割合は、直線の割合と等しい?」
    「・・・違います。変化の割合は、直線の式では、傾きと、等しいですよね?」
    「・・・そうなんですか?」
    「・・・」

    それならばと、中2の「1次関数」の基本に戻って、直線の傾きは変化の割合と等しいというところを復習した後、微分に戻りました。

    「・・・そして、x=a と x=a+h を考えた場合に、hが限りなく0に近づくならば・・・」
    「え?x=a+hが限りなくセロリ近づく?」
    「違います。野菜の話はしていません。hが限りなく0に近づくときに」
    「x=a+hが0に近づく?」
    「違います。それでは、いつでも、xはほぼ0になってしまいます。0に限りなく近づくのは、hだけです」
    「・・・何で?」
    「・・・」

    さらに説明を続けて、
    「・・・というわけで、微分は、その点における接線の傾きを表すことになります」
    「てっぺんのからぶき?」
    「・・・違います。その点における、接線の、傾き」
    「・・・わからない」
    「・・・」
    「接線って何ですか?」
    「・・・」

    これは、微分を学習できる状態ではないのではないか?
    中学数学も高校数学も、ほとんど何も覚えていない可能性がある・・・。
    この状態で微分を理解するのは、さすがに無理だ・・・。

    その子がしばしば聞き間違えたのは、私の滑舌が悪いからでしょうか?
    しかし、他の子には通じるのですから、私の滑舌がきわだって悪いとは考えにくいのでした。
    思うに、その子の語彙にない言葉が連続するので、意味をとりにくかったのだと思うのです。
    「接線」も「接点」も「傾き」も、その子の語彙にはなかったのでしょう。
    予期せぬ数学用語は聴き取りにくい。
    聴き取れたとしても、そもそも基本的な数学用語を理解していない。
    言葉がわからないので、解説が聞き取れないのでした。

    もう1つ言うならば、音声の聞き取りに多少の弱点がある可能性も考えられました。
    それは生まれつきの場合も考えられますが、潜在的な能力はあるのに、それを伸ばしていないだけという場合も考えられます。
    長年個別指導をしていると、音声だけでは通じない子が多くなってきた、と感じます。
    話が通じにくい。
    こんなこと、いちいち書かなくても・・・と思うようなことも、書かないと通じなくなってきました。

    個人差は大きいですが。



    話は変わって、ある年の中3の話。
    都立高校の国語の入試問題は、200字の課題作文が出題されます。
    読み取った評論に沿ってテーマが与えられ、それにまつわる具体例と自分の意見を述べます。
    その練習をしていたある日のことです。

    課題となった評論は、イメージの伝達に関するものでした。
    例えば、犯罪を報道する際に、「犯人は入口をバールのようなものでこじあけたもようです」といった表現をします。
    「バール」と断定するのではなく、「バールのようなもの」と表現するのには意味があります。
    そう表現することで、使われた道具の情報がむしろ正確に伝達されるのです。
    そうした内容の文章でした。
    それを読んで、「イメージを伝える」という課題作文を書いたところ、その子は興味深い作文を書きました。
    学校の先生に、
    「おまえの説明は、名詞を並べているだけで、何も伝わらない」
    と言われたことがある、というのです。
    おおっ。
    良い例を持ってきましたね。
    そう思い、私は期待して続きを読みました。
    「だから、比喩を使うことが大切だ。『青い』とか、『トゲトゲした』といった表現ではダメで、比喩を使うとよく伝わる」

    ・・・違いますよ。

    青いも、トゲトゲしたも、優れた形容ですよ。
    しかも、「バールのようなもの」は、例示であって、比喩ではありません。
    これは参ったなあ・・・。

    私は、作文を読んだ後、その子に尋ねました。
    「学校の先生に、『おまえの説明は名詞を並べているだけで何も伝わらない』と言われたのは、本当のことですか?」
    その子は頷きました。
    「どういう状況でそれを言われましたか?」
    「・・・」
    難しい質問だったのか、その子は黙り込んでしまいました。
    私は解説を始めました。
    「・・・例えば、学校の校庭に犬が入ってきたとして、それを学校の先生に伝えるとします。『犬!犬!』だけでは、情報としては、あまりよく伝わらないのです」
    その子は、顔を上げました。
    私は話を続けました。
    「『薄茶色の中くらいの大きさの犬が、校庭に入ってきて、うろうろしています』というほうが情報量が多いです。『薄茶色の』や『中くらいの大きさの』という表現が情報を詳しくしています。これらは、別に比喩ではありませんよね。だから、君が否定した『青い』や『トゲトゲした』は有効な表現方法なんですよ。様子がよくわかります」
    「・・・」
    「さらに、さっきの犬の説明に『柴犬のような』という表現を付け加えたら、たとえ純血種の柴犬ではなくても、そのように見えるタイプの犬全般をイメージできるので、わかりやすいのです。『バールのような』は、そういう表現方法です。これを例示といいます」
    「・・・」
    「もし『ドーベルマンのような黒い犬が校庭に入ってきて走り回っています』とあなたが言えば、先生は、網を持っていこうか、警察に連絡するか、いや、生徒に校庭に出ないように放送するのが先かと考えるでしょう。先ほどの『柴犬のような』とは対応が違ってくると思います。正確なイメージが伝わったからです」
    「・・・」
    「イメージを伝える方法は、比喩だけではありません。だから、あなたのこの作文は、本文の内容を読み取れていません」
    「・・・」
    「面白いんですけどね。高校の国語の先生が興味を持って読んでくれそうな具体例です。着地さえ良ければ、満点が取れるんです」

    ・・・しかし、学校の先生の言葉の意味も、この評論の意味も、その子は理解できていませんでした。
    むしろ何も理解していないことが読み手に伝わる作文なので、私は、ヒヤっとしたのでもありました。
    0点にはしないだろうけれど、かなり得点は低い・・・・。
    書いてあることを理解できない、他人の話を理解できない生徒を、入学させたいかさせたくないかと言ったら・・・。


    他人の話をスルッと理解する子と、簡単な説明もなかなか理解しない子と。
    中間層が存在しないように私が感じるのは、個別指導の特性だとは思います。
    学校には、普通に大多数の中間層が存在しているでしょう。

    言葉を聞き取る力が弱いのは、生まれつきの傾向もありますが、本人の言語生活が痩せたものであることも大きいでしょう。
    そこを踏まえた授業をしなければと思います。

    一方で、わかりやす過ぎる説明をしてしまったり、
    「聴き取れました?」
    といちいち確認したりして、当たり前に聴き取れる秀才に変な顔をされてしまうこともあります。
    個別指導の個別性が今こそ発揮されるべき時代なのでしょう。
    腕の見せどころです。

      


  • Posted by セギ at 14:10Comments(0)講師日記

    2022年01月30日

    カムカムエヴリバディを見て、映画『あん』を思い出しました。


    2022年1月27日(木)、狭山・境緑道から小金井公園へと歩いてきました。
    狭山・境緑道は、多摩湖自転車歩行者道と一体化しています。
    歩行者専用のゾーンを狭山・境緑道と呼ぶようです。

    入ってすぐ、ロウバイの花が咲いていました。
    かなり大きな木が、1本、また1本。
    明るい青空に、ロウバイの淡い黄色が映えていました。
    少し行くと、梅も1輪・2輪と咲き始めていました。
    春がそこまで来ています。

    片耳イヤホンで、録音したラジオ英語講座を聞いています。
    録音がかなりたまりました。
    いきなり Happy new year! で始まる放送をロウバイを見ながら聞きました。

    それでも、「ラジオで!カムカムエヴリバディ」だけはその日のうちに聞いてしまうんですよね。

    慣れてくると、テキストで扱う内容から、ドラマ本編のストーリーを想像できることもあるようになりました。
    1月26日放送は「安子と稔の結婚式はどんな様子だったか説明してみよう」。
    おお・・・、これは、おそらく、娘のるいが結婚するんだなと予想していたら、ずばり、正解!

    しかし、1月25日放送の「ビートルズ初来日の様子を説明してみよう」は、事前にテキストを見ても、何のことかわかりませんでした。
    まさか、ドラマの登場人物たちがよく聞いている、名物ラジオ・パーソナリティー浜村淳、じゃなくて磯村吟に関係していたとは。
    ビートルズがチャート5位までを独占しているのに反発し、あえてルイ・アームストロングの曲をかけ、それを主役2人がそれぞれ聴いていたというストーリーでした。
    さすがに、それはわからない。

    それはともかく、登場人物たちは、浜村淳、もとい磯村吟のラジオばかり聞いているけれど、あれは関西の民放ラジオですよね?
    早く、NHK第二のラジオ英語講座を聞きなさい。
    そういうドラマでしょう?
    全然関係ない話が続いています。
    英語は?
    ラジオ講座は?
    ・・・どうやら、今週、ついに第三世代ヒロインひなたが子役で登場し、ラジオ英語講座も聞き始めるようで、ひと安心です。

    ところで、ラジオ講座をただ聞いていただけの安子が、あんなにペラペラと英語を喋りだしたことは、少し気になりました。
    聴き取ることはできるようになっていたでしょうが、聴くのと話すのとは別の能力です。
    英語は聴き取れるけれど、話せない。
    多くの日本人が、そこで行き詰まってしまうのではないでしょうか。
    うちの生徒にもいます。
    文法・語法も読解も、英検2級の過去問を初めて解いて、すぐに合格点。
    リスニングも合格点。
    しかし、英作文は、テーマにもよりますが、かなり怪しい・・・。
    そして、スピーキングとなると、質問されたことに英語で応えられない。
    絶句したまま、何も言えずに終わってしまうのです。

    すなわち、インプットは十分だけれど、アウトプットできないのです。
    インプットとアウトプットは関係があるけれど、インプットすればすぐにアウトプットできるというものではありません。
    アウトプットするための練習が必要です。

    和菓子作りもまた同じではないでしょうか。
    るいが、生まれて初めて餡を煮て、いきなり老舗の和菓子屋を凌駕する味を出すのは、さすがに受け入れがたい・・・。
    それで済むなら、修行は要らない。
    作り方は、幼い頃に毎日見ていたので覚えていたでしょうが、見ていたからといって再現できるとは限らないのです。

    見るだけでは、再現はできません。
    レクチャーを受けて、試しにやってみて、最初は失敗して、それでも自分で何度も何度も練習して、ようやく習得するのが普通です。
    努力や修行が必要です。

    安子の英語もそうです。
    難しい単語も構文も使っていませんが、あれくらいに喋れるようになるまでには、毎日英語を話す練習が必要です。
    NHKの英語講座はとても良いものなのですが、放送を聴いているだけでは英語は上達しません。
    聴き終わったら、全文暗唱。
    さらに、日本語訳を見て、全文を書く。
    さらに、学習した内容を使って、自分なりの英語を話したり書いたりする練習。
    それを毎日積み重ねていくならば、ラジオ講座は、最高の英語教材です。

    積極的にアウトプットの練習をすることで、アウトプットできるようになります。
    勿論、インプットしていない人は、アウトプットはできません。
    十分なインプットの後、アウトプットの練習もすることで、できるようになっていきます。
    うちの塾の生徒も、英問英答に絶句し、黙り込むことが続きましたが、繰り返し繰り返し練習すると、口から英語が出てくるようになってきました。
    練習の勝利です。


    「カムカムエヴリバディ」というドラマを見て、映画『あん』を思いだされた方もいらっしゃるのではないかと思います。
    そして、あの映画の壮絶さを思いおこすと、「カムカムエヴリバディ」は、かなり薄っぺらい・・・。
    映画『あん』。
    晩年の樹木希林さんが主演をされた映画です。

    小豆を煮ている間、じっと小豆の声を聞く。
    ここへ来るまでに小豆が見てきたもの。
    陽の光。
    風。
    そうしたものを感じとりながら、湯気の匂いの微かな変化にも神経を払い、餡を完成させるまでに六時間以上も丹念に作業を重ねます。
    五十年間、ひたすらに餡を煮てきたからこそ、小豆の声が聞こえるのです。
    そして、それほどの時間を惜しげもなくかけるのには、理由がありました。
    年老いるまで外に出ることを許されなかった、彼女の人生。

    「私たちは、この世を見るために、聞くために生まれてきた。
    だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」

    あのセリフは、胸が詰まりました。
    ちょっと覚悟しないと見られない映画で、見終わるとずんと落ち込みますけれど。
    この映画を見て怒っているコメントを読んだことがあります。
    こんな映画だと思わなかった。
    食べ物を扱うのだから、もっと楽しい映画だと思った。
    見て、嫌な気分になった。
    ・・・おそらくとても若い子なのだと思いますが、そういう気持ちもわからなくはない。
    覚悟して見るのでないと、ちょっときつい映画です。

    だから、毎朝見るには、「カムカムエヴリバディ」がちょうどいいのでしょう。
    夢物語を見ているのです。
    ラジオ講座を聞いていただけで、英語を話せる。
    小豆を煮れば、たちまち絶品の餡になり、回転焼き屋は大繁盛。
    それでいいのかもしれません。

    さて、都立小金井公園へ。
    春にはヒナゲシ、秋にはコスモスの咲く花畑も、今は枯れた土がむきだしになっていました。
    冬の柔らかな日差しに、乾いた土。
    人の少ない平日の公園でした。

    山歩きを始めたのは、晩秋の頃でした。
    すっかりはまって、今週はこの山、今週はあの山と毎週歩いたのですが、どの山も冬枯れていました。
    でも、山というのはそういうものだと何となく思っていました。
    歩くだけで面白かったので、他の楽しみを特に求めていなかったのです。
    始めたばかりということもあったのか、時間の流れが遅く、あの年、いつまでもいつまでも冬が続いたような感覚があります。

    そして、突然訪れた春。
    山の桜の絢爛豪華な眺めに、ただただ驚いたことを覚えています。
    山がまるごと、おとぎ話の挿絵のようになっていました。

    去年も一昨年も見られなかった山の桜。
    今年は、見られるといいなあ。

      


  • Posted by セギ at 14:31Comments(0)講師日記英語

    2022年01月18日

    このテストは、つらい。


    定期テストの問題を眺めていて、
    「このテストはつらいな」
    と感じることがあります。
    中学数学で言えば、例えば、こんな問題です。

    問題1 
    (1) -3-9÷1/3 を計算しなさい。
    (2) 3a+5b / 10 - 8a-10b / 5 を計算しなさい。
    (3) 12abx^2-3ab を因数分解しなさい。

    例えば中3の定期テストで、大問1はテスト範囲とは直接関係なくこのような計算問題が出題されていることがあります。
    これまでの復習も出題されるとテスト範囲に書いてありますから、それに不服があるわけではありません。
    都立高校入試問題を意識しての出題だということも理解できます。
    しかし、どうしてこんなに正答率の低そうな問題ばかり出題するのだろう?
    中3の2学期の定期テスト。
    これで内申が決まるというのに・・・。

    (1) は、四則計算のミスを誘う問題です。

    -3-9÷1/3
    =-12×3
    =-36
    と誤答してしまう子がいるのです。
    「・・・ひき算とわり算は、どちらを先に計算するんでしたっけ?」
    とひと声かければ、自分のミスに気づく子も、何もアドバイスしないと、この間違った計算をしてしまいます。

    また、
    -3-9÷1/3
    =-3-3
    =-6
    というミスをおかしてしまう子もいます。
    3と9は約分しやすい、と思った瞬間に、分数計算をミスしてしまうのです。

    それは、本当に気をつけなければならないこと。
    でも、そういうところが直らない子は、います。
    練習すればしばらくは正答できるようになるのですが、半月ほど練習しないでいると、また元に戻ってしまいます。
    定期テスト前に、こんなことばかり練習している暇はありません。
    その隙をつかれ、出題者の「思うツボ」通りの誤答をしてしまいます。

    正解は、
    -3-9÷1/3
    =-3-9×3
    =-3-27
    =-30 
    です。

    ・・・え?
    出題者の思うツボ?


    (2) 3a+5b / 10 - 8a-10b / 5 を計算しなさい。

    これは、ネットでは見にくいと思うんですが、「分数-分数」の文字式です。
    負の符号が、後ろの分数のそれぞれの項にかかっていくことを忘れてしまう子は多いです。
    そんな子の誤答はこうです。
    3a+5b / 10 - 8a-10b / 5
    =3a+5b-16a-20b /  10
    =-13a-15b /  10

    この問題のもう1つ恐ろしいところは、方程式と混同し、式全体を10倍して分母を払う子もいることです。
    そんな子の誤答はこうです。
    3a+5b / 10 - 8a-10b / 5
    =3a+5b-16a-20b
    =-13a-15b

    文字式と方程式の違いが、わかっていない。
    数学においてやっていいことと悪いことの違いがわからない・・・。
    数理の基本がわかっていない。
    そういう子を「あぶりだす」問題です。

    正解は、
    3a+5b / 10 -8a-10b / 5
    =3a+5b-2(8a-10b) / 10
    =3a+5b-16a+20b /  10
    =-13a+25b / 10
    です。

    ・・・え?
    あぶりだす?


    (3) 12abx2-3ab を因数分解しなさい。

    因数分解は、まず共通因数でくくれるときは、くくります。
    そのことに気づき、
    12abx^2-3ab
    =3ab(4x^2-1)
    よし、できた!
    ・・・と思ってしまう子は、誤答です。
    これは、まだ因数分解できるのです。
    =3ab(2x+1)(2x-1)
    これが正解です。

    1つのやり方を思いついて、それで正解と思うなんて甘いんだよっ。
    ははははは。
    ・・・という、出題者の「高笑い」が聞こえてきそうです。

    ・・・え?
    高笑い?


    ・・・そうです。
    全体から感じられるのは、出題者の「意図」なんです。
    生徒がどこをどのように間違えるか熟知していて、あえてこういう問題を作っている「意図」が感じられるんです。
    これらの問題が正規のテスト範囲だった場合に、3問に1問くらいの割合でこうした問題を出すのは、「あり」だと思います。
    これらを適切に処理できるのは、大切な数学的能力です。

    間違える生徒が悪い。
    それは、そうなんです。
    こんなところで、間違えたらいけない。
    こんな問題を間違える子は、数学が得意とはいえない。

    でも、可哀相です。
    中3の2学期の定期テストです。
    テスト範囲を必死に勉強したはずです。
    その結果、「これまでの復習」の範囲からこういう問題が出題され、それで能力を試されるのは・・・。


    実は、2021年度の都立高校入試の数学問題にも、一部こうした問題が出題されました。
    コロナによる休校があり、「三平方の定理」が出題範囲から除外されるという異例の措置がとられた入試でした。
    三平方の定理を使えないのでは、平面図形や空間図形の問題に深みがなくなります。
    「相似」と「三平方の定理」をどう組み合わせるかが、そうした問題の醍醐味です。
    下手をすると、こんな出題範囲では、得点差が開かなくなります。
    それほど、「三平方の定理」が含まれるか含まれないかは、大きい。
    こんな範囲では、受験生の大半が、数学は80点、などということも起こりうる。
    それを恐れ、基本問題に「ひっかけ」をたっぷり仕込んだのでしょう。
    あまり好ましいこととは思えないです。
    うちの塾生は合格しましたから良かったですけれど、これのせいで不合格になった子もいたのではないかと思います。


    その類題が、今年、中3の2学期のテストに出た学校がありました。
    中3の2学期の定期テストでこれを出すならば、せめて、テスト前にこういう問題を集めたプリントを生徒に解かせてほしかったです。
    どんなにできないかを自覚させて、こういう問題を次のテストに出すと予告してほしかった・・・。
    何とか内申を上げようと必死な中3の2学期に、こういう底意地の悪い問題を出すのは、どうなんでしょう。
    都立入試はこういう問題が出るから気をつけろと教えるのは、中3の2学期のテストという場でなくても良かったと思うのです。

    変に高い内申が出てしまい、高めの志望校を選んでも、こういうミスをする子は入試で失敗する。
    内申を低くして安全な学校を選ばせるのは、ある意味温情・・・。
    そういうことかもしれませんが。



    話は変わりますが、少し前、都立高校入試の男女別定員制に関して、世論が高まった時期がありました。
    それの影響かどうかはわかりませんが、今回の入試から、緩和措置が取られます。
    既に一部高校でとられていた、定員の1割を男女混合の成績順で決める緩和措置が、全校に拡大します。
    以後、男女混同の成績順による割合を順次増やしていき、最終段階で男女合同定員に移行します。

    都立高校は、自校作成校の場合ならば、合格最低点は男子のほうがむしろ高いこともあります。
    しかし、普通の都立高校は、合格最低点は女子のほうが高い場合が多いです。
    つまり、同じ点数でも、女子は不合格となり、男子は合格する場合があります。
    ジェンダー平等の時代に、これはおかしいのでは?

    そうした内容を特集したラジオ番組をある日聴いていました。
    しかし、その特集を受けたリスナーからのメールは、予想とはかなり異なるものでした。
    その男女格差は確かに格差だろうけれど、透明性があるから受け入れることができる、というのです。
    それよりも、中学校による内申格差のほうを問題にしてほしい。
    あれは、許せない。
    そのような怨嗟に満ちたメールが何通も寄せられ、読み上げられていて、驚きました。

    中学校による内申格差・・・。
    東京都としては、「1」や「2」をどの生徒にも全くつけない内申を出した中学校は、全体で3校に過ぎず、大きな問題は見られない、という考え方のようです。
    でも、保護者が考えている格差は、そういうレベルのものではなさそうです。
    「うちの子の内申は4だったけれど、他の中学に行けば、5が取れたはずだ」
    「5を乱発している中学校があって、そこにわざわざ越境入学する子もいる」
    というように、高い内申レベルでの不満が募っているようです。

    そういう学校間格差はあるのか、ないのか・・・。
    長年塾講師をしている体感から言えば、明らかに、それはあると思います。

    これは昔話ですが、以前勤めていた集団指導塾では、近隣のいくつかの中学から生徒が通ってきていました。
    ところが、一番多くの生徒が通う中学校の内申がとにかくカラいのでした。
    他の学校の生徒は簡単に「5」を取っているのに、その中学の生徒で「5」はほとんど見かけませんでした。
    まだゆとり教育の時代でした。
    他の中学のテストは、学校から渡される教科書準拠ワークの基本問題の類題が大半で、何のひねりもありません。
    そんなテストでも得点できない子が存在する時代でもありました。

    しかし、その学校のテストだけは、難しかったのです。
    つまりは、数学で言えば、単なる計算問題でも、上のような問題。
    英語は、初見の長文問題が何題も並び、しかも記号問題はほとんどなく、英問英答が基本。
    テスト範囲からの出題は2割もありませんでした。
    このテストで90点以上を取れる生徒はほとんどいない・・・。
    だから、「5」を取れる子もほとんどいない・・・。

    この学校の「4」の子のほうが、あの学校の「5」の子より、正直学力は高い、と思うことは多くありました。
    他の学校は、得点分布をみると、80点台か90点台に最大のピークがあり、40点台にも1つのピークがある、ふたこぶラクダのグラフでした。
    一方、その学校の得点分布は、60点台に最頻値がある、きれいなヒストグラム。
    これで格差がないと言えるのか・・・。

    ただ、1つ言えることは、その中学校の生徒も、私の在籍した塾からは多くの生徒が自校作成校に合格していたということです。
    学校の定期テストが難しいので、日頃の学習のレベルが高かったのです。
    自校作成校の問題を解いても、さほどの抵抗感はありませんでした。
    何とか攻略し、内申の低さを当日の得点でカバーして合格していきました。
    一方、定期テストが教科書準拠ワークの類題だった子たちは、普通の都立入試問題でも「難しい」「難しい」「わからない」と音を上げてしまう子もいました。
    入試レベルの問題を解いたことがなく、解く必要があるとも思っていなかったのです。

    簡単に「5」の取れる学校の中学生、ましてや定期テストのない学校の中学生の学力は、かなり低い可能性があります。
    勉強に対するトラウマはないだろうし、それは大切なことだと思いますが、テストでの得点力はそういうものとはまた違います。
    都立入試の7割は、当日の入試得点で決まります。
    テストで得点できなければ、内申が高くても、どうにもなりません。
    そういう大きな意味での「平等」は達成されているようにも思います。


    中3の2学期の定期テストで、上のような「これまでの復習」の計算問題で大量失点した生徒は、2021年度の都立入試過去問を解いても、同じミスはしません。
    本番の入試もこのミスはしないと思います。
    定期テストという大きな場で、「教育」が達成されたと言えなくはありません。
    繰り返し繰り返し注意し続けでもなかなか直らなかったミスが、手痛い失敗を経て直りました。
    出題者の「悪意」のように私が感じたことも、「悪意」ではなく、「善意」だったと思うこともできるのです。

    禍福は糾える縄の如し。

    何でも糧にして、前に進みましょう。
    頑張ろう。


      


  • Posted by セギ at 13:51Comments(0)講師日記算数・数学

    2022年01月09日

    定期テストの結果に関して。


    さて、いつもなら、得点を90点台何人、80点台何人と書き並べるのですが、そういう書き方では、真実が伝わらないと感じるようになりました。
    というのも、公立中学の70点と、私立中学・高校や都立高校の70点では、意味が違うのです。
    まして、小学校のカラーテストとは、意味が全く違います。
    その意味の違いが、あまり伝わっていない可能性を感じるようになりました。
    特に、これからお子さんを塾に入れようという保護者の方には、伝わりづらいのではないかと思います。

    夢見がちなのは、お子さんだけでなく、保護者の方も、第一子の場合は夢を見ていることが多いです。
    褒めて褒めて褒めて育てた大切な我が子です。
    子どもを伸ばすために褒め続けたその褒め言葉が、その人の中で真実になっていて、現実との差が見えなくなっている場合もあります。
    今の成績はどうでも、この子は、もっともっともっと伸びるはず。

    それは間違ってはいないし、それをするのがうちの塾ですが、夢の見方があまりにも現実離れしている場合もあります。
    結果を出すには努力が必要ですが、努力するのは親ではなく本人です。
    努力することが習慣になっていない子もいます。
    また、小学校時代は、勉強を「勘」でこなしてしまっていて、ものを考えるということが何をどうすることなのか体感していない子も多いです。
    問題文を正確に読むことすら、できません。
    斜め読みし、勘で解いてしまいます。
    ものを考えるようになれば誰でも伸びますが、最初のうちは、考える度に頭が重くつらく苦しいのです。
    気持ちがついていかず、考えることから逃げてしまう子は多いです。
    一歩ずつ上を目指していくには、時間が必要です。
    3歩進んで2歩下がる繰り返しです。
    その過程だけを見て、「結果が出ていない」と思われるのは残念です。

    勿論、うちの塾にも根っからの秀才は常に存在します。
    今も破格の結果を出し続けています。
    高校英語で、平均点の2倍の得点を出している人もいます。
    高校の定期テストは、普通、そんなに高い点は出ないのです。
    それは、進学校になればなるほどそうです。
    その現実に気づかず、「70点かあ・・・パッとしないわねえ」と思われるのは残念です。
    その70点は、平均点の2倍の得点の70点です。
    偏差値にしたら、とんでもないことになります。

    その一方で、
    「この子は、もし大手の塾に通ったら、月謝を払うだけのお客様で終わる。都立高校に進学するのはまず無理だ・・・」
    と思う生徒もいました。
    おそらく本人も保護者もそのことに気づいていなかったでしょうし、気づかずに済むならそれでよいのです。
    そうした生徒と二人三脚で、最終的に本人が納得する都立高校にしっかりと合格してもらうのが、私の大切な仕事です。
    入塾前の本人の学力からすれば、3ランクくらい上の都立高校に合格することも多いです。

    しかし、それは、これから子どもが中学生になる保護者には、平凡な結果に見えてしまうのかもしれません。
    「都立自校作成校〇〇名合格」の宣伝文句を見て、自分の子もそこに加われると思ってしまうこともあるだろうと思います。

    夢見がちな保護者が内心で下に見ていた高校に、我が子は受験することもできないことに、中3の秋に気づく・・・。
    この高校なら受かると思ったのに、残念な結果に終わってしまう・・・。
    そうした悲しい思いをした保護者の方が、うちの塾の結果を改めて見直してくれれば、
    「この塾は、結果を出している」
    と気づいてくれると思うのですが、もう終わってしまった後でそのことに気づいても、遅いのです。
    受験する前に気づいてほしい。
    うちの塾に来てくれていたら。
    そう思います。

    そんなこともあり、今後は、素点の公表はやめることにしました。
    もともと、性質の違うテストの素点を、全部混ぜていたのが良くなかったですね。
    とはいえ、公立中学の部、私立中学の部、都立高校の部と分けて表示したら、誰の得点なのか特定できてしまう可能性があり、それもまずい。

    期末テストも、順調な結果でした。
    数学は、満点が出ました。

    また、これまで、考える様子がほとんどなく、私とのやり取りも全て勘でこなしていると感じていた子に、知性のきらめきを感じ始めました。
    これさえあれば、伸びる。
    ここまでが、長かったが。
    そうした手応えを感じています。

      


  • Posted by セギ at 15:14Comments(0)講師日記

    2021年11月04日

    中間テスト結果が出ました。2021年度2学期。


    公立中学は早くも期末テスト準備期間ですが、私立中高と都立高校の中間テストの結果がようやく出そろいました。
    以下の通りです。

    数学 90点台 2人 80点台 2人 70点台 1人 60点台 2人
    英語 90点台 1人 70点台 2人 50点台 2人 

    良い結果でした。
    数学は、60点未満の生徒ゼロ。
    英語も、50点未満の生徒がいませんでした。
    皆、順調に得点が上昇しました。

    英語の成績のほうが少し悪いように見えますが、偏差値は、むしろ英語のほうが高いと思います。
    高校英語は、平均点が40点台であることも多いのです。
    単語集、教科書、問題集、サイドリーダー、薄い冊子問題集、例文暗唱集、授業で配布されたプリント。
    テスト範囲が広いうえに、初見の長文読解問題も出ます。
    頑張れる子と諦める子とに、大きく別れていってしまうのが、高校英語です。

    テストの得点は、上がったら、次は下がります。
    気が緩むのかもしれません。
    前より下までは下げないこと。
    その次は、今回よりもさらに上げること。
    得点グラフが全体として上昇していれば大丈夫です。

    さあ、期末テスト。
    頑張りましょう。

      


  • Posted by セギ at 10:58Comments(0)講師日記

    2021年09月03日

    「夜ごはん」という言葉と、英語教育の変化と。


    長くこの仕事をしておりますと、生徒の言葉の変化に気づくことがあります。
    日常の言葉遣いは、本人の話したいように話したらいいと思っていますが、勉強に関係のあることの場合、訂正が必要になります。
    英語を教えていると、どのように日本語に訳すかというのは、ある時期までは重要な問題でした。
    テストに和訳問題が多く出題されていたからです。
    テストで減点されたら、困る。
    私が門番となり、生徒の日本語をチェックしなければならない場面は多くありました。

    I eat dinner at seven every day.

    中学1年生に、こうした英文を訳してもらうと、以下のような訳をする子は、30年前からいました。
    「私は毎日7時に夜ごはんを食べます」

    ・・・夜ごはん?

    30年前、「夜ごはん」という言葉を用いる子は、学力の低い子が多かったように思います。
    個別指導をしていて、「夜ごはん」という訳を見ると、うーん、やはり、この子は、英語能力というよりも、まず日本語能力に課題があるのかもしれないと感じていました。
    その言葉だけでそう感じたのではなく、日頃から感じていたことが「夜ごはん」という言葉に集約された印象でした。
    そんな言葉は、日本語にないよ?
    朝ごはん。
    昼ごはん。
    だから、夜ごはん?
    それは、「夕ごはん」または「晩ごはん」と言うのです。
    「ゆう」の意味が音としてよくわからないから、「朝」「昼」なので「夜」と類推して使っていたのでしょうか。
    周囲の大人の使う言葉をよく聞いていないから、そういう類推となり、それを訂正する能力が本人の中にない。
    言葉を注意深く聴く力が弱く、本もあまり読まないから、そういうことになるのかもしれない・・・。

    20年前も、集団指導塾で、そのような訳をする子のことを、秀才たちが失笑していたのを記憶しています。
    「朝ごはん」という訳には特別反応していなかったので、「夜ごはん」という言い方がおかしかったのでしょう。
    中学生ともなれば、秀才たちは、そもそも「夕ごはん」という訳し方もしませんでした。
    子どもっぽいと感じたからでしょうか。
    「朝食」「昼食」「夕食」。
    食事を訳すときは、そのように硬い漢語を使うのが普通でした。


    英文をどのように日本語に訳すか。
    どうすれば、減点されないか。
    それに対する感覚は総じて古くさく、なかなか改定されないことが昔は多かったことも影響していたと思います。

    He is a chef at the French restaurant.
    彼は、そのフランス料理屋の料理長だ。

    そんな模範解答が、ほんの10年くらい前まで、当たり前のように、テキストの解答集に掲載されていたのです。
    「彼は、そのフレンチ・レストランのシェフだ」
    という訳では、英語を日本語に訳したことにならないと判断された時代がありました。
    いや、実際にはそんなことでは減点されなかったのかもしれませんが、万が一されると怖いので、訳し方は徹底して保守的であるほうが良いとされたのです。
    むしろ、日本語として違和感があるくらいに、全て日本語に直さなければならない時代がありました。


    といっても、言葉には流行があります。
    「料理長」という言葉は、以前ほど古い語感の言葉ではなくなっているようにも思います。
    料理人への尊敬が世間に広まり、特に和食の場合は、「シェフ」と呼ぶわけにもいきません。
    大きな店の「料理長」、ホテルの「総料理長」といった、その職場での役職を日常で耳にするようになると、「料理長」という言葉は新しくなりました。
    むしろ「シェフ」という言い方のほうが軽々しく感じられるということもあるようです。

    英語をどこまで日本語に訳すべきか。

    My father has been cooking in the kitchen since this morning.
    私の父は今朝からキッチンで料理をしています。

    「キッチン」は、「台所」と訳すべきなのかどうか?
    今の一般家庭にあるのは、「キッチン」で、「台所」ではないのではないか?
    「キッチン」と「台所」は、もう指す対象が異なる言葉になってしまっていないか?
    十代の感覚はまた別かもしれませんが、「キッチン」よりも「台所」のほうが、本質的に良い場所であるような語感が私にはあります。
    使いこまれて清潔な道具が揃い、調理のベテランが腕をふるう場所が「台所」。
    おいしい和食の作られる場所が「台所」。
    だから、「キッチン」は「キッチン」と訳して構わないのではないか?

    しかし、生徒本人の言語感覚と、テストの採点者の言語感覚との両方を想像し、その橋渡しをするのが塾講師で、私自身の言語感覚はあまり関係ないのでした。
    その訳で、減点されるか、どうか?
    判断基準はそれだけでした。



    この10年で、英語教育は激変しました。
    英文を日本語に訳す問題が、まず中学で消滅しました。
    高校入試に和訳問題がないからです。
    さらに高校でも、消えつつあります。
    大学入試に和訳問題が消えつつあるからです。

    英文を、1段落ずつ、または1文ずつ、生徒に音読させ、訳させる授業が、消えていこうとしています。
    アップデートされた高校コミュニケーション英語の授業は、例えばこんなふうです。
    まず、音源によるか、または教師による本文の音読が行われます。
    生徒は、文字は見ず、まずその音声を聴きます。
    その後、聴き取った内容に関する簡単な問いのプリントを解きます。
    その答えあわせと、解説。
    そして、本文を読みます。
    またも、その内容に関する問いのプリントがあり、それを解きます。
    その答えあわせと、解説。
    文法的に重要な文や重要語句があれば、それも解説。
    その後、全訳プリントが配られ、それを逆に英文に直す練習。

    新しい授業は、これまでの授業と異なり、英語の先生の授業準備が授業内容のすべてを左右するほどに重要となります。
    ある程度は指導用の教材もあるでしょうが、本文の内容に関する四択問題を沢山作らねばなりません。
    英問英答形式にするとしても、プリントを作るためには、そのタイピングと印刷だけでも作業量は膨大です。
    全訳プリントの作成もあります。

    しかも、そこまでの労力を使っても、生徒の英語力がそれで向上するとは限らないのです。
    深く学ばず、プリントを解き散らかすだけの子。
    全訳を読んで、何が書いてあるかわかれば、それで勉強した気になってしまう子。
    単語を覚えないので、徐々に自力で英文を読むことができなくなり、学年相当の英語力から遅れていく子。
    「何かよくわからないまま授業が進んでいく。何も教えてくれない」
    と不満をもらす子。

    「読んで訳す」だけの授業を受けてきた世代にとっては夢のような授業も、生徒にとっては、新しい不満の種となっていくようです。
    個別指導で、生徒に1文ずつ読んで訳してもらい、訳せないときに、単語のいちいちの意味を教え、英文の構造を解説すると、
    「そういうことだったんだ。やっとわかった」
    と言う子もいます。

    では、昔ながらのそういう授業のほうが本当は良いのでしょうか。
    そういうことでもないと思うのです。

    新しい英語の授業は、先生の準備が重要なのと同じくらい、生徒の復習が重要。
    一度読んだ英文を繰り返し繰り返し読み、全訳を英文に復元する練習も自主的に繰り返す。
    口で言うだけでなく、書いてみる。
    昔のようなノート作りを強制されない分、形に残らないそうした練習を繰り返し、余った時間で、単語暗記も繰り返す。
    さらに自主的に教科書以外の英文を読んだり、英検などの長文読解問題を解いたり。
    できることは沢山あり、そうしたことをやっている人は学年以上の英語力を身につけ、それをしない人は、気がつくと永遠に中学英語レベルのまま、取り残されていくのです。

    テストに和訳問題が出題されることは少なくなりました。
    昔ながらの、ノートの左半分に教科書英文を書き写し、ノートの右半分にその和訳を書いていかなければならないノート作りとその提出も、強制されることは少なくなりました。
    全訳は、授業時に渡されます。
    要求されているのは、初めて聴いた英語の内容を大体聴き取れること。
    さらに、初めて読む英文の内容を把握できること。
    常にその練習をするのが、新しいコミュニケーション英語です。

    和訳はどこまで日本語に直すべきかなんて、もうどうでもいいのです。


    さて、そこで「夜ごはん」問題。

    近年、dinner を「夜ごはん」と訳す子は、学力の低い子だけとは限らなくなっています。
    朝ごはん。
    昼ごはん。
    夜ごはん。
    食事時間が、夕方ではなく、完全に夜に移行したことも大きいのでしょう。
    今、夕食の時間は、7時台、あるいは8時台の家庭も多いと思います。
    それは、「夕ごはん」と呼べる時間帯ではなくなってきています。

    その一方、では、漢語としてはどうなのか?
    朝食。
    昼食。
    ・・・夜食?
    それは、夜遅くまで勉強したり働いたりする人が、夜更けに食べる軽い食事を指す言葉なのでは?
    漢語では、今も、「朝食」「昼食」「夕食」「夜食」でしょう。
    そして、この漢語を正しく言えるかどうかは、今も基礎学力と多少関係があるように思います。
    国語が苦手な子は、特に「昼食」が言えません。
    「昼」を「ちゅう」と読むことをそもそも知らない様子です。
    しかし、便利な言葉があります。
    「昼食」が言えない子は、「ランチ」と言うことが多いです。

    そんなことを考えていたら、最近、ファストフードのCMで、
    「お母さん、夜ごはんは」
    と堂々と言い出したので驚きました。
    時代は、ここまで来た。
    「夜ごはん」という言葉がついに市民権を得た。
    辞書に載る日も近い。
    いや、もう載っているのかもしれません。

    一方、NHKの料理番組は今もなお「夕ごはん」という言葉を使っています。

    言葉は、どれが正しいとか間違っているとかいうことはありません。
    使う人が多くなれば、その言葉が認知されていきます。
    「夜ごはん」「夕ごはん」の攻防は、なかなかに興味深いです。
      


  • Posted by セギ at 14:07Comments(0)講師日記英語

    2021年08月21日

    国語の選択肢を読むことから、誰かのために生きることへ。



    さて、今日は、国語の問題を読んでみたいと思います。
    といっても、四択のみです。

    選択肢だけ読んで問題に答えるというのは、邪道の極みで、うちの塾では行わない指導です。
    国語という教科の目的は、文章を読む力を養うことです。
    本文を読まず、選択肢だけ読んで正答するテクニックを教えていたら、その子は、一生文章が読めません。
    愚直に本文を読み、正確に選択肢を選んでも、国語のテストは十分に時間が余ります。
    愚かなテクニックに走ると、文章を読む力は養えず、大人になっても必要な情報を文字から得ることができず、また、文章を読む楽しみとは無縁な一生を送ることになります。

    だから、今回の話は、そうした四択テクニックを伝授する話ではないのです。
    ただ、いくら何でもその選択肢はないだろうという選択肢に、簡単に騙される子が案外多いのです。
    それは選んだらダメだ、という選択肢は確実に存在します。


    以下の選択肢を読んでみてください。
    正答は、どれだと思いますか?

    問5 この文章について述べたものとして最も適当なものは、つぎのうちではどれか。

    ア、父の願いを知りつつ死んだ母を慕い続ける敬一の心情と、敬一への思いと今の妻への思いとの間で揺れる父の心情との交錯を、会話文を多用して描いている。

    イ、母を亡くした敬一が父との対話によって心を開き、父の心情を理解して新しい母を受け入れようと決心するまでの心の変化を自然の情景描写と対応させながら描いている。

    ウ、敬一、父、ハルさんの家族の三人のそれぞれの立場における複雑な心情のぶつかり合いを、会話のやり取りや短い文を重ねていくことで緊迫感を出しながら描いている。

    エ、いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されてきたかを、回想場面を間にはさみながら、父の視点に立って描いている。


    ・・・いや、本文を読んでみないと、どれが正しい選択肢なのかわからないから、本文を見せてくれ。
    そう感じる方は、きわめてまっとうな方です。

    では、どの選択肢が好きですか?
    正しいかどうかではなく、どの選択肢が好みですか?
    どういうことが書いてある文章であってほしいですか?

    実は、生徒の多くは、本文を読んだうえでも、そういう観点で選択肢を選んでしまうのです。
    つまり、道徳的に正しい選択肢が正解だと思うようなのです。
    「国語の正答はこういうものだろう」という誤解が本人の中にあるのかもしれません。
    国語の時間は道徳の時間ではないですよと繰り返し説明しても、その忠告の本質が本人にはなかなか伝わっていきません。

    そういう子は、「イ」を選びます。
    本文の内容がどうであるかは関係ないのです。
    父との対話で心を開くのが、道徳的に正しい態度。
    父の心情を理解して新しい母を受け入れるのが正しい態度。
    正しいことが書かれているから、正答は「イ」。
    そう思うようなのです。

    「イ」ではないよ、と言われると、そうした子は、次に何を選ぶか?
    「エ」です。
    「いつまでも新しい母に心を許さない敬一」。
    敬一を非難しているようなこの描写が気にいる様子です。
    新しい母に心を許さないなんて、そういう態度は良くない。
    良くない態度は、非難するのが正しい。
    だから、正答は「エ」。
    そういう選択肢の選び方をしてしまうのです。


    ここで、本文の内容をかいつまんで説明します。
    主人公敬一は、新しい母を「お母さん」とは呼べずにいる少年です。
    ある日、父親は、新しい母親の気持ちもわかってやれと言いつつも、病気で亡くなった母の生前の日記を敬一に見せてくれます。
    一晩だけ持っていていいと言われ、敬一はその日記を書き写します。
    自分への愛情がつづられたその日記を泣きながら書き写し、敬一は、自分の母はこの母だけだと強く思います。

    これでおわかりだと思います。
    正解は「ア」です。

    しかし、そういった内容の本文を読んだうえで、「イ」を選ぶ生徒が案外多いのです。

    さすがに驚きます。

    え?
    本文、読んだ?
    文字を目で追うことはできても、内容を理解できていないのだろうか・・・?


    国語が苦手な子、文章を読めない子には、さまざまな事情が考えられます。
    文字を読むことに他人よりも困難を伴う子は存在しますし、それはそんなに特別なことではないと思います。
    逆上がりができないとか、泳げないとか、自転車に乗れないとか、そのレベルのことである場合も多いと思うのです。
    ずっとできないままかもしれないけれど、トレーニング次第でできるようになる場合もあります。

    単語や文節の区切りを認識するのが難しい。
    文字の順序を目がしばしば逆にとらえてしまい、そのために意味を読み取れず混乱する。
    漢字の読みをあまり覚えていないので、文章が虫食い状態である。
    文字そのものは読めるが、それが現実の事象と結びつかず、永久に文字という記号のままであり、意味を形成しない。

    程度の差はあれ、そのような傾向がある子は、文字を読むのが基本的に苦痛です。
    そうであるなら、選択肢を選ぶ基準がどうのこうのといっても仕方ありません。
    まず、文字から正確な情報を得られるようにトレーニングをする必要が生じます。

    ・・・この子は、どのような状況なのだろう?
    もしかしたら、目で文字を追っているだけで、内容は読み取れていないのではないか?

    あらゆる可能性を考えながら模索を続けるのが国語の個別指導となりますが、上のような「イ」の選択肢を選んでしまう子の場合、文章は読めているが、それでも「イ」を選んでいる可能性も高いのです。
    上に書いたように、とにかく「道徳的な選択肢が正答」という思い込みが強く、無意識にそれを基準にして選択肢を選んでしまうようなのです。

    学校では良い子でいなければいけない。
    先生に目をつけられてはいけない。
    内申に響く。

    今どきの子のなかには、必要以上にそう考える子もいるので、そうした影響なのだろうかと思うことがあります。
    しかし、そういう子もいるでしょうが、それだけではないようです。
    何より、本人が、道徳的なことが好きなのでしょう。
    道徳的なことに感動しやすく、道徳的なエピソードが大好き。
    別に悪いことでもないので、注意できないのが難しい・・・。

    もう一度選択肢を読んでみましょう。

    ア、父の願いを知りつつ死んだ母を慕い続ける敬一の心情と、敬一への思いと今の妻への思いとの間で揺れる父の心情との交錯を、会話文を多用して描いている。

    イ、母を亡くした敬一が父との対話によって心を開き、父の心情を理解して新しい母を受け入れようと決心するまでの心の変化を自然の情景描写と対応させながら描いている。

    ウ、敬一、父、ハルさんの家族の三人のそれぞれの立場における複雑な心情のぶつかり合いを、会話のやり取りや短い文を重ねていくことで緊迫感を出しながら描いている。

    エ、いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されてきたかを、回想場面を間にはさみながら、父の視点に立って描いている。


    本文を読めば簡単にわかることです。
    むしろ本文を読んで判断したほうが時間がかからない。
    しかし、もしも選択肢だけで判断するのだとしたら、私はまず「エ」を除外します。
    いつまでも新しい母に心を許さない敬一の心情がどのようにして形成されたかは、父の視点で描写することではないからです。
    これは、あり得ない。

    次に「イ」を除外します。
    この選択肢は優等生すぎる。
    これは、ひっかけ。
    入試問題に掲載されているのは、小説のごく一部分です。
    一部分だけで、こんなに劇的な心の変化は描けません。

    そして、「ア」と「ウ」の2つから選ぶのなら。
    「ウ」もあり得るけれど、まあ無難なのは「ア」だから、正解は「ア」なんでしょう。

    つまり、私も「無難さ」で「ア」を選ぶのですが、その「無難さ」の基準が違うのだと思います。
    国語問題的な無難さ。
    道徳的には生きられない人間の複雑な心情が描いてあるほうが、国語問題として普通です。
    「ア」の選択肢はきわめて無難であり、これが正解です。


    とはいえ、そんなテクニックは、生徒には話しません。

    ちゃんと本文を読みなさい。
    本文に何もかも書いてあります。
    本文に書いてないことを勝手に想像するのはやめなさい。

    そうした指導を続け、その子は、道徳的な選択肢を選ばなくなりました。
    同時に、200字作文にも変化が見られました。
    例えば、テーマは「『利他』について」。

    都立型の論説文の読解は、最後に200字作文があります。
    問題文を読んで、考えたことを、具体的な体験や見聞を加えて200字で書きます。
    利他についてのその問題文は、東日本大震災の後に書かれたものでした。

    「自分のために生きろ」と言われても、何が自分のためであるのかは、わからない。
    未来は見えないからだ。
    目標を定めることができず、結局、そのときの時代の雰囲気に流されてしまうことも多い。
    一方、「他人のために生きる」ことは、目標が明確だ。
    何が他人のためになることなのかは、何が自分のためになることなのかよりは、はるかにわかりやすい。
    今、人々は、利他的な生き方に喜びを発見し始めている。

    道徳的な選択肢が大好きな子であるのだから、この文章に猛烈に感動し、ボランティア体験などで嬉しい楽しいと感じたことを語るのだろうと私は予想していました。
    しかし、その予想は、大きく外れました。

    他人のために何かしてやることは他人のためにはならないと、その作文には書いてありました。
    本人が努力するべきだ。
    助けてやると、本人は甘えて、ますます努力しなくなる。
    努力している人の邪魔になる。

    内容もひどいが文章もつたなく、目もあてられないものになっていました。

    作文は、語られている内容が過激で非道徳的だから点数が下がるというものではありません。
    しかし、明らかに間違っている論理を説得力のない文章でたった200字で書いて、どんな得点が入るというのでしょう。
    否定するのは簡単なことですが、私は困惑していました。

    ・・・この作文を書かせたのは、私なのではないか?
    道徳的な選択肢を選ぶなと言い続けたことで、私が道徳的なことを好んでいないと受け取られたのではないか?
    これは、「私が好むだろう作文」として提出されたものなのではないか?
    その子の思い描く私の姿に、私はぞっとしました。

    その子が道徳的な選択肢を正解だと思っていたのは、その子の中に、確固たるものが何もなかったからかもしれません。
    中学生ですから、それは当然です。
    まだ心はとても柔らかく、あたたかい考え方からひどく残酷な考え方へと、日々簡単に移り変わります。
    その不安定な心を守る壁が、道徳的な選択肢を選ぶことではなかったのだろうか?
    それを選び、それで正解となることで、本人も安心だったのではないか?

    でも、違うのです。
    本当は、心がとても柔らかいからこそ、届く文章があります。
    そういうものを自力で読めるようになってほしい。
    文字を読む技術、言葉を読む技術が足りないと、そういうものと出会うことすらできない。
    国語の学習は、いつか、そうした文章に自分で出会うための準備です。

    道徳的なことだけで、人の気持ちが救われるわけがない。
    だからといって、功利的なことばかり言っていたら、心はもっとすさんでいきます。

    その子が「努力」至上主義的なことを書いたのは、私がその子に努力を強いたからだったのでしょうか。
    努力・努力・努力。
    私は、そんなに努力・努力とその子に言ってきたのだろうか?
    努力をすれば報われる。
    努力をしないやつはダメなやつだ。
    ・・・そんなことは、言わなかったはずなのですが。


    今年もまた中学三年生に都立受験対策として国語を教えています。
    道徳的な選択肢を選びがちなのも、例年の中三と同じです。
    「利他について」の200字作文では、利他を好むのは独特な考え方だと思うという感想が書かれてあり、これは本当にそういう意味で書いているのか、言葉が足りないだけなのかと悩んでしまったのも、私にとっては、例年の夏です。

    そんな日々に。
    唐突かもしれませんが、上野千鶴子さんの東大入学式の祝辞を思い出しました。
    有名な祝辞ですので、ご存じの方が多いと思います。
    一部、私が特に好きな部分をここに引用します。
    以下が、引用です。


     あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、頑張ってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そして頑張ったら報われるとあなたたちが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたたちが今日「頑張ったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持って引き上げ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、頑張っても報われないひと、頑張ろうにも頑張れないひと、頑張りすぎて心と体をこわしたひと・・・たちがいます。頑張る前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」と頑張る意欲をくじかれたひとたちもいます。
     あなたたちの頑張りを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして、強がらず、自分の弱さを認め、支えあって生きてください。

      


  • Posted by セギ at 13:53Comments(0)講師日記

    2021年07月31日

    期末テストの結果が出ました。2021年1学期。


    1学期期末テストの結果が出ました。

    数学 90点台 1人 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 2人 30点台 1人
    英語 80点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 1人 40点台 2人

    高校生は、数学2科目・英語2科目の平均点を用いています。
    新規の生徒が加わりましたので、下が重いですが、さあこれからです。
    やりがいがあります。

    ゆとり教育の頃と比べると、公立中学も高校も、テストの問題数がとにかく多い学校が増えました。
    最後まで解き切るだけで大変で、見直しする時間のない子が多い話は、前回もしました。
    数学の配点が計算問題で1問1点、文章題で2点から3点。
    いかに全体の問題数が多いかわかると思います。
    大学入試共通テストの数学や英語も、70分で余裕を持って解ける問題数とは思えないので、中学の頃からとにかく速く解くことが要求されているという流れは、わからなくはありません。
    過酷なほどに、処理能力の高さが問われています。

    しかし、数学の問題を解くのがとにかく遅い子は、今も多いです。
    1つには、計算能力の差があげられます。

    計算というのは、ある程度暗記です。
    かけ算の九九が代表ですが、たし算・ひき算も、現実には暗記で処理します。
    6+8=14
    という計算を、実際に、
    「6はあと4をたすと10になるから、1上がって、8から4をひいて4だから、答は14」
    とやっているのは、小学校の低学年まで。
    6+8=14であることは、今までさんざん計算してきてわかっていること。
    だから、もうそれを見た瞬間に、6+8=14 と処理するのが、計算の速い人のやり方です。

    しかし、計算が遅い人は、中学生になっても高校生になっても、
    6+8=14
    を上のような作業をして計算しているようなのです。

    上のような作業をやれと言われれば、いつでもできる。
    意味はわかっている。
    しかし、もう何千回と計算してきた6+8の答は暗記している。
    だから、直接答を書く。
    計算が速い人は、そのように処理しています。

    計算時間が大差となって表れるのは、分数の計算です。
    分数の約分や通分は、小学校だけで終わる作業ではなく、中学生になっても高校生になっても、大きく影響します。
    高校1年になって、数A「場合の数と確率」の学習をした際に。
    考え方が理解できないわけではないけれど、約分が下手過ぎて、時間がかかるうえに正解が出ない。
    高校2年になって、数Ⅱ「積分法」を学習した際に。
    理解できないわけではないけれど、通分が下手過ぎて、異様に時間がかかるうえに、正解が出ない。
    そういう人もいます。

    48/96=1/2 を一度で処理できない。
    約分しろと言われると、2で割って、2で割って、2で割って、を繰り返してしまう・・・。
    13/27-5/9+2/3
    といった計算に、本当に時間がかかり、しかも、しばしば間違える・・・。

    訓練によって獲得するにしろ、生来のセンスであるにしろ、計算力がないと問題を解くのに時間がかかります。
    これは、なかなか解消できません。
    もともと計算が遅いうえに、数学がとにかく嫌いなので、学校でも塾でも宿題でも、のろのろのろのろ問題を解く子もいます。
    速く解くと、たくさん数学の問題を解くことになって損だと思っているのだろうか?
    そういう疑念をいだきたくなるほど、のろのろと数学の問題を解くのです。
    普段はのろのろ解いているのに、テスト中だけ急ごうとしても、無理です。
    テストのときはあせって、ケアレスミスを繰り返す・・・。

    一所懸命頑張っているけれど、どうしても遅い。
    どうやらそれが現状の全力だろうと思われる子もいます。
    それは、見ていればわかります。
    全力で頑張っている子に「急げ」と命じ、焦らせたところで、ミスが増えるだけです。
    しかし、どうも、全力を出しているように見えない子もいます。
    普段、スピードを上げる努力をしていないのに、テストのときだけ速く解こうと焦ることになります。

    そうなると「劇薬」に手を出す子が表れます。
    中学3年生の男子に、毎年、旋風のように巻き起こる、1つのブームがあるのです。
    と、大げさに書きましたが、実は何ということもない、平凡な計算の工夫です。
    平方根と乗法公式のところで、例えば、
    (√2+√3)2
    =5+2√6
    と一度で処理する程度のことです。

    乗法公式通りに解くならば、
    (√2+√3)2
    =2+2√6+3
    =5+2√6
    その整数部分を一度で暗算するやり方です。

    こんなことの何がそれほど魅力的なのか、私は理解に苦しむのですが、毎年、中学3年生の男子は、どこかからこのやり方を教わり、塾の宿題をそれで解き、誤答し、私の逆鱗に触れるのが毎年のお決まりです。
    「男子」と特定するのは、この計算の工夫をして誤答する女子生徒を私は見たことがないからです。
    そんな工夫をしたらかえって間違えそうだから、私は丁寧に計算する、と考えるのが女子。
    実は使っていても、正解するのが女子。
    下手に手を出して、誤答するのが男子。
    そういう違いがあるかもしれません。

    実際、この工夫を使う子の多くは、
    (2-√3)2
    =1-2√3
    といった誤答をしてしまいがちです。
    (2-√3)2
    =4-4√3+3
    =7-4√3
    ですが、片方が整数で片方が平方根であることに気を取られて、符号ミスを起こしてしまうのでしょう。

    (2+√3)2
    =7
    という場合もあります。
    (2+√3)2
    =4+4√3+3
    =7+4√3
    ですが、整数部分の和に意識を奪われ、4√3の存在を忘れてしまったのでしょう。

    「都立入試では、後ろのほうの応用問題も、こんな計算問題も、同じ5点なんですよ?こんなところで、そんなくだらないことで計算ミスをして、その5点をどこで取り返すつもりなんですか?」

    ・・・そこまで怒らなくてもよいのでは?
    こういう解き方がかっこいいと勝手に思って、勝手にしくじっていくのは、本人の問題なのだから・・・。
    ・・・いやいやいや、そんな冷たい考え方をしている場合ではありません。
    一見優しいようで、実は冷たい。
    そういうのは、よくない。

    こんなつまらない工夫をすぐ使うわりに、「関数」の問題で、求めたい点の x 座標を t とおいて方程式を立てることは、何回教えてもその発想すら身につかないのは、どういうこと?
    空間図形と点の移動に関する問題で、「x秒後とする」という最初の1行を、何回教えても発想できないのは、どういうこと?
    覚えるなら、そっちを覚えなさいよー!


    ・・・自分の怒りを冷静に分析して、気がつくことがあります。
    計算力は大切です。
    計算が速いにこしたことはありません。
    基礎的な計算力はほしい。
    けれど、計算だけ上手な生徒を、私はそれほど高く評価しません。
    そんなのは、ただの人間電卓だからです。

    現在の学力はかなり怪しく、約分通分すらもたもたもたもたしていても、どの子にも応用問題を教え続けます。
    中学で「関数」を学習するのなら、座標平面と図形の問題を自力で解けなかったら意味がない。
    求めたい点のx座標をとりあえず t とおいて、さあ、それからどうする?
    そういうことを考えられなかったら、「関数」なんて、つまらない。
    そういう問題を自力で解けるようになると、数学に自信がもてます。
    数学という科目に対する意識が変わります。
    問題を自力でたくさん解くようになるので、計算もたくさんするようになり、もたつきも減っていきます。
    計算だけをやらされているよりも、本人も楽しく勉強でき、効果もあります。

    (√2+√3)2
    =5+2√6
    と一度で計算するよりも、「関数」の応用問題を正答するほうが、かっこいいのです。
    立方体や直方体をさまざまな角度で切断した後の立体を正確にイメージできるほうがかっこいいです。
    その体積を求めろといわれたら、ちょっと考えた後、すらすらと断面図を描きだしたら、最高にクールだと思うんです。

    大学入試の数学の記述式問題は、どのように解こうとしているか、その過程が明瞭であれば、途中で計算ミスをしていても、大幅な加点があります。
    学生に人間電卓であることを求めているわけではないからです。
    計算は、コンピュータがやります。
    では、人間は何をやるのか?
    数学と向き合うということは、そういうことを考えることでもあると思うのです。

      


  • Posted by セギ at 13:19Comments(0)講師日記

    2021年06月09日

    中間テストの結果が出ました。2021年1学期。


    2021年度1学期中間テストの結果が出ました。

    数学90点台 1人 80点台 2人 70点台 3人 50点台 1人
    英語90点台 1人 70点台 1人 60点台 1人 50点台 1人 40点台 1人

    高校生の場合は、数学2科目の平均、英語2科目の平均を記載しています。
    平均点よりははるかに高い得点の人が大半ですので、満足の結果でした。
    平均点以下になったのは、2人。
    まだまだ伸びしろの大きい人です。
    これからです。

    それにしても、この10年で、中学・高校の定期テストは問題数が多く難しくなりました。
    ゆとり教育の頃は、普通に勉強していれば、テストで90点以上をとるのはそんなに難しくありませんでした。
    しかし、平均点が40点台のテストも、今は珍しくないのです。
    生徒の学力がこの10年で下がったとは思いません。
    問題数がこれだけ多いと、スピーディーに解いていかないと最後まで解き切ることができませんし、見直しもできません。
    1問1問はそんなに難度が高いわけではなくても、この量では、学力差が拡大されて表れます。
    普段、マイペースでのんびり丁寧に解いている子は、テストのときだけ時間に追われ、普段はやらない暗算や答案の省略をやり、どんどん得点を失っていくのです。
    普段からフルスピードで解いていく習慣が必要となります。
    ミスせず、速く解いていくことが課題です。

    ケアレスミスについては、今までも何度も書いてきました。
    ケアレスミスが多い子で、これは完全に治ることはないだろうと思われる子は、大きく2通りに分かれます。
    1つは、テストになると過度に緊張し、精神状態が不安定になってしまう子。
    もう1つは、根本的に集中力に欠け、いつも頭の半分は他のことを考えながら問題を解いている子。
    どちらも、頭の回転自体は速い子に多いです。
    これらは、本人が自分の心の問題に正面から向き合い、解決を図らない限りは、解決しないと思います。

    そうではないのにケアレスミスの多い子は、本人の精神的な幼さが原因となっている場合が多いように思います。
    ケアレスミスを解決する方法を知らないのです。
    あるいは、アドバイスを受けても、実行しようとしない。
    本人の中で、自分のミスの多さが、解決すべき課題として自覚されていないからではないかと思います。
    他人に比べれば自分はミスは少ないほうだとすら思っているのかもしれません。
    あるいは、ケアレスミスを過小評価します。
    「ケアレスミスってどういう意味か知っていますか?」
    と尋ねると、
    「小さいミス」とか「ちょっとしたミス」と答えます。
    「不注意なミスという意味ですよ」
    と説明すると、嫌な顔をします。
    幼い子は、主観で生きています。
    バイアスが強くかかっているのです。
    ミスの多い自分を客観的に見ることがまだできないのです。

    私が見た中で、一番驚いたのは、塾に来ると、机の上にカバンを置き、その上にノートやテキストを載せて、ぐちゃぐちゃと解き始める子でした。
    カバンといってもデイパックですからポケット部分の凹凸があるのですが、その上にノートやテキストを開いて問題を解くことを何とも思っていないのでした。
    「整地」という言葉を使いたくなるほど、何だかそういうことへの意識が低い。
    まずは平らな場所にテキストとノートを開かなかったら、そりゃあミスが増えます。
    書きにくいので、そこに意識が逸れますから、それだけ集中力を奪われます。
    そんなことに、そもそも気がついていないのでした。
    カバンを床に置くのが嫌なら、隣りの椅子でも、隣りのスペースの机の上でも、後ろの机の上でも、どこでも場所はありました。
    空間的には贅沢な造りになっています。
    それでも、毎回、カバンは片付けましょうと声をかけない限りはそのスタイルで解いていました。
    あれは謎でした。
    整理整頓ということが、絶望的に身についていなかったのだと思います。

    テキストを右に、ノートを左にして解いている子もいました。
    右利きでそれでは、テキストを見にくいし、ノートも書きにくい。
    そんな小さなストレスもミスにつながります。
    それを知らないのでした。
    中学生になる前に誰かにどこかで一度は教わっているだろうと思うのですが、どうでもいいことと思い、聞き流したのでしょうか。

    ノートをテキストの上に置き、問題を常に隠してしまう状態にしている子もいました。
    問題を書き写すとき、ノートを少し横にずらして、ちらちら見ては、またノートを元に戻して書くのです。
    問題の書き写し間違いや、大問1の(3)を解いた次に大問2の(4)に飛んでしまうことが多い子でした。
    原因の1つがテキストとノートの配置にあることは明らかでしたが、それが原因であると本人が自覚できないので、これもなかなか治りませんでした。
    子どもは万能感が強いので、その程度のことで自分のパフォーマンスが落ちるとは思わないのかもしれません。
    その程度のことでミスを多発するのが人間なのですが、子どもなので、それを認められないのでしょう。

    シャーペンの芯を伸ばしすぎて、いつもボキボキ折ってはまたノックしてを繰り返している子もいました。
    そこで集中力が切れていることに自覚がないようでした。
    かわいさ重視でちっとも消えない消しゴムを使っている子も。
    それでイライラが増して快適に学習できていないことを自覚していませんでした。

    ノートをやたらと傾けて使う子もいました。
    いつも45度は傾いていました。
    その傾きで筆算をしますので、桁も傾き、どんどんズレて、別の桁と足し算していました。
    書きやすさのために多少傾けるのは許容できるけれど、桁がわからなくなるくらい傾けてどうする。
    しかし、そのことに自覚がありませんでした。

    計算問題をノートに書き写すときに、上下の問題を合体したような妙な式を書き写してしまう子もいました。
    テキストの該当箇所を左手で指さして、どこを写しているのか確認しながら写せば、そのようなミスは防げます。
    しかし、そう助言したとき、その子は心底びっくりしたような顔をしていました。
    「え?左手をどうするんですか?」
    何をどうするのか、本当にわからなかったのです。
    中学生になっていても、そんな知恵も身につけていない子でした。

    こういうことの1つ1つは些末なことです。
    こんなことばかり注意していたら、「小言おばさん」です。
    生徒が窮屈に感じたり嫌気がさしたりしても学習効果が薄れるので、見るに見かねたとき以外はあまり言わないようにしています。
    何がミスを誘発しているか自覚しない限りは、どの道、ミスは減りません。
    それには、精神的成長を待たなければなりません。
    何が何でも得点を上げたいと本気で思ったとき、些末なミスの原因は本人が排除していきます。

    問題を解いていて自分が解きにくい、何だかミスしそうで不安だと感じたときに、それを改善するために頭を働かせ、工夫する。
    人はミスをするものですが、それを防ぐ方法もあります。
    教わることもあれば、自力で発見することもあるでしょう。
    ミスをする原因を細かく丁寧に排除していくことで精度を高めることができます。

    年齢が上がるにつれ脳が発達し、集中力が増していくこととの相乗効果もあります。
    まだ幼く、見るからに隙だらけでケアレスミスが多い子は、具体的な改善点が多い分、むしろあまり心配は要らないと感じています。

      


  • Posted by セギ at 13:46Comments(0)講師日記

    2021年03月25日

    学年末テストの結果が出ました。2021年3月。



    学年末テストの結果が出ました。

    数学 80点台 2名 70点台 1名 60点台 2名 40点台 1名
    英語 80点台 1名 70点台 1名 50点台 1名 40点台 1名

    数Ⅱと数Bなど、2科目ある場合は、その平均で表示しています。

    上がったら、次は下がる。
    下がったら、次は上がる。
    その原則通りに得点が推移している人が多いです。
    下がっても、その前よりも下がらなければいい。
    上がったときに、その前よりも上がっているといい。
    折れ線グラフが全体として上昇志向であれば、成績は順調に上がっています。
    おおむねその傾向となっています。


    さて、新学期は塾選びの季節。
    とはいえ、どこの塾を選ぶ、というより、そもそも塾の使い方が下手、という人もいます。
    せっかく塾に通っても、効果が得られない使い方をしてしまうのです。

    まずは、10年以上前の話から。
    当時の私は、集団指導塾で働いていました。
    中学2年のクラス担任をしていたときのことです。

    夏休み前の個人面談で、1人のお母様とこんな会話を交わしたことがありました。
    将来の希望をお母様に尋ねると、国立大学か、有名私立大学に行かせたいとおっしゃるのです。
    「東大とは言いませんが、学芸大か、あとは、東工大が、今は、就職率が高いそうですね」
    「・・・・そのようですね」
    「それが無理でも、せめてMARCHくらいは・・・」
    「・・・はあ」
    「だから、高校は、都立の自校作成校か、大学の付属高校に入ってほしいんですけど」
    「・・・はい」

    しかし、その子のその時点での成績は、そんなことはとても望めませんでした。
    「3」の中にいくつか「4」もある状態。
    しかし、夢はかなえてあげたい。
    それには、成績を「4」と「5」だけにしないといけない、と私が忙しく頭をめぐらせていますと、お母様は言います。
    「それで、まだ中2ですので、休みはゆっくりさせてあげたいと思いますので、夏期講習は、参加できません」
    「・・・・?」

    「それで」の使い方、おかしくない?

    この瞬間、この子の都立自校作成校入学の可能性は消えた、くらいの絶望感を私は抱いたのですが、お母様には私の絶望は伝わっていなかったように思います。
    あるいは、私の絶望は伝わっても、それは、塾としての経営戦略とか営業ノルマに関する絶望と受け取られたかもしれません。
    私の働いていた塾には、そのようなものはなかったのですが。
    子どもに勉強を教えることがただただ好きなプロ講師が集まって、できるだけ安い授業料で、自分の理想とする授業を行う。
    そういう塾でした。
    しかし、それは、実際に生徒を通わせているお母さま方にすら、あまり伝わっていなかったのかもしれません。

    そのとき、そのお母様は、塾の営業戦略に私は勝ったわ、みたいな笑みすら浮かべていました。
    おそろしいことに、さらに、
    「夏期講習で学習した内容は、新学期に補習してくださいね」
    と笑顔でさらりと要求したのです。

    勝負は、このお母様の勝ちだったのか?
    ・・・いいえ。

    他の子が長期休暇の間に努力して身につけたことを、新学期に多少補習しても、遅れは取り戻せません。
    物理的に無理でした。
    「この問題を解いてきなさい。解いてきたら、答えあわせをしてあげる」
    と助言するのが精一杯。
    もちろん、本人は、そんなのは解いてきませんでした。
    他の子が新学期の予習をし、先に進んでいるのに、その子だけその単元の基本がわからず、つまずいていました。
    学校では、最初から学習するから、それで何とかなるだろう。
    何とかなってほしい。
    それでも理解しないようなら、定期テスト前に、他の子と一緒に補習をしよう。
    それが塾としての判断でした。
    しかし、生徒本人の中で、
    「何だか、周囲と比べて、自分だけ遅れている」
    という意識が生まれてしまったのは、大きかったと思います。
    成績は「3」と「4」でも自分は勉強は得意だという意識のあった子でしたが、だんだんと勉強が苦手な意識が心の大部分を占めるようになっていきました。


    塾には、まあ通わせる。
    でも、夏期講習とか、冬期講習とか、そんなのは無駄な出費。
    自分は、そうした無駄な出費はできるだけ抑えて、対費用効果抜群のやり方で、上手く塾を利用する。
    そんな考え方もあるのかもしれません。

    そうした考え方で、教育の機会を逃していく。
    対費用効果の証明のために、子どもに人体実験をする。
    それで、大丈夫なんでしょうか。
    塾側に言い訳の余地を与えてしまうだけでもかなり危険な気がするのです。
    「あの生徒は、講習に参加しないからね。成績が上がらないのは、まあ仕方ないよね」
    そう思わせてしまったら、対費用効果激減です。

    講習会に参加しない子に、講習会に参加している子と同じだけの学習効果を期待するのは、難しいです。
    そのための講習会ですから。

    とはいえ、塾と保護者が、費用に関して常に敵対的関係にあるとは限りません。
    意味のあるお金なら払うでしょう。
    そもそも、意味があると思うから、塾に通わせているのですし。
    それなのに、なぜ、こんなことが起こってしまったのでしょうか?

    これは、別のお母様でしたが、
    「休み中の講習は、どうせ復習でしょう」
    と言われたこともありました。
    いや、復習も予習も、両方やるのが、休み中の講習です。
    ・・・というか、それ以前に、「どうせ復習」とはどういう意味だったのでしょう。

    ・・・何だろう?
    あの頃、私は見た目が若く見えたからでしょうか、お母様たちの言葉には遠慮がなかった気がします。
    それだけ、本音が聞けたのでもありますが。

    「どうせ復習」という言葉は、重要なヒントだと思います。
    夏期講習や冬期講習を、復習中心であまり意味のないものととらえているお母様がいらっしゃるのだということ。
    それは、「復習するために塾に通わせるのは、意味がない」ということでしょうか。
    復習なら家でできる、と思ってしまうのでしょう。
    あるいは、お母様としては講習会に参加させても良いのだが、子どもが行きたがらない。
    「どうせ復習だから、講習会は参加しない」と子どもが言い出す・・・。

    復習軽視。
    予習のために塾に行く。

    確かに、生徒には、そういう意識の子が多いです。
    塾に一番に期待することは、予習。
    とにかく、学校の授業がよくわかるように、予習をしたい。
    だから、学校の授業がない夏休みや冬休みに、塾に通う意味はない・・・。
    個別指導の場合は、予習が少したまると、学期中の普通の授業日も休んでしまう子もいます。

    塾では、勿論、予習をします。
    しかし、予習だけが重要なわけではありません。
    成績を上げるために重要なのは、むしろ復習です。

    予習・予習と言っている子に、成績の良い子はそんなにいないのです。
    その教科が苦手だから、学校の授業がわかるように予習をしてほしがるのだろうと思いますが、そんなことで成績が上がるわけではありません。
    「わかる」だけではダメだからです。
    問題を自力で正解できるようにならなければ、成績は上がりません。
    決め手は、復習。
    復習のやり方がすべてと言っても過言ではありません。
    そして、成績のふるわない子は、復習が下手です。
    復習することの価値も意味も気づいていない場合もあります。
    「わかった」と思った瞬間に、それでOKと思ってしまうからでしょう。
    それだけでは問題が解けないことに気づいていないのです。

    復習のやり方を教わるために塾に通うのです。
    塾の最大の機能です。

    むしろ、予習は、1人でもできるのです。
    教科書を一度読んでみる。
    読んでみて、わかるようなら、大丈夫です。
    わからないようなら、何がわからないのか、チェックしておく。
    予習の段階で、そんなに何もかもわかる必要はありません。
    授業で理解できればよいのですから。

    英語なら、教科書本文の音声を、まずは本文を見ないで聴いてみる。
    聴くだけで内容をどこまで理解できるか、確認する。
    その後、本文を読む。
    わからない単語があれば、下線を引くか、書きだしておく。
    文意の取れない部分があれば、それも下線を引く。
    その先、単語の意味を調べておくかどうかは、それは、学校の先生の指示に従えばよいでしょう。

    数学なら、例題を解いてみる。
    解けるようなら、大丈夫。
    時間がなければ、例題や解説を読んでおくだけでも大丈夫。
    もしわからないのならば、学校の授業で、そこを重点的に聞けばよいのです。

    こうした予習は、1人でできます。
    しかし、復習は、1人ではできない子が多いのです。
    何をどう復習すれば成績が上がるのか、わかっていない。
    予習予習と予習に追われて、復習の機会がないまま、気がつくとテスト2週間前という子も多いです。

    そもそも、復習することの価値がわかっていなかったら、家でも、復習しません。
    自分が一度理解したことは、もう永久に自分の頭の中にある、と誤解している子もいます。
    だから復習を軽視します。
    脳はすべての記憶を簡単に消去していくということを、理解していないのです。
    脳のその働きに抗うために、繰り返し繰り返し復習する必要があるということが、わかっていません。
    だから、実際に問題を解こうとすると解けないことに、本人が一番驚くのです。

    予習のときは、目がキラキラしている。
    新しいことを教わるのは好き。
    でも、復習にはあまり興味がない。
    復習は、同じことの繰り返しなので、つまらない。
    そして、定期テストでぱっとしない点をとっても、何が原因なのか、よくわからない・・・。

    ・・・いや、復習しないからですよ。
    成績の悪い子は、予習の習慣がないのではなく、復習の習慣がないのです。
    効果的な復習法を身につけていないのです。


    自分で個別指導塾を経営するようになって。
    講習会への勧誘はやはり行っていません。
    そうすると、やはり、春休み・夏休み・冬休みの長い休暇をまるまる休む生徒が現れました。
    その子は、確実にその期間に学力が下がりました。
    新学期になって、下がったところからのフォローで、ようやく前の状態に戻して、定期テスト。
    その繰り返しでは、成績は、現状を維持するのがやっとでした。
    最善の努力をしましたが、それはあまり伝わっていなかったと思います。
    結果、現状維持では効果が表れないと感じたからでしょうか、退会、という例もありました。

    退会して、別の塾に入り、そこでは営業ノルマのもと教務の社員が生徒宅に電話攻勢を仕掛けるので、長い休みをそのまま休むなど不可能で、その結果、継続して学習することになり、成績が上がった。
    そうであるならば、それで良かったと思います。

    現在は、私が特に勧誘しなくても、長期の休みは普段より高い頻度で塾に通ってくれる生徒のほうが多くなり、その子たちの成績は着実に上がっています。

    ところで、近年、また世間の空気が変わってきたように感じます。
    そもそも塾に通わない生徒が現れてきたように思います。
    またしても、「対費用効果」的な言説で、それを勧める人もいます。

    塾の代わりに、どうやって勉強するのか?
    1つのやり方として、通信型の機器を使った通信教育を受けるということがあるようです。
    費用も塾に通うよりも安いですし。

    タイプは色々で、授業動画が有料で提供されるもの。
    タブレットを購入し、タッチペンで問題を解いていくと採点されるもの。
    その融合タイプ。

    学習したいのに学習の機会に恵まれない子どもにとっては、ありがたいものだと思います。
    塾が遠い。
    経済的に、通塾は難しい。
    でも、勉強したい気持ちが強い。
    通信添削の費用なら、何とか払える。
    そうした子たちへの何よりの贈り物です。

    しかし、そこで課題となるのが、「予習優先」の子どもの意識です。
    授業動画で予習するのは好き。
    予習をして、学校の授業がわかるようになりたい。
    学校の授業がわかれば、それでもう自分は大丈夫な気がする・・・。

    繰り返しますが、復習に力を入れないと、テストの得点は上がりません。
    学習の根本姿勢が間違っています。
    どうすれば成績が上がるのかわかっていない子どもに、いつ、どの時期に学習するかを任せてしまう通信教育で、大丈夫でしょうか。

    まだ始まったばかりのサービスなので、どうなるか、結果が出るのは数年後です。
    人体実験の段階です。
    失敗したら、取り返しがつきません。
    あれ?受験に失敗した。
    なぜだろう?で済む話ではないのです。


    一方、その子にあった学力の問題を解く「個別学習」の効果は、理解できます。
    学校でも、今後、順次採用されていく学習形態だと思います。
    パソコンあるいはタブレットを使用して、個々にそれぞれの問題を解きます。
    同じ単元を学習しているようでも、本人の学力にあわせて、あるいは復習に戻ったりもして、各自がそれぞれの問題を解いていくやり方です。

    三鷹市でも生徒全員にタブレットが配布され、そうした学習が始まっています。
    しかし、生徒は、そうした授業を「自習」と呼んでいます。
    「学校は今何をやっているの?」
    塾の授業の初めにそう尋ねると、「自習」とか「ただの復習」と答えるのです。
    教室に先生がいるのなら、それは自習ではないのですが、生徒の感覚では「自習」なのでしょう。
    教わっている、授業を受けている、という感覚がないからでしょうか。
    自分が問題を解くことよりも、新しいことを授業で教わるのが、勉強。
    そういう意識が強いので、各自で問題を解くことは、彼らにとって授業とはカウントされないのかもしれません。
    タブレット学習を、子どもは「自習」「ただの復習」と思っている。
    それで大丈夫でしょうか?

    個別学習のシステムそのものへの懸念もあります。
    どの道、定期テストのレベルは定まっています。
    入試問題のレベルも。
    そのレベルへと学力を押し上げていくには、多少難しい問題を、傍らで補助しながら一緒に解くことが効果的です。
    自分のレベルに問題を合わせていては、進歩は遅い。
    問題のレベルに自分を高めるのです。
    それが必要ですから。

    模試問題や入試過去問を解いたとき、最初は40点台だった子を、入試直前には80点取れるようにして送り出す。
    そのような指導をしている立場からすると、「個別学習」は、自分のレベルに合っていてわかるし解けるから本人はそんなに嫌がらないだろうけれど、入試に間にあうものなのだろうか、という疑問があります。
    うちの塾の受験生には、その子の学力レベルではなく、志望校の入試レベルの問題を「押し付けて」います。
    私が傍らに張り付いて、その入試レベルの問題が解けるように本人の学力を押し上げていきます。
    今は、物理的には2メートルの距離がありますが、気持ちはその子に張りついているのです。
    明確な目標設定と、そこへの最短距離の提示。
    それが個別指導の強みです。
    機械的な個別学習に、それが可能なのでしょうか?


    何でも使いようです。
    授業動画やタブレット学習が悪いということではありません。
    ただ、使い方を誤っていないか?
    そこが課題です。


    昨秋、東京外語大を受験する生徒と、英語の過去問を解いていたときのこと。
    ある英文の内容が目をひきました。
    「近頃の新しいシステム、新しいデバイスは、人間をダメにする。あんなものを使っていたら、記憶力がにぶるだけだ」
    そのような批判の言葉から、その文章は始まりました。

    しかし、その言葉の主は、ソクラテス。
    古代ギリシアの哲学者です。
    近頃の新しいデバイスとは、文字のことでした。

    新しいデバイスをただ批判するのもおかしなことだ。
    この逸話はそれを雄弁に物語っています。
    何より、彼が否定した文字によってソクラテスの言葉は現代に伝えられているのですから。

    授業動画やタブレット学習がすべて悪いとは思いません。
    どのように活用するかです。
    復習の重要性を理解せず、目指さねばならない到達点も見えていない子が、そのような学習を1人でやっていて、大丈夫なのか。
    その結果が表れるのは、数年先です。

      


  • Posted by セギ at 11:08Comments(0)講師日記

    2021年03月06日

    2021年度入試結果、出ました。


    2021年度入試結果、すべて出ました。
    結果は、以下の通りです。

    ◎大学受験の部
    東京外国語大学  合格

    ◎高校受験の部
    都立神代高校 合格

    ◎中学受験の部
    明治学院中学校 合格

    合格おめでとうございます。
    本当に良かった。
    晴れ晴れと、青空にガッツポーズをとっております。


    以下は、前年までの合格結果です。

    ◎大学受験の部
    2020年度 東京電機大学 

    2019年度 東京外国語大学  

    2018年度 早稲田大学 
          中央大学  
          成蹊大学  
          東洋大学  
          デジタルハリウッド大学(推薦入試)


    ◎高校受験の部
    2020年度 都立調布北高校 

    2019年度 都立新宿高校

    2018年度 都立西高校   
          都立南平高校 
          女子美術大学付属高校(推薦入試)

    2017年度・2016年度 受験生在籍者なし

    2015年度 都立神代高校 (推薦入試)
          都立調布南高校

    2014年度 都立青山高校
          都立豊多摩高校 (推薦入試)
          都立杉並高校


    ◎中学受験の部
    2020年度 東京電機大学中学校 

    2019年度 受験生在籍者なし

    2018年度 恵泉女学院 


    息つく間もなく、新年度の受験指導が始まっています。
    新入生を募集しています。

    現在の成績は、問いません。
    未来の秀才を求めています。
    小さな個別指導塾ですが、1人1人の成績を確実に上げることを目標に、実績を上げています。
    担当は、受験指導30年のベテラン。
    「上手な授業」を行うパフォーマーよりも、受け持った生徒の成績を本当に上げることが目的の「学習トレーナー」でありたいと思っています。
    必要な時期に必要な学習内容を提示します。

    大学受験英語は、受験科目の中でも最大の得点源として、筆記・リスニングで高得点を取るための授業を行っています。
    英語は常に得意科目でありたい。
    他の科目の少しの失敗は楽にカバーできる英語得点力を実現しています。

    大学受験数学は、得意な人は得点源としてのびのびと能力を伸ばし、また、苦手な人は、他の科目に迷惑をかけない得点を必ず確保することを目標に、入試の出題傾向にあわせた、演習中心の実戦的な授業を行っています。
    数学は苦手だが大学受験にどうしても必要な人、歓迎します。

    高校入試においては、数学・英語は勿論、5教科すべての指導を行っています。
    こちらも入試問題の出題傾向に焦点を絞り、必要な知識を身につけた上での実戦的な入試対策を行っています。
    都立入試の数学・英語は得点源。
    さらに、他の各科目も、得意科目なら90点以上を。
    苦手科目でも、最低80点を。
    そうした形で入試の朝を迎えることを毎年の目標とし、成果を上げています。
    また、私立入試・都立自校作成校入試は、英語・数学ともに学校で学ぶ内容だけでは不足があります。
    早くから志望を定めている方には、定期テスト対策で内申を確保しつつ、学校のカリキュラムを離れて入試に向けた発展的な学習を計画的に指導しています。

    中学受験は、受験算数をメインとした指導を行っています。
    他科目の受講もご相談に応じます。
    当塾だけで入試対策をする方も、他の塾の補習の形で活用される方も歓迎です。

    受験生が卒業し、現在、授業コマに空きがあります。
    新規の生徒を募集しています。
    塾は3月が新学期。
    一般的にも、個別指導は、実力・実績のある講師から授業が埋まっていきます。
    新学期から通うのでは、指導経験のない新人アルバイト講師が担当ということにもなりかねません。
    春は塾選びの時期です。
    パソコン画面に変更の上、緑色のお問合わせボタンから、ご連絡ください。
    まずは無料体験授業を受けてください。
    ご連絡、お待ちしております。